Apex product 【 昭和の楽しい時代 49 】

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バスの車掌さん昭和の40年代半ばにはワンマンバスへ移行して姿を消しましたが大変な仕事でした。揺れる車内でのキップ販売から雨の日はエアコンの無いバスの運転席の窓ガラスを拭いたり重労働でした。

♥️2023💃10/3 石田ゆり子(54歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

夏体験物語で先生役で出ていた吉幾三さん。

恋する季節でデビューした西城秀樹さんデビュー当時はマネージャーと行動してたので看板立ても本人がやってました、1972年、その後の新御三家です。

1971年、女優、新藤恵美さん❣️(。・_・。)ノ
 超・美人で時代劇なども活躍されましたね~
美しきチャレンジャーは、あの頃
流行ってたボーリング🎳がテーマのドラマ。
1971年4月4日から1971年10月17日まで、TBS系列で日曜19:30から30分枠「不二家の時間」にて放送されたテレビドラマでした~
“美空ひばり”も世に出した? 
朝ドラ『ブギウギ』のモデル
笠置シヅ子の『東京ブギウギ』、
敗戦に沈む日本人に活力を与えた陽気な歌の伝説
2023/10/02 集英社オンライン
笠置シヅ子が歌った『東京ブギウギ』
(作詞:鈴木勝/作曲:服部良一)は、
1948年1月に発売されて大ヒットする。
不幸や不安、苦しみや哀しさを
バネとする前向きなエネルギーは、
アメリカの黒人音楽から生まれた
ビートやグルーヴを受け継ぐものだ。
作詞家の阿久悠は12歳で初めて
『東京ブギウギ』を聴いた時、
「これはただならない世界だという衝撃を
 感じた」という。
そして日本全国にブギウギ旋風が巻き起こっていた
1949年1月。日劇のレビュー『ラブ・パレード』に
出演した無名の少女が、
『東京ブギウギ』をカヴァーして注目を集めた。
その少女はただちに東横映画『のど自慢狂時代』に
抜擢され、ブギウギを歌う少女として映画に初出演を果たし
さらに同年8月には松竹『踊る竜宮城』に出演、
主題歌で11歳でレコードデビュー。
“美空ひばり”はまたたく間にスターになっていく。
昭和20年代。笠置シヅ子は「ブギの女王」として
戦後ニッポンのエンタテインメントを牽引する、
かけがえのない歌い手であった。
10月3日は 侠和会二代目 会長 工藤雅信 役
白竜さまの生誕祭です‼️
お誕生日 おめでとうございます㊗️
モントリオール オリンピックで
体操競技初の10点満点を記録、
世界を夢中にさせた ナディア コマネチ
まさに、白い妖精😃💕🎶🙏

10月2日はテレビアニメ『#キックの鬼』放送開始53周年でした!

六代目三遊亭円楽さん
(1950年2月8日-2022年9月30日)
落語家、俳優。
身長171cm。
出囃子は『元禄花見踊』。
五代目圓楽一門会所属で、幹事長。
2017年6月27日から、
客員として落語芸術協会に加入し、
2つの噺家団体で活動。
長男は落語家・声優の会一太郎(落語家としての名称は三遊亭一太郎)。
東京都墨田区出身。
墨田区立両国中学校、東京都立深川高等学校、青山学院大学法学部卒業。
1970年4月の青山学院大学在学中、
五代目三遊亭圓楽の鞄持ちのアルバイトに志願。
付き人を経てスカウトされ入門し、
大師匠六代目三遊亭圓生の命名により「楽太郎」を名乗ります。
圓楽の「楽」に長男を意味する「太郎」で楽太郎となりました。
1972年3月に青山学院大学法学部卒業。
1976年7月、二ツ目昇進。
1977年8月28日、
六代目三遊亭圓窓の後任として『笑点』レギュラーに。
1978年、
落語協会分裂騒動で師匠と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会所属。
1979年1月、放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞。
1980年に落語三遊協会が解散し、
大日本すみれ会(現:五代目圓楽一門会)所属。
1981年1月、若手落語家努力賞受賞。
3月に真打昇進。
2007年より
「博多・天神落語まつり」のプロデュースを手がけており、
東西の大物落語家なども登場する一大イベントとなっています。
2010年3月1日、
初名の三遊亭楽太郎から師匠の名跡である六代目三遊亭圓楽を襲名。
2017年6月27日に開かれた落語芸術協会の総会において客員での加入が認められ、
同日より五代目圓楽一門会と並行して落語芸術協会の落語家としても活動。
最初に入院したのは58歳の時(2008年頃)。
人間ドックで大腸ポリーブがみつかり、
検査したところ大腸がんと判明。
手術で全摘して10日ほどで退院。
2018年9月28日、
自身の所属する事務所の公式ホームページを通じて初期の肺がんであることを公表。
翌月の5日に手術を行い、12日に復帰。
2019年5月24日から26日にかけて
札幌市内の三か所のホールを会場に三遊亭円楽プロデュース「さっぽろ落語まつり」第一回開催。
28名の落語家が出演、
主催はテレビ北海道、北海道新聞社ほか。
同年7月18日、検査で脳腫瘍が見つかり、
19日、検査と治療のため3週間ほど入院することを発表。
8月11日、
病院からの一時外出という形で国立演芸場・8月中席に出演、トリを務め、高座復帰。
19日に退院。
2022年1月25日、
脳梗塞のため入院したことを所属事務所が26日に発表。
2月18日、
脳梗塞の治療は終了したものの更なるリハビリの継続と既往症である肺がんの経過観察・治療等の理由から退院の目処が立たず、
大事をとって今年の「夏頃まで」休養することを所属事務所が発表。
5月20日に退院、
復帰を目指して自宅療養に戻ったことを所属事務所が発表。
同年7月19日、
国立演芸場の8月中席(11日 - 20日)で高座復帰することが明らかに。
脳梗塞の後遺症で左半身に麻痺が残り、
車椅子での移動が必要な状態でしたが、
復帰した際のイベントでは
「まだ、死んでねえよ」とブラックジョークを発する気概を見せました。
8月11日、
国立演芸場の8月中席(落語芸術協会主催)で高座復帰し『猫の皿』を披露、
同日の取材では、
高次脳機能障害として短期記憶障害があることを明らかに。
なお、同席には4日間出演し、
この20日の高座(演目:『目薬』)が結果として公の場で見せた最後の姿に。
同年8月26日、
息苦しさを感じて主治医による検査を受けたところ、
軽度の肺炎を発症していたため入院。
数週間の入院の見通しであることから
8月30日に予定されていた「三遊亭円楽独演会」の中止を発表。
同年9月30日午前9時28分、
肺がんのため東京都内の病院で死去。
72歳没。
(六代目三遊亭円楽)
大山克巳さん
(1930年9月30日-2012年10月9日)
元新国劇の俳優。
東京都出身。
辰巳柳太郎にあこがれて1946年に新国劇に入団。
端役からの叩き上げで殺陣師から主役となり、
『国定忠治』『月形半平太』『丹下左膳』など多数の映画や舞台に出演。
大山塾を創設し、後進の育成に力を注ぐかたわら、
時代劇から現代劇まで幅広い演技で活躍。
昭和40年代に鉄道模型メーカー・カツミ社の雑誌広告として、
「私もモデルマニア」と明治座楽屋での写真が使用されたことも。
また、
チオビタドリンク(大鵬薬品工業)のコマーシャルに長く出演。
2012年10月9日、
再生不良性貧血のため東京都新宿区の病院で死去。
82歳没。
(大山克巳)

ワッワッワー輪が3つのミツワ石鹸です。香りが大好きで、お風呂場からこの香りが香って来ると幸せな気持ちになりました♪

若大将より若い大村崑!

ようやく!長く暑い夏から涼しい秋へ……1970年代初めでしたかね?斉藤耕一🎥『旅の重さ』…良かったですね!…覆面作家(素九鬼子)原作…主演は『北の家族』の高橋洋子さん!凄く輝いていましたね!…劇中…無名時代の秋吉久美子さんとのチョッとした台詞のやりとりが…印象的で!…そのみずみずしい感性は…後の日本映画に一滴の時雨のようなものを落としたのかも知れない?…神代辰巳🎥『宵待草』『アフリカの光』の洋子さんも良かった!…

敗戦後、東京・有楽町の日本劇場。小柄な女性が舞台狭しと歌い踊っている。
バックに並んだダンサーたちは揃いの衣装で整然と振り付けに従っているが、
主役の女性は(笠置シヅ子)思うままに手を
振り、胸を張り、斜め上を見上げ、足を投げ出し。
男性指揮者がタクトを振るのに合わせて、
ピアノの低音とベースがズンタズンタズンタズンタ🎶というハネた八分音符を保持し、
管楽器がそれに鋭いアクセントを付ける。
規則的なリズムが止まり各楽器が音を伸ばすと同時に歌が入る。
🎶💕「東京ブギウギ リズムウキウキ 心ズキズキ ワクワク」🎶💕。
大入りの客席の一角には、当時パンパンと呼ばれた女たちがずらりと並び、
歌う女性を熱心に応援する姿も見られたとか?

昭和45年頃の日航のジャンボ・ボーイング747のファーストクラスのシートは西陣織でスチュワーデス(当時の客室乗務員は基本女性職だったのでこう呼んでたが今は男女雇用機会均等法でキャビンアテンダントらしい)は和服だったそうです。

笠置シヅ子 生誕100年でございます❣️
(ゴメン🙇💦なさいハチ公🐶も生誕100年)
服部良一が笠置シヅ子に初めて会ったのは1938年だったらしい。その年は、淡谷のり子の歌唱で「雨のブルース」と「思ひ出のブルース」を発売。和製ブルースが大流行した年だった。笠置シヅ子は当時、大阪松竹少女歌劇団に
所属、この二人のコンビに暗い終戦に国民に
明かりを灯すことになった🎶「ブギウギ」😃💓

昭和35年不二家

ロゼ洗顔パスタ
白子さん黒子さん
10月3日は「#アンパンマンの日」。テレビアニメ放送開始35周年!
1968年「2年のかがく」(学研)に登場するキャラクター「プー船長」は、読者の子どもたちに、昆虫や植物の不思議を紹介する役どころ。やさぐれたアンパンマンにも見えます。作画は勿論 やなせたかし先生♪
山瀬まみさん
1969年10月2日生まれ、54歳。
埼玉県浦和市出身。
歌手、タレント、司会者。
第10回ホリプロタレントスカウトキャラバングランプリを受賞して歌手デビューを果たし、アイドルとして活動。タレントに転身後はバラエティーアイドルとしてバラエティ番組で活躍。
舞台
DORA〜100万回生きたネコ 
1996年公演
出演:沢田研二、山瀬まみ
10月3日は #山口いづみ さんのお誕生日です。おめでとうございます♪
そしてホームドラマ『#雑居時代』放送開始50周年。山口いづみさん、石立鉄男さん、冨士眞奈美さん、大原麗子さんをはじめ キャスト諸氏が魅力的な方ばかりでした♪ (⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)
50年前の本日1973年(昭和48年)10月5日、毎日放送・NETテレビ(現テレビ朝日)系列にて山本鈴美香原作「エースをねらえ!」放映開始。テニスを題材にしたスポ根漫画のアニメ化。演出は「巨匠」出崎統。
基本原作ベースだがオリジナル要素も強い。主人公・岡ひろみとお蝶夫人こと竜崎麗香の最後の対決は原作にはなくこの作品オリジナル。以降の映像化作品には必ず描かれる名シーンとなった。そして意地悪な先輩・音羽京子にもオリジナル設定が。
視聴率が振るわず半年で終了。しかし「ルパン三世」「宇宙戦艦ヤマト」同様、再放送で人気を集め、この5年後の1978年に日本テレビ系列にて同じ東京ムービー制作で「新・エースをねらえ!」が放映される。続編でなくリメイク作品。1973年に放映された作品は「旧」との愛称が後に。
閑話休題。音羽さんの設定の違い。
「原作」→意地悪な先輩のままフェイドアウト
「旧」→改心し優しい先輩に
「新」→意地悪な先輩のままフェイドアウト
「劇場版」→いじめる暇さえない
「ドラマ」→改心しテニス部をやめる

テレビドラマ『#好きすき魔女先生』。主演の #菊容子 さんのような先生がいたらなぁ〜…と、放送当時、しみじみ思ったものでした(画像3・4は菊容子さんの少女モデル時代)。

お前は平田だ!事件の考察
プロレスとは不思議な世界で、国籍不明、正体不明がまかり通る世界であります。他のスポーツ等の試合で国籍不明の選手が出ることは考えられないですよね。
スポーツというより興行であるからでもありますが、一般社会で実際本当に正体不明の人と契約する会社はないでしょう。ファンもうすうす誰かわかっているけどそれを秘密にしておくのがルールでもあります。
85年5月新日本プロレスの藤波辰巳の試合後に乱入したスーパーストロングマシーンに放った言葉が「平田だろお前!」と言っちゃったことが事の発端。
翌日、アントニオ猪木もマシーンに「お前は平田だ!」と言っちゃうし、さらに試合後取り囲んだ報道陣に「あれは平田でしょ?」と聞く始末。
どういうこと?会社の社長が自分の会社が契約しているレスラーの正体を知らない?自分のところで正体不明に設定しておいて、それをバラすのも掟破りだけど。まだ知らない体を装って報道陣に聞くって、さすがにバカバカしく思えて。
当時は釈然としないものを感じました。

テレビオーディション番組『#スター誕生!』放送開始から52年。画像は番組出身者の #ピンクレディー #桜田淳子 #山口百恵 #岩崎宏美(敬称略)。

♥️2023💃10/5 黒木瞳(63歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃10/5 やしきたかじん(64歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

すっかり更地にされていたメリーさん所縁のGMビル。名残惜しんで思い出景色(2020年10月20日撮影)。

— 場所: 福富町仲通り

若者のバンドと思っていたら「ヒロト」も「マーシー」もすでに還暦😅 もう我々の仲間じゃないか😘
🎵生まれたところや皮膚や目の色で〜いったい
 この僕の何が分かるというのだろう〜🎵
「青空」(昭和63年)ガツン❗ときますね~😁
植物も生える場所や形によっては”雑草“と呼ばれ
毛髪も頭に生えれば大事にされるけど、脇に生えると”ムダ毛“と呼ばれる😅
いったい何が違うというのだろう・・・🤔
服部良一さん
(1907年10月1日-1993年1月30日)
作曲家、編曲家。
位階は従四位。
作詞家として村雨まさをの名があります。
なお、同姓の服部正や服部逸郎との血縁関係はなし。
大阪府大阪市中央区出身。
東成区出生。
ジャズで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人。
代表作に
『別れのブルース』『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』などがあり、
いずれも時代を象徴する国民的ヒット曲として知られます。
[親族]
息子に
作曲家の服部克久と、
「劇団黒テント」創設メンバーで舞台俳優の服部良次(芸名:服部吉次)、
ほかに
長女・初音、次女・梢、三女・早苗の娘3人。
孫に
作曲家の服部隆之(克久と京都出身の時子の長男)、
音楽畑出版代表取締役の服部奈緒(克久と時子の長女)、
バレエダンサー・振付師の服部有吉(吉次と女優の石井くに子の次男)、
曾孫に
ヴァイオリニストの服部百音(隆之とヴァイオリニストの岡本(服部)エリの長女)。
歌手で宝塚歌劇団出身の服部富子(芸名:水間扶美子)は妹。
(服部良一)
山岡荘八さん
(1907年1月11日-1978年9月30日)
小説家・作家。
歴史小説を中心に活躍。
従四位勲二等瑞宝章叙勲。
自由党元衆議院議員の山岡賢次は養子。
衆議院議員の山岡達丸は孫。
新潟県北魚沼郡小出町(現:魚沼市)の山内家に生誕。
1918年、
川で泳いでいて前額部を強打、
瀕死の重傷を負い後々までこぶとして残りました。
1920年、高等小学校を中退して上京、
博文館印刷所で文選工として働きつつ逓信省の研究所に学び、
1924年より印刷・製本業を始め、
1932年、萬里閣に入社し、
雑誌『ギャング』を編集、
『変態銀座デカメロン』を連載。
1933年、
後妻として迎えた妻の実家である加賀安宅(現、石川県小松市)の藤野家に入り、
以後、藤野姓を名乗りました。
妻は筆名山岡道枝。
長谷川伸に入門、山岡荘八の筆名を用います。
1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。
長谷川伸の新鷹会に入会。
1939年初の著書『からゆき軍歌』を上梓。
1942年より従軍作家として各戦線で活動。
『海底戦記』その他で野間文芸奨励賞受賞。
戦後、公職追放、
1950年10月13日に解除。
同年より「北海道新聞」に『徳川家康』を連載、
のち「中部日本新聞」「神戸新聞」などに拡大。
1953年より単行本の刊行が始まり、ベストセラー。
1958年中日文化賞。
1963年新鷹会理事。
1966年文壇長者番付一位、自衛隊友の会会長。
1967年『徳川家康』が完結し、
長谷川伸賞受賞、昌平黌短期大学名誉学長。
1968年『徳川家康』により、
第2回吉川英治文学賞を受賞。
1973年紫綬褒章受章。
1963年、
麻薬追放国土浄化連盟を福田恆存・市川房枝・田岡一雄・田中清玄らと結成。
1974年には
谷口雅春や岡田光玉、朝比奈宗源らとともに「日本を守る会」(のち日本会議)を結成、
1976年天皇在位五十年の奉祝実行委員長。
1978年9月30日、
ホジキンリンパ腫に急性肺炎を併発し、
東京都豊島区上池袋の癌研究会総合病院で死去。
没後、従四位勲二等瑞宝章。
(山岡荘八)
小学校低学年の頃、学校近くの駄菓子屋さんでよく買って舐めてました。
くじにあたったことはありませんけど。
石原慎太郎さん
(1932年9月30日-2022年2月1日)
作家・政治家。
身長181cm。
参議院議員(1期)、
環境庁長官(福田赳夫内閣)、
運輸大臣(竹下内閣)、
東京都知事(第14代 - 17代)、
衆議院議員(9期)、
日本維新の会代表、共同代表、
次世代の党最高顧問を歴任。
一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に
文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機に。
また、
同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせました。
作家としては他に
芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。
『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、
裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラー。
1968年に参議院議員に当選、政治家に転じ、
福田赳夫内閣で環境庁長官を、
1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任。
1995年4月に衆議院議員を辞職。
1999年東京都知事選挙に立候補し当選。
2003年東京都知事選挙、
2007年東京都知事選挙、
2011年東京都知事選挙で再選し4選。
石原都政では
新銀行東京、
首都大学東京の設立、
外形標準課税の導入、
ディーゼル自動車の排ガス規制など議論を呼ぶ政策を実施。
2012年、後継に副知事の猪瀬直樹を指名し、
次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。
同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し、
17年ぶりに国政に復帰。
その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。
2014年の第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で立候補しましたが、
落選の確定を受けて政界から引退。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。
実弟は俳優の石原裕次郎。
長男は自由民主党元衆議院議員の石原伸晃。
次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。
三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。
四男は画家の石原延啓。
(石原慎太郎)

♥️2023💃10/6 松田美由紀(62歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

中条静夫さん
(1926年3月30日-1994年10月5日)
俳優。
身長171cm。
東京府八王子市出身。
東京府立第二商業学校(後の東京都立第二商業高等学校)卒。
新聞記者の父がもうけた二男二女の長男として静岡で誕生。
名の静雄は生誕の地名・静岡の一字からとられたもの。
小学生の時、
父の仕事の都合で上京(新宿から八王子へと移りました)。
1943年12月、
東京府立第二商業学校を繰り上げ卒業して兵役につき、1945年9月に復員。
1946年4月、
神戸製鋼所東京工場にセールスマンとして入社するも、
一攫千金を夢見て1948年に大映東京撮影所に入社。
大部屋俳優として通行人役から出発し、
1954年の『金色夜叉』『馬賊芸者』あたりから脇役として台頭。
1971年12月の大映倒産まで在籍し、
その後は福田恆存の主宰する劇団欅を経て、
劇団昴に所属。
1965年から始まった『東京警備指令 ザ・ガードマン』(宇津井健主演)に
小森隊員役でレギュラー出演し、
以来テレビの世界で人気を得て多くの作品で活躍し、
下積み時代の蓄積を開花させました。
1973年には大映時代から旧知の仲だった
うしおそうじが企画・原案を務めた『鉄人タイガーセブン』に出演。
1974年に出演した『6羽のかもめ』では、
演技が高い評判を呼びました。
そのほか、
山口百恵主演の赤いシリーズや、
『あぶない刑事』シリーズなどで印象深い役柄を演じました。
また、連続テレビ小説『雲のじゅうたん』で演じた頑固な父親役も人気を博しました。
1994年8月、
肝臓障害のため顔に黄疸が出るなどの症状が出始め、肝硬変と診断され、
出演中だった『オトコの居場所』を途中降板して療養生活に入るも、
同年10月5日午後11時59分、
癌による肝不全のため死去。
68歳没。
(中条静夫)
緒形拳さん
(1937年7月20日-2008年10月5日)
俳優。
身長173cm。
趣味は絵手紙と水墨画。
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身、
千葉県千葉市育ち。
長男は緒形幹太、次男は緒形直人で共に俳優。
義理の娘(直人の妻)に女優の仙道敦子、
孫に緒形敦(直人の息子)。
太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれたため、
小学校2年生の時に千葉県千葉市登戸町(現・中央区登戸)に一家で疎開。
中学まで千葉で過ごし、その後東京へ戻りました。
1957年に東京都立竹早高等学校を卒業。
憧れていた新国劇の二大看板俳優の1人、
辰巳柳太郎の弟子になるべく、
翌1958年に新国劇に入団し、辰巳の付き人に。
1960年、
新国劇のもう1人の看板俳優、島田正吾に見出され、
『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢。
作品は映画化され、映画デビューも果たします。
1965年、
NHKのディレクター吉田直哉により
大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、
新国劇の活動も兼務して1年活動。
引き続き1966年の大河ドラマ『源義経』に武蔵坊弁慶役で出演し、
2年続けて大河に出演する稀有な活動をし、
その後も数々の大河ドラマに出演し、
常連俳優の1人として活躍。
同年、新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。
1968年、新国劇を退団。
映画・テレビドラマに活躍の場を移し、
テレビドラマ『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安を演じて多くのファンを得て映画化もされ、
『必殺必中仕事屋稼業』にも出演。
1978年に公開された映画『鬼畜』に主演し、
数々の男優賞を受賞。
その後も
1979年に『復讐するは我にあり』、
1983年に『楢山節考』に主演。
合間に出演した1981年の映画『魔界転生』では、
宮本武蔵に扮して柳生十兵衛(千葉真一)と激闘を演じ、
新国劇で培った殺陣を披露。
1999年、
池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受けました。
2000年、紫綬褒章を受章。
同年に山﨑努も受章。
2008年10月4日、自宅で体調が急変。
栃木県下都賀郡壬生町の獨協医科大学病院に運ばれて肝臓破裂の緊急手術を受けるも、
翌10月5日の午後11時53分、肝癌により死去。
(緒形拳)
ディック・ミネさん
(1908年10月5日-1991年6月10日)
徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。
訳詞家・編曲家としては本名を名乗り、
第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根耕一と名乗りました。
創成期のテイチクレコードの立役者で、
日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、
日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばしました。
また、
トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、
その後純然たる俳優としても活躍。
(ディック・ミネ)
45年前の本日1978年(昭和53年)10月6日、日本テレビ系列にて水谷豊主演「熱中時代」放映開始。志穂美悦子、船越英二、草笛光子、池上季美子、太川陽介ほか。
それまでの学園ドラマにあまり例のなかった小学校が舞台。そこで奮闘する新米教師の北野広大(水谷)の奮闘記。
水谷はそれまでひねた若者の役が多かったが、本作は(水谷自信と同じ)北海道出身の純朴な青年役に。今の「相棒」の杉下右京とも全く異なるキャラクターだが(^^;
初回世帯視聴率12.2%でスタートしたが、水谷演じる北野先生が体当たりで生徒に向き合う姿は多くの視聴者の共感を呼び、最終回は40.0%を記録した。北海道に帰らねばならなくなった北野先生の最後の授業は多くの視聴者の涙腺を崩壊させることに。
後に続編、スペシャル編も制作される。
主題歌は原田潤「ぼくの先生はフィーバー」。原田は転校してきた生徒役でゲスト出演も。同じ日本テレビで2004年から始まった「世界一受けたい授業」でもテーマ曲に使われている。

タイガーマスク。もはやプロレスなどではない、虎の穴の存亡をかけた、殺しあい。この作品を観て見返りを求めない愛を知りました。

https://youtu.be/58BgBE3KeHo?si=SybmsHp5lHFjaLA-
黄金バットいろいろ。
千葉真一バージョンは知りませんでした。自分はやはりアニメからでした。

元祖SMAP👏🎶

芦川いづみさん
(1935年10月6日-)
元女優。
日活の黄金期を代表する女優として知られます。
東京市滝野川区田端町(現・北区田端)に生誕。
1952年法政大学潤光女子高校(現・法政大学国際高等学校)を中退、
松竹歌劇団付属松竹音楽舞踊学校に入学。
同期に野添ひとみ、山鳩くるみら。
このとき、芸名を「芦川いづみ」としました。
1953年、
たまたまファッション・ショーに出演中に、
松竹の川島雄三監督に認められ、
川島監督の『東京マダムと大阪夫人』でデビュー。
その後、1955年、
川島監督の推薦で、松竹歌劇団を退団し日活に入社。
市川崑監督の『青春怪談』で日活映画初出演。
その後、
『幕末太陽傳』などの川島監督の作品をはじめ、
様々な役に挑戦し、
松竹から移ってきていた北原三枝とともに日活を代表する女優に。
浅丘、吉永小百合、中原早苗、笹森礼子と合わせて
「パールライン」と呼ばれました。
1956年、
田坂具隆監督の『乳母車』で石原裕次郎と初共演、
爽やかな演技で人気を不動のものに。
以降、
北原とともに裕次郎映画のヒロインとして欠かせない存在となり、
北原の引退後も裕次郎の相手役として活躍。
浅丘ルリ子にそのポジションを譲ってからも日活を代表する女優として活躍。
1958年の『美しい庵主さん』では尼を演じるために坊主頭に。
1961年、
映画『激流に生きる男』製作中に共演者の赤木圭一郎が死亡し、製作が中止。
1962年の『硝子のジョニー 野獣のように見えて』ではこれまで演じたことがない
「男たちを魅了してやまない流浪の女」
という役柄を演じ、新たな魅力を見せました。
1968年、藤竜也と結婚、
映画『孤島の太陽』が引退作に。
以後、女優としては映画、テレビなどへは出演していません。
(芦川いづみ)
二代目桂小金治さん
(1926年10月6日-2014年11月3日)
東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)出身の落語家、俳優、タレント、司会者。
帝京商業学校(現:帝京大学中学校高等学校)卒業。
元俳優の山岸快は孫。
[年譜]
・1926年-東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)の魚屋の息子として誕生。
・1942年-帝京商業学校に入学。
しかし1943年、
太平洋戦争のため繰り上げ卒業となり、
立川の飛行機工場の食堂に勤務。
・1945年-特別幹部候補生として陸軍少年戦車兵学校へ入校。
在校中に終戦。
・1947年-日本芸術協会副会長・2代目桂小文治に入門し「小竹」を名乗ります。
・1949年-二つ目昇進、「小金治」を名乗ります。
・1952年-映画『こんな私じゃなかったに』(松竹大船、監督:川島雄三)に出演し、映画デビュー。
松竹大船と専属契約を結び売れっ子に。
・1955年-テレビに進出。
・1959年-東京映画(東宝系の映画会社。現在の東映とは無関係)に移籍。
・1961年-日活に移籍。
石原裕次郎、高橋英樹と多く共演。
・1966年-ワイドショー『アフタヌーンショー』(NETテレビ、現:テレビ朝日)で司会を担当(1973年8月3日放送まで。小金治司会時代のタイトルは『桂小金治アフタヌーンショー』でした)。
この番組で「怒りの小金治」の異名をとります。
・1975年-バラエティ番組『それは秘密です!!』(日本テレビ、毎週火曜日19時30分〜20時00分)で司会を担当。
同番組の人気コーナーであった「ご対面コーナー」で、
感動のあまりもらい泣きする姿は視聴者の共感を誘い、
前述とは打って変わって「泣きの小金治」と呼ばれました。
・2006年-テレビドラマ『セーラー服と機関銃』(TBS)に出演(第1回のみ。「目高組」の先代組長役)。
・2011年-高座からの引退を宣言。
2014年-11月3日、
肺炎のために神奈川県川崎市麻生区の病院にて死去。
88歳没。
(二代目桂小金治)
▪️ノーランズの『ダンシングシスター』
https://youtu.be/XbAM2_6jKY0?si=WmCJdQsfjfBXc9lw
▪️アラベスクの『恋にメリーゴーランド』
https://youtu.be/2nyh58Owp9g?si=LYS22OhAlaYCEqZg
どちらも多分、昭和56年前後頃?
これがきっかけで、その後私は洋楽に目覚めることになりました。

今のロール式のトイレットペーパーの元祖か?

戦慄・ショッキングな
ラストシーン!
二大.作品
*猿の惑星
*俺たちに明日はない
10月5日はテレビアニメ『#サザエさん』放送開始54周年!
原作漫画ご執筆の長谷川町子先生は「天才少女漫画家」の冠で15歳でデビュー。戦後すぐに「サザエさん」執筆を開始。「ワカメちゃん」など、磯野家家族単体のスピンオフ的な作品なども♪
昭和36年流行った歌
[1]
1.上を向いて歩こう(坂本九)
2.東京ドドンパ娘(渡辺マリ)
3.ズビズビズー(森山加代子)
4.北上夜曲(多摩幸子・和田弘とマヒナ・スターズ)
5.子供ぢゃないの(弘田三枝子)
6.雨に咲く花(井上ひろし)
7.硝子のジョニー(アイ・ジョージ)
8.有難や節(守屋浩)
9.王将(村田英雄)
10.カイマナヒラ(エセル中田)
11.惜別の歌(小林旭)
12.無情の夢(佐川ミツオ)
13.南国の夜(大橋節夫)
14.悲しき街角(飯田久彦)
15.九ちゃんのズンタタッタ(坂本九)
[2]
1.銀座の恋の物語(石原裕次郎、牧村旬子)
2.北帰行(小林旭)
3.スーダラ節(植木等)
4.禁じられた恋のボレロ(水原弘)
5.スタコイ東京(菊地正夫)
6.じんじろげ(森山加代子)
7.別れの磯千鳥(井上ひろし)
8.恋しているんだもん(島倉千代子)
9.武田節(三橋美智也)
10.パイナップル・プリンセス(田代みどり)
11.ドント節(クレイジー・キャッツ)
12.日曜はいやよ(西田佐知子)
13.ゴンドラの歌(佐川ミツオ)
14.カレンダーガール(坂本九、ダニー飯田
とパラダイスキング)
15.南海の美少年(橋幸夫)
おはようございます😸
今日もよろしくお願いします😊
当たり付き 王冠👑
子供のころの楽しみでした😹

がんばれ!!タブチくん!!

森雅之さん
(1911年1月13日-1973年10月7日)
俳優。
北海道札幌郡上白石村(現在の札幌市白石区)生まれ、東京都出身。
身長165cm。
父は小説家の有島武郎。 
札幌で教職を務めていた有島武郎と、
陸軍大将・男爵神尾光臣の娘でもある母安子のもとに、
長男として誕生。
他に弟が2人。
3歳まで札幌で過ごしましたが、
1914年に母が結核を発病し名医の治療にあたるため、
旧旗本屋敷だった東京麹町の有島邸に家族揃って転居。
しかし1916年には母を病気で亡くし、
1923年には父・有島を心中で失い、
弟2人と共に叔父の有島生馬らの下で育てられました。
1922年に番町小学校から成城小学校に転校し、
1931年に旧制成城高等学校を卒業、
1931年に京都帝国大学文学部哲学科美学美術史専攻に入学するも
中退。
1925年に築地小劇場を見学して感銘を受けたことで成城高等学校時代から舞台俳優を志します。
1930年に同劇団の『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』にエキストラ出演。
1931年、
慶応仏文の金杉惇郎、フランス帰りの長岡輝子を中心に
都会派のモダンな学生劇団「テアトル・コメディ」が結成され、
成城高校の有島行光(森雅之)も参加。
第1回公演から芸名の森雅之を名乗り始め、
『芝居は誂向き』などの演技で将来を嘱望されるも、
この頃胸部のカリエスに罹り4年間ほど闘病生活を送りました。
病気治癒後の1937年、
岸田国士、岩田豊雄らの文学座の結成に加わり、
本格的に役者で身を立てる決心をします。
コメディや恋愛劇の洗練された演技で注目を浴び、
1940年に杉村春子、三津田健と文学座の常任委員に就任。
1943年には杉村と夫婦役を演じた『田園』がロングランとなり、
翌1944年には北里柴三郎を演じた『怒濤』の老け役で絶賛されました。
戦前の舞台演劇の世界で確固とした地位を築きましたが、
同年に文学座を退座。
戦後は
1945年に戦後初の新劇『桜の園』に出演した後、
東京芸術劇場(東芸)の結成参加を経て、
1947年に劇団民藝の前身の「民衆芸術劇場」(第一次民藝)の結成に参加。
滝沢修、宇野重吉らと戦後の新劇界を牽引するも、
1949年、
思想的な内紛に嫌気がさして「民衆芸術劇場」を退団。
民芸退団後は新派に約10年所属。
また、その後の劇団民藝(第二次民藝)にはフリーとして公演に参加。
1950年代以降はフリーの立場で文学座などの新劇の舞台に立ち、
また、新劇の枠をこえて劇団新派や東宝現代劇などの芝居にも積極的に出演。
当初、映画出演に消極的でし
たが、1942年、31歳のとき、
文学座が提携出演した東宝作品『母の地図』で映画デビュー。
1947年、松竹映画『安城家の舞踏会』の没落華族の長男役で注目され、
これがきっかけとなって本格的に映画界に進出し、
この頃から森にとっての映画黄金期に突入。
1950年代を中心に
溝口健二監督作『雨月物語』や
黒澤明監督作『羅生門』、
成瀬巳喜男監督作『浮雲』などの作品で知的でニヒルな二枚目を演じ、
演技派のトップスターとして活躍。
また、出演映画が米国アカデミー賞と世界3大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)のすべてで受賞しており、4冠を達成。
1956年、
芸術祭奨励賞受賞作『勝利者』でテレビに初出演し、
以降はテレビドラマにも活躍の場を広げました。
1973年10月7日、
慈恵医大付属病院で直腸癌のため死去。
享年62。
(森雅之)
坂田利夫さん
(1941年10月7日-)
お笑い芸人。
身長159cm。
漫才コンビ「コメディNo.1」の元メンバー。
通称・アホの坂田。
後輩芸人や年下の著名人や一般人からは坂田師匠と呼ばれています。
大阪府大阪市港区田中1丁目出身。
吉本興業所属。
独身。
此花商業高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)卒業。
漫才コンビ時代にリリースした
キダ・タロー作曲の「アホの坂田」がイメージソングとして定着しており、
舞台登壇時などには恒例のお約束として出囃子に使用。
1941年10月、大阪府大阪市港区に誕生。
弟、妹があり。
実家は地神ワイヤーロープ製造業(家内工業)。
1955年、
台風の被害により家が壊れ、
大阪市西区にあった製綱会社工場に一家で住み込み。
1961年、
高校卒業後に職を転々とした後に
吉本新喜劇の研究生として吉本入り。
1967年、
前田邦弘(前田五郎)と漫才コンビ、コメディNo.1を結成。
1970年、
第5回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 新人賞受賞。
1971年、
昭和45年度 第1回 NHK上方漫才コンテスト最優秀話術賞受賞。
この2度の栄冠が、
坂田にお笑いの道への専心を決意させることに。
1972年、
第1回 上方お笑い大賞(読売テレビ)金賞受賞。
1972年8月、レコード「アホの坂田」発売。
1979年、
第14回 上方漫才大賞(ラジオ大阪)大賞受賞。
2009年8月31日、コメディNo.1を解散。
2015年、
映画『0.5ミリ』において、第10回おおさかシネマフェスティバル 助演男優賞を受賞。
(坂田利夫)
羽佐間道夫さん
(1933年10月7日)
声優、俳優、ナレーター。
身長170cm。
熊本県荒尾市生まれ、東京府(現:東京都)出身。
兄は元NHKアナウンサーの羽佐間正雄。
従兄にフジサンケイグループ代表などを歴任した羽佐間重彰がおり、三浦環の親戚。
父親が三井三池炭鉱に勤務しており、
社宅のあった熊本県荒尾市で誕生。
1939年に父が転勤したことで東京都高輪に移住し育ちました。
幼少期から人前に立つのが好きで、
学芸会などでは必ず舞台に立ち、
小学生時は創作童話の朗読を全校生徒の前でしていたといいます。
小学2年生の時に勃発した太平洋戦争から一時は長野に疎開。
3年後に高輪へ戻り、
終戦後は新橋駅近くで物を売って生計を立てました。
中学在学中に演劇部へ入部し、
当時は宇野重吉や滝沢修らを目標とし、
その後、ほかにやることもなかったため、
役者を志して舞台芸術学院に5期生として入学。
卒業後は新協劇団(現・東京芸術座)に入団。
1957年に日本テレビから
「ヒッチコック(ニッカ ヒッチコック劇場の第1期)をやるんだけどやってみないか」
と声を掛けられ、
その後、
文化放送に勤めていた幼なじみの岡田太郎から誘われ、
短時間でそこそこ稼げる割のいいアルバイトとしてラジオドラマに出演するように。
その後、
出演したラジオドラマを聞いた関係者からの誘いで
『ホパロング・キャシディ』の吹き替えをすることに。
2001年、
ナレーションの功績により部門がないにもかかわらず
第18回ATP賞個人部門で賞を受賞。
2008年、第2回声優アワード功労賞を受賞。
(羽佐間道夫)
室田日出男さん
(1937年10月7日-2002年6月15日) 
俳優。
身長180cm。
北海道小樽市奥沢町出身。
小樽市立潮見台中学校~北海道札幌東高等学校卒業。
息子は俳優の室田晃。
代表作は映画『男はつらいよ 噂の寅次郎』やテレビドラマ『ふぞろいの林檎たちII』等。
(室田日出男)
三木鶏郎さん
(1914年1月28日-1994年10月7日)
作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家。
東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。
昭和前期から平成前期まで活躍。
芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)
「トリオ」をかけたもの。
ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。
甥(鮎郎の長男)の三木睦郎は「笑点」の放送作家。
旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)文科丙類を卒業。
1940年、東京帝國大学法学部法律学科を卒業。
作曲を諸井三郎、ヴァイオリンを小野アンナ、ピアノを渡辺シーリーに師事。
1941年、経理部幹部候補生試験合格し、
東部第8部隊集合教育で陸軍経理学校へ入学。
1942年、陸軍経理学校を卒業。
1942年、
習志野戦車東部第9部隊へ配属され少尉に昇進。
1945年、
千葉県習志野(千葉郡二宮町薬園台)に新設の「東部軍管区教育隊」に勤務(東部軍管区主計中尉)。
陸軍主計大尉で復員。
1946年 、
三木鶏郎楽団を結成し、東京麹町にスタジオを建立。
1951年、
日本初の放送におけるコマーシャルソングである
「僕はアマチュア・カメラマン」をつくり、ディズニーアニメで初の日本語版音楽監督を務めました。
活動に際し、
キノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如、伊藤アキラとトリローグループを結成(また、作曲家陣として神津善行、いずみたく、嵐野英彦、桜井順などを、三木鶏郎楽団としてジョージ川口、小野満、鈴木章治などを集める)。
門下からは歌手(楠トシエ、中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平など)など、
多くの人物を世に送り出しています。
1993年に日本広告音楽制作者連盟によって三木鶏郎音楽賞が創設。
晩年は糖尿病を患い、
糖尿病の芸能人仲間と「糖尿友の会」を主宰。
晩年は1年の半分以上をハワイのマウイ島で過ごしていました。
4部構成から成る回想録を書き上げ、
このうち1部と2部が平凡社から刊行された直後に死去。
(三木鶏郎)
実写版鉄人28号
昭和クオリティ😅
池部良さん
(1918年2月11日-2010年10月8日)
俳優、随筆家。
東京市大森区(現・東京都大田区)出身。
身長174センチメートル。
立教大学文学部英文科卒業。
昭和中期の代表的な映画スターの一人。
甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとりました。
大学では富田彬などから学ぶとともに、
映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に
東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、
1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社。
監督希望でしたが、
戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、
文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、
当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、
彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演。
それが好評となり、
知的でスマートな若手俳優のホープとして注目されました。
1942年の『緑の大地』のクランクアップの翌日に陸軍に召集され、中国山東省に派遣。
大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められます。
任期が長くなるために断るも、
上官に無理やり受けさせられ、
白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、厳しい訓練を受けました。
1943年11月に見習士官に任官後、
予備陸軍少尉を経て1944年に南方戦線へ移動。
竹一船団の輸送船「天津山丸」に乗船するも、
5月12日に敵潜水艦に撃沈され、
セレベス海に投げ出されて10時間泳いだ後、
海軍の艦船に救出され、
インドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属。
そこは食料も弾薬も豊富でし
たが、1944年9月にはアメリカ軍のすさまじい艦砲射撃や空爆を受け、
ジャングルに逃げ込みます。
その後は上官がすべて他島へ移動してしまったため、
少尉ながら衛生隊本隊を任されて終戦まで戦い、
終戦時の階級は中尉。
1945年11月には
進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役を任され、
単身で豪海軍駆逐艦に乗り込み、
人格者であった艦長とオールド・パーを飲み交わしています。
1946年6月まで抑留され、
南方から苦労して復員船に乗ります。
他の隊の将校は海に放り込まれたりするも、
池部隊では部下が円陣を作って隊長を守ってくれ、日本に帰国。
腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかを決めかねていましたが、
東宝や高峰秀子に熱心に請われ、
特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、
俳優に復帰。
当時としては高身長である174センチの身長と甘さと渋さを兼ね備えた容貌を生かし、
次々と主演作品をヒット。
1948年に女優の羽鳥敏子と結婚しましたが離婚し、
その後も青春スターの第一人者として活躍を続けました。
特に1949年の『青い山脈』では、
当時30代だったにもかかわらず旧制高校の生徒をさわやかに演じ、
戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒット。
その後は
1950年に新東宝の『暁の脱走』、
1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。
特に『現代人』は、
池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品でした。
『坊っちゃん』(1953年)、
『雪国』(1957年)、
『暗夜行路』(1959年)などの
多くの文芸作品で影のある青年を演じ、
文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨。
1960年代に入ると徐々に脇役に転じ、
1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判に。
この頃、18歳年下の女性と再婚。
1960年代からはテレビドラマにも出演し始めました。
『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で
池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語に。
このほかの東映作品では、
池部が元警視総監を演じた千葉真一主演『直撃! 地獄拳』が
1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、
同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に。
アメリカ合衆国では『The Executioner』というタイトルで
1999年現在、10万本以上のビデオが売れています。
1983年より2009年まで創設された日本映画俳優協会初代理事長を務めました。
1991年、
『毎日新聞』連載の『そよ風ときにはつむじ風』で
日本文芸大賞を受賞したことから多数の連載を抱えることとなり、
以後は文筆業や講演が活動中心に。
2007年、
初の池部良研究本『映画俳優 池部良』を出版。
2010年10月8日午後1時55分、
敗血症により、東京都内の病院で死去。
92歳没。
(池部良)
人気番組でしたね。
近衛十四郎の剣捌きは見事でした。
話も一話完結で最後は旦那の剣で悪党が成敗されるというものでしたがそれがよかったのでしょう。

とんねるず&ダウンタウン😂🤣  どちらも…可愛かった✌

かき氷屋さんです。頭にキ~ンと来ながら食べましたよね。