Apex product 【 昭和の楽しい時代 52 】

【連絡先】

メモ: * は入力必須項目です

大和田伸也さん(1947年10月25日-)
俳優、声優、ナレーター、演出家、映画監督。
身長175cm。
特技は、居合(夢想神伝流・3段)。
ホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。
福井県敦賀市出身。
早稲田大学第一文学部中退。
三男一女の次男として誕生(兄と姉、弟の獏)。
敦賀市立敦賀北小学校の学芸会で、
1年・2年担任が浦島太郎の主役に抜擢。
1965年、
大学中退後に鈴木忠志が立ち上げた自由舞台に所属。
1968年、劇団四季へ入団。
1972年、
朝の連続テレビ小説『藍より青く』でのヒロインの夫役で広く知られる様に。
1977年、『犬神の悪霊』で映画初主演。
1978年2月に降板した横内正に代わって『水戸黄門』で二代目渥美格之進役に就任し、
1982年10月19日の第13部の収録終了をもって降板。
蜷川幸雄演出の『王女メディア』では北大路欣也とダブル主演(3度再演し海外公演も果たしました)。
『炎の女・秋瑾』で日本人として初めて中国映画に出演。
『ライオン・キング』の吹き替え版では、
実写版、アニメーション版、両作品で王・ムファサを演じました。
松方弘樹主演『恐竜を掘ろう』で映画初監督。
脚本も担当した。次男の健介と共同脚本。
2019年には初のオペラに出演。
(大和田伸也)
BUCK-TICKのボーカルの櫻井敦司さんが亡くなったとの速報が入ってきました。まだ57歳…早すぎる死です。このバンドの歌をよく聴いていただけに、かなりショックです…。
故人のご冥福をお祈りします…合掌🙏

幼い頃はコレを膨らませて遊んでましたネ〜

KIRIN 一番搾り 中山美穂

ブッシュマンシリーズの二カウさん、2003年に59才(くらい)で亡くなられたそうです。映画は1982年、日本にも1983年に来日。空から降って来たコカコーラ瓶を不思議そうに観察していたシーン思い出します。

このような曲が😮
しかも都はるみさん‼️
コロムビア・ライトさん
(1927年3月30日-2010年10月26日)
漫才師、漫談家。
落語芸術協会所属。
社団法人あゆみの箱常務理事。
東京都港区出身。
大倉高等商業学校中退。
出囃子は『自由』。
声帯模写漫談家柳家三亀松の弟子柳家亀次としてデビューし、 
後にコロムビア・トップライトの2代目ライトとして活躍。
トップの議員転出に伴うコンビ解消後も、
漫談や司会などで活躍。
愛煙家がたたり喉頭癌を患い、
声帯を摘出し一時は声を失いますが、
食道を振動させる発声法(食道発声)を会得。
その後は
「ガンファイターズ」などのコンビでの医療漫才や、
癌・煙草・禁煙に関する講演活動、
ACジャパンのCM出演などを精力的に行ないました。
(コロムビア・ライト)
伴淳三郎さん
(1908年1月10日-1981年10月26日)
昭和期のコメディアン、俳優。
愛称は「バンジュン」。
息子はスタイリストの山本康一郎。
(「アジャパー」のポーズをとる伴淳三郎)
作品紹介
【解説】近代組織暴力史上、最も勇名を馳せ、最後の侠客と呼ばれた鉄砲玉・夜桜銀次。酒と女と銃だけを愛して、野獣のように暴れまくった一匹狼の凄まじい生きざま。
全身に夜桜の刺青を彫り、やくざ仲間からも“死神”と恐れられた夜桜銀次に、菅原文太が扮して描く実録アクション巨編。彼の波瀾万丈の生涯を通して、全国制覇の野望を秘めた山口組の九州進攻作戦の実態が暴かれる!!
【公開日】1974年4月公開
【コピーライト】(C)東映
CAST
菅原文太、渡瀬恒彦、松方弘樹、梅宮辰夫
STAFF
■監督:山下耕作
■脚本:高田宏治
■スタッフ:企画:日下部五朗、田岡満、橋本慶一、今川行雄
脚本:高田宏治
撮影:山岸長樹
音楽:八木正生
監督:山下耕作

昭和時代はこんな映画館が全国にあったけど観なくなりましたね📹

女優、若尾文子さん
■大映とは?
1942年の創立から約30年間で1,500本もの作品を世に送り出した映画会社で、
実業家、映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主として知られる創業者永田雅一氏のワンマンではあるが全盛期のパワフルな経営力にはさまざまな逸話が残されています。
女優さんの“豪華さ”だと思います(笑)、
悪く言うと永田ラッパ🎺のワンマン、
 良く言うとリーダーシップのある創業者の
 永田さんの評判です。
▼京マチ子・山本富士子・若尾文子らスター
女優陣が、多様な役どころで新しい女性像を
演じられました。素晴らしい✨✨✨
永田さんは、「映画という商売においては
女優が大事」と言っていたそうです💕
若尾文子さんは、色っぽいと言うのが
管理者が子供心に感じた印象でした~💕
二階堂有希子さん
(1940年10月27日-)
元女優、声優。
身長159cm。
東京都・淀橋区出身。
東京女学館高等学校卒業。
夫は俳優・タレント・実業家の柳生博(2022年没)。
長男は園芸家の柳生真吾(2015年没)。
俳優座養成所9期生。
フリーランスで活動。
主にテレビドラマなどで女優として活躍。
海外ドラマ『ルート66』の吹き替え以降は声優としても活動。
次男が生まれると同時に芸能界を引退し、
その後は夫と共に
山梨県北杜市大泉町の園芸施設「八ヶ岳倶楽部」の運営に携わっていました。
2013年に認知症を発症、
その後は特別養護老人ホームに入所。
(二階堂有希子)
フランク永井さん
(1932年3月18日-2008年10月27日)
ムード歌謡歌手。
魅惑の低音と称された独特の豊かな低音を武器に、
師である作曲家の吉田正(吉メロ)とともに
都会的でジャズテイスト溢れるムード歌謡のジャンルを切り開き、
数多くのヒット曲を世に送りました。 
(有楽町で逢いましょうのレコード)
永井秀明さん
(1921年10月27日-2002年3月16日)
俳優。
東京府大森区(現・東京都大田区)出身。
麦の会代表。
明治大学予科中退。
1939年、松竹に入社、本名で俳優デビュー。
1964年、永井秀明に改名。
翌年、松竹を退社し、フリー。
時代劇では悪役を多く演じました。
2002年3月16日に肝臓癌のため死去。
80歳没。
(永井秀明)
犬塚弘さん死去、94歳 
クレージーキャッツで活躍
2023/10/27 共同
1960年代に人気グループ「クレージーキャッツ」
の一員として活躍し、俳優としても知られた
犬塚弘(いぬづか・ひろし、本名弘=ひろむ)
さんが、27日までに死去した。
享年94歳。東京都出身。
犬塚さんの死去で、安田伸さん、犬塚弘さん、
ハナ肇さん、植木等さん、谷啓さん、
桜井センリさんら、クレージーキャッツの
メンバーは全員が亡くなったことになった。
1955年にハナ肇さんらと
「キューバン・キャッツ」を結成。
「クレージーキャッツ」と改名し、
谷啓さん、植木等さんも加わった。
「クレージー黄金作戦」などの喜劇映画で
人気を集め、テレビでもバラエティー番組
「シャボン玉ホリデー」などにレギュラー出演。
山田洋次監督の映画「馬鹿が戦車でやって来る」
や「男はつらいよ」にも俳優として出演した。
https://nordot.app/1090446992914072529
私の世代は家にテレビが届いた記憶があります。
当然、白黒テレビで放送時間が限られていました。
放送がない時間はテストパターンしか見れなかった。
「宇宙船シリカ」や「チロリン村とくるみの木」を見ていた世代はどのくらいいるのでしょう。
野村俊夫さん
(1904年11月21日-1966年10月27日)
作詞家、詩人。
福島県福島市出身。
福島県福島市大町の魚屋に誕生。
幼少期、近所には作曲家の古関裕而が住んでおり、
5歳年上の野村は兄貴分であり遊び仲間でした。
1924年、
20歳の時に福島民友新聞社に入社し、
編集部・報道部・文芸欄を担当。
1931年をもって福島民友新聞社を退社。
すでにコロムビア専属の作曲家として東京で活動していた古関裕而のすすめで上京。
同年、
古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売され互いにデビュー作に。
この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始。
1939年、
藤山一郎のコロムビア復帰第1作目であった「上海夜曲」のヒットにより、
コロムビア専属の作詞家に。
作詞家の野村俊夫と作曲家の古関裕而(福島市出身)、歌手の伊藤久男(本宮市出身)の三人は
「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれました。
1951年頃からは日本音楽著作権協会の理事も務めていました。
(野村俊夫)
蟹江 敬三さん
(俳優、ナレーター)
1944年10月28日生まれ。
2014年3月30日没、享年69
東京都 江戸川区出身
蟹江敬三ひとり芝居
風船おじさん
【作・演出】山崎哲
【出演】蟹江敬三
1997年4月4日~4月13日
シアタートップス
物語は、1997年に風船で海外渡航を決行し行方不明になった「風船おじさん」が題材。
芝居はこの夢物語のような出来事を現実の犯罪をモチーフに数々の話題作を創ってきた山崎哲が、現代社会や今日の家庭の問題と絡めながらあぶり出してゆくもので、個性的で巧みな演技力を持つ蟹江がどう演じるか興味深い。

ホンダTN360トラック

【国鉄C62形蒸気機関車】
➡ https://youtu.be/Fd-sDQbbfdY
国鉄C62形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。
1948年(昭和23年)から翌1949年(昭和24年)にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両が製造され、その牽引力や重量から、輸送量を要求される主に平坦地や軟弱地盤の少ない東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。松本零士の漫画作品『銀河鉄道999』に登場する主要列車「999号」の牽引車のモデルとして広く知られる
★縁側
祖母の家の縁側でひなたぼっこするのが楽しみでした。
昭和の時代に来日した高額年俸取りお騒がせ助っ人外国人選手
右下の写真は、日本ハムのバール・スノー 投手(日本ハム・1974)当時貿易会社の社員だったが、74年に来日したついでに遊び半分で日ハムの球団テストを受けて合格。 初任給をもらった直後、初登板前日に突如失踪、行方不明に!既に帰国しており、パシフィック・リーグ初、国内では2例目の無期限失格選手に指名!帰国後は長距離トラック運転手をしていたらしい。2009年には喉頭癌を患い2011年に亡くなったという。
他の5人はご存知ですか?
トマソン(巨人)
ペピトーン(ヤクルト)
マネー(近鉄)
ハワード(太平洋クラブ)
マドロック(ロッテ)
浜田晃さん
(1941年10月28日-)
俳優。
身長178cm。
神奈川県横浜市出身。
神奈川県立平塚高等学校(現:神奈川県立平塚工科高等学校)、
早稲田大学第一文学部演劇科卒業。
学生劇団自由舞台、
文学座演劇研究所(第3期生)を経て
1967年、文学座劇団員、
1972年退団後東映を中心に各社の映画やテレビドラマに出演。
時代劇、刑事ドラマ、特撮など
さまざまなジャンルの作品で凄みのある悪役として活躍、
善人役を演じる機会も多数。
特撮テレビドラマ『仮面ライダーストロンガー』では
タイタンの人間体である謎の紳士役で出演し、
2010年には
『仮面ライダーオーズ/OOO』13、14話のゲスト出演で
35年ぶりにライダーシリーズに出演。
2017年には『仮面ライダービルド』第9話以降に難波重三郎役で出演。
過去には協同組合日本俳優連合の理事として、
俳優の権利向上・資質向上にも尽力。
(浜田晃)
矢口高雄さん
(1939年10月28日-2020年11月20日)
漫画家・エッセイスト。
株式会社矢口プロダクション代表取締役。
自然の中での生活をテーマにした作品を描き、
代表作の『釣りキチ三平』、『幻の怪蛇バチヘビ』で、
釣りとツチノコブームを起こしました。
秋田県雄勝郡西成瀬村(現:横手市)生まれ。
町の中心部から20km離れた山村に生まれ、
自然に囲まれて育ちました。
この子供時代の生活が、後に漫画の題材
4歳の時に、
母親に読み聞かせてもらった宮尾しげをの『西遊記』や田河水泡の『のらくろ』で漫画に接し、
以来無類の漫画好きに。
特に手塚治虫の『流線型事件』『メトロポリス』に強い影響を受け、
手塚が連載する漫画雑誌を買うために杉皮背負いのアルバイトで小遣いを稼ぐほど。
また漫画を読む一方で自ら描く事にも興味を持ち、
手持ちの漫画の模写をするように。
中学生時代に生徒会長を務め、
秋田県立増田高等学校を卒業。
地元の羽後銀行(合併を経て、現在は北都銀行。その縁から合併直前の時期には釣りキチ三平が同行のキャラクターに。)に入行。
ある日、
同僚が読んでいた『ガロ』に強い影響を受け、
再び漫画を描き始めます。
1966年頃から漫画誌の編集部へ自作品の投稿を繰り返します。
1968年の夏期休暇で上京し、
『ガロ』の編集部へ落選した原稿を改めて持ち込み批評を頼むと、
編集長である長井勝一から「絵がヘタである」と否定的な評価を得ます。
この時水木しげるの職場に案内され、
水木は矢口の漫画を高く評価、
池上遼一、つげ義春ら水木プロの面々からも様々なアドバイスを受けました。
1969年、
『ガロ』で入賞作の『長持唄考』が掲載され、アマチュア作家として本名でデビュー。
読み切り作品を数作掲載の後1970年に銀行を退職し、
妻と娘2人を郷里に残して単身上京、
『ガロ』の原稿料だけでは生活できず、
長井に紹介された『週刊少年サンデー』で
読み切り作品『鮎』が採用されメジャー誌デビュー。
同年、
梶原一騎原作の『おとこ道』を同誌で連載開始。
当時30歳と漫画家としては遅めのスターでしたが、
自身の趣味である釣りの経験を基にした『釣りキチ三平』(昭和版)を
週刊少年マガジンで連載開始すると「釣り」ブームが巻き起こり、
一躍人気作家。
同作の完結後は、
野生生物や自然を題材とした中編作品の連載と並行して、
自身の半生を年代順に自叙伝形式で描いた
「オーイ!!やまびこ」「蛍雪時代」「9で割れ!!」の連載や、
エッセイ「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」の執筆・発売を行いました。
1989年に敬愛する手塚治虫が逝去すると、大いに悲嘆。
1995年には出身地の増田町で画業の功績を称えられ
町営(現:横手市営)の横手市増田まんが美術館が開館し名誉館長に就任。
2003年には石ノ森章太郎と生前交わした約束から
石ノ森萬画館の館長(2代目)を歴任。
2001年から『釣りキチ三平 平成版』を連載していましたが
気力、体力の限界から筆を置き未完。
また、
2003年4月からは自身の公式ホームページ上で、
身の回りの出来事をエッセイ風に綴る日記(ブログ)「矢口高雄の独り言」を掲載。
2020年11月20日、
膵臓がんにより東京都内の病院で死去。
81歳没。
(矢口高雄)
芥川比呂志さん
(1920年3月30日-1981年10月28日)
俳優、演出家。
身長171cm。
東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。
作家・芥川龍之介の長男。
母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。
妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。
3人兄弟で、
長弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、
末弟・也寸志は作曲家(終戦時は、作曲係の陸軍上等兵)、
名の由来は龍之介の親友・菊池寛の名の読みを万葉仮名に当てたもの。
ちなみに、
多加志は小穴隆一の「隆」から、
也寸志は恒藤恭の「恭」から取られています。
1926年、
東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。
同級に宮澤喜一。
1932年、
同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。
在学中からシングや岸田國士の戯曲を読み、
15歳のとき『お察しください(A Comedy)』と題する戯曲を、
附属中学の校友会誌「桐陰会雑誌」に発表。
学芸会では『ヴェニスの商人』や武者小路実篤の芝居を演じました。
1937年、慶應義塾大学予科に入学。
1939年、同予科から文学部仏文科に進学。
演出家女優・長岡輝子や劇作家・加藤道夫たちと新演劇研究会を結成し、学生演劇活動を始め、
その傍ら、
鈴木亨主宰の詩誌『山の樹』の同人となり、
畔柳茂夫や沖廣一郎という筆名で詩や翻訳を発表。
演劇活動の傍ら、佐佐木茂索の配慮により、
嘱託として短期間文藝春秋社に勤務。
太平洋戦争勃発のため慶應義塾大学を繰上卒業し、
甲種幹部候補生として群馬県の前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校。
卒業後の陸軍少尉時代には、
帝国陸軍有数の本土防空戦闘機部隊として有名な
東京調布の飛行第244戦隊の整備隊本部附として勤務し、
敗戦時は陸軍中尉として
滋賀県神崎郡御園村の神崎部隊三谷隊にいました。
1945年、
神奈川県藤沢市鵠沼の母の実家別荘に疎開していた家族の許に復員。
直前に三女の芥川耿子が誕生。
鵠沼では林達夫らと交流し、
1946年夏、
林の主宰する市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」で、
加藤夫妻と共にチェーホフの「熊」を上演。
鵠沼には1949年まで滞在して上目黒に戻りました。
1947年、
演出家・女優長岡輝子、加藤とその妻で女優の加藤治子らと共に「麦の会」を結成。
1949年に「麦の会」は文学座に合流し、
以来文学座の中心俳優として、または加藤道夫作『なよたけ』などの演出家として大成。
特に1955年の『ハムレット』の主演は、
今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博します。
貴公子ハムレットの異名を持ちました。
舞台の他、ラジオドラマ・ナレーション・映画・テレビなどにも様々出演。
1963年に
仲谷昇・小池朝雄・岸田今日子・神山繁・高木均らと共に文学座を脱退し、
かつて『ハムレット』の演出を手掛けた福田恆存を理事長とする財団法人「現代演劇協会」を設立し、
協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動。
1966年には
NHK大河ドラマ『源義経』で源頼朝を演じました。
俳優業の傍ら演出家としての才能も発揮し、
1974年に『スカパンの悪だくみ』の演出で芸術選奨文部大臣賞、
泉鏡花の戯曲『海神別荘』の演出で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。
しかし、
盟友であった福田と劇団の運営方針を巡って対立することに。
1975年には
高木均・仲谷・岸田・神山・中村伸郎らと雲を離脱し「演劇集団 円」を創立して代表に就任。
しかし、
若い頃からの持病である肺結核が悪化して入退院を繰り返し、
期待された「円」での仕事は1978年の鏡花の『夜叉ヶ池』演出のみに留りました。
1981年、
療養中だった目黒区内の自宅にて死去。
享年61歳。
(芥川比呂志)

元ビジンダー🥰、長渕剛夫人、花創作家の志穂美悦子さん😍 1955年10月29日生まれ・・・  ビジンダーに変身する前の方が絶対 美人だぁ~~😂✌

志穂美悦子さん
(1955年10月29日-)
女優・歌手・フラワーアーティスト・タレント。
身長163cm。
海外ではSue Shiomi の名で知られ、
日本で初めて女優自らスタント・擬斗を演じ、
1970年代から1980年代にかけて活躍。
ジャパンアクションクラブ(JAC)が初めて輩出した女優。
愛称は悦っちゃん。
岡山県岡山市東区西大寺出身。
(志穂美悦子)
山本圭子さんです。
ヤフーの記事で知ったんですけど、サザエさんに登場してくる、花沢さんの声優役を降りることになったそうです。ひとまず、お疲れ様でした。
汐路章さん
(1928年1月9日-1994年10月29日)
俳優。
京都府京都市出身。
1948年に大友柳太朗主宰の「新星座」入団。
後に高田浩吉劇団に移り、
1950年代末から、
東映の時代劇・現代劇・ヤクザ映画での悪役・敵役で活躍。
品の良くない精力絶倫な男・悪徳刑事・犯罪者・破戒僧や、
テレビドラマ『水戸黄門』では
主に権力者にこびへつらい弱いものをいじめるチンピラヤクザなどに扮してきました。
その一方で、
千葉真一主演の映画『激突! 殺人拳』、『脱走遊戯』で片言の日本語しかしゃべらない中国人、
テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』の第23話「赤い蛇の目は死の宣告」では間の抜けた同心をコミカルに演じたほか、
階段落ちや『激突! 殺人拳』では主人公の腕を逆手に取るものの宙返りされてしまうシーンを、
吹き替え無しで自ら演じるなど、
役者として幅広い面を見せています。
『仮面の忍者 赤影』では
顔を塗りつぶしての役柄が多かったですが、
当初は抵抗があったものの次第に面白がるようになり、
自身が演じる「魔風雷丸」の白塗りメイクなどを本人自らが行っていました。
叩き上げの大部屋育ちで、
『蒲田行進曲』の登場人物「ヤス」のモデルとして知られます。
役のイメージとは裏腹に、
実生活では故郷の京都で、
無料の書道教室を開講して子供たちと触れ合うという一面を有する温厚な人柄でした。
1975年には
第1回くまもと映画祭の男優部門で特別功労賞を受賞。
1994年10月29日、
肝不全のために京都府京都市の病院で死去。
66歳没。
(汐路章)
児島明子さん
(1936年10月29日-)
ファッションモデル。
身長167cm。
スリーサイズは、97 - 60 - 96 cm。
1959年(昭和34年)の
ミス・ユニバース・ジャパンでもあり、
アメリカ合衆国で開催された
第8回ミス・ユニバース世界大会(ミス・ユニバース1959)で栄冠を獲得。
日本人として、
アジア人として初めてのミス・ユニバース世界大会優勝者。
当時は「有色人種」初のミス・ユニバースとも言われました。
また、
1952年の第1回大会で優勝したミス・フィンランド、アルミ・クーセラ以来の
旧枢軸国(第二次世界大戦の敗戦国)出身のミス・ユニバースでもあり、
アメリカと戦った国としては初めて。
宝田明の最初の妻、児島未散の母としても知られます。
(児島明子)
【島田紳助・松本竜介】
島田 紳助・松本 竜介(しまだ しんすけ・まつもと りゅうすけ)は、かつて存在した日本の漫才コンビ。昭和時代の末期に活動した。略称「紳助・竜介」(しんすけ・りゅうすけ)または「紳竜」(しんりゅう)。所属事務所は吉本興業。1980年代前半の漫才ブームを牽引したコンビのひとつ。島田洋之介・今喜多代の内弟子だった紳助がポストB&Bを狙って竜介を誘い、1976年[1]にコンビを結成。竜介は紳助にとって3番目の相方で[1]、同期の明石家さんまの紹介によるものだった。
紳助は既存の漫才師や、自分たちの芸を徹底的に研究した結果「若い世代にだけ受ける漫才」を目指すことに決め、当時の漫才ではスタンダードとされた背広のスタイルを廃し、リーゼントヘアにつなぎの作業着という当時の不良少年のファッションスタイルで演じる「ツッパリ漫才」を考案。「『落ちこぼれ』の本音の会話[1]」を代弁するスタイルで中高生から圧倒的な支持を得るに至った。放送作家の古川嘉一郎は紳竜漫才の革新性について「漫才は、そもそもAがBを笑うという賢者と愚者のパターンだった。ところが紳竜の漫才は愚者同士。これは大発明というしかない」と絶賛している。
まんが日本昔ばなし
「 二度なりの栗 」
放送日:1982年12月11日(昭和57年12月11日)
演出:大竹伸一  文芸:平見修二  美術:門屋達郎  作画:大竹伸一
むかし、ある山奥に、炭焼きの親子が小屋を作って、一年中炭を作って暮らしておりました。
ある時、この父親が病気になってしまいました。せがれは意を決して、「薬の木」があるという御前淵(ごぜんぶち)に向かう事にしました。しかし、これまで淵へ向かった者は一人も帰ってこず、災害が起こる前には淵の方からドンドンドンドンと大きな音がするので、淵には近寄ってはならぬと言われていました。
ようやくたどり着いた御前淵には、一本の木が生えていました。せがれが、斧で枝を切ろうとすると、淵の中から光が出てきて淵に引きずりこまれてしまいました。気づいたところは、水の中ではなく不思議な世界。せがれは、極楽に来てしまったのかと歩いていると巨大な太鼓が現れ、その先の滝の傍に美しい女が座っていました。
せがれは父親が病気になってしまったので、なんとか薬の木をひと枝欲しいと頼みました。女は「ならぬ」の一点張りでしたが、せがれの必死の頼みから「お前の心に免じてこの栗を二つやる。ひとつは病気の父親に粉にして飲ませ、もうひとつは里に植えてやるがよい」
せがれが「貴女様は一体…」と尋ねると、女は「私はお前の里を見守っている者。里に災いが降りかかるような時にはそこの太鼓を使って知らせているのだ。」そう言って、女はふっと消えてしまいました。
家に戻ったせがれは、言われたとおり栗を一つ煎じて父親に飲ませると父親の病は治ってしまいました。残ったもうひとつの栗を庭に植えてみると、すぐに芽を出してぐんぐん成長し、1年のうちに高くそびえる立派な栗の木に成長しました。
この栗は煎じて飲むとどんな病気もたちどころに治り、さらに1年に2回も実をつけるので「二度なりの栗」と呼ばれるようになり、大切に扱われるようになりました。
それから、御前淵の方で太鼓のような音がすると災いの起こる前触れとして、里の者はよく備えるようになったので、大きな被害が里に起こることはなくみな幸せに暮らしたということです。
(岩手県のおはなし)
マキノ雅弘さん
(1908年2月29日-1993年10月29日)
映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家。
「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の息子。
父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、
生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、
日本映画の黄金時代を築きました。
沖縄アクターズスクール開設者のマキノ正幸は実子。
(マキノ雅弘)
谷口千吉さん
(1912年2月19日-2007年10月29日)
映画監督。 
妻は女優の八千草薫。
東京府寺島村出身。
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)卒業。
早稲田大学文学部英文科在学中は、
千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い
左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて1930年に中退。
1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社。
山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務め、
同期には、亀井文夫、本多猪四郎。
ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友。
1947年、
山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
これは三船敏郎の俳優デビュー作でもあり、
山男の谷口が北アルプスでロケをしたことで、
『キネマ旬報』ベスト・テン7位を獲得するなど高い評価を受けています。
この作品にサード助監督として付いた岡本喜八は、
以降多くの谷口作品に助監督として付く事に。
「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と謳われて、
東宝ではアクション路線を担当。
谷口本人があまり積極的に映画製作を行わなかった事や、
私生活での問題などもあり、
1950年代後半には会社から3年近く干された事もありました。
1960年代にはB級アクション映画や喜劇映画が回ってくるようになり、監督本数は減少。
1970年の日本万国博公式記録映画の総監督を経て、
1975年の『アサンテ サーナ』を最後に監督作品はなく、
最後まで表立った活動は見られませんでした。
2007年10月29日、誤嚥性肺炎のため死去。
95歳没。
(谷口千吉)
高畑勲さん
(1935年10月29日-2018年4月5日)
映画監督、アニメ演出家。
畑事務所代表、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。
日本大学芸術学部講師、
学習院大学大学院人文科学研究科主任研究員、
多摩美術大学客員教授などを歴任、紫綬褒章受章。
映画プロデューサーや、
フランス文学(ジャック・プレヴェール)の翻訳も手がけました。
1959年に東映動画に入社。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』で長編をはじめて演出した後、
1971年からAプロダクションに移り、
以後
『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三千里』などのテレビアニメを経て、
宮崎駿とともに設立したスタジオジブリで監督作を手がけました。
アニメーション研究家からは、
類型化されないキャラクターの演技や感情表現を持ち込んだこと、
丹念な日常描写で生活感を与えたことや、
背景とキャラクターの一体化といった革新的な表現に挑み続けた点を、
アニメーションに対する功績として評価されています。
(高畑勲)
浜畑賢吉さん
(1942年10月29日-)
俳優。
身長175cm。
大阪芸術大学教授・舞台芸術学科長。
妻は上村香子。
うたた賢は実弟。
東京都出身。
東京都立広尾高等学校卒業、東海大学工学部機械工学科中退。
劇団俳優座養成所第15期
(同期に、
赤座美代子、秋野太作、小野武彦、片岡五郎、
栗原小巻、佐藤博、柴田侊彦、高橋長英、
二本柳俊衣、前田吟、三田和代、村井國夫 等)
の出身。
養成所修了後の1966年、劇団四季に入団。
1968年のテレビドラマ『進め!青春』で新米教師・高木進役を演じて当たり役に。
第一生命ホールで上演された『カナマゾフの兄弟』で初舞台を踏み、
日生劇場などで上演された『コーラスライン』は、
1979年の初演以来、
主人公のザック役として800回以上にわたって出演。
1994年、四季を退団して独立。
俳優業に留まらず
ミュージカルやオペラの演出も務めるほか、
2004年には
大阪芸術大学教授・舞台芸術学科長に就任。
趣味として
日本書票協会会員、サバンナクラブ顧問、パンダ保護協会評議員も務めています。
日本ペンクラブ会員。
(浜畑賢吉)
昭和55年9月5日
マイクをステージに置いた百恵ちゃん
😢💕🎶🙏‼️

Twitterで加賀まりこがトレンド入りしてる。

ヒゲダンス。😄真ん中はアグネス・ラムさんですね。
昭和40年代後半ですね。
野沢那智さん
(1938年1月13日-2010年10月30日)
舞台演出家、俳優、声優、ラジオパーソナリティ、実業家。
身長167cm。
東京府東京市日本橋区(現:東京都中央区日本橋浜町)出身。
オフィスPAC元代表。
父は作家の陸直次郎、
母は小唄の師匠、
妻は女優の成瀬麗子、
長男は俳優の野沢聡、
姪はタレントの野沢直子、
甥はクリエイティブ・ディレクターの野澤直龍、
大姪(直子の娘)は格闘家の真珠・野沢オークレアー。
(野沢那智)
仲間 由紀恵さん
1979年10月30日生まれ、44歳。
沖縄県 浦添市出身。
女優、司会者、歌手、タレント。
1995年、日本テレビ系ドラマ『日本一短い母への手紙2』でデビュー。2000年に出演したテレビ朝日系ドラマ『TRICK』で注目を集め、以降も日本テレビ系ドラマ『ごくせん』シリーズ、NHK大河ドラマ『功名が辻』、映画『大奥』など様々な作品に出演。2008年には『第59回 NHK紅白歌合戦』の紅組司会、2014年にはTBS系『第56回 輝く!日本レコード大賞』の司会を務める。
映画
SHINOBI
-HEART UNDER BLADE-
2005年公開
監督  下山天
脚本  平田研也
製作総指揮  迫本淳一
出演者   仲間由紀恵
               オダギリジョー
               黒谷友香
               沢尻エリカ
               石橋蓮司
               北村和夫
               椎名桔平
主題歌  浜崎あゆみ     
            「HEAVEN」
1974年4月11日、東京の日大講堂で、
ボクシングWBC世界ライト級王座に挑戦したガッツ石松選手が、チャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスに8回KO勝ちし、王座を奪取しました。
 ガッツ石松は1966年にプロボクサーとして
デビューしましたが、最初のプロテストは
不合格、4回戦時代も戦歴は凡庸で、
ランニングをさぼることでも有名だったそうです。
 しかし、ヨネクラジムに移籍後、
エディ・タウンゼント
(6人の世界王者を育てた名伯楽)の教えを
 受け、急成長します。
 1970年1月、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢選手に番狂わせの勝利を収めたことで世界挑戦権を得て、1974年ついに王座を獲得しました。
 相手の王者ロドルフォはとても強い🥊
ガッツ石松は99%勝てない、と予想された
 中での大勝利でした。

高輪プリンスホテルで行われたさよなら太陽にほえろ!パーティー故松田優作さん貫禄ありますね…腕に握ってるサングラスレイバンクラブマスターですね。太陽にほえろの思い出を語る優作さんのスピーチに奈良岡朋子さん聴き惚れてますね

知る人ぞ知る🤣🤣【ギルガメッシュナイト】🥰😂✌  懐かしい・・・😍

山本昌平さん
(1938年1月17日-2019年10月30日)
俳優、声優、ナレーター。
身長168cm、体重76kg。
台湾の澎湖島生まれ、熊本県育ち。
東京都立江戸川高等学校卒業。
既婚。
中学生時代、
走高跳で九州大会第2位となった実績を持ちます。
1957年に劇団七曜会の研究生。
その後、
劇団三期会演出部を経て、
浅草フランス座のコメディアンとして3年間活動後、
1963年にフリー。
フリーとなって以降は
『荒野のダッチワイフ』(1967年)などのピンク映画を中心に活動するも、
一時俳優を廃業。
芸能活動を休止していた時期は船員をしていました。   
その当時、
内外タイムスの当時の編集長から
映画『暴力街』の製作元である東映から山本の捜索願が出ていることを聞き、
『暴力街』の監督である五社英雄と面会して出演が決定。
1974年の映画『暴力街』で復帰後は、
『女必殺拳』(1974年)、
『ルバング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)などで悪役として活動する一方、
『太陽にほえろ!』『大江戸捜査網』などのテレビドラマでも悪役を多数演じました。
特撮テレビドラマ『プロレスの星 アステカイザー』(1976年)、
『スターウルフ』(1978年)、
『電撃戦隊チェンジマン』(1985年)に悪役でレギュラー出演。
1983年、
同じ悪役俳優の八名信夫の呼びかけで、
悪役スターらによるグループ「悪役商会」の結成に参加。
バラエティ番組にも活動の場を広げ、
『笑っていいとも!』には1年間レギュラー出演。
その後も
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』や
『コメディーお江戸でござる』にゲスト出演。
『ダウンタウンのごっつええ感じ』では川谷拓三と一緒にショートコントにも出演。
また、
警視庁が総会屋対策として一般企業向けに制作した
暴力団対策法の解説ビデオにも暴力団幹部役で出演。
長きに渡って悪役を演じ続けた自身の想いや経験をもとに、
暴力追放をテーマにした講演活動も行っていました。 
近年は老人ホームなどの福祉施設をボランティアで訪問し、
子供の頃からの特技であるハーモニカ演奏を披露。
2019年10月30日、
肺炎のため東京都内の病院で死去。
81歳没。
(山本昌平)
飯島 愛さん
1972年10月31日生まれ。生誕51年。
2008年12月17日没、享年36
東京都江東区亀戸出身。
元AV女優、タレント。
2000年に発売した自叙伝的小説「プラトニック・セックス」がベストセラーとなり話題に。バラエティ番組を中心に、映画やドラマ、テレビCMなどでも活躍した。バラエティ番組『未来MODEL』『マジカル頭脳パワー』『サンデージャポン』『ロンドンハーツ』『笑っていいとも!』ほかに出演。映画『ぷるぷる』『ノロイ』『裸の大将』ほかに出演。
藤田三保子さん
(1952年10月31日-)
女優、シャンソン歌手、油絵画家、俳人。
山口県宇部市出身。
山口県立防府高等学校卒業。
身長167cm、B85cm、W63cm、H92cm。
母親は元新派女優・藤田美代子。
父親は美保子が2歳のとき生き別れ。
兄がいますが早めに独立し家を出たままで、
長く母娘二人で暮らし、
学生時代は、
陸上競技に水泳、ソフトボールなどのスポーツで体を鍛えました。
母の影響で子どもの頃から女優を志しました。
高校卒業後、
1971年3月8日、大島から俳優を目指して上京。
歌手・井沢八郎の内弟子などを経て、
1973年に文学座付属研究所夜間部に入学。
同期に本田博太郎。
最初はOLをしながら研究所に通い、
生命保険の勧誘員や看板屋の事務員のアルバイトをしながら研究所に通い、
当時身長が167cmあったことからニックネームはジャンボちゃん。
3年やってダメなら帰郷するという母との約束のタイムリミットだった上京から3年後、
研究所に入ってまもなく
NHK連続テレビ小説『鳩子の海』(藤田の出生地・山口県が主たる舞台)の
ヒロイン・鳩子役のオーディション400人の中で合格し、
鳩子の大人時代(18歳から42歳)を演じました。
それ以前に、浅田京子名義でドラマ出演があった。
1974年に本名で、女優デビュー。
1975年5月24日から1977年5月7日まで、
『Gメン'75』に響圭子刑事として2年間出演。
その後、結婚。
1998年ごろ、現在の名に改名。
映画、舞台、テレビドラマ、朗読にも幅広く出演。
また画家として個展を開催したり、
2004年からシャンソン歌手として公演活動を展開。
2006年8月、
全国11箇所で公演された舞台「IMAGINE 9.11」で
役者として本格的に復帰。
翌年、
都内2か所で再演された同作品にもレギュラーとして出演。
俳句結社・炎環に所属し、
山頭女という雅号で俳句創作および講師活動も行っています。
2019年には
NHK連続テレビ小説第100作となる『なつぞら』に
10人目の歴代ヒロインとして出演。
(藤田三保子)
千秋実さん
(1917年4月28日-1999年11月1日)
俳優。
身長182cm。
妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して
舞台で活動後、映画俳優に転向し、
黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。
テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得ました。
主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。
著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』など。
俳優の佐々木孝丸は岳父。
俳優の佐々木勝彦は息子(次男)。
女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士。
[出演した黒澤作品]
・野良犬(1949年、映画芸術協会・新東宝) - レビュー劇場の演出家
・醜聞(1950年、松竹) - 青江友人
・羅生門(1950年、大映) - 旅法師
・白痴 (1951年、松竹) - 香山睦郎
・生きる(1952年、東宝) - 野口
・七人の侍(1954年、東宝) - 林田平八
・生きものの記録(1955年、東宝) - 中島二郎
・蜘蛛巣城(1957年、東宝) - 三木義明
・どん底(1957年、東宝) - 殿様
・隠し砦の三悪人(1958年、東宝) - 太平
・天国と地獄(1963年、東宝) - 新聞記者
(千秋実)

千昌夫さんバブルが弾けて3000億円の負債を抱えるも、1500億円まで頑張って返済しましたが、残りの1500億円は如何にも為らず会社が破産宣言し個人の負債1億5千万円にまで圧縮して返済した様ですね。1500憶円の負債だと、利子が無かったとしても年間1億円づつ返しても、1500年間かかる訳です、東大寺が1500年の歴史が有りますから、千さんが返済を完了した時は国から国宝指定されるワケです。人間国宝ですから流石ですね。しかし、個人の負債1億5千万円をサッと返しただけでも凄いですね、私だったら破産手続きの金も出せなくて何処かで死んでると思います。

いかりや長介さん
(1931年11月1日-2004年3月20日)
男性コメディアン、ミュージシャン(ベーシスト)、俳優、司会者。
身長175cm。
「ザ・ドリフターズ(略称:ドリフ)」の3代目リーダー。
後年は俳優としても活動。
愛称は「長さん」。
ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。
東京府東京市本所区中之郷横川町(現・東京都墨田区東駒形)生まれ。
「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして、
日本テレビの『日曜日だョ!ドリフターズ!!』や、
フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。
1980年代後半からは主に俳優として活躍。
「お笑い」のイメージとは一線を画した演技を見せました。
1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』に鬼庭左月役で出演して以降本格的に俳優業に参入、
1990年には黒澤明監督により映画『夢』に起用。
1997年に放映されたドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ系)のベテラン刑事・和久平八郎役では、
若いファンからも支持を受け、
1998年の映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。
晩年は独特な語り口調を生かし『人生の楽園』などでナレーションを務めることも多数。
俳優としての遺作は2004年の映画『恋人はスナイパー』。
趣味はアフリカ旅行(特にケニア方面)で、
いかりやをメインレポーターとしたアフリカ紀行番組もフジテレビ系などでたびたび放送。
長男の浩一(1969年5月8日- )は
明治大学卒業後、森永製菓に勤務。
在職中の2004年にドリフターズ事務所の代表取締役社長に就任し、
父・長介の没後に著書『親父の遺言』(2006年、幻冬舎)をいかりや浩一名義で出版。
2008年12月に森永製菓を退職してドリフターズ事務所の代表取締役に専任し、
『いかりや長介という生き方』(幻冬舎、2008年)を出版。
浩一には妻の他、2人の息子と2人の娘がおり、合計で6人家族。
また、
浩一の姉で長女の碇矢まゆみは『容疑者 室井慎次』での俳優担当スタッフ。
(いかりや長介)

自分が生まれた年(1960年〕の軍艦島(端島)

大村崑さん
(1931年11月1日-)
コメディアン・俳優・タレント。
兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。
大阪府箕面市在住。
昭和30年代を中心としたテレビ黎明期の軽演劇で爆発的な人気を得て、
「崑ちゃん」の愛称で広く大衆に親しまれました。
趣味・特技は
相撲観戦、日本舞踊、殺陣、眼鏡の収集。
(大村崑)
水原弘さんと大村崑さんホーロー看板
今日、11月1日はお二人の誕生日。
水原 弘(歌手・俳優)
1935年11月1日生まれ。生誕88年。
1978年7月5日没、享年42。
東京府東京市深川区出身。
大村 崑(コメディアン・俳優・タレント)
1931年11月1日生まれ、92歳。
兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。
子供の頃、この看板はどこに行っても見ていたなぁ。
菊池俊輔さん
(1931年11月1日-2021年4月24日)
作曲家、編曲家。
青森県弘前市出身。
日本大学藝術学部音楽学科卒業。
1961年に映画『八人目の敵』で映画音楽家としてのデビューを果たした後、
1963年にはテレビドラマ『野菊の墓』で初のテレビ劇伴を担当。
それ以来、
テレビ番組や映画の劇伴・主題歌を手掛けてきました。
(菊池俊輔)
1985年・放送事故です
豊田商事の会長が、テレビカメラ報道陣の前で殺されると言う衝撃💥
豊田商事の詐欺的商法による被害が広がるなか6月18日、永野一男会長が大阪・北区にある自宅マンションで自称右翼の男2人に刺殺されました。 
たまたま、現場には永野会長の動静を
取材するため取材陣が詰めかけており、
テレビには、その犯行がそのまま映るという
 衝撃的な事件となりました。
豊田商事は強引に金の取引を進めた上、
現物は渡さず金の預かり証だけ渡すという
 “ペーパー商法”で2000億円を集めた。
被害者は、ほとんどがお年寄りや主婦だった。
  ~衝撃テキな昭和の時代よ~💥😭
阿川 佐和子さん
1953年11月1日生まれ、70歳。
東京都出身。
エッセイスト・小説家・タレント。 
新幹線「のぞみ」の名付け親は阿川佐和子
新幹線「のぞみ」が運行を開始したのは1992年(平成4年)3月14日のことである。その「のぞみ」の名前を付けたのは、エッセイスト・阿川佐和子さんだという。
以前、東京に住んでいた時、SONYビルの公衆電話をかけていたら、隣で阿川佐和子さんも電話をしていた。びっくりしたなあ😃20代の佐和子さんはスゴく美しかった。
三橋達也さん
(1923年11月2日-2004年5月15日)
俳優。
妻は安西郷子、次男は三橋忠央。
東京市出身。
容姿が似ていることから
「和製ケーリー・グラント」と呼ばれました。
父が木版彫刻家だった関係から、
1942年に多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)に入りましたが、
戦時中で満足な授業が無く、1年後に中退。
1943年、
最初は舞台美術家を志し、
舞台美術担当で新劇グループ新制舞台に入団、
しかし俳優になるよう人からすすめられ、
劇団を転々と渡り歩いたのち、
1944年に水の江瀧子主催の劇団たんぽぽに入り、 映画にもエキストラとして出演。
そんな中、軍隊に召集されて、
シベリア抑留を経て、1947年に復員。
しばらくは短編映画のプロデューサーや俳優などをして、
1948年に大泉撮影所(現、東映東京撮影所)に入社。
大部屋俳優でしたが、
『執行猶予』などに端役として出演しているうちに、
カメラマンの藤井静の推薦で佐分利信監督の松竹映画『あゝ青春』に主演の不良学生役で出演。
マネージャーとなった中野英治の口利きで
大映、新東宝の映画に出演したのち、
松竹専属となりホームドラマ・タッチの青春映画に数多く出演。
1954年に日活に移籍、
同じ移籍組の川島雄三監督の映画『愛のお荷物』では抜群のコメディーセンスを披露。
続いて
同じ移籍組の市川崑監督の『青春怪談』『こころ』に出演、主演スターの地位を確立。
特に川島雄三作品には
『愛のお荷物』以降、『あした来る人』『銀座二十四帖』『風船』『洲崎パラダイス赤信号』と多く起用されて最多出演俳優に。
ちなみに川島の代表作となった『幕末太陽傳』では
本来、石原裕次郎が扮した高杉晋作を演じる予定でしたが、三橋の方から断ったそうです。
『愛情の系譜』『あした来る人』『飢える魂』『月蝕』『慕情の人』など恋愛映画にも数多く出演し、
日本の俳優では稀有なダンディーで甘い二枚目の魅力を存分に発揮。
また喜劇や文芸物のみならず、
凄みを利かせた演技でアクション映画でも活躍。
1958年に
緊縮財政を打ち出してギャラ・ダウンに踏み切った日活の上層部と対立して日活を退社し、
東京映画に移籍。
同年、
中野英治と手を切り藤本真澄に誘われ東宝へ入社。
それまでの恋愛映画、アクション映画のみならず社会派ドラマにも出演。
黒澤明には
1960年の『悪い奴ほどよく眠る』や『天国と地獄』に起用。
『女の中にいる他人』では
友人に妻を寝取られ殺されてもなおも許すという難役を演じ、
毎日映画コンクール助演男優賞を受賞。
日本初の本格的スパイアクション映画「国際秘密警察シリーズ」は4年間で5本が製作され、
カルト的な人気を博します。
趣味のクレー射撃では芸能界一の腕前を誇り、
日本クレー射撃協会の理事も務めていました。
また、芸能人の射撃マニアで結成されていた『芸能文化人ガンクラブ』理事長を長く務めていました。
戦争中にシベリア抑留経験があったことから、
ヨーロッパに行く時は決してロシア上空を通過するヨーロッパ便には乗らず、
迂回してロシアとは逆方向のアメリカ西海岸経由で行ったそうです。
『西村京太郎トラベルミステリー』シリーズでは、
主役の十津川省三警部役を長らく務めました(1999年に降板し、高橋英樹が引き継ぎました)。
2004年5月15日午前0時29分、
急性心筋梗塞のため死去。
80歳没。
(三橋達也)

深キョン🥰1982年11月2日生まれ😍 水泳とピアノ🎹が得意…😅 益々綺麗になりました。

中越地方で生まれた新潟県民にとって、小学生の時、総理になった田中角栄さんは特別な存在です。1987年の本なもので、かなり日焼けしていますが、何年かに1回読み返してみても、すごいワクワク感があります。
母親は若い頃、幹事長になったばかりの角さんにお茶を出して飲んでもらったのが忘れられないと何べんも言っていました。
良くも悪くも、こんな政治家は、今は見当たりませんね。

美空ひばりがNHKの「のど自慢素人音楽祭」に出場したのは1946年(昭和21年)12月、9歳のときのこと。その予選で「リンゴの唄」を歌い、鐘は1つもならなかった。                    美空ひばり親子に対して、審査員は「上手すぎて子どもらしくない」・「(そのとき着ていた)赤いドレスとはなにごとか」・「子どもが大人の歌を歌うのは非教育的」という、もはやイチャモンに近い理由をのべたという。しかし、翌年(昭和22年)に横浜で開かれた「市民によるのど自慢大会に出場した際、審査員を務めていた作曲家・古賀政男に対してアカペラで古賀が作曲した「悲しき竹笛」を歌ったところ、「君はもう、のど自慢の段階じゃない、りっぱにできあがっている」」と絶賛されたそうである。その後も、若すぎる年齢から活躍する美空ひばりに対しては数多くのバッシングがあったものの、それをバネに活躍。「出る杭は打たれる」状態だった美空ひばりが、生涯通じてその才能が本物だったことを証明したと言えるだろう。

写真はデビュー当時の12歳

加藤治子さん
(1922年11月24日-2015年11月2日)
女優。
東京市赤坂区(現東京都港区)に、
呉服問屋の娘として誕生。
松竹少女歌劇学校を経て、
1937年、御舟京子の芸名で松竹少女歌劇団に入団。
同期には、
後の男役トップスター・小月冴子や曙ゆり、並木路子、矢口陽子(後の黒澤明夫人)、月城彰子(後の十代目・岩井半四郎夫人)など。
1939年には東宝に迎えられ、
『花つみ日記』で映画デビュー。
榎本健一の相手役など数本の映画に出演。
1941年に
慶應義塾大学の学生だった加藤道夫や芥川比呂志らが結成した新演劇研究会(解散するも、戦後に麦の会として再出発)に入団。
1946年、加藤道夫と結婚し、本名から加藤治子に改姓。
麦の会は1949年に文学座に合流し、以降は主演級で活躍。
1963年には
芥川、高橋昌也、高木均、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加(1975年に退団)。
1964年、
『七人の孫』で母親を演じ、森繁久彌らと共演。
以後、
ホームドラマでの母親役を当たり役にして人気を集めます(新御三家と呼ばれた郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の母親役も演じています)。
共演は
いしだあゆみ、樹木希林、平田満との組み合わせが多数。
向田邦子や久世光彦とは公私ともに親しく、
向田作品では常連出演者かつキーマン役を務め、
女の業を滲ませた役も演じました。
ほか、篠田正浩作品にも常連起用。
1994年から2009年までは
『浅見光彦シリーズ』(TBS系)に浅見雪江(光彦の母)役でレギュラー出演。
晩年までコンスタントに作品を選ばずに出演
(映画における遺作は『おとうと』、
テレビドラマでの遺作は『魔術はささやく』)。
私生活では加藤道夫と結婚するも1953年に死別、
1958年には高橋昌也と再婚するも1973年に離婚。
2015年11月2日(月曜日)午前7時7分、
心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去。
享年92歳。
(加藤治子)
昭和半ば…
映りが悪いとテレビをバンバン叩いていたのを思い出す…。
ガチャガチャチャンネルもあまくなり、合わせる為にチャンネルとテレビ本体の間に新聞等を挟んでいたな〜
☆*:;;;:*☆☆*☆★☆*☆☆*:;;;:*☆
【大友裕子】「傷心」
☆*:;;;:*☆☆*☆★☆*☆☆*:;;;:*☆
………最近少なくなったなぁ………
ズシっと身体の何処かに
響く歌唱力を持った
シンガーは………
曲名:傷心
発売:1978年12月1日
作詞:大友裕子
作曲:大友裕子
編曲:小野崎孝輔
唄:大友裕子
☆*:;;;:*☆☆*☆★☆*☆☆*:;;;:*☆
https://youtu.be/n5uwfffnALU
ーーYouTubeよりーー
☆*:;;;:*☆☆*☆★☆*☆☆*:;;;:*☆
🟣昭和の『レディース』🌸🌸🌸
🔴怖くて可愛いですね🩷💜❤️

覚えとる?なんたって18歳!今じゃなんたって70歳!や…。

小松方正さん
(1926年11月4日-2003年7月11日)
俳優、声優。
身長170cm。
長野県松本市出身。
小学校卒業後、
叔父を頼って上京し昌平中学に入学。
卒業後、満鉄の技術員養成所に入るも、
結核を患って退社。
1945年(昭和20年)、終戦直前に海軍へ入り、
同年8月6日の原爆投下の前日まで広島市に。
東京の警備隊に転勤となり前夜8月5日、
最終列車で東京に向かい、
新型爆弾投下をラジオで聞いた場所は、
空襲の影響で列車が止まった静岡県掛川駅でした。
その後、
大蔵省管理局へ転官になり、東京の海軍功績調査部で終戦を迎えました。
大蔵省時代は役人向けの小さな新聞の記者も担当しており、
はじめてのインタビュー相手が当時映画『善魔』でデビューしたばかりの三國連太郎。
この時の縁で
小松は三國が原作・脚本・監督を担当した『親鸞 白い道』に僧侶・宇都宮蓮生役で出演。
大蔵官僚になったものの、
周りは東大出身者ぞろいで将来を危ぶみ、
せめて大学を出たいと、
中央大学専門部法学科に大蔵省の役人のまま入学。
この頃大蔵省の演劇サークルに入り、
文化祭で発表した舞台『故郷』にケルレル参事官役で出演。
これが初めての舞台出演となり、
演劇の世界に魅了されていきました。
1951年(昭和26年)、
色川大吉の新演劇研究所に入団。
この時、
本名を音読みにして現在の芸名に。
1952年(昭和27年)、
中央大学専門部を卒業後、
大蔵省を辞めて本格的に役者の道を目指しました。
1953年(昭和28年)、
同劇団公演『真空地帯』に大住軍曹役で出演、
この舞台は連日満員になるほど。
1959年に『二十六人の逃亡者』で映画デビュー。
この頃大島渚の独立プロ「創造社」に参加、
以降大島作品の常連俳優となり、
『太陽の墓場』や『絞死刑』、『儀式』などの作品で活躍。
また、
日本映画界を代表する名脇役として活躍し、
『神々の深き欲望』、『心中天網島』などの映画に出演。
いかつい風貌と低音のドスのきいた声が特徴で、
独特の低い声で語られる怪談は人気がありました。
アクの強い悪役・敵役で活動する一方、
その演技力は幅広く、
『柳生あばれ旅』第12話ではコミカルな道場主、
『気になる天使たち』では人情味のある父親(パン屋の主人)など、多彩な役柄を演じました。
バラエティ番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』のレギュラー出演者としても活躍。
また、
アンソニー・クインのフィックス(専属)吹き替えや、
『ポパイ』のブルート、
『ドランクモンキー 酔拳』
をはじめとするジャッキー・チェン主演のモンキーシリーズの
師匠役ユエン・シャオティエンなど声優としても知られます。
1972年(昭和47年)、
45歳の時に22歳年下の女性と結婚。
仲人は大島渚・小山明子夫妻が務めました。
1982年(昭和57年)8月18日、
映画の撮影中に転倒し、
頭蓋骨骨折という大怪我を負いました。
その後も
糖尿病、慢性腎不全、直腸癌など数々の病との闘病により
映画出演での長い撮影ができなくなりましたが、
それでも役者の仕事を続けました。
2003年(平成15年)7月11日午前9時10分、
敗血症のため東京都新宿区の病院で死去、76歳没。
(小松方正)
元大関「朝潮」の長岡末弘さん死去 67歳
 「大ちゃん」の愛称で人気 朝青龍育てる
2023/11/03
現役時代は85年春場所で初優勝。
陽気な性格から
「大ちゃん」の愛称で親しまれた。
引退後は高砂部屋の先代高砂親方で、師匠として
元横綱朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ、
元大関の幕内・朝乃山(29)らを育てた。
高知県出身。近大時代に2年連続で学生横綱、
アマ横綱に輝き、1978年春場所、幕下付け出しで
初土俵。幕下、十両を各2場所で通過して同年の
九州場所で新入幕。83年春場所後に大関に
昇進した。「大ちゃん」の愛称でファンに
親しまれ、85年春場所で初優勝。89年春場所中
に現役を引退した。優勝1回。殊勲賞10回、
敢闘賞3回、技能賞1回。
葬儀・告別式は未定。

おっぱいコンテスト、ありましたね😅

このコンテストもたった1回で打ちきりになりました😅お色気にちゃちゃをいれ余計な邪魔をする奴がいるもんですね😅

【季節はずれの海岸物語】😅このドラマ、大好きでした🥰 沢山のゲストと鶴太郎さんの恋物語でした😆✌

河内桃子さん
(1932年3月7日-1998年11月5日)
女優。
身長170cm。
俳優座所属。
東京市下谷区谷中出身。
日本女子大学附属高等学校卒業。
祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏、
父は正敏の次男で画家であった大河内信敬。
夫は今治松平家末裔でテレビプロデューサーの久松定隆。
高校卒業後、
OLをしていましたが、
1953年に東宝ニューフェイスの6期生として東宝に入社。
同期には宝田明、佐原健二、藤木悠、岡田眞澄。
入社した年の『女心はひと筋に』で映画初出演。
1954年の出演5作目『ゴジラ』ではヒロイン・山根恵美子役に抜擢。
その後も青春映画を中心に、
数多くの映画に出演し、
1957年には年間で10作を数えました。
演技を勉強し直すため、
1958年に東宝を退社し、
俳優座養成所に8期生として入所。
同期には
山﨑努、水野久美、嵐圭史、山本耕一、小笠原良知、松本典子。
その後は活動の軸足を舞台やテレビドラマへと移します。
TBSテレビのホームドラマで活躍し、
石井ふく子と橋田壽賀子の作品には常連出演。
特に晩年の代表作である『渡る世間は鬼ばかり』では
高橋文子(中田喜子)の義母・高橋年子役を演じ、
連続ドラマのレギュラー出演作としての最後の出演となった第3シリーズでは、
アルツハイマー病に蝕まれていく苦しい役柄が反響を呼びました。
1995年には、
平成ゴジラシリーズ最終作の映画『ゴジラvsデストロイア』で
41年ぶりに山根恵美子役を演じました。
『土曜ワイド劇場』などの2時間単発ドラマにも出演。
1997年7月21日に放送された
TBS放送の月曜ドラマスペシャル『演歌・唱太郎の人情事件日誌3・伊香保殺人事件』がテレビドラマの最後の出演に。
最後の出演映画はその2日前の7月19日に公開された『良寛』。
同年の冬、
俳優座の舞台『ゆの暖簾』の東北地方を中心にした巡業中に体調不良を訴え、
年が明けた1998年1月に大腸がんと診断。
前年12月15日に山形県鶴岡市で出演した舞台が最後の仕事に。
1998年11月5日の9時45分、
大腸がんのため入院先の東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センター病院で死去。
66歳没。
(河内桃子)
安田伸さん
(1932年9月19日-1996年11月5日)
サックス奏者、コメディアン、俳優、作曲家。
愛称はヤッさん。
現在の東京都中野区江原町生まれ。
生後まもなく川崎市に移り、
川崎市立高津小学校6年生のとき疎開。
母の実家がある川崎市柿生を経て厚木市に移り、
旧制厚木中学校(現在の神奈川県立厚木高等学校)1年生のとき敗戦を迎えました。
軍人志望で陸軍幼年学校に願書を出していましたが
敗戦によって音楽の道に志望を変更し、
コルネットを独学で学びました。
学制改革を経て
新制厚木高等学校在学中、吹奏楽部を創部して
アルトサックスを担当し、部長を務めます。
高校1年生のときは東大か一橋大学を志望していましたが、
高校3年のとき楽器に熱中し、
1951年、東京藝術大学管楽器科に進むも、
クラシック音楽の世界の封建性に馴染めなかったうえ、
高額の月謝を払い続けることに対する経済的困難もあり、
進駐軍クラブでジャズマンとしてアルバイトを始めます。
やがて東京藝術大学に別科器学科が創設されるとそちらに移り、1953年に修了。
以後は横浜や横須賀や上野などを拠点にジャズマンとして活動。
横浜時代に石橋エータローや谷啓と知り合い、
1953年の暮れから半年ほど、
石田正弘(サックス)、
谷崎幸雄(ベース)、
日野哲夫(ドラム)と共に
バンド『フォー・デバーズ』を組んで東京や名古屋で演奏し、石橋のバンドと共演。
その後、
石橋がリーダーをつとめる『ザ・ファイブ』での活動を経て、
『ハッピー・フーリナンス』の一員として名古屋のクラブ「フェルナンド」に出演しましたが、
このクラブにはザ・ピーナッツが出演。
この頃から『スイングジャーナル』誌に
しばしば名前が登場するように。
1957年秋、
石橋エータローの紹介でハナ肇とクレージーキャッツに参加。
ドラッグに溺れて脱退した石田正弘の後任として、
テナーサックス(ときおりクラリネット)を担当。
真面目な性格で、
メンバーの中で唯一『おとなの漫画』全1835回に出演。
また、
『シャボン玉ホリデー』ではなべおさみと組んだコント、「キントト映画の助監督」役で知られ、
監督役のなべに「ヤスダー!」と怒鳴られ続け、
メガホンで頭を殴られ続けながらも理不尽な命令に黙々と従い、
最後には立場が逆転する役柄を演じています。
また、
ブリッジをしながらサックスを吹き鳴らす演奏法でも知られており、
舞台や一部のクレージー映画などで披露。
俳優としても活動し、多くの映画やテレビに出演。
舞台『屋根の上のバイオリン弾き』に出演した際に
演劇の「面白さ」に気づき、
本格的な勉強を始めたといいます。
作曲家としても活躍しており、
『週刊クレージー』のテーマ曲を始め
ドラマの主題歌、劇伴や企業の社歌、団体歌、体操の伴奏曲など数多くの曲を作曲。
後年は
森岡賢一郎や南廣らとバンド『シーラカンス』を結成し、
『もしもタヌキが世界にいたら』などの曲を発表。
また、
谷啓のバンド『スーパーマーケット』とも共演。
私生活では
1966年に美容研究家の竹腰美代子と結婚。
愛妻家で知られ、
そこから「ミヨコー」というギャグが生まれたほど。
しかし子宝には恵まれず、
晩年は安田自身が肝臓癌と闘病を余儀なくされるなど試練にも見舞われましたが、
最後まで仲睦まじく添い遂げました。
1996年、急性心筋梗塞のため、死去。64歳没。
(安田伸)

世代は違いますが、まさかYouTubeで拝見できるとは思いませんでした。