【世界平和】人類はみんな家族!!Apex product⑫

争いは、やめましょう。世界の平和を願います!!

何故、今だに世界の至る所で揉め事や争いごとが絶えないのでしょう。政治や宗教での自国間の争い、差別、派閥、どうして起こるのですか。アジアの仲間同士どうして普通に暮らせないのですか。誰が、考えても平和な社会が良いに決まっています。小さな子供でも理解出来る事を分別のある大人や政治家が、何故、争うのでしょう。人は何故争わなければいけないのでしょう。欲を捨て本来の裸で生まれた人間同士うまくやっていけないのでしょうか。それぞれ、己が正義と思い事を成すでしょうが、少しだけ立ち止まり、力を抜いて音楽を聴いてみてはいかがですか。きっと心に響く1曲があるはずです。そして貴方の幼い頃。そうです。純粋だったあの頃。思い出して下さい。人前に出るのもおどおどして、母親の影に隠れていた優しい子。正義の旗の元、どんな理由があっても人殺しです。無差別に殺しあう戦争が、どんなに愚かな事でしょう。本来のあなたに戻って下さい。きっと戻れます。先人がどれだけ血を流し我々に生きて伝えたかった事でしょう。だからだから、お願い致します。下記に、あげる資料・画像を見て一人でも多くの人に伝えて下さい。いかに、平和が大切で、人の命が尊いのか。本気で考えて下さい。弊社は、真剣に取り組みます。誰に非難されても、私達は訴え続けます。一生を掛けて取り組む問題だからです。是非ご賛同頂き、少しでも悲しい人を作らないようにしましょう。

 

平和ほど、尊いものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、
根本の第一歩であらねばならない。

 

-  青空と向日葵の会 Apex product 社員一同 -

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“地獄”を生きた104歳の元兵士 今も抱える怒りとは

手描きの地図を広げ、ニューギニア戦の体験を語る中野清香さん=長崎県長与町の自宅で2023年5月23日、國枝すみれ撮影
手描きの地図を広げ、ニューギニア戦の体験を語る中野清香さん=長崎県長与町の自宅で2023年5月23日、國枝すみれ撮影

 104歳の中野清香(なかの・きよか)さんは「地獄」を知っている。約80年前、そこにいたからだ。

 水たまりに頭を突っ込んで倒れている兵士がいた。まだ生きているのに、誰も助け起こさない。 

 ウジがわく死体の隣で眠っても、死臭が気にならなくなっていた――。

 「戦争が終わった時、喜怒哀楽の感情がすっかり抜けていた。今考えると、とても恐ろしい」

子犬の肉球まで食った 

 太平洋戦争で最も悲惨な戦場の一つといわれる東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)の戦い。日本に戻ることができた兵士は1割もいないとされる。

 「食い物のことしか頭にない。敵の攻撃も恐ろしくなかった」 

 イナゴを捕まえて羽をむしり、そのまま食べた。10センチぐらいのトカゲを火の中に放り込んで口にいれた。山中でちょろちょろと歩いてきた子犬を殺し、足裏の肉球にまで食らいついた。

中国戦線にいたころの中野清香さん=本人提供拡大
中国戦線にいたころの中野清香さん=本人提供

 降伏は許されず、突入して潔く死ぬよう玉砕命令が出た時、銃1丁につき弾は20~30発しか残っていなかった。

 「1弾で敵1人を必ず倒せ、20メートルに近づくまで打つな」

 そう命令された。

 「無理ですよ。それまでにやられてしまう。一発撃てば(居場所が知られて)地形が変わるぐらい集中的に砲撃される。勝負にならない」

 中野さんが心不全での3度目の入院から退院したと聞き、私(記者)は長崎県長与町の自宅に急行した。

 座卓の上に手書きの地図とワープロ打ちした手記を用意して待っていてくれた。 

中野清香さんが手書きしたニューギニアの地図。戦友の死んだ場所や部隊の移動記録を記入している=長崎県の自宅で2023年5月24日、國枝すみれ撮影拡大
中野清香さんが手書きしたニューギニアの地図。戦友の死んだ場所や部隊の移動記録を記入している=長崎県の自宅で2023年5月24日、國枝すみれ撮影

 痩せた手は震えているが、「話したい」という強い気迫が伝わってくる。

 1918(大正7)年生まれ。残された時間は限られている。

負傷兵に手投げ弾 「分かっとるな」

 アメリカやオーストラリアなどの連合国軍は、ニューギニアのジャングルに逃げ込む日本兵を深追いしなかった。放っておいても餓死するだけだからだ。

 空と海を支配した連合国軍は、輸送船を攻撃して日本軍の補給を断ち、食料や弾薬の集積地を空爆した。日本兵の死因の8割以上は戦闘ではなく、飢えや病とされている。

 中野さんが死の淵をのぞいたのは44年2月。アメーバ赤痢に感染して40日間寝込んだ。激しい下痢に悩まされ、15分おきに便所に通う。

 食べ物はのどを通らず、痩せていくばかり。10メートルほど離れた便所に行くのに、めまいがして2、3度立ち止まる。仕方なく便所の傍らに蚊帳をつり、横になっていた。

 「部隊が出発して、置いていかれるのが一番怖かった。そうなれば病死する。餓死はもっと怖かった」

 やっと粥(かゆ)がすすれるようになったころ、部隊に出発命令が下った。

 「運が良かった」

元兵士が残した手記の表紙には当時の東部ニューギニアのジャングルを行軍する様子が描かれている=東京都千代田区で2023年7月11日、三浦研吾撮影拡大
元兵士が残した手記の表紙には当時の東部ニューギニアのジャングルを行軍する様子が描かれている=東京都千代田区で2023年7月11日、三浦研吾撮影

 歩けない傷病者を置いていくだけでなく、撃ち殺す部隊もあった。

 中野さんの部隊では、傷つき病に倒れた兵士に上官が手投げ弾を渡し、「分かっとるな」と繰りかえした。

 自ら死ね――。そう促していた。

 中野さんが机の上に身を乗り出し、戦没者名簿をめくり始める。死亡日時の一部や場所が「不明」と記載されている名前を見つけて、指をさす。

 「こういう場合、大抵自決させられている」

「生きる希望を失った者たちの墓場」

 中野さんの部隊の軍医、佐藤良助さんが「ニューギニアの思い出」という手記を残している。告発しているのが「人肉食」だ。

 部隊は山中に移動したが、マラリアと栄養失調症で動けない兵士約120人の面倒を見るために、佐藤さんは付き添い兵60人と共に海岸部に残された。食べ物は数日で食い尽くし、薬もなく、数カ月たつと付き添い兵も動けなくなった。

中野清香さんの書斎の本棚には、自分で書いた原稿や集めた手記などの資料がぎっしりとある=長崎県の自宅で2023年5月24日、國枝すみれ撮影拡大
中野清香さんの書斎の本棚には、自分で書いた原稿や集めた手記などの資料がぎっしりとある=長崎県の自宅で2023年5月24日、國枝すみれ撮影

 別の部隊の離脱兵が、仲間の日本兵を撃ち殺して、食料や塩を奪うようになった。そして――。 

 手記にはこうある。

 <はなはだしい者になると殺したのを見てのこのこやって来て、臀部(でんぶ、尻)や大腿部(だいたいぶ、ふともも)を切り取っていく徒がいる。道徳も秩序も全く無視された無法地帯であり、餓鬼道地獄である> 

 ある時、「野豚を捕ってきたので何かと交換しないか」と言ってきた兵士がいた。見ると脂肪が豚と違って黄色だ。

 人肉だ。そう察知して追い返した。

 <生きる希望を失った者たちの墓場である。亡者のたまり場である> 

 半年後、佐藤さんは本隊に合流。180人いた兵士はわずか8人になっていた。

「日本が負けて良かった」

 「まったくあの戦争は……」

 ニューギニア戦を振りかえる中野さんの言葉が、ふいに途切れた。

 胸が詰まる。私の大叔父もニューギニアで死んでいる。大叔父は武器や食料を運ぶことを任務とする第20師団輜重兵(しちょうへい)第20連隊にいた。部隊の生還率はわずか6%だった。

2010年11月、パプアニューギニアで遺骨収集団に参加する中野清香さん=本人提供拡大
2010年11月、パプアニューギニアで遺骨収集団に参加する中野清香さん=本人提供

 中野さんは独立工兵第37連隊だ。敵の銃砲撃から身を守るための穴を掘り、橋を架ける工兵は、同じ「縁の下の力持ち」だ。

 2人とも43年春に北部ハンサに上陸し、北部の海岸から東南部の要所ラエまでジャングルや山を約300キロ切り開いて道路建設するという無謀な計画に投入された。

 建設機材や食料を積んだ輸送船は沈没したため、1日1食で、スコップやツルハシといった原始的な道具しかなかった。結局、道路が完成する前にラエが陥落し、建設は中断された。

 「飛行場を建設するのに、日本軍は2カ月間かかるが、米軍はブルドーザーで1週間。 

 話にならんわけです。作戦はすべて後手に終わってしもうて。食料もないし」 

 中野さんは続けた。

 「責任はそりゃ、軍司令官、陸軍大将にあると思います。そして大本営(戦時に天皇に直属して置かれた最高機関)。戦争を許したマスコミ、国民も責任がある。今も時々、あの時に日本が負けて良かったと思うことがある。もし勝っていたら、きっとまた戦争を始めていた……」

遺言で「忘れてはならない」

 飢えた日本兵が農作物や家畜を奪うようになると、原住民の反発は強まり、日本兵殺しや連合国軍への密告が増えた。逆に日本兵による住民虐殺も起きた。 

軍に入隊したころの吉賀清人さん=家族提供拡大
軍に入隊したころの吉賀清人さん=家族提供

 ニューギニアで通信兵だった山口県の吉賀清人(よしが・きよと)さんは、家族には戦争体験を何も話さないまま、4年前に98歳で亡くなった。しかし、遺言で「残して」と頼んだ物があった。手記と戦友らが書いた数冊の本だ。

 青いマーカーがひいてある。

 「200万人とも言われる若い人たちが徴兵されて異国の地に命を散らせました。その一人一人それぞれに、無念に泣いた家族・友人があり、さらに多くの日本の市民や、それとは比較にならない数のアジアの人々を泣かせたという事実は決して忘れてはならない」 

消えていく兵士の「憤り」「無念」

 意味のない戦闘や食いぶちを減らす目的の切り込み攻撃で死んでいく無念。無謀な作戦の駒の一つとして死ぬ憤り。将校と下級兵士で命の扱いは平等ではなく、沈没する戦艦から脱出する時ですら「等級順に退避せよ」と命じられた理不尽――。

 「戦場体験放映保存の会」は約1800人から体験を聞き取った。手記や資料を譲り受けた人を含めれば3000人近くになる。田所智子事務局次長(56)は、一番たくさん聞いた話は、無念や憤りの気持ちを抱えて死んでいった戦友の最期だ、という。

 「一人一人がどのように死んだか、その場面を具体的に思い浮かべることができれば、彼らが感じた無念や憤りの気持ちを共有できる。でも、社会から最初に消えていくのが戦友の死にざまです。生還者も、“勇敢な戦死”を信じる遺族の気持ちに配慮して、ありのままには伝えなかった。数年前から戦場体験といえば特攻と原爆しか思い浮かばない日本人が出てきた」

 戦場の記憶が失われたとき、日本人は再び戦争プロパガンダに吸い寄せられるのではないか――。不安になる。

 ボタン一つで大陸間弾道ミサイル(ICBM)が飛ぶ時代になったとはいえ、ロシアによるウクライナ侵攻が起きてみれば、戦争の実態は驚くほど変わっていない。

 「日本人の大半はウクライナ人に感情移入しますが、多くの元兵士が感情移入するのは、古い武器しか持たされず、知らない戦場に送られて死んでいくロシア兵です。『身につまされる。命令されたら行かざるをえないのだろう』と」

「戦争で得る物は何もない」

 「戦争だけはなくしてほしい。戦争で得る物は何もない。でも敵が攻めてきたら逃げたらいかん」。中野さんは力を込める。 

 太平洋戦争(41~45年)では民間人を含めて310万人が国内外で死んだ。軍務を解かれ、帰郷した兵士は311万人。誰もが「戦争」を身近に感じていた戦後の日本。だが、遺族意識を持つ人も、戦争を体験した兵士も、もうすぐこの世からいなくなる。

 静かな居間で向き合った中野さんに、取材の最後に尋ねた。数少ない元日本兵として、一番言い残したいことは何ですか、と。

 「検証していない」

 口にしたのは、戦後に発足した戦争調査会の頓挫だった。

中野清香さん(中央)の戦争体験を聞いて育った孫の大樹さん(左)と息子の荘司さん=長崎県の自宅で2023年5月24日、國枝すみれ撮影拡大
中野清香さん(中央)の戦争体験を聞いて育った孫の大樹さん(左)と息子の荘司さん=長崎県の自宅で2023年5月24日、國枝すみれ撮影

 45年秋、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)首相は、開戦や敗戦の原因、戦争の実態を徹底的に調査して、結果を国民に公開すると決めた。どこで間違えたのかを突き止め、反省するためだ。政治や軍事だけでなく、経済や思想、文化といった分野でも聞き取り調査が始まった。

 だが、戦争の原因追及やそれを裁くことは日本政府のやることではない、と考える 

 連合国軍総司令部(GHQ)の諮問機関によって、戦争調査会の調査はわずか1年で中止させられた。そして日本政府はその後、反省する機会を持とうとしなかった。 

 「あの戦争のどこが間違っていたのか、検証していない」

 中野さんの目が眼鏡の下で鋭く光る。

 104歳は怒っていた。【國枝すみれ】

民家の屋根から特攻隊を見送る女性達‼️

1964年東京オリンピック開会式での聖火ランナー最終走者は、1945年8月6日広島原爆投下の日に広島で生まれた、坂井義則さんが務めました。 もう二度と戦争をしてはならないという平和の願いを込めたスポーツの祭典が、厳かに開かれました。

8月6日
忘れてならない祈りの日
ヒロシマで奪われた幾多の命は
帰ってこない...
ロバート.オッペンハイマー。天才物理学者で類い稀な指導力も持ち合わせていた。
彼の指導により
ウラン型とプルトニュウム型原爆を完成させたアメリカは、冷酷にも、ヒロシマとナガサキをその実験場に選んだ。
後年彼は原爆のあまりの残酷な破壊力に後悔して、核兵器反対運動にのめり込んでいく。
しかし...人類はパンドラの箱を開けてしまった
あらゆる厄災をこの世に放ったパンドラの箱には、希望だけが閉じ込められているという。
核爆弾が人々の自由を奪う脅しの道具とすることを許してはならない。
パンドラの箱に閉じ込められた希望を解き放つのは、私たち...の理性と知性でありたい。

8月6日は広島原爆投下の日、数十年前の冬季広島を訪れた時、原爆ドームは改修中、数年に一度は改修されており残念ながら本体を見る事は出来ませんでしたが被爆少女佐々木貞子様の銅像は見る事が出来改めて核兵器の悲惨さを充分受け止めました

オッペンハイマー

「ダークナイト」「インセプション」「TENET テネット」などの話題の大作を送り出してきたクリストファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた歴史映画。2006年ピュリッツァー賞を受賞した、カイ・バードとマーティン・シャーウィンによるノンフィクション「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を下敷きに、オッペンハイマーの栄光と挫折、苦悩と葛藤を描く。

第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。

オッペンハイマー役は、ノーラン作品常連の俳優キリアン・マーフィ。オッペンハイマーの妻キティをエミリー・ブラント、原子力委員会議長のルイス・ストロースをロバート・ダウニー・Jr.、マンハッタン計画の責任者レズリー・グローブス准将をマット・デイモンが演じたほか、ラミ・マレック、フローレンス・ピュー、ケネス・ブラナーら豪華キャストが共演。撮影は「インターステラー」以降のノーラン作品を手がけているホイテ・バン・ホイテマ、音楽は「TENET テネット」に続いてノーラン作品は2度目の参加となるルドウィグ・ゴランソン。

2023年製作/180分/アメリカ
原題:Oppenheimer

「ホタル帰る」 赤羽 礼子/石井 宏
高倉健主演の映画「ホタル」の原作にかなり近い本だと思います。しかし映画では何故かこの本には触れていません。どう見ても後半の脚本はこの本に沿っていますが、確かに重要なシーンは脚色されていてます。しかしそれによって映画の完成度は高くなっているとは思いますが。
鹿児島の知覧で軍指定の食堂となった「富屋食堂」の店主トメさんは、ここで訓練を受ける少年飛行兵たちの世話を受け持っていました。親元を離れ厳しい訓練に耐える彼らを、実の母親以上の気持ちで接していたのでいつしか誰からも本当のお母さんのように慕われていました。
戦争末期になると、「特攻」と言う凡そ人間性を否定する苛酷な戦闘を強要される事態となります。未だ18歳前後でしかない彼らに戦う前から「死」を決定付ける自爆の強要です。
そんな彼らを一時的にも安らかな気持ちにさせてあげたいと、トメさんは実母にも勝る思いで接していました。軍隊では常に暴力と苛めにあい、泣くことも許されず、訓練に名を借りた理不尽な生活のなか、トメさんは日曜日には店を開放し、唯一の休みだけでも笑顔が出せるように語らいの場を提供しました。しかし明日出撃という我が子のような青年たちに「武運を」とは言えず、「元気で」と送り出す虚しさは、心が引き裂かれる思いであったことでしょう。彼らは一様に「俺の残りの寿命はおばちゃんにあげるんだ」と笑って別れたそうです。
表題は、「ホタルとなっておばちゃんのとこに帰るよ」と言ったある青年の言葉通り、その青年が飛び立った夜、ホタルがトメさんのもとにやって来たエピソードからです。著者にある赤羽礼子氏はトメさんの次女にあたる方ですから、かなり正確なお話内容だと思います。
なかなか読み続けるのが辛くなる本です。明日死ぬことが決まっている20歳にも満たない青年たちは、一体どのような心持ちで覚悟を決めていたのだろうか。トメさんの優しさが救いであったことは間違いないと思います。
裏表紙の写真は出撃前の青年たちとトメさんです。死地へ向かうのに心から笑っているように見えます。
『ひろしま』
 1953年度作品。モノクロ、スタンダード・サイズ、出演、岡田英次、月丘夢路、山田五十鈴、加藤嘉、他、脚本、八木保太郎、音楽、伊福部昭、監督、関川秀雄、上映時間104分。
 広島の原爆投下の再現ドラマと製作時52年の現代パートで構成された「日教組」主導の製作によるプロパガンダ映画である。
 永らく幻の映画だったが近年再評価の声が高まり海外でも上映時間の機会が増えているようだが映画として冷静に鑑賞するとそれほどのものではなかった。映画評論家の瀬戸川宗太の「戦争映画100年」(光人社NF文庫)によると原爆資料館に展示されている原爆映画のスチール写真は本作と同じ原作から共同製作としてスタートし袂を分かった新藤兼人監督の『原爆の子』(52)のみであるそうだ。
 詳しくは瀬戸川の著書をお読みいただきたいがそれでも実際の体験者である広島市民8万人以上がエキストラとして参加し広島出身の月丘夢路や山田五十鈴らスターがこれ以上は無理であろうの汚れメイクで演じた惨状や被災シーンに流れる伊福部昭の沈痛なメロディはそれなりに惨劇を追体験はさせてくれるし現代パートの戦災孤児たちも同時期ならではの今の子役ではこの感じは出せないと言える実在感があって悪くはなかった。
 だがあくまで「日教組」が原作手記の編纂者や新藤兼人と袂を分かってたプロパガンダの政策映画であり新藤兼人監督作品や後の今村昌平監督作品『黒い雨』(89)と比べると落ちると言わざるを得まい。ラストはちょっとホラー映画のようでもあった。かつてある脚本家が広島で被爆者の幽霊の出る怪談映画を作ろうとして猛反対されたというエピソードを思い出した。
 1955年第5回ベルリン国際映画祭にて長編映画賞受賞。
 映友から送っていただいたBS録画にて鑑賞。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
加藤陽子
著者は東京大学教授。何年か前に日本学術会議会員を任命拒否された事で話題となりました。
著者の栄光学園での中一から高二までの約20人の生徒に向けて行った5日間の講義を書籍化したものです。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争と5つの戦争に日本がどのように突入していったのかがかかれています。
勉強になった一点目。タイトルの「それでも」という言葉について。その言葉は「国民の多くが戦争に反対していた」、もしくは「国民の多くが相手国の実力を鑑み敗戦を予想していた」という文脈で、使われる言葉かと思います。戦前、戦中、日本国民は喜々として戦争に参加していたという印象を文中からうけました。(戦争賛成!でしたら「それでも」という表現にはならないですよね。)自分は作者がわざとミスリード (誤解)させる事により、異常さを際だたせたかったのかなと思いました。情報統制によるコワさを大変感じました。
二点目。この5つの戦争で日本は何をどのようにして守りたかったのか。何をという部分は「国体=天皇制」。どのようにしては安全保障の利益に合致する「利益線、生命線」を維持する事によって。国体維持が一番で基本的に国民の命は二の次の印象をうけました。
三点目。この「利益線、生命線」の考え方が韓国併合以降変節していったのではないか?(これは僕の考えです)韓国の自由独立という考えから韓国併合に至る変化は、日本が、身の丈以上の事を行う結果となりはしなかったかと思いました。
5つの戦争を通じて繰り返し語られるのは、憲兵による不満分子の逮捕。悪い情報は決して流さない国家による情報の統制、国際法を無視した捕虜の虐待、最初は労働組合の創設や選挙権拡大や人権重視を訴えその後掌を返した軍部などの戦争の暗部です。日本国民はある意味被害者でした。ただ忘れていけないのは同時にアジア全域に渡った加害者でもあった事。新たな戦前と言われている昨今、歴史を勉強する大切さはますます重要になってくるかと思いました。
とりとめのない文章失礼しました。
何度でも読み返したい本です。
8月6日、広島に原爆が投下された日です。
毎年、夏になると戦争に関する本に触れるようにしています。
「原爆供養塔」
堀川恵子著
広島の平和記念公園の片隅にある、小さな塚。表面を芝生に覆われていて、まるで緑のお椀を地面に伏せたような格好をしている。
これこそ、7万人もの遺骨が納められた「原爆供養塔」である。
1986年以降、原爆供養塔の地下室に続く扉は固く閉じられている。
市民がその中の様子を知ることができたのは、報道から公開の要請があった1994年と2000年の2回だけ。
この空間を完全に遮断した理由について広島市は、「死者が眠る神聖な場所だから」と説明する。
ここに眠るのは「神」でも「仏」でもなく、「人間」である。
さらに言えば、無差別に殺された人たちだ。
「神聖」というもっともらしい響きの中に、遺骨となった死者たちにまつわる苦しみに満ちた記憶は遠ざけられてしまった。
遺骨となった死者たちは、あの日までどう生き、どう亡くなっていったのか。
氏名や住所まで分かっていながら、なぜ無縁仏にされているのか。
これまで語られることのなかった、もうひとつのヒロシマ。
この書は、「原爆供養塔」、そこに眠る死者たちの物語である。
大宅賞受賞作。
原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年 (文春文庫) https://amzn.asia/d/1wyX5mY

2023.08.08 夫の戦死前に2人で過ごした「短くも幸せな4ヵ月間の日々」…85歳まで独身を貫いた妻の最期の言葉は「嘉太男さん、助けて」 週刊現代

終戦から78年--真珠湾の英雄となった男たちは過酷な運命に翻弄され、散っていった。妻や家族を想い、彼らはどう生き、命を落としていったのか。忘れてはならない物語を、ここに振り返るべく、2022年12月の記事を再掲する。

前編『「戦死した夫の弟との再婚」を勧められるも、子供を連れ家を出て80年…最愛の夫が綴っていた「最後のラブレター」』より続く。

それぞれの家のそれぞれの「真実の物語」

髄膜炎を患うという思わぬ形で次男を亡くし、1年後には頼りにする長男・福谷知康さんの戦死を知らされた福谷さんの両親。重すぎる事実とどのように向き合っていったのかがわかる手紙が、遺品として残されていた。

たとえば、知康さんの一周忌が間近に迫る'43年4月27日付で届いた2通の手紙。送り主は、空母「瑞鶴(ずいかく)」に配属され、珊瑚海海戦では同じ攻撃機に乗って戦死した2名の隊員の父親である。それは知康さんの父親が3人の命日を前に、お悔やみの言葉を送ったことに対する礼状のようだった。

そして8月には、知康さんと同じ瑞鶴艦攻隊の一員として真珠湾攻撃に参加し、珊瑚海海戦でも生き延びた隊員とも手紙のやりとりを行っている。先方から来ていた手紙にはこう書かれていた。

〈御子息故知康殿に就而(ついて)様々とお話を致度(いたした)く存じますからお暇の節はお出で下さい〉

両親は、知康さんの瑞鶴での生活、そして可能であれば最後の様子を知りたかったのだろう。その後、面会したかどうかは定かではない。ただ、福谷家で知康さんは「敵空母に体当たりし、撃沈した」と言い伝えられている。

瑞鶴の飛行隊の戦闘行動調書には、撃墜された攻撃機で、敵空母に体当たりしたと報告された機体はひとつもない。だが、福谷家にとってはそれが「真実の物語」となった。愛する者を失った無数の家族の間で、いったいいくつの物語が生まれたのだろう。

戦争が終わって20年が過ぎた頃、知康さんの父親は墓石を建てた。正面に「福谷家之墓」と刻まれた墓石の側面には、力強い文字で、こうびっしりと彫り込まれている。

「故海軍一等飛行兵曹 勲七等功五級 福谷知康 昭和十七年五月八日 サンゴ海々戦に参加 米空母サラトガに突入自爆」

母が決めた結婚相手を後家にしないよう配慮

最後に紹介するのは、爆弾を装着し、敵艦に突入する最初の真珠湾攻撃隊員となった鳥取・米子出身の原田嘉太男さんだ。

嘉太男さんが真珠湾の直前に母のつる子さんに送った手紙には、適齢期を迎えた長男のために結婚の世話をしようとする母に「自分の眼で選びますから安心して下さい」と書いている。

だが、'44年10月、嘉太男さんは自らの意に反し、母の決めた女性・達子さんと結婚する。嘉太男さんの気持ちを、弟の昭さんはこう推し測っている。 「兄は、この戦争を生き抜くことの難しさを骨身に沁みて感じながら、家の長男として跡取りを残すという務めも果たさなければならないと考えたのかもしれません」

愛媛県松山で4ヵ月の新婚生活を送った後、'45年2月、千葉県にある基地への進出を命じられる。最後に与えられた任務は、硫黄島付近にいる敵空母に特攻することだった。

出撃前夜、嘉太男さんは事務方の将校にこう語ったと記録されている。 「私の妻は未だ入籍していないのです。入籍してあれば戦死者の遺族ということで、扶助料なりもらえるそうじゃありませんか。ロクなこともしてやれなかった女房が可哀想でしてねぇ」

それから、苦悶の表情を浮かべながら印鑑を差し出したという。

前年に式を挙げたにもかかわらず入籍していなかったのは、達子さんを後家にしてしまううしろめたさがあったからではないか。死が間近に迫るなか、自分が妻にできることを悩みに悩んだ末、扶助料という形で償う道を選んだのだろう。

夜明け前、事務方の将校が仕事を終えて宿舎へと続く廊下を歩いていると、低い歌声が聞こえてきた。外で嘉太男さんが童謡「赤とんぼ」を歌っていたのだ。歌い終わっても、立ち尽くしたまま動かなかったという。

印鑑を渡したとき「これで私も思い残すことはありません」と話したとされる嘉太男さんだが、二度と見ることのできない夕焼けや故郷の風景に思いを馳せていたのかもしれない。

生涯独身を貫いて生きた

同じ夜、達子さんに宛てて書いた遺書が、嘉太男さんの死後、原田家に届けられた。

〈身の進退は御両親様とよく話して適当にすること〉

〈但し子供が有るなれば原田家に居ること〉

その後には、24歳で夫と死に別れる妻を気遣う言葉が並んでいる。

〈四ヵ月にして後家となる汝が何としても可哀想なのだが、覚悟の上なれば雄々しく第一歩を踏み出すべし〉

〈元気で暮せ。明日は征くぞ〉

こうして嘉太男さんは、硫黄島の海に散った。

子供はできなかったものの原田家に残ろうとした達子さんは、実家の求めに応じて再婚。しかしすぐに離婚した後は、生涯独身を貫いた。そして姉の一家の暮らす大阪に出て、大手保険会社で定年まで勤めあげ、20年ほど前に85歳で亡くなった。彼女の家の仏間には、飛行服姿の嘉太男さんの写真が常に飾られていたという。

達子さんの姉の子にあたる恵美さんは、晩年の達子さんについて、こう語っている。

「自宅で療養していた頃、入院したほうがいいだろうということで、救急車で運ばれたんです。うわごとで意識も朦朧としているときに、『嘉太男さん、助けて』って言っていたと母から聞きました。 嘉太男さんがいらっしゃったからおばさん、ここまで生き抜かれはったのかもしれませんね。二人で過ごした4ヵ月間は幸せだったんだと思います」

およそ80年前、真珠湾の空を飛んだ隊員と、その家族が歩んだ物語には、過酷な戦争の時代を懸命に生きた人々の想いが込められている。 いまこの時代、日本人はもう一度、彼らの想いを噛みしめて生きるべきだろう。

「週刊現代」2022年12月10・17日号より

2022.12.08 真珠湾「戦死した夫の弟との再婚」を勧められるも子供を連れ家を出て80年、最愛の夫の最後のラブレター 週刊現代

真珠湾の英雄となった男たちは過酷な運命に翻弄され、散っていった。妻を想い、家族を想い、彼らはどう生き、死んでいったのか。忘れてはならない物語がここにある。

国に「死ぬまで戦うこと」を求められた同胞たち

〈うとうとやって居るとお前の夢を見た。

どんな夢だと思ふ。

何時もお前がやって見せるオチョボの顔をして笑ってゐる夢だった。

おいと言って抱こうとすると、丁度其の時、従兵に起こされた。

残念であった。もっとお前と逢ってゐたかった〉

これは、太平洋戦争に参加していた兵士が、1943年9月4日に妻へ綴った手紙だ。送り主の名は松埼三男(みつお)さん。真珠湾攻撃で、一番先頭を飛ぶ指揮官機の操縦員である。

無事に帰還した三男さんは、'42年に幸子(ゆきこ)さんと出会って結婚、しかし翌年に戦死した。

短い新婚生活の間に、冒頭で紹介した手紙のやり取りがあったと判明したのは、真珠湾攻撃から80年が過ぎた2021年のこと。息子の洋祐さんによると、生前の幸子さんは、決して手紙の中身を見せてくれなかったという。

母の死後、父親について深く知りたいと考えた洋祐さんが遺品を開けたことで、「ラブレター」の存在が明らかになった。

'41年12月8日の真珠湾攻撃には、三男さんを含め900人近くの隊員が参戦した。その後、一年以内に半数が命を落とし、ほとんどが終戦までに戦死している。彼らは最前線に立たされ続け、文字通り死ぬまで戦うことを求められていた。真珠湾の「英雄」に祀り上げられた男たちは、その後、どのような運命を辿ったのか。

'21年12月、隊員とその家族を追ったドキュメンタリー番組『真珠湾80年 生きて 愛して、そして』(NHK BS1)が放送された。

この放送では紹介しきれなかったエピソードや、新たな発見を盛り込んだ書籍が、11月20日に発売された『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』(講談社現代新書)だ。そこに描かれている、「海と大空に散った魂の物語」を紹介しよう。

妻という字が愛しい

三男さんと幸子さんは、当時としては珍しく恋愛結婚だった。上の写真は、'43年5月15日に愛知県の熱田神宮で二人が式を挙げたときの写真だ。

だが、式を挙げてわずか2ヵ月後、三男さんの配置換えによって「遠距離新婚生活」を余儀なくされてしまう。ここから二人は手紙を交わすようになる。

〈楽しき今迄の結婚生活が思い出されて御身の写真を抱き締め度(た)い位(くらい)である。然(しか)し部屋は特務大尉のお叔さんと一緒であるのでそうも出来ぬ〉

9月9日の消印が押された手紙は、待ちに待った知らせを受けた三男さんの喜びに溢れていた。

〈御目出度(おめでと)う。でかした。俺もお父さんになると思ふと嬉しい。

二人の愛の結晶が出来たのだもの、こんな嬉しい事は又とあらうか。

充分体に気をつけて、立派な赤ちゃんを生んで呉(く)れ〉

真珠湾作戦を全うした後も、死と隣り合わせの日常が続いていたはず。生きる幸せを実感できるひとときが、ここにあった。だが三男さんは、手紙には決して書けない現実の中にいた。戦場では、アメリカによる本格的な反撃が始まっていた。

最愛の夫から届いた最後の手紙

'43年12月5日、三男さんはマーシャル諸島沖で戦死する。三男さんの死後、妻の幸子さんに最後の手紙が届いた。消印は11月20日だった。

〈二人の別生活はどれだけ長く続いていてもそれだけ二人は結ばれて行くのだ。

可愛い妻よ。妻といふ字はどれだけ親しく響く字であろう。

(中略)

愉快に其の日其の日を送って呉れ。俺は毎日元気に朗にやってゐるから〉〈夫より 妻へ〉

この手紙を最後に死ぬかもしれないということを、三男さんは予感していたはずだ。それでも、最後まで心配をかけまいと妻を気遣う言葉が綴られていた。著者で番組ディレクターの大島隆之氏は、こう解説する。

「三男さんは兵学校を出た職業軍人でした。戦後、職業軍人に対する世の中の目は厳しくなり、洋祐さんは父のことについては封印してきたそうです。このように身内だけで抱えている『死者の記憶』は、数多くあります」

夫の戦死を受け入れるのに、長い歳月を費やした妻は多い。真珠湾攻撃で水平爆撃隊の一員を務めていた河原真治さんには、美代子さんという妻がいた。彼女は台湾で育ち、現地の女学校を卒業後、海軍の搭乗員だった真治さんと結婚している。

真珠湾から帰還した直後、真治さんが大分県の宇佐航空隊の教員に任命されたのを機に、美代子さんは台湾から宇佐に移り新婚生活を始めた。'43年1月3日には長女の令聿(のりよ)さんが生まれている。

だが、その4ヵ月後、真治さんは転属でセレベス島(現インドネシアのスラウェシ島)にある基地に発ってしまう。真珠湾で九死に一生を得ても、また別の戦地への出撃を強いられる現実から、隊員は逃れられなかった。

主人は死んでいない

そして間もなく、真治さんが南方で消息を絶ったというだけの知らせが美代子さんに届いた。

下の写真は、真治さんの故郷で執り行われた葬式の写真だ。美代子さんに抱かれている幼子は、'44年1月に生まれた正憲さん。背後の祭壇の中央には遺影があり、その奥には遺骨のない骨壺を納めた箱が置かれている。「軍神の妻」として強いられたであろう美代子さんの作り笑いが痛々しい。

当時の彼女は、夫が死んだという実感をどうしても持てなかった。生前に残した手記には、「祭壇にあるからっぽの骨箱を見るたび、主人は死んでいない、死んでいないと思うようになりました」とある。戦争が終わって真治さんの実家で暮らしていたが、復員した彼の弟と再婚してはどうかと義理の両親から勧められる。

だが、まだ夫の死を受け止められなかった美代子さんは、子供を連れて家を出てしまう。'53年、大阪府守口市に酒場を開き女将として生計を立てるようになる。

それから月日は流れ、息子も娘も成人して家庭を持った後の'92年、美代子さんのもとに思いがけない知らせが届く。

真治さんが撃墜された場所が、オーストラリア北西部に位置するチモール海の洋上だと判明したのだ。しかも、この地域で戦死した日本人の法要を現地で営むことが決まったという。このとき美代子さんは72歳。体調は思わしくなかったが、ふたつ返事で参加を決めた。美代子さんの手記には、当時の心情が記されている。

〈機中、涙がとまらず心の中で「貴方が膝に抱いていたあの小さかった赤ん坊の娘も、もう五十歳になり、一緒にこの場所までやってきました」とつぶやき、短い時間でしたが、静かな海にお別れをしてダーウィン(編注:オーストラリアの街)に戻りました。

(中略)

これでようやく、私の長かった戦争も終わりを告げたように思います〉

美代子さんは'04年10月、84年の生涯を閉じる。その遺骨は真治さんの眠る、碧く澄み切ったチモール海にまかれた。

長男と次男を亡くした両親のつらさ

番組の放送から半年が経った'22年6月上旬、著者の大島氏によって知られざる「愛と死」の物語が新たに発掘されている。真珠湾攻撃の際、空母「瑞鶴」の艦攻隊の操縦員だった福谷知康さんは、家族と200通にも上る手紙をやり取りしていた。

1941年、海上での日本海軍航空母艦、瑞鶴 Pictures from History/Universal Images Group via Getty Images

 

この手紙を読むと、当時の福谷家で起こっていたことがわかる。まず、開戦前に、知康さんの弟で次男の博允さんが髄膜炎を患って亡くなる。開戦後の'42年3月には、三男の光顕さんが旧制中学の試験に落ちてしまう。失意に暮れる家族の前途に不安を抱くなか、長男の知康さんは後ろ髪引かれる思いを振り払おうとするかのような遺書を書いている。

〈不肖知康生還を期せず 陛下の御為喜んで死す〉

そして、'42年5月7日から8日にかけて南太平洋の珊瑚海で行われた、史上初めての空母同士の航空戦「珊瑚海海戦」で知康さんは戦死した。

思わぬ形で次男を亡くし、1年後には頼りにする長男の死を知らされた両親の落胆はいかばかりか。重すぎる事実とどのように向き合っていったのかがわかる手紙が、遺品として残されていた。

後編『戦死前に夫婦2人で過ごした幸せな4ヵ月間。妻は85まで独身を貫き、最期の言葉は「嘉太男さん、助けて」』では、福谷さんの両親がどう息子の死を受け入れたのか。そして結婚後に妻と入籍を果たせなかった兵士が何とか一人残される妻を守りたいがために奔走した軌跡や、その後1人になった妻の生涯についてお届けする。

「週刊現代」2022年12月10・17日号より

1年以内に半数弱が戦死、生きて終戦を迎えたのは2割 真珠湾攻撃隊員の運命 過酷な戦場を生きた隊員たち その愛の物語

今から80年近く前、太平洋戦争の開始を告げた「真珠湾攻撃」というできごとがあったことは、多くの人が知っているだろう。でも、そこには900人に及ぶ搭乗員が参加していたこと、そして彼らひとりひとりがたどった運命については、あまり知られていない。1941年12月の開戦から1年以内に半数弱が命を落とし、生きて終戦を迎えたのはわずか2割だったという隊員たち、その愛と運命に迫る『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の80年』から、一部を再編集・抜粋して紹介する。

引き揚げられた飛行機

普段、あまり訪れる人がないというその展望台は、見物に来た多くの島民で賑わっていた。鹿児島県の種子島の北端にある、喜志鹿崎灯台。眼前の海には大きな作業船が碇泊し、ダイバーを乗せた小さな船が慌ただしく行き交っている。

2021年6月、かつてここに不時着した日本海軍の飛行機が、深さ20メートルの海の底から引き揚げられようとしていた。太平洋戦争の末期、沖縄の周辺にいるアメリカ艦隊を攻撃するため九州の基地を飛び立った3人乗りの攻撃機が、アメリカの戦闘機に迎撃され、ここに不時着したのだという。

作業は現場周辺の激しい潮流のため難航し、僕とカメラマンは港近くの宿に滞在しながらその時を待っていたが、いよいよ揚がるらしいと聞き、テレビ局や新聞社の記者たちが共同でチャーターした漁船に乗せてもらい、現場の海域にたどりついた。ダイバーの手により海中でベルトを巻きつけられた機体が、作業船の巨大クレーンによって海の中から徐々に姿を現していく。だがそれは、想像以上に朽ちていた。機体の表面ははげ、骨組みがむき出しになっている。それを見て、この飛行機が役目を終え海の底に姿を消してからいかに長い歳月が経っていたのか、改めて感じずにはいられなかった。

2021年6月 種子島喜志鹿崎沖で引き揚げられる九七式艦上攻撃機

その飛行機は「九七式艦上攻撃機(九七艦攻)」という。胴体の下に爆弾や魚雷を吊るし、敵の軍艦や陸上の目標を攻撃するのが主な任務だった。乗員は3人で、前席には「操縦員」が、中央の席にはナビゲーションをしたり爆弾や魚雷の投下を行う「偵察員」が、後席には電信を打ったり機銃で敵機と戦う「電信員」が乗っていた。

ちなみに「九七式」というのは、初代天皇と伝承される神武天皇が即位したと伝わる年を元年とした場合の紀元2597年(西暦にすると1937年)に海軍が制式採用した軍用機であることを意味している。太平洋戦争の末期にはすでに時代遅れとなっていたこの飛行機も、当初は高速性と航続距離、操縦性能の高さが評価され、1500機以上が製造された。

この九七艦攻が一躍その名を高めたのが、1941年12月8日、日本海軍がハワイに碇泊するアメリカの太平洋艦隊に対して行った「真珠湾攻撃」だった。

真珠湾に向かった900人のその後

真珠湾攻撃は、オアフ島の北方400キロ余りにまで近づいた六隻の日本空母から飛び立った、第一次攻撃隊の183機、第二次攻撃隊の167機、計350機によって行われた。この攻撃には、九七艦攻以外に、2人乗りの「九九式艦上爆撃機(九九艦爆)」、1人乗りの「零式艦上戦闘機(零戦)」が参加しており、それぞれ機種別に訓練を受けた専門の搭乗員が乗り込んでいた。その数は350機の攻撃隊だけで765人にのぼる。

それに加え、攻撃隊を送り出した後の空母上空には、アメリカからの反撃に備えて零戦などが「直衛機」として警戒に当たっており、それ以外にも、「予備員」と呼ばれる交代要員が大勢控えていた。それらを加えた総数は、900人近くにのぼる。

日本の歴史の大きな転換点となった真珠湾攻撃だが、それを担った彼らひとりひとりがその後どのような運命をたどったかは、あまり知られていない。彼らの運命を象徴する1枚の写真がある。これは真珠湾攻撃に参加した六隻の空母のひとつ「加賀」の艦上で、攻撃の3日前に撮影された写真だ。

加賀艦攻隊93人

真珠湾攻撃にあたり加賀には、九七艦攻が27機、九九艦爆が27機、零戦が18機搭載されることになっていたが、ここには九七艦攻に乗る加賀の搭乗員が勢ぞろいしている。その数93人。このうち81人に関しては氏名が判明しているのだが、生きて終戦を迎えたのは19人だけ。それ以外の62人に関しては戦死したことがわかっている。その割合は、8割近くにのぼる。

そしてこれは、加賀の艦攻隊に限った話ではなかった。搭乗員全体でみても8割近くが、やはり終戦までの間に戦死していたことがわかっている。

腕利きが集められたという真珠湾攻撃隊員たちは、この日を境に長く続くことになるアメリカとの激しい戦争で、最前線に立たされつづけ、文字通り死ぬまで戦うことを求められたからだった。

搭乗員と家族たちの「強さ」

僕が戦争を体験した方々への取材を始めた2006年当時、真珠湾攻撃に参加し、奇跡的に戦争を生き抜いた隊員たちの一部は、まだ健在だった。彼らは戦場で何を目撃し、その時何を思い、そして長い戦後をどのように生きていったのか。僕は、同じ興味を持つ金沢裕司カメラマンとともに、互いの仕事の休みに各地の隊員を訪ねてはインタビューを重ねていった。

なぜそのような方法をとったのか。それは、想像をはるかに超える戦争の実態に迫るためには、平和な時代に生きる僕らの安易な発想からテーマを設定するのではなく、多くの声を丹念に積み上げるなかからテーマを浮かび上がらせていく、そんなアプローチをする必要があると思っていたからだ。そのためにはまず、番組の提案をNHKに通して動き始める前に、地道に彼らの声に耳を傾け、記録していく必要があった。

2008年12月 真珠湾攻撃隊員の古田清人さん(中央)への取材

すでに高齢となっていた隊員は、時が経つとともに、ひとりまたひとりと鬼籍に入っていった。それに伴い、僕はインタビューの軸足を、戦死した搭乗員の遺族に移しながら取材を続けていった。そうしたなかで迎えた2021年12月、僕は真珠湾攻撃隊員とその家族を追った100分のドキュメンタリー番組を制作し、NHKで放送した。

タイトルは「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」。戦争を扱ったドキュメンタリーというと、暗く陰惨なイメージが前面に立つものが多いなかで、ずいぶん甘すぎるタイトルに聞こえるかもしれない。だが、取材をさせてもらうなかで僕が感じるようになっていたのは、彼らがくぐり抜けた現実の過酷さと同時に、そのなかを生き抜いていった隊員やその家族たちの「強さ」だった。特に、戦場で戦う隊員を陰で支え、その死と向き合い、戦後はその者のいない世界を懸命に生きた母、妻、恋人など女性たちの姿、そのひとつひとつの物語に、強く心を打たれた。

そんな男たち、女たちの生き様から、時代は違えど困難な状況を生きる現代の人びとの心に何か響くものがあるのではないかと考えたのだ。

幸い、番組は好意的に受けとめられ、ひとつの目的は達成した。ただ、取材させてもらった膨大なエピソードのなかには、100分という限られた時間のなかでは紹介しきれなかったものも多くあった。また、今回の番組はあくまで通過点に過ぎず、放送後も取材は続いており、そのなかで新たにわかったこともある。そうした事実も盛り込みながら、今回、番組とは別に書籍というかたちでまとめさせてもらうことになった。

じつは、80年という時が経っても、真珠湾攻撃に参加した900人に及ぶ隊員たちについてはまだまだわからないことが多い。そもそも「900人に及ぶ」という言い方をしているのは、その正確な人数すら判明していないからだ。

また、名前が判明していたとしても、900人ひとりひとりの物語に関してはわかっていないことがたくさんある。新たな遺族を訪ね、遺品を見たり話を聞いたりしながらその心の機微に触れるたびに、80年前の戦争は僕たちの生きる今と地続きであり、そこから学べることがまだたくさんあること、そしてそれらの物語は、手をこまねいていれば歴史の彼方に霞んでいってしまうということに気づかされる。

元隊員の方々、遺族の方々、そしてそうしたひとりひとりの人生に早くから光を当ててきた多くの研究者たちとの対話のなかから僕が学ばせてもらったことの幾分かでも、この書籍を通じて伝えていければと願っている。

『火垂るの墓』 原作 野坂昭如
 8月6日広島に原爆投下、9日長崎に原爆投下、15日終戦の日・・・
 今から78年前、1945年の日本の夏、8月はは暑かった。
 ウクライナ・ロシアだけでなく、今も世界のあちこちで絶えることなく繰り返される紛争・戦争
  宇宙へ人を上陸させ、ゲノム、量子コンピューター、AI・・・次々と新しい科学技術を手に入れる人間の頭脳でも、子供も分かっている愚かな争いを止められない
 あの時の戦争とは我々にとって、日本という国にとって、何だったのか❓ 
 小学生でも高学年なら十分読める本です、今この時期だから読んで頂きたい、子供さんが居れば家族で読んで頂きたい本だと思います。
「アジア・太平洋戦争」吉田裕
マレー半島上陸と真珠湾攻撃によって開始された「アジア・太平洋戦争」。なぜ開戦を回避できず、長期化したのか。兵士や銃後の人々、アジアの民衆は、総力戦をいかに生き、死んでいったのか。矛盾を抱えて強行され、日本とアジアに深い傷跡を残した総力戦の諸相を画きながら、日米交渉から無条件に降伏までの五年間をたどる。
8月という訳ではないのですが、たまたま戦争関係の本を続けて読んでいます。
著者は一橋の日本近現代史専攻の教授。
1941年から1945年までの時系列に沿った形で、その都度の戦況や日本並びに世界各国の情勢などが書かれた良著かと思います。
読んでいて、大変つらく、泣きたくなるような、なんともいえない気持ちに襲われました。
(諸説あるようですが)その時期のアジア諸国の犠牲者1900万人以上、日本の犠牲者約310万人で、その内軍関係が約230万人、約230万人の内、栄養不足や失調による狭義の餓死者と、栄養失調による抵抗力の低下で伝染病感染死した広義の餓死者との合計140万人(に達すると推定)。
アジアの諸国の犠牲者の多さと、日本の戦場での餓死者数(これは勉強不足で全く頭になかったです)これはずっと記憶にとどめておかねばと思いました。先の戦争の考えは皆様色々お持ちかと思います。ただこの死者の数はあまりにも重いものかと痛感しました。
『陸軍』
1944年度作品。モノクロ、スタンダード・サイズ、出演、笠智衆、田中絹代、東野英治郎、上原謙、杉村春子他、原作、火野葦平、脚本、池田忠雄、監督、木下恵介、上映時間87分。
 やはりやるな木下恵介。戦時中に軍からの要請で作られた国策映画である。幕末の西南戦争あたりから始まって日清・日露戦争、そして上海事変を経て満州までの1家族の3世代に渡る物語を手際良くわずかな上映時間で語り、そしてラストは10分間に渡る母親の出征する息子を見送るクライマックスとなる。
 このラストは日本映画史でも有名なシーンである。やはり軍部の協力がなければ撮れなかったと思える名シーンだがここで母親の田中絹代が涙を流し手を合わす姿が国威発揚にそぐわないと軍部から批判を受け以降木下恵介は終戦まで仕事が無くなったとの事だが、それでもきちんと公開はされたようだし国防PRと銃後の母親たちの心情に寄り添った優れた近代史映画に仕上がっていると思える。
 九州地方がいかに国防に貢献してきたかをPRする「ご当地映画」でもある。主演の2人、笠智衆も田中絹代も九州地方出身だしおそらく方言映画としても優れているのではあるまいか。
 堅苦しい作品ではなくホームドラマのようにユーモアを交えながら展開し地元の風物やお祭りなどを取り入れた展開は後年の木下恵介につながっているし軍人がエリートだった時代の空気を巧みに醸成しつつ親の果たせなかった夢を子供が受け継ぐ継承と少年の成長物語としてもなかなかに良く出来ており軍人として成長した息子を誇りに思う気持ちと子供と別れてしまう悲しみはここでの母親の心情として渾然一体化していると感じられる。
 決してアナクロニズムではない。しいて言えば左右の立場を越えて一見の価値のある秀作である。レンタルDVDにて初見。

特別攻撃に参加した若きパイロット達の出撃前の画像です。まるで映画のワンシーンのようです。この方達のおかげで今の日本があるのは間違いありませんがもしそれぞれ得意の分野で才能を発揮していれば日本は更なる発展を遂げたと思います。(個人の意見です)

終戦の日・戦没者を追悼し平和を祈念する日
日本では、1945年8月15日の正午に、昭和天皇による終戦の詔書のラジオ放送(玉音放送)が行われ、国民にポツダム宣言受諾が伝えられた。1963年以降、毎年この日に「全国戦没者追悼式」が行われる。
ウィキペディア(Wikipedia)より。
【平和を祈る黙とうを】
8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。
この日に合わせて、日本武道館では政府主催の「全国戦没者追悼式」が執り行われます。
A級戦犯、崇拝阻止で散骨 
決定過程、米軍公文書で初判明
2023/08/14  共同通信配信
極東国際軍事裁判で死刑になった東条英機元首相ら
A級戦犯を巡り、米軍が秘密裏に太平洋で散骨した理由
を記録した公文書が14日までに見つかった。「英雄や
受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきだ」
と、軍国主義の復活につながりかねない戦犯の神聖視の
阻止を明記。ナチス・ドイツの戦犯を裁いた
ニュルンベルク裁判の死刑囚を川に散骨した措置を
「先例」とした、とされる、散骨の理由や決定過程が
米公文書で裏付けられるのは初めて。
この米国立公文書館所蔵の米軍公文書は、日本が占領下
の1948年、マッカーサー元帥率いる米極東軍が作成。
東京裁判が同年4月に結審した後の時期に当たる。
東京・丸の内の米極東軍補給部で戦没者部門に所属した
マイケル・リビスト少佐は7月21日、戦犯の遺体の扱い
を検討した報告書「参謀研究」を参謀長宛てに提出。
日本で超国家主義の復活を阻止し、戦犯を崇拝対象に
しないため、火葬処理をした上、
遺骨を散骨廃棄処分するよう求めた。
https://nordot.app/1063798405692015332
日本の夏といえば、「命と向き合う夏」かな?と個人的に思います。
こちらの演劇「流れる雲よ」は特攻隊の青年の葛藤を描いたものです。
来る8/27横浜西公会堂で公演が開催されます。実は横浜公演は横浜の市民グループが運営され、頑張っておられるようです。
戦時中、横浜も大空襲を受けた歴史がありますね。平和のありがたさが知るために、このような舞台作品を見るのも良いかもしれません