Apex product 【 昭和の楽しい時代 71 】

中1の時に観てたなあ。
カースケ、オメダ、グズ六🥳
あれから49年?
あ~自身も青春だったなあ。

昔、霊柩車が通ったら親指を隠しました。

巨人の王選手も使っていたとか・・・・

「ハレンチ学園」少年たちの性への関心を実際に漫画のかたちで初めて表現したものでした。少年ジャンプ初期のヒット作でもあり、後発で当時の人気作家が描いてくれなかった少年ジャンプの飛躍のきっかけになった漫画でもあります。

「リンゴの唄」(リンゴのうた)は、1945年の日本の楽曲。並木路子、霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ)によって発売され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。
作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。
 第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月11日公開、松竹大船)の主題歌及び挿入歌として発表されました。
私の母が生前、台所で料理しながらよく歌っていた。当時15歳だった母はどんな思いでこの歌を聴いていたんだろう。
このチョコレート、父がパチンコに行って買った時よく持って帰ってくれた高級でお洒落なチョコレート、黒ブラック、黄カシューナッツ、青クランチ、赤ミルクと四つの味がありました。上品な板チョコのスティックが6本入ってました。
もう今は製造終了しているようですが、もう一度食べたいです。
ネットから探したこれはイラストだそうです。

竹鶴政孝。ニッカウィスキーの創業者。マッサンと呼ばれ、リタ夫人とウィスキーに生涯をかけました。北海道余市は、私の両親の故郷。小さい時によく、両親の会話の中に、竹鶴政孝さんや、ニッカの話題が出ていましたね。☕🫖朝ドラのマッサン観ていましたよ!🌹🍀

高倉 健 さん
1931年2月16日生まれ。
2014年11月10日没、享年83す。
福岡県 中間市出身。
俳優、歌手。
1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。 
1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる。高倉の寡黙な立ち姿と目力が東映任侠路線でその威力を発揮した。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。
これ以降、仁侠映画を中心に活躍。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。
『網走番外地』シリーズの主題歌は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている。
『唐獅子牡丹』1966年リリース
https://youtu.be/s5JwYncGfW0

剣をとっては日本一にぃ🎵

ミゼット(Midget)とは、ダイハツ工業が1957年(昭和32年)から1972年(昭和47年)まで生産・販売していた軽自動車規格の三輪自動車!
最後の画像は親子亀三輪車!

若い頃の檀ふみさんと父である作家・檀一雄さん。

東映チャンネル無料放送でロボット刑事見てたら無性に麻雀放浪記を見たくなっちゃった!(笑)
「警視庁にゴツい刑事が入ったって聞いたンだが、ソイツがぬかしたんだな?鉄のドクロはバドーの印って」
今になって突出したシンガーであり
日本が世界に誇るべきエンターティナー
だったんだと…驚きを隠せない大スター
(西城秀樹さん)🤩
完璧なアイドル感に惑わされて、当時は見え
てなかったが…「歌めちゃくちゃ上手いです」
しかも❗本当にカッコ良かった😱
2024/2月20日は
・長嶋茂雄ジャイアンツ終身名誉監督、
・コメディアン・志村けんさん、
・女優・タレントのかとうかずこさん、
・タレントのいしのようこさん、
のお誕生日です😁
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
水の江瀧子さん
(1915年2月20日-2009年11月16日)
女優、映画プロデューサー、タレント。
身長5尺5寸(約166.7cm)。
1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹少女歌劇団、松竹歌劇団)に第1期生として入団。
同期に小倉みね子ら。
日本の少女歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、
「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博しました。
又、宝塚少女歌劇より早い断髪の男役でした。
1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て
1955年に日活とプロデューサー契約。
日本初の女性映画プロデューサーとなり、
石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、
中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、
『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えました。
又、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、
『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わりました。
50年以上に亘り芸能活動を続け、
1984年に「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退。
その後は隠居の傍ら、
ジュエリー作家として活動した他、
1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題に。

こういうタイプのゲームがいくつかありましたよね。10円玉を入れて、途中で穴に落ちない様にレバーでコインを跳ね飛ばして、最後まで運べたら当たりを狙えるゲーム。これは新幹線ゲームですが、シンプルでスリルがあって、楽しめましたね😁😂

左卜全さん
(1894年2月20日-1971年5月26日)
俳優、オペラ歌手。
異母姉は三ヶ島葭子。
埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生誕。
1901年(明治34年)に北野小学校に入学。
1902年(明治35年)、
父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。
まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移り、
1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。
京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るも、
1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入。
1909年(明治42年)、高等科を卒業後、
牛乳配達や新聞配達、土工など様々な仕事に就き、
この間、
苦学して立教中学校(現・立教池袋中学校)に短期間通いましたが中退。
1914年(大正3年)、「帝劇歌劇部」に第3期生として入り、
オペラ歌手として歌唱法やダンスを学びます。
当時は舞踏家を目指していましたが、
帝劇洋劇部が解散したことにより断念。
小さな劇団を転々とし、
1920年(大正9年)、関西に移り「新声劇」に入り、
1926年(大正15年)、「松旭斎天華一座」に入り、活躍。
満州、中国まで巡業に出ました。
1935年(昭和10年)、東京へ戻り、
経営者の佐々木千里に誘われて新宿の「ムーランルージュ新宿座」に入り、
以来、
左卜全の芸名で老け役の喜劇俳優として活躍しているところを松竹に引き抜かれて「移動演劇隊」に入りました。
しかし、
この頃から左脚に激痛を伴う突発性脱疽を発症。
以後は生涯にわたり撮影時以外は移動に松葉杖を使うようになっていきました。
1945年(昭和20年)、
敗戦後に水の江滝子の「劇団たんぽぽ」に加わりました。
1946年(昭和21年)、
52歳にして当時37歳だった遠い親戚の女性(小暮糸)と結婚。
同じ頃、小崎政房を座長とする「劇団空気座」の結成にも参加。
1949年(昭和24年)、「空気座」が解散すると、
小崎の紹介で「太泉映画大泉スタジオ」(のちに合併して東映)に入り、
同年、
今井正監督の『女の顔』にて55歳で銀幕デビュー。
山本嘉次郎監督の『脱獄』での飄々とした演技が目に留まり、
黒澤明監督の『醜聞』にワンシーンながら出演し、
存在を印象づけました。
以後、
フリーとなってからはとぼけた老人役で手腕を発揮しわ
笠智衆と並ぶ老け役の名手として活躍。
黒澤に重用され、『生きる』『七人の侍』等、
計7本に出演、
自他共に認めていた代表作は『どん底』でのお遍路役。
1970年(昭和45年)、
日本グラモフォン(現・ユニバーサルミュージック)より『老人と子供のポルカ』で歌手デビュー。
1971年(昭和46年)、
癌のため5月26日に77歳で没。
黛敏郎さん
(1929年2月20日-1997年4月10日)
作曲家。
戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。
東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたりました。
神奈川県横浜市生まれ。
旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、
橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事。
在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、
既に映画音楽も多く手がけていました。
研究科進学。
1951年研究科卒業。
谷口千吉さん
(1912年2月19日-2007年10月29日)
映画監督。
妻は女優の八千草薫。
東京府寺島村出身。
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)卒業。
早稲田大学文学部英文科在学中は、
千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い左翼系新劇の演出家を目指すも
弾圧を受けて1930年に中退。
1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社。
山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務めました。
同期には、亀井文夫、本多猪四郎。
ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友。
1947年、
山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
これは三船敏郎の俳優デビュー作でもあり、
山男の谷口が北アルプスでロケをしたことで、
『キネマ旬報』ベスト・テン7位を獲得するなど高い評価を受けています。
この作品にサード助監督として付いた岡本喜八は、
以降多くの谷口作品に助監督として付く事に。
「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と謳われて、
東宝ではアクション路線を担当。
1950年代後半には会社から3年近く干された事もありました。
1960年代にはB級アクション映画や喜劇映画が回ってくるようになり、監督本数は減少。
1970年の日本万国博公式記録映画の総監督を経て、
1975年の『アサンテ サーナ』を最後に監督作品はなく、
最後まで表立った活動は見られず。
2007年10月29日、誤嚥性肺炎のため死去。95歳没。
🟠作家と女優、『伊豆の踊り子』1963
💙作家、川端康成(64)
❤️女優、吉永小百合(18)
🟣作家のお気に入りの女優でしたね。
好きな映画俳優。
[ジャッキー・チェン]。
自分や友達が子供の頃に夢中で見て真似したりした香港映画のスターでした。
自分より上の人は[ブルース・リー]だと思いますが、自分はもう[ジャッキー・チェン]に夢中でした。最初に見たのは[ゴールデン洋画劇場]だったと思います。
もうそこから修行シーンとかを真似したりしてましたね。
[酔拳][蛇拳][笑拳]の拳シリーズから始まり全て見ましたね。
びっくりしたのは[ドラゴンロード]で見終わってエンドロールで帰ろうとした観客が突然のNGシーンが始まり全員が止まりましたね。
最後の最後まで観客を楽しませるジャッキー・チェンは凄いですね。
特に凄かったのが1984年〜1985年でした。
1984年12月[スパルタンX],
1985年6月[プロテクター]。
    8月[大福星]。
    9月[ファースト・ミッション]。
    12月[ポリスス・トーリー/香港国際警察]。
1985年は1年で5作もジャッキー・チェンの作品が見れた事は単純に凄かったですね。
ジャッキー・チェンファンからしたら[プロジェクトA]が1番と言う人が多いでしょうが自分の中では[ポリス・ストーリー/香港国際警察]が最高作だと思います。特にラストのショッピングセンターでのアクションは素晴らしかったです。
何故かジャッキー・チェンの作品は日本劇場公開版はDVD、配信で見れないのも多くBlu-rayを買わなければ見れないのはかなり残念ではあります。
まあ今はジャッキー・チェンは中国の言いなりのような人間になってしまい残念な俳優になってしまいましたが昔の作品は本当に面白かったです。
[刑事物語シリーズ]。
1作目[刑事物語]。
2作目[刑事物語2りんごの詩]。
3作目[刑事物語3潮騒の詩]。
4作目[刑事物語4黒潮の詩]。
5作目[刑事物語5やまびこの詩]。
原作・脚本・片山蒼(武田鉄矢)
1作目・渡邊裕介監督。
2〜5作目・杉村六郎監督。
中国拳法の螳螂拳、木のハンガーを武器に犯人に立ち向かう武田鉄矢主演の映画シリーズ。
武田鉄矢の代表作は多くの人が[金八先生]と答えるだろうが自分はこの作品です。
[男はつらいよ]を意識して女性に毎回振られて警察署を異動させられてしまう作品でした。
自分の中では[刑事物語2りんごの詩]が1番大好きで号泣した作品です。
この時は多くの人が同時上映の松田聖子の映画目当てで来たと思いますが終わったら[刑事物語]で皆泣いてましたし良かったと言ってました。
シリーズは5作続きましたが1、2は木のハンガー、3作目からミニフラフープ、4はゴルフクラブ、5はテニスラケットを武器に戦っていましたね。
全作通して流れる吉田拓郎の主題歌[唇をかみしめて]は素晴らしく名曲だと思います。
かなり大好きなシリーズでしたが終わってしまったのは残念でした。

青島だぁ❗️🤗

杉原輝雄さん
日本プロゴルフ界のドン‼️
2009年中日クラウンズで同一大会50年連続出場を達成し、アーノルド・パーマーのマスターズ連続出場およびC.エバンズの全米アマにおける連続出場の世界タイ記録に並ぶ。
2010年4月29日クラウンズ出場が51年連続となり、世界記録を更新。
藤岡弘さん
(1946年2月19日-)
俳優、タレント、武道家、声優、歌手、探検家、実業家。
身長180cm。
刀道七段(教士)、抜刀道四段、柔道三段、空手初段、小刀護身道四段、居合道初段。
1971年から1973年にかけて放送された特撮テレビドラマ『仮面ライダー』の本郷猛役で主演を務め、
一躍人気俳優に。
また、
日本人として初めて全米映画俳優組合(SAG、現・SAG-AFTRA)のメンバーとなったことでも知られます。
2002年(平成14年)に
川口浩の後任として「藤岡弘、探検シリーズ」が開始されて以降、“藤岡隊長”が愛称に。
愛媛県上浮穴郡久万町(現・久万高原町)出身。
松山聖陵高等学校卒業。
黛敏郎さん
(1929年2月20日-1997年4月10日)
作曲家。
戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。
東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたりました。
神奈川県横浜市生まれ。
旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、
橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事。
在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、
既に映画音楽も多く手がけていました。
研究科進学。
1951年研究科卒業。
小川真司さん
(1941年2月19日-2015年3月7日)
声優、俳優、ナレーター。
身長165cm。
東京府東京市出身。
大手企業の社長の息子として生まれ、
後に等々力に移住。
少年時代は可愛らしい顔だったためカメラマンにスカウトされ、
小学1年から3年まで『太陽少年』という少年誌の表紙モデルを、
また、
小学生から中学生になるまでクラシック・バレエを習っていました。
その後、
作曲家を目指すも才能がないと思い断念、
普通の仕事に就くつもりでしたが、
東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を卒業する頃、
友人(河内桃子の妹)から俳優座養成所の卒業公演に招待され、
観に行ったところ、華やかで楽しそうだと感じ、
父親に反対されながらも「援助はいらない」と説得して、
大学進学よりも劇団入団を目指すように。
そして俳優座に合格して、養成所に入所。
養成所の新人を探していたテレビ局関係者から抜擢され、
石坂洋次郎原作の青春ドラマ『寒い朝』で十朱幸代の相手役としてデビュー。
養成所卒業後は文学座入団を志望しましたが、
その年に文学座が劇団員を採用していなかったため、
小沢昭一が結成した俳優小劇場に入団。
30歳を過ぎてから大人役の声が増え、
『華麗なる世界』の吹き替えを1年間全うすることができ、
以降は声の仕事でも積極的に活動するように。
映画、テレビ出演は脇役が中心ですが、
飄々とした持ち味を岡本喜八監督に買われ、
劇場映画4本、テレビ映画1本で起用。
中では、
テレビ『幽霊列車』での、
内田朝雄、天本英世、殿山泰司、山本麟一らベテラン俳優たちとアンサンブル芝居を繰り広げる村会議長役が代表的。
2014年秋頃から体調を崩し、
喉の違和感を訴えて入退院を繰り返しながら、
レギュラー出演していた『クリミナル・マインド FBI行動分析課』の吹き替え収録などの役者活動を継続していましたが、
2015年2月に入った直後、
体調不良により全ての持ち役を降板、
同年3月7日、器質化肺炎のため死去。
74歳没。
この間、YBSラジオのプチ鹿島さんが出演してる番組聴いてたら、「めだかの兄妹」(わらべ)が流れてきて、懐かしかったなあ。
当時、僕は中学1年だったんだけど「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(欽どこ)よく見てたんですよ。
シングルも買ったの覚えてる。
「パプリカ」「マル・マル・モリ・モリ!」と同じで、今でもこの歌を保育園&幼稚園で流したら、子供たちにウケるんじゃないかなあ。
高部知子さんは紆余曲折あったけど、今は精神保健福祉士(!)として立派にやってられる。
これからも、元気でいてほしいですね。
#めだかの兄妹 #わらべ  #欽ちゃんのどこまでやるの!? #高部知子 #精神保健福祉士 #プチ鹿島 #YBSラジオ
2月19日は「#プロレスの日」。
少年誌掲載の原典『#タイガーマスク』は原作 梶原一騎氏、作画 辻なおき氏。殆ど犯罪シンジケート並の組織力を誇る「虎の穴」を裏切った主人公・伊達直人は、正義のプロレスラーとして孤児たちを支える闘いに身を投じる!
『エクソシスト』1973年
ウィリアムフリードキン監督
善と悪、光と影、宗教と最新医療、古代と現代、ユダヤとカトリック、さまざまな対比の構図からなるこの映画だが、この作品は単なる悪魔憑きの少女の話ではなく、少女と、そして信仰を失いかけた一人の神父の話である。
上映当時アメリカは、ウォーターゲート事件、公民権運動、ウッドストック、ベトナム反戦、アメリカンニューシネマに見るカウンターカルチャーによって、若者がいきり立ち、吠え、大勢となり、社会に対する反骨精神が爆発していた。
主人公のリーガンもその一人だ。
劇中まだまだ少女の筈のリーガンが母であり女優であるクリスマクニールと表紙を飾ったゴシップ紙を読んでいることを知ったクリスは狼狽する。
この映画が社会現象になったのは、恐るべき子供たちと、その手をもて余した大人たちの暗喩だと思える。後にロベールブレッソンが、『たぶん悪魔が』で自殺願望に駆られる若者を描いたのも、当時の変化してゆく社会と若者の姿である。
監督のウィリアムフリードキンは撮影中、人間や動物の呻き声、さらには本物の悪魔祓いの絶叫や悲鳴を絶えずセット内で流し、その上そこかしこに拳銃や散弾銃を隠し、いざというときには躊躇せず発砲していたというから驚きだ。あのヒリヒリした極度の緊張感はそうしたフリードキンの異常な拘りが為した映像なのだ。物語の中心人物の一人であるカラス神父も、驚愕した表情を出すためにフリードキンから激しくビンタされ、予告もなく反吐をかけられたと言うからたまったものではない。
そのカラス神父は信仰を失いかけたまま悪魔の待つ部屋へと何度も階段を上る。何度も何度も神の存在を探すかのごとく。そして神と共に昇天し、悪魔を連れて階段を堕ちてゆく。堕ちたカラス神父がダイアー神父に告解するシーンは胸に刺さる。
悪魔パズズと対峙するメリン神父に、ベルイマンの『第七の封印』で死神と対峙するマックスフォンシドー。同じく『叫びとささやき』におけるイングリットチューリンの血塗れの自慰行為はリーガンの十字架自慰行為と、明らかにベルイマンからインスピレーションを受けているのも興味深い。

幼い頃 この車の曲線美が一番大好きでした。初めて買ったプラモデルでした。完成して嬉しかったのを覚えてます。

プロレスの力道山が見たくてテレビのあるお家に集まりました。まだテレビが高くて庶民の物ではなかったのです。昭和30年頃

『ムー』と『ムー 一族』。
大好きなホームドラマでした♪
母親の買い物に付いて行くと買ってもらえた。
これでいろんな乗り物の事を覚えた。

子供の頃は田んぼや広っぱなどでオケラを見たが、大人になってからは全く見なくなったオケラは絶滅危惧種かなぁ〜

私の場合、小学生になるかならないかの頃まで手押しポンプがありました。
この写真のように住宅の真ん中にありみんなが共同で使っていました。
昭和30年代の後半のことです。
2024.2.19
昭和20年代のエレベーターガールと、
エスカレータガール
昭和時代は花形職種!美人さんばかりでしたよ。
昭和の懐かしい紙芝居!
自転車の箱の引出しの駄菓子が!
昭和30年頃の東京・渋谷「恋文横丁」の光景。
横丁を通る男女の後ろ姿、また店先の立て看板には、ビール140円、お酒50円、焼酎30円など当時の値段が書かれています。

1964年の少年お正月増刊号ふろくの少年漫画ブックですね、この年の10月10日に東京オリンピックが開催されました。東海道新幹線が走り高速道路が開通して国全体が明るい雰囲気が漂って何か良かったなぁ!!

貸本屋はなくなってしまいましたね

ポンポン船です (;^_^A たらいとか、自宅庭の池で良く遊びました

パチンコが十八禁のころ、スマートボールは高校生でもできました…

ロバのパン屋~良く買いました(^-^)

懐かしのテーブルゲーム

山田吾一さん
(1933年2月20日-2012年10月13日)
俳優・声優。
北海道瀬棚郡瀬棚町(現・久遠郡せたな町)出身。
北海道深川西高等学校卒業。
高等学校時代に演劇部で活動し、
1951年、卒業後に会社員となるも、
演劇への夢を捨てきれず、1952年上京。
舞台芸術学院本科に入り、
卒業後、劇団四季・劇団中芸に所属。
1958年には『事件記者』にガンさんこと岩見記者役で出演。
猪突猛進型の正義感溢れる記者役を演じ、
これが生涯の当たり役となり、
後の劇場版にも同役で出演。
テレビドラマや映画の脇役で活動し、
1974年の『激突! 殺人拳』では
千葉真一が扮する主人公の相棒である中国人を演じています。
1990年には一人芝居の劇団「吾一座」を旗揚げし、
舞台『軽き者の儀・赤穂第四十七士』を上演。
5歳年下の落語家古今亭志ん朝は親友でした。
2012年10月13日、心不全のため79歳で死去。
長嶋茂雄さん
(1936年2月20日-) 
千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督。
身長178cm。
読売ジャイアンツ終身名誉監督、
株式会社読売巨人軍専務取締役、
日本プロ野球名球会顧問、
ジャイアンツアカデミー名誉校長。
愛称は
「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他。
同時代に活躍した王貞治とはともに「ON砲」として称され、
2人のバッティングは巨人のV9に貢献。
日本のプロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初。
NPB最多記録となる最多安打を10回獲得、
セ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得。
巨人軍4番出場試合数2位(川上哲治に次ぎます)。
2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役終身名誉監督。
2013年に国民栄誉賞を受賞、
2021年にプロ野球界初となる文化勲章を受章。
前田吟さん
(1944年2月21日 - )
俳優。
身長170cm。
次男(前妻の連れ子)は俳優の前田淳、
四男は競技ダンス選手の前田亨。
山口県防府市にて生誕。
父親は京都通信の記者、母親はタイピスト。
実父は1945年8月6日の広島市への原爆投下の日に広島市にいて消息を絶ち、
母は乳呑み児だった信明を抱えて路頭に迷い、
親戚筋の子どものいない老夫婦に謝礼をつけて、
生後100日で前田家の養子に入れました。
4歳の時に養母を亡くし、
12歳の時に養父を亡くし、
その後は再び親戚をたらいまわしにされ、
電気も通っていない村で、ランプで生活。
実母がお金を出してくれて、
中学卒業後は山口県立防府高等学校に進学するも、
実母の再婚で送金が止まり、1年で中退。
15歳で高校中退後は「有名になってやろう」と大阪に出て、
ボクサーか歌手か俳優を目指します。
ひとまず家具屋に丁稚丁稚。
黒澤明監督の『野良犬』や『七人の侍』を見て感動したことにより役者を志し、
演劇研究所「シャトル・アントンス」に通い、
講師をしていた倉橋仙太郎の俳優教室に入り、
それと並行して高校卒業の資格を取るために通信教育の高校に入学。
結婚式場・天王殿で下働きや、天王寺公園でポン引きなどをして食い繋ぎます。
家具屋時代に、
1962年、通信教育による高校卒業資格取得後、
本格的に役者を目指して上京。
東京芸術座研究所第1期生となり、
1963年、劇団俳優座養成所15期生。
同期に
地井武男、原田芳雄、夏八木勲、小野武彦、村井国夫、林隆三、高橋長英、秋野太作、浜畑賢吉、竜崎勝、栗原小巻、太地喜和子、赤座美代子、三田和代ら、
錚々たるメンバーが並ぶ、花の15期の一人。
新宿の歌声喫茶でボーイや、工事現場、印刷工、サンドイッチマンなどの労働に励みながら役者になるチャンスをうかがい、
1964年、2学年上の女性と結婚。
デビューから1966年までは本名で活動し、
翌1967年より現在の芸名へ改名。
俳優仲間からは「吟ちゃん」、
後輩の役者達やタレント陣からは「吟さん」の愛称で呼ばれます。
1964年、『判決』第1シリーズ・第105話「沖縄の子」(NET)でデビュー。
1965年、『純愛物語』(朝日放送)に主役として出演。
1968年、
現在の芸名に改名直後に出演した『ドレイ工場』で誠実な工員役を演じ、
この演技が山田洋次監督の目にとまり、
1969年、
山田監督の映画『男はつらいよ』に寅次郎の妹さくらに惚れる印刷工・諏訪博役として出演。
この役柄に前田の人柄がベストマッチし、
さくらと結婚した博としてシリーズ50作全てに出演。
1977年には森谷司郎監督『八甲田山』で斉藤伍長を演じました。
橋田壽賀子・石井ふく子関連作品には多数出演しており、
特に1980年放送の『心』(TBS系)での宮寺順一役は前田の代表作に。
大映ドラマへの起用も多く、しぶとい悪役を演じました。
2002年4月1日から同年9月27日までの半年間、
テレビ朝日系の『スーパーモーニング』の司会を務め、
歌手としてもシングルレコード3枚、シングルCD1枚をリリース。
近年は
テレビ・ラジオのバラエティ番組やトーク番組、新聞・雑誌等のインタビューへの出演も多数。
2020年3月まで放送のテレビ東京系のクイズ番組『二代目 和風総本家』の2代目司会を2019年5月16日から務めていました。
2021年に妻をすい臓がんで亡くし、
2022年に歌手の箱崎幸子(箱崎晋一朗の未亡人)と再婚。
『#快傑ライオン丸』のレコードドラマ「決闘! ライオン丸対魔王ゴースン」(脚色 柏原敏之 氏)。
ゴースンの分身である魔人デボノバのほか、第4話登場のムササビアンが登場し、沙織と小助を火あぶりで蹂躙するが、ヒカリ丸が救けに現れる。画は #石原豪人 氏。
昭和の名作アニメアタックNo.1。
東京オリンピックで日本女子バレーボールチームが
宿敵ソ連を敗り金メダルを獲得。彼女たちは東洋の魔女との異名で呼ばれました。
これがきっかけでアタックNo.1が産まれました。

昭和30年代の駅弁(静岡駅)タイムスリップしてたべたいな。

志村けんさん
(1950年2月20日-2020年3月29日)
コメディアン、俳優。
身長169cm。
東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)出身。
ザ・ドリフターズのメンバー。
東村山市名誉市民。
東京都立久留米高等学校(現東久留米総合高校)に進学、同高の第1期生に。
同高ではにサッカー部に所属、
ゴールキーパーとして活躍。
卒業後は、
加藤茶の付き人、
「マックボンボン」結成や消滅、
ドリフのメンバー見習いを経て、
1974年4月1日をもって、正式メンバーに昇格。
2020年3月29日、
当時パンデミック初期であった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去。
70歳没。

ここが今、営業しているかは分かりませんが、京橋というところにある様です。昭和のおじさんの楽園という感じですね😂

大杉漣さん
(1951年9月27日-2018年2月21日)
俳優、タレント。
徳島県小松島市出身。
明治大学中退。
身長178cm、体重72kg。
長男は写真家の大杉隼平。
異名は「300の顔を持つ男」「カメレオン俳優」。
徳島県小松島市にて四人兄弟の末っ子として生誕。
大学中退後、
劇作家・太田省吾氏の「役者の背中」という文章に出会い、74年転形劇場に入団。
88年に転形劇場解散。
その後も
舞台、映画、テレビの出演を続ける中、
北野武監督作『ソナチネ』(93)のオーディションに合格。
撮影中に端役からメインキャストへ異例の抜擢となって俄然注目を浴び、
折りからのオリジナル・ビデオ勃興の時期と重なったこともあり、出演作が激増。
映画、テレビドラマに欠かせない名脇役として、
又時には主演俳優として、
超大作から学生の自主映画まで出演。
更には
ナレーション、CM、音楽ライブ、「大杉漣の漣ぽっ」(BSフジ)やバラエティ番組等では、
愛嬌たっぷりの人懐こいキャラクターで多くの出演者、スタッフ、視聴者に愛されました。
2018年2月20日深夜、
主演ドラマ『バイプレイヤーズ〜もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら〜』のロケのために
滞在していた千葉県富津市内のホテルで腹痛を訴え、
番組関係者に付き添われてタクシーで千葉市内の救急病院へ搬送。
病院到着時にはすでに重体となっており、
総合病院への搬送も検討されましたが、
「治療が間に合わない」という病院側の判断で集中治療が継続。
しかしその後容態が急変、
翌2月21日午前3時53分に急性心不全のため死去。
66歳没。
「大場久美子ラストコンサート」
日本武道館1979年10月19日
https://youtu.be/fmzGks-NCyE?si=MnQ66I0hoD_ejZYX
当日は台風の影響で公共交通機関が
ストップして開催があやぶまれ
ました。そんな中あらゆる手段を
使って7000人をこえるファンが
武道館に駆けつけました。
ファンとは有り難いものですね。
この時で歌手活動を引退しました。
(MySweetSongs)