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「きんさんぎんさん」
長寿であった
成田きん(1892年8月1日-2000年1月23日、107歳没)と
蟹江ぎん(1892年8月1日-2001年2月28日、108歳没)の 
双子姉妹の愛称。
姉妹ともに100歳を過ぎても元気であったことからマスメディアに注目され、
テレビ出演やCDデビューを果たしました。
その姿は「理想の老後像」と言われ、
1990年代の日本において国民的な人気を誇りました。
[来歴] 
愛知県愛知郡鳴海村(現在の名古屋市緑区)出身で、
矢野家の長女および次女として誕生。
2人が一卵性双生児であることも検査で確認されており、
血液型も両者ともにO型。
2人とも内職として、
特産品であり伝統工芸品でもある
有松・鳴海絞りの絞り括りの工程を仕事としていました。
ぎんは1913年、
21歳の時に農家の息子と見合い結婚し、
養蚕の仕事に精を出すことに。
蟹江家は農業のかたわら、
養蚕を営んで繭を売っていたため、
初夏から夏の終わり頃までは普段生活する部屋も蚕棚で埋め尽くされていました。
その後、
日中戦争により中国から輸入していた鶏の餌が途絶え、
養鶏業を辞めざるを得なくなりました。
1991年に数え年100歳を迎え、
当時の鈴木礼治愛知県知事と西尾武喜名古屋市長から、
2人揃って長寿の祝いを受けたことが新聞に紹介されました。
これがきっかけで、
1992年正月よりダスキンのテレビCMに起用され、
「きんは100歳100歳、ぎんも100歳100歳。
ダスキン呼ぶなら100番100番」
のキャッチコピーと双子姉妹の存在は全国的に知られるように。
その後も
通信販売情報誌「通販生活」のCMや、
AMラジオ局ニッポン放送のAMステレオ放送開始宣伝にも出演し、
1992年(平成4年)の新語・流行語大賞の年間大賞および語録賞にも選出され、
1992年のテレビ出演回数は延べ40回近くに。
1992年2月、
『きんちゃんとぎんちゃん』(作詞:松本礼児、作曲:穂口雄右)でCDデビューし、
それまで浦辺粂子が持っていた日本最高齢でのレコードデビュー記録を大幅に更新。
楽曲はオリコン39位を記録し、
オリコン史上最高齢でのチャートイン記録に。
同年9月15日の敬老の日には、
日本放送協会(NHK)が
ドキュメンタリー番組『きんさんぎんさん 100歳の時間(とき)』を放映し、
ビデオリサーチ調べ・名古屋地区で31.0%の視聴率を記録。
1992年12月(100歳)と1998年12月(106歳)の2回にわたり、
テレビ朝日『徹子の部屋』にゲスト出演。
2020年現在も、
歴代の徹子の部屋のゲストの中で最年長の記録。
1993年には『第44回NHK紅白歌合戦』に応援ゲストとして出演。
また、
東海テレビ制作のフジテレビ系列『金曜ドラマシアター』(→『金曜エンタテイメント』、現・『金曜プレミアム』枠)『名古屋嫁入り物語』シリーズにも特別出演したほか、
敬老の日スペシャルゲストとしてフジテレビ『笑っていいとも!』にも、自宅からの中継で出演。
1995年には、
「金銀婆婆」と呼ばれ人気を得ていた台湾へ招かれ、
103歳にして初めての海外旅行。
100歳を越えて初めて確定申告を経験。
1992年には参議院の国会質問で、
当時参議院議員を務めていた西川きよしが取り上げるなど話題になり、
日本国外でも報道されました。
1993年には春の園遊会に招かれています。
放送大学の平澤彌一郎教授による足の裏の調査を受けたことを契機に、
きんは放送大学の科目履修生となり、
平澤の講義を履修。
全国各地でイベントに参加をしたり、
きんは民生委員も務めるなど、
亡くなる直前まで芸能活動や慰問を続けました。
[家族]
・きんは4男7女を出産。
大正世代の息子2人は日中戦争の戦場に出征して無事帰還。
2000年の死去時点で、
子が6人、孫が11人(内孫2人、外孫9人)、曾孫7人、玄孫が1人。
・ぎんは5人の娘を出産(全員大正生まれ)。
幼くして亡くなった次女を除く4人の娘はいずれも長命で、
2011年から『ぎんさんの娘・四姉妹』としてメディアに登場するように。
2012年2月28日には朝日放送の
『たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学』に、
長女(97歳)、三女(93歳)、四女(90歳)、五女(88歳)の4人が揃って出演。
また、
2018年3月18日のダスキンの新聞広告にも、
三女(99歳)と五女(94歳)が起用されました。
2022年8月現在も長女と三女は健在。
(きんさんぎんさん)

【ミルメーク】😅 小学生時代の給食は、これが楽しみでした😂当時はコーヒー味だけでしたが…今では、バナナ味やメロン味等々色々な味があるそうですね✌🤣

大竹宏さん
(1932年3月14日-2022年8月1日)
俳優、声優。
神奈川県川崎市出身、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田)育ち。
小学時代に東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田)に一家そろって移住。
明治大学付属明治高等学校時代は
生来から手先が器用であり、
絵画の才能も抜群であり、中学高校時代は美術部に所属。
人前で落語をしたり、喋ることも好きであり、
高校時代には演劇部にも所属して
自作、自演、自演出、舞台装置まで手掛けて公演していた記録を持っています。
1950年、同高校卒業後、
アルバイトをしながら専門学校へ通って商業美術の世界を目指していました。
その後、役者の道へと進みます。
二十歳の頃には
NHKのラジオドラマに出演するように。
1952年(昭和27年)頃には劇団ちどりを主宰。
1955年(昭和30年)からはこけし座に移り、
舞台俳優を務めるとともに子供の演技指導も行っています。
テレビでは草創期から活動しており、
NHKテレビの人形劇『アシンと十三人の盗賊』(1955年)や『ガンツ君』(1956年)において声優を務め、
これらの演技が評価されて
1956年(昭和31年)に人形劇『チロリン村とくるみの木』の声優の一員に選ばれました。
同作ではタコチュー役を8年間に亘って務めました。
1966年(昭和41年)からは
フジテレビの子供向け番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』に声優として出演、
放送開始2年後にマスコットキャラクターを登場させることになり、
河童のカータンの着ぐるみが作成されました。
歌って踊れて絵がうまく、
また子供と遊ぶのが好きなことから大竹に白羽の矢が立ち、
カータンの声だけでなく着ぐるみの操演も担当。
『ママとあそぼう!ピンポンパン』には16年間に亘って出演。
1991年1月、
一時休業のためにレギュラー出演『キテレツ大百科』のブタゴリラ役、
準レギュラー出演『魔法使いサリー』の花村よし子の父·花村利夫役を途中降板。
役は前者が龍田直樹、後者は石森達幸に引き継がれました。
その後大竹は1995年に『超力戦隊オーレンジャー』のバラクローズ役で仕事復帰。
2015年に第九回声優アワードにおいて
多年に亘る貢献を表彰する「功労賞」を白石冬美と伴に受賞。
晩年は持病はなく元気な様子でしたが、
2022年8月1日、急性心不全のため東京都で死去。
90歳没。
(大竹宏)
高橋悦史さん
(1935年8月2日-1996年5月19日)
俳優。
身長179cm。
宮大工の息子として大阪府岸和田市宮本町に一人息子として誕生。
幼くして父を亡くし、母の手一つで育てられます。
大阪府立岸和田高等学校では野球部に在籍し、
甲子園にあと一歩まで迫りました。
視力の減退で野球は断念。
高校時代に観劇した文学座の芝居に魅せられ、
演劇への興味が沸きます。
大学受験と一緒に俳優座養成所のテストも受けるも不合格。
1954年立教大学文学部英米文学科に入学
(野際陽子は同学科の同期、長嶋茂雄と杉浦忠も立教大の同期)。
在学中から演劇に関わり、演出も手がけました。
実家の洋品店から社外株主として給料を貰っていたため、大学時代は遊んで暮らしました。
1958年大学卒業後、
TBSラジオ劇団養成所を経て、
NHK俳優養成所に入り1960年卒業。
NHKでは舞台や脇役俳優や声の吹き替え(飯沢匡脚本『ブーフーウー』の狼役等)の仕事に従事。
この間が短期間の下積み時代。
1964年、
本格的に新劇俳優を目指し、念願の文学座付属演劇研究所に入りました。
同期は小椋佳と結婚した塚原佳穂里など。
卒業後、文学座研究生となると
すぐに『友絵の鼓』で主役に抜擢され、初舞台。
1964年、NET『徳川家康』にテレビ初出演。
1965年には、
吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビュー。
1967年、
岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され、注目を浴びました。
以後、岡本作品に立て続けに出演し、
性格俳優として欠くべからざる存在に。
舞台でも『花の館』で1970年、
芸術祭優秀賞を受賞するなど活躍。
テレビドラマでは
『鳩子の海』『おしん』『鬼平犯科帳』などに出演。
1994年3月、
癌が見つかり夏に入院、翌年には病名を公表し、
闘病生活を続けつつ撮影にも臨み、
闘病手記と写真も公表。
いったん退院しましたが、
1996年4月に再発し、
5月19日に栃木県宇都宮市の栃木県立がんセンターで膵臓癌のため死去。
60歳没。
(高橋悦史)
東映まんがまつり1974 夏
昭和50年代の小学生には、魅力的だったまんがまつり。
『マジンガーZ対暗黒大将軍』の衝撃たるや相当なものだったうえに、『五人ライダー対キングダーク』の興奮!『フィンガー5の大冒険』。監督は石森章太郎先生。
当時、田舎の映画館は3か月遅れて公開だったので、テレビマガジンでは夏休み公開なのに何でなんだろうと、不思議に感じてました。
近年、東映ビデオからプログラムそのままに復刻されたDVD が発売されました。
懐かしい50年前の作品の数々。
最近でも東映アニメフェアとして「おしりたんてい」や「電王」とかもかかってるとか。
夏休みに見てみるのも楽しいかも。
(東映まんがまつり)

8月3日は「#ハチミツの日」。(*´▽`*)

大原麗子さん
(1946年11月13日-2009年8月3日)
女優。
身長157cm、
B80cm、W56cm、H83cm(1975年5月)。
老舗和菓子屋の経営者を父として、
東京都文京区で誕生。
潤徳女子中学校、北豊島高等学校卒業。
六本木野獣会に属し、
大野伴睦の長男で東京放映の社長である大野直にスカウトされ、芸能界入り。
中尾ミエ主演の東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年)にも
端役で出演していましたが、
1964年(昭和39年)、
テレビドラマ『幸福試験』(NHK)の出演でデビューし、
翌年、東映へ入社。
佐久間良子主演の『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演。
同時期入社の城野ゆきと共に、
東映東京の一押し新人女優として売り出され、
1966年(昭和41年)
高倉健主演のゴールデンウイーク映画『網走番外地 荒野の対決』で人気が出始めたことから、
梅宮辰夫・緑魔子コンビによる
「夜の青春シリーズ」第7作『赤い夜光虫』で
男優一押し新人・谷隼人とコンビで準主役に格上げ。
その後も「夜の青春シリーズ」をはじめ、
高倉健の『網走番外地』シリーズ、
千葉真一主演作品での助演等、
数々の映画に出演しましたが、
この時期の東映は"不良性感度映画"を推進していたため、
大原の役は酒場のホステスやパンスケ役が多かったそうです。
1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。
1972年2月14日に東京プリンスホテルであった
渡瀬恒彦との婚約発表を伝える『スポーツニッポン』1972年2月15日の記事に
「東映の渡瀬恒彦と同じく東映女優の大原麗子」 と書かれています。
以降テレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ、
映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、
独特の存在感を発揮。
その演技力を買われて主演した橋田壽賀子脚本の『春日局』では
大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)を叩きだしました。
橋田をはじめ、石井ふく子からも
演技力を高く評価されました。
映画『男はつらいよ』シリーズでは、
マドンナ役を2度務めました。
バラエティ番組への出演はさほど多くなかったものの、
1994年(平成6年)5月19日放映の『ダウンタウンDX』(よみうりテレビ)では、
本人たっての希望で、
うさぎの着ぐるみを着たり、
禿げかつらをつけてコントをしたり、
さらに番組内の一コーナー「ダウンタウンの社会見学」では
セーラー服姿でダウンタウンの2人に同行。
1996年4月15日にフジテレビ系列で放送がスタートした
バラエティ番組『SMAP×SMAP』の名物コーナー
「BISTRO SMAP」の第1回のゲストが大原でした。
テレビCMへの出演も多く、
とりわけ、和服姿でぷっと頬を膨らませ、
かすれた声で甘えるように
「すこし愛して、ながーく愛して」という台詞で知られる、
サントリーレッドのCMは、
その言葉どおり多くの人に長く愛され、
1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送。
歌手としても、数枚のレコードをリリース。
明石家さんまや清水ミチコによく声真似をされました。
1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。
1999年11月から翌年にかけて
ギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止。
その後、
休止中にギラン・バレー症候群の主治医が死去。
2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、
右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負いました。
さかのぼって47歳の時には乳がん手術を受けました。
1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、
まぶたが腫れ上がってしまったため、
主演が決まっていた映画『天城越え』(第2作)を降板。
その後、再手術をして可能な限り元に戻しましたが、
自宅に引きこもるように。
同年11月、
ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、
芸能活動を休止。
活動休止中も現場復帰に向けて、
自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいたといいます。
晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって、
公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていきましたが、
俳優仲間にはたびたび電話をかけ、 
ドラマを観た感想などを語っていたといいます。
2009年8月6日、
連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、
自宅で死亡しているのが発見されました。
62歳。
(大原麗子)
伊藤雄之助さん
(1919年8月3日-1980年3月11日)
俳優。
兄は二代目澤村宗之助、
弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、
妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。
子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。
付き人に大地康雄。
東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で
帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助の次男として誕生。
母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。
兄、弟も役者の芸能一家に育ちます。
父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族で、
地元の子供芝居に投じて台頭、
四代目助高屋高助に認められて上京し、
その養子となって七代目澤村訥子を襲名。
訥子は養父の死後小芝居の大立者となり、
雄之助出生時もなお活躍中でした。
1924年4月、
満4歳8カ月で“澤村雄之助”の芸名を名乗り、
父の舞台である四谷の大国座で初舞台。
本来初舞台披露が行われるはずの帝国劇場は前年の関東大震災で焼失し、再建中でした。
しかし、初舞台の6日目に父が舞台で急逝。
雄之助ら遺児3兄弟は祖父の世話を受けることになり、
祖父が2年後に亡くなると親戚中から冷遇され、
さらに雄之助は他の兄弟たちと比べのろまで不器用だったことから
"紀ノ国屋の場違い小僧”と罵られるなど、
苦労の多い幼年期を過ごしました。
教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎に入れられ、
成績優秀で将来は教師になることを望んでいましたが、
慶應義塾普通部1年の夏に母が3万円ほどの借金を遺して病死したため学業中断を余儀なくされ、
「澤村兄弟プロダクション」を組織して芸能活動を再開。
1934年、
東京宝塚劇場開場と同時に公募された専属俳優に兄弟とともに応募、
「東宝専属男女優」第1号の1人となりました。
1940年に陸軍に応召、
1943年に一等兵で除隊されるまでに中国大陸で兵役に就きました。
上官の大便が入った浴槽で入浴することを強要されるなど、ここでも冷遇を受けました。
その後は第2次東宝劇団に参加、
小夜福子組の移動演劇隊に加わって山形県を巡業中に終戦を迎えました。
1946年に演劇隊を解散し、
東京に戻り八田元夫の演劇研究所に入ってからは、
スタニスラフスキー・システムによる演技を学びました。
映画は
1932年に『少年諸君』で映画デビューしていますが、
本格的な映画出演は戦後からで、
義兄である佐伯清の薦めで1946年に東宝撮影所へ入社。
特に1949年に公開された『野良犬』(監督・黒澤明)では、
端役でありながら印象的な演技を見せました。
その後東宝争議が始まったために東宝を退社し、
新東宝、綜芸プロなどに所属。
この時期は市川崑作品の常連で、
主演をつとめた社会風刺喜劇『プーサン』(1953年)は、
監督ともども出世作に。
1954年よりフリー。
早い段階でフリーとなったため、
テレビドラマにも1950年代から多くの作品へ積極的に出演。
代表作に
『巨人と玩具』『侍』『しとやかな獣』など。
特徴のある顔とアクの強い演技で多数の映画で名脇役として活躍、
『椿三十郎』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示しました。
一方で
『気違い部落』『ああ爆弾』などでは主演として鮮烈な印象を残しました。
1969年6月、
歌舞伎座の舞台に出演中に脳溢血で倒れ、
半身不随となるも懸命なリハビリの結果、
翌1970年には
『橋のない川 第二部』(監督・今井正)にて俳優活動を再開。
まだ仕事復帰は医師から厳重に止められており、
文字通り命懸けの演技であったといいます。
晩年も『太陽を盗んだ男』では
日本兵の軍装で皇居に突撃しようとするバスジャック犯役で怪演を見せるなど、
多数の映画・ドラマなどに出演。
1980年3月5日、
療養で伊東市の温泉へ行きますが、
翌3月6日になって容態が悪化、
そのまま伊東市内の病院に入院。
3月11日に心臓発作で死去。
60歳没。
(伊藤雄之助)
服部正さん
(1908年3月17日 - 2008年8月2日)
作曲家。
日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めました。
東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。
青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、
三井生命保険に入社するも40日で退社。
学生時代にはマンドリンクラブに所属。
1930年に
「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催の
マンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。
その後、菅原明朗に師事。
1932年、帝国音楽学校講師。
1933年、
『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
1935年には
初のオペラ『雁の渡る日』をNHKより発表。
1936年、
時事新報主催の音楽コンクールで三部作『旗』の一曲『西風に飜える旗』が二等入賞。
同年末に青年日本交響楽団を創設し、
1946年まで指揮。
1939年、
東邦音楽学校(現在の東邦音楽大学)校歌『東邦の歌』制定時、
在職教員であった植村敏夫が作詞を、
服部が作曲を担当。
戦中から戦後にかけては『次郎物語』や
黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』などの
映画音楽や放送音楽を担当。
1953年、国立音楽大学教授に就任。
1955年に作曲した
青少年のための国民オペラ『手古奈』が人気を博し、
公式記録だけでも200回の上演記録を誇ります。
ラジオ体操第1の作曲者。
弟子には小林亜星ら。
1978年、紫綬褒章を受章。
1984年には勲四等旭日小綬章を受章。
2008年8月2日午前6時頃、
老衰のため東京都渋谷区の自宅にて死去。
100歳没。
(服部正)

80年代に日テレで放送していたエアウルフ。

高橋悦史さん
(1935年8月2日-1996年5月19日)
俳優。
身長179cm。
宮大工の息子として大阪府岸和田市宮本町に一人息子として誕生。
幼くして父を亡くし、母の手一つで育てられます。
大阪府立岸和田高等学校では野球部に在籍し、
甲子園にあと一歩まで迫りました。
視力の減退で野球は断念。
高校時代に観劇した文学座の芝居に魅せられ、
演劇への興味が沸きます。
大学受験と一緒に俳優座養成所のテストも受けるも不合格。
1954年立教大学文学部英米文学科に入学
(野際陽子は同学科の同期、長嶋茂雄と杉浦忠も立教大の同期)。
在学中から演劇に関わり、演出も手がけました。
実家の洋品店から社外株主として給料を貰っていたため、大学時代は遊んで暮らしました。
1958年大学卒業後、
TBSラジオ劇団養成所を経て、
NHK俳優養成所に入り1960年卒業。
NHKでは舞台や脇役俳優や声の吹き替え(飯沢匡脚本『ブーフーウー』の狼役等)の仕事に従事。
この間が短期間の下積み時代。
1964年、
本格的に新劇俳優を目指し、念願の文学座付属演劇研究所に入りました。
同期は小椋佳と結婚した塚原佳穂里など。
卒業後、文学座研究生となると
すぐに『友絵の鼓』で主役に抜擢され、初舞台。
1964年、NET『徳川家康』にテレビ初出演。
1965年には、
吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビュー。
1967年、
岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され、注目を浴びました。
以後、岡本作品に立て続けに出演し、
性格俳優として欠くべからざる存在に。
舞台でも『花の館』で1970年、
芸術祭優秀賞を受賞するなど活躍。
テレビドラマでは
『鳩子の海』『おしん』『鬼平犯科帳』などに出演。
1994年3月、
癌が見つかり夏に入院、翌年には病名を公表し、
闘病生活を続けつつ撮影にも臨み、
闘病手記と写真も公表。
いったん退院しましたが、
1996年4月に再発し、
5月19日に栃木県宇都宮市の栃木県立がんセンターで膵臓癌のため死去。
60歳没。
(高橋悦史)
『少年ジェット』 シェーン🐕‍🦺行こう‼️
う〜❗やぁ〜❗たぁ〜‼️ 流行りましたね😀
今思えば、まさに子供だまし😅
でも、僕らのヒーローでした🕺
四代目三遊亭小圓遊さん
(1937年8月3日-1980年10月5日)
群馬県前橋市出身で東京育ちの落語家。
生前は落語芸術協会所属。
出囃子は『二上がり鞨鼓』。
『笑点』の大喜利コーナーのレギュラー回答者を務め、
キザなキャラクターで人気を博します。
一方で高座では
「へっつい長屋」「浮世床」「蛇含草」などの古典落語を得意としました。
過度の飲酒に起因する病のため、
43歳の若さで巡業先の山形県で亡くなりました。
(芸歴)
・1955年2月
四代目三遊亭圓遊に入門。前座名「金遊」。
・1958年
二ツ目昇進。
・1966年
日本テレビ系列の演芸番組『笑点』のメンバーに。
・1968年9月 
真打昇進、「四代目三遊亭小圓遊」襲名。
・1969年
4月 -『笑点』降板。
11月 - 復帰。
・1979年8月 
落語芸術協会理事就任(死去まで同職)。
・1980年10月 - 死去。
(四代目三遊亭小圓遊)

今日も〜あした〜も♪あ〜りがとお〜お〜♪

【昭和史に残るブーム!ダッコちゃん】
1960年(昭和35年)にタカラから発売された。「木のぼりウィンキー」「黒ん坊ブラちゃん」で売り出された。「ウィンキー」という商品名は目玉が閉じたり開いたりしてウィンクしているように見えることからつけられた。
ダッコちゃんはアメリカから黒人蔑視との批判が出て、タカラは「ダッコちゃんは黒人がモデルではなく日焼けした子供のデフォルメ」と釈明したが、商品自体の採算性の落ち込みもあり1988年(昭和63年)6月に製造を停止した。
製造停止までに販売されたダッコちゃん人形の総数は真正品のみで累計600万個に達した。
https://nordot.app/932409184300957696
♫振られ気分でロックンロール💐🌺💞
TOM.CAT
TOMさん(ボーカル.キーボード)
松崎淳美さん❗
男性大人の中に、愛らしい女の子が代表する
歌謡音楽祭の受賞式、表彰状、の光景でした❤️
❤️演奏者の方々、ドラム、ベース、ギター、
皆さん、演奏風景が素晴らしい😭🤣
❤️令和の今日でも普通に聴けます❤️
『麻雀放浪記』
角川春樹事務所=東映 昭和59年度作品。
昭和21年秋の上野。17歳の哲(真田広之)は、勤労動員の無くなった終戦後も、軍人だった父親が失業したため、学校には戻らずぶらぶらしていた。
ある日、彼は辻強盗にカネを巻き上げられそうになったが、その人物は以前工場で働いていた時に、博打を教えてくれた上州虎(名古屋章)だった。
哲は虎に連れられてチンチロ部落へやってきて、プロの博奕打ちドサ健(鹿賀丈史)の誘いに乗って、なけなしのカネを増やしが、その大半はコーチ料としてある日巻き上げられてしまう。
数日後、哲とドサ健はアメリカ兵相手の秘密カジノ"オックスクラブ"に乗り込んだ。そこでドサ健は麻雀に勝つだけ勝って、哲がカネを持っていないのを承知で帰ってしまう。負けてカネが払えなくなった哲は米兵に叩きのめされてしまう。気を失った哲を介抱してくれたのはカジノのママ(加賀まりこ)で、その夜、哲は初めて女を知ることに。
翌日からママのコーチで、本格的な麻雀修行が始まった。それにつれて哲のママに対する思慕が高まってゆく。
ある日、哲は初老のプロの麻雀師に出会った。ヤクの売人で出目徳(高品格)といい、虎の師匠にあたる人物であった。哲は出目徳から"二の二の天和"というイカサマのコンビを仕込まれ、ドサ健と対決することになった。
その頃ドサ健は情婦のまゆみ(大竹しのぶ)の家を雀荘して、大した羽振りが良いのであった。
哲と出目徳対ドサ健一派が対決した。出目徳、哲の圧勝だった。頭に血が上ったドサ健はカネを作るためにまゆみの家の権利書手放させ、まゆみを女郎に売り飛ばした。これまで勝負に立ち会っていた女衒の達(加藤健一)がまる1日まゆみを預かり、ドサ健がカネを調達するのを待った。それでもまゆみはドサ健に惚れ抜いているのだ。
再び対決の日がやってきた。メンバーは哲、ドサ健、達、出目徳である。ところが二晩目の夜中、出目徳が"九連宝塔"という大きな手で上がり、卓に伏して死んでしまう。彼もヤクを打っていたのだ。「死んだ奴は裸になるに決まっている」
ドサ健が言うように、3人は出目徳の死体を輪タクで運び、土手の上から家の前へ転げ落として別れを告げ、その足で上州虎を拾って勝負を続けた。上野の鐘の音が聞こえる。夜が白々と明けていたー
劇中で特に印象に残っているのが、哲とドサ健、そしてまゆみが屋台に立ち寄った祭に、店の親父がドサ健に「いつまでもゴロツキしてないで、真面目に仕事しなきゃ」と言うと、「うるせぇ、テメエら家付き飯付きの一生を人生だと思ってんだろ。お前たちみたいに真面目に仕事して何になる?・・お前たちにできることは長生きだけだ、クソたれて我慢して生きるだけだ!」
博奕打ちに生きる男の矜持。ドサ健の吐くこのセリフにシビレましたね。
そして、運を使い果たしてしまったであろう、牌を握ったまま息絶えてしまう出目徳。その姿には長い麻雀人生の末に行きついた果ての、無情なる死の音みがずっしりと感じられた。
長いキャリアを、ドスのきいた声と渋い重量感で、割と地味な引き立て役で通してきた高品格が、本作で1984年度日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、ブルーリボン賞でも助演男優賞に輝くなど、突如としてスポットライトを浴び、俳優人生に錦を飾った。
赤塚不二夫さん
(1935年9月14日-2008年8月2日)
漫画家、タレント、俳優。
満洲国熱河省出身。
フジオ・プロダクション創設者。
小学六年生の時、
手塚治虫の『ロストワールド』に大いなる影響を受け、
漫画家を志し、
上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、
つげ義春の推薦で曙出版から上梓した
貸本漫画『嵐をこえて』で1956年(昭和31年)にデビュー。
その後、
赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、
トキワ荘に入居。
以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、
1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家に。
1967年(昭和42年)に代表作である
『天才バカボン』の爆発的ヒットと、
その後の
『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』
といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」と謳われ、
戦後ギャグ漫画史の礎を築きました。
(赤塚不二夫)
古橋廣之進さん
(1928年9月16日-2009年8月2日)
水泳選手でありスポーツ指導者。
身長174cm。
日本大学名誉教授。
フジヤマのトビウオの異名を持ちます。
位階は従三位。
静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市西区)にて生まれます。
雄踏町立雄踏小学校4年の時に水泳部に入部。
当時、古橋が通っていた学校の水泳部では、
浜名湖での遠泳が伝統的に行われており、
古橋は6年生の時100mと200mの自由形で学童新記録を樹立。
その際、
新聞報道で「豆魚雷」との異名を付けられました。
その後、
浜松第二中学校(現・静岡県立浜松西高等学校)へ進学したものの、
太平洋戦争の激化により水泳を続けることができなくなりました。
学徒勤労動員で砲弾工場で作業していた際に旋盤に左手の中指を挟まれ、
第一関節から先を切断するという事故に遭っています。
事故に遭った頃は「もう泳げない」とかなり落胆。
日本大学進学後に水泳を再開。
1947年(昭和22年)の日本選手権では、
400m自由形を4分38秒4で優勝。
公式記録にはならなかったものの、
当時の世界記録を上回るタイムを出しました。
敗戦国の日本は
1948年(昭和23年)のロンドンオリンピックへの参加が認められず。
日本水泳連盟はロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に日本選手権を開催し、
古橋は400m自由形で4分33秒4、
1500m自由形で18分37秒0を出しました。
これはロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回っています。
同年9月の学生選手権では、
400m自由形で自己記録を更新する4分33秒0、
800m自由形では9分41秒0を出し、
これも世界記録を越える記録。
敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に
世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローでした。
1949年(昭和24年)6月には
日本の国際水泳連盟復帰が認められ、
古橋や橋爪四郎ら6選手は、
8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加。
古橋は400m自由形で4分33秒3、
800m自由形で9分33秒5、
1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を樹立し、
アメリカの新聞では
「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と書かれました。
この遠征は
サンフランシスコ講和条約締結前であり、
米ドルがなかったため、
日本水連幹部や在米日系人からの寄付で参加が実現。
渡航前には
GHQのダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受けました。
戦後間もなかったこともあり、
大会前はアメリカ国民にジャップと呼ばれることもありましたが、
大会後は一躍ヒーローとなり、
ハリウッドではボブ・ホープらにサインをねだられます。
1951年(昭和26年)に
日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科を卒業し、大同毛織に入社。
多くの大企業や役所などから特別待遇での誘いを受けていましたが、
社業と水泳の両立を目的にあえて同社に入社。
同年には第1回日本スポーツ賞を受賞。
1952年(昭和27年)の日本選手権では
思うような記録が出ませんでしたが、
その年のヘルシンキオリンピックに出場。
しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことや、
1950年(昭和25年)の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、
五輪本番では400m自由形8位に終わりました。
引退後は社業に務める傍ら、水泳界の発展に尽力。
1966年(昭和41年)には大同毛織を退社し、
日本大学専任講師となると共に日本水泳連盟役員に。
1969年(昭和44年)には
東京都品川区大井に
「品川とびうおスイミングクラブ」を、
1970年(昭和45年)には
「とびうお杉並スイミングクラブ」を設立しましたが、
後に倒産。
ロサンゼルスオリンピックでの日本選手の大麻吸引事件による役員刷新により、
1985年(昭和60年)には日本水泳連盟会長に就任。
神戸市で行われたユニバーシアード大会では事務総長を務めました。
1990年(平成2年)から1999年(平成11年)までは
日本オリンピック委員会(JOC)会長を務め、
1996年(平成8年)のアトランタオリンピックでは日本選手団の団長を務めました。
また、
1993年(平成5年)に設立された日本学生トライアスロン連合の初代会長も務めました。
また、
亡くなるまで日本オリンピアンズ協会の名誉顧問も務めていました。
2008年(平成20年)11月3日、
オリンピック出場経験者としては初、
日本スポーツ界の人物として2人目となる文化勲章を親授。
2009年(平成21年)2月7日、
故郷の浜松市に古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(愛称:ToBiO)がオープン。
2009年(平成21年)6月25日、
日本水連は競泳日本代表の愛称をトビウオジャパンに決定。
これは古橋の現役時代の
「フジヤマのトビウオ」という異名に因んでおり、
大海を突き進むトビウオの様に飛躍してほしいとの意味を込めています。
1976年(昭和51年)より
国際水泳連盟の副会長を務めました。
2009年(平成21年)7月24日に
ローマで開催された総会でも再選されましたが、
その9日後の8月2日午前中、
現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。
80歳没。
(古橋廣之進)
大部屋の悪役から"前略おふくろ様"をきっかけに花開いた"ピラニア軍団"
【日本初のガッツポーズ!】
1974年4月11日、ガッツ石松選手が、日大講堂でWBC世界ライト級王座を奪取し、丸めた両こぶしを宙に突き上げ、強い喜びを表しました。
日本初のガッツポーズ!
ガッツポーズを有名にしたのはガッツ石松選手だと言われています。
本当なら、鈴木有二(本名)喜びの姿だった。
鈴木有三より荒くれ者の森の石松の雰囲気がある
鈴木石松に変えボクシングしていたが、なかなか勝利を重ねられない。
『君はガッツさえ持てばいいボクサーに成長するから、名前を鈴木からガッツに変えろ』とアドバイスされて、ガッツ石松ができあがった。
https://smart-flash.jp/sports/138723/1/1/
多々良純さん
(1917年8月4日-2006年9月30日)
俳優。
宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)出身。
東京府立第九中学校卒業。
新築地劇団研究生、苦楽座、劇団民藝など舞台俳優として活動し、
数多くの映画・テレビドラマに出演。
頑固ながら根は優しい役などに定評があり、
軽妙な役もこなせる貴重なバイプレーヤーとして活躍。
宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)に、
父・重一と母・利の次男として生誕。
幼少時代は家業の都合で石巻、仙台、東京と居を移します。
西巣鴨第二小学校を経て、
1935年(昭和10年)に東京府立第九中学校を卒業後、
国際ホテル学校に入学し、5カ月で中退、
帝国ホテル食堂部に就職。
1年ほど勤めた後、
朝日新聞に載った新築地劇団研究生募集の広告を見て、
子供の時からの夢だった役者の道を志します。
1936年(昭和11年)10月、新築地劇団に入所、
同期に殿山泰司、千秋実、小山源喜ら。
同年11月の劇団公演『女人哀詞』(山本有三原作)で初舞台を踏んで以来、
『どん底』『土』『ウインザーの陽気な女房』などの舞台に出演。
1940年(昭和15年)に千葉泰樹監督の『彦六なぐらる』で映画に初出演。
同年7月に応召され、近衛歩兵第2連隊に入隊、
仏領インドシナから中支にかけて転戦。
1943年(昭和18年)に召集解除されると役者生活に戻り、
丸山定夫、薄田研二らの苦楽座に参加、慰問公演で全国を回ります。
1945年(昭和20年)6月、再召集され、
陸軍東海第五部隊に入隊。
多々良が応召された後、
苦楽座は桜隊と改称して広島市ヘ巡業するも、
2カ月後の8月6日、
桜隊は原子爆弾の投下に遭い、
丸山・園井恵子・高山象三ら演劇隊員9名が犠牲となりました。
運良く助かった多々良はその1カ月後、
炊事班長の陸軍伍長で終戦を迎えますが、
劇団員たちの訃報を聞き愕然としました。
1947年(昭和22年)、
宇野重吉・滝沢修らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加。
続いて1950年(昭和25年)発足の劇団民藝に加わり、
『かもめ』『炎の人』などに出演。
傍ら映画にも出演するようになり、
1952年(昭和27年)に民藝を退団してからは
本格的にフリーの映画俳優として活動を始めます。
アクの強い芸達者な脇役として地位を固め、
渋谷実監督の『現代人』、
黒澤明監督の『七人の侍』、
久松静児監督の『警察日記』といった名作に出演。
善人役から悪役まで難なくこなし、
名バイプレイヤーとして活躍。
1956年(昭和31年)には
『あなた買います』『鶴八鶴次郎』などの演技で
第7回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。
映画・舞台のほか、
1960年代からテレビドラマにも盛んに出演し、
その存在感をアピール。
2006年(平成18年)9月30日午後0時40分、
肺機能不全のため東京都内の病院で死去。
89歳没。
 
(多々良純)
.
サンダーバード2号
小学生の頃、プラモデルで作りました。2号のコンテナに入るサンダーバード4号やジェットモグラ、磁力牽引車も好きでした。
サンダーバードの秘密基地のプラモデルは、高くて買ってもらえなかった。
サンダーバード2号はテレビ番組「サンダーバード」(1965年(昭和40年)〜1966年(昭和41年))に出てくる大型輸送機。
「設定上の大きさは全長、全幅、全高ともに実在する巨大機のボーイング747に非常に近い」そうです。
ジャンボジェットは細長いけど2号はぶっといから、こりゃ相当デカい(笑)

縁台将棋。もはや死語か。

僕のあだ名を知ってるかい、

朝刊太郎と言うんだよ。

松本清張さん
(1909年12月21日-1992年8月4日)
小説家。
1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。
以降しばらく、
歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆。
1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。
これらの作品がベストセラーになり
松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こします。
以後、
『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、
第二次世界大戦後の日本を代表する作家に。
その他、
『かげろう絵図』などの時代小説を手がけていますが、
『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、
『火の路』などの小説作品に結実。
緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評されます。
また、
『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、
近現代史に取り組んだ諸作品を著し、
森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、
広い領域にまたがる創作活動を続けました。
(松本清張)
渥美清さん
(1928年3月10日-1996年8月4日)
コメディアン、俳優、歌手。 
身長169cm。
代表作『男はつらいよ』シリーズで、
柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、
「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。
没後に国民栄誉賞を受賞。
東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、
地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、
元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生誕。
兄がいます。
1934年11月、板橋尋常小学校に入学。
1936年、
一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。
第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するも、
学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされます。
旧制1945年に同校を卒業するも、
3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出されます。
卒業後は工員として働きながら、
一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていました。
この幼少期に培った知識が
後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえます。
母親に猛反対されたため進学を断念。
知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことに。
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、
大宮市日活館の下働きを経て、
『阿部定一代記』でのチョイ役で舞台初出演。
1951年、
東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の
専属コメディアンに。
2年後の1953年には、フランス座へ移籍。
この頃のフランス座は、
長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、
コント作家として井上ひさしが出入りしていました。
1954年、
肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送ります。
退院後の1956年の秋、
今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院。
再復帰後は
酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めました。
1956年に
日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で
主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演。
1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成。
しかし、数ヵ月後には脱退。
1961年から1966年まで
NHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。
コメディアン・渥美清の名を全国区に。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務めました。
7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演。
同年、
フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうけました。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で
「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、
俳優としての名声を確立。
この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られました。
1965年公開の、
羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。
この撮影以降、
アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるように。
1969年3月17日(月曜日)、
正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げました。
この時期の主演作品としては他に、
TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)など。
最後に舞台へ上がったのは
1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル
「南太平洋」のルーサー・ビリス役で
それ以降二度と舞台を踏むことはなかったものの、
1991年の常盤座の閉幕の時行われた
「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで
俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって
「ご苦労さん」と関とあいさつをし、
観客に手を振りました。
1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、
テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、
脚本は山田洋次と森崎東が担当り
最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に
視聴者からの抗議が殺到したことから、
翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、
松竹が映画を製作。
これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。
当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて
第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。
以降、
しばしば200万人を超えるなど
松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続きます。
国民的スターとなった渥美清は、
主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を
27年間48作に亘って演じ続けることに。
映画のシリーズでは最多記録の作品として
ギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げました。
1972年、渥美プロを設立し、
松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作。
1975年、
松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。
1977年には
テレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて
久しぶりにテレビドラマの主演を務めます。
同作品は
のちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、
第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出。
この成功を受けて
同作品はシリーズ化され1978年に『旅路の果て』が、
1979年には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は
「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまいます。
1979年4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では
作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得ました。
1980年代以降になると、
『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていました。
1988年に紫綬褒章を受章。
その後は主演以外での参加も次第に減っていき、
1993年に公開された映画『学校』が
『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品に。
晩年は、
松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事でした。
『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、
病気になった渥美に配慮して、
立って演じるシーンは減少し、
晩年は立っていることもままならず、
撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多くなります。
体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、
年2本作っていたシリーズを1本に減らし、
満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしています。
最後に関係者が渥美清と会ったのは、
1996年6月27日(若しくは6月30日)に
代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合い。
病気については、
1991年に肝臓癌が見つかり、
1994年には肺への転移が認められました。
主治医からは、
第47作への出演は不可能だと言われていましたがなんとか出演し、
48作に出演できたのは奇跡に近いとのこと。
1996年6月27日、若しくは6月30日の
代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で高知ロケを承諾し、
撮影を控えていた中、
亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即手術を受けたものの、
癌の転移が広がり手遅れの状態でした。
1996年8月4日午後5時10分、
転移性肺癌のため文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去。
68歳没。
(渥美清)

あべ静江さん 昭和26年11月三重県松阪市出身昭和48年『コーヒーショップで』でデビュー。同年第15回「日本レコード大賞」新人賞を受賞。 2枚目シングル『みずいろの手紙』も大ヒットで、自身の代表作となった。昭和49年 NHK紅白歌合戦初出場。 映画「トラック野郎 爆走一番星」やテレビドラマなど女優としても活躍、子供の頃、綺麗で憧れの人でした。

🟣昭和の堀越学園🌸🌸🌸
🔵3年D組1986です。
🟠クラスメイトがみんな芸能人でした、スゴイ😊😊😊
津川雅彦さん
(1940年1月2日-2018年8月4日)
俳優・映画監督・芸能プロモーター・評論家。
身長171cm。
芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、
同社の代表取締役を務めました。
位階は従五位。
俳優としては
1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、
1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、
1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演。
80年代以降は
『マルサの女』(主役の板倉亮子(宮本信子)の上司役)
『スーパーの女』(スーパー「正直屋」の専務役)
など伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示しました。
1999年には
『プライド運命の瞬間』で東條英機役を演じ
日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
2000年には
NHK大河ドラマ『葵 徳川三代』で主役の徳川家康を演じました。
映画監督としてはマキ 雅彦を名乗り、
3本の作品を監督。
俳優業のかたわら、
おもちゃの「グランパパ」の経営を行ったり、
スコットランドの古城「ロックハート城」を解体し日本へ移築することを試みるなど、
経営者や事業家としての一面も。
歌舞伎役者の澤村国太郎を父に、
女優のマキノ智子を母に、誕生。
祖父は映画監督の牧野省三であり、
演劇人一族、芸能一家の一員として育ちます。
兄は俳優の長門裕之。
京都府京都市中京区で育ちました。
兄同様に子役として数本の映画に出演。
本格的な銀幕デビューは16歳のとき、
1956年の日活映画『狂った果実』。
この映画が
本格的な主演デビューとなる石原裕次郎の弟役を探していた石原慎太郎が一目見て気に入り、
沢村家に頼み込んで強引にキャスティングして名付け親ともなりました。
映画のヒットとともにたちまちスターダムに上り詰めました。
人気絶頂の1958年、
松竹へ移籍するもヒットに恵まれず。
フリーに転身してテレビなどに活動の場を広げるものの、
1969年のデヴィ・スカルノとの不倫騒動をきっかけに仕事が激減。
窮地に陥っていたところ、
1972年から開始された必殺シリーズの悪役に起用され、再びブレイク。
1973年に女優の朝丘雪路と結婚。
1982年、
『マノン』で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。
ジェームス三木作品に多く出演しているほか、
1985年の『ひとひらの雪』を始めとする渡辺淳一作品や、
『お葬式』『マルサの女』等の伊丹十三監督作品の常連出演者でした。
時代劇では
三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じている他、
徳川氏の役を演じることが多く、
大河ドラマでは『独眼竜政宗』等で家康、
『八代将軍吉宗』で綱吉、
『勝海舟』で一橋慶喜を演じています。
2008年10月5日に長年の親友、
緒形拳が71歳で死去し、
緒形の家族と共に最期を看取りました。
2014年春の叙勲では旭日小綬章を受章。
2018年4月27日、妻の朝丘雪路と死別。
同年5月20日に妻の死を受けて会見を開きました。
この時、
前年秋に肺炎を患った影響で酸素吸入器のチューブを鼻につけた状態で会見に臨みましたが、
これが公の場に出た最後の姿に。
7月11日放送(収録日6月30日)の
『昭和偉人伝』(BS朝日)が生前最後のメディア出演となりました。
8月4日午後5時45分、
心不全のため東京都内の病院で死去。
78歳没。
叙従五位。
(津川雅彦)

♥️2023💃8/4 美保純(63歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

大原 麗子さん
2009年8月3日没、享年62。
1946年11月13日生まれ。
東京都 文京区出身。
映画『新・喜びも悲しみも幾歳月』
https://youtu.be/WQu_YghvgO0
1986年公開
転勤の多い燈台守一家の生活を13年にわたって描く。京都府の経ヶ岬灯台、青森県の尻屋埼灯台、東京都の八丈島灯台、静岡県の石廊埼灯台、大分県の水ノ子島灯台などが登場する。
監督  木下惠介
出演者
杉本芳明:加藤剛
杉本朝子:大原麗子
大門敬二郎:中井貴一
長尾由起子:紺野美沙子
杉本雅子:篠山葉子
杉本邦夫:植木等
長尾猛:田中健
音楽  木下忠司
主題歌
加藤登紀子「海辺の旅」
https://youtu.be/Utt-LpYD-NE

アニメ『#リボンの騎士』。手塚治虫先生による原作漫画は #少女クラブ(1953年1月号~1956年1月号) #なかよし(1963年1月号~1966年10月号)に連載。アニメのパイロット版は1966年に制作されました。宝塚歌劇団の影響が見て取れます。

「ダイアモンド・ヘッド」「10番街の殺人」「パイプライン」などのヒット曲をもつ #ザベンチャーズ。
彼らとコラボしたのが #奥村チヨ さん #渚ゆう子 さん #欧陽菲菲 さんなど。エレキギターの米国バンドが、日本人の琴線に触れるヒット曲を次々と生み出す奇跡。音楽は国境を超える♪ (´▽`)ノ
ガマの油の映画なんてあったんや🤣
どんな内容なんやろ?観たいなぁ
筑波山行くとガマの油売ってたな。
腕を刀に傷つけて油塗って、
ほ~らあら不思議!傷があっという間に消えた!🤣今もおるんかな?

ハンドルの付いたリモコンの玩具

オレたちひょうきん族 1981~89
ヒップアップ、やすこけいこ、サブローシロー、
うなずきトリオ、鶴太郎マッチ、EPO、
紳助、伊丹さちお、
のりおよしお、洋七、ビートたけし、
山田くにこ、さんま
エンディングの曲(ダウンタウン、
土曜の夜はパラダイス、
恋はノーリターン)
後ろの肖像、横澤さん
もう内容がアミダばばぁと懺悔コーナー位しか覚えてないけど。
全員集合に勝った番組。

♥️2023💃8/5 森口瑤子(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/5 柴咲コウ(41歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

1981年🍱茜さんのお弁当🍱八千草薫さん出演,石原真理子さん、当時🕶️銀蝿一家🕶️だった,嶋大輔さん,杉本哲太さん他,主題歌🕶️横浜銀蝿のJohnny🕶️銀蝿の大ファンで視聴していました。

京塚昌子さんです。
やはり肝っ玉かあさん❓️

黒電話時代はカバーを付けてたお家が多かったですね🥰🐼❤️

はじめ人間ギャートルズ👀
マンモスの肉、美味しそうでした。
言葉が石になるのも面白かったです☺️

♥️2023💃8/7 司馬遼太郎(72歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

故石原裕次郎と愛車ベンツ300SL