Apex product 【懐かしい昭和の時代㉑】

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昭和時代【何もなかったが、とっても楽しかったあの頃!!】

『ミヤコ蝶々』女優、漫才師、コメディエンヌ
関西芸能界の重鎮::アラン・ドロンが好きでした❤️
南都雄二さんとの「夫婦善哉」は有名ですが、女優として紹介されることも多かった😁
出演されたドラマ、映画は数知れず📺🎥
藤田まこと、弟子(でし)の白木みのるさんらも出演された
「スチャラカ社員」…てなもんや三度笠より前ですネ
NHK朝の連ドラ、太陽にほえろ、遠山の金さん
「たんとんとん」での、森田健作の母親役。
「男はつらいよ」シリーズでの寅次郎の実の母、お菊さん。 チョーヤの梅酒のCMなんかもありました。
けっして目立つ容貌ではないが、存在感が妙に残る。
弟子といえば、笑福亭鶴瓶さんが、弟子を取るかどうか迷っていた時、蝶々さんに相談したそうです。「人を育てる自信がない、、、」と、すると蝶々さん『盆栽知ってるか? 盆栽育てるのと一緒や! え〜枝は伸ばす。悪い枝は切る。それだけや❗』とおっしゃったそうです。それを聞いて鶴瓶さん笑瓶さんを弟子に取りました😁
晩年、インタビューで「女優として、これからやってみたい“役”はありますか?」と聞かれ、『三菱銀行人質事件の犯人の母親の役』と答えられました。ショットガンを手に銀行に立てこもり、極悪非道な猟奇殺人を犯した息子に「撃たれて死んでも構いません」と、面会を希望した母親。子供に対する愛情と憎しみ。親としての責任、犠牲者や世間に対する謝罪。
交錯する複雑な心情を表現してみたいと、、、
実現されませんでしたけど、見てみたかった~😁😅😅
宮内淳さん
(1950年5月28日-2020年8月14日、70歳没)
俳優。
5月28日は、この人のお誕生日です。
身長182cm。
愛媛県伊予郡松前町出身。
小学生の時に大阪市内へ転居。
大阪府立阿倍野高等学校卒業。
高校の先輩に逸見政孝。
西南学院大学中退。
中学生、高校生の頃はバスケットボールをやっていて、
幼少のころは航空機のパイロットに憧れ、
航空大学校への入学を目指すも、皮肉にも勉強のし過ぎで視力が低下。
航空大学校の身体検査基準を満たさなくなり、パイロットの夢を断念。
芸能界に目を向けるようになります。
いくつかの小劇団を渡り歩いた後、
1974年、文学座附属演劇研究所に入所し、1975年卒業。
同年10月からはテレビドラマ『太陽にほえろ!』(NTV)に
田口刑事(= “ボン”)役でレギュラー出演し、一躍人気者に。
1979年 「太陽にほえろ!」を降板。
殉職のシーンは森の石松からインスパイアーされたものとのこと。
同年、
『あさひが丘の大統領』(NTV)でテレビドラマ初主演を果たし、
頭の上がらない熱血教師・“ハンソク”こと大西先生役を演じて話題を集めます。
1982年からは、児童演劇活動を広く行い、
影絵劇団「かしの樹」主宰をはじめ、子どもの情操教育に力を注いできました。
晩年は自身がメディアに出演する形での活動はほとんど行っておらず、
地球と人間の幸せを考えて、
平和を構築する公益財団法人「地球友の会」の代表理事や、
国連環境計画(UNEP)の普及活動を行う
一般社団法人「日本UNEP協会」の事務局長を中心に活動。
その後の目立ったメディア出演は、
『太陽にほえろ! 1979 DVD-BOX II』(2008年発売)収録特典のアンソロジーメイキングや、
BS朝日『極上空間』の石原裕次郎没後25年特別編(2012年6月9日放送)のみに。
2019年2月、
初めての著書『「あの世」が教えてくれた人生の歩き方』(サンマーク出版)を上梓。
出生から「太陽にほえろ!」時代のエピソード、
そして現在の生き方に至るまでの興味深いストーリーとなっています。
また、
公益財団法人「地球友の会」において10月1日を「和の日」として登録したことを契機として、
「和の日実行委員会」を立ち上げ、
日本の伝統文化の普及を通して和の精神を
世界に広める活動に力を入れました。
2020年8月14日、直腸がんにより死去。70歳。
(宮内淳)
美空ひばりさん。
(1937年5月29日-1989年6月24日、52歳没)
歌手・女優・実業家。
5月29日は、この人のお誕生日です。
神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。
横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。
9歳でデビューし、
その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、
歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となりました。
昭和の歌謡界を代表する歌手であり、
没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞。
愛称は「お嬢」。
身長は155センチメートル(推定、番組内にて和也談)。
(美空ひばり)
映画は西部劇だ!
《悪役スター列伝》
*1950~1960年代は西部劇の黄金時代でした
*西部劇ヒーロー(ジョン・ウェイン/ゲーリー・クーパー)がいれば、それに対抗する,匹敵する悪役の存在がいて血湧き肉躍る決闘に魅入られてた思春期でした!今でも映画は西部劇が最高~です!!
*西部劇ファンの独断と偏見で悪役ベスト10を列記!
〔1〕ジャック・パランス
不朽の名作「シェーン」で演じた黒づくめの黒い手袋の2挺拳銃の殺し屋ウィルソン!
凄みがあって薄気味悪い風貌で強烈な個性は存在そのものが悪役スター!記憶に残る怪優!
〔2〕リー・ヴァン・クリーフ
シャープな顔立ち、ツバ広ハットの奥から覗く鋭い眼光と風貌でガンプレーも鮮やかに決まる悪役ヒーロー!
・代表作:「夕日のガンマン」
「真昼の決闘」がデビュー作
〔3〕リー・マーヴイン
見るからに底意地の悪そうな面構えと優れた性格演技が伴い異常な凄みをきかしてアクション映画で活躍した。
・代表作:「リバティーバランスを射った男/特攻大作戦」など
〔4〕イーライ・ウオラック
強そうな不適な面構えで西部劇の悪役ヒーローとして数多く出演して評価が高い!
・代表作:「荒野の七人/夕日のガンマン」
〔5〕チャック・コナーズ
TV西部劇「ライフルマン」で人気を博すが高身長(197cm)と強烈な個性で悪役として活躍する。野球(メジャーリーガー)とバスケットボールのプロ選手でもありました。
・代表作:「ライフルマン/大いなる西部」
〔6〕アーネスト・ボーグナイン
太い眉にギョロ目、がっしりした体格でひと目で粗暴な悪党と分かる風貌である。その存在感は秀でて優れた演技と性格俳優の名脇役として生涯で200本近い作品に出演してアカデミー主演男優賞も受賞(マーティ)
・主な出演作品:西部劇「ヴェラクルス/ワイルド・バンチ」他
「ポセイドンアドベンチャー/
地上より永遠に」など多数。
〔7〕ジャン・マリア・ヴォロンテ
イタリア,ミラノ出身の俳優。イタリアを代表する世界的な名優
・代表作品:「荒野の用心棒/夕日のガンマン」他「コーザノストラ」など
〔8〕ジョン・アイランド
つぶれた鼻、粗暴で危険な小悪党という役どころが多い。
・代表作品:「OK牧場の決闘/赤い河/オクラホマ無宿」など
〔9〕ヘンリー・シルヴァ
主人公のヒーローと対立する悪役の手下の小悪党の役が多い。
・代表作品:「ゴーストタウンの決闘/シャイアン砦/無頼の群
〔10〕リー・J・コップ
迫力あるギョロ目を剥き出した貫禄たっぷりの悪党ぶりが際立つ悪役!
・代表作品:「マッケンナの黄金/西部の人」など

ジャネット・リンの笑顔を見るとさわやかになります。懐かしい札幌オリンピック。

昭和時代ハイライト宣伝ポスターです🥰🐼❤️

最近の若い方は知らないでょう🤔
駅・電車編🚉
【あーみーまー!!】
ザドリフターズとピンクレディーの当時最強コラボ人形劇
僕の記憶の中で民放で人形劇していたのはこれぐらいだったと思います。
『ニンニキニキニキニンニキニキニキににんが三蔵』
軽快に流れるオープニングと挿入歌はピンクレディー。
加藤茶さんは酔っぱらいカトーという訳の解らないキャラ。
もう50年近く経ちますがなぜか覚えている。
ニンニキニキニキニンニキニキニキニシンが悟空
西へ向かうぞニンニキニキニキニンニンニン。
1952年〜54年にNHKで放送されたラジオドラマを松竹が1953年に映画化。
ラジオ放送中の毎週木曜日の午後8時半から9時まで「銭湯の女湯がガラ空きになる」とまで言われた話題作。映画でもヒロイン役の岸景子がまとった白いショールが(真知子巻き)の名称で全国の若い女性にもてはやされた。ストーリーの内容は典型的なすれ違いメロドラマ。古い家族感など今ならとうてい受け入れがたいモラルが根底にある作品。
🟣昭和の『トラック野郎男一匹桃次郎』🌸🌸🌸1977
🔴菅原文太、愛川欽也、夏目雅子⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
🟢夏目雅子が新人として注目されていた頃の作品です。
梅宮辰夫さんとアンナさん···💕
嬉しそうな梅宮さんのお姿です···🤗
横浜市磯子区滝頭
美空ひばりさんの生家です。
モノクロですが、現在も有ります。

明るい気持ちになりました~~🤗

小林亜星さん
(1932年8月11日-2021年5月30日、88歳没)
ミュージシャン、作曲家、俳優、タレント。
5月30日は、この人の命日です。
日本作詞作曲家協会(J-scat)理事、大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長を務めました。
CM曲や歌謡曲、アニメソング、テレビ番組のテーマ曲など、
生涯に6,000曲以上を残しました。
1976年「北の宿から」で日本レコード大賞を受賞し、
2015年には日本レコード大賞功労賞を受賞。
妹はイラストレーターの川村みづえ。
次男は元俳優・元学習塾講師の小林朝夫。
従甥(母・塩子の兄の孫)に経済学者の有賀敏之。
東京都渋谷区幡ヶ谷に生まれ、杉並区堀ノ内で育ちました。
母の尊敬する演出家・村山知義の息子・村山亜土の名前に因んで「亜星」と命名されました。
父方の祖父は新潟で病院を経営していた医師、
父は逓信省の官僚、母は築地小劇場の劇団員。
東京府東京市大宮国民学校(現:杉並区立大宮小学校)6年生の夏に戦争のため長野県小諸市に疎開。
旧制慶應義塾普通部から慶應義塾高等学校(同じクラスに音楽家の冨田勲、林光)を経て、
父の勧めで慶應義塾大学医学部に入学したものの医師になりたくはなく、
音楽サークルでの活動に熱中したことで親に断りなく経済学部に転部して卒業。
大手製紙会社に入社するも数ヶ月で退社し、
大学の先輩で放送関係の仕事をしていた作曲家・服部正に師事。
当初は服部に
「音楽大学出身者以外の弟子は取らない」と断られましたが、
連絡先を書いたメモを郵便受けに置いて帰った所、
数日後に電話で入門を認められました。
当時は痩せていたといいます。
出世作の
レナウンのコマーシャルソング「ワンサカ娘」(歌:弘田三枝子)は、
当時レナウンの宣伝部に在籍していた実妹(川村みづえ:イエイエのCMのイラストは川村の作品)の紹介で実現。
これ以後、
その作曲数では三木鶏郎に及ばないものの、
CMソングを中心とした作曲活動を展開するようになり、
数多くの作品を世に送りました。
『ふりむかないで』『ワンサカ娘』『日生のおばちゃん』『この木なんの木』など、
長いあいだ放映されて多くの日本人の耳になじんでいるCMソングが多数。
1969年、
「イエイエ」、「エメロンシャンプー」他のCM音楽作曲に対して、
第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。
また作曲だけではなく、
歌謡曲の一部の作品では作詞の他にも編曲も手掛けています。
向田邦子の代表作であるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』が俳優デビューとなり、
「すぐ、ちゃぶ台をひっくりかえすような」頑固な親父「寺内貫太郎」役で、
大きな印象を残しています。
起用前の風貌は長髪でサングラスをかけており、
原作者の向田は
自身の父親をモデルにした寺内貫太郎像とはほど遠く、起用に難色を示したといいます。
しかしプロデューサーの久世光彦の発案で
髪を坊主頭にし、黒い丸縁めがね、印半纏等を身に着けた小林を向田にひき会わせた所、
納得して起用が決まった経緯があります。
また本人の話では、
当時太っている俳優は少なく、
ザ・ドリフターズの高木ブー・フランキー堺・若山富三郎は多忙で断られ、
その中で小林に白羽の矢が立ちました。
1980年(昭和55年)1月から1984年(昭和59年)10月まで
テレビのクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)に、
男性軍キャプテンとしてレギュラー出演。
同番組のメインである「16分割クイズ」においては、
わずか1枚開いただけで正解に導く事が多々あり、「16分割の鬼」と言われました。
日本音楽著作権協会の一部理事たちによる公金不正流用事件を機に、
有志会員が小林亜星、永六輔、野坂昭如を中心に結束し、
協会を監視是正するオンブズマン的団体J-scat(日本作詞作曲家協会)を組織。
この団体の活動資金を捻出するために、
1996年の暮れから3人で世直しトリオとして「歌入りトークショー」を開始。
2009年5月には懇意のヴァイオリニスト、
天満敦子とのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売。
2015年、第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞。
2021年5月30日早朝、
自宅で倒れていたところを発見され東京都内の病院へ緊急搬送されましたが、
心不全のため、同日死去。
88歳没。 
 
謹んで、小林亜星さんのご冥福をお祈り致します。
(小林亜星)
左とん平さん。
(1937年5月30日-2018年2月24日、80歳没)
俳優・歌手・タレント。
5月30日は、この人のお誕生日です。
身長163cm。
東京市王子区(現・東京都北区)出身。
世田谷学園高校卒業。
父親は郵政省の役人で、
退官後は旅館業、飲食店などを手広く経営。
高校卒業後進学せずぶらぶらしているのを見て、
父親より新丸子にある、すし店の経営を任せられます。
1957年、高校の同級生の辻しげるらと劇団を結成。
後に、
三木鶏郎、永六輔、いずみたくらがいる冗談工房に入団。
この時のマネージャーは、後の作家・野坂昭如。
1957年にラジオの「トリロー・サンドイッチ」のメンバーになり、
その後、テレビに出演。
芸名の由来は、
本名の肥田木をもじって「左」を、
名付け親の三木鶏郎の行きつけの居酒屋から「とん平」を取りました。
初めは「三木」を提案されましたが、
嫌な顔をしたために「左」となりました。
1960年頃から新宿コマ劇場などに出演。
1970年代に『時間ですよ』などが当たり、一躍人気者に。
主にコメディリリーフとしての起用が多数。
1973年に
「ヘイ・ユー! ホワッチャー・ネーム?」(「Hey you! What's your name?」…トニー谷のギャグである「あなたのお名前何てぇの?」の英語版)
というギャグが流行語となり、
とん平のヘイ・ユウ・ブルース」としてレコード化もされ、ヒット。
それと前後して
TBSテレビの深夜番組『ぎんざナイトナイト』で
「とん平のヘイ・ユー! インタビュー」というコーナーが設けられ、
銀座を歩く若い女性に「ヘイ・ユー!」の挨拶の後いろいろな質問をしていました。
森光子や淡島千景とは親交があり、
「お母さん」「とんとんちゃん」と呼び合う仲でした。
淡島のことは「淡島のママ」と呼んでいたといいます。
2017年6月、
急性心筋梗塞で倒れ、長期入院をしていましたが、
翌2018年2月24日午後3時57分、
心不全により東京都内の病院で死去。
80歳。
(左とん平)
今村昌平さん。
(1926年9月15日-2006年5月30日、79歳没)
映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。
5月30日は、この人の命日です。
日本映画監督協会会員。
東京府東京市の大塚で耳鼻咽喉科の開業医の三男一女の三男として誕。
父・半次郎は兵庫県加東郡東条村に生まれ、
東京帝国大学医学部卒業後、京橋に耳鼻咽喉科医院を開業。
母は北海道小樽市の漁師の娘でした。
小学校時代から父に連れられて寄席や映画にはよく通う日々を送ります。
また長兄は「金曜会」という劇団に所属していましたが、後にフィリピンで戦死。
1944年(昭和19年)に
東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
徴兵を避けるため桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)に入学するも、
終戦後直ちに退学し、早稲田大学第一文学部西洋史学科に入学。
早稲田大学では演劇部に所属し演劇活動を行っていましたが、
『醉いどれ天使』に感動し、演劇に見切りをつけ監督の黒澤明に付こうと思い決めました。
しかし、黒澤のいた東宝はその時助監督募集をしていませんでした。
1951年(昭和26年)早稲田大学第一文学部を卒業し、松竹大船撮影所に入社。
欠員の出た松竹が初の助監督公募を行い2000人中8人という難関を突破しての合格でした。
主に小津安二郎の助監督をつとめ、
松竹大船助監督部の幹事にまでなりましたが、
収入や仕事で不満を感じ、1954年(昭和29年)に日活に移籍。
1957年(昭和32年)の
川島雄三監督『幕末太陽傳』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』の脚本も書いています。
1958年に『盗まれた欲情』で監督デビュー。
同作では川島雄三との繋がりで黛敏郎が音楽を担当し、
以後黛は『神々の深き欲望』まで、今村作品の音楽を担当。
1958年の『果しなき欲望』の頃からスタッフが固定化、今村組が形成。
1959年の『にあんちゃん』は
今村の名を一般に知らしめた出世作で文部大臣賞も受賞。
1961年の『豚と軍艦』は、
高い評価を得る一方、予算オーバーしたことと興行成績が良くなかったため
しばらく日活から干されることになった作品。
1963年の『にっぽん昆虫記』では
山形県で俳優とスタッフによる合宿でのオールロケと同時録音に挑戦し、
大胆なセックス描写が話題を呼び配給収入は3億5千万円と大ヒット。
また、
第14回ベルリン国際映画祭にも出品され、主演の左幸子が銀熊賞 (女優賞)を受賞。
『にっぽん昆虫記』の大ヒット後は、
会社から却下されてお蔵入りしていた『赤い殺意』の企画を甦らせて1964年に公開。
この『赤い殺意』などで監督として世間に認められます。
しかし
『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』で配役や予算、フィルム使用量で会社と衝突し、
『赤い殺意』を最後に日活から独立し、
1966年3月に自らが代表を務める独立プロの今村プロダクションを設立。
以後、ここを拠点に映画製作をしました。
2年がかりの沖縄ロケをし、
初のカラー作品となる『神々の深き欲望』を1968年に発表。
同作は各種映画賞を総なめにしましたが、
長期ロケのために2000万円の借金を抱え、
資金難のため、
その後の10年間は主にドキュメンタリー作品を手掛けました。
1975年(昭和50年)、
横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、
校長・理事長を務め、
三池崇史・細野辰興・金秀吉・佐々部清・本広克行・李相日・佐藤闘介などの映画監督、鄭義信などの脚本家、
芥川賞作家の阿部和重、
さらに、タレントのウッチャンナンチャン、出川哲朗、俳優の長谷川初範、隆大介などの人材を輩出。
1979年に9年ぶりの劇映画となる『復讐するは我にあり』が公開。
『復讐するは我にあり』のヒットにより借金を返済して
松竹も利益を上げたことで10年間温めていた企画で
初の時代劇となる『ええじゃないか』を1981年に松竹と共同製作して公開。
3億円のオープンセットなど莫大な予算を投じましたが、
不入りで内容的にも今村自身が失敗作と認める結果に。
1983年に東映との共同製作で『楢山節考』を発表。
同作はカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)を受賞。
日本作品の受賞は
1954年の衣笠貞之助監督による『地獄門』、
1980年の黒澤明監督の『影武者』に続く史上三度目。
受賞効果もあり、
1億7千万円で制作した同作は12億円を稼ぐヒットに。
『楢山節考』の成功により、
東映とは1987年に『女衒 ZEGEN』を共同製作、
1989年に東映配給で『黒い雨』を公開して東映とは3本で組みましたが、
『楢山節考』以外は当たらず。
『黒い雨』は田中好子の演技が評価されましたが、
20数社に出資を断られて資金調達に苦労し、カンヌでも無冠に。
『黒い雨』後の7年間の沈黙の末に、1997年に『うなぎ』を発表。
同作で二度目のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞。
パルムドールの史上最多受賞記録は2回であり、
それを達成したのは今村を含めた、フランシス・フォード・コッポラ、ダルデンヌ兄弟、ミヒャエル・ハネケ等の8監督のみ。
『うなぎ』の頃より
糖尿病の悪化と加齢により立っているのがやっとの状態で気力も減退し、
従来の粘りや執念も発揮できなくなっていましたが、
その後も1998年に『カンゾー先生』、
2001年に『赤い橋の下のぬるい水』を発表。
2006年(平成18年)5月30日午後3時49分、
転移性肝腫瘍のため東京都渋谷区の病院で79歳で死去。
謹んで、今村昌平監督のご冥福をお祈り致します。
(今村昌平)
三ツ木清隆さん。
(1953年5月30日-)
俳優、歌手、タレント。
5月30日は、この人のお誕生日です。
千葉県市川市出身。
和光学園高等学校卒業。
身長176cm。
千葉県市川市に
中華料理店を営む両親の一人息子として生まれ、3歳時に東京へ移ります。
同級生の女子と話もできないほど人見知りがひどかったため、
それを直したいと考え、小学生の頃に自ら児童劇団に応募して入団。
1966年、中学1年生の時に劇団日本児童に入ります。
1967年に『光速エスパー』の主役・東ヒカル役に1,200人の中から選ばれデビュー。
撮影スタジオは自宅の近所であったため、自転車で通っていました。
撮影は過酷で徹夜になることもあり、
スタジオの隅に布団を敷いて寝て、深夜でも起こされて撮影していました。
ほとんど休みがなかったこともあり、
過労で倒れて、1週間の休暇を取ったことも。
学校にもほとんど行けず、登校すると女子生徒から騒がれることもありました。
芝居の基本訓練がほとんどないまま主役に抜擢されたために、
何度も怒鳴られていたことから「辞めたい」と考えていたこともあるといいますが、
本作で鍛えられたから現在まで俳優業を続けることが出来たと語っています。
1973年には、
テレビドラマ『白獅子仮面』と映画『さえてるやつら』で主演を務めました。
『ウルトラマンタロウ』では主人公役の候補の一人でしたが、
ZATの西田次郎隊員としてレギュラー出演。
『タロウ』のファンからも、
実際に主演した篠田三郎と間違えられたことも。
だが同時に出演していた『白獅子仮面』とスケジュールがあわなくなり、『タロウ』は降板。
以後も
テレビ、映画、舞台で活躍、旅番組のリポーターとしても活動。
1989年、本郷功次郎に勧められ、茨城県つくば市に居住。
2010年11月、
作曲家の遠藤実、遺作シングルとして「季節の中で」(作詞・作曲:遠藤実)を発売、
歌手としての活動も積極的に行っています。
(三ツ木清隆)
「男はつらいよ」寅さん愛と失恋の座標軸
(第1作~45作)
1994年発行のコレクションの本「寅さん大全」の内容から引用して写真をカラーに編集して紹介します。
とてもわかり易い図式に表現されているのではないでしょうか。
中心に近いほど相思相愛という事になりますね。
上になるほど振られ方が残酷という事になります。
私は第1作目の冬子さんとの失恋がとても強く印象に残り、次々と続編が観たくなりました。
横浜市鶴見区新子安
今でも昭和の風情ある居酒屋です

MBS「ヤングおー!おー!」←若手落語家4人組のザ・パンダも人気でしたね😍ハッピー?

「男はつらいよ」ロケ地を歩こう
第1~48作「男はつらいよ」都内及び首都圏近郊
(東京都-金町-その他都内・近郊)(神奈川県-国府津)
2011年の書籍からの情報です。
コレクションの本から紹介します。
「男はつらいよ」映画の中の寅さんの旅(第1作~45作)
1994年発行のコレクションの本「寅さん大全」の内容から紹介します。
旅行に行けないご時勢の中で寅さん映画の中で自分の行ってみたい地域の作品を見て心を癒すなんていう楽しみ方はどうでしょう。
私がまだ行った事がなくて行ってみたい地域沢山あります。
いつか実際に行ってみたいです。

「ドクター秩父山」。1986年より「コミック劇画村塾」等に連載されいた田中圭一の4コマ漫画です。田中圭一の絵柄が今の手塚治虫のエピゴーネン調になる前の、横長ワイドなコマに当時としては画期的な劇画調の四コマ漫画で、主人公が医者ということを活かしたシュールかつブラックな下ネタ漫画として一部に人気を得ました。後半はただの下ネタが増えていきました。下ネタ以外でもカニバリズムなどアンモラルなものギャグとして扱っていました。また、1988年にはフジテレビ系の「オールナイトフジ」のコーナードラマとしてアニメ化されました。

兼高かおる世界の旅
憧れのテレビ番組だった
セレブ ジャーナリストだからこそ
出来たんだろうね😃💕🎶🙏
1964年のオリンピック東京大会。
日本の女子バレーボールチームがソ連を破って金メダルが決まった瞬間!
小学校四年生だった私は、祖母、母、妹と居間でテレビにかじりついて応援していました。
歓喜の涙にくれている選手たちの姿に勿論大感動でしたが、
子供ながらに一番感銘を受けたのは、キャプテン河西昌枝さんのチームみんなを抱きとめての
晴れやかな笑顔でした。(最高にカッコ良かったです!)
河西さんがいかに慕われているキャプテンか、よ〜く伝わってくる、美しい勝利の瞬間でした。
麻の蚊帳
蚊帳の中は何かね、楽しいんですよ。

岡田有希子さんのお墓に行きました。合掌🙏

たんとんとん

蔵原惟繕さん
(1927年5月31日-2002年12月28日、75歳没)
映画監督。
5月31日は、この人のお誕生日です。
文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ、映画監督・蔵原惟二は実弟。
父親は鈴木商店の傍系会社・日沙商会の農業技師で、
ボルネオ島のサラワク王国クチン市(現・マレーシアのサラワク州クチン)のゴム園で働いているとき、当地で出生。
小学時に日本に戻り東京の田園調布小学校に入学。
小学4年のとき、
兵庫県神戸市に移り、御影第三小学校に転校。
関西学院中等部終了後、海軍特別幹部練習生。
入隊して広島県賀茂郡郷原村(現呉市郷原)で陸戦訓練中に広島原爆を目撃。
戦後復員し、
家族の疎開先、徳島県海部郡川上村で農作業をした後、
日本大学三島予科に入学、のち日本大学芸術学部映画科に進みました。
大学在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込み。
1952年、
大学卒業と同時に松竹京都撮影所に入社し、助監督を務めます。
1954年日活の製作再開で同社に移り、
滝沢英輔、中平康、鈴木清順らの助監督を務めます。
1957年、
石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』で監督デビュー。
大胆なカメラアングルとカメラワークで注目を浴びます。
以後、
石原裕次郎、浅丘ルリ子の主演作を数多く撮りました。
浅丘とは愛人関係にありました。
また河野典生の短編「狂熱のデュエット」を映画化した
1960年の作品『狂熱の季節』、
「腐ったオリーブ」を映画化した1964年の作品『黒い太陽』は
日本ヌーヴェルヴァーグとして注目されました。
なお、
『狂熱の季節』は蔵原の他の4作品(『ある脅迫』『憎いあンちくしょう』『黒い太陽』『愛の渇き』)とともに
アメリカのCriterion CollectionよりDVD化されています。
1967年フリー。
以降、
石原プロモーションの『栄光への5000キロ』をはじめ、
『キタキツネ物語』、『青春の門』、『海へ 〜See you〜』などの大作、話題作を次々と送り出します。
特に1983年に公開された『南極物語』は配給59億円の大ヒットを記録し、
1997年に『もののけ姫』に抜かれるまで日本国内における日本映画の配給収入歴代1位の座を保持。
上記作品や『陽は沈み陽は昇る』など、
長期ロケ、海外ロケを構えた作品が非常に多数。
1991年紫綬褒章、1997年勲四等旭日小綬章受章。
2002年12月28日、
肺炎のため神奈川県横浜市金沢区の病院で死去。
75歳没。
(蔵原惟繕)
東八郎さん。
(1936年5月31日-1988年7月6日、52歳没)
コメディアン、タレント。
5月31日は、この人のお誕生日です。
昭和を代表するコメディアンの一人。
妻との間に3男2女があり、
次男はお笑いコンビ・Take2の東貴博、
三男はタレントの東朋宏。
タレントの安めぐみは次男・貴博の妻。
東京府東京市浅草区 (現・東京都台東区浅草) 出身。
父は岐阜県大垣市の出身で皇宮警察官でした。
戦時中に家族とともに名古屋市に疎開し、
名古屋時代の親友にプロゴルファー塩谷育代の父親がいました。
中学卒業後に
コメディアンを志して歌手の田谷力三に弟子入り、
そして浅草公園六区の浅草フランス座などで活躍
(この頃のフランス座には、
関敬六、長門勇、渥美清、伊東四朗など
後に有名になったコメディアンたちが出演していました)。
浅草の東洋劇場では
池信一、東八郎、石田映二の丁稚トリオを結成、
のちにまだ駆け出しの萩本欽一が加わりました。
東八郎の芸名は
フランス座を経営する東洋興業創業者の松倉宇七にちなんだものでした。
テレビの台頭と共に浅草の演劇街が衰退してきたため、
1964年に小島三児、原田健二と共にトリオ・スカイラインを結成し、テレビに進出。
コントを行い人気を博しました。
しかしトリオ・スカイラインは1971年に解散し、以降は単独で芸能活動を行いました。
三波伸介とともにNHK『お笑いオンステージ』にレギュラー出演し、
全国区の有名なコメディアンとなり、
その後、
東八郎劇団を結成して後進の育成にも力を注ぎ、
全国各地で喜劇を演じていました。
最晩年では『志村けんのバカ殿様』の家老役や額に「光」のシールを貼り、
BGMにメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が流れる「ヨード卵光」のコマーシャルが有名でした。
なお、
萩本欽一は東の預り弟子でした。
東の直弟子には他にすず風金魚(すず風にゃん子・金魚)。
また人気コメディアンとしてテレビや舞台を数多くこなし、
RCAビクターから『娘へのバラード』(1981年)を発売するなど歌手活動も行っていました。
『娘へのバラード』は、
結婚披露宴で歌われる定番曲のひとつとして広く知られています。
また1986年には芸能人養成のために私塾「笑塾」を開きました。
しかしそれから間もない1988年7月6日の昼過ぎ、
自宅にて眠っている最中に突然脳溢血を起こし、
日本医科大学付属病院へ救急車で緊急搬送されましたが、
意識が回復することなく同日15時30分に急逝(52歳没)。
(東八郎)
伊福部昭さん
(1914年5月31日-2006年2月8日、91歳没)
作曲家。
5月31日は、この人のお誕生日です。
ほぼ独学で作曲家となりました。
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、
『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られます。
位階は従四位。
北海道出身。
北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男として誕生。
小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移ります。
同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けました。
1926年(大正15年)、12歳。
札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)に入学。
初めは絵画に熱中し、
1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成。
その後音楽に関心を持ち、
ヴァイオリンを独学で始めます。
「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めました。
1932年(昭和7年)、18歳。
北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。
文武会管絃学部のコンサートマスターに。
さらに、
同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名とともに、
「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成。
1933年(昭和8年)、19歳。
アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』作曲(現在楽譜の所在不明)。
1934年(昭和9年)、20歳。
次兄の勲ら「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、
「新音楽連盟」を結成。
代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめました。
同年9月、「国際現代音楽祭」を開催。
また、
「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、
札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行いました。
1935年(昭和10年)、21歳。
大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。
アメリカの指揮者ファビエン・セヴィツキー(セルゲイ・クーセヴィツキーの甥)の依頼により
『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送ります。
1937年(昭和12年)、23歳、
室内管弦楽曲『土俗的三連画』を作曲し、チェレプニンに献呈。
1938年(昭和13年)、24歳。
以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選。
1940年(昭和15年)、26歳。
林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務。
紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。
1941年(昭和16年)、27歳。
札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。
これが後に舞踊作品の音楽を手掛けるきっかけに。
ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。
1942年(昭和17年)、28歳。
兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。
1943年(昭和18年)、29歳。
勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。
同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、
伊福部の作品として初めてレコード化されることに。
吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』を作曲。
1944年(昭和19年)、30歳。
管弦楽曲『兵士の序楽』を作曲。
『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』を作曲。
『管絃楽のための音詩「寒帯林」』を作曲。
1945年(昭和20年)、31歳。
宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。
放射線による航空機用木材強化の研究に携わるも、
当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けました。
研究成果を得ないまま終戦となったある日、
突然血を吐いて倒れましたが、
医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われました。
航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止に。
1946年(昭和21年)、32歳。
自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、
栃木県の日光・久次良町に転居。
その後間もなく、
東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した
小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、
これを受けて就任。
独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。
この作曲科では、
初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われました。
そのほかにも教育者として
松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わりました。
1947年(昭和22年)、33歳。
東京都世田谷区玉川等々力町に転居。
東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、
『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。
 
同年、
『交響譚詩』などの業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞。
1948年(昭和23年)、34歳。
世田谷区玉川奥沢町に転居。
『ヴァイオリン協奏曲』。
バレエ音楽『さ迷える群像』を作曲。
バレエ音楽『サロメ』を作曲。
1949年(昭和24年)、35歳。
父・利三死去。
独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』を作曲。
バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』を作曲。
バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』を作曲。
1950年(昭和25年)、36歳。
バレエ音楽『プロメテの火』を作曲。
1951年(昭和26年)、37歳。
世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。
『音楽入門』(要書房)を刊行。
バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』を作曲。
1952年(昭和27年)、38歳。
『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』がジェノヴァ国際作曲コンクール入選。
1953年(昭和28年)、39歳。
東京音楽学校の音楽科講師を退任。
バレエ音楽『人間釈迦』を作曲。
『管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。
ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。
1954年(昭和29年)、40歳。
『ゴジラ』の音楽を担当。
以後、
『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けました。
管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』を作曲、三浦淳史に献呈。
1950年代の一時期には、
東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っています。
この時の教え子に宝田明や岡田真澄など。
1956年(昭和31年)、42歳。
『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』を作曲。
毎日映画コンクール音楽賞受賞。
仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。
独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』を作曲。
1958年(昭和33年)、44歳。
合唱頌詩『オホーツクの海』を作曲。
1960年(昭和35年)、46歳。 
北海道大学合唱団委託作品、独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』を作曲。
バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』を作曲。
1961年(昭和36年)、47歳。
合唱曲『北海道賛歌』を作曲。
ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』を作曲。
1965年(昭和40年)、51歳。母・キワ死去。
1967年(昭和42年)、53歳。
ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』を作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)。
1968年(昭和43年)、54歳。
『管絃楽法』(音楽之友社)の上巻増補改訂版と下巻を刊行。
1969年(昭和44年)、55歳。
ギター独奏曲『箜篌歌』を作曲。
1970年(昭和45年)、56歳。
大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がけました。
ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』を作曲。
1972年(昭和47年)、58歳。
吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』を作曲。
バレエ音楽『日本二十六聖人』を作曲。
1973年(昭和48年)、59歳。
邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』を作曲。
1974年(昭和49年)、60歳。
東京音楽大学作曲科教授就任。
1976年(昭和51年)、62歳。
同大学長就任。
マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』を作曲。
1979年(昭和54年)、65歳。
『ヴァイオリン協奏曲第二番』を作曲。
二十絃箏曲『物伝舞』を作曲。
1980年(昭和55年)、66歳。
リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』を作曲。
紫綬褒章受章。
芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催。
1982年(昭和57年)、68歳。
二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』を作曲。
1983年(昭和58年)、69歳。
管弦楽曲『SF交響ファンタジー』を作曲。
ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催。
1985年(昭和60年)、71歳。
『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。
1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受章。
1989年(平成元年)、75歳。
1990年(平成2年)、76歳。
管絃司判『鞆の音』を作曲。
1991年(平成3年)、77歳。
『ゴジラVSキングギドラ』で13年ぶりに映画音楽を担当。
1992年(平成4年)、78歳。
独唱曲『摩周湖』を作曲。
1993年(平成5年)、79歳。
交響的音画『釧路湿原』を作曲。
1994年(平成6年)、80歳。
独唱曲『因幡万葉の歌五首』を作曲。
1996年(平成8年)、82歳。
日本文化デザイン賞大賞受賞。
1997年(平成9年)、83歳。
二十五絃箏曲『胡哦』を作曲。
「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団、札幌コンサートホールKitara。北海道文化放送・北海道新聞社主催)開催。
『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演。
1999年(平成11年)、85歳。
二十五絃箏曲『琵琶行』を作曲。
2000年(平成12年)、86歳。
独唱曲『蒼鷺』を作曲。独唱曲『聖なる泉』を作曲。妻・アイ死去。
2002年(平成14年)、88歳。
「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団、紀尾井ホール)。
2003年(平成15年)、89歳。
チェンバロ独奏曲『小ロマンス』を作曲。
文化功労者顕彰。
2004年(平成16年)、90歳。
「文化功労者顕彰お祝いコンサート」開催(第一生命ホール)。
「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団、サントリーホール)。
2005年(平成17年)、91歳。
11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、
「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催。
2006年(平成18年)、2月8日 死去。91歳没。
従四位に叙されました。
(伊福部昭)
井上梅次さん
(1923年5月31日-2010年2月11日、86歳没)
映画監督、脚本家、作詞家。
5月31日は、この人のお誕生日です。
京都市生まれ。
京都市立第一商業学校を卒業後、
慶應義塾大学経済学部に入学するも、
1943年応召、
1945年に復学して1947年に卒業。
在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。
自作の脚本を盛んに売り込み、
1952年、
わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。
雪村いづみの音楽映画などを手掛けました。
1955年、日活に移籍。
当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、
『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。
裕次郎は大スターとしての地位を確立。
1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。
井上は邦画6社で監督を経験。
東西両撮影所を持つ大映、東映、松竹ではいずれも両方で撮っているほか、 
ドキュメンタリーながら東宝傍系の東京映画でも1971年に監督を経験。
戦後日本映画で長期間一般劇場映画を製作し続けた
大手6社系列11の撮影所すべてで監督経験を有する記録に。
その他、
香港のショウ・ブラザーズでも17本の映画を撮りました。
1965年以降は、
日本ではほぼ松竹大船撮影所に腰を据えた形となり、
テレビでの代表作「江戸川乱歩の美女シリーズ」に結実。
邦画界全盛期にプログラムピクチャーを手掛けていたため、
その監督作品数は110本を超えます。
この数は戦後の映画監督としては、
ピンク映画系の監督陣を除けば日本一。
劇場用映画だけでなく、
テレビドラマの監督も多数務め(日本の映画監督としては初めて、スタジオ撮影によるテレビドラマを監督した)、
テレビドラマの監督作品数は150本を超えます。
2010年2月11日に脳出血で死去。
(井上梅次、月丘夢路と共に)
小泉博さん
(1926年8月12日-2015年5月31日、88歳没)
俳優、司会者。
5月31日は、この人の命日です。
神奈川県鎌倉市出身。
身長173cm、体重72kg。
政治家の小泉策太郎の八男として誕生。
兄に日本画家の小泉淳作。
11歳で父と死別し、
慶應義塾高等学校を経て1943年、慶應義塾大学経済学部に入学。
昭和23年(1948年)に卒業、
NHK第20期アナウンサーとして入局。
この進路選択については、
NHK入局後、
昭和25年(1950年)頃に大分放送局に配属。
同年9月、
休暇で上京した際にNHK内で放送劇をやっていたこともあり、
興味本位の軽い気持ちで1951年公開の藤本眞澄が代表を務める
藤本プロの『えり子とともに』のフレッシュマン募集に応募し、
3人の合格者の一人に選ばれます。
これを受けNHKを退職し、同映画に出演する。
その後、
東宝に復帰した藤本から誘われて、東宝ニューフェイス第3期生に応募し、合格。
同期には山本廉、岡田茉莉子。
1951年6月、東宝に入社して、
翌1952年1月、『青春会議』で主演スターとして売り出されます。
都会的な明るい持ち味の二枚目ぶりが人気を呼び、
特に1956年から1960年にかけての
江利チエミ主演の『サザエさん』シリーズでのマスオ役が当たり役に。
初期の東宝特撮映画では、
小泉と共演した佐原健二、平田昭彦、土屋嘉男などと並んで欠かせない存在でした。
1961年以降は次第にテレビへと活躍の場を移し、
1970年には『クイズ・グランプリ』の司会を務め、
アナウンサー経験者とあって、巧みな話術を生かした名司会ぶりで人気を博します。
レストラン「チェック」を経営し、
1990年代後半からはフランキー堺の後押しなどもあって日本俳優連合での取りまとめ役に従事。
2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』で俳優業に復帰。
『モスラ』(1961年)と同じ中條役としての登場で、久々のゴジラ映画出演となりました。
同時期にも、
テレビ『超星神グランセイザー』に中条という名の役で出演。
2015年5月31日午前2時20分、間質性肺炎のため死去。
88歳没。
(小泉博)

蓮舫さん

昭和時代アイスキャンディーやアイスクリームは自転車で売りに来ました🥰🐼❤️

🎤☀今日までそして明日から☀☆🎙☆
🎸よしだたくろう🎸🎤
🎸🎵🎤🎵🎸👉 https://youtu.be/rh76yCwMy7s
「今日までそして明日から」は、よしだたくろう(現・吉田拓郎)の楽曲で、3枚目のシングル。1971年7月21日にCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)から発売。CBSソニーに移籍して初のシングルである。宣伝活動がままならず売上も芳しくなかったが、ステージで人気が出始めた。表題曲は、後の1972年に、映画『旅の重さ』の劇中歌、2001年にアニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の挿入歌、2016年にサントリーBOSSコーヒーCM『地球調査シリーズ おまわりさん篇』、2017年に映画『恋妻家宮本』の劇中歌に使用された。吉田拓郎の代表曲として知られるが、発売された1971年の読売新聞文化部の大沼正によるレコード評では「"時にはだれかの力をかりて" "今日まで生きてみました"なんてさっぱり分からない。若者のちょっぴりした感慨を並べただけじゃないか、という気がする。よしだはフォーク界では、かなり通ってるらしいがこの歌に限り岡林や高石とはほど遠い。メロディもなく、歌にもなっていず、なによりフォークの持つ風刺やユーモアが欠けている。ボブ・ディラン近くは浅川マキを聞き直すべきだ」と言われている。
🎸🎵🎤🎵🎸👉👉 https://youtu.be/aVELfjNeiwc

♥️💃2023/ 5/31 鈴木京香(55歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/5/31 ブルック・シールズ

(58歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/ 5/31 クリント・イーストウッド(93歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

『西部警察』 1979 テレビ朝日・石原プロ
『西部警察』は、テレビ朝日・石原プロ制作の刑事ドラマ。
派手な銃撃戦やカースタント、さらには巨額の費用を投じた爆破シーンなどが人気を呼びました。😀
1979年から1984年までの放送の約5年間での数字(いずれも公称)
・制作数…238話
・平均視聴率…14.5%(関東地区)
・出演俳優…1万2,000人
・ロケ地…4,500箇所
・封鎖した道路…40,500箇所
・飛ばしたヘリコプター…600機
・壊した車両の台数…約4,680台(1話平均・20台)
・壊した家屋や建物…320軒
凄いです。今だと同じようには、撮影できないですね。
 
浜村淳さん✨恩地食品CM
『ああ、おんちかった。』
懐かしいですね~
今でも購入しますよ😋

東京みやげ.昭和時代の定番でしたね🥰🐼❤️

若いっていいな。桑田ご夫婦。

探偵ナイトスクープ
歴代の局長は、それぞれに個性があって、皆さん大好きなのですが、秘書はやはり岡部まりさんが、個人的には1番好きでした
昭和の夜の歴史資産、ストリップ劇場。
盛り場(死語かな?)の外れや、温泉地などには必ずありました。そして、時々、新聞の社会面のこれも片隅に、「公然わいせつ罪で経営者、踊り子ら数人が逮捕」なんて記事が現れる。誰もが知っている、その意味を。
こういうことも昭和ですね。
ルックルックこんにちは
女ののど自慢やヨネスケさんの突撃!隣の晩ごはんなどのコーナーがありましたね(^^)
28サンチ砲の移動を1日では無理であります。
いくさは気合いじゃぞ。これは命令じゃ。
昭和の杭打ち機‼️ 迫力💥
煙の出る重機!巨大な鉛筆の様なコンクリート杭! 街のあちこちで‼️
『スチュワーデス物語 悪女・片平なぎさ』1983
『スチュワーデス物語』では『片平なぎさ』さんの悪女ぶり凄かったですね。放送中は、世間からのバッシングがひどかったそうです。
☆新藤 真理子( 浩の婚約者 ) 演『片平なぎさ』
新藤商事の社長の一人娘。3歳からピアノを始め、ピアニストを目指してパリに留学。
彼女のピアノの評判を聞いてエクサン・プロヴァンス音楽祭を留学先のパリから聴きに来た浩 (村沢 浩【478期担当教官】 風間杜夫) と出会い、二人は付き合い始めます。
真理子は、19歳の時ウィーンの音楽コンクールで優勝。
しかし、スキーに行った際に浩と衝突し、両手の指を粉砕骨折したために義手となり、夢を諦めざるを得なくなりました。
以来心がすさみ、浩への憎悪から浩に生涯の責任を強迫したり、千秋 (松本千秋【主人公/478期】堀ちえみ) への嫉妬に狂って嫌がらせをしたりします。『片平なぎさ』さんの鬼気迫る迫真の演技。怖かったです。😄

♥️💃2023/6/9 ジョニー・デップ(60歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

小学校1~2年生の時に
楽しいロンドン
愉快なロンドンて
CMが流れていて
ロンドンて
パン屋さんの事かなぁて
思っていたら
後年
キャバレーだって事を
知って驚きました

昔の氷で冷やす冷蔵庫

戦後の屋台
昭和30年頃かと思われます。暑いから上半身裸、今なら保健所が飛んで来ますね。

マッハGoGoGo

National
8トラック カセット  ホームカラオケ🎤🎶
昭和60年頃に父親が職場の部下を連れてきて家で歌ってましたよ😳

吉永小百合さん 昭和20年東京都渋谷区生まれ。昭和43年「中国・日本映画祭」に日本代表団の一員として訪中した際、熱烈歓迎で連日宴会に招かれ三杯がせいぜいなアルコール度数65%もあるマオタイ酒をぐいぐいと十杯飲み干しても平然とし、並みいる酒豪連を瞠目させたとの事。僕は世代は違いますが、その時代に生まれていたら間違いなく「サユリスト」だったと思います。

多分ね!多くの映画ファンはね!日本の女優を一人あげろって!いわれたらね?圧倒的に(原節子)だろうね?…しかしね!俺的には(野川由美子)だな!…特に生臭坊主(今東光)+(清順美学)の『河内カルメン』がいい!…例によってストーリィはハチャメチャで訳がわからない!でもね!野川由美子がドラム缶のお風呂に入るシーン!…あれだけのセクスィさと恥じらいは他の誰にも出せない!(桃井かおり)も(宮下順子)も(三原葉子)も(池玲子)も(永島暎子)とも違う?(をんな)の美しさがそこにある!…