Apex product 【 昭和の楽しい時代 63 】

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若山富三郎の極道シリーズ。
役とは言え悪い顔しとるな~www
ここまで悪相面だと清々しい
憎たらしいけど、ええ面構え
釜ヶ崎は、俺の故郷ですわ。
皆んな生きててや。柳より。
「前略おふくろ様、御無沙汰していましたが、俺、生きてます。是非にと所望されてここへ来て一年。俺はこの店に、今度こそ骨をうずめる覚悟です。」
片倉三郎(通称サブ)は、18歳の時に故郷の山形県蔵王市から上京、今は深川木場に近い料亭「分田上」で働いてる。三郎は自分の身の回りで起った出来事や思った事を、母親への手紙に綴る。
1975年 「前略おふくろ様」
とにかくショーケンが好きなのだ。好きで好きでしょうがない。このドラマは私をショーケンの虜にしたドラマの一つである。
このドラマのショーケン演じる片倉三郎を取り巻く面々も多彩であり、梅宮辰夫が演じる、ソリコミが渋すぎる板長「秀さん」、室田日出男が演じる、周りからは「鬼の半妻」と恐れられているが、実はマザコンの「半妻さん」、拓ボンが演じる、異常に酒癖が悪く、酔うと誰彼構わず「ヨッ!」と喧嘩を吹っかけては負ける「利夫」、そして、桃井かおりが演じる、サブちゃんのハトコで、生粋のトラブルメーカー「恐怖の海ちゃん」こと「岡野海」。
このような濃いすぎる人たちと繰り広げられるサブちゃんの受難の日々を、天才脚本家倉本聰が時に愉快に、時に切なく描き出す。
坂口良子が演じる「かすみちゃん」との煮えきらない恋の行方、丘みつ子が演じる「分田上」の若女将「みつ子」の旦那(桜井センリ)の愛人問題と秀さんへの想い、利夫の海ちゃんに対する完全一方通行の片思い、物語後半に浮上する「分田上」の移転問題、そして物語全編で問題となっているサブちゃんの母親の認知症、等、様々な人間模様を見せてくれる。
「前略おふくろ様」を観て、板前さんを目指した人もいると思うし、あるいは私のように「あいやぁ、そりゃないっすよ〜」とサブちゃんの口癖を真似た人もいると思う。
サブちゃんの青春を情緒たっぷりに描くドラマ「前略おふくろ様」
あいやぁ、そりゃ必見っすよ〜!
「八甲田山(1977年日本)」
2024年1月24日。この日東京は冷たい風が吹きましたがこんな時に限って仕事で使う車に鳥はフンを落とし、冷えた体で洗車をするハメに。
昼、社食のテレビでは悪天候の被災地能登・金沢の映像が流れ、日本海側を中心に雪の注意が必要と伝えていました。
今から122年前の1902年(明治35年)1月24日。青森県青森市にある八甲田山で対ロシア戦を想定した雪中行軍で遭難。199人が死亡する事件が起きた。その75年後の1977年に「八甲田山」が公開された。
事件当日は氷点下41℃を記録したそうです。方位磁針は凍ってしまい役には立たず、汗が凍り発狂して裸になる兵士のシーンが印象的でした。全ての行いが裏目に出てしまい、いかに自然に対して人間が無力なのかが思い知らされます。
この映画、公開されたのは6月18日なんですよね。以前の職場の上司が公開日に銀座の映画館に見に行った話を聞いた事があります。作品は素晴らしかったのですが、初夏で映画館の冷房の効きが悪かったのが引っかかったと話していました。
自分は冬の時期にこの作品を見たのでリアリティがありました。もちろん暖房の効いた実家のリビングで見ていたのですが、見渡す限りの銀世界のもたらす閉塞感。全てが凍りつくような真っ白な画に恐怖を感じました。ラストの現代(1970年代)の春の陽気な八甲田山の映像に"暖"を感じつつも景色が一変して冬の厳しい吹雪の八甲田山に変わり、芥川也寸志先生のテーマ曲が流れるエンディング。なんとも言えない気分になりました。
2024年の1月24日(投稿日)は定時であがり、あまりの寒さに耐えきれずに夕食は中華料理店で暖かいラーメンを食べて帰り、風呂を沸かして入りました。この日の東京の最低気温は1℃。八甲田山のある青森市は天気予報では0℃で雪の予報でした。氷点下45℃なんて想像もできない世界。
ちなみに雪中行軍をした兵士達は予定では八甲田山を踏破した後、田代温泉で温泉に浸かる予定だったそうです。それを考えるとさらに切ない。
1月25日は漫画家 #松本零士 先生ご生誕日です。
「生年月日を同じくする 故・石ノ森章太郎先生とは、若い頃から強い絆で結ばれていた」と、関係者からおききしました。様々な作品群をありがとうございました。

名古屋の東海ラジオのDJだった❤あべ静江・さん❤三重県出身。

長年、悪の女王・魔女役を数多く演じ、“この役柄で右に出る者はいない特撮俳優界の女王”として活躍されてらっしゃいました。
2006年5月7日、自宅のあるマンションで亡くなっているところを、訪れた知人によって発見されました。死因は膵臓癌。68歳没。
皆さんが一番印象に残っている役柄は何ですか?

人造人間キカイダー、サイドマシン?

元キャンディーズの⭐スーちゃん⭐都内の実家🎣田中屋釣り具店🎣の店先の掃き掃除、もう少し真面目に掃こうか。

ホットパンツでお出迎え…
スーツが定番のデパートガールが
斬新な制服… 1971年
スロットレーシングカーブーム
最盛期各地に専用サーキットも作られました。
年収2億円のカリスマ予備校講師
正に「太く短く生きる」人生も晩年は悲惨でした。
ハリスフーセンガム
コリスフーセンガム
販売ルートが違ったんですね。
昭和の危険な遊び。
2B弾と癇癪玉
一杯10円のオレンジジュース 
お味の方は?
懐かしい百貨店の新聞広告です。
当時百貨店は庶民の憧れのお店でした。
特に子供にとってはおもちゃ売り場や屋上の遊具、大食堂で美味しい昼食と正に天国でした。
絶滅したかもな昭和の遊び…
長馬跳…
頑張れ潰れたらもう一度…
梶原一騎
漫画原作者として数多く作品を残しました。
火吹竹
薪でお風呂を炊く時これは欠かせませんでした。
昭和の子どもにはこれは定番でしたね。
この女の子上原ゆかりさんは
今は不動産会社の社長さんだそうです。
昭和35年の広島市内、紙屋町から銀山町を望んだ風景。15年前に原爆で壊滅された被災地とは思え無い復興ぶりです。
発売されたばかりのマツダR360が真ん中を堂々と走っています。
左端にはマツダK360(通称ケサブロー)の軽三輪トラック、後ろにはマツダT1500三輪トラックも見えています。
さすが地元広島の自動車企業ですね。
右側の日野ルノーも懐かしいです。
岡崎友紀さん
当時の人気凄かったです。
「角のタバコ屋」
この景色に出会いまず浮かんだのが近所にあったタバコ屋へのおつかい。角にある店頭で「ごめんください」と大声の私。奥からおもむろにおばあちゃんかおじいちゃんが店頭へ。 「『しんせい』2つください」。昭和30年代、小学生だった私はよく父のタバコのおつかいへと行かされた。お駄賃は10円。父
の注文は決まって『しんせい』、気が向くと『缶入り』ピースと変わることもあった。まだタバコは両切りが主流、フィルター付きは僅かな時代だった。愛煙家の父の人差し指と中指はヤニで黄色く染まり、いつもタバコ臭かった。今、父は天国で、こんな嫌煙社
会なるとは!と嘆いているだろう。
☆2023.12月20日 PM2:00頃撮影
江戸東京たてもの園(小金井市)で。
ターザンは彼が1番かな…
ジョニー・ワイズミュラー

老朽化などに勝てず解体された中銀カプセルタワービル。

一部屋のアパートにはこれは便利でしたね。

画像は最近ですが、1980年頃迄有った職種⭐エレベータ・ーガール⭐綺麗なお姉さんのエレベーター前に、混んでいても並びました😺

ボンネットバス

遊星王子 
月光仮面を手がけた宣弘社のテレビヒーロー物の第2弾。
宇宙からやって来て、地球での活躍を描いた作品。
美味しいものがたくさんありました。
デパートの大食堂
外タレブーム
ビートルズ日本公演以降「外タレ」外国人タレントの来日や公演が盛んになっていきました。

渡鬼🍜幸楽🍜の主人役、角野卓造さん。

「いこかもどろか」
これ観に行った人いますか?(笑)内容は覚えてないが、私は行きました!
脚本は「男女7人シリーズ」を手掛けた鎌田敏夫、監督も同シリーズの
演出を担当した生野慈朗だそうです。
男女って、共演すると恋に落ちるんですかね?長渕さん、志穂美さんもしかり。

元COOLSメンバーだった、クレイジーケンバンドの横山剣さん。

めでたやな~めでたやな~
晴れの棟上げめでたやな…
みんなにお裾分け…めでたやな…
今は3日で立ち上がる…
1974年、週刊少年サンデーで
連載されていた漫画『男組』を
実写版!
東映映画🎦星正人主演で男組が
公開されました。

かしまし娘のメンバーの正司歌江さんが逝去されましたね。かしまし娘としても、正司歌江さん1人だけでも色んな映画出演されてたみたいでもし、レンタルDVD見つければ鑑賞しようと思います。

「さわやか律子さん」
70年代に女子のプロボウリングが
大人気でした。
TV中継での中山律子さんの、
パーフェクト達成はインパクトが
ありましたね。
フォームも顔も綺麗で印象に残ってます。CMの歌も流行語となりました
須田開代子さん、石井利枝さんと
共に花のトリオ(女子プロ三羽烏)
と呼ばれて活躍しました。
早川雄三さん
(1925年1月25日-2010年8月28日)
俳優。
兵庫県神戸市出身。
兵庫県立神戸高等商業学校、
日本電波通信電信専門学校卒業。
1949年第4期ニューフェイスとして大映入りし
同年の映画『母燈台』で早川雄二の芸名で俳優デビュー。
後に早川雄三と改名し、多くの大映映画に出演。
1971年の大映倒産後は
主にテレビドラマに活動の場を移し、
刑事ドラマ『特別機動捜査隊』でベテラン松木部長刑事役(高倉班、三船班)として活躍した一方、
時代劇や現代劇などの悪役として活躍。
2010年8月28日、
肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去。
85歳没。

これが赤塚不二夫だ!

昭和40年、日本に一大エレキブームを引き起こしたベンチャーズが来日、カッコ良かった!俺にも弾けそうかな?とエレキ少年が日本全国に発生しました、私も、その一人でした、エレキは不良だと言う時代でしたね。私は73才ですが未だに続いてます(笑)

西村晃さん
(1923年1月25日-1997年4月15日)
俳優、声優。
身長157cm。
北海道札幌市出身。
日本初でありかつ東洋初でもあるロボットとされる「學天則」を製作した北海道帝国大学教授・西村真琴の次男。
戦前の学生時代より、
新し物好きの父より与えられたローラースケートを始め、
日本のローラースケーターのパイオニアの一人として藤山一郎らと並ぶ知名度を既に得ていました。
父が北海道帝国大学教授を退官し大阪毎日新聞に論説委員として入社したため、大阪府豊中市へ転居。
1940年日本大学専門部芸術科に入学。
大学在学中より舞台で活動していましたが、
1943年の学徒動員で兵役にとられ、
太平洋戦争中は第十四期海軍飛行予備学生、
末期には徳島海軍航空隊の特攻隊員でした。
出撃機不良で基地に引き返し、
その後終戦を迎えています。
この特攻隊員時代からの友人に、
裏千家15代家元の千玄室。
海軍飛行予備学生だったある時、
上官から特攻志願者を募る旨を通達されると、
千に「自分は行きたくない」ともらしましたが、
徳島海軍航空隊に配属。
この時の戦友は千と2人しか生き残っていません。
最終階級は、海軍中尉。
太平洋戦争後、
復員してからは本格的に演劇活動を再開。
1946年に東京芸術劇場の第一期生。
翌1947年に退団して東京青年劇場を結成。
1951年、新協劇団の準劇団員となり、
1954年には
岡田英次、木村功らと劇団青俳を立ち上げました。
新劇俳優として活動する中、
1951年に佐分利信監督作『風雪二十年』で映画デビューしてからは、
映画やテレビドラマでも活躍。
1954年から製作再開した日活と本数契約を結び、
日活プログラムピクチャーでは悪役や敵役が多数。
映画では『赤い殺意』での演技が認められ、
数々の賞を受賞。
また、
アニメや洋画の吹き替え等声優としても活躍。
1982年12月16日より『水戸黄門』で東野英治郎の後任として2代目水戸光圀役に就き初主役に。
1983年5月10日の収録から東野同様に悪役で売ってきた西村は、
どこかとぼけた喜劇的要素を活かし、
それまでの代名詞だった月形龍之介や東野に比して
若々しいイメージから「シティボーイ黄門」と呼ばれ、
上品な振る舞いや風格で親しまれ、
お茶の間の人気者に。
1992年の第21部放送直後、
長年連れ添った則子夫人が亡くなったショックで光圀役を降板、
同年9月25日収録の最後の立ち回りのシーンでは涙目になっていました(光圀役として足掛け9年間、出演回数は283回)。
後任は佐野浅夫。
1995年11月に食道癌の手術を受け、この時は元気に退院。
1997年3月にスペシャルドラマ『黄落』の収録の時も元気でしたが、
同年4月14日夜に自宅で急性心不全を起こし、
翌日4月15日午前6時半に死去。
74歳没。
三木のり平さん
(1924年4月11日-1999年1月25日)
俳優・演出家・コメディアン。
日本喜劇人協会第5代会長。
長男は、コメディアンの小林のり一。
東京市日本橋区浜町生まれ。
1942年、旧制日本大学第一中学校を卒業。
日本大学法文学部芸術学科に入学。
大学には当初画家を目指して入学しましたが、
その後舞台美術に興味を持ったことで演劇学科に転籍、
1947年に同学科を卒業。
その後慰問公演の俳優に欠員が出てその穴埋めとして出演を頼まれたのを機に、
新劇の世界に入ることに。
青山杉作研究所、俳優座を経て、
帝劇で『真夏の夜の夢』に端役で出演していましたが、
手に持った蝋燭の火が自らの衣装に燃え移り芝居を混乱させたために新劇の世界を追放され、
三木鶏郎グループに入り、コメディアンを目指します。
当初は本名で舞台に上がっていましたが、
三木鶏郎の提案により芸名を「三木則子」に。
しかし、
プログラムの印刷業者が則子の「子」の字を「平」と読み間違えたため、
プログラムには「三木則平」と表記。
その後、
「『則平』は固いから『則』の字は平仮名がいいよ」と助言されたことを受け、
正式に「三木のり平」を芸名に。
1950年、
人気喜劇俳優だった清水金一の推薦により彼の主演の喜劇『無敵競輪王』で映画デビュー。
1954年には森繁久彌、三木鮎郎らと虻鉢座を結成し、
注目を浴び、
1957年からは、
有島一郎とのコンビによる「東宝ミュージカルズ」で活躍。
1956年、
東宝と専属契約し、『のり平の三等亭主』で映画初主演。
以後、
森繁と共演した『社長シリーズ』や、
森繁、伴淳三郎、フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博しました。
「駅前シリーズ」では準レギュラーとして様々な役柄に挑戦。
『社長シリーズ』では「接待が生き甲斐」という営業部長役がハマり役となり、
劇中の宴会芸で笑いを取りつつ高度経済成長期のサラリーマンの喜怒哀楽を的確に表現して見る者の共感を呼び、
「パァーッといきましょう」の台詞は流行語に。
「スターは三國(連太郎)(三船(敏郎)とする場合もある)、役者は(三木)のり平」と
言わしめる程の演技力は大衆的に認知されて評されるほどでした。
その演技力で森繁、有島と並ぶ喜劇役者としての地位を確立し、
一部マスメディアでは
「人の“可笑しさ”を演じさせたら右に出る者はいない」、「不世出の喜劇役者」とも評されます。
1950年前後にNHKラジオの『日曜娯楽版』に出演する傍ら、日本劇場の舞台に立ちます。
これらでコントや歌が評価されたことがきっかけとなり、
その後1960年代前半に放送された同局のテレビバラエティ番組「夢であいましょう」のキャストの1人として抜擢。
1965年には舞台「俺はお殿様」で初座長を務めました。
演出家としての顔も持ち、大衆演劇を多く手がけました。
特に森光子主演の舞台『放浪記』を1981年から担当したことがよく知られています。
『放浪記』、『喜劇 雪之丞変化』(1991年)の演出に対して
菊田一夫演劇賞(大賞、平成2年度)や読売演劇大賞(最優秀演出家賞 第2回 平成6年度)を受賞するなど高い評価を受けました。
キグレサーカスの演出を務めたこともあります。
1986年、紫綬褒章受章。
1996年、勲四等旭日小綬章受章。
キャラクターのモデルおよび声優をつとめ続けた桃屋のアニメーションCMは、
1958年の『助六篇』から1998年の『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、
お茶の間に親しまれました。
また、
アニメ『焼きたて!!ジャぱん』には、
主人公たちの対戦相手として、
桃屋のアニメーションの「三木のり平」がそのまま「三木のり平本人」として登場し、
ごはんですよ!を使用したパンを制作。
芸能界での華々しい活躍の裏で、
私生活では家庭をあまり顧みなかったことから
1993年に妻を亡くした後、
子供たちが次々に家を出ました。
四谷の自宅で一人暮らしとなった後、
近辺の行きつけの飲み屋をはしごして激しい飲み方をするように。
酒浸りの生活を続けたせいで1999年1月に末期の肝腫瘍と診断され、
医師から「持って3ヶ月」を宣告。
そのわずか数日後危篤状態に陥り、
本人の意向でその後の点滴や投薬の多くを拒否。
これにより診断からひと月も経たない
同年1月25日午前8時46分、
肝腫瘍のため死去。
満74歳没。

宮崎ますみさん😍1968年1月26日生まれ…  代表作の1985年『ビーバップハイスクール』~1988年『ビーバップハイスクール完結編』迄、全作に出演! ‹三原山順子›役は、最高のハマり役でした🥰😍✌

昨日の新聞
見出しがカッコいい
#永井豪

美空ひばりがNHK「のど自慢素人音楽祭」に出場した昭和21年12月、9才の時。その予選で「りんごの唄」を歌い、鐘は一つも鳴らなかった。美空ひばり親子に対して審査員は「上手すぎて子どもらしくない」「(その時着ていた)赤いドレスとは何事か」「子どもが大人の歌を歌うのは非教育的」という、もはやイチャモンに近い理由を述べたそうだ。翌年、他の大会で古賀政男に歌を聞いてもらい、古賀に、君もう、のど自慢の段階じゃない、りっぱに出来上がっていると絶賛されたそうです。

昭和の時代のなつかしき思い出、横浜・野毛にはジャズ喫茶「ちぐさ」さんがありました。
ダンモに行って、ヒーコ飲んで、モク吸ってズージャを聴いていました。
ちぐさのオヤジさんによく叱られたけど、大好きなジャズ喫茶でした。
北原謙二さん
(1939年10月8日-2005年1月26日)
歌手、俳優。
大阪府出身。
浪華商業高等学校(現・大阪体育大学浪商中学校・高等学校)出身。
ジャズ喫茶で歌っていた事が縁で、
鈴木英治とブルー・カウボーイズのメンバーとして上京。
その後日本コロムビアのディレクターにスカウトされ、
1961年(昭和36年)歌手デビュー。
NHK紅白歌合戦に2回出場。
1991年(平成3年)3月に高血圧症脳内出血で倒れ、
左半身麻痺と闘いながらリハビリを重ね、
3年後に復帰。
その後は全国各地の福祉施設への慰問活動などを積極的に行っていましたが、
2005(平成17)年1月26日午後10時1分、
虚血性心疾患のため都内の病院で死去。

トラック野郎男一匹桃次郎DVDを買い観ました🤩今回のマドンナは夏目雅子さん❤心が騒ぐ唐津くんち❗煙がしみる阿蘇、桜島、ワッパ勝負は最後の5分❗爆走九州一直線❗シリーズ第6弾❗この時代の映画はイイですね~😁

若い頃ハマったパチンコ台ゼロタイガー、毎日パチンコ屋さんに通いました。

妖怪と言えば水木しげる氏
テレビ📺放送された
1966年『悪魔くん』
1968年『ゲゲゲの鬼太郎』
毎週夢中になって見てました。
親にソノシートレコードを
買ってもらい毎日聴いていた
昭和の時代が懐かしいです。
🟠昭和の歌手🌸🌸🌸
🔴島倉千代子❤️💜💙
🟣活動期間1954〜2013🎶🎶🎶
🟢この世の花、りんどう峠、からたち日記、東京だよおっかさん、数々のヒット曲でしたね。
🔵昭和では『歌声喫茶』が流行っていた様ですね。カラオケが無かったからですかね?
🟣1970年代後半のカラオケスナック、1980年代のカラオケボックスの出現により人前で歌える需要はそちらに移行した。
懐かしき 昭和の
《4大・二枚目スター》
*岡田時彦
*上原謙
*池部良
*佐田啓二
昭和の頃、よく使われていた「唐草模様」の風呂敷
今では、あまり見かけなくなりました。

子供の頃に広告や新聞紙で折り鳴らして遊びました、紙鉄砲。

1974年夏に劇場公開された作品!
東宝映画
ノストラダムスの大予言
当時中学1年、1999年人類滅亡
を信じていました。
刺激が強かった映画です。
『新造人間 キャシャーン』1973 タツノコプロ

『たったひとつの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体。鉄の悪魔を叩いて砕く、キャシャーンがやらねば、誰がやる!!』

この凄まじい前口上から始まる『新造人間 キャシャーン』は、心に響きました。😀
1967年毎週日曜日
午後7時から放送された。
宇宙を舞台にした特撮テレビ番組📺
キャプテンウルトラ
3つに分かれるシュピーデル号
好きでした😊
 
[浜田省吾]。
自分の中では好きなミュージシャンでも大好き過ぎて別格の人です。
1975年バンド[愛奴]でデビュー。
1976年ソロデビュー。
1979年7枚目のシングル[風を感じて]がCMソングになりスマッシュヒット。
1984年9枚目のアルバム[DOWN  BY  THE  MAINSTREET]がチャートで2位を獲得。
1986年10枚目のアルバム[J.BOY]で自身初の1位を獲得。
ソロデビューして最初は売れているとはいえなかったがメディアとかなりの距離を置き人気を確立したミュージシャンですね。
自分の中では日本のR&Rは浜田省吾さんだと思っています。
まさか38年もファンで夢中になれるミュージシャンになるとは思いませんでしたよ。
タレント・女優の三田寛子さん💨⤴️
2年B組仙八先生でデビューされました。
また、駈けてきた処女で歌手としてもデビューされました🎵
1966年1月27日生まれ👀
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉

1970年代 懐かしいテレビ番組

[俺たちの勲章]。
松田優作、中村雅俊、北村和夫、早川保、柳生博、山西道広、坂口良子、結城美栄子、佐藤蛾次郎、鹿間マリ、等出演。
1975年4月から日本テレビで水曜日の20:00から全19話で放送された青春刑事ドラマでした。
松田優作、中村雅俊という珍しいコンビで以降はドラマ、映画でも共演作がないこのドラマだけの共演作でした。
松田優作だと[太陽にほえろ!][大都会PARTⅡ]の刑事役が有名ですが自分はこの刑事役が1番好きかもしれません。
2人の個性を生かしたキャラクターと、昭和ならではの人間臭い脚本も良い意味でも悪い意味でも面白かったです。
子供の頃 晴海で行われたスーパーカーショーに友達と友達のおじさんに連れて行ってもらった感動が今も忘れられないです。
私が一番好きだったのは、ランボルギーニ ミウラでしたネ。

1985年⚾甲子園大会出場⚾、佐々木主浩さん榎本加奈子さん夫婦、佐々木さんの地元仙台市内で、

🍛Kanakoのスープカレー屋さん🍛を展開。

遠くへ行きたい
長寿番組ですが、スタート当初は「六輔さすらいの旅」の副題が付いて永さん単独の出演だったんですね。
ブロマイド、吉永小百合さん、キレイです。