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Vシネ🚛デコトラ・ギャル奈美🚛主演は,

❤吉沢明歩・さん❤

解説

伝説のトラック野郎だった亡き父のデコトラ(派手な絵やイルミネーションなどで飾り付けたトラック)を受け継いだ奈美は、威勢のいい性格と確かな腕前で、荷主たちにも大人気だった。そんな奈美を慕って、トラッカー相手に身体を売って生きている桃香は「まじめに生きたい!」と、奈美のトラックに乗り込んでくる。しかしある日、思いも寄らない事件に2人は巻き込まれてしまい……。監督・脚本は「ガチバン」の城定秀夫。

キャスト

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スタッフ

監督

脚本

撮影

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作品データ

製作年 2008年
製作国 日本
配給 SPOTTED PRODUCTION
上映時間 80分
山岡久乃さん
(1926年8月27日-1999年2月15日)
女優。
東京府東京市大森区馬込生まれ。
身長162cm、体重49kg。
趣味は乗馬、手芸。
特技はスキー。
生涯のテレビドラマ本数は400本以上。
1942年、33期生として宝塚音楽舞踊学校に入学。
男役志望で、
清澄あきらの芸名も予定していましたが、
太平洋戦争が勃発・進展により劇団生活に限界を感じ、
一度も舞台に立つことなく1944年に音楽学校を中途退学。
終戦後改めて俳優座養成所で演技の勉強をしなおし、
1946年に俳優座入団、
同年の『文化議員』で初舞台。
初出演映画は1953年の『やっさもっさ』。
1954年には、
同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子、初井言榮らとともに劇団青年座を結成。
その後、
日活と専属契約を結び多くの映画に出演し、
青年座創生期は屋台骨として、劇団を支えます。
以来、
舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍。
1956年、
同じ青年座創立メンバーだった俳優・森塚敏と結婚するも、1971年に離婚。
離婚と同年、青年座を退団。
その後は終世独身を通しました。
テレビドラマ初出演は、
1953年、NHK『竜舌蘭の誓い』。
以後、脇役を中心に、
多くのテレビドラマに出演する傍ら、
契約が切れる1960年代中盤まで日活の映画にも数多く出演。
1966年には、
主演映画『こころの山脈』も公開され、
女優としてステップアップしていきました。
1970年の『ありがとう』で役者としての人気を決定付けます(娘役は水前寺清子でした)。
ドラマは水前寺とのコンビがうけ、
視聴率50%を突破して「怪物ドラマ」と呼ばれました(この作品を契機に森光子や加藤治子や京塚昌子らとともに、白い割烹着が似合う「日本を代表するお母さん女優」として地位を確立)。
以後、
多くのホームドラマで母親役を演じ続けて
「日本のお母さん」として慕われました(特にTBS系列のホームドラマで演じる役柄は人気が高く、代表作といえるものも多数)。
面倒見の良さ、
事務所の掃除員やスタッフへ手料理を振舞うなど気前も良く、
「お母さん」と慕われていました。
森繁久彌とのコンビによる作品も多く製作されており、
左とん平からは「(芸能界の大御所である)森繁先生を叱れるのは山岡さんしかいなかった」
とコメントされていました。
「準主役級の脇役」としての印象が強いですが、
1970年代以降は主演が多数。
また二時間ドラマの主演も多数。
TBS火曜9時枠の連続ドラマには、
1972年10月~1973年9月の『みんなで7人』(この作品のみ9時30分からの放送)から
1976年9月~1977年4月の『三男三女婿一匹(第1シリーズ)』まで、
途切れることなく連続して出演。
このうち
『みんなで7人』、
『家族あわせ』(1974年10月〜1975年3月)、『いごこち満点』(1976年4月~9月)はトップクレジットの主演作で、
『あんたがたどこさ(第1シリーズ)』(1973年10月~1974年3月)、
『あんたがたどこさ(第2シリーズ)』(1975年4月~9月)、
『三男三女婿一匹(第1シリーズ)』の3作は、
森繁久彌との夫婦役で森繁に次ぐ準主役での出演。
山村聡、森繁久彌、三國連太郎、小林桂樹、藤岡琢也と夫婦役を演じた事も。
森光子をはじめ、
杉村春子、山田五十鈴、加藤治子、赤木春恵、杉山とく子、佐々木すみ江、奈良岡朋子、八千草薫、香川京子、河内桃子、黒柳徹子、草笛光子、池内淳子、若尾文子らとは共演が多数。
また、
黒柳や池内、三崎千恵子などとも交流がありました。
石井ふく子・橋田壽賀子が関係する作品に起用される機会が多かったため
「石井ファミリー(橋田組)」の筆頭格と見なさせていました。
『ミス・マープル』シリーズの吹き替えも好評であり、
新劇出身であることを改めて印象付けました。
1998年10月1日、
晩年の代表作とも言える1990年から続いてきたドラマ
『渡る世間は鬼ばかり』シリーズの主演・岡倉節子役を降板。
番組の顔とも言える山岡の突然の降板劇は、
山岡演じる節子は「海外旅行先で急死した」という設定で、
劇中一度も顔や声が登場しないままの降板となった世間で数々の臆測を呼びました。
TBSは山岡の降板にあたり、
異例の「山岡降板説明記者会見」をマスコミに対して開いています。
これに伴い、小島五月役の泉ピン子が主役に昇格。
ちなみに、山岡は第3シリーズ放送終了後、
1997年国際演劇月参加作品東宝現代劇5・6月特別公演「渡る世間は鬼ばかり3」の舞台版まで
岡倉節子役を演じており、
岡倉節子役を最後に演じたのはテレビではなくこの舞台公演。
1997年6月29日の国際演劇月参加作品東宝現代劇での公演が岡倉節子を演じた最後の公演。
これと時を同じくして、
東京にあった住まいを引き払い、
愛知県豊田市に知人が開設する予定を立てていた老人ホームに「終の棲家」として入所することを決めており、
引っ越しの準備もパート3が放送された時期には既に始めていたといいます(その際、財産整理という意味合いから姪と養子縁組を結んでいる)。
第3シリーズ放送終了直前の1997年2月に、
総胆管結石及び肝機能障害のため体調を崩し、
渡鬼の撮影を全て撮り終えた3月に手術を受けましたが、
7月には胆管癌(ステージ4)を宣告。
しかし、山岡はドラマと舞台の仕事が事前に決まっていたものに関しては予定通り出演を続け、
1998年2月の日生劇場での舞台「おもろい女」(森光子や芦屋雁之助らと共演)が生涯最後の仕事に。
黄疸を化粧で隠し、
病状が悪化するなか千秋楽まで演じきり、
その後は闘病に入って表舞台から姿を消しました。
1998年12月、
自らが胆管癌を患っていることを告白。
この発表を聞いた橋田はそれまでの自分の発言を悔い、
神社へお百度参りし、山岡の回復を祈ったといいます。
しかし、
コメント発表から僅か2ヶ月後の1999年2月15日午後10時02分、
胆管癌による心不全のため、
親族や池内淳子、長山藍子、石井ふく子らに看取られ神奈川県川崎市の病院で死去。
(山岡久乃)
ツイスト、世良公則とツイスト
1977年デビュー
高校時代のロックバンド活動から全員が同じ大阪の大学へ、世良公則、当初はベース担当だったようですがボーカル交代した方がいいとアドバイスされ世良がボーカルへ。
交代させられた方もよく納得して続いたなあ。
大学卒業前の記念に出たヤマハのポプコンで「あんたのバラード」がグランプリ。
勢いそのまま世界歌謡祭に出てグランプリ。すごい!
しっとり歌い上げるバラードじゃなく派手なアクションとワイルドな声量。衝撃でしたね。
プロの誘いに世良ともう1人以外は脱退、新たにメンバーいれて世良公則とツイストとしてデビュー。
当時の「ザ・ベストテン」や音楽番組全盛の波に乗りトップスターに。
カッコ良かったです。
ベイシティ・ローラーズのようなサラサラヘアだがヤワさが無くギラギラした男くささに野太いハスキーな声と派手なアクション。泥くさいナニワブルースのサウンド。初期のグループは77年デビューから4年ほどで解散。
ちなみに僕は「性(さが)」が好きですね
「しらふでいれるほど大人の恋じゃないワ」
青くさい頃の僕には大人の恋はまだまだ先のシブい歌詞。
https://youtu.be/-jqRa-SQCxo
 
【超特急・あじあ号】
*南満州鉄道(満鉄)が昭和9年(1934年)から昭和18年(1943年)まで日本の租借地である大連駅と満州国のハルピン駅間の950kmを運行していた超特急列車である
最高速度130km,平均70~80km
*列車は流線型のパシナ型蒸気機関車と客車/食堂車/展望車の7両編成である。
*食堂車は4人掛けと2人掛けのテーブル各6卓づつ定員36名で配置された。ウェートレスは金髪美人のロシア人も採用される
(ハルピン在住で日本語堪能者)
*最後尾の展望車1等は豪華な安楽イスゃソファー(定員12名)でくつろぎながら満州の広野を眺めて楽しめるサロンになっていた!
*全車両エアコンが効いた超特急「あじあ号」は…当時の日本鉄道技術によって設計/製作された最高水準のロマンに溢れる夢の超特急であった!
*戦後は「新幹線計画」へと繫がり、東京オリンピック大会が開催された昭和39年(1964年)10月1日に「東海道新幹線」が開通!今ゃ日本国中に新幹線網が敷設される時代に!!
🟣昭和の太陽にほえろ🌸🌸🌸
🔴殉職、1985、ラガー刑事‼
️🔵渡辺徹、痩せていてカッコ良かったんですよね‼️

来年2024の3月一杯で笑点を卒業する

林家 木久扇さん

♥️2023💃8/29 イングリッド・バーグマン(67歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

田崎潤さん
(1913年8月28日-1985年10月18日)
俳優。
青森県青森市出身。
父は公務員。
地元の小学校から県立青森商業に進学し、
1932年に卒業。
1933年、地方巡業の役者となり各地を回り、
1935年、
森川信らのレヴュー劇団ピエル・ボーイズに入団。
1936年に退団後は中国の上海にわたり、
劇場の踊りの振付師を務めました。
1937年、
帰国して名古屋の劇団に身を寄せますが、まもなく応召。
1938年に除隊し、
1939年に毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。
1942年、
かつてピエル・ボーイズで一緒だった清水金一や堺駿二らと新生喜劇座を結成、
以後は本名で舞台に立ちますが、
座長である清水の横暴振りから不満を抱き堺と共に退団。
水の江瀧子主宰の劇団たんぽぽに堺や有島一郎と共に入団し、
軽演劇の舞台に出演を続けますが、
1944年に再び応召、終戦まで軍隊生活は続きます。
1947年、たんぽぽに戻るも、
戦前のスター・松山宗三郎こと小崎政房がいた空気座に移り、
原作・田村泰次郎、
脚色・小沢不二夫、
演出・小崎による舞台『肉体の門』に
娼婦たちと共に廃屋に同居する復員兵・伊吹新太郎役を演じます。
センセーショナルな内容を描いた舞台は大評判を呼び、
1948年、
マキノ雅弘監督によって映画化される際、
舞台と同役にキャスティングされ、映画デビュー。
これをきっかけに新東宝に入社。
1950年、
新東宝の大作『細雪』に出演する際、
芸名を田崎潤に変えました。
芸名の由来は本名の田の字と
『細雪』の原作者谷崎潤一郎の崎潤とを組み合わせました。
1951年には『オール讀物』に連載が始まったばかりの村上元三の小説『次郎長三国志』を読んで、
作中人物・桶屋の鬼吉を自ら演じたくてマキノ雅弘監督に映画化の企画を持ち込み、
この『次郎長三国志』は東宝映画でシリーズ映画化され、
東宝のドル箱シリーズに。
1960年代からは東宝を中心に、
黒澤作品からゴジラシリーズなどの特撮・怪獣映画、戦争映画に至るまで、
数多くの作品に出演。
力強い顔立ちで強烈な存在感を残す役どころが多数。
中でも
1957年の新東宝の大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』での東郷平八郎連合艦隊司令長官や、
1963年の東宝特撮映画『海底軍艦』の神宮寺大佐、
1967年の東宝35周年記念映画『日本のいちばん長い日』の小園安名大佐など、
叩き上げの軍人役に実績があります。
テレビドラマでも、
頑固な親父役から凄みのある悪役まで、
幅広い役柄を演じています。
主演作は300本以上。
NHKのクイズ・ゲーム番組『連想ゲーム』のレギュラー回答者でもおなじみでした。
テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の原作者である作家、馬場信浩は
1975年頃、俳優修行を田崎の元で行っていました。
その後、日仏合作映画・『乱』のロケに参加。
1984年11月に肺癌と診断されるも
盟友・黒澤明の声に出して応える為に無理を承知でロケに参加し見事演じ切りました。
収録終了後、
玉川病院に入院するも癌は末期に達していて、
1985年10月18日午前3時18分に同病院で死去(享年72歳)。
(田崎潤)
お疲れさまです
増山江威子さん
この方の声が好きなんです👏
不二子やハニーみたいな
セクシーで強い女性キャラの声をされ💕
また、ママやお局様さまのような感じも
個人的には天才バカボンが大好きなので
増山さんと言えばママなんです😊
岸部四郎さん
(1949年6月7日-2020年8月28日)
タレント、俳優、司会者、実業家。
身長187cm。
京都府京都市出身。
父は元憲兵。
兄は同じくザ・タイガースのメンバーであった岸部一徳。
甥に一徳の長男である岸部大輔。
京都市立近衛中学校卒業。
中学卒業後に印刷会社へ就職。
のちに退職しバンドボーイに。
タイガースのデビュー後に
しばらく音楽面でのアドバイザーを務めたあと、
メンバーと渡辺プロダクションの援助で
1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、
留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。
1969年(昭和44年)3月、
タイガースから加橋かつみが脱退したため、
兄・一徳からの電話によって呼び戻され、新メンバーに。
加橋の後釜としてギターを担当するも、
加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていました。
また、
タンバリンを演奏したり、加橋のヴォーカルパートを引き継きます。
岸部が楽器経験無しでもタイガースに必要とされたのは、
渡辺プロダクションが書いた“グループの危機を、一徳の弟が救う”
という筋書きのためと言われています。
岸部の加入により、
タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、
ステージのレパートリーではフォークソングやハードロックを取り入れるなど
積極的にイメージチェンジを図り、
それまでの
「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。
あえて積極的に近畿方言を話し、
また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを1970年頃から着用しだし、
以後トレードマークに。
話術で実力を発揮し、
京都出身の岸部がボソッとつぶやく関西弁がウケたことから、
その後タイガースのライブでトークコーナーが設けられ、
司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで
次第に好評を得た岸部は、
その気さくなキャラクター性が受け入れられ、
単独でのTV出演を果たします。
ステージでは主に
『花の首飾り』『ホリデイ』など
それまで加橋がソロを担当していた曲に加え、
ドノヴァンなどのフォークソングも得意としました。
また1970年(昭和45年)には
岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。
このころには、
ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっており、
同年8月22日の田園コロシアムにおけるコンサートや、
1971年(昭和46年)1月24日の日本武道館での解散公演では、
実際に演奏しているのが映像から確認されます。
タイガース解散後(この頃に最初の妻と結婚)も
岸部の人気は衰えず、
1971年(昭和46年)、
ブレッド&バターに合流した後、
当時所属していた渡辺プロ(現:ワタナベエンターテインメント)の
ザ・ピーナッツ、天地真理などのステージで司会や、
当時ブームとなった青春ドラマなどの俳優として活動。
以降つかみどころのない独特の存在感を魅力に、
役者として様々なドラマや映画に出演するように。
1978年(昭和53年)、
テレビドラマ『西遊記』(日本テレビ系列)に出演し、
関西弁を話す飄々とした沙悟浄役で注目されます。
1984年(昭和59年)10月から、
沢田亜矢子の後任として『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系列)の司会に抜擢。
同番組では“口数は少ないが淡々と進行する”スタイルで司会をしており、
これは本人なりのポリシーでした。
その後、1998年4月まで13年半にわたって担当。
1994年(平成6年)渡辺プロダクションから独立と再婚を機に
本名の「四郎」に改名。
生来貯金が苦手なうえに、
人のよさが過ぎ連帯保証人を次々に引き受けたこと、
自身も浪費癖があったこと、
事業欲から無謀な挑戦(ヘリコプターのヘリコミューター、アメリカのディスコ買収等)を繰り返したこと、
芸妓たちとのお茶屋遊びに興じたことなどで多額の負債を抱えました。
税理士の調査の結果、
借金が1億円におよんでいたことが発覚(婦人公論のインタビュー記事によると実際は5億2000万円、『大御所ジャパン!』によると事業失敗で約20億円)。
自己破産に陥りました。
その影響で、
1998年(平成10年)4月6日に突如『ルックルックこんにちは』を自主降板し、
所属事務所からも解雇され、
芸能活動自粛を余儀なくされます。
翌年3月に破産宣告を受けました。
自己破産以降、
その自虐的な出来事を売りものにして、バラエティ番組に出演することが多くなります(ただしレギュラー番組を持つには至らず)。
「オレを誰や思てんねん! 元・金持ちやぞっ!!」など、自虐的な台詞もいとわず。
『めちゃ2イケてるッ!』ではそれが顕著で、
沙悟浄役であったことをネタにきゅうりで釣られたりしています。
2003年(平成15年)に脳内出血で倒れ、緊急入院。
生死の境をさまようも一命を取りとめ、その後退院。
この後遺症で視野狭窄を患い、
右目の視野が3分の1しかないことを自身のブログで告白。
2005年(平成17年)、
ドラマ『電車男』に主役の伊藤淳史の父親役で出演したころから、
旧芸名も使うように。
彼が詐欺師役で出演したドラマ『クロサギ』の最終話では、
かつての自己破産経験を思わせる台詞を発しています。
2007年(平成19年)4月6日、
妻が心臓発作により急死。43歳没。
同年9月11日発売の週刊女性のインタビューに応じて胸中を語りました。
2008年(平成20年)、
12012のシングル「MERRY GO WORLD」のPVに出演。
2009年(平成21年)、
身体の身動きが取れなくなり、
救急車を呼んで入院。
このころから体調が悪化し、メディアへの露出が困難に。
2011年(平成23年)4月16日、
フジテレビONEで『岸部のロック』という、
自らのロック体験を語る番組に出演。
2012年(平成24年)1月24日、
沢田研二ライブツアー最終日の日本武道館公演に車椅子姿で登場、
第2期ザ・タイガースメンバーが見守る中で『若葉のころ』を歌唱。
2012年(平成24年)12月、
『情報ライブ ミヤネ屋』に出演。
同年2月に骨折で入院し、
手術を受けて以降老人ホームで暮らす様子が映されました。
芸能活動からは事実上引退に。
2013年(平成25年)12月27日、
ザ・タイガースライブツアー最終日の東京ドーム公演に再び車椅子姿で登場、
他のタイガースメンバーが見守る中で『イエスタデイ』を歌唱し、
これによって、
結成以来初めてタイガースの全てのメンバーが揃うことに。
2014年(平成26年)11月21日、
新橋ヤクルトホールで行われた「森本太郎とスーパースター再結成15周年コンサート」に、
兄の一徳、甥の大輔とともにゲスト出演。
一徳らの演奏に合わせて歌声を披露したのが、
公の場で見せた最後の姿となりました。
2020年(令和2年)8月28日、
拡張型心筋症による急性心不全のため千葉県内の病院で死去。
71歳没。
(岸部四郎)
伊吹剛さん
(1949年8月28日-)俳優。
身長177cm。
岡山県小田郡矢掛町出身。
岡山県立笠岡商業高等学校卒業後、
京都の会社に就職。
一年上の先輩とともに場外馬券場に行った時に大映ニューフェイスの募集ポスターを見つけ、
撮影見学が出来ると思い応募したところ合格。
大映京都撮影所第6期ニューフェイスとしてデビュー。
同期は東京撮影所に採用された速水亮がおり、
速水とは1971年の映画『海兵四号生徒』で、
ともに本映画で重要な役柄となる海軍の模範生徒役に抜擢。
大映の倒産後は俳優を辞めることも考えましたが、
建設会社で働きながら活動を続けました。
当時『木枯し紋次郎』のオープニングで中村敦夫の吹き替えを演じたことも。
その後は主に関西で活動し、
NHK朝の連続テレビ小説『火の国に』出演を機に芸名を「伊吹剛」に改めます。
それを観た当時の東映プロデューサー・近藤照男の目に留まり『Gメン'75』のレギュラーに抜擢。
中屋刑事役で第105話から第306話まで出演。
また『Gメン』後半には
『斬り捨て御免!』『鬼平犯科帳』にレギュラー出演し、
京都と大船との往復が続いたため疲労困憊状態になり、
居眠り運転で危うく死にかけたことも。
『Gメン』降板後は時代劇の出演がメインとなり、
京都での仕事が増加。
これは刑事役のイメージが強いため、
髷を被った方がイメージが変わるだろうという思惑からとのこと。
特撮テレビドラマに何度かゲスト出演していますが、
『Gメン』で監督を務めていた堀長文から乞われての出演でした。
『仮面ライダーBLACK』に出演した際は、
鳥羽一郎の息子から尊敬されたといいます。
近年は時代劇で悪役、善役に出演し、
Vシネマでは暴力団幹部役を多く演じています。
特技は、柔道・乗馬。
(伊吹剛)

♥️2023💃8/29 マイケル・ジャクソン(50歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

11PM❗日テレ。大阪よみうりテレビ
月曜日〜金曜日
大橋巨泉、藤本義一、愛川欽也、
他のMC
三枝成彰、吉田照美、高田純次、江本孟紀
村野武範他
朝丘雪路、安藤孝子、遥洋子、
アシスタントやカバーガールに有名人続出❗
かたせ梨乃
松岡きっこ
朝倉匠子
松居一代
真理アンヌ
「仁義なき戦い」
松方弘樹さん 好きでした🎵
一番心に残ってるのは完結篇の市岡輝吉✨✨✨
坂井鉄也も良かったですけど…
「ここらへんの店、そそろもぞろにしちゃれ!!!」
どーゆう意味だったんでしょう?(笑)
45年前の本日1978年(昭和53年)8月30日、巨人王貞治は後楽園球場の対大洋23回戦で通算800号ホームランを放つ。
前年の756号フィーバーにも劣らない800号フィーバーが日本中を席巻する。
しかし前年、と言うよりそれまでの王の記念のホームランと決定的に違ったのはこの試合巨人が逆転負けしたこと。それまでは区切りのホームラン、そしてルースを破る715号、アーロンを破る756号などすべてチームは勝っていたのだが、初めて勝利で飾れない記念のホームランに。
負けてヒーローインタビューと言うのは王も戸惑いを隠せず。実は最終打席は9回2死満塁一打サヨナラのチャンスだったのだが凡退。
この敗戦はチームにも大きく響き、ヤクルトに逆転され長島巨人がV3を逃すきっかけにもなった。ホームラン王争いもこの時点で王は田淵・ギャレットに3本差に迫ったが、最終的にタイトルは山本浩二に。

♥️2023💃8/30 キャメロン・ディアス(51歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

昔は古銭収集をしてました🥰🐼❤️

昭和時代、日本の俳優さんの出演映画を色々書いてた
雑誌です🥰🐼❤️
ウルトラマシンの投稿があったので思いだしました。😃
ウルトラハンド
低価格だったので買ってもらいました。
でも重い物はつかめません。😅
今の子供。まったく興味ないよね。😂😂
ホワッツマイケル
楽しかったね😃💕🎶🙏
井上陽水さん
(1948年8月30日-)
シンガーソングライター。
福岡県嘉穂郡幸袋町(現:福岡県飯塚市幸袋)生まれ・福岡県田川郡糸田町育ち。
身長180cm。
1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビュー。
1971年に本名の井上陽水として再デビュー。
1970年代には吉田拓郎と並んでフォーク、ニュー・ミュージック界を牽引。
その後も現在に至るまで第一線で活躍を続ける、
日本を代表するシンガー・ソングライターの一人。
2人目の妻・石川セリとの間に1男2女をもうけました。
長女は作詞家・歌手の依布サラサ。
(井上陽水)
月形龍之介さん
(1902年3月18日-1970年8月30日)俳優。
俳優の月形哲之介は息子。
戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、
阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫
とともに「七剣聖」と呼ばれました。
戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、
伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演。
戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じました。
戦後の当たり役は水戸光圀で、14本のシリーズ作品があります。
晩年はテレビドラマにも出演。
生涯に出演した映画は約500本以上。
宮城県遠田郡小牛田村(現在の美里町)に
父・政司郎、母・ちとせの次男として誕生。
1906年(明治39年)、
北海道岩見沢町で橘屋という劇場を経営していた叔父・門田養吉の養子となり、
成長すると活動写真や芝居に親しむように。
1914年(大正3年)、
岩見沢尋常高等小学校を1年で中退し、雑貨屋に奉公。
1916年(大正5年)、
橘屋が焼失して東京に出ていた叔父を頼って上京し、旧制荏原中学に入学。
剣道が得意で、三段の腕前だったといいます。
しかし、
女学生と恋愛問題を起こして中退することになり、
その後は三田英語学校に転学。
1917年(大正6年)、
東京電機に入社したのを経て、
1918年(大正7年)に幡ケ谷のタングステン工場に勤めるも、
翌1919年(大正8年)に恋愛関係にあった志村サトと駆け落ち同然で京都へ行き、
自活をするため映画俳優を志すように。
1920年(大正9年)6月、
牧野省三が設立した日活関西撮影所俳優養成所に第1期生として入り、
中村東鬼蔵を芸名に。
9月公開の尾上松之助主演『仙石権兵衛』での端役が映画デビュー作となり、
同年には志村サトと結婚。
翌1921年(大正10年)、
牧野の日活退社とともに養成所も解散。
中村末之助一座に加わって地方巡業を行い、
市川左莚次の付き人をしましたが、
心臓脚気で一座を抜けて京都に帰っています。
1922年(大正11年)、
牧野教育映画製作所に入社、端役として出演した後、
1923年(大正12年)にマキノ映画製作所等持院撮影所に入社。
阪東妻三郎主演の『鮮血の手形』や『燃ゆる渦巻』などに端役で出演し、
『栗飯の焚ける間』で高木と共演。
次第に頭角を現し、
1924年(大正13年)に『黒母坂』の敵役で牧野に認められ、出世作に。
この頃に門田東鬼蔵と改名し、
7月公開の『討たるゝ者』(阪妻主演)で準主演。
同作公開後に寿々喜多呂九平が名付け親となり、
月形龍之介に改名。
同年8月、マキノは東亜キネマに吸収合併され、
同社で『復讐の日』で阪妻と共演後、
沼田紅緑監督『刃光』で初主演。
1925年(大正14年)6月、
牧野は東亜キネマから独立してマキノ・プロダクションを設立、
月形もそこへ移り、
『修羅八荒』『裁かるゝ者』『転落』などに主演、
市川右太衛門と「マキノを担う両星」と謳われました。
しかし1926年(大正15年)、
妻子ある身でありながら、
作品で何度も共演してきたマキノ輝子と不倫し、
駆け落ちをした挙句、一女を儲けています。
これでマキノを一時解雇され、映画界を去りましたが、
直木三十五らが間に立って、
同年12月に輝子と別れてマキノに復社。
東京のスタジオで撮った『涙』が復帰第1作に。
1928年(昭和3年)、
『忠魂義烈 実録忠臣蔵』で清水一角を演じた後、
3月にマキノを退社し、
マキノとの配給提携を条件にツキガタプロダクションを設立(会社登記のミスで正式にはプロタクション)、
芸名も月形陽候に改名。
プロダクションには井上金太郎や悪麗之助らも参加。
同プロでは全部で8本の作品を製作しましたが、
翌1929年(昭和4年)、
『剣士・沖田総司』を終作にプロダクションを解散。
松竹と実演契約を結び、
一党を引き連れて松竹系劇場を巡演後、
8月に一党と松竹下加茂撮影所に入社。
芸名も月形龍之介に戻し、
自らの企画で
『斬人斬馬剣』『白野弁十郎』『弥藤太昇天』に主演。
中でも伊藤大輔が監督した『斬人斬馬剣』は、
百姓一揆を真正面から扱った作品で、
「傾向映画」の代表作として名作との呼び声が高い作品。
1931年(昭和6年)5月、
トーキー映画の製作を目指して再び独立、
月形プロダクションを立ち上げ、
奈良県の生駒山に撮影所を構えました。
第1作は直木原作・冬島泰三監督の『舶来文明街』ですが、
映音システムの録音機の不備でパート・トーキーとなり、興行的にも失敗。
しかし、キネマ旬報ベストテンに第5位でランクインされるという、高評価を得ています。
翌1932年(昭和7年)には
オール・トーキーで『暁の市街戦』を製作するも、
この2作で15万円の負債を抱え、
プロダクションは解散。
同年5月、東活映画社に入社し、
5本の作品に出演するも、10月に同社は解散。
その後は日本における映画俳優のフリー契約者第1号として、
1933年(昭和8年)に片岡千恵蔵プロダクションに招かれ、
伊藤監督『堀田隼人』の家老・千坂兵部役で助演。
同年、
南光明、浅香新八郎らと日本フリーランサー協会を結成。
志波青果が興した朝日映画連盟で2作に出演後、
12月に新興キネマへ入り、
入江ぷろだくしょん提携作『神風連』で入江たか子を相手役に主演。
1935年(昭和10年)、再びフリーとなり、
同年10月にマキノトーキー製作所に参加。
同社第1回作品の『江戸噺鼠小僧』は月形が原作を書いた作品。
1936年(昭和11年)、
P.C.L映画製作所の『桃中軒雲右衛門』に主演。
同年6月、マキノトーキーを退社し、
1937年(昭和12年)5月に日活京都撮影所に入社。
主演作も多いですが、
片岡千恵蔵や嵐寛寿郎との共演作も多数。
1940年(昭和15年)公開の『宮本武蔵』では、佐々木小次郎を演じた(武蔵は片岡千恵蔵)。
同年12月日活を退社し、またフリーに。
1942年(昭和17年)4月、大映に入社。
この頃から脇役を演じることが多くなり、
黒澤明監督の『姿三四郎』で檜垣源之助、
稲垣浩監督の『無法松の一生』で結城重蔵を演じ、
重厚な演技で場面を引き締めることに貢献。
戦後、GHQによって剣戟映画が禁止され、
現代劇に出演するようになり、
1949年(昭和24年)公開の『透明人間現わる』では、
あらゆる物質を透明にしてしまう薬品を開発した科学者という、
それまでに経験したことがない役どころを演じており、
実年齢より大幅に上まわるこの老け役に、
抑えた重みのある演技で謎めいた雰囲気を付加することに成功。
同年、東横映画に入り、
脇役として活躍する一方で後進の指導にも当たります。
1951年(昭和26年)、
東横映画と太泉映画が東京映画配給に吸収合併され、
東映株式会社に商号変更。
月形は東映京都撮影所に入り、
片岡千恵蔵と市川右太衛門に続く東映時代劇の重鎮として活躍。
新参者でありながら仲間からは
「おっさん」「ガタさん」などのあだ名で呼ばれて親しまれました。
月形は実際に老けて見えたので、
この頃から老人役が増えていきました。
1954年(昭和29年)からは『水戸黄門漫遊記』シリーズで水戸黄門を演じ、
今日の水戸黄門のイメージを定着させました。
他にも
大久保彦左衛門、
『大菩薩峠』の裏宿の七兵衛、
『新吾十番勝負』の武田一真などを演じて評判を呼びました。
また、
悪役も多く演じ歴代最高の吉良上野介でもありました。
晩年は
撮影中の骨折(1954年落馬事故)の後遺症及び慢性関節リウマチの悪化で
殺陣が厳しい身となりロングショットや後ろ姿は
息子の月形哲之介がスタントを演じ座った状態の場面が多くなりました。
1964年(昭和39年)の東映退社後は
テレビドラマへの出演などを中心としていましあ。
1970年(昭和45年)8月30日(日曜日)、
脳出血のため京都市東山区の大和病院で死去。
68歳没。
(月形龍之介)

♥️2023💃8/31 リチャード・ギア(74歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/31 野茂英雄(55歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

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田村高廣さん
(1928年8月31日-2006年5月16日)
俳優。
阪東妻三郎の長男。
弟は
田村俊磨(元マネージャー、株式会社タムサプライヤ社長)、
俳優の田村正和、田村亮、
田村兄弟の長男。
夫人は舞踊家の花柳駒(田村節子)。
異母弟に俳優の水上保広。
京都府京都市出身。
身長170cm。
後年は世田谷区三宿に居住。
京都府立京都第三中学校(現・京都府立山城高等学校)、同志社大学経済学部卒業。
京都三中在学中に、
動員学徒として愛知県の中島飛行機半田製作所で働いた経歴を持ちます。
大学卒業後、
いったん東京都内の商社でサラリーマン生活を送りますが、
1953年7月7日に父が急逝。
近親者や木下惠介監督などから後を継ぐよう強くすすめられました。
父は松竹に借金があり、
俳優になるのなら借金はチャラにすると松竹に言われたことから、
最初は乗り気ではなかったですが父の遺した借金返済のため、
父が死去した際に在籍していた松竹に入社し
映画『女の園』でデビュー。
その後も木下監督作品の常連となり、
壺井栄原作の『二十四の瞳』を初め、
『喜びも悲しみも幾歳月』、『笛吹川』に出演し、
演技に磨きをかけます。
1963年、松竹退社後はフリー。
1964年、
大河ドラマの第2作目である『赤穂浪士』に出演。
1965年の大河ドラマ『太閤記』に出演し、
主人公である豊臣秀吉の軍師である黒田孝高を演じ、
阪東妻三郎13回忌としてNHKで製作された『破れ太鼓』で4兄弟が初共演を果たします。
同年からの『兵隊やくざ』シリーズにて
有田上等兵役を好演、
勝新太郎とのコンビが人気を呼び、
代表作の1つとなりました(この演技が認められ、ブルーリボン助演男優賞を獲得)。
1969年には『超高層のあけぼの』へ弟の正和と出演することが決定していましたが、
『トラ・トラ・トラ!』へ出演するために出演を取りやめました。
同年には『魔像・十七の首』でテレビ時代劇初主演、
この作品でも田村三兄弟が共演を果たしました。
1972年の大河ドラマ『春の坂道』に沢庵和尚役で出演、
この作品でも田村三兄弟が共演。
1973年、
必殺シリーズ第3作の『助け人走る』に中山文十郎役で主演、
1974年12月には舞台でも同役を演じました。
1975年、梅田コマ劇場の舞台で、
田村兄弟が舞台初共演を果たしました。
1978年の舞台、
『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』では父妻三郎の代表作である
『無法松の一生』の無法松を演じました。
1979年、
父が主演した『地獄の蟲』のリメーク版で主演を務め、
1980年、
『天平の甍』出演時には鑑真を演じ、中国本土でも知られる様に。
1981年、『泥の河』に出演(代表作の一つとなりました)。
1984年『乾いて候』に出演、
連続ドラマでは田村三兄弟最後の共演となりました(1993年放送のスペシャル版では兄弟最後の共演。)
1993年、
日本テレビの大型時代劇、『勝海舟』でも田村三兄弟が共演、
勝海舟を演じた正和/亮の父親である勝小吉役を演じました。
1996年には
再び小栗監督と組み『眠る男』に出演し、これも高い評価を得ました。
1999年、
長年の功績から勲四等旭日小綬章を受章。
京都府出身のため、
プライベートでは京ことばで話していました。
「美男俳優(二枚目俳優)」としての人気のあった弟とは対照的で、
最も父親似の容貌をしており、
陰影のある役を得意としていました。
2003年、
阪東妻三郎50回忌にNHKBSで放送された、
『駆けよ!バンツマ』に4兄弟揃って出演。
2006年5月16日午前0時19分、
脳梗塞のため急逝。
77歳没。
(田村高廣)
志賀廣太郎さん
(1948年8月31日-2020年4月20日)
俳優、演劇教育者。
桐朋学園芸術短期大学演劇専攻非常勤講師。
身長165cm。
兵庫県生まれで、
幼稚園時代に東京都杉並区に引っ越し、
その後世田谷区へ移住。
幼稚園の園長や小学校の担任が児童演劇協会に所属するなど演劇に造詣が深かったことから、
中学・高校から演劇部に所属。
俳優座の養成所が移管されると聞き、
桐朋学園大学短期大学部に入学。
大学では
演技の他に狂言、日舞、バレエ、体操などを学びましたが、
なかでも能を観世銕之丞に学んだことは印象に残っており、
音声学を学んだ柴田武からは、
「君の声はいい声だから大事にしなさい」と言われたといいます。
1971年、
桐朋学園大学短期大学部専攻科演劇専攻修了。
卒業後はすぐ役者の道に進むつもりでしたが、
素晴らしいと思える先生に多数出会ったことから大学に残ることを決め、
1973年までゼミの助手を務めました。
当時は翻訳劇の舞台が多く、
ヨーロッパ原作の劇が現地でどう演じられているのかが気になったため、
ドイツに渡り、
語学学校を経てシュトゥットガルトの専門学校へ入学。
そこでは演技の基礎と考えていた体操を1年近く学び、
あちこち移動した後、
ウィーンで日本人補習授業校の小中学生の国語教師を務めます。
30歳を前に、
交際していた女性と結婚するため1977年に帰国。
1978年より母校の演劇科にて非常勤講師を務めました。
学生には南果歩など。
吸収することがなくなり、
自らも演じることが必要だと感じ始めていた40歳も目前となった頃、
平田オリザが主宰する劇団「青年団」の舞台を観て共感し、
教材としての使用を申し出ます。
しかし同時に自分が演じていない台本を学生に教えられないという思いが生じ、
酔った勢いで平田に「次の舞台に出たい」と言ったところ出演が決まり、
1990年、41歳で『光の都』に出演。
その後も教壇に立つ傍ら舞台に立ち続け、
1993年に正式に劇団員に。
よく小劇場の演劇を観ていた山内ケンジに見初められ、
46歳の時にアップルコンピュータのCMに出演して注目を集めます。
これを契機にオファーが増え始め、
1998年、『もう、ひとりじゃない』で映画初出演。
その後、
2001年に『学校の怪談』、『世にも奇妙な物語 SMAPの特別編』の「BLACK ROOM」など、
2000年代になって引っ張りだこに。
私生活では40代で離婚。
2003年のテレビドラマ『独身3!!』の打ち上げで
初めて福田雄一と顔を合わせて「志賀さんいいですねー」と声をかけられ、
『THE3名様』の出演オファーを受けるました。
そこで演じたパフェおやじ役が若者の間で評判になり、
主演陣の人気を凌ぐほどの反響があったことから、
DVD『【「THE3名様」スピンオフ】人生のピンチを救うパフェおやじの7つの名言』の制作が決定し主役を演じました。
2008年4月6日にHMV渋谷で行われたDVD発売イベントには多数の若い女性が駆けつけ、
女性ファンの歓声に囲まれながら
「人生でこんないい日を迎えられるなんて」とコメント。
2015年に踊る大捜査線シリーズで知られる
本広克行が監督を務める青春映画『幕が上がる』に、
メインキャストとして出演。
原作は青年団主宰の平田オリザによる同名小説。
2019年のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』に
春野先生役での出演が予定されていましたが、
体調不良のため降板。
代役には佐戸井けん太。
2019年4月9日、
4月5日から6日にかけて脳梗塞を発症し、
緊急手術を受けて入院中であることが
テレビ東京系ドラマ24枠のドラマ『きのう何食べた?』の公式サイト上で発表。
主人公の父親・筧悟朗役で出演していましたが、
大事をとって降板することも併せて発表されました。
なお、
収録済の回については予定通り放送。
残りの回の代役には田山涼成。
4月30日、
所属劇団「青年団」が、「命に別状なし」と報告。
その後は復帰に向けてリハビリに努めていましたが、
2020年4月20日20時20分、
誤嚥性肺炎のため、
神奈川県川崎市の病院にて71歳で死去。
(志賀廣太郎)
酒は呑めないけど、カレーライスが大好物だった、正義の味方・八尾の朝吉さんこと、勝新太郎さん。
(映画・悪名より)

まこと虫

🇺🇸👋😁 みなさん、こんにちは!今日は、1923 年 9 月 1 日に発生した関東大震災から 100 年目です。しかし、1988 年までに、我が国の偉大な漫画家、前田俊夫は、1923 年以降に東京に地震を引き起こした原因の真実を私たちにもたらしてくれました。"Curse of the Overfiend" (超神呪殺篇, Chōjin Jusatsu-hen) (March 21, 1988) Penthouse: Volume 44 ⛩🗾🌅

昭和の純喫茶って地下に多かったね。
高かったけど、お茶をつけてくれてすごくゴージャスな気分になった。
1966年『大魔神』
『大魔神』(だいまじん)は、1966年
(昭和41年)に大映(現・KADOKAWA)が
製作・公開した日本映画の特撮時代劇シリーズ三部作、またその劇中に登場する守護神の名称
この映画も、当時にしては子供が少し恐いと
感じながら見ると言うイメージでした~👀(笑)
好きなTV番組。
TBSで1977年〜1979年まで火曜日夜7時から30分で放送された当時大人気だったドリフターズが西遊記を人形劇で演じたTV番組でした。
孫悟空=志村けん
三蔵法師=いかりや長介
猪八戒=高木ブー
沙悟浄=仲本工事
馬=すわしんじ
カトちゃん=加藤茶
[ヤンマーファミリーアワー飛べ!孫悟空]。
案内役=小島一慶(当時TBSアナウンサー)
劇中歌=ピンク・レディー
西遊記をモチーフに登場人物をドリフターズのメンバーが演じていてかなり合っていましたが何故か加藤茶だけはカトちゃんというハゲづらで酔っぱらいのキャラクターで大笑いしてしまいました。ゲストや悪役も豪華な出演者達が声優をしていて元メンバーの荒井注が出てたり、後にドラマ版[西遊記]で猪八戒を演じる西田敏行、左とん平が出てるのも感慨深い面白い番組でした。
小澤征爾さん
(1935年9月1日-)
指揮者。
2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまで
ウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた世界的な指揮者。
栄典・表彰歴として、文化勲章受章など。
主な称号は、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、
ボストン交響楽団桂冠音楽監督、
セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、
新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者など。
(小澤征爾)
渡部 陽一さん
1972年9月1日生まれ、51歳。
静岡県 富士市出身。
戦場カメラマン、フォトジャーナリスト、タレント。身長: 180 cm
初代・富士市観光親善大使。
CDアルバム 
『渡部陽一の世界名作童話劇場 日本篇』
(2011年2月23日発売)
六代目三遊亭圓生さん
(1900年9月3日-1979年9月3日)
大阪市西区出身の江戸落語家、舞台俳優。
東京の新宿に長年住み、
当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれました。
昭和の落語界を代表する名人の一人と称されます。
出囃子は正札附。
五代目三遊亭圓生は継父、
五代目三遊亭圓窓は義理の叔父。
また、橘家圓晃は異父弟。
生家は名主の家柄で、
実父と生家の女中の間に生まれますが、
あくまで両親の子供として育てられます。
幼少期(5-6歳ころ)から豊竹仮名太夫の元で義太夫の稽古を受けました。
生家の破産後両親が離婚し、
母は三味線の師匠で生計を立てていました。
のちに母と東京に移住し、新宿角筈に居を構えます。
豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫の芸人として寄席に出演、
母が豊竹小仮名の名で相三味線を担当。
母が5代目三遊亭圓生(当時は橘家小圓蔵)と再婚したため、
5代目圓生を「親父」と呼んでいました。
1909年(明治42年)ころ、
横浜新富亭で高座に穴が開き、
聞き覚えていた落語「箱根山」を口演して場をつなぎます。
旅の仕事で訪れた伊香保温泉の石段で転倒し胸を強打、
医師から義太夫を語ることを止められたため、
父の懇意にしていた大坂相撲の横綱若島権四郎の書き添えで
継父の師匠である4代目橘家圓蔵門下に入り
橘家圓童の芸名で子供義太夫から落語家に転向。
以降、
師匠と継父の引きで落語家としての実際の位置より優遇されて過ごします。
幼少期は記憶力がよく大人の落語家より早く噺を覚え、
師匠や継父くらいの芸はすぐできる、などと思っていましたが
少年期に自身の芸のまずさに気付いて愕然とします。
生来、
大の芸事好きであり優遇されている自覚もあって必死で芸に精進。
このころから落語の演目を多数稽古しておりのちに自身の財産に。
橘家小圓蔵の芸名を経て
1920年(大正9年)に5代目橘家圓好で真打昇進し
1922年(大正11年)4代目三遊亭圓窓、
1925年(大正14年)6代目橘家圓蔵と次々と襲名するも一向に芽が出ず売れませんでした。
1917年(大正6年)から1934年(昭和9年)までの間、
師匠や継父と共にめまぐるしく所属団体を変わっています。
生活が苦しく落語家を断念し
以前から稽古に通っていた舞踊家へ転身を図ろうとした矢先、
継父5代目圓生が逝去し母を含めた家計を助けなければならなくなり
舞踊家は断念し
1941年(昭和16年)に当時所属していた
落語協会の会長の6代目一龍斎貞山の勧めで
6代目三遊亭圓生を襲名。
1945年 (昭和20年)、
母親が逝去した5代目古今亭今輔の代わりに
満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事で
5代目古今亭志ん生や講談の国井紫香らと満州を慰問。
満洲演芸協会の仕事の他に
満洲電信電話の新京放送局が主催した演芸会に5代目古今亭志ん生と呼ばれ、
当時アナウンサーだった森繁久彌と出会います。
終戦で帰国不能になり、
現地で演芸会などを催しながら引き揚げ船の出航を待ち、
生死ギリギリの生活で志ん生と共に約2年間暮らしました。
その後、
妻子を日本に残したまま生活の便宜上現地で
日本人女性(小唄師匠の田村千代)と結婚生活を送り、
1947年(昭和22年)、志ん生と生活を別にします。
満洲から苦労して帰国した後は
寄席に出演すると「上手くなった」と言われ、
満州での苦労が芸に生きたと自己分析。
妾馬を演じたところ評判が良く、
むやみに客を笑わせようとするのではなく笑いあり涙ありの噺が向いている、と
自身の進む方向が見えてきたといいます。
1953年(昭和28年)、
ラジオ東京が8代目桂文楽や6代目圓生ら落語家5人と専属放送契約を締結し、
人気落語家の一人に。
1953年(昭和28年)の麻布の十番倶楽部を皮切りに
1954年(昭和29年)から本牧亭で圓生独演会を開き、
以降人形町末廣でも開催。
切符がすぐに売り切れる程の人気を博し、
人形町末廣の廃業まで続きました。
戦後から盛んに開かれたホール落語は寄席と異なり
演目の時間制限が少なく、
口演時間の長い演目が多い6代目三遊亭圓生は
独演会と合わせて存分に本領を発揮し、
名実共に本格の落語家の一人に。
1960年(昭和35年)に「首提灯」で芸術祭文部大臣賞を受賞。
1965年(昭和40年)8代目桂文楽の後を継いで落語協会会長に就任。
会員の団体保険加入など協会の近代化を進めて
1972年(昭和47年)5代目柳家小さんに会長職を引き継いで最高顧問に就任。
この年、芸術祭大賞を受賞。
1973年(昭和48年)3月9日、
落語家として2人目の御前公演を依頼され、
香淳皇后の古希の祝いの御前で『お神酒徳利』を上演。
この年13枚組LPレコード「人情噺集成」を発表。
以降、
「圓生百席」に繋がる大プロジェクトになり、
6代目圓生逝去まで続きました。
1978年(昭和53年)、
柳家小さん会長による落語協会の真打大量昇進に抗議して同協会を脱退(落語協会分裂騒動)。
多くの脱退者が落語協会に戻る中、
一門で落語三遊協会を結成。
この際、
仲介の労を取った席亭らの顔をつぶす形となったため、
以降、寄席(落語定席)には出演不能に。
1979年(昭和54年)3月、
落語家として初めて歌舞伎座独演会を開催。
9月3日、79歳の誕生日、
千葉県習志野市の商業施設「サンペデック(現・モリシア津田沼)」宴会場で開催された
後援会の集いで小噺『桜鯛』を演じた直後、
心筋梗塞を発症。
習志野市内の病院に救急搬送されましたが、
同日夜半過ぎに急逝。
79歳没。
(六代目三遊亭圓生)
青木義朗さん
(1929年9月20日-2000年9月3日)
俳優。
東京府荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。
目黒工業高等学校(現・目黒学院高等学校)卒業。
映画演劇研究所の一期生を経て
1959年(昭和34年)にデビュー。
その渋いキャラクターで幾多のテレビドラマや映画で
脇役ながらも重厚な演技で存在感を示しました。
特に『特別機動捜査隊』では、
波島進に代わる番組の顔、
三船剛主任刑事として8年間にわたり出演、
青木の代表作となりました。
杉良太郎からの信頼が厚く、
杉の舞台、テレビ作品には共演者として
コンスタントに出演し続けました。
2000年9月3日午前1時、
食道静脈瘤破裂のため死去(70歳没)。
(青木義朗)
神戸最古と言われた『アカデミーバー🍸』です
谷崎潤一郎や小磯良平などの文化人が集うサロンとしても知られ、陳舜臣氏、司馬遼太郎氏も顔を見せたとか、、、🥸
私は、2~3度お邪魔しただけでしたが、そこだけ
違う空気が流れてる感じがしました。同じ様な店は作れたとしても、あの雰囲気は作り出せないでしょう🤔
(2016年 都市開発のため取り壊されました)
店の壁にあった、小磯良平、田村孝之介らの寄せ書きは「神戸ゆかりの美術館」へ寄贈され、大切に保管されています。又、バーカウンターは個人のお宅に引き取られ、ダイニングテーブルとして再利用されているとか、、、寂しいけれど、ちょっとホットするお話ですね😁😀😘
高橋良明さん
(1972年9月2日-1989年1月23日)
1980年代後半に活動していた日本の俳優・アイドル歌手。
身長167cm。
東京都目黒区で生まれ、神奈川県横浜市で育ちました。
1984年(昭和59年)、
横浜市立嶮山小学校在学中に児童劇団東京宝映(宝映テレビプロダクションの前身)に入所し、
子役として芸能界デビュー。
1985年(昭和60年)、
横浜市立すすき野中学校在学中に出演した
テレビドラマ『うちの子にかぎって2』(TBS系列)で人気を博し、
1987年(昭和62年)には『オヨビでない奴!』(同)でドラマ初主演。
また、
同年11月21日には「天使の反乱」(キングレコード)でアイドル歌手としてもデビュー。
同楽曲はオリコンランキングの9位にランクイン。
歌手デビューから1年間で発表したレコードの総売上は81万枚に。
明治大学付属中野高等学校在学中、
1989年(昭和64年)1月5日夜、
横浜市青葉区(当時は横浜市緑区)から川崎市麻生区にかけて
オートバイを無免許で走行中、
車道を横断していた女子中学生をはね、
その際にバランスを崩して路上駐車の車両に激突し、重傷を負いました。
直ちに救急搬送されますが、
重症頭部外傷で全治3か月との診断が下され、
命に別条はないと家族や関係者に伝えられました。
4日後の(平成元年)1月9日には意識が戻り、
会話ができる状態にまで回復していましたが、
同月22日に容態が急変、意識不明となり、
翌23日午前2時46分に死亡。
(高橋良明)
『パチンコ ゼロタイガー登場!』1981 平和工業
今は斜陽のパチンコですが、昔は凄かった。😀
『ゼロタイガー』は、パチンコ羽根ものの元祖。下方入賞口に入ると、ゼロ戦の翼が大きく開き、中央口に入賞すると連続して翼が開きます。多くのパチンコファンを引き付けました。😀
1966年から20年以上、大川橋蔵さんが
銭形平次役を演じていました。そして舟木一夫さんが主題曲を歌うという、最高の娯楽番組であったといえます。最近は時代劇が減って寂しいです ... 昭和の時代は良かったなぁ~❣️😃

これぞ昭和感 見せ物小屋。くだらないけど、面白い怖かった(笑)

石立鉄男主演ドラマ

よみうりテレビ系列タイガーマスクEDテーマ
「みなし児ごのバラード」
(作詞)木谷梨男
(作曲・編曲)菊池俊輔
うた 新田洋(現・森本英世)/スクールメイツ の シングル」
主題歌を作詞した木谷梨男は、元東映プロデューサーの斎藤侑さんのペンネーム。
ゆけ!タイガーマスクのさっそうとした歌と対になる超有名なエンディング。
おそらく孤児であった伊達直人。戦後の動乱の時代に何らかの理由で彼はひとり生きてきた。
ちびっこハウスの子供たちを支援する彼は虎の穴の刺客レスラーと戦い抜く、我らのタイガーマスク。
だけどあの子らはしたってくれる。
■ランドセルの寄付をする「伊達直人」
タイガーマスク運動を覚えているだろうか。2010年12月25日、群馬県前橋市の児童養護施設に、「伊達直人」名義でランドセルが贈られた。それをきっかけに、全国の施設で相次いだ寄付行為のこと。
偽善者、誹謗もある中にもめげない彼「伊達直人」を名乗る人物の胸中には人には話さない身の上が動機の発端であったという。
心に残る歌ですが、スナックで歌うと暗いと仲間に言われました。いいじゃん、好きなんだから。
(タイガーマスク)

♥️2023💃9/6 市毛良枝(73歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

超人バロム・1
ヒーローでしたね(^^)
怪人があまりにもエゲツなかった印象が😀
健太郎役の高野浩幸さんは元気です。
タケシ役の飯塚さんは亡くなられたとか(;O;)
富山のクスリ
富山駅から路面電車で10分ほど
今は観光用ですが古い看板や薬の作る様子も見れます
原節子さん
(1920年6月17日-2015年9月5日)
女優。
身長165cm。
戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、
「永遠の処女」と呼ばれました。
『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督の出演で知られ、
ほか
『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)
などに出演。
1963年に女優業を引退し、
2015年に死去するまで隠遁生活を送りました。
神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で
父・藤之助、母・ナミの間に末っ子として誕生。
兄弟は男2人、女5人。
三番目の姉の子が映画監督の木下亮。
保土ヶ谷尋常高等小学校(現・横浜市立峯小学校)から
私立横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)に進むも、
家庭が経済的に困窮していたこともあり、
次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、
女学校を二年で中退。
一年の時には、
後に小説家となる中島敦から直接の授業を受けていました。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、
同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。
同作で演じた役名「節子」は芸名の「節子」と一致。
1936年、
第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきた
ドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、
初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢されました。
1937年3月12日、
原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かいました。
そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。
先に帰国していたファンクが一行を出迎え、
アドルフ・ヒトラーはじめ、
ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、
皆から高評価を受けたと伝えました。
宣伝省の工作もあって、
原はドイツ各地で大歓迎されました。
この後一行はフランスからアメリカへ渡り、
7月28日に帰国。
11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍。
『新しき土』への出演によって一躍、
銀幕のスターダムに駆け上がった原でしたが、
「もっと勉強してからスターになるべきだった」と小杉勇が述懐したように、
しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることに。
太平洋戦争中は、
1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ
『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの
戦意高揚映画に数多く出演。
終戦後の一時期は、
『ハワイ・マレー沖海戦』などの特撮を手掛けた円谷英二の自宅に下宿。
1946年9月、
終戦の翌年に原は資生堂のイメージガールに起用され、
戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせました。
さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢。
当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、
そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移ります。
1947年6月、フリーの女優として独立。
フリー第1作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)。
同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立。
1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、
服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒット。
初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。
1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことに。
出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、
以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続きます。
小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、
自らの作品に起用し続けました。
1949年(昭和24年)、
『晩春』『青い山脈』『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、
毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞。
1952年の『東京の恋人』以降、
しばらく出演作が途絶えたことで
マスコミから「伝説の存在」と表現されるように(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品)。
原が現場に復帰した1953年、
『白魚』の御殿場駅での撮影中に原の眼前で、
東宝のカメラマンであった実兄会田吉男が
助手の伊藤哲夫と共に列車に撥ねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭いました。
小津監督と原の代表作になった『東京物語』は
この事件の直後にクランクイン。
1954年、原
は体調を崩して通院を繰り返すことになり、
引退をささやかれるように。
体調が回復した1955年公開された『ノンちゃん雲に乗る』では
初めて母親役を演じました。
1956年、
『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品に。
1962年、
稲垣浩監督による東宝創立30周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、
原は大石内蔵助の妻りくを演じました。
これが原にとって最後の出演作品に。
1963年12月12日、
小津監督が還暦の誕生日に東京医科歯科大学附属病院で没し、
その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、
以降表舞台には一切姿を見せなくなりました。
1964年、
東京都狛江市の実家から神奈川県鎌倉市の義兄・熊谷久虎宅の敷地内へ引っ越し。
1968年9月、
小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、
公の場から姿を消しました。
1969年、
映画監督の成瀬巳喜男が亡くなったとき
本名で供花を送りました。
1973年、
小津の没後10年を記念して信州蓼科に
小津と野田の有縁地碑を建てるとき本名で寄付。
1993年、笠智衆の通夜前に極秘に訪れ、
一部の関係者に気付かれたのが最後の目撃でした。
1994年、
東京都内のかつての自宅の土地を売却し、
約12億円の所得を得たことで、
この年の高額納税者番付で全国の75位で登場し、話題に。
2015年9月5日、
肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じました。
(原節子)
葛飾区立石「#呑んべ横丁」。再開発による立退きのため、今年2023/8月 全店が閉店しました。
都はるみさんの普通のおばさんになりたい
9月7日がご生誕日の歌手・女優 故 #山口淑子 さん。
戦前の中国、満州国、母国・日本、(戦後の)香港では #李香蘭 として、第二次世界大戦後 アメリカ合衆国では #シャーリーヤマグチ (Shirley Yamaguchi) として活躍。彼女もまた軍国の時代に翻弄された一人でした。合掌。
9月7日は「#CMソングの日」。GSブームの立役者 #ザタイガース のノベルティ・レコードは、明治チョコ包み紙と規定の額面切手を送ると もれなくプレゼントされました♪
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