№ ㊱ Apex product 【世直し桃太郎&鼠小僧Zero吉 2人の世間話】青空と向日葵の会

【BABYMETAL】メタルバンドなのに可愛い。なかなかの歌詞と歌声。全米で受けるのは理解できます。

【ご挨拶】

このブログをご覧頂き誠に有難うございます。当ブログでは、日々の生活、日々思うこと、地元の心温まる情報・・・などなど、について広く深く語っております。日々更新出来るよう頑張りますので、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい。文章を読んで頂き、何か思われる事が御座いましたらどうぞコメントをお願い致します。今後のブログ運営において参考とさせて頂きます。

- Apex product 社員一同 -

初春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は格別のお引き立てをいただき、ありがたく御礼申し上げます。 さて、このたび弊社は創立10周年を迎えるに至りました。 皆様方のご支援、ご厚情による賜物と深く感謝いたしております。
とうとう、10周年を迎えることができました。2013年の3月から数えて、10年が経ったわけです。どんなことでも、毎日10年やり続けられたら、一丁前になれるとある作家の方が言われていました。このことばを、一番信じていたのは、私達だったのかもしれません。大変なようで意外に短い期間のようでしたが、そして、とうとう待ち望んでいた10年に到達しました。これもひとえに皆様のおかげであると感謝をしております。の10年に向けて新しいスタートを切るにあたりどのようなことが必要になってきているかを日々考えてきました。私どもは伝えること、元気になること、頑張りたい人たちのきっかけとなり、力いっぱい背中を押す役割になることができますよう、幅広い視野を持ち常にチャレンジ精神を持って、皆様のご期待にお応えできるよう従業員一同最大限の努力をしてまいります。今後も格別のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2023年 3月吉日 Apex product 代表 柳伸雄

2016年

7月

14日

稲毛浅間神社例大祭(夏の大祭)2016年7月14日15日 鼠小僧Zero吉 参上!!おいらの地元おいらが主役だぜ!!皆、集合!!

公共交通機関 京成電鉄千葉線 京成稲毛駅より徒歩5分
JR総武線

稲毛駅より徒歩15分

JR京葉線 稲毛海岸駅よりタクシー5分
 
 
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2016年

7月

12日

黒柳 60年来の親友・永さんと「結婚話」あったと告白…「最後の一撃」と悲痛

テレビの黎明期から活躍し、ラジオパーソナリティとして、また「上を向いて歩こう」をはじめ多数のヒット曲を作詞するなど、多方面で活躍したタレントの永六輔さんが7日、83歳で亡くなった。浅草出身。永さんは、長年パーキンソン病を患っていた。60年来の親友である黒柳徹子(82)が11日、テレビ朝日を通じて追悼コメントを発表。「このごろお友達が亡くなって、本当に、最後の一撃のような、永さんの死です」と悲しみにうちひしがれている心境を吐露した。

【写真】結婚話も…もう見られない親友同士の笑顔のツーショット

 また、書面の中で、昌子夫人が14年半前に亡くなった後、黒柳と結婚の話が持ち上がっていたという秘話も明かされた。黒柳は「(永さんが)一人になって、私と結婚の話も出ましたが、主に永さんからですが、お互い昌子さんのようにはいかないと、わかっていました」とつづっている。

 亡くなる3日前と4日前にはお見舞いに行ったといい、「話しはできなかったけど、私が『永さん!』というと、必ず目を開けて私を見て、声を出して笑いました」と最後の対面を振り返った。

 そして、「永さん、永いこといいお友達でいてくださってありがとう。アフリカなんかで『上を向いて歩こう』を聞くと、きっと空を向いて涙がこぼれないようにすると思う。昌子さんによろしく」と追悼文は永さんに呼び掛けるように結ばれている。

 永さんは46年パーソナリティを務めていたTBSラジオ「六輔七転八倒九十分」を背中痛のため2月に休養。復帰を目指したものの、6月27日をもって、降板が決まったばかりだった。最終回は体調不良の永さんに代わり、次女でフリーアナの永麻理が代理出演したが、黒柳はスタジオに駆けつけ「永さん!ごくろうさまでした!」とラジオの向こうの永さんに叫んでいた。黒柳は追悼文の中で「私がよびかけると、目を開けて笑ったりしていたそうです」とつづった。

 永さんは黒柳が司会を務めるテレビ朝日系「徹子の部屋」には今年2月、大橋巨泉とともに出演していた。

最終更新:7月11日(月)19時8分

デイリースポーツ

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2016年

7月

12日

「ザ・ピーナッツ」伊藤ユミさん 5月18日に亡くなっていた。ご冥福をお祈り申し上げます。

※ リアルタイムでは、聞いていませんでしたが、「モスラーヤ・モスラー」で覚えていますし、恋のバカンスは、誰しもが知る名曲です。お姉さん・妹さん?どちらかとジュリーが結婚していた事も忘れてましたよね。ほくろがあるのが妹さん?歳ですね。忘れました。お亡くなりになられても伝説と名曲は時代を旅します。ご冥福を心よりお祈りいたします

Apex product 代表 柳

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2016年

7月

11日

第42回【都賀連合町会納涼大会 7月28日29日】鼠小僧Zero吉参上!!

♪千葉の名物 祭りと踊り~祭り見に来い よいやさっさ そーれ踊ろか よいよいよいやさ♪

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2016年

7月

07日

7月7日 七夕 短冊に願いを込めて(笑)!!お誕生日おめでとうございます( ´艸`)

7月7日 今日は『小暑』

小暑は、二十四節季のうちの一つなんだよ(^0^)/

暑さがどんどん強くなっていくという意味があり、この頃から暑さが本格的になってきます。

梅雨の終わる頃で、集中豪雨が多く発生する時季でもあるんだ!!

梅雨が明けると一気に暑くなってきます。
夏バテや夏風邪に負けないように、しっかり食べて体力をつけてくださいね♪

そして・・・
7月7日は七夕でもあります♡そして・そして

お誕生日の方も、いるんだよ。3歳のお誕生日おめでとうございます。

 

七夕の飾りには、それぞれに意味があるんだ!!

短冊は「願いがかなうように」
巾着は「お金が貯まりますように」

など
そして笹は天に向かって真っすぐ伸びることから、願いを天に届けてくれると言われてるんだよ(^0^)/

七夕は雨の多い気がしませんか?
今年は織姫さんと彦星さんは会えるかなぁ~?

晴れの夜空で、2人が会えますように・・・

 

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2016年

7月

07日

千葉神社で今日の夕方5時より七夕祭らしいです。

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2016年

6月

26日

しもさん。お中元ありがとう御座いました。柳

お疲れ様です。ありがとう御座いました。美味しく頂きます。皆さんから、お酒いっぱい頂き飲みきれません。と言いたいんですが、すぐに飲んでしまうんですよね。意地汚い性分です。情けない。暑い日が続きます。ご夫婦お身体気をつけて無理しないでお稼ぎ下さいませ。
Apex product 代表 柳
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2016年

6月

22日

会社の宴会を、体育会のノリでさらっと流した男子【青空と向日葵の会】

ちの会社では、昔ながらの宴会が半期ごとに催される。

この間あった宴会での出来事。

くじ引きで当たった人は、
幹事が用意したパーティーグッズを身に付けなければならなかった。

今年入社したばかりのA君(25歳)に、メイド服が当たってしまった。

こればっかりは、男子社員の誰もが逃れたいグッズだ。

A君はルックスが良いわけではないが、オシャレには気を使うタイプだった。

なので、誰もが彼は嫌がって着ないだろうと思っていた。

ところが、「ちょ~~~どうしよう(T_T)サイズ合うかな(‘ω’)」
と言いながらトイレへ向かうA君。

数分後、トイレから戻って来たA君はネコ耳メイドになっていた。

A君は大学までラグビーをやっていて、ガッチリした体型。

サイズ的にもピチピチにはちきれそうになっていて似合うわけもなく、全員が大爆笑。

全員からの大爆笑を浴びたA君だったが、
その後、彼のことをすっかり見直したくなってきた。

人はからかわれ、照れたり困ったりしていたが
「スカートってすーすーするんですね」などと素で答えていた。

さらに言われるままに「お疲れ様です、御主人様~」
とビールをついで回り、どこでもすっかり大の人気者になった。

普段は控えめでおとなしく仕事をする人だったので、
誰もが目を回して驚いた。

実は、多くの場合、女物のグッズが当たったりすると、
女性の当たりものグッズと交換するのが、これまでの通例だった。

その場では、動物の着ぐるみが当たった女子がいたので、
彼女と交換することもできた。

帰り道、同僚が「A君、嫌なときは普通に断って良いんだからね」と言うと、
A君が答えて言った。

「僕があそこで断ってたら、皆が嫌な雰囲気になるじゃないですか。
 それに、僕が断ったものを他の人に回したら、
 その人だって気分良くないだろうし」

さすがはさわやかラガーマン、A君・・・いいやつだ。

昨年、同じようなアイドル服を、必死で拒否した自分が恥ずかしくなってしまった。

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2016年

6月

22日

O型あるある!!

O型あるある

・空気を読むのが得意です。状況判断的確です
・どうでもいい相手には本当にどうでもいい対応
・まじで怒ると沈黙&無視...
・たまにものすごく天然
・5人は嫌い
・変なことは結構覚えてる
・変なとこに異常なこだわりを持つ
・好きになったらとことん好き
・そのかわり熱しやすく冷めやすいところがあります
・面倒くさい浮気はしません
・喧嘩はしないというか面倒くさいから先に謝る
・ごめんの軽さ
・アッサリしてそうで実はヤキモチ焼き
・でも相手に知られないように平然を装う
・ヤキモチだと認めたくない
・それはプライドが許さない
・オンとオフが激しい
・興味があったものが急に有名になると一気に冷めてしまう
・自分でも気づいてないけどちょっと大げさ。ちょっと盛っちゃう
・でも無意識だから許してください
・悩み事は聞き役。自分の悩みは話さないのがデフォ
・今日怒っていたことも寝ると忘れる
・スケジュールは書くが見ない
・自分の意見は人次第で柔軟に変更
・気を使ってないように気を使うのが大得意
・一気にがんばりすぎて長続きしない
・のんびり結構、のほほんサイコー、今日も貫くマイペース。
・打算の結果のボケ発言。さりげに真実ささやきます。
・キレると面倒くさい感じになる時があります
・次に生まれてくる時も、迷わずOを選びます。

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当たり過ぎ(笑)‼️

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2016年

6月

22日

鳩山邦夫元総務相が死去 67歳

 総務相や法相などを歴任した自民党の鳩山邦夫衆院議員=福岡6区=が都内の病院で死去していたことが22日、分かった。67歳だった。祖父は鳩山一郎元首相、父は鳩山威一郎元外相。兄は鳩山由紀夫元首相。

 東京大学卒。田中角栄元首相の秘書などを経て、昭和51年の衆院選に旧東京8区から出馬し衆院議員に初当選。文相や労相などを歴任した。

 平成5年に自民党を離党し、その後、由紀夫氏らが結党した旧民主党に参加。平成11年には東京都知事選に出馬したが、落選した。12年に衆院議員に返り咲き、19年の第1次安倍晋三政権で法相、20年の麻生太郎政権で総務相を務めた。

 鳩山氏は22日午前、福岡県内で開かれた参院福岡選挙区の自民党候補の出陣式を欠席していた。

最終更新:6月22日(水)12時49分

産経新聞

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2016年

6月

22日

【言葉の力!斎藤茂太の名言】

【言葉の力!斎藤茂太の名言】
 
 
(1)自分を幸せにできる人は、人も幸せにできる
(2)他人に花をもたせよう。自分に花の香りが残る

 (3) いま何がないかより、いま何があるかで発想しよう

(4)「あのとき、ああしていれば」という思いに振り回されることほど、
 時間とエネルギーを無駄にし、自分を傷つけるものは
 ないと思いますよ
(5)言葉は薬にもなれば、凶器にもなる
(6)他人と自分を比べてしまうのは、しょうがない。
 ただ、あの人のほうが私より上だとか下だとか考えて、
 幸せを他人との比較で決めるのは、もうおやめなさい。
 あなたが幸せかどうかは、あなたの気持ち次第。
 「自分は幸せだ」と思える人だけが、幸せに人生を送れるんです
(7)人間は弱いようで、強い生き物なんです
(8)人間、どん底まで行けばしめたもの。後は上がるだけさ
(9)親が子にまず伝えるべきことは、知識よりも、世界中の誰より
 わが子を愛していることだ
(10)「できること」が増えるより、「楽しめること」が増えるのが、
 いい人生

 

- 斎藤茂太 -

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2016年

6月

22日

【 2t ロング平ボディ 】探してます!! Apex柳

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2016年

5月

28日

『凛として愛』全編ノーカット版 提供 音癒処かむおん

Takashi Izawaさん投稿
【凛として愛】日本人としての原点です。
 私たちは次世代に正しい日本の歴史・文化・伝統を引継ぐ責務があると思います。
 英霊となられた先人は、恥ずべき行為はしていません。
 この映画は平成14年、靖国神社・遊就館で上映する為に製作されましたが、政治的圧力により 二日間で上映禁止となりました。...
制作の経緯
 靖国神社創立百三十年記念事業の一環として本館改修と新館増築にともない遊就館で真実のドキュメンタリー映画を上映することになり、其の映画制作を依頼されたのが泉水隆一監督でした。
監督が渾身の力を込め二年の歳月をかけて出来上がったのが「凛として愛」でした。
映画完成前から他国からの批判を気にした保守陣営の圧力などがありました。
https://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg
総務省統計局URL参照
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2014np/index.htm
https://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg

誇り~ 伝えよう この日本のあゆみ ~

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2016年

5月

28日

やさしく生きて行こうね!! Apex product

やさしく
 
生きていこうね ...
 
 
 
あせらず
 
無理をせず
 
本当の幸せを
 
つかんでいこうね
 
 
 
信じあうことを
 
大切にしようね
 
 
 
夢をつくることを
 
大切にしようね
 
 
 
健康であることを
 
大切にしようね
 
 
 
いつまでも仲良く
 
人生を大切にしようね
 
 
 
「 須永博士 」
 

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2016年

5月

28日

オバマ大統領の広島スピーチ全文 「核保有国は、恐怖の論理から逃れるべきだ」

アメリカのオバマ大統領は5月27日、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した。

オバマ氏は現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問。原爆投下国として、広島と長崎を含む第二次世界大戦のすべての犠牲者らに哀悼の意を示すスピーチをした。その中で「核なき世界」を主導する責任についても言及した。

献花には安倍晋三首相が同席した。オバマ大統領のスピーチは以下のとおり。

■オバマ大統領「広島と長崎が教えてくれたのです」

71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。

彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。

広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。

多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。

広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れた芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といった衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のないお決まりのパターンを生んでしまったのです。

数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。

しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。

私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。

物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。

より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。

どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。

国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。

科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。

現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。

技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。

だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。

私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。

私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。

私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。

私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。

言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。

いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。

あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。

アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。

ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。

それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。

私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはことはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。

【追記 2016/5/28 9:40 訳文を修正しました】

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2016年

5月

24日

氷室京介、ライブ卒業も“還暦作”に意欲「時間をかけてアルバムを」

両耳の不調でライブ活動無期限休止を発表した氷室京介(55)が23日、30万人を動員した4大ドームツアー『KYOSUKE HIMURO LAST GIGS』の最終公演を東京ドームで開催した。鳴り止まない3度のアンコールに応えて全35曲を熱唱した氷室は、1988年4月5日のBOΦWY『LAST GIGS』と同じ場所で、35年に及ぶライブ活動に終止符を打った。

【写真】3度のアンコールに応えて全35曲を熱唱したヒムロック

 ステージ裏の死角席まで埋め尽くした5万5000人超の手拍子に迎えられて登場した氷室が「最後の夜だぜ! 騒ごうぜ!」とシャウトすると、ラストステージはBOΦWYの「DREAMIN’」で幕を開けた。

 2014年7月、ある一定の音域が聴こえづらいという両耳の難聴(トーンデフ)を告白し、ライブ活動の無期限休止を電撃発表してから1年10ヶ月。関係者によると、治療やケアは続けているものの劇的な回復は見られないといい、この日もしきりに左耳のイヤモニを押さえながらの熱唱が続いた。

 ライブ活動休止後は、米ロサンゼルスを拠点に楽曲制作を続けるとしか発表されておらず、ファンをやきもきさせていたが、14曲目で「PARACHUTE」を歌唱後、同曲の作詞を担当したGLAYのTAKURO(44)と、B’zの松本孝弘(55)の3人でツアー前にLAで焼肉を食べた際、TAKUROから真顔で「この後どうするんですか?」と聞かれたと切り出した。

 「真顔で聞かれると冗談で返したくなるタイプ」という氷室は「ゆっくりアルバムでも作って…まぁ俺の場合もともとゆっくりだから、これ以上ゆっくりだとほとんど引退に近いんだけど」とジョークを交えつつ、「60(歳)くらいになったらアルバムでも出すか」と話し、リリースのプランがあることを知ったファンは大歓声。

 「日本語のタイトルをアルバムで付けたことがないんで、『還暦』ってアルバムにして。1曲目は『60』(シックスティ)、2曲目は『年金』で」と笑わせると、「TAKUROくんから、お願いだから最後のライブで言わないでくださいってダメ出しされたことを話しちゃったけど、時間をかけてアルバムを作ろうかなと思います。これはマジで」と茶目っ気たっぷりに宣言し、場内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

 アンコールでは「東京ドームは大好きな場所。区切り区切りにやらせてもらってるけど、きょうのドームは最高だね。ライブハウスの熱さが伝わってきて、最後に一つで二度おいしい感動を味あわせてもらった」としみじみ。「たくさんの人にエネルギーを送ってもらえる人生を、35年間、本当に感謝しています。ありがとう」と晴れやかな顔で左手を掲げ、大声援に応えた。

 トリプルアンコールのラストはBOΦWYの「B・BLUE」。全身全霊で35曲を歌い切った氷室は「サンキュー、東京ドーム!」のメッセージと投げキッスと強烈な余韻を残し、81年のBOΦWY(当時、暴威)結成から35年間のライブ人生を締めくくった。

最終更新:5月24日(火)4時1分

オリコン

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2016年

5月

12日

朝鮮漫才!! 世界を笑かしたろか(笑)

あんた、朝鮮漫才 [ゆすり たかり] って。

ほんまうまいな。わろてもうた。(笑)よっ。漫才師!!

 

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2016年

5月

12日

前を見て前だけ見て歩いていきましょう!!

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2016年

4月

27日

震災で職を失いAV女優になった66歳の現実

女性の貧困が社会問題となっている。1990年代までは風俗やAV業界で働けば「高収入」が得られたが、2000年頃から人妻・熟女風俗嬢が急増し、数万円の生活費を稼ぐために普通の主婦がカラダを売っているのが現実だ。
東洋経済オンラインでは、風俗業界やアダルトビデオ業界で働く女性を取材し続けてきた中村淳彦氏のルポを「貧困女性の現場」として連載していく。そのスタートに先がけ、2月発刊の中村氏の著書『熟年売春』から、ある熟年女性が直面した貧困の実態をお伝えする。■ 4畳半の木造アパートで一人暮らし

 練馬区のある私鉄駅前。年齢66歳、元ピンサロ嬢、現在超熟AV女優の香川夕湖さんと待ち合わせた。近年、風俗嬢やAV女優に高齢女性は多い。視聴者の高齢化と若者の草食化、性の細分化で裸の世界で働く女性に実質年齢制限がなくなったためだ。風俗の世界では55歳を超える女性は「超熟女」と呼ばれている。

 「どうも、こんにちは。夕湖です」

 夕湖さんは年齢通りの老女だった。水商売の老齢ママといった雰囲気だ。何度も洗濯し、ゴムが伸びるシャツを着ている。駅から徒歩5分のアパートに一人暮らし、家族はいない。

 「このアパートは外国人と生活保護受給者ばかりですよ。1Kに4人家族で暮らす外国人もいますよ」夕湖さんは、そう言う。古びた玄関の扉を開けると、4畳半程度のおかしな形をした狭い部屋があった。部屋が四角くない。よく眺めると、建物が建つ土地が台形だった。一番手前の最も狭い101号室が自宅だった。少し傾いている。まるで、うさぎの小屋のようだと思った。

 平成25年厚生労働省は、65歳以上の女性一人暮らし世帯の貧困率は44.6%と半数近くに達したことを発表している。台形のおかしな形の老朽した部屋で暮らす夕湖さんは、明らかな貧困層だった。

 「家賃は4万8000円、狭いですよ。貧乏だけど、なんとか生活はできますよ。夜は電球を点けないでテレビを観るし。暑いときは窓を全開にしてエアコン切っているし。食生活も大丈夫です。お金が入れば、まず5キロ1500円の格安米を買います。5キロあれば1カ月半から2カ月はもつ。おかずはもやしとか安いじゃないですか、20円とか。もやしを買って肉とか魚はあまり食べないから、なんとかなりますよ」

 自宅でくつろいでいるからか、夕湖さんは饒舌だった。夕湖さんはTシャツ姿、左手首と左腕にリストカット痕があった。

 「ああ、これね。死のうとして切ったの。血がたくさん出るだけで全然死ねなかった。それでAV女優になったの」

 タングステンの電球が一つしかない部屋に、夕湖さんの低い声が不気味に響く。

■ 震災の煽りでホテルの仕事を失った

 昭和24年生まれ、団塊の世代。高齢女性が「死ねなかったのでAV女優になった」とは凄惨な話だが、その言葉を当たり前のように言う。

 「15年前に離婚して、50歳のときに一人で東京に来たんですよ。前は仙台に住んでいて、元旦那と3人の子供は仙台に置いてきた。東京に来てからはこの部屋に住んでいます。ずっと目黒のホテルでベッドメイクの仕事をしていたの。おかしくなったのは、東北の震災から。そのホテルは外人がメインのお客さんだったけど、突然旅行客がホテルに来なくなった。それでベッドメイクを解雇になった。

 私、その後に仕事を一生懸命探した。毎日、毎日探した。でも、どんなホテルに応募しても、何度ハローワークに行っても、福島の被災者が優先みたいなことを言われて断られてばかり。年齢的にも60歳過ぎて厳しくて、本当に仕事が全然見つからなかった」

 ベッドメイクの仕事は時給1000円だった。朝9時半~15時まで、月給は10万円ほど。家族から逃げて東京で暮らしてからは月給10万円、年収120万円程度の質素な生活をした。2011年に東日本大震災が起こり、突然の解雇。最低限の暮らしもできなくなった。

 「クビになったのは、震災から1カ月後くらい。2011年4月ですね。それからいくら探しても仕事は見つからなくて、クビになって半年くらいでお金が完全になくなった。仕事探すのにも面接に行くのにも電車賃がかかるじゃないですか。頑張って毎日、毎日仕事を探したけど、最終的には電車賃もなくなった」

 通帳の残高が底をつき、所持金は数枚の10円玉だけになった。部屋に閉じこもって、何日間か飲まず食わず、じっとしながら、これからどうやって生きればいいのか考えた。なにも浮かばなかった。飢えをともなう貧困である。高収入求人誌を必死に眺めると「AV女優、セクシーモデル」という募集広告があった。年齢は「18歳~70歳迄」と書いてある。

「10円玉があったから公衆電話から電話したんです。女の人が出て、私『62歳です。62歳です』って言って、すぐに面接に行った。お金がなかったからプロダクションのある新宿まで歩いて、女性のマネジャーさんに事情を話したら1万円を貸してくれました。あのときは本当に助かりました。それで採用してくれて、AV女優になった。裸になるのが恥ずかしいとか、そういうのはなにもなかったです。捨てるものとか、なにもないですし、元旦那とは絶縁状態だし。とにかく貯金がなくなって、焦って、お金が欲しかった。70歳までOKと書いてあって、仕事があったって。もしかしたらできるかも、お金になるかもと思って。あのときは、ただただよかった」

■ 62歳でAV女優デビューしたものの……

 2011年6月、超熟AV女優になった。夕湖さんはカメラの前でセックスをして数本のマニアックな超熟AVに出演する。

 「最初の数カ月間だけ、たまに仕事があった。男優さんと絡む仕事ですよ。AVに出演して5万円とかもらったことあるけど、ほとんどは3万円くらいです。最初だけ月収15万円くらいもらえて、普通に暮らせました。それでしばらくして、だんだんと撮影の仕事がなくなって、家賃も払えなくなって、もう一度ベッドメイクの仕事を探したけど、また断られてばかりで食べ物にも困るような状態になった」

 超熟AV女優は、数えるほどのメーカーしかリリースがない。覚悟を決めて裸になっても、すぐに消費される。ギャラも安く、出演料は1本3万円程度。ほとんどの超熟AV女優は多くても10本も出演すれば終わり、必然的に使い捨てとなる。

 2012年、AV出演の依頼は完全になくなった。ベッドメイクの仕事をしたくても、どこのホテルに電話しても年齢を言っただけで断られる。もやしを食べるばかりの最低限の暮らしも維持できなくなり、再び100円もなくなった。

 そもそも夕湖さんは、どうして家族を置いて仙台から逃げ、飢えをともなうレベルの貧窮に喘ぎながら、東京で一人暮らしをしなければならなかったのか。

 「離婚した旦那が最悪の人間だった。DVとかギャンブルとか。私は仙台では旦那の借金の返済に追われて、地獄だった」

 ずっと無表情でしゃべっていたが、元旦那の話になると顔をしかめてウンザリしたような顔になった。夕湖さんは22歳のとき、土建業経営者だった元旦那と結婚している。

「離婚したのは東京に逃げたときだから、15年前ですよ。もう、ずいぶん前ですね。酷過ぎる旦那だったけど、親の責任として下の子が20歳になるまで我慢しようと決めたんです。結婚生活は嫌なことしかなくて、旦那は外見もすごいデブで、なにもかも最低の人間だった。ギャンブルやめられなくて、人の財布からお金を盗っていく人だったから。お金盗られるし、暴力ふるわれるし。だから下の子が20歳になった15年前、息子の誕生日の次の日、仙台の家から黙って東京に出て来た」

 高校を卒業して、19歳からホステス。元旦那は土建系の会社経営者で客だった。しつこく口説かれて、結婚している。結婚するまでは気前のいい優しい男だったが、一緒に暮らすようになってすぐに暴力をふるうようになった。

■ ギャンブルに狂った経営者のDV夫

 「DVは凄まじくて毎日ですね。一度だけ子供の前でDVしたけど、そのとき子供に『お父さんの鬼』って言われて、それから子供がいるときは暴力ふるわなくなった。元々、そういう人間なんでしょうね。

 もう40年くらい前だけど、元旦那は結婚したとき土建系の有限会社をやっていた。経営者ですね。代表取締役で、使っている従業員の人たちがいて、新婚の頃は自分も現場仕事に出ていたけど、そのうちギャンブルとか賭場に出入りしだした。仕事に行かないどころか、家にも帰って来なくなった。従業員の人たちも、社長の賭博狂いに嫌気が差してみんな辞めちゃって。経営がおかしくなって、不渡り2度だして倒産させているんです。それから借金取りとか、自宅に毎日、毎日来る。借金取りが家に来ても、本人はいつも家にはいないから、私が脅されるわけ。借金取りの人に『見ていてあまりにもかわいそうだから、離婚した方がいい』って言われて。そうすれば楽になるって。子供はまだ小学生だし、離婚は無理だと思って、私が昼夜働いて借金返済した」

 借金取りに対して、なんの規制もない時代である。昼夜問わずに自宅にやってきて、恫喝と脅迫。ダンプやユンボ、自宅を売却しても全然返済額には達することはなく、数千万円の借金が残った。

 「玄関に“金返せ、ドロボー”とか貼り紙を貼られたり。すごかった。借金は、銀行は当然、いろんなところ。サラ金とか闇金にも手をだして。本人はお金を借りても返済するんじゃなくて、賭場に持っていく。本人は借金を返さない。私が働いてちょこちょこ返した。結局、何千万円ってあったから、働いて返せる金額じゃなかったけど」

借金を背負わされた夕湖さんは、昼は飲食店でパート。夜はホステスを辞めて、時給のいいピンサロで働いた。

 「借金抱えたのは長女が小学生のときだから、30代。その頃はけっこうお客を呼んで、月50万円か60万円はもらっていた。旦那は倒産した後、タクシーに乗った。タクシーで勤務しても、車をどこかに隠してパチンコに行く。だから給料はほとんど入れてもらえなかった。人間の屑ですよ。飲食店と風俗しながら、子育てはなんとかやりましたよ」

 働き詰めの生活が祟って45歳でカラダを壊し、風俗嬢を引退している。それから仕事は、ずっとホテルのベッドメイキングである。

 「元旦那は去年死んだ。汚い生き方をしてきた人だから、死んだときに兄弟、親戚、友達、誰一人も葬式に来なかったって。子供3人だけで通夜と葬式をしたって。最低。旦那のお姉さんは生きているけど、『死んで清々した』って。それくらい酷い男。息子には言いましたよ。『あんた、この惨めな葬式を覚えておけ』って。『あんたは間違っても、そういう生き方はしないでね』って」

 そして50歳。下の息子が20歳の誕生日の翌日、夕湖さんは単身で東京に逃げた。3人の子供は仙台で独立し、現在はそれぞれの生活を送っている。

■ 空腹で死のうと思って手首を切った

 話を戻そう。夕湖さんは「70歳まで可」というAVプロダクションの求人に飛びつき、超熟AV女優になった。AV女優として細々と活動できたのは半年程度。使い捨てられた。そして再び貧窮状態に陥る。

 「あれは2年半くらい前かな。100円もなくなっちゃって、何日間かは飲まず食わず、お米もなくなって、この部屋に閉じ籠って動かないで我慢した。動かなくてもお腹が空くわけで、1週間くらいでどうにもならなくなって、死のうかなって頭に浮かんだ。本当に死のうと思って、包丁で手首を切ったんですよ。切ったのは、あそこの玄関のあたりですね。けど、血がだらだらでるだけで、全然死ななくて。紐でくくって部屋で首を吊ろうと思った。紐みたいなのを見つけて首輪を作ったけど、ここで自殺しちゃうと大家さんとかに迷惑かかるなって。それで首つりは諦めて、包丁を持ってそこの公園に行ったんです。誰もいなかったし、大丈夫かなって、カラダを刺して死のうとしたけど、どうしても包丁を自分のカラダに刺す勇気がなかった」

 部屋は天井が高く、ロフトがある。部屋の灯りは電球が一個で薄暗い。夕湖さんがこの部屋で首を吊り、ロフトからぶら下がる姿は容易に想像ができた。寒気がした。

 時計を眺めると20時、外は暗かった。自殺の話をする夕湖さんがタングステンの灯に浮かびあがり、気持ち悪さを超えて怖くなった。私は話を遮って外に出ようとしたが、夕湖さんは無表情で語りながら近づいてくる。

「60歳過ぎてから、友達もどんどん自殺しているの。みんな死んじゃったから、私も死のうかなって。死ぬのがこわいってわけじゃなくて、自分を包丁で刺すのができなかっただけ。だって仕事もお金もなくて、ずっと空腹でしょ。そんなんで生きていてもしょうがないし、生きていく術もないし」

 夕湖さんは台の下にあるビニール袋から手帳を取りだした。自筆の文字が綴られている手帳をペラペラとめくり、「これ友達、みんな死んじゃった」とあるページを見せてくれた。

 友人らの名前とともに「電車に飛び込み」「投身自殺」「飛び降り」など、薄暗い電球の灯りからゾッとする文字が浮かぶ。地元の同級生や、東京でできた友人たちが60歳を超えて、続々と自殺しているようだった。あまりにも多すぎる。

■ 逮捕、留置場、そして福祉

 「みんな60歳過ぎて、生きていけないから自殺しちゃった。苦しんでいるのは、私だけじゃないの。でも、私はみんなみたいに死ねなくて、ダメだと思った。どこまでもダメな人間だって。死ぬには首を切るのが一番でしょ。何度も何度も首を切ろうとしたけど、どうしてもダメで、包丁を持ったまま駅前の交番に行った。交番でおまわりさんに死ねなかった事情を話して、包丁を出したんです。そしたら刃渡りを測って、銃刀法違反で現行犯逮捕って。その場で手錠されて、逮捕された。なんか大騒ぎになって、パトカーで警察署の留置場に連れて行かれた」

 腰縄をつけられて、10日間拘留。毎日、刑事と検事の取り調べがあった。何度も訊かれる「どうして?」という質問に、飲まず食わずで自殺しようとした、とそのまま同じことを話している。

 「検事さんに『あなた来るところ間違っているよ』って言われました。警察じゃなくて、福祉でしょうって。検事さんは『事情が事情だから』って不起訴にしてくれた。書いてくれた保護カードを持って『福祉事務所に行きなさい』って。釈放されて、そのまま福祉事務所に行きました。保護カードを見せたらケースワーカーの人が事情を聞いてくれた。それで、すぐにお金が出ました。生活保護です。本当に助かりました。そのとき精神的にもおかしくなっていて、福祉事務所は精神病院も紹介してくれた。留置場では、全然眠れなかったし。精神病院には今も通院して、睡眠薬と安定剤をもらっています。それから、ずっと生活保護ですよ」

 時給1000円のパートを解雇になって超熟AV女優、自殺未遂、留置所と遠まわりをして、ようやく福祉にたどり着いている。

 日本の高齢者の貧困は餓死をともなうレベルになっている。夕湖さんのケースは氷山の一角で、現在は裸になってセックスを売っても、一時期が救われるモラトリアムに過ぎない。裸の世界は最後のセーフティネットとして機能せず、カラダを売っても最低限の生活すらできない現実がある。そして、追い詰められる人々の多くは生活保護制度を知らなかったりする。

 「今は生きてはいける。けど、一人が寂しくてツライ。私は死ねないから、このまま死ぬのを待っているだけ」

 最後、夕湖さんは溜息まじりに、そうつぶやいた。

中村 淳彦

最終更新:4月27日(水)6時5分

東洋経済オンライン

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2016年

4月

26日

熊本地震に中国人の反応がかつてなく同情的な理由

中島 恵 [フリージャーナリスト]
2016年4月26日

熊本地震が発生し、中国のSNSでは被災地の熊本を思いやる投稿や、スマートフォンやSNSを介した義援金の「中国式送金」が増えている。その一方で、中国は4月30日から3日間の労働節休暇となる。日本よりも連休が少ない中国では、この時期に海外旅行に出かけるという人も多く、インバウンドの面からは打撃が大きいが、どうなのだろうか。その実情に迫った。(ジャーナリスト・中島 恵)

筆者も驚く中国人のSNSでの反応
スマホを用いた義援金の中国式送信

中国・上海の日本領事館には被災地の熊本を応援するメッセージが次々と届けられている

 「熊本地震が発生してすぐ、中国に住む姉が『被災地の支援に使ってほしい』といって中国のSNSである微信(中国版LINE、wechat、ウェイシンともいう)を介して私に送金してきたんです。なるほど……こういう支援の仕方もあるのか! とハッとして、その後、私の微信にも、『もし同じように支援したい方がいたらどうぞ』と書き込んだところ、次から次へと中国に住む友人が私の微信に振り込みをしてきてくれたんです。びっくりしたと同時に、とても感動しました」

 静岡県に住む40代の中国人女性は電話口でこう話す。金額は1人あたり100元(約1800円)、200元(約3600円)と高額ではないが、先週末までに3000元(約6万円)以上が集まった。その女性は中国の友人たちの行動に「胸が一杯になりました」といって声を詰まらせる。

 女性は来日して16年になるというが、SNSに中国語と日本語で振り込みの証拠画面のキャプチャとともに「中国人が日本のことを嫌いだなんて、誰がそんなことを言えるのでしょうか?」と自らの思いも書き込んでいた。

 私は偶然この投稿を見かけ、すぐに彼女に連絡を取ってみたのだが、中国人が義援金を送ってくれているというだけでなく、微信での振り込みという方法に驚き「今の中国を象徴するやり方だな」と感心した。

 というのも、昨今の中国では、日常的にスマホやSNSを介しての送金が主流になってきているからだ。中国で大流行している微信には国内外に7億人以上のユーザーがいるといわれているが、フェイスブックなどと異なり電子決済サービス(微信支付)があり、銀行引き落としができるのが大きな特徴だ。

 もう一つの代表的な電子決済サービス(支付宝、アリペイ)と並び、公共料金、レストランでの食事代やタクシーでの支払い、ネットショッピングの支払いなどを、SNSを介して行う人が増えてきており、最近では現金を持たない人すら多い。先日上海で再会した友人は、ここ2年間で銀行に行ったのはわずか1回だけだと話していた。

 だから、熊本への義援金もこうした「中国式の送金」を思いついたのだろう。手軽でスピーディーなやり方だ。

(ちなみに、蛇足だが、送金画面[=写真]を見ると、微信紅包と書いてあるのがわかるだろう。誤解を招かないために説明すると、紅包とは本来、お年玉やご祝儀など、おめでたいときなどに送るお金のことを指す。だが、もちろんここではそういう意味ではない。微信を使って送金する場合にはこうするしかなく「手っとり早いのでこの手法を用いただけなんです」と女性はつけ加えてくれた。あえて説明することによって、逆に深読みや誤解をされる恐れもあるかもしれないと考えたが、やはりここで補足説明しておく)

中国の日本大使館や領事館には
「支援したい」という問い合わせが殺到

 話を元に戻そう。お金は静岡に住む女性の中国の口座に振り込まれているが、女性は「日本で私がとりまとめて、責任を持って熊本まで持っていきたい」と話す。どこかの団体を経由するのでは時間がかかるし、確かに被災地に届いたという確証が持ちにくい。熊本に住む中国人の友人と連絡を取り合って、現地の人々に役立てるにはどうしたらよいのかを考えているところだという。

 「たとえば、小学校などに寄付するのもいいですね」(女性)。写真なども撮ってSNSで現地レポートすれば、中国に住む友人たちも安心するし、喜ぶのではという。

 熊本には日本国内だけでなく、世界各国からのボランティアも応援に駆けつけているが、在日中国人や華僑の団体、中国人留学生なども同様だ。

 「中国に住む友人たちも皆、その動きを見守っています。日本に住んだことがある人や留学経験者だけでなく、一度も日本に行ったことがない故郷の友だちも大勢支援しているんですよ」と女性は繰り返す。

 私自身も今回、そうした中国人の行動や思いをSNS上でたくさん見つけた。仕事で頻繁に上海と東京を往復している20代の女性は、先週末、在上海日本領事館を訪れたところ、熊本を応援する色紙を何枚も見つけたといい、それを発信していた。

 「加油(がんばれ)、熊本」と書かれた色紙の数々だ(1ページ目の写真)。また、上海で新聞記者をしている男性は、友人が同領事館に4000元(約7万円)寄付したことを知らせるメッセージに、「ありがとう! 領事館に代わって、お礼を申し上げます」と書き添えて、くまモンとハートマークの写真を微信に投稿していた。

 中国の日本大使館や領事館には「支援したい」という問い合わせが殺到していることから、地震発生後に義援金を受けつける口座を開設した。上海で日本と関係のある企業を経営している女性も、「義援金を送りたいという問い合わせは私たちの会社にも多く寄せられていますが、責任重大なことなので、すべて領事館に送ってほしい、と伝えています」と話していた。

 少しでも熊本を応援したい――。

 こうした素直な思いは予想以上に中国各地に広がっているようだ。南京事件の遺品などを展示している南京大虐殺記念館では、今回の地震について「熊本県日中友好協会の関係者が20年以上、毎年欠かさず同記念館を訪れ、犠牲者を追悼してくれている。熊本の皆さんのことを心配している」というコメントをわざわざ発表した。この異例ともいえるコメントをネットなどで読んだという人は多いだろう。

ぜ中国人は心配するのか
くまモン人気も大きな要因

 なぜ中国人がこれほどまでに日本の地震を心配するのか、と不思議に思ったり、訝ったりする日本人も中にはいるかもしれない。

 どこの国の人であれ、被災者に心を痛めるのは人として当たり前のことだが、こと中国人……となると少し違った複雑な感情を持つ場合もある。日本のメディアの報道から「中国人は反日的だ」との刷り込みが少なくないからだ。

 中国でも支援の輪が広がっている理由はいくつか考えられる。

 一つ目は日中関係の改善だろう。12年には中国各地で大規模な反日デモが繰り広げられ、日中関係は「過去最悪」といわれた時期もあったが、翌年には訪日客は回復し、デモの影響は薄れていった。中国から日本への「爆買い」客が急増し、自分の目で日本を見て歩く機会が増えたのだ。

 「中国で報道されていた日本とはまったく違う。日本人は親切で、こんなにも礼儀正しい国民だったのか。日本に来てみて印象が180度変わった」と感じて、日本ファンになった人も多い。経済的に豊かになり、生活にゆとりが出たことによって、他人を思いやり、優しくなった中国人が増えたことも一因かもしれない。爆買い効果はこんなところにも、よい効果をもたらしているといえる。

 2つ目は中国でも08年に四川大地震があり、日本からの支援があったことを報道で知っている中国人が多いからだ。

 日本からは国際緊急援助隊の医療チームが現地で被災者の救出やがれきの撤去などに当たったが、特に、救助隊員たちが遺体に頭を下げて合掌したり、遺体を丁寧に扱う姿が中国人の目には新鮮に映ったという。その姿は中国全土に放送された。

 冒頭で紹介した中国人女性は、今回の熊本地震の状況を紹介する際、四川大地震の時に日本の子どもが街頭で募金箱にお金を入れている写真をSNSに投稿していたが、それを見た友人から「今回は私たちが日本人に恩返しする番だ」と話していたという。

 3つ目は中国での「くまモン」人気が、ことのほか高いことだ。

 中国でも日本のキャラクターは「かわいい」と人気があるが、中でも「くまモン」の人気は非常に高い。今回も「あのくまモンの出身地が大地震に見舞われた!大変だ」「くまモン、大丈夫?」などと身近に感じていた人が多い。

4月30日から中国は3連休
日本の観光には打撃!?

 熊本県上海事務所にも1日に何十軒もの「義援金を送りたい」という電話がかかってきているというから驚きだ。中国のSNS上では、中国を代表する動物、パンダがくまモンに手を差し伸べている写真が大量に出回り、応援の気持ちを表現している。

 これらの理由もあって、遠い日本の震災に心を痛めている中国人がけっこう多いのだ。だが、爆買いなどの面でいえば、今回の地震で訪日を躊躇する中国人も多いのではないだろうか?

 奇しくも中国は4月30日から3日間の労働節休暇となる。日本よりも連休が少ない中国では、この時期に海外旅行に出かけるという人も多い。インバウンドを推進する日本としては打撃が大きいが、どうなのだろうか。

 九州の玄関口・福岡にある旅行会社、日本旅行によると「団体ツアーはほぼキャンセルとなりました」という。中国からの九州ツアーは、福岡を起点に、阿蘇や熊本城、長崎などを周遊するコースが多く、危険が伴うからだ。

 だが、半年以上前に予約を申し込む大型クルーズ船の場合は「通常通り、入港している」(福岡市港湾局)とのことで、熊本や大分まで足を伸ばさないコースの場合は、問題なく運行されているようだ。クルーズ船の場合は宿泊を伴わず、数時間だけの滞在であることも、影響を小さくしているだろう。

 個人旅行に関しては把握することが難しいが、上海の友人の友人は、九州旅行を計画していたけれど「赤ちゃん連れなので、仕方なく断念した」と話していた。私の知り合いで、たまたまこの時期に九州旅行を計画している人はいなかったが、東京や大阪などへの個人旅行をするという人は何人かいて、話を聞いてみると「予定を変更することはない。むしろ、日本に旅行に行って、こんなときだからこそ日本を応援したい」と話していた。

 中国のSNSでは日本情報が急激に増えているが、その付随として日本の地理や地方の情報も充実していることから、自分たちで旅行すべきかどうかを判断できるようになった、という要素も大きい。

 むろん、すべての中国人が熊本を支援しているという極論を書くつもりはない。

中には地震発生を喜ぶ投稿も
どんなときでも不満を書き込む人はいる

 中には中国版2ちゃんねるのような場で、地震発生を喜んでいる書き込みもあったことは確かだ。だが、上海の友人は「大多数の中国人が今回の地震に胸を痛めている。とくに上海などの場合、日本に友人や親戚が多く住んでいて、他人事ではないという思いも強いですから。ネット上の悪口は日頃の不満のはけ口であって、日本とはまったく関係がない。いつも、どんなときでも、不満を書き込む人はいるものです」と話してくれた。

 震災は非常に残念な出来事だが、思いがけず、人の温かさや本心に触れることができる機会でもある。冒頭の女性の元には、今も、中国の友人たちからの送金が続いているという。日頃何気なく見ているSNSだが、こんなにいい効能もあるのか、と私自身の心も温まった。

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2016年

4月

21日

「ジャパネット」高田・前社長がTVに「復活」 ネット大喜びの「被災地支援策」との関係

通信販売大手の「ジャパネットたかた」の創業者で前社長の高田明氏(67)が、テレビ東京系で2016年4月21日に生放送された通販番組に「特別出演」。この放送で同社が取り扱う商品の売上を全額寄付する「熊本地震 被災地支援プロジェクト」を立ち上げると発表した。

 16年1月15日の放送を最後に、テレビショッピングへの生出演を「引退」していた高田氏。約100日ぶりの出演となった今回の放送では、「いつもお世話になっている視聴者の方に、今日はお願いがございます」として、被災地支援への協力を呼びかけた。

■番組の売上を全額被災地への義援金とする

 「今日の番組を、特別なものにしたい」――。番組冒頭で地震の被災者へお見舞いの言葉を述べた後、高田氏はこう力強く宣言した。いつもの明るくハイテンションなノリは鳴りを潜め、神妙な面持ちで、番組の売上を全額被災地への義援金とするという「熊本地震 被災地支援プロジェクト」を立ち上げることを明らかにした。

  「買って頂いた皆様の思いは被災地に届くと思います。どうか、ご協力の方心からお願いいたします」

と視聴者へ呼びかけた。

 番組で紹介されたのは、充電式電池や携帯ラジオなど「災害時の備えになる」4商品。商品選定の理由については、

  「何がいつ起こるか分からないため、視聴者の皆様にも(こうした商品を)備えて頂ければという思いで用意いたしました」

と説明した。また、通販番組へのスタジオ出演を「引退」するとしていた高田氏が今回出演したのは、社員から「(支援プロジェクトのために)何とか今日だけ出てくれないか」との要請を受けたためだと明かした。

 こうした同社の取り組みや高田氏の姿に、ツイッターやネット掲示板などでは、

  「熊本、大分の人達に誠意は伝わります。ありがとうございます」
  「ジャパネットの高田前社長がまた凄いことしてる。この人ほんとすごい」
  「ジャパネットたかた凄い 売上全額寄付、利益とかじゃなくて全額 商品タダで売ってるようなもんだよ」

と称賛する声が続々と上がっている。番組を通じての購入だけでなく、同社公式サイトの通販ページでも支援は可能だという。受付期間は16年4月21日24時(22日0時)まで。

 同社は11年の東日本大震災でも同様の企画を実施しており、その際の売上額約7000万円を寄付。くわえて同社から5億円を追加寄付した。

最終更新:4月21日(木)14時41分

J-CASTニュース

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2016年

4月

16日

リングアナ華純 かすみ

今日ゎ千葉みなとで港開きイベントに参加♪( ´θ`)ノ

プロレス観戦無料でーす☆

13時開始〜♪( ´θ`)ノ

...

本日もリングアナ兼音響でがんばりまーす☆

http://www.k-dojo.co.jp/schedule/20160416minato/

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2016年

4月

13日

久しぶりの野球観戦 4/24日 楽しみ楽しみ(^o^)

野球観戦チケットありがとうございます。久しぶりにデーゲームで、生ビール飲みます。たまりませんね。日曜日だからお許し下さい。タオルふって巨人を応援致します。楽しみ楽しみ(^o^)
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2016年

4月

13日

車のキーが届きました(^。^)

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