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渡哲也さん
(1941年12月28日-2020年8月10日)
俳優・演歌歌手・タレント・実業家。
身長180cm。
空手弐段・柔道初段。
島根県生まれ、兵庫県・淡路島 出身。
株式会社石原プロモーション第2代代表取締役社長、相談取締役。
俳優の渡瀬恒彦は実弟。
父親は日立に勤務して広島県呉市の軍需工場などを転々とし、
日立の安来工場に勤務していた時に当地出身の渡の母と結婚。
戦時中の1943年、
父親は任地の日立呉工場を退職し、
実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、
小学校一年生途中から淡路島で育ちました。
終戦後の物資不足で長男と四男は死去。
淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校(6年間の寮生活)、青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部(流派は日本空手協会・松濤館流)に在籍し、
青山学院大学・空手道部OB会長・渡瀬道彦の札もかかっていました。
大学へ通うため上京。
弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していましたが、
在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集。
弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募。
小さい頃から機械いじりが好きだったので就職を希望した
日本航空の整備士社員の採用試験 (国語・数学・物理・化学) が全科目英語で不合格となり、
「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、
出向いていた日活撮影所の食堂で
偶然スカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社。
既に斜陽期に差し掛かってた日活では
高橋英樹に続くスター候補として、
デビュー前の記者会見では破格の扱いを受け 
"映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!” の横断幕(実は模造紙)で
大々的に売り出されました。
記者会見の場で瓦割りを披露し、
翌日のスポーツ紙やニュース映像でも大きく取り上げられました。
1965年(昭和40年)3月『あばれ騎士道』で宍戸錠とのW主演でデビューし、
この作品で、エランドール賞新人賞を受賞し、
2作目の『青春の裁き』で単独主演、
オープニングクレジット映像では空手の型・約束組手を披露し、
本編での複数相手の乱闘シーンでは
飛び蹴りや二段蹴りを連発し正拳突きで止めを刺すなど
空手部キャプテンの実績を生かした作品になっています。
1965年、『泣かせるぜ』で石原裕次郎と初共演。
続いて『赤い谷間の決斗』でも共演。
1966年には
監督鈴木清順 脚本川内康範 『東京流れ者』に主演し、
主題歌「東京流れ者」を歌いヒットさせました。
吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』で
第17回ブルーリボン賞新人賞を獲得。
また「裕次郎2世」と言われたことから、
リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演するなど、
日活は裕次郎と同様な路線での売り込みをしていました。
1968年(昭和43年)
舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は
渡の日活時代の代表作となりました。
同年には『紅の流れ星』に出演、
この作品でも新たな魅力を見せるなど、
日活のスターとなりました。
しかし映画界は斜陽の時代で、日活も苦戦しましたが、
渡は小林旭等他のスターとは異なる存在感を示し、
『新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ』、『関東流れ者』など最後まで、
日活ニュー・アクションと呼ばれた映画で輝きを放ちました。
1971年、
日活のロマンポルノ路線への転換にともない、
1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社。
1971年からは
『さらば掟』、『追いつめる』、『剣と花』など松竹製作映画に連続して主演。
東映など映画会社数社から渡の引き合いがあったものの、
『さらば掟』の撮影時、
石原プロから出向いていたスタッフの仕事ぶりに感銘を受けたことや石原への尊敬の念などから、
渡は1971年(昭和46年)、
借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社。
また『ゴキブリ刑事』、『野良犬』などの東宝作品にも出演。
また連続テレビドラマにも出演する中、
1972年(昭和47年)、
テレビ時代劇『忍法かげろう斬り』収録中に肋膜炎を発症し入院。
第20話で降板となり、
第21話から最終話(第26話)まで渡瀬恒彦が代役を務めました。
1974年(昭和49年)大河ドラマ『勝海舟』の主演に抜擢されますが、
収録中に高熱が続き入院。
第9話で途中降板。
代役には松方弘樹。
一方で
前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が
年明けからヒットチャートを上昇し、
1974年の年間シングルチャートで7位を記録。
オリコンセールス:77.4万枚、累計150万枚を売り上げ、
全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲に。
渡の体調も秋には回復し、
年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場し、
テレビで初めて生歌唱。
1974年(昭和49年)、
再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり、
特に弟・恒彦をスカウトした岡田茂東映社長(当時)が、
熱心に誘いました。
1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で
第19回ブルーリボン賞主演男優賞を獲得。
渡はこの後、
石原プロのテレビドラマに専念するため、
映画出演から一時的に撤退。
しかし、岡田茂との付き合いはその後も続き、
1996年に岡田から「もう映画を演ってもいいんじゃないか」と促され、
『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の
宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰。
本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占。
石原プロは会社再建と経営安定のため、
テレビドラマへ本格進出。
渡にとって復帰第1作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は
『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、
続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映されました。
これら刑事ドラマでの「角刈りにサングラス」というスタイルは
渡のトレードマークとなりました。
同時期に放送されていた
TBS『クイズ100人に聞きました』では、
「サングラスと言えば誰?」の問題で渡哲也が圧倒的人数で第1位を獲得。
ちなみに第2位が「ルビーの指環」でメガヒットを飛ばした寺尾聰で、
第3位は藤竜也。
渡は石原プロ再建に貢献し、
石原の下で副社長も兼務。
1986年、
病気療養のため降板を余儀なくされた石原裕次郎の代役として『太陽にほえろ!』に出演し、
同番組の最終回まで出演して最終回では復帰した石原裕次郎と共演し、
これが二人の最後の共演となりました。
1987年(昭和62年)7月17日午後4時26分に
石原裕次郎が肝細胞癌のため52歳で死去。
10月、渡が石原プロの二代目社長に就任。
1989年(平成元年)3月、
渡が社長となって初の石原プロ制作作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の第5話を撮影中、
渡扮する倉本班長がヘリから降りて全力疾走するシーンで、
ヘリから着地した際、左足に激痛が走りましたが
「ただの捻挫だろう」と、
痛みを感じつつも撮影を続行。
しかし痛みは増すばかりで翌日、
病院で診察を受けたところ、
全治1か月半の「腓腹筋断裂」と診断。
しかし渡は、撮影に穴を開けるわけにはいかないと、撮影続行を宣言。
報道陣の前で「アクションと怪我は紙一重、やるっきゃありません」と、
石原プロ社長としての責任感の強さをのぞかせました。
その後、このケガが原因で、
足をひきずって歩く後遺症が残りました。
翌年放映された、
時代劇スペシャル『大激闘! 四匹の用心棒』では、
足を引きずって歩く主人公の浪人「かかしの半兵衛」こと金子半兵衛役を演じています。
1991年(平成3年)に自ら直腸癌であると発表。
1996年(平成8年)に大河ドラマ『秀吉』に出演。
劇中では、主人公の秀吉(演・竹中直人)の主君である織田信長を演じ、
退場回に放送された本能寺の変でのシーンは大きな反響を呼びました。
大河ドラマへの出演は、
1974年(昭和49年)に病のため途中降板した『勝海舟』で主演をした時以来。
その後は
2005年(平成17年)放送の『義経』に出演。
劇中では、
主人公の源義経(演・滝沢秀明)の物語上における
父のような存在である平清盛を演じました。
2003年(平成15年)8月、
テレビ朝日系『西部警察2003』のロケーションで、
石原プロ所属俳優の自動車運転ミスにより、
見物客5人が重軽傷を負う事故が発生。
名古屋市内で会見した渡は、
予定していた連続ドラマの制作、放送中止を明らかに。
その後、
第1弾として制作されたスペシャル版については紆余曲折を経て
『西部警察 SPECIAL』のタイトルで、
翌年2004年10月31日に放送。
2005年(平成17年)に紫綬褒章を受章。
2011年(平成23年)5月11日、
2009年(平成21年)の石原裕次郎23回忌を終えたことの区切りや、
自らの健康上のこと、
社長在籍期間が裕次郎の社長在籍期間と同じ24年目を迎え
「それを越えるわけにはいかない」などの理由から、
3月28日付をもって石原プロモーション社長を退任したことを発表。
12月23日放送のTBSの年末スペシャルドラマ『帰郷』では、
弟の恒彦と約40年ぶりの共演。
1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月に
放送のNHKの連続ドラマ『あまくちからくち』以来のことで、
その時と同じく兄弟役で共演。
その後恒彦とは、
十津川警部シリーズ50「消えたタンカー」で再び共演、渡は犯人役で出演。
2015年(平成27年)6月10日、
急性心筋梗塞で緊急入院、
手術を受けていたことが、
7月17日に明らかに。
約1か月で退院。
11月10日、宝酒造「松竹梅」のCM撮影で仕事復帰(前年8月の同CM発表会見以来、1年3か月ぶり)。
2017年(平成29年)3月14日午後11時18分、
弟・恒彦が胆嚢癌による多臓器不全のため72歳で死去。
4月1日、石原プロモーションの経営陣に復帰。
「相談取締役」の肩書きで相談役と取締役を兼任。
2020年(令和2年)8月10日午後6時30分、
肺炎のため死去。
78歳没。
(渡哲也)
角野卓造さん
(1948年8月10日-)
俳優・声優。
身長168cm。
文学座劇団代表。
東京都出身の大阪府育ち。
学習院大学経済学部経済学科卒業。
妻は女優の倉野章子。
角野家は広島県呉市の出で、
父は元広島県会議員。
幼稚園に上がる前の一年間は呉市で過ごしました。
母は東京千駄ヶ谷の医者の娘。
長男が呉の自宅分娩で亡くなったため、
母方が次は絶対に病院でと心配し卓造は叔父が勤務医をしていた慶応病院で生まれました。
生後二年間、
東京の母親の実家に預けられた後、
広島に戻り、
父が二度目の県議選に落ち実家の海運業を潰し、
両親とともに大阪の北浜に出て幼稚園と大阪市立愛日小学校に通いました。
父の転勤で中学から東京に移り、千代田区立麹町中学校入学。
当時は麹町中学校→都立日比谷高等学校→東京大学法学部から
大蔵省入省がエリートコースでしたが、
麹町中学二年のとき、
卒業生を送る予餞会でたまたま芝居をやったところ、
学友や担任の先生から「芝居が上手い」と褒められ、
演劇部からスカウトを受けます。
そこから演劇に夢中になり、
それまでは日比谷高校合格ラインにいましたが、
成績は急降下。
同中学卒業後、学習院高等科に進学。
高校時代はみゆき族でした。
1967年(昭和42年)に
学習院高等科から学習院大学経済学部経済学科に進学し、
1971年(昭和46年)に卒業。
学習院高等科および学習院大学では演劇部に所属。
演劇部の先輩に篠沢秀夫・児玉清・細川俊之、
後輩には黛りんたろう・大森博史・宮田慶子・田中明生。
大学在学中に状況劇場の唐十郎と出会い、
小劇場でのアングラ演劇に目覚めます。
一度は、
自分で作ったばかりの学習院大学演劇部のアトリエを
状況劇場に稽古場として貸したことさえありました。
その後、
ハイセイコーの馬主や真田幸村の子孫などの大森博史の世代が本格的なアトリエに改装。
早稲田小劇場の芝居が好きで文学座と早稲田小劇場両方の合格通知を貰っていましたが、
早稲田小劇場は職業的俳優を認めず、
食べていける可能性がある文学座研究所に1970年入所、1971年入団。
『花咲くチェリー』で初舞台。
1973年、
つかこうへいの戯曲『熱海殺人事件』で最初に熊田留吉刑事を演じたのは角野。
翌年にテレビドラマに進出。
特にTBSのホームドラマ作品には多数出演しており、
石井ふく子・橋田壽賀子両氏の作品に多く起用されました。
1979年に『戦国自衛隊』で映画に初出演。
2008年11月、紫綬褒章を受章。
2022年3月、文学座代表に就任。
(角野卓造)
吉川英治さん
(1892年8月11日-1962年9月7日)
小説家。
現在の神奈川県横浜市中区出身。
位階は従三位。
旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として誕生。
父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り、
箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓きました。
イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいました。
英治が生まれた当時、
直広は牧場経営に失敗し、
寺子屋のような塾を開いていました。
その後、貿易の仲買人のようなことを始め、
高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。
一時期安定するも、
直広が高瀬と対立し、
裁判を起こし敗訴すると刑務所に入れられ、
出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていきます。
山内尋常高等小学校に入学。
当時騎手の馬屋に近く、
将来は騎手になることを考えていました。
また10歳の頃から雑誌に投稿をするようになり、
時事新報社の『少年』誌に作文が入選。
家運が衰えたのはこの頃で、
異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。
いくつもの職業を転々としつつ、独学。
18歳の時、
年齢を偽って横浜ドックの船具工にならはましたが、
ドックで作業中船底に墜落、重傷を負います。
1910年(明治43年)に上京、
象嵌職人の下で働きます。
浅草に住み、この時の町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったといいます。
またこの頃から川柳を作り始め、
井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加。
1914年(大正3年)、
「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するも、生活は向上せず。
のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、
貧困からの脱出を目指しましたが変わらず、
この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。
1921年(大正10年)に母が没すると、
翌年より東京毎夕新聞社に入り、
次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆。
関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、
作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、
「剣魔侠菩薩」を『面白倶楽部』誌に連載、
作家として一本立ち。
1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、
初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得ました。
キング誌は講談社が社運をかけた雑誌で、
新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、
「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得。
執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、
阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした作品「鳴門秘帖」を完成。
これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化。
こうして巨額な印税が入りましたが、
貧しいときから寄り添っていた妻やすは、
この急激な変化についていけず、
次第にヒステリーに。
これを危惧し、印税を新居に投じ、
更に養女を貰い家庭の安定を図りました。
こののち、
『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、
『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書きます。
しかし妻のヒステリーに耐えかね、
1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、
この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれました。
この頃から服部之総と交友を結びます。
1933年(昭和8年)、
全集の好評を受け、
大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗。
松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、
また青年運動を開始し、
白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開きました。
1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。
同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、
これが新聞小説史上かつてない人気を得、
4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続きました。
剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、
太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作に。
1937年(昭和12年)、
やすと離婚、池戸文子と再婚。
1939年2月より「新書太閤記」を連載。
7月の「宮本武蔵」完結後、
8月より「三国志」を連載。
『宮本武蔵』終了後も、
朝日新聞からは連載の依頼が続き、
「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表。
1941年(昭和16年)12月24日、
大政翼賛会の肝いりで開催された文学者愛国大会では、
大会の締めに「皇軍へ感謝するの文」を読み上げるなど時流に合わせた活動も行いました。
1942年(昭和17年)、
海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、
海軍の戦史編纂に携わりました。
山口多聞、加来止男の戦死を受けて、
「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、
安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載。
またこの年には日本文学報国会理事に就任。
敗戦後は、
その衝撃から筆を執る事ができなくなってしまいました。
親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、
『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活。
1949年4月11日、
東京財務局が発表した所得番付では、
作家の中では最高額の250万円を記録。
1950年(昭和25年)より、
敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始。
連載7年におよぶ大作で、
この作品で第1回菊池寛賞(1953年)を受賞。
また『文藝春秋』からの強い要望で、
1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。
「新・平家物語」終了後は、
「私本太平記」「新・水滸伝」を連載。
「私本太平記」は、
従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描きました。
1960年(昭和35年)文化勲章受章。
「私本太平記」の連載終了間際に肺癌にかかり、
翌年夏に悪性腫瘍が転移し悪化。
1962年(昭和37年)9月7日、
肺癌のため築地の国立がん研究センター中央病院で死去。
享年70歳。
贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時叙勲)。
(吉川英治)
中尾彬さん
(1942年8月11日-)
俳優・声優・タレント・コメンテーター。
千葉県木更津市出身。
前妻は茅島成美、現在の妻は池波志乃。
義父は落語家10代目金原亭馬生、
義祖父は5代目古今亭志ん生、
義叔父は3代目古今亭志ん朝。
姪の元夫は俳優の田宮五郎(田宮二郎の次男)。
身長175センチメートル。
生家は酒屋を営み、
1958年に千葉県立木更津第一高等学校へ入学すると
バレーボール部で主将を務め、
1960年に油彩画「石の花」が千葉県美術展に入選し、
1961年に武蔵野美術大学油絵学科へ入学。
1962年に日活ニューフェイスの第5期に合格して映画に出演。
絵画を捨てきれず翌年に大学を中退してフランスへ留学するも留学期間を短縮。
1964年に帰国して劇団民藝に研究生として入団し、
中平康監督・加賀まりこ主演の日活映画『月曜日のユカ』に助演。
期待の新人俳優として注目を浴びます。
1970年に日活と民藝を離れてフリーとなってから、
各映画会社やテレビで活動を始めます。
1975年に『本陣殺人事件』で主役の金田一耕助を演じます。
1978年から『暴れん坊将軍』で初代徳川宗春役を演じ、当たり役に。
1978年から絵画創作を再開して
1978年に個展を2回開催。
フランスのル・サロン展で、
1981年に「BUNRAKU・狂乱」が大賞、
1982年に「COUNTRY・故郷」が国際賞、
をそれぞれ受賞後は、定期的に個展を開催。
1993年、『ゴジラvsメカゴジラ』以降、
Gフォース麻生司令官役でゴジラ平成VSシリーズにレギュラー出演。
2000年代のミレニアムシリーズでも3作品に出演。
1998年の『GTO』の内山田ひろし教頭役以降、
現代劇の出演が増加。
2007年3月31日早朝、
毎日放送の生番組『知っとこ!』レギュラー出演のために滞在していた大阪市内のホテルで、
高熱で体調不良を訴えて救急車で搬送され、
急性肺炎および横紋筋融解症と診断。
ICUで絶対安静の状態でしたが、
4月3日夕方に一般病棟へ、
5月に都内へ転院して5月15日に退院。
自宅療養の後に6月30日放送の『知っとこ!』に生出演。
(中尾彬)
島田順司さん
(1938年8月12日-)
俳優。
身長172cm。
関西新劇界の名門劇団である関西芸術座演劇研究所を卒業後、
正式座員になった後に退座して上京。
東京芸術座に所属。
1965年、
NET (現・テレビ朝日)のテレビ時代劇『新選組血風録』の沖田総司役で本格デビュー。
同ドラマのヒットにより、
栗塚旭演じる土方歳三とともに人気を博しました。
『新選組血風録』終了後も、
『俺は用心棒』(1967年)、『燃えよ剣』(1970年)でも
沖田を演じるなど時代劇を中心に活躍。
1988年から『はぐれ刑事純情派』 (テレビ朝日)で、
藤田まこと演じる安浦刑事が所属する警視庁山手中央警察署の刑事課長・川辺精一警部役で、
シリーズ18年間の全作品にレギュラー出演。
川辺課長のキャラクターについて、
捜査には役に立たないことで、
視聴者からは憎めなく面白い存在であることを心がけていました。
また、川辺が劇中でかけていた眼鏡は、
役のイメージに合わせて毎回選んでいました。
2004年に放映された『新選組!』では、
三谷の推薦で沖田が晩年に療養した植木屋平五郎役で出演。
(島田順司)
西條八十さん
(1892年1月15日-1970年8月12日)
詩人、作詞家、仏文学者。
長男の西條八束は陸水学者。
長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。
孫の西條八兄はエレキギター製作者。
東京府東京市牛込区牛込払方町(現在の東京都新宿区払方町)出身。
石鹸の製造販売業で財を成しましたが、
父親の死後、家庭は没落。
1898年(明治31年)、桜井尋常小学校に入学。
松井喜一校長に影響を受けました。
旧制早稲田中学校(現・早稲田中学校・高等学校)在学中に
吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぎました。
吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受けます。
中学時代に英国人女性から英語を学びました。
正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、
早稲田大学文学部英文科卒業。
早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。
三木露風の『未来』にも同人として参加し、
1919年(大正8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立。
後にフランスへ留学し
ソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、
帰国後早稲田大学文学部文学科教授。
日中戦争が始まると他の従軍文士らとともに大陸に渡り、
南京や漢口などの戦地に赴きました。
また、
日本文学報国会詩部会幹事長として戦争協力を行い、
軍人援護強化運動として「起て一億」の作詞を担当。
1943年(昭和18年)には
早稲田大学時代の同級生・外池格次郎が
当時町長を務めていた茨城県真壁郡下館町(後に下館市を経て、現・筑西市)に疎開。
以後戦後まで下館を拠点としていました。
戦後は日本音楽著作権協会会長を務めました。
1962年(昭和37年)、日本芸術院会員。 
象徴詩の詩人としてだけではなく、
歌謡曲の作詞家としても活躍し、
佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき「東京行進曲」、
戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした「青い山脈」、
中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「蘇州夜曲」、
古賀政男の故郷風景ともいえる「誰か故郷を想わざる」「ゲイシャ・ワルツ」、
村田英雄の男の演歌にして船村メロディーの傑作「王将」など
無数のヒットを放ちました。
また、
児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、
北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称されました。
薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもあります。
1970年(昭和45年)8月12日、
急性心不全のため世田谷区成城の自宅で死去。
78歳没。
(西條八十)
古関裕而さん
(1909年8月11日-1989年8月18日)
作曲家。
妻は声楽家で詩人の古関金子。
気品ある格式高い曲風で知られ、
現在でも数多くの作品が愛されています。
生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされます。
その曲風は、古関メロディーとして親しまれました。
福島に生まれ、
幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、
青年期には金須嘉之進に師事。
1929年に国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品として、
自身の作品がノミネート。
これを日本の新聞で
「チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、
それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。
クラシック畑からポピュラー畑に転身、
数多くの流行歌、歌謡曲、映画音楽、軍歌の作曲を手掛け、
音丸の「船頭可愛や」、
中野忠晴・伊藤久男らの「露営の歌」、
伊藤久男の「暁に祈る」、
霧島昇・波平暁男の「若鷲の歌」、
渡辺はま子の「愛国の花」などを発表。
戦後は、
ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や、
二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、
藤山一郎の「長崎の鐘」、
伊藤久男の「イヨマンテの夜」、
織井茂子の「君の名は」、
岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、
数多くの大ヒット曲を生み出しました。
他方で、
早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、
慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、
中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、
東京農業大学応援歌「カレッジソング」、
名城大学応援歌「真澄の空に」、
三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 
全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、
阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、
読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、
中日ドラゴンズの旧球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、
東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、
NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、
応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手がけ、
和製スーザと呼ばれました。
また、
母校である福島商業高等学校の校歌「若きこころ」を始め、
北海道から九州に渡る多数の学校で校歌を作曲。
楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行い、
繁忙期には同時に3つの曲を作っていたといいます。
(古関裕而)

篠原涼子さん🥰1973年8月13日生まれ・・・もう…50歳なんですね🥰 デビュー当時はバラエティー番組でダウンタウンにいじられキャラでしたが😅  現在では、いい女優になりました。😍✌

山城新伍さん
(1938年11月10日-2009年8月12日)
俳優・声優・司会者・タレント。
身長174cm。
映画評論家・映画監督としても活動。
元妻は花園ひろみ、娘は南夕花。
京都市生まれ。
・1938年11月10日(木曜日) 京都市に生まれる。
京都府立山城高等学校卒業。
・1957年 東映ニューフェイス第4期生。
・1959年 『風小僧』第1部 疾風之介役でデビュー。
同年、第2部で主演。
・1960年 『白馬童子』で主演し、人気を博します。
・1966年 女優の花園ひろみと結婚。
・1975年 『独占!男の時間』でバラエティに進出。
・1976年 日清食品『どん兵衛』のCMに出演。
川谷拓三との名コンビによるCMで、
14年続いたロングセラーCMとして人気を博しました。
同年4月公開の『テキヤの石松』出演後、東映を退社、フリーに。
・1980年『ミスターどん兵衛』で映画監督業に進出。
・1981年 フジテレビ系「アイ・アイゲーム」で伏字を「チョメチョメ」と表現し流行語に。
・1985年 花園ひろみと離婚。
・1991年 花園ひろみと2度目の結婚。
これを『新伍Niタッチ!』でゲスト出演した梅宮辰夫に発表され、
更に彼から祝福のキスを受けました。
・1999年8月 花園ひろみと2度目の離婚。
その後も同居していましたが、2001年以降は一人暮らし。
・2005年 糖尿病で入院。
以降はメディアなどには出演せず、事実上の引退状態。
・2009年8月12日午後3時16分、誤嚥性肺炎で死去。
70歳没。
(山城新伍)
坂本九さん
(1941年12月10日-1985年8月12日)
歌手・俳優・タレント・司会者。
神奈川県川崎市川崎区出身。
愛称は九ちゃん。
妻は女優の柏木由紀子。
柏木との間に娘が2人おり、
長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。
実祖父は茨城県田伏村(現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉。
またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。
「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」
等数多くのヒット曲を出し、
全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達しました。
また、
映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など多岐に渡り活動。
川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と
妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生。
第二次世界大戦中に幼少期を送り、
戦争中は母の実家のある茨城県笠間市に疎開。
戦争中の1943年10月26日(火曜日)に発生した
常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、
多数の犠牲者を出した車両に、
疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていました。
ただ、
事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れます。
成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、
「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、
終生信仰していたといいます。
後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げました。
そして、日航機事故で命を落とした時にも、
笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手に。
高校生の時に両親が離婚。
といっても家は近所で家族の交流は変わらず。
九など下の兄弟は母親に引き取られ、
姓は坂本から大島に。
この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり、
右に出る物が他にいなかったと言われるほど、
プレスリーの物まねで仲間内の人気者に。
高校に上がると、当時不良の音楽で、
一部の最も流行に敏感な若者たちに流行り始めていた
ロックン・ロール(当時は総じてロカビリーと言われていた)にさらに熱を上げ、
立川の将校クラブでアメリカ人を相手に初めて人前で歌います。
その時に歌ったのが
エルビス・プレスリーの「Hound dog」、
リトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」。
1958年5月、
日本大学高等学校在学中にバンド・ボーイを経て、
当時ロカビリーバンドとして活動していた
井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、現在のザ・ドリフターズ)に加入し、
ボーカル兼ギターを担当。
8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、
新人賞を受賞。
半年後(11月)芸能界の苦しさも経験し、
母親の反対を押し切って入った芸能界が、
どうも間違いだったと思い始めていた坂本は、
学校を休学して芸能活動をしていたので、
「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退。
しかし渡辺美佐の妹である曲直瀬信子は、
坂本家まで通い、坂本と母親とを強く説得。
そして初代ドリフターズのリーダー岸部清をも説得し、
事実上の引き抜きという形で坂本はドリフターズを脱退。 
12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてビクターレコードと契約。
1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューするも、ヒットせず。
無名時代、
平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した、
日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。
バックでギターを弾いていましたが、
当初は知られることがなかったですが
のちに上記の新人賞を受賞。
ダニー飯田とパラダイス・キング加入でヒットしてテレビに出る以前のライブ時代の九は、
新品のギターを叩き壊すなどのパフォーマンスもする、
パワフルでワイルドなロックン・ロールスタイル。
1960年7月に、
東芝音楽工業(後の東芝EMI。東芝レコードレーベル)に移籍。
同年8月に、
移籍後第1弾シングルとして発売した
「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ、初ヒット。
1961年10月15日リリースの「上を向いて歩こう」は日本国外でも大ヒットし、
作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれました。
中でも1963年には、
SUKIYAKIと題してアメリカでもっとも権威のある
ヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、
キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。 
Billboard Hot 100で1位を獲得した日本出身者は2020年9月現在、坂本だけ。
ヒットに伴い、1963年、
坂本はスティーブ・アレン・ショーに招かれ渡米。
渡米の際、
キャピトル社長一家、当時のニューヨーク市長、クインシー・ジョーンズ、ディズニーランド副社長や多くのアーティストや著名人と対面しており、
空港には1万人のファンが集まるなど、
非常に歓迎された日本人でした。
また、この「上を向いて歩こう」は
1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため
坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞。
「上を向いて歩こう」の世界でのヒットにより
世界的に名前が知られたことで、
国際的な活動も多数。
1964年の第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、
「サヨナラ東京」と「君が好き」を歌いました。
資金難だった東京パラリンピックをチャリティコンサートで寄付金支援。
1970年の日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用。
さらに、読売テレビ『クイズEXPO'70』の司会にも起用。
タレントとして、
テレビの司会や映画、舞台でも活躍。
役者としては晩年の榎本健一(1970年1月没)には特に気に入られ、
自宅に呼ばれて様々な指導を受け
「俺を踏み台にして、俺を超える役者になれ」と
口癖のように言われたといいます。
また、
「あゆみの箱」運動、手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加。
1971年12月8日(水曜日)に女優の柏木由紀子と結婚。
「上を向いて歩こう」がヒットする最中、
夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が
1962年から札幌テレビ放送主催の下、
札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演。
以来、
毎年10年間北海道でチャリティーショーを続け、
それをきっかけに
1976年札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」に取り組みました。
月に2回北海道の施設を取材し番組は作られました。
この番組は急逝まで9年間、
日曜朝9時から30分間放送。
番組の中、コンサートでも披露されましたが、
日本初の手話の歌「そして想い出」を1979年発表。
全国ろうあ者大会で披露。
1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。
5月22日に
移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、
再び歌手活動を本格化させようとしていました。
8月9日には、
中村八大のコンサートにて
「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」
という意志を伝え、
中村と再度の意気投合を誓っていたといいます。
坂本は8月11日夜に『クイズクロス5』(テレビ新広島)の収録のため広島入りし、
翌12日に同番組の収録(同年8月16日放送分)を行いました。
当初の予定では、『クイズクロス5』の収録後に
岡山から車で直接大阪入りする予定でしたが、
夏休み休暇中のうつみ宮土理の代役として急遽
『歌謡スペシャル』(NHK-FM放送)の司会を務めることになったため、
一旦帰京。
このため、
この『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録が坂本の生前最後の仕事に。
その後、
大阪府在住で自身の元マネージャーの
同年9月9日実施予定の羽曳野市議会議員選挙に応援として
翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中、
日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去。
43歳没。
(坂本九)
もう38年前なのですね
バラバラになった機体は
教訓として保存されてます
昭和の
忘れてはいけない出来事のひとつです。
西河克己『伊豆の踊子』(1963)
標記は、孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年(高橋英樹)が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女(吉永小百合)に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語です。
孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが、川端康成氏の原作である短編小説をほぼ忠実に描いています。
特徴的なのは、「或る大学教授の回想」という形で、主人公が独白形式でナレーションを語るストーリーテリングとなっており、冒頭の現代の場面はモノクロで映し出し、原作に基づいた教授(宇野重吉)の青春時代の回想シーンはが鮮やかなカラーフィルムで描き、その回想から覚めると再びモノクロとなっている演出が施されています。
その点は、原作のプロット自体を、「郷愁」と捉える主題性が強く打ち出されていると思われ、青春時代のひと時が、伊豆の自然描写を背景にリリカルに描かれており、観る者が各々に自身の想い出とリンクするようなノスタルジーに連れて行くような作品となっています。、川端氏自身も、踊子姿の吉永さんに〈なつかしい親しみ〉を感じたといわれています。
更には、肺病の為に17才で死んでいく酌婦のお清(十朱幸代)や、体を売ることから温泉場で差別される酌婦のお咲(南田洋子)の喧嘩シーンなど、原作にない場面を追加して、その背景にある貧困の中で生きる女性たちを描いた西河監督ならではのオリジナリティを加えながら、原作小説においても伺えるような、旅芸人たちに対する謂れのない差別という社会性も盛り込んで、原作に隠れた作家の芸術的抵抗も余すところなく描いていると言えるでしょうし、
そこには、大森海岸の花柳界で育ち、「唄はして頂戴」と言ってペラペラの人絹の振袖が薄汚れた踊り子たちを観ていた西河監督にとっては、ここでの踊り子たちの一行も決して美しいものではなく、哀しい存在として映っていました。
その背景から川端氏の作品の裏側にある意図を、川端氏の第1回の映画化に当たって書かれた文章を読んで次のように受け止めていました。
「踊り子の兄と義姉が悪性の病気にかかっていたという事実を、発表したものかどうか大変迷ったという苦渋に満ちた心情が述べられていました。この川端さんの苦渋は、小説の中では、「水のやうに透き通った赤坊が生まれたのださうである」とさらりと書き流されていますが、ぼくはこの文章の裏側にかくされた川端さんの苦渋に映画化のポイントがあるように思いました。そして、この事がぼくに、「唄はして頂戴」のイメージで踊り子の一行を描く決断を与えたと思います。」(『映画で見る日本文学史』)
この作品は、いくつかの映画化がなされましたが、こうした背景が基調になっていることから、より吉永さんの演じた踊り子が、哀しくも美しい存在として印象深く残っているのかもしれません。
余談ながら、西河克己監督は、1974年に三浦-山口コンビでリメイクしており、そこでのナレーションにも宇野重吉氏を配するという拘りを見せていました。
🟣時代屋の女房/1983
❤️夏目雅子💙渡瀬恒彦
🔴自由な生活の中、独特の空気感のある映画でしたね😊😊😊
古川ロッパさん
(1903年8月13日-1961年1月16日)
1930年代の日本の代表的コメディアン。
編集者、エッセイストとしても活動。
東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である
加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生誕。
嫡男以外は養子に出すという家訓により、
生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で
満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子に。
幼少期より文才に優れ、
のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、
童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名。
1911年、福岡県門司に転居し、
1916年旧制小倉中学校に入学。
1917年東京に戻り旧制早稲田中学校に転校。
在学中の1918年には映画雑誌『映画世界』を発行し、
映画評論を執筆して早熟ぶりを発揮。
同時に
『キネマ旬報』などの映画雑誌に緑波の名で投稿を始め、
1921年早稲田第一高等学院に進学、
そこでキネマ旬報編集同人に。
さらに1922年には
小笠原プロ・小笠原明峰監督『愛の導き』で映画初出演。
その実績を買われて旧制早稲田大学文学部英文科在学中に菊池寛に招かれ、
文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社。
1925年に早稲田大学を中退し文筆活動に専念。
翌年には雑誌編集の傍ら、
宴会での余興芸の延長線上として当時親交のあった
徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動を開始。
それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けるなど、
モダンな芸風も仲間内の受けが良かったそうです。
1930年、
菊池の後援で『映画時代』の独自経営に乗り出すも失敗、
多額の負債を抱えます。
雑誌休刊後は
東京日日新聞の嘱託として映画のレビューや映画関係の書物の執筆、雑誌『漫談』の編集などを行います。
1931年には俳優として
五所平之助監督の『若き日の感激』や
田中栄三監督の『浪子』などの映画に出演。
その後、素人芸ながら達者なところを買われ、
菊池寛や小林一三の勧めで喜劇役者に転向。
1932年1月、
兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』でデビュー。
1933年には浅草で
夢声・大辻司郎・三益愛子・山野一郎らと劇団・笑の王国を旗揚げ。
「エノケン」のニックネームで同時期に活躍した喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、
「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競いました。
丸顔にロイド眼鏡、肥った体型がトレードマークのロッパは、
華族出身のインテリらしく、
品のある知的な芸を持ち味としました。
小柄で庶民的、軽業芸も得意なエノケンとは異なり、
身体の動きは鈍かったですが、
軽妙洒脱な語り口と朗々たる美声に加えて、
生来の鷹揚さから来る、
いかにもお殿様らしい貫禄が大衆に好まれました。
1931年ごろからは歌手としても数多くのレコード吹き込みを残しましたが、
中でも軽妙なコミックソングを得意としました。
代表作の『ネクタイ屋の娘』は
作詞が西條八十、作曲が古賀政男という大御所による作品。
他には
ナンセンスな『嘘クラブ』、
小唄勝太郎と共演した『東京ちょんきな』などの民謡風、
『明るい日曜日』などのパロディ物、
シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、
アニメ映画の挿入歌『潜水艦の台所』、
明治製菓のコマーシャルソング『僕は天下の人気者』など。
舞台では、
得意としたティペラリーや尻取り歌などのほか、
わざと音程を外して歌う芸も披露。
舞台では
歌や漫談、声帯模写と幅広い芸を披露しましたが、
中でも十八番とした声帯模写の巧みさは超一流。
1931年8月8日、
ラジオの生放送番組に出演予定の徳川夢声が酒と睡眠薬の飲み過ぎで倒れ、
ロッパが代役として夢声の名で出演し、
40分間を夢声の声色で通して、
誰も代役と気付かなかったという伝説的な逸話を残しました。
1932年、
小林一三は東京宝塚劇場(東宝)を設立し、
当時松竹が権勢を誇っていた東京の劇界に進出。
旧知のロッパは早速スカウトされ、
翌1934年3月、
開場間もない東京宝塚劇場公演『さくら音頭』への出演を持ちかけられます。
1935年5月、東宝の前身PCLに引き抜かれます。
7月横浜宝塚劇場で一座の公演が始まり、
8月には劇団名も
「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め、
有楽座で
『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、
当たり狂言の『ガラマサどん』が大評判となり、
丸の内へも進出。
1936年には
浅草時代の盟友である菊田一夫を招き入れて、
ロッパの芸歴の中でも最も輝かしい時期を迎えます。
ロッパ一座の特色は、
歌舞伎・新派を基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、
欧米のモダンさを加え、
特にミュージカルを意識して音楽をふんだんに用いた斬新なもので、
狂言の中にも『春のカーニバル』『歌えば天国」など、
必ず音楽主体の演目を加えました。
一座の洗練された舞台は、
丸の内の大手企業や外資系企業のサラリーマンを中心とするホワイトカラー層の支持を集め、
浅草のブルーカラー層の支持を受けていた榎本健一とは対照的でした。
『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』『ハリキリボーイ』などの演目は大ヒットし、
菊田作の『道修町』では大阪の観客の幅広い支持を集めました。
若手の育成にも力を入れ、
その中には後に名をなす森繁久弥や山茶花究もいました。
スタッフは座付作者としてロッパ自身と菊田一夫、
俳優には渡辺篤・三益愛子などの実力派を揃えました。
また、
時には徳山璉・藤山一郎・渡辺はま子・中村メイ子・轟夕起子などを起用したり、
台本作家として火野葦平や内田百閒の協力を得たりと、
プロデューサーとしての才能を発揮して話題を集めました。
さらに
レコード吹き込みやラジオ出演、ロッパ個人のステージ活動、雑誌への執筆活動と大活躍し、
1940年10月大阪北野劇場出演中に病気で倒れるまでの5年間は、
ロッパの黄金時代でもありました。
舞台の傍ら、映画へも盛んに出演し、
一座をひきいて出演した
『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの大久保彦左衛門』『ガラマサどん』『ハリキリ・ボーイ』
などで人気を集めました。
演技にも定評があり
『頬白先生』『婦系図』などの映画作品ではシリアスな役もこなしました。
中でも長谷川一夫と共演した『男の花道』(1941年東宝作品、マキノ正博監督)での
芸州浅野家藩医・土生玄碩役は名高いです。
1940年10月1日、
東宝は傘下の全演劇団を東宝国民園劇団移動隊に統合、
ロッパも移動演劇班を率いて地方巡業を行う役割を担うことに。
1941年1月、
東京有楽座『ロッパと開拓者』『日本の姿』で再び舞台にカムバックすると、
大東亜戦争中は、
『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤの太鼓』『レイテ湾』『歌と宝船』などの舞台や
『突貫駅長』『勝利の日まで』などへの映画出演、
地方への慰問巡業などを精力的にこなしています。
この頃から方針の違いにより菊田一夫と対立し、
菊田に同調する団員との軋轢や、
当局による度重なる検閲や統制、
さらに1944年2月には戦局悪化のため閣議決定された決戦非常措置要綱によって、
有楽座帝劇が閉鎖されるなど、多くの難問に悩まされました。
戦争末期の1945年、
当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め、喜劇への検閲を廃止。
ロッパは渋谷の東横映画劇場を本拠地とする公演に加え、
空襲下の京浜地区で工場への慰問活動を行っています。
そんな中、
1945年5月25日には空襲で下落合の自宅が焼失。
幸いロッパ自身は東北方面に巡業中であり、
家族も疎開していて難をのがれましたが、
多くの貴重な文献(日記は防空壕に埋めていたので無事)を喪失。
7月に一旦帰京、田園調布の知人宅に身を寄せ、
空襲下の最悪の条件下にも屈せず、
ラジオ出演や慰問活動を続けながら終戦を迎えることに。
終戦直後の1945年末、
映画『東京五人男』で活動を再開。
大晦日にはNHK『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)の白組司会を務めました。
1945年12月には、
戦前からロッパの私的トラブルの相談相手だった上森子鉄を経営者として、
一座は東宝から独立。
積極的に舞台活動をするも、
ホームグラウンドの東京宝塚劇場が占領軍に接収され、
活動範囲が狭められた上にインフレによる諸経費の高騰も重なり、
戦前ほどの収益を上げられずに一座の経営は苦境に立たされます。
そのような状況下、同年4月東京有楽座で、
榎本健一一座と合同公演を行いました。
出し物の『弥次喜多道中膝栗毛』は
ロッパ一座の戦前の当たり狂言を元にしたものですが、
今回はロッパ・エノケンという喜劇の両雄の初めての共演ということで、
笑いに飢えていたファンの支持を受けて大入りとなり、
2か月のロングランを記録。
以後、2人の共演の機会が増えますが、
裏を返せば、
榎本の力を借りなければならないほどに人気が衰えたことを示していました。
しかしながら、プライドの高いロッパは、
川口松太郎ら友人たちや関係者の忠告にも耳を貸さず、
それまでの旧態依然とした芸風と尊大な態度を頑なに守り続けました。
1948年には上森の多額の横領が発覚して一座から上森を追放するも、
すでにラジオなどに人気を奪われていた劇団の存続は困難となり、
1949年に一座は解散。
また、
戦時中から台頭してきた清水金一や、
元座員の森繁久弥、後輩の伴淳三郎・トニー谷などの新たなスターたちに人気を奪われ、
戦前の横暴も祟って周囲の人間もロッパから離れていきました。
1948年、
ロッパは引きたててくれた小林一三のもとを訪れ、
有楽座出演の希望を訴えますが
「ロッパの人気は肥った円い顔にロイド眼鏡だが、
今じゃそのロイド眼鏡が珍しくなくなった。
実力でいけ。お情けにすがるな」
と説教されています。
後援者にも見放されたロッパは何とか新境地を開こうとするも、
努力も空しく、映画は三流作品の脇役が多くなり、
舞台も地方巡業が増えていきました。
1949年には、
アメリカ映画『三人は帰った』(アグネス・キース  (Agnes Newton Keith) の
ノンフィクション (Three Came Home (book)) の映画化)における
「良心的な日本軍人」役の
スクリーン・テストで最終候補に上がりますが、
結局その役は、早川雪洲が演じることに。
その一方で、
1954年には社団法人日本喜劇人協会設立に際し、
柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)し、
重鎮としての存在感を示していました。
脇役中心ながらもラジオや映画出演は依然多く、
日本テレビ開局時より放映開始された
連続テレビドラマ『轟先生』の主人公を演じて茶の間の人気を博しており、
黎明期のテレビ放送のパイオニア的存在となった功績は大きいです。
舞台でも1953年3月、
東京有楽座の第1回東京喜劇祭りで金語楼、榎本らと共演した『銀座三代』、
1958年7月芸術座公演菊田作の『蟻の街のマリア』、
翌8月の宇野信夫作『月高く人が死ぬ』などの演技が高く評価されました。
しかし、すでにロッパの身体は50代前半にもかかわらず、
長年の美食と鯨飲馬食による持病の糖尿病のほか、
再発した結核にも蝕まれていました。
また、
銀行を信用せずに常時持ち歩いていた金銭も盗まれてしまい、
多額の借金を抱えてしまいます。
ロッパは病魔と闘いながら生活のために芸能活動を続けなければならず、
映画監督や小説家になる野心も失われていきました。
1960年代になると舞台や映画も端役が増加。
50代後半ながら体力が落ちて覇気のない演技を批判されたり、
弟子筋の森繁久彌からは引退勧告を迫られるなど、
すっかり過去の人間と成り果ててしまいました。
病状も悪化する一方で、
1960年11月の大阪・梅田コマ劇場公演『お笑い忠臣蔵』の出演中に倒れますが、
辛うじて千秋楽を迎えて帰京。
翌1961年1月3日には
東京順天堂病院に入院するも、
16日午前11時55分に肺炎と全身衰弱で死去。
57歳没。
(古川ロッパ)
正司歌江さん
(1929年8月13日-)
漫才師であり、漫才トリオかしまし娘の長女。
旅役者だった両親の巡業先・北海道歌志内市で生まれ、
3歳で初舞台。
1941年(昭和16年)頃、
妹の正司照枝と組んだ姉妹コンビは天才少女漫才と喝采をあびました。
1948年(昭和23年)に
ヒロポン中毒の転地療養から、富山へ駆け落ちし、
照枝との姉妹コンビを解消。父親からも勘当。
一時、
難波のキャバレー「パラマウント」に勤めていましたが、
約10年間芸者として働きます。
1956年(昭和31年)、姉妹の元に戻り、
かしまし娘を結成。
三味線を担当。
1981年にかしまし娘の活動を休止した後は、
女優としてテレビドラマやトーク番組、舞台演劇、映画、講演などで活躍。
かしまし娘休止後は
他のプロダクションに所属していましたが、
2007年(平成19年)に当時の所属事務所のアクターズプロモーションが倒産し、
同年6月に松竹社長との会談で21年ぶりに松竹芸能に復帰、
2009年(平成21年)3月に契約終了。
2007年(平成19年)に客演したWAHAHA本舗に、
2009年(平成21年)5月1日より正式入団。
2009年(平成21年)4月18日、
WAHAHAの公演ポスター撮影中に転倒して腰椎を骨折。 
4月19日から入院し、5月6日に退院。
かしまし娘と磯野貴理子らと出演する舞台「やかましい人々」で復帰。
自身の少女期についてヒロポン中毒のすさんだ生活を回顧。
なお、
鈴鹿8耐に出場経験のある元オートバイレーサーで
『欽ちゃんの仮装大賞』などを手がける
プロデューサーの平井秀和は歌江の息子。
(正司歌江)
桂歌丸さん
(1936年8月14日-2018年7月2日)
落語家。
位階は従五位。勲等は旭日小綬章。
出囃子は『大漁節』。
神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。
神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。
定紋は『丸に横木瓜』。
横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。
五代目古今亭今輔の門下となり、
古今亭今児を名乗ります。
のちに四代目桂米丸の門下に移り、
桂米坊を名乗りました。
当初は新作落語中心でしたが、
晩年は、
廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動。
出囃子は『大漁節』。
社団法人である落語芸術協会に所属し、
理事や副会長を歴任。
2004年に5代目会長に就任し、
公益社団法人への移行後も引き続き会長を務めました。
また、
地元・横浜においては横浜にぎわい座の2代目館長や、横浜橋通商店街の名誉顧問を務めていました。
演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして出演し、
2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで
同番組の5代目司会者を務め、
同日付で終身名誉司会者に就任。
没後は永世名誉司会に名称が変更。
(桂歌丸)
宮内淳さん
(1950年5月28日-2020年8月14日)
俳優。
身長182cm。
愛媛県伊予郡松前町出身。
小学生の時に大阪市内へ転居。
大阪府立阿倍野高等学校卒業。
高校の先輩に逸見政孝。
西南学院大学中退。
中学生、高校生の頃はバスケットボールをやっていました。
幼少のころは航空機のパイロットに憧れ、
航空大学校への入学を目指しますが、
皮肉にも勉強のし過ぎで視力が低下。
航空大学校の身体検査基準を満たさなくなり、
パイロットの夢を断念。
芸能界に目を向けるように。
いくつかの小劇団を渡り歩いた後、
1974年、文学座附属演劇研究所に入所し、
1975年卒業。
同年10月からはテレビドラマ『太陽にほえろ!』(NTV)に
田口刑事(= “ボン”)役でレギュラー出演し、
一躍人気者に。
1979年 「太陽にほえろ!」を降板。
同年、『あさひが丘の大統領』(NTV)でテレビドラマ初主演を果たし、
頭の上がらない熱血教師・“ハンソク”こと大西先生役を演じて話題を集めました。
1982年からは、児童演劇活動を広く行い、
影絵劇団「かしの樹」主宰をはじめ、
子どもの情操教育に力を注いできました。
晩年は自身がメディアに出演する形での活動はほとんど行っておらず、
地球と人間の幸せを考えて、
平和を構築する公益財団法人「地球友の会」の代表理事や、
国連環境計画(UNEP)の普及活動を行う一般社団法人「日本UNEP協会」の事務局長を中心に活動。
その後の目立ったメディア出演は、
『太陽にほえろ! 1979 DVD-BOX II』(2008年発売)収録特典のアンソロジーメイキングや、
BS朝日『極上空間』の石原裕次郎没後25年特別編(2012年6月9日放送)のみに留まりました。
2019年2月、
初めての著書『「あの世」が教えてくれた人生の歩き方』(サンマーク出版)を上梓。
出生から「太陽にほえろ!」時代のエピソード、
そして現在の生き方に至るまでの興味深いストーリーに。
また、
公益財団法人「地球友の会」において10月1日を「和の日」として登録したことを契機として、
「和の日実行委員会」を立ち上げ、
日本の伝統文化の普及を通して和の精神を世界に広める活動に力を入れました。
2020年8月14日、直腸がんにより死去。
70歳。
(宮内淳)
片桐竜次さん
(1947年8月14日-)
俳優。
山口県下関市彦島弟子待町出身。
身長174cm、体重70kg。
子どもの頃五才ごろまで江戸時代生れの曽祖母と一緒に住んでいたといいます。
父は大洋漁業で船の設計の仕事をしていましたが、
片桐が生まれて9日後に労咳(結核)で亡くなり、
母が再婚して家を出たため、
片桐は家に残ったその曽祖母と祖母に育てられました。
1964年東京オリンピックの年に17歳で上京、
杉並区に居住。
ブラジルへ移民しようと思い、
訓練学校のような所へ通っていましたが、
大阪に住んでいた母が呼びに来て、
大阪ガスへ就職して大阪府茨木市に居住。
イタリア映画、フランス映画に夢中で映画館に入り浸っていました。
東映に入社してからは、
毎日のように二日酔いで朝起きられず遅刻して、
会社から役が付けてもらえなかったといいます。
1971年に映画『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』で本格デビュー。
ずば抜けた身体能力の持ち主で
1970年代から80年代にかけての全盛期のアクション系作品では、
立ち回りや銃撃戦などのアクションシーンにおいても本領を発揮。
ヤクザ映画・時代劇・刑事ドラマでのヤクザや凶悪犯役などを数多く演じていましたが、
90年代に入ってからは刑事役等、現代劇の仕事を優先し現在に至ります。
渡瀬恒彦や水谷豊との共演が数多いです。
同郷の松田優作の恵比寿の家で朝まで飲んだとき
松田に
「ここは治安がいいよ。上にジャイアント馬場さんが住んでいるから」を言われたといいます。
2016年、俳優生活45周年を記念して、
主演映画『キリマンジャロは遠く』が制作。
2018年には監督デビュー。。
趣味は水泳、読書、
同じ下関出身で同郷の松田優作とは親友。
(片桐竜次)

♥️2023💃8/14 鈴木保奈美(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

陣内 孝則さん
1958年8月12日生まれ、65歳。
福岡県大川市出身。
俳優、シンガーソングライター、タレント、司会者。
映画「疵(きず)」
1988年公開
https://youtu.be/vXoa2y88KpU
監督: 梶間俊一
キャスト
陣内孝則、ジョニー大倉、藤谷美和子、岩城滉一
主題歌: 南佳孝「Paradiso」
杉良太郎さん
(1944年8月14日-)
兵庫県出身の俳優、歌手、篤志家。
身長178cm。
妻は、伍代夏子。
前妻との間に息子山田純大と娘2人。
ベトナムの里子は152人。
紺綬褒章3回、緑綬褒章、紫綬褒章、文化功労者。
兵庫県神戸市長田区宮川町生まれ。
兵庫県三原郡三原町(現南あわじ市)出身の父と、鹿児島県徳之島出身の母に、
姉3人のあとの長男として誕生。
神戸市立長田小学校、神戸市立西代中学校出身。
高浜海員学校(現国立清水海上技術短期大学校)中退。
養神館合気道名誉5段。
1965年に
日本コロムビアから「野郎笠」で歌手デビュー。
1966年より日活に所属。
1967年にNHK『文五捕物絵図』に主役で出演。
1970年の映画『花の特攻隊 ああ戦友よ』主演。
1970年、
7年越しの恋が実り26歳のOL八田信子と婚約し、
1972年に結婚。
その後、長男、長女、次女が誕生。
1975年にCBSソニー移籍し、
シングル「なやみ」が10万枚の売上を記録。
1976年「遠山の金さん」に主演し、
主題歌「すきま風」シングルレコードが100万枚の売上を記録。
1998年に26年間の婚姻関係にあった八田信子と離婚し、
翌1999年に17歳年下の伍代夏子と再婚。
2人の間に子はなし。
2005年7月の新歌舞伎座公演を最後に、
自らの座長公演を勇退。
2009年6月1日、芸能活動45周年を記念し、
初の作詞作曲集を発売。
2011年6月22日、
芸能活動全般についてエイベックス・マネジメントと業務協力契約を締結。
2013年2月に杉の個人事務所が所有する
東京・西麻布のビル2階に「杉良太郎演劇塾」設立。
同年10月には『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』で、
現代劇では『大捜査線』以来33年ぶりとなる民放連続ドラマに出演。
(杉良太郎)
ジェリー藤尾さん
( 1940年6月26日-2021年8月14日)
歌手、俳優、タレント。
代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。
専修大学附属京王高等学校(現・専修大学附属高等学校)中退。
娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。
元妻は歌手、タレントの渡辺友子。
身長172cm。
高知県出身で松竹で俳優になったのちに
日本放送協会国際部勤務で英語アナウンサーをしていた父・藤尾薫宏と
イギリス国籍の母・オリビア・ヒース・ゴンザレスのもと、
当時の中華民国上海の日本租界で生誕。
当地で第二次世界大戦の終戦を迎え
1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、
上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、
帰国後の藤尾と母は言葉の壁や外見から差別を受けました。
特に母の心労は深刻で、
知り合いのいない地での孤独を紛らわすためアルコール依存症に陥り、
藤尾が中学1年生の時に、
台所で吐血しウィスキー瓶を握り締めたまま28歳で死去。
息絶えた母を発見したのは、
学校から帰宅した藤尾でした。
その後、
家庭を顧みる余裕をなくした父によって生活は崩壊。
深く傷つき、
新宿など夜の繁華街で荒んだ生活を送り、
愚連隊「三声会」の用心棒を務めるまでになっていました。
ヤクザすら道を譲るほど喧嘩に明け暮れていましたが、
次第に音楽への道を志すようになり
1957年にバンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶で
エルヴィス・プレスリーの『ハウンド・ドッグ』を飛び入りで歌ったところ、
これが所以でマナセプロダクションからスカウトされ、芸能界入り。
芸名は
アメリカの喜劇俳優、ジェリー・ルイスにあやかる形で名づけました。
1958年、
高校留年が決定したのを機に中退し本格的に芸能生活を開始。
「水原弘とブルーソックス」のシンガーとして日劇ウエスタンカーニバルで初舞台。
特にリトル・リチャードのナンバーを得意としました。
俳優としては
1959年の『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広、東宝)、
歌手としては1961年に『悲しきインディアン』でレコードデビュー。
翌1962年5月にNHKの人気番組『夢であいましょう』へ出演すると共に、
同番組の「今月のうた」に採用された『遠くへ行きたい』が大ヒットして一躍人気者となり、
「ダニー・ボーイ」、「土佐の一本釣り」、「指笛の丘」などのヒット曲を持ちます。
その後は黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、
映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍。
1964年に
歌手・タレントの渡辺トモコ(現・渡辺友子)と結婚し、
二児をもうけました(後に長女・美紀は『極道ステーキ』、次女・亜紀は『セーラー服反逆同盟』などへ出演し、一時女優として活動)。
家族で『オールスター家族対抗歌合戦』などバラエティ番組へ出演、
1974年からはトヨタ・カローラのCMへ出演して
「円満な芸能人一家」として広く認知されました。
しかし、
1985年に入り夫婦の不仲が報じられ始め、
同年末に渡辺が家を出るかたちで別居。
1986年7月12日、正式に離婚。
その際、渡辺が女性週刊誌上で
「酒浸りの生活でDVに及ぶ」、「妻の両親との不仲」、「経済的に困窮し、妻と収入が逆転した」
など一方的にスキャンダルを吹聴し、
ワイドショーがそれに同調して藤尾へのバッシングを始めたのを期にテレビへの露出が減り、
表舞台から姿を消す事に。
このことに関して藤尾本人は多くを語らなかったですが、
離婚の際、
2人の娘が父である藤尾の側に付いたことや、
長女が母親の乱れた素行や男性関係を暴露、
「あの人はクズ」と発言し、
物議を醸したことで一方的なバッシング報道は収束。
その後は
リサイタルやディナーショー、懐メロ・オールディーズコンサート等を中心とした芸能活動や、
慰問などの福祉活動、
自らの差別体験などを通した人権に関する講演などを行っていました。
娘2人が嫁いだのを機に
「面倒を見てもらうつもりはない」との意思から
千葉市内の有料老人ホームに生活拠点を移していましたが、
晩年は、
神奈川県横浜市内の次女・亜紀夫妻の自宅で暮らしていました。
2021年8月14日4時52分、
慢性閉塞性肺疾患起因による急性肺炎のため死去。
81歳没。
(ジェリー藤尾)

♥️2023💃8/15 麻生祐未(60歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

目黒祐樹さん
(1947年8月15日-)
俳優・歌手・司会者。東京都出身。
身長172センチ。
劇団青年座所属。
幼少時より子役として各社の映画に出演していましたが、
東映のテレビドラマ第1作である『風小僧』第1部主演を最後に学業に専念、
同志社中学校に進学。
その後、
同志社高等学校に進むが留学を志し、中退。
米国ハワイやセントルイスのハイスクールに学びます。
その後、
ボストン大学の演劇学科や南カリフォルニア大学に学ぶも中退。
帰国後、映画『太陽の野郎ども』に主演し、
本格的に俳優としての活動を開始。
時代劇・現代劇を問わず、
多くの映画・テレビドラマに出演、
1980年にアメリカで放送された『将軍 SHŌGUN』では
エミー賞の最優秀助演男優賞にノミネート。
ミュージカルではレコードを出した歌唱力を見せているほか、
情報番組で司会もしています。
趣味は水泳、ゴルフ。
特技は英会話、殺陣、関西弁、活動弁士。
[著名な家族]
妻・江夏夕子
娘・近衛はな
父・近衛十四郎
母・水川八重子
兄・松方弘樹
(目黒祐樹)
さくらももこさん
(1965年5月8日-2018年8月15日)
漫画家、エッセイスト、作詞家、脚本家。
また、
自身の少女時代をモデルとした代表作のコミック『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前。
静岡県清水市(現・静岡市清水区)の旧入江町地域出身。
身長159 cm。
二男の母。
代表作のコミック『ちびまる子ちゃん』の単行本の売上は累計3000万部を超えます。
また、
エッセイストとしても独特の視点と語り口で人気が高く、
初期エッセイ集三部作『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』はいずれもミリオンセラーを記録。
「平成の清少納言」と称されたことも。
愛称は「ももちゃん」。
エッセイの販促用の帯などでは、
『ちびまる子ちゃん』の「まる子」と同一人物として扱われることも。
(さくらももこ)
仁義なき戦い 菅原文太伝(松田美智子)
を読みました。
菅原文太は日本の史上最高の名優のひとりです。ただ、その全盛時は意外なほど短く1970年代に集約されますがその期間にまぶしいほどに燃え上がった人です。ショーケンとともに70年代の主役でした。
本作の著者松田美智子は松田優作の元妻だったとのこと、「はえー、じゃあ龍平や翔太の母親が文筆業で頑張ってるんか。探偵物語にも1話だけ出てたひとだよな」と思って検索したら彼女は前妻で龍平翔太は後妻の子でした。
本作は文太の少年時代から死後までを資料と関係者の証言を丹念に重ねたなかなか読み応えある労作です。
高倉健と菅原文太はほとんど年は変わりません。ただ、なかなか芽が出なくて表舞台に出てくるのが遅かった文太とエリート健さんは役者としてはひと世代違う。
健さんと文太はよく似てます。どちらもイメージとは大違いでいい加減にフラフラ生きてきていい加減な気持ちで役者になってその後もなんとなく役者を続けてとにかく大スターになった。
「もののはずみで生まれつき、もののはずみで生きてきた」というトラック野郎の歌詞は若年時代のふたりに似つかわしい。
大学を出席日数が足りず除籍になった若き文太はファッションモデルになり、女のヒモみたいなことやっててとりあえず映画界入り。新東宝で芽が出ず松竹に移り、松竹でも芽が出ず東映に移籍します。
当時の文太は「飢餓俳優」と言われていたといいます。ガツガツした狼のような目をぎょろつかせていたからでしょうけど、飢えていたからといってもそのためになんらかの努力をしていた形跡はありません。それどころか遅刻(前日の深酒で)の常習魔で、そもそもがそれがもとに役に恵まれてなかったとか。
とにかく東映に移ってから数年後、才能が大爆発する寸前だった監督深作欣二と邂逅。そして映画史上最高傑作のひとつ、「仁義なき戦い」を作り上げるようになります。
ありきたりな任侠映画に飽き飽きしていた深作欣二にとっても狼のような目とエネルギッシュなオーラをもつ文太はおのれのブレイクスルーにはなくてはならない人材だったようでふたりはともにでかくなっていきます。
文太は実録ヤクザ路線から脱皮し次なるステップとして鈴木則文監督と組んでお下劣ギャグと人情の映画「トラック野郎」シリーズを大ヒットさせます。
文太は遅刻癖は直らず、ていうかスターになった傲慢さが加わり余計に遅刻するようになりました。血の出るような努力で勝ち得た成功ではありません。生まれ持った資質です。重低音が魅力の声も、コメディアンとしてのセンスも。
菅原文太も、高倉健も、石原裕次郎も、みんなふらりと役者になって、スターになった。必死に頑張ってもなれないやつはスターになれないし、なんも努力してないのにスターになるやつはなる。役者とはそんなものです。
菅原文太と深作欣二のコンビはきれいごとの任侠映画を完全にオワコン(この言葉も死語同然とか・・・)にし、高倉健と鶴田浩二を東映から(結果として)追放しました。
しかし高倉健はそこからよみがえります。大作、話題作に出続け死ぬまで名優として君臨しました。
逆に菅原文太は1980年代が始まった途端に急激な失速。はっきりいってろくな映画に出てません。以前に「俺も健さんの幸福の黄色いハンカチみてえなのに出てえなあ」とは言ってましたが念願かない1982年にハンカチのドラマ版に出演。しかし、なんと相手役は泉ピン子。「おどりゃ腹くくってやっとるんか!!」とプロデューサーを殴っても当然のケースですがとにかく80年代以降の菅原文太は一貫して精彩を欠いています。
昔からそれが不思議でしたが本書を読んで推測されるのが以下の3点。
①人づきあいが悪いから人気がひと段落すると声がかからなくなった
②致命的に作品選びのセンスが悪い。なんでこんなもんに出たんだというのが多い。
③そもそもやる気が薄れた
①については文太は芸能界での評判は芳しくありません。悪事は行わないけど人づきあいが極めて悪い。著者は文太を知る関係者に聞ける限りインタビューを行っていますが、みんな文太の印象はぼんやりしている、いや、正直あまりよくない。
梅宮辰夫「正直あのひととは付き合いがないんですよ。」
三島ゆり子「お茶いっぱいおごってもらったこともない」
深作欣二とはともにヤクザ映画からの脱皮を機に以降一度も組んでないし、トラック野郎の監督鈴木則文とは絶縁。鬼龍院花子とかの宮尾登美子原作シリーズ80年代に花開いたプロデューサー日下部五郎はかつて文太に不義理を働かれたのをずっと根に持って文太には一切声をかけなかった。
いい人間関係を築けてなかったから盛りを過ぎた途端にあまり人が寄り付かなくなってもう一花咲かすことができなかったのでしょう。
とはいえ文太は徹底的に不人情で冷たい人間というわけではない。ボランティアには人一倍精を出す人でした。気に入った付き人にはとても親身にもなります。ある面で人情味に薄いところもあるしある面で温かいところもある、まあ誰しもそうでしょう。芸能界が体質的に合わなかったのかもしれない。
80年代に息子が俳優になりたいと言い出すと親ばか文太は自分そっちのけで息子のバックアップに励みます。息子のデビュー作は斉藤由貴主演の「恋する女たち」。好きな映画ですが彼に役者としての魅力は見出し難かった。
その後息子は役者をやめて、またもどってきましたが出演作すべてに何らかの形で文太が関わっています。呆れた親ばかぶりですが息子は交通事故で死んでしまう。
それでただでさえ薄かった芝居への情熱はほとんどなくなってしまったようです。
その後田舎に引っ越し、百姓をはじめ、最晩年は政治にかなりうるさい人になり、高倉健死去の数か月後に亡くなります。
政治にやかましくなったのはインテリの女房の影響が強かったようで、芸能界で旧知のひとに大概嫌われていたのも窓口となってる彼女が原因もあったようです。役者菅原文太の足をひっぱる女房だったかもしれないですが人間菅原文太の女房としてはとても良い妻で死ぬまで仲が良かったとか。役者として後半のキャリアは不遇でも最後まで寄り添ってくれた妻がいた文太は人間としては幸せだったかもしれません。
ただ、文太と縁を切った旧友たちも文太が晩年に役者に興味を失ったことを惜しみます。
まあやりたくなかったのは仕方ないですけどね。そこまでのひとだった、ということでしょうし高倉健との決定的な違いといえばそれまでです。
でも僕は風格で高倉健と並ぶのは菅原文太だけだったと思ってます。そして健さんや鶴田浩二同様横顔に哀愁を感じさせることができた。しかも文太にはこのふたりにはまるでなかったコメディの才能もあった。資質的に邦画史上ナンバーワンの役者ではなかったか、とすら思ってます。
だからこそやはり80年代以降の失速がいまさらながらに残念でならない。たらればの話ですが文太が人づきあいがよくて、健さん並みに作品選びが嗅覚があれば日本映画の歴史はまるで違ったものになったはずです。
安井昌二さん
(1928年8月16日-2014年3月3日)
俳優。
「劇団新派」所属。
東京府出身。
日本大学法文学部卒業。
長谷川一夫主宰の劇団・新演伎座、俳優座養成所(3期)を経て、
活動再開まもない日活映画の専属俳優となり
『月は上りぬ』(1955年、田中絹代監督)で映画デビュー。
これを機に芸名を四方正夫から、
役名の「安井昌二」へと改名。
1956年に市川崑監督の映画『ビルマの竪琴』の
主役・水島上等兵を演じたことで一躍人気を得ます。
1960年代以降はテレビや舞台へと活動拠点を移し、
妻・小田切みきと二人の娘四方正美、四方晴美と夫婦親子役で出演した
『パパの育児手帳』『チャコちゃん』などでお茶の間においても人気者に。
1963年に初代水谷八重子の相手役として新派公演へ招かれたのを機に度々客演し、
1968年に正式に新派へ入団。
初代八重子亡きあとは、
二代目水谷八重子、波乃久里子、菅原謙二と共に
「新派四本柱」として劇団を担い、
舞台を中心に活動を続けていました。
2014年3月3日午前9時、
急性心不全のため千葉県の自宅で死去。
85歳没。
(安井昌二)

♥️2023💃8/16 マドンナ(65歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/16 西田ひかる(51歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

『名もなく貧しく美しく』
 1961年度作品。モノクロ、シネマスコープ・サイズ、主演、高峰秀子、小林桂樹、共演、原泉、草苗光子、河内桃子、加山雄三他、撮影、玉井正夫、音楽、林光、脚本、監督、松山善三、上映時間128分。
 「清貧のススメ」のようなタイトルで聾啞者夫婦の物語とあってベタベタした感動の押し売り映画のような気がして食わず嫌いならぬ観ず嫌いのままで来てしまった作品だったが今回鑑賞してよかったと思った。
 松山善三第1回監督作品。不謹慎な言い方かも知れないがずるずると情緒的に引っ張る事なくテンポが速い展開でエンタテインメントとして楽しめた。
 喜びと悲しみがメリハリを持って交互に描かれるあたりさながらジェット・コースター・ムービーである。
 役者が皆いい。元々は松竹映画として企画を提出していたもののあまり当たりそうもないとしてOKが出なかったものを東宝の大プロデューサーの藤本真澄が引き受けたという経緯で製作された作品である。やはりどこかカラッと乾いた東宝カラーのようなものが感じられる。そこがいい。
 小林桂樹との組み合わせが絶妙である。高峰秀子のお母さんの原泉はお婆さん役者としてお馴染みだがこんなに出番が多くて良い役は他に見た事はなかった。姉の草苗光子は実際には年下のはずだが違和感なくこなしていたしピンポイントのような出演の河内桃子の先生も好印象であった。
 そして加山雄三がラストを爽やかに締めるかと思ったらまさかの展開となるのだがそれでも人生は続くというあくまで前向きの映画となっていると思えた。
 脚本とキャストで七割方決まったような映画かも知れないが僕は気に入った。名作であると思った。
 「キネマ旬報」誌1961年度ベストテン5位。

♥️💃8/16 大沢あかね(38歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

『とんび』
森重さんの小説は情が深い。1番はやっぱり「とんび」かな。
重松清のベストセラー小説を「ラーゲリより愛を込めて 」「糸」などの瀬々敬久監督が映画化。
主演は阿部寛、北村匠海の共演。
➖皆の暖かい手で僕は大人になった。
                                       これは僕と家族の物語➖
(あらすじ)
時代は昭和37年。三輪トラックを運転するヤス(阿部寛)。
けんかっ早くて酒とたばこが大好き。でも実は純情で一途。
だからみんなから愛されている。
ヤスは美佐子(麻生久美子)と結婚して、もうすぐ一児の父となる。
幼い頃に両親と離別したヤスにとって、自分の家庭を築くことはこの上ない憧れだった。
やがて息子のアキラが誕生したが、美佐子は事故で亡くなる。
親の愛が、分からないまま父になったヤスは、仲間たちに支えられながら、不器用に息子を愛し育て続ける。
それに、誰も語ろうとしない母の死の真相を知りたがるアキラに、ヤスは大きな嘘をついた。
時は流れ、高校3年生になったアキラは、東京の大学を目指し合格。
ヤスは、別居の寂しさを素直に伝えられなくて、
「一人前になるまで帰って来るな!」とアキラを突き放す。
昭和63年、久々に再会したヤスと大人になったアキラ──。
不器用な阿部さん。
多分、素でもあんな感じなのかな(笑)
真相を知らないアキラは、何かにつけて親父につっかかるし。
親父っていうものを知らないから、自分が親になっても自信もなく、あたふたとしてるヤス。
(怒ってみるんだけど、子供に反発されると、
怒る自分が悪い?と自分で自分の顔を殴り続けて、
息子がドン引きしたり(笑)
とんびが鷹を産んだ‼️と言われてたけど。
とんびもタカ科。よく似た優しい親子だと思う。
ドラマの内野聖陽さん、堤真一さんのヤスさん、見事でした。
映画の中で、鳥が二羽飛んでいく。鷹?とんび?(笑)

♥️2023💃8/16 ダルビッシュ有(37歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

なめてんじゃないわよ❗真剣にやりなさいよ❗
映画もドラマも‼️
「熱帯夜」撮影中、松田優作さんが、映画にこだわりすぎて、TVドラマを辞めてる ! と感じた
桃井かおりさんが、優作さんを一喝‼️
文学座の先輩に言われるとねぇ〜😅 優作さん
心を入れ替えて頑張ったみたいです😁
松田優作さんに、こんなコト言えるのは、桃井かおりさんだけでしょうね😁
映画:『もう頬づえはつかない』
ドラマ:『男たちの旅路』
私の中での桃井かおりベストです🕺
菅原文太さん
(1933年8月16日-2014年11月28日)
俳優・声優・ラジオパーソナリティ・農業従事者。
身長178cm。
キャリアを始めた時は、その身長を活かしファッションモデルとして活躍。
その後の俳優としての出演作品は非常に多く、
映画のシリーズものとしては具体的には
「現代やくざシリーズ」、『関東テキヤ一家』シリーズ、『まむしの兄弟』シリーズ、『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズなど。
俳優としていわゆる「下積み」の時代が長かったですが、
39歳の時に公開された映画『仁義なき戦い』の大ヒットで有名になり、
俳優としての地位を確立。
特に
『仁義なき戦い』シリーズと『トラック野郎』シリーズは大人気シリーズとなり一世を風靡。
『太陽を盗んだ男』の演技により、
1980年、
第3回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。
テレビドラマでも活躍し、
NHKの大河ドラマにも複数出演)、
『獅子の時代』では主人公の平沼銑次を演じました。
劇場版アニメ『千と千尋の神隠し』や『ゲド戦記』にも声で出演。
60代に入ると
田舎暮らしや農業へと関心が向かい、
1998年には岐阜県大野郡清見村(現・高山市)に移住、
2009年から山梨県へ移り農業生産法人「竜土自然農園おひさまの里」を設立し、
農産物の生産に従事。
有機農業に取り組み、食の安全や命の大切さを人々に訴えました。
愛称は文ちゃん・文太兄い。
 
(菅原文太)
沢村貞子さん
(1908年11月11日-1996年8月16日)
女優、随筆家。
生涯に350本以上の映画に出演し、
幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍。
日本女子大学在学中に新築地劇団へ入り、
左翼演劇運動に加わって2度逮捕。
その後日活に入社して映画女優となり、
東宝を経て戦後はフリー。
エッセイストとしても知られ、
半生記『貝のうた』『私の浅草』などを発表。
[著名な家族]
父:竹芝傳蔵
姉:矢島せい子
兄:四代目澤村國太郎
弟:加東大介
甥:長門裕之
甥:津川雅彦
姪:加藤勢津子
(沢村貞子)
♥️2023💃8/16 菅原文太😎🖤
天国にてHappy birthday🎂🥂🎁🎉🎊💐👏♥️

♥️2023💃8/17 戸田恵梨香(35歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

浜木綿子さん香川照之さん
親子

♥️2023💃8/17 ロバート・デ・ニーロ(80歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/17 赤井英和(64歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

1972年11月に日本デビュー⭐アグネス・チャン⭐英国領だった時代の香港出身。

♥️2023💃8/17 華原朋美(49歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/17 蒼井優(38歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

瑞穂埠頭✨ 
創業1954年
橋の向こうはアメリカ

♥️2023💃8/18 名取裕子(66歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/18 いとうまい子(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

山口百恵さん主演ドラマ赤いシリーズ
赤い迷路1974年10月~全26話
赤い疑惑1975年10月~全26話
赤い運命1976年4月~全28話
赤い衝撃1976年11月~全29話

♥️2023💃8/18 中居正広(51歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/18 清原和博(56歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/18 ロバート・レッドフォード(87歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/18 柴田恭平(72歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

懐かしい大好きな…番組でした🥰😅【毎度 おさわがせします】 現在では、NGになろうかと思うような マセたドラマでしたねぇ🤣🥰✌

中学時代に運転手していた旧ミツルハナガタ2000は9人乗りなのだ!
 
そういえばミツルハナガタ2000は花形が阪神に入団した記念?に製造されたものです
ちなみに下の画像でバットを持ってるのは高校時代の王貞治です

アダモちゃん ぺぃ!

トレンディドラマの走りでしたね…