Apex product 【 昭和の楽しい時代 61 】

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懐かしき 昭和の
《ご当地ソング》
*ヒット曲の歌は、映画化もされてました!
*余りにも数多くありますがブロックごとに選別して列記!
◎北海道
*襟裳岬 *函館の女
◎東北地方(青森県)
*リンゴ園の少女
*津軽海峡冬冬景色
◎関東地方
*大利根月夜(千葉県)
◎東京
*有楽町で逢いましょう
*銀座の恋の物語
◎横浜
*ブルーライトヨコハマ
*伊勢佐木町ブルース
◎中部・東海地方
*天城越え(静岡県)
*柳ヶ瀬ブルース(岐阜県)
◎大阪
*雨の御堂筋
◎中国地方(瀬戸内海)
*瀬戸の花嫁
◎四国地方(高知県)
*南国土佐を後にして
◎九州地方
*無法松の一生(北九州市・小倉)
*長崎は今日も雨だった(長崎県)
◎番外編(海外)
*憧れのハワイ航路(ハワイ)
修学旅行、東京タワーに行くと
誰もがみんな買っていた!!
昭和の懐かしき遊園地 等…
昭和の時代 神戸市三越屋上には遊園地が有り浅田美代子さんのイベントステージが行われたりしていました
東京 上野松坂屋屋上、浅草松屋屋上にも遊園地が有りました
上野松坂屋屋上では当時、ルービックキューブ大会も開催されていました
そして今は無き昭和の遊園地
宝塚ファミリーランド
↑何故か⁈男子ばかりなのに高校の課外授業⁇でも行きました
淡い思い出デートでも…😅🤣
奈良ドリームランド
横浜ドリームランド
船橋ヘルスセンター
有馬ヘルスセンター
甲子園阪神パーク 等
ローカルな思い出ですが……。
ちょっと前、この名前を出したらリアクションがあったので……。
下北沢のジャズ喫茶「マサコ」。
わたしがかつて通っていたのは中高一貫性の男子校。
井の頭線の駒場東大前が最寄駅。
なんで、放課後遊びに行くのは渋谷か下北沢。
渋谷の場合は百軒店周辺のジャズ喫茶。スイングとかありんことか音楽館とかジニアスとかデュエットとか。
下北沢の場合は「マサコ」一択。
ジャズ喫茶といってもおしゃべり禁止的なとこじゃなく、漫画がたくさんあって、ジャズ聴きながら漫画読みながらおしゃべりしながらみたいな、ゆる~~いジャズ喫茶。
オーナーはカニクイザル背中に乗せてる奥田マサコさん。
なので、店の名前は「マサコ」。
昭和28年開店の老舗中の老舗のジャズ喫茶。
ここは、ほんとによく行きました。学校帰りも休みの日も……。
家から歩いていけたし。
卵サンドは具がいっぱいでね~~~!!!よく食べました。
あと特筆すべきは、ジャズ喫茶にも関わらずウエイトレスが数人いて、しかもかわい~~子が多い!!!
そんなある日のこと。
ひとりで「マサコ」の一番奥のいつもの席に座っていると……。
前の席に美少女が座ったんですね。
えっ???ジャズ喫茶には、まずいるはずのない美少女……。
わたし、大学生で20歳のときです……。
声をかけよ~~かど~~しよ~~か……。
も~~目が離せなくてね。ここで声かけなかったら一生後悔するんじゃないか……。とか。
でも……。
ウン???どっかで見たことあるよ~~な……。
アッ!!!
確か、彼女が失踪してた時期じゃないかと……。
関根恵子……。
服装まで覚えています。
ハンチングかぶって、チェックのネルシャツにコーデュロイのパンツ。まあ、そのへんの下北女子に紛れるような格好できたのでは……。
テレビで見るより、ず~~~~っと美人でした。も~~肌とかメチャメチャきれいで……。
びびって、声かけませんでした……。
あの時声かけておけば……。
今、わたしの横でビール飲んでいたかも……。
ま~~、ありえませんが。
すみません、長くなりました。
「ピンク・レディーに続け!」と、1977年 ナナ&ノンによる「#キャッツアイ」が、78年 静岡から双子デュオ「#キューピット」が其々デビュー。
後者は父親がザ・ピーナッツファンだったため「エミ(恵美子)・ユミ(由美子)」と命名。デビュー曲「愛のデュエット」は、“ You're The One That I Want ”日本語カバー。
【 グループ・サウンズ 】
 昭和42年の小学6年生の頃、グループ・サウンズが流行り出しました。ザ・タイガースの「君だけに愛を」で、ジュリーが「君だけは〜君だけは〜🎶」と歌いながらテレビカメラに向けて指差すシーンはカッコよかったです。
 ブルーコメッツの「ブルーシャトー」やザ・ワイルドワンズの「想い出の渚」、ザ・スパイダースの「風が泣いている」、ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」などの歌は、とても素敵でした✨ オックスの「スワンの涙」では、女性ファンが失神したことを聞いたことがあります。
「燃え尽きたぜ...真っ白にな」
力石徹の死後、逃げるようにリングを去り放浪していた矢吹丈がドヤ街に帰ってきた。再びボクサーの道を歩み始め完全復活したかに思えたが、じつは力石戦でのトラウマからテンプルブローが打てなくなってしまっていた...
1980年 「あしたのジョー2」
私より上の世代の人達にとって「あしたのジョー」といえば「あしたのためのその1」であったり「東光特等少年院」であったり「力石徹との死闘」であったり「マンモス西の鼻からうどん」だったりするのだろう。実際、力石徹の葬儀に参列した人もいると思う。
1970年生まれの私にとって「あしたのジョー」といえば「2」である。もちろん「1」は再放送で観たりしてたのだが、リアルタイムで観た「あしたのジョー2」の方が私にとっては印象深いし、思い入れもかなり強い。
力石戦でのトラウマによる「光るゲロ」、「ベネズエラの大将」カーロス・リベラとの一切甘えのない激闘、過酷な減量を経て臨んだ「戦うコンピューター」金竜飛との死闘、レオン・スマイリーの悲惨な最期、チョコ大好きハリマオ...
戦いの日々の中で矢吹丈の肉体はパンチドランカー症候群に蝕まれていく。そんな矢吹丈が世界チャンピオンホセ・メンドーサとのタイトルマッチ戦を前に、既にパンチドランカー症候群で廃人になってしまい、箱根のサナトリウムで静養中のカーロス・リベラに会いに行く回がある。
「燃え残るものがあるならホセ戦でお前の分まで燃える」と心の中で誓う矢吹丈。
で、ラスト、カーロスとの別れのシーンで流れるのが、この曲。
「白木葉子のテーマ」
好きすぎてサントラCDまで買ってしまった。
ボクシング漫画だから、当然ストーリーは試合に関係したストーリーが中心なのだが、紀子との別れ、西の結婚、ゴロマキ権藤との渋すぎる交流、ウルフ金串詐欺事件、など見どころは満載である。
新旧ファン、男女わけ隔たりなく、思い存分に語り合って欲しい。
はかなくも、熱い、ジョーの最終章「あしたのジョー2」
真っ白な灰になりたい人は必見。
https://youtu.be/3ayXKMUK4Zo?si=iFEsFHC9F1NnRcfk
 
由貴ちゃんぶっちぎりですね✨✨
しかし、懐かしい方々が😊

「蜂は一度刺したら死ぬ、今の私の心境です」と報道人に語り、ロッキード事件で無罪を主張する田中角栄氏に対し検察側の証人とし出廷し田中角栄氏の嘘を暴露した榎本美恵子さん。この「蜂の一刺し」は流行語さえなりましたね。その後の榎本さんの生き方と言うかあり方も凄かったのです。

1968年6月21日、社学同の学生700人程が「神田を日本のカルチエ・ラタン」にというスローガンで明大通りの明治大学記念館前と同大学院前の2か所に、中央大学や明治大学から持ち出した机などを使ってバリケードを築いた。

楽しいロンドン、愉快なロンドン、ロンドンロンドン

三國連太郎さん
(1923年1月20日-2013年4月14日)
俳優、映画監督。
身長178cm、体重70kg。
息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎。
群馬県太田市生まれ。
個性派俳優として日本映画界を牽引し、
圧倒的存在感をスクリーンに残した日本を代表する名優の1人。
デビュー以後、
『ビルマの竪琴』(1956年)、
『飢餓海峡』(1965年)、
『はだしのゲン』(1976年)、
『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、
『未完の対局』(1982年)、
『三たびの海峡』(1995年)、
『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、
『犬神家の一族』(1976年)、
『野性の証明』(1978年)、
『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、
主演・助演を問わず幅広く出演、
映画出演の本数は180本余りに及びます。
その徹底的な役作りは真骨頂と評され、
エピソードも残しています。
オールスターの超大作に相応しい映画では常連の一人として、
権力者など上層部の人物役で特別出演も。
金子信雄さん
(1923年3月27日-1995年1月20日)
俳優・料理研究家・司会者・タレント。
妻は丹阿弥谷津子。
愛称は「ネコさん」。
東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身。
歯科医の家庭に生まれ、
小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送りました。
京華学園卒業。
1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入り(当初は演出部に所属)。
1946年(昭和21年)に成瀬巳喜男監督の『浦島太郎の後裔』で映画デビュー。
1952年(昭和27年)、
演劇観の違いから文学座を退団し、
木村功らと青年俳優クラブを結成。
のちに青俳を脱退。
若い頃から映画・テレビドラマ界では人間臭い悪役として名を馳せ、
徹底して脇役、特に憎まれ役を演じることが多数。
1950年代は
主に主人公のいけ好かない恋敵や軽薄な男を演じ、
1960年代からは、
日活全盛期のアクション映画・東映の任侠映画・やくざ映画で活躍。
日活では、
主に石原裕次郎や小林旭などの銀幕スターに対抗する敵役を演じました。
1970年代になると、
ずるくてセコくてスケベな上役を演じるようになり、
仁義なき戦いシリーズシリーズでは、
小心でずる賢いヤクザの組長役を全5作を通して見事に演じました。
一部では、
「仁義なき戦いシリーズの陰の主役」とも評されました。
1958年(昭和33年)に丹阿彌谷津子と結婚。
1966年(昭和41年)に
丹阿彌と劇団新演劇人クラブ・マールイを結成し、共同経営者に。
団員には
松田優作(のち文学座に入座)、
柄本明(自由劇場を経て劇団東京乾電池を結成)などが在籍。
俳優業以外でも料理研究をライフワークとしており、
『うまいものが食べたくて』など食にまつわるエッセイを多数執筆。
また1987年(昭和62年)から、
朝日放送(ABCテレビ)で自ら考案した料理を披露する番組『金子信雄の楽しい夕食』を放送。
金子の料理に加えて、
東ちづるが金子にツッコミを入れるなどアシスタントとの絡みも話題を呼びました。
これをまとめた書籍「楽しい夕食シリーズ」(実業之日本社)も発売。
同番組のスポンサー「イカリソース」のCMにも出演したことがあり、
同社からタイアップ商品「金子信雄のグルメシェフ」シリーズも発売。
荻窪にかまえたフランス料理店「牡丹亭」のオーナーでもありした。
1995年(平成7年)1月20日午前11時43分、
細菌性敗血症のため東京都千代田区の病院で死去。
71歳没。

世田谷線散策切符(一日券)を利用して最初に目指したのは豪徳寺の招き猫でした。この日は風が強く、奉納された招き猫の一部が崩れていました。リアル招き猫のたまちゃんに会えたのはラッキーでした。

— 場所: 豪徳寺 (Gotokuji Temple)

1971年当時、ハイティーン誌のモデルなどとしても活躍していらした愛らしい #坂口良子 さん。
ドラマ『青い山脈』『アイちゃんが行く!』主演のほか、『俺たちの勲章』捜査一係の事務員・雪子役、映画「犬神家の一族」那須ホテル女中・おはる役なども印象的(2013年没  享年57)。
山口 百恵さん
1959年1月17日生まれ、65歳。
東京都  恵比寿出身。
元歌手、女優。芸能界引退後に三浦百恵名義で作詞を行っている。夫は俳優の三浦友和。長男はシンガーソングライター・俳優の三浦祐太朗。次男は俳優の三浦貴大。 
1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い準優勝、20社から指名を受ける。百恵はこのとき「発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していた」という。同番組への応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て「自分も森昌子さんのようになりたい」と思ったことだった。なお、後に「花の中三トリオ」を組むことになる桜田淳子も、同年に同じ『スター誕生!』で牧葉ユミの曲「見知らぬ世界」を歌って合格していた。

昭和48年第15回レコード大賞のひとコマ、

懐かしい人達です。

フォーク・クルセダーズ
悲しくてやりきれない、青年は荒野をめざす、素晴らしい愛をもう一度、等など…今も愛され続ける名曲の数々
対して強いビート感、無機質な電子音、味も素っ気もまるでなしの歌詞、加えて集団でお踊りまくる現代日本歌謡ポップス界の虚しくもまたその騒々しさよ…
昭和の時代に輝き続けたフォーク・クルセダーズ…今も心に残る多くの名曲が懐かしい
歌手・女優 #大場久美子 さん。
映画「HOUSE」の夢見がちな少女・ファンタが、愛らしい二代目『#コメットさん』に。ウルトラマンタロウ人間態(下塚誠氏)、ウルトラマンレオ人間態(真夏竜氏)とのラブストーリー(?)はシュールでした♪ (*´ー`*)
高城淳一さん
(1925年1月20日-2011年8月18日)
俳優、声優。演出家。
妻は女優の西乃砂恵。
大阪府大阪市出身。
東京府立第三中学校卒業。
日本大学芸術科(現:日本大学藝術学部)中退(戦況悪化のため)。
1943年、劇団文芸劇場に入団、
1945年に大学を中退した後、
青年演劇集団に参加。
1947年12月に劇団創造座に入団し、
1949年12月まで所属、
1950年6月、
田中明夫、前沢迪雄、西乃砂恵、真木恭介、三島雅夫とともに劇団七曜会を設立に参画。
1956年に劇団が分裂した後は
七曜会の代表となり、演出家として活動も開始。
1963年6月に七曜会を解散し、フリーランスで活動。
七の会設立を経て、
1965年8月、
西乃砂恵、依田英助などとともに劇団現代人を設立。
1967年、
劇団統合により劇団新劇場の所属となり、
1969年に退団してフリー。
テレビドラマにおける中間管理職役がハマリ役とされ、
『事件記者』での浦瀬キャップ(ウラさん)役をはじめ、
数々の刑事ドラマではレギュラーを務めました。
また、時代劇でも数多くの悪役を務めました。
晩年は日本俳優連合の活動を通して、
俳優の地位向上のために積極的に活動。
2011年8月18日、
肺癌のため東京都中野区の病院で死去。
86歳没。
西野バレエ団ご出身の女優 #由美かおる さん。
金井克子さん・奈美悦子さんらとアクションテレビドラマ『009ノ1』にご出演後、1970年代は映画「同棲時代」「しなの川」「ノストラダムスの大予言」「エスパイ」などの文芸作品やSF作品で、健気な繊細な女性像と美しい肢体をご披露。(*´ー`*)

1970年代前半は歌手・俳優 #錦野旦(#にしきのあきら)さんのビジュアル、歌唱力、スポーツ番組で披露する卓越した運動神経などに至極憧れていました。まさしくオイラの「スター」!  ほのぼのした『#走れケー100』主題歌「ピポパポ旅行」もまた良し♪

北出清五郎さん
(1922年12月5日-2003年1月19日)
東京都出身の元NHKアナウンサー。
旧海軍中尉。
中央大学を卒業後、1947年NHK入社。
1980年に退職。
大相撲中継はテレビ放送が始まった1953年夏場所から担当し、
「相撲の北出」として知られました。
正確な描写と徹底した取材に基づいたデータを駆使してテレビアナウンスの基礎を作り出します。
定年退職後もアナウンス顧問や解説者として長年にわたり出演。
昭和30年代にNHK総合で中継された有馬記念のレース実況を担当。
箱根駅伝でもNHKラジオ第一の中継で28回実況を担当。
オリンピック中継ではNHKのエースアナウンサーとして数々の大会を担当、
特に1964年に日本で初めて開催された東京オリンピックの開会式で
「世界中の秋晴れを、全部東京に持ってきたような素晴らしい秋日和であります」や、
1972年札幌オリンピックのスキージャンプでの
「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ-飛んだ!決まった!」
などの名実況も残しました。
紅白歌合戦では、
第4回(1953年)、第18回(1967年)、第21回(1970年)で司会を担当。
2003年1月19日、心不全のため死去。
80歳没。
漫画界の巨匠、手塚治虫、石森 章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄など、昭和30年代に住んでいたとか。火の鳥も、サイボーグ009も、おそ松くんも、ドラえもんも、ここ、椎名町の四畳半アパート、トキワ荘で誕生しました。ある意味昭和のパワーですね。
考えて見れば、四畳半と言うスペースは
食事も、勉強も、睡眠も、友達と会話も、
ひとりぼっちもできる、最低スペースなんですね。だから心地よいのかも。
自分を見つめ合うスペースかも。
そんな事を感じるトキワ荘でした。
なお、画像のテレビは、ご本人のインタビューなどが流れてました。当然、みんなテレビなんか持ってなかったでしょう。
素敵な昭和です。

浅草千束通り商店街の駄菓子屋さん。クラシックな秤(はかり)でラムネ菓子やお煎餅などを量り売りしてくれます♪  おばちゃん、元気かなぁ…。(⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)

久世竜さん
(1908年1月19日-1985年1月5日)
殺陣師・俳優。
愛媛県東宇和郡野村町高瀬に生誕。
叔父の経営する神戸の久保田商会で
襦子の裁縫箱を輸出する業務を見習っていましたが、
1922年(大正11年)ぐらいの頃に
「いやなことがあって」辞め、京都へ出ます。
尾上松之助の忍術映画や外国の連続ものの活動写真を休みのたびに観ていて、「役者になろう」と決心。
まず長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介を受けますが、
牧野は「やめとけ、役者になる顔じゃない」とぴしゃりと言い、
「仕事の世話をしてやるから、当分俺のところで飯食って遊んどけ」
と久世を居候させてくれました。
この頃、
監督独り立ちしていたマキノ雅弘のロケに随行。
1927年(昭和2年)2月、
日活大将軍撮影所の研究所へ役者として入社。
マキノの口利きのおかげで月給も25円と破格でしたが、斬られ役専門でした。
真冬に水に飛び込むと1円50銭、
春と秋が1円、
夏でも30銭の手当てがあり、「稼ぎまくった」といいます。
1933年(昭和8年)、
初めてマキノ雅弘に「殺陣をつけろ」と言われ、
月形龍之介に殺陣をつけ、
以来1951年(昭和26年)まで、
ずっと月形の殺陣をつけました。
1949年(昭和24年)ごろ、
マキノ雅弘の家に居候したことがあり、
久世はマキノからカメラアングルや時代考証、助監督やカメラマンの勉強をさせられました。
1951年(昭和26年)、
マキノ雅弘とともに新東宝に移り、
『弥太郎笠』ほかで鶴田浩二に殺陣をつけます。
さらに日活に移り、『木曾路の鴉』ほかを担当。
このあと、「東映に行く」というマキノについていこうとしましたが
「東映には先輩もいてやりにくいだろう。
東宝でやれ」と言われ、東宝に移ります。
1958年(昭和33年)、『隠し砦の三悪人』に武将役で出演。
初顔合わせの黒澤明監督から
「キミ殺陣師だそうだけど、
これ(この映画)の立ち回り全部残ってるから見ろ」と言われ、
手数五百以上の複雑な立ち回りを見ましたが、
久世のイメージとは違いました。
黒澤も久世も口に出すと後に引かない性格で、
ついに柴山撮影所長が乗り出して、
久世の殺陣が実現することとなりました。
以後、
黒澤明・稲垣浩・岡本喜八らが演出した東宝時代劇で殺陣師として活躍。
『椿三十郎』や『侍』、『風林火山』などの作品では、
斬新かつダイナミックな立ち回りを付け、
五社英雄や湯浅謙太郎と共に殺陣に変革をもたらしました。
これらの作品に主演した三船敏郎の信頼も厚く、
東宝から三船プロに移り、
「三船プロ久世七曜会」を率いて後進の殺陣師の指導にも当たりました。
弟子に田中浩・宇仁貫三・上西弘次・久世浩など。

親にはついに買ってもらえませんでした。