懐かしのディスコ&竹の子族 (あの頃、踊り狂ってました笑)Apex product

初春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は格別のお引き立てをいただき、ありがたく御礼申し上げます。 さて、このたび弊社は創立10周年を迎えるに至りました。 皆様方のご支援、ご厚情による賜物と深く感謝いたしております。
とうとう、10周年を迎えることができました。2013年の3月から数えて、10年が経ったわけです。どんなことでも、毎日10年やり続けられたら、一丁前になれるとある作家の方が言われていました。このことばを、一番信じていたのは、私達だったのかもしれません。大変なようで意外に短い期間のようでしたが、そして、とうとう待ち望んでいた10年に到達しました。これもひとえに皆様のおかげであると感謝をしております。の10年に向けて新しいスタートを切るにあたりどのようなことが必要になってきているかを日々考えてきました。私どもは伝えること、元気になること、頑張りたい人たちのきっかけとなり、力いっぱい背中を押す役割になることができますよう、幅広い視野を持ち常にチャレンジ精神を持って、皆様のご期待にお応えできるよう従業員一同最大限の努力をしてまいります。今後も格別のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2023年 3月吉日 Apex product 代表 柳伸雄

新宿(にいやど)は、池袋(ブクロ)・

六本木(ギロッポン)より怖い話!!

ハローミスターモンキーが好きです。

 

当時のくだらない話を致します。私が通っていたディスコは、カンタベリー・ツバキハウス・ニューヨークニューヨークでした。ほとんど毎日三件をはしごしていました。踊りが好きなのもありましたがストレス発散と、田舎には、まともなディスコが無かったからです。確かに一件ありましたよ。キャベツ畑の端に。キャベツが腐って何とも言えない臭いでした。近くの牛舎の臭いとあいまってそれはそれは、うんざりでした。お酒もカクテルが中心で何でもフリーなので、色々飲んだのを覚えています。特に頻繁に出入りしていたのが、ニューヨークニューヨークです。キーホルダーがパスがわりで、センスあると思ったからです。灰皿やライターも、常連になるとオーナーからもらったりしました。オールしても全然大丈夫だった時代です。今では考えられません。1000円2000円で飲んで踊って、知らない人と(VIP客)友達になりご馳走してもらってるので、遊んでも遊んでも財布の金が減らない。あれが今考えるとバブルの時代だったんですね。ごちになります!! こんな調子で毎晩楽しくやってました。踊りはロボット中心でしたが、皆で鏡の前で曲に合わせて練習するのも楽しかったです。たまに地下のサウナで仮眠とりましたが、入墨だらけでした。暑いサウナは、駄目なので普通のサウナに入ったら、やばいやばい。全員もんもんだらけでした。間違いなく怪しい集団。「あれ。ここ入墨お断りじゃないの?」私の心のこえでした。勿論口に出す勇気などございません。黙って座って少ししたら出るつもりでした。テレビを見ながら気持ちを落ち着けて、そろそろ出ようと腰を上げた瞬間。

「あら。あんたよく見るわね。上のディスコで」ぞぞぞぞ。

入墨愛好家のおかまちゃんでした。「今度、二丁目来なさいよ。来なかったら○○○とっちゃうからね」ですって。怖すぎる。それからあまり新宿のディスコで踊らなくなりました。チャンチャン 加齢なる親父より

【 DISCO 】 70年代~80年代

ディスコ・ブーム

 Wikiから『1978年、ジョン・トラボルタ主演の映画 「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本公開されて大ヒットすると、新宿、渋谷、上野、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業した。大勢の「ディスコでフィバる(熱狂する、の意)」若者を生み、・・・70年末からABBAやBee Gees、Chic、Boys Town Gangなどが流行、次いでYMOのテクノブームにより、テクノカットと呼ばれる、YMO風にもみ上げを鋭角にカットした刈り上げに、JUNやROPEのモノトーンスーツ姿がフロアのダンサーの大半を占めたこともあった。』 時代は竹の子族がホコ天で溢れていた頃です。DJという職業が確立したのも、この時代です。若者達の憧れの職業に躍り出ます。
 新宿歌舞伎町には300坪を超える大型店が次々とオープンします。週末にはディスコを訪れる人だけで3万人いたとされ、20を超えるディスコがあり、有名どころとで、「カンタベリーハウス」、「ニューヨーク」、「B&B」、「シンデレラ」、「アップルハウス」、国内最大で、2000人が入るダンスフロアをもっていた「ビックトゥゲザー」、「ブラックシープ」、「インディペンデントハウス」等々があったと言います。

 

新宿テアトルビル5Fに入っていたニュ-ウエ-ブ系のディスコ「ツバキハウス」、2丁目の「フルハウス」。中でもツバキハウスは宝島などの雑誌に取り上げられ、毎週火曜日に行われるロンドン・ナイツのDJ大貫憲章さんも有名になります。東京庭園というブログに当時の経験談が掲載されていました。リンクをどうぞ。こういうブログは何時まで掲載されているか分からないので、ツバキハウスのことに書かれた部分を一部、引用しておきます。
 『「新宿ツバキハウス」は新宿区新宿テアトルビル5Fに入っていたニュ-ウエ-ブ系のディスコだった。今はもう無い。当時「ディスコ」といったらソウル系の曲をかけるところがほとんどだったので、この店にその名称は不適切な気もするが、当時は「クラブ」ということばもなかったので仕方がない。
 ツバキハウスはテクノ流行の頃にはもうあって、雑誌に取り上げられる80年代初頭のテクノ系ディスコといったら、新宿二丁目の「フルハウス」かこの「ツバキハウス」だった。
有名な「ロンドン・ナイト」や「ヘビメタ・ナイト」は少し後になってからの企画だったと記憶している。・・・ツバキハウスの営業はもともと始発が動く少し前までであったが、新宿でディスコ帰りの娘が殺害されるという事件があり風営法が改正されてからは0時閉店を余儀無くさせられていた。当時のディスコでは珍しい、ロックファンの聖地のような場所だった。 』

 歌舞伎町のディスコはすべて千円程度で飲み食いでき、朝までいることで“顔”になる、常連客として優遇されたとあります。当時は、何軒かのディスコをはしごするのが当然であったようです。

82年、中学3年生の2人の少女がディスコの帰りに殺害される「新宿ディスコ殺人事件(未解決」が起こり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りによって、新宿のディスコは衰退していきますが、それに取って代わるように六本木が主役に躍り出てきます。


 
ディスコの聖地のスクエアビルは、地上10階、地下2階は1階、4階以外はすべてディスコで埋め尽くされ、ここにも週末1万人が押し寄せたといいます。スクエアビル内の「玉椿」、「JAVA-JIVE」、「GIZA」、「VENUS」、「BINGO BANGO BONGO」、「NEPENTA」、「fou-fou」、「KISSRADIO」、「レキシントン・クイーン」。 そしてサーフィン・ブームから、サーファー専用のディスコ、伝説の「キサナドゥ」が79年にオープンします。当時のスクエアビルなどの事情が詳しく掲載されているページがありましたのでリンクしておきます。2011年に亡くなられた谷本捷三氏は当時、スクエアビルの中に10軒のディスコを持っていたとされていますし、バブル時代には60軒のディスコを経営していたといいます。六本木の帝王という言葉は安易ですが、当時の雰囲気を伝えるものです。

 もうバブル時代は目の前に来ています。このディスコ・ブームが、マハラジャ、ジュリアナを誕生させる巨大なエネルギーになっていったのです。

オープン 店 名 所 在 地 備 考
'66 THE OTHER 新宿三丁目 オーナー福岡博之氏
'66 Crazy Spot 渋谷仁丹ビル裏 ジュークボックス式
'66(?) アングラポップ 新宿歌舞伎町 ソウル系 絨毯バー
'60年代後半 サンダーバード 新宿
'60年代後半 ナック・ザ・ボーイ 新宿
'60年代後半 怪人20面相 新宿
'60年代後半 リフレクション 新宿
'70年頃 スペース24 新宿
'70年ごろ スネーク 新宿
'68~
'87.2.15
MUGEN 赤坂3-8-17
CAESAR'S PALACE B1,B2
Pro.浜野安宏氏 生バンドの演奏
ウルフマンジャック、アイク&ティナターナー出演
'89.12.4~
'95
RONDE CLUB パンジャパンビルB1 日拓アミューズメント㈱
現キャバレー「Gentleman's Club」
'71~
'87.2.15
BYBLOS CAESAR'S PALACE1F,2F WORLD FAMOUS
日本で初めて服装チェックのシステム
'70年頃 アナグラ 赤坂
'70年頃 ゲットレディ
'71~'82 Get 新宿3-35-10
ローヤルプリンスビル4F
店長ニック岡井氏「若者のプラザ」
'78.4.26
17:00~
Pop Corn 歌舞伎町1-18-1
モナミビル7F,8F
7Fにダンスフロア
'60年代後半 CHECK 新宿 ソウル系
'60年代後半 らせん階段 新宿 ソウル系
'60年代後半 LSD 新宿 ソウル系
'60年代後半 ヤングメイト 新宿
'60年代後半 ベイビーグランド 新宿
'60年代 Pulse Beat 青山
'73~'77 スーパーコップス 赤坂3-9 メビウスOBの店
'70年代初中期~
'70年代中後期
フランス乞食 赤坂3-7 ソウル系 メビウスOBの店 小箱
'70年代 シンデレラ 赤坂2-14
'70年代 シェルハウス 赤坂6-14-1
ホテル陽光1F
'70年代半ば SOUL TRAIN
(PART Ⅰ)
新宿3-36-13
みよしビル3F
'70年代半ば SOUL TRAIN
(PART Ⅱ)
渋・神南1-22-7
岩本ビル3F
'70年代前半 tomorrow 新宿歌舞伎町29-3
東京スタッセ4F
スタッセグループ 中箱
'74年(?)~ Tomorrow U.S.A. 東宝会館7F キャパ800人以上の大箱
'73~ HAREM 赤坂3-21-15
東都ビルB1
「ハレム」黒人が多く独特の雰囲気
'70年代半ば ボンゴ 豊・池袋東口
西武デパート前
富士ビル5F
フロアは広く大人のムード
'70年代 White House 赤坂4-7-17 '70年代後半~'80年代始め
「BLACK & WHITE」となる
'80年代末 キャメル 赤坂4-7-17
'74~
'80年代
MANHATTAN 赤坂6-6-28
カムフィホームズB1
店長はドン勝本氏
'70年代後半 BOOTSY 赤坂3-9-4
扇やビル4F
ブッチー 店長は江守靄氏
'70年代半ば アップルハウス 新宿歌舞伎町27
中台ビル4F
日本アミューズメント㈱
DJブースがゴンドラで降下の大箱
(230坪) DJと生バンドが入る
'75~ BLACK SHEEP 歌舞伎町27-2
千代田ビルB1
生演奏有 ソウル系 大箱
'75~
'82
チェスターバリー 新宿歌舞伎町 パブライフ・チェスターバリー・チェーン
生バンドと半々
'70年代半ば~
後半
MILKY WAY 新宿歌舞伎町2-25-2
アラオビル3F
パブライフ・チェスターバリー・チェーン
'70年代半ば BLACK BOX 新宿5-4-1
QフラットビルB1
ゲイディスコのはしり
白人率高し
'70年代 MUGEN 新宿歌舞伎町18
モナミビル2F,3F
ソウル系
'70年代 Viva Young 新宿駅東口
ヒカリ会館4F
NKGパブチェーン
上野・千葉・新原町田にもあった
'70年代 ファンキーディスコ
V-ONE
新宿 NKGパブチェーン
'70年代 ファンキーディスコ
Q & B
西武新宿駅前
クインビー会館4F
NKGパブチェーン
'70年代半ば~
'80年代
CRAZY HORSE 歌舞伎町18
モナミビル5F
日新物産 バンドの生演奏
'70年代 キャステル 新宿 日新物産
'70年代 Scat 歌舞伎町1-12-6
歌舞伎町ビル3F
金曜日にオカマ・ダンス・コンテスト
'70年代 プレイハウス 歌舞伎町1-20-1
新宿ジョイパックビル4F
'70年代末 NEW YORK NEW YORK 新宿ジョイパックビル4F JOYPACK DISCO GROUP
'70年代 Big together 歌舞伎町1-19-2
東宝会館4F
スタッセグループ
プロのダンスショー
HELLO HOLIDAY 東宝会館4F
'80年代前半 XENON 東宝会館4F JOYPACK DISCO GROUP
現「CODE」
'80年頃~ ONE PLUS ONE 東宝会館6F '82.6に女子中学生殺人事件
'90年代初頭 NAPA j 東宝会館6F カラオケルーム
パーティールーム併設
CARNIVAL HOUSE 歌舞伎町1-21-1
東亜会館7F
「The Carnival」に改称
CIRCUS CIRCUS 東亜会館7F 後に「G.B. RABBITS」
82('83?)~
'90年代半ば
G.B. RABBITS 東亜会館7F Aプロ
'70年代半ば Independent House 東亜会館6F 後に「B & B」
'80年代 B & B 東亜会館6F サーファー系「Beach Breeze」の略
後に「CENTURY TWENTY-ONE」
'80年代後半 CENTURY TWENTY-ONE 東亜会館6F Aプロ ブラック系
カラオケルーム併設
'70年代末 Cinderella 東亜会館5F 映画サタデーナイト・フィーバー
そのままの雰囲気
'80年頃 カンタベリーハウス
シンデレラ館
東亜会館5F
'70年代後半~ カンタベリーハウス
ギリシャ館
東亜会館4F 新宿のファッション・ディスコ人気No.1
後に「GREECE」
'80年代 CH-Greece 東亜会館4F パラパラが盛ん
'70年代後半~ カンタベリーハウス
BIBA館
東亜会館3F 後に「ZEBRA」
ZEBRA 東亜会館3F
アイ 新宿3-36-16
国際会館ビル5F
'80年代 シャンゼリゼ 新宿
'82~ Samba Club Regency 西新宿2-7-2
ホテルセンチュリーハイアット1F
「六本木Regency」と同じ経営母体
Aプロ JOYPACK DISCO GROUP
'80年代 MOON CHILD CLUB 西新宿6-6-2
ヒルトンインターナショナルB1
Aプロ カラオケルーム5室併設
'80年代 カヤン 新宿
'80年代 Slap Me 5 新宿 ブラック系
'80年代 シャンバラ 新宿
'70年代後半 カンタベリーハウス
ペルシャ館
新宿三愛ビル4F
'80年代初め PUKA PUKA 新宿三愛ビル4F trfのDJ KOO氏が回していた
'78.5~ BOOGIE BOY 新宿2-18-5 ボーイズタウンディスコ
クレオ・パラッツィ 新宿
'75~'87 TSUBAKI HOUSE 新宿3-14-20
テアトルビル5F
火曜日ロンドンナイト
日曜日ヘヴィメタルナイトの歴史的名店
'80年代 JAVA-BAY 新宿3-14-20
テアトルビル5F
Aプロ
「TSUBAKI HOUSE」の後
'79~ RADIO CITY 新宿3-13-2
新宿文化ビルB1
大和実業㈱
'86.4~ RADIO CITY 千・有楽町1-5-2
東宝ツインタワービルB2,B3
大和実業㈱
学生お断り
'70年代 ウェディング・ロード 銀座8-9-4
産金ビルB1
後に「GALERIE」
GALERIE 産金ビルB1 パブ・ギャラリー
シーザース・パレス 銀座
JULIUS CAESAR 銀座8-5-6
中島商事ビル地階
'80年代後半~ CHIC 銀座5-10-6
第一銀座ビルB1
'80年代後半~ DAY BY DAY
DR・AN 銀座
'80年代後半~ CYGNUS 中・銀座8-6-18
第5秀和ビルB2
アンティークな雰囲気
70'sソウル中心
'80年代後半~ オビウム
'91.5.14~
'94.8.31
JULIANA'S TOKYO 芝浦1-13-10
東京ポートボール1F
多くの伝説を残す
~'93.12.31 O'BAR 2218 芝浦2-2-18 東海海運
滝があった
'89~ GOLD (芝浦)海岸3-1-6 7階建の倉庫を改造
佐藤篤氏のインテリアデザイン
'70年代半ば Whiskey A Go Go 青山5-9-12
アイサクビル3F
ジャンジャン 青山
'80年代 ヒップフェロー 青山
'86.12.8~
'93.12.31
King & Queen 港・北青山3-5-12
クリスタルビルB1
跡地は「ZZEX(ジェックス)」を経て
「ミューズ」(クラブ)
'90年代初頭 Ma Sarle 南青山3-1-5
ラ・クラースビルB1F
赤坂米穀グループ
'70年代後半 IVERIA 渋・神宮前6-5-3
イベリアビル7F
'80年代 club D 渋・神宮前2-33-12 札幌にもあった
'70年代後半 パブ野郎 渋・道玄坂2-3-2
大外ビル8F
'82~ Pithecanthropus 原宿 Pro.桑原茂一氏
デザインは安部讃平氏
スタジオハッチ 渋谷
'80年代初頭 LA SCALA 渋谷JOYPACKビル3F,4F JOYPACK DISCO GROUP
'81~ Candy Candy 渋・道玄坂2-3-2
大和銀行ビル6F
後に「PARADIAM」
'80年代後半 PARADIAM 大和銀行ビル6F
'70年代後半 Star Woods 渋・宇田川町33-1
グランド東京ビル2F,3F
後に「SPAZIO」
'80年代初頭 SPAZIO グランド東京ビル2F,3F 後に「Gaudi」
'90~ Gaudi グランド東京ビル2F,3F
'80年代後半 big Apple 渋谷区宇田川町21-6
MINEGISHIビル8F
センター街入口
'70年代 BLACK SHEEP 渋・宇田川町25-3
プリンスビル4F
'86.10.24~ LAYLA 渋・宇田川町29-4
ゼンモールビルB2
ライラ 音ユーロビート
'80年代後半 ZYX 渋・宇田川町3-5
LICAビル3F
フリードリンク・フリーフード
音ユーロビート
渋谷
HOT POINT 渋谷 ソウル系
HIP HOP 渋谷 ソウル系
'80年代 JUERGA 渋谷チトセ会館2F フェルガ 現在「カラオケ館」
'80年代 ABBA 渋谷チトセ会館
'80年代 ZIP 渋・神南1-17-7
ZIPビルB1,B2
'87.12.1~ S. I. joe 渋・道玄坂1-17-9
ホテルP&AプラザB1F
サウンドPro. M.I.D.
'80年代中期 MAHARAJA JUNIOR 渋・宇田川町30-5
JOWビル9F
後に「MAHARANI」を経て
「マハラジャ倶楽部」(パブ)
現在「L's」
'87.6~ J TRIP BAR
DANCE HALL
渋・宇田川町13-16
国際ビルB2
'91.6~
「J TRIP BAR DANCE FACTORY」
'90.12.23~ FLW 渋・恵比寿西1-34-17
Za HOUSE B1,B2
カジノを併設
'70年代 BLACK SHEEP 上野2-9-6
大和ビル3F
新宿と渋谷にも
'80年代初頭 SPANGLE 上野 大島ビル4F
'91年秋~
'95
ARX 上野4-9-6
ナガフジビルB1
日拓アミューズメント㈱
サラリーマン・OLをターゲット
'89~'91 サイカ 汐留
CRONOS 千・内幸町1-7-8 サウンドPro.磯辺俊次郎氏
'70年代半ば クラブ・セック 不明
'80年代 SHIRO 吉祥寺 ブラック系
'70年代半ば~
'80年代
ADAMS APPLE 豊・西池袋1-37-12
ローズ会館7F
池袋初のバイキング付ディスコ
HOT LINE 高田馬場
'70年代 J & R 銀座5-4-9
阿修羅 蒲田
'85年頃 VEGLIA 赤坂4-7 料理はイタリアン
'90.5.16~ TYO 目・自由が丘1-10-4
マイリッチビルB1
演出にシャボン玉の機械
ドミノ 立川
ベルファン 吉祥寺
'70年代後半~
'81
Studio54 吉祥寺
'70年代半ば Indipendent House 吉祥寺本町1-10-1
イナリヤ会館7F
'88.7~
'90.12
MZA ARIAKE
クラブ・ガディル
江・有明1-3-27
'90.9.21~ 3D CLUB TOKYO 北・王子1-18-5
アークホテルビルB1
洞窟っぽい
5spot 自由が丘
ブルドッグ 蒲田
'70年代 テンミニッツ 上野2-11-18
'70年代 BLACK SHEEP 上野2-9-6
大和ビル3F
'70年代 ジャック&ベティ 豊・西池袋1-3-11
'70年代 アリマ 葛・西新小岩1-10-1
カニ谷ビル4F
'70年代 720 中野5-56-15
'70年代 ピラミッド 葛・新小岩1-46-3
東栄ビル
'88.12~ M-CARLO 中・銀座7-5-4 毛利ビルB2
'70年代 ピンクパンサー
'70年代 ソウルハウス・ゴー
'90年代初頭~ GRACE CASTEL 渋・神宮前2-22-12
'90年代初頭~ La duc 渋・神南1-18-7
12ヵ月ビルB3
『昭和50年 吉祥寺の とあるディスコの店内』
それまでの「ゴーゴークラブ」と違い、生演奏ではなく D J のかけるレコードで踊るのが 
ディスコの特徴‼️

新宿N.Y.N.Y.@MARRS 

1968年〜1969年 頃
困っちゃうナーの山本リンダじゃなくて(^_^)
井上リンダ(当時18歳)オランダ系ハーフ!!
モデルを経て【赤坂マノス】の人気ゴーゴーガール(-_^)

「ダンシング・クイーン」(原題:Dancing Queen)は、スウェーデンのコーラス・グループ、ABBAが1976年にリリースしたシングル。作詞及び作曲は、ベニー・アンダーソン(Benny Andersson)とスティッグ・アンダーソン(Stig Andersson)とビョルン・ウルヴァース(Björn Ulvaeus)。公式に初めて披露されたのは、1976年6月18日に結婚したグスタフ16世の結婚披露宴の際。この模様はスウェーデン国営放送で放送されている。ビルボード(Billboard)誌では、1977年4月9日に、週間ランキング1位を獲得[2]。ビルボード誌1977年年間ランキングでは27位。全英シングルチャートにおいては1976年9月4日〜10月9日にかけて6週連続1位に輝き、1976年間チャートでは4位にランクインしている。世界13か国で1位となり、全世界で300万枚、日本で50万枚を売り上げた。

【 竹の子族 】

竹の子族(たけのこぞく)とは、野外で独特の派手な衣装でディスコサウンドにあわせて「ステップダンス」を踊るという風俗またその参加者の総称。

1980年代前半東京都原宿代々木公園横に設けられた歩行者天国でラジカセを囲み路上で踊っていた。ブーム最盛期は1980年昭和55年)で、この頃には名古屋等地方都市の公園や、東京では吉祥寺や池袋でも小規模ながら竹の子族が踊っていたという。

2012/03/30 に公開

80年代初め、毎週日曜日になると東京原宿の代々木公園前の歩行者天国には 派手で奇抜なファッションに身を包んだ若者達が集まり、アラベスクやジンギスカン等の­ディスコ音楽にあわせて集団で踊っていた。その数約2000人(全盛時)。いわゆるこ­れが「竹の子族」である。

概要

グループは主に首都圏の中学・高校生で構成され、歩行者天国が開催される休祭日に原宿歩行者天国(ホコ天)に集合し、ホコ天終了時まで踊っていた。また、歩行者天国が開催されなかった場合は、代々木公園内や公園入口、NHK渋谷方面へ向かう歩道橋近辺であった。

「竹の子族」の若者たちで原宿歩行者天国は溢れかえり、そのブーム最盛期にはメンバーが2,000名以上いたといわれている。ラジカセから流す曲は主にディスコサウンドが中心であった(「アラベスク」「ヴィレッジ・ピープル」「ジンギスカン」等の80年代キャンディーポップス)。

竹の子族の衣装は、そのチームごとに特色のある衣装をデザインし制作していた。これらは主に原色と大きな柄物の生地を多用したファッションで、アラビアンナイトの世界のような奇想天外なシルエットが注目を集め、化粧についても男女問わず多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをしていた。竹の子族の生みの親として広く知られるようになった大竹竹則がオーナーを務める『ブティック竹の子』では、竹の子族ブーム全盛期の1980年(昭和55年)、竹の子族向けの衣装が年間10万着も販売されたという

ブティック・竹の子

「竹の子族」の由来は諸説あるが、自作以外の衣装を1978年昭和53年)に開業した「ブティック・竹の子」で購入していたことが「竹の子族」の由来の一つと言われている。街頭や路上で若者グループが音楽に合わせてパフォーマンスを表現するブームの先駆けともいえる。

若者集団の文化、ファッションとしても、1980年代前半で注目されるキーワードのひとつ。清水宏次朗沖田浩之も、街頭でスカウトされ芸能界にデビューした元竹の子族である。

それぞれの振り付けはチーム毎によって異なる場合が多い。

経過

1970年後半、東京新宿のディスコで流行ったステップダンスが始まりと言われている。

1980年初め、毎週日曜日の原宿代々木公園横の歩行者天国には、竹の子族のチーム約50グループ、メンバーがおよそ2000人に膨れあがっていた。 初期メンバーは30人前後であり、1年間で100倍近くに膨れ上がったことになる。 当の竹の子族以上に、ギャラリーの数も想像を超えるほど急増していた。毎週日曜日になるとおよそ10万人近くが「原宿ホコ天」に集まり、原宿歩行者天国は端から端まで身動きがとれなくなることも多々あった。

1980年後半、ローラーや、バンド、ブレイクダンス等、多様なパフォーマンス集団に押され、竹の子族ブームは下火になっていった。

1996年から1997年にかけての代々木公園前歩行者天国試験廃止および1998年8月31日の歩行者天国完全廃止と共に原宿から撤退、東京新宿のディスコに活動の場を移す。

2012年現在も当時のメンバーが中心となり、新メンバーを含む【平成竹の子族】として、clubイベント【原宿ホコ天Night☆】を毎月第二土曜日の夜【東京上野のオマール海老のイタリアンロブス】で開催、 このイベントは当時を全く知らない参加者の当日参加も可能である

尚イベントスペースであるオマール海老のイタリアンロブスは他の週末にはブライダルなどの各種イベントにも貸し切りが可能である

また竹の子族の基本概念である野外でのイベントも開催している。

平成竹の子族 in 東京・浅草

主なグループ

※五十音順

  • 愛・愛 (あいあい)
  • 愛・花・夢 (あい・か・む)
  • 愛羅舞優(あいらぶゆう)
  • 加速装置 (アクセル)
  • 唖朶琉斗 (アダルト)
  • 悪夢瑠(アムール)
  • 異次元 (いじげん)
  • 一心会 (いっしんかい)
  • 一日一善 (いちにちいちぜん・ヒョウ柄の衣装を特許にしていたチーム)
  • 一日一善・紅(くれない)
  • 一日一善・北斗(ホクト)
  • イマジネーション
  • 恵女羅流怒(エメラルド)
  • Elegance (エレガンス)
  • 天使(エンジェルス)
  • エンドレスサマー
  • 緒巣架留(オスカル)
  • 可愛娘不理子(かわいこぶりっこ)
  • クリスタル
  • 幻遊会 (げんゆうかい)
  • 西遊記(さいゆうき)
  • 沙汰泥夜 (サタデーナイト)
  • 皇帝(シーザー)
  • 嫉妬心 (ジェラシー)
  • 呪浬悦賭 (ジュリエット)
  • 獅利亜巣 (シリアス)
  • 紫流美亜(シルビア)
  • 神義嫌 (ジンギスカン)
  • 竹取物語 (たけとりものがたり。「異次元」から分裂して出来たチーム)
  • 怒羅絵門(ドラえもん)
  • 夢幻(ドリーム)
  • PAJAMAS(パジャマズ)
  • 破恋夢(ハーレム)
  • 犯婦禁 (パンプキン)
  • 英雄 (ヒーロー)
  • 卑弥呼(ひみこ)
  • 微笑天使(びしょうてんし)
  • 妖精(フェアリー)
  • 不恋達 (フレンズ・ラメサテンの衣装を特許にしていたチーム)
  • 男女マジシャン(ペアマジシャン)
  • 翼馬(ペガサス)
  • 魔呪夢亜 (マジムア)
  • マリア
  • 命(みこと)
  • 流星(ミーティア)
  • ミッキーマウス
  • 未来(みらい)
  • 夢英瑠 (ムエル)
  • 憂斗妃鳴 (ユートピア)
  • 妖貴妃(ようきひ)
  • 来夢(らいむ)
  • ラブリーズ
  • 乱奈阿珠 (ランナーズ。沖田浩之が所属したチーム)
  • 龍虎舞人 (りゅうこぶじん)
  • 琉珠 (ルージュ)
  • 流紫亜 (ルシア)
  • 紅玉蘭 (ルビー)
  • 麗堕亜巣(レイダース)
  • 麗羅 (レイラ)
  • 麗院宝(レインボー)

主な事件

  • 1980年(昭和55年)4月14日 「竹の子族」襲われる。(朝日)
    東京代々木公園で昨夏から日曜になると歩行者天国に派手な格好をした若者たちが集まり、青空ディスコを繰り広げ話題を集めていたが、13日の夜にこの路上ディスコグループが、以前から対立していた公園内の「のぞきグループ」に襲われ、高校生3人が頭にけがをした。
  • 1983年(昭和58年)10月 暴力団と竹の子族リーダー100万円を脅し取る。
    「お前たちが思いきり踊れるよう、ヤクザから守ってやる」と竹の子族の少年ら300人から「踊り代」として計数百万円を脅し取っていた暴力団構成員と竹の子族グループの総リーダーら3人を恐喝で逮捕という事件も起きた。

1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

1984年、歌舞伎町で中高生による自発的で爆発的なディスコブームが発生した。その舞台は東亜会館。東京の中高生の間で一世を風靡した大ムーブメントなのだが、実はこれまでほとんど語られていない。あらためて、あの熱かった時代を振り返る。(Collaborate with 東京キララ社)

歌舞伎町のビルの密室にて

 1984年、歌舞伎町で中高生による自発的で爆発的なディスコブームが発生した。その舞台は東亜会館(現在の第二東亜会館)。週末になると、全身パステルカラーの服に身を包んだ中高生男女が東亜会館に大挙押し寄せ、踊って叫んで酒飲んでタバコ吸ってナンパしてとやりたい放題。しかもオープンは昼の12時で、非常階段には開店待ちの長蛇の列ができていた。それから数年間に及び、東京の中高生の間で一世を風靡した大ムーブメントなのだが、実はこれまでほとんど語られていない。そこらへんの事情も含めて、この大きな社会現象を紹介していきたい。

 東亜会館とはコマ劇場の向かい、噴水の脇にそびえ立つ8階建てのビルで、そのうち4フロアをディスコが占めていた。7階が比較的大衆的な「GBラビッツ」で、6階がDJ KOOがいたサーファーディスコ「B&B」、4階がとんねるずの「嵐のマッチョマン」の歌詞に出てくるギリシャ館で通称「グリース」、そして3階が僕も通っていた「BIBA」だった。

 そのブームの震源地となっていたのは「BIBA」で「グリース」がそのライバルだ。その2つのディスコの共通点は、両方とも客全員が中高生だということで、社会人はおろか大学生さえ一人もいない。もし一般客が間違って入って来たとしても、あまりにも場違いな状況に耐えきれずに30分と持たずに店を出ることになる。

 フロアには数百人の中高生男女がぎゅうぎゅう詰め。ちなみに女の子のほうが早熟で下は中2くらいから来ていた。会員証を提示して1000円から1500円ほどの入場料を払うと、あとはフリーフード、フリードリンクで一日中遊べる。食べ放題のフードはバイキング形式で、ヤキソバやポテトフライ、ミートボール、フルーツにゼリーなどが並び、人気メニューはピラフのシチューがけ。ドリンクはかき氷のシロップを薄めたようなジュースだけでなく、水割りやカクテルも無料だった。ただし、カルアミルクだけは原価が高いということもあって女の子しか頼めない。それを利用した「ごめん、カルアミルク頼んでくれない?」というナンパの手口も流行った。

東亜会館「BIBA」(提供:小畑仁/「BACK TO THE 80’s東亜」事務局)

 

 曲はディスコに行かないと聞くことのできない最先端の電子音楽・ハイエナジー、ベストヒットUSAでお馴染みのロックやポップス、いわゆるダンクラと呼ばれるソウルミュージック、そして最新の歌謡曲までオールジャンルでかかる。そしてその一曲一曲に振りや掛け声が決まっていた。掛け声は基本、下ネタ。思春期の男女がフロアでテレビやラジオなら放送禁止となるような言葉を大合唱する。グループで踊りを合わせる激しいステップダンス、ソウルダンスから独自に発展したアクロバティックなバンプ、ツーステップ(芋掘り)などといった踊りが大流行していた。特にバンプは1984年の年末に「バンプコンテスト」が開かれたほど大流行。男同士でペアになって、2人が片足を合わせ半身で向き合い激しく踊り合うバトルのようなダンス、それがバンプだ。

 

1984年12月に東亜会館で行われた「バンプコンテスト」(提供:小畑仁/「BACK TO THE 80’s東亜」事務局)

 

 フロアでは日頃の練習の成果を披露し合った。上手いペアには拍手が沸き起こり、歓声が飛び交う。文化祭や体育祭のノリに近いが、一番の違いは、東亜会館には親や教師など、うるさい大人がいないことだ。学校や家に居場所のない子供たちに、これ以上ないほどの自由が与えられたのが東亜会館のディスコだった。

 規模的には「竹の子族」なんて目じゃないほどのブームだった。竹の子族の知り合いは一人もいないが、東亜会館の常連は至る学校にいて、休み時間にグループでステップやバンプの練習をする風景は日常の一部だった。行われていた場所がオープンな代々木公園ではなく新宿歌舞伎町のビルの密室だったという違いが、時代を象徴する社会現象として残ったか、当事者の記憶にしか残らなかったかを分けたのだ。

 また記録メディアの問題もある。もちろん携帯電話なんてないし、家庭用のビデオカメラもまだ市販されていない。カメラだって使い捨てカメラ「写ルンです」が発売されたのが1986年だから、それまでは写真が撮りたければお父さんのカメラを持ち出さなければならない。本来、中高生が行ってはいけない場所だし、酒飲んだりタバコ吸ったりと年齢的に後ろめたいこともあるから、あえて家のカメラを持ち出して証拠を残すなんてことはしない。だから拙著『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』を出す際に、もっとも苦労したのが当時の写真集めだった。現存する写真のほとんどは、ディスコで誕生日パーティーをした時に、お店のサービスで撮ってもらった写真だ。皆、当たり前のようにタバコを咥えピースをしている。時代柄、ポップでファンシーな出で立ちだが、新宿のディスコというのはいつの時代も不良のオアシスだった。1970年代は特攻服を着た暴走族、1980年代後期はチーマーが集った東亜会館。しかし80年代半ば、僕たちが通い詰めていた頃はそういった殺伐とした雰囲気の一切ない、ある意味で健全なディスコブームが巻き起こっていた。その背景にあったものとは何か。

 

東亜会館「BIBA」(提供:小畑仁/「BACK TO THE 80’s東亜」事務局)

 

 1980年代に入ると、日本はバブル絶頂へと急速に登り詰めていく。「ネアカ」「ひょうきん」が是とされ、日本中が明るくエネルギーに満ち溢れていた。毎日が刺激的で夜だからといって寝てなんていられなかった。それは大人だけではなく、中高生たちもまた歌舞伎町に溢れかえっていた。そんな喧騒のなか、歌舞伎町である事件が発生し、その余波で中高生のディスコブームがピークを迎えることになる。通称「新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件」だ。

 

法改正が生んだデイタイムの狂乱

 事件は1982年6月6日に起こった。新宿のディスコ「ワンプラスワン」(東宝会館6階)などで夜通し遊んだ後の中学3年生の女子2人が、男に「ドライブへ行こう」とナンパされ、1人が千葉市街のサイクリングロードで首を切られ殺害された事件である。この事件は未解決のまま時効を迎えている。

 ちなみに僕が初めて行ったディスコもこの「ワンプラスワン」で、事件の数ヶ月後にも関わらず、被害者と同じ中学3年生の僕たちでも簡単に入店できた。バブル前夜の歌舞伎町は日本で唯一の不夜城で、マイアミをはじめとする喫茶店、ディスコ、ゲーセン、ボーリング場、バッティングセンター、映画館などが密集し、家出した中高生が潜伏するのに最適の場所だった。中学生がディスコや居酒屋で遊んでいても咎められるようなことはないゆるい時代でもあった。時代背景からすると、起こるべくして起きた事件なのかもしれない。

 この事件の被害者と僕たちは同学年ということもあり、大きな衝撃を受けた。事件当時、高校2年生だった尾崎豊は、この事件をモチーフにした曲「ダンスホール」を書き、事件から4ヶ月後に行われたCBSソニーのオーディションで披露すると、そのままトントン拍子にメジャーデビューを果たす。そして“十代の代弁者”として、東亜会館の常連の間でも絶大な人気を誇った。

 そしてこの事件の影響は、ディスコ自体のあり方を大きく変える法改正にまで及んだ。1984年8月14日に風営法が改正され、1985年2月13日に施行されたことにより、ディスコの営業時間は深夜12時までとなったのだ。これにより新宿のディスコは大打撃を受けたと言われている。ある日、BIBAでいつものように遊んでいたら、いつもならこれからもうひと盛り上がりがあるという12時前に曲が止まり、フロアに煌々と明かりが灯った。大人たちに居場所を取り上げられた気がして、白けた気持ちで家に帰ったことを覚えている。

 このままではせっかく盛り上がってきたシーンも廃れてしまう。そんな時に東亜会館は奇跡の一手を打つ。週末の営業時間を繰り上げたのだ。最初は午後2時オープンとなり、間もなく昼の12時からとなる。この斬新なアイディアが中高生ディスコブームに拍車をかけた。週末になると、開店前から東亜会館のフロントへと続く非常階段に中高生男女の長蛇の列ができ、入店するまで最低でも1時間は覚悟しなくてはならないほどであった。

 

東亜会館「BIBA」(著者撮影:1984年7月)

 

 東亜会館の常連は一目見て、そのファッションですぐわかる。パステルカラーの服に身を包み、ピンクのコンバースを履いた一団が、ディスコビルへと集まってくる様は圧巻だった。

 長い行列から解放され、白昼堂々と営業する歌舞伎町のディスコに入店すると、そこは夜も昼も関係ないミラーボール輝くいつものディスコのフロアだ。店内一体となって、曲ごとに大声で掛け声を合わせ、日頃のダンスの練習の成果を発揮する。チークタイムもフロアは即席のカップルでパンパンだ。ドラッグこそ出回っていなかったが、酒もタバコも咎める大人は一人もいない。東亜会館では剥き出しの青春が爆発していた。ふと我に返る瞬間はトイレに行った時だ。トイレの脇の通路はガラス張りで、白昼の歌舞伎町が見下ろせた。「なんだよ、まだ3時じゃん」と眼下に広がる現実的な世界と、自分の置かれた環境のギャップに思わず笑ってしまった。

 昼間の歌舞伎町に中高生がいること自体は何も珍しくない。映画にボーリングなど健全な遊びもいくらでもある街だから。だからこそ、中高生の間でディスコが爆発的ブームになった。親もまさか真っ昼間からディスコが営業しているなんて思わないし、「友達と新宿で映画観てくる」とでも言って出かけ、晩飯時までに家に戻って来ていれば疑われもしない。子供たちが大手を振ってディスコに行けるようになったことで、東亜会館には新規の中高生客が雪崩れ込んできた。

 当時、晩飯を家族と食わずに外で遊ぶことができるのは、よほどの不良か家庭が崩壊しているような子供だ。少し前の時代のディスコは暴走族が特攻服を着て来るような場所で、シンナーやクスリも蔓延していた。ところがバブル前夜に浮かれる80年代の半ばは、暴走族がダサいとされていた。暴走族の連中も来ていたが、僕らと同じファッションだから見分けはつかないし、それほど多くはいなかったと思う。どちらかと言えば、普通の子とまでは言わないが、少しクラスで目立つ程度の子が週末に押し寄せて来るようになったのだ。平日も毎日のように東亜会館に通うレベルの常連からすると「にわか」として疎まれた面もあるが、ブームというものは「にわか」がどれだけ集まるかということでもある。このムーブメントのピークは84年から85年にかけてだが、それからも数年間このブームは継続する。

東亜会館「BIBA」会員証

東亜会館「BIBA」会員証(裏)

 

 しかし、麻布十番「マハラジャ」がオープンしたことにより、ディスコのメッカは六本木・麻布へと移っていく。六本木のディスコは新宿とは違って入店時に身分証明が必要だ。それまでは中高生の分際でディスコで遊んでいることに楽しみを感じていたが、時はバブル絶頂となり、煌びやかな大人の世界に憧れ始めた。BIBAの常連の間でも、高校3年生になると東亜会館の卒業宣言をして、次々と新宿のディスコから卒業していった。そして80年代の終わり頃にクラブが誕生する。これも風営法改正の影響だ。ダンスのフロアは新宿の大箱から六本木・麻布の小箱へ。

 風営法の改正で生まれた爆発的な東亜会館ブームだが、それもろうそくが消える前の一瞬の煌めきのようなもので、新宿のディスコにあらためて終止符を打ったのも、風営法の改正なのであった。1989年にブームの象徴であった「BIBA」が「ZEBRA」と名前を変えたことで、僕ら旧常連のなかですべてが過去のことになってしまった。以来、その喪失感を感じながら生きてきた人がどれだけ多かったか。最後に、時代の証言者たちの声に耳を傾けてみたい。

 

忘られぬ東亜会館の記憶

 昨年、日本記念日協会が7月22日を「ディスコの日」に制定した。1978年7月22日にジョン・トラボルタ主演の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本で公開されてから40周年に当たる日だった。余談だが、7月22日は僕の誕生日であり、7月21日に開催される東亜会館の同窓会的イベントで先行発売するために『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』を執筆している真っ只中に記念日制定の朗報を耳にした。

 7月21日に歌舞伎町のFACEで開催された「Back To The 80’s東亜」のイベントには、東亜会館の元常連650人が集まった。「あの日に帰ろう」をスローガンにしたこのイベントは2001年に始まり、昨年で19回目を迎えた。最高で850人もの東亜会館卒業生が集まったという。主催の小畑仁さんは当時、東亜会館の主のような存在で、1984年12月に「BIBA」で開催された「バンプコンテスト」の優勝者である。このイベントを始めたきっかけを仁さんに聞いた。

 「1990年頃にはもう、あの日の東亜会館に戻りたいと思っていました。もっと言えば、東亜でバンプが禁止になった時点で、禁止じゃなかった頃に戻りたいと(笑)」

 東亜会館のブームの大きな原動力となり、コンテストまで行われた「バンプ」だが、1986年あたりから「バンプ」を踊ってもよい時間帯が設けられるようになり、やがて「バンプ」自体が禁止となる。それは「ステップ」も一緒で、東亜会館のブームを牽引した東亜独自の激しいダンスが禁止されたのだ。残された踊りは手の振りと掛け声くらいで、それが発展して後の「パラパラ」へと繋がる。

 そしてバンプなど東亜のダンスの禁止が、大きな暴動へと発展する。それまでの東亜会館ではスタッフによる客への暴行が横行していた。他のフロアの系列店から移動してきたスタッフがいたとする。すると、まずそのスタッフは常連を捕まえてボコボコにするのだ。理由は特にない。ただ単に「舐められないように」ということだけ。「文句があるなら出禁にするぞ」と言われたら、僕らはもう逆らえない。家にも学校にも居場所がなく、東亜会館に集まって来ている中高生にとって、東亜のディスコというオアシスを失うことは何よりも恐れていたからだ。そして事件は起きた。

 「それまでは店員に殴られても、出禁を恐れて耐えてきました。だけどバンプとステップが禁止になるならもういいかと。ある日、溜まっていた鬱憤が一気に爆発して、常連対店員の大乱闘になってしまった。店員も常連もDJもみんな殴り合いでボコボコ。パトカーと救急車が来るほどの大乱闘でした。それまでブレーキになっていた出禁が、最後には乱闘の引き金になってしまったんです」と仁さんは語る。

 

東亜会館「BIBA」(提供:小畑仁/「BACK TO THE 80’s東亜」事務局)

 

 こうして一つの時代が幕を閉じた。気がつくと昔の仲間は一人、また一人と姿を消していった。東亜会館の灯火は次の世代の中高生へとバトンタッチされ、高校を卒業した常連たちは東亜会館を卒業し、大人への階段を歩んでいった。みんな働き盛りのサラリーマンや主婦になり、東亜会館は遠い過去の思い出となり、いつしか記憶が薄れていくかと思っていた。ところが、東亜会館での出来事はあまりにも強烈だった。

 『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』を刊行してから、多くの反響をいただいた。本を読んで当時の記憶が蘇ったのか、読者の方々がSNSなどで自分の東亜会館物語を書き始めたり、熱い思いのこもった当時のエピソードが綴られた手紙が送られてきたりした。なかには刑務所からの手紙もあって、「東亜会館で受けた衝撃が凄すぎて、あの時代は本当にあったのかと半信半疑になる時があって、幻だったのかなって。でも、こうして本を読んで本当だったんだって。あの時代に東亜に通っていたことを誇らしく思います」と長文が綴られていた。

東京キララ社刊『新宿ディスコナイトー東亜会館グラフィティ』(中村保夫著)

 

 これまで誰にもこのシーンが語られてこなかったからこそ、東亜会館の思い出はそれぞれの記憶のなかにしかなかった。しかし、こうして書籍が刊行され、東亜会館の同窓会的なイベントも毎年開催されることで、子供時代の恥ずかしい思い出だった人もパンドラの箱を開け始めている。

 今年の「Back To The 80’s東亜」は8月31日に新宿「FACE」で開催される。歌舞伎町の伝説的なディスコ「ニューヨークニューヨーク」が入っていたビルだ。僕も当時と同じルートでイベントに参加する予定だ。新宿駅東口の改札を出て、アルタの横を通り、かつてシンナー売りや立ちんぼがいた場所を確認しながらあのビルへ。バブル絶頂へと向かう昭和と平成の狭間のエアポケットに現れたあの幻のような出来事は何だったのか。自由で無秩序で、多幸感とエネルギーに溢れ、煌びやかで刹那的なあの場所が、あの時代に確実に存在したことを、僕はこれからも伝えていきたい。

現在の第二東亜会館

Text by Yasuo Nakamura

Collaborate with 東京キララ社

 

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中村保夫 なかむら・やすお/1967年、神田神保町の製本屋に長男として生まれる。千代田区立錦華小学校、早稲田実業中学、同高校卒業。2001年に東京キララ社を立ち上げ、「マーケティングなんか糞食らえ!」をスローガンに、誰も踏み込めなかったカルチャーを書籍化し続ける。書籍編集者以外にもDJ、映像作家として幅広く活動。永田一直主催「和ラダイスガラージ」で5年半レギュラーDJを務め、現在は両国RRRで定期開催されるDJイベント「DISCOパラダイス」を主催。数々のMIX CDをリリースしている。著書には『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』(東京キララ社)、映像作品には『CHICANO GANGSTA』(監督)『ジゴロvs.パワースポット』(監督・編集)などがある。

中村保夫   新宿ディスコ・ナイト 東亜会館グラフィティ

本の説明 

80年代半ば、東京の中高生が熱中したディスコが歌舞伎町にあった。その名は新宿東亜会館。

「GBラビッツ」「BIBA館」「ギリシャ館」などがひしめくディスコビルに、週末になると独特のパステルのファッションに身を包んだ中高生が次々と吸い込まれていった。風営法改正後、昼からの営業となってからこのムーブメントはピークを迎える。

ダンス、曲、服装、出来事…未だ語られていないこのシーンを、ディスクガイド & 7インチ日本盤ジャケギャラリーとともに徹底アーカイブ。

協力:小畑仁 /「Back To The 80's 東亜」事務局

私は1985年5月から歌舞伎町にある東亜会館のディスコに通いだした早稲田実業学校高等部の者です。
この本は、副題に「グラフィティ」とある通り、当時の音楽、踊り、ダンスなどを網羅していますが、その正確性は現場に居合わせた者として保証します。

 この本の随所に書かれていることですが、重要なことは、首都圏の高校生が東亜会館で昼の12時から集まって踊っていたということが、その時代の「一大ムーブメント」だったということです。このムーブメントは、当時、スマホが無かったこともあり、証拠となる写真がほとんどなく、動画に至っては皆無という状況ゆえに、その場にいなかった者には、「あったとしても、それって、そんなに大きなカルチャーだったの?」と疑いたくなるのも当然でしょう。

 しかし、たしかに、あれは、テレビによく映っていた竹の子族に象徴される原宿の文化と引けを取らない、もう一つの少年少女の文化でした。原宿ホコ天が日の当たるロックンロール文化と言うなら、新宿東亜会館は日の当たらないダンス文化だった、と言うべきでしょう。なにせ、飲酒、喫煙、ナンパ、ダンス(風営法のせいでこれも対象)という、どれも大人たちにとっては「けしからん、退学!」としか評価のしようがない側面を持っていたので、表に出てこなかったのも当然のことです。

 では、一体、何が良かったのかというと、根が正直で、「自分に」素直な人が集まっていたということだと思います。「大人に」素直な人ではありません。言い換えれば、東亜会館に正午から参集する少年少女たちは「権威」嫌いで、それを一瞬でも拒絶するために来ていたんだと思います。
 当時は、偏差値で志望校を変更させられたり、終身雇用制だから最初の就職が大事で転職なんてとんでもない、と言った、ある意味でシステム化され、そこから逸脱することが否認される時代でした。それに両親が組み込まれ、その両親が子供にそれを信奉させようとする時代でした。
 昼間から窓のない(トイレにはありましたが)東亜会館で踊り狂った少年少女達の深層心理には、それに対する反逆の精神があったんだと私は思います。そして、この本も、そこまでははっきりと言及していませんが、東亜会館に中高生が集まったのは単なるディスコブームと言うには済まないものがある、という趣旨のことを記載しているのは、まさに、そのことを指しているのだろうと、思っています、勝手ながら。

 最後に、この本を買おうとしている人に失望させない為に言っておきますが、この本は、1984年から1986年までの東亜会館に関する懐古の本であり、誰も知らなかった事象に対して、一隅を照らす心意気で書かれた本です。なので、ターゲット読者層、読者数がはじめから絞られた本です。それを了解したうえで、読んで評価されることを望みます。そうでなければ、きっと、がっかりすることでしょう。

【ハロー・ミスター・モンキー】アラベスク
https://yuru2club.com/wp/?p=31503
この曲が流れてくると、
反射的に「竹の子族」を思い出し、
続いて一時期のディスコを思い出します。
いろんな思いで、
この曲を聞き、振り返って恥ずかしくなったり、
遠い目になったり。
多くのおっちゃん、おばちゃんの中に
いろんな「ハロー・ミスター・モンキー」が
宿っていることでしょう。
1980年頃の六本木ディスコ
懐かしいですね!

スリーディグリーズ・曲・荒野のならず者・1970年代世界ではこんな頭をした、ならず者が流行っていました。ソウルミュージックの幕開けです。当時、私は韓国のミュージックかと思っていました。😅😅😅😅ディスコブーム到来。

バブル時代は大いに遊び回りました。
ジュリアナ東京(1991~1994年)は運営側に知り合いがいたこともあり、週3でVIPルームにふんぞり返りブイブイいわせていました。
 
通説では日本で初めてのディスコ「赤坂MUGEN」(1968〜1987年)の話です。
 手元に残るマッチでお分かりのようにここはクスリをやらなくてもハイになれる“ナチュラルハイ”な場所でした。
三島由紀夫、川端康成、澁澤龍彦、田辺茂一、丹下健三、小沢征爾、横尾忠則、篠山紀信、加賀まりこ、安井かずみ、三宅一生など有名どころが夜な夜な徘徊していました。
 若造の私にはオープン初期には金額は忘れましたが入場料が高くてとても入れませんでした。初めてその門をくぐったのは随分たってからだったと記憶します。
サイケな照明や地下1・2階というヘンテコな作りで黒人R&Bバンドがガンガン演っています。客はベトナム戦争中で横田や厚木あたりの黒人兵とおぼしき連中が多かったような気がします。

1980年頃の撮影。山口百恵21歳。引退を控えていた頃。 新宿のツバキハウスのVIPルーム。 1枚目:左は桑名正博、右は西城秀樹。 2枚目:右は岡田真澄、左は香港の歌手のダニー・チャン。ダニー・チャンの誕生日パーティーとのこと。

お宝発見😋
これ見て、ピンと来た人は
遊んでましたねー😆

1991年2月頃にバブル崩壊し、同年5月にオープンした✨ジュリアナ東京〔ディスコ〕✨お立ち台・ジュリ扇・荒木師匠。

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🎤🐒ハロー・ミスター・モンキー🐒☆🎤☆💟アラベスク💟🎤

🎶🎤🐵🎤🎶➤ https://youtu.be/JVo5aXl8SFo

1977年、西ドイツの実業家であるヴォルフガング・メーヴェス(Wolfgang Mewes)は、当時ドイツから世界に向けてヒットを連発していたボニーMに触発されて、自らもボニーMのようなプロジェクトを作りたいと思い立ち、傘下の音楽出版社でプロジェクトチームを組み、プロトタイプとして「ハロー・ミスター・モンキー」を制作、世界各地に売り込みをかける。 1978年、日本のビクター音楽産業が、「ハロー・ミスター・モンキー」の日本での発売権を獲得し、大ヒットを記録。日本ではオリコン洋楽シングルチャートで1978年6月26日付から通算3週1位を獲得した。このヒットによって、それまでいろいろな人物が入れ変わり立ち変わりしていた「アラベスク」は、音楽プロデューサーにジーン・フランクファーター(Jean Frankfurter)、シンガー・チームにサンドラ・アン・ラウアー(Sandra Anne Lauer)、ミシェーラ・ローズ(Michaela Rose)、ジャスミン・エリザベス・フェッター(Jasmin Elisabeth Vetter)という固定したメンバーによるプロジェクトとして活動することとなる。

🎶🎤🐵🎤🎶➤ https://youtu.be/F3gpstjlhTM