【世界平和】人類はみんな家族!!Apex product⑭

争いは、やめましょう。世界の平和を願います!!

何故、今だに世界の至る所で揉め事や争いごとが絶えないのでしょう。政治や宗教での自国間の争い、差別、派閥、どうして起こるのですか。アジアの仲間同士どうして普通に暮らせないのですか。誰が、考えても平和な社会が良いに決まっています。小さな子供でも理解出来る事を分別のある大人や政治家が、何故、争うのでしょう。人は何故争わなければいけないのでしょう。欲を捨て本来の裸で生まれた人間同士うまくやっていけないのでしょうか。それぞれ、己が正義と思い事を成すでしょうが、少しだけ立ち止まり、力を抜いて音楽を聴いてみてはいかがですか。きっと心に響く1曲があるはずです。そして貴方の幼い頃。そうです。純粋だったあの頃。思い出して下さい。人前に出るのもおどおどして、母親の影に隠れていた優しい子。正義の旗の元、どんな理由があっても人殺しです。無差別に殺しあう戦争が、どんなに愚かな事でしょう。本来のあなたに戻って下さい。きっと戻れます。先人がどれだけ血を流し我々に生きて伝えたかった事でしょう。だからだから、お願い致します。下記に、あげる資料・画像を見て一人でも多くの人に伝えて下さい。いかに、平和が大切で、人の命が尊いのか。本気で考えて下さい。弊社は、真剣に取り組みます。誰に非難されても、私達は訴え続けます。一生を掛けて取り組む問題だからです。是非ご賛同頂き、少しでも悲しい人を作らないようにしましょう。

 

平和ほど、尊いものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、
根本の第一歩であらねばならない。

 

 【あたりまえ】

あたりまえの幸せが
ほんとはあたりまえなんかじゃなく
生きてることさえ、あたりまえじゃない!

明日があることがどんなに幸せなことか

だいすきな仕事ができる身体と心も
環境があることがどんなに幸せなことか

ちょっと疲れたら横になれる
ふかふかなベッドがあることがどんなに幸せなことか

朝起きたら、心臓が動いてて
伸びをして、深呼吸して
朝日を浴びることが
どんなに幸せなことか

何をするにも、必ず誰かの助けや支えがあることが
どーんなに幸せなことなのか。

とっくに気づいてるはずなのに
いちばん大切なことはおろそかにしがちなんだよね。

ほんとは
世界は地球は
もっともっと、愛にあふれてるんじゃないのかな

 

-  青空と向日葵の会 Apex product 社員一同 -

【連絡先】

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31歳ひ孫が語り部に 「特攻の母」の思い受け継ぐ 鹿児島・知覧

昔の富屋食堂を復元した「ホタル館 富屋食堂」でトメさんへの思いを語る鳥浜拳大さん=鹿児島県南九州市知覧町で2023年8月8日午後5時7分、取違剛撮影
昔の富屋食堂を復元した「ホタル館 富屋食堂」でトメさんへの思いを語る鳥浜拳大さん=鹿児島県南九州市知覧町で2023年8月8日午後5時7分、取違剛撮影

 「特攻の母」と呼ばれ、高倉健さん主演の映画のモデルにもなった鳥浜トメさん(1992年に89歳で死去)のひ孫拳大(けんた)さん(31)が、トメさんの戦争体験などを伝える語り部として奮闘している。亡き父の後を継いで、2年前に特攻隊員の記録を伝える資料館の館長に就任。隊員を親身に世話したトメさんや隊員のことを知ってほしいと、来館者を迎えている。【取違剛】

 トメさんが鹿児島県知覧町(現・南九州市)で営んだ「富屋食堂」は太平洋戦争中、旧陸軍の指定食堂になり、近くの知覧飛行場の少年飛行兵らが通った。戦況が悪化し飛行場が特攻基地になると家財を売ってまで食材を集め、出撃を控える隊員らにごちそうを出した。隊員らもトメさんを母のように慕った。当時のエピソードの一つが高倉さん主演の映画「ホタル」(2001年)のモチーフになった。

鳥浜トメさん=「ホタル館 富屋食堂」提供拡大
鳥浜トメさん=「ホタル館 富屋食堂」提供

 トメさんが語っていた隊員の話を後世に伝えるため、拳大さんの父明久さんらが01年、富屋食堂を復元する形で「ホタル館 富屋食堂」を知覧町に開館した。知覧で生まれ育った拳大さんは岡山県の大学を卒業後、広島市の自動車関連会社で働いた。しかし、明久さんが体調を崩した18年に地元へ戻り、明久さんが60歳で亡くなった21年に館を継いだ。新型コロナウイルスの影響で運営は苦しいが、来館者などへの講話は100回を超えた。

 拳大さんにトメさんの記憶はないが、幼い頃から明久さんからトメさんと特攻隊員のことを聞いてきた。「おばちゃん、僕はホタルになって帰ってくるよ」と言い残して飛び立った20歳の軍曹、「日本は負けるよ」とあけすけに語り「そんなことを言ったら憲兵に連れていかれる」とトメさんを心配させた少尉などのエピソードだ。

 語り継がれてきた隊員らの素顔は、どこまでも人間くさかった。「(特攻隊員は)『自分たちと違う人』ではない。まだ生きて、いろんなことをしたかったと思う」。戦死した隊員の思いを想像し、平和な世の中でより強く、楽しく生きてもらいたい――。それがトメさんと明久さんから受け継いだ拳大さんの願いだ。

 拳大さんは、明久さんがトメさんの味を守ってきたお食事処(どころ)「知覧茶屋」の料理長としても腕を振るう。看板は豚の骨付き肉を煮込んだ郷土料理「とんこつ」や鶏とゴボウの釜飯。昔の富屋食堂でトメさんが出していたメニューだ。「特攻隊員のことを誰にも忘れてほしくない。記憶の片隅にでも残ってくれたらうれしい」。拳大さんは、語りと味で伝え続ける。

旧陸軍知覧基地

 1941年12月、大刀洗陸軍飛行学校の分校として鹿児島県知覧町(現・南九州市)に開設され、45年3月、沖縄に最も近い本土最南端の特攻基地になった。沖縄戦には九州・山口の他、日本統治下の台湾からも陸軍の特攻機が出撃し1036人が戦死。最多の439人が知覧から出撃した。

検証
ナチスは「良いこと」もしたのか?
小野寺拓也、田野大輔著
終戦記念日の日経新聞の社説で紹介された本の一つです。
このような発言を時々聞くことがあります。言った人は、ナチスという全てが「悪」と思われている存在の中にも、「良い」と思われる施策が見つけると、他人とは違うことを見つけた喜びがあるのかもしれません。
著者は、一部分だけをつまみ食いするのではなく、全体像を見ることの大切さを、例を示しながら主張されています。
例えば、少子化対策を積極的に進めたことが知られています。しかし、対象となったのは、従順なアーリア人だけ。ユダヤ人、移民などの色々な意味でのマイノリティは対象とされていませんでした。
この本のタイトルを見ると、どうしても「戦前の日本はアジアに良いこともした」と主張される方を想像します。確かに、部分的には、また結果としては良いことになった例もあったと思います。しかし、なぜ日本がアジアに進出したかの全体像を理解する必要がありますね。
どちらにしても、歴史の一部分だけをつまみ食いする危険性ですね。
『ヒロシマは昔話か─原水爆の写真と記録─』庄野直美編     新潮文庫
 ヒロシマ・ナガサキの原爆の惨状を写真と記録でまとめ上げた渾身の著作。
筆者は物理学者で広島出身。8月9日に両親を案じて広島に入り、その惨状を目の当たりにした。
原爆の記録は、現在では様々な証言や映像で繰り返し接することは出来るが、具体的な原水爆の威力の数値や、その被害の予想的規模などは素人にはなかなか推し測り難い。
たとえば、水爆1メガトンの爆発力はTNT火薬100万トンのエネルギーに匹敵し、それは広島の原爆の約67倍であることや、残留放射性元素を食物や飲料水や呼吸を通して体内に取り込んだ人は、ガンマ線以外にもベータ線、アルファ線の影響を受けて、直接の被爆を受けていなくても二次被爆者となり、死の灰や黒い雨に打たれた被爆と同等となることなど、改めて恐怖を感じざるをえない。
このように核分裂、核融合のときに放出されるエネルギーの規模を俯瞰すると、改めてこんな非人間的なものが兵器として使用され、また配備されていいものなのかと声を上げたくなる!
残留放射能の人体その他の動植物への影響は長い年月に及ぶ。また当然に核の使用は、あらゆる生きとし生けるものの営みを消滅させ破壊し尽くす。
だが実際には、私たち一人ひとりの心中では、毎日の生活のなかで、核時代の想像力を持つことと持たぬことは、常にせめぎ合っていると思える。"まさか核など使わないだろう、いや使えないだろう!""だが待てよ、痴れ者は使うかもしれない。そしたら人類は滅亡だ!"、こんな思いは、いまのウクライナ・ロシアを見聞していても脳裡をよぎる。
まして為政者がよく口にする「核抑止力」ということばは、ひるがえせば"オマエたちを皆殺しにする準備はできているぞ!"という脅し合いを、互いに声高に張り合っているならず者の所業に他ならないと思えてくる。
その結果戦場ではなく、ヒロシマ・ナガサキのような普通の人間生活が営まれる都市の上に投下されてしまう。それは何よりも気の遠くなるような犠牲者を生み出し、建物
や財産を大量に消滅させるだけでなく、人々の心の支えであった人間関係と生活の場を一挙に壊滅させてしまうことを意味する。
この書のなかにも、筆者のこんな主張がある。
「時の流れに伴う人間の忘却作用が、大事件や戦争を繰り返させる方向をつくっていきます。とくに戦争の経験を忘れまいとする努力は、勇気のいることです。いやなことは早く忘れたいという各人の思いに加えて、国家が次の戦争を準備するときは、民衆がもつ過去の記憶を忘れさせようと操作するからです。」
そして「‘敵を倒すためには手段を選ばず、国家のためには戦争も残虐行為も新兵器の開発もすべて許される’という古くからある考え方は、現在も依然として世界中で生き続けています。人間は大きな集団の一員になると、自己陣営優先の意識に埋没し、安心して非道徳的・非人間的になる傾向があります。私たちは今、国家という価値を絶対視しない新しい考え方の創造も含めて、このような非人間的考え方や生き方を早急に改めてなければならない状況にきているのです。」
戦後、アインシュタインら科学者が深い悔恨の末に発した、ラッセル・アインシュタイン宣言の骨子、「全面軍縮の第一歩としての核兵器の廃棄、運命共同体としての人類という考え方を深めること、人間性への信頼を回復すること」、いまこそこれらの再認識と再創造が求められていると感じます。
ノーベル平和賞受賞スピーチでの、ICAN代表ローサー節子氏のことばも忘れられません!
「核は人類と共存できない。これからが核廃絶の終わりの始まりである。
なおこの本は、絶版のようなのですが古本などでは入手可能です。
【 シベリア抑留者 】
車外に出された途端、氷のような風が頬に突き刺さりました。冬になると零下40度は当たり前、時には零下60度を下回りました。
夜、床につくと15分もしないうちに猛烈な痒みに襲われました。南京虫のせいで一晩中、ほとんど寝られませんでした。
支給された服や靴は零下30度までしか耐えられないものでしたが、零下40度まで作業をやらされました。零下40度になるとすべての水分が凍結し、金属に触ったら最後、手から離れなくなります。表皮や肉がちぎれるのを覚悟で引き剥がすしかありません。
地面が凍っていたら大変です。丸太と一緒に滑って落ちて下敷きになって死にますから。実際、そんな事故がよく発生していました。
隊列を乱したり遅れたりすると監視兵がやってきて蹴り飛ばしたり銃床で殴ったりされるし、現場監督にムチを振るわれました。当たるとこれがものすごく痛い。あれはこたえました。
栄養不足のため、皆どんどん痩せ細っていき、命を落とす者が続出しました。
東京城で武装解除になった。収容所に移動するため、雨に降られながら歩いた。3日目に編上靴の底皮がはがれ、素足で砂利道を歩いた。道の両側にはソ連軍の戦車に踏みつぶされた友軍のしかばねが多数散乱していた。落伍するとコーリャン畑に捨てられ、射殺される。収容所に入った。500人ほどいた。窓にはガラスがなく菰を下げた。寝台は乾草を敷き、上は毛布。シラミが多発し、南京虫も出てよく眠れない。日中の作業を休むと食事も粗末になり、生の小麦に水を加えただけの食事のときもあった。零下20度の寒さと栄養失調で、食事にも起きられなくなり、死ぬ人もいた。赤痢が流行した。1日8回以上トイレに行く人は助からなかった。脳症になって大声でどなる人は半日で死んだ。1946年春になっても入所者の半数くらいは内地に帰れなかった。私は栄養失調で言語障害となり、声が出なくなった。それでも作業に出かけた。途中で5~6回転倒した。厳しい冬を3度過ごした。48年5月30日に我が家に帰った。4年2か月が経っていた。
※ソ連のスターリンは終戦後の1945年8月23日、武装解除され投降した日本軍兵士の捕虜57万人を国際法に違反してソ連各地の収容所へ移送隔離し、強制労働させる命令を下しました。2~11年の抑留の間に5万8千人が寒さや飢えや銃殺で死亡したといわれています。
『杉田二郎』そして『ジローズ』
1970年 大阪万博で歌われた「戦争を知らない子供たち」はあまりにも有名。この歌でジローズは、日本レコード大賞新人賞。作詞の北山修氏は作詞賞を受賞。 しかし大ヒットの裏で、、、
「戦争も行ってないくせに生意気な❗」
「戦争を知らないで済ますのか❗」
「そんな甘い歌を歌ってる場合か❗」等々
批判も飛び交った😅
当時はまだ、ベトナム戦争の真っ最中💣
世界の平和を願う✌️ ただそれだけなのに。。。
アメリカ🇺🇸から返還されたばかりの沖縄でのコンサート会場で、杉田二郎氏は「戦争を知らない子供達」を歌うことができなかった。
ところが
客席からのアンコールで「戦争を知らない子供達」の大合唱が沸き起こり、二郎さん『この歌を一生歌っていこう‼️』と決めたのだとか、、、
もう一人のジローさん「森下悦伸」(よしのぶ)さんは、学生時代に1年限定で、「森下次郎」としてジローズに参加。その後は“ラジオ関西”に就職し、取締役まで勤め上げ、既に定年退職されています。(森下悦伸さんの愛称“ジンタン”は、森下仁丹から)
余談ですが
オフ・コースは杉田二郎さんが立ち上げた音楽事務所の所属アーティストで、当初は杉田二郎さんのバックバンド&バックコーラスでした。
杉田二郎ソロ2作目
「人力ヒコーキのバラード」はオフ・コースの
“小田さんの声が聞ける最も古いヒット曲”と言われております😁
1960年現在の上皇后両陛下が、憧れの団地から
手を振られたご様子が伺える写真です❣️
訪問前年の1959年に竣工したばかりの
ひばりヶ丘団地は、180棟、全2714戸におよぶマンモス団地で、日本住宅公団が手掛けた物件としては当時、最大規模。依然として都市部は深刻な住宅難がつづいていた時代。家はあっても木造賃貸アパート(モクチン)住まいが多かった。そんななか、鉄筋コンクリート造で住戸面積も広く、風呂や水洗トイレ等の設備も充実した公団住宅は輝いて見える代物でした。1958年には「ダンチ族」が流行語となるなど、当時の団地は庶民のあこがれの的でした❣️
下の階、洗濯物の干し方が~The昭和デスネ❣️
「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」加藤陽子著 2016年朝日出版社刊
 著者は東大の日本近現代史専門の教授であり、2013年成立の特定秘密保護法に反対し、2020年には、日本学術会議の新会員候補に推薦されるが、他の5名の候補とともに、当時の菅首相によって任命拒否されると云う経歴の持ち主です。
 この本は中高生向けに行われた講義を元に構成されており、私のように歴史学を専門としなかった者にも大変わかりやすく読み進める事ができます。
 興味深かったのが太平洋戦争直前の1941年に行われた日米交渉の様子です。近衞首相をはじめ海軍首脳らは、国力の違う英米との戦争は国の破滅をもたらすとして、必死の交渉を試みます。8月には日米首脳会談をハワイ辺りで行う提案までしていました。しかしこの事が日本より先にアメリカの新聞で報道されると、日本の国家主義団体が強く反発し、それに呼応して国民の間の反英米的気分が更に高まってしまったとありました。
 著者は日本が最終的に無謀な戦争に突き進んでしまったのは国民が受けていた「教育」のせいだとします。当時は人口の半分を占める女子に男子と同じ教育はなされなかった。現在の教育を受けた者であれば、当時の日本が取った道のりはクレイジー以外の物ではないと、誰もが思う事でしょう。そう思う国民が大多数を占めるような「教育」がこれからも大切だと考えました。
占領下の日本
奈良市 屈辱的な写真ですが
戦争に負けると、こう言うこと。
横井庄一さん
(1915年3月31日-1997年9月22日)
陸軍軍人、評論家。
最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。
大東亜戦争終結から28年目、
アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された
残留日本兵として知られます。
愛知県海部郡佐織村(現:愛西市)にて洋服屋を営む
父:山田庄七と、母:大鹿つる(1889年 - 1958年)の間に長男として誕生。
しかし、
生後半年で両親が離婚したため姓が母の旧姓に。
生後3か月から小学校5年生まで母親の里(海部郡神守村、現:津島市)で
大鹿庄一として育てられ、
1926年(大正15年)に母・つるが再婚し横井姓に。
旧制小学校卒業後は愛知珠算学校を経て、
1930年に軍服を作る愛知県豊橋市の花井洋品店に奉公に出て約5年間勤務。
1935年(昭和10年)、
満20歳のため徴兵検査を受け第一補充兵役(補充兵)に編入。
1938年5月に召集され帝国陸軍に入営して中国戦線へ送られ、
翌1939年3月に解除。
軍務の後に洋服の仕立て屋を開きました。
1941年(昭和16年)8月には再召集され、
中国の満州に送られました。
1944年(昭和19年)からはグアム島の歩兵第38連隊に陸軍軍曹として配属。
同年7月にはアメリカ軍が上陸し(グアムの戦い)、
島での米軍との戦いにより日本軍は壊滅状態となり、
横井が所属する中隊は同年8月10日に解散。
8月に同島で戦死したとされ、
戦死公報が届けられています。
1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって
日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされず。
グアム島では残留日本兵の投降を呼びかける放送が鳴り響きましたが、
横井は
「その放送を聞いても私たちは敗戦を信じられず、
相変わらず敵の襲撃を恐れてジャングルの中をさまよい続けたのです。
長くとも十年待っておれば、
必ず日本軍は力を盛りかえしてこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました」
と著書に記しています。
横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活。
1946年に5人組のうち二人が投降し、
その後1964年に残りの二人が(一部では、台風に巻き込まれたとされる)力尽きました。
独りになった横井は
「島に眠る数限りない友軍の魂が私を助けてくれる」
と信じて生き続けました。
1965年(昭和40年)10月30日の第19回戦没者叙勲では、
戦没者として戦前受けていた勲八等から
勲七等青色桐葉章への昇叙者として官報掲載。
グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日の夕暮れ時、
エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、
鹿の猟をしていた現地住民たちに取り囲まれ、確保。
同年2月2日に横井は満57歳で日本に帰還し、
28年間に及ぶジャングル生活が終了。
1964年の台風により亡くなったとされる
2人の部下の遺骨も横井帰国の際に一緒に帰国。
軍事教育を受け育った横井は、
「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとありました。
このため帰国の際、
羽田空港で空港に出迎えに来た斎藤邦吉厚生大臣に、
「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰って参りました」、
「グアム島敗戦の状況をつぶさにみなさんに知ってもらいたくて恥ずかしいけれども帰って参りました」
と伝えました。
またその後の記者会見では
「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と発言。
これらの言葉をとらえて「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となり、
また、当時、
高度経済成長や東京オリンピック、
大阪万博に沸いていた日本国民は、
横井の帰国によって「まだ戦争は終わっていなかった」
という現実を突きつけられました。
同年2月2日14時から60分間にわたり、
NHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、
41.2%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の高視聴率を記録。
また、
愛知県の実家に帰る横井を撮ろうと取材陣が殺到し、
既に故人となっていた母の墓前で思わず泣き崩れる彼の様子も撮影されました。
その後、
体調や病気の有無を調べるため国立病院医療センターに入院。
退院後、
母の親族が暮らす愛知県名古屋市中川区富田町にある家に居住。
ほどなくして全国から今後の生活費を心配する人たちの善意により寄付金が殺到しましたが、
横井は「人寄せパンダのようだ」と感じて一時人間不信に陥ります。
そんな苦境を救ったのが
1972年8月に見合いをした12歳年下の京都の女性・幡新美保子の存在でした。
同年11月、2人は熱田神宮で結婚式を挙げ、
翌1973年2月に名古屋市内に新居を完成させてそこで暮らし始めます。
世間から横井は戦後の日本の変化に適応できるかを心配されましたが、
驚くほど素直に戦後の日本に馴染みました。
ただし、
戦前と帰国後でインフレーションから円の貨幣価値が大きく変わっていたため、
上記の寄付金や横井の財産の管理は全て妻の美保子が行いました。
また、
帰国からしばらくは日本列島に「軍人ブーム」が到来し、
地域によっては「軍歌バー」なるものもできました。
横井自身も様々なイベントに引っ張りだことなり、
歌番組「夜のヒットスタジオ」へのゲスト出演など芸能活動も行い、
その“浦島太郎ぶり”で人気に。
1973年には、
春頃の小松左京の小説「日本沈没」のブームや、
秋に起きた日本でのオイルショックが影響し、
横井のもとに全国から講演依頼が殺到。
横井は日本でただ一人の「耐乏生活評論家」(あるいは生活評論家とも)として、
全国各地でグアム時の節約生活について自らの経験を語ったり、
雑誌等でも災害時のサバイバル術についてインタビューを受けました。
1974年2月には、
初の著書となる戦時中にグアムのジャングルで生き延びた話を綴った
「明日への道」を出版しベストセラーに。
横井は28年に及ぶジャングル生活の影響で
「火を通さない生魚の刺身」に対して警戒心があり、
帰国後も食べられない訳ではないがあまり喜ばなかったといいます。
1974年(昭和49年)7月、
第10回参議院議員通常選挙(全国区)に無所属で立候補するも落選。
横井による軍人ブームは、
同年3月に同じく残留日本兵としてフィリピン・ルバング島から帰国した
小野田寛郎旧陸軍少尉へと大衆の関心が移り、
横井に対するマスコミの扱いも次第に終息。
ようやく生活が落ち着いた横井はほどなくして陶芸に開眼。
自宅を改装して「六十路窯」を作り、
制作した陶器で銀座三越を始め全国で個展を開き、
1982年には7人の美女と共に様々なサバイバルを繰り広げる
バラエティ番組『ザ・サバイバル』(テレビ朝日系列)が始まり、
人気を博しました(横井は1984年まで出演)。
その後はヘルニアや、
1985年に胃がんの手術を受け、
1991年(平成3年)に春の園遊会に招待され、
当時の天皇と皇后からお言葉を賜りました。
1997年(平成9年)9月22日、
心臓発作を起こし死去。
満82歳没。
(横井庄一)
1945年9月26日、この日、
最初の復員船・高砂丸が、
中部太平洋メレヨン島からの復員兵1,628人を乗せて別府港に入港。 
「メレヨン島の日本軍」
メレヨン島は日本軍の基地となり、
小規模の監視所が設置されていました。
絶対国防圏の防御力強化、およびマリアナ諸島での戦いに備え、
1944年(昭和19年)2月29日、
第68警備隊・第49防空隊・第4施設部が「新興丸」でメレヨン島に到着、
飛行場建設を開始。
3月1日附で
第68警備隊・第49防空対は海軍第44警備隊(司令:宮田嘉信海軍中佐)に改編。
当時の残留島民120名は南西端のフラリス島に集められ、隔離。
サイパン島の日本軍守備隊が玉砕して
サイパン島の戦いは終結、
米軍はメレヨン島の日本軍守備隊を放置。
補給量は限定的でした。
メレヨン島は、
島全体が標高の殆どない珊瑚礁であるため農耕には向かず(2m掘ると水が湧き出す)、
火薬を用いた漁による成果も部隊全体に行き渡る量はなく、
食糧生産もはかどりませんでした。
小魚、ネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニは貴重な蛋白源であったといいます。
潜水艦による4度の補給はあったものの、
深刻な飢餓が発生し、
終戦までに多数の餓死病死者を出しています。
自殺して戦病死扱いになった兵も少なくありません。
農作物窃盗による処刑や制裁、同士討ちによる死者もありました。
終戦後の1945年(昭和20年)9月17日、
アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、
武装解除が行われ、
9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港。
9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、
26日に全員が下船。
陸軍786名・海軍約840名が復員し、
10月17日に残務処理が完了。
・配備将兵6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、
死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、
生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)。
「高砂丸」
大阪商船の貨客船。
太平洋戦争では特設病院船、戦争終結後は引揚船として運用。
総トン数:9,347トン、9,315トン
純トン数:4,989トン
載貨重量:5,997トン
全長:142.09m
垂線間長:139.99m
幅:18.50m
型深さ:11.60m
高さ:10.6m(水面からデリックポスト最上端まで)
8月15日に終戦を迎えて間もない9月1日、
東京港を出港してメレヨン島に急行。
餓死寸前に陥っていたメレヨン島の陸軍独立混成第五〇旅団を収容し、
10月2日に別府に帰着。
終戦後、
GHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)により
SCAJAP-T014の管理番号を与えられました。
その後は第二復員省の復員輸送艦に指定され、
上海方面からの引揚輸送に任じました。
1949年(昭和24年)からは、
ナホトカからのシベリア抑留兵士輸送に転じ、
ナホトカと舞鶴との間を往復。
1952年(昭和27年)からの中華人民共和国からの引揚輸送にも
「興安丸」(東洋郵船、7,079トン)とともに従事。
なお、
特設病院船としては昭和20年10月5日付で除籍、
1946年(昭和21年)8月20日付で解傭。
その後、
一連の引揚輸送に目処がついた後に因島に係留され、
1956年(昭和31年)3月23日に解体のため名村造船所に売却、
大阪堺港にて解体。
(高砂丸)
1945年9月27日、
この日、
「昭和天皇・マッカーサー会見」第1回会見が行われました。
連合国軍占領下の日本において、
昭和天皇(第1回当時44歳)と
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官:ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(第1回当時65歳)により、
駐日アメリカ大使館で
1945年(昭和20年)9月から1951年(昭和26年)4月まで、
全11回にわたり行われました。
[第1回会見]
1945年(昭和20年) 9月27日、
昭和天皇は在日アメリカ大使館に行幸し、
マッカーサー陸軍元帥と初の会見に臨みました。
会見に同席したのは、
通訳である奥村勝蔵ひとりのみ。
『マッカーサー回想記』によれば、
会見の冒頭で天皇はマッカーサーに勧められた米国製煙草を吸う屈辱と緊張の中、
次のように発言したとされます。
「私は、
国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、
私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」
このような発言をした天皇に対し、
マッカーサーは次のような感想を抱きました。
「私は大きい感動にゆさぶられた。
死をともなうほどの責任、
それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、
この勇気に満ちた態度は、
私の骨のズイまでもゆり動かした。」
天皇発言に感動したマッカーサーは、
天皇への呼びかけを
「You(あなた)」から「Your Majesty(陛下)」に改めました。
国外での反応として、
10月2日付『ボンベイ・タイムズ・オブ・インディア』紙が戦争責任に対する発言を伝え、
「天皇がマッカーサーよりも大きな力を持っている印象を与える」と指摘し、
日本人が占領軍を「天皇の賓客」として受け止めるのではないかと論評。
また同紙は、
連合国側の検閲が機能している中で、
この内容が打電されたことを指摘しており、
公表内容についてマッカーサーが
承認または黙認していたと考えられています。
国内では、
英BBCの報道を逆輸入する形で、
10月3日に各紙が
「聖上、マ元帥を御訪問の模様」と一斉に報じました。
しかし、
戦争責任や答礼訪問のくだりが抜け落ちており、
当時の検閲体制が反映されています。
こうしたことから、
マッカーサーは天皇の戦争責任問題を棚上げしつつ、
円滑な占領のために天皇を「政治利用」することを狙っていたと考えられています。
[第1回会見における昭和天皇(右、165cm)と
マッカーサー陸軍元帥(左、183cm)]
1952年10月10日、この日、
昭和天皇の第四皇女・順宮厚子内親王と池田隆政が結婚。
皇居前広場にはバスツアーの観光客をはじめ5000人が、
高輪の光輪閣前には3000人が詰めかけて厚子内親王を祝福する熱狂ぶりでした。
婚礼には、鷹司和子の時と同じく、
天皇・皇后が揃って参列する予定でしたが、
父天皇は風邪のため出席を断念。
また、
このとき皇后は初めて公の場で和服を着用し、
慶事の話題に花を添えました。
夫妻は婚礼から5日後に寝台列車で岡山に向かいましたが、
東京駅でも盛大な見送りがあり
「もみくちゃにされた」と報じられました。
※池田隆政(1926年10月21日-2012年7月21日)
旧岡山藩主池田侯爵家の第16代当主。
池田牧場を経営。
家畜の改良などを行ないました。
1953年(昭和28年)2月に有限会社池田産業動植物園を経て、
1960年(昭和35年)5月に株式会社池田動物園となり、園長に就任。
池田動物園の園長の他、
日本動物園水族館協会会長、全日本卵価安定基金理事長・全国鶏卵販売農業協同組合連合会会長・日本狆クラブ会長などを務めました。
2012年7月21日13時47分、
肺炎のため岡山県倉敷市内の病院で死去。
85歳没。
※ 池田厚子(1931年3月7日-)
元皇族。神社本庁総裁。
昭和天皇と香淳皇后の第4皇女子。
第125代天皇・明仁(上皇)、常陸宮正仁親王の姉。
第126代天皇・徳仁(今上天皇)、秋篠宮文仁親王の伯母。
(結婚式を終えた直後の池田夫妻。1952年10月10日)

《「爺」「皿婆」…》上皇・上皇后へのネット誹謗中傷の深刻な実態 名古屋大・河西秀哉氏が指摘


美智子さまと上皇陛下 ©時事通信社

美智子さまと上皇陛下 ©時事通信社

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「爺」「婆」「皿婆」などと

秋篠宮家に「裏切られた」

「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2023年11月号

 
皇太子殿下ご成婚
正田美智子様と皇太子殿下ご成婚パレード
昭和34年4月10日
日本中1500万人が世紀のパレードを見守りました
私は当時小学生
小市民の我が家もご成婚パレードを見る為に
小さな白黒テレビを買いました
美しい美智子様
ミッチーブーム
憧れました
品があって慈愛に満ちた微笑み
エレガントなファッション
今も上皇美智子様は日本の誇りですね
1943年10月13日、
この日、
昭和天皇の長女成子内親王(1925年12月6日-1961年7月23日)と
東久邇宮稔彦王の長男盛厚王(1916年5月6日-1969年2月1日、当時は陸軍少佐)が結婚。
第二次世界大戦中であり、
皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われ、
伊勢神宮への参拝のみで新婚旅行もありませんでした。
着用した十二単は、母・香淳皇后のもの。
やがて互いに愛情が湧き、円満な家庭を築き、
1945年(昭和20年)3月10日、
初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産。
盛厚王との間には、
信彦王、
文子女王、
基博(前名、秀彦。壬生家養子。)、
真彦、
優子の5人の子女を儲けました。
5月25日の空襲で鳥居坂の邸宅が焼失したため、
伊香保に疎開。
8月15日の玉音放送に際しては、
涙にくれる東久邇宮家の中で
「さあ、これからですよ」と第1声を発し、
また、今生の別れになると覚悟して、
車で東京に向かい、天皇・皇后と面会。
結婚相手が皇族であったため、
成子内親王もまた皇族のままでしたが、
1947年(昭和22年)10月14日、
東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、
皇室典範第13条の規定により、
自身も夫・盛厚王と同時に皇族の身分を離れ、
以後は、「東久邇成子」と名乗りました。
(結婚式)
円谷特撮戦争映画
昭和19年3月公開の加藤隼戦闘隊
陸軍省が全面協力したプロパガンダ映画で、賛否があると思いますが、円谷の特撮が光ってます。
圧巻はラングーン爆撃シーン
ブルーバックを使用して、逃げ回る人物に爆弾が落ちるシーンは圧巻です
米英から捕獲した戦闘機も使用していて、現役の日米英の実機による空中戦シーンは、現代では実現不可能ですね
実際に加藤建夫隊長の部下からの聞き取り調査から、その実像に迫る内容で、戦闘シーンが中心となった半記録的な映画です
士官搭乗員が宿泊したホテルにクリスマスツリー🎄の飾りがあったり、英語を使った隊長を部下が茶化すシーンもあったりで、戦後の戦争映画とは全くイメージが違います
演じた藤田進さんも、本物の加藤建夫(最後の写真)にそっくりでした
1958年11月27日、
この日、
宮内庁が皇太子・明仁親王と正田美智子の婚約を発表。
ミッチー・ブームが到来。
『ミッチー・ブーム』
正田美智子(当時)が1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて、
日本の皇太子・明仁親王(当時)と婚約して結婚することにより生じた社会現象。
民間出身の女性として初めて、
皇太子との「テニスコートでの自由恋愛」により結婚に至ったこと、
美智子様がカトリックのミッション系大学出身者であったことなどをマスメディアが報道し、
大きな話題に。
これを契機にテレビが普及するなど、
第二次世界大戦後の日本の経済、ファッション、マスメディアなどの領域で、
社会に大きな影響を与え、
女性たちの憧れの的となりました。
(婚約直後の正田美智子)

泳げない15歳の少年兵は「おかあーさん」と叫びながら沈んだ…「戦艦武蔵」生還兵の忘れられない光景 「おれたちをここまで追いつめたものは、何なんだ」

1944年10月、世界最大の戦艦「大和」の姉妹艦「武蔵」は、レイテ沖に向かう途上撃沈された。武蔵が沈んだとき、乗組員たちはどうなったのか。武蔵に乗船し、沈没から生還した渡辺清さんが遺した戦記文学『戦艦武蔵の最期』(角川新書)より一部を紹介する――。

米艦載機の攻撃を受け沈みゆく旧日本海軍の戦艦「武蔵」(=1944年10月、フィリピンのシブヤン海)

武蔵の沈没は寸前に迫っていた

武蔵は甲板にうごめいている乗員の絶望と恐怖を乗せたまま、左側へじわじわと傾いていく。海はそぎたった白い牙をむいて、いつでも呑みこんでやろうと、舷側をくわえこむようにして嚙んでいる。艦べりはもう海面すれすれだ。もはやいかなる処置も、この傾斜を押しとどめることはできないだろう。沈没は寸前に迫っているのだ。

おれはまわりの騒ぎに巻きこまれながら、おぶってきた村尾を急いで三番主砲のわきにおろした。だが、ここまで連れだしてきて見捨てるわけにはいかない。何か手につかまるものをあてがって海に飛びこませてやろう。火にあぶられるように、甲板の上でじりじりと死の瞬間を待っているよりそのほうが楽だろうし、あるいはひょっとして助かるかも知れない。

おれはそう思って、甲板におろしたあともおれのズボンの裾にしがみついている村尾の耳に口をあてて叫んだ。

「ちょっとここで待ってろ、いまなにか探してくるから、いいか、ここを動くな」

だが、村尾はそれでおれに見離されたと思ったらしく、「いかないで、ねえ、いかないで……」と、はげしく顔をふってわめいた。

「ばか、いくもんか、すぐ戻ってくるから……」

甲板をゆるがす轟音が聞こえ、血しぶきが飛んだ

おれはいって、急いで村尾の手をもぎ離した。後部の短艇庫にいけば、壊れたランチかカッターの板切れか何かあるだろうと考えたのだ。村尾の叫び声をうしろに聞きながら、おれは後部にむかって駈け出したが、五、六歩いって、鉄甲板の波よけをまたいだ時だった。

突然、甲板をゆるがすような物凄い音が背後に聞こえた。同時に耳もとをサッと風がかすめた。右舷に移動してあった防舷物が傾斜のあおりをくって転げだしたのだ。その音といっしょに悲鳴があがった。血しぶきが飛んだ。何人かがそれに押し潰されたらしい。

おれは腰をかがめて思わず振りむいたが、見ると、いまのいまそこにおろしたはずの村尾の姿がどこにも見えない。

「村尾ー、村尾、村尾ーッ」

おれは大声で村尾の名を連呼したが、返事がない。

暗くてあわてていたせいもあって、おれもまさかあの防舷物がロープもかけずにおいてあるとは気がつかなかったが、重さ四十貫もある嵩だかの防舷物だ。村尾も、おそらくその下敷きになって海に巻かれてしまったのかも知れない。だが、それ以上、彼の行方をさがすだけの余裕はおれにはなかった。

「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」

艦の傾斜はすでに二十度を超えていた。右舷が大きくせり上がってきているので、ちょうど片屋根の上にでも乗っかっているような感じだ。おまけにそこらじゅうに血糊が散っていて滑るので、立って歩くのがやっとだった。

おれは三番主砲の前に立って、いっときどっちへ出ようか迷ったが、足はしぜんに後甲板にむいた。後部のほうが飛びこむのに比較的安全だという固定観念があったのである。村尾をおぶってからずり落ちていたズボンのバンドを締め直しながら、おれは急いで三番主砲の塔壁を右へと廻りこんでいった。

するとその時だ。ざわめいている後ろのほうから、

「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」

と、人をどかすのを当然と心得たような、居丈高な叫び声が、耳を刺すように聞こえた。

おれは反射的に足をとめて後ろを振りかえった。

見ると晒布で包んだ大きな額をたすき掛けに背中に背負った二人の下士官が、まわりを四、五人の士官たちに守られながら、先頭に立って叫んでいる先任衛兵伍長と衛兵司令の後ろから、傾いたマストの下をこっちにやってくる。それが「御真影」らしかった。

写真1枚を運び出すために甲板は大混乱

武蔵ではふだん「御真影」は右舷上甲板にある長官公室に納めてあった。旗艦をやめて連司(連合艦隊司令部)がおりてからも同じ場所だったが、出撃の際、損傷しては畏れおおいというので、特に下甲板の主砲発令所の中に移した。ここは四方を厚いアーマーで囲ってあって、どこよりも安全だったからである。それをいま艦長の命令でわざわざ下の発令所から出してきたのだ。

「御真影」と聞いて、おれははっとしてみんなといっしょにあわてて道を開けたが、「御真影」の一団は、まるで箒で落ち葉でも掃き散らすように、そこらにおろおろしている兵隊たちを、手を振って押しのけ、突きとばし、甲板を這いまわっている負傷者の頭の上を乱暴にまたぎながら、しゃにむに艦尾のほうへ抜けていった。そのため、それでなくても混乱している甲板は、一層攪乱された。

それを見ておれは、この火急の場合に「御真影」は出さずそっとしておいたほうがいいのにと思った。武蔵も「天皇の艦」である以上、それが「大事な写真」にはちがいないが、写真はあくまでも写真である。生身の天皇でも皇后でもない。それよりも今はできるだけ無用な混乱は避けて、一人でも多くの兵隊が無事に退去できるように考えるのが本当ではないか。

おれはうっかり頭を下げなかった

それにあの二人の下士官だって、命令とはいえ、あのガラス入りの重い額を背負ったまま飛びこんだところで、おそらく自由には泳げないだろう。ひょっとしてあの紙片一枚のために、助かる命も助からないのではないかと思って、おれはうっかり頭も下げなかった。

いまは死ぬか生きるかの瀬戸際、「御真影」どころではなかったのだ。おれは「御真影」の一団をそっけなくやり過ごしておいて、再び後甲板のほうへ急いだ。なにか適当な浮遊物を探そうと思ったのである。

鉄甲板が血のりで滑るので、ときどき四つん這いになって進んだ。おれの前後左右を、やはり同じような恰好でうろたえた兵隊たちが駈けていく。その間をぬって、あっちこっちから、恐怖にかられた兵隊たちの喚き声がひっきりなしに聞こえた。

「沈むぞッ、早く飛びこめ、早く、早く……」
「そっちゃ危ない、渦に巻きこまれるぞ、右へまわるんだ」
「おーい、おれは泳げないんだ。誰か、おい、誰か助けてくれッ」
「タキモトはいないか、タキモト、タキモト……」
「服はぬぐなッ、いいか、着たまま飛びこめ、冷えてしまうぞ……」

舷側から艦内に残っていた角財や道板、マット、釣り床などがつぎつぎに海に投げこまれた。

「お母あーさん、お母あーさん……」

そのあとから兵隊たちが、ぶつかり合いながら転げおちるように飛びこんでいく。しかし角材や道板の数は知れたものだった。すでにその大方を応急作業に使いはたしていたので……。だから退去がおくれてそれにあぶれたものは身一つで飛びこまなければならなかった。そして数からいってもそのほうがずっと多かった。そのため波に呑まれてそれっきり浮かんでこないものもかなりあった。

みんな先を競って飛びこんだが、なかには飛びこむ決心がつかなくて、血相かえてそこらを狂ったように飛び廻っているものもいた。泳げない兵隊たちだった。

艦尾のジブクレーンと旗竿のまわりにも、そういう泳ぎのできない兵隊たちが、途方にくれて一つところを意味もなくぐるぐると廻っていた。大抵まだ入団して日の浅い十五、六歳の少年兵だった。

戦局が逼迫ひっぱくしていたので、彼らは海兵団でも泳法はほとんど教えてもらえなかった。ただ短期の速成教育をうけただけで、そのまま艦に送りこまれてきたのだ。そのうちの三、四人が、肩をくっつけ合って斜めに傾いた旗竿にしがみついて叫んでいる。

「お母あーさん、お母あーさん……」

おれたちをここまで追いつめたやつは、誰なんだ

声がわれたように咽喉にからんでいるのは涙のせいだろうか。恐怖に舌がひきつれているせいだろうか。暗くてよくわからないが、その顔はおそらく真っ青に凍りついているにちがいない。額には脂汗がぶつぶつ玉になって吹いているにちがいない。

おそろしい死を前にして、彼らの最後のよりどころはおっ母さんだ。ほかの誰でもない。たった一人のおっ母さんだ。だが、そのおっ母さんはここにはいない。おっ母さんは遠い遠い遙かな海の向こうだ。いくら呼んでも叫んでも海の向こうのおっ母さんには聞こえはしない。とどきはしない。だが、それでもやはり母を呼ばずにはいられないのだ。

「お母あーさん、母あちゃーん、母あちゃーん……」

おれは彼らのそばを駈けぬけたが、どうしてやることもできなかった。手ひとつ出してやることもできなかった。ひと声、声をかけてやることすらも……。おれは自分のことしか考えていなかった。自分のことだけで精一杯だった。

 

渡辺清『戦艦武蔵の最期』(角川新書)

それにしてもおれたちをここまで追いつめたやつは、一体誰だ、誰だ、誰なんだ……。突然、はじけるような激しい怒りが、胸いっぱいに突きあげてきた。それを誰にむけていいのかわからなかったが、おれは口の中でのろい声をあげつづけた。

彼らはきっと旗竿にしがみついたまま、艦と運命をともにしてしまうだろう。海中にひきずり込まれてしまうだろう。そしておそらく暗い海底に引きずりこまれていきながらも、なお声をかぎりに母の名を呼びつづけているにちがいない。

のどを裂くような彼らの叫び声は、いつまでもおれの耳について離れなかった。


1946年12月5日、
この日、
樺太からの引揚げ船第一号「雲仙丸」が函館港に入港。
『雲仙丸』
日本郵船の貨客船。
総トン数:3,140トン
純トン数:1,711トン
載貨重量:1,991トン
全長:92.54m
垂線間長:92m
型幅:14.5m
型深さ:7.4m
主機関レンツ式レシプロ機関 1基
推進器:1軸
出力:3,072IHP
速力15.85ノット
・旅客定員
一等:9名
二等:40名
三等:347名
三菱重工業横浜船渠で建造され、
1941年(昭和16年)8月5日に起工。
1942年(昭和17年)3月16日に進水し、
同年10月10日に竣工。
本船は当初、
門司 - 大連航路に就航する予定でしたが、
竣工後は船舶運営会使用船として徴用され、
門司 - 上海航路で輸送任務に従事。
自衛として、
四十口径安式8cm砲1門、爆雷4個を装備。
1943年(昭和18年)中頃から、
新潟 - 羅津航路に転じて運航されましたが、
同年10月1日、18時10分ごろ、
日本海を航行中、潜水艦の襲撃を受け右舷中央部に魚雷が命中しましたが不発だったため、
被害は機関室へのわずかな浸水のみで、
本船は全速で離脱、翌朝、羅津に無事入港。
本船襲撃の4日後には、
関釜連絡船崑崙丸が攻撃を受け沈没、
多数の犠牲者を出しました。
その後、
一時的に新潟 - 樺太航路に転配され、
新潟 - 羅津間の航路に復帰、敦賀 - 清津航路にも就航。
1944年(昭和19年)9月29日から10月27日にかけて、
軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍臨時配当船(AC船)となり、
ミ23船団に加わっています。
1945年(昭和20年)6月23日、
境港の港外で仮泊していた本船は、
24日未明に抜錨しましたが直後に触雷、
シャフト貫通部から浸水。
浸水は水密扉の閉鎖により食い止められ、
本船は境港で乗客を下船させた後、
敦賀港で貨物を揚陸、
修理のため富山港の日本海船渠工業へ向かいましたが、
回航の途中、
能登半島西岸の羽咋市の砂浜に乗り揚げました。
約2週間後、自力で離洲し、修理を受け、
1945年の終戦時には、
敦賀 - 清津 - 羅津航路に就航。
終戦後は
GHQの日本商船管理局により、
SCAJAP-U014の管理番号が付与。
本船は引揚船となり、
1945年(昭和20年)9月には舞鶴港から朝鮮半島への引き揚げ者800人を乗せ釜山港へ。
釜山港からは日本への引き揚げ者2,135人を乗せ引き上げ船として初めて博多港へ入港。
また同年10月7日には舞鶴港に引揚者を送り届けました。
1946年(昭和21年)12月5日には、
樺太からの第一陣を乗せて函館港に入港。
ナホトカ、釜山などから4航海を行い、
合計4,745名が本船で帰国。
1949年(昭和24年)4月に徴用を解除され、
1950年(昭和25年)4月から釧路 - 東京航路に就航した。
1954年(昭和29年)8月20日、運輸省航海訓練所の練習船銀河丸(初代)となった。
1973年(昭和48年)1月、
新設された海洋技術開発学校で係留練習船となり、
1974年(昭和49年)5月14日、
係船されていた上甑島から多度津町の宮地サルベージ多度津船舶解体場へ曳航され、
その後、解体。
(雲仙丸)

真珠湾攻撃を裸の王様と看破した中学生・笠原和夫(仁義なき脚本家)

今から80年前――昭和16年(1941年)の12月8日。

南雲忠一率いる機動部隊がアメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島にある米軍基地を奇襲しました。

ご存知、真珠湾攻撃です。

世界中に衝撃を与えたこの奇襲。

アメリカ本土でも様々な反応がありました。

その詳細は以下の記事にお譲りさせていただくとして、

 

それでは日本での反応はどうだったのでしょう。

過去の戦争話ともなりますと、すでに結果が見えていることもあり『強引な判断を押し進めたのは一体誰なんだ』となりがちですが、逆に結果が見えてない人にとっては様々な思いを抱くシチュエーションであります。

当時の庶民はアメリカへの攻撃をどのように考えていたか。

中には、まだ中学生ながら「敗戦をハッキリと予感していた」笠原和夫氏のような人物もおりました。

開戦を喜ぶ人々「ついにこの日が来た!」

奇襲を受けたアメリカが激怒していた頃。

日本では『アメリカとも戦争を始めて、我々の未来は恐ろしいことになる……』なんて声は少数派で、むしろ『ついにこの日が来た!』と喜ぶ人たちが大勢いました。

例えば、徳富蘇峰、太宰治、正宗白鳥、長与善郎、伊藤整、上林暁といった作家たち。

彼らは、真珠湾攻撃を感動と共に受け入れました。

もちろん相応の理由はありました。

徳富蘇峰/国立国会図書館蔵

当時、日本は国際的に孤立していました。

昭和8年(1933年)に国際連盟脱退を表明してからというもの、世界中から圧迫感で包まれているような状況。

ゆえに、真珠湾攻撃は「虎の尾を踏んだ」というより、むしろ「閉塞感が打破された!」と考える人が多かったのです。

「ついにこの日が来た」というのは、戦争自体を賛美しているのではなく、苦境を打破するキッカケになるのではないか、という期待感だったんですね。

町ゆく人々はラジオを聞き入り、頰を紅潮させていました。

感極まって涙をこぼし、「僕の命も捧げねばならぬ」と思った坂口安吾のような人もいたのです。

かくして庶民の日常生活も急速に変貌しつつありました。

『もうこれからはアメリカ映画を見られなくなる』

太宰治は銭湯からの帰り道、驚きます。

灯火管制を受け、急に道が暗くなったのです。

戦争が始まったとはいえ、いくらなんでも暗すぎるのでは?と感じました。

作家の野口冨士男は『もうこれからはアメリカ映画を見られなくなる』と思い、映画館へ向かいました。

軍監マーチがけたたましく流れ、映画の音声をかき消さんばかりの中、彼はなんとか俳優の口から台詞を聞き取ろうと努力しました。

幸田露伴は、真珠湾攻撃で命を落とした若い男性たちのことを思い、涙をこぼしながら娘の文に語りかけました。

「考えてもごらん、まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それが、暁の暗い空へ、冷や酒一杯で、この世とも別れて遠いところへ、そんな風に発っていったのだ、なんといっていいか、わからないじゃないか」

そして笠原和夫という名の中学生は、

『アメリカと戦争したって、勝てるわけがない』

と冷静に考えていました。

「アメリカに勝てるわけない」とは言えるわけない

映画好きの笠原和夫は、日頃からアメリカ映画を鑑賞し、日米の国力差を子供ながらに痛感していました。

『どうやったら勝てると思えるんだ……』

とはいえ中学生の笠原少年に、そんなことを大きな声で言えるわけがないとも認識していました。

笠原少年は、後に『仁義なき戦い』シリーズで知られる脚本家になります。

そして後年になってようやく「映画好きの中学生にもわかることを、なぜ偉い大人がわからなかったのか」と当時を振り返っています。

この笠原少年の経験は『裸の王様』を連想させます。

あのころ日本で

【この戦争は負けるんじゃないの?】

と、表明することは、

【王様は裸だ】

と言うよりはるかに難しいものでした。

王様が「バカには見えない服」を着ていたように、真珠湾攻撃に感動していた大人の目には、日本という国が何か特別なものでも纏っているように思えたのでしょう。

当時44才の作家・横光利一は、こう記しています。

「先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことがついに顕れてしまったのである」

外遊時代に毎晩パリで、伊勢神宮に向かって祈っていた効果が出た、と。

こうした神がかり的なものが、笠原少年には見えない「特別なもの」であったのでしょう。

後世の人間が、真珠湾攻撃後に昂揚する人々のことを振り返ると『一体なぜか?』と疑問を感じるかもしれません。

そこには、当時の人には見えた「特別な何か」があり、かつ人々が実は追い詰められていたことを、考慮する必要があるのでしょう。

真珠湾攻撃のときアメリカ本土の米軍人たちはアメフトを観戦中

1941年12月8日は真珠湾攻撃の日。

ルーズベルト大統領が事前に知っていたかどうか――いわゆる「陰謀論」はワタクシのライフワークでもありますが、ともかく多くのアメリカ人にとって真珠湾攻撃は寝耳に水でした。

確かにキナ臭い動きはあったものの、一応は平和だった日常生活が、この日を境にガラリと大転換してしまったのです。

日本側が決死の思いで敢行した真珠湾攻撃当日も、直前までアメリカ本土は呑気なものでした。

 

そのとき東海岸はお昼時 アメフトで大盛り上がり

真珠湾奇襲はハワイ時間の1941年12月7日午前7時55分に始まりました。

諸説ありますが、現在のアメリカ側では、この時間をもって開始したとなっています。

時差がある分、各地で様々な展開となります。

日本では8日午前3時10分。

では、ルーズベルト大統領など政権の要人がいたであろう東海岸は何時だったのか?

答えは7日の午後12時55分です。

要するにお昼時だったのですね。

もっとも、世間の注目はと言うと、恐らくその直前まで、あるイベントに向いていた。

ちょうどこの日、ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)で3試合が行われていたのです。

70年以上の歳月を経た今、当時の様子をサラリと報じているのはNFL殿堂のHP。

当日の組み合わせは、

ニューヨークのポロ・スタジアム

【ブルックリン・ドジャーズvsニューヨーク・ジャイアンツ】

◆ワシントンのグリフィス・スタジアム

【ワシントン・レッドスキンズvsフィラデルフィア・イーグルス】

◆シカゴのコミスキー・パーク

シカゴ・ベアーズvsシカゴ・カーディナルズ

上記の3試合でした。

 

スタジアムに緊急放送「将軍は急いでお帰り下さい」

そのタイミングでハワイへ現れたる南雲機動部隊。

当時、場内ではアナウンサーが実況中継を流すというサービスを行っていたそうですが、中断されたのは言うまでもありません。

「場内でご観戦中の軍人の皆様、お手数ですが直ちに所属部隊へご連絡下さい!」

そんなアナウンスが流れまくり、詰めかけた観客は「えっ、何? 何が起きたんだ?」と騒然となったと言います。

当日の様子を生々しく回想するのは、アメフトファンのヘイゼル・ヘイトさん。

1991年にアメリカのUSAトゥデー紙(→link)の取材に、こう答えています。

その日も、御本人は何時もの試合でそうするように、お気に入りの席に座って観戦する積もりでした。そこにけたたましく、かつ不吉なアナウンスが。

「A将軍にB将軍、どうか職場まで御連絡を……X提督にY提督、どうか職場まで御連絡を」

ちなみに、試合開始は午後2時からだったそうで、要するに球場を開門して観客を入れていた頃のアナウンスだったのですね。

軍人のファンにしたら、ちょっと寒い中を早めに行って、選手の練習している所に声をかけてコミュニケーションでも図ろう。

それでもって、場内の売り子にホットコーヒーとハンバーガーなんかを頼み、くつろぎながら、さぁ試合観戦……となるところです。

こういう世間の一大事の常に漏れず、まず第一報を知らされるのは将軍とか提督のエライさん。

下っ端の兵隊さんが知らされるのはずっと後というのはお約束です。

ただし、この時ばかりはいささか事情が異なります。

なんせ試合開始の数分前に海軍省が「真珠湾攻撃さる!」という知らせを正式に受けたのですから、大騒ぎの始まりとあいなりました。お偉い方も下っ端も四の五言ってる時間はありません。

政治家センセイたちに知らされたのも、試合開始の数分前だった模様。

ちなみに球場内の記者席電光掲示板には【奇襲の第一報】が表示されていたそうです。

落ちこぼれ記者の成れの果てとは言え、こうした展開がどんな感じだったかぐらいは、手に取るように分かります。

けたたましくなる固定電話の向こうから、本社の同僚等が絶叫。

「もうそっちはどうでもエエから、本社に戻って来て号外作り手伝ってくれや! 試合の取材? あぁもう、そんなもん通信社の記事使うがな、通信社の記事を! 分かるやろうが! こんなんなってもたら、載せるスペースがあったかって、せいぜい4〜5行じゃ」

おそらくそんな感じだったでしょう。

一般人だったヘイトさんは、他の善良な2万7000人の観客同様「えっ、一体全体どうしたのよ」と呆然。

「何しろさ、そこら中の席が全て空いてしまったのよ。凄い事が起きたってのだけは分かったけど、中身について知ったのは試合後だったわね」

そう語っております。

なお、試合の方はつつがなく?終わり、レッドスキンズが20対14でイーグルスを下しました。しかし……。

プレーオフを決めた選手たちは翌日の新聞に呆然

可哀想なのが出場選手達です。

以下「スポーツ今昔」(Sports Then and Now)というサイトの話を読むと、気の毒過ぎて泣けてきます。

チームによっては、この日がシーズンの決着を付ける重要な日。つまり、プレーオフがかかった決戦日だった所もあったのです。

本来なら「NFLプレーオフに✕✕(チーム名)進出」てな見出しで、それなりに報じられるはずだった……。

「それなりに」と断ったのには理由があります。

当時のNFLは、現在ほどの人気が無かったのです(有名なスーパーボウルは1967年から)。

テレビは殆ど普及してなかったので、中継と言えばラジオ。それ以外の人は、直に見る以外ありませんでした。

まぁ、だからこそ選手にしたら目立ちたいって思いがあった事でしょう。

さて、当時6チームの順位はどうだったのか。

まず、地区優勝しプレーオフ出場が決まっていたのはニューヨーク・ジャイアンツ。そして、もう1つの枠を賭けて戦っていたのが、シカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズでした。

書くのもアレなんですが、ヘイトさんが応援しようとしていたレッドスキンズ対イーグルス戦だけが「来季こそ!」以外のモチベーションが見当たらない試合。

であるならば、余計に、双方のファンの熱き声援こそが必要なはず。

それが試合会場ガラ〜ンとなってしまったのですから選手の心中いかばかりか。

普通に考えて最も気の毒そうなのがシカゴの試合でしょう。

双方にとって譲れない展開な所なのに、ファンだって「ここで気合い入れて応援せずして、ファンと名乗れるかい!」と必死のパッチ(©矢野燿大)で応援したかった筈。

あぁそれなのに……アナウンス入りまくり。

「軍人の皆様、配属先に御連絡を」との叫びが、シカゴのコミスキー・パークに鳴り響いたのです。

「エエ所やのにのぅ」と、渋々席を立ち、公衆電話で順番待ちする兵隊さん。

列の前の人が「何ですって!? はい、直ちに!」と叫ぶなり、受話器を置いて疾走した事は想像に余りあります。

ちなみに、試合は34対24でベアーズがカーディナルズを破っています。ベアーズファンの軍人さん、ご愁傷様です。

なお、ウィキペディアの英語版(→link)によると、チャンピオンシップ決定戦は12月21日に開催。

真珠湾奇襲の2週間後(現地時間)に行われました。

試合は37対9でベアーズの勝ち。

ファンにとっては快哉を叫ぶべき試合だったのでしょうけど、観客数は1万3341人とふるわず、当時のタイトル戦では最低だったそうです。

まぁ、平時と変わらずイベントを開催している事自体が驚異的かもしれませんが。

 

気の毒な選手筆頭タフィー・レイズ

そうした気の毒な選手の筆頭にいたのが、ニューヨーク・ジャイアンツのフルバックを務めていたタフィー・レイズでしょう。

先の殿堂のページによると、球団側は長年の活躍を称え、この7日を顕彰デーにしていたのです。

本名はアルフォンス・エミール・レーマン。1912年生まれでしたので、選手としては当時円熟期です。

1936年にジョージ・ワシントン大学の選手としてカレッジ・オールスターでMVPに輝いています。

休暇中だったジャイアンツのオーナーの息子さんが、たまたまワシントン大学とアラバマ大学戦の試合を見ていて「凄い選手がいるよ! ジャイアンツで是非とも取って」と懇願したという逸話があります。

アメリカン・ドリームを体現したようなエピソードですね。実際。同年のドラフト2巡目でジャイアンツに入団しています。

そして入団1年目から大活躍でした。

何しろ、この年だけで830ヤードを駆け抜け、ルーキーとして唯一、オール・リーグ・チームに選ばれていたほどです。

ディフェンスに優れていた選手だったそうで、ジャイアンツが毎年のように優勝争いが出来たのもレーマンの存在があればこそ。

実際、1938年には優勝しています(ちなみに、殿堂には彼の活躍ぶりを紹介したページがあるぐらい)。

で、この日は「タフィー・レーマンズ・デー」を設定していたわけです。

銀のトレーと時計と1500ドルの戦時国債を贈呈し、ファンともども盛り上がるはずだったのですが……。

ちなみに、こちらにはウィリアム・ドノバン大佐が観戦していました。

戦後、CIAを創設したアメリカ情報機関の父とも言える存在ですが、勿論、呼び出しを受けています(→link)。

思いっきりケチがついた格好ですね。

それが祟って1941年の優勝をシカゴ・ベアーズにさらわれていったのかもしれませんな。

タフィー自身は1943年に引退しますが、2年前の日をどう思いながらフィールドを後にしたのでしょうか?

 

フィールドから戦場に1000人が出征した

戦争の始まりは、選手達を押し流していきました。

先のスポーツ今昔(→link)によると、第二次世界大戦中に戦地に旅立っていった選手は約1000人いたそうです。サイトの方ではリスト化しています。

その全部を紹介する訳にはいきませんが、12月7日のポスト・シーズン進出を賭けたシカゴ戦の両チームの選手の「その後」を、サイトでは紹介しています。

奇しき縁というか、何人かは太平洋戦線に配属されているのですね。

カーディナルズのマーシャル・ゴールドバーグは翌年もチームで活躍しましたが、43年に1試合だけ出場後に応召。

南太平洋に、海軍軍人として任務に就いています(ウィキペディアの英語版によると大尉にまでなったそうです)。

選手生命を絶たれるような大怪我もせず、46年に復帰して優勝に貢献、48年に引退していました。

沖縄戦に参加したのが、ベアーズのヒュー・ガラニューです。

翌年の優勝に貢献後、海兵隊に入隊。少佐にまで昇進し、航空警戒部隊の一員として戦いました。45年にはベアーズに復帰し、優勝に貢献しています。

戦死してしまった人も、当然います。

ベアーズのヤング・ベッシーがその一人ですね。1940年に入団すると、ディフェンシブ・プレイヤーとして活躍し、41年には5回のタッチダウンを決めています。

翌42年に海軍に入隊、大尉に昇進しますが、1945年1月のフィリピンのリンガエン湾での戦いで命を落としました。

なお、戦死したのは両球団の選手だけではありません。

ジャイアンツのジャック・ラマスとグリーンベイ・パッカーズのハワード・スマイリー・ジョンソンは、それぞれ硫黄島での戦いで散華しています。

なお、硫黄島で亡くなったのは選手だけではありません。

カーディナルズでコーチをしていたジャック・チェブゲニーも、その人です。

中には、遂に花開く事無く亡くなっていった人もいます。

こちらはニール・キニックが典型と言えましょう。

1940年のドラフト2巡目でブルックリン・ドジャーズに指名されたものの、これを蹴ってアイオワ大学のロースクールに進み、真珠湾奇襲の3日前に海軍に応召。

戦闘機のパイロットとして訓練中の43年に事故死しています。

こうして命を落とした選手は23人にのぼり、coldhardfootballfacts.comというサイトで哀悼されています。

当たり前ですが、やはり戦争は絶対に避けなければなりませんね。

戦時中の軍と新聞がついた嘘がめちゃくちゃだ 書評『大本営発表』

ご年配の世代には「嘘八百」の代名詞にもなっている“大本営発表”という言葉。

同テーマを一冊にした関連書籍は数多く世に出まわっていますが、元新聞記者の目から見て「素晴らしい……」と嫉妬してしまうのが本書。

『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)』(→amazon)です。

著者の辻田真佐憲氏は慶應義塾大学出身の近現代史研究家として2011年にデビュー。

あの東日本大震災のあった年ですね。

福島の原発事故によって安全神話が崩壊し、それに伴ってこんな疑念が国民の間に湧き上がりました。

メディアは電力会社からの膨大な広告費を受け取って「原発は安全」というイメージ操作の片棒を担いできたのではないか。

それって大本営発表じゃないの?

実際、本書によると、2011年には「大本営発表に関する文献や記事が急増した」そうで。

国立国会図書館のウェブサイトでも

「戦後最多のヒット数が確認できる。そのなかで、報道機関は、経済産業省、原子力安全・保安院、東京電力などとと並んで『大本営発表』の発信源だと批判されている」(同書263ページ)

との事です。

そう、全編を通じて奏でられているのは、嘘をこきまくった陸海軍に追従した報道機関のだらしなさ。

「今でも通じるんじゃないの?」という危機意識は世間に共有されて欲しいと思います。

「大本営と記者会とは、とけあつて一体となり」

私が特に衝撃を受けたのは、当時の新聞関係者などの間で、大本営発表が

「朝刊」
「夕刊」

などと呼ばれていた箇所でした。

海軍報道部の富永謙吾少佐が、戦後の書籍で回想したエピソードを典拠としています。

新聞記者「今日は夕刊が出ますか」

報道部員「出してもいいが、締切に間に合いそうにないからやめよう。その代わり明日の朝刊は三本だよ」(64ページ)

次のページには読売新聞の藤本弘道(陸軍担当)が戦時中に出版した「戦ふ大本営陸軍部」の、こんな箇所が引用されています。

「報道を生命として働く大本営陸軍報道部と陸軍省記者会とは、とけあつて一体となり、主柱の一翼となつて、報道戦線を身をもつてかけまはつて努力しているのです」

こういうのって、ズブズブって言いますわな。癒着と言い換えてもええでしょう。

新聞社は、こうした黒歴史を封じたばかりではなく、戦後は「軍部の弾圧で仕方なく筆を曲げた」と弁解しているんですから、いやはや日本の新聞業界ってすごいですね(棒読み)。

ちなみに、当時の速報メディアに美味しいところを全部持っていかれてはかなわん、面子丸つぶれやがな、と新聞側から軍部に働きかけて止めさせていた事もあったそうです。

軍部と新聞は主従関係にあったのではなく、ムラ社会の関係にあったのですね。

読者である国民は、そんなところから情報を買っていた、と。

嘘つくだけでなく、だんまりも決め込んで

ワタクシメが再び衝撃を受けたのは、1942年6月のミッドウェーの敗戦以後の迷走ぶり。

この負けを機に、発表回数がガクンと落ちたのです。

1941年12月(つまり真珠湾奇襲のあった月)は月間90回も発表していたのが、1942年には

6月9回
7月7回
8月2回

と目に見えて減っていきます。

ヤバくなると黙り込む人を見かけますが、組織でも同様ですね。

さらには同年10月のサボ島沖海戦(日本側が重巡洋艦1隻 、駆逐艦1隻沈没 重巡洋艦1隻大破 重巡洋艦1隻小破 他に退却支援中に駆逐艦2隻沈没=以上、ウィキペディア日本語版を参照)は、そもそも報じられなかったと、同書では指摘しています。

嘘をつくだけでなく、だんまりを決め込むなんて酷い……。

翌年のガダルカナル島での敗退による撤退を「転進」と言い換えます。

そして「玉砕」という言葉…。

こういう言い換えが横行・跋扈していく経緯が本書には詳しく書かれており、読んでのお楽しみ(というより悲しみですね)として下さい。

巻末の、大本営発表の戦果と実際の戦果の比較表は、特に出色です。

文字が小さい表を見やったワタクシメは、気がついたら目から涙が出ておりました。

老眼のせいだけでないのが悲しい。

広島と長崎の被爆者3万人を救ったスイス人医師マルセル・ジュノー

昭和20年(1945年)8月6日は、広島に原爆が投下された日。

その3日後、8月9日の長崎と同じく、誰しも粛然とした気持ちになる日でありましょう。

そうした中でスイス赤十字が、当時の広島と長崎の被爆者の治療に奔走したスイス人を顕彰し、注目を集めています。

swissinfo.chの記事(→link)を紹介してみましょう。

マルセル・ジュノーという人物が、その人。

原爆が落とされた広島を最初に訪れ、治療に当たった外国人医師でした。

投下直後に初めて現地入りした外国人医師

マルセル・ジュノーは1904年、スイスのヌーシャテルに生まれ。

外科医として修行を積んだ後、1935年に国際赤十字委員会(ICRC)に参加しました。

折しも、世界的に戦争の嵐が吹き荒れそうになっていた時代です。

国際赤十字としても、対応を巡り模索するしかありません。

そして同年1935年に、早くも最初の出番が巡って来ます。

第二次エチオピア戦争で、戦地に足を踏み入れたのです。

以後、1936年からはスペイン市民戦争でも治療に赴き、やがて第二次世界大戦に直面。

欧州と日本の戦場の両方を直に見た数少ないヨーロッパ人でもありました。

広島への現地入りは1945年9月13日ですので、投下から1ヶ月少々だった頃です。

通訳を務めた丸山幹正氏(後に『ドクター・ジュノーの戦い(→amazon)』という伝記を出版)によると、広島で精力的に治療活動を行いました。

当時、広島では大勢の被爆者が治療を必要としていて、「治療で2万人から3万人の命が救われた」(丸山氏)とのことです。

任務外の活動で人命救助をマッカーサーに直談判

興味深いのは、国際赤十字委員会の任務として、こうした被爆者の治療は想定されていなかった事でしょう。

元々来日したのも、日本国内における連合軍捕虜の処遇実態を調査するのが目的だったからです。

ちなみに、東京着が1945年8月9日でした。

事態を知ったマルセル・ジュノーは同僚と共に、降伏後に進駐したGHQへ直談判。

医療とロジスティックスが必要だとダグラス・マッカーサーを説き伏せます。

広島の凄まじい惨状を、本国に電報でも知らせました。

マッカーサーは、ジュノーに15トンの医療物資の供給します。

空輸しながら治療活動を支援する事も約束。

日本人の放射線医師や、アメリカ人の医師を連れて広島入りするなど、組織のオーガナイジングをする力にも長けていた人でした。

息子のベノイト・ジュノーさんは、後にこう回想しています。

「父は5日間、広島にいました。本当に混沌としていた中で、被爆者の治療を直に行ったのです」

日本赤十字社のKiyoshi Eouchi(すいません、調べて見たのですが日本語での綴りが分からなかったので、このまま載せます)氏も継のように絶賛しています。

「こうした膨大な量の医療物資が、生き残った人達にどれだけの希望となったか……。今となっては想像がつかないほどです」

彼の行動はそれだけにとどまりませんでした。

1946年に帰国後、広島での惨状を証言しようと、執筆に取りかかったのです。

帰国後、原爆の恐ろしさを本に綴る

執筆作業を終えると、翌年に書籍を出版。

ベノイトさんによると、広島の原爆がもたらした影響について、一冊の本として最初に触れたのはマルセルだったろうとの事です。

「当時のアメリカは、この問題を検閲していました。アメリカで最初に報道したのはジョン・ハーシーというジャーナリストでしたが、1946年9月でした」(ベノイトさん)

中立国のスイスだからこそ出版可能だったのでしょう。

国際赤十字委員会では、マルセル・ジュノーの人道援助のパイオニアとして戦地で活躍した功績は記憶に留められて然るべきだとしています。

「極端なまでに仕事に打ち込む人でした。国際赤十字社には、一時的に参加するだけだったのが、一生の仕事となったからです」

そう話すのは、国際赤十字社で国際法とコミュニケーションの担当責任者であるフランシス・バグニオン氏。

「彼の行動が、今日の医師団派遣のモデルになったのです。我々の医師団には、あらゆる意味でジュノーの精神が宿っているのです」

 

広島平和記念公園に顕彰碑

1961年6月16日、心臓発作で世を去りますが、こうした活躍を称え、1979年には広島平和記念公園に顕彰碑が建てられたほどです。

また、1990年から毎年6月に追悼式展が行われています。

2015年の70周年のときには、この顕彰碑を基にした記念碑のお披露目式が行われたそうです。

広島平和記念公園にある顕彰記念碑/wikipediaより引用

なお、ウィキペディア日本語版(→link)によると、在日朝鮮人の帰還事業に関連し、赤十字国際委員会から日本への使節として、8月23日に来日して、岸信介首相、藤山愛一郎外相らと会見。

日本政府の帰還調整委員会にオブザーバーとして出席するなど、約1ヶ月間日本での業務にあたったとあります。

碑はあっても、多くの日本人にはおそらく無名であろうマルセル・ジュノー。

機会があれば、顕彰碑に献花しても良いかもしれません。

12月8日は太平洋戦争勃発の日、我が町にある針尾送信所より暗号が発令された3本の塔、本年9月には百年振りに基礎部分が掘り起こされ一般公開、維持管理も行き届いており何時でも見学可能、二度と起こさない戦争を願っております、写真に一部は借り物ですがそれ以外は現地実写です

「トラ!トラ!トラ!」
12月8日ということで
「トラ!トラ!トラ!」を見ました。
我、奇襲に成功せり 日米は泥沼の戦争に突入しました。戦争は嫌だけど、映画としてはよく出来ていました。
1941年12月8日、
この日、真珠湾攻撃。
日本が米に宣戦布告。
太平洋戦争(大東亜戦争)における南方作戦の一環として、
イギリスに対するマレー作戦開始(太平洋戦争開戦)に次いで実施。
当初はマレー作戦と「同時」の予定でしたが、
一部の練度の低い戦隊に暗闇の中で編隊を組ませる危険を避けるために夜明けを待ち、
攻撃予定が1時間半繰り下げられたため。
すでに日中戦争(支那事変)を戦っていた日本は
中華民国を含む英米・オランダなど連合国との全面戦争に突入。
戦闘の結果、
アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失。
開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、
側面から南方作戦を援護するという作戦目的を達成。
『真珠湾攻撃(Attack on Pearl Harbor)』
日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、
第二次世界大戦において日本海軍が、
アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあった
アメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、
航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による奇襲攻撃。
当時の日本側呼称は、
布哇比(ハワイ)海戦、布哇比(ハワイ)作戦。
[日本軍]
・機動部隊(指揮官:第一航空艦隊司令長官南雲忠一海軍中将)
⚪︎空襲部隊(指揮官:第一航空戦隊司令長官)
▪️第一航空艦隊(第四航空戦隊、駆逐隊欠)
-第一航空戦隊:空母「赤城」、「加賀」
-第二航空戦隊(司令官:山口多聞海軍少将):空母「蒼龍」、「飛龍」
-第五航空戦隊(司令官:原忠一海軍少将):空母「瑞鶴」、「翔鶴」
⚪︎警戒隊(指揮官:第一水雷戦隊司令官大森仙太郎海軍少将)
▪️第一水雷戦隊(3個駆逐隊欠)
-軽巡洋艦「阿武隈」
-第一七駆逐隊:駆逐艦「谷風」、「浦風」、「浜風」、「磯風」
▪️第十八駆逐隊:駆逐艦「陽炎」、「不知火」、「霞」、「霰」
▪️駆逐艦「秋雲」
⚪︎支援部隊(指揮官:第三戦隊司令官三川軍一海軍中将)
▪️第三戦隊(第2小隊欠)
戦艦「比叡」、「霧島」
▪️第八戦隊(司令官:阿部弘毅海軍少将)
重巡洋艦「利根」、「筑摩」
⚪︎哨戒隊(指揮官:第二潜水隊司令今和泉喜次郎海軍大佐)
▪️「伊号第一九潜水艦」、「伊号第二十一潜水艦」、「伊号第二十三潜水艦」
⚪︎補給隊(指揮官:「極東丸」特務艦長大藤正直海軍大佐)
▪️第一補給隊
給油艦「極東丸」、「健洋丸」、「国洋丸」、「神国丸」
▪️第二補給隊
給油艦「東邦丸」、「東栄丸」、「日本丸」
・先遣部隊(指揮官:第六艦隊司令長官清水光美海軍中将)
⚪︎特別攻撃隊
▪️「伊号第十六潜水艦」、「伊号第十八潜水艦」、「伊号第二十潜水艦」、「伊号第二十二潜水艦」、「伊号第二十四潜水艦」
▪️特殊潜航艇5隻
航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機
→ 特殊潜航艇4隻沈没
特殊潜航艇1隻座礁
航空機損失29機
航空機損傷74機
戦死64名
捕虜1名(酒巻和男海軍少尉)
[アメリカ軍]
・太平洋艦隊 - 司令長官:ハズバンド・キンメル海軍大将
⚪︎第1戦艦隊(アリゾナ、ネバダ、オクラホマ)
⚪︎第2戦艦隊(ペンシルベニア、カリフォルニア、テネシー)
⚪︎第4戦艦隊(メリーランド、ウエストバージニア)
⚪︎第6巡洋艦隊(ニューオーリンズ、サンフランシスコ)
⚪︎第9巡洋艦隊(フェニックス、ホノルル、セントルイス、ヘレナ)
⚪︎第1駆逐艦隊(軽巡洋艦:ローリー)
▪️第1駆逐戦隊(駆逐艦:フェルプス)
-第1駆逐隊(デューイ、ハル、マクドノー、ウォーデン)
-第2駆逐隊(ファラガット、デイル、モナハン、エールウィン)
▪️第3駆逐戦隊(駆逐艦:セルフリッジ)
-第5駆逐隊(リード、カニンガム、カッシン、ダウンズ)
-第6駆逐隊(カニングス、ケース、ショー、タッカー)
▪️第2駆逐戦隊所属(軽巡洋艦:デトロイト、駆逐艦:バッグレイ、ブルー、ヘルム、マグフォード、ラルフ・タルボット、ヘンリー、パターソン、ヘルム)
⚪︎補助駆逐艦隊所属(アレン、シュレイ、チュー、ワード)
⚪︎附属(掃海艇:コカトゥー、コンドル、貨物補給艦:ベガ)
⚪︎潜水艦隊(潜水母艦:ペリアス、潜水艦救難艦:ウィジオン)
▪️所属潜水艦(ナーワル、カシャロット、トートグ、ドルフィン)
▪️附属(雑役艦:アルゴンヌ、給兵艦:パイロ、需品補給艦:アンタレス)
⚪︎第1機雷敷設艦隊(駆逐艦母艦:ホイットニー)
▪️所属(敷設巡洋艦:ボルチモア、オグララ、敷設駆逐艦:プレブル、ギャンブル、ラムゼイ、モンゴメリー、トレヴァー、ペリー、給油艦:ネオショー)
⚪︎第2機雷敷設艦隊(駆逐艦母艦:ドビン)
▪️所属(敷設駆逐艦:トレイシー、ブリース、シカード、プルイット、ゼイン、ワスマス、砲艦:サクラメント、給油艦:ラマポ、掃海艇:リードバード)
⚪︎第1水上機艦隊
▪️所属(水上機母艦:カーチス、タンジール、ソーントン、ハルバート、スワン、アボセット、砲艦 :タニー、雑役艦:サムナー、掃海艇:トルコ、ボボリンク、レール、ターン、グレベ、ヴィレオ)
⚪︎第1船舶整備艦隊
▪️所属(工作艦:ヴェスタル、メデューサ、リゲル、補給艦:キャスター、標的艦:ユタ、病院船:ソレース、掃海艇:クロスビル)
・オアフ島航空戦力(基地航空機413機)
⚪︎ホイラー陸軍航空基地
▪️戦闘機/P-40Cウォーホーク戦闘機×13機、P-40Dウォーホーク戦闘機×87機、P-26Aピーシューター戦闘機×20機、P-36Aホーク戦闘機×44機
▪️爆撃機/B-12A爆撃機×3機、B-18ボロ爆撃機×1機
▪️攻撃機/A-12A攻撃機×2機
▪️観測機/O-47B観測機×1機
▪️輸送機/DC-3輸送機×9機
⚪︎ベローズ陸軍航空基地
▪️観測機/O-47B観測機×10機、O-49ヴィジラント観測機×3機
⚪︎ヒッカム陸軍航空基地
▪️戦闘機/P-26Aピーシューター戦闘機×3機
▪️爆撃機/B-18Aボロ爆撃機×32機、B-24Aリベレーター戦略爆撃機×1機
▪️攻撃機/A-12攻撃機×3機、A-20Aハヴォック攻撃機×13機
▪️輸送機/DC-3輸送機×4機
⚪︎ハレイワ陸軍航空基地
▪️戦闘機/P-36Cホーク戦闘機×10機、P-40Bウォーホーク戦闘機×10機
▪️艦上戦闘機/F4F-3ワイルドキャット艦上戦闘機×9機
▪️爆撃機/B-17Cフライングフォートレス戦略爆撃機×10機、B-17Eフライングフォートレス戦略爆撃機×5機
▪️艦上爆撃機/SB2U-3ヴィンディケーター艦上爆撃機×7機、TBD-1デヴァステイター艦上攻撃機×10機、SBD-1ドーントレス艦上爆撃機19機、SBD-2ドーントレス艦上爆撃機×10機
▪️観測機/OS2U-1キングフィッシャー水上観測機×5機
▪️哨戒機/PBY-5カタリナ哨戒機×69機
⚪︎奇襲後に空母から飛来した機体
SBD-3ドーントレス艦上爆撃機×18機
⚪︎本土から飛来した機体
B-17Dフライングフォートレス戦略爆撃機×12機
戦艦8隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機
→ 戦艦4隻沈没
戦艦1隻座礁
戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷
駆逐艦3隻座礁
標的艦1隻沈没
その他1隻沈没
その他1隻座礁
その他2隻損傷
航空機損失188機
航空機損傷159機
戦死2,334名
民間人死亡68名
民間航空機損失3機
(炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機)

昭和20年5月知覧にて特攻機に桜の小枝を振る知覧なでしこ隊。