Apex product 【 昭和の楽しい時代 68 】

昭和のお色気が売りのテレビドラマ
プレイガール
これは必ず見てたわけじゃないんですけど、時々ね。
ボスが小説家の戸川昌子。
リーダーは歌手の沢たまき。
あと、いろいろ……。
当時のセクシー女優、かたっぱしみたいな……。
どんどん出演者変るんで割愛。
ミニスカートはいてキックでパンチラとかね……。
それが売りのドラマでした。
実はこの女性たち何者なのか、きょうまで知りませんでした。
wikiで調べたら、「女性国際秘密保険調査員」……。
ますます分りません……。
国境を越えて、何かあったときに、保険が適用できるかどうか調べる調査員なのかな?
ドラマではそんなのなかったような……。
まあ、昭和ならではのテレビドラマですね。
昭和の女優さんで個人的に1番好きなのは、
和泉雅子さん。
メイク技術も美容整形も未発展な(しかも整形に偏見ある)時代に、この美しさは…素の美しさのレベルが凄いということ
後年は冒険家に転身されましたが、本当にチャーミングですよね!
ジャニーズ(1964〜1967年)と言えばこの4人が最初でしたよね。
当時何も知らない私達はただただテレビの前でそのスマートさに感心していたかと思います。
その裏側では何が起こっているかなんて考えもせずにエンタメの波にのまれていましたよね、、😔
*グループ名は
    ズバリ! ジャニーズ‼️
#️⃣#️⃣
女優・タレントの松岡きっこさん💨
11PMやシャボン玉こんにちは等が印象に残っています☺️
1947年2月11日生まれ😋
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
川地民夫さん
(1938年7月21日-2018年2月10日)
俳優。
身長173cm。
神奈川県逗子市出身。
逗子開成高等学校卒業、関東学院大学工学部中退。
大学1年の頃に
逗子の家の隣に石原裕次郎が住んでいたのが縁で
裕次郎の勧めもあり日活に入社。
1958年、『陽のあたる坂道』でデビュー。
小林旭、沢本忠雄と「三悪トリオ」として売り出し、
アクション物、青春物に次々と主演。
その後、
脇役に転じてから独特の個性に磨きがかかり、
特に1963年の『野獣の青春』以来、
鈴木清順監督に重用。
日活退社後は、東映への出演が多く、
特に1971年から9本作られた『まむしの兄弟』シリーズで見せたユーモラスな演技は、
大いに人気を博しました。
1980年代、
当時の妻のがん闘病と死去の悲しみ、
川地自身の脊椎の怪我や胃潰瘍等に1990年代初頭まで苦しめられるなど
自身の健康上の問題で苦労していた時期もありましたが、
これらを克服し仕事に復帰。
私生活では、
3度の結婚(離婚と死別を各1度)、
また事実婚とその破局を1度経験。
2018年2月10日午後4時59分、
脳梗塞のため神奈川県横須賀市内の病院で死去、79歳。

クエックエッちょんわ ちょんわ

みぃどりに輝くぅ母の星ぃ~🎵

輝け ジャンケル 空高くぅ🎵

水平線の彼方には  あぁぁ~
          虹の橋があるのだろぉ~🎵

1970年代でしょうか。飛び出す絵本は私もいくつか持っていたと思います。写真の絵本はみつばち(みなしご)ハッチのものなので、当時は人気があったかも知れないですね😂

2月11日は俳優 #剛たつひと さんのお誕生日です。おめでとうございます!
『#電撃ストラダ5』のムードメイカー アポロ@竹中一念、青春シリーズのヤンチャ生徒、『子連れ狼』の屈強な刺客など変幻自在。白眉は『高校教師』の西岡マモル。誰からも理解されない不良女子高生達を全力で護る 信念の漢!
吹きすぅさぶ風がぁ~ 
              よく似合うぅ~🎵

わしはダメ ダメ ダメおやじぃ🎵

子供の頃の出店の食べ物って言ったら
あんず飴でしょう!
すももやあんずを水飴に絡ませて
氷の上に載ってます。ビーンボールゲームで当たれば何個か貰えます。
でもこれって関東方面しかないみたい?
なのか?静岡県には有りませんね。
東京調布市深大寺だるま市にて
懐かしき昭和、フーテンの寅さんシリーズ
【初期〜12作目】
1.男はつらいよ(1969年)光本幸子
2.続・男はつらいよ(1969年)佐藤オリエ
3.男はつらいよ・フーテンの寅(1970年)香山美子
4.新・男はつらいよ(1970年)栗原小巻
5.男はつらいよ・望郷篇(1970年)長山藍子
6.男はつらいよ・純情篇(1971年)若尾文子
7.男はつらいよ・奮闘篇(1971年)榊原るみ
8.男はつらいよ・寅次郎恋歌(1971年)池内淳子
9.男はつらいよ・柴又慕情(1972年)吉永小百合
10.男はつらいよ・寅次郎夢枕(1972年)八千草薫
11.男はつらいよ・寅次郎忘れな草(1973年)浅丘ルリ子
12.男はつらいよ・私の寅さん(1973年)岸恵子

昭和のボーリング場、裏方さんは肉体労働ですね。

昭和名物スト権ストとは、身分が「みなし公務員」の国鉄職員が、ストの権利を得るためにストを行う事でした。

阿久 悠さん
1937年2月7日生まれ。
2007年8月1日没、享年70。
兵庫県 淡路島出身。
放送作家、詩人、作詞家、小説家。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。 
1959年に広告代理店・宣弘社へ入社する。隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年から放送作家としても活動。1966年に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。
その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。
『ざんげの値打ちもない』山崎ハコ
https://youtu.be/jiJXQ9AKTDI?si=ABWMmp6waDEhoWDc
このアルバムではこの歌が心に沁みるなぁ。
高橋英樹さん
(1944年2月10日-)
俳優、タレント、司会者、会社役員。
千葉県木更津市出身。
身長181cm、体重80kg。
愛称は、ナイスガイ。
妻は元女優でアイウエオ企画取締役でもある小林亜紀子。
長女はフリーアナウンサーの高橋真麻。
船橋市立二宮小学校、
千葉市立検見川小学校、
千葉市立緑町中学校を経て、
私立市川高等学校入学。
1962年に日本大学芸術学部入学(翌年に中退)。
1961年、
高校在学中に日活ニューフェース第5期として日活株式会社に入社。
第5期の同期には、中尾彬や竜崎勝。
同年の映画『高原児』に端役でデビュー。
富山の薬売り(売薬さん)が来て
熊胆、正露丸、風邪薬など色々な
薬を置いていくのが面白かった。
紙風船をもらえるのが楽しみ!!
パン食い競走
昭和時代の運動会の障害物競走と言えば「パン食い競走」でした。

実写版チッチとサリー。

木暮課長
団長
リキ
タツ
おやっさん
ゲン
ジン
やっぱり最初のメンバーが
一番ですね🎵😀

【たかじんのバー】😅沢山のゲスト、トーク、たかじんさんの🎶曲が聞けて 面白かったです😅✌

志村喬さん
(1905年3月12日-1982年2月11日)
俳優。
身長163cm。
兵庫県朝来郡生野町出身。
舞台俳優を経て映画俳優となり、
戦前は時代劇などで活躍したのち、
戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。
特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優(21作品に出演)。
小野ヤスシさん
(1940年2月11日-2012年6月28日)
タレント、コメディアン、俳優、司会者、ミュージシャン。
身長178cm。
鳥取県境港市出身。
自称「鳥取が生んだ天才“スーパースター”」。
父親の仕事の関係で日本統治下の朝鮮元山市に生誕。
幼少の頃に日本に引き揚げ。
鳥取県立境高等学校卒業、成城大学文芸学部中退。
「ザ・ドリフターズ」の初期のメンバーで、
1960年「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」とグループ名を変更後、正式に参加。
1964年に、
桜井輝夫の脱退後にリーダーの座を譲られた碇矢長一のワンマン体制に不満を持ち対立。
その小野に同調したドリフのメンバーだった
ジャイアント吉田・飯塚文雄・猪熊虎五郎と共に4人で脱退。
これに祝勝を加え、
コミックバンドである『ドンキーカルテット』を結成し、
演芸ブームの追い風の中、人気を獲得。
1970年、
ブームの方も下火となり6年間活動を続けて来たドンキーカルテットは解散。
以降はタレントへ転身し、単独で活動。
バラエティ番組では
司会やリポーター・ゲスト等に出演し、
映画やテレビドラマではコミカルなバイプレーヤーとして活躍。
フジテレビ系列「スターどっきり(秘)報告」ではレポーターを務め、
さらに司会を10年以上の長きに渡り担当。
同番組では『キャップ』と呼ばれ親しまれていました。
自身を「鳥取県が生んだ自称スーパースター」と名乗っていた様に鳥取県への郷里愛は強く、
1996年から
毎年11月に出身地の境港市に著名落語家や芸能人を招いて『境みなと寄席』を開催し、
自らも司会を務めるなどしていました。
2000年代以降は
アサヒ緑健提供の青汁PRの為のトーク番組の司会や、
旧知の仲で大親友の加藤茶・仲本工事と3人で結成したコミックバンド『加トちゃんバンド』での公演活動、
PS2ソフト『ヘビーメタルサンダー』において
「小野ヤスシ似」というキャラの声を担当し、
ゲーム内の番組『重金属アワー』にて司会を行いました。
2010年1月に腎盂腫瘍で右腎臓を全摘出。
それ以降は治療に専念しつつ、
体調を見ながら芸能活動を継続していましたが、
2012年6月28日、
腎盂がんのため都内の病院で死去、72歳没。
池部良さん
(1918年2月11日-2010年10月8日) 
俳優、随筆家。
東京市大森区(現・東京都大田区)出身。
身長174センチメートル。
立教大学文学部英文科卒業。
昭和中期の代表的な映画スターの一人。
甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとりました。
大学では、
映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に
東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、
1941年に卒業すると同時に
シナリオ研究所を卒業して東宝に入社。
監督希望でしたが、
戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、
文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、
当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、
彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演。
それが好評となり、
知的でスマートな若手俳優のホープとして注目されます。
1942年の『緑の大地』のクランクアップの翌日に陸軍に召集され、
中国山東省に派遣。
大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められ、
上官に無理やり受けさせられ、
白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、
厳しい訓練を受けました。
1943年11月に見習士官に任官後、
予備陸軍少尉を経て1944年に南方戦線へ移動。
竹一船団の輸送船「天津山丸」に乗船するも、
5月12日に敵潜水艦に撃沈され、
セレベス海に投げ出されて10時間泳いだ後、
海軍の艦船に救出され、
インドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属。
少尉ながら衛生隊本隊を任されて終戦まで戦い、
終戦時の階級は中尉。
1945年11月には
進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役を任され、
単身で豪海軍駆逐艦に乗り込み、
人格者であった艦長とオールド・パーを飲み交わしています。
1946年6月まで抑留され、
南方から苦労して復員船に乗り、日本に帰国。
俳優に復帰し、次々と主演作品をヒットさせます。
1948年に女優の羽鳥敏子と結婚するも離婚、
その後も青春スターの第一人者として活躍を続けました。
特に1949年の『青い山脈』では、
当時30代だったにもかかわらず旧制高校の生徒をさわやかに演じ、
戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒット。
その後は
1950年に新東宝の『暁の脱走』、
1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。
特に『現代人』は、
それまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品でした。
『坊っちゃん』(1953年)、
『雪国』(1957年)、
『暗夜行路』(1959年)などの多くの文芸作品で
影のある青年を演じ、
文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨。
1960年代に入ると徐々に脇役に転じ、
1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判に。
この頃、18歳年下の女性と再婚。
1960年代からはテレビドラマにも出演し始めました。
1965年9月、
東宝を離れて池部プロダクションを設立、
自ら映画を企画してストーリーを書くようになるも、
1967年には1億円の負債を抱え、倒産。
同年、
東映より高倉健主演『昭和残侠伝』(1965年)に出演。
公開された『昭和残侠伝』は大ヒットし、
役名は毎回違っても主人公を支えるヤクザ役でシリーズを支えていきます。
なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で
池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語に。
このほかの東映作品では、
池部が元警視総監を演じた千葉真一主演『直撃! 地獄拳』が
1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、
同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に。
アメリカ合衆国では『The Executioner』というタイトルで
1999年現在、10万本以上のビデオが売れています。
1983年より2009年まで創設された日本映画俳優協会初代理事長を務め、
1991年、
『毎日新聞』連載の『そよ風ときにはつむじ風』で
日本文芸大賞を受賞したことから多数の連載を抱えることとなり、
以後は文筆業や講演が活動中心に。
2007年、
初の池部良研究本『映画俳優 池部良』を出版。
2010年10月8日午後1時55分、
敗血症により、東京都内の病院で死去。
92歳没。
野村克也さん
(1935年6月29日-2020年2月11日)
京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身の
プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。
身長175cm。
後妻にタレントの野村沙知代。
愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。
選手としては、
史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、
選手出場試合数歴代2位、
監督出場試合数歴代3位、
通算本塁打数歴代2位、
通算安打数歴代2位、
通算打点数歴代2位、
通算塁打数歴代2位、
通算打席数1位(11970打席)、
通算打数1位(10472打数)、
通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、
通算併殺打1位(378併殺打)、
最多記録となるベストナインを19回受賞、
パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、
打点王を7回獲得、
パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持ちます。
監督としては1565勝1563敗を記録。
このうち「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の勝利数1053は同時代における最多記録。
1563敗は歴代最多記録。
プロ野球では
南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、
日本体育大学客員教授なども務めました。
元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年迄)。
🎸🍶帰ってきたヨッパライ🍶★🎤★☮ザ・フォーク・クルセダーズ☮🎸
🎸🍷🎤🍷🎻➤ https://youtu.be/ieVYEYNBN-U
「帰って来たヨッパライ」は、ザ・フォーク・クルセダーズのデビューシングルであり、同グループの代表曲である。一般には「帰ってきたヨッパライ」と曲名が表記されることが多いが、初版レコードでは「帰って来たヨッパライ」となっている。1967年12月25日に東芝音楽工業の洋楽レーベル・キャピトルレコードからシングル盤が発売された。ラジオ関西で放送されると、早回しのテープと奇想天外な歌詞で反響を呼んだ。「アングラ・フォーク」のブームを生み出した曲である。オリコンチャート史上初のミリオン・シングルで、日本のコミックソングの代表的な作品。飲酒運転で交通事故を起こして死亡した、東北弁を話す主人公が長い雲の階段を通って天国へ登るが、その天国でも酒と美女に浮かれてばかりだったため、関西弁を話す「怖い神様」からの「お仕置き」で天国を追い出されて生き返る顛末を、テープの高速回転による甲高い声と伴奏で語る歌である。
🎸🍺🎤🍺🎻➤ https://youtu.be/HgW5KUyJarw

1987年の4~6月にTBS系で放送された「ママはアイドル」です。この頃の中山美穂さんはデビューして3年目で一番アイドルらしい雰囲気があったと思います😁娘役の後藤久美子さんも美少女で、父親、夫役の三田村邦彦さんが羨ましいなと思いながら、観た記憶があります😂

矢追純一さん…元日本テレビディレクター🎬😅 この方こそが、今でいう 超常現象、UFO、等々 都市伝説の元祖でしたね😅✌

1970年代後半から1980年代半ば頃に婦人倶楽部という月刊誌❓の表紙を飾ったアイドルスターです。この雑誌は主婦向けの雑誌だったため、表紙にアイドルタレントを起用したことは、賛否両論があった様ですが😂

【昭和50年代アイドル】
永遠の双子デュオ ザ #リリーズ さん。限りなき愛らしさ♪ (⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)💕
大地 真央さん
1956年2月5日生まれ、68歳。
兵庫県 洲本市出身。
女優。元宝塚歌劇団月組トップスター。 
舞台『風と共に去りぬ』他で共演が多かった松平健と1990年に神前結婚したものの、2004年に離婚。
舞台
『大地真央ドラマチックリサイタル
     麗しきモノクロの嘘』

ダウンタウンブギブギバンド・本格的なバンド演奏だった。リードギターの静さんうまかったね。宇崎竜童の作曲はピカイチでした。デビュー曲、スモーキングブギを聴いて、親の眼を盗んで、タバコを🚬スパスパ吸い始めました。

大屋政子さん、今で言ったらアパホテルの社長さんみたいな人。口癖は「うちのお父ちゃん死んでもうたん」

「虹をつかむ男」
ー寅さん追悼で作られた・・・映画愛に満ちた作品ー
「虹をつかむ男」は、1996年の日本映画。監督は山田洋次。
第49作『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』を予定し1996年秋からの撮影を控えていたものの、渥美清死去により、「花へんろ」のスタッフをほぼそのまま移行して作られた。
キャストは・・・
西田敏行、吉岡秀隆、田中邦衛、田中裕子ほか。
映画は・・・・
平山亮は就職試験に失敗して柴又の家を飛び出し、旅の果てに四国・徳島県の小さな町に辿り着いた。亮は白銀活男が経営する古ぼけた映画館・オデオン座でアルバイトとして働くことになる。
活は八重子が開く喫茶店“カサブランカ”に毎日顔を出しては映画談議を繰り広げるが、彼女への想いだけは口にすることができないでいた。活男は巡回映画にも出かけ、小学生ひとりのために過疎分校を訪ねたり、上映時間について役場課長と言い合ったりしながら、名画を上映していく。
しかし、その映画への想いも、八重子への想いも、永遠につづくわけもなく・・・・
劇中、西田演じる映画館経営者が、秘かに思いを寄せる田中裕子演じる裕子との会話は、小津安二郎監督「東京物語」で、原節子と笠智衆が交わす、ラスト近くの会話をほぼそのまま踏襲している。のちの「東京家族」を前触れのようなシーン。
映画「わかものたち」のシーンを、車中で語るわきでは、其の出演者である田中邦衛を配する、にくい設定も・・・。西田は、雨の中、ジーン・ケリーばりに傘を小道具にダンスシーンも披露。
そして、最後には、寅さんらしい人物をやや遠目にとって、すっとバス停の小屋の影に隠れ、映画「男はつらいよ」のテーマが流れるのは、まさに、寅さんへのリスペクトに満ちている。
この「虹をつかむ男」は、続編まで作られるも、シリーズを重ねることはなく、この作品と同じく西田敏行と、三国連太郎コンビによる「釣りバカ日誌」が寅さんに代わる看板シリーズになる。
このシリーズのおわりは、実質的な松竹映画の終焉の幕開けのようになったのは、錯覚かなぁ、と、ふと思ったのでしたよ。
#虹をつかむ男
昭和の時代 祝日には、国旗を揚げていた🇯🇵
建国記念の日ですが国旗を揚げなくなったのは何故ですか?
祝日に国旗を揚げなくなって久しいですが、何故揚げなくなったのでしようか? ずいぶん前には元旦をはじめとして主な祝日には、揚げるのが当然であった国旗も、現在では全く見かけなくなりました。
昭和のテレビドラマ
祭ばやしが聞こえる
ショーケンこと萩原健一。室田日出男、山崎務、いしだあゆみ……。
このメンバーだけでも、ありきたりのドラマじゃないことが分りますよね。
ショーケンと室田が作った会社の作品で、復活を目指す競輪選手のはなし。途中で室田が大麻で送検されて離脱……。
莫大な借金がショーケンに残されたとか……。
とにかく地味な作品。
視聴率も低かったのでは……。
でも、わたしはこのドラマの空気感が好きでね~~~!!!
なんか見てしまうんですよね。
個人的に埋もれさせたくない
テーマ曲は柳ジョージ。
これもいいんですよね~~~!!!
見ていた方いますか???

京本政樹と赤影と白影と青影。若いね。

若い頃、買いました。オレンジカード! 国鉄からJRになった頃ですかね・・・松ちゃん若いです!

子供の頃は道路が未舗装で雨が降ると水溜りが出来てましたね🥰🐼🩷

小学生の頃擦り傷.切り傷にはこれでした🥰🐼🩷

昔、消費者金融は金利が高く、恐ろしかったですね😨

自衛隊の在隊の時、昭和のヤンキーが大隊に入ってきました(一人)。他の中隊でしたので、辞めたか、辞めされたか分かりませんが、すぐいなくなりました。昭和53年頃

女優・元アイドル歌手の岡田奈々さん💨
ひとりごとで歌手デビューされました🎵
戦国自衛隊や不良少女とよばれて、スクールウォーズ等が印象に残っています☺️
1959年2月12日生まれ💨
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
1966年毎週日曜日7時から
放送されたモノクロ特撮テレビ番組📺
ウルトラQ
当時保育園年中組、衝撃的な番組
でした。
特にガラモンの絶命シーンは
子供ごころにトラウマになりました。
カネゴンは好きでした😊
これは最高に面白かった❤️
映画「女囚701号 さそり」(1972年)
原作:篠原とおる
監督:伊藤俊也
主演:梶芽衣子
 
 梶さんの女囚さそりシリーズ第1作です!!
 
 この頃の東映の映画は
 ピンキー&バイオレンス路線で
 何も考えずに肩が凝らずに観られる
 エンターテイメント作品が数多くて
 自分は大好きです(*^▽^*)
 
 主人公の松島ナミ(梶芽衣子)が
 めっちゃクールでタフで最高にカッコ良いんです❤️
 
 映画の大半が刑務所の中の映像です。
 見応え十分です(^○^)
 
 ナミと渡辺やよいとの友情
 
 ナミと三原葉子とのバトル
 
 ナミと刑務官の片山由美子とのレズシーン
 
 ナミを味方する頼もしい姉御の扇ひろ子
 
 ナミを殺害するのに失敗した横山リエの焼死シーン
 
 やがて脱獄したナミは復讐の鬼と化して
 自分をレイプしたヤクザ組織の連中や
 自分を嵌めた元恋人の刑事(夏八木勲)を
 次々と殺害して行く!!
「日米対抗ローラーゲーム」
ルールがよくわからなかったけど、テレビにかぶり付いて観てました。🤗
ダンプ・ヒップ・バンプ くたばれ野郎ども(1969)
監督:帯盛廸彦
出演:津山由紀子、南美川洋子、渥美マリ、水木正子、八代順子、森川信、毒蝮三太夫、山東昭子、大泉滉、殿山泰司、藤村有弘ほか
テレビの「プレイガール」に対抗してかどうなのか、似たような映画となっております。
ダンプ・ヒップ・バンプなる愛称の三人娘が男相手に戦うさまを描いております。
で、この三人娘がドンドン仲間を増やしていく様は後年の少年漫画みたいな感じがしますw
出てくる娘がみ~んな超マイクロミニでパンチラどこ吹く風?ってな感じで大の男どもを投げて、ぶん殴って、ケリを入れて、踏んづけちゃいます!
そういった願望をお持ちの男性にはこれこそ夢のような映画でしょうなw
この映画に出ている女優さんらの他に、街の風景なんかも時折映るんですけど、そこらを歩いている一般の女性らもみ~んな超マイクロミニ!
こんな時代もあったんですな!
女性の脚マニア垂涎ものの映画となっておりますm(__)m

昭和46年7月20日、マクドナルド1号店が東京・銀座のど真ん中に開店した。銀座4丁目交差点。百貨店・三越銀座店の1階、写真は開店当日のマクドナルド1号店(カラー変換しました。)

昭和48年の中古車、タイムスリップして買いたいな。

昭和といえば11PMで放送があったミスヌードコンテストっていうのありましたね😅

D51とC57、滅多に見れない
貴重な場面に感銘!!

情報過多

1973年の日活出身の映画スターが集まった❤吉永小百合さん❤のピアノ伴奏で渡哲也さんが⭐くちなしの花⭐を歌。

昭和27年と平成の渋谷スクランブル交差点画像です。

懐かしい昭和の映画。
月光仮面。
大村文武さんの大ファンでした。

昭和のバブル期、ボディコンネ~ちゃん好きでしたね。(笑)

佐分利信さん
(1909年2月12日-1982年9月22日)
俳優、映画監督。
身長177cm。
渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、
愛称は「サブリどん」。
日活を経て松竹に入社し、
上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、
戦前松竹の看板スターとして活躍。
戦後は監督業にも進出し、
『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表し。
1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、
晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せました。
主な作品に
『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。
女優の黒木しのぶは妻、
俳優の石崎二郎は長男、
ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫。
司馬遼󠄁太郎さん
(1923年8月7日-1996年2月12日)
小説家、ノンフィクション作家、評論家。
日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
位階は従三位。
筆名の由来は
「司馬遷に遼󠄁に及ばざる日本の者(故に太郎)」から。
大阪府大阪市出身。
大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)、
私立上宮中学校(現:上宮高等学校)、
大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)蒙古語学科卒業。
1943(昭和18)年、学徒出陣。
兵庫県加古郡(現在の加古川市)にあった戦車第19連隊に入営。
1944(昭和19)年、満州の戦車第1連隊に配属。
1945年(昭和20年)、
本土防衛のための
第12方面軍(司令官: 田中静壱陸軍大将)
第36軍(司令官: 上村利道陸軍中将)
戦車第1師団戦車第1連隊付小隊長(陸軍少尉)として、
栃木県佐野市に配属され終戦を迎えました。
産経新聞社記者として在職中に、
『梟の城』で直木賞を受賞。
歴史小説に新風を送りました。
代表作に
『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など。
『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも
活発な文明批評を行いました。
こんにちは♪
これは私たちが幼稚園の遠足で行った
天王寺動物園で撮った記念写真です😀
昭和39年です。
遠足といっても幼稚園は
天王寺から路面電車で3つ目の
東天下茶屋という所にあったので
すぐ隣町でした😅
現在も路面電車沿いに住んでおります😊
バブル少し前の昭和の終わり頃、サーファー・ニュートラ・ハマトラ女子が全盛の頃、ディスコかなりハマって通ってました🕺
当時は彼女のJJ見て、流行りファション覚えて、栗色のレイヤーに青のアイシャドウ花のイヤリング、YSLのウェッジにエンジェルフライトやファーラーのパンツ大好きでした。
曲はブラコン系が大好きで、Shalamar - A Night To Remember"やThe Brothers Johnson - Stomp! なんて最高です🎵
https://m.youtube.com/watch?v=-_lx5GAiUDc&pp=ygUhU2hhbGFtYXIgLSAiQSBOaWdodCBUbyBSZW1lbWJlciIg

1980年代の月刊明星にはYOUNG SONGという付録があって、最近のヒット曲の歌詞や音譜などが載っていましたね😁これは私も毎号楽しみで、本誌よりこっちが欲しいくらいでした😂

にしきのあきら

子ども向けテレビ番組『#ママとあそぼうピンポンパン』は、今年放送開始58周年。#酒井ゆきえ お姉さんや 番組ユニットの「#ビッグマンモス」さんは、当時特に大人気でした♪ (⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)
〝昭和のアイドル〟だったこの人を覚えていますか?
1974年9月21日、「近藤久美子」の芸名とシングル『小さな抵抗』で歌手デビュー。(あの〝ゴクミ〟〝エンクミ〟とは別人です。)後に芸名を本名に改名。
生年月日は1958年5月27日。
日本の女優、タレント、アイドル。
本名:倉内 久美子(くらうち くみこ)現在。
血液型:B型。
身長:160cm(公表)。
身長158cm、B80cm、W59cm、H85cm(1976年8月当時)
初代児島美ゆきに代わり、1976年6月から1981年まで『TVジョッキー』の司会を務める。
メイン司会の土居まさるの補佐兼マスコット的なポジションだったが、(番組内の「奇人・変人コーナー」の参加者の去り際に本人が言う参加賞の「白いギターとジーンズをお持ち帰り下さい」は常套句であった)