Apex product 【 昭和の楽しい時代㉞ 】

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1968年4月、テレビアニメ『#サイボーグ009』放送開始。幼い頃「死の商人」「ベトナム戦争」のワードを知ったのは、この作品を通じてだった。戦争武器の試作品として改造された 年齢も国籍も異なる9人は、生みの親「黒い亡霊」に反旗を翻し、平和のため戦う!

白黒テレビでは「忍者部隊月光」や「まぼろし探偵」、「怪傑ハリマオー」を観ていました。「笛吹童子」も忘れていました。

♥️2023💃7/22 渡辺典子(58歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/22 原辰徳(65歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023/💃7/22 内村光良(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/22 長谷川京子(45歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

高倉健さんは日本の映画界の伝説的な俳優であり、彼の作品は私たちに懐かしさと感慨を与えています。彼の演技は見事であり、彼が演じた各々の役柄は喜劇でも悲劇でも、観客の心を深く打ち動かしました。彼の演技は精巧で、演じた役柄は誰もが忘れられないものとなりました。
高倉健さんの映画作品は多岐にわたり、アクションから悲劇、喜劇から探偵ものまで、どの分野でも自在に演じていました。彼の演技は観客の愛だけでなく、映画界からも高く評価されました。彼の作品は今もなお受け継がれ、日本映画史において不朽の一部となっています。
素晴らしい演技に加えて、高倉健さんの真摯で謙虚な人柄も観客の心を掴みました。彼の演芸への熱意と情熱には敬意を表します。たとえ彼がこの世を去ったとしても、彼の作品と精神は私たちの心に永遠に生き続けるでしょう。
高倉健さんを懐かしみながら、彼の映画への貢献を大切にし、この偉大な俳優を永遠に記憶しましょう。彼の作品は後の世代を引き続き鼓舞し、感動させ続けることでしょう。
高久進さん
(1933年1月11日-2009年7月22日)
脚本家。
福島県河沼郡会津坂下町出身。
福島県立会津高等学校卒業、早稲田大学教育学部卒業。
大映東京撮影所にシナリオ研究生として入るも、
デビュー作は、
新東宝の『九十九本目の生娘』(監督・曲谷守平 主演・菅原文太、1959年)。
高岩肇に師事。
1960年代後半からメインの執筆活動を劇映画からテレビ作品に移し、
アクションドラマ・時代劇・特撮・アニメと
幅広いジャンルの作品にシナリオを数多く残しました。
『Gメン'75』のメインライター。
また、
刑事ドラマや特撮では「戦争の傷痕」をテーマにしたエピソードを多く執筆。
2009年7月22日、急性呼吸不全のため死去。
76歳没。
(高久進)

名犬リンチンチン、 子供向けの西部劇。日本では1956年から放送

秋の動物園まつり
 この写真は約54年前、鹿児島市に所在した鴨池動物園のイベントの模様を撮影したものです。
 
 園内には野外劇場もあって、地元企業の協賛によるイベントも実施された。写真は開園50周年を記念して行われた秋の動物園まつり。看板には協賛企業として藤安醸造、タカラソースの名も見える。
 電車に乗って遊びに行ける動物園は大人気。子どもたちだけでなく、お母さんたちの関心を得るための苦労もよみとれる。
                      (昭和44年の写真提供)
~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、鹿児島市の昭和)

この顔にピントきたら・・・ 3億円事件  1968年発生

沖縄日本返還 昭和47年(1972年)

スーパー玉出は昭和の匂いを今に伝えている
知らんけど
風見章子さん
(1921年7月23日-2016年9月28日)
女優。
群馬県富岡市出身。
身長155cm。
1936年、
芸事が好きな父の勧めでエノケン一座に入団。
1937年に日活のオーディションに合格。
1939年に公開された
内田吐夢監督映画『土』で主役に抜擢。
1940年代後半からは
松竹・新東宝・東映などの映画にも出演し、
1960年代前後からテレビドラマでも活動を開始。
2000年、
『忘れられぬ人々』で第22回ナント三大陸映画祭主演女優賞を受賞。
2010年8月4日、
東京・池袋の新文芸坐で開催された『映画監督内田吐夢没後40年回顧 
「命一コマ」 巨匠・内田吐夢の全貌』のトークショーに出演。
90歳を超えても現役で活動。
1960年代から1970年代にかけては
母親役が多かったために「日本のお母さん」と認知されていました。
趣味は絵手紙。
夫と死別し、8歳年下の妹とマンションに同居。
息子はアメリカで暮らしており、ひ孫もいます。
2016年9月28日、老衰の為、逝去。
95歳没。
(風見章子)
中原ひとみさん
(1936年7月22日-)
女優。
愛称は「バンビ」。
東京市(現東京都台東区)出身。
夫は江原真二郎。
長男は土家歩、長女は土家里織。
共立女子高等学校中退。
東映ニューフェイス第1期生として、東映へ入社。
同期には山本麟一・高田敏江・南原宏治ら。
1954年、
映画『魚河岸の石松 女海賊と戦う』でデビュー。
『純愛物語』で原爆の後遺症で短い生涯を閉じるヒロインを演じ、
1957年のキネマ旬報ベストテン第2位に。
1958年6月25日、
世界三大映画祭の一つ第8回ベルリン国際映画祭に出席のためドイツのベルリンへ出発。
6月27日、映画祭開幕。
最終日の7月8日、
出演作で出品作の『純愛物語』が銀熊賞 (監督賞)を受賞。
審査委員会の長編劇映画部門の委員長は
フランク・キャプラ。
その後、
フランス・イタリア・スイスを経由して、
7月21日、約1か月ぶりに日本に帰ってきました。
当時はまだ海外渡航自由化の前で、
この映画祭出席は受賞と共に貴重なヨーロッパ訪問に。
1960年代初めまで
東映現代劇の看板女優として数々の映画に主演。
1960年、江原と結婚。
1963年以降は活動の場をテレビドラマへ移しました。
1979年頃から
再び映画にも出演し、演劇にも活動の場を広げます。
家族4人で出演した
ライオン歯磨(ホワイト&ホワイトライオン)のCMは、
10年以上にわたって制作され、
夫の江原とはおしどり夫婦として紹介されてきました。
1990年に長男を交通事故で亡くし、
翌年に亡き息子への思いをつづった著書を出版。
趣味はガーデニング・麻雀・書道。
(中原ひとみ)

🌟安達祐実・さん🌟『具が大きいなぁ.具が❗』一躍,話題のCMに成りました。

♥️2023/💃7/23 モーリス・グリーン(49歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

日本専門店会連盟のパレード
 この写真は約69年前、鹿児島市易居町において、日本専門店会連盟全国大会のパレードの模様を撮影したものです。
 日本専門店会連盟主催の第9回全国大会「ぜんもん祭り」が5月7日から11日まで鹿児島市で開催され、全国から200会約4500人の会員が来鹿した。2日目は全国の郷土芸能を集めたパレードを開催、35万人の人出で賑わった。
 写真は別府会の「地獄音頭」である。背後には南日本新聞社ビル。当時は易居町にあり、ラジオ南日本の施設もこのビルに入っていた。
          (昭和29年の写真提供)
~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、鹿児島市の昭和)
浜口庫之助さん
(1917年7月22日-1990年12月2日)
シンガーソングライター。
愛称はハマクラ。
兵庫県神戸市出身。
東京府立第四中学校卒業。
青山学院大学商学部卒業。
パーカッショニストの浜口茂外也は息子。
元女優の渚まゆみは妻。
父は建設会社を経営する実業家で、
家庭環境は非常に裕福でした。
家族の多くが音楽好きで、
浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、
5歳の時には楽譜を読めるように。
小学2年の時に一家は東京へ引っ越し、
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に進学した浜口は
旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)入学を目指し
勉学に励むも受験に失敗し、
1935年、
早稲田大学高等予科(現・早稲田大学高等学院)に入学するも翌年に中退。
1936年、
新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、
ギタリストとして活動。
当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡って
ジャズの修行をすることを夢見ていました。
この夢は翌1937年になって実現しかけましたが、
日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念。
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職するも
社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。
1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学経営学部)に入学。
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口は
ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、
同島のマランへ赴任。
浜口は終戦まで同地に勤務し、
商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して
日本語教育を行う仕事も任されました。
太平洋戦争終結後捕虜となり、
1946年5月に引き揚げ。
東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行いました。
その後灰田勝彦の誘いを受けて
灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなったり、
自らも
「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して
音楽活動を続けました。
1950年結婚、一男一女をもうけました。
長男はスタジオミュージシャンで、
ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也。
「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として
1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場。
1957年、
新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が
「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、
外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、
バンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家・作曲家へ転向。
1959年、
「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、
作詞家・作曲家として頭角を現すように。
翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は
社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで
数々のヒット曲を生み出すように。
また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演。
1960年代には数々のヒット曲を出し、
ヒットメーカーと呼ばれるように。
1963年、妻、邦子と死別。
この年公開された映画「拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎監督)には、
容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演。
1965年、
「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘と
マヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど
自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、
「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞(第8回)・作曲賞を受賞。
以降、
1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けました。
鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、
今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多数。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。
一女をもうけました。
晩年の1987年には、
島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒット。
1989年、
テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、
1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には
「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退。
1990年12月2日、
喉頭癌のため、東京都豊島区の癌研究会附属病院にて死去、73歳没。
(浜口庫之助)

私達インターネットラジオ局の歌手仲間で行なう第4回歌謡祭のポスターが出来ました🤗💯🎤🎤🎤

2023/07/23日
風見章子さん(1921年7月23日~2016年9月28日)の生まれた日です。『おやじ太鼓』『ケンちゃんシリーズ』『刑事くん』『特捜最前線』『パラマウントベッドCM』など、齢をとっても一貫してチャーミングで上品なおばあさん役として活躍しました。
女優生活のスタートはエノケン一座でした。1937年に、日活のオーディションに合格後は映画に出演。日活、松竹、新東宝などの映画を経験し、1970年代以降はテレビドラマでも活躍しました。
有名な『おやじ太鼓』が47歳のときでしたが、この時点で1899年(つまり19世紀)生まれの進藤英太郎と22歳差あっても夫婦役で、一方11歳しか違わない園井啓介が長男役ですから、老け役を早いうちから演じていました。
『刑事くん』では、殉職した刑事の息子(桜木健一)が刑事になり、第1部のオープニングでは、桜木健一が「母さん!辞令だ!刑事になったよ!」と叫び、第2部からは「母さん、行って来ます!」と話しかけるところからドラマが始まりました。
『特捜最前線』では、おやじさんこと船村刑事(大滝秀治)の妻・加代役でセミレギュラー出演していました。
享年95歳でしたが、『おやじ太鼓』の47歳から、ほぼ人生の半分は、お母さん、おばあちゃん役を演じてきました。
石原まき子さん
(1933年7月23日-)
芸能プロモーター。
石原裕次郎の未亡人で、
石原プロモーションの代表取締役会長・石原裕次郎記念館元館長。
愛称は「マコ」。
結婚前は北原 三枝の芸名で女優として活動したスターでした。
東京都目黒区出身。
目黒区立第二中学校卒業後、
NDT(日劇ダンシングチーム)に5期生として入団。
1952年に退団後、
松竹のニューフェイスに合格して入社。
『カルメン純情す』で本格的デビュー。
1954年に、
活動を再開した日活に引き抜かれる形で移籍。
女優陣のエースとして活躍。
『狂った果実』(1956年)で後に結婚する一歳年下の石原裕次郎と初共演後、
日活のドル箱コンビとして23作もの共演作が製作。
1960年に裕次郎と共演した『闘牛に賭ける男』への出演を最後に裕次郎と結婚し、
女優業を引退。
スター同士の結婚は日活の強い反対を受けたと言われます。
引退後は妻である「石原まき子」として内助の功に徹し、
石原プロの経営に関わりました。
裕次郎の死後は「代表取締役」の肩書で
石原プロと2代目社長の渡哲也を支え続けてきました。
2011年3月28日、
石原プロの経営陣総入れ替えにおいて正式に
「代表取締役会長」の肩書に。
この時に渡が2代目社長を退任し社長の座が空きましたが、
社長就任は固辞。
その後も渡らと共に石原プロを経営していましたが、
自身の高齢により実務が困難になってきたことから、
所属俳優・スタッフと相談し石原プロの閉鎖を決断。
2020年7月17日に、
「2021年1月16日をもって、
株式会社石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」
との名目で芸能事務所としての業務を終了することを、
公式サイトなどで発表。
その報告でまき子は、裕次郎の遺言が
「俺が死んだら即会社をたたみなさい」だったこと、
所属俳優・スタッフの会社に対する愛情の強さを感じたことで
その遺言を言い出せずに今日まで来たことを明かしています。
石原プロの閉鎖後は、
裕次郎の遺品管理を行う新組織「一般社団法人ISHIHARA」および、
作品の版権を管理する「石原音楽出版社」の名誉会長に就任。
また、自身の甥である邦彦と養子縁組し、
石原邦彦として代表に就任させました。
(石原まき子)
朝丘雪路さん
(1935年7月23日-2018年4月27日)
女優、タレント、舞踊家、歌手、司会者。
東京市京橋区(現・東京都中央区)築地生まれ。
元宝塚歌劇団月組娘役。
父は日本画家の伊東深水。
夫は津川雅彦、娘は真由子。
義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。
日舞の深水流家元として、
深水美智雪の名を持ちます。
遠戚に宮川大輔。
料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘として誕生。
芸事を好んだ母の勧めで、
3歳より日本舞踊を花柳三之輔に師事。
妾腹(非嫡出子)ではありますが父の伊東深水に溺愛され育ちました。
泰明小学校へは養育係とともに人力車で通学しており、
養育係は登校から下校までの間、
彼女を車屋と学校で待っていました。
深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていました。
それを見聞きしていた友人、小林一三に
「このような浮世離れした生活をさせていては、
娘さんがだめになる」
と意見されたこともあり、
深水は渋々ながらも、
朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承。
山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。
1952年同校を卒業し、宝塚歌劇団に入団。
宝塚入団時の成績は31人中8位。
同期の39期生には
女優の真帆志ぶき(元雪組男役トップスター)、
東千代之介夫人の千之赫子。
月組に在籍し娘役として活動。 
1955年8月31日に宝塚歌劇団を退団。
最終出演公演の演目は月組公演『黄色いマフラー』。
1966年4月から『11PM』の金曜日のホステスを16年間務め、
大橋巨泉との名コンビで人気を集めました。
1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうけます。
1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取ました)。
1973年津川雅彦と再婚。
1974年3月真由子を出産。
お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターと常識外れな天然発言が人気を集め、
バラエティ番組に多数出演。
後に深水流家元として、青二塾で日舞の講師を勤めました。
1981年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
2003年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
2011年、旭日小綬章受章。
2014年、
古巣・宝塚歌劇団の100周年記念で創立された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入り。
これと前後して4月9日から13日まで
夫・津川雅彦と娘・真由子との家族共演で行われた
舞台『花や…蝶や…』に出演しましたが、
これを最後に病気療養生活に入ります。
2018年4月27日、
アルツハイマー型認知症のため、
東京都東京23区の病院にて82歳で死去。
(朝丘雪路)
藤岡重慶さん
(1933年11月19日-1991年7月23日)
俳優、声優。
身長168cm。
兵庫県神戸市出身。
旧制姫路中学(現 兵庫県立姫路西高等学校)を経て、
弁護士を目指し、早稲田大学法学部に進みます。
在学中の1955年、
第七期生として、劇団俳優座の養成所に入りました。
同期には田中邦衛、露口茂、山本學、井川比佐志ら。
1958年に劇団青年座に参加。
創作演劇の舞台に立ちながら、
同年NHKで、
放送をスタートした長寿ドラマ『事件記者』に遠藤刑事役で出演。
1962年には食うために日活と本数契約を結んで、
年12・13本コンスタントに映画にも出演。
敵役として石原裕次郎や渡哲也らと多く共演、
強面の悪役俳優として頭角を現しました。
66年からはフリーの立場で
東映を中心に各社のスクリーンに登場。
千葉真一主演「やくざ刑事シリーズ」での上司役、
テレビドラマでもコンスタントに続け、
時代劇や刑事ドラマで
ヤクザの親分、悪徳警官、凄腕用心棒などさまざまな悪役を務めました。
レギュラーの悪役では
1973年より関西テレビで制作されたドラマ『どてらい男』における、
主演の西郷輝彦をいじめ抜く坂田軍曹役が知られます。
後年、同作品の舞台公演に藤岡が出演した際は、
悪役ながら拍手喝采が巻き起こったといいます。
西郷とはCM共演も。
その一方、
子供向けの特撮作品などでは本来の人柄を活かして
頼もしい善人役を演じる機会も多数。
声優としての活躍も著名で、
アニメ『あしたのジョー』での丹下段平役は、
代表作として今なお挙げられます。
晩年はバラエティ番組にも出演。
「コワモテだけど実はいい人」という、
バラエティ的役柄以外にも丹下段平絡みで笑いを取り、
本人が自らコスプレをして丹下段平を演じたことも。
藤岡自身の積み上げてきたキャリアも余すところなく生かされ、
若年層にもその名が広まりました。
1991年5月の大阪・新歌舞伎座の「五木ひろし公演」出演中に体調不良を訴え、
神奈川県相模原市の北里大学東病院に入院。
同年7月23日午前8時6分、脳内出血のため死去(57歳没)。
(藤岡重慶)
古関金子さん
(1912年3月6日-1980年7月23日)
声楽家、詩人。
旧姓、内山。
夫は、作曲家の古関裕而。
内山安蔵・みつの六女として、
愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)に生誕。
家族は、
長兄と女性10人(うち、長女・次女・三女・八女は早世)。
父・安蔵は、
豊橋市に駐屯していた陸軍第十五師団に蹄鉄・馬具・蹄油などの物資を納入する
「内山安蔵商店」を営んでいましたが、
金子が12歳の時(1924年(大正13年)10月3日)に死去。
その後は母親が家業を引き継ぎ、子育てをしました。
金子は、幼い頃からお転婆で、
音楽と文学が好きでオペラ歌手を目指していたといいます。
長兄の内山勝英は、満州に渡り、
その地で事業を起こしていました。
金子は、
1928年(昭和3年)に豊橋高等女学校(現・豊橋東高等学校)を卒業後、
「女人芸術」に参加、中部地方委員に。
満州の兄のところにも遊びに行きましたが、
帰国の際に乗船した客船・ばいかる丸が座礁し、沈没。
金子は一時、死も覚悟しました。
1930年(昭和5年)1月、
金子は「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞。」という新聞記事を読み、
素晴らしい人がいるものだと感心し、
持ち前の行動力から、
すぐにその青年古関裕而に手紙を書き、
ふたりの遠距離恋愛が始まります。
古関裕而は、
自分と金子の関係を作曲家ローベルト・シューマンとその妻クララになぞらえて、
金子を自分の音楽活動のパートナーとして共に生きる夢を描いていました。
わずか3か月の恋愛期間に、
金子の詩「きみ恋し」に曲をつけたり、
オーケストラ13曲、歌謡曲10曲、室内楽3曲、計26曲を創作、
「そのすべてを『私のクララ』であるあなたに捧げます」
とラブレターの中にも書いています。
同じ時期に、
金子は家計を助けるために、知人の紹介で、
名古屋の雑誌発行人のもとで、
雑誌の編集の手伝いを住み込みで始め、
同時に声楽教師について、歌の勉強を始めています。
古関は、その年の6月に、
金子に会いに豊橋まで来訪、
金子は古関について福島に行き、そのまま結婚。
その秋には日本コロムビアの招きで2人は上京。
古関裕而は日本コロムビアの専属作曲家となり、
2人は杉並町阿佐谷の金子の長姉・富子の家に寄寓。
2人は翌1931年(昭和6年)2月9日に入籍し、
同年5月19日に結婚式を挙げました。
1931年4月、
金子は帝国音楽学校声楽部本科に編入、
そこでベルトラメリ能子に師事し、
本格的に声楽の勉強を始めます。
この頃、
姉の家から帝国音楽学校にほど近い世田ヶ谷町代田に2人で転居。
1931年12月の長女の出産を機に学校を中退、
1934年(昭和9年)に二女を出産したのちに
声楽の勉強を再開。
戦前のオペラ、オペレッタにも出演しましたが、
戦争激化で出演機会も減少。
1945年(昭和20年)、
東京空襲が激しくなると、
2人の娘を6月に福島市に、
7月に福島県信夫郡飯坂町の知人宅の二階堂魚店に疎開させました。
金子は1945年7月中旬に腸チフスに罹り、
8月10日まで福島市内の病院に入院。
戦後しばらくは裕而と2人の娘とともに
疎開先である飯坂町の二階堂魚店に寄寓していましたが、
1945年11月に代田の自宅に戻りました。
翌1946年(昭和21年)7月10日に
長男・正裕(音楽家)を出産。
1949年から1950年にわたり放送された
古関作曲の3篇の放送オペラ
『朱金昭』(チュウ・チン・チョウ)、
『トウランドット』、
『チガニの星』(東郷静男の台本、近江浩一の演出、共演者に藤山一郎、山口淑子、栗本正)などに出演。
1958年、「婦人文芸」に参加、のちに委員。
詩や随筆を寄稿。
1961年(昭和36年)、
古関と共にヨーロッパ、中近東へ海外旅行。
1965年(昭和40年)、
詩誌『あいなめ』の同人となり、
それまでの作品をあいなめ会からまとめて刊行するきっかけに。
また、株取引にも長け、
婦人トレーダーとして証券業界に名が知られていました。
1971年(昭和46年)に
油絵の裸婦像『揺炎』が新槐樹社展(東京都美術館)に入選。
1976年(昭和51年)に乳がんが発見され、
日本赤十字社医療センター、東京大学医学部附属病院、国立がんセンターに入院。
がんが全身に転移したため、
1980年(昭和55年)7月23日に68歳で死去。
(古関金子)

昔はドラマもお菓子とコラボしてました

(ハイそれまでョ)        

貴方だけが生き甲斐なの
お願い、お願い、捨てないで
てなこと言われて、その気になって
三日と明けずにキャバレーへ
金のなる木があるじゃなし、質屋通いは序の口で
退職金まで前借りし
貢いだ挙げ句が、ハイそれまでョ
ミッキー・カーチスさん
(1938年7月23日-)
ミュージシャン、ロック歌手、音楽プロデューサー、ハーモニカ奏者、俳優。
身長167cm。
東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)生まれ。
植木等の死去後、
所属しているワタナベエンターテインメントでは最古参の部類に入るタレント。
出生名はマイケル・ブライアン・カーチス(Michael Brian Curtis)、
帰化後の本名は加千須 ブライアン、
作詞家としては川路美樹、
レーサーとしてはブライアン・カーチス、
落語家としてはミッキー亭カーチス、
華道家としては加千須岩水。
主演作品である『ロボジー』出演時に使用した五十嵐信次郎(いがらし しんじろう)は、
出生名が英語であり、
また、
ハーフであることから戦時中に非国民とされ、
いじめを受け、
日本語の名前と日本人に憧れて子供の頃に作ったもの。
キャロル、ガロ、荒木一郎をプロデュースし、
所属事務所によれば「5か国語が堪能」で、
趣味もハーモニカ、宇宙研究、ピラミッド・パワー研究と多彩。
日英混血のバーナード三浦と、
日英混血の百合子(リリー)・ブライアンの長男として生まれ、
生後まもなく
兵庫県神戸市の父方の祖母三浦レオニー
(日本におけるイギリス刺繍の第一人者。
昭和48年度神戸市文化賞受賞)に預けられます。
父方の祖父の三浦昇三は
鉄道省国際観光局による観光通訳案内業試験の第1回合格者で、
英作家サマセット・モーム、
英俳優ノエル・カワード、のちのオランダ女王ベアトリックス王女、
ベルギー国王ボードゥアン1世、
元米大統領夫人エレノア・ルーズベルトらの通訳を務めました。
1942年、
第二次世界大戦中に父や母や姉とともに中華民国の上海に渡り、共同租界で生活。
戦時中、実父が失踪してしまったため、
イギリス国籍の義父を迎えました。
1945年秋に母や姉や義父とともに日本へ帰国、
東京荻窪の母方の親戚宅に身を寄せます。
1946年、東京千歳烏山に転居。
以後、長く千歳烏山に住みました。
1950年、和光学園小学校の5年生に編入学。
和光高等学校在学中、1955年頃、
ティーブ・釜萢が校長を務めた「日本ジャズ学校」に通い、
1958年、
成城大学文芸学部文芸学科映画科に入学するも、のち中退。
戦後は
日本の占領に当たった連合国の一員である
アメリカ軍をはじめとした連合国軍兵士のキャンプ廻りや、
朝鮮戦争に出征するイギリス軍などの国連軍兵士の慰問を行いました。
その後、
徐々に音楽活動が認められロカビリー歌手として日劇ウェスタンカーニバルに出演。
当時は平尾昌晃、山下敬二郎と共に
「ロカビリー3人男」として高い人気を誇ります。
1960年には第11回NHK紅白歌合戦に出場。
この頃より歌手としての活動以外に、
俳優、タレントとしても活躍しており、
その頃は共演者でもあった雪村いづみとのロマンスなども話題となり
婚約まで交わしたのちに破局。
1962年に『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ)の初代司会者として共演した縁で
芳村真理と結婚、1児をもうけたものの、
1964年にわずか2年弱で離婚。
デビュー当時に担当していた
バック・バンドはロカビリーバンドのクレイジー・ウエスト(メンバーに加藤茶も在籍)でありましたが、
1963年頃にはバック・バンドを再編し
「ミッキーカーティスとシティ・クロウズ」を結成し、
ラウンジ・ジャズなどを演奏しアルバム・レコードを発表。
1966年には
ヴァンヂャケット提供のテレビ音楽番組「VAN MUSIC BREAK」とのタイアップで
メンバーチェンジとバンド名を「バンガーズ」に変更し
東アジアを渡辺貞夫らと演奏旅行する様子が放送され、
その後香港、バンコクにて長期滞在の演奏活動を行い、
1967年に一時帰国後メンバーを刷新し
「ミッキーカーチス&サムライ(当初はミッキー・カーチスとザ・サムライズ)」を結成し、
レコード用の録音を終えるとただちにヨーロッパへ旅立ち音楽ツアーや長期公演で、
ライブ活動のほか、
西ドイツで二枚組アルバム・レコードを製作、
イタリア、イギリスでシングル・レコードを発表し
1970年に帰国後アルバム収録と短い期間公演活動を行い解散。
村井邦彦らとマッシュルーム・レコード創立に参画し
音楽プロデューサーとして、
合歓ポピュラ-フェスティバルのイベントで自作の曲『地球最後の日』が作曲賞を受賞。
ガロや小坂忠、矢沢永吉のいたキャロル等を担当。
また、
1973年には左とん平の楽曲『とん平のヘイ・ユウ・ブルース』をプロデュース。
歌手活動にとどまらず、
俳優として、
『野火』、『独立愚連隊』、『スワロウテイル』、『お墓がない!』、『死に花』など、
多数の映画に出演。
殊に岡本喜八の監督作品では常連俳優でした。
また、
立川流落語会家元・立川談志との出会いにより、
落語家「ミッキー亭カーチス」として
「立川一門会」Bコースでは1998年に真打昇進。
元々、学生時代は、
学校をサボって寄席通いするほど落語好きで、
単位が足りなくなったときも一席やって教師から単位を貰えるほどだったといいます。
幅広いジャンルで活躍中で、
「いつの時代でも若者の味方」というイメージが強く、
『スワロウテイル』などで、それを不動のものに。
2013年10月には、Dステ14th「十二夜」に、
サー・トービー・ベルチ役で出演。
趣味は多く、
射撃、モータースポーツ、オートバイ、宇宙研究から彫金、最近は養蜂を手掛けるなど幅広いです。
1960年代には
元祖「タレントレーサー」としていすゞ自動車とワークス契約を結んだこともあり、
1980年代には東京都目黒区にオートバイショップ「ブライアン・カーチス」を開いていたことも。
(ミッキー・カーチス)
松方弘樹さん
(1942年7月23日-2017年1月21日)
俳優、タレント、司会者、演歌歌手、映画監督、映画プロデューサー。
身長173cm。
東京府東京市王子区(現・東京都北区)赤羽台出身。
明治大学付属中野高等学校・定時制卒業。
元々は歌手志望で、
作曲家の上原げんとの下で五木ひろしらと席を並べて歌を学んでいましたが、
五木の歌声を聞いているうちに自信をなくし、
父と同じ俳優の道(後にテレビ時代劇『名奉行遠山の金さん』で
主題歌を歌唱(吉幾三 - 作詞作曲『華のうちに』))に。
17歳で『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』(1960年、東映)で主演デビュー。
同学年の北大路欣也とはライバル関係で、
松方は東映専属だった北大路とは違い、
企画制作担当重役だった岡田茂の個人預かり(フリー)でした。
映画『893愚連隊』の主演、
「昭和残侠伝シリーズ」の助演、
『人形佐七捕物帳』(NHK、1965年)の主演など、
主に時代劇やヤクザ映画に出演。
中でも佐七は松方の当たり役のひとつになり、
1977年に放送された『人形佐七捕物帳』(テレビ朝日、東映)で再び佐七を演じています。
1969年(昭和44年)7月、
ライバル北大路に差を付けられ不遇をかこっていた中、
大映の看板スターとして勝新太郎と人気を二分した市川雷蔵が37歳で早世。
この事態を受け、岡田茂から
「大映へ行け。
今は勝新しかおらん。
大映ならテッペンを取れるで」
と大映へレンタル移籍となり、
雷蔵の穴埋めを期待され、
その当たり役である『眠狂四郎』『若親分』のリメイク作品などで主役を務めました。
1970年(昭和45年)春、
ダイニチ映配設立反対を表明したことで
大映社長の永田雅一の逆鱗に触れ、
半年間、映画作品への出演を認められず。
大映の倒産直前の1971年(昭和46年)3月、
『日本やくざ伝 総長への道』で東映へ復帰し、
1972年の四カ国合作映画『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、
1973年(昭和48年)の『仁義なき戦いシリーズ』などで敵役・悪役で芸域の幅を広げました。
「仁義なき戦いシリーズ五部作」では、
三役を演じ分ける怪演を見せました。
1974年(昭和49年)NHK大河ドラマ『勝海舟』で
主演の渡哲也が病気降板となり、代役に抜擢。
この作品で勝の愛人、
お糸役で共演した仁科明子と懇意になり、
翌年のテレビ時代劇『けんか安兵衛』(関西テレビ)では松方の指名で再び共演。
これをきっかけに不倫関係となり、マスメディアを賑わせました。
同年の映画『脱獄広島殺人囚』は『暴動島根刑務所』『強盗放火殺人囚』と合わせて
「世界最強の脱獄アクター」「松方弘樹東映脱獄三部作」と評されています。
松方が連発する「キツーイ一発」というフレーズは1975年に流行語になり、
瞬く間にスポーツ新聞、男性女性週刊誌の見出しを席巻。
ここから1970年代中盤の東映実録ヤクザ路線作品に数多く出演。
『県警対組織暴力』や『暴力金脈』『実録外伝 大阪電撃作戦』『沖縄やくざ戦争』や、
現在進行中の抗争事件を映画化し、
映画の製作が原因でモデルとなった組長が殺害された『北陸代理戦争』などで強烈な個性を発揮し、
『修羅の群れ』では主演を務めました。
1978年(昭和53年)の『柳生一族の陰謀』で時代劇映画に復帰。
それ以降は仁侠映画と共に活動の二分となりました。
1979年(昭和54年)、
前年に最初の妻との離婚が成立したことを受け、
関係を続けていた仁科明子と正式に結婚。
結婚を機に仁科は女優を引退。
松方はそれまでの「艶福家」というイメージに、
「不倫」「妻子を捨て愛人に走った」といったマイナスイメージが加わったことで、
一時バッシングを受け、仕事が激減。
この時には父・近衛十四郎が経営していた釣り堀店の姉妹店が滋賀県にできたことから、
店番に明け暮れる日々も経験。
同じ頃、
先輩俳優で若手の頃から親交のあった里見浩太朗が
テレビ時代劇『大江戸捜査網』の出演を降板するにあたり、
「松方弘樹を是非使ってやってほしい」と製作陣に掛け合った事を切っ掛けに出演が決まり、
第306話「悪を斬る料理人 華麗に参上」から第536話(最終話)「隠密同心 暁に去る」まで、
シリーズ3代目主演俳優として4年半にわたり
番組を支えると共に、
その後の活躍の礎としました。
その後はテレビ作品にも本格復帰し、
現代劇作品と並行して、
『名奉行 遠山の金さん』シリーズなどの時代劇作品にも積極的に出演。
三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じたほか
真田幸村を映画・テレビドラマで計2度演じました。
2007年にはテレビ朝日・東映製作の連続テレビ時代劇最終作品として
企画された『素浪人 月影兵庫』に主演。
10年ぶりとなる時代劇主演作品で、
父・近衛の当たり役を親子2代で演じました。
俳優業の一方で、
1985年(昭和60年)に始まるバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』では
それまでのイメージを覆し、
冗談好きで笑い上戸な一面をみせ、
以後バラエティ番組にも顔を出すように。
1991年(平成3年)、
順調な俳優活動のさなか、妻・仁科の子宮頸がんが発覚。
「闘病を支える夫」としてマスコミに取り上げられる事も少なくなかったですが、
実はその陰で京都祇園の高級クラブで見初めた
30歳年下のホステス(当時19歳)との不倫関係をスタート。
1995年(平成7年)には「山本万里子」の芸名で、
当時出演中だったドラマ『HOTEL』第4シリーズで
女優デビューさせています(のちに引退)。
1998年(平成10年)、
仁科が二人の関係を女性週刊誌に暴露。
翌年1999年(平成11年)1月に離婚が成立。
その後は松方の死去まで事実婚の関係が続きました。
また離婚後の2001年(平成13年)には
自身の個人事務所「松プロダクション」が
映像作品制作、プロデュース進出の失敗から多額の負債を抱え倒産し、
大手事務所バーニングプロダクションに一時預かりの形で所属。
2011年(平成23年)8月に独立し、
個人事務所「MARE」を設立。
2001年以降は
通販事業や芸能マネジメント、コンサートプロモーションなどを手掛ける「株式会社夢グループ」と提携。
病の妻を裏切っての不倫、離婚の代償は大きく、
テレビ出演本数が激減する一方で、
映画作品、オリジナルビデオなどの映像作品出演と並行して、
同社関連の歌謡ショー、同社子会社「ユーコー」の広告や、
舞台公演などが活動の中心となりました。
2016年(平成28年)3月に入り、
頭痛、手足のしびれなど体調不良を訴え始め、
都内の大学病院を受診し、入院。
同月23日、
「脳腫瘍の疑いがあり長期療養を要するため出演予定だった3月1日から6月8日までの夢グループ主催による歌謡ショー『夢コンサート』を降板、
6月からの舞台『遠山の金さんと女ねずみ』も公演自体を中止する」と発表。
検査の結果「脳リンパ腫」との確定診断を受けたことが公表。
放射線治療、抗がん剤の投薬治療を行うも、
治療のさなか、脳梗塞を併発し、急激に体力も衰えていきました。
2017年(平成29年)1月21日午前11時26分、
事実婚関係にあった元女優と3人の事務所関係者に看取られ、
脳リンパ腫のために東京都内の病院にて死去。
74歳(享年75歳)没。
(松方弘樹)
女体盛り
北陸の某温泉地でやっていましたね。山本晋也監督が深夜番組トゥナイトでよくレポートしていました。
そして「ほとんど病気!」って言っていましたね。
※画像は当時のものではありません。
クレクレタコラ
毎日放映する5分番組だったのですね。

松田優作さんと、舘ひろしの共演した映画です✨ 

『ポインターの秘密』1967 ウルトラセブン
『ポインター』は、中古の1957年式クライスラー・インペリアルがベースで、もう廃車にしようかという車を劇用車にしたものでした。価格は破格の5万円。
アマギ隊員の古谷さんによると、乗るとガソリン臭かったそうです。なんか危ないですね。
当時は、まだ国産メーカーとのタイアップとかなかったんですね。😀
アニメ『巨人の星』の中で、飛雄馬が初恋のような体験をする。相手はアイドル『オーロラ三人娘』のセンターを務める橘ルミだ。
結局、フライデーか文春砲のようなマスコミに騒がれて、飛雄馬を守る為に、ルミの方から去っていく。
マスコミに追われ、足を捻挫しても、添木をしてまでステージに立つルミを見て、プロの厳しさを思い出す飛雄馬。
この歌が劇中歌にしては、昭和チックで良かった。