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今放送中の「朝ドラブギウギ」で話題の「赤紙」昭和40年代から50年代各地にあった軍国調酒場で販売されていた軍歌集の付録で本物と店宣伝用の赤紙、お店では本物の軍服を着てポロライドカメラで撮影サービスがあり繁盛していましたが現在では皆無、所持本をスキャンしてみました

奈良岡朋子さん
(1929年12月1日-2023年3月23日)
女優、声優、ナレーター。
身長156cm。
劇団民藝の代表を務めました。
父は洋画家の奈良岡正夫。
東京府東京市本郷区駒込(現:東京都文京区)に生誕。
東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校・附属中学校)在学中の1945年に
父の故郷である青森県弘前市へ疎開し、
青森県立弘前中央高等学校を卒業。
1951年、女子美術大学洋画科を卒業。
大学在学中の1948年、
民衆芸術劇場付属俳優養成所に1期生で入所し、
同年の『女子寮記』の寮生役が初舞台。
1950年、劇団民藝創設に参加し、
旗揚げ公演の『かもめ』に小間使役で出演。
1954年の『煉瓦女工』で初めて主役を演じ、
『イルクーツク物語』のワーリャ役、
『奇跡の人』のサリバン役などに出演し、
劇団の中堅女優として活躍。
宇野重吉、滝沢修の死後は
大滝秀治と劇団共同代表を務め、
法人の代表権は大滝が持ち奈良岡は取締役を担い、
大滝の没後は劇団と法人の代表を務めていました。
2005年から2006年にかけ、
『ドライビング・ミス・デイジー』で無名塾の仲代達矢と共演を果たしました。
舞台の他、
「舞台の合間に受けられる仕事なら」との条件でテレビドラマや映画にも出演。
橋田壽賀子脚本作品には
ナレーターとして頻繁に起用(『おんな太閤記』『渡る世間は鬼ばかり』などの例外も)。
また、
橋田の盟友である石井ふく子プロデュース作品にも
演者・ナレーターとして起用。
洋画吹替えでは、
ジャンヌ・モローやキャサリン・ヘプバーンを担当。
愛煙家でもあり、大好きなパチンコが趣味でした。
晩年は、
原爆投下後の広島を描いた井伏鱒二作『黒い雨』の朗読劇をライフワークに。
2023年3月23日午後10時50分、
肺炎のため、東京都内の病院で死去。
93歳没。
(奈良岡朋子)
富司純子さん
(1945年12月1日-)
女優・司会者。
和歌山県御坊市出身。
2007年(平成19年)に紫綬褒章受章、
2016年(平成28年)春の叙勲で旭日小綬章を受章。
疎開先の御坊市で生まれ、
5歳のときに大阪市東成区へ移り、
7歳から日本舞踊を習います。
大阪市立中道小学校、
大阪市立本庄中学校卒業。
中学のときに宝塚歌劇のファンになり、
中学卒業時に宝塚音楽学校を受験しようと考えて、
宝塚コドモアテネに通っていたことが。
しかしながら、父の反対があり受験を断念。
1962年(昭和37年)、
四條畷学園高等学校2年生のときに、
よみうりテレビの歌謡番組『ハイハイ、マヒナです』のカバーガールとして
姉・允子とともに出演。
同年一家が京都に転居したため、
京都女子高等学校に転校。
1963年(昭和38年)、
当時共演をしていた名和宏から「松竹のカメラテストを受けてみないか」と誘われ、
松竹も東映も当時、京都に撮影所があったため、
両方行って父・俊藤浩滋にも会いにいこうとなり、
松竹の後、
父の勤務先である東映京都撮影所(以下、東映京都)に行った際に
マキノ雅弘にスカウトされ、
藤純子の芸名をもらい、
同年の映画『八州遊侠伝 男の盃』で千葉真一の恋人役でデビュー。
この年は朝日放送のコメディー『スチャラカ社員』の若い女給役で出演。
1967年(昭和42年)、
出演55本目の『尼寺㊙物語』で初主演。
1968年(昭和43年)、
当時の東映常務兼企画製作本部長・岡田茂が企画した『緋牡丹博徒』の主役に抜擢。
同作で主題歌を歌い、映画も大ヒット、
任侠映画ファンを中心に絶大な支持を得て、
主人公・緋牡丹のお竜(矢野竜子役)は、
藤の最大の当たり役となってシリーズ化。
若山富三郎・菅原文太と共演した
1970年(昭和45年)の第6作目『緋牡丹博徒 お竜参上』はシリーズの代表作に。
『緋牡丹博徒』の成功をみた岡田茂企画本部長は、
『日本女侠伝シリーズ』『女渡世人シリーズ』と合わせ、
東映のトップスター・高倉健と並ぶ三つの主演シリーズを敷き、
藤はまたたく間にスターダムへ駆け上がり、
東映の看板女優に。
1972年(昭和47年)、
NHKの大河ドラマ『源義経』で共演した
歌舞伎俳優の四代目尾上菊之助(現・七代目尾上菊五郎)と結婚し、
『関東緋桜一家』を最後に引退を表明。
1974年(昭和49年)、
本名でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会に就任し、
「司会者」として芸能界に復帰。
1977年(昭和52年)より3年間、
出産・育児のため番組を一時降板、
1980年(昭和55年)より復帰。
歴代司会者では森光子に次いで
2番目の長寿司会在任期間(10年11か月)となりました。
1983年(昭和58年)には、
NHK『勇者は語らず いま、日米自動車戦争は』で女優としても復帰。
1989年(平成元年)には、
ファンのアンコールもあって高倉健との『あ・うん』で映画への出演を再開。
芸名を富司純子に改めました。
1996年 (平成8年)『祇園の姉妹』で菊田一夫演劇賞受賞。
1998年(平成10年)『おもちゃ』で26年ぶりに
映画に出演、各助演女優賞に輝きました。
2000年に発表された『キネマ旬報』の
「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の10位。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優3位。
2006年(平成18年)、
映画『フラガール』で日刊スポーツ映画大賞助演女優賞を受賞。
同賞の主演・助演賞の2冠は渡哲也、真田広之、鈴木京香に続き4人目。
2010年(平成22年)、
連続テレビ小説『てっぱん』で
主人公の祖母役演じ、
ギャラクシー賞2011年度2月月間賞を獲得。
(富司純子)
中山昭二さん
(1928年2月26日-1998年12月1日)
俳優。
身長172cm、体重72kg。
趣味は
読書、熱帯魚の飼育、ランの栽培、釣り、日本舞踊、モダンダンス。
元妻は女優の横山道代。
東京市本郷区湯島天神(現在の東京都文京区湯島天神)に酒屋の三男として生誕。
本郷第一国民学校在学中に横須賀海兵団の第一期少年水測兵に任命。
終戦後はバレエダンサーとして幾多の舞踊団に在籍。
1952年、
越路吹雪の相手役として舞台に出演したところを、
日米合作映画『アナタハン』の撮影で来日していた
ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督にスカウトされ、
同作品への出演を期に映画界へ転身。
ちなみにこの作品には撮影スタッフとして
円谷英二も参加しており、
はからずも両者は運命的な出会いを果たすことに。
『アナタハン』出演後は新東宝に入社し、
1953年に映画『憲兵』で主役デビュー。
その甘いマスクで一躍新東宝を代表するスターに。
1959年、東映東京に移籍。
ニュー東映製作の現代劇作品から全盛期の任侠映画まで、
幅広く重要な役柄を演じましたが、
新東宝時代のように主役を務める機会には恵まれず。
この時期、
ハワイで活動中の女優 / 歌手、古城あけみ(本名:西室美恵子)と婚約していましたが、
後に古城が一般人と結婚することで破局を迎えました。
その一方、
東映進出と並行して出演するようになったテレビ作品では、
NTVのサスペンスドラマ『ヘッドライト』『青年弁護士』に主演。
続いて『特別機動捜査隊』『ウルトラセブン』とレギュラー出演を重ね、
いずれもメンバーをまとめる司令塔的な役回りでした。
1970年代以降は脇に回るようになり、
ジャンルを問わずさまざまな作品で渋い個性を発揮。
中でも時代劇への出演は数知れず、
悪家老などの黒幕的な敵役として、
馴染みのある存在でした。
晩年は日光江戸村の芸能師範(専務取締役)として後進の育成にあたっていたため、
テレビの出演から遠ざかっていましたが、
日本テレビの『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の1コーナー「志の輔のクイズを探せ!」で、
同村の案内役として、浪人の装いでVTR出演。
リポーターとして訪れた立川志の輔に、
「あっ、ウルトラセブンのキリヤマ隊長でしょ?」とツッコまれた中山は、
当時キリヤマ隊長の名ゼリフだった「なにっ!?」と返したことが。
1998年に肺炎で他界。
70歳没。
(中山昭二)
藤子・F・不二雄さん
(1933年12月1日-1996年9月23日)
漫画家。
富山県高岡市定塚町出身。
富山県立高岡工芸高等学校電気科卒。
数多くの作品を発表し、
児童漫画の新時代を築き、第一人者に。
独立を発表した1987年までは
安孫子素雄(独立後は藤子不二雄Ⓐ)とともに藤子不二雄として活動。
代表作は
『オバケのQ太郎』(合作)、
『ドラえもん』、『パーマン』(旧作は合作)、
『キテレツ大百科』、
『SF短編』シリーズ。
(藤子・F・不二雄)
昭和といえば「雷オヤジ」❣️「時代錯誤」(欄間にそう墨書が掲げられてる)のサンダーダディ!その典型と言えるのが『寺内貫太郎一家』。のちに朝ドラ『さくら』で主人公のお祖父ちゃん役を演じた時も昭和オヤジぶりは健在だった。
一度、希林さんのおばあちゃんが「ピアノを欲しい」と言って、貫太郎オヤジの即決で家にアップライトピアノが届けられる騒動のエピソードで、実はおばあちゃんの欲しかったのは「玩具のピアノ」だったという顛末。最後、おばあちゃんが辿々しく玩具で下手なピアノを弾いていると、横合いから、半被姿の石屋一徹の貫太郎さんがスラスラとワンフレーズ弾いてみせる場面があり、この人が数多い誰もが聞いたことある曲を作曲している音楽家亜星さんだと思い知る。
高峰三枝子さん
(1918年12月2日-1990年5月27日)
女優、歌手。
歌う映画スターの草分け的存在。
父は筑前琵琶演奏者の高峰筑風。
妹は女優で歌手の高峰麻梨子。
孫は元女優の高峰陽。
東京府芝区露月町に生誕。
実父・高峰筑風は、
独立して高峰流筑前琵琶の宗家となりました。
東洋英和女学院を卒業した1936年(昭和11年)に、筑風が急死。
一家を養うために、
周囲の勧めもあり映画界入りを決意。
帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社し、
同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で
女優としてデビュー。
理知的で気品のある美貌はたちまち人気を集め、
翌年、
松竹三羽烏(当時の松竹での人気二枚目俳優)と呼ばれた
上原謙・佐野周二・佐分利信を相手にマドンナ役を演じた『婚約三羽烏』が公開。
同じ1937年(昭和12年)の年末に公開された
浜本広の小説を映画化した『浅草の灯』で演じた浅草オペラの踊り子役で、
歌を口ずさむシーンが話題となり、
コロムビアがレコード歌手としてスカウト。
翌13年、
映画『蛍の光』の主題歌「蛍の光」を
桑野通子、高杉早苗と吹き込み、レコードデビュー。
続いて映画『宵待草』主題歌の「宵待草」がヒット。
これに気を良くした松竹とコロムビアは合同で音楽映画『純情二重奏』を製作し、
映画と並び霧島昇と歌った主題歌が大ヒットすると、「歌う映画女優」と云われました。
1943年には大東亜会議で各国代表の前で歌っています。
映画における活躍も続き、
1939年(昭和14年)、
吉村公三郎監督による『暖流』で気取らない名門の令嬢役をこなし、
女優としての知名度をさらに高めた作品とならはました。
『信子』『戸田家の兄妹』『男への条件』『高原の月』と主演映画はいずれもヒット作品となり、
松竹の看板スターとなっていきます。
一方、
レコード歌手としても1940年(昭和15年)には「湖畔の宿」、
1942年(昭和17年)には「南の花嫁さん」を映画とは無関係にヒットさせています。
1946年(昭和21年)6月公開のマキノ正博監督の『待ちぼうけの女』に主演。
女優としての新しい一面に挑戦。
同年10月、
英文雑誌『スポットライト』を出していた
8歳年上の実業家鈴木健之と結婚し一子清貴をもうけます。
レコード歌手としての実績を活かした音楽映画をシリーズ化した作品
『懐しのブルース』(1948年)、
『別れのタンゴ』(1949年)、
『想い出のボレロ』(1950年)、
『情熱のルムバ』(1950年)などが主題歌と共にヒット。
高峰は『情熱のルムバ』の出演料で、
西郷隆盛の次男の西郷午次郎の長男の隆一が所有していた渋谷区南平台町の土地500坪を購入。
隣は岸信介の私邸が建っていました。
『今ひとたびの』『リラの花忘れじ』『自由学校』『女の園』など、
作品にも恵まれて第一線の女優として人気を誇りました。
私生活では1954年(昭和29年)に離婚。
その際の様々な心労から1956年(昭和31年)に声帯が凹むという奇病に罹り、
ステージで声が出なくなったことをきっかけに歌手活動から遠ざかりました。
同年夏、
自宅の隣地に住む岸信介から「借り受けたい」という申し出があり、自宅と土地を貸しました。
高峰は大田区中馬込の家に移住。
1964年(昭和39年)、
岸は渋谷区南平台町の土地と屋敷を高峰に返却。
1966年(昭和41年)、
11年振りに公の場で歌ったところ声が戻っていることがわかり、
藤山一郎や服部良一らの勧めもあって
東京12チャンネルのテレビ番組「歌謡百年」に出演し大反響に。
「高峰三枝子カムバック」と報道されるほどの人気となり、
1967年(昭和42年)には
自身のヒット曲をステレオで再録音したLPを発売し、
30万枚以上を売り上げます。
また、テレビ時代に合わせ、
1968年(昭和43年)から女優を起用する初めての試みであった「3時のあなた」の司会に就任。
高峰の落ち着いた司会ぶりと気さくな人柄が好評で、
当初の予定を大幅に延長し、
1973年(昭和48年)5月まで5年1ヶ月司会を務め、
その間にマレーネ・ディートリヒのショウを見たことが動機となって、
1969年(昭和44年)、
日生劇場で「高峰三枝子リサイタル」を開催。
芸能生活35年を記念したリサイタルも1972年(昭和47年)に行い、
1975年(昭和50年)、1983年(昭和58年)、1986年(昭和61年)には
「全国縦断リサイタル」で往年のファンの要望に応えました。
1976年(昭和51年)には
『犬神家の一族』(市川崑監督)での演技が高く評価され、
第19回ブルーリボン賞助演女優賞を受賞。
女優として初めて栄誉に浴し、
1981年(昭和56年)からは、
『懐しのブルース』など多くの映画で共演した上原謙とともに
国鉄(現・JR)の「フルムーン」のCMに出演、
夫役の上原と二人で温泉で入浴し豊満な乳房を露出するシーンが話題に。
1985年(昭和60年)に紫綬褒章を受章し、
同年10月30日の園遊会に招待。
1986年(昭和61年)12月、
岐阜県明智町(現・恵那市)に開設された「日本大正村」初代村長に就任。
日本大正村にある大正ロマン館は高峰と元横綱栃錦の記念館。
平成時代に入っても
新宿コマ劇場でリサイタルを開いたり、
テレビのバラエティー番組に出演するなど、
活発に活動。
1990年(平成2年)4月18日、
田園調布の自宅で脳梗塞のため倒れ、
世田谷区の日産厚生病院に緊急入院。
意識は混濁し、左半身は完全に麻痺状態でした。
入院から約1か月後の5月25日に容体が再び急変し、
5月27日午後5時30分に死亡。
71歳没。
(高峰三枝子)
浜口庫之助さん
(1917年7月22日-1990年12月2日)
シンガーソングライター。
愛称はハマクラ。
兵庫県神戸市に生誕。
浜口の父は建設会社を経営する実業家で、
家庭環境は非常に裕福。
家族の多くが音楽好きで
兄弟はチェロ、ギター、ウクレレなどを嗜み、
浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、
5歳の時には楽譜を読めるように。
小学2年の時に一家は東京へ引っ越し、
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に進学した浜口は
旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)入学を目指し勉学に励みましたが
受験に失敗し、
1935年、
早稲田大学高等予科(現・早稲田大学高等学院)に入学するも翌年に中退。
1936年、
新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動。
当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながら
アメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていました。
この夢は翌1937年になって実現しかけましたが、
日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念。
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職しましたが
社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。
1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学経営学部)に入学。
当時の浜口は
ギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、
大学内で立教大学や慶應義塾大学など他大学の学生と一緒に
「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動。
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口は
ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、
同島のマランへ赴任。
終戦まで同地に勤務し、
商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任されました。
太平洋戦争終結後捕虜となり、
1946年5月に引き揚げ。
東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行いました。
その後
灰田勝彦の誘いを受けて灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなったり、
自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して音楽活動を続けます。
1950年結婚、一男一女をもうけました。
長男はスタジオミュージシャンで、
ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也。
「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として
1953年から1955年まで
3年連続でNHK紅白歌合戦に出場(第4回・第5回・第6回)。
1957年、
新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」
と挨拶したのを見た浜口は、
外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、
バンドを解散、歌手活動を停止し、
作詞家・作曲家へ転向。
1959年、
「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、
作詞家・作曲家として頭角を現すように。
翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は
社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで
数々のヒット曲を生み出すように。
また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演。
1960年代には数々のヒット曲を出し、
ヒットメーカーと呼ばれるように。
1963年、妻、邦子と死別。
この年公開された映画「拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎監督)には、
容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演。
1965年、
「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、
ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど
自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、
「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞(第8回)・作曲賞を受賞。
以降、
1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けました。
鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、
今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多数。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。
一女をもうけました。
晩年の1987年には、
島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒット。
1989年、
テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、
1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には
「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退。
1990年12月2日、
喉頭癌のため、
東京都豊島区の癌研究会附属病院にて死去、
73歳没。
(浜口庫之助)
山﨑努さん
(1936年12月2日-)
俳優。
身長174cm。
妻は元宝塚歌劇団星組出身の黛ひかる、
娘は山崎直子。
千葉県東葛飾郡松戸町(現︰松戸市)出身。
東京都立上野高等学校卒業。
俳優座養成所を経て、1959年に文学座に入団。
1960年、
岡本喜八監督作品の『大学の山賊たち』で映画デビュー。
1963年、劇団雲結成に参加し、
1975年の劇団雲分裂を機にフリー。
1963年、
黒澤明監督作品のサスペンス映画『天国と地獄』で
誘拐犯・竹内銀次郎役を演じ、一躍注目を浴び、
この年、
前年のNHKドラマ『アラスカ物語』での共演がきっかけで
交際していた元・宝塚歌劇団星組の黛ひかると結婚。
結婚の際、
仲人を務めたのは交際のきっかけとなった『アラスカ物語』の脚本を担当した石原慎太郎。
1965年、『赤ひげ』で佐八役を演じて以降、
活躍の場をテレビなどにも広げますが、
しばらくの間は、
映画ではこれというインパクトを残せず、
この間、黒澤明が監督を務めることになり、
撮影も開始された映画『トラ・トラ・トラ!』では
源田實海軍中佐という重要な役を演じることとなっていましたが、
黒澤が監督を降板したため、山崎も出演を辞退。
1973年、
『必殺仕置人』の念仏の鉄役に起用。
本役は
中村主水(演:藤田まこと)・棺桶の錠(演:沖雅也)と並び、
シリーズ屈指の人気キャラクターとなり、
続編である『新・必殺仕置人』にも出演。
1975年、劇団雲を退団し、
山崎にとっては初の東映映画出演かつヤクザ映画初出演となる、
『新仁義なき戦い 組長の首』に出演。
1977年、『八つ墓村』では、
青白く無表情で頭にL字型ライトを二本付けて、
日本刀と猟銃を手に次々と村人を殺害していく殺人鬼・多治見要蔵役を演じ、
強烈な印象を残し、作品も大ヒットとなりました。
1980年、
黒澤明監督の映画『影武者』で武田信玄の弟であり、
信玄の影武者でもある武田信廉を演じ、
キネマ旬報報知映画賞助演男優賞を受賞。
またNHKの全4話のドラマ『ザ・商社』(原作『空の城』)では
和田勉と組み個性的な商社マンを好演、
以降、和田勉作品に多数出演するように。
1984年の『お葬式』以降、
伊丹十三監督作品には連続起用。
2000年、紫綬褒章受章。
同年に緒形拳も受章。
行定勲監督作品にも
2001年の『GO』、
2004年の『世界の中心で、愛をさけぶ』と連続起用され、
鍵を握る役どころを演じました。
2004年のNHKスペシャル(2004年4月 - 11月)、『地球大進化〜46億年・人類への旅』では
ナビゲーターを務めました。
2007年、秋の叙勲で旭日小綬章を受章。
2012年、
沖縄県の沖縄美ら海水族館のPR活動を担う初の名誉館長に、
同館前館長・内田詮三とともに任命。
美ら海水族館での実話を元に制作された
2007年公開の映画『ドルフィンブルー フジ、もういちど宙へ』で
水族館長を演じた事が縁となっています。
2019年、
『長いお別れ』で認知症に蝕まれる父・東昇平役を演じました。
この作品以降怪我をした妻の介護などから俳優業を一時的に休業していましたが
2022年4月5日・6月7日放送のNHKドラマ・「正直不動産」で約3年ぶりに俳優業を再開。
同年4月5日からツイッターも始め、
自身が応援している読売ジャイアンツや
かつて出演した必殺シリーズ、
また自身と同じ同日から
ツイッターを始めたりしています。
(山崎努)
八奈見乗児さん
(1931年8月30日-2021年12月3日)
声優、俳優、ナレーター。
身長165cm。
満洲生まれ、福岡県飯塚市、福岡市育ち。
満洲・撫順で生まれ、
13歳の頃福岡県に引き上げ。
父の故郷の福岡県飯塚市で暮らし、
福岡県立嘉穂中学校(現:福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校)に中学2年の時に編入。
その後、一家は福岡県福岡市に移住し、
中学校転校後、
小さい頃から運動、野球が好きで野球部に所属。
福岡県立修猷館高等学校卒業後、
野球が取り持つ縁で、
日本通運飯塚支店に入社してノンプロ野球の選手として野球をしていました。
将来への不安を感じてジャーナリストになることを決めて入社1年で上京。
明治大学を受験して合格して進学しましたが、
寂寥感に捉われ、
電車の窓から見ていた音楽舞踊学校の看板に心を奪われ、訪ねて入学し、
歌、踊りの稽古をしていましたが、
両親達に知らされて叱責されたうえ、
連れ戻されてしまいます。
その後、
声優を目指して九州RKB毎日放送劇団に所属。
九州時代の後輩に内海賢二。
しかし「東京でなければ芝居はできない」と思い東京都へ移住。
2001年からは
『中居正広の金曜日のスマたちへ』のナレーションを務めました。
2003年には声優歴40年を迎え、
2005年には
愛・地球博のマスコットキャラクター「モリゾー」の声を担当。
2007年11月からキッズステーションで放映された『エレキング the Animation』では
主人公のおいさん役を務めました。
2009年3月20日、
赤塚不二夫、藤子不二雄Aらとともに東京アニメアワード第5回功労賞を受賞。
2015年9月25日、療養のため、休業を発表。
休業以降も
『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』に関しては
飯島愛に関するVTRで例外的にナレーションを継続。
2021年5月7日放送の同番組で青二プロダクション所属の声優が特集された際、
出演は無かったものの、
顔写真のパネルがスタジオに設置されると共に
「金スマナレーター 今回は欠席」とのテロップが表示。
2021年12月3日22時59分、死去。
90歳没。
(八奈見乗児)
夏木陽介・主演「これが青春だ!」
ー青春ドラマ「青春とはなんだ」の劇場版ー
「これが青春だ!」は、1966年の日本映画。監督は、松森健。
石原慎太郎・原作の「青春とはなんだ」をドラマ化した同名作品の映画化。タイトルがのちの青春ドラマで、竜雷太「これが青春だ」と、ほぼ同じなため、紛らわしいが、こちらは、「青春とはなんだ」の映画化作品になる。劇中歌は、かなり若い布施明が担当で、特別出演も・・。
キャストは・・・・
夏木陽介、藤山陽子、団玲子、黒沢年男、佐藤充、三木のり平、岡田可愛、土田早苗、酒井和歌子、矢野間 啓治、木村 豊幸ほか。
このうち、矢野間 啓治、木村 豊幸は、ラクビー部員柴田、高木のコンビで、青春ドラマファンに親しまれた。
映画は・・・・
地方の森山高校に赴任してきた英語教師・由木真介は、スポーツカーで学校のグランドに乗り付けて驚いて出てきた生徒たちに赴任の挨拶をしてしまうという型破りな男である。しかも校舎から顔を出している校長をはじめとする同僚教師たちに次々と渾名をつけてしまう始末。また劣等生揃いで廃部寸前のラグビー部の部長を自ら名乗り出て引き受けることに・・。さらに無理やりバー勤めをさせられている太田高校女生徒・香代も匿うことになった真介は、連れ戻しにきたやくざ者と乱闘に・・。そのことがもとで、学校を首になりそうな窮地に立つことになるのだったが、警察署の署長の機転で、ラクビーの対抗試合に間に合ったのだったが、さてはて、この試合の行方は如何に・・・。
劇場では、ゴジラ映画との二本立てで、リアルタイムで観たが、それ以来、ご無沙汰で、AMAZONのヴィデオで、実に数十年ぶりに鑑賞。懐かしさが、溢れた。こんな面白い映画を、東宝はなぜ、DVD化しないで、ほっとくのかなぁ、と不思議がることしきり。
なお、石原慎太郎原作の同作は、先に日活で映画化。その際には、石原裕次郎主演で撮られており、かなり脚色された東宝・宝塚版よりも、日活のほうが、原作に近い感想。こちらは先にDVD化さている。
「青春とはなんだ」からの青春ドラマ系譜は、途中、休止することはあっても、だいぶんと続き、村野武範・主演「飛び出せ!青春」のあとを受けた中村雅俊・主演「われら青春」では、前作のサッカーから競技をラクビーに変更。劇中歌も原点のものを使用したりして、「青春とはなんだ」へのオマージュも感じられたのでしたよ。
#夏木陽介
#これが青春だ
子供の頃、テレビで観ていた
「アンディ・ウィリアムズショー」
昭和41年〜43年にNHKで、放送されたアメリカを代表する人気歌手、アンディ・ウイリアムズがホストのバラエティーショー番組。
テーマ、ミュージックは彼のヒット曲
「ムーン・リバー」
父親が大好きな番組で、とても素敵な曲でした❗
『真・デビルマンⅠ~Ⅳ』(永井豪・原作/永井泰宇・著)
今は亡きソノラマ文庫から1981~2年にかけて刊行されたノベライズ版。著者は豪ちゃん先生の実兄であり、ダイナミックプロでは「高円寺博」のペンネームで『まぼろしパンティ』などのマンガ原作も手がけていた永井泰宇(やすたか)先生でした。
本書が刊行された80年代初頭は、豪ちゃん先生は『凄ノ王』の連載を終え、『新デビルマン』などの読切短編を断続的に発表していた頃。『デビルマン』というコンテンツは連載終了から約10年を経て、最初の再評価ブームが起こった時期と言えるでしょう。
永井泰宇先生はもともと小説家志望で、ダイナミックプロ設立のために作家活動を一時中断していたそうで、本作が作家活動再開の第一弾。本作完結後、カドカワノベルズで『凄ノ王伝説』を執筆し、原作漫画の後半をオリジナル展開で補完しています。
仮面ライダーアマゾン/山本 大介(岡崎徹さん)
アマゾン「マサヒコ、トモダチ」
23歳の日本人であり、生後まもなく、飛行機事故によって、アマゾンで両親と共に遭難。両親は亡くなるが、自身は南米のアマゾン奥地で野生の動物たちに囲まれて育った。父の友人である高坂教授によると亡き父親の面影があるとのこと。
バゴーの改造手術により、ギギの腕輪も移植され、バゴーの与えた催眠暗示に従い、高坂に会うために生まれ故郷の日本を訪れ、仮面ライダーアマゾン=アマゾンライダーとして、ゲドンと戦う。
マサヒコ「アマゾン、ともだち」
岡村 まさひこ(演 松田洋治さん)
来日したアマゾンと最初に友達になった、城南小学校2年生の少年。
年齢の割に頭がよく、文明を知らないアマゾンに日本語や日本の風習を教えた。少し生意気なことを言う時もあるが、正義感は強く、獣人も恐れない勇気を持つ。
仮面ライダーアマゾンでアマゾンと交流する少年岡村まさひこを演じた松田洋治さん。後に風の谷のナウシカのアスベルやもののけ姫の主人公アシタカの声を演じている。
(仮面ライダーアマゾン)
芦屋小雁さん
(1933年12月4日-)
喜劇俳優。
京都府京都市出身。
身長155cm、体重74kg。
友禅染工場に生誕。
兄に俳優の芦屋雁之助、
弟に芦屋雁平(初代芦屋凡凡)。
父親も芸界が好きで、漫才師になり、
雁之助と地方巡業していたことがあります。
旧制中学中退後、
さまざまな職業についた後、
絵が好きだったことから、
商業美術の世界に入り、映画看板などを描きます。
やがて、
雁之助と漫才コンビ「若松ただし・きよし」を結成して活動。
そのころ、無名時代の藤田まことと出会います。
1949年、
芦乃家雁玉に弟子入りして「芦乃家雁之助・小雁」の名前をもらうも、
雁之助の発案で「芦屋雁之助・小雁」に。
1954年ごろ、
ヌードショーの幕間のコントの構成・演出をしていた花登筺と出会います。
1958年、
初のテレビのレギュラー番組「やりくりアパート」に雁之助とともに出演。
1959年、
兄弟で出演したテレビ『番頭はんと丁稚どん』で人気を博し、
花登筺が東宝と決裂し松竹に製作元を移したため、
東宝所属の茶川一郎が出演できなくなり、
かわりに弟の芦屋雁平が出演するように。
同年9月、
東宝と絶縁した花登筺が結成した、
劇団「笑いの王国」に大村崑、芦屋雁之助らと共に参加。
1960年、
兄・雁之助、大村とともに3組合同による『テレビ結婚式』を行い、最初の結婚。
1964年、
花登筺と西部兄弟の対立により劇団「笑いの王国」は解散。
同1964年 に劇団「喜劇座」を結成、
雁之助や藤本義一・茂木草介らが脚本を担当。
「喜劇座」は1969年に解散。
1960年代からSF映画・ホラー映画の蒐集を始め、
日本有数のフィルムコレクターとしても知られ、
家庭用ビデオ機器が普及していない頃から、
日本国外より闇の複製フィルムなど多数のフィルムを入手して、
1985年当時には500本余りのコレクションを築きました。
テレビ局から定期的にフィルムの貸し出し依頼を受けるほどで、
もともとは映画を作ろうと、
勉強のためフィルムを入手したことがきっかけで始まったコレクション。
1982年には新築した自宅の2階に映写室をしつらえて、
約50人を収容するミニ映画館も設置。
1987年、
17年間別居状態だった妻と正式離婚し、
女優の斉藤とも子と再婚。
28歳の年齢差が話題に。
妻となった斉藤がフィルムコレクションを嫌がったため、
その大半を泣く泣く処分。
1995年に斉藤と離婚し、
1996年、30歳年下の女優勇家寛子と再々婚。
2005年から『裸の大将放浪記』舞台版では
山下清役を兄の死後受け継いで演じています。
2007年から
神戸映画資料館の名誉館長も務めています。
2018年12月7日放送の『爆報! THE フライデー』で
認知症を患っている事を公表。
西部里菜は姪。
(芦屋小雁)
新克利さん
(1940年12月4日-)
俳優・声優。
身長173cm。
東京市に鳶職の子として生誕。
都立三田高校を卒業後、
1959年に法政大学法学部に進むも2年で中退。
俳優座養成所に13期生として入所し、
1964年3月の卒業と同時に団員に。
1968年、
『肝っ玉かあさん』に医師役で初のテレビドラマレギュラー出演を果たして人気を獲得。
石井ふく子プロデュース作品に常連出演し、
誠実なイメージの役が多かっただけに、
一部週刊誌で長山藍子との不倫スキャンダルが報じられて以降、
出演が減りました。
『必殺仕置屋稼業』の印玄役も当たり役であり、
悪人を屋根から突き飛ばす際に悪人が言う
「止めて!助けて!」は当時流行。
(新克利)
二瓶正也さん
(1940年12月4日-2021年8月21日)
俳優。
身長176cm。
東京府東京市麹町区永田町出身。
麹町中学校、専修大学附属高等学校卒業。
実父はドイツ人。
映画が好きであったことから、
高校3年生時に俳優を志し東宝芸能学校の夜間部に入りました。
1960年に東宝第15期生ニューフェース(同期に、古谷敏 等)となり、
しばらくは大部屋生活が続き、
1961年、
岡本喜八監督作『暗黒街の弾痕』の「殺し屋B」でデビュー。
コミカルな役柄を得意とし、
東宝の専属俳優として活躍。
特に岡本喜八作品の常連。
1962年に『妖星ゴラス』で特撮作品に初出演。
宇宙パイロット役を演じますが、
本格的な東宝特撮映画出演はこの1本に留まりました。
1963年には若大将シリーズ『ハワイの若大将』で運動部のマネージャー江口役に抜擢。
この役はシリーズを通して江原達怡が演じていましたが、
泳げないため海に落ちるシーンを嫌って降板。
そのため、この作品のみ二瓶が演じました。
1966年、
『ウルトラマン』(TBSテレビ/円谷プロダクション)で科学特捜隊のイデ隊員役に起用。
コミカルで人間味豊かなキャラクターは高い人気を得て二瓶自身の代表作に。
その後も
『マイティジャック』(1968年)、
アニメ『ザ☆ウルトラマン』(1979年)では
イデ隊員を意識したトベ隊員の声を担当するなど、
円谷プロダクション作品に出演することに。
テレビドラマと並行して、
引き続きクレージー映画等に出演していましたが、
1969年に東宝を退社。
フリーとなり、
大きな身体とにぎやかな声を活かして
『ぎんざナイトナイト』などのテレビ番組の司会やCMなどで幅広く活躍。
1980年代後半に鎌倉市に引っ越し、
1990年代には不動産業等の実業家としての活動が中心となり、
芸能活動は控えるように。
しかし、
1990年代半ばにはウルトラシリーズブームの再燃もあり、
再び円谷プロダクション作品に顔を出すようになり、
1997年に『総理と呼ばないで』(フジテレビ)で久々のドラマレギュラー出演を果たしました。
2005年には『ウルトラマンマックス』にダテ博士役でセミレギュラー出演。
近年はビルオーナーをしており、
芸能関連の仕事はウルトラマン関係のイベントが多数。
2021年8月21日、誤嚥性肺炎のため死去。
80歳没。
(二瓶正也)
香川京子さん
(1931年12月5日-)
女優。
茨城県行方郡麻生町(現行方市)生まれ。
東京都立第十高等女学校卒業。
身長162 cm。
生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移り、
小学校に入る1年前に東京に戻るも、
女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、
茨城県の下館に疎開。
間もなく母親が麻生町に疎開したため、
自らも麻生町に戻ります。
女学校時代は勤労奉仕ばかりで、
勉強することはあまりなかったそうです。
1945年に東京に移住。
1949年に東京都立第十高等女学校を卒業。
東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格し、
新東宝へ入社。
一般会社の入社試験も同時進行で受けており、
最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまいますが、
母の助言もあり、女優の道に進むことに。
同年、映画『帰国』でデビュー。
大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになったおかげで、
各映画会社の黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれています。
『ひめゆりの塔』への出演が転機になったようで、
女優としての意義を意識するように。
続いて成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、
さわやかな演技で人気女優となりました。
溝口健二監督の『近松物語』ではヒロインを演じ、
初の人妻を演じました。
黒澤明監督の作品にも多く出演し、
黒澤作品の看板役者であった三船敏郎の恋人役や妻役を演じることが多数。
黒澤作品において、
三船とは9回の共演回数を誇り、
特に思い出深い作品は『悪い奴ほどよく眠る』。
1963年に結婚。
1965年、『赤ひげ』に出演して以降、出産を経験。
新聞記者であった夫の海外赴任先であるニューヨークへ同行し、
映画の世界を3年ほど離れることに。
ニューヨーク在住時には1965年北アメリカ大停電を経験。
1968年に帰国。
テレビドラマ・舞台へ主軸を移します。
テレビドラマでは
石井ふく子・橋田寿賀子両者の作品に多く出演。
映画撮影時の記念アルバムなどの資料は
東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、
展示室で公開。
そうした映画保存活動への貢献が評価され、
2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で
日本人・アジアの映画女優として初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与。
FIAF賞受賞記念として、
映画祭で、
「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、
また、
東京国立近代美術館フィルムセンターで、
「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、
企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示。
(香川京子)
篠田三郎さん
(1948年12月5日-)
俳優。
身長178cm。
東京都港区麻布出身。
日本大学第二高等学校中退。
サラリーマンの父と母の長男で、弟が2人。
豊島区立道和中学校を経て
1964年に日本大学第二高校に進学するも、
翌年に大映第18期ニューフェースに合格したことを機に高校を中退。
養成所期間を経て大映東京撮影所に入社し、
1966年に映画『雁』でデビュー。
その後は大部屋に配属され、
主に通行人などで出演を続けることに。
この時期には、
ガメラシリーズ『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』(1968年)にも端役で顔を出しています。
1970年、
帯盛迪彦監督の『高校生番長』で初主演を果たして以降、
全4作までつくられたシリーズに男優のエースとして出演。
1971年、
関根恵子(現・高橋惠子)と共演した『高校生心中・純愛』のヒットによって
『樹氷哀歌』『成熟』と関根とのコンビ作が続くも、
この年末に大映は倒産。
活躍の場をテレビに移し、
TBSのプロデューサー・橋本洋二からの誘いによる『ガッツジュン』で初レギュラーを得て、
彼がプロデューサーを務めた『シルバー仮面』にも
春日兄妹の三男・光三役でレギュラー出演。
1973年のウルトラシリーズ『ウルトラマンタロウ』 (TBS) では、
主人公・東光太郎役を演じ、
同年の『天下堂々』 (NHK) でも主演し、
幅広いお茶の間の支持を得ました。
1974年の『若い!先生』では教師・海堂健太役を演じ、
テレビスターとしての地位を確立。
1975年、
大映テレビ制作の刑事ドラマ『TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿』に主演。
夜10時台のドラマとしては高視聴率を獲得したことから、
1976年には続編『新・二人の事件簿 暁に駆ける!』も制作。
この間、
映画でも複数の作品に助演したのち、
高林陽一監督の『金閣寺』で主人公・溝口を演じています。
1977年には大河ドラマ『花神』でさらに広範な人気を得て、
1978年にはドラマ人間模様『夫婦』でも忘れがたい印象を残し、
同年から1979年にかけては
『やあ!カモメ』『一発逆転』など、
民放のゴールデンタイムのテレビドラマでも主演を務めました。
以後は活動の中心をテレビに置きながら映画や舞台にも出演し、
さわやかな個性で人気を得ています。
1990年には、
長寿ドラマ『部長刑事』シリーズの『新・部長刑事アーバンポリス24』に主演。
2000年代に入ってからは、
映画『忘れられぬ人々』などで悪役も積極的に演じて、
端正なマスクと口跡は貴人役も得意とし、
映画『ヤマトタケル』大王役、
大河ドラマ『草燃える』源実朝役、
銀河テレビ小説『復活』伯爵役などが挙げられます。
また、『ピュア・ラブ』シリーズや、
野島伸司脚本の『ゴールデンボウル』などで印象的な役柄を演じました。
(篠田三郎)
木下惠介さん
(1912年12月5日-1998年12月30日)
映画監督・脚本家。
真面目で抒情的な作風で知られ、
数多くの映画を制作した後、
テレビ・ドラマにも進出。
弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。
静岡県浜松市(現在の浜松市中区)伝馬町で
食料品店(漬物製造)の「尾張屋」を営む
父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生誕。
1919年(大正8年)、
浜松尋常高等小学校(現:浜松市立元城小学校)に入学。
在学中にさかんに映画を見、
その後浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後、上京。
1933年(昭和8年)、
オリエンタル写真学校を経て、
松竹蒲田撮影所現像部に入社。
その後撮影部に移り、撮影技師桑原昴の助手。
1936年(昭和11年)、
新たに作られた松竹大船撮影所に移り、
島津保次郎に引き抜かれて島津の助監督となり、
島津の『浅草の灯』や吉村公三郎の『暖流』などを担当。
1940年(昭和15年)10月に召集令状を受け取り、
11月に名古屋の中部第13部隊輜重兵第3聯隊補充兵に入隊。
中国各地を転戦、
翌年に作業中の事故で左側アキレス腱鞘炎と左目角膜出血を患って野戦病院に入院、
後に内地送還され帰国。
1943年(昭和18年)、
『花咲く港』で監督デビューし、
ともに終生のライバルとして日本映画界を支えてゆくこととなる黒澤明とともに山中貞雄賞を受賞。
1951年(昭和26年)、
日本初の長編カラー映画となる『カルメン故郷に帰る』を発表し、
NHK映画ベストテン第1位、
日本映画文化賞を受賞。
1954年(昭和29年)には『二十四の瞳』で
ブルーリボン賞作品賞、
毎日映画コンクール日本映画大賞、
ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞。
同年のキネマ旬報ベストテンでは
同作と『女の園』が黒澤の『七人の侍』を抑えて1位・2位を独占。
1958年(昭和33年)、『楢山節考』を発表。
ヴェネツィア国際映画祭に出品され金獅子賞の有力候補と言われましたが、
金獅子賞は稲垣浩の『無法松の一生』が受賞。
しかし、
この作品はフランソワ・トリュフォーなどの映画人に絶賛。
1964年(昭和39年)、
『香華』の次回作として『戦場の固き約束』を企画するも、
興行上の採算性に対する疑義で松竹側からお蔵入りにされるなどの不遇に遭い、
撮影所の不正経理を指弾したことなどから会社との関係が悪化。
そして同年、
松竹を退社して木下恵介プロダクション(のちドリマックス・テレビジョン)を設立。
テレビドラマ界に進出し、
TBSで『木下恵介アワー』『木下恵介・人間の歌シリーズ』などのシリーズを手掛けて
多くのテレビドラマを製作。
1969年(昭和44年)、
黒澤明、市川崑、小林正樹と共同プロダクション「四騎の会」を結成。
注目を集めましたが、
当初発表された4人共同監督による映画は結局実現せず。
1976年(昭和51年)、
『なつかしき笛や太鼓』以来9年ぶりとなる『スリランカの愛と別れ』で再び映画監督に戻り、
これら2作品は東宝で製作。
1979年(昭和54年)には松竹に復帰。
1979年(昭和54年)、『衝動殺人 息子よ』で社会派の一面をみせました。
1981年(昭和56年)、
脚本『女たちの戦場』を執筆して映画化を企画するも、
会社から内容が暗すぎるという理由で製作中止。
1987年(昭和62年)、
製作中止になっていた脚本『戦場の固き約束』を出版。
中国から松竹との合作で製作企画が出るも、
再び製作中止。
1991年(平成3年)、文化功労者に選出。
1998年(平成10年)12月30日午前3時10分、
脳梗塞のため東京都港区の自宅で死去、86歳没。
(木下惠介)
星由里子さん
(1943年12月6日-2018年5月16日)
女優。
身長164cm。
東京都出身。
千代田区立今川中学校を経て精華学園女子高等学校卒業。
1958年、
東宝が宝塚歌劇団東京公演にちなんで募集した
ミス・シンデレラ娘で優勝したことをきっかけに芸能界入り。
「八重歯のシンデレラ」をキャッチフレーズとし、
1959年に『すずかけの散歩道』で銀幕デビュー、
同名のレコードで歌手デビュー。
1960年、
同時期にデビューした浜美枝と田村奈巳と合わせて「東宝スリーペット」として売り出され、
控えめで大人しい雰囲気の田村、
明るく活発で女殺し屋やスパイ役もこなす浜のちょうど中間に位置し、
清楚ながらも現代的な気の強さも持ち合わせた役柄を多くこなしました。
成瀬巳喜男、岡本喜八、福田純監督作品に度々起用。
1961年から始まった『若大将シリーズ』で演じた
ヒロイン・澄子役が当たり役となって人気を博しました。
世相を映したファッションや明るいイメージが広く支持され、
癖のない庶民的な美貌で「清く正しく美しく」を社是とする
東宝の健全なお嬢さんイメージを代表する1人とされました。
数年先んじてこの路線を代表した司葉子に対し、
映画衰退期に差し掛かっていたこともあって大作よりはプログラムピクチャーへ多く出演。
怪獣映画にも出演したために子どもたちにも親しまれ、
二十代半ばを過ぎてからは悪女的な役柄にも意欲を示しました。
1964年の『モスラ対ゴジラ』『三大怪獣 地球最大の決戦』で立て続けに出演しており、
根強い特撮ファンの後押しを受けて
2000年の『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』にて
36年ぶりに怪獣映画へ出演。
女優として人気絶頂期だった1969年、
財界人で買収王で名を馳せた横井英樹の長男・邦彦と結婚するも、
80日余りで離婚。
1975年に脚本家の花登筺と再婚するも、
1983年に死別。
1990年に会社役員と再々婚。
それから亡くなるまで京都に在住。
加山とは1968年の『リオの若大将』を最後に映画・テレビ共に共演作品が途絶え、
揃ってマスコミに登場することがなくなりましたが、
1975年に加山主演の『同心部屋御用帳 江戸の旋風』に星がゲスト出演して7年ぶりに共演し、
以降は再びCMなどを含めて共演する機会が増え、
団塊世代の大きな支持を得ていました。
2002年に第28回菊田一夫演劇賞受賞。
2018年5月16日午後11時5分に、
心房細動及び肺癌のために京都市の病院にて、
74歳で死去。
(星由里子)
佐藤允さん
(1934年3月18日-2012年12月6日)
俳優。
佐賀県神埼郡神埼町(現:神埼市)出身。
身長173cm、体重71kg。
日本大学第三高等学校卒業。
息子は映画監督の佐藤闘介。
4歳の頃に父が戦死し、
教員の母の手一つで育てられました。
高校卒業後、
1953年に俳優座養成所に第4期生として入団。
同期には
宇津井健・佐藤慶・仲代達矢・中谷一郎ら。
なお、佐藤、仲代、中谷の3人は、
後年に岡本喜八の「喜八一家(ファミリー)」の一員と見なされました。
劇団のユニット出演で『坊っちゃん』や『思春の泉』に佐藤充名義で出演した後、
映画監督の谷口千吉からプロデューサーの藤本真澄を紹介されて、
1956年に東宝へ入社。
同年に『不良少年』で映画デビュー。
紹介した谷口の「人相が悪い」との言葉通り、
日本人離れしたアクの強い風貌ゆえに入社間もない頃は
凶悪犯やチンピラなどの悪役での出演が続きました。
1958年、『俺にまかせろ』で初主演。
1959年、
『独立愚連隊』に主演して一躍脚光を浴び、
会社からは佐藤・夏木陽介・瀬木俊一の3人組で「スリーガイズ」として売り出されましたが、
瀬木が間もなく引退したため、自然消滅。
以後、夏木と、
新しく入社してきた加山雄三とのトリオでの出演が増加。
なお初の陸軍軍人役は
1959年の『独立愚連隊』で、
初の海軍軍人役は1960年の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』。
1963年の『太平洋の翼』では
三四三航空隊の司令だった源田実に直接面会して
操縦方法や知識を教わって役作りに活かし、
後に1968年の『連合艦隊司令長官 山本五十六』にて源田を演じています。
1966年の『ゼロ・ファイター 大空戦』では
特撮担当だった円谷英二と一緒に仕事をしました。
東宝退社後、
1970年代は千葉真一主演作品の助演や、
1972年のサントリー・ビールや紳士服の一色のCMにも出演。
岡本とは仲違いがあり、
1967年を最後に出演が絶えていました。
1978年のキネマ旬報誌インタビュー「にっぽん個性派時代」で、
ファンのためにもぜひ仲直りを、と勧められて前向きなところも見せました。
その後、
岡本の遺作となった『助太刀屋助六』に友情出演し、
息子の佐藤闘介が同作にスタッフとして参加するなど、和解は実現。
1980年には『二百三高地』にて
徴兵のために釈放されたヤクザの牛若寅太郎役で出演。
極寒の地、大連(通称:203高地)で
上半身裸で敵兵に刺青を見せつけながら黒田節を謡い、
ウォッカを呑み干すシーンを好演。
若い頃はリチャード・ウィドマークに似ているとされ、
「和製ウィドマーク」と言われましたが、
中年になった1970年代頃からは
チャールズ・ブロンソンに似ていると言われ始め、
「和製ブロンソン」と形容。
2008年発売のVシネマ『哀憑歌〜GUN-KYU〜』を最後に俳優業を引退し、
その後はトークイベントなどに出演。
2012年2月14日に川崎市内の自宅近くで転倒し
外傷性クモ膜下出血と診断され入院、
同年12月6日、急性肺炎のため死去した。
78歳没。
(佐藤充)
東久邇成子さん
(1925年12月6日-1961年7月23日)
旧皇族。
盛厚王の妃。
勲等は勲一等。
旧名は、成子内親王、
諱は成子、御称号は照宮、
お印は紅梅 。
結婚から皇籍離脱前までの名は、
盛厚王妃成子内親王。
昭和天皇と香淳皇后の第1皇女子(2男5女のうち第1子)。
第126代天皇徳仁、秋篠宮文仁親王、島津禎久は甥、
黒田清子(紀宮清子内親王)は姪。
また、
久宮祐子内親王、鷹司和子、池田厚子、島津貴子は妹、
第125代天皇・明仁(上皇)と常陸宮正仁親王は弟。
(東久邇成子)
根津 甚八さん
1947年12月1日生まれ。
2016年12月29日没、享年69。
山梨県 都留市出身。
俳優、演出家、脚本家。本名、根津 透。芸名は、劇団「状況劇場」入団時に主宰の唐十郎が苗字の「根津」に合わせて、真田十勇士の根津甚八から取って命名した。
舞台「フール・フォア・ラブ」
1986年パルコ劇場公演 
出演: 根津甚八 松居一代
「フール・フォア・ラブ」(Fool For Love)は、オスカー俳優であり、ピュリツァー賞作家でもある、アメリカのサム・シェパード(Sam Shepard)の作品。
昔、恋人同士だったEddieとMayが、砂漠の中のモーテルで再会。
2人は実は兄妹だったことが老いた父により明かされる、という物語。
我が郷土山梨県出身自慢の俳優ベスト3
1 根津甚八
2 三浦友和
3 菅田俊
滝田栄さん
(1950年12月5日-)
俳優・司会者。
身長185cm。
千葉県印西市出身。
21世紀に入ってからは仏像彫刻家としての活動が多数。
実家は代々、
関東一帯の米を利根川から船で江戸城に納める「米庄」。
第24代横綱鳳は祖父の弟。
成田高等学校を経て、
中央大学文学部仏文科(夜間部)中退。
役者になったきっかけは大学1年のとき。
70年安保で、ほとんど授業はなく、
暇で銀座をブラブラしていてテアトル銀座で、
たまたま『アラビアのロレンス』を観て感動したこと。
友人にそれを話したら
「君は俳優になるべき。君は文学座だ」
「作文の試験には杉村春子さんの芝居に感動して役者を目指しました、と書いたら合格するから」
と言われ、
「俺、観たことねぇよ」と言ったら、
「とにかく書け」と言われ、
その通りにしたら文学座に合格。
文学座の養成所を経て入団した劇団四季では、
『王様の耳はロバの耳』の王様役、
『ジーザス・クライスト・スーパースター』のイスカリオテのユダ役などで有名に。
1979年の大河ドラマ『草燃える』で、
架空の人物ではあるものの、
作品で重要な役柄である伊東祐之役に抜擢。
伊東祐之は最終回で琵琶法師となって平曲を弾き語る場面があり、
滝田は琵琶を習って吹き替えなしでこの場面を演じました。
翌1980年には
連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』で、
主人公の夫役を演じます。
1981年劇団四季を退団、
デビュー当時は加藤剛に瓜二つといわれ、
業界の関係者からもよく顔を確認しないと分からない程でした。
1983年、
大河ドラマ『徳川家康』で主役の徳川家康を演じ、
これにより、全国的な知名度を上げました。
また、
舞台の『レ・ミゼラブル』では14年にわたって主役を務めました。
山歩き(成田高校山岳部出身)・武道・料理と多芸多趣味なことでも知られ、
大の料理好きが高じて『料理バンザイ!』の司会を
放送開始から最終回まで20年に渡って務めました。
また抜刀術(戸山流)の有段者であり、
時代劇の場面では試し斬りを披露することも。
1992年に母と死別したことを契機に、
2年後の1994年に供養のため、
プロの仏師に学んで初めて観音菩薩像を彫り、
以後、
父や兄の死に際しても仏像を彫り、
アフガニスタン戦争の時には3年かけて等身大の不動明王を彫っています。
東日本大震災後には像高130cmの地蔵菩薩像を彫り、
宮城県気仙沼市に安置されています。
『レ・ミゼラブル』の公演終了直後、
「お釈迦様を人生かけて学んでみようと思った」
という理由で約2年インドに滞在。
学生時代から山歩きが趣味で、
八ヶ岳に親近感を抱くようになり、
結婚式も諏訪大社で挙げました。
1980年代から八ヶ岳山麓(長野県諏訪郡原村)に居を構え、
就学までの子育てもそこでおこないました。
2020年12月に地元で施設メガファーム計画の再考を求める市民団体の共同代表に就任。
2020年代には原村で土地を借り、
農耕も手がけています。
(滝田栄)

懐かしい…😅 アニメのネコと言えば、このニ人❓二匹❓😂 ニャロメ&ニャンコ先生・・・🤣🤣✌

宍戸錠さん
(1933年12月6日-2020年1月18日)
俳優・タレント・司会者。
身長174cm。
郷鍈治は実弟、
宍戸開は長男、
宍戸史絵(現・紫しえ)は長女、
ちあきなおみは義妹(実弟・郷鍈治の妻)。
大阪府桜宮(現在の大阪市都島区)出身。
宮城県白石高等学校卒業、
日本大学藝術学部演劇科中退。
父親は現在の福島県伊達市の出身。
母親は台湾生まれ、静岡県浜松市育ち。
父は工作機械を扱う会社を起業して独立し、
満州事変の特需で250万円儲け、
この後、「錠」は大阪で出生。
「錠」という名前の由来は宍戸家が子沢山だったため、
『この子を最後の子にしたい(子作りに錠前を掛ける)』という両親の思いがあったから。
家のあった桜宮は
下請けの町工場と温泉マークがあったため、
環境に悪いと3歳から5歳の頃、
家族で東京滝野川へ移り住み、
父は仕事を辞めその後は亡くなるまで定職に就かず、
1300坪くらいの家を建て、
一家は裕福な生活を送ります。
小学6年生の頃に東京大空襲で敷地に焼夷弾240発が落とされて自宅が全焼し、
跡地はドサクサに紛れた何者かに居座られ、
奪われてしまいます。
遠い親戚を頼り宮城県斎川村(現在の白石市)に疎開。
当地に父が家を建て、高校卒業まで当地で育ちます。
勉強もスポーツもよく出来、
高校ではバスケットボール部に所属。
映画もよく見て、
プロ野球選手か、実業団で野球をやるか俳優をやるか考え、
1952年高校卒業後、
早稲田で演劇をやろうと試験を受けましたが落ち、
日本大学藝術学部に進みました。
同期に
ケーシー高峰、砂塚秀夫、赤江瀑、嵐徳三郎ら。
大学へ入学するも、
2年のときに日活に合格したために中退。
1954年、
日活ニューフェイス(第1期生)として入社。
1955年、
『警察日記』での若い巡査役で銀幕デビュー。
この頃は線の細い美青年でしたが、
1956年にトレードマークとなる豊頬手術を受けました。
これを機に「アクの強い役=悪役」への転向を見事に果たします。
1962年に一才歳上の女性と結婚、
3人の子供がいて、長男が宍戸開。
1966年、鈴木恂の設計で邸宅を建てます。
1992年、弟の郷鍈治が病死。
2001年、
豊頬の際に注入された異物(オルガノーゲン)を摘出手術で取り除きました。
映画や創生期のテレビドラマ『事件記者』などに出演。
タフでハードボイルドな役柄で小林旭らとともに名を知られ、
日活アクション映画の需要もあって、
「エースのジョー」と呼ばれて親しまれました。
エースのジョーのニックネームは
日活の宣伝部員によって名付けられ、
これは宍戸が
「ハリウッドの3流ギャング映画的な『殺し屋ジョー』でやりたい」
というリクエストに応えたもの。
映画の衰退と共にテレビへと活動の場を移し、
テレビドラマの他に
『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』に出演したり
息子と『くいしん坊!万才』のレポーターを務めました。
2006年、息苦しさを感じ、
心臓血管研究所付属病院での検査の結果、虚血性心不全と診断されて即入院。
冠状動脈カテーテル・バルーン手術を受けました。
2010年4月16日、妻と死別。
2013年2月4日、
1966年に建築した自宅が全焼。
妻の死去後は独り暮らしで外出時の出火でした。
直後のホテル住まいを経て、
翌月からは賃貸マンションで暮らしました。
2020年1月18日、
虚血性心疾患のため東京都内の自宅で死去。
86歳没。
(宍戸錠)
鶴田浩二さん
(1924年12月6日-1987年6月16日)
俳優、歌手。
身長172cm。
旧海軍中尉(大井航空隊所属の整備科予備士官)。
昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。
戦後派として登場し、
甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出ました。
若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博しましたが、
中年期からは任侠映画や戦争もので見せた渋い魅力で、
日本映画界を代表するスターとして長らく君臨。
また、
歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られました。
(鶴田浩二)

✨篠ひろ子・さん✨仙台市出身、兄はプロゴルファー沼澤聖一さん、ゴルフ場でスカウトされて、東北放送⭐ホリデーイン仙台⭐でアシスタント、東北学院大、後輩に鈴木京香さん、旦那の伊集院さんにお悔やみ申し上げます。

二代目大川橋蔵さん
(1929年4月9日-1984年12月7日)
東京都出身の日本の歌舞伎役者、俳優。
柳橋の芸妓の子として出生し、
生後まもなく小野家の養子に。
養父は市川瀧之丞という歌舞伎役者で、
端整な顔立ちの富成を役者に育てようと幼いころから舞踊を仕込み、
のち、
知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子としました。
1935年(昭和10年)11月、
市川男女丸を名乗って初舞台。
そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を認められ、
以後目をかけられるように。
1944年(昭和19年)10月には六代目の妻・寺島千代の養子となり、
その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに二代目大川橋蔵を襲名。
六代目亡き後は菊五郎劇団に属し、
主に娘役として頭角を現すように。
菊五郎劇団の女形としては、
まず七代目尾上梅幸がおり、
次に七代目中村福助が控えていましたが、
橋蔵はその後に控える第三の地位を占めるように。
しかし、
六代目という絶対的な後ろ盾を失った橋蔵は、
歌舞伎界の前途や自身の将来に不安を感じていました。
またこのころ、
一足先に大映から銀幕デビューした八代目市川雷蔵が橋蔵とよく似た境遇にあった橋蔵に映画界入りをしきりにすすめていたといいます。
1953年に東映入りした中村錦之助の映画界入りの際のゴタゴタなど、
保守的で硬直化した当時の梨園の内部事情が影響し、
最終的に映画界入りに際して歌舞伎の世界と縁を切りましたが、
歌舞伎に対する敬意と愛情は終生持ち続け、
映画転向後に自身の一座を組んで舞台公演を行う際には、
必ず『お夏狂乱』『鏡獅子』『船弁慶』などの歌舞伎舞踊を中幕の演目に選び、
観客を喜ばせました。
1955年12月、『笛吹若武者』でデビュー。
しかしこの時は歌舞伎に籍を置いたままでした。
2作目の『旗本退屈男』を撮った後マキノ光雄の誘いに応じて東映に入社。
この後、
東千代之介・中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、
橋蔵も若手時代劇スターを代表する一人として
昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていきます。
1960年代以降、
映画全般がテレビに押されて時代劇は斜陽の時代に入り、
東映がヤクザ映画に路線転換していくと舞台やテレビに活動の場を移しました。
祇園で馴染みの芸妓であった沢村真理子と1966年3月に結婚。
1956年2月東横ホールを最後に映画界へ入り、
以来の舞台へ立ちます。
1962年8月より東映歌舞伎が明治座で公演。
歌舞伎出身の橋蔵は主力メンバーとして出演し、
このほかに
市川右太衛門・片岡千恵蔵・大友柳太朗・東千代之介ら。
銀幕スターが生で見られるとあって明治座始まって以来の客入りで、
明治座の扉が閉まらなかったそうです。
橋蔵は昼の部の「濡れつばめ」(川口松太郎作・演出)三幕を皮切りに
夜の部「いれずみ判官」三幕五場、「花の折鶴笠」四幕十場に出演。
1967年12月から大川橋蔵特別公演で11年ぶり歌舞伎座の舞台に復帰を果たし、
初日は
13代目仁左衛門、17代目羽左衛門、3代目左團次(当時男女蔵)などが歌舞伎から多数出演。
1968年12月の歌舞伎座での『鏡獅子』では場内割れんばかりの拍手の嵐となり、
かつて菊五郎劇団の女形・舞踊の上手さで頭角を表していましたが
門閥の壁ゆえ果たせなかった夢を映画で成功させ、
一枚看板で歌舞伎座を超満員に。
1966年5月から
フジテレビで『銭形平次』が放映開始。
以後終生にわたる当たり役となりました。
1984年4月4日、
『銭形平次』が最終回を迎え18年間で888回におよぶ長期シリーズに終止符を打ちました。
この時点で「1人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマ」としては世界最高記録となり、
ギネスブックに認定。
橋蔵は1983年9月ごろより体調を崩し、
入退院を繰り返していました。
遺作となった『蝶々さんと息子たち』の撮影中に倒れ、
11月25日の最後となる入院時、
すでに結腸癌が肝臓に転移している状態でした。
病名は橋蔵には告げられませんでしたが、
自らの病気を察知し医師に対して
「大酒も飲まず煙草も喫まず、
食事にも気を遣い、
いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、
何故こんな病気になったんですか!?」
と訴えたといいます。
1984年12月7日午前1時29分、結腸癌のため死去。
55歳没。
(二代目大川橋蔵)
宝塚.出身女優列伝!
戦前から戦後、、令和の現在まで…宝塚.出身女優は、華が有り美人の銀幕のスターです!
*個人的な見解で1番好きだったのは、、「八千草薫」さんでしたが、近年の調査では「天海祐希」さんが最も人気を博して高いようですが……!
1番のお気に入りのスターは
誰だ!!
年代順に列記しました!
小松政夫さん
(1942年1月10日-2020年12月7日)
コメディアン、タレント、俳優、声優。
身長165cm。
社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。
福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身。
愛称は
「親分さん」
「小松の親分(自らのコントから)」
「小松与太八左エ門」。
高校卒業後、俳優を志して上京。
様々な職業を経て、
植木等の付き人兼運転手として芸能界入り。
伝説のバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」でデビュー。
その後は、
コメディアンとして様々なテレビ番組で活躍。
俳優としても、
数多くのドラマや映画、舞台に出演。
2011年、日本喜劇人協会の第10代会長に就任。
俳優・コメディアンとして精力的に活躍。
師匠・植木等とのエピソードを綴った著書「のぼせもんやけん」が、
ドラマ化(NHK『植木等とのぼせもん』)されて話題を集め、
豊富な人生経験と人間味あふれるエピソードに基づいた講演会やトークショーも人気となっていました。
(小松政夫)
東京ローカルのネタですが……。
東京は銀座で最後までがんばってたグランドキャバレー……。
白いばら
昭和のキャバレーといえば、キャバレー太郎こと福富太郎のハリウッド。
ロンドンロンドンロンドン~~~♪ のロンドン。
ハワイとかウルワシとか……。
それはチェーン店ですが、白いばらはここ一店舗。
昭和26年、銀座八丁目で創業……。
店舗の外壁に手作り感あふれる大きい日本地図があり、各県のところにその日出勤いてるホステスさんの名札が。もちろん、その都道府県出身のね。
エントランスのボーイさんに案内され店内へ……。
ま~~、とにかく広い!!!
も~~~、いっかにも昭和レトロな内装と照明!!!
2フロアで、二階席は途中で途切れて前のほうが大きな吹き抜けに……。そこから、一階のダンスホールを見下ろすことができるようになってます。
で、中二階のステージには5人編成くらいの生バンドが……。
クラブ歌手の方もいたかも……。
リクエストすると演奏してくれます。スタンダードジャズとかね。生バンドバックに歌えるんですけど、これはね~~!!!かなり自信がないと無理。
席につくとホステスさんがやってきて。早い時間に入るとセットで6000円くらいだったかなあ~~と。ビールの中ビンか大ビンとつまみつきで。入場料、席料こみで。
キャバクラと違って、ホステスさんのノルマともないんで、飲み物せがまれたりしません。
もちろん、なんか飲み物頼みなよってね。マナーですから。
20時と22時のショータイム。
ホステスさんがショーの衣装に気がえて登場。店内全部ステージに変ります!!!
ダンスタイムもあって、一階のダンスフロアで社交ダンス大会。実は昼間ダンス教室の先生やってるホステスさんもいて、彼女達のリードでオジサンたちが踊ったり……。
とにかく時間がストップしてしまったような場所でした。
ここに来る常連さんは、まさに店が醸し出す昭和の空気を感じたいがために……。ま~~、わたしもそのひとりだったんですが……。なんか落ち着くんですよね~~~!!!どっちが客か分からないようなキャバクラと違って……。
2018年1月10日にその歴史を閉じます。
閉店発表後は、予約客のみの受付。
連日満杯で予約まったくとれませんでした。
日本全国からかつての常連さんとかも訪れたようです。
ちょっと長くなってすみません。
もうあんな店がないのかと思うとついつい……。
写真は1枚とゆう規約なんですが、1枚だと雰囲気伝わらないんでお許しください。何枚か投稿させていただきます。
※わたしの思い違いのところがあるかもしれません。あしからず。
いつでも夢を 1963年
【解説・あらすじ】
『いつでも夢を』(いつでもゆめを)は、1963年(昭和38年)公開の日本映画。製作・配給:日活。監督:野村孝。カラー、シネマスコープ(2.35:1)、89分。前年に発売された楽曲『いつでも夢を』がヒットしたことを受けて製作された映画(ヒット曲映画化作品)のひとつで、同曲をデュエットした橋幸夫と吉永小百合が主演した。同曲が本作のタイトルバックで主題歌として使用されているほか、橋・吉永のヒット曲が作中で多数歌われる。 高度成長下の工場地帯を舞台に、貧しくとも幸せを求めてひたむきに生きる若者たちの恋と友情と青春が描かれる。
【キャスト】
橋幸夫
吉永小百合
浜田光夫
【スタッフ】
監督
野村孝
脚本
下飯坂菊馬
田坂啓
【作品データ】
製作年 1963年
製作国 日本
配給 日活
上映時間 86分
★かしまし娘
3人ともご健在でいらっしゃいます。
笑顔を見ていると元気をもらえます。
名古屋章さん
(1930年12月8日-2003年6月24日)
俳優、声優、ナレーター。
東京府東京市麹町区(現、東京都千代田区)九段出身。
身長170cm、体重78kg。
旧制九段中学校卒業。
NHK東京放送劇団、文学座、劇団雲を経て、
1975年(昭和50年)以降はフリー。
1950年代から半世紀にわたり、
数多くの舞台、映画、ドラマ、ラジオに出演、ナレーターとしても活躍。
(名古屋章)
三波伸介さん
(1930年6月28日-1982年12月8日)
コメディアン・俳優・司会者・タレント。
昭和期を代表するテレビスターのひとり。
東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。
長男は喜劇役者の二代目三波伸介。
当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。
(三波伸介)
嵐寛壽郎さん
(1902年12月8日-1980年10月21日)
映画俳優、映画プロデューサー。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、
300本以上の映画に出演し、
「アラカン」の愛称で親しまれました。
同時代の時代劇スターの
阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに
「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
当たり役は
鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、
前者は40本、後者は36本シリーズ化。
また、
新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、
俳優の中で初めて天皇を演じて話題となりました(本作では明治天皇を演じました)。
晩年は東映任侠映画で助演し、
テレビドラマでも活躍。
祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。
叔父は俳優の六代目嵐徳三郎。
従妹は女優の森光子。
自宅は嵐山にありました。
(嵐寛壽郎)
山内賢さん
(1943年12月9日 - 2011年9月24日)
俳優・歌手・司会者。
東京都出身。
北区立滝野川第四小学校、北区立新町中学校(現・田端中学校)卒業。
玉川学園では、浜田光夫と同級生。
俳優の久保明は実兄。
身長170cm。
1955年『姿なき目撃者』で子役デビュー。
その後、東宝作品に出演。
1962年4月1日、
日活と契約し芸名を「山内賢」に改めます。
多くの日活映画に出演。
第一作目は『雲に向かって起つ』(石原裕次郎主演)。
1960年代にブームとなる日活純愛・青春路線を支えました。
和泉雅子との共演作が多く、
なかでも鈴木清順が監督した『悪太郎』『悪太郎伝 悪い星の下でも』は、代表作。
また、舟木一夫とも多く共演。
歌唱及びギターを得意としており、
1962年には日活の俳優仲間であった
和田浩治、杉山俊夫、杉山元、木下雅弘とともに
ヤング・アンド・フレッシュというバンドを結成し、レコードをリリース、
また彼らをフィーチャーした映画も数本製作。
1966年には
和泉雅子とのデュエット曲『二人の銀座』、『東京ナイト』が大ヒットし、同名の映画も製作。
日本映画の衰退とともに活動をテレビに移し歌手そしてドラマや司会などで活躍。
1979年から6年にわたり放送された『あばれはっちゃくシリーズ』の先生役や
1983年、1997年、1998年放送のNHK『趣味講座』(釣り、登山)などで人気を博します。
2003年夏、
右肺にガンが見つかり除去手術を行い、
その後も食道・左肺と転移が発見され計4度の手術を行いました。
2007年11月17日、
新宿の京王プラザホテルで開催された
日活出身の俳優にて、構成する「俳優倶楽部」と
スタッフ等で構成する「旧友会」の合同パーティーに、
渡哲也・浅丘ルリ子・宍戸錠・芦川いづみ・松原智恵子・川地民夫・沢本忠雄・鈴木清順・井上梅次・齋藤武市・舛田利雄らとともに出席。
2008年9月、
和泉雅子との約40年ぶりデュエット新曲『おとなの銀座』を発売。
また『二人の銀座』を含む往年のヒット作品を新たに録音したアルバムも発売。
2009年2月、
テレビ番組の企画で『あばれはっちゃくシリーズ』の共演者、
吉田友紀(初代あばれはっちゃく)、
栗又厚(二代目あばれはっちゃく)、
早瀬優香子(初代ヒロイン)らと約30年ぶりに再会。
2011年9月24日午前4時53分、
肺炎のため東京都新宿区の病院で死去。
67歳没。
(山内賢)
佐田啓二さん
(1926年12月9日-1964年8月17日)
1940年代後半から1960年代にかけて活躍した俳優。
身長173.2 cm。
女優・エッセイストの中井貴惠と、
俳優の中井貴一は実子。
京都市下京区の商家に生まれ、
両親と5歳上の兄と2歳上の姉のもとで育ちます。
京都市立第二商業学校(のちの京都市立西陣商業高等学校、廃校)卒業後、
早稲田大学専門部政経科(のちの政治経済学部)に入学。
高校3年生の頃に母、
2年後に父を亡くすも、
兄と姉が親代わりとなり佐田の生活を支えました。
当時戦時中でしたが大学進学のため上京し、
親族の知り合いで松竹の人気俳優佐野周二の家に下宿するも、
2年生の時勤労動員で豊川海軍工廠(愛知県)で働いた後、
そのまま終戦を迎えます。
東京に戻った後、
佐野との縁がきっかけで1946年(昭和21年)松竹大船撮影所に入社。
芸名は、「佐野周二」の姓名から一文字ずつ譲り受けて名付けられました。
1947年(昭和22年)、
早稲田大学専門部政経科を卒業。
1947年(昭和22年)、
木下恵介監督の『不死鳥』で、
いきなり、大スター田中絹代の相手役に抜擢。
田中とのラブシーンは話題となり、
早くもスターの地位を獲得。
続いて、
菊田一夫原作のNHKの人気ラジオドラマを映画化した『鐘の鳴る丘』に主演し、
さらに人気を高めます。
ほぼ同時期にデビューした
高橋貞二、鶴田浩二と人気を分け合い「松竹戦後の三羽烏」と言われました。
その人気を決定的なものとしたのは、
1953年(昭和28年)に公開された『君の名は』。
当時の大人気ラジオドラマを映画化したこの作品で岸恵子と共演し、
名実共にトップスターの地位に。
その後、徐々に演技派に脱皮していき、
特に、
プロ野球選手のスカウト合戦を題材にした
1956年(昭和31年)の小林正樹監督の問題作『あなた買います』では、
札束で大学生を釣るアコギなプロ野球のスカウト役として伊藤雄之助を相手に鬼気迫る演技を見せ、
毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の主演男優賞を獲得。
その後は木下の『喜びも悲しみも幾歳月』では
高峰秀子との灯台守の夫婦役で新婚時代から初老までを演じ、
小津安二郎の『秋刀魚の味』など戦後を代表する作品に出演。
後には癖のある悪役なども演じていました。
1957年2月28日、
松竹大船撮影所の前にあったレストラン「月ヶ瀬」の看板娘・杉戸益子と交際10年を経て結婚し、
その後2人の子供(貴恵、貴一)に恵まれました。
1964年(昭和39年)8月13日から
夏休みを兼ねて妻や幼い2人の子供たちと
信州蓼科高原の別荘に避暑に訪れていました。
NHKドラマ『虹の設計』の収録に参加するために家族を別荘に残して帰京する途中、
8月17日午前6時30分頃、
山梨県韮崎市韮崎町の塩川橋手前の左カーブで、
乗っていた車の運転手が前の車を追い越し、
その直後車は横滑りを起こし、
佐田の乗っていた右側から橋柱に激突、
さらに跳ね返されて追い抜いた車も衝突する大事故を起こしました。
佐田はこの事故で頭の骨と右腕を骨折し、
すぐに韮崎市立病院に運ばれたが午前11時過ぎ頃に死去。
37歳没。
(佐田啓二)
西恵子さん(TAC 美川のり子隊員)
1948.12.11(74歳)  新潟県長岡市出身
162cm  AB型
1968 日活映画「BG・ある19才の日記 あげてよかった」でデビュー
1970 ライオン奥様劇場「続・下町育ち」にレギュラー出演
1972 「ウルトラマンA」TAC美川のり子隊員役でレギュラー出演
女優引退後は、以前からの夢であった喫茶店をご主人と一緒に東京・銀座に「珈琲 蕃」を開店する。
(2019.12.31閉店)
現在はウルトラマンA関連のイベントやYouTubeなどでご活躍されてます。
佐藤蛾次郎さん
(1944年8月9日-2022年12月9日)
俳優・タレント。 
身長155cm。
大阪府高石市出身。
息子は俳優の佐藤亮太。
1953年に朝日放送児童劇団に入団。
1961年に『神州天馬侠』の泣き虫蛾次郎を演じてから、
芸名を佐藤蛾次郎に。
1968年にはテレビドラマ『男はつらいよ』に出演。
1969年からは
映画『男はつらいよ』に柴又題経寺の寺男・源吉(愛称:源公、源ちゃん)役で出演。
最新作の2019年まで出演し続け、
本シリーズに欠かせない存在に。
1970年代から1980年代にはアフロヘアーにしていましたが、
テレビドラマ『柳生一族の陰謀』、
映画『戦国自衛隊』、
テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』などの時代劇でも丁髷のカツラを被らず、
人の良い男をコミカルに演じ、
そのヘアスタイルは佐藤の売りに。
2022年12月10日午前10時過ぎ、
東京都世田谷区の自宅浴室で風呂に浸かった状態で動かなくなっているのを親族が発見し、
その場で死亡が確認。
78歳没。
(佐藤蛾次郎)
戦後日本最大の
ミステリー
《府中.三億円事件》
*1968年(昭和43年)12月10日,東京府中市で約三億円の現金が白バイ警察官に扮した男に奪われた事件です
*1975年(昭和50年)12月10日、公訴時効が成立して未解決事件となった。
坂本九さん
(1941年12月10日-1985年8月12日)
歌手・俳優・タレント・司会者。
神奈川県川崎市川崎区出身。
愛称は九ちゃん。
妻は女優の柏木由紀子。
柏木との間に娘が2人おり、
長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。
実祖父は茨城県新治郡田伏村(のち佐賀村→出島村→霞ヶ浦町、現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉。
またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。
「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」等数多くのヒット曲を出し、
全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達しました。
また、
映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など多岐に渡り活動。
(坂本九)
若大将シリーズ
東宝のドル箱シリーズですね。
まあ、とにかく当時の加山雄三の人気は凄かったです。
昭和36年から昭和41年。全17作。日本の高度成長期どまんなか。
ルックス良し、スポーツ万能、音楽までこなし……。慶応ボーイだし……。
父親は天下の二枚目俳優、上原謙。
母親は岩倉具視のひ孫、子桜葉子。
きっすいのオボッチャマ。
そのおぼっちゃま育ちの加山のキャラを、そのまま反映させた若大将。明るくなにごとにも物怖じしない。くよくよしない。悩まない。
実は、大学出たてで演技力のない加山の魅力を打ち出すために、普段どんな生活をしてるのかを聞き出し、ほぼ同じキャラ設定をしたそうです。つまり若大将を演じているとゆうより、ほぼ加山雄三だったわけですね。まあ、そこも人気の秘密の一端かも。それまでのスターと異なり、等身大の若者とゆうことで親しみがもてますよね。
このシリーズから多くのヒット曲も生まれました。
ちなみにわたし、田中邦衛演じるアオダイショウ、けっこう好きでした。
※複数の画像投稿となりますが、1枚だとシリーズの感じが伝わらないもので……。あしからず。

ごくせん。第一シリーズ。

山本富士子さん
(1931年12月11日-)
女優。
愛称はお富士さん。
身長159cm。
日本のミス・コンテストでも最も古い歴史を持つ「ミス日本」の初代グランプリ受賞者。
大阪市西区立売堀生まれ。
母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。
少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習い、
自宅が進駐軍に接収されたため引越し、
大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)から
京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に転入し、
1949年(昭和24年)卒業。
1950年(昭和25年)、
読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催し、
700人近い応募者があった第一回ミス日本において、
満場一致でミス日本の栄冠に輝きました。
1951年にミス日本として公式訪米し、
ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会い、
ミス日本選出後、
映画界からスカウトされるも、
当初女優になる意思はなく、
スカウトが途切れず、悩んだ末、
姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」
という言葉に女優になる決心をします。
ミス日本になってから3年後の1953年、
映画会社の争奪戦の末、大映に入社。
同年、
映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。
戦後ミスコン出身女優第1号と言われています。
1954年に『金色夜叉』、
1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、
1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、
大映の看板女優として活躍。
1963年1月末の契約切れを待ってフリーを主張。
大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、
彼女を解雇し五社協定にかけると脅しました。
山本はフリー宣言をし、
詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸しませんでした。
永田は一方的に解雇し、
五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作。
この事は当時の国会でも取り上げられ、
世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がりました。
彼女はテレビドラマに活路を求め、
『山本富士子アワー』などに主演した後、
演劇に新境地を開き、
2013年現在まで演劇一筋で主演を続けています。
2022年の時点で映画界には復帰しておらず、
映画出演はなし。
1962年、
ギタリスト・作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。
1968年、長男を出産。
現在は孫もいます。
2002年12月、
日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。
(山本富士子)
下川辰平さん
(1928年12月11日-2004年3月25日)
俳優。
福岡県福岡市出身。
武蔵野美術大学中退。
1945年、陸軍士官学校に合格するも敗戦、
画家を志し、武蔵野美術大学に入学するも、
中退して帰郷。
絵ごころあって福岡の電機ホールで舞台装置を手伝っているうちに、
1954年、
ラジオ九州(現在のRKB毎日放送)の放送劇団に
2期生として入団し俳優活動をスタート。
福岡市民劇場の座長を務めました。
ワンマンで地元では一番高い出演料をもらっていたといいます。
1964年、杉村春子にめぐりあい、
再び上京して文学座附属演劇研究所に入り、
研究生を経て1968年に文学座座員に昇格。
『飢餓海峡』(1972年)、
『天守物語』(1974年)ほか多くの舞台に立ち、
1977年の舞台『天守物語』を最後に退座。
1972年、
『太陽にほえろ!』シリーズでの通称「長さん」こと野崎刑事役でレギュラー出演し、一躍有名に。
以降、叩き上げの刑事役はハマり役といわれました。
『太陽にほえろ!』で五代刑事役を演じていた山下真司とは
1984年に『スクール☆ウォーズ』で再共演し、
自身は山城晋平校長で出演。
放映当時の
「支配的な教育(徹底的な管理教育)」
「不良生徒は追い出せ」という思想とは正反対の
「好き好んで不良になる生徒がいるのだろうか」
という生徒目線の校長を演じきって代表作の1つに。
黒澤明からは『どですかでん』への出演で気に入られており、
その後の作品の出演依頼を受けていましたが、
スケジュールの都合で叶わず。
晩年は病気のため地元に帰郷。
2004年3月25日、
敗血症のため福岡市内の病院で死去。
75歳没。 
(下川辰平)
田河水泡さん
(1899年2月10日-1989年12月12日)
漫画家、落語作家。
昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、
代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、
戦後もさまざまなキャラクターグッズが作られるなど、
社会現象となるほどの人気を獲得。
(田河水泡)
谷村新司さん
(1948年12月11日-2023年10月8日)
シンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大学教授。
身長172cm。
アリスのリーダー。
大阪府大阪市住之江区(当時は住吉区)の出身で、
同南河内郡長野町(現・河内長野市)生まれの同大阪市東住吉区桑津育ち。
愛称はチンペイ。
3人兄姉の次男(兄1人、姉1人)。
娘は歌手の谷村詩織。
(谷村新司)
小津安二郎さん
(1903年12月12日-1963年12月12日)
映画監督、脚本家。
身長170cm。
日本映画を代表する監督のひとりであり、
サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、
原節子主演の
『晩春』(1949年)、
『麦秋』(1951年)、
『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督。
ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、
親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、
黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されています。
1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出。
(小津安二郎)
東海林太郎さん
(1898年12月11日-1972年10月4日)
秋田県秋田市出身の流行歌手。
戦前から戦後にかけて活躍し、
ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴がありました。
(東海林太郎)
舟木一夫さん
(1944年12月12日-)
歌手、タレント。
橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれています。
学生服と八重歯がトレードマークで、
デビュー当時は、学園ソングとよばれる、
高校生活をテーマにした歌が多数。
身長172cm。
初期の所属事務所はホリプロダクション、
現在のホリプロ。
愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)出身。
当初は舟木和夫という芸名になる予定でしたが、
舟木が
「和はひ弱な感じがあるので、一にして欲しい」
と希望したために一夫になったといいます。
のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、
同じ時期にデビューした西郷輝彦、橋幸夫とともに「御三家」として人気を集め、
青春ソングの定番「高校三年生」に代表されるように、
学生時代を題材にした歌謡曲のほか、
『銭形平次』のテーマソングのように、
時代モノも数多く歌っています。
また舞台などにも出演し、多彩な活動をしています。
(舟木一夫)
菅貫太郎さん
(1934年12月12日-1994年3月22日)
俳優。
愛称はスガカン。
秋田県湯沢市出身。
秋田県立湯沢高等学校卒業、中央大学中退。
劇団俳優座出身。
高校卒業後、中央大学に進むも中退。
1957年(昭和32年)に俳優座養成所に第9期生として入所。
1960年(昭和35年)に座員となり、
「セチュアンの善人」で初舞台。
1971年(昭和46年)に
菅孝行作の「はんらん狂騒曲」上演を禁じた俳優座幹部と対立、
市原悦子、中村敦夫、原田芳雄らと共に、
俳優座劇場で同作の造反公演劇団を行い、退団。
劇団在籍中から、映画やテレビドラマにも出演。
独特のオーバーリアクションと、
病的な異常性を秘めた表情の演技(特に悪役で活かされる)で強烈な印象を残しました。
主な映画出演作は、
『霧丸霧隠れ』(1961年(昭和36年))、
『十三人の刺客』(1963年(昭和38年))、
『幕末残酷物語』(1964年(昭和39年))、
『田園に死す』(1974年(昭和49年))など。
寺山修司監督の『田園に死す』は唯一の主演作。
劇団所属のまま、映画は東映作品の常連となり、
特に工藤栄一監督『十三人の刺客』で演じた松平斉韶役は「酷薄な馬鹿殿さま」として、
以降の時代劇で同様の役を演じるほどの当たり役となりました。
その後十年を経てなおも類似の出演依頼が続き、
演技指導では「松平斉韶役みたいに」と同様の演技を求める制作や演出家の技量に対して菅は演技者の立場から批判。
テレビドラマでは、
『水戸黄門』や『必殺シリーズ』、『暴れん坊将軍』など多数の時代劇や刑事ドラマにゲスト出演し、
主に悪役として活躍。
善人役を演じる時は、
普段の悪役のイメージを逆手にとり悪役風に姿を現し、
終盤で実は善人だったという役は予定調和型ストーリー展開にトリック的な演技で
視聴者に強い印象を残します。
準レギュラー出演した『ご存知!女ねずみ小僧』では
町奉行所同心羅門京十郎役を前述のオーバーリアクションを交えつつ
各話で心境や様子に工夫する芸の細かさ・芸域の幅広さも見せました。
プライベートは「べらんめぇ」口調の飾らない性質で頭髪は演技都合で拘らず、
夫人の作成した登山帽(チロリアンハット)を愛用。
映画や現代劇の出演にはチロリアンハットを身に付けることも有りました。
1994年(平成6年)3月16日の夜、
神奈川県川崎市麻生区の自宅へ帰宅途中、
自宅前の横断歩道でオートバイと接触して頭部を強打し入院。
6日後の3月22日、
脳挫傷のため横浜市緑区の病院で死去。
59歳没。
(菅貫太郎)
梅宮辰夫さん
(1938年3月11日-2019年12月12日)
俳優、タレント、司会者、実業家。
娘はモデル・タレントの梅宮アンナ。
満洲国浜江省ハルビン市(現:中国黒竜江省ハルビン市)出身。
弟と妹それぞれ2人ずつおり、5人兄弟の長男。
一家はその後、
父の異動により開原市(現中華人民共和国遼寧省)に移住、
同地で太平洋戦争終戦を迎え、
1946年に他の引揚者らとともに信濃丸で博多港に帰国。
満洲から帰国して半年後に茨城県水戸市の病院に職を見つけた父とともに一家で移住。
小学校・中学校は1クラスでしたが、
小学4年から中学3年までの6年間はずっと番長で、
生徒会長にもなり、
女生徒からも人気があったといいます。
茨城大学教育学部附属愛宕中学校では陸上競技をし、
水戸移転から10年後、
高校から、
近くに親戚のいた品川区戸越銀座へ移住。
戸越銀座移転後、
実家は内科・小児科を診療科目とする梅宮医院を開業、
辰夫は跡継ぎとして期待されていましたが、
早稲田高等学校を経て、
医学部を受験するも不合格となったため、
浪人するのが嫌で、日本大学法学部に入学(後に中退)。
早稲田高校時代に剣道部を創設、喧嘩三昧。
大学在学中、
日東紡でモデルのアルバイトなどもしていて、
その「江戸常」のゲイから東映ニューフェイス試験を薦められ、
1958年(昭和33年)、
東映ニューフェイス5期生に合格。
当時、
映画は"娯楽の王様"で、応募者は3万3000人超。
五次試験まであり合格者は21人。
同期には
八代万智子・応蘭芳・高島新太郎・小嶋一郎・滝川潤。
役者になった目的は、
いい女を抱くこと、
いい酒を飲むこと、
いい車に乗ること、
きれいな海が見える一等地に家を構えることの4つ。
東映へ入社し、
翌年映画『少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズで主演デビュー。
新人時代は
他に『遊星王子』等子供向けヒーロー映画に主演。
東映が全力で売り出していた波多伸二が
1960年(昭和35年)、
デビューから四作目で急死し、
若手の主演級スターがいなくなり、
プロデューサー・監督ら幹部クラスで波多に代わるスターの選考が行われ、
ここで大半が推したのは亀石征一郎でしたが、
梅宮が東映東京撮影所(以下、東映東京)の次世代スターとして売り出されることに。
初主演作『殺られてたまるか』がヒットしたため、
デビュー作だった三田佳子とゴールデンコンビを組み、
10数本のコンビ作が量産。
しかしお互いが異性としては嫌いなタイプで、
三田が東映上層部に共演拒否を申し出てコンビ解消。
以後、
1964年(昭和39年)の『暗黒街大通り』までは「アクション映画」や「仁侠映画」で硬派な役柄で活躍していましたが、
段々私生活が派手になっていく梅宮を見て、
岡田プロデューサーが梅宮の私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄をあてました。
これが1965年(昭和40年)の『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」で、
岡田は梅宮を着流し任俠路線の裏番組のエースとして起用し続けました。
ここから"男を泣かせる鶴田 女を泣かせる梅宮"の名惹句が生まれ、
これが同じ岡田プロデュースによる1968年(昭和43年)からの「不良番長シリーズ」に至ります。
1960年代半ば以降は東映京都撮影所(東映京都)で「任侠映画」が量産されたため、
東映東京の看板スターだった鶴田浩二と高倉健が東映京都に行くことが多くなり、
必然的に梅宮が東映東京の看板スターとなりました。
東映入社後から10数年間は毎日のように銀座のクラブに通いました。 
「不良番長シリーズ」は、
最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、
梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、
後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、
ますます破壊的なギャグが繰り出され、
計16作が公開。
続いて主演の『夜の歌謡シリーズ』、
更に1970年代からは『帝王シリーズ』などを成功させます。
1972年(昭和47年)、
自身が経営する事務所「梅宮企画」倒産などによる多額の借金で窮地に立たされますが、
クラウディア・ヴィクトリアと再婚、
同年にはアンナが誕生。
1973年(昭和48年)からは
『仁義なき戦い』や東映実録路線で貫禄十分の独特の存在を醸し出します。
同映画の監督、
深作欣二とは同郷(茨城県水戸市)という縁もありました。
付き合いのあった山本健一のモデルを演じた
『仁義なき戦い 頂上作戦』が公開された1974年(昭和49年)、
36歳のときがんに罹り、睾丸腫瘍の診断を受けました。
半年後、癌細胞は肺にまで転移し、
末期の肺がんの診断を受け、
医者の父には「息子さんの余命は2~3ヵ月」と伝えられます。
復帰作は珍しくエリート刑事役を演じた『県警対組織暴力』。
この病気の後、
梅宮は夜遊びを止め、酒を減らし、家族との時間を大事にし、早起きして料理に励むように。
1975年、
倉本聰に請われて『前略おふくろ様』に出演。
「渋い」板前役を演じ、役柄を広げることに成功。
料理に目覚めた切っ掛けはこのドラマ出演から。
1977年、
大映テレビ制作の刑事ドラマ『新・夜明けの刑事』にて、
温厚な人柄の刑事課長役を演じたことで新境地を開きました。
以後、
『明日の刑事』(1978年 - 1979年)、
『スクール☆ウォーズ』(1984年 - 1985年)にも出演するなど、
大映ドラマの常連俳優としても活躍する一方、
『はぐれ刑事純情派』シリーズや『箱根湯河原温泉交番』シリーズなどのテレビドラマに出演し、
名脇役ぶりを発揮。
これ以降は20代前半からの美食三昧で肥やした舌を活かし、
料理人としても徐々に活路を見出して行きます。
実業家・料理家としての才能にも長けており、
「梅宮辰夫漬物本舗」「梅辰亭」といったブランドのフランチャイズチェーンや、
名古屋で「梅宮辰夫の炭焼き家 炎園」などの事業も展開。
晩年も病気がちで、
2018年9月に前立腺がん、
2019年1月に尿管がんの手術を受けるなど、
これまで6度のがんの手術を受けました。
その後も
慢性腎不全で週に数回、
人工透析を受けてきましたが、
2019年12月12日午前7時40分に慢性腎不全のため神奈川県内の病院で死去。
81歳没。
(梅宮辰夫)
仲代達矢さん
(1932年12月13日-)
俳優・演出家・歌手・ナレーター・声優。  
身長178cm。
劇団俳優座出身。 
無名塾主宰。
愛称︰モヤ。
劇団俳優座出身で演劇・映画・テレビドラマで活動を続け、
映画全盛期から斜陽時代以降までの映画界を支えてきた代表的俳優。
出演映画が
米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てで受賞しており、
森雅之・山形勲と並び四冠を達成。
(仲代達矢)
城達也さん
(1931年12月13日-1995年2月25日)
声優、俳優、ナレーター。
身長162cm。
大分県別府市出身。
大分県立別府鶴見丘高等学校、
1955年、早稲田大学第一文学部仏文専修卒業。
東京俳優生活協同組合に所属、
在籍中は専務理事を務めました。
大学在学中に俳優としてデビューし『七人の刑事』などに出演していましたが、
1961年にその美声を生かして俳協に移籍し声優業に転向。
以後、
FMラジオ番組『JET STREAM』の初代パーソナリティ、
テレビ番組『ビッグイベントゴルフ』
などといった番組やコマーシャルのナレーション、
またグレゴリー・ペックやロバート・ワグナーなどの洋画の吹き替えなどで絶大な人気を集めました。
特に『JET STREAM』のパーソナリティは、
1967年7月の放送開始から1994年12月まで27年半(7387回)に渡って務めたことから、
城の代名詞的番組と捉えられました。
1975年には
「ナレーターとしては黒沢良、矢島正明と並び三羽烏に入る」と評されており、
1979年にはACC賞(ナレーション部門)を受賞。
1993年12月に喉の不調を訴え検査を受けた結果、
食道癌に侵されている事が判明。
最終的には
「自分が納得出来る声が出せなくなった」と感じるようになり、
放送開始から27年半ずっと担当した
『JET STREAM』の降板をとうとう決意し、
1994年12月31日(30日深夜)の放送を最後に降板。
その直後に再入院するも、
1995年に入り黄疸が出て急激に痩せるなど病状が悪化。
同年2月25日午後8時10分、
食道癌のため、
東京都新宿区の慶応義塾大学病院で死去。
63歳没。
(城達也)
みなみらんぼうさん
(1944年12月13日-)
フォークシンガー、シンガーソングライター、俳優。
「らんぼう」という芸名は
フランスの詩人アルチュール・ランボーにあやかったもの。
宮城県栗原郡志波姫町(現・栗原市)生まれ。
プロボクシング元WBA世界スーパーフライ級王者の河野公平は娘婿。
1963年、法政大学社会学部に入学、
1967年に卒業。
その後、
コピーライター、ラジオ台本作家を経て
1971年、
日活映画『ネオン警察 ジャックの刺青』挿入歌『酔いどれ女の流れ唄』で作詞・作曲家としてデビュー。
1973年に『ウイスキーの小瓶』で歌手デビュー。
また、
子供の世界を対象とした作品も多く手掛け、
1976年にNHK『みんなのうた』で発表した『山口さんちのツトム君』は150万枚以上のミリオンセラーを記録。
さまざまな世代を越えて、多くの人に歌われています。
他に1980年代、
学研の「学習・科学」のキャンペーンソングも手がけ、
コンサート活動の他、
テレビのリポーター、ラジオパーソナリティー、執筆活動といった方面でマルチに活躍。
自然に関する知識もプロ並で、
特に植物に関しては造詣が深く、
自然番組や自然を扱ったエッセイなども書いています。
エッセイ「おばあちゃんと花」では中学生の国語教科書に採用。
最近では山歩きをライフワークとし、
国内外の山に登り、
新聞・雑誌などに山旅のエッセイを発表。
NHKラジオ第1およびNHK-FMの『ラジオ深夜便』・日曜0時台のコーナー「ないとガイド 自然を親しむ」において、
奇数月にゲスト出演していた時期も。
(みなみらんぼう)
『ゴジラ襲来トラック』2023 東宝
東宝は、ゴジラ70周年記念作品『ゴジラ-1.0』の全国公開を記念して『ゴジラ襲来トラック』を走らせました。全国28ヶ所。走行距離は5.000キロだったそうです。
こんなトラックが前を走っていたら、ひびっちゃいますね。😀
何より、アメリカで走らせれば超話題になったかもしれません。
アメリカの方こういうの好きそう。次はアメリカでも走らせてほしいですね。😀
セックス喜劇 鼻血ブー(1971)
監督:高桑信
出演:左とん平、小松政夫、太宰久雄、山城新伍、小池朝雄、小松方正、萩本欽一、三原葉子、杉本美樹、大村崑ほか
ゲス映画!
でもこちらは愛すべきゲス映画。
早漏で悩む主人公(左とん平)のお話し。
早漏で悩んじゃいるけど、なぜか女性とそういう関係になるチャンスがかなりあるのは笑えるW
左とん平なのにモテないわけでなく、逆にモテてるw
それなのにイザ!Hの段階になると早漏なのです。
それでイジメぬかれた自動車メーカーを辞めて、小松政夫と早漏しないコンドームを開発して一儲けする映画なのでしたw
とにかく始めの方の自動車メーカーの慰安旅行での宴会での女性を「物」としか見ていない社員連中だらけなので、女性が見るには注意が必要ですね。
歴史的価値の観点から見る分には良いかもしれないけど、普通じゃまず受け付けない人が女性のみならず男性でも多いかもしれません。
まぁ、こういう映画もあって、今の邦画界があるのでしたm(__)m
P.S.
山城新伍のゲス具合が抜きんでてます💀

那須博之監督の日活ロマンポルノ特集が、
2023/12月23日(土)に東京の壱岐坂ボンクラージュと言う場所で有るそうです。那須博之監督の「セーラー服百合族」シリーズ、「美少女プロレス失神10秒前」とか、エッチなシーンはもちろんですが爽やかさも有りますよ。

ボクの女に手を出すな(1986)
監督:中原俊
出演:小泉今日子、石橋凌、森下愛子、奥村公延、河原崎次郎、山田辰夫、夏八木勲、仙谷規子、大門正明、塩沢とき、室井滋、高田純次、宍戸錠、ウッチャンナンチャンほか
小泉今日子のアイドル映画。
ピンクばかりだった中原俊がようやく一般映画を撮れるようになった頃の映画です。
子供の家庭教師を頼まれたキョンキョンだったが、その子供の誘拐騒ぎに巻き込まれてしまう。。。
この7、8歳くらいの子供がキョンキョンを彼女のように名前で呼ぶのが面白いW
この映画も大事な所を忘れてて、たしか森下愛子が子供の母親で、キョンキョンに家庭教師を頼むのだが、実は○○で○○れる。
本当に実の母親だったのかどうか?
それと弁護士の石橋凌はワルだったのかどうか?
ここら辺が判然としていません。
これもいまだに気になってる映画の一つなんです~m(__)m
阪東妻三郎さん
(1901年12月14日-1953年7月7日)
歌舞伎俳優、映画俳優。
身長172cm。
サイレント映画時代に監督作があります。
端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、
「阪妻」の愛称で呼ばれました。
大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、
「剣戟王」の異名を持ち、
日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、
双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられます。
大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに
「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
(阪東妻三郎)
小山田宗徳さん
(1927年12月14日-1986年5月13日)
俳優、声優。
福島県石川郡石川町出身で、
東京府立第六中学校を経て東京高等学校 (旧制)を1948年に卒業。
1951年に俳優座養成所へ三期生として入所し、
1954年に卒業。
同期に穂積隆信、渡辺美佐子ら。
1960年に小沢昭一らと7人で「劇団俳優小劇場」を旗揚げ、
小劇場活動で先駆的役割を務めました。
1961年に、
水谷八重子に招かれて「女の勲章」で新派の舞台に立ちました。
舞台公演の傍ら1950年代後半からテレビドラマにも活躍の場を広げ、
「今日を生きる」「白い南風」などのいわゆる『よろめきドラマ』に出演すると、
誠実で落ち着いた雰囲気と風貌が主婦層に高く人気を獲得。
1962年に、
主題歌の歌唱も担当した『地方記者』『続 地方記者』(日本テレビ)に主演すると、
男性からも支持を得て茶の間の人気者に。
多数のテレビドラマ出演だけでなく
ラジオドラマ、ナレーション、吹き替えなど声の仕事も多数。
龍角散のテレビコマーシャルのナレーションや、
ウォルト・ディズニー、ヘンリー・フォンダ、ラリー・ハグマンなどの日本語版吹き替えを担当し、
ヘンリー・フォンダの吹き替えは持ち役となりました。
1976年にテレビ放送された映画『エスピオナージ』がフォンダの吹き替えを担当した最後。
テレビドラマ『スパイ大作戦』のオープニングで
「……頭脳と体力の限りを尽くしこれを遂行する」のナレーションも人気に。
元来の高血圧と過労が影響して1968年に脳溢血で倒れましたが回復。
1969年に宝塚歌劇団OGの日夏悠理と見合い結婚。
2月5日にお見合い、
5月3日に婚約、
8月9日に結婚というスピード婚だったうえに、
女性人気の高い俳優でありながら長らく独身であったことから、
女性週刊誌を中心に、
独身主義者が挫折して遂に結婚といった報道がなされました。
日夏との間には一男一女。
1971年に脳血栓で左半身麻痺を患い、
夫人の献身的な支えもあり現役復帰。
その後もテレビや舞台の仕事を続けましたが、
1976年2月に、
新劇合同公演「桜姫東文章」の稽古中に体調を崩して降板し、
1977年末に
三度目の発作に襲われて療養を余儀なくされました。
1986年5月13日午後8時40分に、
クモ膜下出血のため自宅で享年58歳で死去。
(小山田宗徳)
\ 2023/12月11日は🎹🎤 /
#サザンオールスターズ の総合プロデューサーこと⁉️
#原由子 のお誕生日です🎉🥳
皆様からあたたかいお祝いのメッセージをたくさんお送りいただき、本当にありがとうございます‼️💌
これからも変わらぬご声援をよろしくお願いいたします🤩🙌
#サザン45
★★★★★
サザンオールスターズ(桑田佳祐・原由子・関口和之・松田弘・野沢秀行)スタッフ
★★★★★
江幡高志さん
(1928年12月15日-)
俳優。
身長156cm ・体重51kg。
愛称は「エバタン」。
東京都出身。
明治学院大学経済学部中退。
石井漠舞踊研究所卒業。
1951年劇団俳優座の3期生出身。
同期には
愛川欽也、楠侑子、穂積隆信、塚本信夫、渥美国泰ら。
1952年、東映の『泣虫記者』で映画デビュー。
時代劇・現代劇問わず「小悪党の代名詞」として多数の作品に出演(バラエティー番組に川合伸旺、八名信夫らと出演した際には「この人達は最後に主役に斬られて目立つからいいけど、自分はその前にこの人達に殺されてしまう」と笑って語っていました)。
その一方で、気のいい善人役を演じることも。
いずれにしても小悪党か小市民を長らく演じてきましたが、
『不思議少女ナイルなトトメス』のゲストでは総理大臣を演じました。
トーク番組が苦手なため、
オファーがあっても断っていましたが、
『徹子の部屋』からのオファーがあった際には
「(テレビ黎明期からよく知る)徹子さんの番組なら……」と快諾。
2001年3月14日には
『笑っていいとも!』内のテレフォンショッキングにゲスト出演。
(江幡高志)
あき竹城さん
(1947年4月4日-2022年12月15日)
女優、タレント。
山形県米沢市出身。
身長167cm、米沢市観光親善大使。
1947年、
6人兄弟の末っ子として米沢市に生誕。
宝塚歌劇団に憧れて育ち、
小学4年生または中学生からモダンダンス教室で踊りを学ぶび、
米沢の女子高へと進みそこでもダンス部に所属していましたが、
大阪のキャバレーでフロアダンサーをしていた姉を頼りに女子高を中退して大阪へ渡ります。
そこでダンサーとしてデビューし、
全国各地を巡って踊りました。
フロアダンサーやヌードダンサーなどの下積みを経て、
1974年に日劇ミュージックホールに進出し舞台を踏み、
そこではコントにも出演し、山形弁を披露。
あきの山形弁は注目を浴び、
それを持ち味にしたコメディエンヌと認知され、
1976年には東京12チャンネルのバラエティ番組『独占!男の時間』へ出演し、
テレビ初出演も果たすようになりました。
同1976年からは映画の出演も開始し
『ピラニア軍団 ダボシャツの天』などに助演、
1977年には東映映画『トラック野郎・度胸一番星』に出演。
同作では追跡中にトラックの排気ガスで顔半分が黒くなった上、
上着を剥ぎ取られる婦人警官役で、
トップレス姿を披露。
のちに今村昌平監督に抜擢され、
1983年の『楢山節考』に緒形拳の後妻役で出演したことで女優としても地位を確立。
当初は
1978年の『喜劇役者たち 九八とゲイブル』のストリッパー役などのヌードを要望される役が多数でしたが、
その演技力を認められてからは、
性格俳優として
『野々村病院物語』(1981年・TBSテレビ)、
『夜叉』(1985年・グループ・エンカウンター製作映画)、
『マルタイの女』(1997年・東宝配給映画)などに出演、
NHKでは
『徳川家康』(1983年)、
『青春家族』(1989年)、
『八代将軍吉宗』(1995年)、
『私の青空』(2000年)、
『どんど晴れ』(2007年)、
『天地人』(2009年)
などの大河ドラマや連続テレビ小説に出演し
コミカルからシリアスな役までこなす硬軟自在の名枠役として支持を得ました。
1990年代後半からは女優業という枠を超え、
ユニークなトークを「山形弁丸出しで」話す、
明るいオバサンとして独自のキャラクターを生かしてバラエティ番組で活躍。
2020年頃に大腸がんを患い、
「元気なあき竹城でごあいさつしたい」と本人の希望もあり公表せず、
レギュラー番組を降板し闘病していましたが、
2022年秋頃に病状が悪化。
2022年12月15日、
大腸がんのため東京都内の病院で死去。
75歳没。
(あき竹城)
細川俊之さん
(1940年12月15日-2011年1月14日)
俳優。
身長175cm。
福岡県生まれ、山口県下関市育ち。
山口県豊浦郡西市小学校、
山口県豊浦郡西市中学校を経て、
1956年、山口県立西市高等学校に入学するも、
翌1957年、山口県立豊浦高等学校へ転校。
同校を卒業後、
1959年、学習院大学政経学部へ入学。
大学では演劇部に所属。
1961年、大学を中退し、一旦下関に戻った後、
再び上京し同年俳優座の試験を受け合格し、
俳優座養成所第13期生に。
1964年、
同養成所卒業と同時に石立鉄男らと文学座研究生となり、
初舞台は『無害な毒薬』。
文学座では若手の二枚目俳優として次第に実力を高めていきます。
代表作『シラノ・ド・ベルジュラック』『かもめ』など。
文学座は1971年まで在籍し、その後はフリー。
1967年、
『シラノ・ド・ベルジュラック』での共演が切っ掛けで小川眞由美と結婚するも、
1973年に離婚。
長女にMAHをもうけました。
翌年、
宝塚歌劇団48期生で宝塚歌劇団卒業生の千夏記と再婚。
1973年には、
アラン・ドロンとダリダのヒット曲「あまい囁き」の日本語版を中村晃子とのデュエットでカバー。
アラン・ドロンの吹き替えで著名な野沢那智など多数のアーティストとの競作になりましたが、
細川の美声が話題になり、その中で一番のヒットに。
1994年、
けいれん発作重積症により舞台「ラ・カージュ・オ・フォール」を降板。
1995年に糖尿病で入院。
このため、
当時出演予定だった映画『ゴジラvsデストロイア』を降板するも、
後に復帰を果たしました。
2004年より、
大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科演出コース教授に就任しており、
同1回生を対象に年10回の講義を担当。
2011年1月12日午後、
自宅で転倒し意識不明の状態で東京都内の病院に搬送されましたが、
同月14日、急性硬膜下血腫により死去。
70歳没。
(細川俊之)
【懐かしのテレビ番組】  
花王名人劇場 ~「裸の大将放浪記」  1980年~
日曜の夜でしたね!(笑)
芦屋雁之介(我々世代は"雁さん")
花王名人劇場は、元々お笑いを含めたバラエティ番組でしたが、「裸の大将放浪記」では、人気でしたね!
残念ながら、雁之介さんは2004年に72才でお亡くなりになられてしまいましたね。
ぼ、ぼくは、お、おむすび🍙が好きなんだな!有名な台詞ですね(笑)
女の子が、キヨシちゃんとあたしは親子みたいやね......には、
そ、そうなんだな、だからぼ、ぼくは、親子丼ぶりが好きなんだな!
この台詞の時は、めっちゃ⤴️⤴️ワロタ😂😂
安藤昇さん
(1926年5月24日-2015年12月16日)
元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。
東京府豊多摩郡(のちに東京市淀橋区)東大久保天神下(現・東京都新宿区新宿6丁目)出身。
15歳で感化院に入れられ、
18歳で多摩少年院に収監されるなど、
荒れた少年時代を送りました。
予科練の試験に合格し恩赦で少年院を退院、
三重海軍航空隊に入隊後海軍飛行予科練習生へ配属。
1945年(昭和20年)6月、
神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に志願し配属が叶い生死を伴う苛酷な訓練を受けるも、
2ヶ月後に終戦となり、除隊。
1946年(昭和21年)、法政大学予科に入学するも、
翌1947年(昭和22年)退学し、
仲間達と共に愚連隊(不良青少年グループ)を作ります。
1952年(昭和27年)、
用心棒や賭博を手がける東興業を設立。
これは後に「安藤組」に。
1958年(昭和33年)、
横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負うも、
その話し合いの席上での横井の態度に激怒した安藤は、
組員に横井襲撃を命じ(横井英樹襲撃事件)、
恐喝などの容疑で安藤が逮捕され6年間服役した後、安藤組は解散。
1965年(昭和40年)、
自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向。
この作品がヒットを記録し、
松竹と契約金2千万円、
1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で専属契約を結び、
松竹の子会社であるCAGに所属という形で、
11本の映画に出演。
その後、1967年(昭和42年)に東映に移籍。
1967年に東映で鶴田浩二、高倉健に互して五本の主演作が組まれましたが、
鶴田、高倉に次ぐ東映の大看板にはなれず(次に看板スターになったのは若山富三郎)。
精悍な顔立ちに左頬の傷跡、
元ヤクザという迫力から、
ヤクザ映画を中心に58本の映画に主演し、
人気を博しました。
松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持ち、
自ら主題歌も歌い、
レコードも数枚リリースしており、
1965年発売のデビュー曲「新宿無情」はテレビやラジオで放送禁止になりましたが、
年内に20万枚を超える大ヒットに。
1979年(昭和54年)、
東映映画『総長の首』出演を最後に俳優を休業。
これ以降はごく希にVシネマに客演する程度で、
Vシネマのプロデュースや文筆活動に勤しんでいました。
2015年(平成27年)12月16日(水曜日)午後6時57分、
都内の病院で肺炎で死去。
89歳没。
(安藤昇)
布施明さん
(1947年12月18日-)
歌手・シンガーソングライター・俳優。
身長171cm。
東京都三鷹市出身。
都立府中高校入学後、豊島実業高等学校(現:豊島学院高等学校)へ転校、同校卒。
1965年にデビュー。
所属事務所は渡辺プロダクションとプロダクション尾木を経て
2012年より独立、FRA音楽創舎を設立。
所属レコード会社は
キングレコードを経て徳間ジャパンコミュニケーションズ。
横浜市立大学学長を務めた布施勉は実兄。
妻は歌手の森川由加里。
(布施明)