Apex product 【 昭和の楽しい時代 53 】

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1928年11月1日、
この日、ラジオ体操が放送開始。
東京中央放送局からラジオ体操放送開始(朝7時から)NHK江木理一アナウンサー登場。
ラジオ体操普及のため体操講演会を昭和4年末まで行いました。
「ラジオ体操第1」
初代:1928年11月1日-1946年4月13日 (ただし、1945年8月15日-22日は放送中止)
『ヘルプスト進行曲(可愛い歌手)』
作曲:福井直秋
1939年に武内俊子作詞による
「朝風そよそよラジオは響く一、二、三」と歌い出す歌詞が付きました。
この歌詞付きバージョンには「朝日を浴びて」という題名が与えられました。
・初代第1用の曲としては『ヘルプスト進行曲(可愛い歌手)』の他にも
「其二」、「其三」、「其四」等の別の曲が作られましたが、それらは比較的短期間にて使用終了。
→体操は以下の11科目から
・膝を屈伸する運動
・頭を前後にまげる運動
・頭を横にまわす運動
・腕を横から斜め上に振る運動
・腕を前から上に振りあげる運動
・手を外にかえし腕を横から斜め上にあげ胸を後ろへまげる運動
・片腕を横からあげながら体を横にまげる運動
・体を前後にまげる運動
・腕を横斜め上に振り体を横にまわす運動
・膝を屈伸する運動
・腕を前から上にあげる運動
(戦前ラジオ体操)
ロバのパン屋はちんからりん♪
今は下のような車になったようですが、私が幼稚園くらいの頃はロバがひいてました。
独特の味わいの蒸しパンまた食べたいな~
市川雷蔵氏の痛快活劇、眠狂四郎。
若くて急逝、彼の生い立ちと狂四郎の何処か共通したものを私は感じました🙂
彼を知ることで、眠狂四郎と言う架空のヒ-ローを身近に感じる気がします(ちょっとオ-バ-かな😊)
余談ですが、映画の中にはお父さんたちが喜ぶエロチックなシ-ンが盛りだくさんです😆
好きな映画ですが今は見るのが難しい映画。
[思えば遠くへ来たもんだ](1980年)。
朝間義隆監督。
武田鉄矢、あべ静江、熊谷真実、志方亜紀子、山田隆夫、吉田次昭、村田雄浩、山谷初男、たこ八郎、山本圭、大滝秀治、泉ピン子、大山のぶ代、乙羽信子、植木等、等出演。
九州からみちのくの城下町にやって来た教師と、落ちこぼれ生徒達との心の触れ合いを描く学園青春映画。
[3年B組金八先生]が代表作の武田鉄矢が唯一映画で先生役を演じた作品です。金八先生よりも武田鉄矢に近いキャラクターのような気がします。
70年代の秋田県の美しい風景も素晴らしく海援隊の主題歌も心に沁みます。
良い映画ですがビデオにはなりましたが今だにこの作品はDVD、Blu-rayにはなってません。
BS、CSで放送されなければ、ビデオを持ってる人以外はかなり見るのが難しい映画になってます。
当時は[男はつらいよ]シリーズの同時上映でしたが、結構同時上映の映画はDVDになっていないのが多いですね。良い映画だけに残念です。
☆懐かしき映画解説者☆
★淀川長治
 サヨナラ サヨナラ サヨナラ👋
★水野晴郎
 いやぁ、映画って本当に良いもんですね🥸
★小森和子
 来週もモアベターよ😘
★荻昌弘
 特に決めゼリフなし😅
皆さん、ただ映画のあらすじを言うだけの解説ではありませんでした。
ハイ! またお逢いしましたね~😁 淀川長治さん懐かしいなぁ~🤔
1949年11月3日、
この日、
湯川秀樹にノーベル物理学賞が贈られることが決定。
日本人初のノーベル賞受賞。
(湯川秀樹)
手塚治虫さん
(1928年11月3日-1989年2月9日)
漫画家、アニメ監督、医師。
勲等は勲三等。
学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、
漫画表現の開拓者的存在として活躍。
兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。
出生は大阪府豊能郡豊中町。
大阪帝国大学附属医学専門部卒業。
大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に
4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。
1947年、
酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、
大阪に赤本ブームを引き起こします。
1950年より漫画雑誌に登場、
『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』
といったヒット作を次々と手がけました。
1963年、
自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、
現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしました。
1970年代には
『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。
また晩年にも
『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出します。
デビューから1989年(平成元年2月)に死去するまで
第一線で作品を発表し続け、
存命中から「マンガの神様」と評されました。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、
石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、
矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ
数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志しました。
(手塚治虫)
小林旭さん
(1938年11月3日-)
俳優、歌手。
身長180cm、体重98kg。
特技は柔道(五段)、ゴルフ。
愛称は「マイトガイ」。
東京市世田谷区出身。
東宝、新東宝、文化映画の照明技師だった父と、
小唄・端唄の師匠だった母との間に誕生。
1944年、
小学校1年生で三越劇場の劇団公演『青い鳥』で初の舞台出演。
日活のエキストラを経て、
1954年第3期日活ニューフェイスに合格。
目黒高等学校を経て明治大学文学部中退。
1956年(昭和31年)、映画『飢える魂』でデビュー。
1957年、『青春の冒険』で初主演。
1958年、
石原裕次郎と共演した『錆びたナイフ』での演技が評価されると、
同年の『絶唱』は代表作となり、
日活を代表する俳優の一人として認識されるように。
1959年、
映画『南国土佐を後にして』が大ヒットし、
石原裕次郎と並ぶスターに。
以降、
映画『渡り鳥シリーズ』、『旋風児シリーズ』、『流れ者シリーズ』などに出演。
石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築きます。
1958年(昭和33年)、
日本コロムビアより「女を忘れろ」で歌手デビュー。
第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、
ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名。
以降、
映画の『ギターを持った渡り鳥』、
映画『銀座旋風児』などの主題歌、挿入歌を歌い、ヒット。
また、
「自動車ショー歌」、「恋の山手線」などのコミックソング、
「昔の名前で出ています」、「熱き心に」などの歌謡曲作品も歌っています。
これらの楽曲を独特な高音を交えた歌唱で歌うことから、「アキラ節」とも呼ばれています。
映画『ギターを持った渡り鳥』など、
『渡り鳥シリーズ』のコミカルな役を真剣に演じることで、
人気シリーズに成長させました。
1960年(昭和35年)頃、
映画での共演をきっかけに
浅丘ルリ子と同棲、結婚を考えていましたが、
浅丘の父の猛反対により断念し、関係を解消。
1962年5月29日、小林と美空ひばりは婚約発表。
1964年(昭和39年)に事実婚を解消。
1964年(昭和39年)、
クラウンレコードへ移籍し、
1967年(昭和42年)には女優の青山京子と再婚。
長女の真実と長男の一路の二子に恵まれます。
1968年には主宰する会社であるアロー・エンタープライズで、『赤道を駈ける男』を製作。
日活が業績悪化していた1971年(昭和46年)、
自らが主宰するアロー・エンタープライズが製作したテレビドラマ『ターゲットメン』に出演し、
得意のアクションを披露しましたが、
事業の失敗により“14億円もの債務”を背負いました。
同年『暴力団・乗り込み』への出演を最後に日活を正式に離れ、フリー。
1972年(昭和47年)に東映に移籍。
1973年(昭和48年)より
映画『仁義なき戦い』シリーズの
『仁義なき戦い 代理戦争』、
『仁義なき戦い 頂上作戦』、
『仁義なき戦い 完結篇』の武田明役で出演。
『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』などの東映実録映画や
1978年(昭和53年)、
『多羅尾伴内』のリメイク作に出演。
1976年、
自身の会社である、旭日総業、アロー・エンタープライズが倒産。
1977年(昭和52年)、
1975年に発売されていたレコード『昔の名前で出ています』が2年を経て大ヒット、
『第28回NHK紅白歌合戦』に初出場、
1996年(平成8年)までに7回『紅白』に出場。
1980年(昭和55年)、
『旅がらす事件帖』(関西テレビ・フジテレビ系)でテレビ時代劇初主演を飾ると同時に、
主題歌「みだれ雲」を歌い、話題に。
翌年の1981年(昭和56年)には、
『旅がらす事件帖』と同じスタッフによる『幻之介世直し帖』(日本テレビ系)に出演。
主題歌「思いやり」を歌うと同時に、
最終回(第24話)では、
乾幻之介役の小林自ら監督も手掛けました。
同年、レコード会社をポリドールへ移籍し、
1985年(昭和60年)に
小林の大ファンでもあった大瀧詠一が
小林のために書き下ろした(作詞は阿久悠)「熱き心に」が大ヒットし、
1986年(昭和61年)第15回FNS歌謡祭最優秀歌唱賞を受賞。
同年『第37回NHK紅白歌合戦』に2回目の出場を果たします。
2002年(平成14年)には大瀧の企画・監修による4枚組CDが発売。
1988年(昭和63年)、
『春来る鬼』で映画監督としてデビューするも、興業は不振。
その後1992年(平成4年)『修羅の伝説』で俳優業に復帰、
翌年にはNHKの大河ドラマ『琉球の風』にも出演。
1995年、
デビュー40周年記念に読売テレビのドラマ『寝たふりしてる男たち』に出演。
2003年には『首領(ドン)への道』に出演しましたが、
以降映画への出演は無し。
2004年(平成16年)、
芸能生活50周年を記念し、
石原裕次郎や美空ひばりとのことなど、
それまでの人生について綴った『熱き心に』を出版。
2006年(平成18年)、
本人をモチーフにしたパチンコ機「CR渡り鳥AKIRA」が登場。
2007年(平成19年)2月23日、
日本プロゴルフ協会(PGA)から、
川上哲治、羽佐間正雄らとともにPGA名誉会員(2006年に制定)に認定。
2007年(平成19年)4月、
インディーズのレコード会社UKプロジェクト内に
自身のレーベルである「マイトガイレーベル」を設立。
マイトガイレーベル第1弾CDとなる、
本人の作詞・作曲による新曲「折紙人生」が、
NHK『ラジオ深夜便』の7月から9月の「深夜便の歌」として採用。
また、
同7月には大阪新歌舞伎座で舞台『無法松の一生』にて20年ぶりの座長公演を務めました。
2017年(平成29年)10月5日、
フジテレビ系『バイキング』にて、
芸能生活で初めてコメンテーターという立場でのテレビ出演。
現在、
FOSゴルフ指導者マスターライセンスを取得し、
国際スポーツ振興協会の専属プロ、
日本ゴルフ指導者協会副総裁の肩書を持ちます。
2020年6月16日、
YouTubeにて小林旭マイトガイチャンネルを設立。
(小林旭)
さいとう・たかをさん
(1936年11月3日-2021年9月24日)
漫画家。
和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身。
東京都中野区、岩手県花巻市在住。
貸本漫画時代に劇画の分野を確立した人物の一人であり、
一般漫画の世界に転向後も『ゴルゴ13』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、
劇画界の代表的人物。
また「さいとう・プロダクション」を設立し、
各スタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立。
(さいとう・たかを)
河原崎建三さん
(1943年11月3日-)
俳優。
身長174cm。
四代目河原崎長十郎の子として東京都武蔵野市で育ちます。
早稲田大学卒業。
父である四代目河原崎長十郎の前進座の子役として舞台に立ち、
1968年に映画『愛奴』で俳優デビュー。
特技は日本舞踊、長唄、狂言。
趣味は読書、バロック音楽を聞くこと、絵を描くこと。
[著名な家族]
大川栄子(妻)
河原崎長一郎(兄)
河原崎次郎(兄)
岩下志麻(いとこ)
伊藤榮子(義姉)
(河原崎建三)

11月4日は女優 #池内淳子 さんのご生誕日。ご存命なら今年90歳。日本橋三越(担当は呉服売場)を退社後、グラビアをきっかけに 1955年 新東宝 東京映画などの作品に出演。1962年より活躍の場をテレビとし、メロドラマやホームドラマの主役として活躍なさいました(2010年没。享年76)。合掌。

池内淳子さん
(1933年11月4日-2010年9月26日)
女優。
東京市本所区東両国(現:東京都墨田区両国)の塩物問屋の長女として誕生。
幼稚園はトモエ学園に通いました。
1952年(昭和27年)、十文字高等学校卒業後、
日本橋三越への入社試験に受かり、
親の反対に遭うも祖父の許しを得て無事に入社、
配属された呉服売り場に後の女優・前田通子もおり、そこで2人の美貌が評判に。
1年余り勤めたのちに退社し、
花嫁修業のため和裁と料理の学校(日本女子割烹専修学校(現:池袋調理師専門学校))へ通いました。
1954年(昭和29年)、
週刊芸能誌『サンケイグラフ』の第2回「カバーガール」に応募。
同年9月10日に新東宝本社で開かれた選考委員会で1位に輝きました。
『サンケイグラフ』は新東宝撮影所へ池内を推薦。
関係者の目にも留まり、同社へ入社。
偶然にも前田と再会。
1955年(昭和30年)、『皇太子の花嫁』で映画デビュー。
続く清水宏監督の『次郎物語』で姉役を演じ注目されます。
以来池部良、宇津井健の相手役として多くの作品に出演。
1956年(昭和31年)、『新妻鏡』で初主演。
久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びます。
その間、俳優の柳沢真一と結婚。
1957年(昭和32年)、
映画界を引退、翌年に離婚。
1960年(昭和35年)、
『花嫁吸血魔』(並木鏡太郎監督)で映画界復帰。
映画出演と平行して
TVドラマ『今日を生きる』、『日日の背信』(丹羽文雄原作、共演:原保美)などに主演(後者は昼ドラマにもかかわらず驚異的な高視聴率を記録、人気女優として名を轟かします)。
1961年(昭和36年)8月末日、
新東宝は負債総額7億8千万円(当時)を抱えて倒産。
東京映画へ移籍。
『社長シリーズ』、『駅前』シリーズ、『花影』、『けものみち』などに出演。
1962年(昭和37年)、
「よろめきドラマ」(現在の不倫ドラマ)には欠かせない存在として人気を集め、
「日本放送作家協会女性演技者賞」を受賞。
お嫁さんにしたい女優でも上位にランクインし、
人気・演技力ともテレビ女優ナンバー1の地位を確立。
中でも『女と味噌汁』シリーズは
毎回高視聴率を誇り、代表作に。
1966年(昭和41年)3月、
「第8回マルデルプラタ映画祭」出席のため、
南米アルゼンチンを訪問。
1974年(昭和49年)、
日本テレビとテレビドラマ出演のための専属契約を結び(特例条件としてTBS『東芝日曜劇場』と映画の出演は可)、
この契約は1980年(昭和55年)まで続きました。
2002年(平成14年)、紫綬褒章を受章。
2007年(平成19年)4月、
舞台『三婆』の地方公演中に
胸の違和感を訴えて検査入院した処、
間質性肺炎、胸水貯留、肺腫瘍の診断が下され、
約3か月の安静加療が必要となりました。
そのため、
同年5月25日から予定されていた『怪談牡丹燈籠』の全国公演の降板を発表(代役は水谷八重子)。
同年6月に一旦退院、
8月中旬からは民放の単発ドラマで仕事復帰。
2008年(平成20年)4月、
春の叙勲での旭日小綬章授与が日本政府より伝達。
2009年11月、
天皇陛下御在位二十年記念式典に出席。
同式典において、
上皇明仁と上皇后美智子が関心を持つ分野の代表者の一人として、池内が紹介。
2010年(平成22年)5月16日まで、
名古屋の中日劇場で舞台『三婆』に出演していたが、その後再入院。
約4ヶ月後の同年9月26日午後4時21分、
肺腺癌のため東京都内の病院で死去。
76歳没。
(池内淳子)
西田敏行さん
(1947年11月4日-)
俳優、歌手、タレント、司会者。
勲等は旭日小綬章。
協同組合日本俳優連合理事長、日本アカデミー賞組織委員会副会長。
妻と2女。
福島県郡山市出身。
明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退。
身長166cm(公称)、体重80kg超。
主演の映画『釣りバカ日誌』は
1988年(昭和63年)から2009年(平成21年)まで22作続いた代表作。
郡山貯金局に勤める今井泉と紀惠の間に生誕。
幼くして父が亡くなり、
母は美容師として働いて息子を育てますが、
5歳の時に母は再婚し、
伯母・美代(母の姉)夫婦の西田家に引き取られました。
中学卒業とともに上京。
高校に進学するとバレーボール部に入部。
たまたま男子部員がいなくて困っていた演劇部の女子部員から、
男役として部に協力してほしい、と請われ、
顧問のような形で演劇部に参加。
1966年(昭和41年)、
明治大学入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入り、
同年大学を中退して夜間部から昼間部に移り、
翌年に卒業。
仲間と劇団『シアター67』を結成するも失敗。
ちょうどその頃、
1967年(昭和42年)に
『渥美清の泣いてたまるか』(TBS)でテレビ俳優としてデビュー。
1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、
1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員。
同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台。
1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』(作:矢代静一)では
早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せました。
その後は役者として不遇の日々を送るも、
1976年(昭和51年)にレギュラー出演した『いごこち満点』と『三男三女婿一匹』(共にTBS)で注目を集め、
森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得。
1977年(昭和52年)には
『特捜最前線』(テレビ朝日)、
1978年(昭和53年)には
『西遊記』(日本テレビ)に重要な役でレギュラー出演。
さらに1980年(昭和55年)には
『池中玄太80キロ』(日本テレビ)と『サンキュー先生』(テレビ朝日)で主演、
翌1981年(昭和56年)にもNHK大河ドラマ『おんな太閤記』で準主役を務めるなど、
連続ドラマで活躍。
また、歌手活動も精力的に行い、
1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)は大ヒット。
1986年(昭和61年)、
映画『植村直己物語』に主演。
2年後の1988年6月公開の映画『敦煌』でも
長期の現地ロケに参加。
1988年(昭和63年)から
映画『釣りバカ日誌』シリーズに出演。
三國連太郎とのコンビで、
最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、
自身の代表作の1つとなりました。
1994年(平成6年)、
東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で
森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢、その後7年にわたり出演。
2000年(平成12年)、
『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -」』(テレビ朝日、2001年5月28日放送)の収録のため、
南米最高峰アコンカグア(標高 6,962 m)登山に挑戦。
2001年(平成13年)朝日放送→朝日放送テレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、
1月26日放送分から2019年11月22日放送分まで、
約19年間にわたりレギュラー出演。
同年11月7日、
首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫され、
手足がしびれる「頸椎性脊髄症」を患い入院。
15日に神経圧迫部位を除去する手術を行い、
翌月には退院・復帰。
2003年(平成15年)3月3日夜、
自宅で心筋梗塞のため倒れ緊急入院。
2004年(平成16年)1月1日、
前日をもって青年座を退団。
2008年(平成20年)11月、
長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章。
同年4月から
NHKラジオ第1のラジオドラマ番組『新日曜名作座』に竹下景子とともに起用。
森繁久彌と加藤道子のコンビで50年にわたり放送された『日曜名作座』の番組スタイルを継承。
2009年(平成21年)には里見浩太朗の後を受け、
日本俳優連合第5代理事長に就任。
2010年(平成22年)3月、
『釣りバカ日誌』シリーズで、
22年の長きにわたり国民に笑いと感動を与え続け、
日本映画界へ残した数々の功績を讃えられ、
三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。
2012年(平成24年)3月15日、
社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞。
2013年5月26日に
東京競馬場で行われた第80回東京優駿(日本ダービー)で国歌「君が代」を独唱。
2016年(平成28年)2月1日、
自宅ベッドから転落して首を痛め、「頸椎亜脱臼」と診断。
2018年(平成30年)4月の春の叙勲で旭日小綬章を受章。
2019年(令和元年)11月22日放送分を以って
19年間局長(司会者)を務めてきた
関西の人気バラエティー番組・『探偵!ナイトスクープ』を卒業。
(西田敏行)
渡辺邦男さん
(1899年6月3日-1981年11月5日)
大正・昭和期の俳優、映画監督。
静岡県田方郡三島町(現・三島市)出身。
旧制静岡県立沼津中学(現静岡県立沼津東高等学校)卒業後、
早稲田大学商学部に入学。
卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るも、
部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。
劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見ます。
仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、
面接で監督志望を伝えますが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、
初任給30円で雇われます。
1924年(大正13年)、
『青春の歌』(村田実監督)で、
運動会の応援団の旗手役で映画デビュー。
大部屋女優と結婚するも、
スタアの児島三郎と駆け落ちされるなど苦い下積み生活を送り、
尾上松之助の吹き替えまでさせられました。
その後、巨匠監督・池田富保の助監督になり、
早撮りのテクニックをマスター。
1928年(昭和3年)、
日活京都は太秦撮影所に移り、
池田が長谷部義臣のペンネームで脚本を書いた『剣乱の森』で監督デビュー。
1929年(昭和4年)5月、姉の世話で結婚。
1934年(昭和9年)、
各社競作になった『さくら音頭』で5日間徹夜し、
9日間で撮りあげ、
他社を出し抜いて公開し大成功。
“早撮り監督”として認められます。
日中戦争が激化すると戦地へ赴任。
1935年(昭和10年)、
『召集令』という国策映画を撮り、
同年ミュージカル調映画『うら街の交響楽』(1935年)が
東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクールで1等入選。
1936年(昭和11年)、
二・二六事件で高橋是清が暗殺されると、
岡譲二を高橋役に据え、
大作『高橋是清伝 前・後篇』を監督。
評判に。
1937年(昭和12年)、東宝に移籍。
林長二郎(長谷川一夫)の松竹から東宝への移籍第一作『源九郎義経』を監督するも、
林が松竹系の会社の雇ったヤクザに顔を斬られるテロ事件が起こり撮影中止。
1939年(昭和14年)、
満州ロケを敢行し、
復帰した長谷川と李香蘭を主演としたロマンスもの『白蘭の歌』が大ヒット。
日本が太平洋戦争に敗北すると、
戦意高揚映画に関わった製作者たちがGHQからの厳しい追及と尋問を受けました。
ほとんどの監督が軍部に脅されて仕方なく撮ったなどの姑息な言い訳に終始する中、
渡辺だけは
「国を護るために撮った。
自分なりのやり方で戦ったまでだ」などと主張、
尋問に当たっていた米軍将校はすっくと立ち上がると渡辺に両手を差し出し
「この国に来て初めてサムライに会った」
と言いながら握手を求めたといいました。
1946年(昭和21年)、
『緑の故郷』、『麗人』の2本を原節子主演で一気に撮りあげました。
この年、東宝撮影所内では東宝争議が発生。
渡辺は「菊旗同志会」という反共右派グループを主宰し、反組合のリーダー格に。
東宝社長・渡辺銕蔵からの命令を受けて、
愚連隊の首領・万年東一に、
日比谷の映画館のスト破りを依頼。
1947年(昭和22年)、
反組合の東宝脱退組で作られた新東宝に移り、
同社第1作『今日は踊って』を監督。
同年の富田常雄原作『誰か夢なき』は
大学出のラグビー選手を巡る三人の女性のすれ違いメロドラマで、
主題歌とともに新東宝最初のヒット作に。
以後、
早撮りでプログラム・ピクチャーを量産しヒットを重ねます。
1952年(昭和27年)、
「早撮りの巨匠」として超高給で東映に移籍し、
ヒット作を連発。
1953年には片岡千恵蔵主演の『大菩薩峠』三部作を10日で撮ったといいます。
1955年(昭和30年)、
新東宝の新社長・大蔵貢に制作本部長格で招かれ、新東宝に復帰。
神業的な中抜き撮影で、
わずか1週間で撮り終わった作品もありました(通常の作品は30日から45日程度)。
1956年(昭和31年)、年間12本を撮影。
経営危機に陥っていた新東宝は、
「早く安く」をモットーとする大蔵社長の新方針の下、
他の監督も渡辺に倣わせるほどでした。
1957年(昭和32年)、
『明治天皇と日露大戦争』が封切りで8億円の配収をあげる史上空前の大ヒット。
経営に苦しむ新東宝の負債を一気に返済させて救世主となり、
「“渡辺天皇”」の異名をとります。
続いて『ひばり三役 競艶雪之丞変化』も大ヒット。
1958年(昭和33年)、新東宝を退社。
同年、
大映オールスター映画『忠臣蔵』を大ヒットさせた後、
美空ひばりとコンビで東映の『べらんめえ芸者』シリーズなど、
東映、大映、松竹などでフリーで活躍。
しかし、
その後は映画を撮る機会になかなか恵まれず、
テレビに移るなど冷遇されました(この時、中村吉右衛門主演の『右門捕物帖』(1969年、NTV系)の監修・初期回監督を手掛けています)。
1970年(昭和45年)、
久々に撮った竹脇無我主演の『姿三四郎』(松竹)が最後の映画監督作品に。
1975年(昭和50年)、勲三等瑞宝章を受章。
1976年(昭和51年)、健康を害し引退。
1981年(昭和56年)11月5日、肺炎のため死去。
享年82。
(渡辺邦男)
西田 敏行さん
1947年11月4日生まれ、76歳。
福島県 郡山市出身。
俳優、歌手、タレント、司会者。勲等は旭日小綬章。協同組合日本俳優連合理事長、日本アカデミー賞組織委員会副会長。
映画
『釣りバカ日誌』
1988年、「平成」という時代と共に産声を上げた。
『釣りバカ日誌スペシャル』、『花のお江戸の釣りバカ日誌』を含め全22作。
バブル景気、ゼネコン疑惑、地球環境問題など、その時々における社会情勢をスクリーンに映し出し、その時代に生きる全ての人の現実と希望を描いてきた映画『釣りバカ日誌』シリーズ。
昭和の時代、映画「伊豆の踊子」はその時代の人気若手女優の登竜門でした。
そして風呂場のシーンは必ずありました。
11月6日は『#俺たちの勲章』
主演 #松田優作 さんのご命日。
中村雅俊さんと優作さんが演じた五十嵐と中野は光と影。捜査方法・被疑者保護を巡り反発しつつも事件を解決に導いてきた二人が、永遠に袂を分かつ最終回が辛い。挿入歌「いつか街で会ったなら」が心に沁みます。合掌。
安田伸さん
(1932年9月19日-1996年11月5日)
サックス奏者、コメディアン、俳優、作曲家。
愛称はヤッさん。
現在の東京都中野区江原町生まれ。
生後まもなく川崎市に移り、
川崎市立高津小学校6年生のとき疎開。
母の実家がある川崎市柿生を経て厚木市に移り、
旧制厚木中学校(現在の神奈川県立厚木高等学校)1年生のとき敗戦を迎えました。
軍人志望で陸軍幼年学校に願書を出していましたが
敗戦によって音楽の道に志望を変更し、
コルネットを独学で学びました。
学制改革を経て
新制厚木高等学校在学中、吹奏楽部を創部して
アルトサックスを担当し、部長を務めます。
高校1年生のときは東大か一橋大学を志望していましたが、
高校3年のとき楽器に熱中し、
1951年、東京藝術大学管楽器科に進むも、
クラシック音楽の世界の封建性に馴染めなかったうえ、
高額の月謝を払い続けることに対する経済的困難もあり、
進駐軍クラブでジャズマンとしてアルバイトを始めます。
やがて東京藝術大学に別科器学科が創設されるとそちらに移り、1953年に修了。
以後は横浜や横須賀や上野などを拠点にジャズマンとして活動。
横浜時代に石橋エータローや谷啓と知り合い、
1953年の暮れから半年ほど、
石田正弘(サックス)、
谷崎幸雄(ベース)、
日野哲夫(ドラム)と共に
バンド『フォー・デバーズ』を組んで東京や名古屋で演奏し、石橋のバンドと共演。
その後、
石橋がリーダーをつとめる『ザ・ファイブ』での活動を経て、
『ハッピー・フーリナンス』の一員として名古屋のクラブ「フェルナンド」に出演しましたが、
このクラブにはザ・ピーナッツが出演。
この頃から『スイングジャーナル』誌に
しばしば名前が登場するように。
1957年秋、
石橋エータローの紹介でハナ肇とクレージーキャッツに参加。
ドラッグに溺れて脱退した石田正弘の後任として、
テナーサックス(ときおりクラリネット)を担当。
真面目な性格で、
メンバーの中で唯一『おとなの漫画』全1835回に出演。
また、
『シャボン玉ホリデー』ではなべおさみと組んだコント、「キントト映画の助監督」役で知られ、
監督役のなべに「ヤスダー!」と怒鳴られ続け、
メガホンで頭を殴られ続けながらも理不尽な命令に黙々と従い、
最後には立場が逆転する役柄を演じています。
また、
ブリッジをしながらサックスを吹き鳴らす演奏法でも知られており、
舞台や一部のクレージー映画などで披露。
俳優としても活動し、多くの映画やテレビに出演。
舞台『屋根の上のバイオリン弾き』に出演した際に
演劇の「面白さ」に気づき、
本格的な勉強を始めたといいます。
作曲家としても活躍しており、
『週刊クレージー』のテーマ曲を始め
ドラマの主題歌、劇伴や企業の社歌、団体歌、体操の伴奏曲など数多くの曲を作曲。
後年は
森岡賢一郎や南廣らとバンド『シーラカンス』を結成し、
『もしもタヌキが世界にいたら』などの曲を発表。
また、
谷啓のバンド『スーパーマーケット』とも共演。
私生活では
1966年に美容研究家の竹腰美代子と結婚。
愛妻家で知られ、
そこから「ミヨコー」というギャグが生まれたほど。
しかし子宝には恵まれず、
晩年は安田自身が肝臓癌と闘病を余儀なくされるなど試練にも見舞われましたが、
最後まで仲睦まじく添い遂げました。
1996年、急性心筋梗塞のため、死去。64歳没。
(安田伸)

11月6日は歌手・女優 #本田美奈子 さんのご命日です。ご存命なら今年56歳でした。1980年代デビューのアイドルの中でも、卓越した実力の持ち主でした。合掌。

これ、覚えてますか?
「コント55号の裏番組をぶっ飛ばせー」
いまなら、コンプライアンスで、
絶対に放送できませんね?野球拳はヤバすぎる!
悪魔くんのトラウマ
「ヒッヒッヒッ」
松田優作さん
(1949年9月21日-1989年11月6日) 
山口県下関市出身の俳優、歌手。
身長183cm。 
山口県下関市で、誕生。
父親は優作が生まれてすぐに死去。
2人の異父兄がいます。
1957年下関市立神田小学校へ入学。
1963年下関市立文洋中学校へ入学。
1966年山口県立下関第一高等学校(現・山口県立下関中等教育学校)へ入学。
1967年11月、
「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、
不本意ながら山口県立下関第一高等学校を2年で中退し、
叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米。
カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学。
1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退。
シーサイド大学の体育館で観たニューヨークのアングラ劇団「ラ・ママ」を観て、
こんな世界があるのかと感銘を受け、
芝居をやりたいと思い立ち帰国。
長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、
私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。
1970年に関東学院大学文学部に入学。
1971年3月、
劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。
同年5月、
金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。
ここで最初の妻美智子と知り合います。
1972年4月、
文学座付属演技研究所十二期生となり、
文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、山西道広、
1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおり。
役者に専念するために、
6月には大学に退学届を提出。
1969年(昭和44年)頃の無名時代に
新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、
客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合い交友を結んでいます。
村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、
「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦。
岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、
芝居に対する体当たりの真剣さと、
強引とも思える度胸の良さに驚き、
テストでチョイ役に出演させると、
迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれました。
これがきっかけで、
1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』に
ジーパン刑事としてレギュラー出演、
その活躍・殉職シーンが話題に。
また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演。
1974年には
黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、
主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。
続いて
74年11月公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演。
1976年、
東映『暴力教室』 (岡本明久監督)に出演。
同作品では安西マリアらと共演。
また、
同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、
臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、
時代劇初主演。
同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。
1977年、
刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。
1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。
同年、 
澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。
また、
映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。
同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。
この頃多くのアクション映画に主演していますが、
ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、
劇団の旗揚げも行いました。
1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、
撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、
奥歯を4本抜き、さらに山籠もりまでしたといいます。
1981年、
黒澤満を信頼し、
熊谷美由紀と一緒に東映系のセントラル・アーツに移籍。
この後、アクション映画からしばらく距離を置き、
演技派俳優への道を模索。
1981年、
泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、
松田優作の楽曲が織り込まれ、
かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。
それまでのイメージとは異なる役柄を演じました。
また『新・事件 ドクターストップ』以降、
『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続きました。
また、
82年の向田邦子ドラマ『春が来た』で桃井かおりと共演。
1986年には
映画『ア・ホーマンス』製作途中で、
作品の方向性に関して意見が食い違ったため、
監督の小池要之助が降板。
松田自らがメガホンを取ることとなり、
これが初めてで最後の監督作品に。
やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品。
1988年、
深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、
国民的女優吉永小百合と共に主役。
この撮影をしている頃から、
松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたといいます。
その後、
遺作ともなったアメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、
念願のハリウッドデビュー。
同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るも、
延命治療を拒み、撮影に挑みました。
なお、病気の事実を知る者は、
撮影関係者では安岡力也のみであり、
周囲にも堅く口止めがされていました。
1989年8月頃から腰が痛いと言い始め、
10月6日、
第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に
「どうしても挨拶したい」と出席しましたが、
舞台挨拶を断り帰宅。
これが公に見せた最後の姿でした。
翌10月7日、
東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)に入院。
1989年11月6日午後6時45分、
入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去。
40歳没。
(松田優作)

ヨイトマケの子供きたない子供といじめぬかれてはやされてくやし涙にくれながら 泣いて帰った道すがら母ちゃんの働くとこを見た 母ちゃんの働くとこを見た姉さんかむりで泥にまみれて日に灼けながら汗を流して男にまじって綱を引き天にむかって声あげて力の限りにうたってた母ちゃんの働くとこを見た母ちゃんの働くとこを見た 

美輪明宏の歌に胸がこみ上げてきます

左幸子さん
(1930年6月29日-2001年11月7日)
女優。
富山県下新川郡朝日町出身。
妹は同じく女優左時枝。
元夫は映画監督の羽仁進(1959年結婚、1977年離婚)。
娘はエッセイストの羽仁未央。
骨董店を営む両親の三男五女の長女として生断。
東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業後、
都立第五商業高校ならびに國學院大學久我山中学校の体育・音楽教師をしながら
俳優座の委託生となり演技を学びます。
女優の左時枝は末妹。
1951年に『家庭よみうり』のカバーガールを務めたことから
新東宝の野村浩将の目にとまり、
1952年に野村の勧めで『若き日のあやまち』に主演。
1957年の『幕末太陽傳』では遊郭の人気女郎おそめを演じ、
おそめと人気を争う女郎こはるを演じた南田洋子と好演。
そして、1963年、
『にっぽん昆虫記』で貧しい農村で職業を転々としながら売春組織の元締になっていく女性を演じ、
『彼女と彼』と合わせて日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得。
1965年、
『飢餓海峡』では純朴な娼妓・杉戸八重を演じて
毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。
一方、
1977年には『遠い一本の道』監督・主演。
当時の国鉄労働組合が1億円の資金を提供し、
田中絹代に次ぐ女優監督となりました。
テレビドラマでは
『北の家族』(1973年)
『赤い絆』(1977年~1978年)
『大市民』『野のきよら山のきよらに光さす』
などに出演。
1965年1月4日から1965年5月31日まで
音楽番組『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会も担当。
1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演しましたが、
新東宝、日活、大映に短期間所属したことはあるものの、 
五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。
私生活では、
1959年に映画監督の羽仁進と結婚。
1964年に長女・未央を出産。
しかし、
1973年に羽仁が未央を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、
これに未央とともに同行した左の実妹(四女)で
当時羽仁のマネージャーを務めていた額村喜美子と不倫関係にあったことを人づてに知り、
ショックを受け自殺を図るが事なきを得ました。
このこともあり1977年、
離婚し未央は父側に付き、
羽仁はその4ヶ月後の11月8日、喜美子と再婚。
1987年、胃癌のため胃の摘出手術を受けました。
1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしましたが、
その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心に。
晩年は『快傑熟女!心配ご無用』(TBS)のレギュラーパネリストとして出演。
2001年に入ってからせき込むようになり検査を受けた結果肺がんが見つかり、
9月下旬に国立がんセンターに入院するも、
10月下旬に容体が急変し危篤に陥りました。
2001年11月7日(水曜日)午後8時40分、
国立がんセンターで親族に囲まれ、
息を引き取りました。
71歳没。
品川での密葬の際、
羽仁・喜美子夫婦だけでなく実娘・未央も、
幸子と(離婚後)親交がないとして参列せず。
(左幸子)
高田浩吉さん
(1911年11月7日-1998年5月19日)
俳優、歌手。
戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、
『歌う映画スター』第1号として知られます。
次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、
孫は同じく俳優の大浦龍宇一。
また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母。
兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生誕。
1926年(大正15年)、
大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。
長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれました。
まもなくトーキー映画時代に入ると、
生来の関西弁を標準語に変えるため、
撮影所の江戸小唄研究会というサークルに参加。
小唄のレッスンで鍛え上げたその美声を映画監督の大曾根辰夫に買われて、
1935年(昭和10年)に『大江戸出世小唄』でポリドール・レコードから歌手デビュー。
大曾根監督の同名の映画の中でこの歌を歌ったことから
「歌う映画スター」第1号として映画、主題歌ともに評判に。
『大江戸出世小唄』の大ヒットの以降、
1936年(昭和11年)に『江戸節めおと姿』などをふきこむも、
日中事変を契機にレコード業界は戦時歌謡全盛時代に入り
高田もやがてレコードからは距離を置き、
自身は戦地に召集され4年間の軍隊生活を経て除隊されるも、
戦争の激化により映画製作が激減したことから
高田浩吉劇団を旗揚げし、戦後まで地方巡業。
当時、
弟子の1人には戦後の歌う映画スター鶴田浩二が。
高田が映画スターとして再び活躍するのは、
1951年(昭和26年)に
当時人気急上昇中の美空ひばりが主演を務めた斎藤寅次郎監督映画『とんぼ返り道中』で復帰してから。
当初はひばり相手の脇役としての出演でしたが、
高田の全盛期を知らない若いひばりファンたちの人気に火がつき、
「平凡」の編集部宛に
「ひばりちゃんと共演した新人の高田浩吉の写真が欲しい。ぜひ誌上で紹介して下さい」
という投書が殺到。
その反響の大きさを雑誌「平凡」の編集長から聞いた日本コロムビアの伊藤正憲文芸部長は、
高田と専属歌手の契約を結び、
1953年(昭和28年)、『伊豆の佐太郎』でレコード界に再び登場。
題名の佐太郎は実在の人物ではなく、
作詞の西條八十の家に出入りしていた伊豆出身の佐太郎という植木職人の名前からつけたといいます。
また、映画においても
1954年(昭和29年)に始まった『伝七捕物帖』シリーズで
松竹随一の時代劇スターとして再び人気を博し、
このころすでに44歳だったため、
「奇跡のカムバック」とさえ言われました。
さらに、
歌手としてNHK紅白歌合戦に2回連続出場。
1960年(昭和35年)、
松竹を退社して第二東映(後のニュー東映、1961年消滅)に移籍。
ここでも主演スターとして活躍しましたが、
あまりのハードスケジュールのため作品の質が低下し、次第に人気にも陰りがみえました。
また、時代劇映画が斜陽となり、
同社が鶴田浩二、高倉健らの仁侠映画を中心に変わったことから、
1964年(昭和39年)より活動の中心をテレビ・舞台に移しました。
昭和40年代の懐メロブームの際には
『なつかしの歌声』(東京12チャンネル、現在のテレビ東京)などの番組に常連出演。
その美声を披露。
「娯楽映画のスターは、常に最も美しく、颯爽としていなければならない。
そのためには、コンディションを維持し、私生活でも好き勝手は許されない」
という言葉どおり、
酒も煙草もたしなまず、芝居と歌一筋に生きました。
また、京都をこよなく愛し、
亡くなるまで京都で暮らしていました。
そのためか、
めったなことがないかぎり東京で仕事はしていかず。
その一方で、
1980年代には愛娘・高田美和の離婚・熱愛騒動や、
マネージメント会社を通じて原野商法会社の宣伝用映画出演の依頼を受け、
推薦文の製作や原野商法会社主催のディナーショーへの出演などの際、
依頼をした会社が詐欺行為を行っていることの確認を怠ったとして起訴され話題を呼びました。
1988年(昭和63年)には京都市文化功労者を表彰され、
1990年(平成2年)には勲四等瑞宝章を受章。
1998年(平成10年)5月19日、
肺炎のため京都府京都市北区の病院で死去。
満86歳没。
(高田浩吉)
🔴昭和の日本を一世風靡した人達です。
❤️田中絹代、女優
💜服部良一、作曲家
🩷笠置シズ子、歌手、女優
上原謙さん
(1909年11月7日-1991年11月23日)
俳優、オーケストラ指揮者。
戦前・戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人。
東京市牛込区納戸町の職業軍人の家に生誕。
父・池端清武は鹿児島出身の陸軍大佐、
上原が中学生の時に死亡。
直後に本家の当主である伯父も亡くなり、
伯父に男子がいなかったため
伯父の娘が婿である鹿児島市長の上野篤の東京出張に付いていき
跡取りにするため養子に迎える話を取り付けましたが、
夫妻は帰路に山陽本線特急列車脱線事故に遭難し、
上野篤は死亡、
伯母は両足切断の重症を負い、
養子の話は立ち消えとなりました。
後の映画俳優時代に、軍人役に多数出演。
成城学校(新宿区原町)卒業後、
1929年に立教大学入学、
学生時代は大学内のオーケストラでトランペットを吹き活躍。
1933年、
松竹蒲田の新人公募の広告に複数の学友が無断で上原の写真を送り、
その美男子ぶりから見事採用。
1935年に大学を卒業後、
松竹に入社し、新人作りの名手清水宏監督の『若旦那・春爛漫』でデビュー。
次の『彼と彼女と少年達』で早速主役を務め、
この映画に共演した桑野通子とは「アイアイ・コンビ」とファンから呼ばれ人気を博しました。
続いて、
『恋愛豪華版』で従来にはなかった清新な若者像をつくり、
1936年に清水の代表作となる『有りがたうさん』に人のいいバス運転手役で主演、
順調なスタートを切りました。
この年に兵役となり台中で軍隊生活を送るも、
原因不明の発熱で除隊に。
この時、
所属部隊は上原宛のファンレターの山に忙殺されたといいます。
またこの同じ年に女優の小桜葉子と結婚、
翌年には長男加山雄三をもうけます。
五所平之助監督の『新道』で佐分利信、佐野周二と初共演し、
「松竹三羽烏」を結成。
1937年、
これを前面に押し出した島津保次郎監督の『婚約三羽烏』が大ヒット。
またこの頃、
佐分利、佐野の他にも、徳大寺伸、近衛敏明、夏川大二郎と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会「8クラブ」を結成し、
毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていました。
続く『浅草の灯』でオペラ歌手を演じ、
自他共に認める戦前の代表作となりました。
この他にも島津作品では
『せめて今宵は』『男性対女性』『朱と緑』に出演、
そして1938年、
川口松太郎原作、野村浩将監督のメロドラマ『愛染かつら』の津村浩三役で田中絹代と共演、
霧島昇とミス・コロムビアが歌う主題歌「旅の夜風」と共に、空前の大ヒット作に。
1940年に吉村公三郎監督の『西住戦車長伝』では戦車隊長に扮して
国策映画ながらも人間的側面を見せ、
1943年の木下惠介の監督デビュー作で
劇作家・菊田一夫の戦前の代表作である『花咲く港』で
東北弁丸出しの軽妙なペテン師を演じて新生面を開拓。
戦後はいつまでも女性中心主義でいく会社の基本方針に不満を抱き、松竹を退社。
映画俳優フリー第1号となり演技派への脱皮を志していきます。
1948年には
主演したメロドラマ『三百六十五夜』(市川崑)が空前の大ヒット、
翌49年には既に高額納税者のタレント部門トップに躍り出る活躍ぶりでした。
1951年、
成瀬巳喜男監督の『めし』で原節子と中年夫婦を演じて以降、
名作への出演が相次ぎ、
1953年に『煙突の見える場所』、
1954年に『晩菊』『山の音』、
1956年の『夜の河』では若手第一のスターであった山本富士子との恋愛を演じました。
これらはいずれも日本映画史の傑作で、
上原にとっても代表作。
1957年に東宝と本数契約してから脇に回るも、
1959年、舞台上でメニエール症候群で倒れます。
また息子の加山の映画界入り以降は、
大きな子供を持つ父親というイメージのため、
二枚目として主要な役を得ることが困難に。
1965年、
神奈川県茅ヶ崎市に義弟の岩倉具憲とともにパシフィックパークホテルを建てたことで有名。
しかし、
1970年に小桜と死別、
数カ月後にはパシフィックパークホテルが倒産し、
息子の加山ともども莫大な負債を抱え、
1973年には義母の江間光子が死去するなど不幸が続きました。
その後、東宝を退社。
1975年に38歳年下の元クラブ歌手大林雅美と再婚し、
マスコミやワイドショーをにぎわせました。
雅美との間に生まれた娘の芽英子は上原芽英子の名でデビュー。
その後上原凌と改名。
現在は仁美凌の名で女優として活動。
また松竹時代からの共演者である高峰三枝子と共演した
1980年代初頭の国鉄(現・JR)「フルムーンキャンペーン」のCMが有名。
当時としては
往年の大スターが温泉につかるシーンは
まさにセンセーショナルな出来事でした。
大林との夫婦喧嘩が絶えなくなり1991年6月の末に、離婚。
その後は加山の家にひっそりと身を寄せ、
1991年8月には親子でニューヨークに旅行しましたが、
年のせいか足腰が弱くなり、
一人で風呂に入ることを心配されていましたが
「大丈夫だ」と言い、
11月23日に風呂場でぐったりしているところを家政婦が発見、
三鷹市の杏林大学付属病院に救急車で運ばれるものの蘇生することはなく、
午後3時44分に急性心不全で死去(享年82歳)。
(上原謙)
寺田農さん
(1942年11月7日-)
俳優、声優。
身長173cm。
東京府東京市(現在の東京都)豊島区椎名町生まれで、
幼少期に板橋区常盤台に転居。
早稲田大学政治経済学部中退。
2008年より東海大学文学部特任教授。
洋画家の父・寺田政明の長男として誕生。
1961年、
文学座附属演劇研究所に第一期生として入所。
同期に
岸田森、草野大悟、橋爪功、樹木希林、小川眞由美、北村総一朗など。
1961年の暮れ、
研究生時代に『十日の菊』(三島由紀夫 作)文学座での初公演で初舞台。
1965年、
五所平之助監督の『恐山の女』(松竹)で映画デビュー。
同年にはドラマ『青春とはなんだ』(日本テレビ系)に不良生徒・橘公夫役として出演。
翌年の『これが青春だ』にも起用され、
新進気鋭の俳優として注目を集めました。
1968年、
岡本喜八監督の映画『肉弾』の主演に抜擢され、
毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。
翌1969年の映画『赤毛』にも起用され、
これら岡本作品で存在感を示したことをきっかけに仕事が一気に増加。
1981年の相米慎二監督の映画『セーラー服と機関銃』への出演を皮切りに、
以降相米作品に欠かせない役者に。
1985年の相米作品の『ラブホテル』では
2作目となる主役を演じ、
ヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞。
ナレーターとしても起用が多く、
声優としては
1986年公開のスタジオジブリ作品である『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐役が有名。
私生活では1970年に高橋紀子と結婚しましたが、2006年に離婚。
その後、2011年、一般女性と再婚。
2008年、東海大学文学部特任教授に就任。
「現代映画論」「演劇入門」「戯曲・シナリオ論」の各科目を担当。
2016年、
オーチャードホールにおいて行われた先述の『ラピュタ』のフルオーケストラによるコンサートに、
ヒロインのシータ役の声優・よこざわけい子と共にゲスト出演。
2021年、
映画『信虎』の武田信玄の父である武田信虎役で
自身3度目、および36年ぶりとなる主演を務めました。
(寺田農)
1973TOKYO BOMBERS
後列左から、ラルフ・パラデアス、墓末雅俊、川島次夫、河野一男、ミッキー角田、ボビー加藤、リッキー遠藤。
前列左から、コリーン・ミュレル、堀井由美子、佐々木陽子、綾部圭子、綾部喜美江。
#tokyobombers #東京ボンバーズ #ローラーゲーム #1973年 #佐々木陽子
若尾文子さん
(1933年11月8日-)
女優。
夫は建築家の黒川紀章。
東京府東京市荒川区(現:東京都荒川区)に5人兄姉の末っ子に生れ育ちました。
第二次大戦中は
父親の仕事の関係で宮城県仙台市に疎開。
宮城県第二女子高等学校(現・宮城県仙台二華高等学校)中退。
1951年に大映の第5期ニューフェイスとして映画界入り。
1952年、
急病で倒れた久我美子の代役として、
小石栄一監督の『死の街を脱れて』で銀幕デビュー。
翌1953年に映画『十代の性典』がヒット作となり、
マスコミから性典女優と酷評されるも知名度は急上昇。
それ以降も出演作を重ね人気女優としての地位を築きます。
同年の映画『祇園囃子』(1953年)では
溝口健二監督に起用され、
女優としての実力を発揮し、
性典女優の蔑称(汚名)を返上し、
熱演が高く評価されました。
以降、
可憐でありながら強烈な情念と内に秘めた激しい気性を表現する演技から、
日本映画を代表する正統派美人女優の一人となり、
京マチ子、山本富士子と並ぶ大映の看板女優と謳われ、
260本以上の映画に主演。
和服姿の艶やかな美貌から、
未だに国内での人気が高いです。
増村保造とは、
監督第2作目の映画『青空娘』以降、
『清作の妻』『妻は告白する』『赤い天使』『「女の小箱」より 夫が見た』『刺青』『卍』『妻二人』『千羽鶴』など、
20作にわたってコンビを組み、
多くの名作映画を残しました。
川島雄三により、本格派女優に鍛え上げられました。
1960年代半ばに各映画賞を総なめにするなど、
戦後日本映画を代表する女優に。
1971年の大映倒産以降は映画を離れ、
『新・平家物語』など、テレビドラマで活躍。
また、
『雪国』(川端康成原作)で舞台にも進出。
1988年の『武田信玄』では信玄の母親役とナレーションをこなし、
「今宵はここまでに致しとうござりまする」が
流行語大賞を受賞するなどして再び注目されます。
1963年にデザイナー西館宏幸と結婚しましたが1969年に離婚。
1976年にテレビ番組『すばらしき仲間』で黒川紀章と対談。
そのとき黒川に「君はバロックのような人だ」とその美貌をバロック美術に例えました。
これがきっかけで交際するも黒川は既婚者で、
娘が20歳になるまで黒川の妻が離婚に応じなかったため結婚まで7年がかかり、
1983年に黒川と再婚。
以降、
テレビドラマの出演はやや抑え気味になり、
2007年現在は舞台を中心に活躍。
2000年に発表された『キネマ旬報』の
「20世紀の映画スター・女優編」で
日本女優の8位。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では
日本女優2位。
2005年には行定勲監督たっての希望により、
『春の雪』で久々の映画出演。
(若尾文子)
懐かしい ヒーロー
ジェームス・ボンド
            and
007  ボンドガール
*ジェーム・スボンド
は6代,続いてますが…好みのボンドは誰だ?
*ボンドガールは…誰だ!
独断と偏見で
*初代ボンド…ショーン・コネリー。次いで6代目ボンド
ダニエル・クレイグ
*ボンド・ガール…ダニエラ・ビアンキ(ロシアより愛をこめて)。次いで、オナ-ブラック・マン(ゴールド・フィンガー)が印象に残ってます!
島倉千代子さん
(1938年3月30日-2013年11月8日)
演歌・歌謡曲歌手。
東京府東京市(現在の東京都)品川区北品川出身、日本音楽高等学校卒業。
愛称は「お千代さん」。
品川区北品川に
警察官の父・島倉壽雄、母・ナカの二男四女の四女として誕生。
島倉家は越前一乗谷城主朝倉義景の末裔といいます。
1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。
両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開。
井戸から水を運ぶ途中に転倒、
水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。
母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、
切断は免れましたが
47針を縫い、感覚も無く、動かすこともできなくなります(後に不自由ながらも動かすことができるように)。
気持ちの沈んだ千代子のために
母・ナカは『リンゴの唄』を聞かせるように。
1947年(9歳)、東京に戻りました。
姉の敏子は歌唱力がありましたが
小児麻痺を患っていたために歌手にはなれず。
大好きな姉のために自分が歌手になると決意。
敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。
左手に負担の無いアコーディオンを担当。
歌唱力があったためボーカルにも起用。
地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加。
1949年3月、
童謡『お山のお猿』がテイチクレコードから発売。
1953年(15歳)、
品川区の私立日本音楽高等学校(現・品川学藝高等学校)へ入学。
歌謡コンクールにも積極的に参加。
1954年、
コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、
同社と専属契約。
1955年3月(16歳)、本名で歌手デビュー。
デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、
人気歌手に(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバー)。
1955年23曲、
1956年34曲、
1957年37曲、
1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。
1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。
映画化もされ、自ら主演。
この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。
この年の3月、
島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕。
1958年(20歳)、
港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。
同年には『からたち日記』が130万枚のヒット。
1960年(22歳)、
美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。
同年、
ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務めました(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリ。1975年は唯一の大トリ)。
1961年(23歳)、
ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に。
このとき、
品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。
1962年(24歳)、
何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出ました(草加次郎事件)。
1963年(25歳)、父・壽雄が他界。
悲しみにくれる中、
支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。
結婚前に妊娠しましたが中絶、
結婚後も二子をもうけたが中絶。
1968年(30歳)、
「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。
この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。
すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。
家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作ります。
1972年(34歳)、
母・ナカが脳軟化症により他界。
1975年(37歳)、
以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまい、
その知人だけではなく、
島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまいました。
島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、
その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱えます。
1977年(39歳)、
今度は島倉に信頼され、
島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。
島倉は借金の連帯保証人にされ、
これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負いました。
20億近くもの莫大な借金返済のため、
写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、
足掛け7年程で完済。
1984年(46歳)、歌手生活30周年。
1986年(48歳)、
第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。
当時の紅白史上最多記録。
1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。
紅白連続出場記録は30回でストップ。
1988年(50歳)、『人生いろいろ』が
前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。
当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での
山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレーク。
同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。
100万枚記念パーティーでは、
山田とコロッケが本人の目の前で、
島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。
これに対し島倉は、
「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛。
同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場。
借金返済の目処がたちますが、
姉の敏子が目黒川で投身自殺。
1993年(55歳)、初期の乳癌であることが判明。
芸能人で会見を開き、
自ら癌であることを発表したのは島倉が初めて。
手術は成功。
ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。
1999年(61歳)、歌手生活45周年。
45周年コンサートではタキシードで全国を廻ります。
ベストジーニスト賞を受賞。
同年、紫綬褒章を受章。
2003年初頭(65歳)に、
慢性肝炎の進行とストレスにより声が出づらくなる傾向に陥ったため、
この頃を境に晩年は歌唱曲のキーを下げるなどしました。
治療と並行しつつも精力的に仕事をこなします。
2004年(66歳)、歌手生活50周年。
第55回NHK紅白歌合戦に
生涯最後となった35回目の出場を果たしました(当時の紅組史上最多記録)。
2007年(69歳)、
事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱えます。
同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、
自らの誕生日に事務所を解散。
しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、
経理も全部自分でやるために簿記を勉強。
同年、
映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、中山晋平の世界を表現。
また藤商事からパチンコ機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、
全国のパチンコ店に導入。
2008年(70歳)、
『人生いろいろ』が出身地である品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の接近メロディに採用。
2009年(71歳)、歌手生活55周年。
持病の慢性肝炎が進行していた中で2010年12月に肝臓癌を発症したことが判明、
手術・入退院を繰り返していました。
その間、3度の肝動脈塞栓術を受けましたが、
2013年前半には肝硬変に至っていました。
同年3月30日、
75歳の誕生日には
コロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、
数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌いました。
同年5月から仕事をセーブするようになり、
同年6月21日、
宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなりました。
同年6月、
日本テレビ「1番ソングSHOW」の取材を受けました(これが生涯最後のテレビ取材に)。
同年9月14日にブログを更新(最後の更新)。
同年10月中旬に一時退院、
2014年のデビュー60周年に向け復帰への意欲は衰えず、
死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『からたちの小径』を録音。
11月6日、
「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して中目黒の東京共済病院に再入院。
翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。
午後12時30分、
東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、
眠るように息を引き取りました。
死因は肝臓がん。
満75歳没。
(島倉千代子)
「ペ子ちゃんとデン助」
喜劇の神様、堺駿二
ブギの女王、笠置シヅ子
初公開1950年5月14日という映画を見つけました♪
堺駿二さんは堺正章さんのお父様。朝ドラ「ブギウギ」でも親子揃ってモデルで出て欲しいな🎵

プロゴルファー祈子 安永亜衣

1980年~1981年
翔んだカップル

出て来いシャザーン

ペギー葉山さん
(1933年11月9日-2017年4月12日)
女性歌手、タレント。
社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。
東京都新宿区出身。
青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。
1952年にキングレコードよりレコードデビュー。
東京・四谷に生誕。
幼少時から歌が好きだったことから、
青山学院中学部(現・青山学院中等部)在学中に
内田るり子に師事し声楽を習い、
音大進学を志しますが、
次第にFEN放送(現・AFN)から流れるアメリカのポピュラー音楽へ関心を深めていき、
青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)2年の時に
映画『我が道を往く』を観た際、
劇中で主演のビング・クロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動、
クラシックからポピュラー・ジャズへの転向を決意。
ほどなく友人の紹介から
進駐軍のキャンプで歌い始め、
その歌声とセンスを見込んだティーブ・釜萢の口利きで、
当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスター・ダスターズの三代目専属歌手として活躍。
学校卒業後の翌1952年11月に
キングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、レコードデビュー。
1954年には「第5回NHK紅白歌合戦」に紅白歌合戦初出場。
渡辺弘とスター・ダスターズの専属解除後の1955年2月には初渡米。
各地で歌い、盛況を博します。
1958年、
ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。
翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、
ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものに。
1960年、
オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、
テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演。
同年の8月には
ロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれ、
この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。
帰国後、
自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介。
ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」は
NHK「みんなのうた」でも使用され、
音楽の教科書にも掲載されるなど、
国民に広く知られています。
しかし、生来病弱であったことに加え、
その人気による過密スケジュールから、
1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされましたが、
病気療養中に「ラ・ノビア」「爪」もヒットしたことも幸いし、
ブランクをものともせず無事復帰。
また、復帰翌年の1964年には
「学生時代」がロングセラーとなり、
人気の健在ぶりを示しました。
1965年に俳優の根上淳と結婚、
1968年には長男を出産。
甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕であり、
THE CHAPPYSがデビューする際に雅裕氏はペギーの自宅へ挨拶に赴き、
彼が持参したレコード会社の企画書に目を通しデビューを喜びました。
根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、
1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから
2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」では、紅組司会を務めました。
タレントとしての活動も多くこなし、
知られているものではNHK紅白歌合戦の紅組司会(1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」)や
「歌はともだち」(NHK)の司会に、
「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)のしつけコーナー、
「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母の人間体である緑のおばさんとしても知られます。
1974年には司馬遼太郎に続き、
2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られたした。
また、
歌手生活60周年を迎えた2012年には
高知市のはりまや橋公園に
「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席。
よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)においては、
葉山の名前を冠したペギー葉山賞が優秀チームに贈賞。
1991年、
『It's Been A Long Long Time』(キングレコード)の録音で
ハンク・ジョーンズ、ケン・ペプロウスキーと共演。
1995年に紫綬褒章、
2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。
2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、
社団法人日本歌手協会7代目初の女性会長に就任し、2010年6月末日まで務めました。
一般社団法人移行後は理事職。
2014年6月には、
田端義夫・青木光一に次ぎ3人目となる名誉会長に就任。
2010年に発売した「夜明けのメロディー」(ラジオ深夜便のうた)は、
『ラジオ深夜便』で初オンエアされて以来リスナーを中心に高く評価され、
1971年発売の「雲よ風よ空よ」以来約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げました。
また、
登場回数も30回にせまりロングランも記録。
そのほか、
NHK「みんなのうた」などでも歌声を聴かせていました。
歌手としての活動のほか、
日本歌手協会役員としての業務、
亡夫の介護体験をもとにした講演など多方面で活動。
デビューから60年を迎えてもなお、
第一線で活躍。
2017年4月12日、
肺炎により東京都内の病院で死去。
83歳没。
(ペギー葉山)
東千代之介さん
(1926年8月19日-2000年11月9日)
俳優・日本舞踊若菜流の家元。
東京府出身。
長唄の六代目杵屋弥三郎の子。
七代目坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学びました。
暁星学園を経て、
1949年(昭和24年)東京音楽学校(現・東京藝術大学)邦楽科卒業。
1954年(昭和29年)東映に入社し、
『雪之丞変化』でデビュー。
端整な容貌と日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、
中村錦之助、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金期を支えました。
1960年代半ば、
時代劇の衰退に伴い当時の東映京都撮影所長・岡田茂が時代劇を切り捨て、
任侠路線に急転換したため、
これに反撥して、
中村錦之助(萬屋錦之介)、里見浩太朗らと
1965年に東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成し副代表に。
千代之介は岡田に長年ギャラを値切られ続け、
一年干された挙句、
「キャバレーに出るなら世話してやろう」などと言われ、
堪忍袋の緒が切れたといわれます。
しかし後援会長の座館経営者から
「赤旗を振るようなことがあったら会長を退くから」と叱られ、
岡田に説得され、
副代表辞任と同時に1965年11月東映を退社。
千代之介は「岡田茂だけは許せない」と長年恨みを言っていたといわれます。
その後は日本舞踊の家元としての活動が中心となり、多くの弟子を育てました。
1965年11月30日、
宝塚歌劇団出身の女優・千之赫子とお見合い結婚。
1966年、映画「男の顔は切り札」で赫子と共演。
1968年、長男(俳優若菜孝史)を儲け、
その後、長女も儲けましたが、
1985年に赫子と死別。
1987年再婚。
1991年、次男誕生。
テレビ番組では
『クイズ面白ゼミナール』に「東千代之介チーム」リーダーとして準レギュラー出演。
林海象監督作品『ZIPANG』では達者な名古屋弁をしゃべる徳川家康役を演じました。
2000年11月9日左心不全、慢性腎不全のため死去。
74歳没。
(東千代之介)
三橋美智也さん
(1930年11月10日-1996年1月8日)
北海道上磯郡上磯町峩朗(現在の北斗市)生まれ、函館市育ちの流行歌手。
愛称は「みっちゃん」「ミッチー」。
民謡で鍛えた伸びやかな高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、
昭和30年代の日本の歌謡界黄金期をリードし、
数多くのミリオンセラーを連発。
販売枚数は歌謡界史上最多の1億6千枚といわれている、
昭和歌謡界を代表する男性歌手の一人。
特に全盛期の昭和30年代前半は
「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇りました。
(三橋美智也)
山城新伍さん
(1938年11月10日-2009年8月12日)
俳優・声優・司会者・タレント。
身長174cm。
映画評論家・映画監督としても活動。
元妻は花園ひろみ、娘は南夕花。
京都市に生誕。
京都府立山城高等学校卒業。
1957年、東映ニューフェイス第4期生
(同期に、
佐久間良子・室田日出男・曽根晴美・花園ひろみ 等)。
1959年、『風小僧』第1部 疾風之介役でデビュー。同年、第2部で主演。
1960年 『白馬童子』で主演し、人気を博しました。
1966年、女優の花園ひろみと結婚。
1975年、『独占!男の時間』でバラエティに進出。
1976年、日清食品『どん兵衛』のCMに出演。
川谷拓三との名コンビによるCMで、
14年続いたロングセラーCMとして人気を博し、
同年4月公開の『テキヤの石松』出演後、
東映を退社、フリーに。
1980年、『ミスターどん兵衛』で映画監督業に進出。
1981年、
フジテレビ系「アイ・アイゲーム」で伏字を「チョメチョメ」と表現し流行語に。
1985年、花園ひろみと離婚。
1991年、花園ひろみと2度目の結婚。
これを『新伍Niタッチ!』でゲスト出演した梅宮辰夫に発表され、
更に彼から祝福のキスを受けました。
1999年8月、花園ひろみと2度目の離婚。
その後も同居していましたが、
2001年以降は一人暮らし。
2005年、糖尿病で入院。
以降はメディアなどには出演せず、
事実上の引退状態に。
2009年8月12日午後3時16分、
誤嚥性肺炎で死去。
70歳没。
(山城新伍)
森繁久彌さん
(1913年5月4日-2009年11月10日)
俳優・声優・歌手・喜劇俳優、元NHKアナウンサー。
位階は従三位。
身長168cm。
早稲田大学を中退後、
NHKアナウンサーとして満洲国へ赴任。
帰国後、
舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、
映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博しました。
人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、
自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、
後進の俳優にも大きな影響を与えました。
また、
『夫婦善哉』『警察日記』等の演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなしました。
映画出演総数は約250本を超えます。
舞台では
ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で主演し、
上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてました。
『オホーツクの舟歌』『知床旅情』の作詞・作曲者であり、
歌手としても紅白歌合戦に7年連続で出場。
巧みな語りは「森繁節」と呼ばれるほどに定評があり、
ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作品も多数。
先に亡くなった俳優たちの弔辞を読む姿でも知られ、
慈善事業にも尽力し、
自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化。
著書に
自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。
受賞も数多く、
紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、枚方市名誉市民、国民栄誉賞などのほか、
1991年には大衆芸能分野で初となる文化勲章を受章。
(森繁久彌)
森光子さん
(1920年5月9日-2012年11月10日)
女優、歌手、マルチタレント、司会者。
日本俳優連合名誉副会長、
第6代日本喜劇人協会会長、
フジテレビジョン番組審議会名誉顧問。
国民栄誉賞受賞。
栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。
東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使。
京都府京都市出身。
京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。 
俳優の嵐寛寿郎の従妹。
(森光子)
昭和の酒場。
コンパ……。
私が飲み歩いていた学生時代には、歓楽街にはどこにであった酒場。
昭和50年代前後です。
ま~~、洋風大衆酒場。
語源はコンパニオンとかカンパニーとか……。
よ~~は、仲間で集まってワイワイがやがやろ~~みたいな。
実は私自身は居酒屋派なんで、あんまり行きませんでした。
形式としては、今のガールズバーのでかいやつ。でも、値段はメチャメチャ安い!!!
わたしが行ったことあるのは新宿のコンパで、円形のカウンターの中に、スチュワーデスの制服着た女性が……。いろんな航空会社の。店の名前もそれっぽい……。覚えていませんが。
ネットで探しても、当時の写真はみつかりませんでした。
東京では、江古田にある江古田コンパが、コンパの名前で営業している唯一の店だそうです。

清水宏次朗さん…1964年11月10日生まれ 原宿竹の子族から芸能界入り・・・長い間、病気療養していましたが…昨年 映画【ビーバップのおっさん】で復帰されました✌ ヤンキー役ならNo1でしたね😂

沢村貞子さん
(1908年11月11日-1996年8月16日)
女優、随筆家。

生涯に350本以上の映画に出演し、
幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍。
日活に入社して映画女優となり、東宝を経て戦後はフリー。
エッセイストとしても知られ、
半生記『貝のうた』『私の浅草』などを発表。

(沢村貞子)
刑事くん😀
いろんな刑事ドラマがありましたが、30分で解決した凄腕刑事はこの方だけでしたね。
淀川長治さん
(1909年4月10日-1998年11月11日)
雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。
約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、
「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に
多くの視聴者に親しまれてきました。
(淀川長治)
吉幾三さん
(1952年11月11日-)
歌手、シンガーソングライター。
身長178cm。
青森県五所川原市出身。
公式愛称はIKZO。
既婚。
子供が3人おり、
長女は歌手のKU、次女は女優の寿三美。
民謡歌手の父の9人兄弟の末っ子として青森県で生誕。
地元の中学校を卒業後、
父親の反対を押し切って歌手になるために上京し、
米山正夫に師事。
1973年3月1日に
ヤンマーディーゼル(現・ヤンマーホールディングス)のコマーシャルソング「恋人は君ひとり」を
山岡英二の芸名で発売し、歌手デビュー。
キャッチフレーズは「男なら決めよう」。
アイドル歌手として売り出しましたが、成功せず。
1977年11月25日、
吉幾三と改名しフォークソング路線に移り、
自作の再デビュー曲「俺はぜったい!プレスリー」がヒット、これを機に映画化。
その後は低迷期を経て、
コミックソングや演歌へと楽曲の方向性を探ります。
1984年、
3月25日に発売された千昌夫への提供曲「津軽平野」がヒット。
作曲家としての吉の才能が注目される中、
11月25日に千のプロデュースで発売された「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒット。
1986年2月25日、
千から「今さら正統派の演歌なんか売れるわけない」と、大反対を押し切って発売
した自作曲の「雪國」が初のオリコン1位を獲得。
以後、
発表楽曲をコミックソング歌手から本格的な演歌歌手へ路線変更。
2013年2月、不整脈の手術のため入院。
手術は無事成功、3月3日に復帰。
2016年、
日本作曲家協会音楽祭2016で、特別選奨を受賞。
2019年9月12日、
全編津軽弁の歌詞のラップ「TSUGARU」をキャリア初となる音楽配信限定でリリース。
2021年4月23日、
『バイオハザード ヴィレッジ』の公式イメージソングとして、
「俺ら東京さ行ぐだ」のアレンジ版となる
「俺らこんな村いやだLv.100」がYouTubeにて公開。
(吉幾三)
桜井センリさん
(1926年3月20日-2012年11月10日)
ミュージシャン、コメディアン、俳優。
父志郎の赴任地のイギリス・ロンドンに生まれ、
3歳までその地で育ちました。
いわゆる帰国子女。
父は日本人会の代表幹事でした。
日本に帰国後、千里と改名。
西巣鴨第三尋常小学校に入学し、
4年生から東京音楽学校付属上野児童音楽学園へ通いクラシックピアノを習います。
暁星中学校を経て、
早稲田大学第一政治経済学部に入学。
大学2年のとき
「サンバレー・スイング・バンド」というグループからピンチヒッターを頼まれ、
のち正式に加入してジャズピアニストとしての活動を開始。
大学中退後、様々なバンドを転々とし、
1952年(昭和27年)には、
穐吉敏子が渡米してピアニストが不在になったゲイスターズに穐吉の後任として参加。
その後、
鈴木康允たちとトリオを組んでいましたが、
フランキー堺の誘いで鈴木と共にジャズバンド「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。
当時メンバーであった植木等、谷啓とこの時出会い、
1年後にシティスリッカーズを去った後、
三木鶏郎の冗談工房に加入し、歌や作曲を指導。
当時の芸名は三木雛郎。
当時の歌の弟子に左とん平とアイリーン・フェイゲン。
1960年(昭和35年)に植木の紹介で
ジャズバンド「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」に参加。
結核のため療養中だった石橋エータローの穴を埋めるべく、
約1年間、石橋の代役を務め、
石橋復帰後は植木などから「脱退させるべき」との意見が出ましたが、
「せっかく仲間になったんだから」とリーダーであるハナ肇が他のメンバーを説得し正式加入。
石橋が脱退する1971年まで、
クレイジー・キャッツは、ピアニストが2人という変則的な形をとり、
「連弾」というスタイルを生かしたコントも行うように(その後も石橋はクレイジーに度々客演しており、連弾は定番となりました)。
演奏スタイルは石橋は大胆、桜井は繊細と言われます。
バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、
大柄な犬塚弘と組んだアクションが有名。
作曲家としての活動歴があり、スリーファンキーズのシングル盤「ナカナカ見つからない」、弘田三枝子のシングル盤「明日をみつめて」(2曲とも作詞は青島幸男)の作曲を本名の桜井千里名義で担当している。
また俳優としても活躍し、
『なつかしい風来坊』(松竹)や『クレージー黄金作戦』(東宝)など
多くの映画やテレビ番組などに出演。
また、山田洋次の作品に度々重用され、
『男はつらいよ』にも様々な役柄で登場。
舞台でもバイ・プレーヤーとして活躍。
「キンチョール」CMに出演した「センリ婆さん」のキャラクターも有名。
このCMで桜井が言った「ルーチョンキ」という言葉は当時の流行語に。
生前はクラシック音楽やオペラにも造詣が深く、
専門誌にしばしば原稿を執筆。
また、
演奏の感覚を忘れぬためにピアノに一時間向かうのを日課としていたといいます。
2006年(平成18年)、
映画『待合室』にIGRいわて銀河鉄道線小繋駅の委託駅員役として出演。
2007年(平成19年)4月27日、
植木等の「お別れの会」では谷、
犬塚と共に葬儀委員長を務めました。
2010年(平成22年)11月11日に行われた
谷啓の「お別れの会」が、最後の公の場に。
2012年(平成24年)11月11日、
東京都新宿区の自宅で遺体で発見されました。
12日現在、病気による『孤独死』として報道。
86歳没。
(桜井センリ)

こんなタバコも売っていましたね。

幽霊城のドボチョン一家、ドラドラ子猫と

チャカチャカ娘。

草薙幸二郎さん
(1929年9月19日-2007年11月11日)
俳優。
東京市北豊島郡王子町(現・東京都北区)出身。
日本大学文学部哲学科中退。
長男の草薙仁は俳優で、
長女の草薙かおりも元女優。
劇団民藝在籍中の1953年に
映画『夜明け前』でデビュー。
1956年には
今井正監督の『真昼の暗黒』で主役に抜擢され、
第1回製作者協会の新人賞を受賞して注目されます。
その後は日活映画を中心に活動。
アクション系作品では凄腕の刺客や謎の中国人などを演じました。
映画産業の斜陽化後は
テレビドラマにも活躍の場を拡大。
時代劇から現代劇まで、
主にインテリ系の悪役をさまざまな作品で演じてきましたが、
晩年では悪役以外の老け役にも演技の幅を広げていました。
2007年11月11日、
間質性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。
78歳没。
(草薙幸二郎)
由美かおるさん
(1950年11月12日-)
女優、歌手。
身長157cm、体重44kg。
合気道四段。
京都府京都市生まれ、
6歳から兵庫県川西市で育ちました。
私立梅花高校中退。
1962年、
小学6年生の時に「西野バレエ団」へ入団し、
1965年『サンデー志ん朝』、
1966年『11PM』に出演、
抜群のプロポーションと愛らしい風貌と網タイツ姿で人気を集め、
1967年、
音楽番組『レ・ガールズ』(日本テレビ)で、
金井克子や奈美悦子らと共演し、
ミニスカート姿でマリリン・モンローのレパートリー等を歌って踊るシーンが
話題を呼びました。
歌手としては、
1967年からのクラウンレコードを皮切りに、
フィリップス・レコード、ミノルフォン、コロムビア・レコードと転籍する中で、
『レモンとメロン』『炎の女』『しなの川』(同名映画の主題歌)『別れる前に』『ちぎれ雲』などを発表。
2019年のインストアライブをきっかけに歌手活動を再開し、
不定期で、ジャズコンサートを開催。
女優としては、
1966年に映画『夜のバラを消せ』でデビュー。
1973年の映画『同棲時代-今日子と次郎-』で、ヌードを披露、
同年には映画『しなの川』にも出演、
美しい和服姿と大胆なオールヌード、処女喪失シーンが話題に。
1974年の『ノストラダムスの大予言』『エスパイ』、
1976年の『超高層ホテル殺人事件』でもヌードを披露。
同年東映の大ヒット映画
「トラック野郎シリーズ」4作目『トラック野郎・天下御免』のマドンナ役で出演、
同時に『夜のひとりごと』が挿入歌として使用。
1986年から、
人気時代劇『水戸黄門』に「かげろうお銀」役でレギュラー出演。
なお、同シリーズには、
「かげろうお銀」役以前から何度もゲスト出演。
番組の中で披露される由美の入浴シーンは名物となり、
「疾風のお娟」と名前を変えて活躍。
1986年11月10日草の根保守運動として開催された
「天皇陛下御在位60年大奉祝祭」の銀座七丁目前の式典で挨拶。
『水戸黄門第41部』(2010年4月12日放送開始)をもって、
同ドラマのレギュラー出演を降板することを正式に発表。
2019年3月27日に37年振りとなるニューアルバム『Jewel Box』を発売、
キャリア初のインストアライブを開催し、
アコーディオンでの弾き語りも披露。
2022年2月、
59年間在籍した西野バレエ団を退団。
2023年4月に東京都港区の観光大使に任命。
降板後のシリーズでは由美の実質的後継者として、
同年秋から放送予定の水戸黄門第42部から雛形あきこが新キャラクター(由美が演じてきた役とは別の新しい役)として起用。
また、第1話と第22話で由美がゲスト出演し、
新旧両女優が共演することも決まりました。
『水戸黄門』シリーズでお銀が着る忍者の衣装デザインは、本人の考案。
本作では、
今尚華麗なアクションでお茶の間を楽しませているアクション女優としての一面も。
(由美かおる)
四代目坂田藤十郎さん
(1931年12月31日-2020年11月12日)
歌舞伎役者。
屋号は山城屋。
定紋は五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱。
位階は従三位、文化勲章受章者。
日本芸術院会員、重要無形文化財保持者。
前名の三代目中村鴈治郎、
また初名の二代目中村扇雀としても知られます。
日本舞踊雁音流の家元として雁音歌扇を名乗りました。
妻は女優で政治家の扇千景、妹は女優の中村玉緒。
現代歌舞伎の大看板のひとりでもあり、
また上方歌舞伎の復興プロジェクトでも主導的な役目を務めたほか、
近松門左衛門作品を原点から勉強し直すために劇団近松座を結成し、尽力。
日本中にブームを巻き起こした『曾根崎心中』のお初は当たり役とされています。
(四代目坂田藤十郎)
🟣昭和のブルースの女王🌸🌸🌸
🔴淡谷のり子❤️💜💙
🟢別れのブルース((1937)が大ヒットしましたね、『窓を開ければ港が見えるメリケン波止場に火が灯る』🎶🎶🎶
阪急・大阪梅田駅50周年!
私鉄最大級・9線10ホーム 記念列車運行など
イベント盛りだくさん!
2023/11/12  ラジオ関西ラジトピ!
阪急電鉄「大阪梅田」駅(大阪市北区)が、
JR大阪駅の北東に移設されてから、2023年
11月23日 (木・祝)で50周年を迎える。
阪急電鉄では、これを記念して、大阪梅田駅の
歴史を振り返る写真パネル展や記念列車などの
企画を実施するほか、11月23日当日に記念
イベントが開かれる。
2019(令和元)年10月1日、駅名を「梅田」駅から
「大阪梅田」駅に変更された阪急「大阪梅田」
駅は、1910(明治43)年2月22日、阪急電鉄の
前身「箕面有馬電気軌道」の始発駅として、
現在の駅南側に誕生
(鉄道営業スタートは同年3月10日)
当時の駅舎は、現在阪急百貨店うめだ本店などが
入る複合商業ビルの南端にあった。
木造2階建ての単線ホームだったが、
時代の
移り変わりとともに利用客が増加し、駅の規模を
拡大するため現在の場所へ移設した。
現在は、9線10ホームを擁する私鉄最大級の
鉄道ターミナルとなり、通勤・通学客、観光客を
合わせ1日当たり約40万人が利用している。
2023/11/12  ラジオ関西ラジトピ!
https://jocr.jp/raditopi/2023/11/12/540164/
東野英心さん
(1942年1月31日-2000年11月14日)
俳優・声優。
身長170cm、体重83kg。
東京市淀橋区大久保(現、東京都新宿区大久保)出身。
成蹊高等学校卒業。
東野英治郎の長男。
妻は服部マリ。
長男は東野克。
高校卒業後、
俳優座養成所に第12期生として入所(妻は養成所の1期後輩にあたる)。
1962年、『青べか物語』で映画初出演。
デビュー後、
『ウルトラマンタロウ』で明るいキャラクターを活かして荒垣修平副隊長役を好演。
『花神』では井上聞多(馨)役を演じ、
尾藤イサオの小柄な伊藤俊輔(博文)と
凸凹コンビを組んで元勲の青春像を演じました。
映画では実相寺昭雄作品に4回招かれており、
特に『哥』では
篠田三郎扮する弟をいじめ抜く陰険な次兄(長兄は岸田森が演じた)役で強い印象を残しました。
1970年代末からは『あばれはっちゃく』シリーズに出演。
主人公の少年・桜間長太郎の厳格な父親役を演じ、
長太郎が何か問題を起こした際には制裁を加えて
「てめぇの馬鹿さ加減にはなぁ、父ちゃん情けなくて涙が出てくらぁ!」と
叱り飛ばす定番セリフが人気を得て、
ドラマ内での名場面になっていました。
1980年代(1982年〜1989年)は
NHKの『中学生日記』で、
生徒に理解のある東教諭役を8年間に渡り演じています。
後年はこれらの経験から各地の青少年育成団体から講演に招かれることが多く、
特に「感性」について語る項目になると自ら履いている靴を脱ぎ、
素足になって講演会場を歩きながら話るという斬新奇抜な講演を行い、
教育関係者の関心を集めていました。
青少年育成活動での講演や、
子ども向け番組を復活させる運動などに精力的に取り組んでいて、
「出張芝居は依頼があれば何処でもやる」
というスタンスで、自身のライフワークでもありました。
2000年11月13日の夜、
都内のレストランでの会食中に突然倒れて荏原病院へ搬送。
高血圧が原因の高血圧性脳出血でした。
病院に搬送された時は意識があったものの容態が悪化し、
手当ての甲斐無く翌日14日午後4時22分に急逝。
58歳没。
(東野英心)
野村将希さん
(1952年11月13日-)
俳優、演歌歌手。
身長181cm。
福岡県北九州市生まれの、兵庫県尼崎市育ち。
尼崎市立尼崎産業高等学校を中退し、
1969年に歌手を目指して上京。
デビュー前に高崎競馬場で約3か月間厩務員のバイト。
そして靴屋でバイト中、
サンミュージック相沢社長の目にとまりスカウトされました。
決め手は『笑顔』だったそうです。
1970年、RCAレコードと契約、
同年4月に『ひるのプレゼント』(NHK総合テレビジョン)の新人コーナーに出演し、
『涙をかついで行こうよ』(デビュー曲『一度だけなら』のB面収録曲)を歌い注目を集めました。
1970年6月5日に『一度だけなら』をリリース、
正式に男性アイドル歌手としてデビュー。
抜群の歌唱力と精悍なルックスから、
デビュー当時のキャッチフレーズは「歌謡界の若獅子」とも言われました。
同年『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』に
スリーNの一人として映画初出演(残りの2人はにしきのあきら、夏夕介)。
さらにデビュー曲「一度だけなら」はいきなり大ヒットと成り、
第12回日本レコード大賞新人賞・第1回日本歌謡大賞放送音楽新人賞・第3回日本有線大賞新人賞などを総なめに受賞、
同年末放映の第21回NHK紅白歌合戦には初出場をそれぞれ達成。
その後修行のため2年間海外に渡り、
帰国後の1982年、芸名を現在に改名。
その一方で役者としても才能を開花させ、
1987年に登場した『水戸黄門』の柘植の飛猿役は当たり役に。
私生活では2男の父で、
長男はプロサッカー選手(アスルクラロ沼津・ゴールキーパー)の野村政孝、
次男は俳優の野村祐希。
少年時代より野球で鍛えた抜群の運動神経から芸能人スポーツ大会などでも活躍し、
『スポーツマンNo.1決定戦』では2007年10月現在、
芸能人大会19回中18回に出場しており、
「コロッセオの鉄人」の異名を持ちます。
パワー系が得意で芸能人サバイバルバトルのパワー系の一通りの種目は制覇。
(野村将希)
阿藤快さん
(1946年11月14日-2015年11月14日)
俳優・タレント。
身長183cm。
神奈川県小田原市出身。
東京都立大学法学部法律学科(二部)卒業。
中学時代は野球に熱中。
神奈川県立西湘高等学校に入学するも、
高校に野球部がなかったため2年時に退学。
その後、
野球部名門校の編入試験を受験するも不合格になり、西湘高校へ復学。
卒業後は、
東京都立大学法学部法律学科(二部)に合格し、入学。
学生時代は弁護士を志し司法試験の勉強に勤しむも、
2年時にドイツ語の単位が足りず断念。
大学卒業後、劇団俳優座の舞台部に加入。
後に原田芳雄の薫陶を受けたことと中村敦夫の誘いをきっかけに役者を目指すように。
原田が出演した映画・ドラマに起用されることが多く、
原田を兄事してその交流は原田逝去まで続きました。
他にも高倉健と共演する機会も多数。
その後、
原田、中村、市原悦子、地井武男ら、
いわゆる俳優座造反組と呼ばれるグループと退座。
約10年余は悪役や端役として俳優活動を続けていました。
1988年、
『教師びんびん物語』に主人公・徳川龍之介(演:田原俊彦)の上司である
教頭・御前崎マキオ役でレギュラー出演し、
お茶の間の人気を獲得。
ドラマ出演等の俳優活動に加え、
グルメ番組でのリポーター役・旅番組での案内役を担当。
特に「なんだかなー」の名ゼリフは頻繁にモノマネに起用されるなど、有名。
上記のような気さくで謙虚な人柄から
「芸能界で最もいい人」や「裏表のない芸能人」として名前が挙がることも。
食べ物でむせにくい芸能人としても重宝され、
彦摩呂らグルメリポーター界からも一目置かれていました。
2001年11月14日に芸名を阿藤海から阿藤快へ改名。
2002年、
出身地である小田原市の小田原ふるさと大使に就任。
その縁で北條五代祭りでは北条早雲に扮してパレードに参加。
また小田原市が主催する小田原映画祭の実行委員を第1回(2005年)より務めており、
第2回(2007年)から実行委員長も務めていました。
2015年11月15日、
仕事先に姿を見せなかったため、
午後2時頃に所属事務所スタッフと家族が自宅を訪ねたところ、
ベッドに横たわって亡くなっているのが発見されました。
発見時より病死とみられ、
その後、胸部大動脈瘤破裂が正式な死因とされました。
69歳没。
(阿藤快)
力道山さん
(1924年11月14日-1963年12月15日)
男性プロレスラー、力士。
身長176cm・体重116kg。
日本統治下の朝鮮の咸鏡南道洪原郡出身。 
(力道山)
滝沢修さん
(1906年11月13日-2000年6月22日)
俳優、演出家。
築地小劇場の研究生として初舞台を踏み、
次いで東京左翼劇場、新協劇団に参加、
『夜明け前』『火山灰地』などの演技で注目され、
戦後は
東京芸術劇場、民衆芸術劇場の結成を経て、
宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、
日本の新劇を代表する俳優となりました。
重厚なリアリズム演技に定評があり、
舞台の代表作に
『炎の人』『セールスマンの死』『オットーと呼ばれる日本人』など。
舞台演出も手がけ、映画・テレビドラマへの出演も多数。
主な映画出演作に『安城家の舞踏会』『原爆の子』『戦争と人間』など。
著書に『俳優の創造』など。
(滝沢修)
サトウハチローさん
(1903年5月23日-1973年11月13日)
詩人、作詞家、作家。
旧制早稲田中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)中退後、
旧制立教中学(現在の立教池袋中学校・高等学校)へ転入。
作家の佐藤愛子は異母妹。
「うれしいひなまつり」、「リンゴの唄」の作詞者として知られます。
(サトウハチロー)
ミミー(叶和貴子)
宇宙刑事ギャバン

わらべ…途中で高部知子ちゃんは抜けちゃいましたが…

1986年11月14日、
この日、
日本テレビの人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』が終了、
14年4ヶ月の歴史に幕(全718回)。
[七曲署捜査一係最終メンバー]
石原裕次郎(係長・藤堂俊介警部、ボス)
渡哲也(係長代理・橘兵庫警部、警部)
神田正輝(西條昭巡査、ドック)
石原良純(水木悠巡査、マイコン)
地井武男(井川利三巡査部長、トシさん)
又野誠治(澤村誠巡査、ブルース)
長谷直美(岩城令子巡査、マミー)
西山浩司(太宰準巡査、DJ)
(ドラマ「太陽にほえろ!」の最終収録)
内田康夫さん
(1934年11月15日-2018年3月13日)
推理作家。
西村京太郎、山村美紗とともに、旅情ミステリー作家の代表的人物として知られます。
代表作(シリーズ)に
『浅見光彦』、『岡部警部』、『竹村岩男』など。
特に『浅見光彦シリーズ』は、
テレビ会社各局の2時間ドラマ帯にて長期シリーズを獲得するなど人気を博しており、
その中の一作『天河伝説殺人事件』は映画にもなりました。
「初期三作」のうち、
商業デビュー作とされる第三作『後鳥羽伝説殺人事件』は『浅見光彦』シリーズの第一作。
発表した作品の累計発行部数は1億部を超えます。
東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)出身。
父は長野県長野市出身の医師。
実家が戦災に遭い長野市を皮切りに
戸隠山麓の村、秋田県羽後町、雄勝町、埼玉県、静岡県沼津市などを転々。
戦中は秋田県秋の宮(現湯沢市、旧雄勝町)に疎開。
埼玉県立川越高等学校卒業、
東洋大学文学部国文学科中退。
日本テレビジョン、
一光社でCMアニメの制作スタッフとして働いたのち
コピーライター、CM製作会社の社長を経験。
趣味は囲碁で、
2008年に第2回「文人碁会」で優勝。
1980年に第一作『死者の木霊』を、
翌年1981年に第二作『本因坊殺人事件』を栄光出版社よりそれぞれ自費出版。
この初期2作のうち『死者の木霊』が
朝日新聞1981年3月8日朝刊の読書欄にて紹介されて話題となり、
第三作となる『後鳥羽伝説殺人事件』が1982年、
廣済堂出版より発刊されて商業ベースのデビュー作に。
その後、
初期2作は別の出版社に買い上げられました。
『死者の木霊』は1983年に講談社文庫より
『本因坊殺人事件』は1984年にエイコー・ノベルズより出版されており、
その後に各出版社(集英社、角川書店など)が発刊を手がけています。
作家として軌道に乗った後は
「浅見光彦シリーズ」ほか膨大な数の小説を執筆し、
長野県軽井沢町に居を構え、
夫婦で豪華客船の旅に出るなど、
悠々自適の生活を送りました。
また、
軽井沢町発地にある「Tea Salon 軽井沢の芽衣」のオーナー。
2015年7月26日、軽度の脳梗塞が見つかり入院。
その際に毎日新聞で連載していたシリーズの114作目となる浅見光彦シリーズ作「孤道」は
2015年8月12日で終了。
2015年11月に 
一般財団法人内田康夫財団が設立され、
2016年4月には軽井沢町長倉に浅見光彦記念館が開館。
2018年3月13日、敗血症のため東京都内で逝去。
83歳。
(内田康夫)
星野哲郎さん
(1925年9月30日-2010年11月15日)
作詞家であり、戦後歌謡界を代表する作詞家の一人。
妻(1994年没)との間に一男一女がおり、
長男はシンガーソングライターの有近真澄。
山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生誕。
森野村立開導小学校、
山口県立安下庄中学校(現・山口県立周防大島高等学校安下庄校舎)を経て、
1946年(昭和21年)、
官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。
翌年、
日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ)に入社、遠洋漁業の乗組員に。
しかし就職して数年後、
腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。
郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされました。
闘病期間中に作詞を学び、
1952年(昭和27年)に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、
選者の石本美由起の勧めで、
翌1953年(昭和28年)に作詞家デビュー。
石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、
同人として作品の発表や後進の育成に携わりました。
「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、
同期生には
松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなど。
1958年(昭和33年)、
横浜開港100年祭記念イベントに応募した
「浜っ子マドロス」「みなと踊り」が
それぞれ1位、2位を獲得。
このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、
日本コロムビアと専属契約を結びます。
船村とは以後永きにわたってコンビを組み、
作詞:星野哲郎、作曲:船村徹で名作を数多く世に輩出するゴールデン・コンビに。
1964年(昭和39年)にクラウンレコードの創設に関わり、
同レコードに移籍、
1983年(昭和58年)にフリー作家。
コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び、
数々のヒット作を生み出しました。
1996年(平成8年)7月9日、
石本美由起の後を継いで社団法人日本作詩家協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)、
2001年(平成13年)10月1日には
社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めています(2004年(平成16年)9月30日まで)。
これらの功績が認められ、
1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、
1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、
2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受勲。
1988年(昭和63年)6月16日には
出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、
2008年(平成20年)6月5日には
宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第一号に決定し、
同年10月5日に名誉市民証が授与。
1985年(昭和60年)2月21日、
故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立。
2007年(平成19年)7月26日には
周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、
周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げました。
2010年(平成22年)11月15日午前11時48分、
心不全のため東京都武蔵野市の病院で死去。
85歳没。
(星野哲郎)
宮口精二さん
(1913年11月15日-1985年4月12日)
俳優。
身長159cm。
築地座を経て文学座に参加し、
同座の中心として多くの舞台に立ち、
文学座退団後は東宝演劇部に所属して商業演劇に出演。
戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍。
主な出演映画に
『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。
亡くなるまで約15年間、
編集兼発行人として季刊『俳優館』を出し続けました。
(宮口精二)
鶴ひろみさん (1960年3月29日-2017年11月16日)
声優、ナレーター、女優。
北海道千歳市生まれ、神奈川県横浜市育ち。
元夫は声優の難波圭一。
北海道千歳市生まれ、
その後、茨城県土浦市に転居し、
小学2年生の時から神奈川県横浜市で育ちました。
小学2年生時に自ら希望して、
姉と共に劇団ひまわりへ入団。
小学校3年生の1968年に『コメットさん』(TBS)のオーディションを受け、
第63話「妖怪の森」でドラマデビュー。
1969年には
同じ脚本・市川森一、監督・山際永三コンビによる『恐怖劇場アンバランス』(フジテレビ)の第4話「仮面の墓場」にも出演。
その後も、
学習誌の表紙や子供服のファッションショー、
『彩の女』(フジテレビ)などのテレビドラマに出演。
『日曜洋画劇場』(テレビ朝日)放送の『ダウンタウン物語』で、
ジョディ・フォスターの吹き替えも行いました。
神奈川県立鶴見高等学校卒業。
高校3年生だった1977年、
世界名作劇場『ペリーヌ物語』のオーディションに合格し、
主人公・ペリーヌ役で声優デビュー。
『ペリーヌ物語』放送終了後、
2年間は声優業を行っていませんでしたが、
1981年に『おはよう!スパンク』でキャット役を担当。
1982年、
『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』のレビ役のオーディションに受かったのを契機に、
声優としての活動を活発に行うように。
1984年に
海外ドラマ『超能力プリンス マシュー・スター』で半年間出演したことをきっかけに、
恋人役で共演した声優の難波圭一と交際を始め、
1985年にアニメ『タッチ』で難波が演じた上杉和也の葬儀イベントで婚約を発表し、
1986年1月4日に神谷明夫妻を立会人にハワイで挙式。
後に離婚し、子供は無し。
1990年代以降は、
バラエティ番組や報道番組などにおけるナレーション業が増え、
こちらを主体とした活動を行っていました。
また、舞台に出演することも。
亡くなる直前までナレーションの仕事をしていました。
2017年11月16日19時30分頃、
東京都中央区の首都高速都心環状線の車線上で、
ハザードランプをつけ停車していた車内で、
シートベルトをして運転席に座ったまま意識不明の状態で見つかり、
病院に搬送されたが死亡が確認されました。
死因は運転中の大動脈解離による突然死と見られます。
57歳没。
(鶴ひろみ)
昭和のバラエティ番組
ゆ~~めぇ~~でぇ~~あ~~いましょ~~~♪
ゆ~~めぇでぇ~~あいましょ~~♪
メロディを思い出したあなたは、この番組見てたはず……。坂本スミによる歌唱。
NHKの「夢であいましょう」
昭和36年4月8日から昭和41年4月2日まで放映。
土曜の午後10時から……。
寝る前のひとときを一緒に楽しく過ごしましょう。
そして、夢の中でまたあいましょう……。
司会はファッションデザイナーの中嶋弘子さん。
黒柳徹子がそのあとを継ぎ……。
歌ありコントあり……。台本は永六輔。
その後のバラエティの原型となった番組。
永六輔と中村八大の六八コンビ。
坂本九を加えると、六八九トリオ。
六八コンビによる「今月の歌」
多くのヒットを生み出しました。
坂本九の「上を向いて歩こう」
ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」
梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」
わたしは当時小学生でしたが、土曜日とゆうことで見てたんだと思います。夜10時からでしたが……。昔のこどもは寝るの早かったんで……。