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2023/08/15  本日は終戦記念日でしたので、靖国神社に行ってきました
これを懐かしいと言っていいのか悩みましたが、戦争反対と言うのと祖父が体験者でシベリア帰りとの事もあり、敢えて記載しました。世界平和を祈ります🙏
「終戦の日」
この遺書は、靖国神社で頂きました
「日本のいちばん長い日」
1967年(昭和42年)に公開された日本映画。
製作・配給は東宝。白黒、シネマスコープ。
東宝創立35周年記念作品のひとつとして映画化。
東宝内部では、
ヒットさせることよりも製作する意義を重視する声が多かったといいます。
本作をきっかけとして「東宝8.15シリーズ」として
1972年(昭和47年)の『海軍特別年少兵』まで6本の映画が製作。
昭和天皇は
この映画を公開年の12月29日に家族とともに鑑賞。
[スタッフ]
製作:藤本真澄、田中友幸
原作:大宅壮一
脚本:橋本忍
音楽:佐藤勝
撮影:村井博
美術:阿久根巌
録音:渡会伸
照明:西川鶴三
編集:黒岩義民
監督助手:渡辺邦彦
製作担当者:鈴木政雄
整音:下永尚
製作・配給:東宝
監督:岡本喜八
[出演者]
エンディングの配役クレジットタイトルは、
昭和天皇役の八代目松本幸四郎以外は登場順で表示。
昭和天皇(演:松本幸四郎)については、
重要な登場人物かつ存命で在位中の時代ということもあってか、
クレジットもパンフレットにも紹介されていないなど、
扱われ方に特別な配慮がされています、
※はクレジットなし。
(政府関係者)
・内閣
鈴木貫太郎男爵(内閣総理大臣) - 笠智衆
東郷茂徳(外務大臣) - 宮口精二
米内光政(海軍大臣) - 山村聡(特別出演)
阿南惟幾(陸軍大臣) - 三船敏郎
岡田忠彦(厚生大臣) - 小杉義男
下村宏(情報局総裁) - 志村喬
石黒忠篤(農商務大臣) - 香川良介
広瀬豊作(大蔵大臣) - 北沢彪
松阪広政(司法大臣) - 村上冬樹
豊田貞次郎(軍需大臣) - 飯田覚三
大臣 - 山田圭介
大臣 - 田中志幸
・官邸
迫水久常(内閣書記官長) - 加藤武
木原通雄(内閣嘱託) - 川辺久造
佐藤信次郎(内閣官房総務課長) - 北村和夫
佐野小門太(内閣理事官) - 上田忠好
鈴木一(総理秘書官) - 笠徹
小林海軍軍医 - 武内亨
首相官邸警護の巡査 - 小川安三
・外務省
松本俊一(外務次官) - 戸浦六宏
大江晃(電信課長) - 堤康久
・情報局
川本信正(情報局総裁秘書官) - 江原達怡
・宮内省関係者
石渡荘太郎(宮内大臣) - 竜岡晋
加藤進(総務局長) - 神山繁
筧素彦(庶務課長) - 浜村純
佐野恵作(総務課員) - 佐田豊
・陸軍関係者
-陸軍省
若松只一中将(陸軍次官) - 小瀬格
吉積正雄中将(軍務局長) - 大友伸
荒尾興功大佐(軍事課長) - 玉川伊佐男
井田正孝中佐(軍務課員) - 高橋悦史
椎崎二郎中佐(軍事課員) - 中丸忠雄
竹下正彦中佐(軍事課員) - 井上孝雄
畑中健二少佐(軍事課員) - 黒沢年男
小林四男治中佐(陸軍大臣副官) - 田中浩
-参謀本部
梅津美治郎大将(参謀総長) - 吉頂寺晃
-第一総軍
杉山元元帥(司令官) - 岩谷壮
-第二総軍
畑俊六元帥(司令官) - 今福正雄
白石通教中佐(参謀兼司令官副官) - 勝部演之
-東部軍
田中静壱大将(司令官) - 石山健二郎
高嶋辰彦少将(参謀長) - 森幹太
不破博大佐(高級参謀) - 土屋嘉男
稲留勝彦大佐(参謀) - 宮部昭夫
板垣徹中佐(参謀) - 伊吹徹
神野敏夫少佐(参謀) - 関田裕
塚本清少佐(司令官副官) - 滝恵一
-近衛師団
森赳中将(第一師団長) - 島田正吾
水谷一生大佐(参謀長) - 若宮忠三郎
渡辺多粮大佐(歩兵第一連隊長) - 田島義文
芳賀豊次郎大佐(歩兵第二連隊長) - 藤田進
古賀秀正少佐(参謀) - 佐藤允
石原貞吉少佐(参謀) - 久保明
大隊長 - 久野征四郎
宮城衛兵司令所の伍長 - 山本廉
徳川侍従を殴る師団兵 - 荒木保夫
師団兵 - 桐野洋雄
師団兵 - 中山豊
-児玉基地(陸海混成第27飛行集団)
野中俊雄大佐(飛行団長) - 伊藤雄之助
児玉基地副長 - 長谷川弘
少年飛行兵 - 大沢健三郎
-横浜警備隊
佐々木武雄大尉(隊長) - 天本英世
-航空士官学校
黒田大尉- 中谷一郎
憲兵隊
東京放送会館警備の憲兵中尉 - 井川比佐志
・海軍関係者
-軍令部
豊田副武大将(軍令部総長) - 山田晴生
大西瀧治郎中将(軍令部次長) - 二本柳寛
-海軍省
保科善四郎中将(軍務局長) - 高田稔
-厚木基地(第三〇二海軍航空隊)
小園安名大佐(司令) - 田崎潤
菅原英雄中佐(副長) - 平田昭彦
飛行整備科長 - 堺左千夫
・宮城関係者
-重臣
木戸幸一(内大臣) - 中村伸郎
平沼騏一郎(枢密院議長) - 明石潮
侍従
蓮沼蕃大将(侍従武官長) - 北竜二
中村俊久中将(侍従武官) - 野村明司
清家武夫中佐(侍従武官) - 藤木悠
藤田尚徳(侍従長) - 青野平義
徳川義寛(侍従) - 小林桂樹
三井安弥(侍従) - 浜田寅彦
入江相政(侍従) - 袋正
戸田康英(侍従) - 児玉清
岡部長章(侍従) - 関口銀三
・日本放送協会関係者
大橋八郎(日本放送協会会長) - 森野五郎
矢部謙次郎(国内局長) - 加東大介
荒川大太郎(技術局長) - 石田茂樹
高橋武治(報道部長) - 須田準之助
館野守男(放送員)- 加山雄三
和田信賢(放送員) - 小泉博
長友俊一(技師) - 草川直也
技師 - 今井和雄
技師 - 加藤茂雄
・その他
原百合子(鈴木首相私邸女中) - 新珠三千代
政治部記者 - 三井弘次
佐々木大尉の後輩・横浜工高生(横浜必勝学生連盟) - 阿知波信介※
ビラを拾う街の男 - 夏木順平
ビラを拾う街の浮浪児・兄 - 頭師佳孝※
ビラを拾う街の浮浪児・弟 - 雷門ケン坊※
枢密院会議の重臣 - 秋月正夫
枢密院会議の重臣 - 野村清一郎
起田志郎
ナレーター - 仲代達矢
・特別出演
昭和天皇 - 松本幸四郎(八代目)
(日本のいちばん長い日・1967年)
「加藤隼戦闘隊」1644年製作 
山本嘉次郎監督 藤田進主演
第二次大戦中、新鋭戦闘機“隼”を乗りこなし、軍神といわれた加藤建夫の伝記映画。主演の藤田進にとっても当たり役となった。円谷英二による空中戦の特撮に目が引かれる。
1968年のリバイバル公開以来久しぶりに、終戦記念日の日にBS日本映画専門チャンネルにて視聴。

「俺たちの旅」「パパと呼ばないで」……ドラマの金字塔が時代を超えてよみがえる『昭和 傑作テレビドラマ DVDコレクション』


『昭和 傑作テレビドラマ DVDコレクション』

 

『昭和 傑作テレビドラマ DVDコレクション』

居酒屋ゆうれい 1994年東宝配給
                渡邊孝好監督
街はずれの居酒屋"かづさ屋"の主人、壮太郎(萩原健一)は、病気で亡くなった前妻・しず子(室井滋)との約束を破り、若い後妻・里子(山口智子)を迎える。しかし初夜の床に現れたのは怒った前妻のゆうれいだった。ところがそのゆうれいのしず子と里子はなぜか意気投合し奇妙な共同生活を始めることに…
山本昌代の同名小説の映画化作品。いま思えば豪華な俳優陣です。音楽は梅林繁が担当し、主題歌は平松愛理が歌う"あなたのいない休日"。コメディタッチな作風だが味わい深さをを描出しているのはの萩原健一、室井滋、山口智子の三人の絡みの良さと脇の俳優陣がいい。
壮太郎は下町飲み屋のオヤジによくいる職人気質タイプでシャイだけど客に対する目配りや気遣いは完璧。萩原健一の優しい顔が印象的。なんか前年放送してたドラマ『課長さんの厄年』のキャラが似ている感じがする。
里子の自然で明るいとこが文句なしに可愛い。でも何か悩み事がある様子。同年のドラマ『スウィートホーム』など大人気の山口智子の本領発揮。
ゆうれいのしず子は寂しくて二人のもとへ遊びにくる感じで怨みなどは無い。最後は二人のために..?。室井滋の演技力でなければ、ゆうれいは務まらなかったかもしれない。日本アカデミー賞、ブルーリボン賞、キネマ旬報など助演女優賞を総ナメ。
しず子がいなくなり店は大忙し。見かねた壮太郎の兄・豊造(尾藤イサオ)が里子とお見合いをさせ、二人はすぐに惹かれ合い結婚。ゆうれいのしず子が里子の身体を借りて壮太郎と寝るシーンで、山口智子のかなり際どい裸体が拝めるラッキー感!
居酒屋かづさ屋は、『吉田類の酒場放浪記』に出てくるような居酒屋(昔風の感じで縄のれんをくぐる居酒屋)で常連客の会話や、知らないお隣さんとも気さくに会話できる雰囲気。多分、生前はしず子も気っ風のいい客あしらいが上手く人情味溢れていたに違いないが、里子の若い健康的な色気と活気溢れる接客には勝てないでしょう。瓶ビールをジャンジャン注いでくれるサービスぶり
里子目当ての客が増えて毎晩大繁盛。幼ななじみの辰夫(三宅裕司)は元嫁・カスミ(余貴美子)のために野球賭博に運命を託したり、よく気がきく三河屋酒店の幸一(西島秀俊)、口うるさい魚春のオヤジ(八名信夫)、家族を捨て蒸発した佐久間(橋爪功)、父を探し歩く娘、そんな人間たちが束の間の寂しさを忘れるために集まる溜まり場となっていった。しかし、店前に来たムショ帰りでヤクザの杉本(豊川悦司)が里子に会いに来る。
かづさ屋に集まってくる人達のあの楽しそうな表情、ゆうれいのしず子を見ていても楽しい。こういう心温まる人達が集まる居酒屋、その雰囲気は、どこをとっても邦画ならではの人情物。とにかく俳優陣が皆、本当に楽しそうに演じているのがいい。"居酒屋"と"ゆうれい"という日本ならではの組み合わせもいいですね。
「松川事件」
1949年(昭和24年)8月17日に
福島県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線で起きた列車往来妨害事件。
日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられます。
下山事件、三鷹事件と並んで
第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」のひとつといわれており、
容疑者が逮捕されたものの、
その後の裁判で全員が無罪となり、
真犯人の特定・逮捕には至らず、
未解決事件となりました。
[概要]
1949年(昭和24年)8月17日3時9分(当時、日本においては夏時間が導入されており、現在の2時9分に相当)頃、
福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)の
東北本線松川駅 - 金谷川駅間を走行していた青森発
上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車133号機牽引)が
突如として脱線。
現場はカーブの入口(当時は単線、複線化後の現在では下り線)であり、
先頭の蒸気機関車が脱線転覆、
後続の荷物車2両、郵便車1両、客車2両も脱線。
この事故により、
機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡。
現場検証の結果、
転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、
継ぎ目板が外されていることが確認、
さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、
長さ25メートル、重さ925キロのレール1本が外され、
ほとんどまっすぐなまま13mも移動されていました。
周辺を捜索した結果、
近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ1本ずつ発見されました。
[捜査の経過]
下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、
事件翌日には当時の増田甲子七内閣官房長官が
「(三鷹事件などと)思想底流において同じものである」との談話を発表。
捜査当局は、
当時の大量人員整理に反対した
東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合と
国鉄労働組合(国労)構成員の
共同謀議による犯行とみて捜査を行いました。
事件発生から24日後の9月10日、
元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、
松川事件についての取り調べを受けました。
少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供し、
その自供に基づいて共犯者が検挙。
9月22日、
国労員5名および東芝労組員2名が逮捕され、
10月4日には
東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、
17日に東芝労組員2名、
21日に国労員4名と、
合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されましたが、
無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことで、
死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪で確定。
(松川事件、脱線し転覆した機関車)
柴田恭兵さん
(1951年8月18日-)
俳優・歌手。
身長176cm。
静岡県清水市(現:静岡県静岡市清水区)出身。
清水市立第七中学校(現:静岡市立清水第七中学校)、
日本大学三島高等学校を経て日本大学経済学部卒業。
サラリーマン生活を経て、
1975年(昭和50年)に東京キッドブラザースに入団。
同年6月12日、ミュージカル『十月は黄昏の国』でデビュー。
1977年(昭和52年)、
村川透の推薦により『大都会 PARTII』(日本テレビ)でテレビ初出演。
同年『俺たちの朝』にもゲスト出演。
1978年(昭和53年)、
刑事ドラマ『大追跡』(日本テレビ)に滝本刑事役で出演。
これが連続テレビドラマへの初レギュラー出演に。
1979年(昭和54年)、
『赤い嵐』(TBSテレビ)で連続ドラマ初主演。
『俺たちは天使だ!』(日本テレビ)で
一躍脚光を浴び、人気を定着させました。
1984年(昭和59年)に、
映画『チ・ン・ピ・ラ』(東宝)の主演、藤川洋一役に抜擢。
これまでのテレビドラマでは、
『赤い嵐』と『青い絶叫』の大映テレビ作品をのぞいて脇役ばかりで、
主役を引き立てるコミカルな役が多かったですが、
この映画で主役級の俳優に。
1986年(昭和61年)、
舘ひろしとのコンビで主演を務めた『あぶない刑事』(日本テレビ)で爆発的な人気を得ます。
以降も
『はみだし刑事情熱系』(テレビ朝日)シリーズなどをヒットさせるなど
毎年のように連続ドラマの主演を務め、
主演数は20本を超えます。
2004年(平成16年)12月、
20歳の次男を心臓発作で亡くしました。
次男には気管支喘息の持病がありました。
2005年(平成17年)2月5日に
村川の故郷・山形県村山市で開催された『第1回村川透映画祭』にゲスト参加。
柴田は前述の件もあり村川のことを「恩人」と呼んでいます。
2006年(平成18年)7月、
初期の肺癌と診断され、摘出手術を受け、禁煙を決意。
8月中旬に退院し一時自宅療養後、
12月にドラマ『ハゲタカ』(NHK総合)の撮影で復帰。
(柴田恭兵)
高城淳一さん
(1925年1月20日-2011年8月18日)
俳優、声優。演出家。
妻は女優の西乃砂恵(再婚)。
大阪府大阪市出身。
日本大学芸術科(現:日本大学藝術学部)中退(戦況悪化のため)。
1943年、劇団文芸劇場に入団。
1947年12月に劇団創造座に入団し、
1949年12月まで所属、
1950年6月、
田中明夫、前沢迪雄、西乃砂恵、真木恭介、三島雅夫とともに劇団七曜会を設立に参画。
1956年に劇団が分裂した後は七曜会の代表となり、
演出家として活動も開始。
1963年6月に七曜会を解散し、
フリーランスで活動。
1965年8月、
西乃砂恵、依田英助などとともに劇団現代人を設立。
テレビドラマにおける中間管理職役がハマリ役とされ、
『事件記者』での浦瀬キャップ(ウラさん)役をはじめ、
数々の刑事ドラマではレギュラーを務めました。
また、時代劇でも数多くの悪役を務めました。
晩年は日本俳優連合の活動を通して、
俳優の地位向上のために積極的に活動。
2011年8月18日、
肺癌のため東京都中野区の病院で死去。
86歳没。
(高城淳一)
8月18日は「高校野球記念日」
大正4(1915)年8月18日、大阪豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、昭和23(1948)年から全国高校野球選手権大会となった。忘れられない試合は昭和44年8月18日、19日の第51回全国高等学校野球選手権大会決勝戦だろう。北四国代表・松山商業高等学校(愛媛県)と北奥羽代表・三沢高等学校(青森県)による決勝戦は、大会史上初の引き分けとなった。18日の試合は、速球派の太田幸司(三沢)と制球力重視の井上明(松山商)の投げ合いとなり、0-0のまま延長に突入。試合は4時間16分に及び、特に延長15回裏の三沢の猛攻に対し、サヨナラ負けの再三のピンチを松山商が紙一重でしのぐという攻防が展開し、全国の視聴者を釘づけにしたが18回になっても決着せず、大会規定により引き分け。翌19日、再試合となり4対2で松山商が優勝した。

1976年「ロッキード事件」 国家喚問での(記憶にございません)が流行.闇のフィクサー児玉誉士夫、政財界のフィクサー、小佐野賢治、蜂の一刺し発言の榎本夫人、そして元首相の田中角栄逮捕等、

昭和40年代、50年代にはバスを貸し切ったり現地集合、現地解散などで社員旅行が毎年ありました。出欠は聞かれず参加するのが当たり前でした。
私が定年退職する頃は若手から ”それは業務ですか?”、”残業代でますか?” … などと言われ会社も面倒になったのか全社をあげての社員旅行はなくなってしまいました。
まぁ酔っぱらいおやじの暴走などいろいろありましたが、私は普段会わない他の部署の方といろいろ話ができたりして好きでした😄。
🟣昭和のバスガイド
🔵観光バスガイド、修学旅行の華
🟠定期路線バスガイド

昭和のオモチャ

40年前の本日1983年(昭和58年)8月19日、6代目R30型スカイラインマイナーチェンジ。CMキャラクターは引き続きポール・ニューマンが務める。キャッチコピーは「新しい男の、新しいクルマ-ニューマンスカイライン。」。CMテーマ曲はB・J・トーマス「雨にぬれても」。ポール・ニューマン主演「明日に向かって撃!」(1969年)の主題歌でもあった。
このマイナーチェンジの一番のトピックが4バルブDOHCエンジン搭載のRSがグリルレスになったこと。通称「鉄仮面」と呼ばれるように。
この2か月後にはGTターボに「ポール・ニューマン・バージョン」(PNV)が追加される。
子どもの頃、陣取り、ひまわりかいせん、こま、ホール、竹馬、チャンバラなどいろいろ遊んでいました。
その中でも熱中していたのが、メンコ(私の地域ではパッチン)、ビー玉(私の地域では、だんちん)でした。何故なら、勝てば相手の分をもらうことが出来たからです。子どもながらに、戦利品として財産になるのです!もちろん、負ければ、財産は減ります。だから、「子ども人生」を懸けた遊びになるのです。
ただ、「ホンコ」と「ウソコ」があり、「ウソコ」は勝負が終われば、お互いに戻して、実際のやり取りはしません。だいたいは、「ホンコ」で、やり取りをします。
特に、パッチンは全財産を袋やカンカンに入れて公園や空き地に勝負に行きます。パッチンのルールは、自分のパッチンを地面に叩きつけて、その風圧で相手のパッチンをひっくり返せば、自分のものになります。
そのうち、ひっくり返らないように、パッチンに油を塗るツワモノも出てきます。「そんなの、あるのー」と思いますが、そこは子どもの世界です。通用していました。
ガキ大将と勝負していて、いつもは、負けるのですが、その日は、勝っていて、最後にガキ大将から「今日は、ウソコやね。」と言われ、悔しかったこともありました。そのガキ大将、ビー玉も強くて、戦利品を自分の家の池に沈めていました。勝負に行く時は、虫取網で池から掬い上げていて凄いなぁと思っていました。
日が暮れて来て、夕陽の中、帰路につきます。全財産のパッチンの袋を背中にからって(背負って)、さながら夕陽のガンマンのように家に帰ります。家に帰ると、ウルトラQなどのテレビが待っています!
あの景色やパッチンたちは、何処に行ったのだろうとさびしくなりますが、この投稿で心の中に生き続けていくのかと今は思っています。
昭和34年、東京23区内生まれ
夏休みのお楽しみ『プール』
学校以外では10円で2時間の区民
解放のプールでした。芋洗い状態で
他の小学校の生徒とのツッパリ合いも
あり、なかなかハードな時間でした(笑)

東京近郊の方、懐かしくありませんか?浦安ららぽーとになる前。テレビCMを流れていましたね。

東千代之介さん
(1926年8月19日-2000年11月9日)
俳優・日本舞踊若菜流の家元。
東京府出身。
長唄の六代目杵屋弥三郎の子。
七代目坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学びます。
暁星学園を経て、
1949年(昭和24年)東京音楽学校(現・東京藝術大学)邦楽科卒業。
1954年(昭和29年)東映に入社し、
『雪之丞変化』でデビュー。
端整な容貌と日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、
中村錦之助、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金期を支えました。
1960年代半ば、
時代劇の衰退に伴い当時の東映京都撮影所長・岡田茂が時代劇を切り捨て、
任侠路線に急転換したため、これに反撥して、
中村錦之助(萬屋錦之介)、里見浩太朗らと
1965年に東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成し副代表に。
しかし後援会長の座館経営者から
「赤旗を振るようなことがあったら会長を退くから」と叱られ、
岡田に説得され、
副代表辞任と同時に1965年11月東映を退社。
その後は日本舞踊の家元としての活動が中心となり、
多くの弟子を育てました。
1965年11月30日、
宝塚歌劇団出身の女優・千之赫子とお見合い結婚。
1966年、映画「男の顔は切り札」で赫子と共演。
1968年、長男(俳優若菜孝史)を儲け、
その後、長女も儲けましたが、1985年に赫子と死別。
1987年再婚。
1991年、次男誕生。
テレビ番組では
『クイズ面白ゼミナール』に「東千代之介チーム」リーダーとして準レギュラー出演。
林海象監督作品『ZIPANG』では
達者な名古屋弁をしゃべる徳川家康役を演じました。
2000年11月9日左心不全、慢性腎不全のため死去。
74歳没。
(東千代之介)
中学生の頃 夢中になった『#マカロニほうれん荘』。
自分がきんどーさん(40歳)を超える年齢になるなんて…。息子や娘がトシちゃんの年齢(25歳)を超えるなんてねぇ。
★西遊記
三蔵法師役の夏目雅子さんに癒されました。
成りあがり
矢沢永吉著 角川文庫
久しぶりに読みました。
前に読んだのは10数年前で
新装版が出る前に中古で買いました。
エステティシャンのたかの友梨さんが
座右の書として
成りあがりと
藤田田さんのユダヤの商法を
上げて推薦されてたので、読みました。
そのときは
ユダヤの商法のインパクトが強すぎて
そして中古で買ったユダヤの商法の
値段が高すぎて(笑)、
成りあがりにはあまり感銘しなかったけど、
改めていま読んで、深いと思うと共に
矢沢永吉さんは事業家でもあり
たかの友梨さんが座右の書としたのも
そこに学ぶ点があったかも??
と思いました。
もし事業をやりたいと思う方がいれば
この成りあがりは必読の書だと思うなあ。
まず矢沢永吉さんは
幼いころにお母さんがいなくなり
お父さんも原爆病で亡くなり
親戚をたらい回しにされたあと
おばあさんが育ててくれて
ドラムセットを買い与えてくれたり
東京に出るときはお金を用意してくれた。
しかし貧しさから友だちにバカにされ
そのコンプレックスをバネに
もっと上もっと上!!と上を目指して
ストイックにひたすら
この本を書いた28歳までやってきた。
この精神の故に、
適当に売れればいいと思う
バンドの仲間とも別れメンバーを入れ替え、レコード会社も変えて、最後は単独で、
歌を作り歌ってきた。
このもっと上をもっと上をの精神を
中学卒業で美容師の世界に入って
上を上を目指したたかの友梨さんが
学んだのだと思うし、
読んでると、
稲盛和夫さんの京セラフィロソフィーを
読んでりような感覚になります。
ぼくが事業家でもあると書いたのは
そこに理由があります。
また長くなりそうですけど、
一つだけぼくが泣けたところを紹介します。
それは幼いころに別れたお母さんとの再会。
少しずつ名を知られ出したころ
20年ぶりでお母さんと再会する。
お母さんはけっこう裕福な人と再婚して
連絡も婚家に知られるわけにいかないから
息子とは名乗れなかった。
一度お母さんが東京まで会いに来てくれて
貧しいながら精一杯もてなした。
お母さんも分かってて
指輪も渡せないだろうからと
息子にかわってと、奥さんに指輪を
プレゼントしてくれたし
必要な家電品を買い与えてくれ
当面の生活費もくれた。
そして帰る日、
妻と2人東京駅まで見送りに行ったのが、
お母さんとの最後になってしまった。
その2ヶ月後、お母さんは病気で亡くなる。
亡くなる前に、
栄吉にと通帳と印鑑を託してくれた。
しかし矢沢永吉さんは受け取らなかった。
最後に自分のことを気にかけてくれたこと
それだけで十分だと。
そしてまた、お母さんの婚家に連絡して
偽名で生前お世話になりましたからと
お墓を聞き出してお参りをしたという。
お母さんも幼いころに残して家を出た
その息子が最後まで気がかりだったろうし
息子もお母さんの気持ちを理解して、
いまのお母さんの生活には踏み込まないと
はっきりしてた。
矢沢永吉さんが世界の矢沢と呼ばれる由縁
この辺にあるのだろうと思います。
矢沢永吉さん28歳のときの作品で
いまは72歳ですから、44年前ですが
矢沢永吉さんのファンだけでなく
事業やりたい方
人生を全うに自分らしく生きたい方
必読です。
正直に申し上げますが
ぼくは矢沢永吉さんの歌を聴いたことが
ありませんのです(笑)。
しかし彼の考え方には大いに共感です。
千葉真一さん
(1939年1月22日-2021年8月19日)
俳優・体操選手・空手家・歌手・実業家・芸能プロモーター・声優・アクション監督・演出家・作詞家・作曲家・映画監督・映画プロデューサー・教授・ナレーター。
身長176cm。
愛称:千葉ちゃん。
日本を代表する映画スター・アクションスターとして、
海外ではSonny Chibaの名で知られており、
特技の器械体操や極真カラテ四段・少林寺拳法弐段・乗馬・スキーを活かし、
アクロバティックなスタント・擬斗・殺陣を吹き替えに任せず、
自ら演じていたことが定評を得ています。
芸能生活は半世紀以上の60年を越えており、
映画・テレビドラマ・演劇など、
計1,500本以上の作品に出演。
ジャパンアクションクラブ (JAC) の創設者で
俳優・スタントマンの育成、監督として
演出、製作にも携わり、幅広く活躍。
福岡県福岡市博多区雑餉隈で
二男三女の長男(第二子)として生誕。
4歳の時、千葉県君津市へ転居。
中学生から器械体操を始め、
オリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、
千葉県立木更津第一高等学校へ入学後、
1年生で全国大会上位入賞、
3年生で全国大会優勝を成し遂げました。
1957年、
日本体育大学体育学部体育学科に進学。
2年生の時に、跳馬を練習中に着地で失敗し、
腰・両膝を痛めてしまい、
医者から「1年間運動禁止」と宣告され、
選手を続けることが困難に。
休学も検討しましたが、
学費を工面できないので余儀なく退学。
将来を模索し始めた千葉は実家に帰る途中の代々木駅で
「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かけ、
地元に戻り、
相談した親友も賛成してくれたことや、
かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、
東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたことから応募。
日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられましたが、
2万6千人の応募からトップの成績で合格。
1959年、
大学を中退して、東映へ入社。
男性6名・女性14名の同期生には
亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子ら。
俳優座で6か月の研修を受け、
1960年1月7日に
テレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、
続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演。
1961年、
中山昭二の代役で映画『警視庁物語 不在証明(ありばい)』に出演後、
深作欣二の初監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演して、
2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出されました。
吹き替えなしでスタントをこなすことから、
「アクションができる素材に演技の磨きを増せば」
と期待される新人でした。
1962年は
映画『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、
1963年には
映画『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇初出演や
『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代シリーズ』第一作に主演。
シングル「男一匹生きるなら」をリリースして
歌手デビューも果たしました。
1966年、
映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)、
映画『海底大戦争』(日米合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動し始め、
後に
『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年、日香泰韓合作)、
『激殺! 邪道拳』(1977年、日香泰合作)、
『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、日香合作)など、
諸外国との共同作品に主演するきっかけに。
その合間に
前年のテレビドラマ『くらやみ五段』、
遠藤実の自伝を映画化した
『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演。
1968年から
テレビドラマ『キイハンター』に主演。
これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、
千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれました。
1969年、
オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では、小沼正に扮して主演。
『キイハンター』を休んで撮影に臨み、
そのイメージから脱却しようとする演技は、
同年の京都市民映画祭で主演男優賞を受賞。
『キイハンター』で人気者になるだけではなく、
「様々な作品に出演していかなくてはいけない」と考え直す転機にもなっています。
1970年、
アクション・擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み、
アメリカ映画で活躍するような
俳優・スタントマンの育成、若年層の教育に関心を持っていたことから、
ジャパンアクションクラブ (JAC) を創設。
1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』で演じた大友勝利は
シリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、
これ以降、他のヤクザ映画でも
「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、
ヤクザ役のひな型となっています。
『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、
10年ぶりの格闘映画となる主演作品『ボディガード牙シリーズ』(1973年)の撮影に入り、
続けて主演映画『殺人拳シリーズ』もクランクインしたため、
『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現せず。
これ以降は格闘映画で主演作品が製作され、
極真カラテを修行して、
黒帯を允許された技量が生かされることに。
1973年に封切公開された映画『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、
『殺人拳シリーズ』(1974年 - 1976年)、
『地獄拳シリーズ』(1974年)、
『少林寺拳法』(1975年)、
『けんか空手シリーズ』(1975年 - 1977年)、
『激殺! 邪道拳』(1977年)と、前後して
『やくざ刑事シリーズ』(1970年 - 1971年)、
『狼やくざシリーズ』(1971年 - 1972年)、
『麻薬売春Gメンシリーズ』(1972年)や、
小説・劇画を映画化した
『ウルフガイ 燃えろ狼男』(1975年)、
1977年は
『空手バカ一代』『ドーベルマン刑事』『ゴルゴ13 九竜の首』など、
数々の映画に主演。
テレビドラマ『キイハンター』と同様のスタントに、
空手道・拳法・器械体操などが加わり、
アクロバティックでスリリングとシャープな演技は好評を博しました。
中でも1974年に主演した『激突! 殺人拳』は国内のみならず、
海外では『The Street Fighter』のタイトルで公開され、
米国では日本映画として初めて興行収入100万ドル以上を記録。
この成功は同国で最も権威のある
総合情報週刊誌「Variety」の1974年12月18日付にも掲載され、
同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げています。
この頃から国際的にSonny Chibaという名前で認知されることとなり、
主演・出演するカラテをメインにした格闘映画は続々と世界的に大ヒット。
海外でも著名人のファンは多数。
テレビ映画では『キイハンター』以降、
『ザ・ボディガード』『ザ★ゴリラ7』『燃える捜査網』『大非常線』とアクション作品に主演。
この頃、
アメリカ・カリフォルニア州に聳えるマンモスマウンテンのバックカントリーをスキーで滑走しており、
その姿は1974年5月6日に
ドキュメンタリー『千葉真一 4,000メートルのマンモスマウンテンを滑る』(東京12ch)や
同年6月6日の『ザ・ボディガード』第10話「グランドキャニオンの殺人者」で、
それぞれ放送。
前後して若手の育成に追われる日々となりましたが、
1976年の映画『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞。
1977年4月にハワイで開催された
「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦。
180cm以上あるネグロイドのアメリカ東海岸空手チャンピオンと戦い、
二段蹴りでKO勝ちを収めました。
名実共に日本を代表するアクションスターとして活躍していましたが、
1978年から本格的に時代劇へ進出。
主演映画『柳生一族の陰謀』は
興行収入30億円以上の記録的大ヒットし、
1979年に第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞。
柳生但馬守宗矩(若山富三郎)・宮本武蔵(緒形拳)と華麗で凄みのある一騎討ちを披露した主演映画『魔界転生』(1981年)は
観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し、
映画『赤穂城断絶』(1978年)、
『闇の狩人』(1979年)、
『里見八犬伝』(1983年)、
『必殺4 恨みはらします』(1987年)などにも出演。
特に
『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、
テレビドラマ『柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛三厳と、
傑作と評価されている『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵は、
十八番。
1979年には
芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』で、
主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、
配給収入で13.5億円のヒット。
その演出が評価され、
1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞。
1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は
自ら企画し、
『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)と『吼えろ鉄拳』(1981年)で
出演とアクション監督を兼務。
1989年の『将軍家光の乱心 激突』でも出演とアクション監督を兼ね、
この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待されました。
1990年には
プロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、
アクション映画の全盛期を牽引。
1981年から演劇にも進出し、
ミュージカル『ゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年)、
『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、
JACミュージカルとして定期的に公演。
新宿コマ劇場の観客動員数では、
3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めています。
1970年代から1980年代にかけて、
テレビドラマ『七色とんがらし』(1976年)や
『十字路』(1978年)、
『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)のホームドラマにも主演。
1982年には
楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞、
1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、
俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家など、
その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものでした。
日本と諸外国との合作映画
『カミカゼ野郎 真昼の決斗』、
『海底大戦争』、
『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、
『激殺! 邪道拳』、
『ゴルゴ13 九竜の首』などに主演し、
『武士道ブレード』(1981年、英米合作)にも出演。
水面下のアピールや主演映画の評判などで、
1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始めていました。
折しもロサンゼルスでは
映画『激突! 殺人拳』(1974年)、
『子連れ殺人拳』(1976年)など、
14本の主演格闘映画がリバイバル公開。
1991年、
ジャパンアクションクラブ (JAC) の売却を経て、
1992年にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』に出演。
これを機に拠点をロサンゼルスへ移して、アメリカでも俳優活動をするようになり、
グリーンカードも取得。
日本未公開作品のアクション映画もありますが、
長年の経験で培ったそのアクションは高く評価されています。
1998年に出演した香港映画『風雲 ストームライダーズ』では、
ラスボス“雄覇“を演じました。
原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、
翌年の第18回香港電影金像奨では、
外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネート。
2001年には台湾でも連続ドラマ化。
2003年、
友人でもあるクエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』シリーズでは
出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導。
第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネート。
2005年10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、
これまでの功績を讃えた「MAVERICK AWARD」を受賞。
2007年、
英国放送協会製作の、日本をテーマにしたドキュメンタリー番組『Japanorama』に出演。
「Densetsu (Legends)」(伝説)をテーマにした回で取り上げられ、
4月9日に放送。
同年の大河ドラマ『風林火山』に板垣信方役で出演。 
11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chibaを日本でも使うようになり、
和千永倫道の名で、映画監督業への進出を表明。
11月26日には厚生労働省から「健康大使」にも任命。
2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学の教授を務めました。
2010年10月22日には
東京・グランドプリンスホテル赤坂で、
結婚披露宴を兼ねた芸能生活50周年記念式典を開きました。
もともとは
アントニオ猪木・池谷幸雄・石田純一・市川亀治郎・今井雅之・内野聖陽・梅宮辰夫・岡崎二朗・ガッツ石松・川地民夫・神取忍・樹木希林・北の湖敏満・京本政樹・具志堅用高・郷田勇三・小林幸子・コロッケ・高橋英樹・竹本直一・田中好子・谷村新司・津川雅彦・十朱幸代・夏八木勲・白竜・張本勲・布施明・風吹ジュン・松井章圭・松坂慶子・美川憲一・三田佳子・やまさき十三・山本KID徳郁・横峯良郎・ラモス瑠偉ら
計60名を発起人とした芸能生活50周年記念式典が先に決まっていたところ、
現妻と挙式や披露宴をしていなかったため、
千葉の要望で記念式典と合わせて企画。
前半の披露宴には家族でキャンドル点灯のほか、
長女・真瀬樹里は父への尊敬とお祝いの挨拶が行われ、
芸能界にまだ入っていなかった長男・新田真剣佑と次男・眞栄田郷敦の二人も登壇し、
手紙を読み上げる形で両親を祝福。
後半の記念式典では出演した260本の映画・テレビドラマなどが順に紹介され、
千葉は樹里と殺陣、
真剣佑・郷敦とは空手道の演武で型と杉板の試割りを、
家族皆で披露。
勝野洋・小堺一機・夏樹陽子らは花環を贈呈し、
出席者に上記発起人ほか、
太田昭宏・北島三郎・関根勤・高岡早紀・高橋和也、デヴィ・スカルノ、南部虎弾、ビリー・ブランクス、堀田眞三・魔裟斗・松木安太郎ら、
多数の芸能人を含む各界から約600人がお祝いに集まりました。
千葉は
「あっという間の50年だった。
まだまだ、やり残したことがあるので精進したいと思う。
ハリウッドで日本の俳優を育てたい」と新たな目標を掲げました。
2011年以降、
芸名を日本のみ千葉真一、
海外ではJJ Sonny Chibaとしています。
同年9月29日から10月2日に
ロサンゼルス・ウエストウッドのビッグフット・クレスト・シアターにて開催された、
アジア・アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「SINGAFEST 2011」(ビッグフット・エンターテインメント主催)では、
LIFETIME ACHIEVEMENT AWARDを受賞し、
代表作の一つである『魔界転生』が上映。
授賞式には樹里・真剣佑・郷敦も出席し、
千葉と樹里は殺陣を、
真剣佑と郷敦は空手を披露し、
集まった多くのファンをわかせました。
同年11月、
徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修。
2013年3月10日、
日本体育大学から正式に卒業を授与され、
これにより最終学歴は
「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、
学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って
「学士(体育学)」の学位が与えられました。
2014年のテレビドラマ『おわこんTV』に主演し、
テレビ業界のウラのウラまで知り尽くす
名物社長を存在感醸し出しながらも軽いタッチで演じました。
同ドラマは文化庁芸術祭参加作品となっています。
2016年8月21日、
千葉市の「第41回 親子三代夏祭り」で、
千葉氏の中興の祖である千葉常胤に扮して武者行列を務めたした。
2019年12月19日、同市の健康大使に任命。
任命式では
「来月、81歳を迎えるので少々不安でございますが」と挨拶をしながらも、
年齢を重ねるごとに健康管理を替えてきたことや、
その矜持、健康大使としての抱負を述べました。
2020年、
文化活動に優れた成果を示し、
文化振興や日本文化の海外発信・国際文化交流に貢献したとして、
令和2年度文化庁長官表彰をされました。
前年に芸能生活60周年を迎えており、
これまでの歩みを振り返りながら、
近況や家族のことと併せて、
「私にはあんまり似合わない賞をいただいちゃって…。
これからはこれに恥じないよう、しっかり努力して生きていきたい」
と笑顔を見せました。
スティーブン・セガールとW主演での映画や、
ジェシー・ベンチュラとウェズリー・スナイプスと共演するハリウッド映画も撮影予定でしたが、
コロナウイルスのパンデミックにより撮影が延期に。
2021年8月19日17時26分、
新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) による肺炎のため、
千葉県木更津市の君津中央病院で死去。
82歳没。
(千葉真一)
八名信夫さん
(1935年8月19日-)
俳優、元プロ野球選手、タレント。
身長182cm。
悪役商会所属。
岡山県岡山市出身。
父の亀億は国鉄(現・JR西日本)岡山駅の助役でしたが、
終戦後に退職し、芝居小屋兼業の映画館を経営。
9歳の時に岡山大空襲に遭遇し、
父の命で母・姉とともに後楽園に向かいました。
しかし猛火と黒煙が立ち込める中で方向感覚を失い、
逃げ惑う人波に巻き込まれて家族ともはぐれてしまいました。
朝になり、
雨が降る田んぼの中で倒れていたところを地元の消防団員に助け出され、
幸い一家は全員無事で
芳田村米倉(現・岡山市南区)の親類宅や父親の部下宅に身を寄せたものの、
小学校の同級生を何人も失ったり、
広島市への原子爆弾投下により
同市在住の軍医の叔父が被爆死するなど悲惨な経験を味わいました。
その後疎開先の平島(現・岡山市東区)で
終戦後に連合国軍の兵士がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、
野球を始めます。
父はテニス選手だったためスポーツには理解があり、
逆に劇場主として役者と接して生活を知っていたことから、
役者への道には反対したといいます。
のちに八名がプロ野球入りしたときに
父は東映フライヤーズが岡山でキャンプを張る援助もしました。
出身小学校の岡山市立出石小学校は
都市空洞化によるドーナツ化現象で児童数が減少し、
2002年3月に廃校。
閉校式には八名による講演会が行われました。
岡山東商に進学。
一塁手でしたが、投の二本柱としても活躍。
在学中に甲子園には出場できませんでしたが、
1953年春の中国大会県予選では決勝に進み先発。
関西高に投げ勝ち優勝、本大会に進んでいます。
修学旅行のとき、
神宮球場で明治大学の試合を観戦して進学先に決めます。
大学では投手として将来を期待されていましたが、
先輩部員からの「しごき」に耐えられずに2年次に中退。
1956年にプロ野球・東映フライヤーズに投手として入団。
1年目から一軍に上がり9試合に登板、
うち2試合に先発し0勝1敗を記録。
その後も一軍で起用されますが、
3年目の1958年8月10日、
日生球場での近鉄パールス戦の試合中に腰を骨折して入院し、
選手生命を断たれて現役を引退し。
現役引退後も
東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する
『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバーの一員。
野球選手引退後、
親会社の東映専属の映画俳優に。
俳優転向の理由は、
東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博から、
「長嶋茂雄や王貞治に打たれるより、高倉健に撃たれろ!」
と言われたことがきっかけであったといいます。
初めて出演者として名前の出た映画は『遊星王子』。
ただし宇宙のギャングという設定で、
顔の部分が覆われた衣装だった上、
同じ衣装の出演者が複数いたため、
映画を見ても自分がどこに出ていたかわからなかったそうです。
俳優転向当初は二枚目役として活躍し、主演作も。
大部屋俳優よりもさらに下という境遇からのスタートでしたが、
「体が大きいから小さい奴が撃たれるより迫力があるはず」
と売り込んだことがきっかけとなり、
悪役として定着するように。
ギャングや悪党を専門に演じる俳優集団悪役商会を1983年に結成し、リーダー(会長)に。
刑事ドラマでの
ヤクザ・暴力団組長・凶悪犯、時代劇での用心棒・悪徳役人・妖術使いなど多くの悪役を演じました。
1985年には
アニメ映画『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のギルモア将軍役で声優に初挑戦。
バラエティ番組には『今夜は最高!』(日本テレビ)ではじめて出演し、
その後
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)のコーナー「ひょうきんベストテン」にも出演。
1990年代、
バラエティ番組において「1050回ぐらい殺されたかな」と、
悪役を演じて殺された回数の多さを述懐したことも。
最近は悪役俳優のイメージを脱却し、
孫と遊ぶ優しいおじいちゃんの役など
個性派俳優としての活躍が目立つようになっています。
2014年5月5日、
ヤフードームでおこなわれた
福岡ソフトバンクホークス対北海道日本ハムファイターズ戦で始球式に登板。
2016年には
初の監督作となる映画『おやじの釜めしと編みかけのセーター』を制作し、
2017年より無料上映会の形式で公開。
2023年4月28日には
岡山県警の特別警戒に合わせて
「一日鉄道警察隊長」に任命され、
岡山駅で啓発チラシの配布や呼びかけを行いました。
(八名信夫)
金栗四三さん
(1891年8月20日-1983年11月13日)
マラソン選手、学校教員。
身長163cm。
位階は従五位。
青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加し、
また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、
日本に高地トレーニングを導入するなど、
日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから
「日本マラソンの父」と称されます。
熊本県玉名郡春富村(現在の和水町)の
15、6代続いた村の名家に8人兄弟の7番目として誕生。
名の「四三」は、誕生時に父の年齢が43歳であったことに由来。
四三は5歳頃までは異常体質と言われるくらいひ弱な子どもで、
特に2歳の頃までは夜泣きをしては家中の者を困らせていました。
しかし、
10歳となる年の1901年(明治34年)、
玉名北高等小学校(跡地には現在南関町立南関第三小学校が建てられています)への進学を機に、
自宅から学校までの山坂を越える往復約12kmの通学路を、
近所の生徒たちと毎日走って行き戻りする「かけあし登校」を始め、
マラソンの基礎を築くことに。
高等小学校卒業後に進学した旧制熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)では
成績優秀なことから特待生に選ばれ、
卒業後の1910年(明治43年)、
東京高等師範学校(後の東京教育大学、現・筑波大学)に入学。
1911年(明治44年)、
金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、
マラソン足袋で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を
27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、
短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となりました。
翌1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、
レース途中の26.7km地点で日射病により意識を失って倒れ、
近くの農家で介抱されました。
金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日、
7月15日の朝でした。
このため金栗はレースを諦めざるを得ず、
棄権扱いとなり、そのまま帰国。
金栗は同日の日記に、
「大敗後の朝を迎う。
終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、
また他日その恥をすすぐの時あるべく、
雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、
技の未熟を示すものなり。
この重圧を全うすることあたわざりしは、
死してなお足らざれども、
死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、
粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」
との所感を綴っています。
当時の金栗はランナーとして最も脂がのっていた時期であり、
帰国後すぐに真夏の千葉県館山で「耐熱練習」と称し、
2か月にわたり炎天下で走る練習を積み重ね、
冬になると「耐寒訓練」として厳寒の中走りました。
東京高師の研究科に進んでからは、
自らを鍛えるだけでなく、
広く人材を発掘して発展の土台づくりをする活動も行い、
全国の師範学校にいる先輩、後輩に手紙を書いたうえで現地を訪ね、
自らの練習法を惜しげもなく公開して長距離走の基本を教えたほか、
夏の耐熱練習にさまざまな学校から参加者を集めたのをはじめとして、
幅広く多数の選手に声をかける合同練習会をしばしば組織するように。
1914年(大正3年)3月に
東京高師を卒業して間もない4月10日に
石貫村(現玉名市)の医者の娘である春野スヤと結婚した後、
神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)、
獨逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)、
東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)などで地理の教師として教壇に立ちながら、
さらに走りに磨きをかけ、
同年11月23日の第2回陸上競技会選手権では
再び世界記録を大幅に更新する2時間19分20秒3の記録を樹立。
1916年(大正5年)のベルリンオリンピックでは
メダルが期待されましたが第一次世界大戦の勃発で大会そのものが開催中止になり、
その後の1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、
1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場。
成績はアントワープでは40km近くまで入賞圏内の5位につけながら、
雨と寒さというコンディション下で脚を痛め最終的に16位、
続くパリでは32.3km地点で途中棄権に終わっています。
1917年(大正6年)、
駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508キロ、23区間)の
関東組のアンカーとして出走。
1920年(大正9年)、
第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、
金栗もこの大会開催のために尽力。
また現役当時は地下足袋で走っていましたが、
オリンピック出場後、
東京の足袋屋・ハリマヤの黒坂辛作・勝蔵親子に頼んで足袋の改良に取り組み、
ハゼ(留め金具)をやめ、
甲にヒモが付いた型へと変更、
さらにはストックホルムで外国人選手がゴムを底に付けたシューズを履いていたのを見たことがヒントとなってゴム底の「金栗足袋」を開発し、
多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走ることに。
金栗は3度のオリンピック参加を通じて、
日本でのスポーツ振興の必要性を痛感。
特に女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、
将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘し、
1921年(大正10年)東京府女子師範学校に勤めると、
初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、
1923年(大正12年)には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に尽力。
さらに地理の教師のかたわら、
学校をまわって学生らと一緒に走り、
スポーツの重要性を語り、
競技会や運動会に顔を出してはマラソン普及に努め、
暑さに強くなるように真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、
心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けたほか、
日本体育・マラソン普及のため、
1919年には下関―東京間約1200kmを教え子の秋葉裕之と2人で20日間で走破、
その後樺太―東京間(1922年)、
九州一周(1931年)を踏破、全国走破を成し遂げました。
1931年(昭和6年)、
39歳で故郷の玉名に帰り、
学校対抗マラソン大会や駅伝競走を開催するなど県内外においてマラソン普及に努めました。
1936年(昭和11年)には
日本での初オリンピック準備のため再度上京し、
十文字高等女学校(現・十文字中学校・高等学校)にて
教員を務めながら開催準備に奔走するも、
日中戦争の戦況悪化のため日本は開催を返上。
1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで私立の青葉女学校に勤務。
1945年3月に玉名へ再び帰郷してからは、
現地で生涯を過ごしました。
その一方で、
1946年(昭和21年)4月に
熊本県体育会(現在の熊本県体育協会)が創設されると、初代の会長に就任。
1947年(昭和22年)には、
自身の苗字を冠した第1回金栗賞朝日マラソンの開催に漕ぎ着けました。
この大会は、
数度にわたる開催地・コースの変更や
「国際マラソン選手権」の日本初指定を経て、1974年(昭和49年)から福岡国際マラソンに改称。
1953年(昭和28年)には
ボストンマラソン日本選手団長として渡米し、
選手団の1人である山田敬蔵が当時の世界記録2時間18分51秒で、
日本人参加者としては1951年(昭和26年)の田中茂樹以来2年ぶり、
同大会日本人2人目となる優勝を成し遂げました。
1960年(昭和35年)には熊本で行われた第15回国民体育大会の最終聖火ランナーに。
また、
この間の1948年(昭和23年)には熊本県初代教育委員長に選出。
1967年(昭和42年)3月、
金栗がストックホルムオリンピックで棄権の意思をオリンピック委員会に伝えず、
「競技中に失踪し、行方不明」、
すなわち現在も走り続けている状態として扱われいたことに気付いたオリンピック委員会が
金栗を記念式典でゴールさせることに。
そして、
金栗はスウェーデンのオリンピック委員会から
ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されます。
招待を受けた金栗は、ストックホルムへ赴き、
競技場をゆっくりと走り、
場内に用意されたゴールテープを切りました(日付は1967年3月21日)。
この時、
「日本の金栗、ただいまゴールイン。
タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、
これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」
とアナウンスされました。
54年8か月6日5時間32分20秒3という記録は
オリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、
今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われています。
金栗はゴール後のスピーチで、
「長い道のりでした。
この間に嫁を娶り、子供6人と孫が10人できました。」
とコメント。
なおこの記録は
「マラソン完走最長タイム| longest time to complete a marathon」
としてギネス世界記録に登録。
金栗は晩年を故郷の玉名市で過ごし、
年老いてなおも朝夕に自宅から小学校まで
約800メートルの往復散歩を天候の良し悪しにかかわらず、日課にしていたといい、
1983年(昭和58年)11月13日に92歳でその生涯を閉じました。
(金栗四三)
二代目松本白鸚さん
(1942年8月19日-)
歌舞伎役者、日本舞踊家、俳優。
屋号は高麗屋。
定紋は四つ花菱、替紋は浮線蝶。
歌舞伎名跡「松本白鸚」の当代。
日本芸術院会員。
前名の九代目松本 幸四郎としても知られています。
俳名に錦升。
また舞台演出家としての名に九代琴松。
公称身長175cm・体重78kg。
東京生まれ。
暁星中学校・高等学校卒業、
早稲田大学第一文学部文学科演劇専修中退。
歌舞伎では、
お家の高麗屋の芸を継承するだけでなく、
外祖父の播磨屋の重厚な演目も受け継いでおり、
『勧進帳』の武蔵坊弁慶役は1200回という現役最多の出演記録を誇り、
時代物の主人公役は高く評価されています。
現代劇やミュージカルでの活躍も目覚しく、
日本国外では
ニューヨーク・ブロードウェイで『ラ・マンチャの男』の主役を、
ロンドン・ウエストエンドで『王様と私』の主役をそれぞれ英語でこなしています。
『ラ・マンチャの男』の脚本家ワッサーマンの夫人からは、
『ラ・マンチャの男』が受賞したトニー賞(1969年)のトロフィーを譲渡されました。
演劇企画集団 「シアター・ナインス」や、
歌舞伎企画集団 「梨苑座」を発足させるなど、
舞台芸能の創造者としての存在も大きく、
九代琴松の名で舞台演出も行っています。
さらにテレビでも大河ドラマや連続ドラマなどで主演することも多く、
いわゆる万能型の俳優。
六代目染五郎時代の1967年には
『野バラ咲く路』を自ら作詞・作曲・歌唱し、
東芝音楽工業からレコードを出すほか、
同曲の別アレンジを『ザ・ベストテン』にて歌唱したことも。
趣味はギター演奏、絵画、競馬など。
歌舞伎では「勧進帳」の弁慶、
「寺子屋」の松王丸など、器の大きな役柄が多数。
[著名な家族]
父:初代松本白鸚
母:正子(初代中村吉右衛門の娘)
兄弟:二代目中村吉右衛門(弟)
妻:藤間紀子
子:松本紀保、十代目松本幸四郎、松たか子
(二代目松本白鸚)
司葉子さん
(1934年8月20日-)
女優。
日本大正村第2代村長。
東京福祉大学特任教授。
東宝芸能所属。
夫は、
弁護士で元自由民主党衆議院議員の相澤英之。
三男・相澤宏光の妻は歌手・タレントの相田翔子。
実業家・政治家の庄司廉は伯父。
鳥取県西伯郡渡村に庄司繁二郎の三女として誕生。
6歳の頃に父を亡くし、
鳥取県立境高等学校を経て共立女子短大卒業。
1954年4月、
大阪の新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)に入社、社長秘書を務めます。
共立女子短大に在学中、
ハリウッドビューティサロンを利用。
ちょうど美容家のメイ牛山が雑誌モデルを探しており、
同年『家庭よみうり』の表紙を飾ったのがきっかけでスカウトされ東宝と契約。
映画『君死に給うことなかれ』でデビュー。
「『清く正しく美しく』を社是とする東宝の健全なお嬢さんイメージを代表する一人」とされ、
看板女優として活躍。
目鼻立ちがはっきりしており優雅なムードを醸し出す司は
戦後の映画界に新しい風を吹き込みました。
1966年の映画『紀ノ川』(原作:有吉佐和子)では
第40回キネマ旬報賞主演女優賞・第9回ブルーリボン賞主演女優賞・第22回毎日映画コンクール主演女優賞・日本映画記者会賞最優秀女優賞など
数々の賞を受賞し、
その年の7つの演技賞を独占。
1969年に当時大蔵官僚だった相澤英之と結婚。
相澤が第34回衆議院議員総選挙に司洋子の出身地である旧鳥取全県区から立候補した際には、
婦人講演会や個人演説会まわりに参加して相澤の選挙戦を支えました。
1999年に日本大正村の村長に就任。
2003年、紫綬褒章を受章。
2009年に相澤が学長を務める東京福祉大学の特任教授に就任。
2010年秋、旭日小綬章を受章。
(司葉子)
成瀬巳喜男さん
(1905年8月20日-1969年7月2日)
映画監督。
東京府(現東京都)四谷出身。
東京都四谷区に縫箔職人の父・利三と母・きなの間に二男一女の次男として誕生。
生まれたのが巳年、巳の月、巳の日だったので
「巳喜男」と名付けられました。
もともと家が貧しかったため、
早く腕に職をつけようと工手学校(現工学院大学)に入るも、
父が亡くなって家計が逼迫したことで中退。
1920年、
知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社。
1922年頃から池田義信の助監督に。
しかし、なかなか監督には昇進出来ず、
後から入社した小津安二郎や清水宏らが入社して3・4年で監督に昇進する中、
成瀬もまだ五所平之助の下で指示を受けており、
都合10年もの下積み時代を過ごしました。
1930年、
成瀬は城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた
短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。
最初は短篇のドタバタ喜劇を手がけていましたが、
1931年の『腰弁頑張れ』で認められました。
その後長篇作品も手がけていき、
1932年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、
期待の若手監督として注目されます。
翌1933年には『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、
両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得ます。
しかし監督に昇格しても個室も与えられず、
他の助監督たちとの大部屋暮らしが続きました。
しかも他の監督たちが拒んだ脚本で映画を撮らされ、
「これを撮ったら、次は好きなのを撮らせてやる」という約束も何度も反故にされました。
そこへ成瀬は東宝の前身であるPCLから引き抜きの話が入り、
移籍を決心。
また成瀬はこの時期、
後の東宝で成瀬の映画を多数製作することになる藤本真澄とも知りあうことに。
1934年、
成瀬は助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍して、
初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)を監督。
次いで監督を手掛けた、
中野実の戯曲『女優と詩人』では無残な失敗を喫したとの評価を受けも、
3作目の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受けて
『キネマ旬報』ベスト1に選ばれます。
この作品は“Kimiko”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、
アメリカで興行上映された初の日本映画となりました。
のちに『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』の主演女優の千葉早智子と
1937年に結婚して長男の隆司が生まれますが、
3年後の1940年に離婚。
一人息子の隆司は千葉が引き取って育てました。
大佛次郎原作の『雪崩』(1937年)では黒澤明が助監督を務めました。
戦時下では『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』など
「芸道もの」というジャンルで冴えを見せました。
戦争直後は
民主主義路線映画『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春の目ざめ』といった
映画の監督を余儀なくされます。
同時期に東宝争議によって
東宝撮影所の機能が麻痺したため、
成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、
映画芸術協会を設立、フリーの立場で
東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することに。
1951年、
林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受けました。
東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は
一般に成瀬の最高傑作とされています。
成瀬は、
林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして
川端康成原作の『舞姫』『山の音』、
室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、
石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで
幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、
人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききりました。
成瀬の遺作は
1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』。
1969年、成瀬は直腸癌のため63歳で没。
(成瀬巳喜男)

夏といえば麦茶ですが、子供の頃の昭和40年代くらいは、今のようにパックではなくて、そのままヤカンで煮出していました。そしてヤカンごと水で冷やしてから、麦茶ポットに移してから冷蔵庫で冷やしていました。今より手間がかかりますが、香ばしくて美味しい麦茶でした。お砂糖も入れたりしてましたよ。

吉川 晃司さん
1965年8月18日生まれ、58歳。
広島県安芸郡府中町出身。
ロックミュージシャン・シンガーソングライター・俳優。
 1984年、シングル「モニカ」で歌手デビュー。 
以来多数のヒット曲を世に送りだす。

❤熊田曜子・さん❤阪神🐯🐯の始球式。

懐かしいです♪

昔の列車、先日の灰皿に続き今回は、これです。窓下のテーブルの下に栓抜きが付いていましたね。
ビンのジュースやコーラは今は駅じゃ売っていませんものね。
1963年鉄腕アトムと手塚治虫さん
2003年4月7日、科学省長官・天馬博士は、交通事故で死んだひとり息子・飛雄(とびお)にそっくりのロボットを、科学省の総力を結集して作りあげました。天馬博士はそのロボットを息子のように愛しましたが、やがて成長しないことに腹を立て、ロボットサーカスに売り飛ばしてしまいます。
サーカスでアトムと名づけられたロボットは、そこで働かされていましたが、新しく科学省長官になったお茶の水博士の努力で、ロボットにも人権が認められるようになり、アトムはようやく自由の身となったのです。
アトムは、お茶の水博士によってつくられたロボットの両親といっしょに郊外の家で暮らし、お茶の水小学校へ通うことになりました。けれどもひとたび事件が起これば、アトムはその10万馬力のパワーで、敢然と悪に立ち向かっていくのです。ちょっと手塚治虫さんお疲れさまってお顔してる。

超能力ブームが巻き起こった1974年公開の映画「#エスパイ」。東欧某国首相暗殺を目論む悪のエスパー(逆エスパイ)オルロフ(若山富三郎)に、田村(藤岡弘)は懸命に対峙するが、屈強なオルロフに完膚なきまでに叩きのめされる。オルロフに洗脳され セクシャルに舞う #由美かおる さんに ときめく。

♥️2023💃8/22 岡田有希子(18歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/22 北川景子(36歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

懐かしき昭和のスター
親を超えられるか!?
《二世スター》

♥️2023💃8/22 菅野美穂(46歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

【カリキュラマシーン】は1974年4月から1978年3月まで日本テレビ系列で放送していた教育番組です。

内藤武敏さん
(1926年6月16日-2012年8月21日)
俳優、ナレーター。
身長165cm、体重60kg。
福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。
旧制常磐中学校(現・常磐高等学校)、日本大学予科卒業。
映画制作を志し、俳優養成所へ入所。
当初は演出家希望でしたが、
指導者の勧めで演劇コースへ進みます。
1950年、
宇野重吉・加藤嘉・北林谷栄・鈴木瑞穂らと共に劇団民藝の創立に参画するも、
1970年に退団。
1952年に公開された吉村公三郎監督の『暴力』でスクリーンデビュー。
大河ドラマへ多数出演したほか、
山口百恵主演の赤いシリーズでは3作品でナレーションを担当。
1992年、
『ひかりごけ』(原作は武田泰淳)の原作を読んだ内藤が映画化を切望し、
長年の友人である三國連太郎が主演を快諾し、
親交の深い熊井啓が監督して公開を実現。
同作品はベルリン国際映画祭に正式出品されるなど、高い評価を受けました。
ロバートの馬場裕之は縁戚にあたります。
2012年8月21日午前10時10分、
悪性リンパ腫により神奈川県横浜市の病院で死去。
86歳没。
(内藤武敏)
井上昭文さん
(1927年8月22日-2013年1月28日)
俳優。
愛知県名古屋市出身。
中京商業高等学校卒業。
妻は
女優の第1回紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞した馬場恵美子。
俳優座養成所2期生として入所、
劇団新人会の創立メンバーの一員に。
東宝で若干のキャリアを積んだ後、
1957年に『幕末太陽傳』で日活デビュー。
名バイプレイヤーとして数多くの作品に出演し、
石原裕次郎、小林旭、吉永小百合らのスターを引き立てながら、
日活映画の黄金期を支えました。
テレビでも、
時代劇のヤクザ親分や悪代官や悪徳商人や凄腕剣客、刑事ドラマの叩き上げ刑事、特撮ドラマの仙人、コメディ学園ドラマの変態教師など、
枠にはまることなく様々な役柄を演じており、
『レインボーマン』で演じたインドの聖者「ダイバダッタ」などで知られます。
後に
『コンドールマン』でも主人公の師である「タバ老人」を演じました。
趣味はサックス演奏と高校野球観戦。
特技は歌。
2013年1月28日に肺炎のため死去。
(井上昭文)

懐かしいなぁ✨

藤山一郎さん
(1911年4月8日-1993年8月21日)
歌手・声楽家・作曲家・編曲家・指揮者。
位階は従四位。
本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍。
東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。
東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。
東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論と、
ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。
1930年代から1940年代にかけて
『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』
など数多くのヒット曲を世に送りました。
理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、
その格調高い歌声は「楷書の歌」と評されました。
1992年(平成4年)、
スポーツ選手以外では初めて国民栄誉賞を生前受賞。
(藤山一郎)

#松方弘樹 #目黒祐樹 の父 #近衛十四郎 さん #懐かしい時代劇

江角英明さん
(1935年10月5日-2004年8月22日)
俳優、声優、ナレーター。
身長174cm。
特技は狂言、バレエ。
島根県木次町(現・雲南市)出身。
島根県立三刀屋高等学校、
多摩美術大学附属芸術学園演劇科卒業。
アマチュア劇団区民とつくる地場演劇の会代表。
劇団青年座の旗揚げ公演『第三の証言』を鑑賞したことから俳優を志し、
多摩芸術学園卒業後の1957年に青年座に研究生として入団。
1958年、
『怪しき村の旅人』の村の青年役が初舞台。
1959年の『第五福竜丸』が映画デビュー作。
1960年代から約20年以上にわたり日活のスクリーンで活躍。
特にロマンポルノでは宮下順子とのコンビで独自の存在感を表しました。
またテレビドラマでも名悪役として多数の出演作を残しました。
また多くのアニメや洋画の吹き替えを担当し、
『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』のパイカル役、
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の屯田五目須役でも知られています。
2004年8月22日、
胃癌のため東京都港区内の病院で死去。
68歳没。
(江角英明)

8月22日は歌手 #藤圭子 さんのご命日です。ご存命なら今年72歳でした。赤貧の中「ギターの流し」で鍛えた歌唱力は、哀しみを湛えた、心に染み入る非凡なるものでした(漫画・アニメ「さすらいの太陽」主人公のモデルは圭子さん)。合掌。

モデル・服飾評論家 #大内順子 さんご逝去から9年。生物学者の父 大内義郎氏の勤務地 上海のフランス租界で育ったため、美的センスが磨かれたと推察。1950〜60年代は画家 中原淳一氏の世界から飛び出したかのようなモデルとしてご活躍。後年 交通事故のため着用したサングラスとボブヘアがトレードマークに。合掌

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川口浩さん
(1936年8月22日-1987年11月17日)
俳優・司会者・探検家・タレント。
東京府生まれ。
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、
慶應義塾高等学校中退後、俳優座演劇研究所に入学。
1956年(昭和31年)、
映画『裁かれる十代』でデビュー。
同年、
初の主演作『処刑の部屋』で注目を集めます。
以降、
大映現代劇の若手二枚目トップスターとして多くの映画に主演。
京マチ子・若尾文子・山本富士子・岸恵子らなどと共演し、
『巨人と玩具』、『妻は告白する』、『浮草』、『おとうと』など。
1960年(昭和35年)、野添ひとみと結婚。
1962年(昭和37年)に大映退社後は、
実業家への転身を図ります。
不動産管理会社である株式会社川口エンタープライズを設立し
アメリカ西海岸などへ集合住宅の視察へ赴きました。
東京都文京区にある父・川口松太郎邸の広大な敷地を利用して、
総工費7億円を費やして1964年(昭和39年)10月1日に
開業した自宅兼デラックス賃貸および分譲マンションである
川口アパートメントの運営を執り行いました。
入居者として
1960年代には栗原玲児・藤村有弘・水谷八重子・水谷良重親子、
1970年代に差し掛かる頃には加賀まりこ・安井かずみ、
1980年代には月丘千秋、
また1972年(昭和47年)より千葉真一・野際陽子夫妻が住んでいました。
なお野際は1994年に千葉と離婚後も引っ越すこと無く、
2017年に死去するまで生涯同アパートメントに住み続けました。
1967年(昭和42年)には芸能界に復帰し、
二足の草鞋を履きました。
同年、株式会社川口プロモーションを設立。
復帰後はテレビへと活躍の場を移し、
1969年(昭和44年)からはテレビドラマ『キイハンター』にレギュラー出演。
フジテレビ競馬中継の司会・解説を務めるかたわら、
1970年(昭和45年)、
川口浩探検隊の前身の『ザ・ショック!!』(日本テレビ系)を企画・出演。
1977年(昭和52年)からは『水曜スペシャル』(テレビ朝日系)で
『川口浩探検隊』が放送開始、
シリーズ全43回に及ぶ人気を博しました。
1983年(昭和58年)6月に放送された
『恐怖!ブラジル魔境に人食いピラニア大軍団を追え!逆襲死闘』で、
川口はピラニアに指を噛まれて負傷。
後に出演したバラエティー番組ではこの時の傷跡を公開。
1985年(昭和60年)に胃癌と診断され、
手術後に闘病生活に入り一時は癌を克服。
1987年(昭和62年)、
自宅で食事が喉に痞え嘔吐したため病院で検査したところ
食道癌と喉頭癌と診断され、
再手術を行うも食道癌を除去した際の副作用で
腎不全と肺炎を併発し同年11月17日に息を引き取りました。
51歳没。
(川口浩)
佐分利信さん
(1909年2月12日-1982年9月22日)
俳優、映画監督。
身長177cm。
渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、
愛称は「サブリどん」。
日活を経て松竹に入社し、
上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、
戦前松竹の看板スターとして活躍。
戦後は監督業にも進出し、
『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表。
1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、
晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せました。
主な作品に
『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。
女優の黒木しのぶは妻、
俳優の石崎二郎は長男、
ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫。
北海道空知郡歌志内村(現在の歌志内市)に生誕。
父は明治中頃に北陸から移住し、
夕張炭田の歌志内鉱に働く炭鉱夫でした。
1923年(大正12年)、
歌志内尋常小学校を卒業すると中学教師になるため上京、
神田三崎町の苦学生の溜まり場に入って、
水道工事や道路工事などの肉体労働で学費と生活費を稼ぎながら正則英語学校や夜間学校に通うも、
結局卒業することなく郷里に戻って、
小学校の代用教員に。
半年後には神戸に行き、
友人と婦人新聞の発行を計画して失敗、
再び上京して職探しに奔走。
東京の兄の家に居候しながら映画を観たりするうち、
映画関係の職を志します。
1929年(昭和4年)、日本映画俳優学校に入学。
1930年(昭和5年)、
俳優学校の先輩である小杉勇・八木保太郎を頼って京都に赴き、
2人の伝手で日活に入社、監督部入りを望んだが、俳優になるよう勧められて現代劇技芸部(俳優部)に入ります。
翌1931年(昭和6年)、
島津元を芸名に、内田吐夢監督『日本嬢』に左翼の闘士役で映画デビュー。
続く『動員令』(熊谷久虎監督)で主役に抜擢され、
それまでの俳優にない朴訥な演技で注目されます。
1932年(昭和7年)、
『さらば東京』で共演した黒木しのぶと同棲ののち結婚。
仕事する日は必ず玄関で握手してから出かけるなど大変な愛妻家でした。
1933年(昭和8年)、
『女性陣』を最後に日活を退社。
大阪劇団を経て1935年(昭和10年)に松竹蒲田撮影所に入社。
松竹入社第1作は五所監督の『あこがれ』で、
高杉早苗の相手役を演じました。
1936年(昭和11年)、
島津監督の『家族会議』に主演。
東京と大阪の株屋の商戦を背景にしたメロドラマで、
佐分利は東京の株屋の若主人を演じ、
素朴かつ意志的な彼の性格そのままに、
落ちついた率直な演技でこれを適役としました。
これで注目された佐分利は、
島津監督の『男性対女性』、
野村浩将監督の『人妻椿』などで人気を伸ばし、
五所監督の『新道 前後篇』で上原謙、佐野周二と共演してからは
この二人と松竹三羽烏を結成。
翌1937年(昭和12年)1月に
徳大寺伸、笠智衆らとともに幹部待遇に昇格。
同年の島津監督の恋愛ドラマ『婚約三羽烏』では、
佐分利は地方出身、
上原は山手出身、
佐野は下町出身の若者を演じ、
三人を目当てに女性ファンが殺到したといいます。
1938年(昭和13年)には
徳大寺、佐野らとともに幹部に昇格。
大船調メロドラマの看板俳優として活躍する一方、
1939年(昭和14年)の島津監督の『兄とその妹』では、
妻と妹を持つ一家の家長として誠実に生きながら
会社の同僚の策動に怒りを爆発させて職を退く、
やさしさと男っぽさをもった男を好演し、
演技者としてすぐれた資質を見せます。
戦時中は理想主義的な誠実さを持つ知的な青年を持ち役とし、
吉村公三郎監督の『暖流』では、
敏腕で男らしく正義感にあふれる青年実業家、
小津安二郎監督の『戸田家の兄妹』では、
母と末妹を厄介者扱いする兄や姉に怒りをぶちまけ2人を引き取る末弟を演じました。
戦後は引き続き松竹に所属してメロドラマに主演するも、
キャラクターに合った役に恵まれず低迷。
1948年(昭和23年)、
熊谷久虎が代表の芸研プロダクションの取締役に星野和平らとともに就任。
やがて俳優の傍ら監督業に進出し、
1950年(昭和25年)に石川達三原作の『女性対男性』を監督第1作として発表、
続けて『執行猶予』『あゝ青春』『風雪二十年』『慟哭』を監督。
いずれも社会性を持ち、
リアリズムの色濃い芸術的水準の高い作品で、
この4作はキネマ旬報ベスト・テンにランクイン。
その後も
『人生劇場』『広場の孤独』『叛乱』『心に花の咲く日まで』『愛情の決算』
と立て続けに監督作を発表。
1953年(昭和28年)11月8日、
『叛乱』の撮影中に膵臓壊疽で倒れて中野組合病院に入院。
11月13日には輸血を受けるが重体が続き、
一時は危篤と報じるマスコミも。
2回の手術を受けて一命をとりとめますが、
『叛乱』の監督は降板し、
残りの場面は阿部豊が代理で監督して完成。
西田税役で出演も兼ねており、
これも降板して佐々木孝丸が代役を務めました。
回復して松竹の『真実一路』への出演が決まりますが、
黄疸を併発して再び療養し、
文学座と提携した監督作『心に花の咲く日まで』で再起。
次に、
吉岡達夫の小説『オレンジ運河』の映画化を
日本初の白黒シネマスコープとして製作する予定でロケハンまで行いますが、挫折し、
日映で製作した『悪徳』を経て、
松竹で製作した『乙女の祈り』が最後の監督作に。
監督としても活動している間、
俳優としては
大庭秀雄監督のメロドラマ『帰郷』、
小津監督の『お茶漬の味』『彼岸花』、
五所監督の『わが愛』、
増村保造監督の『氾濫』などに出演し、
朴訥ながら重厚な中年男・初老男を演じて演技に円熟味を加えました。
1961年(昭和36年)からはテレビドラマに進出し、
以後はスクリーンから遠ざかってテレビに活躍の場を移しました。
連続テレビ小説の『あかつき』、
NETの『判決』などに主演し、
同年にはTBSと演出家契約を結んで数本の作品で演出を手掛けました。
1973年(昭和48年)、
熊井啓監督の『朝やけの詩』で12年ぶりに映画に復帰。
山崎豊子原作山本薩夫監督の『華麗なる一族』の中で万俵大介を演じ、
傲慢な銀行頭取を重厚感たっぷりに表現したことで、
映画俳優・佐分利信の存在を改めて重々しく印象付けます。
1975年(昭和50年)には、
その3年前に放送されたテレビ映画を劇場用に公開した小林正樹監督の『化石』に主演、
死に直面した男を力演。
東映のヤクザ映画『日本の首領』3部作や、
市川崑監督の『獄門島』、
小林監督の『燃える秋』などでも貫禄ある演技を見せ、
テレビドラマでは向田邦子脚本の『阿修羅のごとく』での父親役が晩年の代表作に。
私生活では
1964年(昭和39年)に妻の黒木を肝臓癌で亡くしています。
1982年(昭和57年)9月3日に体調不良を訴え、
東京都板橋区の日大板橋病院に入院。
病名は黒木と同じ肝臓癌でしたが、
すでに手術不可能の状態にあり延命治療として
医師から高カロリー輸液を勧められるもこれを拒否したため、
同年9月22日午後11時55分に死去。
享年73歳。
(佐分利信)

♥️2023💃8/23 岡江久美子(63歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

💖長澤まさみ・さん💖ミュージカル🥃キャバレー🥂

岡江久美子さん
(1956年8月23日-2020年4月23日)
女優、タレント、司会者。
東京都世田谷区出身。
東京学芸大学附属世田谷中学校、鷗友学園女子高校卒業。
夫は大和田獏、娘は大和田美帆。
義兄は大和田伸也。
身長156cm。
1975年、
TBSドラマ『お美津』での主演で芸能界デビュー。
当時18歳で、
演技に関しては素人同然だったため、
共演の三木弘子が付きっ切りで指導したといいます。
1978年からは『連想ゲーム』に紅組レギュラー解答者として5年間出演。
1983年、
当時同番組の白組レギュラー解答者だった大和田獏と結婚。
同時期には人気ジャズシンガー・阿川泰子の影響でジャズを歌い始め、
ジャズシンガーを目指して何度かテレビ番組でも歌っていました。
1991年から1999年までは
『天までとどけ』で大家族の母親・定子役を演じ、親しまれました。
1996年から2014年までの17年半もの間、
『はなまるマーケット』の総合司会を薬丸裕英と共に務めたことで全国区で朝の顔となりました(当初は数ヶ月間のつなぎ番組の予定でしたが、
総合司会の2人の軽妙なやり取りが予想外に好評だったため、
急遽番組継続が決定したといいます。
その活躍によって2006年度の放送ウーマン賞を受賞)。
『探偵レミントン・スティール』での
ヒロイン役(ステファニー・ジンバリスト)の吹き替えを担当(初期シーズン)。
その他、2時間ドラマに多数主演。
全薬工業のCMには約45年間出演。
2020年4月23日、
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去 。
63歳没。
(岡江久美子)
古谷一行さん
(1944年1月2日-2022年8月23日)
俳優。
身長170cm。
1970年代から2000年代にかけての数多くのサスペンスドラマで主演を務め、
人気を博しました。
東京都出身。
東京都立板橋高等学校を経て中央大学法学部卒業。
大学在学中、
俳優座養成所第16期を経て俳優生活を開始。
1977年からの『横溝正史シリーズ・名探偵金田一耕助シリーズ』などでの
主人公・金田一耕助役を一貫して演じ、
当たり役となりました(2019年12月21日には、
NEWSの加藤シゲアキが金田一耕助を演じる『悪魔の手毬唄〜金田一耕助、ふたたび〜』に磯川常次郎警部役で出演し、
加藤と古谷の新旧金田一役俳優の共演が実現)。
1982年から2007年までの25年間、
『土曜ワイド劇場』では「混浴露天風呂連続殺人」シリーズの
主役・左近太郎役を演じて再び当たり役に。
ゲスト出演した浅井理恵からは不倫を暴露されますが、
迅速に謝罪会見し話題に。
長男はDragon Ashのボーカルを務める降谷建志。
Dragon Ashのアルバム『Viva La Revolution』(1999年)のTVCFに父の古谷が出演したり、
古谷が主演・プロデュースを務めた映画『手紙』(2003年作品)では
父子共演を果たしました。
建志の妻はタレントで女優のMEGUMI。
建志とMEGUMIの長男(古谷の孫)の降谷凪も俳優としてデビュー。
2011年に肺がんであることを公表し、
切除手術を受け、翌年復帰したものの、
脳への転移が判明して放射線治療を受けるなど闘病を続けていました。
さらに胃がんにより胃を全摘していたことも没後に建志により明らかにされました。
亡くなる2年前からは体調不良を理由に公の場に姿を見せていませんでしたが、
本人は復帰に向けてトレーニングを続けていたといいます。
2022年8月23日、東京都内の病院で死去。
78歳没。
(古谷一行)

ふぞろいの林檎たち…当時このシーンが衝撃的でした~😳でも、このシーンで中井貴一さんも高橋ひとみさんも大好きになりました~😊

1962年、噴水型ジュース自販機「オアシス」
ボトルの中で噴き上がるおいしそうなオレンジジュースに購買欲をそそられ、左のコップホルダーから紙コップを引きだし、右の受け皿に載せ十円玉を入れると冷たいジュースが注がれる。
昭和三十二年(1957)に、日本初のジュース自販機を世に出した星崎電機(現ホシザキ電機)が、昭和三十七年(1962)「街のオアシス」というネーミングで、噴水型のジュース自販機を発売し大反響を呼ぶ。ガラスボトルの内部で冷たいジュースが吹き上げる仕掛けは、ディスプレー効果絶大。日本中のデパートや街角に設置され、十円紙コップジュースとして親しまれました。
益岡徹さん
(1956年8月23日-)
俳優。
山口県下関市出身。
株式会社仕事所属。
神奈川県立横浜緑ケ丘高校、早稲田大学商学部卒業。
身長181cm。
高校時代はラグビーに打ち込んでいましたが、
文化祭の8ミリ映画でラーメン店の客として出演したのがきっかけで、
演劇を志します。
大学在学中はサークルでアングラ演劇に傾倒する一方、
『影武者』など映画のエキストラ出演を経験。
1980年の大学卒業後、
『影武者』の主演でもあった仲代達矢主宰の無名塾に応募、
当時約200倍の難関を突破し大橋吾郎らと共に
第4期生。
(益岡徹)
★カール
人気あるお菓子ですが、現在は西日本でチーズとうすあじが販売されるだけとなりました。
『ナショナルキッド』(英:National Kid)は、1960年8月4日から1961年4月27日まで日本教育テレビ(NETテレビ:現・テレビ朝日)系で放送された東映製作の特撮番組、および劇中の主人公であるヒーローの名前。モノクロ作品。東映が手掛けた初のSF特撮作品である。「ナショナル」こと松下電器産業株式会社(現社名:パナソニック株式会社)が、「子供たちに科学に対する興味を持たせたい」との方針で、破格の予算を投じて単独スポンサーをつとめた。オープニング映像では、ナショナルの電飾広告塔をバックに空を飛ぶナショナルキッドの姿が使われるほか、番組提供の「松下電器」の文字とナショナルの広告塔が重ねられ、また劇中でナショナルキッドが使用するエロルヤ光線銃がナショナルの懐中電灯と同じ形であるなど、かなり徹底したタイアップとマーチャンダイジングが行われた。
📺👉 https://youtu.be/CD4JVcEpNfs
記録より記憶に残る
昭和の名大関
《名寄岩》
*北海道名寄市出身
*鍼灸師から角界入り
*順調に大関まで出世して…
第35代横綱:双葉山
第36代横綱:羽黒山
と合わせて「立浪三羽烏」として称された!
*様々な病気を患い(糖尿病/胃潰瘍/関節炎/神経痛など)…「病気のデパート」との愛称が付くなどして幕内前頭下位まで落ちる。
*1950年5月場所で9勝6敗で敢闘賞を受賞。日本相撲協会から全力士の鑑として特別賞を受賞
*名寄岩の汗と涙の輝かしき半生記を描いて映画化もされる
「名寄岩・涙の敢闘賞」
1956年・日活映画
名寄岩の死去から10年が経過した1981年に故郷,名寄市に名寄岩の銅像が建立される。
万民に愛された、、
記録より記憶に残る
昭和の名大関《名寄岩》

大好きだったカリメロ