Apex product 【 昭和の楽しい時代 51 】

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ザピーナッツさんと森山良子さんです。

今年10月はテレビアニメ『#アストロガンガー』放送開始51周年、『#ジムボタン』放送開始49周年です♪

今は皆同じ顔⤵️⤵️
やっぱり、丸型四灯が好きだ🥰
ふしぎなメルモ♬
子どもの私が刺激を受けた漫画のひとつでした。
サスケ
1968年9月~1969年3月
全29回
1955年、日活映画「緑はるかに」
のヒロイン役オーディションに応募し、
約3000人の中から選ばれて、
14歳で銀幕デビュー。
小林旭の「渡り鳥」シリーズや
「流れ者」シリーズ、石原裕次郎の相手役として「銀座の恋の物語」「憎いあンちくしょう」 などに出演。看板女優として一世を風靡し、
日活の黄金期を支えた。日活退社後は、
「男はつらいよ」にシリーズ最多となる4度の出演を果たし、マドンナ・リリー役を演じた。38歳で初舞台を踏んで以来、舞台作品にも積極的に出演している。
私生活では、俳優・石坂浩二と71年に結婚。
ヤマザキパンのマスコットキャラ、「スージーちゃん」に見覚えありませんか?
彼女はイラストではなく、実在の人物です。
1966年(昭和41年)にこの写真を撮影した時には、3歳だったそうです。
撮影の時、おいしそうにパンを食べていたとか。
まさしく皇帝でしたね。
競走馬・シンボリリドルフです。
しかも無敗の三冠馬ですしね。
実際に拝見したかった世代でもあります。
イエスの方舟
85年      TBS系ドラマ
役者として頭角を現したビートたけし(北野たけし)を起用し、80年頃起きたイエスの方舟事件をドラマ化。
この事件は実際どうだったのか、居場所のないと感じた人たちの共同生活。
人は自分たちと異質な存在を許さないところがあります。
この共同生活の人たちが若い女性が中心だったことが面白おかしく騒ぎ立てられることにつながったのではとも思います。
ただ、この時の狂騒の反省が後のオウムの存在を見逃したのかもしれません。
名和宏さん
(1932年10月16日-2018年6月26日)
俳優。
身長174cm。
熊本県熊本市出身(出生地は広島県)。
実家は能の金春流で、20歳まで能楽を学びました。
熊本県立熊本高等学校卒業。
熊本大学法文学部中退。
日本大学芸術学部在学中の1954年(昭和29年)、
日活ニューフェース第1期として日活に入社し俳優デビュー。
能楽は破門に。
『若いお巡りさん』『地底の歌』『快傑耶茶坊』等に出演。
主演映画も複数あり、
『地底の歌』では急速に売り出し中の石原裕次郎を押さえてポスター序列トップでした(この時点で裕次郎はダブル主演待遇どまりでトップは一度もなし)。
その後、
裕次郎は不動のトップ俳優として日活の一枚看板に。
名和は1957年(昭和32年)、松竹に移籍。
1963年(昭和38年)、フリー。
以降、
主に悪役として映画、テレビドラマ等で活躍。
東映ヤクザ映画での憎々しい親分や組長・代貸、
時代劇では『水戸黄門』などの悪代官・悪徳商人で知られます。
1973年(昭和48年)の『仁義なき戦い』では、
第一部で菅原文太扮する広能昌三に射殺される呉の土居親分役を、
第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、
黒縁メガネを掛け別人となって広島の村岡親分役として再登場。
第三部『仁義なき戦い 代理戦争』では
劇中、同じ村岡親分役で白黒スチール写真で1カットのみ出演。
悪役や色敵で知られるものの、
素顔の名和は、温厚で知的な人物として広く知られています。
高齢による体調不良等もあり、
2012年より都内の介護施設に入居。
2018年(平成30年)6月26日午前7時32分、
急性腎不全のため東京都内の病院で死去。
85歳没。
(名和宏)
岸田森さん
(1939年10月17日-1982年12月28日)
俳優、声優、劇作家、演出家。
身長169cm。
東京市杉並区阿佐ヶ谷(現・東京都杉並区阿佐谷北)にある河北総合病院で
岸田国士の弟・岸田虎二とその妻・真理子の子として誕生。
5歳ごろまで中野区本町通りに住んでいました。
1944年(昭和19年)、5歳。
疎開先の箱根町立湯本小学校へ入学。
1947年(昭和22年)、8歳。
帰京し、千代田区の九段小学校へ転校。
九段小学校の同級生に大空真弓。
麹町中学校から海城高等学校を卒業。
麹町中学校の同級生に衆議院議員の加藤紘一、
海城高校の1年後輩にはフリーアナウンサーの徳光和夫。
1958年(昭和33年)、19歳。
一浪後法政大学英文科へ入学するも、
2年生のときに俳優の道を志し、中退。
1960年(昭和35年)、21歳。
文学座附属演劇研究所に研究生として入団。
研究発表会のような内輪の演劇ばかりで、
「年間収入が2〜3万円という暮らしが5〜6年続いた」と語っています。
1962年(昭和37年)、23歳。
『光明皇后』の延臣役が初舞台。
1964年(昭和39年)、25歳。
同期である女優・悠木千帆(のちの樹木希林)と結婚。
1965年(昭和40年)、26歳。
文学座座員に昇格。
1966年(昭和41年)、27歳。
年頭に退団。
悠木、村松克己、草野大悟らと劇団「六月劇場」を結成し、
以降は主に映画・テレビに活躍の舞台を移します。
同年の『氷点』(NET)が本格的なテレビ初出演。
1968年(昭和43年)、29歳。
悠木(樹木)と離婚後、
バーのマダムと再婚するものちに離婚。
その後は女優・三田和代と事実婚関係に。
『怪奇大作戦』(TBS)が、
円谷プロとの初仕事に。
1971年(昭和46年)、32歳。
東宝映画『呪いの館 血を吸う眼』(山本迪夫監督)で吸血鬼を演じ、
和製ドラキュラとの評価を得ます。
この東宝『血を吸う』シリーズは代表作となりました。
帰ってきたウルトラマン』では
主人公の師で兄代わりでもある坂田健役を演じました。
1973年(昭和48年)、34歳。
円谷プロのテレビ特撮『ファイヤーマン』(日本テレビ)に出演。
脚本を手がけた第12話では、部分演出も行いました。
この年、
天知茂主演のテレビ時代劇『無宿侍』(フジテレビ)第6話において兄弟役で共演。
1977年(昭和52年)、38歳。
『歌麿 夢と知りせば』(太陽社)に主演。
カンヌ映画祭でも上映され話題を集めました。
生涯唯一のトップクレジットで遇された大作映画。
ほかに、
主演作としてはほぼ出ずっぱりの『黒薔薇昇天』が、
大役としては三船敏郎、勝新太郎の向こうを張る剣豪を演じた『座頭市と用心棒』があり、
名バイプレイヤーとしてのフィルモグラフィのなかで異彩を放っています。
1980年(昭和55年)、41歳。
テレビCMの演出を手がけます。
1982年(昭和57年)12月28日、食道ガンのため、43歳で死去。
(岸田森)
山本麟一さん
(1927年1月16日-1980年10月16日)
俳優。
愛称は山麟。
北海道旭川市出身。
札幌市の北海中学出身。
明治大学時代はラグビー部に所属し、
1946年12月8日に神宮競技場で行われた明早戦にロック(4番)のポジションで出場。
卒業後の1953年、
第1期東映ニューフェイスとして東映へ入社。
翌年『学生五人男』に主演デビュー。
以後
『警視庁物語シリーズ』(全24作)の刑事役、
『網走番外地シリーズ』の囚人役・看守役など、
主にアクション映画の脇役・悪役として活躍。
特に1960年代後半以降のヤクザ映画では悪役として活動し、
『日本侠客伝シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』における強面のヤクザ役を演じました。
大学の後輩である高倉健からの信頼も厚く、共演作品は多数。
『昭和残侠伝 死んで貰います』では、
運命に転がされるヤクザの観音熊を演じました。
1970年にフリーとなり、
テレビドラマでも刑事ドラマや時代劇に多数出演。
テレビ朝日『浮浪雲』、
日本テレビ『大追跡』などでは、
コミカルな演技も見せ、
後期はスキンヘッド姿で出演することが多数。
晩年はバラエティ番組にも多く出演。
多くの映画・ドラマロケ地にもなった北海道にも拠点を構えていました。
同地に在住した倉本聰とも交流がありました。
1980年、
肝腎症候群癌性悪液質のため53歳で死去。
(山本麟一)
昭和33年の映画「裸の大将」小林桂樹が演じていましたが蘆屋雁之助の方をご存じの方が多いかな。山下清は日本のゴッホとも評価されていましたが惜しくも昭和46年に49歳の若さで亡くなられました。
合掌。
田中信夫さん
(1935年8月1日-2018年10月17日)
声優、俳優。
東京府東京市大森区大森(現:東京都大田区大森)出身。
代表作は、
吹き替えでは
『コンバット!』のサンダース軍曹、
『スパイ大作戦』のバーニー・コリアー、
シドニー・ポワチエやバート・レイノルズといった俳優を担当、
ナレーションでは
水曜スペシャル『川口浩探検隊シリーズ』、
『さんまのスーパーからくりテレビ』、
『藤岡弘、探検隊シリーズ』、
『TVチャンピオン』など。
テレビ草創期から活躍。
玉川学園中学部・高等部、玉川大学卒業。
昆虫採集ばかりしていましたが、
教師から「劇をやらないか」と誘われて芝居を始めます。
ラジオ東京劇団研究生としてキャリアをスタートさせ、後に同劇団6期生。
当時劇団の先輩には大平透、大木民夫、浦野光ら。
1968年から死去するまでは東京俳優生活協同組合に所属。
2010年に第4回声優アワード功労賞を受賞。
2018年10月17日6時20分、
食道癌のため、東京都内の医療機関で死去。
83歳没。
(田中信夫)
昭和27年に、NHK連続から映画化に・・・
『君の名は』STORY
昭和20年5月。 激しい空襲の中、東京・有楽町で運命的に出会った氏家真知子と後宮春樹。
 半年後に数寄屋橋で再会する約束をして別れたが、
思い合いながらも再会がかなわない2人に、
さまざまな不幸が襲いかかる。
 昭和27年から放送され大ヒットしたラジオドラマを映像化しました~m(__)m💕
戦後の国民的な楽しみなドラマ
    昭和の思い出~m(__)m💕

青島幸男さんのライフワークだった意地悪ばあさん。

富田常雄さん
(1904年1月1日-1967年10月16日)
小説家。
柔道五段。
東京府生まれ。
明治大学商学部卒。
初め心座文芸部に入って新劇運動に参加したのち、
『姿三四郎』が大変な人気を呼んで流行作家に。
『姿三四郎』は
1943年、黒澤明監督、藤田進主演で初映画化され、
戦後もたびたび映画化・ドラマ化。
戦後『面』『刺青』で直木賞受賞。
映画化、ドラマ化された作品も多く、
大衆文学の大家として人気を博しました。
父は、
柔道家・富田常次郎(1865年2月-1937年1月13日、講道館7段・大日本武徳会柔道範士)。
(富田常雄)
殿山泰司さん
(1915年10月17日-1989年4月30日)
俳優、エッセイスト。
兵庫県神戸市出身。
中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校中退。
終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍。
ジャズとミステリーをこよなく愛し、
趣味を綴った著書も多数残しています。
また、波乱万丈なその人生は、映画化もされています。
神戸の生糸商の長男として誕生。
父親は広島県生口島出身。
6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。 
父とその愛人(泰司の義母)について上京し、
東京都中央区銀座で少年時代を過ごします。
このとき父と義母が出したおでん屋が、
銀座五丁目から移転し今も日本橋で営業をつづける「お多幸本店」。
屋号は義母の名前からとられています。
繁盛店の跡取り息子として育ちますが、
殿山は“義母が、実母から父親を奪った”と認識していたため義母に懐けず。
中央区立泰明小学校卒業後、
府立第三商業学校に入学するも素行不良によりほどなくして退学。
1933年(昭和8年)に父が亡くなり、
家業を継がねばならなくなりしばらくおでん屋で働くものの、
その後店を弟に譲りました。
1936年(昭和11年)に家出した殿山は、
研究生募集のチラシを見て俳優の道を志し新築地劇団に入団。
同期入団者に千秋実、多々良純、小山源喜。
薄田研二につけてもらった「夏目銅一」の芸名で初舞台。
1938年(昭和13年)に劇団を一時退団し、
同年復帰後は殿山泰二に芸名を変えます。
1939年(昭和14年)、
南旺映画の第一作『空想部落』(千葉泰樹監督)で本格的な映画デビュー。
1942年(昭和17年)に京都の興亜映画に入所し、
同年、
内田吐夢監督作品『鳥居強右衛門』に出演。
撮影終了と同時に召集されて出征し、
その後は中国戦線を転戦。
中国湖北省で終戦を迎えた殿山は復員後、
興亜映画に所属していたスタッフや俳優を引き取っていた松竹大船撮影所で
自身の所属を確認して俳優活動を再開、
殿山泰司と芸名を改めて映画界に復帰。
新藤兼人脚本・吉村公三郎監督作品への出演を通じて彼らと交流を深め、
1950年(昭和25年)に
新藤、吉村が松竹を退社して「近代映画協会」を設立した際には創立メンバーとして参加。
以後、
新藤・吉村の監督作品の常連をつとめた後、
その他の名だたる監督からも支持を受けて役者としてのキャリアを積み上げていきます。
新藤の『裸の島』では島の男の役で乙羽信子と共演(これは一言も喋らない、台詞の無い脚本)、
同じく新藤作品の『人間』では漂流する漁船の船長役で、
それぞれ主役をつとめました。
『裸の島』はモスクワ国際映画祭グランプリを始め数々の国際映画祭で受賞し、
『人間』で殿山はNHK映画賞主演男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。
その一方、
「お呼びがかかればどこへでも」をモットーに「三文役者」を自称して、
様々な映画に脇役として出演。
巨匠の作品から児童教育映画、娯楽映画、日活ロマンポルノに至るまで名バイプレーヤーとして活躍。
独特な風貌や、巧妙な演技から性格、個性派俳優として
黒澤明、今村昌平、今井正、大島渚など様々な監督に重用されました。
また当時の役者にしては珍しくフリーで活動していたため、
五社協定に縛られることなく各社の映画に多く出演することができました。
そのため73年の生涯で約300本に上る映画に出演し、
テレビにも頻繁に出演したため、その作品は膨大な数に上ります。
1966年に「三文役者の無責任放言録」を刊行したのを皮切りに、
その後エッセイを多数執筆。
コラム連載を持ち、
エッセイストとしても饒舌な素地となり、
1970年代には
「オレが」一人称で毒舌織り交ぜながら独特の口調で語るエッセイや自伝的文章を多数執筆し、 トレードマークの禿げ頭、黒いサングラスをかけた殿山のイラストが添えられていました。
1988年4本の映画に出演が決まった後がんが見つかり
既に全身に回っていましたが、
今村昌平の『黒い雨』と
神山征二郎の『千羽づる』の2本は無事に撮影を終えました。 
1本は出演を断念し、
最後の気力を振り絞って残りの1本である堀川弘通監督の「花物語」に臨みました。
同作のロケが終わり帰宅しようとするも、
自宅アパートまであと約500mの所で歩けなくなりそのまま入院。
1989年(平成元年)4月30日に肝臓がんで死去。
享年73。
(殿山泰司)
大山のぶ代さん
(1933年10月16日-)
女優、声優、歌手、脚本家、エッセイスト、タレント。
東京府東京市渋谷区伊達町(現在の東京都渋谷区恵比寿三丁目)出身。
夫はタレントで『おかあさんといっしょ』初代体操のお兄さんの砂川啓介。
テレビ朝日版『ドラえもん』にて、
ドラえもんの声を26年担当したことで有名。
2016年に病気により、芸能活動を事実上終了。
(大山のぶ代)

10月18日はスーパーアイドル #郷ひろみ さんのお誕生日です。おめでとうございます!ますますのご活躍をお祈りいたします♪

ちょっと暗めの彼女たち😅
昭和の香りが心に滲みる🤔
たまにはしんみり秋の夜長を・・🌗😿
田崎潤さん
(1913年8月28日-1985年10月18日)
俳優。
青森県青森市出身。
父は公務員。
地元の小学校から県立青森商業に進学し、1932年に卒業。
1933年、地方巡業の役者となり各地を回り、
1935年、
森川信らのレヴュー劇団ピエル・ボーイズに入団。
1936年に退団後は中華民国だった上海にわたり、劇場の踊りの振付師を務めました。
1937年、
帰国して名古屋の劇団に身を寄せるも、まもなく応召。
1938年に除隊し、
1939年に毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。
1942年、
かつてピエル・ボーイズで一緒だった清水金一や堺駿二らと新生喜劇座を結成、
以後は本名ので舞台に立ちますが、
座長である清水の横暴振りから不満を抱き堺と共に退団。
水の江瀧子主宰の劇団たんぽぽに堺や有島一郎と共に入団し、軽演劇の舞台に出演を続けるも、
1944年に再び応召、終戦まで軍隊生活は続きます。
1947年、たんぽぽに戻るも、
戦前のスター・松山宗三郎こと小崎政房がいた空気座に移り、
原作・田村泰次郎、脚色・小沢不二夫、演出・小崎による舞台『肉体の門』に娼婦たちと共に廃屋に同居する復員兵・伊吹新太郎役を演じます。
センセーショナルな内容を描いた舞台は大評判を呼び、
1948年、マキノ雅弘監督によって映画化される際、
舞台と同役にキャスティングされ、映画デビュー。
これをきっかけに新東宝に入社。
1950年、
新東宝の大作『細雪』に出演する際、芸名を田崎潤に。
芸名の由来は
本名の田の字と『細雪』の原作者谷崎潤一郎の崎潤とを組み合わせ。
1951年には
『オール讀物』に連載が始まったばかりの村上元三の小説『次郎長三国志』を読んで、
作中人物・桶屋の鬼吉を自ら演じたくてマキノ雅弘監督に映画化の企画を持ち込み、
この『次郎長三国志』は東宝映画でシリーズ映画化され、
東宝のドル箱シリーズに。
1960年代からは東宝を中心に、
黒澤作品からゴジラシリーズなどの特撮・怪獣映画、戦争映画に至るまで、数多くの作品に出演。
力強い顔立ちで強烈な存在感を残す役どころが多数。
中でも
1957年の新東宝の大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』での東郷平八郎連合艦隊司令長官や、
1963年の東宝特撮映画『海底軍艦』の神宮寺大佐、
1967年の東宝35周年記念映画『日本のいちばん長い日』の小園安名大佐など、
叩き上げの軍人役に実績があります。
テレビドラマでも、
頑固な親父役から凄みのある悪役まで、幅広い役柄を演じています。
主演作は300本以上。
NHKのクイズ・ゲーム番組『連想ゲーム』のレギュラー回答者でもおなじみ。
その後、日仏合作映画・『乱』のロケに参加。
1984年11月に肺癌と診断されるも盟友・黒澤明の求めに応え、
無理を承知で長期ロケ撮影に参加し見事演じ切り、
収録終了後、
玉川病院に入院するも癌は末期に達していて、
1985年10月18日午前3時18分に同病院で死去(享年72歳)。
(田崎潤)
【 想い出のCM → Mobil石油 】
 [ Mobil石油の歌(昭和46年)]
🎶 気楽に行こうよ 俺たちは 焦ってみたって 同じこと のんびり行こうぜ おれ達は なんとかなるぜ 世の中は 🎵
 立ちションのあるCMは、これだけかも?
若本規夫さん
(1945年10月18日-)
声優、俳優、ナレーター、元警察官。
山口県下関市出身、大阪府堺市育ち。
身長167cm。
少林寺拳法3段、剣道2段。
代表作に
『サザエさん』(アナゴ〈2代目〉、花沢さんの父)、
『ドラゴンボールZ』(セル)、
『銀河英雄伝説』(オスカー・フォン・ロイエンタール)、
『人志松本のすべらない話』(ナレーション)など。
(若本規夫)
郷ひろみさん
(1955年10月18日-)
男性歌手、俳優、タレント、実業家、アイドル。
新御三家の1人。
福岡県出身。
男性ソロアーティストとして歴代4位のCDシングルセールスを誇ります。
身長176cm。
(郷ひろみ)

子供の頃の朝の番組といえば、ピンポンパン。体操が終わると 木株の所で好きなおもちゃが貰えるのが、すごく羨ましかった思い出があります。

キャメロン・ディアス&トム・クルーズ

仲本工事さん
(1941年7月5日-2022年10月19日)
コメディアン、ミュージシャン(ギタリスト)。
身長160cm。
ザ・ドリフターズのメンバー。
バンドでの担当はボーカルとギター。
ドリフから派生したこぶ茶バンドメンバーとしても活動。
ドリフ映画での呼び名は「メガネ」。
俳優としても活動したほか、
2020年からはYouTuberとしても活動。
東京府東京市日本橋区に生誕。
両親は父(1901年 - 1974年)と
母(1921年 - 2011年、居酒屋経営者)で、
ともに沖縄県出身。
父は靴職人を務め、後に白金に店を開きました。
渋谷区立鉢山中学校では当初野球部に入るも帰宅が遅くなるという理由で断念し、
2年生の時に設けられた体操部に入ると3年生では区の大会で個人総合優勝。
また誕生プレゼントとして贈られたギターを独学で奏でるように。
東京都立青山高等学校でも体操部員となり、
都の新人戦に個人総合4位の成績を残しました。
勉学では300~370人中7番の秀才で、
将来は弁護士になることを志望。
同級生に俳優の橋爪功(転入生)、
二期上には落語家の10代目柳家小三治。
入学した学習院大学には体操部がなく、
弁護士志望は司法試験の内容を知って断念。
その後、音楽の道に踏み込み、
独学でギターを弾きこなし歌も得意でした。
たまたま友達に誘われてジャズ喫茶に行った時に、
何か歌えよと言われて飛び入りで歌った事が気に入れられて「クレイジー・ウエスト」に加入。
同バンドのドラムには加藤茶。
その後、
ジェリー藤尾率いるジャズバンド「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」の
セカンドシンガーのオーディションを受け合格し(約20人中唯一)メンバーに。
この時のバンジョー奏者に高木智之(後の高木ブー)。
午前は大学、午後はジャズ喫茶という生活を送るも、
父親からは芸能界入りを反対されており、
1964年には商工会議所への就職を決めていました。
そんな折に高木からいかりや長介を紹介されます。
高木の誘いにより1965年ドリフターズに加入。
1966年、
日本武道館で開催されたビートルズ日本公演の前座としてドリフがステージに上がり、
『ロング・トール・サリー』(邦題:『のっぽのサリー』)を仲本のリードボーカルで演奏。
1969年10月、
ドリフをメインに据えた国民的バラエティ番組『8時だョ!全員集合』がスタート。
仲本もメンバーとしてグループの中枢を支えました。
1974年9月、父興徳が胃潰瘍で死去。
1976年2月19日、
10年間交際していたハワイアン歌手の山北紀子と結婚、軽井沢で結婚式を挙げました。
1981年、
競馬のノミ行為が発覚し、志村けんとともに書類送検。
芸能活動を1か月半自粛。
1982年、妻の紀子が心不全で死去。
1985年『全員集合』が終了
俳優としての活動を展開し、
1990年、
水戸黄門第19部で左甚五郎役を演じます。
1991年、7月、
連れ子の娘が一人いた美恵と再婚。
1男1女を儲けます。
1997年4月から6月にかけてフジテレビ系で放送されたドラマ『総理と呼ばないで』で
官房事務副長官役を演じます。
2002年には
SMAPの稲垣吾郎とANAのテレビCM「超割(神様編)」で共演し、
2003年6月には明治乳業「VAAM」のテレビCMで高橋尚子・高木ブーと共演。
2004年にはサザンハリケーン(学習院大学の後輩)のCDジャケットに、
2006年にはRAG FAIRのアルバム『オクリモノ』のテレビCMにも登場。
2006年6月、所属事務所を通じて、
美恵と2004年に離婚していたことを発表。
2012年7月、
27歳下の歌手・三代純歌と3度目の結婚(事実婚)を発表。
7月14日に新高輪プリンスホテル「飛天」で披露宴を行いました。
仲本が三代の楽曲『恋待ちつぼみ』のプロデュースをしたことがきっかけとなり、
2006年頃から交際を開始。
2008年にはデュエット曲『この街で』を発表。
2020年9月21日、
YouTubeを始めること、Twitterを始めることを発表。
同年3月に
ドリフターズのメンバーであった志村けんが新型コロナウイルス感染症により死去し、
その後に行われた志村を偲ぶ行事にメンバーとともにしばしば参加しており、
群馬県高崎市の高崎タカシマヤで行われていた
「志村けんの大爆笑展」でのイベントに
高木ブーと参加したのが生前最後の仕事に。
2022年10月18日午前9時12分頃、
横浜市西区浅間町5丁目の信号機がなく歩行者横断禁止となっている交差点を横断中、
73歳の男性が運転する乗用車に撥ねられ頭などを強く打つ重傷を負いました。
事故直後は頭部や顔面からの出血が多く、
意識が朦朧として受け答えが出来る状態ではありませんでした。
横浜市内の病院に救急搬送され、
緊急手術など集中治療を受けました。
術後の容体は安定していましたが最後まで意識が戻ることなく、
翌10月19日午後10時22分、
交通事故による急性硬膜下血腫のため死去。
81歳没。
(仲本工事)
■さようなら、財津一郎さん。
 
花のピュンピュン丸
オープニング「ピュンピュン丸の歌」
作詞 - つのだじろう / 作曲 - 小川寛興 / 歌 - 財津一郎
「花のピュンピュン丸」を歌われた、財津一郎さんが10月14日お亡くなりになりました。84歳でした。
私はNHK 金曜時代劇「清左衛門残日録」で仲代達矢さん演じる清左衛門の友、佐伯熊太役の財津一郎さんが好きでした。
藩内の派閥争いのある庄内の小さな藩で、竹馬の友の三屋清左衛門と、町奉行として、友人として振る舞う佐伯奉行を好演されていました。
コメディアン、俳優として「てなもんや三度笠」「恐怖劇場アンバランス」「連合艦隊」「私が愛したウルトラセブン」等にもご出演。
「非常にキビシィ!」「○○してチョーダイ!」は流行語にも。
2011年以降、隊長不良と奥様の介護の為芸能活動を休止されていたそうです。
ケロロ軍曹の主題歌「帰ってきたケロッとマーチ」も小倉優子さんとデュエット。
謹んで生前の故人のご活躍とご冥福を祈念いたします。さようなら。
藤沢周平原作
「清左衛門残日録」
1994年  NHK制作
出演  仲代達矢  財津一郎
          南果歩  かたせ梨乃
          ほか
藤沢周平原作「三屋清左衛門残日録」を金曜時代劇でドラマ化した作品。
(全15話 )
日残りて昏るるに未だ遠し。
東北の小藩で殿の側用人を勤め家督をゆずり、離れに起臥する隠居の身となった三屋清左衛門は、日録を記すことを自らに課した。
残日録、隠居生活の徒然に、「残日録」と題した日記を付けている。これは嫁の里江が心配したような「死ぬまでの残りの日を数える」という意味ではなく、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」という意味で名付けたものである。
用人時代、先代藩主が世継ぎを決める際に現藩主を推したことから、隠居前の屋敷をそのまま使うことを許可されたり、隠居部屋を藩費で建ててもらったりするなど、現藩主からも好意と信頼を向けられている。
世間から隔てられた寂寥感、老いた身を襲う悔恨。しかし、藩の執政府は紛糾の渦中にあったのである。老いゆく日々の命のかがやきを、いぶし銀にも似た見事な筆で描く傑作長篇小説。
先日、20年ぶりに最新作がでリメイクされ放送された藤沢周平原作の時代劇をご覧になった方はいらっしゃいますでしょうか?
今回紹介しますのは1994年にNHKで放送された連続時代劇版です。
この番組がNHKで放映されていた当時、30代に入ったばかりだった私や会社の同僚の女たちは、皆このドラマを見ていた。
 このドラマは「定年間近のおじさん向け」と思われることが多いが、実は私たちのように、定年にはまだ遠い女性たちもまた、このドラマに夢中になっていた。
 脚本がすばらしく、原作の味を損なうことなく見事に映像化されている。また、役者もタイトルロールの仲代達也初め、なじみの酒屋のおかみ、友人の町奉行、息子の嫁、その他いずれもきっちりとおのれの役柄を十二分に演じることのできる役者が揃えられている。
 ストーリーとしては一応一話完結の形となっているが、実は全編を通して藩内の権力闘争が通奏低音として奏でられ、回を重ねるごとに緊迫の度を強めてゆく物語の展開は、まさにわくわくもの。
 権力闘争の息づまる駆け引き、色っぽい酒屋のおかみや親友との会話、愛らしい嫁のやきもち・・・何度見ても楽しい極上の作品。
 すぐれた役者たちの芝居を記憶しておくという意味でも、NHKの栄光の最後の華の一ひらを視聴者が自分の手元に残しておくことは意味深いことだと思う。
映像になると原作のイメージとのギャップが生じがちなテレビドラマには珍しく、藤沢周平氏の原作の良さを損ねることなく映像化している、希有な作品だと思います。キャストは主も脇も名優ぞろいですが、清左衛門役の仲代達矢さんと「熊太」役の財津一郎さん、嫁の里江役の南果歩さんが秀逸です。
「残日録」をめぐっての舅と嫁のやりとりや、清左衛門と旧友熊太のやりとりなど、原作をそのまま抜け出たかのような場面が多く見事ですが、時には原作とは異なる台詞運びでありながら、その世界観や雰囲気を壊さずにちゃんと伝えるだけでなく、映像であることを生かして原作以上に見事な場面を作り上げているのに感心しました。
見るたびに「凛と生きる」魅力に触れる思いがするのは原作と同じですが、この映像作品も原作同様、見終わったときに元気をもらっているだけでなく、背筋がピンと伸びる気がする作品です。
澱みに浮かぶ藩を二分する浅田派と遠藤派の権力争い。
三屋清左衛門が切れ者として重宝がられるのも、その柔軟な姿勢と剛健な精神のバランス感覚に優れたゆえんではないかと思うのです。権力争いばかりではなく、夫婦の心、友のこと、泣き妻への悔恨に漣立つ心。
三屋清左衛門は隠居しても慕われ、なお諸事に力を尽くし、何より「梅の一枝」にさえ命をいとおしむ。
私はドラマと原作を並行して読んだのですが、まずキャスティングが絶妙。脚色された物語もドラマならではの改訂で好感が持てた。清左とみさの艶話をアレンジしてみたり、父の名誉を挽回するため金井が浅田派の斥候として石見守暗殺を図ったりと原作と部分的に改訂しています。
仲代達矢は近年、朝日新聞社から刊行された「週間藤沢周平1蝉しぐれ」巻末インタビューで自身が演じた清左衛門についてコメントしている。機会があればご覧下さい。こんな年寄りになりたいものです。諸事に力を尽くし、何より「梅の一枝」にさえ命をいとおしむ心持 日々を懸命に過ごしていたら辿り着いた日々。これより私の行く道を照らしてくれるようです。
動画配信NHKオンデマンドやCS放送でご覧頂けます。
現在、北大路欣也さん主演で新作リメイク版が放送中です。2023年には第6作が放送されました。
どちらもおすすめです。
【人生幸朗  生恵幸子】1954年結成ボヤキ漫才
「皆さん,ほんま世の中,腹立つことばっかりでんな.」「また始まった.何をそんなに怒ってんのん?」「谷村新司の『昴』.聴かはりましたか?」「あの曲がどうかしたん?」
「♪目を閉じて 何も見えず♪って,当たり前やないかーい!どこの世界に,めー閉じて物見る奴がおんねん!責任者,出てこーい!」
師匠もきっと『昴』が好きだったと思います。
35年前の本日1988年(昭和63年)10月20日、フジテレビ系列にて田原俊彦主演「金太十番勝負!」放映開始。浅香唯、中村繁之、伊武雅刀ほか。若き日の香川照之も。
フジでは「教師びんびん物語」に次ぐ田原主演ドラマ。当時流行のトレンディドラマでなく麻布十番が舞台のホームドラマである。
老舗の煎餅屋「一番」の若旦那金太に田原、血の繋がらない妹かすみに当時「アイドル四天王」の一角に数えられていた浅香、かすみの頼りない彼氏浩にこちらもジャニーズの中村、「一番」の煎餅職人精さんに伊武。
毎朝「一番」のみんなで東京タワーに向かって柏手打つのが日課である。バブルの時代故、客に対して横柄な態度をとることが粋でいなせだととらえる描写も(「お前らに食わせる煎餅はねえ!」が田原演じる金太の口癖)。これは同時期に始まった「美味しんぼ」で全面否定されていたが。
ドラマ終盤に金太がかすみに出生の秘密を教える時、「世の中間違ったことばかりだ。政治家は汚職事件起こすし、巨人は優勝できないし」と語りかける場面がある。当時の世相を😅(リクルート事件、王監督退陣)
田原、浅香の出演と言うこともあり、人気はあったドラマ。個人的には恋愛ドラマよりこう言うホームドラマの方が好きでした。ソフト化はされていないがまた見たいドラマではある。
尚この前番組「オトコだろッ!」もジャニーズの男闘呼組、後番組「ヘイ!あがり一丁」はジャニーズを退所したばかりの布川敏和が主演を努めている。

最高の時代劇シリーズ。今、観ても面白い。

銀座四丁目の和光
時計がミッキーマウスになっています。
東京デズニーランド40周年の記念だそうです。
見上げる人たちがスマホで写真撮っています。

給食で食べた揚げパン、美味しかったです🥰🐼❤️

藤岡琢也さん
(1930年9月4日-2006年10月20日)
俳優、声優。
兵庫県姫路市出身。
身長165cm、体重71kg。
兵庫県立姫路西高等学校卒業、関西学院大学文学部中退。
姫路市にて会社員の父・憲一の第一子として誕生。
当時としては裕福な家庭に育ち、成績は優秀。
広島陸軍幼年学校在籍時に終戦を迎え、
その後、兵庫県立姫路西高等学校を卒業。
1949年、関西学院大学文学部に入学するも、
翌年に病気のため中退。
入院中にラジオ作家の堀江史朗の弟と知り合い、
退院後、芸能界入りのため堀江を頼って上京。
1957年に劇団「葦」へ入団。
当初は「平凡な顔立ち」という理由で、
外国ドラマ・アニメなどの声優としての活動をしていましたが、
1966年に『事件記者』に急逝した清村耕次の後任としてレギュラー出演し、
世間に広く知られました。
続いて『横堀川』での主人公を慕い協力する寄席芸人・ガマ口役でその演技力を認められ、
第4回ギャラクシー賞を受賞。
映画では
お調子者の中間管理職や中小企業の社長役を演じました。
初の主演映画は1970年の『喜劇 頑張れ!日本男児』。
映画では、小狡い小悪党の役も巧くこなし、
単なる善良な父親だけではない幅広い役柄を演じました。
1969年から森繁久彌主演の映画『社長シリーズ』にも数本出演し、
1970年には明治座において森繁劇団10周年記念公演に出演。
1986年10月29日から、
TBS系で放送された森繁主演のテレビドラマシリーズである『おやじのヒゲ』に10年にわたってレギュラーとして出演。
森繁からはプライベートでも実弟のように大変可愛がられていたといいます。
小林桂樹とも昔からの共演が縁でとても仲が良かったそうで、
晩年はツーカーの携帯電話のCMで一緒に共演。
テレビドラマでは、
大阪を舞台とした商人ものやホームドラマなどに数多く出演。
特にホームドラマでは、
小太り・黒縁の眼鏡・口ヒゲといった特徴的な風貌で登場し、
「家に帰ると背広から和服に着替えて一杯飲む」という、
昭和時代の典型的な日本の父親を務めて演じた点での功績が大きいです。
同系統の役柄を多く演じたのは1960年代には森繁が挙げられ、その後継者的位置を確立。
また、演じる役柄によっては
関西弁を強調した話し方もこなしました。
1975年、
橋田壽賀子脚本「愛ってなぁーに」の出演をきっかけに、
その後、多くの橋田作品に起用。
特に1990年よりスタートした『渡る世間は鬼ばかり』での五人姉妹の父親である岡倉大吉役は
晩年の代表作と言われ、認知度も高いです。
1969年から2004年までの35年間、
サンヨー食品の「サッポロ一番みそラーメン」のCMに出演。
2006年2月21日、肺炎のために『渡る世間は鬼ばかり』を降板。
同年10月20日午後3時18分、
慢性腎不全のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。
76歳没。
(藤岡琢也)
武藤章生さん
(1935年10月20日-1995年11月5日)
俳優。
愛知県名古屋市熱田区市場町出身。
愛知県立瑞陵高等学校、専修大学卒業。
1950年代から60年代にかけては日活の専属脇役として数々の映画に出演し、
1970年代からはテレビドラマを中心に活躍。
日活時代に共演した石原裕次郎の信任のもと、
『大都会』『西部警察』など
石原プロモーション制作の刑事ドラマシリーズに
準レギュラーとして継続出演。
1995年11月5日死去。
60歳没。
特技は名古屋弁、関西弁。
(武藤章生)
京マチ子さんは、
大阪松竹少女歌劇団から、
49年には大映にて女優デビューを果たした。
 大映映画
若尾文子、山本富士子らとともに活躍し、
第12回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した黒澤明監督作「羅生門」などで知られる。
また、溝口健二監督作「雨月物語」が
第14回ベネチア国際映画祭の銀獅子賞、衣笠貞之助監督作「地獄門」が
第7回カンヌ映画祭でグランプリに輝くなど、
出演作が次々と快挙を成し遂げることから
“グランプリ女優”とも称された。71年以降はTVドラマと舞台に活動の場を移し、
 87年には紫綬褒章を受章されています。
エキゾチックな大輪の花~ ヾ(≧∀≦*)ノ〃💕
白川由美さん
(1936年10月21日-2016年6月14日)
女優。
東京都品川区出身。
頌栄女子学院中学校・高等学校卒業。
夫は俳優の二谷英明、
長女は元女優でトライグループ代表取締役社長の二谷友里恵。
頌栄女子学院高等学校の卒業間際に
森永製菓のキャンペーンガール「森永スイート・ガール」に応募して採用。
1956年、スカウトにより東宝に入社。
清楚で整った顔立ちから「日本のグレース・ケリー」のキャッチフレーズで、
同年の三船敏郎主演の映画『ならず者』で映画デビュー。
『サザエさん』シリーズ、『サラリーマン出世太閤記』シリーズや特撮ものなど幅広い作品に出演。
家庭的な女性役がハマり役となりました。
また、都会的な令嬢役も得意としました。
1961年には小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも出演。
1956年『空の大怪獣 ラドン』のヒロインをはじめとして特撮映画にも多数出演。
一方で、1957年には『大番』で初舞台。
1964年、
ラジオのディスクジョッキーを務めた際に日活のスターだった二谷英明と意気投合し、結婚。
映画会社の垣根を越えての結婚は話題を呼びました。
同年に長女・友里恵を出産。
家庭を持ったのを機に活動の場をテレビドラマへ移行し、
1965年の日本テレビ系『奥様はトップレディ』でテレビドラマ初出演。
1980年代前半から『家族ゲーム』を筆頭に母親役を演じ、
若年層からも広く支持されて「母親にしたい女性タレント」の上位ランクインの常連に。
2004年、
就寝中にベッドから転倒して軽傷を負った際には、
高齢であったこともあり関係者から復帰が危惧されましたが、
短期間で無事に復帰。
夫の二谷とは仲むつまじい夫婦生活から「おしどり夫婦」として知られ、
1988年から1993年にかけてJR「フルムーン夫婦グリーンパス」のCMに2人で出演。
2012年に夫・英明が死去した後は仕事量を徐々に抑えて、
主だった作品では2014年のフジテレビ系『ブラック・プレジデント』が最後の出演に。
東京都目黒区の自宅から東京都港区の友里恵宅に転居し生活していましたが、
2016年6月14日に浴室内で倒れて心肺停止の状態で病院に搬送され、心不全のため急逝。
79歳没。
(白川由美)
南田洋子さん
(1933年3月1日-2009年10月21日)
女優。
東京市芝区(現:東京都港区)三田出身。 
文化学院文学科卒業。
身長155cm。
夫は長門裕之。
義弟に津川雅彦、
義妹に朝丘雪路、
夫の姪に真由子、
甥に北田陽一郎、
従兄弟の娘に山田よう子。
東京市芝区三田に米穀商の娘として誕生。
母親の北田とみ子(旧姓:山田)は日本舞踊の師匠。
終戦後、茨城県土浦市に移り、
1949年(昭和24年)、
茨城県土浦第一高等女学校(現:つくば国際大学高等学校)を卒業後、
16歳で単身上京(1952年(昭和27年)文化学院卒業)。
水谷八重子に弟子入り。
1951年(昭和26年)大映5期ニューフェイスとして入社。
同期に若尾文子。
翌1952年(昭和27年)の『美女と盗賊』で映画デビュー。
1953年、
若尾文子と共演した『十代の性典』が大ヒット。
好評によってシリーズ化され、
「性典スター」と呼ばれました。
1955年、大映から日活に移籍。
日活の常務の進言により、
芥川賞を受賞した話題作『太陽の季節』が映画化されて長門裕之とともに主演し、
こちらも大ヒット。
名実ともに日活の看板スターに。
1957年の『幕末太陽傳』では左幸子と共演して話題に。
1961年、長門と結婚。
1963年(昭和38年)、
『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。
同年、
『おかしな奴』でホワイト・ブロンズ賞女優賞受賞。
1964年(昭和39年)、
長門とともに「人間プロダクション」を設立。
太田博之、島かおりなどを育てると同時にドラマ制作にも乗り出します。
この時期よりテレビドラマへの出演も多くなり、
NHKの『紀ノ川』(1965年)で「日本放送作家協会女性演技賞」を受賞。
1970年、
NHK連続テレビ小説「虹」でヒロインを務めます。
数少ない放送開始時点で既婚者だった女優。
また、女優としての活動以外にも
長門と2人で『ミュージックフェア』の司会を1965年(昭和40年)から約16年間、
京都放送の交通遺児募金キャンペーン『かたつむり大作戦』のメインパーソナリティーを20年以上、
それぞれ担当。
1978年(昭和53年)10月から1979年(昭和54年)9月までの約1年間、
病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで
『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者としても出演。
その他、
多くのバラエティ番組やCM、ドラマなどへ出演しており、
おしどり夫婦のイメージのもとに最晩年まで多彩な活動をしていました。
1998年(平成10年)には、
舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し評判に。
2004年(平成16年)頃から認知症の症状が表れ始め、
ドラマや映画の台詞が覚えられなくなるほど悪化。
2006年(平成18年)に芸能活動をひっそりと引退。
専門医によりアルツハイマー病との診断が下されました。
2008年(平成20年)、
長門が『徹子の部屋』へゲスト出演した際に、
夫婦共々深い親交がある黒柳徹子へ南田が認知症で要介護状態であること打ち明け、
南田の病状を初めて公表。
同年には『報道発 ドキュメンタリ宣言』の第1回放送(2008年11月3日)で
長門との闘病の模様が放送され、
高視聴率を記録するなど、大きな反響を呼びました。
2009年(平成21年)4月1日、
意識混濁状態となり救急車で都内の病院に緊急入院(同月18日に退院)。
翌5月には長門著『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)が出版。
同年10月9日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で長門夫妻を取り上げた際には、
取材VTRの中で、
車椅子姿の南田が顔なじみのスタッフにねぎらいの言葉を掛ける一幕もありました。
その取材映像が南田洋子の生涯最後の公の映像に。
2009年(平成21年)10月17日に自宅で倒れ、
クモ膜下出血との診断を受けて病院に再入院。
危篤状況が続いていましたが、意識が戻らず、
同10月21日に
東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。
76歳。
(南田洋子)
タモさん  78歳
タケちゃん 76歳
さんちゃん 68歳
今、ビッグスリーが一緒に連続番組を
やるのは無理だろうね。観たいけど😢💕🎶🙏

桜井章一役の清水健太郎、麻雀は、そうとうな腕前なんでしょうね。

肝付兼太さん
(1935年11月15日-2016年10月20日)
男性声優、俳優、演出家。
身長170cm。
鹿児島県揖宿郡喜入町(現・鹿児島市)出身、
東京府東京市中野区(現・東京都中野区)、
板橋区(現・東京都板橋区)育ち。
劇団21世紀FOX初代主宰。
肝付氏の末裔。
1935年11月15日に鹿児島県揖宿郡喜入村(同郡喜入町を経て現在は鹿児島市)で誕生、
3歳の時に鹿児島を離れ4歳ぐらいまで東京府東京市中野区(現・東京都中野区)に住み、
その後は東京府東京市板橋区(現・東京都板橋区)で育ちました。
戦時中は 
板橋区立板橋第四小学校時代に群馬県利根郡水上村湯檜曽(後の群馬県利根郡水上町湯檜曽、現:群馬県利根郡みなかみ町湯檜曽)に学童集団疎開し、
その後、
山梨県中巨摩郡竜王村竜王(後の山梨県中巨摩郡竜王町竜王、現:山梨県甲斐市竜王)に疎開。
終戦後中学へ進学するにあたり、
私立中学を受験し、失敗。
その当時、
気を紛らわすためにラジオドラマを聞いており、
NHKの『話の泉』という番組の公開録画を見に行った折
「この場所で仕事が出来たら…」と思ったのがきっかけで映画俳優を志します。
憧れていた俳優は榎本健一。
しかし、祖母から
「映画俳優をやれる容姿ではない」と諭され、
顔出しよりもラジオドラマで声のみで出演する「声優」の仕事を目指すように。
帝京中学校・高等学校に進学し、
同高校在学時に自ら演劇部を設立。
その演劇部で木下順二の『夕鶴』を上演したのがきっかけで芝居の道へ進み、
高校卒業後は父親の他界により大学進学を断念。
ラジオ東京(現TBS)放送劇団の第4期生の募集に応募するも落選し、
髙島屋に勤務しながら劇団七曜会に入団。
七曜会が解散した後は、
青野武と共に日生劇場のこけら落とし公演のオーディションを受け合格し、これに出演。
七曜会から分裂した劇団作品座の所属を経て、
TBS放送劇団出身の千葉耕市が
プロダクションを建てるために役者集めをしていたところに誘われ、
そのプロダクションに所属。
所属プロダクションは変遷。
2016年2月2日付けで81プロデュース所属。
映画デビューは
1956年公開の『こぶしの花の咲くころ』(家城巳代治監督)であり、
当時はまだ劇団の研究生で床屋の青年役で出演。
これ以外に
1966年のポルノ作品である『汚辱の女』にも出演していますが、
実写映画作品の顔出しの役者としての出演経験はこの2本のみ。
ラジオドラマデビューは
主婦向けの昼の番組『婦人の時間』(NHK)で、
クリーニング屋の御用聞きの役。
アフレコデビューは
海外ドラマ『地方検事』(TBS)での暴走族の役。
国産のアニメが登場してからは
『0戦はやと』、『ビッグX』、『エイトマン』などに端役で出演した後、
数多くの作品に出演。
1965年の30歳直前に
TBS版の『オバケのQ太郎』のゴジラ役でアニメのレギュラーを獲得し、
1973年放送の『ジャングル黒べえ』では初主役となる黒べえを演じました。
また、
テレビ朝日版の『ドラえもん』では
骨川スネ夫の声を1979年から2005年の3月の勇退するまで26年間担当。
1980年代の小劇場ブームの時に、
北村想の作品『寿歌』と出会い衝撃を受け、
自身も演劇をやりたいと強く思い、
紀伊國屋で北村の『十一人の少年』の台本を見つけ「この戯曲の上演をしたい」と考え許可を取り、
当時講師をしていた養成所の若者を集め、
1983年9月に劇団21世紀FOXを結成。
2008年には劇団が結成25周年を迎え、
同年12月には
かつて劇団に所属していた伊藤健太郎らを招いて25周年記念公演を開きました。
1985年11月から12月にかけて喉の手術のため入院(1980年頃から多くのアニメ作品にキャラクターの声で出演していたため)。
そのため
『ドラえもん』(テレビ朝日版)のスネ夫、
『オバケのQ太郎』(テレビ朝日版)のハカセ役は、
木佐キザオ役で共演していた龍田直樹が代役を務め、
『にこにこぷん』ではじゃじゃまるが風邪を引いたという設定で2週間しゃべらずに乗り切りました。
手術の際、
自分の声が綺麗になってしまうことを恐れ、
ポリープをピンセットで潰しました。
2005年第14回日本映画批評家大賞で、
『ドラえもん』(テレビ朝日版)のオリジナルレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也の4人)とともに
田山力哉賞を受賞。
さらに2006年11月、
第11回アニメーション神戸で、
同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞。
2007年3月には東京国際アニメフェア2007で、
同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに
第3回功労賞を受賞。
2012年、第六回声優アワード「功労賞」を受賞。
2010年、医師から肺がんと告知。
2016年5月頃に体調を崩し、
都内の病院で肺炎と診断。
その後は何度か検査入院し、
退院後も声優活動をしていましたが、
同年10月に体調が悪化。
同年10月20日、肺炎のため死去。
80歳没。
(肝付兼太)
嵐寛壽郎さん
(1902年12月8日-1980年10月21日)
映画俳優、映画プロデューサー。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、
300本以上の映画に出演し、
「アラカン」の愛称で親しまれました。
同時代の時代劇スターの
阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに
「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
当たり役は
鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、
前者は40本、後者は36本シリーズ化。
また、
新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、
俳優の中で初めて天皇を演じて話題となりました(本作では明治天皇を演じました)。
晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍。
祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。
叔父は俳優の六代目嵐徳三郎。
従妹は女優の森光子。
(嵐寛壽郎)
渡辺謙さん
(1959年10月21日-)
俳優。
新潟県北魚沼郡広神村(現︰魚沼市)出身。
世界各国において
映画を中心にテレビドラマ・舞台・テレビコマーシャルと幅広く活動しており、
世界的に知名度が高い日本人俳優の1人。
身長184cm、体重80kg。
新潟県北魚沼郡広神村にて共に教師をしていた両親の元に誕生。
両親の転勤で、
幼少期を新潟県内の入広瀬村、守門村(ともに現・魚沼市)、高田市で過ごし、
新潟県立小出高等学校在学時には吹奏楽部に所属、
幼少の頃から親しんできたトランペットを担当。
高校卒業後の1978年、
東京の武蔵野音楽大学進学を目指すも、
音大受験に必要な本格的な音楽教育は受けておらず、
また渡辺が中学生の時、父・亮一が病に倒れ、
仕事ができなくなったこともあり、
学費捻出の困難などの問題から断念。
同年、
芥川比呂志演出による演劇集団 円公演『夜叉ヶ池』を観劇して感銘を受け、
翌年に同劇団附属の研究所に入所。
アルバイト先で知り合った猪俣公章の紹介で
唐十郎作、蜷川幸雄演出『下谷万年町物語』のオーディションを受け、
研究生ながら主演の青年役に抜擢。
1982年、演劇集団 円の劇団員に昇格し、
『未知なる反乱』でテレビデビュー。
1984年には『瀬戸内少年野球団』で映画デビュー。
その後も『タンポポ』、『海と毒薬』などの映画に相次いで準主役級で出演。
1986年のNHK連続テレビ小説『はね駒』にも出演。
1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で主役(伊達政宗役)を演じ、
39.7%という大河ドラマ史上最高の平均視聴率を獲得。
一躍全国的な人気を獲得、スターダムにのし上がります。
また、その頃から歌手としても1992年頃まで活動。
以降、
舞台・テレビドラマなどで次々と大役を演じ、
前途洋々に見えた1989年、
映画初主演となるはずであった『天と地と』の撮影中に急性骨髄性白血病を発症し、降板。
再起はおろか生命も危ぶまれましたが約1年間の闘病後、治療を続けながらも俳優業に復帰。
定期的に入院治療を続けながら、
『仕掛人・藤枝梅安』を中心に活動するも、
大きな仕事はできず。
経過は良好に見え、一応治療が終了した1993年、
NHK大河ドラマ『炎立つ』に再び主演、
完全復活をアピール。
しかし、発病から5年が経った1994年に再発。
再治療を行い、経過は良好となり、
翌年、無事復帰。
病気再発を経て再復帰した時期と前後して、
初の本格的娯楽時代劇シリーズドラマ『御家人斬九郎』、
2時間ドラマでは『わが町』『鍵師』などが当たり役となりシリーズ化されましたが、
30代の終わりを機に、
これらの人気シリーズを全て終了させるとともに、
従来彼のイメージにはなかった悪役・ダメ男役・格好悪い役柄などを積極的に演じるように。
2000年には、
『池袋ウエストゲートパーク』に出演。
2001年、
久々に演劇集団 円の公演『永遠 Part2』で舞台に立ち、
これが結局「円」での最後の舞台に。
2002年元日をもって演劇集団 円を退団、
所属をケイダッシュに移しました。
日本国外映画初出演となったアメリカ映画『ラスト サムライ』(2003年公開)で
渡辺は同年度の第76回アカデミー賞助演男優賞ならびに
第61回ゴールデングローブ賞助演男優賞、
第30回サターン賞助演男優賞にノミネートされる等高い評価を得ます。
これを機にロサンゼルスに居を構え、
『バットマン ビギンズ』や『SAYURI』など日本国外映画に立て続けに出演。
当初通訳を要していた英会話に関しても猛勉強の末、
殆どの会話を自らこなしています。
2005年には、
米国の『タイム誌』の表紙にグラビアが掲載されたり、
『ピープル誌』が企画する「最もセクシーな外国人男性」の1人に選出。
日本映画では2006年に、
荻原浩の小説『明日の記憶』映画化作品で映画初主演。
2006年には、
クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に、
栗林忠道役で日本国外映画初主演。
他の主要日本人キャストはオーディションの末選出されましたが、
渡辺だけは監督から直接出演要請がありました。
外国語映画賞を受賞したゴールデングローブ賞の授賞式において、
壇上のクリント・イーストウッド監督は
「偉大なるケン・ワタナベに敬意を表したい」と渡辺に言葉を贈りました。
2007年2月25日(現地時間)、
第79回アカデミー賞授賞式に出席し、
カトリーヌ・ドヌーヴと2人で非英語圏の俳優代表として舞台に立ち、
賞が設定されて50周年を迎えた外国語映画賞の歴史を紹介。
2008年2月に撮影開始された映画『ダレン・シャン』にも、
サーカスのオーナー、Mr.トールで出演。
また、
『バットマン ビギンズ』で仕事をした
クリストファー・ノーラン監督の新作サスペンス『インセプション』で再び起用。
2009年10月、
山崎豊子原作の映画『沈まぬ太陽』に恩地元役で主演し、
第33回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、
第34回報知映画賞主演男優賞を受賞。
映画公開初日の舞台挨拶にて作品・撮影の厳しさを語り、男泣き。
2014年には、
『GODZILLA ゴジラ』にメインキャストの一人として出演。
韓国の釜山国際映画祭では日本人として初めて開幕式の司会。
2015年、
ミュージカル『王様と私』でトニー賞・ミュージカル部門主演男優賞にノミネート。
2016年2月9日、
早期の胃がんが発見され、手術を受けたことを明らかに。
2時間弱の手術と4日間の入院後、
自宅療養を経て、
3月5日に渡米し、
再び『王様と私』でブロードウェイミュージカルに出演。
2022年12月30日、
21年間所属したケイダッシュを同年末をもって退社し
2023年1月1日から独立することを明らかに。
(渡辺謙)
昭和ゴジラ・パフォーマンス😉
昭和を舞台にするなら、やっぱりゴジラはこうでないと😅
1971年~2006年
SOUL TRAIN🎵🪩🚂
志賀直哉さん
(1883年2月20日-1971年10月21日)
小説家。
宮城県石巻生まれ、東京府育ち。
明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。
「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えました。
1949年、文化勲章受章。
代表作に
「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。
(志賀直哉)
江戸川乱歩さん
(1894年10月21日-1965年7月28日)
推理小説家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。
日本推理作家協会初代理事長。 
位階は正五位。
勲等は勲三等。 
ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。
大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意としました。
また、
第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍。
乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、
後世にも大きな影響を与えました。
自らも実際に探偵として、
岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持ちます。
(江戸川乱歩)
納谷六朗さん
(1932年10月20日-2014年11月17日)
声優、俳優、ナレーター、演出家。
身長165m。
東京府東京市(現・東京都)出身。
兄は同じく俳優、声優の納谷悟朗、
義姉は女優、声優の火野カチ子。
妻は元マウスプロモーション代表取締役社長の納谷光枝、
長男はSTUDIO MAUSU代表取締役社長の納谷僚介。
2014年、第8回声優アワード「功労賞」を受賞。
7人兄弟の六男。
東京都立西高等学校、立命館大学法学部卒業。
大学卒業後、
出版関係の仕事をしていた別の兄を手伝っていましたが、
悟朗の所属していた劇団稲の会の公演パンフレットを作成する手伝いをしたことが縁で芝居を始めます。
初舞台は『幸福な王子』の王子の像の役。
舞台活動を始めてしばらくした頃(1959年)、
所属劇団で電話番をしていると悟朗から突然電話がかかってきました。
「え、何、何?」と聞くものの無言で、
しばらくして「似てねえってよ」と返されました。
当時、
悟朗は海外ドラマ『ウィリアム・テル』でテルの吹き替えを担当していたことから、
テルの偽物が登場する回で
「偽物は悟朗と似た声のやつにやらせてみよう」となり、
弟であった六朗の声を確かめようと電話をかけてきたとのこと。
結局、偽物も悟朗が兼役で演じましたが、
このことがきっかけで端役(村人②)で呼ばれたためアテレコデビュー。
デビュー作からいきなりの兄弟共演。
1974年に江崎プロダクション(現・マウスプロモーション)へ所属。
筒井康隆大一座などの結成にも参加。
また舞台の傍ら、
マウスプロの後進の育成にも励んでいました。
マウスプロ自主公演では、主役を張ることも。
声優としては晩年まで活動を続けていました。
2014年10月22日に自宅で体調不良を訴えて東京都大田区内の病院に入院。
検査の結果肺炎と脳梗塞を発症していたため治療を受けていましたが、
同年11月17日午前10時28分、
肺炎のため東京都大田区の病院で死去。
満82歳没。
(納谷六朗)
黒沢良さん
(1930年10月21日-2011年11月9日)
声優、俳優、ナレーター、歌手。
身長170cm。
生前は黒沢良事務所を設立代表を務めていました。
和歌山県和歌山市出身。
旧制和歌山中学(現:和歌山県立桐蔭高等学校)卒業後、
法政大学、関西大学、和歌山大学に通うも中退。
宝塚新芸座演出部、
新東宝ニューフェイス(高島忠夫と同期)、
俳優座養成所(3期生・愛川欽也、小山田宗徳らと同期)などを経て、
NHK東京放送劇団(4期生・来宮良子、山内雅人らと同期)に入りました。
NHKのラジオドラマ『笛吹童子』(デビュー作)、
『紅孔雀』などに主演したあとフリーとなり、
声優として活動。
全日本シーエム放送連盟(ACC)CMフェスティバルコンクール賞(技術賞2回タレント賞1回)、
クリオ賞、内閣総理大臣賞など受賞歴も多数。
かつてアテレコ教室を主宰していたことがあり、
若本規夫、村山明、幹本雄之、一龍斎春水(旧芸名:麻上洋子)らを輩出。
晩年は体調不良もあってナレーションの仕事に専念。
BS日テレの長寿番組「BS日本・こころの歌」や民音公演などでナレーターを務めるとともに、
朗読会や朗読教室などで後進の指導・育成にも力を注いでいましたが、
2011年11月9日、心不全のため死去。
81歳没。
(黒沢良)
2023/10/22 は菊花賞です。初めて馬券を獲得した、競走馬がダンスイザダークでした。
二着がロイヤルタッチだったと記憶してます。あの時の感激は、今でも忘れられません。
10月21日は歌手・女優 #五月みどり さんのお誕生日でした。おめでとうございます♪
熱海市内イオンにほど近い「五月みどりの店」ウィンドウに鎮座する、腹話術の相方さん。五月みどりさんと一緒にいられる果報者の彼に、嫉妬♪ (´▽`)ノ
大好きな #美輪明宏(#丸山明宏)さん。
画像1は「シスターボーイ」と呼ばれ、和訳シャンソン「メケ・メケ」がヒットし始めた1957年頃。画像2~は映画「黒蜥蜴」ヒットの1968年頃。
草笛光子さん
(1933年10月22日-)
女優。
身長158cm。
神奈川県横浜市神奈川区出身。
神奈川県立横浜平沼高等学校卒業(49期)。
妹は富田恵子。
弟は占い師(気学師)の富田直幹(1944-)。
作曲家の芥川也寸志は元夫。
虚弱傾向を克服するため、
小学生からバレエを始め、
1950年に松竹歌劇団(SKD)に5期生として入団し、
淡路恵子、深草笙子と共に「スリーパールズ」を結成。
豊かな歌唱力を持ち味としました。
SKD在籍中の1953年、
松竹(松竹京都撮影所)から映画『純潔革命』で銀幕デビュー。
その後1954年にSKDを退団し、
1956年からの東宝専属を経て様々な分野で活動。
特に
1958年から放送のテレビ黎明期の音楽バラエティで自らの冠司会番組でもある『光子の窓』では、
洋窓から顔をのぞかせてテーマ曲を歌うオープニングが注目を集め、人気を博しました。
1960年に作曲家の芥川也寸志と結婚するも、2年で離婚。
華やかな貴婦人からうらぶれた婦人まで多彩な役柄を演じ、
『社長シリーズ』をはじめとする東宝喜劇に多数出演。
市川崑の監督作品とも縁が深く、
金田一耕助シリーズでは『犬神家の一族』(1976年)の犬神梅子役を筆頭に
シリーズ全てに出演(2006年公開のリメイク版にも出演)。
日本ミュージカル界のパイオニアでもあり、
数々の大作に出演(『私はシャーリー・ヴァレンタイン』などで芸術祭賞を3度受賞)。
1999年には紫綬褒章、
2005年には旭日小綬章、
2013年に第48回紀伊國屋演劇賞・個人賞、
永年の舞台の功績に対して2014年に第39回菊田一夫演劇賞・特別賞、
2020年に毎日芸術賞をそれぞれ受賞。
テレビドラマでは
石井ふく子プロデュース作品や橋田壽賀子脚本作品にたびたび起用。
長らくフリーで活動してきましたが、
マネージメントを担当していた母親が亡くなったことなどから、
2009年10月1日付けでオスカープロモーションと契約。
愛犬家としても知られ、
自身が飼っている黒のラブラドール・レトリバー「まろ」とともにテレビに出演することも。
岸惠子とは女学校時代からの友人であり、
八千草薫や黒柳徹子とも親交があります。
(草笛光子)
「 木綿のハンカチーフ / 太田 裕美  」
歌詞が1〜4番までがあるのですが、個人的に好きな歌詞箇所は3番の「見間違うようなスーツ着た僕の写真を見てくれ」に、「いいえ、草に寝転ぶアナタが好きだったの‥」‥😫(泣)
あなたは何番の歌詞が好き?
男臭い、映画好きでした
個性的な俳優さんも、良かった
成田三樹夫さん、内田朝雄さん、良かったです
平幹二朗さん
(1933年11月21日-2016年10月22日)
俳優・演出家。
身長180cm。
長男は俳優の平岳大。
主に舞台演劇役者の主演として活躍し、
国内外で高い評価を受けている日本を代表する名優の一人。
その他にも、
大河ドラマなどのテレビドラマや映画などでも活躍。
広島県広島市中区小網町に生誕。
生後9か月の時に父・文雄が病死。
家の造りは京都の町家のように間口は狭いが奥行きのある二階家で、
1階が十畳、八畳が二間、中庭、それが土間に面して奥に続いて、
2階は八畳二間と物干し。
そこに祖母と母と幹二朗の3人で住んでいました。
小学6年生の初め、
幹二朗は広島県東部の甲奴郡上下町(現・府中市)の母方の大叔父宅に疎開。
母は流川町の郵便局で働くようになっていたので広島に残りました。
郵便局は原爆ドームから800mほどの距離で、
1945年8月6日、原爆投下の朝、
通勤途中だった母はビルの陰で靴を履き直していたため光線を受けなかったので生き残りました。
終戦後まもなく母は上下町の家で危篤状態になり、
子供のない農家の大叔父に「うちの子になるか」と言われましたが、
「農家の子供になるのはイヤだなぁ」と思ったといいます。
内気な少年だった幹二朗が演劇にかかわるのは、
上下高校の時。
「映画監督になりたい」という漠然とした夢は持っていましたが、
それには大学に行って会社に入らなければならず、
理数系が苦手でした。
困っている時俳優座養成所の募集記事を読み、
そこが3年間の俳優教育をする学校でした。
しかし養成所の試験に落ち、
翌年には合格、俳優座養成所五期生に。
同期に
木村俊恵・今井和子・藤田敏八・ジェームス三木ら。
1956年俳優座座員となり、
同年『貸間探し』で初舞台。
以後、
『千鳥』『四谷怪談』『ファウスト』などに出演。
端整な容姿と、スケールの大きさを感じさせる演技で注目され、
仲代達矢や加藤剛とともに同座の若手ホープと目されます。
1963年、
テレビドラマ『三匹の侍』にレギュラー出演。
五社英雄演出のリアルな殺陣によりテレビ時代劇の流れを大きく変えたこの作品で、
虚無的な浪人・桔梗鋭之介役が人気を集めました。
お茶の間にもおなじみの顔となり、
時代劇を中心に多くの主演ドラマを持ちました。
1968年フリー。
浅利慶太演出『アンドロマック』の出演を機に劇団四季に客員し
1968年、
浅利慶太演出『ハムレット』で主役を演じ、
各界から高い評価を受けました。
続く『狂気と天才』などの演技も高く評価され、
日本を代表する舞台俳優の一人に。
四季がミュージカルに力を入れ始めたころ蜷川幸雄に出会い、
1976年に蜷川演出『近代能楽集 卒塔婆小町』主演を皮切りに、
『王女メディア』『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『タンゴ・冬の終わりに』『テンペスト』『グリークス』『リア王』など
長年に渡り蜷川演出作品に主演、
海外公演でも高い評価を得ました。
1993年には、
東京グローブ座でシェイクスピア全37作品上演に挑戦するという壮大な計画を発表。
以後
『マクベス』(1993年)、
『ハムレット』(1994年)、
『オセロ』(1995年)、
『十二夜』(1995年、1998年)、
『リア王』(1997年)、
『テンペスト』(2000年)など、
着実に実行していき、
陰影に富んだ格調の高い演技で悲劇的人物を得意としていました。
テレビドラマにも多数出演。
特に大河ドラマの常連俳優の一人で、計7回出演。
1970年放送の『樅ノ木は残った』で主人公の原田甲斐を演じ、
大河ドラマ初出演にして初主演。
つづく1973年放送の『国盗り物語』では
前半の主人公の斎藤道三を演じ、
後半の主人公の織田信長演じる高橋英樹と共に主演。
大河ドラマとして初の複数回の主演をつとめました。
1988年放送の『武田信玄』では、
中井貴一演じる主人公・武田信玄の父である武田信虎を演じ、
横暴な支配者と失意の流浪者という全く相反する姿を演じています。
1991年の『太平記』には北畠親房で出演予定がありましたが、
翌年の『信長 KING OF ZIPANGU』のために同じく出演予定のあった緒形直人と共に降板。
緒形は翌年の主演が決定。
1992年放送の『信長 KING OF ZIPANGU』では
織田家を惑わす架空の祈祷師で物語の裏の主人公である加納随天を演じ、
不可解さと迫力に満ちた演技を見せつけました。
その後も2005年放送の『義経』では後白河法皇を演ずるなど助演としても多数出演。
最後の出演は2008年放送の『篤姫』で、
調所広郷を演じました。
大河ドラマ以外でも
『三匹の侍』、『眠狂四郎』、『新選組始末記』、『不毛地帯』など主演代表作は多数。
また映画出演も多く、
『他人の顔』、『天城越え』、『帝都物語』などの代表作が。
演出家としての顔も持ち、中村玉緒主演の舞台等の演出も手がけました。
1998年に紫綬褒章、
2005年に旭日小綬章を受章。
晩年は長髪を束ねる髪型をしていました。
2016年10月23日、
自宅の浴槽で倒れているのを訪れた息子の岳大により発見され、
後に死亡が確認。
出演中だったフジテレビのドラマ『カインとアベル』が遺作。
満82歳没。
(平幹二朗)
黒部進さん
(1939年10月22日-)
俳優。
身長175cm。
富山県黒部市出身。
富山県立桜井高等学校、中央大学経済学部卒業。
女優の吉本多香美は長女。
生家は農業を営み、父は教師。
中央大学に合格して上京するも、
東京の雰囲気に慣れると次第に遊びにはまってしまい、
中大四年時には芝居に興味を持ち始め、
劇団表現座に身を置きます。
やがて、
家賃を滞納したことからホームレスとなってしまい、靴磨きで生計を立てました。
ある日、
靴磨きの客として来た映画監督・山本嘉次郎から、
東宝ニューフェイスの受験を勧められ、
1962年、
第3回オール東宝ニュータレントに応募して同期23人中トップで合格したものの、
黒部自身はホームレスゆえに通知先を友人宅にしていたうえ、
彼も不在がちでなかなか連絡がつかなかったため、
やむを得ず不合格にされそうになるも、
山本が親代わりを務めたことで無事に合格。
合格後は俳優研修所に入り、
日本舞踊、モダンバレエ、発声とセリフの稽古などで修業を積みます。
研修所の同期には緑魔子。
同所を最後に出た後、
1963年には
石坂洋次郎原作の青春文芸作『暁の合唱』で主演の星由里子の相手役としてデビュー。
出身地にちなみ、
プロデューサー(藤本真澄=東宝映画初代社長)から「黒部 進」の芸名を与えられます。
しかし、
『暁の合唱』撮影中は失敗の連続で信頼を失ってしまい、
その後は「国際秘密警察シリーズ」などの悪役に転じました。
1964年、
本多猪四郎監督『三大怪獣 地球最大の決戦』への出演をきっかけに東宝特撮の常連に。
また、戦争大作『太平洋奇跡の作戦 キスカ』などにも出演。
1966年、
『ウルトラマン』の主人公であるハヤタ役として起用され、
同作は平均視聴率36.8パーセントを記録し、
黒部も「正義のヒーロー」として一躍有名に。
同作終了後は再び東宝映画数本に出演しましたが、
1970年ごろに退社してテレビに軸足を移します。
同年の『燃えよ剣』(NET)では新選組隊士・永倉新八を演じましたが、
その後は時代劇や刑事ドラマ、特撮で主にゲストとして悪役を演じるように。
『西部警察』の悪役にスポットを当てたDVDソフトシリーズ「ダーティーキャラクターコレクション」では、
八名信夫や阿藤快と並んでパッケージの表題を飾っています。
一方、
1977年の『小さなスーパーマン ガンバロン』では
主人公・天堂輝の執事ムッシュ役を演じ、
悪役とは違った一面を見せています。
1990年代以降は特撮ブームの再燃により、
特撮作品や関連番組、イベントなどへの登場が増え、
一般ドラマでの役柄も広がりました。
2005年には『ウルトラマンマックス』(CBC)で
約40年ぶりに防衛幹部役としてウルトラシリーズに本格レギュラー出演し、
2006年の『ウルトラマンメビウス』では
テレビシリーズと劇場版で再びハヤタ役として出演(ウルトラマンの声も兼任)。
(黒部進)
三田村邦彦さん
(1953年10月22日-)
俳優・タレント・歌手。
身長178センチメートル。
元妻である元女優の中山麻理との間に3子。
長男三田村瞬と三男中山麻聖は俳優。
二男は一般人。
現在の妻との間に1子(長女)。
新潟県新発田市出身。
新潟県立新発田高等学校卒業、
予備校に進学すると偽り上京、
看板屋で働きながら劇団青俳養成所を経て劇団青俳に所属。
1979年劇団の推薦により『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。
同年『必殺シリーズ』に飾り職人の秀役で出演、
華麗な殺しと、陰りのある表情をたたえる仕事人を演じ人気を博しました。
1982年より『太陽にほえろ!』にジプシー刑事役で出演、
若手刑事のミワカントリオ(三田村、渡辺徹、神田正輝)、
カワセミカルテット(神田正輝、渡辺徹、世良公則、三田村)の一人として人気を得ました。
(三田村邦彦)
1954年の映画デビューから15年間で
159本の作品に出演し、37歳の若さでこの世を去った~m(__)m
 
不世出の大スター、市川雷蔵さん❣️💕
現在でも、人気です~お見事ですm(__)m
先日池袋のデパートで開催されていた昭和レトロの催しに行ってきました。そこで買ったものより、若き日のぺー・パー子師匠とヨネスケ師匠のプロマイドです(マルベル堂)。
ぺー・パー子師匠は美男美女。特にパー子師匠…お美しい!このヘアスタイルのヨネスケ師匠、初めて見ました。人に歴史ありですね!
昭和の怪物 『永田 雅一』永田ラッパ
大映社長
戦後、大映の社長に就いた永田は、
映画プロデューサーとしての手腕を発揮する。
1951年には黒澤明監督による★「羅生門」が
ヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー 外国語映画賞を受賞。
 
世界の映画興行界に、日本映画のレベルを知らしめる作品となった。
続いて1952年にはカンヌ国際映画祭で
★「源氏物語」が最高技術賞、
1953年には★「雨月物語」がヴェネツィアで
グランプリに匹敵する銀獅子賞を受賞。
さらに
1954年にはカンヌで★「地獄門」がグランプリ、ヴェネツィアで★「山椒大夫」が銀獅子賞、
さらに東京で開催された
第1回東南アジア映画祭では★「金色夜叉」が
最高賞を取った。
まさに大映は黄金期を迎えた。
昭和の映画全盛期を支えた怪物がいた~
★映画、★野球、★馬主、金持ちの道楽を
全て手にした 永田ラッパ🎺と知られる。
1973年赤玉スイートワインと名称変更
赤玉ポートワインのポスターこのポスターは、あまりにも有名で、去年末には
    NHKの『美の壺』
でも取り上げられたとか・・・
昭和は、お酒🍸️✨🍷イコール
ヌードポスターの代名詞になったほどの評判だったらしい。
確かにボクらや私達が、お酒をたしなみ始めたころもサントリーの広告展開はヌード路線だった。
特に昭和40年代はTVの11PMが人気番組となったが、番組の中でも外人ヌードが常に出てきていたと思われます ヾ(≧∀≦*)ノ〃💕
The”レトロポスター赤玉ポートワイン💕
バケツ一杯の水を用意して、
バキュームカーがやって来た!
クリープには勝てなかったクリーマ。
佐良直美さん懐かしいです。
坂口良子さん
(1955年10月23日-2013年3月27日)
女優。
北海道余市郡余市町出身。
余市町立東中学校を卒業し、
小樽双葉女子学園高校(現在:双葉高等学校)に入学、
堀越高等学校卒業。
身長162cm(1976年4月)。
1971年、
15歳で出場したミス・セブンティーンコンテストで優勝し芸能界入り。
1972年、
シングル「あこがれ」で歌手デビュー。
フジテレビのドラマ「アイちゃんが行く!」で主演に抜擢され、女優デビュー。
以降次々とドラマに出演するようになり、
ドラマ「サインはV」(1973年版)では主役・江川ゆかを演じ、主題歌も担当。
他にも
1975年の「前略おふくろ様」、
1980年の「池中玄太80キロ」などの作品が当たり、
特に1970年代はアイドル的扱いをされ、
石井ふく子からも重宝され、
「石井組」の一員と見なされていました。
1970年代後半には、
市川崑作品を中心に映画出演も多くこなし、
市川作品では計4本に出演。
晩年は娘の杏里との共演が多く、
共に出演した2012年11月20日収録の「雨上がり食楽部」が
生前最後のテレビ出演となりました(12月22日放送)。
2013年3月27日午前3時40分、
横行結腸癌および肺炎のため死去。
57歳没(享年59)。
(坂口良子)
高松英郎さん
(1929年10月24日-2007年2月26日)
俳優。 
高知県長岡郡大篠村(現:南国市)生まれ。
早稲田中学卒業。
小学校教員の息子として誕生。
幼少時に東京都杉並区に移り、
1947年に早稲田中学卒業、鎌倉アカデミア演劇科に入学。
在学中は舞踏家檜健次のもとで創作舞踊を学び、
鎌倉アカデミアの講師の推薦で1951年、
大映東京撮影所に「第5期ニューフェイス」として入社。
1953年に『怒れ三平』にて若尾の恋人役でスクリーンデビュー。
初期は恋愛映画への出演が多かったですが、
徐々に悪役で持ち味を発揮。
『巨人と玩具』での猛烈サラリーマン役を演じて注目を浴び、
1962年の『黒の試走車』では一癖も二癖もある自動車会社の課長役、
『しとやかな獣』では欲望丸出しの人間臭い役どころを演じました。
1963年『黒の報告書』を最後に大映を退社、
活躍の場をテレビに移します。
テレビドラマの代表作には、
『柔道一直線』や『雲のじゅうたん』など。
『雲のじゅうたん』ではテレビガイド最優秀演技者賞を受賞。
その風貌が『巨人の星』に登場する主人公の父・星一徹に似ていたことから、
CMやバラエティー番組へのゲスト出演をたびたび行いました。
1962年にフジテレビの『テレビ結婚式』番組内で挙式(売名行為ではない完全なる慈善結婚式で、局もちの挙式で浮いた結婚資金やスポンサーからの贈答品などをすべて恵まれない子どものための施設に寄付)。
夫人は元モデルで二女をもうけました(長女は1980年代後半にモデル活動)。
2007年2月26日朝、
神奈川県内の自宅で心筋梗塞のため死去。
77歳没。
(高松英郎)
宇津井健さん
(1931年10月24日-2014年3月14日)
俳優。
身長173cm。
東京府東京市深川区(現在の江東区)出身。
千葉県立千葉高等学校卒業。
早稲田大学第一文学部演劇専修中退。
勝新太郎とは幼馴染。
大学時代は馬術部に所属。
在学中の1952年に
俳優座養成所に第4期生として入団。
同期には佐藤慶・中谷一郎・仲代達矢・佐藤允ら。
翌1954年に新東宝に入社し、
若手スターとして活躍、
『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)シリーズ』では主演を務めました。
新東宝が倒産した1961年には大映に移り、
映画では脇に回ることが多くなります。
1960年代半ばから1980年代前半まで、
大映テレビの大黒柱として同社制作による数多くのテレビドラマに出演。
1965年に開始された『ザ・ガードマン』は、
30%を超える高視聴率をマークし、
1971年までの約7年に亘って放映された代表作の1つ。
山口百恵と共演した「赤い」シリーズでは
「山口百恵の父親役」で百恵とともに一世を風靡。
また、
「赤い」シリーズの前作となるTBS系ドラマ『顔で笑って』では、
主題歌「パパは恋人」を山口百恵とデュエット。
『たんぽぽ』出演以降、
橋田壽賀子作品にはたびたび起用され、
「橋田(石井)ファミリー」の一員と見なされました(2006年4月6日からは、11年ぶりに『渡る世間は鬼ばかり』で藤岡琢也に代わり岡倉大吉<主役>を演じていました)。
平成に入ってからは『ごくせん』にて主人公の祖父役で出演し、
宇津井になじみの薄かった若い世代にも顔が知られました。
子供思いの父親・祖父役に当たり役が多く、
「温厚で気が優しく根は熱血」といった役柄が多数(悪役を演じることは滅多にありませんでした)。
座右の銘は
「才能の器は小さい、努力の器は大きい」。
2014年3月14日午後6時5分、
愛知県名古屋市の病院にて慢性呼吸不全のため死去。
82歳没。
(宇津井健)

昭和のビンに入った薬。高かったから😆効いた気分になった。😆

夏樹陽子さん
(1952年10月24日-)
女優・ファッションモデル。
身長168cm。
宝石ブランドのジュエリーデザイナーとしても活動。
三重県伊勢市出身。
愛知県立犬山高等学校・杉野女子短期大学卒業。
三重県で誕生。
母は小学校教師。
会社員の父親の仕事の都合で小学校を三つ変わり、
小学校6年生まで大阪にいて、
6年生の3学期でまた三重県に引っ越して、
中学校の3年生の2学期で愛知県犬山市へ引っ越します。
愛知県立犬山高等学校を経て杉野女子短期大学被服科に入学。
短大在学中にグラマラスな姿態をスカウトされ、
ファッションモデルとなり、
以降、3年半、トップモデルとして活躍。
かねてから念願だった女優転身を目指し、
知人の紹介で『新・女囚さそり 701号』にカメラテスト風に出演。
1977年に映画『空手バカ一代』のヒロイン役で本格的に女優デビュー。
エキゾチックな美貌を買われ、
1977年4月、東映入社。
映画『新・女囚さそり 特殊房X』(東映)で、
梶芽衣子、多岐川裕美に続く"三代目さそり"を演じ、
翌1978年の『カラテ大戦争』(松竹)では初めて他社で主演、
邦画総体の地盤沈下と大作一本立て興行等の影響を受け、
東映プログラムピクチャーの後退もあり、
映画出演は減少。
東映退社は1980年2月。
東映の多角経営で、
ホテルやゴルフ場のオープニングイベント等で、
カラオケで歌わされていたこともあり、
1979年秋に、
アルバム『よこはま情炎ものがたり』を出した以降も時折、レコードを出し、
ディナーショー等も行います。
特技は
ピアノ、エレクトーン、花柳流日舞、観世流能楽、大倉流小鼓、クレー射撃、ドライブ(国際C級ライセンス所持)など。
所有車歴はポルシェ・フェラーリ。
絵本の読み聞かせで、小学校やケアホームを訪問。
2017年6月28日、
日本クレー射撃協会の総会で、初の女性理事に選ばれました。
(夏樹陽子)
八千草薫さん
(1931年1月6日-2019年10月24日)
女優。
大阪府大阪市出身。
宝塚音楽学校卒業。
愛称は「ヒトミ(ちゃん)」。
公称身長154cm。
幼少時に父を亡くし、母子家庭で育ちました。
思春期がちょうど戦時中であり、自宅も空襲で焼け、
「色のある」「夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれます。
聖泉高等女学校(現:プール学院中学校・高等学校)在学中に宝塚音楽学校に合格し、
1947年に宝塚歌劇団入団。
宝塚入団時の成績は50人中19位。
入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としましたが、
1952年『源氏物語』の初演で
可憐で無垢な若紫(紫の上の少女時代)を内・外面とも見事に表現し、人気を博しました。
以降は美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡、
同年から劇団内に新設された映画専科に所属。
1951年の『虞美人』、
1952年の『ジャワの踊り子』にも出演。
宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなしており、
当時の「お嫁さんにしたい有名人」の統計で、
たびたび首位に輝きました。
1957年5月31日付で歌劇団を退団。
最終出演公演の演目は花組公演『みにくい家鴨の子/王春讃歌』。 
退団後は東宝と専属契約を結んだ後、フリー。
テレビドラマでのおっとりとした良妻賢母役が好評を得ます。
1964年、
長門裕之・南田洋子とともに人間プロダクションの設立に参加。
一方、
『岸辺のアルバム』での家族に隠れて不倫する主婦役で従来のイメージを覆し、
テレビドラマ史に残る名作と評されました。
私生活では1957年に映画監督の谷口千吉と結婚。
人気・好感度絶頂の八千草と、
親子ほどの年の差があり、
しかも3度目の結婚となった谷口の組み合わせは当時、
多方面で話題・波紋を呼びました。
夫婦に子はありませんでしたが、
おしどり夫婦として知られ、
結婚50年目となった2007年に死別するまで連れ添いました。
2010年3月中旬にドラマの撮影中に転倒し、
右膝蓋骨を負傷。
当初は全治3週間と診断されていましたが症状が悪化し、
5月開催の第19回日本映画批評家大賞授賞式を欠席。
2014年、
古巣・宝塚歌劇団創立100周年を記念して設立された
「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人の一人として殿堂入り。
2017年の末に膵臓にがんが見つかり、
2018年1月に手術を受け、
予後は良好でドラマ収録や舞台『黄昏』の主演もこなしましたが、
2019年に入って肝臓にがんが見つかったため、
2019年4月放送開始予定のドラマ『やすらぎの刻〜道』の主演を降板し、
休業して治療に専念。
5月26日、
理事を務める日本生態系協会のイベントに出席、
がんを発表後初めて公の場に登場。
2019年10月24日午前7時45分、
膵臓がんのため東京都内の病院にて死去。
88歳。
(八千草薫)
1954年 司葉子さん  女優
大阪の新日本放送(現MBS)に入社し、
社長秘書を務める。 
美容家・メイ牛山から雑誌
モデルとし
その表紙に目を留めた東宝の映画監督の
 丸山誠治さんに見初められ、主演女優
 
映画「君死に給うことなかれ」の
代役として白羽の矢が立つと、
司さんの自宅まで、プロデューサーと当時
 大スターだった相手役の池部良さんが
 2人でスカウトに来たそうです~❣️
1949年10月24日、
この日、
映画『悲しき口笛』が封切り。
美空ひばりが映画初出演。
『悲しき口笛』
松竹製作・配給:大船、上映時間は84分。
[あらすじ]
終戦直後の港町・横浜に復員してきた健三(原保美)は、
生き別れになった妹のミツコ(美空ひばり)を捜していました。
戦地へ赴く前にミツコに教えた歌「悲しき口笛」だけが、
焼け跡の混乱をさまよう健三のたった一つの手がかりでした。
[スタッフ]
監督・家城巳代治
脚色・清島長利
原作・竹田敏彦
製作・小出孝
撮影・西川亨
美術・五所福之助
音楽・田代與志
録音・大野久男
照明・高下逸男
[キャスト]
菅井一郎・勝川修
津島恵子・勝川京子
美空ひばり・田中ミツコ
原保美・田中健三
徳大寺伸・吉村
山路義人・安田
神田隆・山口
水島光・代妻芳子
大坂志郎・松ちゃん
清水一郎・キャバレー支配人
(ポスター)
野沢雅子さん(1936年10月25日-)
声優、女優、歌手。
身長153cm。
東京都荒川区日暮里出身。
青二プロダクション所属。
劇団ムーンライト主宰。
日本俳優連合副理事長。
声優としての代表作に
『ゲゲゲの鬼太郎』(鬼太郎)、
『いなかっぺ大将』(風大左衛門)、
『ど根性ガエル』(ひろし)、
『銀河鉄道999』(星野鉄郎)、
『ドラゴンボール』シリーズ(孫悟空、孫悟飯、孫悟天)など。
(野沢雅子)
岩崎加根子さん(1932年10月25日-)
女優。
身長162cm。
北海道函館市生まれ。
立華学園卒業。
幼少期に東京へ移住(父親は熊本県、母親は近畿出身)。
1949年、
俳優座養成所の第1期生となり、
1952年の卒業と同時に入団。
現在は劇団代表を務めます。
主な活動の場は舞台で、
1970年代には市原悦子と安部公房が主宰する演劇集団安部公房スタジオに所属。
『反逆児』では中村錦之助からのお墨付きで相手役に抜擢。
『太陽への脱出』では石原裕次郎の相手役を務め、
『座頭市地獄旅』では勝新太郎の相手役を演じました。
(岩崎加根子)