Apex product 【 昭和の楽しい時代㉟ 】

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内田良平さん
24年   千葉県銚子市出身
法政大学予科に通っていたが戦況の悪化でやる気を失い帰郷。
そのうち終戦を迎え代用教師など務めたりしていたが法政大学に通い直し、51年劇団に入り演劇を目指すようになる。
イタリア映画やフランス映画のフィルム・ノワールが似合いそうなシブい感じでしたが後年のコミカルでとぼけた演技も大好きでした。
詩人としても活動され72年の「ハチのムサシは死んだのさ」の元詩は内田さんの作。
84年巡業先で心筋梗塞により急死 60歳
河童の三平 妖怪大作戦
ここは どーこの ほそみちじゃあー
じごくがわらともうしますー🎵
三平の行方不明のお母さんが
人力車に乗って何処かへ行ってしまうシーンがオープニングあたりで
出てくるのですが、子供心に怖かったです…
"かわいい魔女ジニー"
中村晃子さんの吹替え「殿❣️との~💕」
かわいかったですね。また観たいです
BS松竹東急あたりでやってくれないかなあ

オー、モーレツ。

たこ八郎さん
( 1940年11月23日-1985年7月24日)
元プロボクサー・コメディアン、俳優。
元日本フライ級王者。
座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。
宮城県仙台市新田(現宮城野区)の農家に、
8人兄弟の次男として生誕。
少年時代に友達と泥んこの投げ合いをしていて、
泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失います。
仙台育英学園高等学校在学中、
ボクシング部に入部。
2年生時には宮城県大会で優勝。
高校卒業後上京し、様々な職を転々とした後、
笹崎ボクシングジムに入門。
左目の障害を隠し、
視力表を丸暗記してプロテストに合格、
1960年9月、プロボクサーとしてデビュー。
1962年、
第13代日本フライ級チャンピオン。
髪型を河童のように刈り込んだことから
「河童の清作」の愛称で呼ばれました。
左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、
相手のパンチをかわさず打たれ続け、
さらに挑発的な言葉を相手に投げかけ、
相手が打ち疲れ戦意を喪失した後に反撃してラッシュをかけるファイトスタイルを用いました。
この戦術は、
漫画『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈のモデルになったとも言われています。
しかし、
受けた頭部へのダメージ蓄積によりパンチドランカーとなり、
王座防衛戦敗退を期に引退。
引退翌日、
同郷のコメディアン・由利徹に弟子入り。
「たこ八郎」の名を与えられ、劇場やキャバレーに出演。
なお、
芸名は由利とよく行っていた自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から。
最初は「太古八郎」と名付けましたが、
漢字が書けないからと平仮名に変えたといいます。
当初は師匠の由利宅に住み込みでしたが、
パンチドランカーの症状で、
台詞覚えが悪く、寝小便も度々あったため
本人がそれを気にし、
その後は友人宅を泊まり歩きました。
受け入れた友人たちはたこの素朴で温厚な人柄に触れ、
邪険に扱うことはなかったそうです。
また、毎晩のように飲み屋で過ごしていましたが、
請求が来ることはなかったといいます。
作家の団鬼六の鬼プロダクションの正社員となり、
団のアシスタントを務めていた時期があり、
アシスタントといっても、
事務所の留守番が主な仕事で、
食事、掃除、洗濯等の家事全般を引き受けていました。
その団は、
たこを座長に据えた喜劇一座をプロデュース。
主にポルノ映画館で映画の前座として公演し、
好評を博しましたが、
ポルノ映画業界が前座に芝居公演などの興行を組むことをやめるようになったため、
たこの喜劇一座も解散。
団鬼六との出会いは
たこのマネージャーが売れない彼を売る為に声優の仕事をさせようと当時、
和光産業で吹き替えの台本を書いていた団に相談し、
彼が担当していたテレビアニメ『がんばれフレッド』に
声優として起用されたことであるとされます。
コメディアン転身後、
ストリップ劇場やキャバレー、ピンク映画に出演すると、
これを見た山本晋也に気に入られました。
また、
1965年からの『網走番外地』シリーズに出演する由利徹に付いて行った所、
過去にたこの試合を見ていた高倉健(当時、東映所属)から声をかけられ、
これらのことから
1970年代頃に山本の監督作『未亡人下宿』シリーズをはじめとするピンク映画や、
高倉の主演映画やその他東映の一般映画などに多数出演することに。
その後1977年の
高倉の主演映画『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、
俳優としてのたこの名が広く知られるように。
晩年には新宿区富久町に移り住んでいました。
テレビ出演で人気を獲得していた1985年7月24日の午前10時20分頃、
たこは神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海水浴場で飲酒した後に海水浴をして、
心臓麻痺によって急死。
(たこ八郎)

昔のパチンコ屋さん

素人のど自慢大会
 この写真は約63年前、鹿児島市山下町において、興業信用組合創立十周年記念「素人のど自慢大会」の模様を撮影したものです。
 
 当時は、タレントの瀬川洋一郎が司会を務める「MBC素人のど自慢大会」や「職場対抗歌合戦」など、市民や鹿児島市内の企業で働く人びとを出場者とした歌番組が多かった。
         (昭和35年頃の写真提供)
~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、鹿児島市の昭和)
ロンドンロンドンロンドン
愉快なロンドン楽しいロンドン
ロンドンロンドン
タバコは子供の頃、150円とかだったけど
今は驚くほど高価になりました。
マイルドセブンの価格の推移です。
77年...150円
80年...180円
83年...200円
86年...220円
97年...230円
98年...250円
03年...270円
06年...300円
10年10月...410円
14年4月...430円
16年4月...440円
18年10月...480円
19年10月...490円
20年10月...540円
タバコを吸い始めた時は180円でした。
86年から民営化されJTになり
2010年に一気に値上げしてますね。
私は490円に値上げした時に辞めました。

♥️2023💃7/24 河合奈保子(60歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

🟣昭和の結婚記念写真🌸🌸🌸
🟢佐藤蛾次郎夫妻、篠山紀信が撮った本物の写真です。❤️🧡💛
🟠男はつらいよ『源公』
円谷浩さん
(1964年3月8日-2001年7月24日)
元俳優。
身長180cm。
東京都世田谷区出身。
堀越高等学校卒業。
ウルトラシリーズなどの特撮番組で知られる円谷プロダクションの創業家一族であり、
祖父は円谷英二、父は円谷一。
また、
円谷昌弘(円谷プロダクション第5代社長)、
円谷英明(円谷プロダクション第6代社長)を兄にもち、
妹には円谷一美(旧名:又紀仁美、シンガーソングライター)。
高校在学中に、
松田聖子主演『野菊の墓』(東映)のオーディションを受けるも、
最終選考の手前で落選。
しかしオーディションでの緊張感が忘れられず、
本格的に役者を志します。
高校卒業後、円谷プロダクションに入社。
同プロダクション芸能部所属となり、
1982年にテレビドラマ『特捜最前線』(テレビ朝日)のゲスト出演でデビュー。
『高校聖夫婦』(TBS)の準レギュラーを経て、
1984年には『宇宙刑事シャイダー』(テレビ朝日)で初主演。
アクション俳優でないにもかかわらず、
主人公・沢村大役を体当たりで演じました。
1985年に出演したNHK新大型時代劇『真田太平記』が転機となり、
以降は活躍の場を京都中心とし時代劇への出演が増加。
映画では、
1991年に夢枕獏原作『超高層ハンティング』(松竹)で、
人知れず突然変異した人間と戦うサイコシストのリーダーを演じ、
『宇宙刑事シャイダー』のパイロットも手掛けた
澤井信一郎監督『福沢諭吉』(東映)にも出演。
1989年『ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟』(TBS)では、
ウルトラマン=ハヤタ隊員役の黒部進をモデルとした黒河進役で出演。
パック・イン・ビデオから発売された、
円谷プロ作品の集大成・再編集ビデオ『THEウルトラ伝説』シリーズでは、
円谷昌弘の発案でナレーションを担当。
『ウルトラマンティガ』(毎日放送)の番外編的かつ
円谷プロ黎明期へのオマージュ的なエピソードである「ウルトラの星」(第49話)では
『ウルトラQ』の本編撮影を演出する父・円谷一の役を演じました。
その後、
『ウルトラマンダイナ』のミヤタ参謀、
『ウルトラマンガイア』の田端健二と、
一連の平成ウルトラシリーズでも重要な役を務めました。
俳優活動の中心であった東映京都撮影所時代には、
撮影が終わるとスタッフや共演者と飲酒することが日常的。
この影響から結果として肝機能障害を発症し、
2000年に体調不良を理由に俳優を引退。
同年4月より円谷プロダクション芸能部マネージャーを務めていましたが、
翌2001年7月24日、
神奈川県相模原市の病院で肝不全のため逝去。
37歳没。
(円谷浩)

1952年8月のエロ本

7月24日は映画「#ゴジラ対へドラ」公開52周年。当時 田子の浦港に集積するヘドロ問題に代表されるように「公害」は、企業倫理の荒廃を端的に表していた。体躯を溶かされながらへドラを撃退したゴジラは、公害を産んだ人間達への軽蔑の眼差しを残して去る。サイケデリック・カルチャーを体現した #麻里圭子 女史が美しい。

7月24日は作家 #谷崎潤一郎 氏のご生誕日。画像は1949(昭和24)年公開映画「#痴人の愛」(主演:京マチ子)の看板が散見される、約70数年前の北海道の風景。谷崎氏の私小説である同作は、カフェーでしたたかに生きる少女ナオミが主人公。モデルは谷崎氏の妻。

七五三のお参り
 この写真は約69年前、鹿児島市池之上町に所在の若宮神社において、七五三のお参りを記念撮影したものです。
 
 若宮神社は大龍小学校の北東側にあり、「鹿児島五社」の第5とされている。鹿児島五社とは上町地区にある5つの神社のこと。
 島津氏と関わりの深い神社を巡ってお参りする風習が昔からあった。社殿の屋根に丸に十の字(藩主島津家の家紋)が見える。女の子の着物姿も見え、かしこまった服に身を包んだ子どもたちは窮屈そうな顔。 
 地域の七五三参りの記念写真である。
          (昭和29年の写真提供)
~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、鹿児島市の昭和)

7月24日はアナウンサー・タレント・歌手・女優 #酒井ゆきえ さんのお誕生日です。おめでとうございます♪ #ママとあそぼうピンポンパン(3代目おねえさん)

イオタが出た時
半狂乱になって喜びました

🟣こわいペコちゃん😩😩😩

たてかべ和也さん
(1934年7月25日-2015年6月18日)
俳優、声優、マネージャー。
設立時より死去するまでケンユウオフィス取締役を務めていました。
北海道虻田郡喜茂別町出身、東京都世田谷区下北沢育ち。
北海道虻田郡喜茂別町で誕生。
先祖は除虫菊の栽培をしていたといいます。
父は胆振縦貫鉄道に勤めていましたが、
身体が弱く仕事を続けられないこともあり、
小学2年生の時に東京都世田谷区下北沢に転居。
戦時中の小学4年生の時は
長野県松本市北東部にある浅間温泉に疎開していましたが、
その後、長野県塩尻市洗馬に疎開先を移しました。
その頃、夜ごと寝小便をするようになり、
終戦の前後6ヵ月間続いていました。
疎開先から実家に帰った途端、寝小便は止まって、毎日、東京都世田谷区立代沢国民学校(現・世田谷区立代沢小学校)から帰ると
野球に熱中。
第1期生として
東京教育大学附属駒場中学校(現・筑波大学附属駒場中学校)へ入学後も
野球に熱中。
同高等学校時代に
「人手が足りないから出てくれないか」と頼まれて
演劇部の公演『アルト・ハイデルベルク』に参加。
しかし何事にも縛られることが嫌いだったことから演劇部に入っていませんでした。
芝居に興味があったわけではなく一人っ子のため、
将来、
両親の面倒を見るためにとあまり勉強は好きではなく
演劇学科だったらなんとなく遊べるような印象があったため
日本大学芸術学部演劇学科に進学。
大学時代の同級生に小林清志。
同大学卒業後、
テレビプロデューサーを目指して、
北海道から九州まで、
数々の放送会社の就職試験に落ちて日本テレビの大道具係をしていました。
勤務のかたわら、
大学時代の同級生だった田中康郎と組んで、
劇団演劇座を結成し、
『毒薬と老嬢』を北海道札幌市まで公演。
その時に大学時代の同級生の小林から
「俺たちの劇団に来ないか」と言われて、
劇団泉座に入団。
テレビ放送開始後、
洋画の吹き替えに出演して声優としての活動を始めます。
テレビドラマのデビューは『ダイヤル110番』。
その後オフィス央という事務所を興し、
社長職と声優を兼務していましたが、
1984年ぷろだくしょんバオバブに吸収合併。
堀内賢雄を見出したのはこのオフィス央時代。
堀内がバオバブから独立し、
ケンユウオフィスを立ち上げてからは、
たてかべも同事務所に移籍し取締役も兼務。
2005年、第14回日本映画批評家大賞で、
『ドラえもん』のレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、肝付兼太の4人)とともに
田山力哉賞を受賞。
さらに2006年11月、
第11回アニメーション神戸で、
同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞。 
2007年3月には東京国際アニメフェア2007で、
同じくオリジナルレギュラー陣4人と共に第3回功労賞を受賞。
2009年に、胃癌を患い胃を全摘出。
この際の治療でこだわったのは、
レギュラーだった『ヤッターマン』のトンズラー役をやりきることでした。
2015年6月18日午後1時49分、 
急性呼吸不全のため、東京都で死去、80歳没。
(たてかべ和也)
下絛正巳さん
(1915年8月26日-2004年7月25日)
俳優。
釜山生まれ。
両親は長崎県壱岐の出身。
釜山第一商業学校卒業。
20歳まで釜山で育ち映画監督を志し上京。
1936年、
村山知義らの新協劇団に入団し、『天祐丸』で初舞台。
戦後、第2次新協劇団の創建に参加。
1951年、劇団民藝に入団。
多くの舞台に出演するも、
1971年に内部での対立が起こり、
佐野浅夫、鈴木瑞穂、佐々木すみ江らと退団してフリー。
映画・テレビドラマにも進出し、
中でも『男はつらいよ』シリーズでの3代目・おいちゃん(車竜造)役は
広く知られています。
なお、
初代・二代目と比較するとシリアス寄りのキャラクターへとなりましたが、
これまでの森川信や松村達雄のおいちゃん役では表現しきれなかった、
「普段は寅次郎に厳しく接し、
親代わりとして真剣に心配している」
という芝居の良さが寅さんファンの語り草の1つとなっています。
松竹映画を支える名脇役の1人として活躍したのち、
晩年は北野武監督作品にも迎えられました。
2004年7月25日午後3時55分、
膵臓がんで都内の自宅で死去。
88歳没。
1999年10月放送のテレビドラマ『旅立つ人と』(脚本・山田太一)が遺作。
妻は元女優の田上嘉子、長男は俳優の下條アトム。
(下絛正巳)

♥️2023💃7/25 高島礼子(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

古賀政男さん
1904年11月18日-1978年7月25日)
昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。
国民栄誉賞受賞者。
栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。
明治大学商学部(旧制)卒業。
少年時代に弦楽器に目覚め、
青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、
大正琴を愛しました。
その後は、
プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、
昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、
数多くの流行歌をヒットさせました。
生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、
「古賀メロディー」として親しまれています。
また、小林幸子をスカウトしたことでも知られます。
福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に
8人きょうだいの6番目として誕生。
近くには水の都柳川があり、
その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフに。
5歳のときに父が他界し、
母と姉、弟とともに7歳で故郷を離れ、
働いている長兄がいる朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代を過ごしました。
故郷喪失の悲しみは『人生の並木路』のモチーフとなりました。
朝鮮では最初は仁川に、その後は京城で暮らしました。
従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃。
古賀政男が初めてマンドリンを手にしたのは中学3年(京城善隣商業学校)のときで、
一番仲の良かったすぐ上(4番目)の兄からマンドリンを贈られました。
この時期から音楽家への道を志すように。
善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、
1923年(大正12年)に明治大学予科に入学し、
明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画。
1928年(昭和3年)夏には
旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るも、
同行していた友人の発見により未遂に終わります。
そのときに見た蔵王の夕暮れから
名曲『影を慕いて』の詩が浮かんだといわれています。
1928年の秋の定期演奏会は同年春に開館したばかりの
明治大学記念館講堂で開催され、
このとき佐藤千夜子の知遇を得ました。
また、
この頃「音楽は和也(なり)」の理念が生まれました。
1929年(昭和4年)春の大学卒業後は
指導者となり音楽活動を続けました。
6月、
明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。
その年の暮れには、
佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、
『文のかおり』など自作品をビクターで吹き込みました。
1930年(昭和5年)秋にはビクターで、
『影を慕いて』と『日本橋から』を佐藤千夜子の歌唱によって吹き込み。
1931年、日本コロムビア専属に。
当初は作曲に自信がなく文芸部の社員を希望していましたが、
結局、作曲家として契約。
このとき、
東京音楽学校在籍中の藤山一郎と出会ったことが
古賀政男の人生を大きく変えることに。
藤山一郎の歌唱表現が古賀政男の才能を開花させたのです。
『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』の3曲が
SPレコードで発売され、
以降多くのヒット曲を世に出しました
(なお、藤山は東京音楽学校卒業後、ビクター専属に)。
1933年(昭和8年)には、
松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしましたが、
直後に離婚騒動などもあって体を壊し、
1933年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養。
翌1934年、コロムビアからテイチクに移籍。
ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、
『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』
などのヒット曲を発表。
1938年(昭和13年)秋、
外務省の音楽文化親善使節として渡米し、
ハワイ、アルゼンチンを訪問。
渡米直前にコロムビアに復帰。
1939年(昭和14年)秋、
アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、
全世界に向けて15分間にわたって放送されました。
帰国後は
『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』
などがヒット曲となりました。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に
近江俊郎が吹き込んだ『湯の町エレジー』がヒット。
同年には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立。
1960年代には
過去に自らの前で『悲しき竹笛』(万城目正作曲の『悲しき口笛』とは異なります)
を歌った美空ひばりの歌の作曲を手がけました。
1964年(昭和39年)発表の『柔』は190万枚を売り上げ、
1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞。
翌1966年(昭和41年)発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーに。
作曲活動の傍らで
1958年(昭和33年)には日本作曲家協会を創設し、初代会長に。
この翌年に服部良一らとともに創設したのが日本レコード大賞。
1965年(昭和40年)以降は
大正琴の普及にも努め、
自作曲の大正琴レコード、
オリジナルブランドの改良大正琴「KOGA TONE(古賀トーン)」を販売。
1974年(昭和49年)には平和への祈りを込め、
広島平和音楽祭の実行委員長を引き受けました。
第4回広島平和音楽祭に際して、
島倉千代子のために製作した「ひろしまの母」が最後のレコードに。
1978年(昭和53年)6月17日、
明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、
古賀自身最後の公の姿となりました。
それから約1か月後、
1978年7月25日の午後1時15分、
東京・代々木の自宅で急性心不全により死去、
享年73。
(古賀政男)
🎂本日2023/0725. はジャガー横田選手の誕生日です🎂
🎂62歳になりました🎂
平田昭彦さん
(1927年12月16日-1984年7月25日)
俳優。
身長173cm。
主に東宝映画、テレビドラマで活躍。
特撮分野の名優としても知られます。
夫人は女優の久我美子。
実兄に映画監督の小野田嘉幹、
義姉(嘉幹の妻)に女優の三ツ矢歌子、
実妹に女優の音羽美子。
日本統治時代の朝鮮の京城生まれ、東京都中野区出身。
東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校(60期)、
旧制第一高等学校を経て、
東京大学法学部政治学科卒。
東大では演劇部に所属。
母親が世田谷で映画関係者のよく利用する旅館を営み、
兄が映画界に就職したこともあり、
映画界への興味を抱き、
大学在学中は新東宝で助監督のアルバイトをやっていました。
1950年に大学を卒業すると東京貿易(現三菱商事)に入社。
しかし、映画界への興味は捨てきれず、
女優の山口淑子からの勧めもあって、
俳優への転身を決意。
1953年、
第5期東宝ニューフェイスとして東宝に入社し、
同年、
マキノ雅弘監督『抱擁』でデビュー。
同年、宝塚映画の『鉄腕涙あり』で映画初主演。
端整なマスクと知的で気品のある雰囲気で東宝の若手スターの1人となり、
文芸作品から、アクション、時代劇、戦争映画、コメディまで数多くの映画に出演。
岡本喜八、福田純、本多猪四郎、稲垣浩らの監督作品の常連。
戦争映画における士官役や、
アクション映画の殺し屋やインテリヤクザ役などで、
堂に入ったダンディぶりを発揮。
特に
1959年正月映画『暗黒街の顔役』で鶴田浩二の頼れる兄貴分、
翌年正月『暗黒街の対決』では一転して
鶴田と三船敏郎を苦しめる悪徳弁護士(殺し屋斡旋業で隊長でもある)は
見事なキャラクター使い分けで、殺し屋役では、
岡本脚本、福田監督の『100発100中』で純白のスーツに身を固めた硫酸魔など、
自分の体にこぼして最期をとげる間抜けさも含め、
平田ダンディズムの代表的演技となっています。
さらにクレージーキャッツ主演『無責任遊侠伝』では
中国の商人谷啓をいじめるギャンブルの名人でもある
暗黒街の顔役で登場、
犬塚弘に第二次世界大戦で敵前逃亡した元日本兵という正体を見破られた際のオタオタ演技、
イメージとは大きく異なる役にチャレンジする意欲を見せ
『無責任清水港』『殴り込み清水港』では一転し
次郎長一家きっての頼りになる兄貴分・大政を演じる変幻自在ぶりを発揮。
1954年、
東宝の特撮怪獣映画の第1作『ゴジラ』に芹沢博士役で出演、
以降東宝・円谷プロ系特撮作品の常連に。
芹沢博士は苦悩する科学者でしたが、
以後は主にクールで知的な博士・科学者役を得意として、
作品を引き締め、品格を与えました。
テレビでも『ウルトラマン』の岩本博士、
悪役としては『レインボーマン』のミスターKなどを演じています。
1970年代以降はテレビを活動の中心とし、
ドラマだけでなくバラエティ番組にも出演。
人気クイズ番組『ぴったし カン・カン』の
「ぴったしチーム」レギュラー解答者としても活躍。
この番組では、
司会の久米宏が休暇中に司会を代行する萩本欽一に替わって
「カン・カンチーム」キャプテンを務めたり、
ゲストとしても出演したことも。
東宝系を中心に舞台にも数多く出演し、
芸術座の『人間の条件』では主演、
帝国劇場では山田五十鈴演じる静御前の相手役として、
1カ月間にわたり源義経を務めました。
1975年に放送された『鬼平犯科帳』のテレビドラマ第三シリーズで、
主人公長谷川平蔵の理解者である若年寄・京極備前守高久を演じ、
以後、
1980年から放送された第四シリーズにおいても同じく京極備前守を演じました。
1983年にはゴジラ復活に向けてのキャンペーンにも芹沢博士の扮装で参加していましたが、
同年9月ごろ、十二指腸潰瘍を患い手術。
回復後はテレビ出演も続け、
1984年12月公開の『ゴジラ』では当初、林田信を演じる予定でしたが、
同年7月15日に呼吸不全となり、
駿河台日大病院に入院。
その結果、林田役は夏木陽介に譲り、
8月の収録で東都日報編集長役で出演する意欲を示していましたが、
1984年7月25日午前11時15分、
癌性リンパ管症で死去。
56歳没。
(平田昭彦)
島田陽子さん
(1953年5月17日-2022年7月25日)
女優。
身長171cm。
熊本県熊本市出身。
駒沢学園女子高等学校卒業。
3歳からクラシックバレエを習い、
高校まではバレリーナを目指していました。
8歳の時に東京へ移住。
中学1年生の時に劇団若草に入団。
テレビドラマのデビュー作は
1970年度版の『おさな妻』第11話「貞操の危機」(東京12チャンネル=現・テレビ東京、1970年12月11日放送)。
翌年、『続・氷点』では辻口陽子役を演じ、
最終回の視聴率は42.7%に達しました。
当たり役を得たことで一気に出演依頼が殺到し、
しかも出演作は高視聴率を誇ったため、
人気女優の座を不動のものに。
1970年代の映画・テレビドラマでは、
正義感あふれる良家の子女役を多く演じました。
1974年、
『われら青春!』でヒロインの女教師・杉田陽子役を演じ、
「清純派女優」として若者世代を中心に人気となります。
1980年、
アメリカのテレビドラマ『将軍 SHŌGUN』(映画編集され欧米・日本などで上映)で
ヒロイン・まり子役を演じ、
ゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞して
「国際女優」とも呼ばれました(『将軍 SHŌGUN』がゴールデングローブ賞の作品賞と主演男優賞(リチャード・チェンバレン)も受賞)。
『将軍 SHŌGUN』の大ヒットを受け、
翌1981年(28歳)には、
アメリカに在住する日系アメリカ人女性マラソン選手・ゴーマン美智子の自伝『走れ!ミキ』を
映画化した作品『リトルチャンピオン』に主演(アメリカ人スタッフによるオール・アメリカ・ロケの映画ですが制作国は日本)。
1988年の東映『花園の迷宮』で共演した
ロック歌手・内田裕也と不倫交際し、
内田に貢ぎ続けて多額の借金をつくります。
1988年、
ハワイのコンドミニアムで内田裕也と不倫密会をしている写真を
写真週刊誌『フライデー』に掲載されました。
内田裕也は島田と結婚するために
別居している妻・樹木希林に離婚を申し入れましたが樹木は拒否。
内田は役所に離婚届を提出しましたが、
樹木は離婚無効の訴訟を起こして勝訴し、
内田と離婚せず。
そのため、
島田は内田と結婚することができませんでした。
1992年、ヘアヌード写真集を発売。
その写真集『Kir Royal(キール・ロワイヤル)』は
出版科学研究所調べ、
2003年6月までの集計で55万部のベストセラーに。
1996年、
TVドラマ「丘の上の向日葵」(1993年4月期TBS系列東芝日曜劇場枠放送)で知り合った
3歳年下の照明ディレクター・米山仁と、
2年間の同棲を経て結婚。
米山には当時妻子がいた為、
島田は別れを切り出そうとしましたが、
逆に米山はその妻と別れてプロポーズ。
2011年1月、
MUTEKIからAV(イメージビデオ)に出演し、
往年のファンに衝撃を与えました。
2019年7月、米山仁と離婚。
2022年7月25日12時57分、
大腸がんによる多臓器不全のため東京都渋谷区の病院で死去。
69歳没。
(島田陽子)
1967年公開の映画「007は二度死ぬ」は、その殆どのシーンを前年 日本国内で撮影。日本人キャストに 若林映子 浜美枝 丹波哲郎 佐田の山 松岡きっこ 松崎真 きくち英一(ヒットマン役)に加え、終盤ブロフェルドの要塞を急襲する忍者隊役で若駒・JAFなど国内アクションチームが出演。

7月24日は漫画家 #青池保子 先生のお誕生日です。お身体大切に ますますご活躍くださいませ♪

青影を演じてた人

https://youtu.be/B0O-1sNMFdk
梅雨が明けて猛暑日が続いてますが如何お過ごしでしょう,くれぐれも熱中症には気をつけましょう⚠️
❬はいだ しょうこ❭さんで‘夏は来ぬ,です。
綺麗なソプラノですね。
郷愁を誘い,子供の頃の夏を思い出します(*´∀`)♪💞
土田早苗さん
(1949年7月26日-)
女優。
大阪府豊中市出身。
梅花高等学校卒業。
1958年小学校3年生の時に児童劇団“ともだち劇場”に入り、
1959年『がしんたれ』(菊田一夫 自叙伝・作演出、芸術座)で
主人公の初恋の人美也子役に抜擢され
6ヶ月ロングランの初舞台(1960年)を踏みました。
高校在学中の1965年、
夏木陽介主演の『青春とはなんだ』に
レギュラー女生徒・樋口育子として出演し、人気を得ます。
同作の映画化作品『これが青春だ!』にて映画初出演。
テレビドラマでは
1967年の『風』(TBS)へのレギュラー出演(第14回京都市民映画祭テレビ部門女優賞を受賞)で、
この作品を皮切りに、
『銭形平次』『大岡越前』『水滸伝』など時代劇作品を中心に活躍。
『大江戸捜査網』では稲妻お竜役を約5年間に渡って演じました。
(土田早苗)
萩原健一さん
(1950年7月26日-2019年3月26日)
俳優・歌手。
身長174cm。
ザ・テンプターズ及び、PYGのリード・ボーカル。
埼玉県北足立郡与野町(現:さいたま市中央区)出身。
ニックネームは「ショーケン」。
鮮魚店に非嫡出子として誕生。
東京都荒川区の聖橋中学校・高等学校(現在は廃校)在学中、
埼玉県大宮市でスカウトされ、
ザ・スパイダースの弟分バンド、
ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、
16歳だった1967年「忘れ得ぬ君」でデビュー。
高校は2年生の時に中退。
翌1968年には
「エメラルドの伝説」、「神様お願い!」、「おかあさん」(コーラス・ハーモニカ担当)など、
次々と大ヒット曲を飛ばして人気を得ました。
テンプターズ解散後した1970年に、
井上堯之、大野克夫、沢田研二、岸部一徳、大口広司らでPYGを結成。
各種ロックフェスティバルやテレビ出演などもこなしましたが、
音楽活動よりも映画監督を志すように。
1972年に製作された松竹映画『約束』(斎藤耕一監督)の製作現場に、
サード助監督として参加。
主演俳優・中山仁が降板したため、
代役に抜擢されます。
何人もの女優に出演を断られましたが、
最終的に岸惠子が共演を承諾。
この演技で高い評価を得て、
俳優へと本格的に転身。
同年のテレビドラマ
『太陽にほえろ!』の初代新人刑事=マカロニ役で
その人気を決定付けます。
1972年12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。
1974年には
神代辰巳とのコンビによる映画『青春の蹉跌』で
キネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。
続いて
日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)、
倉本聰脚本の『前略おふくろ様』(1975-76年)と
連続してドラマ作品に主演し、
後者は続編も制作されました。
1975年には
初のソロ・アルバム『惚れた』をリリース。
ソロ・アルバムの発表を契機として音楽活動を再開、
「お前に惚れた」、
「大阪で生まれた女」(1979年)、
柳ジョージ&レイニーウッドがバックを担当したライヴ盤『熱狂雷舞』を発表。
また同年モデルの小泉一十三と結婚し女児をもうけましたが3年で離婚。
俳優としても脚本家・橋本忍の指名を受け
松竹映画『八つ墓村』(1977年)や
黒澤明の『影武者』(1980年)などに出演。
誘拐犯を演じた『誘拐報道』(1982年/モントリオール世界映画祭審査員賞)、
『もどり川』(1983年カンヌ国際映画祭受賞作品)、
作家・連城三紀彦が萩原をモデルにしたという直木賞作品を自身で演じた『恋文』(1985年/日本アカデミー賞優秀男優賞)
などに出演。
1980年にいしだあゆみと結婚、
1984年に離婚発表。
1983年には映画『竜二』の主題歌「ララバイ」を歌唱。
1983年1月インドのカルカッタでチャリティコンサートを行いました。
同年4月20日、大麻不法所持にて逮捕され、
懲役1年・執行猶予3年の有罪判決となり、
1年間に渡って全ての活動停止を余儀なくされます。
復帰後も俳優業と平行して音楽活動を行い
「愚か者よ」(1987年)のヒット曲を出しました。
1984年、
飲酒運転で人身事故を起こし、業務上過失傷害罪で逮捕。
1985年11月には、
女優・倍賞美津子との2ショット写真を週刊誌に撮られて激昂。
カメラマンと編集者に暴行し、書類送検。
この時期、バイオリニスト・前橋汀子と交際。
1985年に1度ラスト・ライブをおこないましたが、
1990年にもコンサートを開き、
俳優業と歌手を併行して活動。
1993年に四国八十八箇所をお遍路し、
1400-1600キロメートルを37日という驚異的な早さで踏破。
1990年代のドラマ、映画では
東芝日曜劇場『課長サンの厄年』、
山口智子、室井滋と共演した『居酒屋ゆうれい』(1994年/報知映画賞・高崎映画祭主演男優賞)、
ドラマ『外科医柊又三郎』(1995年)などに出演。
2004年10月、
再び交通事故を起こし業務上過失致傷罪で現行犯逮捕。
また、
監督・スタッフ・共演者への暴言・暴行を繰り返したため
途中降板となった主演映画『透光の樹』の前払いの出演料半額分(750万円)の返還を
プロデューサーから求められた際に、
「一方的に降板させられた」として拒否。
同年11月に製作側から恐喝未遂容疑で告訴され、
翌年の2月に再び逮捕。
当初脅迫電話をしたことは否定していましたが、
証拠として録音された音声が出されると、
これを認めました。
この恐喝事件で2005年6月に東京地裁で
懲役1年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受け、
しばらく活動休止。
1996年には
ヘアメイク・アーティスト、由紀と
3度目の結婚をしましたが、
10年後の2006年に離婚。
2008年に
自叙伝『ショーケン』、
ボーカリストとしてゲスト参加した宇川直宏による
音楽ユニット・UKAWANIMATIONのデビューシングル「惑星のポートレイト 5億万画素」(作曲・プロデュース:石野卓球)で本格復帰。
5年ぶりの映画出演となった『TAJOMARU』(2009年/小栗旬主演)の
将軍足利義政役で日本映画批評家大賞の審査員特別男優賞を受賞。
2010年には東京・大阪で
7年ぶりのライヴ(トーク&ミニ・ライヴ)ツアーを行ないました。
2011年2月7日に、モデルの冨田リカと結婚。
「ジェットコースターのような人生だったけども、
今後は2人でメリーゴーラウンドのようなゆっくりした人生を歩みたい」と語りました。
晩年は芸能活動の傍ら、東洋思想や仏教研究に取り組みました。
2018年、
自身のレコードレーベル『Shoken Records』を設立。
同年5月9日に22年ぶりとなるシングル「Time Flies」をリリース。
2019年3月26日午前10時30分、
都内の病院でGIST(消化管間質腫瘍)のため死去。
68歳没。
(萩原健一)
人間の証明、野性の証明❗1976年1977年
原作者と角川文庫と角川映画❗一世風靡
テレビから毎日のように流れる人間の証明
の広告番組❗松田優作さんのセリフ
お母さん❗あの僕の麦わら帽子ー何処に
云ってしまったんでしょうね❗
ジョーyamanaka❤️
♫mamaーdo.you.remmenber.ー❗the.⁉️⁉️

俳優 #川口浩 さん。1956~62年、大映の若手トップスターとして活躍。大映退社後は実業家として不動産管理会社で指揮を振るい、『キイハンター』で共演した千葉真一・野際陽子夫妻(当時)も川口氏のマンションに住んだ。バラエティ『川口浩探険隊』などに出演するも、1987年 51歳で逝去。合掌。

森山周一郎さん
(1934年7月26日-2021年2月8日)
俳優、声優、ナレーター。
身長173cm。
愛知県出身。
俳優として舞台やテレビドラマなどに出演する一方、
渋みのある低い声質から声優としても活躍。
愛知県名古屋市生まれ。
小学4年生から高校卒業まで犬山市に疎開。
愛知県立犬山高等学校卒業。
在学時は野球部に所属しプロ野球選手を目指していましたが、
先輩である本多逸郎の縁で実現した中日ドラゴンズとの練習試合で、
当時の主力選手だった西沢道夫、児玉利一、杉山悟らの前に滅多打ちにされその夢を断念。
野球の次に好きだった映画の道へ進むことを決意。
1953年3月に上京。
当初は映画カメラマンになることを志望していましたが、
日本文化協会の募集に応募した際、
試験官だった巖金四郎から
「変わった声をしてるね」と言われたことで役者の道に。
カメラマンの学校を出ても、
18歳くらいにはカメラは触らせてもらえず、
ケーブルをさばいたりするだけのアシスタントしかやらせてもらえないことから、
面白くなく、
「撮る方をやるのなら、
撮られる方を勉強しても間違いはないんじゃないか」
と思って役者の勉強を始めたといいます。
俳優座の養成所に入る為に予備校に半年ほど通い、
劇団東芸の『蟻の街の奇蹟』を見て感銘を受け、
東芸の第1期研究生として入団。
日本大学藝術学部映画学科中退。
俳優としては、
1954年3月、劇団東芸研究生九十業公演『長女』(阿木翁助作・演出)の主演で初舞台。
多くの舞台に立つ一方で、
テレビドラマは1954年放映のNHK初の連続ドラマ『夢見る白鳥』第5回にバーの客役でデビュー。
以降は映画も含め多くの作品に出演。
刑事ドラマ『特別機動捜査隊』ではセミレギュラーの刑事役で出演し、
1970年代から90年代にかけての全盛期の時代劇やアクション系作品では、
黒幕や暴力団幹部などの重厚な悪役として活躍。
声優としては渋い声質を買われ、
吹き替えの草創期から活躍。
ジャン・ギャバン、
リノ・ヴァンチュラ、
スペンサー・トレイシー、
テリー・サバラス、
チャールズ・ブロンソンのようなハードボイルドな俳優を多数担当。
アニメではスタジオジブリ作品『紅の豚』のポルコ・ロッソ役が有名。
1999年7月23日、
脳梗塞を発症するも、処置が早かったため大事には至らず復帰。
ただし、
手足のしびれはなかなか改善されず一過性脳虚血発作による不随意運動も起き、
退院後も含め半年以上リハビリを続けました。
その後、晩年も精力的に活動し、
後身の育成にもあたっていました。
2020年12月、
自宅で転倒して大腿骨と腰を骨折し体調が悪化。
その後、救急搬送され緊急入院。
2021年2月8日午後9時10分、
肺炎のため埼玉県内の病院で死去。
86歳没(享年88)。
2020年放送のNHK連続テレビ小説『エール』の権藤源蔵役が最後の仕事となりました。
(森山周一郎)
天知茂さん
(1931年3月4日-1985年7月27日)
俳優・歌手。 
芸名は
ファンである中日ドラゴンズの天知俊一監督と杉下茂投手が由来。
愛知県名古屋市出身。
東邦商業学校卒業。
旗本・水野十郎左衛門の子孫で、
家は旧尾張藩士。
高校卒業後、1949年に松竹へ。
大部屋俳優以下の仕出し扱いでした。
2年間、通行人などをこなしましたが解雇。
1951年、
第一期新東宝スターレットに選ばれ入社。
同期には
左幸子、久保菜穂子、高島忠夫、三原葉子、松本朝夫、小笠原弘ら。
同期の新人が次々と主演に抜擢される中、
ここでもほとんど仕出し扱いで、
最初の2年間は給料わずか5千円、
兄からの仕送りがなければ暮らせなかったそうです。
仕出しやちょい役が続きましたが、
1954年、
蟻プロ制作の低予算映画『恐怖のカービン銃』で初主演。
その後も脇役ばかりでしたが、
大蔵貢が社長に就任すると、
経費削減の為、
給料の高いスター級の俳優とは契約を打ち切り、
脇役俳優に役が回ってきました。
1957年(昭和32年)、
『暁の非常線』で2度目の主演。
悪役俳優として注目されるようになりましたが、
当人は二枚目役を望んでいたので不満でした。
1959年、
映画『東海道四谷怪談』で監督の中川信夫より民谷伊右衛門役に抜擢され、
迫真の演技力により注目されます。
以後、
1961年まで多くの主演作が作られるように。
労働組合委員長として新東宝倒産まで在籍。
1961年、大映と本数契約。
時代劇を中心に準主演級で1971年の大映倒産まで活躍。
『座頭市物語』の平手造酒役での個性的な演技で頭角をあらわし、
田宮二郎主演の犬シリーズではコミカルなショボクレ刑事役をこなしました。
伊藤大輔脚本・三隅研次監督・伊福部昭音楽の『眠狂四郎 無頼剣』(シリーズ第8作)では、
狂四郎の敵役として対等の存在感を見せました。
1964年以降は
兄貴分の鶴田浩二のいる東映の任侠映画でも準主演級で活躍。
次第に役域を広げる機会に恵まれ、
1968年には三島由紀夫の依頼により、
美輪明宏主演舞台『黒蜥蜴』(原作は江戸川乱歩、脚色は三島)で
明智小五郎役を演じ、これが当たり役に。
1966年に「A&Aプロダクション」を設立し独立(後にアマチプロゼに改称)。
弓恵子、北町嘉朗、岡部正純、宮口二郎、池田駿介、堀之紀、山崎純資などの俳優が所属。
ニヒルな渋さを漂わせた個性派俳優としてハードボイルドの代表的スターの一人となり、
かつてとは逆に、
刑事など社会正義派的な役どころがはまり役となっていきます。
テレビ朝日系で放送された『非情のライセンス』や、
土曜ワイド劇場で連続放映された『江戸川乱歩の美女シリーズ』は人気のシリーズに。
また、
『非情のライセンス』では主題歌「昭和ブルース」をヒットさせました。
テレビ時代劇においても、
主演および主要脇役として活躍。
『雲霧仁左衛門』『無宿侍』『江戸の牙』『闇を斬れ』『地獄の左門十手無頼帖』
など連続ドラマやシリーズ物の主演多数、
TBS系高視聴率番組『大岡越前』では
与力・神山左門役で存在感を示しました。
俳優以外の活動としてアマチフィルムを設立。
自らも宇寿木純というペンネームでメガホンをとりました、
また、
中川信夫の監督映画『怪異談 生きてゐる小平次』では題字を手掛けました。
明智シリーズも25作目を数え、
時代劇やコメディドラマでも味を見せ、
新たな映画製作の企画を進めていた矢先の1985年7月27日(土曜日)、
クモ膜下出血により渋谷区の日本赤十字社医療センターにて死去。
満54歳。
(天知茂)
長谷川裕見子さん
(1924年12月8日-2010年7月27日)
女優。
夫は船越英二。
息子は船越英一郎、娘は平野洋子。
叔父は長谷川一夫。
東京都出身。
飯島まつの二女として誕生。
旧制・白百合高等女学校(現・白百合女子大学)を卒業。
祖父・飯島次郎は建設業で名をなしました。
長谷川一夫の姪にあたり、
長谷川が主宰した劇団・映画会社新演伎座に所属。
映画デビュー作は
長谷川主演、大曾根辰夫監督の「遊侠の群れ」(1948年)。
1950年代から1960年代にかけ、東映の時代劇映画で活躍。
1958年1月13日、
第2回日本映画見本市に出席のため、
城戸四郎(松竹社長)、
白川由美、宇治みさ子らと共にアメリカ合衆国のニューヨークへ出発。
同年2月8日、日本に帰国。
当時はまだ海外渡航自由化の前で、
大変貴重なニューヨーク訪問となりました。
同年、俳優の船越英二と結婚、
1960年に長男で俳優の英一郎を出産。
女優としての最後の出演作品は、
親友であった石井ふく子プロデュースによる
東芝日曜劇場「一つだけのいのち」(1974年10月20日放送)。
その後は
神奈川県足柄下郡湯河原町で長女(英一郎の妹)とともに旅館を経営していましたが、
長女には先立たれてしまいました。
2010年7月27日午前4時44分、
転移性肺癌のため湯河原町の病院で死去。
85歳没。
(長谷川裕見子)

♥️2023💃7/27 麻倉未稀(63歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/27 寺田恵子(60歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

夏休みがはじまりましたね。^_^
小学生の頃の夏休みといえば
カブトムシ、クワガタ取り。
私の田舎にはこんな場所が沢山あり毎日のように取りにいってました。
そんな木🌲がある場所も今は影も形もなく
公園と遊園地になってます。🥹😢

コレ好きでした!

天津敏さん
(1921年2月16日-1979年7月24日)
俳優。
身長182cmの体格、ドスの利いた声、鋭い眼光などを活かし、
映画・テレビドラマで悪役・敵役スターとして活躍。
宮城県桃生郡河南町(現・石巻市)出身。
両親および兄弟はすべて教員という一家に育ち、
歌と水泳が得意な少年だったといいます。
宮城県師範学校を卒業後、教職に。
戦時中は海兵団で少年兵の教官の職にありました。
1944年に結婚、婿養子となり姓を天都としました。
戦後は教職から離れ、
鎌倉の夫人の実家の工場を手伝い、
水道工事などの仕事をしていました。
鎌倉に居を構えた1953年に、
32歳で東宝ニューフェイスとして映画界入り。
東京映画制作の作品では端役ばかりでしたが、
1955年にTBSのオーディションに合格し、
テレビ黎明期の生放送時代劇に出演し始めます。
1959年のテレビドラマ『豹の眼』を皮切りに
宣弘社制作のテレビ作品で主に悪役として活躍。
忍者ブームを巻き起こしたテレビドラマ『隠密剣士』でも第1部から出演し、
1963年の第5部で演じた風魔小太郎が初の当たり役に。
1964年には映画『忍者狩り』で演じた敵方の頭目・闇の蔵人が、
映画『隠密剣士』を手がけたプロデューサー・俊藤浩滋や監督・マキノ雅弘の目に止まります。
任侠映画にも起用され始め敵役の常連となり、
アクション映画では
千葉真一の『激突! 殺人拳』(1974年)や
志穂美悦子の『必殺女拳士』(1976年)などで
主人公を追い詰める強敵・難敵を演じています。
時代劇でも悪役スターとして数多くの作品に出演しており、
テレビドラマ『水戸黄門』第5部(1974年)の鉄羅漢玄竜、
『仮面の忍者 赤影』第1部・第2部(1967年)の甲賀幻妖斉などが代表的な悪役・敵役。
対照的に善人役では
映画『黒い画集 ある遭難』(1961年)の両脚を失った陽気な登山家、
『喜劇 駅前弁当』(前同)の優しい駅員、
『日本大侠客』(1966年)の主人公に協力的な博徒、
『五人の賞金稼ぎ』(1969年)の一揆で直訴する百姓、
テレビドラマ『快傑ハリマオ』第5部(1961年)で
ハリマオの仲間で正義感あふれる熱血漢・村雨五郎、
『火の国に』(1976年)ではヒロインを陰に陽に支える好人物・長谷川社長に扮するなど、
悪役・敵役に留まらず幅広い役柄を演じました。
1979年6月、脳内出血に倒れ、
7月24日、心不全で死去。
58歳没。
1981年に欧米で封切り公開された映画『武士道ブレード』が遺作。
(天津敏)
開店まもない頃の大勝軒です。
行った方おられますか?
【 オクラホマ・ミクサー 】
 小学校から高校まで、運動会の時に、必ずフォークダンスの「オクラホマ・ミクサー」を踊っていました。
 好きな女の子と手が触れ合うチャンス👉近づくとドキドキ💓💓 寸前で終わり時もありました😭
 女子が足りない時は最悪です。男子が女子の代わりをしました。
 楽しい思い出です。
🎼 タ〜ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラ タ〜ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラ タ〜ラ・ラン・ラン・ラ・ラ・ラ・ラ ラン・ラン・ラン 〈繰り返し〉タ・ラ・ラ・ラン・ラン タ・ラ・ラ・ラ〜 〈繰り返し〉 
タラ・ラン・ラン・ラン・ラン・ラン・ラン・ラン タラ・ラン・ラン・ラ・ラ・ラ・ラ ラン・ラン・ラン 🎶
江戸川乱歩さん
(1894年10月21日-1965年7月28日)
推理小説家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。
日本推理作家協会初代理事長。
位階は正五位。勲等は勲三等。
ペンネームは
小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。
大正から昭和期にかけて活躍し、
主に推理小説を得意としました。
また、
第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍。
乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、
後世にも大きな影響を与えました。
自らも実際に探偵として、
岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持ちます。
三重県名賀郡名張町(現・名張市)に
名賀郡役所書記の平井繁男ときくの長男として生誕(本籍地は同県津市)。
平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東の郷士。
のちに伊勢の津藩の藤堂家に仕え、
乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げました。
2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、
翌年、愛知県名古屋市に移ります。
以降、大人になっても引越しを繰り返し、
生涯で46回引っ越しました。
小学生の頃に
母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、
探偵小説に接した最初でした。
中学校では、
押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読。
旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、
早稲田大学の政治経済学科に進学。
在学中に(メルヴィル・D・ポーストに先んじた世界初のトリックという意味で)傑作の処女作『火縄銃』を執筆。
博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するも、掲載はされず。
卒業後は
貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事に勤務。
1917年(大正6年)11月、
三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現・シンフォニア テクノロジー)に就職。
庶務課に配属され、技師長に気に入られ、
社内誌『日和』の編集や
子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど
地域交流の仕事に回されました。
この会社は1年4ヶ月で退職。
この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったといいます。
1919年、
読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚。
1923年(大正12年)、
森下雨村、小酒井不木に激賞され、
『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビュー。
欧米の探偵小説に強い影響を受け、
本格探偵小説を志す一方で
『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、
黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残しました。
『人間椅子』や『鏡地獄』に代表されるような
フェティシズムや怪奇小説の部類も初期から執筆しており、
岩田準一とともに研究していた
衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの
要素を含んだ通俗探偵小説も、
昭和初期から一般大衆に歓迎されました。
当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、
デビュー作『二銭銅貨』以降は、
あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていました。
1925年に森下の企画で
『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたって
その2作目の『心理試験』が好評で踏ん切りがついたと述べています。
ここで会社を辞めて小説家一本にしましたが、
探偵小説家としては早くも行き詰まり、
連続掲載の6作目に当たる『幽霊』は自ら愚作と評し、
小説家になったことを後悔したといいます。
しかし、
森下の紹介で『写真報知』や『苦楽』にも掲載を持てることとなり、
探偵小説専門誌である『新青年』には載せられないような通俗的な作品の執筆で生計が安定。
海外作品に通じ、
翻案性の高い作品として
『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残しています。
このほか、探偵小説に関する評論(『幻影城』等)を残しています。
また、
少年向けとして1936年に発表した、
明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』は、
少年層からの圧倒的な人気を得てシリーズ化され、
その他にも少年向けの作品が作られるように。
戦後も
主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、
探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わりました。
また、
日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力。
同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、
同賞は第3回より長編推理小説の公募賞に。
晩年は
高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、
さらにパーキンソン病を患うも、
それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行いました。
1965年(昭和40年)7月28日、
蜘蛛膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で70歳で没。
(江戸川乱歩)
渡瀬恒彦さん
(1944年7月28日-2017年3月14日)
俳優・歌手・タレント。
島根県能義郡安来町(当時)生まれ、兵庫県淡路島育ち。
兄は俳優の渡哲也、
長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。
身長174cm。
幼少期はガキ大将でした。
生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(当時)に移り、
三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。
中学三年で柔道黒帯。
高校時代は水泳部に所属。
三田学園高等学校卒業後、
中央大学・慶應義塾大学法学部に現役合格するも早稲田大学は不合格。
兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われましたが、
庭で不合格通知を見た母親が涙を流してるのを見て1浪を選択し
尾崎士郎「人生劇場」にも影響された、
早稲田大学の第一法学部に入学。
当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まります。
空手部に所属し、二段の腕前でした。
またボクシングもやっていたという説も。
しかし、
本人曰く「いい加減な学生」で、
大学在学中はやりたいことも見つからないまま、
仲間たちといつも「何かねぇのかな」と語り合っていたといいます。
だからこそ実社会に出たらハードな職種で、
なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、
兄・渡哲也の「堅い道を進め」という助言もあって
卒業見込みで電通PRセンターに就職。
しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、
先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移ります。
ジャパークで働いていた時、
兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。
宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていました。
そこでたまたま東映の社員が居合わせ、
「俳優にならないか?」と声をかけられます。
最初は躊躇するものの、
ジャパークの社長に相談すると、
「絶対マイナスにならないから」と
当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められます。
100%断るつもりで岡田を訪問したところ、
「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれ、
彼の人柄にすっかり魅了され、
「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。
30まで人生預けてみよう。
一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決意。
渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動。
1970年1月31日(土曜日)、
石井輝男監督の映画「殺し屋人別帳」の主役としてデビュー。
渡瀬にとって、
錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が
「アクション」でした。
人並外れた身体能力の高さから、
当初は東映のアクションスターのホープとして期待されました。
1976年の「狂った野獣」では、
大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、
自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑みました。
渡瀬のアクションはどんどん過激になっていきます。
「暴走パニック大激突」(1976年)では
200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に
出演者の中でたった1人ノースタントを志願。
自らハンドルを握り、対向車に飛び込みました。
「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)、
高田宏治に
「あんなハチャメチャなヒロポン中毒の殺人鬼は彼しかできない」と言わしめた
「実録・私設銀座警察」(1973年)、
小林旭と壮絶で悲劇的な兄弟の殺し合いを繰り広げた「唐獅子警察」(1974年)、
梶芽衣子と日本版ボニー&クライドを演じた「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(1974年)など
デビュー以来渡瀬は底辺でもがくアウトローを演じ続けてきました。
しかし、
1977年「北陸代理戦争」の撮影中
渡瀬が運転ミスでオープンジープから投げ出されて、
ジープに足を潰され生死の淵をさまよう大怪我を負い降板(代役は伊吹吾郎)。
私生活では、
三本目の映画「三匹の牝蜂」で共演した大原麗子と1973年に結婚するも、
1978年に離婚。
東映以外の映画会社(松竹)初出演作になった
1978年「事件」で、
ブルーリボン賞・日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞。
同年、
松竹映画「皇帝のいない八月」でも、
狂気を湛えた自衛隊元将校の反乱分子を演じました。
1979年には
松竹映画「震える舌」「神様のくれた赤ん坊」で
キネマ旬報主演男優賞を受賞。
NHKのテレビドラマ「おしん」では、
並木浩太役として出演し、
おしんの1918年米騒動当時、
山形県酒田時代の初恋の相手でありながら、
おしんの仕えた「おかよ様」との間で三角関係に置かれ、
「おかよ様」が亡くなった後も、
ひとりおしんを陰から見守り続け、
おしんのスーパー店主としての1956年の再起を支援し、
最後にはそれが息子の独善的な経営指針によって破綻していくまで、
老女となったおしんを見守る男性役を務めました。
「セーラー服と機関銃」では、
現場入り朝9時から撮影開始深夜0時の撮影終了まで
薬師丸ひろ子へひたすら集中力を磨くために
三國連太郎と共に繰り返し稽古をつけていました。
「南極物語」の大ヒット以降からテレビドラマに軸足を移すように。
1992年から主演を続けてきた
「十津川警部シリーズ」や「タクシードライバーの推理日誌」など、
次第にテレビドラマへの出演本数が多くなります。
2007年度下期の連続テレビ小説「ちりとてちん」では、
かつて「上方落語界の四天王」と呼ばれた徒然亭草若を演じました。
2006年からは「警視庁捜査一課9係」シリーズがスタート。
2015年8月末、
体調不良を訴え、受けた検査で胆嚢に癌が見つかりました。
「おみやさんスペシャル」の後に
「タクシードライバーの推理日誌」新作撮影予定でしたが、
体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めました。
遺作となったのは、
テレビ朝日系列のスペシャルドラマ
「そして誰もいなくなった」(2017年3月25日・26日放送)。
2月中旬に左肺の気胸を発症し入院治療を行うも、
3月に入って敗血症を発症。
しかし現場に戻る執念は衰えず、
一般病棟にいる時から
「警視庁捜査一課9係 season12」の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていました。
死去の前日にはマネージャーと
「警視庁捜査一課9係 season12」の打ち合わせをこなし、
「今月から撮影だ、頑張ろう」と自らを鼓舞していたといいます。
しかし、3月14日、
細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。
病院に駆け付けた妻と長男と長女の家族3人に看取られ、
同日23時18分、
胆嚢がんによる多臓器不全のため、東京都内の病院で永眠。
72歳。
(渡瀬恒彦)

♥️2023💃7/28 畑山隆則(48歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/28 セルジオ越後(78歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

2014年頃,日本でも紹介された,21人(中国)による千手観音のパフォーマンス,テレビで観たが見事でした。

1970年、私が小5の頃。
切手集めのブームがあり、友達と
切手のコレクションを見せ合った事を
憶えています。
切手のカタログとかもあって
「見返り美人」とかすごく高価な切手が
載っていました。
でもあっという間にブームは去ったと思います。
1円の切手は今でも記憶があります。
東京ぽん太さん
子供の頃見たとぼけた感じが好きでした。
🎂本日2023/07/28 はライオネス飛鳥さんの誕生日です🎂
🎂60歳になりました🎂
辰巳柳太郎さん
(1905年4月20日-1989年7月29日)
俳優。
兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。
島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。
少年時代に養子に出されるも、
養家を13件も転々としながら
関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、
商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。
1919年、
小林一三が国民劇創設のため作った
「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。
1926年に旅回りの一座に入り、
長野県で初舞台を経験。
半年後、
小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して
東伍作の名で舞台に立ちました。
その後、澤田正二郎の魅力に惹かれ、
1927年、
道頓堀の浪花座で公演中の澤田を楽屋に訪ねて弟子入りを直談判し、
新国劇への入団を許されます。
また、芸名を辰巳柳太郎と改めます(由来は師匠の澤田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったため)。
しばらく端役が続きましたが、
1929年、
澤田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田とともに澤田の後継者に大抜擢。
また、その気質は島田と合わせて
「動の辰巳、静の島田」とも呼ばれました。
豪放磊落に主人公を演じきり、
島田と共に二本柱として新国劇を支えました。
1947年に、
辰巳自らが坂田三吉を主人公で描くように依頼をして北条秀司が脚本を執筆し、
北条が演出も担当した『王将』に主演して大ヒット作に。
国定忠治、
宮本武蔵、
「大菩薩峠」の机龍之介、
「王将」の坂田三吉、
「無法松の一生」の松五郎、
どぶろくの辰などが当たり役でした。
戦後になると映画界に進出。
1949年に『どぶろくの辰』で初出演して以降、
映画でも島田とたびたび共演。
1954年からは日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約していましたが、
大衆演劇の衰退とともに観客数も減少。
1987年の70周年記念公演終了をもって劇団は解散。
1988年の夏ごろから体調を崩し寝たきり状態になり、
1989年2月に肺炎を起こして1ヶ月間入院するも、
4月12日に肺炎を再発し山王病院に入院し危篤状態に。
同年7月29日午後9時45分に入院先で心不全のため死去(享年84)。
(辰巳柳太郎)
せんだみつおさん
(1947年7月29日-)
タレント、コメディアン。
駒沢大学経済学部中退、服部栄養専門学校卒業。
調理師の免許を取得。
実息は俳優・せんだ雄太、実娘はタレント・せんだるか。
父は王子製紙の技術者で、
父の赴任先であった樺太(サハリン)で生誕。
18歳年上の兄が居ます。
1948年(昭和23年)に
父の故郷である岩手県北上市に引き揚げ、
その後、父の転勤によって宮崎県日南市に移住。
小学校2年生の時に再び父の転勤により、
東京都杉並区に移住。
小学校3年生の頃より「劇団杉の子」に所属し、
子役として活躍。
初舞台は
轟夕起子主演の舞台『人形の家』で、
主人公・ノラの長男役。
その他、婦人雑誌のモデルの活動などもしていましたが、
子役活動は約2年で辞めます。
中学生時代の部活は野球部でセカンドのレギュラー、
高校生時代の部活はバスケットボール部。
せんだは服部栄養専門学校に通いつつ、
ムッシュ中野という芸名でビリーバンバンの付き人兼司会を務めることとなりましたが、
その仕事が他のバンドにも広がり、
アンドレカンドレ(井上陽水)、吉田拓郎などの
コンサートの司会を務めました。
浜口庫之助のつてで、
世志凡太の運転手や世志が加わっていたフランキー堺のバンドの巡業に加わるなどの仕事を経て、
ビリーバンバンのコンサートに出演していたせんだを見ていた上野修にスカウトされる形で、
上野がディレクターを務めていた、
坂本九がメインパーソナリティーを務める
ラジオ番組『東芝ワイドワイドサンデー』(ニッポン放送)の
レポーターの仕事を得ることに。
初のメイン司会番組は
1969年(昭和44年)の『ワゴンでデート』(ニッポン放送)で、
和田アキ子とのトーク番組。
その後も
『ラジオカウント』、『セイ!ヤング』、『ハローパーティー』など
数多くのラジオ番組の司会者を務めました。
1972年(昭和47年)10月に
キャシー中島とテレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の司会となり
好視聴率を得ます。
続いて1973年(昭和48年)10月に放送開始した
『うわさのチャンネル』(日本テレビ)の司会を務め、
人気が急上昇。
また湯原昌幸と『せんみつ・湯原のドット30!』(TBS)で共演。
絶妙なコンビで人気を博し、
後に明星食品のラーメンのCMに共演する事に。
この頃に結婚。
披露宴の司会は、みのもんたが務めました。
この頃は極めて多忙であり、
無理なスケジュールで体調を崩しました。
1978年(昭和53年)12月に肝炎、尿管結石で入院。
半年間の休業後、
折からの漫才ブームなどでレギュラー番組がすべてなくなるなど、
急速に人気に陰りがでました。
1980年代以降も芸能活動をし、
テレビ出演などもこなしているものの、
タレントとしての露出度は1970年代の全盛期には及びません。
全国メディアでは、
旧知の和田アキ子らの番組にゲスト出演する程度に留まりました。
一方で、俳優としての活動に重点が置かれました。
声優としても、
『ゴールデン洋画劇場』での『ブルース・ブラザース』テレビ初放送時には、
ジョン・ベルーシの吹き替えを担当。
小野ヤスシが担当したダン・エイクロイドとの絶妙なやり取りを見せました。
近年は
「ウケない金ない仕事がない」の「三ない」や、
自称「大スター」等の自虐ネタを持ち味に。
2001年には、
当時リバイバルヒットしていた「明日があるさ」に対抗して
「明日がないさ」という楽曲を発表。
歌詞も、そっくりそのままネガティブにしており、
「明日がない 明日がない 明日がないさ」と歌っています。
文化放送の『吉田照美のやる気MANMAN!』(2007年終了)では、
ゲストではなくリスナーとして投稿が採用されることがよくありました。
2017年10月から、
TOKYO MX『ひるキュン!』の水曜レジェンドレポーターとして出演、
地上波テレビでは十数年ぶりのレギュラー獲得。
その他、
イベント司会等の全国営業、2時間ドラマを中心とした主要脇役としても活躍。
2021年7月には、
ビリーバンバンの菅原進がカバーしたアニメソングが
ユニバーサルミュージックから配信開始するのに合わせ、
インターネットに公開されたPV「ようこそジャパリパークへ」(連続テレビアニメーション『けものフレンズ』主題歌)に、
ほいけんたとともに出演。
(せんだみつお)
荒井注さん
(1928年7月30日-2000年2月9日)
コメディアン、俳優。
ザ・ドリフターズ元メンバー。
東京都出身。
身長158cm。
四谷にて生誕。
旧制日本学園中学校を経て、
立教大学文学部宗教学科を中退後、
二松學舍大学文学部国文学科卒業。
大学卒業後は脚本家を目指しながら、
音楽バンドグループ『クレージーウエスト』のバンドマンを務めていました。
1964年に
「トリスのおじさんみたいな面白い顔をした奴がいる」
との評判を聞きつけたいかりや長介にスカウトされて、
ザ・ドリフターズに参加。
担当楽器はピアノ。
その一方で
「速弾きを得意とした」(居作昌果)や
「一応弾けたが、指が短いために時々半音ずれた」(加藤茶)
「上手いという訳ではないが、何となく形にして見せることが出来た」(高木ブー)
とも言われています。
いかりや長介の著書には、
荒井の背の低さとピアノの演奏力をチェックしなかったことが失敗だったとあります。
しかし、この人選の失敗が
「ふてぶてしい」荒井のキャラクターと相まって、ドリフの人気に繋がりました。
ドリフでは「This is a pen!」のギャグで人気者に。
コントでは
「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見て無視をし、
いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」
というパターンが受けました。
学校コントでは
「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」という設定。
中でも代表的なギャグ
「何だバカヤロウ!」「文句あるか!」、「何見てんだよ!」
は流行語となり、
ドリフ脱退後のピンでの活動でも頻繁に使用。
ドリフ在籍の後半は「ハゲキャラ」としていじられることが多く、
当時『8時だョ!全員集合』のコーナー『少年少女合唱隊』で
共演した由紀さおりからは、
数え歌まで披露されています。
1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。
荒井の後任には、
ドリフのボーヤをしていた志村けんが加入。
その後も、
ドリフの番組にゲスト出演しており『全員集合』の最終回にもゲスト出演し、
いかりやに花束を手渡しています。
また『全員集合』オープニングの振付師でもある藤村俊二とのコンビで
『なるほど!ザ・ワールド』にも準レギュラーとして出演。
俳優としての活動も展開し、
土曜ワイド劇場の人気シリーズである
井上梅次監督・天知茂主演『江戸川乱歩の美女シリーズ』に
1978年の第2話より明智の盟友、波越警部役で出演。
天知の死去により最終作となった1985年の第25話まで演じました。
1992年、
嘉門達夫の替え歌メドレー3(完結編)に、
ゲスト・ボーカルとして登場。
これが荒井最後のシングル曲に。
晩年は静岡県伊東市に移住し、
個人事務所・荒井注事務所を自宅内に設置。
2000年正月放送のフジカラー「お正月を写そう」の広告撮影は、
弁財天役の田中麗奈とドリフメンバー5人に加えて、
荒井も毘沙門天役で共演し、
これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となりました。
2000年2月9日(水曜日)午前4時30分、
伊東の自宅において入浴中に肝不全のため71歳で亡くなりました。
(荒井注)
和泉雅子さん
(1947年7月31日-)
女優、歌手、冒険家、真言宗の僧侶。
東京都出身。
愛称は「マコ」。
東京都中央区銀座の三原橋の近くの寿司割烹店を営む家庭に生誕。
和泉家は、
江戸時代は代々幕府御用達の家具商を務めました。
また、戦国武将の竹中半兵衛の末裔に当たります。
明治維新後は魚介類の卸売業に転じ、
魚河岸で鮪を商った後、場外で煮干し屋を営み、
戦後は三原橋に土地を購入して店を開きました。
精華学園女子高等学校卒。
10歳で劇団若草の子役になった(太田博之と同期)後、
金語楼劇団に入り喜劇を志します。
その後、
テレビ番組『ジェスチャー』に出演する柳家金語楼に鞄持ちとして随伴した際、
同番組の共演者で日活のプロデューサー・水の江滝子にスカウトされ、
1961年に日活に入社。
これ以降、青春映画に多数出演し、
吉永小百合と松原智恵子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、
絶大な人気を誇りました。
雑誌『近代映画』の「オールスター投票・女優部門」では、
1964年から1968年まで5年連続でベスト10入りし、
特に1966年と1967年には、
吉永小百合に次いで2年連続で第2位にランクイン。
なかでも、
1963年上映の映画『非行少女』(浦山桐郎監督)の主演での演技力が認められ、
エランドール新人賞や、
ソビエト連邦時代のモスクワ映画祭金賞を受賞。
モスクワ映画祭の審査員を務めたフランスの俳優ジャン・ギャバンは
「この子はすごい」と語りました。
日活作品でよく共演したのが高橋英樹であり、
2人のコンビは「ポスト吉永小百合・浜田光夫」と言われました。
1965年10月1日に公開された日活映画『血と海』では、
役づくりとして海女に挑戦。
1966年に
同じ日活の山内賢とのデュエット曲『二人の銀座』と、
翌1967年も『東京ナイト』が大ヒットし、
女性歌手としてレコードも何枚かリリース。
1971年に日活が成人映画に路線を転換したことにより、
その後は本格的にテレビへ活動の場を移しました。
テレビでは映画時代の清純なイメージから一転、
1978年には、
土曜ワイド劇場『女教師』にて同番組唯一のレイプシーンを演じました。
東京都港区白金台二丁目に『ホテルメイツ』を経営し居住。
2005年11月27日をもってトランクルーム『トランクルームプリンスメイツ』に業態転換し、
2014年10月まで営業。
2009年現在は
銀座の自宅と北海道士別市の別荘を行き来する生活を送っています。
近年は、
ユニークなキャラクターを活かしてTBS『爆報! THE フライデー』などの
バラエティー番組にも出演。
番組内で友達の松原も北海道の別荘へ訪れています。
(和泉雅子)
加東大介さん
(1911年2月18日-1975年7月31日)
俳優。
東京市浅草区(現:東京都台東区)生まれ。
身長160cm。
東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒。
歌舞伎役者を経て映画デビュー。
代表作は
『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。
父親は宮戸座の座付き作者で演出助手であった竹芝傳蔵、
兄は四代目沢村国太郎、
姉には福祉運動家の矢島せい子と沢村貞子。
甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。
息子・加藤晴之は、
黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるも離婚。
「自分のこどもはみな役者にする」
という父親の意向で、兄とともに歌舞伎の世界に。
東京府立第七中学校を卒業後、
1929年に二世市川左団次に入門、
1933年に前進座に入り、市川莚司を名乗ります。
まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、
山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍。
同年には
大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、
その後は
山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、
中堅俳優の一人として広く知られるように。
兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていましたが、
1943年に陸軍衛生伍長として応召。
ニューギニア戦線で、
兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、
長谷川伸の戯曲『関の弥太っぺ』などを演じました。
舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、
小説『南の島に雪が降る』に結実。
なお、
その時劇団で一緒だった九州出身の僧侶が、
漫画家小林よしのりの母方祖父。
戦後もたびたび彼の寺を訪れていたといいます。
1946年に復員するも、
直後に戦地でかかった悪性マラリアが再発し、
一時は危険な状態が続きます。
回復してからは再び役者として活動するも、
左傾した前進座に嫌気が差して退団、
兄の国太郎、姉の貞子とともに神技座を結成するも、
運営が上手く続かず映画入りを決意。
1948年からは大映京都と専属契約し、
同年の東横映画『五人の目撃者』では作品が現代劇であったことから、
歌舞伎役者くさい莚司という芸名から加東大介に改名。
1950年に黒澤明監督の『羅生門』に出演したのち、
1951年秋にフリーとなり東宝に移籍。
以降、
『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)をはじめ、
黒澤作品に常連として出演。
1952年に
黒澤脚本の『決闘鍵屋の辻』、
成瀬巳喜男監督の『おかあさん』での明朗できびきびとした演技が批評家から絶賛され、
1952年度の毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の男優助演賞を受賞、
1955年には
今井正監督の『ここに泉あり』、
内田吐夢監督の『血槍富士』で2度目のブルーリボン助演賞を受賞。
持ち前の明るさや誠実さで多くの監督から可愛がられ、
黒澤や成瀬の他にも小津安二郎などの作品にも常連俳優として出演し、
この時期は監督運にも恵まれます。
また1956年に
東宝がダイヤモンド・シリーズと銘打った文芸映画『鬼火』で主演したことがきっかけで、
監督の千葉泰樹に
獅子文六の連載小説『大番』の主人公・株屋のギューちゃん役に抜擢され、
加東はユーモラスでエネルギッシュな男を演じ、
映画は大ヒット。
大番シリーズは4本も作られ、
ギューちゃんのあだ名はそのまま加東自身の代名詞となるまでに。
また森繁久彌、小林桂樹と共演した『社長シリーズ』でも軽妙な重役を演じるなど、
日本映画にかかせない名脇役として人気を博しました。
1956年頃
『週刊朝日』の「夢声対談・問答有用」でニューギニアでの戦争体験を語ったところ、
徳川夢声から是非執筆するよう強く勧められ、
また小島正雄からも勧められて執筆を行い、
『文藝春秋』1961年3月号にて
「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」として発表。
これにより第20回文藝春秋読者賞を受賞、
のちにベストセラー小説に。
1961年4月この内容が小野田勇の脚色によって
『南の島に雪が降る』の題でNHKでドラマ化され、
後東宝で映画化され加東自身が主演して大いに話題に。
晩年は映画のみならず、
テレビや舞台でも活躍、
1971年には28年ぶりに前進座の舞台にも立ちました。
1972年には大河ドラマ『新・平家物語』で北条時政を演じました。
1975年2月に結腸癌で入院、
本人は癌であることは知らず、
病院からレギュラー出演であるドラマの収録現場に通い続けましたが、
入院してから5ヵ月後の7月31日に64歳で死去。
(加東大介)
40年前の本日1983年7月30日、日本テレビ系列にて石立鉄男主演ドラマ「天まで上がれ2」放映開始。前年放映の「天まで上がれ」とほぼ出演者は同じながら続編ではなくまったく別の設定に。石立の役もスナックマスターから警察官へ。
本作の特徴が主要キャラクターの役名が当時の人気プロ野球選手/監督から取られたこと。原(石立)、掛布(柴田恭兵)、掛布真弓(三田寛子)、藤田(奈良岡朋子、名古屋章)、田淵(前田吟、中尾ミエ)、江川(山口良一)、広岡(坂口良子)、長島(松原智恵子)、この他江夏、山本、落合、西本、小松も。
当時16歳の坂上忍は松本大輔(松本匡+荒木大輔)。
プロ野球のナイター中継の視聴率はこの年が史上最高だった(年間平均27%)。
加藤武さん
(1929年5月24日-2015年7月31日)
男性俳優、声優。 
身長166cm。
文学座前代表。
東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。
早稲田大学英文科卒業。
俳号は「阿吽」。
築地で仲卸業を営む家に生誕。
祖母は十五代目市村羽左衛門の贔屓、
両親共に清元節を嗜み、
姉は舞踊をやっていました。
中央区立泰明小学校、麻布中学校、早稲田大学高等学院卒業。
小沢昭一・フランキー堺・仲谷昇・大西信行・なだいなだ・内藤法美は
麻布中学校の同級生。
幼少期より歌舞伎を愛好し、
学校を早退してまで歌舞伎座に通っており俳優に憧れていました。
早稲田大学では演劇研究会に入り、
ここで映画監督の今村昌平・俳優の北村和夫らと知り合いました。
小沢、大西らと学生劇場に参加。
やがて今村昌平から脱退を進められ、
小沢、大西、北村和夫、岩村久雄、沼田幸二らとオスカーというグループを結成。
卒業後、
一時地方公務員の公立高校教員として新宿区立大久保中学校教諭に就く(英語担当)も
俳優への道を諦めきれず、
1952年、
辞職して先に北村が入団していた文学座研究所に入ります。
早大の同級・北村和夫とともに文学座の看板女優・杉村春子に芸をたたき込まれました。
同年の『狐憑』が初舞台。
1959年に正式に座員となり、
『美しきものの伝説』『富島松五郎伝』などの舞台に出演。
1974年に盟友の小沢昭一や山口崇、永六輔らと芸能座を結成。
しかし、1980年に解散し、文学座に戻りました。
1985年には吉永仁郎原作の『芝居 月もおぼろに』を演出。
映画には
1953年の今井正監督『にごりえ』に端役で出演したことから始まり、
翌年の黒澤明監督『七人の侍』では町を歩く侍役でノンクレジット出演。
1957年の『蜘蛛巣城』における都築警護の武士役や
『隠し砦の三悪人』の冒頭部分で壮絶な死にざまを見せた落武者、
『悪い奴ほどよく眠る』の主人公の相棒・板倉役など計8作の黒澤作品に出演。
ほか『仁義なき戦い』シリーズの優柔不断な親分・打本昇役でも知られます。
『犬神家の一族 (1976年の映画)』『悪魔の手毬唄』をはじめとする
金田一耕助シリーズでは役名が毎回異なるものの、
粉薬が手放せず、
イチイチ大仰な身振りで「よしっ! 分かった!」と
手をポンと叩きながら早合点を繰りかえす警察幹部を好演し、
野村證券のCMでも使用されました。
市川崑や黒澤、浦山桐郎、今村昌平らから重用されました。
14本に出演した市川作品では、
別に駆け出し時代の1954年に『女性に関する十二章』でナレーターを務めています(ノンクレジット)。
テレビドラマでは
1970年代にNHKで放映された『警部マクロード』の上司役でのアテレコ、
時代劇では『真田太平記』の本多忠勝、
『風林火山』の諸角虎定など、歴史上の人物を演じています。
1976年10月から1977年3月まで、
TBSラジオのナイターオフ番組『山田二郎ワイドで勝負!90分』の番組内にて
『加藤武のラジオ国語辞典』と題する
ラジオ番組のディスクジョッキーを担当していたことも。
映画『釣りバカ日誌』では
主人公・浜崎伝助の務める鈴木建設の秋山鉄蔵専務役、
リメイク版『日本沈没』では地球物理学学者に扮したほか、
2006年に映画『犬神家の一族』が30年ぶりにリメイクされた際には、
オリジナル版と同じ役で再登場。
バラエティ番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)の1コーナー
「クイズよしっ分かった!」のモデルとなり、 
レギュラー出演も。
晩年も文学座の俳優として舞台で活動するほか、
海外ドラマやアニメへの声優としての出演作も多数あり、
また徳川夢声以来となる吉川英治の『宮本武蔵』の朗読にも取組んでいました。
2010年に戌井市郎が死去した後に
文学座代表代行に就任、
2015年5月に正式に文学座代表に就任していましたが、
同年7月31日、スポーツジムのサウナで、
心疾患の発作を引き起こした後倒れ、
搬送先の東京都内の病院にて死亡が確認されました。
86歳没。
(加藤武)
小林清志さん
(1933年1月11日-2022年7月30日)
声優、俳優、ナレーター。
東京俳優生活協同組合に所属し、同組合の創立メンバーの一人。
独特の渋い声を生かして、声優界の創生期から活躍。
アニメでの主な出演作は
『ルパン三世』シリーズの次元大介や『妖怪人間ベム』(1968年)のベムなど。
また、
CMやテレビ番組などのナレーションも多く担当し、
洋画ではジェームズ・コバーン、リー・マーヴィンらの吹き替えを務めていました。
東京府(現:東京都)の根津生まれ。
実家は株屋であり、
父親は亡くなるまで兜町の証券会社にいました。
父の下では池波正太郎が働いていたといいます。
第二次世界大戦中は父親の出身であった埼玉県の加須へ縁故疎開し、
疎開先の旧制不動岡中学では卓球の県代表を務めました。
中学時代には英語の成績が優秀で、
将来は作家になることを漠然と志望。
小石川高校を卒業。
東京大学を受験するも、
当時の世相や流行から英文科でなく仏文科を受験したため失敗。
滑り止めがなかったことから浪人生活を送ることに。
その頃、学費を稼ぐために
製薬会社の工場の薬品瓶を洗う洗ビン工、地下鉄の工事現場のトロッコ押しといった色々なアルバイトを半年以上続いていました。
日本大学芸術学部の演劇科へ進学。
小林が演劇を始めたのは、大学に在学していた時。
入学時は作家を目指していましたが、
芝居の実習で立て続けに主演を任されたことを機に、
演劇研究会に所属するなど芝居の虜になったことで、
自然と役者になりました。
また、大学休学中には
家城巳代治、山本薩夫といった
監督の独立プロダクション系の映画に端役で出演。
大学卒業後は国民文化研究所を経て、知人の紹介で劇団泉座へ入団。
この頃は、
老舎の『駱駝祥子』などの中国戯曲→創作劇を中心に舞台役者として活動。
そんな中、
劇団の維持や生活のために多くのアルバイトも経験し、
声優としての活動もそこから始まることに。
1958年、
舞台劇『ケイン号の反乱』の翻訳の腕を買われ、
大学の同窓会で再会した吹き替え演出家の小林守夫の縁から
吹き替え翻訳のアルバイトの話が持ち上がります。
マネージャーの紹介で
東北新社の社長だった植村伴次郎に会い翻訳の仕事を始めるも、
しばらくして植村から
「お前、役者なんだろう?」と誘われことで
吹き替えの仕事も始め、声優として活動するように。
1960年、
当時の役者仲間らとともに所属事務所である東京俳優生活協同組合(俳協)の創立に参加。
劇団泉座も俳協所属の劇団となりました。
当初は
声優業と共に月に2本のペースで翻訳も手がけ、
1962年放送の海外ドラマ『ジスマン・ドーソン』では
初主演と同時に翻訳も担当する多忙ぶりでした。
その後、翻訳の仕事は次第になくなり、
1971年頃に泉座が自然解消してからは声優業に専念。
1963年の『鉄腕アトム』以降はアニメの仕事もこなし、
『ルパン三世』シリーズでは次元大介役を
1971年の放送開始時から2021年10月まで担当。
2017年、
多くのジャンルへの貢献が評価され第11回声優アワードで功労賞を受賞。
同年1月9日には、テレビ朝日にて放映された
『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第18位に。
2018年、
東京アニメアワードフェスティバルにてアニメ功労部門を受賞。
2021年10月、
長年務めてきた次元大介役を高齢などを理由に勇退。
一方で、
その他の出演作など声優業自体は以降も継続。
2022年7月30日午前7時6分、肺炎のため東京都内の自宅で死去。
89歳没。
(小林清志)

♥️2023💃7/30 アーノルド・シュワルツェネッガー(76歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/30 ジャン・レノ(75歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

45年前の本日1978年(昭和53年)7月30日、沖縄県内の交通が右側通行から左側通行へ。世に言う「7.30」。
1972年に日本に返還され沖縄県が復活して以降も沖縄県内の道路は右側通行のままだった。返還から6年経過したこの年、一気に一日で左側通行へ変更。細かい事故は多発したものの、人命に関わる大事故は発生していない。
一番の問題は路線バス。左ハンドルから右ハンドルになることで乗客の入口も左側に。民間のバス事業社で対処するのは困難で国庫から補助が出され新車を購入することに。事前に米軍基地に待機させ、7月30日から即運用開始。事故もいくつか発生。