【ホームレス自立支援活動!!】Apex product

「ちばSDGsパートナー」登録企業  Apex product

“地球上のあらゆる形の貧困をなくそう”

続可能な開発目標、SDGs目標1「貧困をなくそう」は、貧しい人をなくすための目標です。

お金がないために不自由な生活を送っている人を減らします。
食べ物が手に入らず命を落としてしまう子どもがいるのは事実としてあり、世界の技術や文化が発展しているとはいえ、お金がなく苦しんでいる人は少なくありません。

貧困に陥ってしまった人々を救うために、目標1「貧困をなくそう」は掲げられました。具体的には次の2つを目指しています。

  • 世界中で極度の貧困にある人をなくすこと
  • 様々な次元で貧困ラインを下回っている人の割合を半減させること

(出典:農林水産省公式サイト)

貧困をなくすためには、国の制度やサービス、インフラを整える必要があります。
収入が少ないだけでなく、食べるものさえないために栄養失調になって体調を崩したり、病気になっても適切な医療を受けられずに生命を落とす人も少なくありません。

国の設備が整っていないがために、自由に移動ができないケースもあるでしょう。社会的な差別がゆえに、苦しい生活を虐げられている人も多くいます。
金銭面はもちろんですが、辛い思いをしながら生活をしている人を救うのが目標1「貧困をなくそう」の目指す未来といえます。

■SDGs 目標 11 【住み続けられるまちづくりを】

すべての人が水・電気などの必要なサービスを得られる安全な家に住み、スラムの状況を改善すること、また特に子どもや女性、障害者、高齢者など配慮が必要な人々にとって、安全で価格が安く、かつ環境に配慮した交通機関や公園などの公共スペースをつくることを目指す目標です。

さらに住民のまちづくりへの参加を確保すること、災害に強いまちや地域をつくること、大気汚染を防ぎ廃棄物を管理して都市の環境を改善すること、世界文化遺産・自然遺産を守ることもこの目標に含まれます。

初春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は格別のお引き立てをいただき、ありがたく御礼申し上げます。 さて、このたび弊社は創立10周年を迎えるに至りました。 皆様方のご支援、ご厚情による賜物と深く感謝いたしております。
とうとう、10周年を迎えることができました。2013年の3月から数えて、10年が経ったわけです。どんなことでも、毎日10年やり続けられたら、一丁前になれるとある作家の方が言われていました。このことばを、一番信じていたのは、私達だったのかもしれません。大変なようで意外に短い期間のようでしたが、そして、とうとう待ち望んでいた10年に到達しました。これもひとえに皆様のおかげであると感謝をしております。の10年に向けて新しいスタートを切るにあたりどのようなことが必要になってきているかを日々考えてきました。私どもは伝えること、元気になること、頑張りたい人たちのきっかけとなり、力いっぱい背中を押す役割になることができますよう、幅広い視野を持ち常にチャレンジ精神を持って、皆様のご期待にお応えできるよう従業員一同最大限の努力をしてまいります。今後も格別のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2023年 3月吉日 Apex product 代表 柳伸雄

【死ぬ事意外かすり傷】 Apex product

私も、病んでいる時期が、有りまして、自殺を考えた時が、有りました。変な表現しか出来ませんが、死ぬ覚悟が出来ていませんでした。ビルの屋上、電車のホームに1日いましたが、飛び込む事がどうしても出来ないのです。死にたい人は、死神が取り付いていると、言われます。背中を押されるらしいです。ためらっているはずもなく、飛び込むらしいです。しかし、私はそれも出来ません。まだ、やらなければならない事があるのか?やり残した事が、未練があるのか?どちらにしても、死にきれません。ホームレスになっても、路上で朝を迎えた時も、「あー。今日も生きてる。」

「また死ねなかった。」と、呟き、ボランティア(外国人)さんから、今日を生きる飯をもらう。「私は、何をやっているんだろう」でも、死ぬ事も出来ず、働く気力も無い。ただ、女々しく生きている。周りを見れば、ホームレスだが生き生きしている人達がいる。仲良くなった一人のホームレスが、こんな事を私に、話してくれた。「俺も、朝起きた時、目がさめた時、そのまま永遠の眠りについたらどんなに楽か。そう思う時もあったよ。ホームレスの人間は、始めはみんな死にきれないから、山谷に来るんだよ。生きる為の場所じゃない。死に場所を探しているんだよ。喧嘩も裏切りもなんでもある。死を覚悟した人間は、怖いから。貴方は、世間から逃げて来たかも知れないが、ドヤで生活する事は、そんなにあまいものでは無い。」そう言って焼酎を飲んだ。わたしは、この人も、「死にきれないから、生きているんだなぁ」と思いました。そして、また話し始めました。「あんた、今、幸せかい?」なんでだよ。不幸に決まってるよ。何質問してるんだよ。不思議に思いました。勿論「いいえ」と答えると、「そうだよな。でも、俺は幸せだよ。山谷を出て人様の為に、働く事にしたんだよ。外国人のボランティアの人達が、日本人を無償の愛で、頑張って支えている姿に、はじめて心を動かされたから。50歳からの再スタートだよ。笑えるでしょう。先ずここを出て、ドヤの仲間を一人づつ、社会復帰させたいんだよ。目標を持ったんだよ。楽しくなったんだよ。生きる事がさ。だから、あんた。分かるよね。ここにいるなら、いてもいいけど、幸せかい?自分に問いかけてみな。幸せの価値観は人それぞれあるからね。そう思うなら俺は何も言わない。しかし、少しでも疑問に思ったら行動することだ。」
そう言ってまた焼酎を飲んだ。なんだか、泣けて来た。大声で泣いた。
夜通し飲んだ。胸につまっていた思いを一気に全部吐き出した。
そして、次の日 山谷を出た。その人と二人で。小さな夢だけ持って。
 
マイナスからのスタートでした。いつもそうです。はずれくじばかり引きます。正月のおみくじも、ほとんどが凶だったりする。しかし、もう二度と、あれから死のうと、思う事はありませんでした。今は、幸せです。ドヤ出身だから言えます。何歳からでもやり直せます。人生のリセットは出来ません。テイク2もありません。しかし、再スタートは、出来ます。山の頂上に今いるなら、次の山を登る時にどうしますか?下山しますよね。一度は下までくだり、準備を整えて、登るんですよね。でも一度登った事がある人間は登り方を知っているんです。だからまた下って登るんです。それが人生です。私も一度捨てた命。がむしゃらに生きていきます。後悔のない人生を。だから、今、方向がわからなくなっている方、今日という素晴らしい一日を無駄に過ごす事だけはやめましょう。
【死ぬこと意外かすり傷】
を悩むことがありますか。ドーンと生きましょう。

現実を受けとめて、考えられる限り考えて、泣くときは泣いて

苦しむときは苦しんで、自分のできる範囲でいいから

精一杯頑張って下さい。応援してますよ!

【ホームレス対策】

 ホームレス対策については、平成14年8月に成立した「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」に基づき、平成15年7月に「ホームレスの自立の支援等に関する基本方針」を策定し、ホームレス施策を推進してまいりました。平成20年7月には、平成19年1月に行ったホームレスの実態に関する全国調査の結果を踏まえ、この基本方針の見直しを行い、新たな基本方針を策定したところです。厚生労働省では、この新たな基本方針に基づいて、引き続き、雇用、保健医療、福祉等の各分野にわたって施策を総合的に推進してまいります。

(厚生労働省のHP転記)

とありますが、何ら状況は進んでません。お年寄りのホームレスが年々増加しています。ホームレスは、怠け者では、有りません。確実に労働して現金収入を得ています。後は心のケアーも含めた支援が必要だと考えます。行政だけに頼らず我々も出来る限り支援して行きたいと思います。現状を良く、ご理解して頂き、ご協力宜しくお願い致します。

 Apex product 社員一同

ドン底っていうのは、違う誰かのせいにしたり
世間のせいにしたりして、自分を誤魔化してる人には
絶対に行けない場所です。
一回ドン底を経験した人は、例外なく強い人です。
そこはこの世の終わりみたいな場所じゃなくて
そこから始まる場所なんです!
一番いいスタートラインなんですよ!

 

◆ 寄せ場で使われていた言葉の意味 ◆



 焼野原となった戦後の東京。その復興を、表舞台ではなく陰から、それも危険な重労働で支えた山谷の日雇い労働者たち。後に、都市基盤のインフラ整備の高度経済成長期と呼ばれる時代からバブル経済崩壊までの長い間、至る所で地味な活躍をしてきたのが寄せ場のおじさんたちだった。

 近年、建設需要の急低下や急激な産業構造の変化などから日雇労働市場が形だけになってきて、寄せ場機能自体も失われつつある。現代の労働者は、PCやスマートフォンなどの携帯端末などや就職情報誌から職を求める人材派遣会社の登録者となり、個別に労働を求めることで寄せ場の求心力も共同体意識も薄まり、結果山谷から“寄せ場のおじさんたち”と“寄せ場文化”が失われてきているのが現状だ。近い将来従来型の宿の商圏(パイ)は、確実に先細りになることが予想されている。そこで今回のこのページでは寄せ場のおじさんたちが山谷で日常使っていた寄せ場用語の意味を紹介します。



【寄せ場用語 山谷編】


「山谷」
⇒山谷(さんや)という地名は、とても古く、徳川家康が江戸城に入城する前にはすでに存在していたという。明暦3年(1657年)、振袖火事の後に吉原遊郭が北部浅草へ移って来てからは、山谷の環境は一変した。
正徳3年(1713年)、それまで山谷村と呼ばれていたのが山谷町となり町奉行所の管轄になる町方と郡代支配の地方とに分けられていた。しかし、時代々によりその示す範囲と町名も変遷を重ねていった。
山谷地域の、特にその東側の隅田川沿いは風光明媚な土地柄だったため、お大尽や風流な趣を好む文人墨客が別邸を構えるような場所になっていった。昔の山谷堀流域には沢山の料亭や船宿などがあって、文化サロン的な場所でもあったという。その後、明治44年(1911年)の吉原の大火始め、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の東京大空襲と、実に34年間に三度も焼野原になる度に、山谷は復興するための労働力の骨休めの場所として寄せ場的な色合いも生まれていった。
今は山谷という住居表示はないが、かつて簡易宿所など日雇い労働者のための施設が数多くあった場所を、行政が区割りをして“山谷地域”と現在も呼んでいる。その範囲は、台東区側(0.69 k㎡)は、清川一・二丁目、日本堤一・二丁目、東浅草二丁目、橋場二丁目で、荒川区側(0.97 k㎡)は、南千住一・二・三・五・七丁目で、合計1.66 k㎡の広さになる。なお、隣接する南千住駅は、南千住四丁目なので山谷地域には入らない。最近のテレビなどのメディア報道でいう山谷とは、概ね泪橋交差点周辺のことを言っていることが多い。


「ヤマ」 ⇒“ヤマ”とは、山谷の別称。日雇い労働者などが街の愛称として使い、またある時は否定的な意味をも含めて呼ぶ場合もあった。


「ドヤ」 ⇒宿(やど)の逆読みした俗語で、日雇い労働者向きの簡易宿所や共同住宅のことを意味し、否定的に言う場合が多い。


「簡宿」 ⇒“カンシュク”とは、旅館営業の許可施設の中の「簡易宿所」のことを略して呼ぶ言い方。台東保健所の説明によると、「簡易旅館」、「簡易宿舎」、または「簡易宿泊所」などという呼び方はマスメディアから広まったマスコミ用語とのこと。


「寄せ場」 ⇒災害や飢饉から犯罪が横行した江戸後期、その江戸の危機の時代に活躍した“鬼平”こと長谷川平蔵が考案した自立支援施設「人足寄せ場」の名を卑下してもじった言い方。ヤクザの隠語を連想することなどからマスコミでは使用に適さない用語に入るらしいが、今風に分りやすく言えば、日雇い労働のおじさん達の“就活”の場だろう。現在の山谷では、日雇い労働市場とその関連する業種が集まる街、またはその地域を指している。


「アサケイ」 ⇒警視庁浅草警察署の名称を端折って否定的に呼ばれていた言い方。


「マンモス」 ⇒広辞苑によると、マンモスとは更新世に生息した巨大ゾウの意味で、転じて「巨大な」という意味となったということだが、山谷では山谷通り(吉野通り)に面した大交番を指す。昭和35年(1960年)7月1日「山谷文庫」の跡地に出来た、当時の正式名「浅草警察署山谷警部派出所」といった大交番(通称=マンモス交番)のこと。鉄筋コンクリート造り三階建て延べ床面積100㎡、警察官の定員55名。二ヶ所の取調室も備わっていた当時日本最大級の交番は、昭和30年代後半頃から山谷の権力の象徴として度々騒動屋からの攻撃対象となっていった。そして地元山谷では何時しか「マンモス」と言えば山谷の大交番の代名詞となった。大交番は後に警視庁唯一の地区交番「山谷地区派出所」となって80m程浅草へ寄った場所に移設された。平成20年(2008年)には普通交番に格下げ、「日本堤交番」と改称され現在に至っている。


「ポリコウ」 ⇒警察官(おまわりさん)を蔑視した呼び方。当時の騒動屋たちのアジビラには、山谷での権力の象徴として、「アサケイ」・「マンモス」・「ポリコウ」と三点セットで書かれることが多かった。


「センター」 ⇒かつて東京都の出先機関であった旧「東京都城北福祉センター」と旧「財団法人山谷労働センター」との二つの機関を一緒くたにして略した言い方。平成15年(2003年)に一体化改称し、現在は「公益財団法人城北労働・福祉センター」とひとつの法人になって本館は台東区日本堤2丁目に、分館は荒川区南千住3丁目にそれぞれある。


「山谷通り」 ⇒荒川区側のコツ通りの一部から泪橋交差点を超え、台東区側の吉野通りまでの特例都道のことを指し、正確には、山谷地域のエリア内を走る東京都道464号言問橋南千住線のことをいう。文禄3年(1594)千住大橋の架橋後は、江戸の五街道のひとつ「奥州街道」(奥州道中・陸羽街道とも呼ばれた)として現山谷地域北部の千住宿南組から南部の浅草山谷町に掛けて宿場町として栄えた。昭和30年代の高度経済成長期の始まり以降は、山谷通りは泪橋交差点周辺に毎朝数千人の日雇い労働者が路上に集まる労働市場(日雇い労働者の就活の場)の中心となった。


「泪橋」 ⇒江戸の昔から、浅草縄手(旧奥州街道)の思い川(別名=駒洗川)に架かっていた橋のことで“涙橋”と書かれることもあった。明治期まで“南千住駅前歩道橋”近くにあった小塚原(こつかっぱら)のお仕置き場(刑場)へ引かれる罪人が、今生の別れで渡る橋だったが、大正12年(1923年)頃に埋め立てられ橋は現存しない。現在は山谷通り(吉野通り~コツ通り)と明治通りと交わる交差点名として、また山谷の安宿街の中心点として広く知られ、山谷を舞台とした漫画「あしたのジョー」が繰り返しアニメ・実写版の劇場映画として公開されたり、テレビ東京の人気情報バラエティー番組で紹介されたことから再び注目されることになった。


「ニコヨン」 ⇒「ニコヨン」とは、昭和20年代の中ごろ、日雇い労働者が職業安定所からもらう定額の日当が240円(100円を「一個」として240円を二個四⇒ニコヨン)であったことからそう呼ばれた。その後、日雇い労働者そのものを呼ぶ別称となった。現在は、テレビなどマスコミでは差別的な用語として使われなくなった。


「デズラ」 ⇒日雇い労働に対する対価である日当の額。


「ピンはね」 ⇒労務の成果である報酬を搾取すること。バブル期頃の山谷では、役人から紹介される日当より、なぜか手配師のピンはね後のデズラの方が高かったという。


「ケタ落ち」 ⇒賃金が極端に低かったり、または通常の相場からかけ離れた労働条件の仕事場、または飯場などのことををいう。語源は「桁落ち」からきたと言われているが、技術の程度が低い病院も「ケタ落ち」と呼ばれることがあった。


「日払い」 ⇒当日の労働に対して一日単位に現金で支払う約束になっている日当の支払い方法。


「現金」 ⇒“現金仕事”つまり、日々現金で支払われる日雇い労働の条件のこと。


「出張」 ⇒世間一般で使う、会社員などが用務のため勤務先以外の所に出向くことの意味ではなく、日雇い労働者が寄せ場を離れ、一定期間飯場などに寝泊まりしながら仕事をすることの意味。出張のことを“契約”という場合もある。日本型の労働市場は、“出張先”から“寄せ場”に骨休めに帰ってきてお金が続くまで滞在し、現金仕事がなければまた出張と、二つの場所を繰り返しピストンしながら生活するというパターンが特徴といえる。


「コマワリ」 ⇒金銭的な条件はそのままで、天候の急変などにより現場仕事が短く終わったり中止になったりして通常より早く終業すること。


「ケツワリ」 ⇒労働者側から労働契約を途中で解約する行為。朝鮮語の逃亡を意味する言葉「ケッチョガリ」から転訛したのが有力らしく、かつて炭鉱労務者が過激な労務から逃れて職場放棄したことから広まった言葉のようだ。南千住駅の周辺は、元々常磐炭鉱からの貨物基地で、石炭やコークスなどの化石燃料の集積に大勢の日雇い労働者が従事していた。山谷でこの言葉が使われていた理由はここにルーツがあったらしい。


「トンコ」 ⇒労働契約を一方的に解約して、意思表示もなくいなくなること。トンズラとも言われた。


「テモト」 ⇒片付け仕事や荷物運びなど技術の必要のない労働のことを言った。


「手配師」 ⇒公共職業安定所(ハローワーク)を通さず、直接雇用主に労働者を斡旋することを業としている者。その斡旋する仕事のことを“人夫出し”と言った。


「特就」 ⇒東京都が実施する特別就労対策事業のことを略した言い方で、満55歳以上を対象に、登録者に、公園等の清掃や除草作業等を輪番制で紹介している事業のことをいう。


「越年相談」 ⇒毎年年末の12月29日に台東区リバーサイドスポーツセンター等に東京都の設置した臨時相談所で実施する、年末・年始の宿泊や医療相談の事業のことをいう。山谷地域を離れ、東京都が管理する寮のような宿泊援護施設で越年、越冬すことを寄せ場のおじさんたちは「宿泊」と呼んだ。


「白手帳」 ⇒日雇いの労働保険(雇用保険)「日雇い労働被保険者手帳」を略した言い方で、手帳の表紙が白かったことからそう呼ばれた。他に「日雇手帳」や「センター手帳」などの呼び方もあったらしい。


「アブレ手当」 ⇒日雇いの労働保険加入者が、一定の条件を満たすことで受けられる日雇いの失業保険手当。


「オケラ」 ⇒元の意味は、バッタ目ケラ科の昆虫の螻蛄(けら)のことで、そのバンザイをしているかのような虫の正面の姿から、転じて“無一文”で「お手上げ状態だ」という意味として使う。寄せ場のおじさんたちはバンザイの仕草をしながら使った。


「オケララーメン」 ⇒煮るタイプの即席麺のこと。食費が貧しい時に食べる経済的な即席麺の食べ方で、具なしの即席麺を鍋で複数個煮ることが多かった。


「オケラ街道」 ⇒競馬で負けたギャンブル好きの寄せ場のおじさんたちが、浅草の場外馬券場から徒歩で山谷へ戻るルートのこと。千束通りを通り、吉原の風俗街を避け日本堤消防署の辺りを抜けるこの一般的なルートは、その昔、浅草の観音様から新吉原へ徒歩で向かった遊客の通い道と道筋が似ていたらしい。


「アオカン」 ⇒山谷における「アオカン」の意味は、宿に泊まるお金がない時、または門限を過ぎるなどの理由から宿に泊まれない場合に路上で過ごすこと。語源は“青空簡易宿泊所”の略など諸説ある。


「泥棒市」 ⇒かつて玉姫公園内で毎朝開かれていた朝市を指すが、日本の大きな寄せ場には似たような市が必ずといってもいいほど立つ。現在では、玉姫公園周辺の路上で、夜な夜などこからともなく露店が集まり出し、多い時には40店舗以上も集まることも。暗黙の近隣協定のようなものがあるらしく、朝7時頃には露店は撤収していなくなる。最近は山谷に泊まりにくる旅行者が掘り出し物を求めて訪れることも。


「タコ部屋」 ⇒暴力飯場のこと。出張で契約期間中は、飯場という寮のような場所で生活することが多いが、中には暴力的な対応を取る飯場もあったという。粗悪な食事や必要経費と称して異常に高い経費を天引きされ、結果給料が残らなかったり、中には逆に債務として請求される事態もあったという。


「半タコ」 ⇒意図的にトンコに誘い込み、それによって、すでに労働した分の賃金を支払わないなど“タコ部屋”に近い飯場のことを言った。


「モガキ」 ⇒この言葉は、酔っ払いなど無抵抗な者を周辺にはケンカなどと見せ掛けて金品を奪うことをいう。路上に寝ている者の介抱を装って財布などを抜き取る介抱ドロなども「モガキ」に含まれる。浅草警察署によると、物取りに囲まれた被害者が、本能的に身体をもがく動作から生まれた言葉だと言われている。関西の方では、被害者の身体をなでるような行為から「アンマ」と呼ばれるらしい。同じ種類の犯罪行為でも、東西でまったく違う発想の言葉になっていたのは興味深い。


「フクシ」 ⇒生活保護の受給のこと、またはその受給を受けている者のことを言う。


「フクシ宿」 ⇒主として一般旅行者を泊めている宿泊施設(一般宿)に対して、主に生活保護世帯主を泊めている宿のことを言う。


「山谷の七不思議」 ⇒かつて浅草警察署のおまわりさんが、山谷の街を勤務中に感じた話題を、休憩中の茶飲み話の中で“七つの不思議”として集めたものだと伝えられている。 

 

【 山谷の七不思議 】

1.女性がおそわれない。

2.ドヤがおそわれない。

3.働かなくても食える。

4.働いても金がたまらない。

5.自殺者が少ない。

6.手配師が多い。

7.法律を厳格に守れば秩序が維持できない。

09/14(水) 日本テレビ 【NEWSZERO】
“黄色リボン”行列の正体は・宗教団体“支給日”にナゼ

 

宗教団体がホームレスの支援を名目に住民から生活保護費を吸い上げていた疑いのあることが取材でわかった。
月に1度の生活保護費の支給日にさいたま市の区役所の前には行列ができていた。
区役所の前に止まっていたバスには宗教団体のグループの名があった。
区役所にバスでやってくる男性らは宗教団体の施設で暮らす住民たち。
区役所内では点呼が行われ厳しく管理されていた。
その後住民それぞれに渡された生活保護費が宗教団体側渡っていた。
元入居者の2人に話を聞いた。
2人は東京・新宿の公園でホームレスの時、宗教団体に勧誘され施設に入居。
宗教団体が運営する施設は埼玉県内に全部で6か所。
さいたま市などによるとそこで合計441人が生活しているという。
この施設についてNPO法人ほっとプラス・藤田孝典代表理事は「金を搾取するだけが目的だと思われても反論の余地がない」と話す。
さらに宗教団体の6つの施設のうち4つは建築ができない場所に造られた違法な建物だった。
さいたま市が施設を使わないよう指導を続けているにもかかわらず宗教団体側は一向に改善しないということもわかった。
生活保護制度の費用は税金。
さいたま市生活福祉課・遠山昭人課長は「事業者が集金を行う行為については好ましくない、不適切な行為だと考えている」と話す。
さいたま市は宗教団体の代表に面会を申し込むが一度も会えていないという。
今後事業停止の行政処分なども視野に入れながら指導を続けていく。
団体から入居者に月に1度配られる利用の明細書には、プレハブ3畳一間の家賃として47700円。暖房費として3080円。さらに、水道光熱費で9000円。家賃と水道光熱費合わせて5万9780円徴収される。 不満が募った横田さんと吉井さんの2人は施設を出てそれぞれアパートで一人暮らしをはじめた。新しい部屋は、駅から徒歩10分6畳1K、トイレとエアコンもユニットバスもある快適なもの。しかも家賃は4万3000円と前の施設より安い値段。地元でホームレス相談を行う団体は、岩槻区にある宿泊施設に対して「対価が高すぎて、まともな施設ではない」と話した。またこの宗教団体が運営する施設は埼玉県内の全部で6か所。埼玉県によると入居者は合計で441人が生活している。これは、埼玉県ホームレス数218人を上回り、入居者の多くが東京都内から集められたという。宗教団体の6つのうち4つは建築ができない場所に作られた「違法建築物」。さいたま市では施設の使用停止をするよう求めるが、宗教団体側は改善されないという。

違法とされる施設でどんな暮らしをしているか、施設内を外から撮影した。 午後5時すぎエプロンを着けた男性がたくさんの食事をもって食堂に入っていく。男性が合図を送ると、入居者たちが食堂へ集まっていき、元入居者の吉井さんによると食事は担当の入居者が準備するという。元入居者によると入居者の夕食は、おかず・副菜にご飯・みそ汁がつく。食事は月~土曜に1日朝夕食の2回で、月費3万円がひかれていくという。入居者の毎日の生活保護費は約13万円、そこから施設の利用費などの名目で合計9万5000円徴収されていた。残りの生活保護費は約3万円ほど、それを分割して毎日1000円がお小遣いとして渡されていたという。朝9時ころ施設に宗教団体側の男性が現れた。施設で流れた放送でぞくぞくと入る入居者たち。数分後、再び現れた入居者たちの手には千円札が握られていた。元入居者によれば、一度に金を渡さないことで、施設からの逃亡を防いでいるんだそう。こうして入居者達は、生活保護費を管理していた。宗教団体が手にするお金は441人のうち1人あたりおよそ9万5700円、入居者合計金額はひと月4220万円。年間でみると約5億円にのぼる計算。こうした事態を問題視したさいたま市では、質の悪いサービスで生活保護費から不当に利益を得る行為を規制を制定した。そして去年の11月これを適用し宗教団体たいして行政処分を行った。無許可でたてた施設に人を住まわせて金を取る行為は、不当に利益をあげる条例違反だとして、新規の入所者の受け入れ停止命令を命じた。しかし、処分の対象になったのは条例の施設後に建設された1施設のみ。他の5つの施設は条例の適応を受けず、今も新規の受け入れが続いている。

多摩川沿いに立ち並ぶ路上生活者のテントや小屋のなかには、自家発電機やアンテナなどが設置されている建物が散見される。なかには、インターフォンを取り付けているところもあれば、和室の部屋に液晶テレビや冷蔵庫などを完備した家もある。傍から見ても、彼らの生活水準に達するにはある程度の収入が求められるのは想像に難くない。多摩川沿いに居を構え12年目になる40代ホームレス・久保直樹(仮名)さんは自身の収入源について次のように話す。

「月曜日から土曜日の週6で朝6時くらいからごみ捨て場を回ってお宝を探しています。主な収入源は、アルミ缶、アダプターの中にある銅線、そして自転車ですね。自転車は解体して部品として買い取ってもらいます。これだけで月収は10万円前後にはなりますよ。あと今、狙っているのはスマホ。1台7000円前後で買い取ってもらえる。逆に買い取り価格が下がったのはノートパソコン。WindowsXPのサポートが終了しちゃったからね。以前は1台3000円だったのが、今ではたったの700円ですよ」

久保さんの家では、秋葉原で購入したソーラーパネルを使って発電をしている。自炊に使うガスはカセットコンロを利用し、水道は近くの水飲み場から汲んでくるという。水道光熱費はゼロに近く、久保さんは月の稼ぎのほとんどを自由に使えるそうだ。では、その使い道は?
「たばこと食費で全部すっ飛びますよ。ファストフードやコンビニのお弁当は食べないですね。肉も滅多に食べないですし、もちろんお酒もやらない。体に毒ですからね。えっ、たばこ……!? これは相棒みたいなもんだから勘弁してよ(笑)。で、最近ハマっている夕食は、鶏肉でとった出し汁で野菜を湯がいてゆずポン酢でいただくこと。鶏肉は食べずに捨てますけどね。あくまで出汁用。もう、これが絶品なんですわ」

 肉を捨てて野菜だけを食べる。なんとも贅沢な食事である。続いて、買い出しを終え、帰宅途中の60代ホームレス・石井和典さん(仮名)に話を伺うことができた。ホームレス歴は13年目になるという。「これからホームレス仲間と飲み会でね」と言うように、スーパーの袋の中は、辛子明太子、1.5リットルのペットボトルジュース2本、缶ビール7本、そしておつまみ少々といった具合だ。懐が温かくなると飲み会を開くという石井さんの年収は、なんと300万円近い。

「ごみの回収日に合わせてごみ捨て場を回るのは他のホームレスと一緒です。ただ気をつけていることがいくつかあります。まずはごみ捨て場に行く時間。早く行き過ぎると少量のごみしか捨てられていませんし、遅すぎると他のホームレスに先を越されてしまう。またファミリー層が多いのか、独身の社会人が多いのかによってもごみが集まってくる時間帯は違います。この辺りはどうしても経験がモノを言いますね」

次に気をつけているのが、訪れるエリアなのだとか。

40代ホームレス・久保直樹(仮名)

ホームレスたちはそれぞれ独自のルートで収入を得ている

 

「例えば田園調布。昔ながらのお金持ちが住んでいる地域なので、さぞかしお宝が眠っているかと思いきや、お金になるごみには滅多に遭遇しません。本当のお金持ちって堅実なんでしょうね。逆に狙うべきエリアは、馬込近辺の新興住宅地域や、中流階級より少し所得が低い人が多く住んでいる川崎市の幸区あたりかな。消費癖がついている人や成金体質の人が多いから、貴金属とか平気で捨てちゃう。運が良ければ金(ゴールド)とかブランド物の指輪や時計とかをゲットできることもある。まあ稀ですけど、月収80万円くらいになったときもあったかな。あとは、専用のごみ捨て場を設けているマンション。回収日に関係なく住民はごみを捨てるからね。こういうマンションを見つけたら、ごみ捨て場を管理している人と仲良くなるように心がけていますよ。特別にカギを開けてくれて、中を見せてくれることもありますからね」

 ごみをお金に換えるのには、お金の匂いを嗅ぎつける嗅覚が必要なのだそう。ただごみを拾えばいいというものではない。嗅覚がすぐれているかどうか、それがホームレスの武器となるようだ。 <取材・文/日刊SPA!取材班>  

ホームレスに聞いた「宿無し生活で住みたい街/住みたくない街」

寒さが身に堪える今日この頃。もっとも厳しい環境にさらされているのが、ホームレスたちだろう。彼らが住みやすい東京の街とはどこなのか? ホームレス20名に都内の主要な街の事情、ホンネを聞いてみた。一般的に語られる「住みたい街・住みたくない街」とは違った様相を見せる彼らの声を紹介しよう。

渋谷


「渋谷は意外と人情味があるというか。駅に限らずお店とかでも暑さ寒さをしのげる場所が多いんだよね。代々木公園も好きだから渋谷から離れたくないよ。だいたい暑さ寒さなんて、東京ならどこに行っても同じだし」(40代・男性)

「ここ以外だと、銀座・新橋がいいな。あそこはメシもうまいし、お金ももらえる。ゆりかもめ沿線にも棲みつく人が最近多いよ」(50代・男性)

上野


「板橋区と葛飾区は生活保護が受理されやすいって聞いて行ってみたんだけどダメだね。結局ここに落ち着いちゃったよ」(50代・男性)

「上野で悪いと思ったところは今のところ特にないんだけど。まあ、あえて言えば、静岡に行きたい。なんか暖かそうだから」(30代・男性)

「八戸でイカ釣り漁船に乗ってたんだけど、上野は故郷の青森が近い気がして棲みついちゃったんだな。今となっては友達もできたし離れたくないね」(50代・男性)

池袋


「おれがここにいるのはいい医者がいるから。その先生は定期的に2000円配って歩いている。昔は新宿にもそんな人が居たんだけどねぇ」(60代・男性)

「池袋はやたら寿司屋が多いから、新鮮なメシが手に入りやすくて助かってるよ」(50代・男性)

「新宿よりイタズラされることが少ない」(50代・男性)

「池袋も怖い街だけど気楽だよ。俺は玉姫公園(南千住)にいたんだけど、あんまよくなかったんだよな。しがらみが多くて。そういうのが嫌で、池袋に来た。こっちはこういう”ライフスタイル”が普通だからいいね」(60代・男性)

新宿


「新宿は怖い街だよ。イタズラされることも多い。でも池袋の連中はロクでもないな。新宿の方がマシだよ」(60代・男性)

「ここ以外でホームレス生活なんて想像もつかない。支援団体も多くてオレなんかホームレスになる前より太った。ヤクザもんも多いけどな」(60代・男性)

吉祥寺


「繁華街も他のホームレスも嫌い。井の頭公園は最高だけど、冬は寒くてしんどいね」(50代・男性)

 話を聞いたあるホームレスによれば、最近では東京から千葉や埼玉など関東近県に移るホームレスも多いという。今回は5か所でのリサーチだったが、ホームレスの人たちは実に様々な街で暮らしてきた経験を持っている。

 基本的に自分たち以外のコミュニティや、他所の街の悪口になると雄弁になる傾向があった。もちろん内容の信憑性には疑問の余地があるが、総じて今いる場所に強い愛着を持って住んでいるのは、間違いないようだ。 <取材・文/日刊SPA!取材班>

一泊1700円の簡易宿泊所“ジブリハウス”に泊まってみた

東京の山谷といえば大阪の西成や横浜の寿町と並ぶ、日雇い労働者たちの街として有名だ。

建物全体を包み込む植物が強烈なインパクトを与える。鬱蒼と生い茂っている様子は異様な雰囲気

 

 高度経済成長を下支えしてきた労働者たちも、近年は高齢化が進み、かつての活気は失われて治安もだいぶ良くなった。とはいえ、まだまだドヤ街としての雰囲気は色濃く残っており、仕事にあぶれたおっちゃんたちが朝から地べたに座り込んで酒盛りをする光景が今でも見受けられる。

 そんな山谷で近所の人たちから、“ジブリハウス”と呼ばれている有名な簡易宿泊所があるという情報を得て、実際に一泊してみた。南千住駅徒歩5分という好立地にもかかわらず、一泊(24時間滞在可能)1700円と、山谷のドヤ(宿)の中でも割安のこの宿。異様なのはその外観だ。建物全体が鬱蒼と茂ったツタに覆われており、錯覚かもしれないが建物自体、少し傾いているようにも見える。

◆新しいシーツに取り替えたばかりの部屋を案内される

 尻込みしながらも建て付けの悪い引き戸をこじ開け、建物に一歩足を踏み入れると、強烈なカビの臭いが鼻を突く。入り口で人を呼ぶと、60代くらいの小太りのご主人が奥から顔を出した。想像したよりも人当たりの良い人で、初めて利用する取材班に「新しいシーツに取り替えたばかり」という部屋を割り当ててくれる。

 ツタに遮られ外からはわからなかったが、建物は木造二階建てで、一つの階を上下二段に仕切りそれぞれをひと部屋としている。ひと部屋の天井の高さは2メートル足らず。広さは三畳でペラペラの布団とテレビ、窓が一つあるのみで冷暖房はない。

⇒【写真】はコチラ http://nikkan-spa.jp/?attachment_id=965091

 唯一、設備らしい設備はテレビだが、ご主人は執拗にその受信状態を気にしており、リモコン一つひとつのボタンがそれぞれどのテレビ局に割り当てられているか、きちんと映るか、延々と二人で確認し合う謎の作業が続く。氏名や本籍地住所などを書き宿泊料を払うと、ご主人は去っていった。

 その日は29名が宿泊中ということだったが、建物は驚くほど静か。アコーディオンカーテンで仕切られただけの部屋なのに、物音といえば時折、誰かが咳き込んだり、何やら独り言らしい呟きが聞こえる程度。

風呂場。入浴時間終了30分前だったこともあってかお湯が濁っていた

 

 部屋の照明はくすんだ明かりを放つ一本の蛍光灯のみで、廊下も薄暗く、鬱々とした雰囲気を醸し出している。やがて、あちらこちらから聞こえ始めたイビキに誘われるまま、まだ早い時間にも関わらずついウトウトしてしまった。

夜のジブリハウス。自転車はこのあたりの通勤には欠かせない交通手段。引き戸のガラスにはヒビが

 

 しかし、この宿、深夜0時を過ぎても夜勤のおっちゃんや、新聞配達に赴く人たちもいるため、けっこう人の出入りが激しい。木造の廊下はどうしても足音が響いてしまうこともあって、ついに熟睡感を得られないまま朝を迎えてしまう。

◆住み着く宿泊客

 山谷エリアに数多く存在する格安の簡易宿泊所は労働者だけではなく、旅慣れた海外からのバックパッカーや長期滞在の観光客の利用が増加している(海外の安宿街に比べ比較的治安が良いこと、アクセスの良さなどが理由だそうだ)。

 “ジブリハウス”では外国人観光客に出会わなかったが、ご主人曰く、宿泊者のほとんどは住み着いてしまっているような状態で、季節を問わず2・3部屋は常に空いているそうだ。

かつての活気は失われつつあるものの、日韓ワールドカップ以降、山谷は海外のバックパッカーたちから熱い視線を集めてきた

 

 利用する際は「安かろう悪かろう」の割り切りスタイルで。念のためダニ対策も忘れぬようにしたい。 <取材・文/日刊SPA!取材班>

 

人は、変わることが出来る。たとえどんなことがあったとしても、遅いなどということはない。...絶対に忘れないで欲しい。どれだけ今が苦しくても、どれだけ今がドン底でも、自分を見つめ直して、前を向いて歩いていくならば、

人は、変わることができる。

どんなひどい困難に出会おうと、病気や事故になろうと、
死ぬことと比べたら、すべては「カスリ傷」のようなもの。もし明日死ぬとわかったら、多くの人が、今ある何げない当たり前のような幸せに感謝することだろう。歩けること、空気が吸えること、友や家族と語らえること、大喧嘩(おおげんか)したことでさえ、愛(いとお)しくなる。金も、家も、名誉も、宝石も、いかに大切なものであろうと、死んだらこの世に置いていかなければならない。それなのに、悲しいかな人間は、目の前のモノや金や名誉をもっともっと、と欲しがってしまう。もっとも肝心な、「生かされている」ということに比べたら、

すべてはちっぽけなこと。すべてのことに感謝して、

ありがたさをかみしめ生きていきたい。

激安!【200円~300円弁当】東京・山谷の 『卯-うさぎ-』USAGI ご紹介!! Apex product

東京・山谷の激安弁当屋! 

今日紹介するお店は、ほていや近くの「あしたのジョーのふるさと祭り」が開催された『いろは会商店街』(今年は11月24日開催) にある『卯-うさぎ-』というお店です。アド街『山谷・泪橋』にもランクインした山谷では有名な激安弁当のお店の1つで『ほていや』から徒歩約3分くらいの場所にあります。
お店の存在は結構前から知っていたものの実は買ったのは今回が初めて!

メニューも豊富で何にしようか迷う・・・
結局、お弁当(唐揚げ弁当 300円)と焼きそば(100円)を買ってみた!
量は少なめなものの焼きそば100円は超安い!味も普通に屋台っぽい。
お弁当も前にブログで紹介した山谷の280円弁当(ほっかほっか大将)のからあげ弁当よりボリュームもあるし、この値段でこの味ならお得だと思う。

気になった方は是非行ってみてくだされ♪

 

『卯-うさぎ-』USAGI
東京都台東区日本堤1-28-1
☎03-3871-5647
営業時間:午前9時半~午後6時40分(年中無休)


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『卯-うさぎ-』USAGIのメニュー
※このメニューは一部で他にも色々あります!

焼きそば(100円)
たこ焼き(200円)
お好み焼き(200円)
モダン焼き(300円)
おでん(200円)
マーボー丼(200円)
とろろ丼(200円)
牛肉丼(300円)
カレーライス(200円)
からあげ入りカレーライス(300円)
ピリ辛ジャージャー麺(250円)
冷やしたぬき(うどん・そば)200円
冷やし中華(250円)
惣菜(100円)色んな種類がある
お弁当(300円)ミックスフライ弁当、唐揚げ弁当、ハンバーグ弁当などがある。

 

※ 全て美味いです。特にホームレスの方々は歯医者に行けないので、歯がありません。なので歯が無くても食べられるように柔らかくしてくれてます。お心使いありがとうございます。Apex product 社員一同

 

東京・山谷の焼鳥屋~いろは会商店街『平乃屋』
今回は、あしたのジョーのふるさと祭りが開催された東京・山谷の『いろは会商店街』にある平乃屋という焼鳥屋さん(惣菜も売ってます)を紹介します!
ここの焼き鳥が昔から好きで今でも時々買いに行くお店です。
焼き鳥は小さめですが1本50円!
『平乃屋』の焼鳥は、とても美味しいのでおすすめです!

正直昔は、レバーが大の苦手だったので、あまり食べなかった私ですが、ここのレバーだけはなぜか食べられるんですよねぇ。レバー嫌いが克服できたのは平乃屋さんのおかげ?(笑)
レバー嫌いの方いましたら是非ここのレバーを試してみてください(*゚∇゚*)
ちなみに、たれも塩も美味しいですが、たれの方が食べやすいと思います!


平乃屋
台東区日本堤1-31-2
℡:03-3873-5472
定休日(日・祝)

酒場愛好家の㊙スポット「大林」



つい先日、焼酎の売り上げ日本一(実は世界一)の立ち飲み屋「世界本店」が泪橋にあった話をしたが、他にも『ほていや』から半径わずか100㍍程の距離に、夜明け前にオープン、昼過ぎにはもう閉店の立ち食い寿司店「駒寿司」や、漫画“孤独のグルメ”第一話に出てくる一膳飯屋「きぬ川」など山谷以外では絶対にお目に掛かれそうにない寄せ場の名残を残すディープなスポットを紹介し続けてきたが…、

 この近くで「面白いお薦めの飲み屋は?」などと山谷が初めてという旅行者から聞かれた時、食事より飲む方が目的だというならば、フロントから歩道に出てマンモスの方向に生ビール型の電飾スタンド看板が点灯していることを確認、指刺しながら第一番目に教える酒場がある。

 ↑ 夕暮れになると頑丈そうな鉄製の柵が開き、呑んべぇの至福の時間が始まる

 東京の個性ある隠れた酒場をアラ還世代の呑んべぇ三人組みが飲み歩いて綴った酒場愛好家の手引書「下町酒場巡礼」。その表紙を飾った酒場は、東京下町、浅草・山谷にある超レトロな酒場「大林(おおばやし)」だった。

 高い天井と使い込まれた無垢板のカウンター。店の倍以上もありそうな庭から夕暮れ時には西日が差し込む。壁に掛けられた神棚とミリ単位寸分の狂いもない位置に置かれた酒瓶類のディスプレイの数々。タイムスリップして昭和の時代に迷い込んだかのような雰囲気は、ちょうど三代目三遊亭金馬の落語「居酒屋」を彷彿させられる。

 暗黙の店のルールがあることはネット情報などでご存知の通り。この酒場に一歩でも入った者は、レフェリーである店主に絶対服従という弱い立場のまま、そして緊張感を保ちながら静かに飲む。それが第一番目のルールだ。
 緊張感が必要な店といえば「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な入谷の真源寺と上野駅(入谷口)の間にあり、15年以上も熟成させたコーヒーを僅か制限時間30分以内で飲まなくてはならない超マニア向け喫茶店「北山珈琲店」があるが、そこの酒場版といった感じのお店が「大林」といえそうだ。

第二番目のルールは、客は日本人でなければならない。仮に日本国籍を持ったと者としよう、しかし顔の造りが濃い~ソース顔だと断られる可能性が大らしい !?
 その他、エアコンなしの店内では撮影禁止、ケータイなど通信機器の使用禁止、大声禁止、多人数での入店不可など等…。どうも「cafe Bach」同様酔っぱらってからの梯子客の入店も“NG”らしい。そんな店の暗黙でも厳格なルールが存在し、寡黙な店主の「ツーアウト・ポリシー」から無言でテーブルに置かれた木札の“イエローカード”後の違反者は、容赦なく“レッドカード”で即退場となる。
 大林がきっかけで『ほていや』の常連になった人の話では、慣れてくると気の優しいオヤジさんに変身するらしく、大林が始めての女性客が店内で寒そうにしていると石油ストーブをそっと傍に近づけてくれたり、「こんなお酒もあるんだよっ」と親切にもアドバイスをしてくれたりとネット情報の中の「怖そうな親父」とはまた異なる別のイメージも持ち合わせているようだ。

 大林の前を走る山谷通り(今の吉野通り)は、終戦後日本有数の寄せ場となってからは職を求めて早朝夜明け前から数千人の日雇い労働者たちが集まる場所になった。さらに昭和30年代後半からバブル崩壊頃までの間には、左翼(騒動屋)と右翼(暴力団)との間で地域の縄張り争いがあって、学生運動の時期よりもっと前から警官隊(機動隊)が出動するような場所だった。残念ながらその頃から「山谷=危険な街」という既成概念が世間に植え付けられた。

 テレビ東京の土曜の夜の人気番組 アド街ック天国 「山谷・泪橋」の番組リサーチの際、ADさんから差し出された名刺さえ受け取らなかった店主だったが、その時の放送でランクインした“哀愁の酒場”は、元々断られた「大林」の店内撮影をイメージしたコーナーだったらしい。実は店主は同じ屋号の「大林(おおばやし)」という宿主でもあることから、同業の好(よしみ)でADさんに代わってロケ依頼に行ったがやはり無理だった。その時、店の外観を撮るのは構わないということで、アド街のオンエアー時は二度も店の玄関が出ていた。
 最近は、サブタイトル「浅草の名店百選」という本でも紹介され、枯れた酒場をこよなく愛す若い女性も来店するようになったと聞く。

 他では味わえそうにないお酒のライナップも多彩で、ミルクやトマトジュースで割った焼酎から味醂で割った「タカラ本直し」という今では忘れ去られたマニアックなお酒まであるのはいかにも山谷らしい。この店は、寄せ場だった名残の、それも博物館級の店内でひとり静かに時間を忘れて“酔う”という行為だけに特化した酒場ではないだろうか。


【 主なつまみ類 】
冷奴、玉子焼き(目玉焼き)、チーズ、牛もつ煮込み、シューマイ、山かけ、まぐろ刺身、ニラ玉炒め、いかフライ、串カツ、豚肉生姜焼き、カツ煮、カツ丼、磯辺巻き、あべ川餅 など等。
【 主なアルコール類 】
瓶ビール(KIRIN クラッシック・ラガーの大瓶)、ハイボール、焼酎ハイボール、泡盛ハイボール、赤玉ポートワイン、デンキブラン、陶陶酒、白雪純米酒、白鶴粕取焼酎、タカラ本直しなど等。


【 お店の情報 】
◎ 場所= 『ほていや』から徒歩0分(マンモスの手前)
◎ 営業時間=(水)~(月) 夕暮れ~21:00(?)
⇒ 20:30pm がどうもオーダーストップらしい
◎ 定休日= 火曜日
◎ 電話番号= 非公開


(※) 大林へ行く時は大人数は避け、店内では店主のご機嫌を損ねないよう静かに酒を楽しもう。かつて重労働の現場で疲れ果て、骨休めに山谷のドヤ街に戻った日雇い労働のおじさんたち。そのおじさんたちを長年癒し続けてきた哀愁酒場だと意識しながら昭和の時代の雰囲気を堪能してください。

なお、インターネットの情報の中には大林のことを「だいりん」と紹介しているページもあるようだが、「おおばやし」に間違いないことは店主からも確認済だ。他にもこのブログの情報は正確とはいえないかもしれないので、利用する前にもう一度確認してから入店を !!

【渋谷区長選】ホームレス排除について考える

統一地方選の後半が始まりました。東京都渋谷区の区長選については、先ごろ区議会で承認された同性パートナーシップ条例や、ホームレス排除などのテーマで、ネットやSNSで話題になっています。

そういった多くの意見のなかには、もっともだと思うものもあれば、眉をしかめるものもあり。議論が深まっていくことを切に願いますが、特にホームレス排除の文脈などでは、誤解や偏見の助長につながりかねない主張も多く、心を痛めています。

渋谷区民でもないし、渋谷区の支援団体で活動しているわけでもないので、書いてよいものかどうか悩んでいたのですが、ホームレス排除について少し整理が必要と思い以下に書きます。

なお、僕個人としては渋谷区長選に関して、誰か特定の候補を応援しているわけではありません。また、誰が区長になるにしろ、そして、渋谷区に限らずどの自治体でも、セクシュアルマイノリティの人やホームレス状態の人たちが必要とする施策づくりや、人権、ダイバーシティ(多様性)という視点からの区政や街づくりがおこなわれることを願っています。

ホームレス排除について

みなさんは、宮下公園をご存知ですか? 

宮下公園は、渋谷駅から山手線外回り方面(原宿方面)に乗ると、進行方向右手の線路沿いにある、こんもり緑がもりあがった公園です。現在、この公園は夜間施錠と言って、夜になると鍵が閉められ、入れなくなります。

渋谷に限らず、都内ではこのように夜間施錠される公園は少なくありません。宮下公園の近くにある神宮通公園も夜間施錠。夜間施錠ではないものの近くにある美竹公園は仮庁舎建設のため全面閉鎖中。

また、渋谷区以外でも都心の公園のなかには、改修工事の結果、これまで無料だった公共のスペースに有料のフットサルコートやバスケットコートが整備され、お金を払って予約しないと使用できなくなっている公園(区画)もあります。

これらの公園の多くには、数年前まで多くのホームレスの人たちが生活していました。テントを張って事実上定住している人もいれば、深夜のみ段ボールで即席の寝床を整えて眠り、朝になると去る人もいました。

これらの公園の夜間施錠や改修工事、一部の区画の有料化のすべてが必ずしもホームレス排除を目的としているとは思いません。自治体によっては、ホームレス状態の人がきちんとアパートに入居できるような支援をおこない、当事者と話し合って円満に計画を進めたところもあります。

しかし、渋谷区では、そういった話し合いや支援につなげていくことは、うまくおこなわれたとは言えず、むしろ、結果的にかなりこじれてしまっています。

宮下公園での強制排除

宮下公園に関しては、2010年9月に、渋谷区は公園内で生活するホームレスの人のテントなどを撤去すべく「行政代執行」が実施されました。区がナイキジャパンにネーミングライツ(命名権)を売却し、公園の改修をおこなうためです。

これに対し、公園内で野宿していた男性や支援団体などが2011年4月に裁判をおこし、2015年3月13日、東京地裁において原告側(ホームレスの男性や支援団体)の事実上の勝訴となりました。判決では、ナイキジャパンと区のネーミングライツに関する契約に関しては、「必要な議会の議決がなく、地方自治法に違反する」と指摘したほか、強制撤去そのものは適法としつつも、撤去前に男性を無理やり担ぎあげて退去させたのは違法と認定しました。(3月26日に渋谷区は判決を不服として控訴しています)

裁判では原告側の主張が一部認められたものの、この2010年の強制排除(行政代執行)以来、宮下公園内にはテントなどをはって生活することは難しくなりました。しかし、一方で、ホームレス状態の人がいなくなったかというと、下の写真を見ていただければわかるように、宮下公園近くの狭いスペースに身を寄せ合って生活している人も多いのが実態です。

また、2013~2014年、2014年~2015年の年末年始には、区は宮下公園を夜間だけでなく昼間も含めて完全に封鎖し、例年、支援団体がおこなっていたホームレス状態の人への支援活動も下記の写真のように、おこなえなくなる状況が発生しています。

年末年始には宮下公園含む3公園が完全封鎖
年末年始には宮下公園含む3公園が完全封鎖

公園などの公共空間での強制排除は、一時的にホームレスの人をいなくならせることができるかもしれません。しかし、彼ら・彼女らの多くは住む場所や居場所を失って公園などに身を寄せることが多いわけですから、そこから追い出しても根本的な問題解決にはなりません。むしろ、夜の街を転々と寝場所を求めてさまよい、健康状態を悪化させ、より困窮状態におちいって可能性が高いでしょう。

渋谷区の宮下公園でのホームレスの人への対応というものは、かなり厳しいものであると言わざるを得ません。

桑原現渋谷区長の発言

2015年3月26日に外国特派員協会でおこなわれた桑原現区長(今回は立候補せず)の記者会見では、セクシュアルマイノリティの人権や多様性を強調する一方で、

「路上生活者については、自分たちが責任を持って保護し、適切に指導をしている」

「あそこ(宮下公園)にはそういう(ホームレスの)人はいない。専門的にどこかから来る。そういう人たちが組織を持って、あそこにいらっしゃるのであって、これは、何かの政治運動に寄与するためにやっているのではないか。我々がやるのは、苦しんでいる人、助けを求める人、そのことについてはやぶさかではない。そうでない人にまで、わけのわからない主義主張のために譲歩することはない」

出典:性的少数者「歓迎」の渋谷区長、ホームレス強制退去問題については「譲歩しない」

と話したと報道されました。

宮下公園にはホームレスの人はおらず、政治運動なのでしょうか。

声をあげると「政治運動」?

2014年8月14日に、僕の所属する〈もやい〉と都内のホームレス支援団体の協力で、野宿者襲撃(野宿をしている際の暴力被害)の実態についての調査をおこないました。

渋谷近辺で野宿する人も含む347人からのアンケートによれば、

・40%の人が襲撃を受けた経験あり。

・襲撃は夏季に多く、襲撃者(加害者)の38%は子ども・若者。

・襲撃者は75%が複数人で襲撃に及んでいる。

・襲撃の内容としては、なぐる、蹴るなどの「身体を使った暴力」やペットボトルやたばこ、花火などの「物を使った暴力が62%を占めている。

・子ども・若者の襲撃は「物を使った暴力が53.6%にのぼる。

などが明らかになりました。

このように、当たり前ですが、公園や路上で寝泊まりすることは危険と隣合せであり、ホームレス状態の人同士でグループを作ったり、身を寄せ合って生活をしていることも多くみられます。

ホームレス状態の人同士の支え合いだけでなく、ホームレス生活を脱却した元路上生活者が差し入れをしたりと、コミュニテイーとしての機能をもっているグループもあります。支援団体のなかにもそういった当事者同士の「つながり」のなかから生まれたものも多く、支援施策を求めて自治体に要望したり、声を上げてきた歴史もあります。

そして、桑原現区長が言うような「そういう人たちの組織」とは、当事者や元当事者を中心としたボランティア団体であり、手弁当の互助グループです。本来であれば対話が必要な状況であるのに、ここまで敵視しなくても……。関係性がかなりこじれてしまっているなという印象を持ちます。

ホームレスの人は、どうして支援につながらないのか

近年、いわゆる「ホームレス」の人は減少しています。(「ネットカフェ難民」やファストフード店などで寝泊まりする見えづらい住所不定層は増加していると言われています)

しかし、詳細は以前にシノドスで書きましたが、病気や障がいを抱えているホームレス状態の人も多く、医療福祉的ニーズが高い人たちが路上で生活している状況があります。

東京都の調査によれば、渋谷区のホームレスの人は2014年8月時点で98人。もちろん、この調査自体が昼間に調査員が目視でカウントする方法をとっているため、ホームレス状態の人のすべてを捕捉できているわけではありません。

とはいえ、この98人という数字。あなたは多いと思うでしょうか、少ないと思うでしょうか。そして、一人ひとりに丁寧に向き合うことは、はたして難しいのでしょうか。

渋谷区は責任をもって保護していると言うが……

もちろん、渋谷区も生活保護やホームレス自立支援法の施策等で、必要な人を支援しています。しかし、これは渋谷区だけの話ではないのですが、まだまだ住所不定の生活困窮者を支援する仕組みが不十分であるのは事実です。

実際に、例えば、渋谷区で住所不定の人(ホームレス状態の人)が生活保護申請をすると、一時的な宿泊場所として多くの場合、GやY寮などといった民間の簡易宿泊所や無料低額宿泊所と呼ばれる施設を紹介されます。これらは、大半は複数人部屋で衛生面や住環境の面で必ずしも良いとは言えないところばかりです。(貧困ビジネスと批判する人もいます)

また、本来であれば、すぐさまアパートなどの居宅を用意することも法律的には可能であるにもかかわらず、多くの場合、そういった環境の良くない施設に何か月も滞在することが求められたりします。

こういった、ハード面での支援の不足は、多くのホームレス状態の人が支援を望まない、支援を使いたくても劣悪な環境に耐えられない、といった、彼ら・彼女らを路上に留めてしまう大きな要因となっています。先述しましたが、ホームレス状態の人のなかには高齢だったり病気や障がいを持っている人も多く、そうした人が集団生活になじめなかったり、健康状態を悪化させてしまって支援が継続しないなどの事態は後を絶ちません。

東京都は個室の施設を前提とする方針を検討しているようですが、まだまだ各区の施策には現段階では反映されていません。

ハウジングファースト的な施策の必要性

実は、東京都は2004年から2009年にかけて、ホームレス地域生活以降支援事業というものを実施していました。これは、別名「3000円アパート事業」と呼ばれ、都内の公園などでテント生活をしていたホームレス状態の人に支援団体と都が協力して3000円の家賃でアパートを借りることができるようにし、地域のなかでの自立を目指したものです。

この事業により、路上からシェルターを経由せずに直接アパート生活に移行した人は1945人。そして、84%の人が地域でのアパート生活を維持しているとの成果が出ました。

この事業はあくまで東京都により「試行的」におこなわれたもので、その後は継続されていないのですが、集団生活の劣悪な施設とアパート生活の選択肢であれば、誰もがアパート生活を選ぶことでしょう。

こういった支援の質を高めていくアプローチによって、彼ら・彼女らを追い出すのではなく、地域のなかで共に生活していく道を模索していくことができるのではないでしょうか。

ホームレス状態の人のなかにもセクシュアルマイノリティの人は存在する

当たり前の話ではあるのですが、ホームレス状態の人のなかにもセクシュアルマイノリティの人は存在します。僕もこれまで何人もの人と出会って来ました。

例えば、生物学的な性別と性自認が別の人がいたとして、その人が住所不定の状態から生活保護の申請をした場合。多くの場合で、その後の宿泊場所の確保にかなり困ってしまいます。なぜなら、公的、民間の施設は多くの場合、男性用と女性用にわかれており、セクシュマイノリティの人の入所が断られてしまうことは珍しくありません。ユニセックスな施設(シェルター)や宿泊場所はなかなかありません。そしてそもそも、生活保護の基準で泊まれる個室自体が東京では非常に少ないですから。

そういったことを考えると、例えば、先述した東京都の地域生活移行支援事業のような、いきなりアパートに入れる施策が整っていれば、セクシュアルマイノリティの人もそうでない人も、誰もがプライバシーが守られ、安全・安心に利用できるでしょう。

ダイバーシティとは、セクシュアリティについてだけではなく、バリアフリーや、そしてホームレスの人への対応という文脈でも「ユニバーサルデザイン」として、必要な支援を整える上での重要な考え方なのです。

いま必要なことは対話

渋谷区で起きているホームレス排除は、とても不幸なことです。ホームレス状態の人を追い出しても何も解決しません。

真にダイバーシティーを考え、一人ひとりを大切にする区政を目指していくのであれば、いま必要なことは対話なのではないでしょうか。もちろん、裁判になっていたりと、これまでの経緯のなかで、対話をおこなうこと自体が簡単なことではないかもしれません。

しかし、あらゆる人権課題について少しずつでもきちんと向き合っていくことこそが、ダイバーシティの街作りと言えるでしょう。

新しい区長になる方と、ホームレス排除の問題についても一緒に議論していけることを心から願っています。

大西連

認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい

1987年東京生まれ。認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事長。新宿での炊き出し・夜回りなどのホームレス支援活動から始まり、主に生活困窮された方への相談支援に携わっています。東京プロジェクト(世界の医療団)など、各地の活動にも参加。また、生活保護や社会保障削減などの問題について、現場からの声を発信したり、政策提言しています。

ホームレスに「腎臓200万円で売らないか」 暴力団幹部逮捕

ホームレスの男に「腎臓を200万円で売らないか」と持ちかけた疑いで、暴力団幹部の男らが警視庁に逮捕された。
臓器移植法違反などの疑いで逮捕された、住吉会系暴力団幹部の吉田 昭容疑者(71)は、2014年4月ごろまでに、「腎臓を200万円で売らないか」とホームレスの前 雄一容疑者(44)に持ちかけ、臓器売買の約束をした疑いが持たれている。
生体腎移植は原則、親族間に限られているため、吉田容疑者の知人で移植を計画していた元組員の男(66)と前容疑者が、うその養子縁組の届けを提出した疑いも持たれている。
元組員の男は、人工透析の治療中で、警視庁は回復し次第、逮捕する方針。

最終更新:7月21日(火)13時8分

Fuji News Network

【被曝する労働者達:下請け・日雇いが支える原発の実態 】

【奇跡の出会い】ホームレスしてたら、「マムシでるよ」と女性に話しかけられた。その人が今の妻です。

ホームレスというか言い訳すると家出の延長、

虐待と搾取がすごい家庭だったから必死に逃げたんだよ
逃げた後のこと全然考えてなかったからそうなっちゃった。

結局他にも支援団体とか色々紹介してもらって
ホームレスしてたのは10日くらいだけどね

嫁とは俺がホームレスになって2日目で知り合った
ホームレスになったものの知識もなく
どこに段ボールハウス建てていいかもわからず、
とりあえず空いてる河原にそれっぽいものを建てようとしてたら
マムシが出るし増水したら危ないって通りかかった嫁に止められた

俺の実家は毒としか言えない家庭
元凶は親父でギャンブル狂いのアル中
カーチャンは、まともだと思ってたけど今思うとただの共依存だな
高1のときにカーチャンが亡くなり、
カーチャンに向かってた分の暴力と搾取も全部俺にきた
高校は辞めさせられ、日雇い工事現場やら
夜の仕事までさせられた挙げ句に
給料は全部親父が受け取ってた。

3年ほど我慢してたけど、ある日日雇いの仕事に行ったら
人数が集まったから今日は仕事無しと言われた
ポケットには帰りの電車賃と親父の酒代。
不意に死んでもいい、ホームレスになってもいいから逃げようと思った
大して距離稼げなかったけど自宅から離れた駅に降りた。
初日は公園の遊具の中で寝て、ホームレスといえば
段ボールハウスのイメージしか無かった俺は
近所のスーパーから段ボール持ってきて河原に行き嫁に出会った。

嫁は家が河原の近所でよく散歩をしてたらしい。
俺に世話をしてくれそうな知り合いのホームレスを紹介してくれた。

嫁は翌日、先輩ホームレスと俺に弁当を買ってきてくれた。
3日程経って、ようやく嫁に事情を聞かれた
嫁「見たとこ10代でしょ?」
俺「違います」
嫁「いやわかるから。案内しておいて何だけど、
ちゃんとした機関を頼ったほうがいいよ。
家に帰れとは言わないけど10代でホームレスすることないよ」
俺「家に絶対ばれたくないんです、いま帰ったら殺される」
嫁「だから家には連絡しないってば。知らないだけで世の中には
いろんな人を助けてくれるシステムがあるんだよ」

こんな感じで1週間ほど嫁に説得されて、
結局支援団体や各種公的制度のお世話になった。
安アパートだけど一人暮らしするようになって、高校も入り直して高卒になった。
その間、嫁にはずっとアドバイスもらったり
色々な制度を紹介してもらったりして世話になってた。
今は仕事もできてるし人並みに稼げてるが
嫁に会わなかったら本当に死んでたかもしれない。


俺アタマ悪いし話すとどうしても長くなることだから
長文の割に色々抜けてるかもしれない
嫁は俺がいた河原はマムシがでるので
純粋に危ないと思って止めてくれたらしい。
今となってはマムシに感謝か。

嫁と付き合うようになったのは働き出してからで
1年は一応高校生してたから単位とれてて、
不足分補って卒業→就職した。
小さいけど良い会社だったおかげで普通の生活できたし、
これなら嫁に交際申し込んでもいいなって思って告白した
嫁は喜んでくれたし順調に付き合ったけど
結婚のときは経歴が経歴だからやっぱり揉めた
高卒になるまでにだいぶ直ったとはいえ、
やっぱりずれてたり非常識だったり
知らなすぎたりがあったから当然だと思う。
今は嫁曰く言われなきゃわからないレベルらしいけどね

嫁スペック
俺より歳上で大卒
出会った当時は求職中だった(後に就職→転職→現在産休)
背が高いのに童顔。年齢不詳系
料理と手芸が上手い。
俺に声をかけてきたことからもわかるけど
変なとこで警戒心が薄いのでたまに見ててハラハラする。
俺を助けてくれた理由は一度拾い上げたんだから
責任を全うすべきだと思ったそうだ。
それとは別に異性として好きだと思ったのは
俺が再び高校行ってからで、でも女が歳上って微妙だし
助けた側が言ったら無理強いみたいだと思って言わなかったらしい。
現に錯覚してないか?と何度も聞かれたことがある。

親父のその後
実は家出後割とすぐ死んだ。
独り暮らしだったし搾取対象がいないから生きていけなかったみたいだ
死に目にもあわなかったけど後悔してない。
むしろ心の中が修羅場だったのは俺が殴られようが搾取されようが
親父にくっついてたカーチャンもまたある種の毒親だと気付いたとき。

職場
就職活動は嫁が手伝ってくれた。
最初に就職した会社はいい会社だったし家族的だったけど
社長が結構な歳で、亡くなって世代交替してから色々変わってしまい
転職してた先輩に引っ張ってもらって今の会社にいる。

俺の非常識
普通の暮らし、家庭がよくわからなかったし勉強もできなかった
勉強は漢字ドリルと計算ドリルから
マナーはおかしいところは指摘してくれと周りに頼んで色々直してもらった
今でも土台がちゃんとしてないことは感じるけど
嫁曰く一通りは身に付いたし周りは優しいし気持ちの整理もついたし、
とりあえず大丈夫だと思いたい。


なぜ土曜に暇かというと嫁が出産前で実家に帰ってるから
普段なら絶対会いに行くんだが
今週は俺が風邪っぴきだから会えない。
でも嫁にうつしたくないから我慢するぜ!
独り暮らし時代に教えてもらったから俺も料理できる
すごく幸せだけど嫁の出産が心配でしょうがない
難産と産後のがあまりよろしくない家系らしいんだよな…

親父のことは今でもたまにひっかかる
死に目とかがどうでもよかったのは本当だけどね。
物心ついたときにはアル中のろくでなしだったからまともな記憶なんてないしさ

親父の妹だか姉だかって人に、
アンタが見捨てたからだって罵られたことあるけど
同伴してた嫁がろくに会ったことないくせに
あんたの馬鹿兄弟がこの人に何したか知ってるのかと
怒鳴って追っ払ってくれたけど、すごく暗い気持ちになったよ。


本当に心底吹っ切れたのは最近だと思う。
俺にも子供ができた。
親父の人生は妻子を殴り搾取して何も生まない人生だったけど、
俺は全然別の人生を生きるんだってやっと心底思えた。

子供が生まれる前に誰かに聞いてほしかったのかもしれないな
嫁には感謝してもしたりないし、
結婚許してくれて理解してくれてる義両親にもありがたく思ってる
子供は早く会いたいけど不安でもある。
でも社会人も家庭もきちんとできたし、
何より嫁もいるし大丈夫だと信じることにした
あとは無事に産まれてきてくれることだけ願ってる
産まれるまでに風邪治さなきゃな。

先のことを考えすぎると、取り越し苦労をしたり、

誇大妄想に陥ったりして、必ず人生を損します。

大切なことはひとつだけ。明日の朝、

もしも目が覚めなくても、後悔しないと思える今日を

送ればいいのです。

=美輪明宏=

「未婚で年収200万円以下の若者」の約8割は親の実家に居住。若者の「住まいの貧困」の現状

ビッグイシュー基金が『若者の住宅問題』-住宅政策提案書[調査編-]」という素晴らしい調査レポートを発行しています。本レポートより、若者が直面している「住まいの貧困」の現状をダイジェストでお伝えします。 

まずは本調査の概要から。

(調査の概要)

1. 首都圏(東京都、埼玉・千葉・神奈川県)と関西圏(京都・大阪府、兵庫・奈良県)に住む

2. 20 ~ 39 歳、

3. 未婚

4. 年収 200 万円未満の個人

を対象とし、居住実態と生活状況に関するアンケート調査を 2014 年8月に実施した。学生は、調査対象に含めていない。

回答者の選定では、首都・関西圏の別、性別、年齢が偏らないように留意した。調査の実施は、イプソス株式会社に委託し、同社が利用可能なインターネット調査パネルから対象者を選び、1,767人から回答を得た。

一言で言うと「都市部に住む低所得かつ未婚の若者」の住まいに関する調査ということです。

この調査でまず印象的なのは、「親との同居率」。実に約8割の若者が、親と同居していることがわかりました。

調査結果によると、親同居の割合は 77.4%におよぶ。国勢調査(2010 年)の結果から、未婚の若者一般(首都・関西圏の 20 ~ 39 歳)に関し、親同居率をみると、61.9%であった。

本調査の回答者では、親同居の割合がきわだって高く、それは、経済力がより低いために、親もとに住むことで生活を維持しようとする人たちが多いことを示唆する。

住居費負担が高すぎるために、家を出ることができないわけですね。ちなみに、ぼくが住む高知市などでも、こうした話はよく耳にします。調査は都市部の若者を対象にしたものですが、雇用環境が十全でない地方においても、状況は同じだと思われます。

少子化との関係も示唆?

次に興味深いのは結婚に関する意向。調査対象の若者たちは結婚への意向が低く出ています。

「結婚したいし、結婚できると思う」は 6.6%と少なく、「結婚の予定がある」は 2.5%とほぼ皆無であった。回答者の大半は、結婚の予定をもたず、結婚を希望するかどうかにかかわらず、結婚の可能性は低いと考えている。

(中略)経済力が低く、結婚指向が弱いために、親もとに住み続け、親同居の継続が結婚指向をさらに弱める、というサイクルが生まれている可能性がある。

調査では語られていませんが、これは少子化との関係とも示唆していると思います。わかりやすくいえば、一人暮らしをしている場合、割と気軽に将来のパートナーを家に連れ込むことができ、そのまま同棲できるわけです。かくいうぼく自身も、一人暮らしをきっかけに妻と同棲を始め、結婚、そして出産に至りました。若者たちに親の家を出てもらうことは、少子化対策としても有効だとぼくは考えています。

親の家を出たがらない若者たち

次に「転居志向」についての調査。こちらも興味深いです。

「親持ち家」は、若者一般の多くにとっては、“出ていくべき場所”である。

しかし、「親持ち家」に住む回答者の定住指向は強く、「(親の家に)住み続けたい」が 70.4%におよぶ。上述のように、低所得の若者の多くは、「変化」を計画する条件をもたず、親の家の“内”側で「安定」した状態にある。その“外”には「不安定」な世界が待っている。彼らにとって、「親持ち家」は、“出ていくべき場所”であるどころか、“とどまるべき場所”になる。

低所得の若者にとっては「親の持ち家」がセーフティネットとして機能してしまっている、ということなのでしょう。少しひねった言い方をすれば、「親の持ち家」は「社会性」を帯び始めているとも言えます。子ども世代は住居費負担の軽減に、親・祖父母世代は介護人員・世帯収入の確保として、「親の持ち家」を活用し始めているのではないかと思います。

親と別居している若者の13.5%はホームレス経験あり

ホームレス状態を経験したことがあるか、という問い。こちらもなかなかショッキングです。

低所得層のなかで、ホームレス状態の経験が不均等に生じている点をみる必要がある。

定まった住居をもたない状況の経験者は、親同居のグループでの 4.6%に比べ、親別居のグループでは 13.5%とより多く、また、住宅タイプ別にみると、民営借家のアパートに住む人たちにおいて、11.2%と相対的に高い比率を示す

さらに「社宅・その他」では、ホームレス状態の経験者が 23.4%におよぶ。この「社宅・その他」は、社宅・官舎および独身寮に加え、住み込み、間借り・下宿、シェアハウスなどの不安定な居住形態を含み、そうした不安定な場所に住んでいる人たちの多くが定まった住居をもたない状態を経験したとみられる。

親の持ち家を頼れない場合、低所得の若者は、とたんに不安定な状態に放り出されるということがわかると思います。「漫画喫茶」「脱法ハウス」などはそうした若者を吸い上げる装置として機能しているのでしょうね。

親の「持ち家頼り」という時限爆弾

調査終盤のメッセージも痛烈。

本調査では、未婚・低所得の若者の住宅確保のために、「親持ち家」が大きな役割をはたしている実態が明らかになった。そのストックの保全に対する支援が新たな課題になる可能性がある。

親の家の「安定」は必ずしも持続しない。年を経るにともない、住宅の物的劣化が進むにもかかわらず、高齢化する親と低収入の子は、修繕のための資力をもっていない。持ち家ストックの保全は、低所得者の住む場所の維持につながる。私有財産である持ち家に対する公的支援の根拠は、容易には成立しない。

しかし、「親持ち家」という“私的”な空間は、低収入の若者に住む場所を供給する点において、“社会的”な役割をはたしている。親の家が劣化し、そこでの不安定就労者の保護が困難になれば、政府は低所得者向け住宅供給を拡大する必要に迫られる。

自立サポートセンター・もやいの稲葉剛さんは、本調査の発表記者会見で、「親の持ち家頼り」の現状を、「日本社会における時限爆弾」という表現でなぞらえました。早期に住宅政策の方向性を変えていく必要があるといえるでしょう。

稲葉さんは、レポートのなかでもメッセージを発しています。

昨年、生活保護法が 63 年ぶりに抜本改正され、扶養義務者への圧力が強化された。近年、社会保障費削減の流れの中で、「家族による支えあい」を制度の中に組み込んでいこうという動きが強まりつつある。

私はこうした政治の動きを「絆原理主義」と呼んで批判してきた。公的な支援が必要とされる領域において、「公助」を「支えあい」で代替させようとするのは、生存権保障の後退であり、国による責任逃れに他ならないからである。

今回のアンケート結果は、むしろ「家族による支えあい」に依存し過ぎた日本社会の歪みを映し出しているように私には思える。

これ以上、「支えあい」を強調するのは、危険すぎる道である。家族による支えが「ホームレス化」のリスクを回避してくれている間に、打つべき手はたくさんあるはずだ。

レポートのダウンロードはこちらから

非常に興味深い調査ですので、ぜひご一読ください。以下のサイトから無料でダウンロードできます。

『若者の住宅問題』PDF版をアップロードしました

また、2月8日は東京で本調査に関するシンポジウムが開催されます。こちらも有意義な内容となること請け合いなので、関心がある方はぜひご参加を。

『市民が考える若者の住宅問題』『若者の住宅問題』―住宅政策提案書調査編―発表シンポジウムのご案内

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イケダハヤト

プロブロガー/編集者

2009年にルネサステクノロジに入社。その後、2010年3月にトライバルメディアハウスに転職しソーシャルメディアコンサル事業を立ち上げ。2011年4月フリーランスに転向。「テントセン」という名前でNPOマーケティングを支援するプロボノ集団も作っています。2012年4月からは、育児に時間を割くべく「プロブロガー」というキャリアを歩んでいます。

安倍さん、ワーキングプアの住宅事情を知ってますか
2014年12月17日 19:51
http://tanakaryusaku.jp/2014/12/00010467

 収入が低いため親と同居しなければホームレスになる。結婚なんて夢のまた夢・・・

民間団体の調査でワーキングプアの生活実態が住宅事情を通して くっきり と浮かび上がった。(主催:認定NPO法人 ビッグイシュー基金)

 同基金の住宅政策提案・検討委員会は「20~39歳」「未婚」「年収200万円未満」を条件に、インターネットで広範なアンケート調査をした。1,767人から回答があった。

  ~4人に3人以上が親と同居~

 先ず驚くのは「親との同居」が77・4%(4人のうち3人以上)もいることだ。そうならざるを得ない実態を示すのが以下のデータだ―

 手取り月収は
「なし」が18・5%
「15万円未満」が57%

 収入に占める住居費(家賃)の割合は
「30%以上」が57・4%
「50%以上」が30・1%

 収入から住居費(家賃)を引くと
「マイナス」が27・8%
「10万円未満」が49・9% 
 この数字が示すのは、「2人に1人は家賃のために働いている」「4人に1人以上が自分の収入では家賃さえも賄えない」ということだ。

 労働者の収入は低く、世の家賃は高いということである。親の家に住まなければ路上に弾き出される。その実態には慄然とする。

 生活環境の劣悪さは結婚観に表れる。
「結婚したいとは思わない」…34・1%
「結婚できるか分からない」…20・3%
「結婚したいができないと思う」…18・8%

 4人のうち3人が結婚をあきらめているのである。

 今や20歳~30歳の有職者のうち30%が年収200万円未満だ。(総務省・就業構造基本調査=2012年)

 20歳~39歳の未婚者の14・3%は無職。(国勢調査=2010年)

 ワーキングプアの生活実態調査は決して偏った数字ではない。国の調査からも裏付けられているのだ。

 ホームレスの居住支援に取組む「NPO法人・もやい」の稲葉剛代表は、ワーキングプアの住宅事情を「社会に仕組まれた時限爆弾」と危惧する。

 調査にあたった神戸大学の平山洋介教授は日本の住宅政策のお粗末さを指摘する。「政府が家賃補助をせずに会社が家賃補助してきた。家賃補助は先進国中、最低だ」。

 雇用者の36・7%を占める非正規労働者は家賃補助など望むべくもない。

 平山教授は「社会で家賃補助をする仕組みを作るべき」と提案する。

 労働者全体のうちワーキングプアは40%を占める。4人に3人が結婚をあきらめているようでは、人口は減る一方だ。

 安倍さん、最も効果ある少子化対策は非正規社員を減らし、住宅政策を充実させることです。

少ない収入から家賃を引くとほとんどカネは残らない。マイナスになることも。生き延びるためには食費を削るしかない。=都内 写真:筆者=

あるワーキングプアの家は部屋が狭いため玄関が洋服置場となっていた。=都内 写真:筆者=

 

「働く」

若いときは「一生働くなんてイヤだ」と思うことがあります。でも、だんだん年を重ねていくと、「一生元気で働けることの素晴らしさ」がわかってくるんです。...

つまり、健康で、人の役に立って、誰の世話にもならずに、お金を稼いで生活する。そして休みになれば旅行にでかける。同時に、仕事がなくて、毎日何もすることのない空しさや、怖さが年とともにわかってくるんです。毎日、働けることに感謝する。

笑顔で働く。そうすれば、神様がきっとあなたを守ってくれますよ。斉藤一人

 

不満ばかり言って仕事をしていた私にはこたえました。
仕事が無くて苦しんでいる人は沢山いるのに。

仕事は有難く楽しくさせて頂きます。

Apex product 

ワーキングプアの年収の実態を賃金構造基本統計調査を参考に詳しく調べました。

 

ワーキングプアの年収は、200万円以下!

ワーキングプアの年収は、200万円以下と一般的に言われてます。

賃金構造基本統計調査から計算してみたところ収入が200万円以下の人口は約1069万人となってました。

働く貧困層ともいわれるワーキングプアの定義を調べてみたところ、

正社員でもギリギリの生活さえ維持が困難

拘束時間が長い派遣社員

生活保護の水準以下の収入しかもらえない社員、契約社員

などがあてはまるようです。

ワーキングプアの男女別の人口比率と手取りを解説

男女別のワーキングプアの年収を詳しく調べてみると、

年収200万円未満の男性は、全体の約10%、女性は全体約40%が200万円未満となっております。

仮に年収が200万円だった場合の手取り額は月額で約15万円。

150万円だった場合は、手取りで月約11万円。

100万円だった場合は、手取りで月約9万円。

100万円以下の場合は月9万円ですべてをするという過酷な生活になるようです。

口コミを調べてみたところ、その内容としては非正規で働いていても昇進はなく、ボーナスもない、時給も上がらないという場合が多いようです。

パートタイマーの場合は昇給があっても10円程度という話が多いようでした。

上記のような状況では30~50代での年収の上昇率もほぼ無いに等しいというのが予想されます。

ワーキングプアが増えた原因は、

・労働市場の規制緩和・自由化。

・派遣労働、パート、契約社員も含め非正規雇用の全労働者に占める割合が増えた。

・企業の人件費の削減。

・就職氷河期の到来。

上記のような市場要因と経済要因が複合的絡み合った結果といわれています。

ワーキングプアが実際にどのくらいの年収をもらっているのか解説します

 

ワーキングプアの生活の実態

 

連合が調査した結果によると、今後の収入アップも見込めないと考える人がワーキングプアの8割弱。

将来に希望が持てないと考える人が6割を超えており悲観的なイメージがあります。

ワーキングプアの生活実態をまとめてみました。

プア層が我慢しているものが、

レジャー、旅行、外食、衣料品、家具インテリアなどで約30~50パーセントの人が購入を避けたりしているようです。

一日の食費は、約700円~800円(3食)。東京のランチ代一回分にも満たないような金額となってます。

高学歴ワーキングプア、高学歴ニートと呼ばれる人たちが増加しています。

最近になって高学歴ワーキングプアや高学歴ニートが増えているそうです。

これは修士課程や博士課程を修了しても、なかなか就職に繋がらないというのが原因だといわれています。

大学院を卒業しても就職できない人は大学や研究機関などの非正規雇用で研究員になる人も多く、そういった人たちはいわゆるパートタイマーとなり、給料によってはワーキングプアの層に分類されてしまう事も少なくないということです。

ポスドクなどは交通費も出ず、相当厳しい収入となっていると一時期テレビでも話題になりました。

その他高学歴ニートという言葉もも増えているようですが、東大出身でもニートなどもいるようです。

原因は多岐に渡りますが、口コミをまとめてみると

・エリート企業を狙い失敗した。

・弁護士など難易度の高い司法試験に失敗し、ニートになった。

などがあるようです。

ワーキングプアの具体的な対策を詳しく解説

ワーキングプアを増やさないためにはどうしたらいいのか。

政府と市場とが一体になって行うことが大事だといいますが、具体的なことはまだ考えられていないようです。

最近は、日雇い派遣が原則禁止と改定されたりなど動いています。

その他の対策として個人で出来ることは

資格を取る。

職業訓練校に行く。

など自分自身の能力を上げることが必要とされています。

市場と政府が複合に絡みあうことが大事だとおもいますが、これからどんどんと減っていくことを望みたいと思っています。

 

ワーキングプアさんの年収の本音を聞いてみました。

 

女性 30代  

年収は約200万円程度。

昼間は建設会社で事務の仕事をし、夜はコンビニ弁当の生産を各工場にふりわける仕事をしている。

 

男性 20代 

年収は約100万円程度。

病院の入院食をつくる仕事。はじめは臨時職員だったが、この仕事が民間委託されたあとはパートになった。官から民へということなのだろう。収入は月に8万円。ボーナスはない。

プア充なんて「正直甘すぎ」 “リアルプア層”からの猛反論!

「ワーキング・プア」や「リア充」という言葉が生まれて久しいが、今度は「プア充」という新ワードが登場した。

「プア充」とは、高収入や出世を望まず、限られた収入の中で自分の生活を充実させている人のこと。宗教学者の島田裕巳氏が著書『プア充 -高収入は、要らない-』で提唱している。

年収300万でも幸せに暮らす「プア充」

今の時代、たとえ正社員で働いていても昇給・出世するにはプライベートの時間を削り、身を粉にして働くことが求められる。また、出世したとしても仕事量が増えるばかりで、仕事がラクになるわけではない。

ところが、周りを見渡せば100円ショップや格安ネット通販がそろっており、買い物には事欠かない。安い牛丼屋もファミレスもあるし、格安ワインや第3のビールで“宅飲み”することもできる。

ならばあえて高収入を目指さず、年収300万円ほどでもプライベートを大切にしながら幸せに暮らそうではないか…というのがプア充の考え方だ。

これに対して、実際のプアな人々「リアルプア層」はどのように考えているのだろうか。 

「低収入でもいいなんてありえない」

と語るのは、卸売業の営業職を勤めるAさん(20代後半・男性)。年収は270万円ほどで、まさにプア充生活を送るのに“どんぴしゃ”な層だが…。

「やはり老後を考えれば、もっと昇給しないと不安です。突然の病気や事故もあるかもしれないし、長男なので親の介護にも備えないといけない。来年から増税も始まるし、もっと安心できるだけの収入がほしいです」

バイト店員が吠える「本当の不安定さを味わってみろ!」

月々の収入から家賃や食費、光熱費などを引いていくと、自由になるお金はひと月に数万円程度。「微々たる金額しか貯金できない」という。

「特に不安なのは出産・育児。彼女も僕と同じくらいの収入なので、共働きでも世帯年収はギリギリ500万円くらい。『限られた収入でも幸せになれる』なんて言われても、ただの気休めにしかならないです」

内閣府の「インターネットによる子育て費用に関する調査(平成21年度)」によると、学校教育費や食費などを含めた年間の子育て費用は、幼稚園で約120万円、小学生で約110万円、中学生で約150万円とされている。確かにAさんの年収だと余裕はなさそうだ。

「プア充なんて俺から見たら十分“リア充”ですよ!」という批判もあった。

Bさん(20代前半・男性)は就活に失敗し、コンビニのバイト店員を続けている。時給は約1000円、年収は200万円ほどで、年金や保険料も支払っているので毎日が節約生活だ。

「結局、プア充なんて言っても、正社員で会社勤めして年収300~400万は稼いでいるわけでしょ。それで『貧しいけど幸せ』とか、正直甘すぎ! 一度、バイト勤務の不安定さを味わってみろと言いたいですね。『高収入はいらない』とか言ってられなくなるから」

非正規雇用者は常にクビの不安におびえながら、ごく限られた福利厚生のもとで深夜まで働いている。いつまで働けるかわからないような毎日では、とても充実した生活は送れないだろう。

「そもそもプア充が100円ショップや牛丼屋を利用して楽しく暮らしていけるのは、俺たちみたいな低賃金で働くアルバイトがいるから。本物のプア層より圧倒的に勝ち組なわけだから、どこがプアなんだよって感じです」

現在、Bさんは休日をやりくりして正社員の採用試験も受けている。「早く正社員にならないとヤバい」という危機感があるからだ。

学生追いつめる「ブラックバイト」過酷実態 それでも辞められぬ“3つの理由”

シフトにはない突然の勤務命令、長時間労働でも支払われない残業代-。学生アルバイトで近年、こんな被害が相次いでいる。大学ではゼミが成り立たず、試験に出席できないなどの実害も出ているが「簡単には辞められない」のが特徴だという。これらを総称して生まれた言葉が「ブラックバイト」。背景には非正規雇用が常態化したことなどがあるが、専門家は「『学べぬ学生』が大量に世に出れば、日本経済の崩壊にもつながりかねない」と懸念する。

 ■シフト外なのに「塾長」から電話が…

 東京都内に住む大学2年の女子学生(21)は昨秋から、個別指導塾で講師のアルバイトを始めた。求人では90分1授業で給与が1600円~2300円。割の良さで決めたはずだった。

 だが、働き始めると、実態は大きく違った。授業の1時間前からテキストの作成、授業後は生徒個人の「報告書」の作成が必要で、2時間はかかる。生徒への年賀状や教室の掃除も担当させられ、残業代は一切出ない。時給を計算すると、東京都の最低賃金(888円)を下回った。平均3~4人の生徒を教えるはずが、「人手不足」を理由にアルバイト講師6人で50人以上の生徒を教える日もあり、帰宅が深夜になることも多くなった。

 最近では、教室で唯一の社員である「塾長」から、携帯に電話がかかってくるようになった。「悪いけど明日、入って」。シフト外で契約とは異なる教室で教えるよう、突然、指示が来るのだという。「講師をギリギリで回しているのを知っているので、断りにくい」と、女子学生は大学の授業がある時間でもアルバイトを優先するようになった。現在のシフトは週2日だが、これから増やされる不安もある。

 塾長の指示で苦手な英語も教えている。だが、教え方や答えが分からずに、生徒にばれぬようインターネットで調べたことも。アルバイトを辞めたいと思うが、塾長から「難しい問題を教えるだけでなく、モチベーションを上げさせるのも仕事だろう。今の中学2年生が卒業するまでは続けてほしい」と言われ、切り出せないでいる。

 1~2月は受験を控える生徒にとって重要な時期だが、ちょうど大学のテスト期間と重なり、「勉強時間が足りないし、必修の単位も落としそう。どうしたらいいんでしょうか…」(女子学生)。

 学生アルバイトを含めた労働問題に取り組むNPO法人「POSSE」によると、塾講師のアルバイトをめぐる相談は増加しており「辞める場合は代わりの別の人間を連れてこい」と言われたケースや、「損害賠償請求訴訟を起こす」と脅されたケースも確認されている。 

■バイトの弊害でゼミ合宿ができず

 中京大学国際教養学部の大内裕和教授(47)=教育学=が、学生アルバイトに“異変”を感じるようになったのは、7年ほど前からだ。ゼミ合宿の日程を決める際、1人の学生が「バイトは3カ月先までシフトが決まっているので先に延ばしてほしい」と言えば、別の学生は「1週間前に言い渡されるので、それまで予定が分からない」と主張。日程調整できず合宿が取りやめになったのだ。

 「バイトがあるので試験日程を変えてもらえないか」と言い出す学生もおり、実際に試験を休んで単位を落としたり、留年したりする学生も出始めた。

 大内教授が詳しく話を聞くと「バイト先で不可抗力で壊れたものを弁償させられた」「ノルマを課せられ、達成できないと給料から天引きされた」「12時間連続で働かされた」といった過酷な実態が次々明らかになった。「一見、学生が不真面目なように思えるが、本当に真面目な学生が『勉強したいのに休めない』と切実に訴えてくる。一昔前のバイトは気楽だったが、明らかに違うものになっていた」(大内教授)。

 大内教授がそんなアルバイトの総称として命名した言葉が「ブラック企業」になぞらえた「ブラックバイト」だ。「学生であることを尊重しないアルバイト。低賃金であるにも関わらず、正規雇用者並みの義務やノルマを課されたり、学生生活に支障をきたすほどの重労働を強いられる」と定義している。

 大内教授らが昨年行った調査では、アルバイト経験のある大学生2524人のうち、67%が「不当な扱いを経験した」と回答。「希望していないシフトに入れられた」(21%)▽「労働条件を書面で渡されなかった」(19%)▽「実際の労働条件が募集の際と違った」(18%)-などが上位を占めた。一方で、そのバイトを辞めたと回答したのは20%にとどまり、「何もしなかった」が半数に上った。

■辞められない3つの理由は

 なぜ辞められないのか。大内教授によると、大きく3つの要因があるという。

 1つ目は親の経済的事情の変化だ。「親の所得が減ったことで一人暮らしの子供への仕送り額が下がり、その分をバイトで賄っている。多くの学生がバイトをやらないと生活が成り立たない」(大内教授)。

 続く理由がフリーターとの過度な競争だ。ある理系の学生が大内教授のもとへ「バイトの面接に50社落ちた」と相談に来た。「大学で実験がある日は行けないと言うと『使い勝手が悪い』と働かせてくれない」のだという。勤務時間で融通が利くフリーターの増加で、辞めたくても次のアルバイトが見つからず、居続けざるをえない。

 さらに、高い習熟度を必要とするアルバイトが増え「新しい仕事を最初から覚えるのは難しい」と、学生が「転職」に二の足を踏む傾向にあるという。

 対策として、大内教授らは「ブラックバイト」への対処法をまとめた冊子を作成した(「ブラック企業対策プロジェクト」のホームページからダウンロード可能)。学生側の対応を初級編~上級編に分けて、Q&A方式で説明している。「残業代が払われない」「休憩時間がない」など違法性のある労働を学生に気づかせる点に主眼を置いた。

 ブラックバイトの被害者は、学生だけではない。学生バイトに正規雇用者並みの労働をさせることで、正規雇用者数が減り、処遇も低下するというデメリットもあるという。こうした点も踏まえ、大内教授はこう危惧する。

 「『安くて使い勝手がいい』学生が、日本経済に組み込まれている。職業現場に出てから企業が本当に鍛えようと思っても、学業の土台がなければ国際競争に勝てない場面も出てくるだろう。このままではブラックバイトが元凶となり、日本経済がいずれは崩壊する可能性すらあるのではないか」

 大内教授は大学や行政にブラックバイトに関する相談窓口を設けることや、企業側に学業との両立が可能になるよう配慮を求めるなど、問題提起を続けていくつもりだという。

最終更新:2月3日(火)10時44分

産経新聞

「貧困ビジネス」で6381万円脱税…入居者には1日500円の小遣い、仕事禁止

生活困窮者の生活保護費を食い物にする「貧困ビジネス」で得た所得から約6381万円を脱税したとして所得税法違反容疑で逮捕された和合秀典容疑者(72)。低額宿泊施設「ユニティー出発(たびだち)」の元入居者らは2日、さいたま市内で会見を行い、「出たくても施設から出られない人がたくさんいる。これを機に行政のメスが入ってほしい」と憤りをあらわにした。

 ユニティーをめぐっては平成23年、元入居者ら7人が原告となり、搾取された生活保護費の返還などを求める損害賠償訴訟をさいたま地裁に起こしていた。

 弁護団や元入居者によると、ユニティーは路上生活者に声を掛けたり、求人広告を見て面接に訪れた生活困窮者らを入居者として集めていた。「寝場所もあるし食事も提供される」などと誘惑し、さいたま、戸田両市などに約50カ所ある施設へ連れて行き、生活保護の申請をさせるという。

 月額約12万円の保護費は毎月、職員によって全額徴収され、入居者の手に戻るのは毎日500円の小遣いなど2万円程度だった。

施設は民家に個室を作った簡易な作りで、1人あたり2畳半ほどのスペースしかなく、食事はカップラーメンやレトルト食品など粗末なものしかなかった。22年3月末時点での入居者は326人。中には和合容疑者が経営する飲食店などで低賃金で働かされていた入居者もいるという。

 22年4月~23年9月、さいたま市桜区内の施設にいたという原告の男性(66)は「仕事を探そうにも500円では交通費だけで消えてしまう。1回入れば出られない、うまい仕組みだった」。また、和合容疑者の運転手を務めていたという元入居者の男性(34)によると、施設内は「仕事をしてはいけない」というルールがあり、仕事が見つかった人は退寮させられていたという。男性は「自立の妨げをされ何もできない状況だった。やっと捕まってくれた」と話した。

 訴訟を支援してきたNPO法人「ほっとプラス」の藤田孝典代表(32)は「今回の件は氷山の一角。行政の手続きを踏めばアパートに転居できることを知ってもらい、貧困ビジネスの蔓延(まんえん)を改善したい」と話した。

【日本三大ドヤ街を探る】 Apex product

寿町 (横浜市)

寿町(ことぶきちょう)は神奈川県横浜市中区町名。1丁目から4丁目のがある。面積は0.070km²、人口は3,449人、うち外国人は503人である(2000年度)。

これ以外にも住民登録をしていない人が多数居住しており、実際には約6300人の人々が生活していると言われている。また寿町を中心とし、周囲の扇町や松影町を含む約60,000平方メートルほどの地域を指して寿地区と呼ぶこともある。

寿地区は首都高根岸線を挟んで関内の反対側に位置し日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」という簡易宿泊所が100軒以上立ち並び「ドヤ街」と呼ばれる地区である(ドヤ街は、日雇労働者の就労場所と合わせて寄せ場とも呼ばれる)。寿地区は、東京都山谷大阪市あいりん地区釜ヶ崎)と並ぶ三大寄せ場の1つとされる。

寿地区周辺は、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。接収終了後、職業安定所の寿町への移転や簡易宿泊所群の建設がはじまった。これにともない、日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群(大岡川スラム)、さらに水上ホテルといった宿泊施設から港湾労働に携わる日雇労働者が、大勢移入。まもなくドヤ街が形成された。

他の寄場とは異なる寿地区のドヤの特徴は「門限なし」「自室に入るまでの廊下での外履き」が上げられる。

寿の歴史

第二次世界大戦で大空襲によって焼け野原になった横浜中心部の内、寿町界隈は接収解除後の10年間治安が乱れ、放火や乱闘騒ぎ、麻薬の売買、賭博、売春、売血事件が頻発した。中田志郎・著『はだかのデラシネ』(1983年)によると、あまりの無法状態に一部の人々は、開拓期のアメリカになぞらえて「西部の街」と呼んだという。

日本返還後、比較的早い時期に在日韓国人が多く不法占拠するようになり、この一帯の地主となった。さらに1965年ころからは暴力団が台頭してきてこの街の支配を在日韓国人と二分することとなる。

ヨコハマ・ホステル・ヴィレッジ

2005年6月に今まで「ドヤ街」という雰囲気を払拭し、地域の活性化を図るために「YOKOHAMA HOSTEL VILLAGE」という計画が始動した。スローガンは「寿町「ドヤ」から「ヤド」へ 」。この計画は簡易宿泊所が多くある当地域を活かして簡易宿泊所を改装・改良し、バックパッカーなど短期滞在者を多く呼ぼうというものである。観光地にも近く普通のホテルよりも安いため、評判はまずまずの様である。しかし近辺に風俗店などが並んでおり治安の面で問題がある事、心無い一部の観光客が物見遊山で訪れ日雇い労働者の写真を勝手に撮ってトラブルになる等の問題点が少なからずあり、それを解決するのが今後の課題となっている。

【 寿労働センター 】

寿労働センターは、
 港湾・建設・土木のなどの現場で仕事をされている日雇労働者の方々のための職業紹介を行う施設として開設されましたが、

現在では
 ◎寿地区(中区寿町を中心としたエリア)で仕事をしたいという方々。
 ◎横浜市、川崎市が運営する自立支援施設に入居している元ホームレスの方々。
 ◎住まいが不安定で、神奈川県内のネットカフェやファミレスなどに寝泊まりを余儀なくされている方々

 についても、職業をご紹介したり、就労に関する相談や情報の提供などを行っています。

 所在地・連絡先 【案内図は、こちら】
〒231-0026 横浜市中区寿町4-14 寿町総合労働福祉会館内
TEL 045-662-5861 FAX 045-662-7110


 業務案内
時間:午前6時00分~午後5時15分
休日:土曜日・日曜日・祝日及び年末年始
 

あいりん地区

あいりん地区(あいりんちく)は、大阪府大阪市西成区の北部、JR西日本新今宮駅の南側に位置する簡易宿所・寄せ場が集中する地区の愛称である。愛隣地区とも表記され、旧来からの地名である釜ヶ崎とも呼ばれる。

簡易宿所

地区および周辺には、簡易宿所(ドヤ)と呼ばれる労働者向けの宿泊施設が多く立地している。

最近はインターネットの普及によって知られたこともあり、周辺の簡易宿所やビジネスホテルがその割安感(1泊800円位)から外国人などの若い旅行者(バックパッカー)に人気がある。これは、徒歩圏内にある新今宮駅JR南海)と動物園前駅地下鉄御堂筋線堺筋線)などから大阪や関西の各地(天王寺難波心斎橋梅田ユニバーサル・スタジオ・ジャパン神戸京都奈良関西国際空港和歌山など)への鉄道アクセスが充実していることや、同じく徒歩圏内にある日本橋電気街(でんでんタウン)の存在が背景にある。また、日雇い労働者の減少に悩む宿泊施設側も、居住性向上など設備の改修を行うほか、英語のポスター、ホームページなどで広告し、外国人旅行者の誘致を図っている。

ただし、一般向けではなく従来の顧客(日雇い労働者)を対象とした純然たる"ドヤ"として機能している施設も、萩ノ茶屋駅今池停留場の周辺など南側の地区を中心にまだまだ多い。この中には、路上生活者が生活保護の受給に必要な住所を得るため、アパート(福祉アパート)に衣替えするケースが増えている

概要

大まかには北をJR西日本関西本線大阪環状線、西を南海本線高野線、東を旧南海天王寺支線跡に囲まれた三角形の地域で、西成区萩之茶屋太子などに該当する。あいりん地区という名称は、1966年5月に国や自治体などの行政機関と報道機関が使用の取り決めを行った名称であるが、釜ヶ崎は被差別部落の旧名の類ではないので、いわゆる差別用語には該当しない。地元では依然、釜ヶ崎や略称の「釜」などと呼ばれることが多い。

あいりん地区には路上生活者が数多く居住し(大阪市内の路上生活者は4,069人)、約20ha(半径300m)の面積に3万人の人口があると言われる。そのため治安が悪い。この地域は住所不定日雇労働者が多いため、人口統計は国勢調査でもはっきりつかめていない。身分証明証がなくても宿泊、就労、銀行口座開設ができるため、治安が悪化し統計を取ることが難しい。そのため無法の地になりやすい。

NPO団体や宗教団体炊き出しなどを頻繁に行っており、実施の際は公園に人が列を作って並ぶことがある。また、この地域の物価(料金体系)は隣接している他地区と比べ、総じて低いのが特徴となっている。

周辺は暴力団事務所が多数ある。

情勢

日雇い労働者の高齢化が進んでおり、日雇いの仕事も2,000件程度とバブル景気の時期に比べて3分の1にまで減少している。これら無保険の日雇い労働者は生活保護予備軍であるとの指摘があり、改善の必要性を指摘されている。

しかし生活保護の急増は(2011年度予想生活保護費2,888億円、内1/4大阪市民税)、支援活動があるなど生活しやすいためであって、保護目的で移住する人や他の自治体窓口で大阪までの片道の電車賃をもらい移住する人もいるなど大阪市の生活保護費の増大・財政難の原因は「過保護」であるとの報道が主に保守系メディアによりなされている

「西成区」の生活保護者の出身地は、九州+沖縄が22%、中国+四国が20%、大阪以外の近畿が15%、大阪府が19%となっている。大阪市が2009年12月に行った調査によれば、半年以内に31都府県から「大阪市」に転入(+帰郷)しているのは生活保護者のうちおよそ10%程度である。

 

立ちん坊人生 味なもの♪

通天閣さえ 立ちん坊さ♪

だれに遠慮が いるじゃなし♪

じんわり待って 出直そう♪

ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎♪

身の上話にオチがつきここまで落ちたと いうけれど♪

根性はまる出し まる裸♪

義理も人情もドヤもある♪

ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎♪

命があったら 死にはせぬ♪

あくせくせんでも のんびりと♪

七分五厘で 生きられる♪

人はスラムと言うけれど♪

ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎♪

あいりん労働福祉センター

あいりん労働福祉センター(あいりんろうどうふくしセンター)は、大阪市西成区萩ノ茶屋に立地する、あいりん地区の日雇い労働者の就労斡旋と福祉の向上を目的に設置された福祉施設。地上4階、地下1階からなる鉄筋コンクリート製の建築物。竣工は、1970年10月1日 。

【 概 要 】

あいりん労働福祉センターの外観
あいりん労働福祉センターの内部

財団法人西成労働福祉センターが施設の管理・運営をしており、建物内には、あいりん労働公共職業安定所、テナントの売店、食堂、喫茶店などがある。

場内の1階では、早朝午前5時ぐらいより日雇労働者が集まり、関西圏やそれ以外の地域の会社の者により、土工や解体業などの仕事の求人活動が行われている。利用時間は、午前5時より午後6時となっている。

大阪社会医療センター付属病院と一体となっており(住所は同じ)、病院も含めた建物全体が「あいりん総合センター」あるいは「西成あいりんセンター」と呼ばれる。

築40年以上を経て老朽化が進行しており、大阪市は調査・検討費用として2011年度予算に1200万円を計上し、建て替え、耐震補強あるいは廃止とするか方針を固めるとしている。

所在地・アクセス

  • 大阪府大阪市西成区萩之茶屋1丁目3番44号

 

山谷 (東京都)

山谷(さんや)は東京都台東区荒川区にある寄せ場(日雇い労働者の滞在する場所、俗に言うドヤ街の通称(旧地名)である。

概要

泪橋交差点
玉姫公園
山谷日雇労働組合の看板

奥州街道日光街道に沿った地域であり、江戸時代から木賃宿が集まる場所であった。現在も簡易宿泊所の施設が多く、日雇い労働者が集まっていた地域である。

1966年以前は地名として台東区浅草山谷1~4丁目が存在したが、住居表示制度の実施により、「山谷」という地名はなくなった。現在の住居表示では、台東区清川日本堤橋場と荒川区南千住にまたがる地域である。

泪橋(台東区・荒川区境)はかつて江戸の境界で、近くに小塚原刑場遊女投込み寺浄閑寺)があった。また、山谷地域西南部の近隣には、ソープランド街である吉原がある。

簡易宿泊施設

この町の簡易宿泊施設の殆どは素泊専門(食事などのサービスを提供せず、就寝できる場所のみを提供する宿の形態)である。内部の設備の差もあり、8人部屋などの多人数でのドミトリーを提供している所もある。

また、この町の簡易宿泊施設は軒先に「全室カラーテレビ完備」「全室冷暖房完備」という謳い文句を掲げる店が多い。細かい形式は異なっていても、新しい簡易宿泊施設以外は必ずといってよいほどこの2つが提示されている。

2002年FIFAワールドカップ日韓大会の頃から、外国人旅行者が山谷地区の宿泊施設を利用するケースが見られるようになった。その後も料金が安いことや(諸外国の安宿街に比べて)治安が良いこと、最寄り駅である地下鉄南千住駅からは日比谷線一本で「上野」「秋葉原」「銀座」「六本木」などの観光スポットに行けることから更に外国人利用者が増加し、それに伴い施設側の外国人への対応も進んだことから、「外国人向けの安宿のある町」として定着し、往年のイメージから変貌している。

歴史

元々は日光街道の江戸方面の最初の宿場であった。明治初期から政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され吉原遊郭の客を送迎する車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住していたが戦後になると東京都によって被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが本建築の簡易宿泊施設へと変わっていった。まもなく高度経済成長期が到来すると労働需要の高まりに対応し、日本有数の寄せ場として発展した。1961年には簡易旅館約300軒が建ち並び、労働者約2万人が集まる居住地となった。

1960年代以降、この地域に新設された山谷地区交番(通称「マンモス交番」、移転した後現在は「日本堤交番」に改名)の警察官との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が複数回発生した。騒動の直接の原因については様々な理由が挙げられているが、犯罪者や過激派などの煽動を指摘する説もある。

1969年、フォーク歌手・岡林信康が日雇労働者の悲哀を歌った『山谷ブルース』を発表した。岡林は山谷に長期滞在して作ったといわれるが、実際に滞在していたのは1週間程度だった。

1984年1986年には、この地区で暗躍する暴力団(金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画『山谷(やま) - やられたらやりかえせ』を製作した監督2名が暴力団(日本国粋会)の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。

1996年に東京都と東京23区は互いの了解のもと路上生活者に各区が生活保護を行い、自区内で住居が決まるまで山谷に預ける規則(山谷ルール)を作った。一時的に預けるという措置だったが保証人などの問題もあり、その後も各区が再度引き取ってアパートなどを探すことはあまりなく山谷に連れて行かれた後そのまま放っておかれるなど、長期にわたって住所不定のままになっている人が少なくない。

こうした住人の変化に伴い、簡易宿泊施設には従来の労働者に代わって各国から日本に旅行にやって来る外国人達(バックパッカー)による格安のホテルとしての利用が増加している。英語表記の案内を施設内に充実させるなど簡易宿泊施設のオーナーらには外国人利用者の利用を促進したいという動きがみられる他、真新しい新築の簡易宿泊施設も次々と登場している。さらに近年では休みを利用した都内に旅行やイベントに来る国内外の若者が簡易宿泊施設を利用するケースも見られるようになっている。また近年では治安の良さも手伝って古い建造物等を撮影するアマチュアカメラマンで賑わっている。

2010年、2011年の実写公開を期に泪橋が舞台だった事で漫画「あしたのジョー」で地元のいろは商店街街おこし、所謂聖地巡礼ビジネスに乗り出している。

交通

南千住駅 
JR常磐線日比谷線つくばエクスプレス:徒歩7分
浅草駅 
つくばエクスプレス:徒歩10分
三ノ輪駅 
地下鉄日比谷線:徒歩10分

山谷を舞台にした作品

  • 漫画『あしたのジョー』高森朝雄(梶原一騎)・作 ちばてつや・画 講談社 1968〜73年
  • 音楽「山谷ブルース」岡林信康・作 1969年
  • 小説『地図のない街』風間一輝・作 ハヤカワ・ミステリワールド 1992年
  • 漫画『孤独のグルメ』(第1話)久住昌之・原作 谷口ジロー・画 扶桑社 1994年 
  • 写真集 [山谷への回廊―写真家・南條直子の記憶1979ー1988] 織田 忍著 アナキズム誌編集委員会 2012年
アフロヘアにアーミージャケット、撮影対象として日雇い労働者の街「山谷」に対峙し続けた20代のフリーのフォトグラファー南條直子は、山谷夏祭り、越年越冬闘争、暴動、警察の弾圧、デモ、集会、争議、手配師やヤクザに追われ自らの命を狙われたりしながらも、多くの労働者・活動家の魅力あふれる素顔を撮り続けた。1988年10月アフガニスタンで取材中に地雷を踏んで死亡。享年33。

参考資料

  • 書籍『山谷—都市反乱の原点』竹中労・著 全国自治研修協会 1969年
  • 書籍『山谷・泪橋—ドヤ街の自分史』宮下忠子・著 晩声社 1978年
  • ドキュメンタリー映画『山谷─やられたらやりかえせ』佐藤満夫・山岡強一共同監督 1985年
  • 書籍『現代棄民考—山谷はいかにして形成されたか』今川勲・著 田畑書店 1987年
  • 書籍『山谷 やられたらやりかえせ』山岡強一・著 現代企画室 1996年
  • 書籍『山谷ブルース—「寄せ場」の文化人類学』エドワード ファウラー・著 川島めぐみ・訳 洋泉社 1998年
  • 書籍『山谷崖っぷち日記』大山史朗・著 阪急コミュニケーションズ 2000年
  • 書籍『東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。』山本雅基 実業之日本社 2006年
  • 書籍『だから山谷はやめられねえ—「僕」が日雇い労働者だった180日』塚田努・著 幻冬舎 2008年
  • 書籍『大いなる看取り—山谷のホスピスで生きる人びと』中村智志・著 新潮社 2008年
  • 書籍『山谷でホスピスやってます』山本雅基 実業之日本社 2010年

【 山谷労働者福祉会館 】

会館は、全国の皆さんの支援と労働者の力で建てられました

 山谷労働者福祉会館は、全国の多くの方々からの支援・協力を得て、そして山谷労働者自身の手によって、1990年に建設されました。
 不景気の中であえぐ現役日雇労働者と、野垂れ死にの危機に晒されている野宿労働者と、そして心を寄せる支援者が、ともにつながって生き抜くことを模索して、活動しています。
 高度成長期を社会の底辺で支え、既に平均年齢が50歳代後半と高齢化の進んだ山谷労働者は、とりわけバブル崩壊以降、ことごとく切り捨てられています。現在、山谷では就労の機会がほとんどなくなり、山谷労働者は野宿者として路上に溢れています。
 私たちの活動は、このように路上に投げ出された高齢の野宿労働者の命を守り、生きる権利を回復していくことが中心になっています。


これらの団体が活動しています

山谷労働者福祉会館には、会館の委員会組織が活動を分担しているほか、様々な団体が構成団体として活動しています。

各委員会

  • 運営委員会
  • 活動委員会
  • 財政委員会
  • 編集委員会

山谷労働者福祉会館を事務所や拠点として活動する団体

  • 山谷争議団・反失業闘争実行委員会
  • 新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議(新宿連絡会)
  • 在日アジア労働者と共に闘う会
  • 日本寄せ場学会
  • 日本基督教団日本堤伝道所

こんな活動をやっています

私たちは、当事者(労働者・野宿者)、日雇労働組合、キリスト者団体、他の支援団体と協力して、以下のような活動を行っています。

現場の労働者・野宿者の活動を側面から支えます。

  • 炊き出し活動(週1回、毎日曜)
  • 野宿地域のパトロール
  • 労働者の集まり(寄り合い)
  • 越冬や夏祭りの準備

支援してくださる皆さんとの窓口として機能してます

  • カンパ物資の受け付け
  • 通信「山谷から」の発行

山谷の「外」に出て、労働者・野宿者を支援します

  • 地域への働きかけ
  • <行政への要請行動 /li>
  • マスコミへの情報提供

所在地・アクセス

JR常磐線・営団地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス 南千住駅下車徒歩10分
 明治通り泪橋(なみだばし)交差点から浅草方面
 浅草警察署山谷派出所前右折 いろは商店街入り口

 山谷労働者福祉会館
 〒111 東京都台東区日本堤 1-25-11
 電話・FAX:03-3876-7073

(公財)城北労働・福祉センター

1 団体名

 公益財団法人城北労働・福祉センター

2 代表者

 理事長 関口 修一

3 住 所

 〒111-0021  東京都台東区日本堤二丁目2番11号

4 電話番号

 03-3874-8089

5 設立目的

 山谷地区に居住する労働者の職業の安定及び福祉の増進を図り、もってこれらの者の生活の向上に資することを目的とする。

6 主要事業 

(1)日雇労働者の就労その他労働者の就職に関し、労働者、雇用主その他の関係者に対して、情報提供、指導及び無料の職業紹介を行うこと
(2)労働者の就労及び就職の促進に関し援護を行うこと
(3)技能講習施設の管理及び技能講習を行うこと
(4)労働その他生活各般の総合相談を行うこと
(5)給食及び宿泊等の応急援護に関すること
(6)レクリエーション及び健康の増進並びに広報活動に関すること
(7)施設(娯楽室及び敬老室)の利用に関すること
(8)関係行政機関及び社会福祉施設並びに公共的団体等との連絡に関すること
(9)その他法人の目的を達成するために必要な事業

7 役員数

 12人
 常勤   1人(うち都派遣 0人、都退職者 1人)
 非常勤 11人(うち都職員 3人、都退職者 0人)

8 常勤職員数

 38人(うち都派遣 19人、都退職者 1人) 

9 基本財産

 1百万円

出捐者構成表
出損者 財産
東京都 1百万円(100%)

10 常勤役員名簿


役職名 氏名
理事長 関口 修一 (元東京都職員共済組合事務局事業部長)

11 経営状況

 下記のとおり

12 団体からのPR

 (公財)城北労働・福祉センターは、山谷地域に居住する日雇労働者の就労・生活の安定を目的として東京都の出資により設けられた団体である。当初は昭和40年11月に設置された東京都城北福祉センター(都の事業所)と、財団法人山谷労働センター(民間団体)という別組織であり、前者は日雇労働者に対する生活相談・応急援護を、後者は職業紹介・労働相談を実施してきた。
 しかし、その後日雇労働者の高齢化、失業の常態化がすすむなど山谷地域が抱える問題が大きく変容したことを背景に、労働者の就労・生活支援をより効果的に一貫性を持って行うことを目的として、平成15年4月、両組織を統合し、新たに財団法人城北労働・福祉センターが設立された。
 新センターでは、相談体制を自立支援中心に転換するだけでなく、労働と福祉を一元化した情報システムの導入、バーコード付の利用者カードの発行、公共事業求人における輪番紹介の導入、建設業以外の求人の開拓、技能講習における科目の新設、簡易宿所等への訪問相談事業、就労自立支援など新たな取組を積極的に実施している。 また、今後の山谷のまちづくりを考える地域づくりフォーラムを開催し、地域住民等と連携した清掃活動などの取組も展開している。
 また、公益法人制度改革により、平成23年4月、公益財団法人に移行し、現在に至っている。

13 所管局部課名

 福祉保健局生活福祉部生活支援課  TEL.03-5320-4106

14 その他

【 岡林信康 】

岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日 - )は、日本のミュージシャン。フォークの神様の愛称で知られる。

実家は教会で、父親は牧師。現在は京都府亀岡市在住。

生い立ち

父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていた。しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。その時期に宣教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズ)に出会い牧師となって大阪の神学校で通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。当地で信康は生まれる。近江兄弟社中学滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年同志社大学神学部入学。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ「脱出」、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。

フォークシンガーとして

1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した。書き置きは『下痢を治しに行ってきます」。

1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る。

1971年日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から再び姿を消す。

4年間の農耕生活

人ぎらい、街ぎらいの欝病を病むが、三重県農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める。1973年ソニーへ移籍し、活動を再開。松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26番目の秋」などの曲は、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった。この時期はレコードこそ発表はしたが、数度のゲスト出演を除き人前に登場しなかった。

復帰後

数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた。ふと聞いた西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた。「月の夜汽車」「風の流れに」が美空ひばりに採用される。4年間にわたる農耕生活を終え山を降り亀岡市に転居。

1975年には、岡林本人もコロムビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』をコロムビアより発表。 美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った。コロムビアでは他に、新録の2枚組ベストアルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』を発表。

しかし『ラブ・ソングス』を音楽評論家の中村とうようが「岡林が演歌をやめてフォークに戻ってきた」と評し、再び「フォークの神様」に戻ることを危惧した岡林は、1978年に偶然テレビで観たピンク・レディーの影響を受けてアルバム『セレナーデ』を発表。これを皮切りに、パロディ色の強い、ニューミュージック路線を展開した。古巣のビクターに再び移籍し、さらに『街はステキなカーニバル』、『ストーム』、『グラフィティ』を発表し路線を深めていく。「ミッドナイト・トレイン」、「Good-bye My Darling」、「君に捧げるラブ・ソング」、「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲である。

1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである「Gの祈り」を発売。しかし、『ストーム』制作の際、プロデュースを担当した加藤和彦にそれまでの作詞の根本としていた部分を「逃げ」だとして批判されことで、再び新たなスタイルを模索することになる。

1980年代中頃より、メジャーレーベルとの契約が切れたことなどもあり、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始し、全国を巡る。また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。

エンヤトットの完成~現在

1981年ロンドンキング・クリムゾンロバート・フリップに「俺たちの真似じゃない。日本人のロックを聴かせろ。」と言われたことで、日本民謡的なリズムに乗せた独自のロック「エンヤトット」を思案。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。

1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing』を発表。その後、東芝日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。

「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。また、前述の日比谷野音ライブに前後した時期から、10年以上「封印状態」にあったURC時代の音源を含む全アルバムが、紙ジャケットで再発された。また、岡林を敬愛するサンボマスターとの競演や、フジロックフェスティバルCOUNTDOWN JAPANなどのロックフェスへの参加、ロック時代の曲を数十年ぶりに再演するミニライブの開催、数々のテレビ出演など、より積極的な活動を行っている。

2009年九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーしたことをきっかけに、翌2010年、EMIから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。

2011年、「岡林信康コンサートツア-2011」を行い、東名阪のZEEPでライブを行った。

2012年、14年ぶりに作詞作曲をした自主制作シングル「さよならひとつ」を発表した。

人物

本人は気さくな性格で、コンサートで「友よ」の歌い出しを「ホモよー♪」と自ら歌うほどである。サントリー「京番茶」のCMでは、出勤拒否を娘に諭される交番のおまわりさんを演じた。

部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」は、放送禁止歌の代表例といわれる(実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在しない。抗議などを恐れての自主規制・自粛である)。現在に続くエンヤトット(御歌囃子)の活動は、英国を訪れた際に会ったキング・クリムゾンのリーダー、ロバート・フリップに「欧米の真似ではなく日本独自のロックを見せろ」と言われたことをきっかけにしている。

2009年、美空ひばり作詞の「むぎばたけの鳥」を作曲した。

岡林の作品の特徴として、「くそくらえ節」のように関西弁東京弁を混ぜた歌詞もあれば、「山谷ブルース」のように東京弁だけを使用した歌詞もあったりする。

「友よ」は、歌詞の内容からJリーグのスタジアムで歌われることがある。大抵は、長期間低迷が続いているクラブのサポーターが低迷脱出を願って試合前などに歌うケースであり、例えば2010年、J2ギラヴァンツ北九州の一部サポーターがリーグ戦後半期間、試合開始前などに勝利を願い歌っていた。J1ではリーグ後半戦に降格圏にあるクラブのサポーターが歌っている。

名物喫茶「ほんやら洞」全焼 京都、岡林信康さんらが開店

2015年1月16日午前4時50分ごろ、京都市上京区今出川通寺町西入ルの喫茶店「ほんやら洞」から出火した。市消防局によると、木造2階建て延べ約100平方メートルが全焼し、隣接する建物の一部も焼けたという。けが人はなかった。
 ほんやら洞は、哲学者鶴見俊輔さんら多くの文化人や若者が来店し、文化の発信拠点となっていた。現在は写真家の甲斐扶佐義さん(65)が店長を務め、1972年にフォーク歌手の岡林信康さんや詩人の片桐ユズルさんらと開店した。
 甲斐さんの説明では、15日午後9時10分ごろに店を閉めたが、無施錠だったという。甲斐さんは「京都の風土を写した200万コマのネガが燃えたのが残念。著名な作家の作品やもらった本がいっぱいあったのに」と声を落とした。
 現場は地下鉄今出川駅の東約700メートルで、近くに京都御苑や同志社大がある。

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