Apex product 【 昭和の楽しい時代㉕ 】

MENS CLUB 

1970年代 私のバイブルでした・

五代目春風亭柳昇さん
(1920年10月18日-2003年6月16日、82歳没)
東京府北多摩郡武蔵野村(現:東京都武蔵野市)出身の落語家。
6月16日は、この人の命日です。
出囃子は『お前とならば』。
数々の新作落語を創作。
太平洋戦争中は陸軍に召集され、
歩兵として中国大陸に渡りましたが、
敵機の機銃掃射で手の指を数本失っています。
利き手をやられたため、
元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、
戦友に6代目春風亭柳橋の息子がおり、
その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入り。
初高座は1946年12月1日の鈴本演芸場昼の部。
手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、
新作落語一本に絞って活動して成功を収めました。
ただ、数は少ないですが古典落語のネタも持っており、
『雑俳』や『お茶漬け(茶漬間男)』などを演じています。
年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、
しなびた声・口調に変わっていきましたが、
これがとぼけた味となり、
新作派の大御所として地位を確固たるものとしていきます。
80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、
生涯現役の噺家でしたが、
表舞台での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、
胃癌のため82歳で死去。
日本会議代表委員を務めるなど、
保守系の言論活動も行いました。
次男はアニメ監督・アニメーターの知吹愛弓。
(経歴) 
・1920年
10月18日 - 東京府北多摩郡武蔵野村(現:武蔵野市)の旧農の跡取り息子として出生。
・1933年
10月 -地元にできたばかりの横河電機に就職。
同社吹奏楽団でトロンボーンを担当。
・1940年
7月 - 徴兵検査で甲種合格。
・1941年
2月 - 出征。
現役兵として歩兵第101連隊第一機関銃中隊に入隊。
10月、上等兵に進級。
民家への覗きが発覚、重営倉3日の処分を受けます。
同じ隊にいた渡辺勝郎と友人に。
・1943年
2月 - 兵長に進級。
馬匹係を経て軍用犬係となり、「寒朝号」を担当。
自ら給餌するため肉の配給を受け、食生活が豊かに。
・1944年 
中支派遣船舶司令部へ分遣、船舶警護分隊長として
部下14名、九二式重機関銃3丁とともに輸送船「暁雲丸」に乗船。
伍長に進級。
台湾高雄港付近で敵艦載機の雷撃により撃沈されるが、救助されます。
・1945年
3月25日 - 青島に向け上海を出航した輸送船「厚利丸」で
敵機ノースアメリカンB-25の空襲を受け、
指を数本失う重傷(右前膊左手背骨折擦過機関砲弾創)を負い、
輸送船「真岡丸」に救助されます。
「厚利丸」は沈没。
傷痍軍人として部隊から外れ、
以後、敗戦まで転院しつつ入院生活を送ります。
8月15日 - 北京陸軍病院で玉音放送を聞きます。
同年12月 - 復員。
・1946年
12月1日 - 戦友・渡辺勝郎の父である6代目春風亭柳橋(日本芸術協会会長)に入門。
初名、春風亭柳之助。
・1949年
5月1日 - 二つ目昇進。5代目春風亭柳昇襲名。
・1958年
10月1日 - 10代目桂文治、2代目桂小南、三笑亭夢楽、三遊亭小圓馬、4代目春風亭柳好とともに真打昇進。
・1973年
2月13日- 国立演芸場設立促進委員長となり、国立演芸場を完成させます(1979年2月23日)。
・2003年
4月23日- 「第一回 笑芸人 超・特撰落語会」で口演した『結婚式風景』が最後の高座に。
6月16日 - 東京都清瀬市の病院で胃癌で逝去。
82歳没。
(五代目春風亭柳昇)

1985年6月15日、国立競技場で「ALL TOGETHER NOW」が開催されました。

観に行きたかったが、上映が成人映画館だったので、当時中学生の自分を、親は嫌がって、観には連れて行ってくれなかった。
因みに、配給は日活でした。
鶴田浩二さん
(1924年12月6日-1987年6月16日、62歳没)
俳優、歌手。
6月16日は、この人の命日です。
身長172cm。
昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。
戦後派として登場し、
甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出ました。
若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博しましたが、
中年期からは任侠映画や戦争物で見せた渋い魅力で、
日本映画界を代表するスターとして長らく君臨。
また、
歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られました。
兵庫県西宮市出生。
戸籍上の出身地は、静岡県浜松市。
西宮時代、父と母が結婚していなかったのは、
鶴田の父の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかったため。
鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、
別の男性と婚姻。
母は、水商売をして生計を立てていたため、
幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていました。
祖母は鶴田の母を産んだ際に栄養失調によって失明。
祖母との2人暮らしは極貧そのもので、
洗面器で米を炊いていたといいます。
程なく祖母が他界。
家でたった1人の生活に。
母会いたさに遊廓へ1人で向かいましたが、
客商売の仕事中だった母は相手にしてくれず。
そのうえ、
義父は博打好きで幼児期には貯金箱を割ってまで金を奪ったり、
後に鶴田が映画界の大スターになってからも
不在時を狙って博打代金を借りに来ました。
こうした幼少期の思い出から、
嫌いなものに祖母と二人で毎日見た夕日を挙げています。
14歳のときに、
俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。
此花商業学校で学び、
19歳で関西大学専門部商科に進学するも、
その年に学徒出陣令により徴兵され、
学校での勉学は続けることができませんでした。
終戦まで海軍航空隊に所属し(最終階級は海軍中尉:整備担当)、
この時の体験がその後の人生に強く影響を及ぼしました。
また、22歳のときに薬の副作用で、左耳が難聴に。
1951年(昭和26年)公開の松竹映画『地獄の血闘』に出演した際、
共演した歌手の田端義夫に、
歌唱方法についてのアドバイスを受け、
以後、
鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」という独特の歌唱スタイルに。
また歌う際のマイクの持ち方も独特で、
白いハンカチで包んだマイクを右手で持ち、
右手小指を立てる、というもの。
1948年(昭和23年)、松竹入り。
芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられたした。
いくつかの映画に端役で出演し、
すぐに頭角を現し、
長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。
1949年(昭和24年)、
『フランチェスカの鐘』で初主演。
佐田啓二、高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。
1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、
芸能雑誌『平凡』の人気投票で、
2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位に。
マルベル堂のプロマイドの売上も1位。
甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなします。
1952年(昭和27年)には
戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロ(クレインズ・クラブ)を興しました。
同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。
歌手としてもヒットを飛ばし
戦後の日本を代表する大スターとなっていきます。
1953年(昭和28年)夏、
『野戦看護婦』(児井プロ制作・新東宝配給)では
たった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得ます。
これまで松竹との契約ギャラが1本につき180万円で45日間拘束でした。
花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、
『平凡』や『明星』でも人気投票No.1を守り続け、
昭和20年代最大のアイドルとして君臨。
裕次郎以前の映画界において抜群の集客力でした。
新生プロは『ハワイの夜』の他『弥太郎笠』などヒット映画を複数出し、
クレインズ・クラブ・プロも主宰しましたが、
信頼していた経理担当者に2000万円を持ち逃げされ
鶴田は独立プロの難しさを実感し、
フリーとなり、松竹、新東宝、大映、東宝の各映画会社で主演。
1953年(昭和28年)には
海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。
東宝との契約では、
必ずクレジットのトップとすること、
専属マネージャーを帯同するなどの条項が入っていました。
鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく、常に大勢の取り巻きを連れて入りました。
1955年(昭和30年)の『宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島』では
準主役で佐々木小次郎役の鶴田が、
主演で宮本武蔵役の三船を差し置いてクレジットのトップに。
1955年、
大映で山本富士子と共演した『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督。泉鏡花の名作『婦系図』の映画化)での
美しく哀しい恋愛シーンは今も語り継がれています。
1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結び、
主演作を作り続けますが、
専属初主演は『旅姿鼠小僧』で
岡本喜八監督『暗黒街の顔役』と『暗黒街の対決』は
興行的にも作品評価も高い成功作ですが、
いずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く
単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わいます。
1960年(昭和35年)、
東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のち、同社社長)が、
第二東映の設立による役者不足を補うため、
「現代劇も時代劇も出来るいい役者はいないか」と俊藤浩滋に相談し、
「それなら鶴田浩二がぴったりや」と俊藤が鶴田を口説き、
当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったですが、
東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、東映に円満移籍に。
時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べ
ヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられます。
第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、
現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、
重厚な演技を見せましたが、決定打に欠けていました。
オールスターキャスト時代劇には一度も招かれず低予算映画ばかり出され腐っていました。
1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒット。
鶴田を主演で起用した岡田茂プロデューサーのカンのよさが、
鶴田を任侠映画のスターに押し上げました。
カムバックに成功し、
ここから世に言う任侠映画ブームが始まります。
この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。
鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健と共に多くのヤクザ映画に出演。
熱狂的な支持を得ました。
ヤクザ映画は、
テレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けました。
「人生劇場シリーズ」「博徒シリーズ」『明治侠客伝 三代目襲名』「関東シリーズ」「博奕打ちシリーズ」『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、
オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。
1970年(昭和45年)12月25日にリリースしたシングル「傷だらけの人生」が大ヒット。
1971年(昭和46年)の『第13回日本レコード大賞』で大衆賞、
『第4回日本有線大賞』では大賞を受賞し、同名で映画化。
このヒットを契機にテレビの歌番組へも積極的に出演するようになり、
自身の作品以外に軍歌や戦時歌謡などもレパートリーとしました。
テレビドラマにも黎明期から出演。
中でも1976年(昭和51年)-1982年(昭和57年)まで放送された
NHKのドラマ『男たちの旅路』シリーズ(山田太一原作)は大ヒット。
1985年(昭和60年)に肺癌の診断を受けますが、本人には本当の病名が伏せられました。
翌1986年(昭和61年)に病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』が遺作に。
その後、闘病生活が続いたものの、
1987年(昭和62年)6月16日に東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。
62歳没(享年64)。
(鶴田浩二)
明日は金曜日!
金曜日といえば!
欽ちゃんのドンといってみよう!
この曲が流れてたんだよなぁ!
小学校の中学年で、静かなブームになっていた10分のラジオ番組!
ナイターで、いつも潰れた!
私が野球嫌いなのは、ここにもある。
水曜日のレコード大作戦は、ラジオならではの楽しみやった!
私は初代のアシスタントは、知らないけど、2台芽の斉藤京子ちゃんは、好きやったなぁ~
時々、栗原小巻さんの、ものまね入れて!
そして、この番組のすごいとこ!
下ネタなし!リスナーのプライベートにかかわる批判なし!
プロの仕事だったんだよなあ~
たった10分の番組に全力をかけてた!
欽ちゃんは、だから、凄かった!
(^o^;)

✨夏樹陽子・さん🌟1977年トラック野郎・度胸一番星🌟に出演,国際C級ライセンスが有ります。

出門英さん
(1942年12月15日-1990年6月17日)
歌手、作曲家(作詞家の担当も有り)、俳優。
夫婦デュオ「ヒデとロザンナ」の一人として知られます。
妻は歌手でテレビタレントのロザンナ、
長男は音楽家・画家の士門。
次男はミュージシャンの来門。
長女はモデルの万梨音。
東京府出身。
中央大学中退後、ポニー音楽スクール卒。
日活第6期ニューフェースに合格後、
日活での約1年間の俳優活動と並行して
1962年にソロ歌手として『東京ロマンチックガイ』で東芝レコードからデビュー。
その後、出門ヒデと改名し、
1966年に佐藤由紀と「ユキとヒデ」を結成・活動するも解散。
なお、
佐藤由紀は後に藤ユキ、さらにアン真理子として再デビュー、
「悲しみは駈け足でやってくる」を1969年にヒットさせます。
1968年に、
後に妻となるイタリア出身のロザンナ・ザンボンとの男女デュオ「ヒデとロザンナ」を結成。
デビュー曲の『愛の奇跡』が大ヒットして、
一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たします。
以降も
『愛は傷つきやすく』(1970年)などヒット曲を連発し、
1975年2月にロザンナと結婚。
作曲家としても
小柳ルミ子に『星の砂』(1977年、作詞は関口宏)を担当し、同年の大ヒットに。
ほか小柳は
『湖の祈り』(1977年)、『螢火』(1980年)、
また森昌子へ『彼岸花』(1978年)などを提供。
俳優としてもテレビドラマでは
『必殺仕事人V・旋風編』や『毎度おさわがせします』(第3シリーズ)、
映画では
『光る女』『東京上空いらっしゃいませ』等の相米慎二監督作品に出演。
1989年7月に
NHKテレビ『思い出のメロディー』のリハーサル中、
突如原因不明のひどい下痢に見舞われます。
一旦下痢は治まったものの、
同年10月に下痢が再発しながらも病院に行かず仕事を続けていました。
ようやく年末になって医師の診察を受けた結果、
結腸がんと判明(妻のロザンナは出門本人にがんの告知せず)、
翌1990年1月に緊急入院。
しかし手術時には既にリンパ節・腹膜にも転移が判明、
末期がんの段階にあり手遅れの状態でした。
同年3月に一時退院し、
15日に妻と共に次男の小学校の卒業式に出席。
3月17日には出門自らが経営していたゴルフショップの新ブランドの発表会の記者会見を行います。
しかし出門の身体は明らかに急激に痩せ、
目をサングラスで隠すなどをしており、
これが出門の最後の公の場に。
同年4月高熱により再入院、
診断の結果結腸がんが肺にまで転移していることが判明。
死の2日前に大量吐血し意識不明の重体に陥り、
1990年6月17日午後8時38分に入院先の東京都内の病院で死去。
47歳没。
(出門英)
金井大さん
(1927年1月29日-2001年6月17日)
俳優、声優。
群馬県高崎市出身。
中央大学専門部法科中退。
長男は俳優の金井節。
小学校の教員をしていましたがまもなく俳優に転向。
1952年には劇団「泉座」を設立。
新藤兼人監督の『第五福竜丸』『竹山ひとり旅』などの映画に出演した他、
テレビドラマや舞台などで主に脇役として活躍。
『水戸黄門』など時代劇では悪徳商人やヤクザの親分などの悪役でお馴染みの存在でした。
また、
洋画の吹き替えやアニメなど声優としても活躍。
2001年6月17日、
肺炎のため東京都江東区の病院で死去。
74歳没。
(金井大)

♥️2023💃6/16 麻生久美子(45歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

有川貞昌さん
(1925年6月17日-2005年9月22日)
撮影技師、特撮監督。
日本映画撮影監督協会会員。
東京府出身。
日本大学工学部卒。
1943年(昭和18年)、
日比谷の映画館で東宝映画『南海の花束』(1942年、阿部豊監督)を観て、
四発飛行艇「川西大艇」に魅せられ、
愛媛県の逓信省愛媛航空機乗員養成所へ入所。
飛行機パイロットの訓練を受けます。
1944年(昭和19年)、
台湾南部の航空隊に配属され、
雷撃機搭乗隊員として、対潜哨戒作戦に従事。
この航空隊での映画会で、
『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を鑑賞し、
出来栄えの素晴らしさに感動。
1945年(昭和20年)、内地で敗戦を迎えました。
同年8月、
東宝で女優を務めていたいとこを介して東宝に入社。
技術部音響技術課(録音課)に配属。
1948年(昭和23年)、
前々年からの東宝争議で、
東宝撮影所は映画製作が止まってしまいます。
学生野球の経験があることから、
有川は若い女優らと地方へ野球の試合に向かわされ、
缶詰会社の社員と試合をして、
もらって帰った缶詰を組合に供出するというような日々を送りました。
撮影所が政治闘争の場となり、
映画製作どころか組合の言いなりのような状態に
「思想的に同調できなかった」という有川は、
同年6月に東宝撮影所を退社。
この前に、戦時中に観て感激した、
『雷撃隊出動』を撮影した円谷英二を訪ねたところ、
飛行機の話題で意気投合。
誘われて円谷が自宅敷地に設置した円谷特殊技術研究所の撮影助手に。
しかし、最初の仕事は映画ではなく、
円谷が発明し販売していたオートスナップの改修。
1950年(昭和25年)、
東宝に復帰し、正式に専属契約を結びます。
この年、
GHQによる公職追放でフリーランスの身となっていた円谷が、
東宝撮影所内に円谷特殊技術研究所を設置。
有川は研究所員として加わり、
合成撮影などを請け負い、「東宝マーク」の作成も行います。
1953年(昭和28年)、円谷が嘱託として東宝に復帰。
これに伴い、
同じく撮影技師の富岡素敬、真野田陽一と共に東宝のカメラマンに。
同年、
『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)で特撮パートのカメラマンを務めます。
1954年(昭和29年)、
怪獣映画『ゴジラ』で特撮班のカメラマンを務めました。
以後、
数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけ、
昭和期における特殊撮影技術を代表する一人に。
円谷の下では、引き(ロング画面)のカメラマンを担当。
また、円谷の代理で本多猪四郎との連絡役も務めました。
1957年(昭和32年)、
『地球防衛軍』(本多猪四郎監督)のタイトルロールで、
初めて「撮影」としてクレジット記名。
1960年(昭和35年)、
『電送人間』(福田純監督)より撮影技師に。
1962年(昭和37年)、
『紅の空』(谷口千吉監督)で特技監督の円谷を補佐し、特技演出を務めました。
1963年(昭和38年)、
円谷英二が株式会社円谷特技プロダクションを創設。
円谷に請われ、
同社とフジテレビとの番組企画『WoO』に企画参画。
1965年(昭和40年)、
円谷特技プロダクション製作のテレビ映画『ウルトラQ』の「五郎とゴロー」「1/8計画」で
特技監督デビュー。
以後、円谷特技プロのテレビ作品で腕を振るいます。
1966年(昭和41年)、
『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(福田純監督)では、
円谷に代わって実質的に特撮演出のほとんどを務めました。
1967年(昭和42年)、
『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(福田純監督)で、
正式に東宝の2代目特技監督の役職を得ます。
1968年(昭和43年)、
円谷特技プロダクションが「円谷プロダクション」と社名変更。
登記上の取締役に就任(名義のみ)。
1969年(昭和44年)、
円谷とともに大阪万博の『三菱未来館』の「サークロマ立体映像」を制作。
1970年(昭和45年)、師匠の円谷英二が死去。
「サークロマ立体映像」の仕上げを行い、
円谷の死去直後にクランクインした『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(本多猪四郎監督)で特技監督を担当、
これが東宝での最後の特撮劇場作品に。
1971年(昭和46年)、
東宝特技課の解散に伴い、東宝を退社。
このこの年、東宝の系列会社である国際放映に移籍。
1972年(昭和47年)、
東宝に請われてテレビドラマ『愛の戦士レインボーマン』(NET)の特撮を担当。
1977年(昭和52年)、
元東宝の造形スタッフの村瀬継蔵に招かれ、
香港のショウ・ブラザーズ製作の『北京原人の逆襲』(ホー・メン・ファ監督)で特技監督を務めます。
1979年(昭和54年)、
『西遊記II』(日本テレビ)で、プロデューサーを務めます。
晩年は映像関係の専門学校の講師として、特撮技術の指導に当たりました。
2005年(平成17年)9月22日、肺癌のため死去。80歳没。
(有川貞昌)

♥️2023💃6/18 ポール・マッカートニー(81歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

《パニック映画》
*自然災害/異常気象/隕石衝突/未知の生命体/動物の襲来/様々な天変地異!!
生命の危険が迫るなか人はどう行動するか!?災害ゃ大惨事など突然の異常事態に立ち向かう人々を描くパニック映画は娯楽作品としてもまた危険な状態に陥ったときのシュミレーション
としても楽しむことができます
独断と偏見で今まで鑑賞して特に記憶に残るパニック映画のベスト10を列記!…の中から
*ベストスリー
〔1〕猿の惑星(1968年)
 驚愕のラストシーンは今も脳裡に…焼き付いてます
〔2〕タワーリングインフェルノ(1974年)
超高層ビル火災!様々な人間模様の中で人々は救助されるか?
スチーヴ・マックイーンがカッコいい!
〔3〕JAWS(ジョーズ・1975年)
平和な町の海水浴場で巨大な人喰いザメの恐怖とそれに立ち向かう人を描いた海洋アクション空前の大ヒット作品。サメの襲撃シーンで流れる恐怖を煽る音楽も素晴らしい
映画史にその名を刻むモンスターパニック映画の金字塔!

♥️2023💃6/18 久保竜彦(47歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

松村達雄さん
(1914年12月18日-2005年6月18日)
俳優。
大学時代はラグビー選手として活躍し、
劇団を結成して舞台で活動するも、
劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演。
しやがれた声の独得な台詞まわしと、
芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、
崩れたインテリ役に定評がありました。
映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られます。
3男2女の3男として誕生。
父の武重はコロムビアレコードの取締役文芸部長でした。
大森区立山王小学校、暁星中学校を経て、
1932年(昭和7年)に法政大学予科に入学。
1934年(昭和9年)、
演劇に興味を抱いた為に日本大学専門部芸術科に転学、
1935年(昭和10年)に法政大学経済学部に復籍。
大学時代は一貫してラグビー部に所属し、左ウィングで活躍。
1938年(昭和13年)、
法政大学を卒業して同人劇団を結成。
ついで新協劇団の研究生となるも、
1942年(昭和17年)に軍の召集を受け、
満州・中支・南支などを転戦して1946年(昭和21年)に復員。
1952年(昭和27年)、
高円寺に劇団五十人劇場を創設し、
小山田宗徳・野呂圭介らと武者小路実篤作品を中心にモリエール作品なども上演するも、
経済的に行き詰まり1957年(昭和32年)に解散。
劇団解散後はテレビドラマに進出。
『ダイヤル110番』『雑草の歌』『事件記者』『若い季節』などに出演し、
自然な演技で人気を博します。
映画には
1959年(昭和34年)、佐分利信監督の『乙女の祈り』で初出演し、
それ以来豊田四郎監督の『濹東綺譚』、
小林正樹監督の『切腹』、
山田洋次監督の『なつかしい風来坊』などに出演。
黒澤明監督の『どですかでん』では、すさんだ中年男を好演。
山田洋次監督の『男はつらいよ』では、
1972年(昭和47年)から同年に急逝した森川信の後を継ぎ、
第9作『柴又慕情』から第13作『寅次郎恋やつれ』までの5作で
2代目おいちゃん(車竜造)役を演じました。
病気により降板後も同シリーズには違う役柄で度々出演。
また、
第6作『純情篇』では森川と顔合わせしています。
テレビドラマでは大映ドラマに多く起用されましたが、
1977年の『日本の戦後』では、
主役と言って良い吉田茂を演じ、そのソックリさが話題に(新聞や雑誌の記事にもなったほど)。
声質が本田宗一郎(ホンダ創業者)に似ていることから、
テレビ番組で声役を演じたこともありました。
1993年、
黒澤監督の遺作『まあだだよ』で主役の内田百閒を演じ、
長い俳優生活の中で初映画主演に(黒澤によると、内田の遺族たちが映画を観て「そっくりだ」と言ったほどの仕上がりでした)。
ちなみに、
黒澤作品への出演は『どですかでん』の陰惨な悪役以来23年ぶり。
1999年(平成11年)からは
どーもスポットでうさじいの声を担当(うさじいのモデルは松村本人)。
松村の死後は新たなCMは制作されず過去の作品を使用。
2005年(平成17年)6月10日、
間質性肺炎を患って東京都新宿区の病院に入院するも、
退院間近の6月18日に心不全のため死去。
90歳没。
(松村達雄)
山本直純さん
(1932年12月16日-2002年6月18日)
作曲家、編曲家、指揮者。
東京都出身。
東京五反田の至誠病院に生まれ、
中野区や大田区や豊島区などを転々として育ちます。
幼児期から父山本直忠、山田和男(一雄)らによって
徹底した早期音楽英才教育を施されたほか、
自由学園で羽仁協子や久山恵子、林光、三善晃などと共に早期音楽教育を受けました。
自由学園時代の学友の一人に渡辺岳夫。
1951年、東京芸術大学の入試に失敗し、
父の弟子である渡辺浦人の元に預けられて渡辺の仕事の手伝いをします。
一浪後、1952年に東京芸術大学作曲科に入学。
3年生終了後、指揮科へ転じ、渡邉曉雄に師事。
1958年、長男出生の年に大学を卒業。
指揮科卒業演奏の曲目はブラームス作曲「交響曲第1番」。
大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、
ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行うように。
同時に、
テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注ぎました。
中でも最も知られているのは、
1973年から10年間放送された
TBSのテレビ番組「オーケストラがやって来た」の企画・音楽監督・総合司会者として、
クラシック初心者でも楽しんでもらえるように、
ユーモアを交えた解説を展開したことで知られます。
また、
1983年に落成した大阪城ホールのこけら落としとして、
当時・毎日放送常務取締役の斎藤守慶営業本部長(後に社長・会長を歴任)とともに
「サントリー1万人の第九」を企画。
当時・サントリーの佐治敬三社長の後押しもあり、83年スタート。
98年の第16回まで連続して構成・総監督・指揮を務めてきました。
このほか、
NHKのFMラジオ番組「FMシンフォニー・コンサート」(番組そのものは2007年3月で一旦終了した後、2009年4月から2012年4月まで放送された)の
指揮、司会なども務めていました。
1972年には
小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団を結成、
指揮者団幹事となり、1972年から14年間にわたり、
軽井沢プリンスホテルで『軽井沢音楽祭』を開催。
同祭ではさだまさしとの共演が人気の演目となり、
「親父の一番長い日」などは軽井沢音楽祭がきっかけとして生まれています。
1979年、1980年には2度にわたり、
日本人として初めてボストン・ポップス・オーケストラを指揮。
山本は
人々の心に強く残る明快なメロディーを次々と生み出しましたが、
いずれもシンプルでかつ基礎的技術の高さに裏打ちされてます。
代表的な作品として、
童謡『歌えバンバン』『一年生になったら』、『こぶたぬきつねこ』、
TV番組『マグマ大使』、『8時だョ!全員集合』、
NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』、『武田信玄』、
映画「男はつらいよ」のテーマ曲ほか多数。
TBSラジオの人気長寿番組『小沢昭一の小沢昭一的こころ』のお囃子(劇中音楽)を担当し、
テーマ曲と挿入曲を作曲したことでも知られます。
「男はつらいよ」シリーズでは、
テーマソング・映画内の音楽を一貫して担当してきましたが、
第47作「男はつらいよ 拝啓車寅次郎様」以降の3作品は、
長男の山本純ノ介と共同で音楽を担当。
クラシック作品では、
1974年ニューヨークでの国連デー・コンサートのための国連委嘱作品『天・地・人』のうち『人』を作曲、
日本太鼓とオーケストラのためのこの作品は、
小澤征爾の指揮で初演され圧倒的成功を収めました。
他には『和楽器とオーケストラのためのカプリチオ』、『シンフォック・バラード』など。
1975年12月31日放送の「ゆく年くる年」(全民放局同時放送・幹事局は日本テレビ)と
1987年3月31日放送の「国鉄最後の日」の関連特番(日本テレビ)では
蒸気機関車の汽笛の音を用いて演奏する「蛍の光で指揮を務めました(後者では最後に蒸気機関車の汽笛の音に合わせて機関士一同が合唱を行った)。
2回とも京都市にある梅小路機関区で行われました。
口ひげと黒縁メガネがトレードマークとして知られ、
その自由奔放なキャラクターから、タレントとしての一面も備えていました。
森永製菓「エールチョコレート」のCMソング『大きいことはいいことだ』、
日本船舶振興会(当時)の『火の用心の歌』を手がけた際には、
自らCMに出演したほか、
NHKや民放の音楽番組やバラエティ番組にもゲストとして度々出演。
音楽関係者の間では
「日本の音楽普及に最も貢献したひとり」として高く評価されています。
だが一方で、
生前は周囲とのトラブルなどでのマイナスイメージもあり、
生前はその多大な功績に比して世間から必ずしも高い評価を得られない一面も。
晩年は
アマチュアオーケストラのジュニア・フィルハーモニック・オーケストラの指導にも特に力を注ぎました。
1998年に鹿児島県南種子町で開催された「トンミーフェスティバル」において
作曲を手がけたことが縁となり、
楽譜をはじめとした資料、楽器、生活家具などが同町へ寄贈され、
南種子町郷土館内に「山本直純音楽記念室」が開設されました。
2002年6月18日、急性心不全のため死去。
享年69歳。
(山本直純)
小沢仁志さん
(1962年6月19日-)
俳優・映画監督・プロデューサー・YouTuber。
東京都出身。
身長180cm。
空手2段、剣道・柔道初段。
監督や企画、脚本での名義はOZAWA。
2022年現在、
『日本統一』シリーズ(川谷雄一 役)などに出演中。
2017年よりドカントドットコムにて「小沢アニキの人生相談」連載中。
俳優の小沢和義は実弟。
・1981年
駿台学園高等学校卒業。
・1983年
『太陽にほえろ!』〈日本テレビ〉第558話「疾走24時間」に端役で出演 俳優としてデビュー。
・1984年
TBSドラマ『スクール☆ウォーズ』に水原亮役で出演して本格的にデビュー。
加藤文彦監督の日活ロマンポルノ『ひと夏の出来こころ』で映画初出演。
・1985年
那須博之監督映画『ビー・バップ・ハイスクール』で敵役・ヘビ次を演じた事がきっかけとなり、
同シリーズ三作目『高校与太郎行進曲』(1987年)から主人公二人組(ヒロシ&トオル)の仲間である北高校番長・前川新吾に扮し、
以後、同シリーズの完結編(1988年)まで同役でレギュラー。
・1988年
村上修監督の日活ロマンポルノ『BU・RA・Iの女』で初主演。
・1990年
北野武監督映画『3-4X10月』に出演。
事件の発端となる暴力団大友組組員・金井を演じます。
・1992年
TBSドラマ『ずっとあなたが好きだった』に出演。
・1994年
オリジナルビデオ作品『愛という名の銃弾』(1993年)で知り合った
映画監督・室賀厚と意気投合して500万円の予算で
クエンティン・タランティーノ監督作『レザボア・ドッグス』をモチーフにした
オリジナルビデオ作品『ザ・ワイルドビート/裏切りの鎮魂歌』を完成(主演)。
同作を売るために前々からコンタクトのあった
松竹の奥山和由プロデューサーにコメントをもらいに伺ったところ、
同作を基にした映画製作に伸展。
・1995年
室賀厚監督による制作費3000万円のアクション映画『SCORE』が完成。
本作では初めてプロデュースも兼ねて主演。
同作品で
第50回毎日映画コンクールのスポニチグランプリ新人賞(室賀厚監督)、第17回ヨコハマ映画祭新人監督賞&審査員特別賞(『score』軍団こと出演俳優陣)を受賞。
・1997年
松竹富士『殺し屋&嘘つき娘』で映画初監督。
・1999年
『SCORE』の続編となる『SCORE2 THE BIG FIGHT』を監督・主演を務めます。
同作で初めてOZAWA名義の監督名を使用。
三池崇史監督映画『DEAD OR ALIVE 犯罪者』に出演。
・2000年
阪本順治監督映画『新・仁義なき戦い。』に出演。
佐橋組若頭補佐・斎木保を演じます。
・2006年
バラエティ番組『ダウンタウンDX』に初めてゲスト出演。
・2007年
『素浪人 月影兵庫』〈テレビ朝日〉にテレビでの初の時代劇ドラマに出演。
主役の松方弘樹の強い推薦で月影兵庫の相方である焼津の半次役に抜擢。
俳優歴25周年記念作品として、
主演映画『太陽が弾ける日』が公開。
・2013年
NHK大河ドラマ『八重の桜』に出演。
長州藩士・世良修蔵を演じます(大河ドラマ初出演)
神戸市長田区にて行われる夏の恒例行事地蔵盆に白竜、貴闘力など有名人を連れて参加。
・2021年
59歳の誕生日にYouTubeチャンネル『笑う小沢と怒れる仁志』を開設。
・2022年
12月9日に、
小沢仁志還暦記念アクション映画・小沢仁志製作総指揮・主演『BAD CITY』をロケ地である福岡県で先行上映予定。
2023年1月20日より
東京・新宿ピカデリーほか全国で順次公開。
2022年7月1日よりスイスで開催されるヌーシャテル国際ファンタスティック映画祭のAsian Competition部門 招待作品。
(小沢仁志)
『少年ジェット』は、雑誌『ぼくら』に連載された武内つなよしの漫画作品、およびそれを原作とするテレビドラマです。漫画、テレビドラマともども人気を集め、昭和30年代のヒーローとして、現在も根強いファンを持っています。1959年3月4日から1960年9月28日まで大映テレビ室製作でフジテレビにて放映された。ヱスビー食品の一社提供番組。また1961年7月2日から1962年4月1日までは続編『新少年ジェット』が放映された。大映テレビ室の第一回作品である。大映テレビ室では第一回作品を制作するにあたり、当時、『赤胴鈴之助』で大ヒットを飛ばしていた漫画家の武内つなよしに原作を依頼した。武内は、雑誌「yy.jockey」1979年9月号に掲載された『少年ジェット』の特集で、当時の模様について説明している。それによると、武内はプロットのほか、ジェットのオートバイ、悪役のコスチュームのデザインも担当し、『ぼくら』への連載も武内が決めたものだった。当時、武内は人気絶頂の頃で、「12本くらい連載を持っていたため、漫画の連載とテレビの仕事の両立は大変だった」という。少年ジェットの必殺技・ミラクルボイスは『赤胴鈴之助』の真空切りのような必殺技をという要望から生まれたものだった。
https://youtu.be/dfYBQMegImo

♥️2023💃6/19 宮里藍(38歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/19 宮里優作(43歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

【昭和のなつかCM】1970年代、テレビジョッキーで番組中に流れていたエドウィンのCM。試合に負けたボクサーが階段を上がっているもの。バックに「自分の影を踏め~ば~太陽に会えはしない・・」と森田公一の歌が流れて いました。阿久悠作詞、森田公一作曲のEDWIN社歌だそうです。
https://m.youtube.com/watch?v=SmpvP0EEhKM

♥️2023💃6/20 相武紗季(38歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/20 河合その子(58歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/20 上田馬之助(71歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/20 石坂浩二(82歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

鈴木ヒロミツさん
(1946年6月21日-2007年3月14日)
歌手、俳優、タレント。
満州生まれ。
私立芝高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。
東京都文京区旧・小日向台町出身。
1967年にデビューしたザ・モップス(実弟のスズキ幹治がドラムス担当)のボーカリストとして芸能界入り。
モップス時代は「鈴木ひろみつ」「鈴木博三」。
ザ・モップスが1974年に解散して以降、俳優・タレントとして活躍。
1971年に放映されたモービル石油(現:ENEOS)のCM「のんびり行こうよ」編では
CM演出家の木村俊士とともにガス欠のクラシックカーを押す青年の役を演じ、
昭和の名CMの一つとなりました。
1974年からTBSで放送された大映テレビ製作のドラマ『事件狩り』への出演に引き続き、
刑事ドラマ『夜明けの刑事』『新・夜明けの刑事』『明日の刑事』に
うだつの上がらない刑事役で出演、エンディング・テーマも担当。
芸能界きっての美食家としても知られ、
紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、
2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版。
また、
大の中日ドラゴンズのファンで(実の母親が名古屋市生まれだった)、
東海テレビのドラゴンズ応援番組『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(『ドラゴンズHOTスタジオ』の前身)ではメイン司会を務め、
多くの選手や首脳陣と親交がありました。
NHK教育テレビで、
中学生向けの英語番組の司会もつとめていました。
2007年3月14日午前10時02分、
肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。
60歳没。
(鈴木ヒロミツ)
都倉俊一さん
(1948年6月21日-)
作曲家。
東京都出身。
第23代文化庁長官。
元日本音楽著作権協会(JASRAC)会長。
元エスワン・カンパニー経営者。
シュン・トクラ名義でも活動。
4歳のころからバイオリンを習い、
父都倉栄二が外交官であったことから、
7歳の時にドイツに渡り音楽の基礎を学びます。
12歳になり帰国。
中学校卒業後に再びドイツに渡り、
「ビートキャッツ」というバンドで活動。
18歳で再び帰国し、学習院大学法学部に入学。
1971年学習院大学法学部卒業。
1968年、フォーク・グループ「ザ・パニック・メン」にヴォーカリストとして参加、
「思い出の小径」でレコード・デビュー。
大学2年生の時から作曲家としての活動を始め、
中山千夏の「あなたの心に」で注目を集めました。
さらに、
都倉らしくない曲調の「天使になれない」(歌:和田アキ子)も好評。
1974年に大信田礼子と結婚し、78年に離婚。
1970年代前半は
山口百恵、フィンガー5などを手掛けました。
また70年代には阿久悠とのコンビで、
ピンク・レディーの「ペッパー警部」「UFO」「カルメン77」で大ヒットを連発。
この頃、
日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の審査員も務めました。
1977年日本音楽著作権協会評議員。
1983年から
音楽活動の拠点をロサンゼルスに移し、
「シュン・トクラ」の名義で作曲・プロデュース業を開始。
1995年日本作編曲家協会理事。
2001年日本音楽著作権協会理事。
2005年日本作曲家協会理事。
2006年に再婚。
Jリーガーの都倉賢は甥、女優の都倉伶奈は姪。
2009年日本作曲家協会常務理事事。
パイロットの資格を所持。
ミュージカルの制作も手がける傍ら、
日本音楽著作権協会理事を務め、
2010年8月12日より船村徹の後を受けて会長に就任(2016年3月退任)。
2011年文部科学省文化審議会委員。
2012年には国立競技場の有識者会議メンバー(スポーツWG座長)、
および国際デザインコンペの審査委員を務めました。
2014年昭和音楽大学客員教授。
2015年3月23日付で横綱審議委員会の委員に就任。
2015年10月国際音楽創作者評議会執行委員。
2016年日本音楽著作権協会特別顧問、アジア・太平洋音楽創作者連盟(APMA)執行委員会会長。
2017年12月31日放送の『第68回NHK紅白歌合戦』より、
同年7月21日に逝去した平尾昌晃の後を引き継ぐ形で「蛍の光」の指揮者に就任。
2018年、文化功労者選出。
2021年4月1日、第23代文化庁長官に就任。
(都倉俊一)
『竜二』Production RYUJI 昭和58作品
ヤクザ稼業というものは、また人間の哀しき性なのであろうか。麻薬でもあるかのように、そこから容易に抜けられない魔力を持っているのであろうかー
主役の竜二を演じた金子正次は、愛媛県の瀬戸内海の孤島に生まれ、高校を中退してかねてから憧れだったヤクザの世界に道に近づいたが、成りきれず、劇作家の内田栄一に出会い、彼の率いる東京ザットマンというアングラ劇団に入って舞台を踏んだ。そこで彼は映画製作を夢見てシナリオを書き、鈴木明夫のペンネームで書いた『竜二』がこの作品である。
彼が演じた花城竜二は、新宿にシマを持つ山東会の常任理事。つまりヤクザの幹部で、舎弟のひろし(北公次)を従えてのし歩いている。その彼が暴力沙汰を起こして拘置所に入れられる。
妻・まり子(永島瑛子)は娘を抱いて九州に行き、両親に保釈金を工面してもらう。だが父親は大金を出した代わりに、まり子を竜二と別れさせ実家に引き戻した。
「やっぱりカネがなきゃダメだ」
そう思った竜二はカツアゲでもなんでもやってカネを巻き上げた。彼がポケットに手を入れ、ハジキを出す真似をすると、相手は震え上がり、数千万のカネを出した。おもしろいようにカネが転がり込み、それで女を抱いた。だか、それも虚しく思えるようになる。そろそろ中年に差しかかり、安らぎのある家庭に安住の地を求めた彼は、ヤクザを辞めてカタギになり、妻子を連れもどして酒屋の店員となって働く。そこには貧しくても暖かい家庭の幸福感があった。
ある日の給料日の夜、家に帰る道すがらに以前の舎弟が待ち伏せていた。聞けばヤクでめためたになり、カネを都合して欲しいのだと言う。竜二はポケットに手を突っ込んだ。給料袋がある。だがそれを出さずに小銭だけ渡したー 翌日舎弟は殺された。
竜二の心に空白が生じる。可愛いがっていた舎弟が生きるが死ぬかの瀬戸際で、「俺は奴を助けることができなかったー」
その日から数日後、ひろしが久しぶりに家に遊びにくる。三揃のスーツに頭を整髪剤で固め、娘のあやにお土産まで・・大した羽振りである。
竜二「俺、変わっただろ?」
ひろし「いいえ、竜二さんはいつも竜二さんですよ」
竜二「お前はシャブはやらないのか」
ひろし「シャブはやるもんじゃなくて、売るもんじゃないですかね、竜二さん」
曾ての舎弟がナメタ口を利き、竜二の血が騒ぎ始める。
ある日、商店街を歩いていた竜二は、買い物をしているまり子とあやの姿を見つける。まり子と目が合ったが竜二は近づこうともせず、背を向けて再び商店街を引き返していった。
まり子は察知した。「あや、あや、おばあちゃんのところに帰ろうか」
あや「また、全日空に乗れるの?」
まり子「そうよ」
エンディング曲、萩原健一の「ララバイ」が流れる中、白のセットアップにサングラスの出立ちで、盛り場を闊歩する竜二の姿が、この映画のラストシーンである。もうすっかりヤクザになった竜二。やはりこの方が彼には似つかわしい。そして、憧れのヤクザになった金子正次。このシーンこそが我々が観る金子正次の最後の姿となった。
享年33 
もっと彼の作品を観たかっただけに、残念でならない。
勝新太郎さん
(1931年11月29日-1997年6月21日)
俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。 
身長170cm。
市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。
その後は「勝プロダクション」を設立し、
劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わりました。
勝新と愛称で呼ばれ、
豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、
数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛されました。
2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、
好きな日本映画男優の第4位に選ばれています。
長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として、母方の実家のある千葉県で生誕。
生家は東京市深川区(現在の東京都江東区)。
若山富三郎は二歳上の兄。
宇津井健は幼馴染。
旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。
十代のころは長唄と三味線の師匠として、
深川の芸者に稽古をつけてもらいます。
長唄の名取は二代目杵屋勝丸。
1954年のアメリカ巡業中に、
撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意。
23歳の時に大映京都撮影所と契約、
1954年の『花の白虎隊』でデビュー。
大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、
白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたしたが、
思うように人気が出ず。
同年代の雷蔵・山本富士子・若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、
憧れの長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず、
主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは
「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」、「勝の主演ではヒットしない」との苦情が絶えず寄せられるほどでしたが、
1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、
それまでの評価を一新させることき。
1961年、
二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。
玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演。
この映画が初のヒットとなりシリーズ化。
1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。
続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得。
1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、
勝は一躍大映の大黒柱の一人き。
これ以降、
1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、
大映の2枚看板として「カツライス」と称され、
その屋台骨を支えました。
特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作に。
1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出します。
この時期、
大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、
三船敏郎の三船プロ、
石原裕次郎の石原プロ、
中村錦之助の中村プロなど
映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続きました。
勝プロは、
既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、
三隅研次・安田公義・森一生・増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、
勅使河原宏・五社英雄・斎藤耕一・黒木和雄ら、
当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督(斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、
『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演。
また、一方では
『男一匹ガキ大将』や実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、
自身も主演した『御用牙』などマンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出。
特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、
撮影の殆どを手持ちカメラで行い、
極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、
典型的な刑事ドラマでありながらも、
それまでの日本映画の映画文法を破り、
先進的な手法を使った作品と評されました。
またデビューして2年の俳優だった松平健を
自らの弟子とし、
勝自身が製作・主演したテレビドラマ『座頭市物語』に出演させて徹底的に鍛え上げ、
1978年に『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)に主演させて時代劇スターに育て上げました。
1980年には勝プロダクションは
松平主演のテレビドラマ『走れ!熱血刑事』を製作。
1974年から1979年にかけて、
座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、
全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)するなど、
活動は軌道に乗っているように見えましたが、
この頃からプライベートでのトラブルが多くなり、
1978年にはアヘンの不法所持で書類送検。
1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されるも、監督の黒澤明と衝突し降板。
1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ系)が
完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、
作品自体も不振で途中打ち切りになるなどしました。
この影響を受けて勝プロダクションは膨大な赤字を抱えて経営が立ち行かなくなり、
1981年に12億円の負債を残し倒産。
翌年、
中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立するも、
1983年には義父・二代目中村鴈治郎が死去するなど不幸が相次ぎました。
1989年、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させました。
これが勝製作の最後の映画となりました。
勝の出演作品としては1990年、
黒木和雄の監督映画『浪人街』が最後となりました。
俳優活動の場を舞台に移します。
1996年7月に下咽頭癌を発病。
手術はせず、抗癌剤と放射線の治療を行ないました。
入院中も外出を繰り返して寿司や酒を楽しみ、
平然と煙草をふかしました。
約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙する様を見せました。
晩年は、
トライデントシュガーレスガムのCMにも出演し、
死の前年である1996年4月23日には
『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」にも出演。
最後の舞台は大阪新歌舞伎座で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。
1997年6月21日午前5時54分、
入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院において下咽頭癌で死去。
65歳没。
(勝新太郎)
浜村純さん
(1906年2月7日-1995年6月21日)
俳優。
福岡県糟屋郡宇美町馬場出身。
福岡市立商業学校卒業。
戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。
戦後は映画俳優として、数多くの話題作や名作に出演。
総出演本数は約300本。
個性的で幅の広い演技に定評があり、
日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍。
福岡県糟屋郡宇美町馬場に、
呉服商の父・伴太郎と母・むめの3男1女の三男として誕生。
宇美尋常高等小学校を経て1926年(大正15年)に福岡市立商業学校を卒業。
東京美術学校を受験するも不合格になり、
福岡市にある松屋呉服店の店員を務めたのち上京、
深川で新聞配達・職工、浅草でクリーニング店の店員などの職に就きます。
1932年(昭和7年)、
舞台装置家を志してプロレタリア演劇研究所に3期生として入ります。
同期には宇野重吉。
翌1933年(昭和8年)、
研究所卒業とともに新築地劇団へ入り、
本名で『土』『守銭奴』などの舞台に出演。
1937年(昭和12年)に劇団を退団すると、
新協劇団公演『火山灰地』『夜明け前』などに助演。
1938年(昭和13年)、
伊丹万作監督の『巨人傳』など数本の映画にエキストラ出演したのち、
中国人の演劇指導のため満州の新京に渡ります。
のちにハルピンに渡り、
昼は市公署官吏や不動産会社に勤め、夜は劇団に参加。
その後帰国し、
1944年(昭和19年)に劇団文化座に入って浜村純と改名。
文化座の公演で再び満州に渡り、奉天で終戦を迎えました。
復員後は移動劇団を組織して地方を巡業するも、肺結核に倒れます。
1949年(昭和24年)に
児童劇映画『谷間の少女』に出演してからは映画に主力を置きました。
痩せこけた頬とギョロリと目の光る特異な風貌ながら、
堅実な演技力で定評を受けました。
市川崑の監督作品には計22本に出演しており、
大島渚、篠田正浩、今村昌平、浦山桐郎などの作品にも多数出演。
1995年(平成7年)6月21日、
急性白血病のため日産厚生会玉川病院にて死去。
89歳没。  
(浜村純)

♥️2023💃6/21 長山藍子(82歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

ガールズ・ロック・バンドSHOW-YAの🎸寺田恵子・さん🎸今年17回目に成る,日比谷野音で開催,SHOW-YAプロジュース🎺NAONのYAON🎷毎年豪華女性アーチストが参加。

青野武さん
(1936年6月19日-2012年4月9日)
俳優、声優、ナレーター。
北海道旭川市出身。
小、中学生の時、学芸会、文化祭に出ており、
小学4、5年頃に
友人の実家が経営していた映画館で上映されていた映画を観るほど映画が好きでした。
映画と一緒に旅回りの芝居をしていましたが、覚えていなかったといいます。
中学校進学後、野球部に所属し、野球をしていましたが、
中学3年生の時に担任の教師に
「君のさ、ファーストで球を受ける時の体の線、
実に美しいんだワ、
今度の文化祭で演劇やってみないかい?」と
言われて本格的に芝居を始めます。
北海道旭川東高等学校に進学後の高校1年生の時も野球部に所属し、
野球をしていましたが、耳を患って、激しいスポーツを禁じられてしまいます。
そんな時に演劇部の先輩の女性に
「あなたの中学の時の文化祭観たんだワ、
とっても良かった。あなた素質あるわ、演劇部に入らない?」
と言われて高校時代に演劇にはまり込み、
同高校卒業後は単身上京し、
舞台芸術学院にて演劇を学びます。
学院の1年先輩に家弓家正。
喫茶店の風月堂、サンドイッチマン、レストランの出前持ち、バーテン、ストリップの照明係、アルサロのボーイ等のバイトを経験。
劇団七曜会に所属した際に主役を務めた『欲望という名の電車』での演技が認められ、
海外ドラマ『ブロンコ』の主役であるタイ・ハーデンの吹き替えを担当。
これを機に、
以後多くのアニメ・吹き替えなどで声優として活躍。
また俳優としても、
大河ドラマ『北条時宗』やNHK教育の『このまちだいすき』などの映像作品に出演。
演劇活動では、
劇団青俳の研究生を経て、七曜会解散後に作品座の所属を経て、
20代の頃に出会ったあずさ欣平と親交を結び、劇団芸協に所属。
あずさの他、
劇団仲間であった雨森雅司、宮内幸平、田中和実など、
死去した友人の遺志を継ぎ、同劇団の主宰を務めました。
声優としては
演協プロ、江崎プロダクション、オフィス央を経て、
青二プロダクションに所属。
2010年5月15日に解離性大動脈瘤の手術を受け、
6月26日に脳梗塞であることが判明して入院。
療養で復帰の目処が立たないことから、
当時演じていた全ての持ち役を降板。
2年近い闘病生活の末、
2012年4月9日午後4時38分、
解離性胸部大動脈瘤術後多発性脳梗塞のため、
東京都八王子市の病院で死去。
満75歳没(享年76)。
2013年、第7回声優アワード「特別功労賞」を受賞。
(青野武)

♥️2023💃6/21 松本伊代(58歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

佐々木すみ江さん
(1928年6月22日-2019年2月17日)
女優、声優。
身長160cm。 
東京府出身(出生地は台北市)。
東京府立第五高等女学校、日本女子大学家政学科卒業。
劇団民藝(当初は東京民衆芸術劇場)養成所1期生(同期は大滝秀治・奈良岡朋子)。
大学卒業後の1951年、劇団民藝の結成に参加。
『その妹』で初舞台を踏んで以降、多くの作品に出演。
同年、
ジャーナリストで産経新聞編集局長、筑波大学名誉教授を務めた青木彰と結婚。
1971年に内部で起きた対立により、
下條正巳や鈴木瑞穂、佐野浅夫らと共に劇団を退団。
『想い出づくり。』を筆頭に、
確かな演技力で母親役や姑役で各作品に出演。
2008年に出演した『篤姫』での主人公・天璋院の養育係である菊本役が好評を博し、
「女の道は一本道でございます」というセリフでも話題に。
2019年2月17日午前中に自宅で倒れ、
東京都内の病院に緊急搬送されたものの同日12時59分、肺炎のため死去。
90歳没。
(佐々木すみ江)
笹野高史さん
(1948年6月22日-)
俳優、タレント。
特技はトランペット。
身長167cm、体重57kg。
兵庫県出身。
兵庫県立洲本高等学校卒業、日本大学芸術学部中退。
淡路島の造り酒屋「東洋長」に四男として誕生。
裕福な家に育ちましたが、
3歳の時に父を、11歳の時に母を相次ぎ亡くしました。
兵庫県立洲本高等学校卒業。
高校生時代は演劇部ではなく、陸上競技部と音楽部に入っていました。
そこそこ足が速かったとのことで、
陸上部では100メートル競走、200メートル競走の短距離や走幅跳を専門としていました。
中学生時代は野球部に所属。
しかし小さいころから腎臓と肝臓が弱く、
陸上の練習中に血尿が出る事態にまでなり、
最終的にはドクターストップが掛かって陸上競技は辞めてしまいます。
一方、音楽部ではテナーサックスをやっていました。
音楽部でのパフォーマンスが目に留まって演劇部から誘われ、
文化祭での劇に出たことも。
日本大学芸術学部映画学科を受験する時は、
俳優コースにしたかったそうですが
「馬鹿にされそうだから」と監督コースに丸を付けて願書を提出。
同大学に入学し、在学中の1968年に自由劇場にスタッフとして入団。
大学は約1年半で中退。
兄の知り合いの伝で船会社に就職し船員になるも、
元々の夢である俳優を諦めきれず、
船内のテレビで東大安田講堂事件のニュースを視たのを機に
自由劇場主宰の串田和美に連絡して俳優復帰の了承を得て、
1972年に『ヴォイツェク』で初舞台を踏み、
俳優活動を開始。
1979年の舞台『上海バンスキング』のバクマツ役で注目されたした。
1982年には同劇場を退団するも、舞台には座友として参加。
『コクーン歌舞伎』、『平成中村座』などにも出演し、
「夏祭浪花鑑」長町裏の場、通称「泥場」での悪役、義兵次、『隅田川続俤』通称「法界坊」などに出演。
自らの出身地にちなんで淡路屋の屋号を持つことで知られます。
歌舞伎出演の記者会見では「民間からの参加です」と言っています。
新派にも水谷八重子、波乃久里子の相手役で参加することが多数。
映画デビュー作は
1983年公開の『ふしぎな國 日本』(松林宗恵監督)。
1985年の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来、
山田洋次監督作品の常連に。
2007年には山田監督の『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をはじめ数々の賞を受賞。
長らく独身でしたが、
42歳にして17歳年下の劇団研究生の絹代と結婚。
2000年代に入るとバラエティ番組にも出演するようになり、
年の差結婚と年の離れた4人の息子たちがトーク番組でよくネタにされました。
息子は全員が俳優として活躍。
2014年、
映画『グレイトフルデッド』で、瀧内公美と共に主演。
2015年には『手裏剣戦隊ニンニンジャー』で、
久々の特撮レギュラーにキャスティング。
翌2016年の第45話では「アカニンジャー」に変身し、
戦隊歴代シリーズ作品において最年長変身者に。
また、
長男の翔太は同作で自身の青年期の役として出演。
(笹野高史)

♥️2023💃6/22 阿部寛(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/22 シンディ・ローパー(70歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

渡辺宙明さん
(1925年8月19日-2022年6月23日)
作曲家、編曲家。
父は渡邊工業社長・名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者の渡辺俊雄。
息子は作曲家・編曲家の渡辺俊幸。
孫(俊幸の息子と娘)は
ナレーター・声優の渡辺眞伍、
芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。
愛知県名古屋市出身。
愛知県立明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)、第八高等学校理科、東京大学文学部心理学科卒。
幼少期に観た『未完成交響楽』や『オーケストラの少女』などの楽曲や、
中学校時代にアメリカ映画の影響を受けて音楽に興味を持ち、
また転入した府立三中(現・都立両国高校)時代の友人から影響を受けて
独学でハーモニカを吹くようになるなどし、
次第に映画音楽の作曲家を志すように。
第二次大戦後、
旧制第八高等学校を卒業後、東京大学文学部心理学部に入学。
東大在学中より團伊玖磨に、
大学院在籍中より諸井三郎に師事し、
習作をこのころより書きます。
その後、父親の死去により名古屋市へ帰郷し、
1953年の中部日本放送のラジオドラマ『アトムボーイ』の音楽を手がけ、
作曲家としての活動を始めます。
後に再上京し、
1956年に高校時代の同級生で、
新東宝でプロデューサーを担当していた笠根壮介(宮川一郎)を通じて、
『人形佐七捕物帳 妖艶六死美人』(新東宝)で初めて映画音楽を手がけました。
1958年にJASRACに入会。
1950年代後半から1960年代にかけては、
新東宝の作品を出発点に多数の映画音楽を作曲。
1967年、渡辺貞夫からジャズの理論を学び、作曲・編曲に大きな影響を受けます。
1970年代には特撮やアニメの人気番組の音楽を担当し、
トランペット、トロンボーン、エレキギター、エレキベース、ドラム、ティンパニを主体とした
特徴ある音楽を子供たちに印象付けました。
モーグ・シンセサイザーのミニモーグを初期に購入し、
特に『マジンガーZ』の挿入歌「Zのテーマ」では、
ビヨンビヨンという一見してコミカルに聞こえる音色を
低音でシリアスな場面の音楽で活かす手法は当時斬新でした。
後に、
民族音楽的合唱曲『恐山』を作曲、LP化され、
芸能山城組を一躍有名に。
水島新司原作の『野球狂の詩』では、
主題歌やサウンドトラックの作曲を担当し、
堀江美都子のヴォーカルにより、ヒットを放ちました。
1980年代に入ると
シンセサイザーのシーケンサー機能による自動演奏も取り入れ、
『電子戦隊デンジマン』の主題歌「ああ電子戦隊デンジマン」のイントロ部分では
高速な電子音のパッセージ、
『大戦隊ゴーグルファイブ』主題歌終盤での鋸状波の長い上行グリッサンド、
『スパイダーマン』や『バトルフィーバーJ』などの
AltSoundによるシンセパーカッションフレーズなどを効果的に使用。
『宇宙刑事シャイダー』では挿入歌「不思議ソング」で歌声を披露。
みんなのGOLF(ゴルファー戦士篇)やアミノサプリのCMでは、
ささきいさお歌唱によるCMソングの作曲も行いました。
アマチュアのUFO研究家という一面を持ちます。
1990年代には
パソコン通信のニフティサーブ「不思議フォーラム(FMISTY)」のUFO会議室において、
COLTのハンドルで書き込みを行なっていたことも。
2016年、
第25回日本映画批評家大賞・アニメ部門功労賞を受賞。
2019年、文化庁映画賞受賞(映画功労部門)。
卒寿を迎えてからも日本最高齢の現役作曲家として活躍しており、
2020年には95歳にして新曲を作曲し、
翌2021年には
『機界戦隊ゼンカイジャー』で『ゴーグルファイブ』から39年ぶりに
戦隊テレビシリーズの劇伴を担当するなど、最晩年まで活動。
2022年6月23日、
老衰による心不全のため、東京都渋谷区の病院で死去。
96歳没。  
(渡辺宙明)

♥️2023💃6/23 南野陽子(56歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/23 ジネディーヌ・ジダン(51歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/23 高田みづえ(63歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

菅原文太さんのモデル時代···✨✨✨
メンズクラブの専属としても活躍されていた様で···
モデルから俳優への転身は、ご苦労があった様ですが、「俳優菅原文太」として数多くの素晴らしい作品を与えてくれました···
新東宝時代の笑顔が、とても素敵です···🤗