Apex product 【 昭和の楽しい時代 50 】

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♥️2023💃10/6 堀北真希😎🖤
35歳Happy birthday🎂🥂🎁🎉🎊💐👏♥️
『やしきたかじん』 関西の視聴率男→しかし
全国的知名度はどうなんでしょう🤔
残念ながら亡くなられましたが「お別れの会」が開かれ、発起人が当時の内閣総理大臣「安倍晋三」大阪市長「橋下徹」「星野仙一」「櫻井よしこ」「ビートたけし」「秋元康」建築家「安藤忠雄」•••そうそうたるメンバー😁
とくれば、どんな人だったか、もうわかっていただけたでしょう❓🤔
そう!やしきたかじんは『歌手』だったのです
「やっぱ好きやねん」は関西の歌自慢おじさんのカラオケ🎤定番。全国的には「東京」のほうが有名ですかね~🤔
☆笑福亭鶴瓶師匠とは40年以上のお付き合い。
☆藤山直美さんとは「結婚以上の仲」と言われ
 12時間、電話で喋ったことも、、、。
☆林家こぶ平(現正蔵)は、たかじんさんのカ  
 バン持ちをしていたことがある。
☆ビートたけしさんが大阪に来た時は「車代」 
 として200万円ポケットマネーで渡した。
☆志村けんさんと飲んだ時は、北新地のガラス
 張りVIPルームへご招待。
☆番組中に、立川談志師匠に灰皿を投げつけ、談
 志師匠は怒って帰ってしまった。
☆東京の番組では有名な「味の素事件」ADを殴
 って右手を骨折。
☆「徹子の部屋」出演で🎵やっぱ好きやねん🎵
  を歌う。
☆若い頃、秋元康氏の作詞を散々ダメ出し❗
その他、エピソードには事欠かず😅 さて•••
どんな人だったか? 少しはわかっていただけましたかな❓🤔❓😁
春日八郎さん
(1924年10月9日-1991年10月22日)
福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。
『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名。
(春日八郎)
「男女7人秋物語」
36年前の本日1987年10月9日スタート。
明石家さんま、大竹しのぶ、片岡鶴太郎、岩崎宏美、山下真司、手塚理美、岡安由美子出演。この「7人」にカウントしないが、ギバちゃんと麻生祐未も出演。亡くなった堀江しのぶも岩崎の妹役で出演。この後バブル全盛に向けて一時代を築くトレンディドラマの元祖と言うべき作品。
私的にはドロドロ感満載の本作品より、前年の前作「男女7人夏物語」の方がコメディ感あって好きだったな。
「夏」の主題歌は石井明美「CHACHACHA」、「秋」は森川由香里「SHOW ME」。いずれも外国のカバー曲だが大ヒット。
まさに時代はバブルで日本が元気だった頃。当時のファッションも笑えるが、肩パットとかw。川崎が舞台で、今は無き東京湾カーフェリーも登場。今は無き川崎球場が人がいなくてすぐ見つけられると言うことで、合コンの待ち合わせ場所に。よくこんな自虐的設定受けたな、ロッテオリオンズw
川崎のネガティブイメージを変える地下街アゼリアが登場したのもこの頃。川崎市がロケ協力してました。川崎のイメージアップにつながると思ったのでしょうね。
このドラマの後さんまとしのぶは結婚(するけど後離婚)。山下真司が軽い単細胞男を演じていました。山下は「スクール☆ウォーズ」の熱血教師のイメージを払拭したかったのかもしれないが、私的には「スクール☆ウォーズ」の滝沢賢治先生に感動したので、こう言う山下はいやでしたね。
この後、「金持ちの美男美女の集団が、くっついたり別れたりする恋愛ドラマ」であるトレンディドラマが全盛期を迎えます。今はそんな恋愛ドラマ絶滅してるけど。
若い人は知らないだろうが当時のトレンディドラマの特徴。
・「出演者はみんな金持ちの美男美女。若いのに都心の高級マンションに住んでいる」→ドラマなのでつっこんではいけないことになっていますw あ、でも鶴太郎みたいな人も中にはいたなw
・「交友関係が出演してるメンバーだけと極端に少ない」→人気俳優ばかりに出てもらってるので、ギャラの関係で多くの人に出演してもらうことができませんので。
・「出演者が飲む店はいつも同じ」→セットの予算の関係です。ギャラに制作費取られてるので。
・「毎週のようにくっついたり別れたり」→そう言うドラマですのでw
こう言うドラマ今の若い人には受けないのかな?てか受けないから消えたんだな。
この後日本では「金持ちの美男美女以外恋愛をしてはならない」と言う空気が出来上がり、少子化が進んで行くことになります(あくまで私見です)。
まあ面白かったけど、私はホームドラマや学園ドラマの方が好きでしたね。最近の職業ドラマも好きです。
1981年にサントリーオールドは(だるま)
年間1億3000万本以上売れており、日本ウイスキーの代名詞として頂点を極めたと言われる、とても人気のあるウイスキーです。シェリー樽で仕上げられており、レーズンやプラム、ダークベリーを思わせる香りと芳醇なベリー感のある濃厚な味わいです。
この頃、どこのお家にもあった様に思います。
ロックにしてもいいですが、ハイボールにするとシェリー樽ならではの甘さや華やかさを感じて美味しいですよ~👍️❣️
水前寺清子さん
(1945年10月9日-)
女性歌手、女優。
身長158㎝。
熊本県熊本市中央区の子飼商店街で生まれ、
小学校まで同地で過ごし、
熊本市立碩台小学校、洗足学園中学校・高等学校卒業。
1960年 コロムビア歌謡コンクールに出場。
2位入賞。
作詞家の星野哲郎にスカウトされ、
1964年10月15日 「涙を抱いた渡り鳥」でデビュー。
1965年 NHK紅白歌合戦に初出場。
以降、1986年まで22回連続出場。
1968年 「三百六十五歩のマーチ」が100万枚の大ヒット。
翌1969年3月開催の第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用。
1969年 「三百六十五歩のマーチ」で第11回日本レコード大賞大衆賞受賞。
1970年 ドラマ『ありがとう』(TBS)主演。
1981年 『有明けの海』で古賀政男記念音楽大賞、日本作詩大賞に入賞。
1985年 、
つくば万博での公演に音楽家の小松明がバックバンド兼指揮者として参加。
まもなく交際を始め、
1989年小松との結婚を発表。
同年2月28日、水前寺公園の中の出水神社で挙式。
小松が水前寺の個人事務所の社長に就任。
2000年 、
熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立。
また「水前寺清子一座」を旗揚げ、全国公演。
2005年 、
期間限定再集結聖飢魔IIのミサにゲスト出演し、
聖飢魔IIの演奏で「三百六十五歩のマーチ」をデーモン閣下と歌唱。
2017年 第1回ももいろ歌合戦に出場、
以後2021年に至るまで毎年出場を続けています。
2018年 、
自身が司会を務める人生は三百六十五歩のマーチが放送開始。
水前寺の55周年をお祝いするという形で親交のあるゲストが毎週出演し、
水前寺との思い出を語るという集大成の番組。
2019年 旭日小綬章受章。
2020年 、
デビュー55周年を祝いBSフジで司会を務める『人生は三百六十五歩のマーチ』の中で
チータ55!と副題をつけたタイトルで2時間の特番が放送。
それを祝いゲストにデビュー当初から親交のある
歌手の美川憲一と山田太郎が出演。
故郷である熊本ロケも行われました。
2020年12月4日、
離婚していたことが報じられ、
小松は事務所からも退き、
水前寺が社長に就任したことも明らかに。
(水前寺清子)
村瀬幸子さん
(1905年3月21日-1993年10月9日)
女優。
東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。
夫は演劇家の北村喜八(1960年死別)。
東京府立第二高等女学校(現在の都立竹早高等学校)卒業、東京女子大学を中退。
1925年に築地小劇場に研究生として入り、
1929年の劇団分裂後は劇団築地小劇場に参加。
解散後の1931年、
松竹蒲田撮影所に入社し、映画に出演。
1937年に北村喜八とともに芸術小劇場を結成。
同劇場は1943年に解散。
1944年に
千田是也、東野英治郎、東山千栄子、小沢栄太郎らとともに俳優座結成に参加、
以後劇団の中心人物として活動。
1952年に一度退団するも1958年に再入団。
『人形の家』のノラ、
『夜の訪問者』の秋吉和枝、
『幽霊』のアルヴィング夫人、
『メアリ・スチュアート』のハンナ・ケネディの演技で知られます。
1963年には、
永井智雄、岸輝子、東山千栄子らと共にヨーロッパに演技研究に出かけています。
晩年は様々な老女役の名手として知られました。
1986年公開の吉田喜重監督『人間の約束』で呆け老人を見事に演じ、
毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。
1991年公開の
黒澤明監督『八月の狂詩曲』ではお祖母ちゃん・鉦役で主演。
舞台では
松本克平との二人芝居『八月に乾杯』に出演し、
現役の新劇女優の中では最長老の女優として活躍。
1993年、
俳優座215回公演の『とりあえずの死』の前橋市での地方巡演中に急死し、
劇団葬が営まれました。
享年88歳。
(村瀬幸子)
「1964年東京オリンピックの開会式」
東京オリンピック大会初日の1964年(昭和39年)10月10日(土曜日)に
旧国立競技場(国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)で行われた開会式。
前日の10月9日は台風の接近により雨が降りましたが、
当日は抜けるような青空の秋晴れに。
開会式は、昭和天皇・香淳皇后を始め、
当時の皇太子明仁親王・皇太子妃美智子夫妻(現在の上皇明仁・上皇后美智子)、
成婚後10日と間もない常陸宮正仁親王・常陸宮妃華子夫妻などの皇族が臨席し、
病気静養中であった当時の内閣総理大臣池田勇人や
オリンピック担当大臣河野一郎ら第3次池田改造内閣の各閣僚、
衆議院議長船田中、
参議院議長重宗雄三、
及び国際オリンピック委員会 (IOC) 会長アベリー・ブランデージを始めIOC委員、
及び各国の来賓らが出席して挙行。
参加94か国、7,060人の選手団が入場行進をしました。
⭕️開会式は以下の順序で行われました。
・開会式の冒頭、「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)演奏。
・各参加国の国旗が競技場の観客席の最後段にあるポールから掲揚。
・電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が再生演奏。
・昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席。
・日本国歌「君が代」演奏。
入場行進曲「オリンピック・マーチ」(作曲:古関裕而)演奏開始。
・入場行進
「オリンピック・マーチ」の演奏にのせて、
防衛大学校学生が国名のプラカードを持って先導しつつ各国選手団が入場。
・東京オリンピック組織委員会会長安川第五郎挨拶
・国際オリンピック委員会(IOC)会長アベリー・ブランデージ挨拶。
・昭和天皇開会宣言(午後2時58分)。
・ファンファーレ(作曲:今井光也)演奏。
・「オリンピック賛歌」(作曲:スピロ・サマラ、訳詞:野上彰)合唱。
・オリンピック旗の掲揚。
・オリンピック旗の引継ぎ。
・オリンピックカラーの風船が多数空へ放たれ、
小学生の鼓笛隊が退場。
・聖火の入場
・「東京オリンピック賛歌」(作詞:佐藤春夫、作曲:清水脩)合唱。
・各国選手団の旗手が国旗を掲げながら式台前に整列。
・選手宣誓。
日本選手団主将の小野喬が行いました。
・放鳩。
・日本国歌「君が代」斉唱。
・上空にブルーインパルスの五輪の輪が描かれました。
・昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスから退席。
・選手団退場。
(1964年東京オリンピックの開会式)

📺10月9日は北の国からの放送開始日です📺

宇津井健さんの黒歴史!スーパージャイアンツ!此の話をすると宇津井さんがマジで怒ったそうです。

榎本健一さん
(1904年10月11日-1970年1月7日)
俳優、歌手、コメディアン。
当初は浅草を拠点としていましたが、
エノケンの愛称で広く全国に知られていきました。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、
第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍。
(榎本健一)
尾畠春夫さん
(1939年10月12日-)
大分県速見郡日出町在住のボランティア活動家、元鮮魚商。
身長161㎝、体重57kg。
1993年、
登山道整備のボランティア活動を始め、
経営していた鮮魚店の閉店後に活動を本格化。
多くのボランティア活動の実績により数々の表彰を受け、後に緑綬褒章が授与。
2018年の行方不明児発見の手柄により
「スーパーボランティア」として一躍時の人に。
(尾畠春夫)
ミヤコ蝶々さん
(1920年7月6日-2000年10月12日)
女優、漫才師、コメディエンヌ。
東京都中央区日本橋小伝馬町生まれ、兵庫県神戸市出身。
長らく上方漫才・喜劇界をリードし、
関西を代表するコメディエンヌでした。
(ミヤコ蝶々)
1946年10月11日、
この日、上野駅前で引揚者らが店舗を開設。
「上野アメ横」の起こり。
元々は民家や長屋がひしめき合う下町の住宅街(御徒町)でした。
国鉄の変電所があったことから、
太平洋戦争下の空襲に因る被災を避けるため、
強制的な建物疎開が行われました。
しかし東京大空襲によって周辺一帯は焦土と化し、
第二次世界大戦後はバラック建ての住宅と店舗、
そして盛り場では屋台や露天商が目立ち始めるように。
これらは公の営業許可を受けないため闇市と呼ばれ、
アメ横があるところもその一つでした。
配給が十分に行き渡らないため民衆はそこに集まり、
十分なモラルがない中で、
様々な人間が多種多様な物資を公定価格の10倍ほどの値段で売買しており、
それらに群がる愚連隊や暴力団などが入り乱れ白昼の発砲事件なども起き、
その度にMP(米陸軍憲兵)と警察が対処に当たるというような状況が続いていました。
1946年(昭和21年)、
手を焼いた当局(上野警察署と台東区役所)が近くの実業家・近藤広吉に頼み込み、
現在アメ横センタービルの建っている三角地帯に、
80軒の商店を収容した「近藤マーケット」を作らせました。
近藤マーケットは出所の怪しい者を排除して出店させたため、
アメ横はようやく正常化へと向かっていきました。
その後、
マーケットの周辺では中国からの引揚者が露店を出すようになり、
現在あるアメ横のルーツとなりました。
『由来』
商店街が「アメヤ横丁」という名前で呼ばれるようになった由来は大別して二つあります。
第二次世界大戦直後、
砂糖が手に入りにくかった時代に、
マーケット周辺で露店を出した中国からの引揚者会が飴を販売し、
甘味に飢えた人々の間で大好評を博したからとも、
「芋あめ」を売る店が並んだためともいう説があすります(飴屋横丁)。
もう一つは、
アメリカ進駐軍の放出物資を売る店も多かった説(アメリカ横丁)。
現在でも、アメヤ横丁問屋街には、
飴などの菓子類を売る店があり、
それが、いつしかアメヤ横丁の呼び名が縮まり、
「アメ横」と通称されるようになっていったといわれます。
(戦後のアメ横)

今はほとんど見かけなくなりました石焼き芋屋

真田広之さん
(1960年10月12日-)
俳優・歌手・武術家。
身長170cm。
東京都品川区大井出身。
堀越高等学校、日本大学藝術学部映画学科卒業。
学位は芸術学士。
MBE(大英帝国勲章第5位)受章。
日本国内と日本国外の映画・テレビドラマ・演劇・CMと幅広く活躍。
(真田広之)
熊倉一雄さん
(1927年1月30日-2015年10月12日)
俳優、声優、演出家。
身長157cm。
テアトル・エコー所属、
生涯に渡って代表取締役演劇担当を務めていました。
(熊倉一雄)

昭和53年放送「オレの愛妻物語」のお二人。いい相棒って感じで素敵です。

中山仁さん
(1942年9月25日-2019年10月12日)
俳優。
身長176cm。
中華民國・北京生まれ、東京都出身。
東京都立雪谷高等学校卒業、早稲田大学第一政治経済学部政治学科中退。
早稲田大学を2年で中退後、
1964年、
文学座付属演劇研究所に第4期生として入り、
翌年(1965年)、「劇団NLT」に入団。
同年、テレビドラマ『乱れる』(フジテレビ系)に
南田洋子の相手役に抜擢され、デビュー。
1966年に同番組が終了と同時に、
芸名を「中山仁」に改め、
化粧品会社のポスターに起用され、
売り出しのきっかけをつかみ、
同年4月には『ひき逃げ』で映画初出演し、
『リュイ・ブラス』で舞台にもデビューを果します。
1967年、
五所平之助により松竹映画『宴』の主役に抜擢されたことで注目を集め、
以降は重要な役が増加。
同年には
『囁きのジョー』、『花の宴』などの映画で活躍し、
日本映画製作者協会(エランドール賞)新人賞を受賞。
1968年、
三島由紀夫主宰の劇団「浪曼劇場」創立に参加し、
1972年の解散まで所属。
1970年代以降は、主な活躍の場をテレビに移し、
テレビドラマ『サインはV』(1969年、TBS)で
お茶の間でもおなじみの顔となりました。
翌年(1970年)に同作は映画化もされ、
中山は鬼コーチの代名詞に。
そのほか、
『七人の刑事』『ウルトラマン80』『付き馬屋おえん事件帳』といった、
さまざまなジャンルのドラマに出演。
コンタックのCMではコミカルな役柄で注目され、
2000年以降もバイプレーヤーとして単発ドラマや舞台を主な活動の場としています。
1968年に映画『激流』で共演した女優・寺田史(俳優・寺田農の実妹)と結婚し、二子あり。
娘の中山玲は女優として活動しており、
もう一人の娘はピアニスト・歌手のari。
趣味は釣り。
特技は歌唱で、テイチクと専属契約を結び数枚のシングルレコードをリリース。
2019年10月12日午後5時25分に
肺腺癌によって東京都内の自宅で死去していたことが、
同年11月11日に発表。
享年77。
(中山仁)
森川正太さん
(1953年6月25日-2020年10月12日)
男性俳優、タレント。
東京都出身。
日本大学豊山高等学校中退。
『おれは男だ!』、『飛び出せ!青春』、『俺たちの旅』、『俺たちの朝』などの
1970年代の青春ドラマに数多く出演し、
名脇役として活躍。
(森川正太)
1973年、津川雅彦さんと朝岡雪路さん❣️
 
不倫の恋と呼ばれたふたりは、何度も結婚の噂が出るたびに、否定をしてきたが、ついに
1973年ご結婚されました~💕ご結婚後は、
仲むつまじく善きカップルでしたね~💓💑💓
進め!
電波少年

サンダーバードも良かったけど、ジョー90も良かった……内容忘れたけど(^_^;)

NHK映像ファイル #あの人に会いたい
「#柳ジョージ(ミュージシャン)」
10月14日(土)【総合】午前5:40~5:50
平成23年10月に亡くなったミュージシャンの柳ジョージさん。「雨に泣いてる・・・」など、ブルースをベースにしたロックで人気を集め、数々のヒット曲を生み出した。
柳さんは昭和23年神奈川県横浜市生まれ。大学在学中に「パワー・ハウス」としてデビューするが、わずか1年で解散し、人気バンド「ザ・ゴールデン・カップス」に後期メンバーとして参加。昭和50年には「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、地道な活動を続けて3年後にデビュー。「雨に泣いてる・・・」や「酔って候」などがヒットする。昭和56年に解散した後はソロとして精力的に活動し、レイ・チャールズとも共演した。
磯部勉さん
(1950年10月13日-)
俳優、声優。
身長173cm。
東京都出身。
妻は俳優座の斉藤深雪。娘は女優の磯部莉菜子。
両親は教師だったため、
学校の教師になろうと思っていましたが、
ある日、桐朋学園短期大学を紹介されて進学。
進学してから1年が過ぎた頃に
唐十郎主宰の状況劇場を観に行ったことで
俳優が面白いと思ったきっかけに。
同大学卒業後、1972年に劇団俳優座に入団、
演出家の千田是也に師事し舞台経験を積みました。
主にシェイクスピア劇で、好評を博します。
その後、
NHKドラマ『風神の門』では主人公霧隠才蔵の宿敵である獅子王院を演じ、
以後、多くの舞台、テレビ、アニメ、映画で
時代劇、現代劇問わず活躍。
1980年代以降は、
NHK大河ドラマの常連俳優として現在まで数多くの作品に出演。
1980年に昭和の犯罪史を騒がせた死刑囚や犯罪者の服役後の姿を題材とした実録映画『さらば、わが友』に主演。
主人公の若き日から晩年までを演じました。
仲代達矢、平幹二朗、加藤剛の後を継ぐ俳優座出身スター候補として期待を集めますが、
その後は往年の戸浦六宏を彷彿させるような知的な悪役やバイプレイヤーなど
性格俳優としての側面を強めていき、
1989年に俳優座を退団。
(磯部勉)
やなせたかしさん
(1919年2月6日-2013年10月13日)
漫画家・絵本作家・詩人。
戦時中は陸軍に徴兵、
最終階級は陸軍軍曹(暗号担当下士官)。
有限会社やなせスタジオ社長。
高知県出身。
作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」。
『アンパンマン』の生みの親として知られます。
社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月-2012年6月)、
社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月-2013年10月)
を歴任。
絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは
頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、
編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど
様々な活動を行っていました。
(やなせたかし)
山田吾一さん
(1933年2月20日-2012年10月13日)
俳優・声優。
北海道瀬棚郡瀬棚町(現・久遠郡せたな町)出身。
北海道深川西高等学校卒業。
高等学校時代に演劇部で活動し、
1951年、卒業後に会社員となるも、
演劇への道を捨てきれず、1952年上京。
舞台芸術学院本科に入り、
卒業後、劇団四季・劇団中芸に所属。
1958年には『事件記者』にガンさんこと岩見記者役で出演。
猪突猛進型の正義感溢れる記者役を演じ、
これが生涯の当たり役となり、
後の劇場版にも同役で出演。
テレビドラマや映画の脇役で活動し、
1974年の『激突! 殺人拳』では
千葉真一が扮する主人公の相棒である中国人を演じています。
1990年には一人芝居の劇団「吾一座」を旗揚げし、
舞台『軽き者の儀・赤穂第四十七士』を上演。
5歳年下の落語家古今亭志ん朝は親友でした。
2012年10月13日、心不全のため79歳で死去。
(山田吾一)

昭和40年代…中頃ですかね?タイガース(阪神でなくて!)の後期…名曲🎵多いんですよね…『風は知らない』『落葉の物語』『銀河のロマンス』『スマイル・フォーミー』…それで!サリーこと岸部一徳さん(岸部おさみ)さん!…今や日本映画にはなくてはならない…名脇役…いや主役としても…いい俳優になりましたね!…小栗康平🎥『死の刺』特によかった……

「週刊明星」1962年10月14日号
★表紙は(後列左より)高石かつ枝 克美しげる 五月みどり(前列)佐々木功。
★映画「秦始皇帝」出演の中村玉緒(画像2左下) 山本富士子(左上) 叶順子(左)。
★後年『怪奇大作戦』「京都買います」ゲスト主演の斎藤チヤ子。
★「映画俳優野球まつり」。
1961年の西部劇ですm(__)m💕
昭和は、西部劇が人気でした💕(^o^ゞ
『映画音楽はすばらしい!2』で演奏された
『荒野の七人』のテーマ曲
 「THE MAGNIFICENT SEVEN」。
映画を観たことがないのにこの曲は知ってました。
なんでかと思ったらマルボロのCMで使われていたから。
馬の乗るカウボーイのCMはまさに荒野の七人のイメージそのまんまヾ(≧∀≦*)ノ〃💕
子どもの頃によく聴いていたあの曲が、壮大なオーケストラで流れてきたときの懐かしさと
映像のかっこよさ!!
昭和は、西部劇もとっても人気だったとか❣️
お父様は、きっと夢中だと m(__)m😌💓
45年前の本日1978年(昭和53年)10月14日、日本テレビ系列にて「宇宙戦艦ヤマト2」放映開始。8月に劇場公開され爆発的ヒットを記録した「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」のテレビ版。テレビシリーズとしては第2作目。
「さらば~」の基本設定を踏襲し、ガミラス戦役から1年後、新たなる宇宙の驚異となる白色彗星帝国との戦いを描くのは同じ。しかしその基本設定以外は「さらば~」とはかなり異なる展開となる。
私は事前のヤマト関連ムックで(「さらば~」ではヤマト艦長だった)土方艦長がアンドロメダの艦長に、デスラーは死なない、と言うことまでは知っていたが、それ以外の設定、キャラクターデザインも劇場版からかなりの改変が。そしてラストシーンも…。
正直私当時小5ながら画のクオリティ、ストーリーなど「さらば~」と比較するとかなり落ちると思わざるを得ず…(個人の感想です)。評価出来るのはアンドロメダが単なる「やられメカ」で終わらず、それなりの活躍が用意されたことくらいのような。
しかし「さらば~」の大ヒットの勢いそのまま、全26話の平均世帯視聴率は22.9%、最高世帯視聴率は26.7%を記録する。
日テレで放送していたドラマ俺たちの朝。
鎌倉を舞台に男女3人が共同生活し、挫折を経験しながらもそれぞれの夢に向かって歩んでいく過程を描いていました。
大和田獏さん
(1950年10月13日-)
俳優、司会者、タレント。
身長170cm。
妻は女優の岡江久美子(2020年に死別)。
福井県敦賀市出身。
高校2年生の時に、
愛知県名古屋市にある名古屋市立菊里高等学校に転入し卒業。
名古屋市立大学経済学部に進学。
大学卒業後はテレビ局への入社を志し、
就職活動中に中部日本放送(現・CBCテレビ)を訪れた際に、
同局のドラマに出てみないかとCBCのプロデューサーにスカウトされ、
「断ったら就職に響くだろう」と思いその話を受け入れました。
しかし、肝心のCBCの採用試験は不採用。
その後も就職活動がうまくいかず進路に迷っていた時に、
人から役者をやりなさいと言われたことで役者の道を目指すことに。
1973年に放送のテレビドラマ『こんまい女』への出演で、芸能界デビュー。
その際、同ドラマの脚本家である花登筺から、
「夢を食べて夢のある大きな役者になれるように」という意味で「獏」という芸名を与えられました。
橋田壽賀子・石井ふく子が携わった作品にはたびたび起用。
1983年、
『連想ゲーム』での共演がきっかけで交際していた女優の岡江久美子と結婚。
同年8月、長女の美帆が誕生。
1998年から2009年までの11年間は『ワイド!スクランブル』(テレビ朝日)の司会を務めました。
期間中、
妻が他局であるTBSテレビの『はなまるマーケット』で司会を務めており、
夫婦で別々の局の帯番組に時間差でレギュラー出演していたことで話題に。
2020年、妻の岡江が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去。
同年9月、
娘の美帆の勧めでインスタグラムを開始。
(大和田獏)
渋谷の代々木公園にタケノコ族が出現していた昭和59年
路上パフォーマンスしていた一世風靡のレコジャケは
当時としては斬新なデザインでした
小木茂光 哀川翔 柳葉敏郎 がメンバーでした
ヤンヤン歌うスタジオ🎤
自分の地元では土曜日の夕方に放送されていました。
覚えてますか?
今から、51年前かな?
「あさま山荘事件」当時、中学生でした、中継されて、テレビに
釘付けなりました

マッチ箱、この形は銀行に良く置いてましたね🥰🐼❤️

「傷だらけの天使」の亨役は
当初売れっ子の火野正平であったが
スケジュール確保が困難などの理由で断念、
次の候補になった湯原昌幸は監督の恩地日出夫が
イメージと違うとの理由で却下。
ショーケンが推薦する水谷豊となった。
やはり3人の中で亨のトレードマークのポマードとクシが
一番似合うのは水谷豊であった。
水谷は「傷天」の前、俳優業を辞めるつもりでいた。
日本で初めてミリオン・セラーを記録したアルバム「氷の世界」リリースされて今年はちょうど50年。
小学生の時から井上陽水を聴き続け、このLPも大切に持っています。
盟友忌野清志郎との共作「帰れない二人」今でも大好きな曲です🎵

本日10月14日は、鉄道の日です。昨年は鉄道開通150周年。画像は、その際に発売された記念切手。明治5年(1872年)10月14日新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通したことを受け、平成6年(1994年)、その誕生と発展を記念し、毎年10月14日を「鉄道の日」と定めました(国土交通省HP参照)。

ゼンマイ駆動のブースカ

月丘夢路さん
(1921年10月14日-2017年5月3日)
女優、元宝塚歌劇団娘役の宝塚歌劇団卒業生。
愛称は「ツメ」。
夫は井上梅次、娘は井上絵美。
実妹は月丘千秋、月丘洋子。
(月丘夢路)
1960年💕裕次郎さんとまき子さんは
1960年に結婚したが、当時の芸能界はトップスター同士の結婚はもちろん、
恋愛すらもNGという風潮で、
密かに交際をしていた2人でした~💏
野村胡堂さん
(1882年10月15日-1963年4月14日)
小説家・人物評論家。
『銭形平次捕物控』の作者として知られます。
音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびすとも。
娘は作家の松田瓊子。
岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に
農業を営み後に彦部村長となった父野村長四郎、
母マサの次男として誕生。
彦部尋常小学校、紫波高等小学校に学び、
高等小学校のときに自宅が全焼するという災難にも見舞われました。
小学校時代には『絵本太閤記』や『水滸伝』を熱心に読み、
特に『水滸伝』の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭張清は、
のちに銭形平次の投げ銭を考案するときのヒントになったといいます。
1896年 、
盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。
同窓生には生涯付き合いが続く金田一京助。
また、下級生に石川啄木が在籍。
4年生だった1901年3月に、
教員間の紛争(岩手県出身の教員が、他地域出身の教員を冷遇)是正を掲げて
4年生と3年生がストライキを断行した際、
4年生の首謀者を務めたとされます。
5年生の1901年には啄木らとともに短歌会「白羊会」を結成してそのメンバーとなりました(筆名は「右近」)。
1907年、
第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するも、
父親の死亡により学資が続かず退学し、
『報知新聞』を発行する報知社に入社して政治部に配属。
同紙に人物評論欄「人類館」を連載し、
このとき「胡堂」を号としました。
また、「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆。
社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任。
また、デビュー間もない江戸川乱歩に「写真報知」誌へ多数の短編を執筆させており、
交友は自身も作家となって以降も終生続きました。
1916年、3月16日次女松田瓊子誕生。
1931年、
文藝春秋発行の『文藝春秋オール讀物號』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、
銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表、
『銭形平次捕物控』の第1作目でした。
これ以降、
第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、
長編・短編あわせて383編を書きました。
1949年、
捕物作家クラブが結成され、初代会長に就任。
後に「日本作家クラブ」と改名して会長を継続。
1956年、
自らの著書を寄贈して紫波町彦部に胡堂文庫(後に紫波町中央公民館図書室として紫波町が運営し、現在は紫波町図書館として継続)を設立、
故郷の教育に貢献。
1963年には、
紫波町に、銭形記念図書館も設け、蔵書の一部を寄贈。
1963年2月、死の直前、
私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。
同財団は、
経済面で学業継続が困難になった学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、
これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっています。
1963年4月14日、
肺炎のため東京都杉並区上高井戸の自宅で死去。
享年80。
(野村胡堂)
蜷川幸雄さん
(1935年10月15日-2016年5月12日)
演出家、映画監督、俳優。
位階は従三位。
勲等は文化勲章。
桐朋学園芸術短期大学名誉教授、文化功労者。
桐朋学園大学短期大学部芸術科教授、
彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督、
Bunkamuraシアターコクーン芸術監督、
桐朋学園大学短期大学部学長(第6代)、
桐朋学園芸術短期大学学長(初代)、
桐朋学園芸術短期大学芸術科特任教授などを歴任。
埼玉県川口市本町出身。
1955年、開成高校卒業後、「劇団青俳」に入団。
1967年、
「劇団青俳」を退団し、蟹江敬三、石橋蓮司らと劇団「現代人劇場」結成。
1969年、『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。
1971年、「現代人劇場」解散。
1972年、劇結社「櫻社」結成。
1974年、「櫻社」解散。『ロミオとジュリエット』で商業演劇に進出。
1983年『王女メディア』で初の海外公演。
1984年、「GEKISHA NINAGAWA STUDIO(現ニナガワ・スタジオ)」を結成。
1986年、
『第37回NHK紅白歌合戦』出演予定の北島三郎と山本譲二を、
暴力団との交際のスキャンダルにより出演辞退に追い込んだNHKに対して、
「たかが芸能番組で道徳を振りかざしている」と異議を唱え、
自らも特別審査員を辞退(蜷川の他にも、北島らの代役に選ばれた鳥羽一郎もNHKの偽善を批判し辞退)。
1987年、
英国ローレンス・オリヴィエ賞演出部門にノミネート。
1992年、
ロンドン・グローブ座芸術監督陣の一員に。
1993年、
桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻の教授に就任。
1998年、
彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督に。
1999年、
Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出家として『リア王』を日本・英国で長期公演。
2000年、
「蜷川イヤーズ」と題し、
2年間で12本の作品(演出作9本、監修作3本)を彩の国さいたま芸術劇場で上演。
2002年、
大英帝国勲章(CBE=三等勲章)を授与。
2003年、桐朋学園大学短期大学部学長に就任。
2004年、
桐朋学園芸術短期大学学長に就任(2010年3月まで)。
2010年4月から2011年3月まで特任教授を務めました。
2005年、
シアターコクーン芸術監督就任7年目および70歳を迎える年を記念して
「NINAGAWA VS COCOON」と銘打ち、新作4本を同劇場で上演。
歌舞伎を初演出し(『NINAGAWA十二夜』)、歌舞伎座で上演。
2006年、
財団法人埼玉県芸術文化振興財団芸術監督に就任。
高齢者演劇集団「さいたまゴールド・シアター」発足。
2009年、
若手俳優育成プロジェクト「さいたまネクスト・シアター」発足。
埼玉県民栄誉賞受賞。
2010年、
文化勲章受章。埼玉県川口市市民栄誉賞受賞。
2013年、
桐朋学園短期大学より名誉教授の称号を授与。
2014年、
女子美術大学より名誉博士の学位を授与。
2016年、
肺炎による多臓器不全で死去。没後に従三位に追叙。
(蜷川幸雄)
堀威夫さん
(1932年10月15日-)
芸能プロモーター、実業家。 
ホリプロ創業者。
宇都宮ビジネス電子専門学校名誉顧問、宇都宮アート&スポーツ専門学校名誉顧問。
社団法人日本音楽事業者協会理事長なども歴任。
横浜市生まれ。
浅野学園時代からサークルでバンド活動に勤しみ、
1948年(昭和23年)にワイキキ・ハワイアンズを結成。
明治大学商学部時代の52年には、
小坂一也、井原高忠等とともに学生バンドのワゴン・マスターズにスカウトされ、
ギタリストとして活躍。
卒業後、文化放送でのアルバイトを経て、
1957年(昭和32年)にスウィング・ウエストを結成しリーダーとなり、
田辺昭知がドラムを叩きました。
58年に渡辺プロダクションから脱退。
退団後、60年に東洋企画を設立し専務。
佐々木功のマネジメントを担当するも内紛で追放され、同年に堀プロダクションを設立。
代表取締役に就任する傍ら営業・制作マネジャーを兼任。
1963年(昭和38年)、
株式会社に組織変更し社名をホリプロダクションに改め、
84年には代表取締役会長に退き、
89年に株式を公開。90年にホリプロに改称、
02年取締役ファウンダー、
08年には次男・義貴の会長兼任と同時にファウンダー最高顧問となり、
20年6月の株主総会を以って会社の役職から降りました。
2014年(平成26年)、
一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を創設。
2021(令和3年)2月、
『日本経済新聞』朝刊に「私の履歴書」を「ホリプロ創業者」の肩書で執筆。
芸能界の一般企業化を進めた先駆者。
きっかけは長男・一貴の小学校受験にて、
面接で親の職業について答えた際の面接官の妙な反応でした。
この出来事をきっかけに
「芸能界をヤクザな虚業でなく一般企業として社会に認めさせたい。その為には株式を店頭公開して経営の透明度を上げるしかない」という目標の下、
経営の健全化を進め、
1989年(平成元年)に業界初の株式公開を果たし、
97年には東証2部、
02年9月には東証1部への指定替えにこぎつけ、
更には日本経団連の加入も成し遂げました。
(堀威夫)
懐かしい…
ファミリーマートのあゆみ😁🤚
江波杏子さん
(1942年10月15日-2018年10月27日 )
女優。
東京都渋谷区千駄ヶ谷出身。
宝仙学園高等学校出身。
身長160cm。
スリーサイズ、B89cm、W61cm、H90cm。
曾祖父は、
最後に沖田総司を匿った植木職人の柴田平五郎。
母・江波和子は戦前に東宝で活躍した映画女優。
小学生の頃にキャロル・リード監督の『落ちた偶像』を観たのがきっかけで、
本人曰く「現実逃避的に」女優になろうと思ったことや、
また幼い頃に亡くなった母の仕事を継ぎたい一心で中学生の頃から女優を志し、
1959年に十三期ニューフェイスとして大映に入社。
1960年、映画『明日から大人だ』でデビュー。
デビュー後しばらくの間は、
悪女や情婦などの役柄を中心に助演が続きましが、
1966年、
当初『女の賭場』での主演を予定されていた若尾文子が
自宅風呂場での転倒による怪我を理由に降板し、
江波が代役として主演に抜擢。
そこで演じた胴師ぶりがうまくハマり、同作品はヒット。
以後、
昇り竜のお銀を主人公とした「女賭博師シリーズ」として定着し、
1971年の『新女賭博師 壷ぐれ肌』まで全17本が制作され、
東海道新幹線の車内で本物のヤクザから
「姐さん、きょう賭場が開いてますよ」などと声を掛けられるほどの当たり役に。
大映倒産後の1973年、
斎藤耕一監督の『津軽じょんがら節』に主演してキネマ旬報主演女優賞を獲得。
1978年11月28日、
名古屋御園座での『快挙! 赤穂浪士』舞台稽古中、
セットから降りる際に足を踏み外し、左脚を骨折。
約1年間の療養生活を送り、
このことが大映時代からの自分自身を見つめ直す一つのきっかけとなり、
デビュー当初から厳しく躾られてきた“女優らしさ”から解き放たれたいと思うように。
ハイヒールをやめ、毛皮や宝石も手放し、運動靴を日常的に履くようになってジョギングを始めます。
ある時期から、
『津軽じょんがら節』の脚本を書いた中島丈博執筆のテレビドラマに数多く起用されるようになり、
『海峡』や『かぐわしき日々の歌』など、
NHKのドラマ人間模様や銀河テレビ小説での江波の演技が井上ひさしの目に留まり、
こまつ座の舞台『雨』の出演に繋がります。
以後、
芝居の面白さに目覚めて舞台の出演作品が飛躍的に増加。
好きな映画監督として、
川島雄三、溝口健二、黒澤明、山中貞雄。
年齢を重ねてからも、
この年代の女優としては特筆できるほど、
舞台・テレビ・映画とコンスタントに活動を続けていましたが、
2018年10月26日に体調不良を訴え、
東京都内の病院に入院。
翌27日21時06分、
肺気腫の急性増悪のため、同所で死去。
76歳没。
(江波杏子)
中谷一郎さん
(1930年10月15日-2004年4月1日)
俳優。
身長174cm。
北海道札幌市出身。
妻は俳優座の女優・美苗。
北海道立札幌第一高等学校(現・北海道札幌南高等学校)卒業。
早稲田大学第一文学部仏文学科を中退。
親友から「新劇を受けたらどうだ」と助言を受け、演劇の道を志します。
1952年に俳優座に第4期生として入団。
同期には仲代達矢・宇津井健・佐藤慶・佐藤允ら。
なお、
このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、
後年岡本喜八監督作品の常連として喜八一家と呼ばれるようになり、
佐藤慶も2本の岡本作品に出演。
舞台のみならず、
映画・テレビで存在感のある脇役として活躍。
1959年、
岡本喜八監督による映画『独立愚連隊』で、
独立愚連隊の異名を取る日本軍はぐれ者部隊の隊長に扮して、注目を集めます。
以後、岡本作品の常連となり、
『顔役暁に死す』『戦国野郎』『ああ爆弾』などでは準主役的な役どころでたびたび起用。
また私生活では、
岡本監督の敷地にある別棟に長年下宿していたほどで、
岡本とその家族との絆は後年まで強いものがありました。
また、外国テレビドラマ『ライフルマン』では、
主演のチャック・コナーズの吹替えを担当。
映画では、
誠実さと豪放磊落さ、謎めいた面を併せ持った男っぽいキャラクターが持ち味すが、悪役も得意としました。
山本薩夫監督の『金環蝕』では、
自民党幹事長時代の田中角栄をモデルとした政治家に扮し、見事なそっくりさんぶりを発揮。
『日蓮』(1979)でも弾圧の指揮を執る鎌倉幕府の実力者・平頼綱に扮しています。
また舞台では、仲代達矢の俳優座退団後、
加藤剛と共に劇団を支える屋台骨的存在でした。
1969年、
俳優座の先輩・東野英治郎の誘いでテレビ時代劇『水戸黄門』に第1部から初代風車の弥七役でレギュラー出演。
そのニヒルで渋い演技と存在感で人気を集め、
東野が黄門役を引退した際、
弥七役降板を申し入れましたが、
番組プロデューサーの逸見稔に
「降りるなら番組自体を終わらせる」
と強引に引き止められたエピソードがあるほどに、
『水戸黄門』には欠かせない存在となりました。
その後も
大腸癌、糖尿病などの病と闘いながら弥七役として活躍しましたが、
体調不良のため頻繁に休演するようになり、
殺陣の場面にも参加しないことが増加。
第22部放送中に大腸癌で倒れて手術・療養し、
その後始まった第23部には病気回復を待って
第34話「狸がくれた赤ん坊 -信楽-」から出演となり、
第23部での出演は合計7話分となりました。
中谷弥七の最終シリーズとなった第27部では合計3話分のみに出演、
第17話「殿に教えた米の味 -象潟-」から出演し、
第19話「二人のご隠居 -村上-」を最後に長期休演。
第28部の番宣ポスターにもその姿と名前があったものの本編には登場せず、
そのまま復帰することはなく事実上の降板となり、
その後内藤剛志が後任。
出演回数は歴代のレギュラー出演者では第4位の687回。
また、
必殺シリーズ第3弾となる『助け人走る』では、
女好きの殺し屋・辻平内を演じ、
コミカルな一面でも人気を博しました。
2003年7月25日、
放送1000回を記念した『水戸黄門』の歴代キャストが集合したTBS系列で放送された特別番組において、
中谷がVTRで出演し、久々に姿を見せましたが、
これが事実上最後のテレビ出演に。
同年12月15日放送の『水戸黄門 1000回記念スペシャル』では
過去のレギュラー出演者たちが出演しましたが、
中谷は過去のVTRを使用する形で出演。
2004年4月1日午前9時42分、
咽頭癌のため東京都豊島区の病院で死去。
73歳没。 
(中谷一郎)
三浦雄一郎さん
(1932年10月12日-)
スキー選手、登山家、獣医師。
青森県出身。
クラーク記念国際高等学校名誉校長、
一般社団法人全国森林レクリエーション協会会長、
特定非営利活動法人グローバル・スポーツ・アライアンス理事長、
株式会社ミウラ・ドルフィンズ代表取締役、
株式会社三浦雄一郎事務所代表取締役。
北海道大学獣医学部助手、
青森大学教授、
日本プロスキー連盟会長、
社団法人日本職業スキー教師協会顧問、
日本プロモーグルスキー協会会長などを歴任。
クラーク記念国際高等学校の校長に就任するとともに、
全国森林レクリエーション協会の会長などを務めています。
また、
札幌市手稲区親善大使に委嘱されると同時に、
青森市の名誉市民にも選ばれています。
父の三浦敬三も山岳スキーヤーで、
長男の三浦雄大は競技スキーヤー、
二男の三浦豪太はリレハンメルオリンピック・長野オリンピック出場したフリースタイルスキー・モーグル選手、
長女の三浦恵美里はクラーク記念国際高等学校・横浜青葉キャンパス校長、ミウラ・ドルフィンズ代表取締役も兼務。
母方の祖父は、
第15回衆議院議員総選挙青森県第5区選出議員の小泉辰之助。
2022年にクラーク記念国際高等学校の名誉校長に就任。
(三浦雄一郎)