№ ⑪ Apex product 【世直し桃太郎&鼠小僧Zero吉 2人の世間話】青空と向日葵の会

【ご挨拶】

このブログをご覧頂き誠に

有難うございます。当ブログでは

日々の生活、日々思うこと、

地元の心温まる情報・・・などなど

について広く深く語っております。

日々更新出来るよう

頑張りますので、

どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい。

文章を読んで頂き、何か思われる事が御座いましたらどうぞコメントを

お願い致します。

今後のブログ運営において

参考とさせて頂きます。

-  青空と向日葵の会 Apex product 社員一同-

初春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は格別のお引き立てをいただき、ありがたく御礼申し上げます。 さて、このたび弊社は創立10周年を迎えるに至りました。 皆様方のご支援、ご厚情による賜物と深く感謝いたしております。
とうとう、10周年を迎えることができました。2013年の3月から数えて、10年が経ったわけです。どんなことでも、毎日10年やり続けられたら、一丁前になれるとある作家の方が言われていました。このことばを、一番信じていたのは、私達だったのかもしれません。大変なようで意外に短い期間のようでしたが、そして、とうとう待ち望んでいた10年に到達しました。これもひとえに皆様のおかげであると感謝をしております。の10年に向けて新しいスタートを切るにあたりどのようなことが必要になってきているかを日々考えてきました。私どもは伝えること、元気になること、頑張りたい人たちのきっかけとなり、力いっぱい背中を押す役割になることができますよう、幅広い視野を持ち常にチャレンジ精神を持って、皆様のご期待にお応えできるよう従業員一同最大限の努力をしてまいります。今後も格別のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2023年 3月吉日 Apex product 代表 柳伸雄

2014年

7月

30日

2022年迄に消える? 青空と向日葵の会

【衝撃】2022年までに消える可能性大の【職業10選】

IT技術の進歩によって、これまで人間がしていた仕事がどんどん 消える?

米労働統計局のデーターを基に CareeCastという調査会社が行った調査で、 2022年までに消えそうな職業トップ10が明らかに。 ただ、これはあくまで「可能性」の話なので 現在下記の職業に付いている人でも、今すぐ転職を考えたりする必要はなさそうです。

 

1位 郵便配達員

2022年の推定雇用率-28%

インターネット上での情報のやりとりがますます進み、郵便物が激減している。そのため郵便配達員も減るだろう。

2位 農家

2022年の推定雇用率-19%

農耕技術や農薬・肥料などの改善により、

少ない人員での作業が可能になる。

3位 メーターの計測係

2022年の推定雇用率-19%

電気・ガス・水道などのインフラ各社がデジタル計測を始め、

現地でメーターをチェックする計測係の人員削減が進む。

4位 新聞記者

2022年の推定雇用率-13%

インターネット上でいつでも最新のニュースが

読めるようになったため、新聞購読者が減り、

購読料、広告料が減って新聞業界は不況。人員削減に繁がる。

5位 旅行代理店の社員

2022年の推定雇用率-12%

インターネット上での旅行予約が広まりつつあり、

旅行代理店の需要は減っていく一方だ。

6位 木材伐採人

2022年の推定雇用率-9%

切断機などの性能が上がり、少人数で作業を

こなせるようになる。また情報媒体のデジタル化が

進み紙の需要が減ったため、木材の需要も減っている。

7位 フライトアテンダント

2022年の推定雇用率-7%

航空会社の経費削減や合併、倒産により、

フライトアテンダントは減少傾向。この傾向は続くだろう。

8位 ドリル作業員

2022年の推定雇用率-6%

ドリルの性能が上がり、少人数でこれまでの作業を

こなせるようになる。製造業での人員削減に関わる。

9位 印刷業者

2022年の推定雇用率-5%

本や雑誌、新聞などの情報媒体のデジタル化が進み、

紙製品は減り続ける。

10位 税務調査官・収税史

2022年の推定雇用率-4%

技術の進歩によって企業の効率化が進み、

税調査や微収業務のための必要人員が減る。

 

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2014年

7月

31日

【長崎県佐世保事件に一言】世直し桃太郎NY

日頃から、生命の尊さを、うったえている私達からすれば

まだまだ周りの環境が指導が出来てないと考えます。

親が学校が行政が三方駄目!!救える命でしょう。

加害者の心のケアーを早いうちにすればよかった。

結果論ですが。一人暮らししていても片親でもそんな事は

問題ない。信頼出来る人。相談できる人。心を開ける

身近な人間がいればよかった。残念ですが臭いものには

蓋をされていた。学校側に言いたい。

道徳の時間をもっととって下さい。「してますよ」

おっしゃるでしょう。分かります。ですから

「もっと一生懸命 さらに死に物狂いで」

お願い致します。教育とはそう言うものなんです。

確かに、今回は、猟奇的な事件ですが、そうした行動に追い込んだ

原因が1番の問題でそれを解決しなければ、また同じ

様な事件が起こりますよ。ですから

今の子供たちを救えるのは、いちから手を取って優しく

導いてあげる事ではないでしょうか。

親・学校・行政が出来ないのなら

我々がやりましょう。未来の子供たちの為に。

世直し桃太郎 NY 

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2014年

8月

05日

「疲れた」なんて、死んだら終わりですよ!!

「疲れた」小保方氏らに遺書 理研・笹井氏自殺か

神戸新聞NEXT 8月5日(火)14時15分配信

 自殺を図ったとみられる理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長(52)が、小保方晴子氏(30)ら理研関係者に遺書を書いていたことが関係者への取材で分かった。「疲れた」という趣旨や謝罪する内容が書かれていたという。兵庫県警によると、笹井氏は5日朝、発生・再生科学総合研究センターに隣接する先端医療センター研究棟の4階と5階の間の踊り場で、ひものようなもので首をつった状態で見つかった。遺書は近くのかばんの中にあった。小保方氏に宛てた遺書には「あなたのせいではない」「STAP細胞を必ず再現してください」という趣旨のことも書かれていたという。

 

※ 残念です。もし自殺を考えている人がいたら、生命も大切に、して下さい。一秒でも、生きたいと願う人も大勢いるんですよ。「みんな、疲れてますよ」自分だけと思わないで、疲れたと口に出しているうちは、本気で生きてないからです。生きて生きて、苦しいけど生きて下さい。お願いします。世直し桃太郎より。

 

 

 

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2014年

8月

08日

8月8日【地球歌の日】青空と向日葵の会

国境や人類を超えて人々が歌い合う日。

日付は広島が被爆した8月6日と長崎が被爆した8月9日の間

で平和平和への願いを込める意味と、丸を重ねた数字の

8が二つ続く日から丸い地球をイメージしてきめられました。

 

「地球歌の日」三大宣言

1.「国際平和と地球環境を考える」

~音楽は人類共通の文化であり、こころの翼である~

2.「音楽交流で異文化との共生を推進する」

~音楽交流は、それぞれの文化を繋ぎ異文化間の友好を育てる~

3.「音楽分野での国際教育支援を行う」

~音楽は美しい調べを奏で、こころの平和を回復できる~

 

2014年8月9日 土曜日 「地球歌の日コンサート2014」

が開催されます。

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2014年

8月

15日

生きること。生き延びること。青空と向日葵の会

「若者よ、君たちが生きるきょうという日は死んだ戦友たちが生きたかった
 未来だ」 
 戦艦大和の乗組員として、その沈没を体験、上官の命と引き換えに一命を取り留めた 
八杉康夫氏。
 いまなお語り部としてその歴史の真実を伝え続ける氏が、これからの日本を担う若者たちへ送るメッセージとは――。
………………………………………  
第一波、第二波と攻撃を受けるうち、大和の後部が白煙を上げているのが
私にも分かりました。なおも攻撃が続けられ、魚雷が的中した時は震度5にも
感じられるほど激しく揺れました。次第に船は傾いていきます。
砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、25度、30度とどんどん傾いていきます。それでも、戦闘中は命令がない限り 
持ち場を離れることはできません。その時「総員、最上甲板へ」との
命令が出ました。軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。すでに大和は50度ほど傾いて
いましたが、この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
もう海に飛び込むしかない。そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を
掻っ捌いたのです。噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
船はますます傾斜がきつくなっていきました。90度近く傾いた時、
私はようやく海へ飛び込みました。飛び込んだのも束の間、
沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。
その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった「生きるための数々の方策」です。
海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、
ひたすら「生きる」ことでした。海で溺れた時、どうしても
苦しかったら水を飲め。漂流した時は体力を消耗してしまう
から泳いではならない……。陸軍は違ったのかもしれませんが、
海軍では「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと
言われたことは一度もありません。ひたすら「生きること、生き延びること」を
教わったのです。だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の
対処法を思い返し、実践しました。しかし、どんどん巻き込まれ、
あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
戦艦大和が大爆破したのです。そこで私の記憶はなくなりました。

気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。

 しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。
すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。

「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。
そう思って身構える私に、彼は優しい声で

「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、自分がつかまっていた丸太を
押し出しました。そして、なおもこう言ったのです。
「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

 4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
 川崎高射長はそれに背を向けて、大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
 高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を取られたのでしょう。
高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。昭和60年のことです。
いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から喫茶店に
呼び出されました。彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、
こう言ったのです。「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
驚いたなんていうものじゃありません。戦後、何とかしてお墓参りをしたい
と思い、厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。

 念願叶って佐賀にある高射長の墓前に手を合わせることができましたが、
墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。もっとずっと年上の人だと
思い込んでいたからです。その時私は50歳を超えていましたが、自分が31歳だった時を思い返すとただただ恥ずかしい
思いがしました。そして、不思議なことに、それまでの晴天が
急に曇天となったかと思うと、突然の雷雨となり、まるで
「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。天皇も国家も関係ない、
自分の愛する福山を、そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
そして、敗戦。そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。最近は学校関係へ講演に行く機会も
ありますが、現在の学生の姿を見ると明らかに戦後の教育が間違ったと
思わざるを得ません。いや、生徒たちだけではない。間違った教育を受けた人が
先生となり、親となって、地域社会を動かしているのです。 
この元凶は昭和史を学ばないことであるような気がしてなりません。
自分の両親、祖父母、曾祖父母がどれほどの激動の時代を生きて
きたかを知らず、いくら石器時代を学んだところで、
真の日本人にはなれるはずがない。現に「日本に誇りを持っていますか」
と聞くと、学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
真顔で聞き返すのですから。よく「日本は平和ボケ」などと
言われますが、毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが
平和ですか?確かに昔も殺しはありました。しかし、「殺してみたかった」など
と、意味もなく殺すことは考えられませんでした。 
真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。
鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば天から降ってくるもの
ではないのです。しかし、1流の国立大学の大学院生ですら、
「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」と平気で言います。
ならば自分で学べと私は言いたい。自分で学び、考えることなしに、
自分の生きる意味が分かるはずがないのです。
人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
大きくなくてもいいのです。小さくても、精一杯生きた証を
残してほしい。戦友たちは若くして戦艦大和と
運命をともにしましたが、いまなお未来へ生きる我々に大きな
示唆を与え続けています。復員後、長く私の中に渦巻いていた
「生き残ってしまった」という罪悪感。それはいま使命感へと変わりました。
私の一生は私だけの人生ではなく、生きたくても生きられなかった
戦友たちの人生でもあるのです。うかうかと老年を過ごし、
死んでいくわけにはいきません。未来の日本を託す若者たちが歴史を
学び、真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、「俺も生かされた人生でこれだけ
頑張った」と胸を張りたいと思います。

 ……………………………………………
 「若者よ、君たちが生きるきょうという日は死んだ戦友たちが生きたかった
 未来だ」
 八杉康夫(やすぎ・やすお)
 戦艦大和語り部 
 
『致知』2006年7月号
 特集「人学ばざれば道を知らず」より

 

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2014年

8月

15日

69回目の終戦記念日を迎えました。青空と向日葵の会

69回目の終戦記念日を迎えました。
 この時期、戦争の映画や、戦争体験談を報道されますが、

体験された方も年を追うごとに少なくなります。忘れないで語り継ぎたいです。昨夜のテレビの特集では、“戦争を始めるのは容易いこと、しかし 終わらせることは非常に大変だ”と体験した方が語っておられました。戦没者をしのび、心から黙祷を捧げたいと思います。二度と過ちを起こさぬよう、永遠の平和を祈っています。-Apex product 社員一同- 

 

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2014年

8月

17日

【念を入れて生きる】青空と向日葵の会

将来こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう
過去に違う選択をすればよかった・・・
そんなふうに思いわずらう人は多いようです。
けれど、それはまったく無意味なことなのです。
私たちにできるのはたったひとつ。
『念を入れて生きる』ということだけです。
念という文字を分解すると「今」の「心」になります。
「今」の「心」とは今、目の前にいる人、
目の前にあることを大事にする心のこと。
「目の前にあることを一生懸命やりなさい」
ということにほかなりません。
それは、言葉を換えていえば「実践」ということです。
お釈迦さまも
「過去を追うな、終わってしまったことに縛られるな。
まだ来てもいない未来にわずらわされるな。
今というこの一瞬、今日というこの一日を大切にして生きよ」
と、おっしゃっています。
出典「すべてを味方 すべてが味方」
ー小林正観著ー
 
 

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2014年

8月

19日

僕は生きていたかった!! 青空と向日葵の会

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2014年

8月

22日

【日にち薬】青空と向日葵の会

  1. 『 どんな悲しみや苦しみも
     必ず歳月が癒してくれます。...
     そのことを京都では
     『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。
     時間こそが心の傷の妙薬なのです。』
     ( 瀬戸内寂聴 )
     『日にち薬』という言葉を
     初めて聞きました。
     なるほど、納得の言葉です。
     生きていれば
     悲しい事も苦しい事も
     味わうことがありますよね。
     そのまっただ中にいる時は
     ずっとその時間が続くかのように思うものです。
     でも、誰にでも『日にち薬』があります。
     自暴自棄になったりせず、
     時が経つのを待とうではありませんか。
     心の傷の深さはそれぞれですが、
     時間が癒してくれることを信じましょう。 
     
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2014年

8月

27日

あなたのおかげ!! 青空と向日葵の会

おもいっきり くじけてきました
おもいっきり泣いてきました

おもいっきり後悔してきました
そのおかげでどれだけの人に救われて
どれだけの人に支えられて生きてるんだろうって
考えられるようになりました
人はみんな一人では生きていけません
どれだけ迷ったってどれだけ泣いたって
自分のペースに合わせて生きて行ければ
いいじゃないですか一人で強く生きていこう
なんて思わなくていいんです
強さを求めれば孤立します
弱さを認めれば共感が産まれます
分かち合うから素晴しいんですよね
私の周りのみんなに伝えたい 本当にいつもありがとう
あなたがいるから、今のわたしがいます。

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2014年

8月

28日

生まれてきてよかった!! Apex product

『「生まれてきてよかった」と言えることは幸せだ』

映画「男はつらいよ」で「人間は何のために生きてんのかな」という質問に、寅さんは
「難しいこと聞くな、あー生まれてきてよかった・・・そう思うことが何べんかあるだろう、そのために生きてんじゃねえか」
このセリフはグッときます。僕たちは生まれてきてよかったと思えるような生き方をしたいですね。
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2014年

8月

28日

【殺し殺され】嫌だなあ。 のっぽさん!! 青空と向日葵の会

「殺し殺され」嫌だなあ
俳優・作家 高見 のっぽさん

またあの自由にものが言えない時代になるようで怖い」

「5月で80歳になった私は飛んでる戦闘機から爆弾が落ちてくる空襲を経験しています。土くれは黒く焦げ、人以外の生き物も殺されるのが戦争です。

安倍晋三首相は、集団的自衛権の行使は限定なんて言ってますが、信じられないですね。
69年前、1945年8月15日に日本が負けた太平洋戦争を知らない人だからです。
戦争している時代を経験していない。
安倍さんは、戦争で肉親が亡くなる、もしくは、亡くなるかもしれないという目にあわないから戦争しやすい国にしてもいい、と考えるんでしょうね。

戦時中、首相だった東条英機は「我が国を救う」と演説したと思います。
報道機関は”日本は戦争に勝っている”と宣伝していました。
いま、安倍さんと声をそろえて集団的自衛権は「抑止力」と説明してるニュース番組があります。
どこか似ている気がします。
おとなが小さい人たちに、戦争の恐ろしさを伝えないで、権力を持つ首相の代弁をしていいのでしょうか。
またあの自由にものが言えない時代になるようで、怖いね。

太平洋戦争が終わって1週間後、それまで日本の侵略戦争を肯定していた学校の先生は”民主主義”と言い始めました。
子どもたちだった私は、上の人(おとなや権力者)を疑いました。
「国民を守る」という首相が、日本国憲法を解釈して好き勝手にルール破りする。そんなおとなの姿を小さい人たちに見せてはいけませんね。
小さい人は大人を信用しなくなりますからね。

「現実に近付けよう」と憲法9条をなくしてもいいようなことを言う人がいますよね。
9条をのけものにしちゃいけませんね。
兵隊さんがドンドンパチパチ殺したり、殺される現実なんて嫌だなあ。
世界のあちこちで、今も人間が殺し合いをしてるんです。
みんなで日本を戦争しない国にする-そっちの現実の方が好きです。」
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2014年

8月

28日

とつぜん刺された盲導犬。許せない!! 青空と向日葵の会

絶対に許せない! とつぜん刺された盲導犬。それでも彼は吠えなかった

視覚に障害を持つ人をサポートして歩く盲導犬。

埼玉県に住むオスカーもある全盲の男性のパートナーとして生活していました。

7月28日、この盲導犬オスカーが心ない人に刺される事件が起きました。

盲導犬達は訓練により人に対して攻撃をすることはもちろんの事、声を上げることもほぼありません。その為、オスカーが刺されたことに男性は気づくことが出来ませんでした。

しばらく時間が経った後、、オスカーの体から流れる血が抜け毛防止の服を赤く染めた時、人に告げられて男性は初めてオスカーが襲われていた事に気づきました。

オスカーの体にはフォークで付けられたような5ミリ程度の傷が4箇所、深さ1センチほどの穴があいていました。傷は服の下にあり、服には傷がついていなことからも事故ではなく悪意のある人が服をめくって傷をつけたことは明らかです。

パートナーの男性の怒り、そしてすぐに気づいてあげられなかった悔しさはどれほどだったことでしょう。

その後の警察の調査では、浦和駅のエスカレーターの上り方向に乗っているときに下半身を押さえつけられ、シャツをめくって何度か刺されたことまではわかりました。

しかし、まだ犯人は捕まっていません。
そして今後犯人が捕まったとしても現在の法律では器物損壊罪としてしか罪に問うことは出来ないでしょう。

今回のような事件とまでは行かなくても、盲導犬が心無い人に襲われる事は多々あるそうです。

今回の被害男性が直接知る女性ユーザーの盲導犬は、気付かないうちに額にマジックで落書きされ、女性は深い心の傷を負った。タバコの火を押し付けられたという話は「珍しくない」と、使用者や関係者は口を揃える。被害男性自身も「しっぽを踏まれる、わざと蹴られるのは日常茶飯事」と訴える。かつて白杖で歩いていた時には、若者のグループに腕を捕まれ、ツバを吐きかけられたこともあったという。

見えない人と、抵抗しない犬を狙ったこのような行為は決して許されるものではありません。いま直ぐ私達にできることは、盲導犬を連れた人を見かけたらいつもよりも少し注意して見守ることです

まだ犯人が捕まっていないため、浦和駅周辺、東川口周辺では、同じことが繰り返される可能性もあります。もう二度とこんな悲しく怒りに震えるような事がおきる事のないよう、私達も考え行動しなければなりません。

ブロガーさんの報告によるとオスカーは現在傷はほぼふさがったとのことです。そして、ハーネスを外して仕事がお休みの時には人間に甘えてきてくれるそうです。本当によかったです。
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2014年

9月

03日

3日で2週間がたちました。

延長50回を戦った中京高軟式野球部が、相手の崇徳高の地元・広島市へ募金活動。3日で発生から2週間がたちますが、依然2人が見つかっていません。⇒ http://yahoo.jp/GVVAqv (写真:アフロ)

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2014年

9月

08日

ペットショップの現状!! 青空と向日葵の会

目を背けたい現実…ペットショップの売れ残り動物、あまりにも悲惨な末路

ペットショップのショーケースに並ぶ子犬や子猫……可愛いですね。思わず抱き締めて頬ずりしたくなりますね。さて、可愛い可愛いワンちゃんやニャンコちゃんたち、彼らペットは売れ残ったらどこへ行くのでしょう? 今回は、日本の悲惨なペット事情についてご紹介したいと思います。
日本はペット後進国です。

犬や猫を商売道具としか考えていない業者がいて、動物に酷い扱いをしています。筆者も幼い頃、汚いペットショップの片隅で、檻の中にたくさんのハムスターの死体が転がっているのを見たことがあります。店主さんはまるでゴミでも掃除するかのようにそれらの死体を鷲掴みにし、片付けていたのです。

中には、動物にまともな食事を与えず、ひたすら出産させるだけのブリーダーもいます。まるで、動物が商品を製造する機械かなにかのように。
売れ残った子犬や子猫は、値段が下がります。それでも売れないと……処分されます。段ボールに入れて店の裏に放置して衰弱死させたり、一般人のふりをして保健所に持ち込み、殺処分してもらう業者もいるそうです。

商品である以上、売れ残りが出るのは当然の結果。売れ残りをいつまでも飼っていたら、業者は破産するでしょう。そのため、「そもそもペットをお金で売っていいのか?」という疑問が動物愛護先進国では生じています。イギリスやドイツではペットが店先に並んでおらず、飼うには厳しいカウンセリングを受けなければなりません。アメリカでもそういう動きが増加しており、今後ペットショップはなくなっていくものと見られています。

日本でも、ペットの夜間販売を禁止するなど、少しずつペットを守るための法律が作られ始めています。とはいえ、そうしているあいだにも年間30万匹のペットが飼い主によって捨てられ、多くが保健所で処分されているのが実情……。貴重な命を救うため、一刻も早く対策を取って頂きたいものですね。

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2014年

9月

09日

【愛するご主人様】青空と向日葵の会

「愛するご主人様」
ある一日の終わり・・・係員の女性がわたしを迎えに来る足音が聞こえてきます。

わたしは彼女に連れられて、離れた部屋へと廊下を歩いていきました。
和やかなくらい静まりかえった部屋でした。...
係員の彼女はわたしを台の上に乗せ、耳を撫でて、怖がらなくてもいいといってくれました。
これから起こることにわたしの胸は激しく鼓動を打っていたというの、わたしはなぜかホッとしていました。
溢れる愛情の虜になった私に、もう残された時間はありませんでした。

持って生まれた性質というのでしょうか、わたしは自分のことよりその
係員の彼女のことが心配でした。


これからやらなければならない事にどれだけ苦しんでいることか・・・
わたしには彼女の気持ちがわかるのです――あなたの気持ちの総てを察していたのと同じように。
彼女は涙を流しながらわたしの前足にそっとゴム帯を縛り、わたしはずっと昔あなたを慰めたときと同じようにその手を舐めてあげました。
彼女は手馴れた様子でわたしの血管に針をさしました。
わたしはチクリとする痛みと冷たい液体が身体の中を流れるのを感じながら、ウトウトと横たわり彼女のやさしい目を見て「どうして?」と呟きました。
わたしの犬語が通じでもしたのでしょうか、「ほんとに・・・ごめんね」と彼女がいいました。
彼女はわたしを抱きしめ、あなたは今よりもずっと良い所へ行ける、
誰からも無視されたり虐待されたり置いてきぼりにされたりしない、
自力で生きていかなければならなかったりしなくていい場所、
今いるこんな世の中とは全然違う愛情と光に溢れた場所へ行くのだと。
そしてそこへ旅立つわたしを見守るのが彼女の仕事なのだと口早に告げました。

わたしは最後の力を振り絞り、自分の尻尾を一振りすることで、さっきの「どうして?」は、
決して彼女に対して向けたわけではないことを伝えようとしました。
愛するご主人様、わたしが思っていたのはあなただったのです。 
わたしはこれからもあなたを思い続け、ずっと待ち続けます。
どうかあなたが、わたしのような愛情を持った人達で囲まれて人生を送れますように。

今この瞬間も殺処分されているペットが多数います。何とかしなければ・・・・・

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2014年

9月

14日

不器用な父からの差し入れ!! 青空と向日葵の会

学生時代、
書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。
本当は泊まる予定だったんだが、
次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので
結局、日帰りにしてしまった。
母にサインやら捺印やらをしてもらい、
帰ろうとして玄関で靴紐を結んでいると、父が会社から帰ってきた。
口数が少なく、何かにつけて小言や私や母の愚痴を言う父親のことが苦手で、
一緒に居ると息苦しさを感じていたの私は、父が帰宅する前に帰ってしまいたいというのも、日帰り、ひいては
通えない距離の学校を選んだの理由の一つだった。父が、「お前、泊まるんじゃなかったのか」と訊いたので、「ちょっと忙しいから」とぶっきらぼうに答えると、手に持っていたドーナツの箱を私に差し出し、「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから」と言った。
駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は待たされるようだった。小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。3個ずつ3種類入っていた。家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれなよ。
箱の中を覗き込みながら苦笑した。
その直後。あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうな―。ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。
様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、どれもこれも切なかったり苦かったりばっかりで。手持ちのポケットティッシュが無くなっても、
ハンカチが洗濯して干す前みたいに濡れても涙は止まらなくて、結局、
一本あとの電車が来るまで
駅のベンチでずっと泣き続けていた。

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2014年

9月

14日

お母さんは見守り隊  青空と向日葵の会

 口に入れたら危ないと 部屋を片付け
あんよの時は 声を掛け応援する
子供がこけたら グッとこらえて起き上がるのを待ち...
ケンカして泣いても 側で見守る
毎朝忘れ物はないかと 気に掛け
今日はどうだったかと 尋ねる
一番美味しいところはみんなにあげて
芯の固いところを自分が食べる
一番早く起きてきて 寝るときはみんながちゃんと寝たか見回る
大事な試合の時は お弁当を作り
勉強で疲れて寝てしまったら そっと肩に毛布を掛ける
呑んだくれて帰った時は ほどほどにしなさいと声を掛け
結婚の時は 傍らで幸せを願う
孫が出来れば 一緒に喜び
腰が痛いと言いながら 孫を抱く
最期の最期まで 子供の幸せを願うのだから、いつまでたっても 母を超えることなんてできないなぁ
母が結局出来ること、それは一人で生きていけるように、導き見守ること。
死してなお 空から見守る。

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ありがとう、母さん!
私の母もこうでした・・・・・

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2014年

9月

16日

【逆なんです】青空と向日葵の会

仏教のなかには,
「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが、...
手に鉢をもって家々を回り
お布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、
托鉢に向かう弟子たちに、
こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく、
貧しい人たちの家を回って
托鉢をしてきなさい」
普通、
お布施をいただくんですから、
お金持ちのところに行くのが
常識ですよね?しかし、
お釈迦さまの思いは
別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。
それは、自分のためにしか
お金を使わないからであり
その人たちに、与える喜びを味わってもらう、機会を生みだすのが、
托鉢の真の目的だったのです。
友人の絵本作家の のぶみさんが
こう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、
なんでだと思いますか?
鏡は、『この世界はすべて逆なのだ』
ということを教えてくれているんです。
鏡に映すと、右と左が逆になるように。
神社では、お願いをしにくる人の願いが
叶うんじゃなくて、神様の願いを
聞きにきてくれる人の願いが叶うんです。逆なんです。神社で売られている
お守りもそう。お守りに守ってもらおう
と頼る人が守られるのではなく、このお守りを守ろう守ろう、大切にしよう
と思う人が守られる。逆なんです。
神様の願いを聞きにきてくれる人というのは、自分の願いだけを言いに来る人
ではなく、みんなの幸せを願いにくる人
だそうです。だから、神社では
こう祈るといいでしょう。
「神様のお手伝いができますように。
日本が ちょっとでも良くなるように、
がんばりますから」
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神社のご神体が鏡であることも知りませんでした。次にお参りに行ったら
世界平和と神様のお手伝いができますように、お祈りしたいと思います。
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2014年

9月

20日

「息子・健介が教えてくれたこと」青空と向日葵の会 

  1. 別れの時は不意に訪れた。...
    昨年1月15日、朝9時半頃、
    かねてより病気療養中だった息子・
    健介のいる2階の部屋から妻の
    呼び声が響いた。すぐに他の子どもたちと駆けつける
    と、ベッドで仰向けになった健介の口の両脇から茶色の液が溢れ、
    すでに呼吸もできない状態になっていた。
    救急車が来るまで「健介! 健介!」と皆で呼びかけ懸命に体を
    さすったが、健介はそのまま帰らぬ人となった。37歳。
    短くはあったが、不自由な体で人の何倍も密度の濃い人生を
    生き抜いたと思う。健介が生まれたのは1970年。
    アマゾンへの夢を抱き、ブラジルの日系企業で働き始めて3年
    たった時だった。生後3ヶ月たっても光を追わず、眼科医の診療を受けたところ、網膜の焦点を結ぶ部分が剥離しているため、左眼はまったく見えず、右目がわずかに見えるだけであることが判明。あらゆる治療を試みたが、願いも虚しく治療には至らなかった。いま思えば、すぐにでも会社を飛び出してアマゾンへ行こうとしていた私を、まだ時期尚早と健介が体を張って止めてくれた
    のではないかという気がする。その後も健介の存在が、暴走しがち
    な私に、大事な局面で自制を促してくれた。健介は、弱視というハンディを
    抱えつつも、元気に育ち、柔道、卓球、サッカーとどんなスポーツも
    見事にこなした。学校の勉強も、目が不自由なため、教科書を読むのに時間はかかったが一度読めば覚えてしまい、難関の大学にも見事パスした。
    ところが16歳の頃額にできた瘤(こぶ)が徐々に大きくなり、
    医者の判断で神経腫瘍、レックリングハウゼン病であることが判明した。
    神経の周りにできる腫瘍によって、神経自体が圧迫され機能しなくなる
    奇病で、まだ治療法も確立していないという。
    腫瘍はその後脳内にも及び、19歳、26歳、30歳と、3度にわたる脳内の腫瘍摘出手術で一命は取り留めたものの、その後遺症でまず聴力が失われ、
    歩行も困難になっていった。手術のたびに後遺症が残り、また神経腫瘍が他の神経にも及ぶことで、人間としての体の機能が徐々に奪われていく恐怖は
    どれほどのものであったろう。しかし健介はすべてを受け入れ、
    苦悩や不平不満を漏らして周りを心配させることは一切なかった。
    逆にいつも相手を気遣い、ありがとう」の感謝の言葉をくり返していた。
    一昨年、次の大手術に備えて栄養補給の管を胃に通す手術を受けたが、逆に体は骨と皮ばかりにやせ衰えた。痰(たん)が絡んで呼吸が難しくなり、声も出せなくなって家族との意思疎通すらままならなくなった。
    もうこれ以上彼を苦しませないで……。
    私たちは祈るほか術もなかった。いま振り返ると健介は、
    なるべく家族を悲しませない時期を選んで逝ったようにも思える。
    息絶えたのは、甥に当たる妹の息子が可愛い盛りになり、一家の
    中心になる頃だった。別れの時から1年半が過ぎたいまも
    妻と私は、朝起きると一番に健介の遺影に「おはよう」と声をかける。
    家族を囲まれ、声をかけられながら逝った健介は幸せだった。
    肉体的な苦痛から解放され、天国でイキイキと好きなことを
    しているに違いない。これでよかったんだ。
    夫婦の会話はいつもそこに行き着く。健介が短い生涯で私たちに与えてくれたものの大きさを、いまさらながらに実感している。
    過酷な運命をすべて受け入れ、感謝を忘れず、
    人に愛を与え続けた彼の姿に、私たちは人間としての在り方を
    教えられた。健介が最初の手術のために訪れた日本で綴った文章がある。
    「…人間は、しあわせになりたくてお金をもうけようとしているように
    思うけど、だれかをぎせいにしてまでお金をもうけても幸せに
    なれないと思います。人間は考えることができる動物なのだから、人間として考えて、こころをゆたかにしていけるように生きていければいいと思います」70歳の足音が近づいてきた
    いまの私のテーマは、いかに人生を締め括るかである。
    自分の周囲に少しでもよきことをもたらし、
    「パパ、いい人生を送っているね」と、健介から褒められるような
     生き方を全うできれば何よりである。
    ……………………………………………
    「息子・健介が教えてくれたこと」
     徳力啓三(とくりき けいぞう)ラ・カンターレ代表) 
     『致知』2009年8月号特集「感奮興起」より
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2014年

9月

22日

あなたは、ここまで人を許せますか? 青空と向日葵の会

愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という知的障碍者のための通所施設があります。ここを自費で運営し、ハンディのある人たちの人生の花を開かせている塩見志満子さん。そんな塩見さんの人生は、

まさに試練に次ぐ試練の連続でした。壮絶かつ感動的な人生体験、
そこから掴まれた信条を学ぼうと、いま全国各地から
講演の依頼が舞い込んでいます。塩見さんが語った
「降りかかる逆境と試練が私の人生の花を咲かせた」とは。
そこから学かんの立ち上げまでは、どのように進むのですか。一つのきっかけとなったのは私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で失ったことです。白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。そうすると痛みが少し和らぐ。

それを繰り返すわけですよ。ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、そんなこと言う子じゃないんですが「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。主治医の先生は30代のとても立派な方で

「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。長男はその2か月半後に亡くなりました。49日が済んだ後、主人と2人、お世話をかけたその主治医の先生に御礼を言うために病院に行きました。ところが、いらっしゃらないんです。聞いてみたら、長男が死んだ後、

「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」とすぐにその病院を辞められたと。私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと申し訳なさでいっぱいでした。

後で知ったのには、その先生は10年間アメリカで小児がんの研究をした後、小児がんの権威となり日本の国立小児病院に
帰ってこられたそうです。いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。そうでしたか。長男が小学2年生で亡くなりましたので、

4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、私たちは
「ああこの子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように死んだりはしない」
と喜んでいたんです。ところが、その二男も

その年の夏にプールの時間に沈んで亡くなってしまった。
長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。
──プールの事故で突然……。
近くの高校に勤めていた私のもとに「はよう来てください」と連絡があって、タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。
「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対に許さんぞ」という怒りが込み上げてくるんです。新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないかん。わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、わしら2人が我慢しようや。うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、学校も友達も許してやれるやないか。そうしようや。そうしようや」

私はビックリしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。だけど、
主人が何度も強くそう言うものだから、仕方がないと思いました。
それで許したんです。友達も学校も……。

──普通の人にはできないことだと思います。

こんな時、男性は強いと思いましたね。でも、いま考えたら
お父さんの言うとおりでした。争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。
許してあげてよかったなぁと思うのは、命日の7月2日に墓前に
花がない年が1年もないんです。30年も前の話なのに、毎年友達が

花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。そういう人が生活する町にはできなかった。心からそう思います。

-引用元-
塩見志満子(のらねこ学かん代表)『致知』2014年7月号
「自分の花を咲かせる」より

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他人を許すことはむずかしいですが、
恨んで攻撃すれば新たな恨みを産むことになります。

全ての事を許せる大きな人になりたいです・・・・・

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2014年

9月

22日

【父とキャッチボール】Apex product

私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小さい頃良く聞かされていました。

そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。

そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。

ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。

その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。

父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。

父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。

それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。

翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。

公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。

父とのキャッチボールは、小学校以来でした。

しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。

病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。 すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。

私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。

父は、細い腕でボールを受けてくれました。

ミットは、すごい音がしました。

父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。

ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。

30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。

「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。

さらに数週間後、父の意識は無くなりました。

そしてある秋の日、父は亡くなりました。

病名は父の死後母から告げられました。

ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。

父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。

「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。

弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。

びっくりした。

すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。

彼は甲子園に行けるかもしれない。

その時まで、俺は生きられるだろうか?

できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。

もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。 人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。

ありがとう」

私はこれを見て、父の想いを知りました。

それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。

決勝の相手は、甲子園の常連校でした。

見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。

ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。

10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。

そのとき打順は、9番バッターの私でした。

相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。

あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。

気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。

私は夢中で走りました。

相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。

応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。

スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで

きて、とても楽しく野球が出来ました。

そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。

甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。

これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。

ありがとう、お父さん!!

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2014年

9月

30日

【 犬の遺言 】青空と向日葵の会

 

人間は、死ぬとき遺言を書いて、

愛する人に全てを残すという。

ボクにもそういう事ができるなら
こう書くよ。可哀想なひとりぼっちの野良犬に

ボクの幸せなお家を譲ります。

ボクのフードボールや豪華なボクのベットも

柔らかい枕もオモチャも
大好きな(飼い主の)膝の上も
ボクを優しく撫でてくれるその手も
優しい声も
今までボクが占領していたあの人(飼い主)の心も
あの人(飼い主)の愛も・・・
ボクに穏やかな最後を過ごさせてくれたその場所を
ボクをギュッと抱きしめてくれたそのぬくもりも

ボクが死んだら「こんなに悲しい気持ちになりたくないから、もう2度とペットとは暮らさない。」って言わないで
その代わりに、寂しくて、誰も愛してくれる人がいない犬を選んで
ボクの場所をその子にあげてちょうだい。

それがボクの遺産だよ。
ボクが残す愛・・・それがボクが、与えられる全てだから。

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2014年

9月

30日

全世界の犬猫の殺処分を廃止する会

京都府と京都市のドリームボックス廃止に伴い福岡市でも廃止にするよう福岡市保健福祉局に要望しました。
京都に連絡して現状を把握し前向きにドリームボックス廃止の方向性で検討して頂けるとの事です。
殺処分事態を廃止にしなければいけないのですが。

全世界の犬猫の殺処分を廃止にする会
代表 荒木 淳


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2014年

10月

03日

愛護センター(保健所)にいる子を馬鹿にしないでください!!

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2014年

10月

03日

いつも家のわんにゃんの寝姿を見ながら思う事…

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2014年

10月

09日

【あなたにとって必要な人は誰ですか?】


人は必要なときに、必要な人と必ず出逢う

しかしそれに、気づく人は少ない

それに気づけるのは、苦しみや悲しみが
訪れたとき、だから心が折れそうなとき

支えてくれる人がいることの素晴らしさに気づく

辛すぎて泣きたいとき「 泣いて良いよ 」と
言ってくれる人がいることの素晴らしさに気づく

一人で淋しいとき一緒に居てくれる人の
大切さに気づく深い悲しみを乗り越え

笑顔を取り戻したとき、一緒に笑ってくれる人がいる
ことの素晴らしさに気づく


あなたにとって、必要な人は誰ですか?

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2014年

10月

09日

【星の監督、感動をありがとう。そして、ご苦労様でした!!】

◇ 闘将、別れの言葉 ◇
  
  
すばらしいセレモニー。
昨年を思い出します。
重苦しい、苦しい、悲しいシーズンでした。
でも最後まで見届けてくれまして、感謝します。
 
思い起こせば4年前、
大震災から私が就任しました。
どうなるのやらと。本当に…何というか悲しいスタートでした。
 
でも選手たちとともに、東北の人たちを何とか喜ばせよう、
少しでもなごまそう。そういう思いでスタートした1年でした。
勝負というのは本当に残酷です。
昨年の何度も何度も宙を舞ったあのシーンを思い出します。
あのまま本当に時計が止まってほしいと思ったぐらい
うれしい瞬間でした。
 
まさに今年と昨年は天国と地獄です。
歓喜の後には悪魔が常に寄り添っている。
人生ってそんなもんかなあと、そんな思いでこの1年間を
過ごしました。
最大の責任は私が長期にわたり皆さんの前から消えたことです。
痛切に責任を感じております。
 
このままでは皆さんを喜ばせられない。
そういう思いで、今日限り、ユニホームを脱がせていただきます。
本当に4年間、短いようで私にとっては非常に長く感じました。
特に1年目は皆さんとともに苦しみ、励まし合い、
何とか生き抜こう、そういう思いで東北の皆さんとともに
戦ってまいりました。
 
皆さんも忘れちゃいけません。
あの悲しさ、悔しさ。
我々もいつまでも勝負の世界というのは悲しさや喜びや、
そういうものが入り交じってきます。
 
ただ今年こういう結果になりまして、
選手たちがまた皆さんとともに夢を追いかける。
目標に向かって前に進む。こういうことができました。
中途半端に4位、5位じゃおもしろくない。
思い切って最下位からまた皆さんを喜ばせようと。
そんな選手になってもらいたい。
 
ようやくスタンドの皆さんから激しいヤジが飛び出しました。
私はこれが一番うれしい。
やはり皆さんが選手を育てる。チームを強くする。
その責任は皆さんにもありますよ。
大いに悪いことは悪い、いいプレーをしたらほめてやる。
そういう思いで選手を見つめてやってください。
 
最後に選手諸君、コーチの皆さん、本当にこの4年間ありがとう。
裏方さんにも、本当にありがとう。
社員のみなさん、こんなすばらしい最後のセレモニーを
催してくださいまして、本当にありがとうございました。
 
イーグルスの監督になって本当によかった。
最高に幸せな野球人生を送らせていただきました。
また遠くから皆さんとともに、彼らの目標をしっかりと
応援してやりましょう。
  
本当に皆さん、ありがとう!
  
さようなら!
  
  
  
  
 
星野監督、お疲れ様でした。
まずはゆっくり休んでいただき
今度はネットの外側から選手に激を飛ばしてほしいと思います。

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2014年

10月

09日

【見知らぬ おじさん】青空と向日葵の会

 

私には妻がいたが、一人娘が1才と2ヶ月のとき

離婚する事になった。酒癖の悪かった私は、
暴力を振るうこともあり、
幼い娘に危害が及ぼすことを恐れた妻が、
子供を守るために選んだ道だった。

私は自分がしてしまったことを
心から悔やんでいる。そして今は、付き合いといえども
酒は一滴も飲まないことにしている。

もちろん、だからといって「よりを戻してくれ」なんて
言うつもりはないし、言える立場でもないことは、
わかっている。ただ、元妻と娘は幸せになってほしいと思う、

その気持ちに嘘はなかった。離婚するとき、私は妻と二つの約束をした。ひとつは年に一度、娘の誕生日だけは会いに来てもいいということ。もうひとつは、その時に自分が父親であるという事実を娘には明かさないこと。それは私にとって、とても辛いことではあったが、

娘にとってはそれが最良の選択であることも分かっている。

一緒に祝えるだけでも感謝しなければならない。

それ以来、娘の誕生日は、普段着ないスーツを着て、母子に会いに行った。元妻は私のことを「遠い親戚のおじさん」と紹介した。

娘も冗談なのか、なんなのか、私のことを「見知らぬおじさん」と呼んだ。娘は人見知りだったが、少しずつ打ち解けていって、

三人で近所の公園に遊びに行くこともできた。

周りから見れば仲睦まじい家族に見えていたかも知れない。

それは私にとって何にも変えがたいほどの
幸せな時間だった。これが平凡な日常ならば、どれほど素晴らしいことだろうか。年に一度の、この日のことを思うだけで、

酒を遠ざけることができた。だが長くは続かなかった。

娘が小学校に上がる年のことだ。例年通り、私がスーツを着て
プレゼントを持って母子のもとを訪れると、元妻から
「もう会いに来るのは最後にしてほしい」と
言われた。そろそろ色んな事を理解してしまう年頃だからと、
それが理由だという。私にはわかっていた。新しいことが

始まろうとしているのだ。娘もやがて一緒に

誕生日を祝う同級生ができるだろう。元妻は、再婚を考えているかもしれない。そんなところに“見知らぬおじさん”がいてはいけない。

私だけが過去の中にいた。年に一度、家族のような時間を繰り返せば、

いつか二人が私を「お父さん」と読んでくれる日が来るかも知れない、
と、そう本気で信じていた私が愚かだった。どれほど切実に願っても、

一度壊れてしまったものは、元に戻らない。これが現実かと思い知った。「あっ、見知らぬおじさんだ!きょうは遊びにいかないの?」

「きょうはね、おじさん行かなきゃいけないんだ」
「なんだ、ざんねん!」母子にとって、それが一番の選択なのだ。

「ごめんね。元気でね」私は力一杯目をつぶり、手を振る幼い娘の姿を
まぶたの裏に焼きつけた。「バイバイ!」

それ以来、母子と会うことはなくなった。だが、娘の誕生日だけは、

どうしても忘れられず、毎年プレゼントだけを贈り続けた。

筆箱や本といった、ささやかな物を、差出人の欄には何も書かずに送った。それを元妻が娘に渡してくれていたかどうかはわからない。

ただ、娘の誕生日だけが、小さな楽しみになっていたのだ。

それも、中学生になる年にはやめようと決めていた。

娘からすれば、私は知らないおじさん。
こうして、ずっとプレゼントが届いても迷惑だろう。

娘には、新しい未来がある。私も別の道を歩まなければいけない。

ただ、娘の幸せだけを願い、英語の辞書を送って、最後にすることにした。それから、一ヶ月ほど経ったある日、私のアパートに、郵便物が届いた。差出人の欄には何も書かれていない。

小さな箱を開けて見ると、中から出てきたのは、
水色のネクタイピンとメッセージカードが。メッセージカードを開くと、そこには初めて見る可愛らしい文字が並んでいた。

『いつも、素敵なプレゼントをありがとう。私もお返しをしようと思ったのだけど、誕生日がわからなかったので、今日、送ることにしました。気に入るかなあ・・・見知らぬ子供より』

私の頭はぐるぐる空回りし、思考が一時停止の状態が続いたが、
やがて止めどない涙が溢れて来て、最後は大声を出して泣きだしてしまった。それは、壁にかかった、カレンダーをみてからだった。

その日は6月の第3日曜日
「父の日」だった・・・

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2014年

10月

10日

藤原紀香さん頑張って!! Apex product

音楽を通して被災者の皆さんを元気づけ励まそう という趣旨で、東京・三宅島の救援を目的に2001年にスタートした『虹の架け橋まごころ募金コンサート』が14回目を迎えました☺

「災害救援」「環境保全」という2つのテーマを軸に開催してきたこのチャリティコンサートですが、昨日、NHKホールで演歌界の素晴らしい方々が歌を届けました♪

今回はチケット売り上げによる収益の一部を義援金として、大きな被害を受けた広島県の「平成26年広島県大雨災害義援金」に送ることが決まりました。

...

5年連続で徳光さんと司会を務めさせていただいていますが、このコンサートは、通常とはまた違った一体感が、歌手のみなさんと、とお客さんの間にあるのがわかります ☆

昨年なども演歌キャラバン隊に参加して、私も歌手の方々と共に石巻や女川など、東北を廻らせていただきましたが、歌の持つ力を心から感じました ☺

チケットを購入し会場に来てくださった皆さん、そして参加した歌手の皆さんの想いが、
広島だけでなく、震災に遭った東北や御嶽山近辺の方々の心にも届きますよう。。。

☆放送予定☆
NHK-BSプレミアムにて
11月2日(日) 19:30-20:59
『虹の架け橋まごころ募金コンサート』

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2014年

10月

14日

【 歩いて行こう!! 】 青空と向日葵の会

いくら悔やんだって
いくら悲しんだって...
時間を戻すことなんてできないの。
だから選んだ道を
精一杯歩いていこう。
大切なのは自分らしくあること。
転ぶのは一生懸命前に進もうとしてるから
涙が出ちゃうのは、いつか笑いたいから。

自分で選んだ道なら、どんなに遅くても最後まで
走れたらやっぱりかっこいい。
自ら選んだ道こそが答えとなる。
他の誰かのせいにしたくない。人にどう思われようと
決めた道なら...少しずつでも歩いて行こう。

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2014年

10月

15日

【11歳の少年の遺体に深く敬礼】

「11歳の少年の遺体に深く敬礼する医師たち。
その理由に世界中が涙〜」


いま世界中で報じられ、話題になっている一枚の写真があります。...
手術室から運び出された11才の少年「リャン」くんの遺体に、
医師たちが深々と頭を下げている冒頭の写真だ。

リャン君は、9才の時に悪性の脳腫瘍と診断され
ガンと闘ってきただが、すでに助かる見込みがないほど
悪化し最後の時を待つばかりとなっていた。

死期の近づく中、6月6日に彼は最後の願いを口にした。

その願いとは「自分の臓器を提供したい」だった。

写真は、リャン君の最後の願いを叶える臓器摘出手術を終えて
運び出された、彼の『遺体と魂』に医師たちが最大限の敬意を持って、 誰からともなく頭を下げている様子を写したものでした。

後日、彼の小学校の教師は取材に「教科書に掲載された物語を読んで、 臓器提供のことを知ったんだろう」と語っています。

リャン君の将来の夢は、医者になることだったという・・・。

臓器提供を待つドナーに対して、臓器提供者の数が圧倒的に
不足している現実は世界的に変わらず、みなさんもご存知だろう。

臓器提供に関しては提供者本人だけでなく、
残された遺族の気持ちの問題も大きく簡単ではない。

写真の奥で泣いているのはリャン君の母親「李」さん。
リャン君の尊い行いとともに、彼の願いを叶えることを選択した
彼のご家族の決断にも頭が下がる思いだ。

正直に言えば、
自分の子供がリャン君と同じ状況になったとしても、
私はとてもその最後の願いを受け入れることはできないだろう。
しかし、生前から家族とともに臓器提供の可能性について話し、
理解を深めるそんな取り組みは初めてみようと思う。

人が変わるには、なにか「きっかけ」が必要なのだろうから…。

※癌患者は基本臓器提供出来ませんが、
  原発性脳腫瘍の場合は、提供可能です。

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私も自分の死を迎える時には臓器提供を考えたいと思います。

家族が受け入れてくれるかどうか話してみようと思います。

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2014年

10月

20日

【偽物のボランティア】青空と向日葵の会

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2014年

10月

20日

【奇跡】青空と向日葵の会

人生には
二通りの生き方しかない。

ひとつは、

奇跡など何も起こらないと思って
 
生きること。

 
もうひとつは、

あらゆるものが奇跡だと思って

生きること。

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle.

Albert Einstein
アルベルト・アインシュタイン
ユダヤ人の理論物理学者

私たちは、
奇跡と共に生きている。
今ここにいること。
すべてが奇跡。

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2014年

10月

20日

義足の猫の階段下りに感動と笑顔! 青空と向日葵の会

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2014年

10月

21日

【俺は、猫に助けられたんだ!】青空と向日葵の会

この前、風邪をこじらせ会社を早退した。一晩寝たら治ると思ってたが、次の日、目が覚めたら体が動かなかった。枕元のポカリ飲むのがやっとで、マジで這う事も出来ない。鞄の中で携帯が鳴ってても、そこまでたどり着けない。そのうち目の前が真っ白になってきて『あーこれヤバい』と思いつつ意識が飛んだ。

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2014年

10月

23日

【本当の友達】貴方には? Apex product

本当の友達は、あなたの過去を理解し
あなたの未来を信じ、そして、あなたのそのままの今を、受け入れてくれる人です。本当の友達は、あなた自身が、自分を信じられなくなった時でさえ、あなたを、信じてくれる人なのです。

 

ー 本当の友達とは・・・
考えさせられました(*^_^*)―

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2014年

10月

24日

【赤ちゃん】青空と向日葵の会

あわて者でもいい、泣き虫でもいい
手先が 不器用でも、音痴でも かまわない

.もちろん人が振り向くほどの美人である必要もない

とりたてて特技がなくても、高尚な趣味も
噂に上がるほどの博識も不要、おまけに

学歴・職歴・賞罰・一切不問

そのままのあなたがいい
そのままのあなたが好き
赤ちゃんは そう言いたくて
あなたに両手を伸ばしてくる

赤ちゃん /浜 文子 作

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2014年

10月

24日

【命をいただく!!】

坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。 
牛を殺して、お肉にする仕事です。 
坂本さんはこの仕事がずっといやでした。
 

牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。 
だから、大切な仕事だということは分かっています。 
でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。
「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事を
していました。 

坂本さんの子どもは、小学3年生です。
しのぶ君という男の子です。 
ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。 
これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、 
その日は用事があってどうしても行けませんでした。 
そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。 

 

いよいよ、参観日がやってきました。 

「しのぶは、ちゃんと手を挙げて 発表できるやろうか?」 
坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、小学校の門を
くぐりました。 
授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。 
先生が子どもたち一人一人に
「お父さん、お母さんの 仕事を知っていますか?」 
「どんな仕事ですか?」

と尋ねていました。 
しのぶ君の番になりました。 

坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事について 
あまり話したことがありませんでした。 
何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、
小さい声で言いました。 
「肉屋です。普通の肉屋です」 
坂本さんは「そうかぁ」
つぶやきました。 

坂本さんが家で新聞を読んでいるとしのぶ君が帰ってきました。
「お父さんが仕事ばせんと、みんなが肉ば食べれんとやね」 
何で急にそんなことを言い出すのだろうと 坂本さんが不思議に
思って聞き返すと、 しのぶ君は学校の帰り際に、担任の先生に
呼び止められて こう言われたというのです。 

「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」 
「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことが
あるばってん、血のいっぱいついてからカッコわるかもん…」
「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、
校長先生も、 会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。 
すごか仕事ぞ」 

しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、 
「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。 
その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を 
続けようかなと思いました。 

ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが 事務所で休んでいると、
一台のトラックが 食肉加工センターの門をくぐってきました。 
荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。 
坂本さんが「明日の牛ばいねぇ…」と思って見ていると、 
助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。 
そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。 

坂本さんは「危なかねぇ…」と思って見ていましたが、 
しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに
近づいてみました。 
すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。 
「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」 
「みいちゃんが肉にならんとお正月が来んて、じいちゃんの
言わすけん、みいちゃんば売らんと みんなが暮らせんけん。 
ごめんねぇ。 みいちゃん、ごめんねぇ…」 

そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。 
坂本さんは「見なきゃよかった」と思いました。 
トラックの運転席から女の子のおじいちゃんが降りてきて、 
坂本さんに頭を下げました。 

「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。 
だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。 ばってん、
みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、
クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。 
明日は、どうぞ、よろしくお願いします」

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 坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」
と思いました。 
そして思いついたのが、明日の仕事を休むことでした。 

坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことを 
しのぶ君に話しました。 
「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、
明日は仕事を休もうと思っとる…」 

そう言うと、しのぶ君は「ふ~ん…」と言って 
しばらく黙った後、テレビに目を移しました。 
その夜、いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒に
お風呂に入りました。 

しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。 
「お父さん、やっぱりお父さんが してやった方がよかよ。 
心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。 お父さんがして
やんなっせ」
坂本さんは黙って聞いていましたが、 それでも
決心は変わりませんでした。 

朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを
待っていました。 
「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。 
その直後、玄関がまた開いて 
「お父さん、今日は行かなんよ!わかった?」 
としのぶ君が叫んでいます。 

坂本さんは思わず、
「おう、わかった」と答えてしまいました。
その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」と走って
学校に向かいました。 
「あ~あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。
坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。 

会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。 
少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。 
牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、 
坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。 

坂本さんは迷いましたが、そっと手を出すと、 最初は威嚇して
いたみいちゃんも、 しだいに坂本さんの手をくんくんと
嗅ぐようになりました。 
坂本さんが、
「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、
みんなが困るけん。ごめんよう…」
と言うと、 
みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。 

それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹を
さすりながら、 
「みいちゃん、じっとしとけよ。動いたら急所をはずすけん、 
そしたら余計苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」

言い聞かせました。 

牛を殺し解体する、その時が来ました。 
坂本さんが、
「じっとしとけよ、みいちゃんじっとしとけよ」と言うと、
みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。 
その時、みいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。 
坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。 

そして、坂本さんが、ピストルのような道具を頭に当てると、
みいちゃんは崩れるように倒れ、少しも動くことは
ありませんでした。 
普通は、牛が何かを察して頭を振るので、急所から少しずれる
ことがよくあり、倒れた後に大暴れするそうです。

次の日、おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、 
坂本さんにしみじみとこう言いました。 
「坂本さんありがとうございました。 昨日、あの肉は少し
もらって帰って、みんなで食べました。 孫は泣いて
食べませんでしたが、
『みいちゃんのおかげでみんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。 
みいちゃんにありがとうと言うて食べてやらな、 みいちゃんが
かわいそうかろ?食べてやんなっせ。』 って言うたら、
孫は泣きながら、 『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、
おいしかぁ。』 て言うて食べました。ありがとうございました」

坂本さんは、もう少しこの仕事を続けようと思いました。 

ある学校で、保護者の一人から「給食費を払っているのに、 
『いただきます』と 子どもに言わせるのはおかしい」 
という
クレームがあった、との話を聞いたことがあります。 

「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは
簡単です。
でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、 
どうだったでしょう? 

現在の食生活は、「命をいただく」というイメージから 
ずいぶん遠くなってきています。 
そしてその結果、食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の
食べ残し食品は、 発展途上国での、何と3300万人分の
年間食料に相当するといいます。 
私たちは奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。 
動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲っ生きているのに、 
人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、 坂本さんのような
方々の思いも知らないまま、肉を食べています。 

動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、 
自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、 そう願って
生きているんだと私は思います。 

命をいただくことに対しての「思い」。 
お肉を食べて
「あ~、美味しい。ありがとう」 
お野菜を食べて
「あ~、美味しい。ありがとう」 
そこに生まれる思いはどんな思いでしょう? 

お肉を食べて「うぇ~、マズッ!」 
お野菜を食べて 「うぇ~、マズッ!」 
そこに生まれる思いはどんな思いでしょう? 
食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、 
その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょうか。 

今日もまた、食べられることへの感謝の言葉、 
「ありがとうございます。感謝します。いただきます」 
食べているときの
「美味しい!」という言葉。 
そして食べ終わった後の、
「あ~、美味しかった ありがとうございます。
ご馳走さまでした」
 という
「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。
もちろん、食べ残しをせずに。 

食べ物が、あなたの体を作ります。 
あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。 
そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。
あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから 
命のバトンを託されたあなたの命を、いっぱいに輝かせること。 
喜びに満ちた人生を過ごすこと。 

それが、あなたと共に生きている たくさんの命たちが、
いちばん喜ぶことなんです。
みんなの分まで、命いっぱいに輝きましょう! 

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      出典:西日本新聞社「いのちをいただく」 


幼い子が、同級生の前で父親の仕事を披露出来ない気持ち。

理解できます。

ですが、父は、その仕事の大切さ。その仕事で人々が健康に
暮らしていく事が出来るのだと、気づいたのだと思います。

お金さえ払えば、何でも思い通り。
それが全ての免罪符になるという思い込みを、
今こそ改めるときではないでしょうか?

そして、自分が生きているのは、あらゆる命のお陰だと言うこと。
また、その命を自分たちにくださる人々に感謝しながら生きていく。

もう一度考えてみてはどうでしょう?

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2014年

10月

25日

【 学校に行きたいな 】

俺が小学校5年生のとき、寝たきりで滅多に学校に来なかった女の子と同じクラスになったんだ。

その子、たまに学校に来たと思ったらすぐに早退しちまうし、最初は「あいつだけズルイなぁ・・・。」なんて思ってたよ。

んで、俺の家、その子の家から結構近かったから俺が連絡帳を届ける事になったんだ。

 女の子のお母さんから連絡帳を貰って、先生に届けて、またお母さんに渡して・・・。それの繰り返し。

 「なんで俺がこんな面倒臭い事しなくちゃいけないんだ!」

って、一人でブーたれてたのを良く覚えてる。


そんなある日、俺何となくその子の連絡帳の中を覗いてみたんだ。

ただの興味本位だったんだけど。

連絡帳にはその女の子のものらしい華奢な字で、ページ一杯にこう綴られてた。

『今日もずっと家で寝てました。早く学校に行きたいです。今日は窓際から女の子達の笑い声が聞こえてきました。学校に行けば、私も輪に入れるのかな・・・。』


ショックだった。

 学校行かないのって楽な事だと思ってたから。

ハンデがある分、ひいき目にされて羨ましいって思ってたから。

でも彼女の文章には学校に行けない事の辛さ、普通にみんなと遊びたいって気持ちに溢れてて、なんだか俺、普通に毎日学校に通ってんのが申し訳なくなって。

だから、連絡帳にこっそり書き込んだんだ。

 「いつでも、待ってるからな。体が良くなったら遊ぼうな!」

って。


でも次の日の朝、その子の家に行ったらその子のお母さんに

「もう、連絡帳は届けなくていいの。」って言われた。

あまりにも突然だった。

 俺その頃悪ガキで、頭もすげえ悪かったけど、その子のお母さんの言ってる意味は伝わったんだ。


 「この子は天国に行ったんだ。もう一緒に遊ぶ事は出来ないんだ・・・。」


そんな事考えたら涙が溢れて、止まらなくって・・・。

ずうっと泣き続けてた俺に、その子のお母さんは連絡帳をくれたんだ。

せめて君だけは、学校にも行けなかったあの子を忘れないで欲しいって。

そんな俺ももうすぐ30になろうとしてる。

あの時の連絡帳は、引き出し下段の奥底にずっとしまったきりだ。

 就職したり、結婚したり、子供が生まれたり・・・。

 今まで、本当に色んな事があった。

 時には泣きたい事、辛い事の連続で、いっそ自殺しちまおうかなんて思った事もあった。

けど、そんな時はいつも引き出しを開けて、女の子の連絡帳を開くんだ。

そして、彼女が亡くなる直前に書かれた文章を読み返すんだ。


 『ありがとう、いつかきっと、遊ぼうね。』

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2014年

10月

25日

【ご存知でしたか?】青空と向日葵の会

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2014年

10月

25日

【高橋新一容疑者】動物愛護法違反

12匹以上の猫を殴り殺すなどして逮捕された犯人が、罰金60万円で釈放された判決が許せないと思ったらシェアしてね!

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2014年

10月

29日

【いつも応援ありがとうございます】青空と向日葵の会

いつも応援、本当ありがとうございます。未だ日本には、何の罪も無く命の期限が決められ、冷たい檻の中で希望の光を待ち続ける犬猫がたくさんいます。一刻も早くこの現状を変えたいお気持ちは皆さんも一緒だと強く感じています。同じように、もっともっと多くの方が注目し、真摯に考えてくれたなら、きっときっと現状は変る事でしょう。一人でも多く、犬猫を本当に愛する皆さんに選択肢を伝える、命の応援をこれからもどうぞ、よろしくお願い致します。

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2014年

10月

31日

チャップリンの言葉!!

【私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。】

私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。
人間とはそういうものだ。
相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ。

...

We all want to help one another.
Human beings are like that.
We want to live by each other’s happiness, not by each other’s misery.

チャールズ・チャップリン

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2014年

11月

03日

【知的障害者の少女!!】青空と向日葵の会

工場での障害者雇用のお話です

2人の少女が入社した日のことは今でもよく覚えています。

きれいに晴れた暖かい日でした。

2人がタドタドしく挨拶するのを社員たちは温かいまなざしで見守っていました。

そして拍手で2人を迎え入れたのでした。

「私たちがめんどうをみますから」という社員の言葉に嘘はありませんでした。

みなが2人の少女をかわいがり本当によくめんどうをみてくれました。

社員の多くは子育てを終えた女性たちでしたから、知的障害のために実際の年齢よりも幼くみえる少女たちを世話することに、もう1度子育てをするような喜びを感じていたのかもしれません。

ところが、私はといえば、たまに作業場に顔を出すくらいで
「おまかせ」を決め込んでいました

経営に専念しなければならないという事情もありましたが
「面倒をみてくれると言ったのだからよろしくお願いしますよ」
というのが正直なところだったのです。

ただ、私なりに2人の存在がずっと気になっていました。

どうしても、わからないことがあったのです。

彼女たちは雨の日も風の日も満員電車に乗って通勤してきます。

そして、単調な仕事に全身全霊で打ち込みます。

どうしても言うことを聞いてくれないときに、困り果てて「施設に帰すよ」と言うと泣いて嫌がります。

どうして施設にいれば楽に過ごすことができるはずなのに
つらい思いをしてまで工場で働こうとするのだろうか?

私には不思議でなりませんでした。

そんなある日のことです。

私は、とある方の法要のために禅寺を訪れました。

ご祈祷(きとう)が済み、参集者のために用意された食事の席で待っていると、空いていた隣の座布団に偶然にもご住職が座られました。

しばらくお互いに無言でいました。

私は「若輩者である自分から何か話しかけなければ」と焦りました。

そして、こんな質問が思わず口をついて出ました。

「うちの工場には知的障害をもつ2人の少女が働いています。施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?」

一瞬、間がありました。

そして、ご住職は私の目をまっすぐに見つめながら、こうおっしゃったのです。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。

人間の究極の幸せは次の4つです。

人に愛されること、

人にほめられること、

人の役に立つこと、

そして、人から必要とされること。

愛されること以外の3つの幸せは働くことによって得られます。

障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです」

私は、しばし言葉をなくしました。

そして、深く考えさせられました。

確かにそうだ。

人は働くことによって、
人にほめられ
人の役に立ち
人から必要とされるからこそ
生きる喜びを感じることができるのだ。

家や施設で保護されているだけでは、この喜びを感じることはできない。

だからこそ、彼らはつらくても、しんどくても、必死になって働こうとするのだ。

働くことが当たり前だった私にとって、この幸せは意識したことすらないものでした。

しかし、意識していなくても、その幸せはずっと私の心を満たしてくれていたのです。

それがいかにかけがえのないものか、私は生まれて初めて考えさせられました。

2人の少女の姿が脳裏に浮かびました。

一心にシールを貼り続ける、その姿。

そして
「ありがとう、助かったよ」
と声をかけたときの輝かんばかりの笑顔。

私は、ご住職の言葉によって、その笑顔の意味を教えられたのです。

同時に、障害をもつがゆえに、当たり前の幸せを手にすることができない人々の悲しみや苦しみに思いをめぐらせました。

すると、強い思いがこみ上げてきました。

なんとしても、少女たちが懸命に握り締めている「幸せ」を守らなければならない、と。

その後、私は2人の少女とまっすぐ向き合うようになりました。
そして、毎年、少しずつ養護学校の生徒を迎え入れるようになったのです。

夢も与えられました。

知的障害者を主力とする会社をつくろう。

障害者雇用のモデルとなる工場をつくろう。

それは、決して平坦な道ではありませんでした。

知的障害者には理解力に限界があります。

そのため「戦力」になってもらうためには
さまざまな工夫をこらす必要がありました。

経営的に厳しい時期もありましたし、社会の無理解に苦しんだこともありました。

その度に、歯を食いしばって知恵を絞りながら、1つひとつの困難を乗り越えてきたのです。

試行錯誤の連続でした。

しかし、その過程で私は実に多くのことを学ぶことができました。

「人のせいにしないから、自分が磨かれる」
「本気で相手のためを思う。それが強い絆を生む」
「自分を去れば、強く生きられる」
「迷ったときこそ、人のために動く」
「利他の積み重ねが、幸せな自分をつくる」

すべて、知的障害者とともに働くなかで気づかされたことです。

そして、人間が生きていくうえできわめて重要なことばかりです。

「知的障害者のために」という思いで頑張ってきたつもりでしたが、
実は「与えられていた」のは私のほうだったのです。

そして、いま私は、こう考えています。

知的障害者から学んだことは、昔から不変の真実なのだ、と。

なぜなら、知能に障害をもつ彼らは、時代や社会の影響を受けることがほとんどないからです。

健常者の心は社会の動きによって移り変わるものですが
彼らのあり様はいつの時代も変わらないはずです。

移ろいやすい世の中の「定点」のような存在と言ってもいいでしょう。

 

※ 人もためにとやってきたことが、

実は自分の方だったってことありますね。

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2014年

11月

07日

【馬子の正直!!】青空と向日葵の会

初め伊予国(愛媛県)の加藤家に仕えた中江藤樹(1608-48)は、22歳のときに、ただ一人残った母を慰めるために、故郷の近江(滋賀県)へ帰り、一生そこにとどまった。

母に孝養をつくし、28歳のときに学塾を開いて村人に講義し、それ以外は黙々たる無名の生涯を送った。...
しかし、彼は、今にいたるもなお「近江聖人」とあがめられている。
彼のなしたところが何であったかを知るには、ただ次のエピソードだけを語ればよい。
 

岡山藩主池田光政に仕える熊沢蕃山(1619-91)なる若者がいた。
主君の命を受け、賢人あるいは聖人を求めて、彼は都(京都)へ向かい、その途中で近江国のいなかの旅館にとまった。
ふすまを隔てた隣りの部屋で、今知り合いになったばかりの二人の旅人が話し合っていた。

その一人は武士であった。
隣室からの会話が、蕃山の耳に聞こえてきた。
 

武士はこう語っていた。
主君から数百両の金を預けられた武士は、その金をいつも肌身につけて持っていた。しかし、この村へきて馬に乗ったときに、彼はその金を馬の鞍に結びつけた。
旅館に着いたとき、うっかりして彼は鞍につけたその金入れを忘れ、馬を馬子とともに帰してしまった。
 

やがて、気づいた彼はびっくりした。馬子の名も知らない彼は、金を探し出すことができない。
 

主君に申し開きするには、ただ腹を切るしかなかった。
遺書をしたため終わった真夜中に、旅館の戸口を激しくたたく物音がした。
 

「人夫のなりをした男が会いたいと言っています」という旅館の人の声とともに現われたのは、なんと昼の馬子であった。


 彼は金入れを武士の前に置いた。
お礼として4分の1の金を受け取ってくれという武士の願いを、馬子はきかなかった。
彼は四里の道を歩いてきたわらじ代として四文の金を求めただけである。
 

念のために言えば、1里は4キロ、1両は四分でまた四千文である。
けんかするようにして、武士は馬子にやっと二百文の金を受け取ってもらった。
これとても20分の1両にすぎない金である。武士は馬子に聞いた。
 

「こういう正直な人がこの世にあろうとは、自分は思ってもみなかった」
 それに答えて馬子は言った。
 
「小川村においでになる中江藤樹という方が、常に正直であるようにと私たちに教えてくださっているのです。私たちはその方の言われることに従っているだけです」

 蕃山は膝を打って言った。
 
「私の探し求めている聖人がここにいる。明朝彼のところへ行って、弟子にしていただこう」と。
 

三日三晩藤樹の家の軒端にとどまった後で、藤樹の母のとりなしによってようやく、蕃山は藤樹の弟子となることができた。


竹内 均 (東京大学名誉教授 )
『修身のすすめ』 (竹内均・著/講談社文庫) より

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2014年

11月

08日

「かわいそう」や 「かわっている」 など言わないで下さい。青空と向日葵の会

僕には、「発達障害」というものがあります。

障害ではあって病気ではありません。

これは生まれた時からある物なのです。

ちなみにぼくの障害名は、

「ADHD(注意欠陥多動性障害)」と、

「高機能自閉症」です。

他にも発達障害の内には

「LD(学習障害)」や、

「アスペルガー症候群(略してアスペ)」、

さらに「自閉症」などあります。

僕に障害があるとわかったのは、

2歳9ヶ月の頃です。

しゃべり始めが遅く、

不思議なことばを言っていたらしいし、

走り出したら止まらないので、

障害にくわしいお医者さんにみてもらったようです。

そのとき「ADHD」としんだんされたようです。

不思議な言葉のことは、

「あ、宇宙語ですね」

と言われたそうです。

一年生の時、「高機能自閉症」としんだんされました。

小学校に入ってから

いじめが多くなりました。

からかわれている事もありました。

しかし、幼いころは

遊んでくれているんだ

と思っていました。

でもそのうち、いやがらせだと分かりました。

「ガイジ」とも呼ばれました。

悲しかったです。

泣いて帰ることもありました。

そんな時お父さんは、 「発達障害を持っていることは悪いことではない。

悪いのはいじめることだ」 と言ってくれました。

確かにそれが分かった気がします。

発達障害にもいい所があると分かりました。

興味あることに集中やひらめいたり、熱中しています。

パズルやマンガ作り、

テレビ「IQサプリ」は大得意でした。

なんでも夢中になると、

周りの様子が分からなくなることが欠点ですが、

これは作用の中に入れておきます。

僕がまだ小さい頃、何かに夢中で、

線路に座り込んでいたらしいです。

でも、ご近所の人がぼくを家まで送ってくれたらしいです。

3年生になった時、

初めてぼくの障害名を聞きました。

テレビを見て、

(発達障害の)「ぼくはどれ?」

とお父さんに聞いたらしいです。

聞いた時は大したリアクションではありませんでした。

しかし、聞かれたお父さんは

なんと言おうかと

ドキドキしていたらしいです。

友達と遊びたいけど、

どんなふうに話しかければいいか、

どう反応すればいいか分からないから、

友だちとケンカになったり、

友だちを泣かせてしまったり、

そういうことをしたことがあったけど、

僕は友達がたくさんほしいです。

4年生の時、

仲の良いクラスの友達と、

どうすれば友だちが増えるのか相談しました。

そして、みんなに手紙を書こうと決まりました。

夜まで書きました。

数日後、みんなに手紙をわたしました。

内容は、

「ぼくは、『ADHD』と、

『高機能自閉症』という発達障害を持っています。

・・・・」

みんなの反応はというと、

内容を分かってくれて、

友だちになってくれた人もいたけど、

逆に、手紙を返したり、破っていたり、

いじめがエスカレートしたり、

いろいろでした。

これを聞いたお父さんは、

「お前は勇気がある」

と言ってくれました。

お父さんは、

発達障害のある子どものことを

「こんぺいとうキッズ」

と呼んだりしています。

色も形も色々で、

いいところ、苦手なところの

でこぼこがいっぱいあるけど、

そこがまたみりょく的だから

こんぺいとうなのです。

ぼくは聞いただけで

何をするかは苦手ですが、

目で見て何かをするのと、

パズルや迷路は大得意です。

忘れっぽいですが、

思い立ったらすぐに始める行動力があります。

運動は苦手ですが、

ちょうせんする心はあります。

発達障害のない人たちへ、

発達障害の人に

「かわいそう」や

「かわっている」

など言わないで下さい。

その人が悲しんでしまいます。

発達障害がある人たちへ、

あなたのところでいじめはありますか?

いじめは自分のせいと思っていませんか?

決してそうではありません。

からかう方が悪いのです。

まだみんなに発達障害だと

伝えていないのなら、

朝か帰りにみんなに告白しよう!

きっと友だちが増えるかもしれないよ。

自殺なんかするよりも、

今、自分のいいことを探してみよう。

時間という物は味方、

そして、

発達障害は天からのプレゼントだ!

プレゼントだからいい物に決まっているじゃないか!

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2014年

11月

09日

【壊れていた、おもちゃ!!】

あるクリスマスの日の出来事です。うちには6才の息子がいます。

我が家では、クリスマスイヴの夜、子供たちが寝静まった枕もとに

おもちゃをそっと置いて、翌日の朝、子供たちが目を覚ました時に、

おもちゃを見つけて、「わ〜、サンタがきた〜!」と、喜び、そして、そのおもちゃで遊ぶ、ということを年中行事にしていました。

その年もまた、同じように、子供たちの枕もとにおもちゃを置きました。寝静まってから・・・。次の朝、子供たちが起きた時に、

「わ〜、サンタがきた〜!」 といつもと同じ光景が起こると思っていました。そう信じていました・・・。買ったおもちゃは、子供用のコンピューターでした。そのコンピューターの電源を入れた時に、 事件が起こりました。電源をいくら入れてもつかないんです。壊れていたんです。お昼になるのを待って、買ったおもちゃ屋さんに電話を入れました。責任者の方が出てこられて、こんな対応をされました。

「あー、故障ですか。それは申し訳ないですねー。でもね、それは

作ったメーカー側の責任なんです。メーカーのお客様相談室に電話をしてください。電話番号を言いますんでー」と。少し「ん?」と思いながらも、おもちゃメーカーに、妻が電話をしたんです。クリスマスの日に、おもちゃメーカーに電話してみるとわかりますが、繋がらないんですよね。1時間に4回くらいの割合で、夕方くらいまでかけたんです。

タイミングも悪かったとも思うんですが・・・。けれども、その日は

とうとう繋がらなかったんです。お昼をすぎた頃、息子は泣き始めました。新しいおもちゃで遊べない。。。泣く気持ちもわかるんだけど、

その泣く息子を見て、妻は「あんた、ちょっとくらい我慢しなさいよ」と・・・。これはサンタさんからのプレゼントだから、僕も「俺らが我慢しろよってのもおかしいだろ!」と取り乱す一幕もあったんですが・・・。しびれをきらして、夕方4時を回ったころに、買ったおもちゃ屋さんにもう一度、妻が電話をしました。同じ人が出てきて、

同じ対応をされました。そこで、僕はちょっと腹が立つのをこらえて、

電話を変わりました。そしてこう言いました。「クリスマスの日、お忙しいのに、故障の電話なんかして申し訳ありません。もう修理は結構です。もういいんです。電話を変わったのは、一つだけ、お伝えしたい事があったんです」「はあ?」と相手の人は、警戒心を強められました。

何、言うんだろうな、電話を変わってまで・・・と思ったでしょうね。

僕はかまわず、こう続けました。「僕が、そちらのお店で買ったもの、

それはなんだか解りますか?僕が買ったもの、それは・・・サンタクロースは、子供たちの心の中にいますよね。子供たちは、イヴの夜、サンタに会おうと、夜更かしをするんです。一時間経っても二時間経っても

現れる様子はないんです。そして、睡魔には勝てず、とうとう寝てしまいます。次の朝には、枕もとにはおもちゃが置かれている。そのおもちゃを見て、『あー、サンタは本当にいたんだー』そう思って、心踊らされて、遊ぶ。その夢と子供たちの感動に、僕はお金を払ったんです。

僕がそちらで買ったもの、それはおもちゃでは無いんですよ。その夢と感動です。だから、クリスマスに、このおもちゃで遊べる事が、

どれ程大切かという事を、それだけは理解していただきたいと思うんです。また、余裕がある時に修理の方をお願いします」そう言いました。

そして電話を切ろうとした時です。その人は、しばらく黙っていました。その後こう言われました。「お客様、時間をいただけますか?」

「お客様がお買いになった子供用のコンピューター。超人気商品で、

この店には在庫はございません」それを聞いて、調べてくれたんだなぁ

と思って、胸が「ぐっ」となりました。「でも支店を探してみれば、

一つくらいあるかも知れません。もしあれば、今日中に届けさせていただきたいと思います。ちょっと時間をいただけますか?」「えっ、本当ですか?本当にあれば子供は凄く喜びます。お願いします」

僕は、そう言って電話を切りました。電話を切ったあと僕は、「頼む。あってくれよ!」と期待に胸が張り裂けんばかりでした。

そして、ピンポンが鳴るのを心待ちにして、待ちました。しかし、夜の8時になっても、誰も来る気配はありません。子供たちは、すっかり寝支度ができて、布団の中に入りました。「間に合わなかったな。きっと無かったんだな。今年のクリスマスはガッカリだったな。でも、こんな時もあるよな・・・」と諦めていた、その時です。9時頃でした。「ピンポ〜ン!」 とベルが鳴りました。僕は「よし、来た!」っと、

小さくガッツポーズをしながらも、何食わぬ顔で子供たちを部屋に残し、玄関に向かいました。ドアを開けたら、その人がコンピューターを抱えて立っていました。しかも、サンタクロースの服を着て・・・。

僕は驚きました。「えっ、サンタ?!」 と思わず口に出ました。その人は言いました。「サンタクロースです。お子さんをお呼び下さい」

僕は、漠然とスーツ姿の人を、想像していました。スーツ姿で、代わりのコンピューターを持ってくる、そう思っていました。でも、僕の前に立っていたのはサンタでした。僕は興奮して、子供たちを呼びに行きました。「早く降りておいで」子供たちは、何事かと、どたどた階段を下りてきました。そして、その人の姿を見た瞬間

「サンター!サンタだー!!」驚きながらも、次の瞬間には

ピョンピョン跳ねていました。サンタはしゃがんで、子供たちの目線に合わせてこう言いました。「ごめんね。サンタのおじさん忙しくてね。

壊れたおもちゃを持ってきてしまったんだ。ごめんね。はい、これはちゃんと動くからね。お利口にしていたら、来年もまた来るからね」

そう言って、頭を撫でてくれました。僕は、子供たちを部屋に戻して、

その人にお礼を言いました。「ありがとうございました。本当に子供の夢をつないでくれました。サンタにまでなっていただいて、本当にありがとうございました」その人はこう言いました。「私たちが売っている物はおもちゃではないんです。夢と感動なんです。忙しさにかまけて、

大切な物を忘れていました。それを教えてくれて、ありがとうございます」と。「とんでもないです。こちらこそ本当にありがとうございます。こんなことをしていただけるなんて、これから僕は一生あなたの店からおもちゃを買います。いい社員さんがいる会社ですね」

と僕はそう言いました。その人は泣かれました。僕も思わず泣いてしまいました。その夜はとても不思議な気分で

眠れませんでした。眠らなくてもいい、そう思いました。

「なぜ、あの人はサンタの服できたんだろう?」そう考えるとずーっと考えていました。そして、いきついた言葉、それは「感動」でした。


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2014年

11月

13日

【比率!!】Apex product

世界の2割の人はあなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は行動により好き嫌いが分かれる。

でも残りの2割の人はあなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできている。

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どうやっても嫌う人がいるのなら

自分の思い通りに好きに生きてみませんか!!

全ての人に好かれなくてもいいじゃ無いですか。

あなたの事を大好きな人が一人でもいたら、それで大満足。

鼠小僧zero吉

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2014年

11月

13日

【父親の愛情!!】Apex product

親は、我が子の幸せのために一生懸命です。
障害をもっていることが分かったら、
心の動揺は計り知れないと想像します。

しかし、子どもは、そんなことは知る由もないでしょう。

でも、大人になって気づいた時、
親のありがたさ、偉大さに感謝します。

「ありがとう。」何度言っても言いつくせない言葉です。

障害を持つ人たちを、馬鹿にしたり、いじめたりする醜い人間には、ならないで下さい。一生懸命に命を繋いでいる家族がいます。

私の分まで生きてほしい。そう願うのが親であり子だから。

世直し桃太郎NY

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2014年

11月

13日

【捨て猫と、猫嫌いな父親!!】青空と向日葵の会

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2014年

11月

13日

【経験!!】青空と向日葵の会

自分が 苦しみ悩んだ 経験こそ

誰かの 助けになる。

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自分が経験しない限り、痛みや苦しみは分からないですよね。

貴重な経験を、悩み苦しむ人に分けてあげて下さい。
必ず大きな助けになる筈です。どんな些細なつまらない事でも

構いません。それが活かせるのなら、どうぞ話してあげて

下さい。あなたの経験談を皆、待っています。

鼠小僧zero吉

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2014年

11月

13日

【ホームレスのおじさんのニャンコ達】青空と向日葵の会

都庁脇にいるホームレスのおじさんのニャンコたち。

たまに差し入れ持って行っては癒されてます。

全部で9匹!

おじさんに聞いたら、日中は公園に放してあげるとそれぞれ帰ってくるそう。全員避妊・去勢手術もしてあります。一見まともでも命を大切にしない飼い主がたくさん居る中でおじさん素晴らしい!

いい加減な飼い主や繁殖業者が居なくなる事を願います!

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2024年

4月

01日

《電撃解雇》大谷翔平の通訳・水原一平氏の意外な素顔「大学卒業後はカジノのディーラー学校に」「酒好き」現地記者が感じていた直近の“異変”

カジノディーラーの学校に通っていた

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2024年

4月

01日

なぜ希望ナンバー「358」全国1位? 人気の1や2525等抑えたワケは? 全国で唯一の「抽選対象」はどこ?【青空と向日葵の会】

なぜ軽自動車で「358」が1位に?

 希望ナンバー制度を利用すると、自分のクルマに好きなナンバーを付けることができます。
 
 特に希望ナンバーの中でも、「358」が人気を集めていますが、一体なぜこの数字が広まったのでしょうか。

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2024年

4月

30日

2024/04/28日 成田市制施行70周年記念 成田山車まつり【青空と向日葵の会】

成田市の市制施行70周年を記念して成田山車まつりが開催されます。 成田市内の山車・屋台が一堂に会し、成田山表参道を勇壮・華麗に曳き廻します。

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2024年

4月

30日

「俺の誹謗中傷がガンガン炎上」長渕剛 自身を取り巻く騒動に言及“実害”も生じ憤り

この春、新たにYouTubeチャンネル「長渕剛のyoutube now now now!」を開設した長渕剛(67)。4月11日、「長渕剛 誹謗中傷へのメッセージ」と題する動画をアップし、自身に関する騒動に言及した。 動画で「俺ね、ずーっとこの数ヵ月さ、具合が悪いんだ」と切り出した長渕。具体名は明さなかったものの、「最近ネットで、俺の誹謗中傷がガンガン炎上したりなんかしてた」と説明したうえで、こう語り始めた。 「炎上させてるやつが誰かわかんないんだけど、俺も気になるからやっぱり見るじゃん。 なんでおめえにこんなこと言わなきゃいけないの? って。会ったこともないのに。そんなばっかりだったから。 だけど、たとえばさ、それを我慢しろって弁護士さんたちに言われるとさ、我慢するのが社会の通念なのかな? とか思うし。で、人を傷つけたくないから、それをちゃんと喧嘩するっていう柄でもないし。昔、自分が30代だったらさ、俺、どうしてたかな? 『てめこの野郎』って言ってたかもわかんないけども。なんで俺はこんな傷ついてんだと」 また、長渕は誹謗中傷によって「俺は人間をこれだけ傷つけてきたのか? という風に、本当に、なんか入っちゃって、バッドに入っちゃって」と、心を痛めていることを明かした。 加えて、ツアーを目前に控え、プロモーションをしようとしたところ、この騒動による“実害”を受けたという。 「実害が何かっつったら、テレビプロモーションやろうとしてたら、全部ノーサンキュー。『え。なんでっ?』て(聞くと)、『いやいや、ちょっとすいません長渕さん。応援はしたいんだけど。今ネットでいろんなこと言われてるんで、少し様子を見ながら』(と言われた)。 様子って何の様子ですか? 何の様子見るんですか。その言われてることが沈静化したらですか? いつ沈静化すんだよって。誰のこと言ってんだって。俺って言ってんの? 被害者と加害者がいて、こいつが悪いって言ってるやつは誰? って話なのね」 などと述べ、騒動への憤りをあらわにした。 炎上によって、いろんな人が傷ついていることに加え、テレビやラジオでのプロモーションができなくなったという長渕。「そうすると俺はどうやってみんなにアプローチして、コンサートに行くよって、待っててねって、言えんのよと」と辛い状況も告白。 「こうやって叩いて叩いて潰していく構図なんだと思うよね。悔しい! 今までの俺だったら『てめえこの野郎こっちこいや!』って言ってんだけど、やっぱりそれは相手にするほどのことではないなと、別のチャンネルでも思ったり」と、騒動に対し沈黙をしてきた理由についても明かした。

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2024年

5月

01日

私たちは「夢の時」を生きている【青空と向日葵の会】

【私たちは「夢の時」を生きている】
https://yuru2club.com/wp/?p=467
これは日本メンタルヘルス協会、
衛藤信之先生からお伺いしたお話です。
大人であること、それ自体が夢を生きてる、
…私たちに気づきを与えるお話です。
小児癌病棟に、一人の男の子がいました。
しゅん君という名前でした。
彼の脳腫瘍は、手術できない、
そういう種類の病状でした。
でも彼はいつも看病してくれる人たちに
明るく振舞っていました。
病状が進んだある日、
彼は斜視になっていました。
それを気づかせないように、
お母さんや看護師さんは、必死に鏡を隠しました。
夜になると、窓が鏡の代わりになるので、
慌ててカーテンを閉めました。
ある日、そんな事情を知らない
一人の新米の看護師さんがやってきました。
彼女の胸ポケットに、
手鏡があることに気づいたしゅん君は、
「その鏡を貸して」
そして彼は、以前とは変わってしまった
自分の顔を見て、泣くこともなくひと言、
「僕が鏡で顔を見たこと、お母さんには黙っててね。
きっとお母さん、悲しむから」
そんな心優しいしゅん君が一度だけ、
わがままを言いました。
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2024年

5月

01日

悲しみの底で、息子のひと言が一条の光になった【青空と向日葵の会】

【悲しみの底で、息子のひと言が一条の光になった】
https://yuru2club.com/wp/?p=490
Aさんは、待望の第二子を妊娠しました。
長男が生まれて3年目のことでした。
日々成長していく赤ちゃんに会えることを
楽しみにしていたAさんでした。
「あれ、今日はお腹の調子がいつもと違う」
出産を間近に控えた9ヵ月目のある日のこと。
いつもなら時々動く赤ちゃんが、今日はおとなしい気がする。
少し心配にはなりましたが、次の日が検診だったこともあり、
様子を見ることにしました。
翌日、看護師の方に昨日の不安を伝え、ベッドに横になりました。
先生が来て、診察が始まろうとしたとき、
急に不安が押し寄せてきて、涙が止まらなくなりました。
「診てみましょう」
先生が優しくお腹を触ります。
その瞬間、先生の顔色が変わったのが、
Aさんには分かりました。
急いでエコーで確認しても反応がありません。
赤ちゃんの心臓はすでに動いていなかったのです。
その後、説明を受けたはずですが、Aさんは全く覚えていません。
ただただ悲しくて涙が止まりませんでした。
さっきまで幸せな気持でいた待合室を通り過ぎ、
入院準備のため家に帰りました。
「赤ちゃん、死んじゃった」
Aさんは、迎えてくれた長男とお母さんに泣きながら伝えました。
お母さんは言葉を失い、長男は泣いているAさんをじっと見ていました。
何かを言おうとしていましたが、
長男はAさんの気持を感じとったのでしょうか、
そっとAさんの横に座りました。
その後、Aさんは赤ちゃんがいないこと以外は、
普通の産後と同じように入院生活を過ごしました。
先生も看護師さんも、とても優しく気を遣ってくれました。
ただAさんにとっては、赤ちゃんや妊婦がいる
産婦人科のすべてが悲しかったのです。
退院し、普段の生活に戻りました。
仲良く接していた人はもちろん、
普段あまり話したことがない近所の人も、
Aさんの妊婦姿は覚えているものです。
「あら、生まれたのね。おめでとうございます」
と声をかけられます。
お腹の赤ちゃんと幸せな時間を過ごした日々が思い出され、
Aさんの辛い日々はまだ続きます。
そのまま数か月が過ぎた頃のことです。
ある日、両親と長男とで一緒に車で出かけました。
車中の何気ない、ほんとに何気ない会話でした。
長男のちょっとした言葉で、
Aさんがふと笑ったときでした。
長男から思いがけない言葉が出てきます。
その言葉で、Aさんは大きい気づきを
得ることになりました。
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2024年

5月

01日

おじいさんとの思い出に生きた犬【青空と向日葵の会】

【おじいさんとの思い出に生きた犬】
https://yuru2club.com/wp/?p=419
ある日、ペットショップに、
70歳になるおじいさんが、犬を買いに来ました。
おじいさんは2年前に、最愛の奥さんであるおばあさんを亡くされ、
ずっと落ち込んでいました。
そんな時、ペットショップで見かけた
ゴールデンの子供に一目ぼれし、
その日のうちに購入を決め、家族に紹介したのです。
しかし、息子夫婦も、孫も、犬は苦手の様子でした。
すぐさまペットショップに返してくるように言いました。
しかし、おじいさんは、
「誰にも迷惑をかけない!
 ワシ一人で面倒を見る!」
と言い張りました。
犬はボブと名付けられ、
すべておじいさんが一人で面倒を見ることになりました。
一階の、庭の見える畳の部屋で、
おじいさんとボブはいつも一緒にいました。
朝は一緒に起きて散歩に出かけ、
町内を一周します。
帰って来てから一緒に食事をし、
一緒に庭の手入れをします。
午後は一緒に昼寝をし、夕方にはまた散歩。
買い物に行く時も、夜寝る時も、
何もかも一緒に生活しました。
トイレのしつけもすぐに覚え、
噛むことも、ムダに吠えることもなく、
近所でも評判の、良い犬に育っていきました。
何か問題が起きそうになると、
おじいさんはじっくり時間をかけて
ボブに頼み込むように言い聞かせました。
一度だけ、ボブが散歩の途中に
落ちていたゴミを食べたことがありました。
おじいさんは、家に帰ってから、
3時間くらいかけて、
ボブにそのことを話しました。
「道に落ちているものを食べるのは、
 とても危険なんだよ。
 ボブが病気になったら、
 ワシはどんなに悲しいか…」
まるで人に話すように、延々と話し続けました。
すると、不思議なことに、
次の日からは、落ちているものに
全く興味を示さなくなったほどです。
ボブが一番好きなのは、暖かい午後のひと時、
庭に面した縁側で、おじいさんがお茶を飲みながら、
のんびりと昔の話をしてくれる時でした。
おじいさんの昔話には、いつもおばあさんが出てきました。
ボブはおばあさんには、会ったことがありませんが、
すぐそこにおばあさんがいるような気持でした。
おじいさんも、じっと自分の話を聞いてくれるボブに対し、
延々と、おばあさんとの暮らしの話を続けました。
陽だまりの中でのその時間は、
ボブとおじいさんにとって、
とても大切なものでした。
しかし、幸せな時間は3年間しか続きませんでした。
ちょうどボブが3歳の誕生日を迎える直前、
いつものように、縁側でお話をしていたおじいさんが、
突然、胸を押さえて倒れました。
急性の心臓病でした。
倒れてから24時間後、
おじいさんは、おばあさんの所へ
旅立って行きました。
家の中がバタバタして、大騒ぎをしていましたが、
ボブには何が何だか分かりません。
ただ、その日から、おじいさんを見かけることはなくなりました。
葬式のため、ボブは部屋から出され、
庭につながれました。
数日間だけは、息子夫婦がご飯を持ってきてくれましたが、
誰も散歩に連れて行ってくれません。
葬式が終わった後も、
誰もボブを家の中に入れてくれませんでした。
庭につながれた2~3メートルだけが、
ボブの歩ける空間。
ウンチは1週間に一度だけ、家族の誰かが
イヤイヤ文句を言いながら、片づけていきました。
ボブは昼間はおじいさんと暮らした
縁側の上で過ごし、
夜は縁側の下で寝ました。
一度だけ、奥さんが散歩に連れて行ってくれたことがあります。
しかし、久しぶりの散歩で嬉しかったボブは、
喜んで走り出し、そのはずみで
奥さんは転んで怪我をしてしまいました。
久しぶりの散歩は1分で終わり、
その後、ボブは一度も外出させてもらえませんでした。
おじいさんが亡くなって6ヵ月経ちました。
家族は家の改装をしようと、
建築会社の人を呼んで、家の計測を始めました。
その時です。事件が起こりました。
建築会社の人が縁側に近づくと、
今までおとなしかったボブが、
初めて、ウーーッと、低いうなり声をあげたのです。
たまたま近くにいた娘が、ボブのリードに手をかけ、
縁側からどかせようとしたその瞬間、
いきなりボブが娘に噛みついたのです。
娘の手は血だらけになりました。
すぐに病院に運びましたが、
8針も縫うほどの大怪我でした。
その事件があってから、家族の誰が近づいても、
ボブは牙を剥き出しにして、怒るようになりました。
ご飯の時も、家族はそっと近づき、
口が届くギリギリのところにエサを置き、
立ち去るようになりました。
家の改装計画は中断され、
その後3ヶ月は、そのままの暮らしが続きました。
悩んだ家族は、しつけの本を読みあさり、
どうしたら犬と仲良くなれるのか、
どう扱えばいいのか、勉強しました。
この時になって、やっと家族は
ボブと向き合おうという気持になったようです。
おかげで、家族は徐々に
ボブに近づくことができるようになりました。
半年後には、
散歩に連れて行けるようになりました。
ボブも、家族の「マテ」や「オスワリ」などにも
だんだん従えるようになりました。
しかし、その半年後に、
2度目の事件が起こったのです。
その事件で、家族は新たな発見をすることになります
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2024年

5月

02日

懐かしい昭和 Apex product

渡瀬恒彦さん
(1944年7月28日-2017年3月14日)
俳優・歌手・タレント。
身長174cm。
空手弐段。
島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち。
兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。
三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。
早稲田大学抹籍。
サラリーマン生活を経て、
1970年1月31日(土曜日)、
石井輝男監督の映画「殺し屋人別帳」の主役としてデビュー。
2017年3月14日23時18分、
胆嚢がんによる多臓器不全の為、
東京都内の病院で永眠。
72歳没。
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命のメール 365日 24時間 受付致します。           Apex product 命を守り隊 !!

「死にたい」「消えたい」「生きることに疲れた」など、あなたのそんな気持ちを素直にメールして下さい。
命の電話で専門の相談員が受け止める事も出来ますが、何をもって専門家なのですか?エリートの挫折を味わった事のない専門の相談員様は、色々なケースには当たり前の回答しかしません。私どもは、苦労苦労で亡くなった先人の魂で寄り添う相談員になれたらと思っています。代表は、それはそれは苦労人の還暦過ぎた親父さんですが、あなたの状況を一緒に整理し、必要な支援策などについて一緒に考えます。知識人ですから安心して連絡下さい。皆んなで対処すれば何とかなるから頑張らないで生きてみましょう。  Apex product  命を守り隊 隊員一同

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