Apex product 【 昭和の楽しい時代㉙ 】

【連絡先】

メモ: * は入力必須項目です

左右田一平さん
(1930年7月10日-2012年2月10日)
俳優。
北海道札幌市出身。
身長170cm。
舞台芸術学院卒業。
芸名の由来は、
酒好きだった彼が「そうだ、一杯やろう」から考案したもの。
高校卒業後に兄を頼って上京。
1955年に劇団中芸入団。
1959年に東京芸術座が誕生すると団員の一人に。
東京芸術座の舞台やテレビ、映画で活躍。
1979年に京都市民映画祭でテレビ部門男優賞を受賞。
結束信二作品の常連的存在で、
『忍びの者』から『燃えよ剣』までの全ての作品に出演。
特にテレビ時代劇『用心棒』シリーズは、
左右田のみ同じ品田万平役でシリーズ4作全て出演。
2012年2月10日、S状結腸がんで死去。
81歳没。
(左右田一平)
花菱アチャコさん
(1897年7月10日-1974年7月25日)
大正・昭和期の漫才師、俳優。
福井県勝山市出身。
生家は法沢寺という寺院。
幼くして両親とともに大阪に移住。
父は仏壇職人に。
移住後、
アチャコは奉公に出るなどしていましたが、
遊芸に興味を持ち、
1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、
千日前敷島倶楽部で初舞台。
1914年、
神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。
このとき「花菱アチャコ」を名乗ります。
芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来。
「アチャコ」の由来について、
アチャコが決まって説明していたのは
「鬼笑会」時代に先輩役者からつけられたあだ名「アーチョン」が転じた、というもの。
徴兵検査を受ける頃には、
奈良瓦堂町の中井座に在籍。
1919年に一度だけ横山エンタツと座を組み、
幕間に「しゃべくり漫才」を試演するも不評に終わり、
客からはみかんの皮を投げられるほどでした。
1925年、吉本興業に入社。
1930年、
当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、
横山エンタツとふたたびコンビを組み、
当時人気のあった東京六大学野球をネタにした
『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博します。
1934年、中耳炎にかかり入院、
その間にエンタツは林正之助等との相談の上でコンビを解消。
エンタツは杉浦エノスケと組みます。
退院後は舞台では
千歳家今男とのコンビを復活させましたが、
映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続。
一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業。
第二次世界大戦終結後、
吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するも、
唯一の例外として専属契約継続を認められました。
これは、
1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際、
アチャコも新興から契約金として当時としては大金である500円を既に受け取っていましたが、
林正之助に一喝されてそれを新興に返し、
吉本からも「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一筆取っていたため。
結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることに。
戦後間もない時期には、
長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、
映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍。
1950年、産業界のアメリカ視察団に同行、船で渡米。
同年12月11日帰国。
1952年に
長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化。
後番組で『アチャコほろにが物語 波を枕に』を経て、
引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』が人気を博し、これも映画化。
1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、
吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えました。
テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期に
「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」「さいなもうー…」の台詞で一世を風靡。
1953年12月24日に
千日グランドの杮落しでエンタツと久しぶりに客の前で「僕の家庭」を披露、
1963年にはNHKで放映された「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」(構成:小林信彦)においても
披露しましたが、
ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮。
1974年7月25日、直腸癌のため死去。77歳没。
(弟子)
粋曲漫談ののれん太郎、
漫談の鶴乃一声、三五郎、岡八朗、石川大介(付き人)、石川寿子(付き人)、西川花助(付き人)など。
かつて、
実質の孫弟子(岡八朗の弟子)「オール阪神・巨人」に
「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせるという話がありましたが、
オール阪神・巨人側が「おそれ多い」と断りました。
孫のアチャマゴ久利(藤木久利)はレゲエミュージシャンで、
「アチャコ一座」というバンドを結成して活動。
また、大阪市中央区高麗橋に、
1952年からアチャコの妻が経営していた店は
現在(2014年)はアチャマゴがたこ焼き屋「ACHAKO」として経営中。
(花菱アチャコ)

一世風靡セピア  柳葉さん  哀川さんがかっこいいと思う世代です

ドリフターズの孫悟空

ビールの季節になると思い出す。

都市伝説を扱うホラー映画って、大体駄作が多いのですが、本作は違いました。
「先生!口裂け女です!」は口裂け女へのリスペクトと愛情がこもっているように思えます。
あと、女優陣がみんな可愛い🫶
https://www.three-minutes-philosophy.com/kutisake/

マジンガーZ対デビルマン(1973年7月公開)

林寛子さんの下敷き

🍡2023(7/10)は、🎥「男はつらいよ」柴又交番のお巡りさん始め、数々の作品に登場していた“米倉斉加年”さんのお誕生日なんです🎂。ご存命なら、89歳でした💁‍♂️。
添付画像以外にも、お顔を見せておりましたが、お判りになりますか?😜。
日本女子プロ野球(日本女子野球連盟)
第一号選手は大阪ダイヤモンドの高坂峰子氏で5割以上の打率でした。
17歳の時、ソフトボールの経験を生かし大阪タイガースの駒田桂二選手の審査の下でプロテストに臨み400人中16名の合格者の一人になりました。
ミミーと言う愛称でファンに広く親しまれ2年間で3チーム渡り歩き、一番or四番打者で一塁手・捕手・投手と幅広く活躍していたそうです。
漁船で半日掛けた遠征や無理な試合日程、給与は低いレベルであったそうですが野球が出来る上に球団側が様々な費用を負担していたので文句を言う人は殆ど居なかった様です。
当時の経済状況では元々資金繰りが難しくショー派と健全派の対立が原因で、銀座のサロンがオーナーである「ロマンス・ブルーバード」が連盟脱退した事で集客力が激減しチームが次々と消滅。
ただオーバーフェンスのホームランは1本も生まれなかったのと時代故に野球経験がある選手が居なかった様なので「健全スポーツ」としての女子プロ野球の存続は最初から難しかったのもあります。
昭和25〜26年の2年間しか存在しなかったリーグ(以降はノンプロとして活動)ですが近年では強い母体であるプロ野球団が女子選手を採用し始めているので、今度こそ長く続けば良いですね😊
現在は大阪府でアラビヤコーヒーと言う喫茶店の経営に携わっております。
昔、よく遊びました!
何度も何度も角度や
力加減考えながら😊

田中角栄元首相と娘の田中真紀子さん

7月10日は歌手 #大杉久美子 さんのお誕生日です。おめでとうございます!
アタックNo1(OP)、ミラクル少女リミットちゃん(OP・ED)、エースをねらえ!(OP・ED)、アルプスの少女ハイジ(ED)ほか多数。

♥️2023💃7/11 葉月里緒奈(48歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

2023年7月11日は、
男はつらいよ・第21作 
 のマドンナ・奈々子役、木の実ナナさんの 
 誕生日です。 木の実ナナさん、お誕生日 
 おめでとうございます! 因みに、1946年 
 生れで、今年、喜寿、77歳になります。 
 ご参考迄に、思い出画像ご紹介致します。
2023/7月10日は女優・講談師 #麻上洋子(一龍斎春水)さんのお誕生日です。おめでとうございます!
宇宙戦艦ヤマト シリーズ(森雪)、ゼロテスター(リサ)、フランダースの犬(アロア 初代)、わんぱく大昔クムクム(フルフル)ほか多数。
ピープロ
 アニメ、特撮製作会社
 60年 鷺巣富雄(さぎすとみお)※マンガ家うしおそうじ
が中心となり設立したアニメ、特撮製作会社。
特撮のマグマ大使、スペクトルマンなど怪人、怪獣、ヒーローの造形に天龍のプロレスショーツ姿みたいなモッサリ感漂う独特の雰囲気を醸し出してますが、反面マグマ大使のアロンのような生物の躍動感に溢れる造形など非常に印象深く残るものが多いです。
志村けんさんとアグネス・ラムさん
雑誌の企画でしょうか
バカンス中の志村さんを仕事などで
親しくなったラムさんが訪ねられたと
ラムさん綺麗ですし✨✨
志村さんカッコいいですね~😊

原作・牛次郎先生、漫画・ビッグ錠先生による熱血料理漫画「#包丁人味平」。万人が楽しめる 美味しく安価な料理づくりを目指す塩見味平。「包丁試し」「点心礼勝負」「点心礼勝負」「荒磯勝負」「カレー戦争」「全日本ラーメン祭り」で出会ったライバルたちと切磋琢磨し、料理人として成長していく。

お嬢様育ち,歌姫❤ユーミン❤の実家,八王子に有る100年以上の老舗呉服屋⭐荒井呉服店⭐現在は14階建てのビル。

海用ウォッチが1300万円になっていて、ビックリしました!定価は200万円くらいだったと思います。世界限定300本。最初のホワイトオーデマピゲ。

西遊記でお釈迦様の役をされた高峰三枝子さん

コロンビアトップ、西川きよし、アントニオ猪木。

40年前の本日1983年(昭和58年)7月11日、日本テレビ系列にて北条司原作「キャッツ♥️アイ」放映開始。美人三姉妹の怪盗が主人公。次女の来生瞳のCVは今や大女優の戸田恵子が。
主題歌は杏里の「CAT'S EYE」。オリコン、ザ・ベストテン、ザ・トップテンいずれも最高位1位の大ヒットに。
昭和53年9月30日、京都市電が83年の歴史を閉じました。
その最終日、サヨナラ電車と東寺が見事にコラボしました。

昔は病院の近くにあった果物店、お見舞いに持って行くからですね🥰🐼❤️

昭和40年頃の遊園地で流行っていたコーヒーカップの乗り物🥰🐼❤️

2023/07/11 は橋本真也さんの御命日。
大好きだったアントニオ猪木さんと今頃何を語ってるだろうねぇ。

(1968年)7月11日は「週刊少年ジャンプ」創刊55周年です。おめでとうございます! 「友情」「努力」「勝利」をモットーとした名作群よ、永遠に♪ (⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)

愛媛県大洲を舞台にすすめられたNHK連続テレビ小説「おはなはん」1966年から翌く1967年まで1年間放送されました。樫山文枝 高橋幸治。大洲では今も時報には「おはなはん」のテーマ曲が使われています。おはなはん通も人気があります・

♥️2023💃7/12 片平なぎさ(64歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/12 渡辺美里(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/12 真弓明信(70歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/12 小林麻耶(44歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

もう一度見てみたい🤩【座頭市と用心棒】😅 お二人とも刀裁きは天下一でした😎 それにしても…三船大先輩を横に全然貫禄負けしない 勝新太郎さんと石原裕次郎さん😅さすがです🤣

昔コカ・コーラにも当たり🎯
があった‼️😁😊

昭和26年7月、両国花火大会(現在の隅田川花火大会)船による場所とりだそうです。(カラー化しました。)

中島貞夫の世界 日本巨匠目録
エロ時代劇、初の劇場映画 
「監督になるにはあと10年かかる…」
背に腹は代えられず決心 
『くノ一忍法』1964昭和39年 東映京都
2023.7/10 望月苑巳 夕刊フジ配信
https://www.zakzak.co.jp/article/20230710-N3GT6DCKARN4PIHMW7Q7JTB5TU/
この6月亡くなった京都映画界の大御所、
中島貞夫監督。
何といっても記憶に残るのは親友、深作欣二と共に
東映のヤクザ路線を作り上げたことだろう。
一方、東映のエロスものを定着させたのも、彼だった。
中島監督デビュー作の「くノ一忍法」は
当時大人気だった山田風太郎の「忍法帖」シリーズが
原作で、映画も3本製作されたが、これはその1本目。
この作品の重要な意味は、エロ時代劇初の劇場映画
ということ。そして1960年代後半から始まる東映の
ポルノ路線の先駆けでもある。脚本を書いたのが、
倉本聰というのも意外なところか。
当時、組合活動に積極的だった中島は、会社側との
団交の席で東映京都撮影所長だった岡田茂と角を突き
合わせることが多かったという。そんな中、岡田が
「能書きばかりタレとらんで企画の1本も出さんかい」
と一喝すると、中島は冗談半分に「くノ一忍法帖」を
提案。岡田は一度は一蹴するも、数日後、山田風太郎の
原作が人気と知って手のひらを返してGOサイン。
一方の中島はデビュー作がエロ映画は嫌だ、と
葛藤したという。おまけに盟友萬屋錦之介からは
「これをやるなら絶交だ」とまでいわれ、
一度は岡田にわびを入れたほど。だが先輩の今井正から
「監督になるには、あと10年はかかるよ」
といわれ、背に腹は代えられないと決心した。
一番の難関は脱がない女優陣を脱がせること、
だったという。しかし、映画は大ヒットとなり、
すぐに監督次回作の打診が会社から来たのは、
言うまでもない。 
(望月苑巳 夕刊フジ)
女優の岩下志麻さん!!
オシャレですね✨
昔は百貨店のことをデパートと呼んでましたね。
屋上がゲームセンターになっていて決まってやってたのがこんな感じのドライブゲームでした。
今の時代には考えられないシンプルなゲームでしたね。🫢😂
「さいざんす二刀流」
主演トニー谷
監督丸根賛太郎
宮本武蔵の息子が、異国の女子プロレスの1団に、奥義を会得し、佐々木小次郎の息子と闘うと言う無茶苦茶な話です。
なんやねん「奥義」って😆
昭和40年、アメリカからゴーゴーダンスが来る!
写真は昭和46年のビヤホール
ストッキングはシームが色気です

PlayStation2。RPGのファイナルファンタジーⅩ。後世に残る傑作RPGだと思います。ファイナルファンタジーシリーズには、無我夢中になり3日間不眠不休でPlayするなど、度々で、おかげで視力の急低下を招きました、いまは夢中になれるものが、なくて寂しい毎日を送っております。

歌手・女優 故 #松本ちえこ さん。1974(昭和49)年より資生堂石鹸「#バスボン」のキャラクターとして登場。飾り気のないお人柄がCM効果となり、バスボンシリーズ商品は大人気を博しました♪
https://dailymotion.com/video/xajj15
山下 清(画家)
1971年7月12日没、享年49。没後52年。
1922年3月10日生まれ。
東京都 東京 浅草出身。
映画
裸の大将放浪記
山下清物語
1981年公開
監督・脚本  
山田典吾
原作  
山下清
キャスト
出演
芦屋雁之助
牟田悌三
江戸家猫八
根上淳
磯村みどり
中村玉緒
昔の殺虫剤
こんなんなかった~(・_・?)
芥川也寸志さん
(1925年7月12日-1989年1月31日)
作曲家、指揮者。
JASRAC元理事長。
小説家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現:東京都北区)田端に生誕。
母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・文。
長兄は俳優・芥川比呂志(旧陸軍中尉)。
次兄は多加志(1945年、ビルマ方面で戦死)。
也寸志の名は
龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭の名「恭」を
訓読みし万葉仮名に当て命名されました。
父は1927年に自殺。
也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、
とりわけストラヴィンスキーに傾倒。
兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、
早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたといいます。
絵本の詩を即興で作曲することもありましたが、
当時まだ五線譜を知らなかったので、
自己流の記譜法で書きとめました。
このとき作った節を、
作曲家になった後で気に入って自ら出版したことも。
東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)在学中は
唱歌が苦手だったために、
音楽の成績は通知表の中で最も劣っていました。
1941年、
東京高等師範附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽を志し、
橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始。
このとき無理が祟って肋膜炎を患います。
1943年、
東京音楽学校予科作曲部(現:東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格したものの、
乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、
受験者全員の入試の成績一覧表を示されて
「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。
大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と
叱責され、衝撃を受けました。
橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学びました。
1944年10月、
学徒動員で徴兵され陸軍戸山学校軍楽隊に配属。
東京音楽学校からは伊藤栄一、梶原完、萩原哲昌ら14人の配属者がいて、
芥川は8か月の教育期間を首席で卒業し、
教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜りました。
その後、作曲係上等兵として
團伊玖磨、奥村一、斎藤高順と共に終戦まで勤務。
様々な隊歌や軍楽隊向けの作編曲を行いました。
1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、
戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、
決定的な影響を受けました。
当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせました。
ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼします。
1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業。
本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は
伊福部の影響が極めて濃厚な作品。
伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当。
1949年、東京音楽学校研究科を卒業。
在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏されました。
1950年、
『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特賞入賞。
同年3月21日、
『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、
作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びました。 
同じ1950年には、
窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、
ピアノを弾く学生の役で出演。
1953年に同じく若手作曲家である
黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成。
作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、
独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催。
同年開催された毎日映画コンクールでは、
『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得。
1954年、
当時まだ日本と国交がなかったソ連に、
自作を携えて単身で密入国。
ソ連政府から歓迎を受け、
ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーの知遇を得て、
ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけました。
当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家。
中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国。
以後、
オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、
戦後の日本音楽界をリード。
1956年、
アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成。
以後、
無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたりました。
1976年、当時としては画期的な、
1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を2晩にわたり行い、
その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞。
その後も
ショスタコーヴィチの交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動。
一方で、
同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、
ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行いました。
1957年にはヨーロッパ旅行の帰途、
インドに立ち寄ってエローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、
巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、
このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、
代表作の一つに。
この頃から、
動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになります(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表)。
この『エローラ交響曲』は、
伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられました(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを勤めました)。
1958年6月16日、
京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、
芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、
服毒自殺を遂げるという事件が発生。
1959年『Nyambe』が放送初演。
『エローラ交響曲』で見せ始めた前衛的な語法が前面に押し出せれ、
半音階的趣味、無調性、微分音なども多用されています。
1960年には大江健三郎の台本でオペラ『暗い鏡』を発表。
原爆後遺症に苦しむ青年を描いた問題作として話題に。
この作品はのちにテレビオペラ『ヒロシマのオルフェ』と改作。
1962年には『絃楽のための音楽 第1番』が東京現代音楽祭で初演。
ポスト・ヴェーベルン的な点描様式と日本の間の美学が組み合わされ、
その静謐な作品は武満徹に捧げられました。
1966年にはこの作品の編成を拡大した「絃楽オーケストラのための『陰画』」を放送初演。
自身の「マイナス空間論」と「男と女の性」に関する探求を深めました。
1966年には新交響楽団が労音から独立。
この動きはマスメディアにも取り上げられ、社会問題として扱われました。
1967年12月、
芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立。
1967年には、
それまでの作風から転換し、
再びオスティナートを前面に押し出した作風へ回帰。
その後は、
「オスティナータ・シンフォニカ」(1967)や
「舞踏組曲『蜘蛛の糸』」(1968)、
「オーケストラのためのラプソディ」(1971)などを発表。
それまでの前衛的手法から徐々に従来持っている
オスティナート技法を取り戻していくことに。
1969年の
「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」では、
徹底的なオスティナートを堅持した作風を披露。
1977年から1984年まで、
NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演。
『音楽の広場』のほかにも、
音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めています(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。
ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ『百万人の音楽』で
野際陽子とパーソナリティーを務めました。
ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、
お茶の間の人気も高くなりました。
1978年、第1回日本アカデミー賞で
『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞。
1988年夏、
日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、
ヴァレリー・ゲルギエフの指揮するオーケストラが
芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定でしたが、
渡航直前の6月、
健康診断を受けた際に進行した肺癌が見付かり、
東京都中央区の国立がんセンターに入院、
手術治療を受け、いったんは成功。
退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、
なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けましたが、
11月に再び病状が悪化し再入院。
それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、
残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、
作曲家仲間の松村禎三と黛敏郎に相談し、
黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。
そして、病状好転せぬまま、
1989年1月31日入院先にて逝去。
63歳没。
(芥川也寸志)
昭和の映画番組では繰り返し放送されてました。フランス版の坂上二郎さんみたいな刑事役のルイ・ド・フュネスさんが好きでした😁
出演していたミレーユ・ドモンジョは峰不二子のモデルと言う話もありましたね。

昭和40年、都内定期観光コースで「オープンバス」を運行して人気を集めていた。話題性は高かったが、天候への対応や車両法上の理由から約3年で運行を取りやたが、現在は)2階建てオープンカーが復活しています。(はとバス)

川田正子さん
(1934年7月12日-2006年1月22日)
童謡歌手。
幼少期より児童合唱団音羽ゆりかご会に所属し、
童謡作曲家の海沼實(のちに継父)に師事して才能を開花させました。
童謡や唱歌を数多く歌唱し、
戦中から戦後にかけて日本の童謡界の代表的歌手として一世を風靡。
(経歴)
・1934年7月12日、東京、大森に誕生。
・1942年
妹の川田孝子とともに音羽ゆりかご会に入会し、
同会の会長で童謡作曲家の海沼實に師事。
・1943年
関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」を歌い、2位に入賞。
・1945年
紅白歌合戦の前身「紅白音楽試合」に出場。
・1947年
変声期にさしかかったため師匠海沼實の勧めで歌手を引退。
この際、
娘を気遣った母・須摩子の提案で表向きは「進学のため」と引退理由を説明
(ニュース映画「日本ニュース 戦後編 第87号」にて
私は今年の春、女学校へ上がったことと、
そして今度大人の音楽を勉強するために、
大事な大事な童謡とお別れすることになりましたと発言)。
・1953年
東洋英和女学院高等部卒業。
その後、武蔵野音楽大学声楽科に進学。
卒業後、
恩師海沼實に音羽ゆりかご会世田谷支部を任されて指導者に転向。
その後、成人童謡歌手としても復帰。
・1958年、結婚。
・1979年
母・須摩子が病に倒れると、
音羽ゆりかご会の主力メンバーを引き抜いて、
新たに森の木児童合唱団を創立。
・1983年
虎ノ門ホールで、歌の道40周年コンサートを開催。
・1985年
7月1日、
日本コロムビアで久々となるオリジナルの新曲「似合わない」「花言葉あげます」(2曲共に作詞:丘灯至夫、作曲:渡辺岳夫)を吹き込み、
同年10月1日に発売(A面「花言葉あげます」B面「似合わない」)。
・1987年
中野サンプラザホールで歌の道45周年コンサートを開催。
・1991年
6月、日本童謡協会より童謡賞特別賞を受賞。
・1993年
東京のNHKホールで川田正子50周年記念コンサートを開催。
・1996年
東京のNHKホールで歌の道55周年記念コンサートを開催。
・2001年
東京のNHKホールで歌の道60周年記念コンサートを開催。
・2006年1月22日前日の長崎県五島市福江で開催された「子守唄と童謡コンサート」を最期の出演として、
夜、入浴中に意識を失い、
東京都世田谷区内の病院に搬送されたものの、
そのまま息を引き取りました。
"童謡一筋”の生涯を閉じました。
71歳没。
(川田正子)
小野田嘉幹さん
(1925年7月12日-)
映画監督、脚本家。
弟は平田昭彦、妹は音羽美子。
妻は三ツ矢歌子(2004年死別)。
東京府東京市(現在の東京都)に「小野田正彦」として誕生。
誕生後に朝鮮(現在の大韓民国)に渡り、
2年後の1927年(昭和2年)12月16日には
京城府(現在のソウル特別市)で弟の昭彦が誕生。
さらに5年後の1932年(昭和7年)7月6日には
妹の和子(のちの音羽美子)が誕生。
東海科学専門学校(現東海大学)卒業後、
1947年(昭和22年)に新東宝助監督部に入社。
本名で、
黒澤明、稲垣浩、並木鏡太郎、冬島泰三らの作品で助監督を務め、
1958年(昭和33年)、
富士映画製作、若山富三郎主演の中篇映画『楠公二代誠忠録』で監督としてデビュー、
同年、現在の名前に改名し、『人喰海女』を監督。
翌年5作、
さらに翌々年の1960年(昭和35年)には4作を監督し、
同年12月8日、
『人喰海女』や『女奴隷船』にも出演した同社の女優・三ツ矢歌子と結婚。
1961年(昭和36年)8月31日に会社が解散、
翌日同社を分社化した配給会社・大宝が設立されると、
新東宝のプロデューサーだった佐川滉の佐川プロダクションで
『黒い傷あとのブルース』を撮りましたが、
翌年には大宝が業務停止に陥り、
小野田は以降、
フリーランス・ディレクターとなり、
同年からテレビ映画の監督に専念。
2004年(平成16年)3月24日、
11歳年下の妻・三ツ矢歌子と死別、
三回忌を迎えた2006年(平成18年)4月に
妻の回想録『桜は二度咲いた』を上梓。
100作を超えるテレビ映画を手がけ、
2008年(平成20年)4月11日放映の『剣客商売 - 春の嵐』が
2009年10月現在の最新作。
(小野田嘉幹)
山下清さん
(1922年3月10日-1971年7月12日)
画家。
代表作に、
「花火」、「桜島」、「東海道五十三次」など。
東京府東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤1、2丁目辺り)に、
父・大橋清治、母・ふじの長男として誕生。
翌年に関東大震災によって田中町一帯が焼失すると、
両親の郷里である新潟県の新潟市(現・中央区)白山浦に転居。
その2年後の3歳の頃に風邪から重い消化不良で命の危険に陥り、
一命こそ取り留めたものの、
軽い言語障害、知的障害の後遺症を患います。
一家は1926年(大正15年)には浅草に戻りました。
脳出血で父の清治が1932年(昭和7年)に他界すると、
母・ふじは再婚。
その再婚相手は最初は優しく、相撲や将棋(多くは、はさみ将棋)をしてくれましたが、
酒が入ると母子に暴力を振るいました。
小学校(石浜小学校)でいじめられたことを話す清に、
養父が「刃物で相手を怪我させろ」と唆したことから、
いじめに遭った際に鉛筆削り用の小さなナイフを手に持つようになってしまった清は、
同級生に大ケガをさせた事も。
1934年(昭和9年)の春、
養父が不在の間に、
母・ふじが清を含む子供3人を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れます。
生活の困窮で、
すぐに杉並区方南町(現・杉並区方南)にある
母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。
この頃に母・ふじの旧姓が山下であるため山下清を名乗るように。
しかし、
新しい学校でも勉強についていくことができず、
反抗的な態度だったため、
同年5月、
母・ふじが千葉県東葛飾郡八幡町大字八幡字衣川(現・千葉県市川市八幡4丁目)の
知的障害児施設(清が入園した当時は救護法下の救護施設)「八幡学園」へ預けました。
この学園での生活で「ちぎり紙細工」に出会い、
これに没頭していく中で磨かれた才能は、
1936年(昭和11年)から学園の顧問医を勤めていた
精神病理学者・式場隆三郎の目に止まり、
式場の指導を受けることで一層開花。
1937年(昭和12年)秋には、
八幡学園の園児たちの貼り絵に注目した早稲田大学講師戸川行男により
早稲田大学で小さな展覧会が行われたほか、
1938年(昭和13年)11月には
同大学の大隈小講堂にて「特異児童労作展覧会」が行われ、
清の作品も展示されました。
そして1938年(昭和13年)12月に、
東京府東京市京橋区銀座(現・中央区銀座)の画廊で初個展を開催、
1939年(昭和14年)1月には、
大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、
清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びました。
八幡学園での在籍期間は長かったものの、
第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)の18歳の時に突如学園を脱走し、
1940年(昭和15年)11月18日から1955年(昭和30年)6月までの間、
放浪の旅を繰り返しました。
脱走から2年後の1942年(昭和17年)の20歳の時に、
受けることになっていた徴兵検査を受けたくなかったため、
更に放浪を続けました。
千葉県我孫子市の我孫子駅売店弥生軒にて住み込みで働いていたのもこの頃で、
半年ごとに放浪しては千葉に戻ってくる事を5年ほど繰り返したといいます。
1943年(昭和18年)の21歳の時、
食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって連れ戻され、
母・ふじが無理やり徴兵検査を受けさせましたが、
知的障害を理由に兵役免除。
なお、
この時のいでたちとして、
リュックサックを背負う姿がテレビドラマなどで描かれています。
戦後は
「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれました。
1954年(昭和29年)当時、
鹿児島を放浪中に清は「ゴッホもルソーも全然知らない」と言っていましたが、
以前にゴッホの模写などはしており、
同年、
東京・日本橋丸善で開催されていたゴッホ展を訪れています。
1956年(昭和31年)の東京大丸の「山下清展」を始め、
全国巡回展が約130回開かれ、
観客は500万人を超えました。
大丸の展覧会には当時の皇太子明仁親王も訪れました。
1961年(昭和36年)6月、
式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発。
各地の名所を絵に残しました。
晩年は、東京都練馬区谷原に住み、
『東海道五十三次』の制作を志して、
東京から京都までのスケッチ旅行に出掛けました。
およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺しています。
ただし、1968年(昭和43年)、
高血圧による眼底出血に見舞われ、その完成は危ぶまれていました。
1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のため死去。
49歳。
(山下清)
現在進行形の田んぼの
昔の風景
男はどこへ行った!
昭和の40年代ごろまでは8段掛け
もうこの地域では
ほとんどやる人はいないのですが
一人だけ外国人の女性が
実践されています
全て一人で作業
8段掛け
持ち上げるだけでも大変
ものすごく美しいハサ掛けです
進行形の田んぼも
手植え天日干しでやってます

第64代. 内閣総理大臣.:田中 角榮. 新潟の農家に生まれ、高等小学校卒の学歴で、若いうちから自力で中央政界をはい上がり、最高権力にたどり着いたさまを、庶民は、その豪気さと物珍しさに期待を寄せながら、角栄さんを「今太閤」と呼びました。いまでも本屋さんに角栄さんの本とかあるんですね。スゲー。

子供の頃、大阪の朝日放送で、土曜日の昼1時から放送されていた「道頓堀アワー」。
松竹・角座からの中継で、昆布の老舗・松前屋の提供でした。

あの日も暑かった。83年に上京して初めて借りたアパートは4畳半の部屋に小さい流し台付き。トイレ共同風呂なし。窓は一箇所しか無く扇風機は昼間も夜も温風を送風し、朝起きるとせんべい布団や畳には人型のシミ(汗)。窓には風鈴を付けましたが、暑いとその音さえ鬱陶しくなったもんです。そんな時こそ銭湯。熱い湯船に浸かって外に出ると涼しく感じました。そのまま自転車で喫茶店へ涼みに。銭湯で朝風呂がある時はいつも行っていた。でもやっぱり暑い。熱帯夜で蚊も飛んでるし頭もクラクラする。ある時、会社から帰宅途中でスーパーの店頭にあったトニックシャンプーというを試しに買っていつものように銭湯へ。頭とついでに体もそれで洗ったらそこはもう別世界!メンソールが頭から体中を冷やしている感じ。それからはトイレ・風呂付き(クーラー付)アパートへ引っ越しても毎週末銭湯にゆき、必ずトニックシャンプーを持参してました。懐かしいです。

今から50年近く前に発売されたカルビーポテトチップス当時100円🥰🐼❤️

好きな給食何でしたか?
私はソフト麺とか磯部揚げとかサバ味噌が好きでした。
「おいしい給食」、懐かしさと笑いに包まれます。
市原隼人さんのキャラクターが最高です。
https://three-minutes-philosophy.com/oikyuu/