Apex product 【 昭和の楽しい時代㊻ 】

サザンオールスターズ、
10年ぶり茅ヶ崎凱旋へ…
地元熱気「気づいたら涙」「思い通じた」
2023/09/13 読売新聞オンライン
デビュー45周年を迎えた
「サザンオールスターズ」が今月27日から
神奈川県茅ヶ崎市で 凱旋ライブを開催する。
10年ぶり3回目の「里帰り」にファンや市民は
歓喜し、「地元」は熱気に包まれている。
サザンがデビューしたのは1978年。その年に
リリースした「勝手にシンドバッド」は
「砂まじりの茅ヶ崎」のフレーズで始まる。
作詞・作曲したリーダーの桑田佳祐さん(67)
は茅ヶ崎市出身で、手がける楽曲の多くに湘南
ゆかりの歌詞が登場する。同市の「サザン愛」も
深く、JR東海道線茅ヶ崎駅の発車メロディーは
「希望の 轍わだち 」街中では、駅前の「サザン
通り商店街」、マリンスポーツが盛んな「サザン
ビーチちがさき」などサザンを冠した名称が多い。
サザンは2000年、13年にも地元ライブを開催
しており、今回が3回目。デビューから45周年を
目前にした今年6月24日深夜、桑田さんが自身の
ラジオ番組でライブ開催を発表した。公式サイト
で「自分の『ふるさと』に対しての感謝や愛郷の
念がより一層深まっているように感じております。
また、近いうちに笑顔でお逢あ いしましょう!」
とメッセージを投稿している。
ライブは今月27、28、30日と10月1日の4日間
茅ヶ崎市中海岸の「茅ヶ崎公園野球場」で
開催される。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20230912-OYT1T50094/
昭和49年公開の映画「キャロル」のポスターです。
当時僕は小3、高1の兄が友達と観に行った時に買ってきた物です。
約50年前のポスター、一生の宝物です!

現在も煙突掃除人居るのかなぁ⁉️

上戸 彩さん
(女優、歌手)
1985年9月14日生まれ、38歳。
東京都練馬区光が丘出身。
97年、小学6年生で「全日本国民的美少女コンテスト」で審査員特別賞に輝き、芸能界入り。その後、CMやテレビで人気を博す。特に、2001年の『3年B組金八先生』で性同一性障害の生徒役で大きな反響を呼んだ。映画では『あずみ』、『テルマエ・ロマエ』など。また、話題のドラマ『半沢直樹』『昼顔~平日午後3時の恋人たち』でも女性の心理を見事に演じた。NHK大河ドラマ『義経』などに出演。
大塚製薬 オロナミンC(2004年)
上戸彩当時19歳。

♥️2023💃9/14 中村獅童(51歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃9/14 安達祐実(42歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

島木譲二さん
(1944年9月13日-2016年12月16日)
お笑い芸人、プロボクサー、俳優、役者。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。
興國商業高等学校卒業。
身長173cm。
芸名は
石原裕次郎が演じた映画『俺は待ってるぜ』の
元ボクサーの「島木譲次」役に由来。
兵庫県尼崎市に生誕。
小学校の時に見た映画『俺は待ってるぜ』で
石原裕次郎が演じた元プロボクサーのレストラン店主である島木譲次役に憧れ、
中学生の頃から本名と役名をもじって
「ワシは島木譲二や!」と勝手に名乗っていたといいます。
また、
長嶋茂雄や中西太にも憧れて野球に打ち込み、
強豪校である興國商業高等学校(現:興國高等学校)に進学するも、
2年生の時に肩を壊して甲子園への道は断念。
失意の中、
次はボクシングの道に活路を見出そうと決め、
ライセンスを取得して大阪新和所属のミドル級プロボクサーとしてデビュー。
西日本新人王を獲得するなど活躍しましたが、
目に異変を感じて治療を受けたところ、
「失明の危険がある」と診断されて引退するなど、
身体の怪我に悩まされる青年期を送りました。
経済的には警備員として生計を立て、
大阪府吹田市にあった
MBS千里丘放送センター(2007年閉鎖)の警備員(守衛)を務めていました。
高所から転落して足を骨折した際、
リハビリの面倒を見てもらっていた殺陣師の紹介で時代劇の切られ役の仕事を貰い、
その縁から吉本興業の地方巡業に呼ばれたりもしました。
1980年、
芸人を志望していることを知った友人の間寛平から紹介され、
吉本興業から島木譲二の芸名で正式デビューし、
吉本新喜劇に入団。
芸人としては36歳の遅咲きであり、
与えられる役割も見た目から悪役ばかりでしたが、
「一番のワルになったる」と奮起して役柄をこなしていました。
42歳の時に
台本の「ゴリラみたいに」という指示からアドリブで披露した
胸板を高速で叩き続けるネタが話題を呼び、
後に大阪名物「パチパチパンチ」の名前で持ちネタに。
派生芸として
頭を灰皿で叩く「ポコポコヘッド」、
一斗缶で頭をぶつける「カンカンヘッド」
などを次々と編み出し、
吉本における肉体派芸の走りに。
特に危険性の高い「カンカンヘッド」は
「男のロマン」と称されています。
1989年、
映画『ブラック・レイン』に役者として出演した際には、
監督のリドリー・スコットに
パチパチパンチを披露して「ナイスボーイ!」と賞賛されたといいます。
2008年、
自身のネタ名から名付けられたプロデュース店として
「焼肉パチパチパンチ島木譲二」などがオープン。
最後の仕事は2010年12月26日、
大阪・なんばグランド花月の吉本新喜劇公演の出演。
2011年に入って体調不良を訴えたため、
大阪市内の病院に通院治療を受けていました。
早期回復のため、
舞台などの芸能活動を休止して自宅治療に専念するも、
2016年12月16日午前9時6分に入院先の大阪市内の病院で脳溢血によって死去。
72歳没。
(島木譲二)
まりちゃん。どれだけ人気があったか?
現代の人たちには想像も出来ないだろうな。

♥️2023💃9/14 上戸彩(38歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

正義超人に属する超人たち
   
正義超人
6/95人です。
   
    
ウルフマン
    
    
プロフィール
      
・シングルマッチ勝率
   0.400 (全5試合 2勝3敗  0引分け0無効試合)
・タッグマッチ勝率
   0.000 (全1試合 0勝1敗  0引分け0無効試合)
ジャンル:正義超人
出身:日本
超人強度:80万パワー
必殺技:合掌ひねり、
                不知火・雲竜投げ、張り手
身長/体重:190cm/102kg
ちばあきおさん
(1943年1月29日-1984年9月13日)
漫画家。
満州の奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)出身。
4人兄弟の三男で、
長兄は漫画家のちばてつや、
次兄は千葉プロダクション社長の千葉研作(元漫画家)、
弟は漫画原作者の七三太朗。
少年時代は手先が器用でラジオの修理なども出来たほど。
高校は夜間学校で、
昼間は玩具製造工場に勤めていましたが、
身体を壊し退社。
療養中にちばてつやのアシスタントとして漫画界に携わります。
ちばてつやのアシスタントをする中、
1967年『なかよし』(講談社)掲載の『サブとチビ』でデビュー。
代表作は
『キャプテン』、『プレイボール』など。
ひたむきで健全な少年たちを明朗に描いた作品で人気を得ました。
躁鬱病を患った後に、1984年9月13日、
仕事場2階にて首を吊り自殺。
41歳没。
絶筆となった『チャンプ』の最終回(第8話)は、
チーフアシスタントであった高橋広が、
ちばあきおの下絵をもとに作品として仕上げ掲載。
21世紀に入ってからも
『プレイボール』がアニメ化されるなど、
根強く評価されています。
(ちばあきお)

永遠の50代ですね。

真田広之さんの若い頃

1985年今から38年前、阪神タイガースがリーグ優勝。21年ぶりの快挙に当時の虎ファンは大興奮。道頓堀はパニック状態となりました。
 その熱狂の被害にあったのがケンタッキー
道頓堀店に設置されていたカーネル・サンダース像。この年に三冠王を獲得したランディ・バース選手に似ていたことから、ファンに担がれ、道頓堀川に投げ込まれました。
 その後、阪神はリーグ最下位が相次ぐなど暗黒時代へ。ファンの間では“カーネルサンダースの呪い”ではないかという噂も。その後、2009年、大阪市が行っていた道頓堀川の調査で発見。24年ぶりに引き上げられました。
 「びっくりしましたね。やっぱりおったんですね。あそこに」
 「きれいに洗ってあげてたら、呪いは解けるのかなと」(笑)
阪神が十八年ぶりの優勝だそうでおめでとうございます。野球見ないんですがおじさんが心配です。
スーパーJOCKEY
生着替えからの熱湯コマーシャル
赤塚不二夫さん
(1935年9月14日-2008年8月2日)
漫画家、タレント、俳優。
満洲国熱河省出身。
フジオ・プロダクション創設者。
小学六年生の時、
手塚治虫の『ロストワールド』に大いなる影響を受け、漫画家を志しますを
上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、
つげ義春の推薦で曙出版から上梓した貸本漫画『嵐をこえて』で
1956年(昭和31年)にデビュー。
その後、
赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、
トキワ荘に入居。
以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、
1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家に。
1967年(昭和42年)に
代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、
その後の
『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった
一連のヒット作や長期連載作品等により
「ギャグ漫画の王様」と謳われ、
戦後ギャグ漫画史の礎を築きました。
(赤塚不二夫)
昭和時代は飛行機機内で喫煙席もありましたね!
今じゃ考えられない事です。
私の居る沖縄から石垣島へ飛行していた南西航空では
着陸時に必ず拍手する風習?みたいな事がありました。無事現地に着いたという安心の表しかもしれません。

♥️2023💃9/15 竹下景子(70歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃9/15 藤谷美紀(50歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

バッファローマン
   
   
プロフィール
     
・シングルマッチ勝率
  0.333 (全6試合 2勝4敗  0引分け0無効試合)
・タッグマッチ勝率
  0.333 (全6試合 2勝4敗  0引分け0無効試合)
・超人界屈指のパワーファイター。
  超人強度1000万パワーは
  初登場時にまさに桁違いで、
  読者に衝撃を与えた
   
   
ジャンル:正義超人 / 悪魔超人
出身:スペイン
超人強度:1000万パワー
必殺技:ハリケーン・ミキサー、
               超人十字架落とし、
               ハリケーン・ギガブラスター、
               バッファロー・ハンマー、
               ロングホーンブーメラン
身長/体重:250cm/220kg
岡田英次さん
(1920年6月13日-1995年9月14日)
俳優。
千葉県銚子市生まれ。
身長166cm。
慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。
1946年、村山知義の第2次新協劇団に入団。
1949年に『花の素顔』で映画デビュー。
1950年、
今井正監督の『また逢う日まで』で
久我美子の相手役を演じたことで一躍注目を浴びました。
「新協劇団」分裂後の1954年、
劇団青俳を木村功らと設立。
後に現代人劇場を経てフリーに。
『真空地帯』『ここに泉あり』などの話題作に次々と出演したほか、
1959年にはアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』に出演。
世界的にも知られることに。
主演した『砂の女』(1964年)は
海外の映画祭やアカデミー賞で高評価されました。
テレビドラマでは
『樅ノ木は残った』『俺たちの旅』『チロルの挽歌』などに出演。
その日本人離れした彫りの深い整った風貌から
「和製ジャン・マレー」と云われ、親しまれました。
1995年9月14日、心不全のため死去。
75歳没。
従妹は遠藤周作と結婚。
息子は翻訳家岡田壯平。
(岡田英次)

昔千葉に谷津遊園地がありました。保育園の遠足、家族でのプール、お弁当を作って家族で行きました!ジャンボプールは有名でした‼️

2023/9/14. 阪神タイガースは18年ぶり6回目のJERA セ・リーグ優勝を果たしました!
まだ戦いは続きます。引き続き、熱いご声援よろしくお願いいたします。
▼優勝特設サイトはこちら
https://v2023.hanshintigers.jp/
#阪神タイガース #ARE
『ママと遊ぼうピンポンパン』
なんの事かな ピンポンパン
卵ひしゃげて ピンポンパン
ママのお小言 ピンポンパン
おでこをぶつけてピンポンパン
ママと一緒に ピンポンパン
くよくよしないで 女の子
メソメソしないで 男の子
裸足で駈けておいで 手をつなごう
雲を越えて おいでよ
虹をすべって おいでよ だって〜
ホラ
パパのおヒゲが ピンポンパン
ドーナツ2つ ピンポンパン
あの娘にチューして ピンポンパン
どこでもなんでも ピンポンパン
ママと一緒に ピンポンパン
試してご覧よ 女の子
諦めないで 男の子
楽しい夢を 探そう 追いかけよう
雲を越えて おいでよ
虹をすべって おいでよ だって ホラ
パパのおヒゲが ピンポンパン
ドーナツ2つ ピンポンパン
ママのお小言 ピンポンパン
おでこをぶつけて ピンポンパン
ママと一緒に ピンポンパン〜♫
正義超人に属する超人たち
   
正義超人
8/95人です。
   
   
ジェロニモ
  
  
プロフィール
    
・シングルマッチ勝率
   0.667 (全3試合 2勝1敗  0引分け0無効試合)
・タッグマッチ勝率
   0.000 (全2試合 0勝2敗  0引分け0無効試合)
もともと人間であったが、
幼いころに命を救ってくれた超人の強さや
高潔さに憧れ、人間だあることを隠し
超人の戦いに参戦。
のちに試練を乗り越え
超人へと生まれ変わる。
    
    
ジャンル:正義超人
出身:アメリカ
超人強度:83万パワー
必殺技:アパッチのおたけび
ニューマシンガンズ・カウベル・スタンピード、トマホークボンバー、トマホークチョップ
身長/体重:180cm/80kg

♥️2023💃9/16 多岐川華子(35歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

🟣昭和のはとバス🌸🌸🌸
🟢1948からはじまりました。
🟠東京見物にはとても便利で楽しかったですね。
矢沢 永吉さん
1949年9月14日生まれ、74歳。
広島県広島市出身。
矢沢永吉写真集 SUPER PHOTO LIVE(1979年)撮影 稲越功一 小学館
1978年
CMソング「時間よ止まれ」が大ヒット、累計売上はミリオンセラーを記録した。
5月長者番付歌手部門(1977年度)で、ロックミュージシャンとして初の第1位を獲得。
7月、自著伝「成りあがり」を出版。100万部を超えるベストセラーとなり、社会現象となる。ライターを担当したのは糸井重里である。
新聞世論調査におけるこの年の「ヒーローと呼べる人物」として第1位王貞治に次ぎ、第2位に選ばれた。
やっぱり今も、永ちゃんはカッコいいなあ😅
樹木希林さん
(1943年1月15日-2018年9月15日)
女優。
東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。
2番目の夫は内田裕也。
間に娘・内田也哉子。
夫とは長く別居を続けていました。
父は薩摩琵琶奏者・錦心流の中谷襄水(辰治)(1917〜89)、
妹も薩摩琵琶奏者の荒井姿水(昌子)。
その息子も薩摩琵琶奏者の荒井靖水。
父母は父より7歳上で、
二人の先夫との間にはそれぞれ一人ずつ子がありました。
母は横浜市中区野毛に料理店「叶家」を開いており、
樹木にとって母方の実家。
千代田女学園に入学後は演劇部に在籍、
食いっぱぐれのないようにと薬剤師を目指していましたが、
数学ができず大学受験にあまり気乗りしていなかったそうです。
受験直前に気晴らしとしてスキーをしに、
友人のいる夕張へと向かう父について行きましたが、
地元の子たちと滑っているうちに尻餅をつき足を骨折したため、
大学受験を断念。
学校の卒業式にも出席できず、
新たな一歩を踏み出そうとしている同級生と家でじっとしている自分を比べて、
絶望感や疎外感を抱えていたとき、
戦後初めて三大劇団が研究生を募集している旨の記事を新聞で見つけ、
どこか毎日通えるような学校はないかと考えていた希林は願書を取り寄せることに。
文学座、劇団俳優座、劇団民藝の順番で試験があり、
一番早かった文学座の試験のみを受けました。
一次試験は約千人いましたが合格し、
1961年に文学座一期生として付属演劇研究所に入ります。
文学座付属演劇研究所での同期に、
小川眞由美・橋爪功・寺田農・北村総一朗・岸田森・草野大悟。
「悠木千帆」名義で女優活動をスタート。
文学座研究所では
「あんた、勘のいい子ねッ、来てちょうだい」と杉村春子の付け人を務め、
1962年の小津安二郎監督『秋刀魚の味』の撮影に同行。
1963年、
文学座の分裂で、杉村から「あんた残ってちょうだい」と頼まれ、
1965年に文学座の正座員となるも、
1966年に文学座を退団。
1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、
一躍人気を獲得。
この頃、
叔父の知人・長沢節が主宰するセツ・モードセミナーにも通い、
当時の若者のファッションで街を闊歩。
1970年からレギュラー放送が始まった『大江戸捜査網アンタッチャブル』第1シリーズで、占い師おとら役や、
水曜劇場『時間ですよ』(TBS)で不動の人気を獲得。
1974年にTBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』では、
小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じました。
実年齢は小林より10歳以上若く、
頭髪を脱色し「老けメイク」を施し、
当時30代前半のまだまだ若手との不自然さを隠すため、
劇中は指ぬき手袋を外しませんでした。
本作品の劇中において、
寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、
自分の住む離れに駆け込み、
仏壇の横に貼られた沢田研二のポスターを眺めて
「ジュリーィィィ!!」と腰を振りながら悶えるシーンが話題に。
内田裕也が
「(内田を芸名にすると)俺の個性が君の芸にからむようでまずい」と反対し、
改めてTBSプロデューサーの久世光彦らが同席して新芸名を考える会議を行いましたが、
久世から「そんなイージーな役者は死ね」と叱られたほど。
仕方なく、
辞書を引いて文字を拾いながら決めることにし、
この4文字から
「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」
ということを連想し、自ら樹木希林に決めました。
ドラマ『ムー』『ムー一族』で共演した郷ひろみとのデュエットで
「お化けのロック」「林檎殺人事件」をリリース、大ヒット。
1964年に俳優の岸田森と結婚するも、1968年に離婚。
1973年10月に内田裕也と再婚するも、
1年半で別居し、
その後別居生活を続けていたました。
1981年、
内田が無断で離婚届を区役所に提出するも、
樹木は離婚を認めず、
離婚無効の訴訟を起こし勝訴。
その後は1年に1回連絡を取り合う程度の関係となりましたが、
2005年1月、
乳がんが判明して摘出手術を受けたことを機に連絡は1か月に1回となり、
以降毎年1月は一緒にハワイで過ごすように。
内田との間に1人娘の内田也哉子がいます。
1979年から出演した
ピップエレキバンの広告での
横矢勲ピップフジモト会長(当時)との掛け合いは人気を集めました。
また、
1978年からフジカラーのCMに出演していましだが、
1980年に放送された『フジカラープリント お名前篇』では、
お見合い写真を現像しにきた客(綾小路さゆり)役の樹木と
写真屋の店員役の岸本加世子との
『美しい人はより美しく、そうでない方は…」
「そうでない場合は?」
「それなりに映ります」
というやり取りが流行語に。
フジカラーのCMには40年にわたって出演し続け、
2002年には消費者の好感度が最も高い女性CMタレント1位に。
2007年には、
「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2007」に2人の孫と共に出演し、
「イマジン」の日本語訳歌詞などを朗読。
2008年、紫綬褒章を受章。
2013年3月8日の第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。
2018年7月29日・8月5日放送の『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ)「転がる魂 内田裕也」のナレーションを担当。
8月13日、
大腿骨を骨折したため同月15日に緊急手術。
翌16日に予定していた生放送への出演を見送り、
電話で出演して状況を報告。
2018年9月15日2時45分、
東京都渋谷区の自宅で家族に看取られて死去。
75歳没。
(樹木希林)
ゴールデンハーフ
若い娘はウッフン
お色気ありそでウッフン
なさそでウッフン
まだまだ黄色いサクランボ
丘さとみさん
(1935年9月15日-)
女優。
兵庫県宝塚市出身。
1953年3月、
尼崎市立尼崎高等学校在学中にディズニー映画『シンデレラ(シンデレラ姫)』の
日本公開を記念して行われた
RKOラヂオ映画社と毎日新聞社主催の「日本シンデレラ姫コンテスト」に応募し、
ミス・シンデレラの栄冠に輝き、
その副賞で1953年3月20日から4月4日まで渡米し、
ディズニー撮影所や女優・アン・ブライスの自宅などを訪問したり、
ケーリー・グラントとの2度に亘る会食や
ソニア・ヘニーのアイスショー観覧といった
ハリウッド見学に招待されています。
1954年に尼崎市立尼崎高等学校を卒業後に
RKOラヂオ映画社日本支社に就職。
RKOラヂオ映画社日本支社関西支社で支社長の秘書として配属。
しかし、東映にスカウトされて、
1955年に東映ニューフェイス第2期生として東映に入社して芸能界へ転身。
同期には高倉健・今井健二・五味龍太郎ら。
芸名を丘さとみにして
同年の映画『御存知怪傑黒頭巾・新選組追撃』でデビュー。
東映時代劇での貢献が大きく、
「東映城のお姫さま」と呼ばれました(引退までの10年間で約150本もの映画に出演)。
1962年に東映を退社してフリーになり、
映画出演も続けながらテレビドラマに主な活躍の場を移します。
1965年、在米日系人2世の男性と結婚し、引退。
3子をもうけますが、1975年に別居。
同年、離婚し、女優に復帰。
2010年10月16日、
T・ジョイ京都で開催された「巨匠・内田吐夢 名優・月形龍之介 東映時代劇傑作選(その一) 内田吐夢、月形龍之介没後40年回顧」
のトークショーに出演。
(丘さとみ)
1973年 『うわさのチャンネル』
和田アキ子さんは、本気で逃げてたし、(笑)
あまりにしつこいと涙目にまでなってました。  図体はでかいけど、見るからにおとなしそうで、 可愛かったんですね~(笑)💝あっ!犬🐶も出てきた❣️恐がったのがおもしろい(笑)
せんだみつおさんも、超、良かったね💝最高❣️
江見俊太郎さん
(1923年9月16日日-2003年11月17日)
俳優。
東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区中野)出身。
早稲田大学専門部政治経済科卒業。
妻は女優の松風はる美で、
1976年から共同で「劇団ノア」を運営。
学徒出陣により海軍航空隊少尉で神風特攻隊出身。
1945年復員後、
東宝に入社し『民衆の敵』でデビュー。
後に新東宝に移り、
主に準主役で、色悪を主とした悪役としても活躍。
また1947年に初舞台『出家とその弟子』で唯円役を演じるなど、
早くから演劇活動を行い、
多くの名作舞台に出演。
1964年に上演された『龍馬翔く』には
後藤象二郎役で出演していましたが、
主演の南原宏治が公演中に負傷して降板を余儀なくされ、
二幕目からは急遽、
江見が南原の代役に立って務め上げました。
1960年の新東宝倒産後は、
テレビに進出し、時代劇に多く出演。
とりわけ『水戸黄門』では現代劇とは打って変わり、
声が上ずって甲高いしゃべり方をするなどのコミカルな悪代官役を演じていました(『水戸黄門外伝 かげろう忍法帖』を含むゲスト出演回数は同番組第9位の37回)。
同様のしゃべり方は、
『暴れん坊将軍』や『大岡越前』などにゲスト出演した際にも見られました。
また、刑事ドラマや特撮作品への出演も多数。
また
協同組合の日本俳優連合副理事長・芸団協常任理事・芸術文化振興連絡会議議長・東京芸能人国民健康保険組合理事長として
俳優の権利向上・生活向上のための諸活動にも取り組みました。
2003年11月17日23時22分、
肺がんのため東京都三鷹市の病院で死去。
80歳没。
(江見俊太郎)
古橋廣之進さん
(1928年9月16日-2009年8月2日)
水泳選手でありスポーツ指導者。
身長174cm。
日本大学名誉教授。
フジヤマのトビウオの異名を持ちます。
位階は従三位。
静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市西区)にて誕生。
雄踏町立雄踏小学校4年の時に水泳部に入部。
当時、古橋が通っていた学校の水泳部では、
浜名湖での遠泳が伝統的に行われており、
古橋は6年生の時100mと200mの自由形で学童新記録を樹立。
その際、新聞報道で「豆魚雷」との異名を付けられました。
その後、
浜松第二中学校(現・静岡県立浜松西高等学校)へ進学したものの、
太平洋戦争の激化により水泳を続けることができなくなり、
学徒勤労動員で砲弾工場で作業していた際に旋盤に左手の中指を挟まれ、
第一関節から先を切断するという事故に遭っています。
事故に遭った頃は「もう泳げない」とかなり落胆。
日本大学進学後に水泳を再開。
日本大学水泳部の同期には橋爪四郎がおり、
橋爪は戦後の日本水泳界を古橋と共に支えました。
1947年(昭和22年)の日本選手権では、
400m自由形を4分38秒4で優勝。
公式記録にはならなかったものの、
当時の世界記録を上回るタイムをまし出した。
敗戦国の日本は1948年(昭和23年)のロンドンオリンピックへの参加が認められず。
日本水泳連盟はロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に日本選手権を開催し、
古橋は400m自由形で4分33秒4、
1500m自由形で18分37秒0を出しました。
これはロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回っていました。
同年9月の学生選手権では、
400m自由形で自己記録を更新する4分33秒0、
800m自由形では9分41秒0を出し、
これも世界記録を越える記録。
しかし、
日本が国際水泳連盟から除名されている時期の記録であるため、
世界記録として公認されず。
とはいえ、
敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に
世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローでした。
1949年(昭和24年)6月には日本の国際水泳連盟復帰が認められ、
古橋や橋爪四郎ら6選手は、
8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加。
古橋は400m自由形で4分33秒3、
800m自由形で9分33秒5、
1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を樹立し、
アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と書かれました。
この遠征はサンフランシスコ講和条約締結前であり、
米ドルがなかったため、
日本水連幹部や在米日系人からの寄付で参加が実現。
渡航前には
GHQのダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受けました。
戦後間もなかったこともあり、
大会前はアメリカ国民にジャップと呼ばれることもありましたが、
大会後は一躍ヒーローとなり、
ハリウッドではボブ・ホープらにサインをねだられました。
1951年(昭和26年)に
日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科を卒業し、大同毛織に入社。
多くの大企業や役所などから特別待遇での誘いを受けていましたが、
社業と水泳の両立を目的にあえて同社に入社したといいます。
同年には第1回日本スポーツ賞を受賞。
1952年(昭和27年)の日本選手権では思うような記録が出ませんでしたが、
その年のヘルシンキオリンピックに出場。
しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことや、
1950年(昭和25年)の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、
五輪本番では400m自由形8位に終わりました。
引退後は社業に務める傍ら、水泳界の発展に尽力。
1966年(昭和41年)には大同毛織を退社し、
日本大学専任講師となると共に日本水泳連盟役員に。
1969年(昭和44年)には
東京都品川区大井に「品川とびうおスイミングクラブ」を、
1970年(昭和45年)には「とびうお杉並スイミングクラブ」を設立しましたが、
後に倒産。
ロサンゼルスオリンピックでの日本選手の大麻吸引事件による役員刷新により、
1985年(昭和60年)には日本水泳連盟会長に就任。
神戸市で行われたユニバーシアード大会では事務総長を務めました。
1990年(平成2年)から1999年(平成11年)までは
日本オリンピック委員会(JOC)会長を務め、
1996年(平成8年)のアトランタオリンピックでは日本選手団の団長を務めました。
また、
1993年(平成5年)に設立された日本学生トライアスロン連合の初代会長も務めました。
また、
亡くなるまで日本オリンピアンズ協会の名誉顧問も務めていました。
2008年(平成20年)11月3日、
オリンピック出場経験者としては初、
日本スポーツ界の人物として2人目となる文化勲章を親授。
2009年(平成21年)2月7日、
故郷の浜松市に古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(愛称:ToBiO)がオープン。
2009年(平成21年)6月25日、
日本水連は競泳日本代表の愛称をトビウオジャパンに決定。
これは古橋の現役時代の「フジヤマのトビウオ」という異名に因んでおり、
大海を突き進むトビウオの様に飛躍してほしいとの意味を込めています。
1976年(昭和51年)より国際水泳連盟の副会長を務めました。
2009年(平成21年)7月24日にローマで開催された総会でも再選されましたが、
その9日後の8月2日午前中、
現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。
80歳没。
(古橋廣之進)
市川右太衛門さん
(1907年2月25日-1999年9月16日)
映画俳優。
愛称は「右太さん」。
次男は俳優の北大路欣也。
戦前・戦後期の時代劇スターとして活躍し、
同時代の時代劇スターである
阪東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、長谷川一夫とともに
「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
映画主演総数は300本を超えます。
大阪府大阪市西区に生誕。
祖父が坂出市の旧家の出で、生家は鉄工所を経営。
遊芸好きの両親の影響で、
5歳のころから日本舞踊上方舞の山村流を習い始め、
6歳の時、
子役として初代中村扇雀一座に借り出され、
『菅原伝授手習鑑』に菅秀才の役で出演して初舞台。
大阪市立九条東小学校卒業後、
上方歌舞伎の第一人者・2代目市川右團次の弟子となり、
市川右一の名をもらい、
のち中村扇雀(2代目鴈治郎)が
座頭の関西青年歌舞伎の一員となりました(座員はほかに市川百々之助、林長丸(長谷川一夫)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいました)。
屋号は「高島屋」で、主役を張って人気を集めました。
やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役も任せられるようになりますが、
門閥出身ではないため出世には限界がありました。
1924年(大正13年)、
帝国キネマから映画界入りの誘いを受けますが、
このときは断っています。
1925年(大正14年)、歌舞伎界の若手俳優を、
自ら主宰する映画会社マキノ・プロダクションに迎えようと考えていた牧野省三が右一の評判を聞き、
「主演者」として映画入りを誘います。
18歳の右一はこれを受け、
阪東妻三郎が去った後のマキノ・プロダクション御室撮影所へ入社。
名前も市川右太衛門と改名、
これはそれまでの芸名・右一に
五代目中村歌右衛門の名と、
右一の師匠の右團次の名を合わせて、牧野が命名。
同年12月25日に公開された『黒髪地獄』(沼田紅緑監督)の主演で映画デビュー。
翌1926年(大正15年)にかけて、
沼田監督の『快傑夜叉王』『孔雀の光』などに主演。
阪東妻三郎に次ぐ人気俳優となり、
月形龍之介と合わせて「マキノを担う両星」と謳われました。
1927年(昭和2年)2月、
デビュー以来13本の作品でコンビを組んできた沼田紅緑監督の早世や、
スターたちの独立プロ設立が連続したことなどもあって、
マキノプロを退社し、
4月に笹川良一の支援で市川右太衛門プロダクション(通称:右太プロ)を設立して独立。
同時に奈良県生駒郡伏見村(現在の奈良市あやめ池北1丁目)にある
あやめ池遊園地内に撮影所を建設。
1928年(昭和3年)からは
東亜キネマから配給提携先を松竹キネマに変え、
翌1929年(昭和4年)には伊藤大輔監督の『一殺多生剣』などを送り出します。
華麗な衣装、颯爽とした美剣士を演じたこの『一殺多生剣』や『東海の顔役』は
初期の代表作と呼ばれています。
翌1930年(昭和5年)、
『旗本退屈男』で初めて早乙女主水之介役を演じ、
右太プロ内で7本の続編を製作。
後、このシリーズは30数年に及ぶ人気シリーズとなりました。
1932年(昭和7年)、
松竹のトーキー映画『忠臣蔵』に2役で出演。
この頃は映画界がサイレントからトーキーに移行したときであり、
多くのスターたちがトーキー発声に苦戦する中、
「セリフとともの演技」を無事演じてみせ映画は成功、
この転換期を乗り切りました。
1936年(昭和11年)、
製作規模が拡大していく本格的なトーキー時代に入って、
独立プロでは製作困難となり、
右太プロは松竹へ吸収合併、
あやめ池の撮影所は閉鎖。
右太衛門は松竹太秦撮影所に入社し、『旗本退屈男』シリーズでは初のトーキー作品となる『富士に立つ退屈男』などに主演。
1937年(昭和12年)、
新興キネマ京都太秦撮影所に移籍、看板俳優として
『国姓爺合戦』『大村益次郎』などの大作に主演したほか、
同社でも『旗本退屈男』シリーズの一本『宝の山に入る退屈男』に主演。
しかし、
この作品で一旦『旗本退屈男』シリーズが打ち止め。
軍当局から「非常時にふさわしくない」との横槍が入ったためでした。
『退屈男』を禁じられた右太衛門は『無法松の一生』の映画化に執心していましたが、
この配役は当初から阪東妻三郎に決まっていたため、
稲垣浩監督が説得して断念。
稲垣は代わる主演作として、
以前から右太衛門のためにと構想していた山本有三の『不惜身命』を会社側に推し、
情報局からも協力を得ました。
ところが「原作者の山本が社会主義者である」との理由で、
ここでも軍部から横槍が入り、
企画は頓挫を余儀なくされました。
1942年(昭和17年)、戦時統合により、
新興キネマは日活、大都映画と合併して大映に改組。
右太衛門はこれにより大映に移籍し、
終戦までに8本の時代劇映画に出演。
戦後、
GHQの占領政策によりチャンバラ映画の製作が規制されたため、
他の時代劇スターと同様、現代劇にも出演するように。
1949年(昭和24年)秋、
大映を退社し、東横映画に移籍。
翌1950年(昭和25年)、
『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』で、『旗本退屈男』シリーズが復活。
1951年(昭和26年)、
本格的な時代劇製作解禁の時代となり、
東横が改組して東映が設立。
右太衛門は東映創立に参加し、
片岡千恵蔵と共に重役(千恵蔵=植木取締役、右太衛門=浅井取締役)兼任のスターとなり、
興行価値の高い主演映画を多数製作。
右太衛門は北大路に住んでいたことから「北大路の御大」と呼ばれました(一方の千恵蔵は山の手(嵯峨野、『旗本退屈男まかり通る』では「太秦の高台」と表現されている)に住んでいたことから「山の御大」と呼ばれていました)。
東映の2本立て興行体制もあって、
東映入社以来1963年(昭和38年)までの12年間、
年平均9作のペースで右太衛門主演の時代劇が作られました。
東映でも『旗本退屈男』シリーズが18本製作され、
主演300本記念映画も『旗本退屈男』でした。
ほか、
『大名』シリーズ、『赤穂浪士』(1956年)の大石内蔵助役などでも活躍。
この頃、同時代に活躍した時代劇スター達は、
脇役に転身していきましたが、
右太衛門はあくまでも主役にこだわり続けていました。
時代劇映画が斜陽化していった1960年代、
東映も任侠映画路線に変更を図る中、
右太衛門の映画出演も1964年(昭和39年)の『忍び大名』(『大名』シリーズの一作)を最後に途絶え、
東映歌舞伎等の舞台に活路を見出すように。
同年、
『徳川家康』(NET製作)でテレビドラマに初主演。
ほか、
1973年(昭和48年)の『旗本退屈男』で早乙女主水之介を演じたり、
次男・北大路欣也主演の時代劇に特別出演しましたが、
テレビドラマは「せわしない」とあまり好んでいなかったため、
数本しか出演していません。
1966年(昭和41年)、
東映から「取締役から相談役に退いて欲しい」という打診を受け、
「時代も変わった。これ以上ここにいれば(北大路)欣也を縛り付ける事にもなりかねない」と考え、東映を退社。
退社後は京都を引き払い、
東京一番町のマンションに居を移し、
舞台を中心に活躍。
齢80を過ぎてもなお主役を張り続けました。
1972年(昭和47年)に紫綬褒章を、
1979年(昭和54年)には勲四等旭日小綬章をそれぞれ受章。
1986年(昭和61年)の歌舞伎座俳優祭では、
かねてから同音のよしみで親交のあった六代目中村歌右衛門が、
たっての願いで女・旗本退屈男に扮し、
歌右衛門の扮する退屈男との競演を実現。
またこの年、
息子の北大路欣也とも『旗本退屈男』で共演、
欣也は若かりし退屈男、右太衛門は壮年の退屈男に。
1999年(平成11年)9月16日、老衰のため死去。92歳没。
(市川右太衛門)
小林桂樹さん (1923年11月23日-2010年9月16日)
俳優。
サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍し、
その生涯において253本の映画に出演。
『裸の大将』の山下清の演技で
1958年第13回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。
『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の石野貞一郎の演技では
1960年の第15回毎日映画コンクール主演男優賞およびキネマ旬報男優賞およびブルーリボン大衆賞(つまり3つの賞)を受賞。
『白と黒』の落合克巳(東京地検捜査検事)の演技および『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満の演技により
1963年第18回毎日映画コンクール主演男優賞を、
『われ一粒の麦なれど』の坂田昌義(農政省官吏)の演技で
1964年第15回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。
群馬県群馬郡室田町(現・高崎市)出身。
父親が警察官という家庭に誕生。
桂樹の名はオリンピックの勝利のシンボル月桂冠のもととなる月桂樹にちなんで命名。
1934年に前橋市立桃井小学校を卒業、
宇都宮の陸軍幼年学校を受けるも不合格となり
旧制群馬県立前橋中学校に進学。
しかし中学4年の時に父親が病死したため、
千葉県市川市に住んでいた伯父を頼って一家が引っ越し、
桂樹のみ父親の同僚の家に下宿して通学。
前橋中を準卒業という形で出て、
その後は日本大学専門部芸術科(現在の日本大学芸術学部)に進むも学費が払えぬようになり、
1941年に中退。
大学時代にアルバイトで伯父の勤めていた朝日新聞社校閲部の給仕を勤め、
津村秀夫や飯沢匡などの映画評論家や映画記者と接するうちに映画の世界に憧れを持つように。
平凡なサラリーマンにはなるまいと思い、
相談した伯父からは自分の好きなことをやれと勧められ、
また給仕仲間から一緒に役者にならないかと誘われます。
日活、東宝、松竹の入社試験を受け、
唯一学歴を問わなかった日活へ入社、
日活演技研究所の研究生に。
太平洋戦争開戦後の1942年に『微笑の国』の工員役でデビュー、
さらに『将軍と参謀と兵』など3作品に出演。
翌1943年に日活の製作部門が
新興キネマ、大都映画と合併し新会社大日本映画製作株式会社となり、
自動的に専属に。
ここでは『菊池千本桜』にて軍神松尾大尉役で主演するも、
徴兵適齢のため8月に徴兵検査を受け甲種合格。
12月に二等兵として帝国陸軍へ入営し、
中国大陸に出征。
終戦により復員後は1946年の『君かと思ひて』でスクリーンへ復帰、
折原啓子の恋人を演じ二枚目として売り出します。
1951年には急遽出演出来なくなった千秋実の代役として
『その人の名は言えない』に主演したことがきっかけで、
二枚目でも三枚目でもない独自の演技が周囲に認められ始め次第に頭角を現します。
その後同年に東宝のサラリーマン物『ホープさん』で主役を務め、
その明朗快活さで注目され、
翌1952年に藤本真澄の誘いで東宝と契約。
源氏鶏太原作の『三等重役』から、
引き続き森繁久彌が主役を演ずる『社長シリーズ』(1956年 - 1971年)の全てに出演。
真面目で頑なな秘書役など、
平凡で健全な一般庶民を演じて人気を得ました。
1955年に今井正監督の『ここに泉あり』で
毎日映画コンクール助演男優賞を受賞、
さらに1958年には出演百本記念映画として制作された『裸の大将』で
実在の画家・山下清を演じ、
同映画コンクール主演男優賞を受賞。
知恵遅れを馬鹿にした映画だと一部からは非難されましたが、
劇中でのどもりながらの台詞「兵隊の位にすると…」は流行語に。
1960年に『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、
1961年には松山善三の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』に主演し、
喜劇のみならずシリアスなドラマでも活躍、
特に『黒い画集 あるサラリーマンの証言』では
キネマ旬報男優賞、ブルーリボン大衆賞、毎日映画コンクール主演男優賞と、各映画賞を総なめに。
1963年には
岡本喜八監督、山口瞳原作の『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の中年サラリーマンを演じ、
毎日映画コンクール主演男優賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞を受賞。
『裸の大将』や『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などで
小林と長く接してきた堀川弘通監督に
「きわめて平凡な人間の姿から非凡な演技がほとばしり出るかけがえのない俳優」
と評されます。
しかし、
映画界が衰退の一途をたどり始めた1964年頃からは小林に向く企画が減り始め、
植木等の無責任男や加山雄三の若大将の台頭もあって
次第に小林の演じる庶民像は時代とのズレが目立ち、
批評家からは
「戦前の古いモラルの殻から抜け切れず、
戦後の時代になってもそれを背負って生きている、
良くも悪くも戦中派の代表格」と評されるように。
この頃からテレビの出演が増え始め、
その明るいキャラクターから1966年には
TBSの『おはよう・にっぽん』の司会者に抜擢されるも視聴率が上がらず降板。
1973年、
小松左京原作のベストセラー小説を映画化した『日本沈没』で
日本の危機を示唆する田所博士役を演じ、
エキセントリックな演技が評価されました。
翌1974年から放送された
テレビドラマ版『日本沈没』でも引き続き同役を演じました。
1975年に始まった『江戸の旋風』から、
1981年まで放送された『江戸の朝焼け』までの
江戸シリーズに5年以上連続で出演、
1984年のスペシャル版にも出演。
1984年には9年ぶりに復活した『ゴジラ』で
内閣総理大臣役を演じました。
代表作である『牟田刑事官事件ファイル』シリーズでは
1983年10月の第1話から2007年6月の最新話(撮影は2005年8月)まで主役を務めましたが、
出演期間中の2001年に緊急入院するなど健康状態が危ぶまれた時期がありました。
また、
この時期はNHKの金曜時代劇『山田風太郎からくり事件帖〜警視庁草紙より〜』出演期間中でもありました。
晩年はツーカーの「ツーカーS」のCMに出演。
アニメーション作品では、
ウォルト・ディズニーの『わんわん物語』で主人公・トランプ、
スタジオジブリ制作の映画『耳をすませば』では「地球屋」の主人・西司郎(主人公の恋人の祖父)を演じました。
2010年3月、
小野ヤスシの50周年記念パーティーで祝辞を述べたのが公の場での最後の姿に。
同年7月に軽症肺炎で東京都内の病院に入院して以後は療養生活を送っていましたが、
同年9月16日午後4時25分、
東京都港区の病院で心不全のため死去。
86歳没。
(小林桂樹)

♥️2023💃9/17 大島さと子(64歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃9/17 石川遼(32歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

ちあきなおみさん
(1947年9月17日-)
元歌手、元女優。
1992年に夫の郷鍈治と死別して以降、
芸能活動を完全に休止し、事実上の引退に。
義兄(郷の実兄)は俳優の宍戸錠、
義甥(郷の甥)は宍戸開。
結婚後東京都内に所有した不動産(ビル)のオーナーではあるものの、
実業家として表立って活動しているわけではありません。
(ちあきなおみ)

すし太郎のCM 出演されていた北島三郎さん

橋爪功さん
(1941年9月17日-)
俳優。
演劇集団 円代表、円企画所属。 
身長168cm、体重63kg。
大阪府大阪市東住吉区に生誕。
路地奥の上下に二間、内風呂と小さな庭のある借家で育ちました。
父は和歌山県の海南出身。
母は愛人であり、父には本妻が別にいました。
11才上の兄はいったん母親の兄の籍に入った後、
父の籍に入ったので、
当初は功が母の戸籍上では長男でした。
子どもの頃は、
父の影響で歌舞伎や映画を観るのが好きな子で、
明るく目立ちたがり屋なこともあり、
東田辺小学校では生徒会長を買って出ました。
大阪教育大学附属平野中学校へ進学した後、
そこで出会った友人がサルトルやカミュの作品を読んでいた影響で
自身も文学作品を読むように。
中学2年で父親を亡くしました。
父の本妻は病弱だったため、
父の死後まもなく亡くなりました。
大阪府立天王寺高等学校1年の2学期、
東京に転居して東京都立青山高等学校に転校。
父が残してくれたお金で世田谷区千歳烏山に家を建てて暮らし始め、
高校の文化祭でたまたま見た演劇部の「獅子」という舞台に感激し、入部。
その後学力が下がったことで国立大学は学力的に厳しく、
私立大は経済的に難しいことから大学進学を断念。
ある日新聞で文学座が10年ぶりに研究生を募集するという記事を偶然見つけて
1961年、文学座附属演劇研究所の1期生に応募し合格。
同期には
岸田森、草野大悟、寺田農、樹木希林、小川眞由美、北村総一朗。
1963年、文学座を離れ劇団雲に参加。
1974年、
尊敬する芥川比呂志演出の舞台『スカパンの悪だくみ』で大阪弁でスカパンを演じ、
この仕事が俳優としての転機となり一躍演劇界のスターに。
1975年、
芥川、仲谷昇、岸田今日子、有川博らとともに、
演劇集団 円の創立に参加。
以降も所属する円を中心に、舞台活動を続けています。
2006年、
前代表の仲谷昇の死後、円の代表に。
野田秀樹との二人芝居『し』や、
椎名桔平と共演の『レインマン』など、
外部出演も多数。
2010年1月に放送された
FMシアター『かわり目〜父と娘の15年〜』(NHK大阪放送局製作)では、
放送文化基金賞演技賞受賞。
2011年、第46回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
30代後半からテレビドラマに出演するようになり、
その後は連続・2時間モノを問わずにコンスタントに出演。
しかも主役から脇役まで幅広く演じ分けて個性を発揮(若い頃は脇役専門で、1970年代から1980年代には悪役として活動)。
主役を演じるようになったのは50代に入ってから。
2時間ドラマでの主演が多く、
『京都迷宮案内』など、シリーズ化されたものも。
他にも海外ドラマの吹き替えや、
中学校国語科教科書音声教材CD(光村図書版)での魯迅『故郷』の朗読などもこなしています。
(橋爪功)
昭和30年代後半から40年にかけて、フジテレビ系で月曜から土曜の18:55~19:00
枠で毎日放送されていた🇨🇦製作、
🇺🇸販売のアニメ「マイティ・ハーキュリー」
スボンサーが明治乳業の一社提供だったので、冒頭のオープニング部分に、ハーキュリーが明治牛乳を腰に手をあて、一気飲みする映像が流されていましたね。
この映像を探しましたが、残念ながら、見つかりませんでした。
昭和30年頃の有楽町日比谷口の寿司屋横丁。
今のビックカメラとJR線路との間にありました。安くて旨いと人気があったようです。
東京都庁舎建設にともなう再開発のために移転、撤去を余儀なくされました。
座頭市物語(1962年4月18日 モノクロ)
続・座頭市物語(1962年10月12日 モノクロ)
新・座頭市物語(1963年3月15日)
座頭市兇状旅(1963年8月10日)
座頭市喧嘩旅(1963年11月30日)
座頭市千両首(1964年3月14日)
座頭市あばれ凧(1964年7月11日)
座頭市血笑旅(1964年10月17日)
座頭市関所破り(1964年12月30日)
座頭市二段斬り(1965年4月3日)
座頭市逆手斬り(1965年9月18日)
座頭市地獄旅(1965年12月24日)
座頭市の歌が聞える(1966年5月3日)
座頭市海を渡る(1966年8月13日)
座頭市鉄火旅(1967年1月3日)
座頭市牢破り(1967年8月12日)
座頭市血煙り街道(1967年12月30日)
座頭市果し状(1968年8月10日)
座頭市喧嘩太鼓(1968年12月28日)
座頭市と用心棒(1970年1月15日)
座頭市あばれ火祭り(1970年8月12日)
新座頭市・破れ!唐人剣(1971年1月13日)
座頭市御用旅(1972年1月15日)
新座頭市物語・折れた杖(1972年9月2日)
新座頭市物語・笠間の血祭り(1973年4月21日)
昭和の座頭市シリーズは、良かった、差別用語の
使えない座頭市なんて、いまいち。
1966年 泣いてたまるか
『泣いてたまるか』(ないてたまるか)は、TBS系列で1966年から1968年まで放映された、1話完結形式の連続テレビドラマ。渥美清、青島幸男、中村嘉津雄が主演を ...
この役から、男は辛いよ フーテンの寅さんに繋がっていったとか~💝

西部劇マンガと言えば…😅‼️

🔴昭和の佳ちゃんとハラボー
🟢1978、『勝手にシンドバッド』デビュー❤️サザンオールスターズ
🟣1982、結婚

「美少女仮面ポワトリン」は、1990年(平成2)1月から同年12月まで、フジテレビ系列の日曜9時台前半(いわゆる"ニチアサ")にて放映された、東映東京撮影所製作の特撮ドラマ。主演は、今日(9/17)51回目の誕生日を迎えた花島優子で、当時フジテレビが立ち上げたアイドル養成プロジェクト"乙女塾"の出身者の一人でした。 

🎂2023/09/17. 本日は蝶野正洋さんの誕生日です🎂
🎂60歳になりました🎂
タイガーマスクの原作では、伊達直人は最後に交通事故で亡くなる。ルリ子とは、お互いに思い合うだけの関係だった。しかしアニメでは、ルリ子の前でマスクを脱いで正体を明かす。
最後は、卑怯な敵を倒す為に反則技を使い、試合後に飛行機で去っていく。
幼馴染み同士の純愛を、そのままに去る昭和の美談。
1985年〜♪涙のtakea chance/僕笑っちゃいます
風見しんごのブレイクダンスは釘付けになった。
歌が上手い下手などどうでもよくてとにかくキレキレのブレイクダンスはかっこよかったなぁー!ブレイクダンスを踊る人達はほとんど破れたTシャツか網状のTシャツにバギーパンツが一番印象に残ってる。
『タンタンはやしうた』
新兵ちゃん シッタンコーの
シー印(シー印)
シラランの シッタンコーの
シッタンだるまの だるまの子
シッタカマッタカ シッタカチン
シッタ豆 食ったんタン
残りはヤッタンタン
恭子ちゃん キョッタンコーの
キョー印(キョー印)
キャラランの キョッタンコーの
キョッタンうさぎの うさぎの子
キョッタカ マッタカ キョッタカチン
キョッタ豆 食ったんタン
残りはヤッタンタン
カータン カッタンコーの
カー印(カー印)
カラランの カッタンコーの
カッタンカッパの カッパの子
カッタカ マッタカ カッタカチン
カッタ豆 食ったんタン
残りはヤッタンタン
お兄さん オッタンコーの
オー印(オー印)
オラランの オッタンコーの
オッタン忍者の 忍者の子
オッタカ マッタカ オッタカチン
オッタ豆 食ったんタン
残りはヤッタンタン
『ピンポンパン』
ピンポンの玉がポーンと 弾む様に
春がやって来た あらピンポンパンピンポン
ピンポンの玉がポーンと 弾む様に
あの娘の胸が 膨らむ春が
街は良い眺め 風は頬を撫で
ピンポンの玉がポン あっちへ行ってポン
こっちへ行っちゃポン
あらピンポンパンピンポン
お役所でハンコをポンと
ひねもすお役人
春の日長に
あらピンポンパンピンポン
パチンコの玉がポンと 飛び上がる
飛び上がったけど 穴には入らない
街はウキウキと 足も軽やかに
春はリズム 歌のリズム 胸は弾む
あらピンポンパンピンポン
書類を重ねて ピーンとピンで止める
で 水着の写真も ピンで止める(エッチ)
女房が怒ってプーンと 横向いた
ま無理はない 月給飲んじゃった
街は悩ましい おぼろ月ほのか
ピンポンの玉がポン あっちへ行ってポン
こっちへ行っちゃポン
あらピンポンパンピンポン
麻雀やってポンと 三つ揃ったよ
で捨てたパイで 隣が清一色
自動車のタイヤがパンと
パンクしたら みんなは慌てて
ギャングと 間違えた
街は麗らかに 水も温かく
春はリズム 歌のリズム
駒は勇む
あらピンポンパンピンポン
三味線鳴らしてペーンと 隣の姉ちゃんが
あらペンシャラペンのペン あら又違った
シャンペン抜いてポーンと 景気は良いが
こちとらピーピーで あらビールも飲めねぇやい
秋は花ぐもり 夜も更けたけど
ピンポンの玉がポン あっちへ行ってポン
こっちへ行っちゃポン
あらピンポンパンピンポン〜♫
1965年の・W3・手塚治虫の漫画❣️
W3 ; わんだーすりー ; 制作: 虫プロダクション ; 放送期間: 1965年6月6日 〜 1966年6月27日 ; 放送局: フジテレビ ; 話数: 52話 ...
裏番組に、ウルトラマンでした⁉️
・あらすじ
銀河連盟から地球へ派遣された宇宙パトロール隊ワンダースリー。彼らが地球人が救いようのない野蛮な種族と判断すれば、地球は宇宙から消し去られてしまう。ワンダースリーは、地球の少年星真一と出会い、無鉄砲だが曲がったことの嫌いな彼に惹かれていく。星真一の兄、星光一は、正義の秘密組織フェニックスのスパイであり、好戦的なA国の兵器を破壊しようとしていた。
そんな折、ワンダースリーが地球破壊のために持ち込んだ反陽子爆弾が、そのA国に運び去られてしまう。一方、学校になじめず、村を牛耳る俗物、地主の町会議員にも逆らったため、つまはじきとなっていた星真一は、唯一の理解者である馬場先生にはげまされ、また、彼に命を救われた少女カノコの努力で次第に味方をふやしていく。動画の歌を聴くと懐かしいかと?
昭和40年代に、小学校で栄養ビタミン剤の発育補助食品として提供された(別途料金が必要)、肝油ドロップをご記憶でしょうか?
ドロップと言いましても、サクマドロップスのような飴ではなくて、寒天を砂糖でコーティングしたグミみたいで外側のコーティングが口の中でとけるとツルっととした食感のアレです。(笑)。
ちょっと金持ちの家庭の子供が肝油ドロップを注文していて、1個もらって食べたことがありました。美味しかったです。家に帰って親に肝油ドロップを注文するように頼みましたが断られました。(笑)。クラスのボス的な腕白なガキ大将が肝油ドロップを餌に取り巻きの子分たちを牛耳っていました。🤣🤩
今、食べたらどんな味がするんでしょうか?

りんごちゃん、JK時代の姿が可愛すぎると話題に!!「めちゃ可愛い 」「ちょうど良い感じ」

中井貴一さん
(1961年9月18日-)
俳優・歌手・ナレーター。
身長181 cm、体重70 kg。
東京都世田谷区出身。
成蹊中学校・高等学校、成蹊大学経済学部卒業。
父は俳優の佐田啓二、
母は中井益子(1928年 ~ 2016年)、
姉は女優・エッセイストの中井貴惠で、
小津安二郎により「貴一」と名付けられました。
3歳の誕生日を目前にして、
父を交通事故で亡くします。
高校時代はテニスに熱中、
コーチを職業にすることを考えるほどでした。
赤面症で俳優になるなど考えたこともなかったといいますが、
父の17回忌の法要の際に映画監督の松林宗恵にスカウトされ、
本格的に俳優としての活動を開始したのは成蹊大学在学中で、
1981年公開の松林監督の映画『連合艦隊』への出演でデビュー。
同作品で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。
1982年には
NHK水曜時代劇『立花登 青春手控え』で
テレビドラマ初出演にして初主演。
翌1983年にTBS系で放送された『ふぞろいの林檎たち』で
主役を演じた中井の知名度は作品の大ヒットと相俟って急上昇。
同作品は約15年に亘って4シリーズが製作される人気作品に。
1988年に放送されたNHK大河ドラマ『武田信玄』では主役の武田信玄を演じました。
40%に迫る平均視聴率と歴代2位である49.2%の瞬間最高視聴率を記録。
『四十七人の刺客』『壬生義士伝』といった時代劇で演じるシリアスな役柄から
『寝ずの番』やDCカードのテレビコマーシャルで見せるコミカルな役柄まで演じこなす
幅の広さが観衆・批評家双方の支持を得、
活動の場を問わず着実にキャリアを重ねます。
先述の『武田信玄』出演後には
『激動の1750日』『極道戦争 武闘派』などの仁侠映画にも出演。
2004年には
中国映画『ヘブン・アンド・アース 天地英雄』に出演。
全編に亘り中国語での会話を要求されましたが、
特訓の末に無事撮影を成功させ、
海外進出を果たしました。
この映画の出演をきっかけに
「ナショナリズム」や「愛国心」について深く考えるようになったと言い、
2005年公開の『亡国のイージス』に出演、
「日本を敵視する某国のスパイ」の演技も各方面から賞賛されました。
また、
2003年公開の映画『壬生義士伝』では吉村貫一郎役で主演、
日本アカデミー賞と日刊スポーツ映画大賞で主演男優賞を獲得。
松竹により配給された『壬生義士伝』は興業面でもヒット。
2007年公開の日本・中国合作映画『鳳凰』では、
主演とともにプロデューサーを務めました。
2008年に放映されたドラマ『風のガーデン』では、
末期癌で臨終する医者を演じるため、
半年の間キャベツダイエットを行い、
9キロの減量を敢行。
緒形拳演じる医者である父親・貞三に看取られて終生する麻酔医・貞美を演じました。
2012年にドラマ『最後から二番目の恋』では
鎌倉市役所観光推進課課長・長倉和平役で出演し、
後に鎌倉市国際観光親善大使に就任。
(中井貴一)
神谷明さん
(1946年9月18日-)
声優、俳優、歌手、ナレーター、元日本工学院専門学校声優・俳優科講師。
身長163cm。
神奈川県横浜市出身。
妻は元声優の戸部光代、
長女はシナリオライターの華宮ゆう士、
次女はミュージカル女優の神谷たえ。
有限会社冴羽商事代表取締役。
幼少期、
父親が営んでいた家具製造工場が倒産したことで両親が離婚。
母親に引き取られ、母と弟一人の家庭に育ちました。
その頃、
アニメより漫画本に熱中していたといいます。
必死で働く母を助ける日々だったため学校も転々とする中、
横浜市立青木小学校、東台小学校から転入した
東京都大田区の相生小学校の大先輩に俳優の小沢昭一が居たことが
神谷を演劇の道へと向かわせることに。
その後、
御園中学校を経て東京都立芝商業高等学校へ入学。
在学時に、珠算部に所属していましたが、
友人に「メンバーが足りないから」と誘われ演劇部に入部した際、
「神谷って良い声してるよな」と言われたことがきっかけで俳優を目指します。
なお、この時同じ学校の同級生で、
同じく演劇部に所属していた部員に、
後に神谷が声優業界に誘う事になる声優の佐藤正治。
高校卒業後、
飲食店勤務や歌手の付き人を経て、
横浜の劇団「かに座」へ入団。
アマチュア劇団だったため平日は会社に勤め土日に活動しますが、
改めてプロになりたいと考えたことで、
1970年に劇団テアトル・エコーへ入団。
事務所はその後、
青二プロダクション、ぷろだくしょんバオバブ、
東京俳優生活協同組合、アップス、青二プロダクションを経てフリーとなり、
現在は有限会社冴羽商事代表取締役。
1970年、
テレビアニメ『魔法のマコちゃん』の千吉役でアニメ声優デビュー。
初レギュラーは『赤き血のイレブン』のヤシマサスケ役。
初主演は『バビル2世』のバビル2世役で、
彼のトレードマークの「叫び」もこの作品で体得。
以後、
『ゲッターロボ』など主にロボットアニメ作品で主役を多く担当。
必殺技を叫び続けたことから、
一部では「叫びの神谷」と呼ばれました。
この頃から声の仕事が増え、
舞台公演のキャスティングから漏れるようになったことで悩んだ末、
声優業に専念することを決意しテアトル・エコーも退団。
1970年代後半からの声優ブームでは中心的存在となり、
アイドル的な人気を博しました。
1979年から約1年間、
『神谷明のオールナイトニッポン』のラジオパーソナリティーを担当し
『オールナイトニッポン』初となる声優のレギュラーパーソナリティに。
同年5月には、
日本劇場(現・有楽町マリオン)で声優としてただ一人ワンマンショーを開催。
直前の春休みには
日劇と青二プロダクション主催の声優イベント「Voice.Voice.Voice」が人気を博し、
日劇での前売り券発売日には神谷本人の来場もあって
数寄屋橋交差点までの長蛇の列ができました。
1980年代には『週刊少年ジャンプ』連載漫画のアニメ化作品に多数出演し、
『キン肉マン』、『北斗の拳』、『シティーハンター』などでは主演を務めました。
また、
これらの作品が神谷の代表作として紹介されることも多数。
アニメージュで開催されているアニメグランプリ声優部門(男性)にて、
通算11回に渡りグランプリを受賞。
1995年の阪神・淡路大震災の際には
チャリティとしてユニット「WITH YOU」を結成。
そのリーダーを務め、
「ふれ愛コンサート」でも活動。声優など多数の参加を得ました。
2000年、
『少年ジャンプ』連載作品の原作者である漫画家らが
集英社から独立して設立した編集プロダクションのコアミックスに出資、
2004年末まで役員を務めていました。
2017年1月9日、
テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で
第22位に選ばれました。
現在は声優業の他に
司会、ラジオCMやゲーム音声の製作、コンサート・イベント運営、講演会など
幅広い活動をしています。
(神谷明)
【 柔道一直線 】
 昭和44年から46年の中学2・3年生の時に観ていました。
 柔道には興味はなかったのですが、吉沢京子さんが可愛らしかったから観ていたのだろうと、今思っています。
 近藤正臣さんが、ピアノを足の指で弾くシーンは有名です。
永遠のチャンピオン 大場政夫。
今でも5号線を通るたんびに大場政夫選手を思い出します。
1973年代~ドラマの舞台となった銭湯
「松の湯」の営業開始時間です。「松の湯」を経営する松野家の家族、住み込み従業員や同じ町内の人々が起こす日常生活での出来事が大半となります。
そのため得てして営業時間になっても日常生活のドタバタに引きずられて、、、
「おかみさん」こと松野マツ(森光子)らが
番台に入らないまま開店しそうになる・・・
 そのためボイラーマンの健ちゃん(堺正章)が「おかみさーん」と呼ぶわけです。但し、
シリーズ化する以前のパイロット版的ドラマとなった「東芝日曜劇場」での話であり、
シリーズ化されて以降は完全にタイトルコールになってしまいましたぁ~💝

懐かしいですね😋

潮健児さん
(1925年3月23日-1993年9月19日)
俳優。
東京府荏原郡出身。
旧制 専修大学予科在学中に応召し、
陸軍飛行学校に入り、
太平洋戦争終結後の1945年に
友人の紹介で古川ロッパの一座に入団するも、
1947年に退団し、
専修大学専門部経済学科に通いながら、
小劇団を転々としました。
1949年、太泉映画と契約し、
翌年『執行猶予』(佐分利信監督)で映画デビュー。
以来、
太泉映画の後身である東映において長きに渡り、
脇役として活動。
千葉真一主演の『ファンキーハットの快男児シリーズ』でのコミカルで憎めない役柄や
『極道』シリーズ(若山富三郎主演)。
『網走番外地』シリーズ(高倉健主演、石井輝男監督)などの任侠映画や、
今井正監督作品などに欠かせない個性的な名バイプレーヤーとして活躍。
特撮番組の『悪魔くん』のメフィスト弟(吉田義夫の代役)、
『仮面ライダー』シリーズの地獄大使と暗闇大使を演じました。
『千葉真一とザ・サタンズ』のドラマーとして、
九州巡業や東京のジャズ喫茶でライブを行い、
その際には司会も兼務。
千葉はデビューしてから、
潮に相談相手になってもらってもいました。
1993年の『第32回日本SF大会 DAICON6』にゲストとして招待されましたが、
出演する企画の前夜にホテルの部屋で倒れました。
付き添いの唐沢俊一は止めるよう勧めましたが、
体調不良を隠して出演。
暗黒星雲賞ゲスト部門を受賞。
本人も喜んでいましたが、
これが実質上「地獄大使の最後のステージ」に。
1993年9月19日 午前0時28分。
肝硬変のため、
神奈川県川崎市高津区の虎の門病院分院にて死去。
68歳没。
生涯独身でした。
(潮健児)
斎藤洋介さん
(1951年7月11日 - 2020年9月19日)
俳優、声優。
身長170cm。
愛知県名古屋市出身。
名古屋学院高等学校(現名古屋高等学校)、明治大学経営学部卒業。
息子は斉藤悠。
面長が特徴で、
しばしば「モアイ顔」と愛されました。
小学生時代のあだ名は「台湾バナナ」。
高校時代は応援部に、
明治大学時代は落語研究会にそれぞれ所属。
大学の落語研究会で三宅裕司と出会い、
卒業後、
劇団SETを立ち上げて名付け親となるも、
1979年頃に退団。
テレビドラマ初出演は
『男たちの旅路』第4部の「車輪の一歩」(1979年)。
身体障害者というテーマを真正面から扱ったことで評価が高く、
たびたび再放送されています。
このドラマでは車椅子の青年役を演じ、
初出演ながら
「ポルノ映画を見るために周囲の人に介助してもらう」
「両親に『トルコ風呂に行きたい』と告白する」
など難しい役どころながら重厚な演技を見せ、
古尾谷雅人らとともに注目を集めました。
これ以降はドラマの重要な脇役として活躍し、
善人から悪人までさまざまなキャラクターを演じました。
初レギュラーは
『1年B組新八先生』の美術教師・田中洋介役。
生徒と敵対するが徐々に打ち解けていく新任教師を好演し、
広く知られることとなりました(翌年の『2年B組仙八先生』でも同役で出演)。
1994年、
『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』と『家なき子』に出演し、
それぞれ迫真のいじめ役で注目されました(それ以前には1989年の東芝日曜劇場『教室』でも生徒をいじめる担任教師役を演じていました)。
その一方、
『聖者の行進』では人の良い心優しい人物を演じ、
いじめ役とは逆の役柄を演じきりました。
悪役を演じることが増えても、
私生活では家族想いな父親であり、
暴力を振るったり虐待したりするシーンになると、
「こういうことは絶対にやってはいけない」と
自らの演技を通して教育し続けていました。
バラエティ番組『SMAP×SMAP』には
初期の頃から準レギュラー出演しており、
コントや企画物でたびたび出演。
2011年4月から2014年3月までは、
NHKの小中学生向けバラエティ番組『大!天才てれびくん』内で放送されていたドラマに
『大!天才てれびくん』の舞台となったテレビ局の会長役として出演。
司会を務める出川哲朗・鈴木あきえや、
当時てれび戦士として出演していた鎮西寿々歌・岡田結実らとも共演。
また、
ドラマ内では
研究所主任担当のふかわりょうが提案した企画を必ず却下するのがお決まり。
映画『ヒポクラテスたち』で共演した
古尾谷や内藤剛志とは親交が深く、
特に
2003年3月に古尾谷が自殺した際の葬儀・通夜・告別式では号泣。
2020年7月に咽頭がんが見つかり、
切除手術を経て放射線治療を受けるなど闘病生活に入っていたしたが、
同年9月19日、
都内の自宅で夕食後に体調不良を訴え、
緊急搬送中に心肺停止となり死去。
69歳没。
(斎藤洋介)
守屋浩さん
(1938年9月20日-2020年9月19日)
歌手、俳優。
千葉県市川市出身。
安田学園中学校・高等学校卒業。
女優、歌手の本間千代子は元夫人。
所属事務所は
1960年より堀プロダクション(現在のホリプロ)、
所属レコード会社は
日本コロムビア→日本クラウン。
ホリプロ所属タレントでヒットした第1号。
亡くなるまで同社の所属でした。
1957年、
スイングウェストのバンドボーイとして芸能界入りし、
1958年に日劇ウエスタンカーニバルでデビュー。
ほぼ同時に
堀プロダクションを設立した堀威夫の提案により芸名を「守屋浩」に。
これは既に第一線で活躍していた
井上ひろし、水原弘に合わせたものと言われています。
3人合わせて「三人ひろし」と言われた時期も(かまやつひろしを入れて「四人ひろし」となる場合もあります)。
堀威夫は守屋を自宅に下宿させ、
ギターや歌の特訓を施しました。
結果、
守屋は当時のロカビリーブームで大躍進し、
茶の間にも知られるように。
1959年、
ロカビリースターを多数起用した東宝の「檻の中の野郎たち」にて映画デビュー。
同作の主題歌も歌いヒット。
しかし、
少年院を脱走するという映画の内容に社会的な批判が起き、
レコードの販売中止の憂き目にあいました。
そんな中、
日本コロムビアのディレクター長田幸治の「浜口庫之助の曲を守屋に歌わせたら」
というアイデアにより、
浜口庫之助に楽曲制作を依頼。
すき焼きを食べながら堀威夫に口説かれた浜口は
「僕は泣いちっち」を守屋に提供し大ヒットに。
デビューより堀が銀座ACBの谷富次郎と設立した東洋企画に所属して活動していましたが、
1960年に堀が同社を追放されると、
堀が設立した堀プロダクションに移籍。
その後も
「大学かぞえうた」や「有難や節」などをヒットさせます。
なお、
プロダクション設立時堀の自宅には電話がなく、
電話を引いていた守屋のアパートを仮事務所として
ホリプロはスタート。
また映画でも活躍。
出演作は20本を数えます。
1976年3月からは
ホリプロダクション(堀プロダクションを改名)の社員に転じ、
同社の宣伝部長などを歴任。
ホリプロタレントスカウトキャラバンの立ち上げに関わり、
1976年の第1回(榊原郁恵と荒木由美子を発掘)では
実行委員長を務めました。
1986年に正社員としては退社し、
改めて社業兼務のタレント契約に移行して歌手活動を再開。
この頃静岡県伊東市へ移住し、
並行してカラオケ教室を開いていました。
その後も2011年時点では
ホリプロのスカウト部長を兼務して新人の発掘などの業務を行い、
また
次代を担う若い歌手及び社員などの教育・指導にも当たっていました。
なお、
守屋はホリプロ(1990年再改名)創立当時より2020年時点に至るまで
在籍した唯一のタレントでもありました(守屋の次に在籍年数が長いのは和田アキ子)。
そのため
歌手・タレントしての活動は一時はほとんど行っていませんでしたが
1986年の正社員としての退社後、
本格的に活動を再開させ、
懐メロ番組や歌のステージなどにも積極的に出演するように。
近年、脳梗塞に倒れたがリハビリの末に復帰。
病気の後遺症もあり、
2008年以降はステージに置かれた椅子に座っての歌唱となっていました。
2020年9月19日、
前立腺がんのため、静岡県内の施設で死去。
81歳没。
(守屋浩)
草薙幸二郎さん
(1929年9月19日-2007年11月11日)
俳優。
東京市北豊島郡王子町(現・東京都北区)出身。
日本大学文学部哲学科中退。
劇団民藝を経て、アクターズカンパニーに所属。
長男の草薙仁は俳優で、
長女の草薙かおりも元女優。
劇団民藝在籍中の1953年に映画『夜明け前』でデビュー。
1956年には今井正監督の『真昼の暗黒』で主役に抜擢され、
第1回製作者協会の新人賞を受賞して注目されます。
その後は日活映画を中心に活動。
アクション系作品では凄腕の刺客や謎の中国人などを演じました。
映画産業の斜陽化後はテレビドラマにも活躍の場を拡大。
時代劇から現代劇まで、
主にインテリ系の悪役をさまざまな作品で演じてきましたが、
晩年では悪役以外の老け役にも演技の幅を広げていました。
2007年11月11日、
間質性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。
78歳没。
(草薙幸二郎)
小野寺昭さん
(1943年9月19日-)
俳優、大阪芸術大学短期大学部客員教授。
身長173cm。
北海道帯広市出身。
北海道帯広三条高等学校卒業。
もともと引っ込み思案の恥ずかしがり屋で、
人前で何かをすることが苦手でした。
地方公務員の父親がアマチュア劇団を主宰しており、
舞台を覗いた時に、
普段できないことをお芝居という力を借りて
別人になってできることに興味を持ち俳優を志します。
高校時代に演劇部の部長として『夕鶴』の与ひょう役を演じ、
高校演劇コンクールで地区代表に選ばれて北海道大会に出場。
高校卒業後、
東京で児童劇団を主宰していた父親の元劇団仲間を頼って、上京。
俳優座養成所入所を目指すも2年連続で受験に失敗。
最終選考では高橋長英が隣の番号で、
合格していれば花の15期生でした。
劇団やまいもに参加し、
『チロリン村とくるみの木』の人形操作を最終回まで担当。
芝居のセリフを入れたテープをもらい、
カット割りを頭に入れ、
スタジオでテープの声に合わせて、
足元のモニターを見ながら人形を操作する作業により、
ドラマ・映画の撮影時のカット割りの要領を独学で覚えました。
1969年、TBSの『パンとあこがれ』に出演、
25歳で17歳の役を演じました。
1970年には
第8回プラハ国際テレビ祭演出賞受賞作品であるNHK『ナタを追え』(橋本忍原作)で
中心人物の小西順吉巡査役で出演、
1971年には
木下惠介ドラマ『冬の雲』の小鄕良助役で、
優しくて物静かで誠実な男性を好演、
雑誌の『Myojo』や『週刊平凡」でも話題になり、
若い女性の間で評判に。
同年には旧日活体制最後に映画『不良少女 魔子』で映画初出演を果たし、
重要な役を演じました。
1972年1月には昼ドラ『むらさき心中』で
主役・渡辺美佐子の相手役を務め主婦層に注目されました。
1972年7月、『太陽にほえろ!』で島公之刑事(愛称「殿下」)役に起用され、
番組開始から8年間(414話)レギュラー出演、
スターの座を確立。
特に女性層から絶大な人気を獲得して代表作のひとつとなりました。
1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』では、
小西行長を演じて評判を得ました。
『太陽にほえろ!』降板直後の1980年10月から、
平岩弓枝原作のNHK時代劇『御宿かわせみ』に出演、
真野響子が演じる主人公・るいの恋人役・神林東吾を演じて好評を得ます。
計47回の放送は大河ドラマに匹敵する充実した内容となり、
「真野・小野寺コンビ」の印象が強かった作品となったことから、
NHKが再び『御宿かわせみ』を制作するまで
20年近い歳月を必要とするほど人気を博しました。
2時間ドラマにも多数出演し、
明智小五郎、金田一耕助、十津川警部、狩矢警部などの名探偵役に起用(明智と金田一の両方を演じたのは2006年末現在、小野寺、岡譲司、稲垣吾郎の3名のみ)。
『If もしも』では、
出演当時50歳でギャグ作品ではないにもかかわらず、
回想シーンでも学生服を着て高校生役を演じました。
2007年4月には
大阪芸術大学短期大学部広報学科(現・メディア芸術学科)演劇(演技演出)コース教授に就任。
2012年6月には、
前任者の川村龍一が急逝したため、
同学科の学科長に就任し、12年間務めました。
バラエティ番組出演も増加。
2015年度、
『龍三と七人の子分たち』で 
第25回東京スポーツ映画大賞・助演男優賞を受賞(近藤正臣、中尾彬、品川徹、樋浦勉、伊藤幸純、吉澤健、安田顕とともに受賞)。
2018年8月7日、
長野県安曇野市の北アルプス燕岳燕山荘内で階段を踏み外して頭を打ち、
ヘリコプターで長野県松本市内の病院に搬送。
外傷性くも膜下出血と診断されましたが、
軽症とみられ、2週間程度で退院できるとされました。
(小野寺昭)
河原崎長一郎さん
(1939年1月11日-2003年9月19日)
俳優。
東京府武蔵野町(現在の東京都武蔵野市)出身。
東京都立武蔵高等学校卒業、
早稲田大学第一文学部中退。
独立企画に所属。
四代目河原崎長十郎の長男。
妻は伊藤榮子。
弟は河原崎次郎、河原崎建三。
岩下志麻はいとこ(母親が姉妹関係)。
親族や友人、仕事仲間たちからは「長さん」と呼ばれ親しまれていました。
幼少の頃より舞台に立ちますが、
反抗期だった高校時代に子役を務めた前進座の舞台が嫌になり、
早稲田大学に進学。
画家になるなどと言い始めたため、
厳しい長十郎も考えあぐね、
親友・内田吐夢と薄田研二が長一郎の身柄を預かる形で、
早稲田大学在学中の1961年に東映に籍を置くことになり東映と契約。
東映で5年間準主役を続け、東映作品30数本に出演。
1963年の『五番町夕霧楼』で
佐久間良子演じる主人公と心を通わせる若い僧役などが高評価を受けました。
1965年、
古巣の前進座に帰参し、研究生からスタート。
40代頃からは
「日本の良き優しい父親像」を多く演じ、
ホームドラマに欠かせない存在となりました。
糖尿病の持病があり、
一時病状が小康を得た頃に『花の咲く家』にて
昼ドラとしては例外的に主役を務めました(第3部)。
1990年代後半からは
脳血管障害(脳梗塞)も患い、療養生活を送ることに。
2003年9月19日、
急性心不全のため64歳で死去。
妻とは「おしどり夫婦」として知られていました。
特技は日本舞踊、乗馬。
(河原崎長一郎)

ヤクルトは昭和40年の最初までは瓶入りでした🥰🐼❤️

「週刊実話」1960(昭和35)年9月19日号。婚約発表した #大島渚 監督と女優 #小山明子 さん。「神の存在も信じていないのに三三九度などいやだ。結婚届を区役所に出すだけでいい」のコメントは、いかにも大島監督らしい。画像4は愛らしい #岩下志麻 さん。

中学生の時、級友の悪ガキどもが勝手に
どこかの月刊誌とかの文通コーナーで
俺が募集してる事にして住所名前を
書きやがった。
ある日、相手の女の子から手紙が来た。
文通の御礼とこれからも宜しくの挨拶。
悪ガキどもが学校に月刊誌持ってきて
「小川の奴、文通相手募集してんだぜ」と
女子たちの目の前で恥を掻かせやがった。
何回も手紙が来て
「何故、お返事くれないの」と書いて
あった。
良心が痛んだが、初心だった俺は滔々
返事を書かなかった。
今でも偶に思い出す。罪も無い女の子に
返事も出さない自分に腹が立った。
クソ真面目にガチガチ硬派だった所以に
自分が応募したのでは無いからと一切
手紙を返信しなかった。
一通でも返事を出せば楽しい歓談がきっと
出来たに違いない。
だが女の子相手に何を書けば良いのだろう?
恥ずかしさに純心無垢な俺は心が痛んだ。
今なら喜んで何回も返事を書いただろう。
勿論、清らかな返事を交し合っただろう。
中学生だったあの頃が懐かしい。
返事も出せぬ愚かな自分でも、相手の女の子
から時々届いた可愛い便せんが来ると内心は
とてもわくわくドキドキしたものだった。
嬉しかった。
悪ガキどもは罪を作ったもんだな!
よくも初心な俺の心を痛ませ、相手の女の子
にも心に傷を負わせた罪は大きい!
今やスマホでリアルタイムに交信できるが
昔は数日掛けて届く相手からの手紙の文章に
一喜一憂し、手紙をやりとりしてた時代が
あったのだ。
内田勝正さん
(1944年9月19日-2020年1月31日)
俳優。 
千葉県野田市出身。
1967年に青山学院大学を卒業。
在学中はESSに参加し、英語劇を上演。
卒業後の1968年、劇団四季を経て、
三島由紀夫を中心とする劇団「浪曼劇場」の結成に参加。
中村伸郎、中山仁、勝部演之、川合伸旺らと共に、
劇団の中心俳優として舞台に立ちます。
三島には眼をかけられ、
舞台『サロメ』ではヨカナーン役に抜擢されますが、
三島の死後、劇団は解散。
以後はテレビ・映画を中心に活躍。
刑事ドラマ・時代劇の名悪役として知られており、
テレビ時代劇『水戸黄門』ではゲスト最多の68回出演。
悪役への転機は
1972年の『木枯し紋次郎』第1シリーズへの出演がきっかけ。
第11話で渡世人を演じたのが市川崑に注目され、
市川が演出した最終話(第18話)「流れ舟は帰らず」に
再度、敵役として出演。
以後、悪役としての出演依頼が多くなりました。
悪役としては厳つい表情に冷徹な口調などで、
首謀者から参謀役、
(主に若い頃は)手下まで幅広くこなしました。
その一方で、
TBSドラマ「隣の未亡人」(主演:二宮さよ子)では、
一見、悪役と思わせながら、
実は主人公の再婚相手である雑誌編集者の役(二宮演じる主人公は作家)を演じたりしていました。
日本俳優連合副理事長として俳優の権利向上・生活向上にも尽力。
特技は
乗馬、英会話、スクーバダイビング。
趣味は
ゴルフ、麻雀、モダンバレエ。
2020年1月31日16時33分、
肝臓がんのため、東京都内の病院で死去。
75歳没。
(内田勝正)

9月19日は歌手・女優 #島田歌穂 さんのお誕生日です。おめでとうございます! ますますのご活躍をお祈りいたします♪ #がんばれロボコン #大鉄人17 #GOGOチアガール ほか多数。

田中明夫さん
(1926年9月21日-2003年1月19日)
俳優、声優。
東京都四谷区舟町出身。
芝中学校卒業。
中学生時代から歌舞伎を好んで親しんでいたことで、
それが高じて役者の道を目指すことになる。
1944年(昭和19年)、
松竹大船内の「劇団大船」に入団、
1946年(昭和21年)には
「児童劇団テアトル・ピッコロ」に移り、
1949年(昭和24年)に
劇団の分裂騒ぎからテアトル・ピッコロを退団、
1950年(昭和25年)に
三島雅夫らの演劇研究会「一九五〇年」に参加し、
後にこのメンバーで劇団七曜会を結成。
1955年(昭和30年)に劇団四季に入団。
1974年(昭和49年)にフリーになって以降も
テレビドラマ、映画、舞台などで存在感のある脇役として活躍。
特に憎々しい悪役がはまり役で、
テレビ時代劇『水戸黄門』では常連悪役の一人でした。
また、伊丹十三監督の映画作品にも多数出演。
洋画の吹き替えなど声優としても活躍。
2003年(平成15年)1月16日
自宅で入浴中に意識不明となり、
救急車で病院に運ばれましたが
3日後の19日、
肝不全のため入院先の神奈川県横須賀市の病院で死去。
76歳没。
(田中明夫)