④【落語】落語会等( ^ω^)・・色々な枕話

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妊婦さんになっていろんな音楽を聞かせたり、
スパイになっていろんな任務をしたりと大忙し!
演芸コーナーでは、友近さんが演じる数々の名キャラクターの中でも
クセの強いおじさん『西尾一男』さんの
コントをお届けします。
お楽しみに!
2024/1月1日に放送休止となった
「笑点 お正月だよ!大喜利祭り」から
お送りします!
木久扇さんをリーダーとする東の笑点チームと
桂文枝さん率いる西の人気落語家による
東西対抗大喜利
西のメンバーには、
西の下ネタ代表 笑福亭鶴光さん
笑福亭鶴瓶の11番弟子 笑福亭鉄瓶さん
顔も声もでかい 桂雀々さん
西のリーダー 桂文枝さん
阪神タイガース一筋 月亭八方さん
西のいじられキャラ 月亭方正さん
そして、演芸は友近さんの珠玉のネタ「ヒール講談」!
お楽しみに!
大喜利では、こんな木久扇さんがいたら面白いという、
「驚く木久扇」を5文字で発表。
お客さんもメンバーも笑いがとまりません。
演芸は、寄席とラジオで日々話芸を磨いている、
ロケット団のお二人です。
どうぞ、お見逃しなく!
演芸は実力派漫才コンビのハマカーン!
メガネをかけた神田伸一郎さんは
セレブタレントで知られる神田うのさんの弟。
どうやら弟もお金持ちのようです。
大喜利では、
「最後尾」の立て札を持って一言いう問題や
先日、惜しくも亡くなられた八代亜紀さんの
名曲「舟歌」から、しみじみ飲んで一言いう
問題が出されます!
お楽しみに!
六代目三遊亭円楽さん
(1950年2月8日-2022年9月30日)
落語家、俳優。
身長171cm。
東京都墨田区出身。
墨田区立両国中学校、
東京都立深川高等学校、
青山学院大学法学部卒業。
出囃子は『元禄花見踊』。
五代目圓楽一門会所属で、幹事長を務めました。
2017年6月27日から、
客員として落語芸術協会に加入し、
2つの噺家団体で活動。
長男は落語家・声優の会一太郎(落語家としての名称は三遊亭一太郎)。
また、前名は三遊亭楽太郎。
[芸歴]
1970年4月、
五代目三遊亭圓楽に入門、「楽太郎」を名乗ります。
1976年7月、二ツ目昇進。
1977年8月、 『笑点』の大喜利メンバーに加入。
1978年、
落語協会分裂騒動で師匠と共に落語協会を脱退し、
落語三遊協会所属。
1980年、
落語三遊協会解散、大日本すみれ会所属。
1981年3月、真打昇進。
2010年、 『六代目三遊亭圓楽』を襲名。
2017年6月、落語芸術協会に客員として加入。
『滝田ゆう落語劇場(全)』
滝田ゆう(ちくま文庫)
1988年9月第1刷発行
2007年12月第14刷発行
BOOK OFF
滝田ゆうのことは『月刊漫画ガロ』で知った。
水木しげる、白土三平、つげ義春らと共に、
ガロの初期より日本的な情感に溢れた作品を発表していた。
本作は、1983年に文春文庫より2分冊で刊行された。
ちくま文庫に移るにあたり、新たな古典落語3席を加え、計38席となった。
滑稽噺から人情噺、廓噺、怪談噺まで、
江戸の情景を描いた滝田ゆうの絵が良くマッチしている。
ハルカス寄席3月出演日
【場所】あべのハルカス9階「スペース9」
【枝曾丸出演日】3月7日(木)
【出演】
13:00 / まどか(浪曲)・文鹿・銀瓶
14:30 / 呂好・枝曾丸・春若
料金<自由席・税込>
1部か2部のみ / 1,500円
通し券 / 2,000円
※同日2ステージ続けて観劇する場合は2回目1,000円引き
※当日券のみ
【お問合せ】
近鉄アート館 : 06-6622-8802(11:00〜18:00 — 桂文鹿さんとあべのハルカスにいます。
『 大事なことはすべて立川談志に教わった 』
  立川談慶 ( KKベストセラーズ )
  先日、田町の本屋さんで出会ったこの本。
落語家立川談慶さんの修行時代のお話。
慶應大学卒業後、ワコールの社員として働いていたが、
3年後に会社を辞め、25歳で立川談志に弟子入り。
前座から、二つ目になるのに通常4、5年のところ、9年半。
その5年後に、真打昇進。
生真面目で、不器用でドジな著者の様々な失敗と、
談志師匠の愛情溢れる無茶ぶりが描かれた。
25時間連続で、25席を演じたり、
タップや、アカペラとの競演など新しい落語に挑戦している。
この本、思った以上に面白かった。ダンケシェーン。
《お江戸上野広小路亭 2/26》
しのばず寄席2月26日は、笑福亭鶴光師がトリ。
一門の希光さん、和光師に、三四郎師も出演し、上方色の強い顔付けになった。
月曜の昼にも関わらず、40名を超える入り。
昔、良く聴いていたオールナイトニッポンでは、「つるこうでおまっ」と言っていたが、
高座では「つるこ」と呼ぶのが正しい。
他の二人も「きこ」「わこ」。
林家つる子さんも、「つるこ」ですから、ちと紛らわしい。
活動弁士の坂本頼光さんは、「らいこう」です。初めて聴きましたが、もっと聴きたくなりました。
太福先生、小すみ先生は安定の面白さ。
バラエティーに富んだ演目を20〜30分聴かせる「しのばず寄席」。癖になりそう。
しのばず寄席2月後半 開演12:00
(前)桂しゅう治   手紙無筆
(ニ)笑福亭希光   転失気
桂三四郎      MOMO(三四郎作)
笑福亭和光     鼓ヶ滝
宮田陽・昇      漫才
立川ぜん馬     味噌蔵
仲入り
玉川太福、みね子   浪花節じいさん(浪曲)
坂本頼光       赤ずきん、血煙高田馬場(活動弁士)
桂小すみ       音曲、どどいつテイクファイブ(三味線芸)
笑福亭鶴光     竹の水仙
終演16:10 木戸銭2,500円
三遊亭鳳楽さん
(1947年3月1日-)
埼玉県川越市出身の落語家。
五代目圓楽一門会顧問。
出囃子は『松の太夫』又は『正札付』。
1965年10月、五代目三遊亭圓楽に入門。
五代目三遊亭圓楽の総領弟子であり、
圓楽の師匠六代目三遊亭圓生にとって初の孫弟子。
前座名は
大師匠圓生の本名「山崎松尾」の「松」の一字をとり「楽松」と名づけ、
「楽松」の名前は「鳳楽」に改名後自身の惣領弟子に名付けました。
入門後、師匠の圓楽は自身の活動が忙しく、
又当時大師匠圓生の身の回りの世話をする前座がいなかった為、
鳳楽を圓生に預け修行させていました。
1972年11月に
柳家さん喬、五街道雲助、柳家さん治、金原亭駒三、三遊亭梅生、立川談十郎と共に二ツ目昇進。
1977年、
第6回NHK新人落語コンクール 最優秀賞を受賞。
1978年、
日刊飛切落語会若手落語家奨励賞を受賞。
この年落語協会分裂騒動で大師匠圓生、師匠圓楽と共に落語協会を脱退。
1979年9月に真打昇進し「鳳楽」と改名。
真打昇進披露宴が帝国ホテルで行われた1979年9月9日は、
直前の9月3日に大師匠圓生が急逝して初七日。
圓生存命中に真打が内定していた孫弟子も、
鳳楽のみ。
1993年、文化庁芸術祭賞。
2007年、師匠圓楽の引退表明により、
円楽一門会→五代目円楽一門会の会長に新任。
2015年、
五代目円楽一門会会長の座を三遊亭好楽に譲り、
同会顧問に就任。
2023年ごろから両国寄席や一門会などへの出演は控えています。
三遊亭小遊三さん
(1947年3月2日-)
落語家。
身長165cm。
落語芸術協会所属、同協会参事。
出囃子は『ボタンとリボン』又は『春はうれしや』。
定紋は『高崎扇』。
日本テレビ『笑点』の大喜利メンバー。
神奈川県横浜市生まれ。
山梨県大月市で育ちました。
山梨県立都留高等学校在学中、
卓球部でキャプテンを務めていた事から、
1964年の東京オリンピックでは聖火ランナーに抜擢。
地元の山梨県大月市で1.2km区間を走り、
1998年の長野オリンピックでも聖火ランナーを務め、この時は東京都内を走っています。
更に、
2021年に開催された東京オリンピックでも三たび聖火ランナーを務めており、
山梨県の聖火ラン2日目の第一走者として、
笛吹市の約200mを走りました。
卓球選手としては、
高校・大学と卓球部に所属し、
1966年に山梨県卓球選手権で優勝。
国体出場には惜しくも届かず、
「(卓球は)ここまでだな」と限界を感じたことから、
1968年に落語界へ転身。
落語家になった後も
らくご卓球クラブのヘッドコーチを務め、
世界ベテラン卓球選手権大会に数回出場。
明治大学経営学部在学中に六代目三遊亭圓生の弟子入りを志願し、
圓生の自宅に通い落語を習っていましたが、
断られます。
不憫に思った圓丈から、
「落語協会はうちの師匠が会長だから、
落語芸術協会(当時は日本芸術協会)に行って、
古典落語をやりたかったら古典落語の得意な若手真打に弟子入りするのがいいんじゃないか?」
とアドバイスを受けて、
三代目三遊亭遊三に弟子入り(前座名:三遊亭遊吉)。
前座時代には、
同い年である林家九蔵(現:三遊亭好楽)の実家に居候していた時期が。
1973年9月に二ツ目昇進し「小遊三」に改名。
1980年、文化庁芸術祭優秀賞を受賞。
鈴本演芸場は落語芸術協会に小遊三の真打昇進を何度か打診したものの、
同協会が認めなかったため、
1982年3月中席夜の部で二ツ目の小遊三をトリに起用。
2年後、
鈴本演芸場は落語芸術協会と絶縁する事に。
翌1983年3月、真打昇進。
同年10月16日には、
三遊亭好楽の後任として『笑点』の大喜利レギュラーに就任。
1999年9月、落語芸術協会副会長付に就任。
2001年、文化庁芸術祭優秀賞受賞。
2005年2月、
落語芸術協会副会長七代目春風亭柳橋死去に伴い、副会長に就任。
12月には山梨県より「富士の国やまなし観光大使」を委嘱。
2016年4月、
心房細動不整脈によりカテーテルの手術を受け、
2018年6月、
落語芸術協会会長桂歌丸の死去に伴い、
副会長在職のまま「会長代行」に就任。
2019年6月、
落語芸術協会理事(会長代行兼副会長)を退任、
新設された参事に就任。
三代目古今亭志ん朝さん
(1938年3月10日-2001年10月1日)
東京都文京区本駒込出身の落語家。
出囃子は『老松』。
定紋は『鬼蔦』。
五代目古今亭志ん生の次男。
十代目金原亭馬生の弟、
女優の池波志乃は姪、
俳優の中尾彬は義甥。
七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、
若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれました。
他に、
同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称されます。
1957年2月に実父五代目古今亭志ん生に入門。
前座名は朝太。
柳家小光と共に2月1日から前座入り。
1959年3月、二ツ目昇進。
1962年5月、
五代目春風亭柳朝と共に36人抜きで真打昇進し、
三代目古今亭志ん朝襲名。
林家こん平さん
(1943年3月12日-2020年12月17日)
落語家。
新潟県刈羽郡千谷沢村(のち小国町、現・長岡市)出身。
愛称は「こんちゃん」。
出囃子は『佐渡おけさ』。

落語協会理事等を歴任、
演芸番組『笑点』において、
放送開始当初から長らく大喜利メンバーの一人でしたが、
病気により2006年4月から相談役。

1958年3月、中学卒業後、初代林家三平に入門。
前座名「こん平」。
1962年11月、二ツ目昇進。
1965年4月、 『金曜夜席』(日本テレビ)出演。
1966年5月、 『笑点』(日本テレビ)に第1回から出演。
1969年3月 『笑点』初代司会者・7代目立川談志との対立により、
こん平含むメンバー全員が降板。
1972年7月、『笑点』復帰。
9月、真打昇進。
2004年9月 『笑点』を休演。
12月26日放送分から弟子のたい平が代役として出演。
2005年、多発性硬化症と診断されたことを公表。
2006年5月、
 『笑点』40周年を機に大喜利メンバーの座をたい平に譲り、『笑点』を降板。
2007年、
リハビリを続けながらも「第26回林家三平追善興行 林家一門会」にて高座復帰。
2010年3月、
6年近い闘病・リハビリの日々を中心に半生を綴った著書を講談社から刊行。
2020年12月17日14時2分、
誤嚥性肺炎により死去。
77歳没。
『落語は生に限る!』
日原雄一(彩流社)
2021年6月第1刷発行

現役の精神科医による落語会鑑賞録。
2011年からコロナ禍の2021年までの記録。
上野鈴本の企画ものに連日通ったり、
立川談志師、柳家喬太郎師、イエス玉川先生、三遊亭天どん師、古今亭寿輔師らを偏愛する著者。

落語は、人により色々な楽しみ方があるなぁ。
『 居酒屋の誕生 』
  飯野亮一 ( ちくま学芸文庫 )

巻末の参考文献一覧が凄い。

江戸時代の料理や食文化を伝える
240冊余りの史料が12ページにもおよぶ。

そこから、多くの絵や、川柳、俳句を抜き出し、
江戸の居酒屋文化の変遷を探った労作。

酒屋ではじまった居酒の商い。

煮売茶屋から居酒屋へと変わり、
芋煮、鍋物、ふぐ汁、鮟鱇鍋、ねぎま、刺身など、
様々な単品の肴を提供する店が生まれた。

古来、常温で飲むのが普通だった酒は、
江戸中期以降、年中燗酒が普通になった。

目から鱗の居酒屋薀蓄話が満載。
え~ど、え~どのe酒屋、ダンチョネ(誕生ね)。
毒蝮三太夫さん
(1936年3月31日- )
俳優、タレント、ラジオパーソナリティ。
身長170cm。
東京都立大森高等学校卒業、
日本大学芸術学部映画学科卒業。

大阪市住吉区出身。
生後3カ月で東京市荏原区中延(現在の東京都品川区中延)に転居。
第二次世界大戦中は、
神奈川県横浜市戸塚区の親戚宅に縁故疎開。
1945年から1950年迄東京の浅草竜泉寺で育ち、
1948年、
台東区立下谷中学校1年の時、
友人と共に『鐘の鳴る丘』の舞台のオーディションに行ったところ、
台詞の読みの闊達さを買われて自分だけが採用され、
本名で子役デビュー、戦災孤児を演じました。

1966年には『ウルトラマン』に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演、子どもたちの人気者に。
引き続き翌年の1967年に制作、放送された『ウルトラセブン』でもほぼ同様の役柄であるウルトラ警備隊のフルハシ隊員として出演。

江戸弁の要素がみられる話し方が特徴的で、
1969年から開始した『ミュージックプレゼント』(TBSラジオ)の中継先レポーターとして長年活躍し、
聴衆一人一人に語りかける際の愛のある悪口が人気を呼び、長寿番組に。
関東地方では高い知名度を誇るラジオスターの一人。
聖徳大学短期大学部客員教授も務めます。

2021年4月21日からYouTuberとしても活動を開始。
昭和51年頃の笑点メンバー