しかし、その復興はまだまだ
道半ばというのが現実です。
そこで本日は、
被災地復興への願いを込め、
震災発生以来、被災地の人々の
悲しみに向き合い続けてきた
宮城県通大寺住職・
金田諦応(たいおう)さんのお話を
特別配信させていただきます。
※インタビューは2014年に
行われました。
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多くの人々の心に深い傷痕を
残した東日本大震災から3年。
宮城県栗原市にある通大寺の
住職を務める私は、大震災発生から
間もなくして、移動式の喫茶店
「カフェ・デ・モンク」を設立、
被災地を巡りながら人々の
悲しみに寄り添う〝傾聴〟活動を
続けてきました。
しかし、この取り組みを始めた
原点には、何よりも私自身が
今回の震災であまりにも
多くの死と大切な人を失った
人々の悲痛な思いに直面し、
宗教家としてのあり方を
根本から問い直される
経験をしたからでした。
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2011年3月11日、
14時46分。
当時お寺にいた私は震度7という、
思わず心の中で、
「頼むから止まってくれ!」
と絶叫するほどの凄まじい
揺れに襲われました。
そして、親族の安否確認などに
奔走した後、ラジオから
聞こえてきた津波の情報に
私は耳を疑ったのです。
「大地震発生。大津波警報発令……。
仙台市荒浜地区の海岸に
300体の遺体との情報……」
これは大変なことになったぞ――。
少しずつ被害状況が明らかに
なるにつれ、私も宗教家として
何か支援はできないかとの思いが
募りました。
そんな時に、沿岸部から
栗原市の火葬場に多数の
ご遺体が運ばれてくるという
話を耳にしたのです。
すぐに私は
「供養をさせてほしい」
と市に掛け合い、
火葬場へと赴いたのですが、
ご遺体が続々と運び込まれてくる
光景に思わず絶句。
そして私のもとに最初に運ばれて
きたのが、友人同士だという
二人の小さな女の子でした。
駆けつけた記者は泣きながら
シャッターを切り、私も震える声で
途切れ途切れ読経するので
精いっぱいでした。
「こんな理不尽な
死があっていいはずがない……」
1か月で約200体のご遺体を
供養し、やり場のない悲しみに
襲われた私は、49日を境に、
鎮魂の旗を掲げて南三陸町へ
行脚に出ることを決めました。
腐敗臭とヘドロの臭いが漂う
廃墟と化した町の中を、経文を
唱えながらひたすら歩くのです。
とりわけ苦しかったのが、
あちこちに散乱している平和な
日々を記録した〝写真〟でした。
その写真を跨ぐ時に
私にできたことと言えば、
「申し訳ない」
とひたすら涙を流すことだけでした。
これまで学んできた宗教的
言語の一切が役に立たない
現実を前に、宗教家としての信念は
脆くも崩れ去ったのです。
行脚に区切りをつけると、
私は法衣を脱ぎ捨てました。
そして、地に足がついた
支援をしようと、知人からの
支援金をもとに炊き出しを
始めたのでした。
しかし、津波で甚大な
被害を受けた馬場中山地区で
炊き出しを始めた時のことでした。
次の支援地に移ろうとする
「国境なき医師団」と被災者が、
避難所で激しい言い争いをしている
光景が目に飛び込んできたのです。
「お前たちは俺たちを
見捨てて行ってしまうのか!」
私はその一部始終を眺め、
改めて自らに問い掛けました。
医者はこんなに必要とされている。
それに比べて私は何を
しているんだと。
もう一度宗教家としての
原点に立ち戻り、苦しんでいる
人々の〝心〟に向き合う
支援をするべきではないのか。
そして、まずは被災者の方が
安心して悲しみを打ち明けられる
場を作ろうと考えついたのが、
移動式の喫茶店
「カフェ・デ・モンク」
の取り組みでした。
すぐさま飲み物やケーキなどの
提供を知人に頼み込み、
テーブルなどの道具一式を
軽トラックに積み込んだ私は、
南は福島県南相馬市から
北は岩手県山田町に至るまで、
被災地を巡る旅を
スタートさせたのです。
各地の避難所や集会所の近くに
即席の喫茶店を開いては、
集まってきた方々一人ひとりの
苦悩や悲しみの声に真摯に
向き合っていく。
時には
「和尚さん、ちょっと」
と自宅に招かれ供養を
頼まれることもありました。
その中でも、息子さんを
亡くしたという、あるご年配の方の
ご自宅に伺った際のことは
忘れられません。
仏壇の遺影に手を合わせると、
その横に〝お父さんへ〟と
書かれた手紙が置かれているのに
気づいたのです。
事情を尋ねると、息子さんの
幼い娘さんが亡き父親の誕生日に
送った手紙だといいます。
そこにはこう書かれてありました。
「生きていれば45歳だよ。
3月10日の日にお父さんに
お帰りって言ったのが
うちらの最後の会話でした。
最後にありがとうって
言いたかった。……お父さん、
いまどこにいますか。
家に帰って来ているなら、
たまに何か合図を出してね」
この後、私は手紙を書いた女の子と
避難所で会うことができました。
屈託のない笑顔で遊んでいる
ところでしたが、私がそっと近づき、
「大変な思いをしたね」
と声を掛けると、みるみるうちに
表情が強張り、外に駆け出して
行ってしまったのです。
もう夜も遅い時間でしたが、
闇の中にすっと消えていく
彼女の寂しい後ろ姿は、
いまでも眼に焼きついて離れません。
被災地では、そのような
深い悲しみの現場に幾度となく
立ち会います。
その度に私は、もしかすると
人の悲しみというのは、
他人が支えてあげることなど
できないのではないかという、
暗澹たる思いに駆られるのです。
しかし、それでも目の前に
苦しんでいる人々がいる限り、
私は宗教家としてその悲しみに
黙々と向き合い続けていきたい。
一輪の美しい花には
誰もが足を止めるでしょう。
しかし、それを咲かせた春風には
誰も気づきません。
私はそんな被災地の
春風でありたいと思うのです。
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「被災地の春風となる」
金田諦応(通大寺住職/
カフェ・デ・モンク主宰)
『致知』2014年9月号
連載「致知随想」より