Apex product 【懐かしい昭和の時代 ㉔ 】

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昭和時代【何もなかったが、今思い出すと、とっても楽しかった あの頃!!】

「トラック野郎青春ドラマ」のはずが特撮シーンがドンドンエスカレートしていってそっちが楽しみになった「火曜日のあいつ」😄
「太陽にほえろ!」の殿下と「アイアンキング」の静 弦太郎に「日本沈没(クソしょーもないリメイク版ではなく74年の特撮超大作)」のおりんこと由美かおるがメインキャスト。
あきらかに「模型」と分かる特撮が、何故か見ていてとてもワクワクさせられました。
当時流行った「スーパーカー消しゴム」にスケールを合わせて角材を削り出し、このトラック「バッファロー号」を作ってボクシーボールペンレースに参戦させたら圧勝でした😁

♥️💃2023/6/11 チェ・ジウ(48歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

お祭りで良くやりました.型抜きです🥰🐼❤️

花の中三トリオ
山口百恵・森昌子・桜田淳子

百恵ちゃんですか(・・?

♥️2023💃6/12 釈由美子(45歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/12 松井秀喜(49歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

沖雅也さん
(1952年6月12日-1983年6月28日、31歳没)
俳優。
6月12日は、この人のお誕生日です。
身長183cm。
大分県別府市、大分市出身。
大分市立王子中学校、通信制の高校卒業。
日活出身。
父は旧制高等小学校出の石油卸売業、
祖父は東京帝国大学医学部出の医師であり、
大病院経営という裕福な家庭に誕生。
しかし父親の事業失敗のために大分市に転居、
その後も市内を転々とする生活を送りました。
小学生の頃は手に負えない程いたずらをするなど、
わんぱくな一面がありました。
中学2年時の1966年12月、
両親が離婚し、父に付くも、
家庭不和により1968年1月4日、中学校の卒業前に家出。
10万円の全財産とバッグ一つで上京。
当日はホテルニューオータニへ宿泊。
翌日から氏名と年齢を偽り、
住み込みで中華そば屋の店員やカステラ工場の配送員の助手など職を転々とし、
最後はスナックのバーテンダーをしていました。
中学は卒業していませんでしたが、
1968年にデビューする際、
大分市内のホテルで佐藤文生代議士や大分市長らも出席してレセプションが開かれ、
この席上で王子中学校の校長が沖に中学の卒業証書を手渡しました。
それまでは大分舞鶴高校3年時に中退ということにしていました。
その後は高校の通信教育で卒業。
ある日、客からスカウトされファッション誌のモデルになるも、
単発的な仕事だったためスナック勤めを続けながら業務をこなしていましたが、
食う物にも困る程生活が苦しくなります。
1968年、バーテンをしていた16歳のとき、
オスカープロモーション設立前の古賀誠一にスカウトされ、
古賀が沖を日活関係者に紹介して
『ある少女の告白 純潔』で銀幕デビューし、
丘みつ子とのコンビで売り出されます。
1969年にはエランドール新人賞を受賞、
その後は数々の日活作品に助演。
芸名の「沖雅也」の「雅」は当時の日活社長の堀雅彦の一字から名付けられるなど、
相当な期待を受けていましたが大きな役には恵まれず。
1971年に入り、
ロマンポルノ映画製作へと移行する、
日活最後の一般映画となる『八月の濡れた砂』でようやく主役に抜擢されるも、
撮影開始直後にオートバイ事故のケガで降板という不運に見舞われます。
そして日活を退社し、松竹へと移籍。
テレビドラマ『さぼてんとマシュマロ』の主演で人気を博し、
他に『金メダルへのターン!』(フジテレビ)、『キイハンター』(TBS)にセミレギュラー出演するなど、
気鋭の若手として注目を浴びました。
初期はアイドル的な人気でしたが、
徐々に大人の役者への脱皮を試みる時期となりました。
1972年の映画『高校生無頼控』では主役に抜擢。
また松竹製作の映画数本にW主役や準主役で出演。
1973年に必殺シリーズ(朝日放送)第2作『必殺仕置人』の棺桶の錠役に抜擢され、
山﨑努、藤田まことらとの共演で注目され、
2年後(1975年)のシリーズ第6作『必殺仕置屋稼業』にもレギュラー出演。
沖は役に入れ込み、棺桶の錠とはガラリと印象の変わった冷徹な殺し屋・市松を演じました。
その間の1974年には
NHK金曜時代劇『ふりむくな鶴吉』の主演にも抜擢されているなど、
この時期は時代劇での活躍が目立ちました。
1975年、
沖は実父の死去を受け日景忠男と養子縁組。
第1期のレギュラー出演となる以前、
沖は1972年9月放送の『太陽にほえろ!』第10回「ハマッ子刑事の心意気」に、
神奈川県警浜崎署・久保刑事の名で石塚刑事の好敵手として初出演を果たしました。
その後、
『必殺仕置屋稼業』を見て沖の演技に注目した『太陽にほえろ!』のプロデューサー岡田晋吉により、
1976年9月、
『太陽にほえろ!』(日本テレビ)のレギュラーとして
城北署から七曲署に転勤した滝隆一(スコッチ刑事)役として出演し、
爆発的な人気を得ることに。
勝野洋演じる殉職したテキサス刑事の後任として登場して翌1977年3月まで、
沖本人の希望により半年間契約で出演し、
山田署へ転勤という形で一旦降板。
1978年、
沖は同じ岡田晋吉企画の刑事アクションドラマ『大追跡』、『姿三四郎』での準主役等を経て、
1979年にアクションコメディドラマ『俺たちは天使だ!』(日本テレビ)に主演、
沖本来の明るいキャラクターを前面に出した、
陽気で伊達男のキャップこと主人公・麻生雅人役を演じ茶の間の人気を博しました。
この時期には準主役、助演ながらの東宝映画への出演も多く、
市川崑、岡本喜八ら巨匠監督とも組んで映画俳優としての将来性も期待されていました。
しかし、他にも多くの映画出演のオファーがあり、
沖も出演を希望していたにもかかわらず、
事務所は撮影に時間を要する映画の仕事よりも
稼働率のいいドラマへの出演を勝手に決めていたため、
出演する時間的余裕が無く、いくつかの映画に出演出来ず。
1980年3月、
『太陽にほえろ!』と同じ曜日と時間に放送されていた
TBSの『3年B組金八先生』に押され、
視聴率が低下してきた時に、
視聴者たちから番組宛に「何とか沖を復帰させて欲しい。」との声が多数届き
『太陽にほえろ!』に復帰を果たします。
同年には山口百恵引退作『古都』へ出演しましたが、
その後スケジュールなど様々な原因や、沖が死亡したことで、
沖にとって最後の映画出演に。
1981年、
大島渚監督『戦場のメリークリスマス』において
ヨノイ役の有力な最終候補者でしたが、
撮影スケジュールの変更と沖の精神的病により候補者から外れることを余儀なくされ、
『八月の濡れた砂』に続いてまたしても映画での大役を逃しました。
同年には『江戸の朝焼け』でも主演を務めましたが、
他にもレギュラー番組をいくつか抱える過密スケジュールの中、
沖は精神的な不安定度が高くなり、
同年4月11日に
実の父の墓参りに向かうため東名高速道路でキャデラックを運転中に自動車事故を起こし、
幸い足首の軽い捻挫だけで済み、
同時に躁うつ病と診断され2週間入院。
退院後も精神安定剤を服用しながら
同年6月1日に現場に復帰しましたが、
肝臓炎の発症や薬の副作用によるむくみや肥満などから躁鬱病が悪化。
復帰から3ヶ月後に再び長期間の休養を余儀なくされ、
『太陽-』も本来はもう少し長く出演するはずでありましたが、
最終的には病死という形で翌1982年1月に番組から降板することに。
また同年日本テレビで放送された藤竜也主演、
沖が出演した『大追跡』の後日談とも言える『プロハンター』への出演を打診されていましたが、
スケジュールを空けることが出来ず出演はならず。
1982年6月には
沖雅也特別公演『「恋剣法・若さま春秋」』で初座長を務めました。
1983年(昭和58年)6月26日、
大阪での舞台公演『一心太助』が控える中、
仕事を終えチェックインした東京都新宿区西新宿の京王プラザホテルにて、
「おやじ 涅槃で 待つ」という遺書を残し、
チェックインから2日後の6月28日の早朝、
本館最上階(47階バルコニー・高さ170メートル)より
警備員の制止を振り切って飛び降り、
ビル7階の屋上プールに落ちて全身を強く打ち即死。
満31歳没。
(沖雅也)
船村徹さん
(1932年6月12日-2017年2月16日、84歳没)
作曲家・歌手。
6月12日は、この人のお誕生日です。
日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、
日本作曲家協会最高顧問。
横綱審議委員会委員。
戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、
手掛けた曲は5000曲以上にのぼります。
歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章。
位階は従三位。
栃木県塩谷郡船生村(現、塩谷町)出身。
栃木県立今市中学校(旧制中学校)、東洋音楽学校ピアノ科卒業。
獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや、
小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたことなどもあり音楽の道を志します。
東洋音楽学校在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、
船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったそうです。
音楽学校在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲活動を開始。
ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、
バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験。
1953年、
雑誌「平凡」コンクール曲第一席「たそがれとあの人」がレコード化され、
作曲家としてデビュー。
作曲家としての本格的な作品は
1955年の「別れの一本杉」。
その後も、
「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」などが連続ヒット。
1956年、
キングレコードからコロムビアレコードに移り、
「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。
「王将」は戦後初のミリオンセラーを記録。
1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、
1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、
2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めました。
1995年、紫綬褒章受章、
2002年、栃木県県民栄誉賞受賞、
2003年、旭日中綬章受章、
2008年、文化功労者、
2014年、栃木県名誉県民、
2016年、歌謡曲作曲家として初めて文化勲章受章(作曲家としては山田耕筰に次ぎ2人目)。
妻は元歌手の能沢佳子、
長男は作曲家・編曲家の蔦将包、
長女は作詞家の真名杏樹、
次女は元女優の福田渚子。
愛弟子には、
北島三郎・鳥羽一郎・島津伸男・三木たかし・大下八郎・ムーディー松島・香田晋・静太郎・天草二郎・走裕介・村木弾・森サカエ・森若里子(松島・鳥羽・香田・静・天草・走・村木は、
船村宅に住み込み、師匠と寝食を共にした内弟子)。
作曲家として知られていますが、
「演歌巡礼」の活動の際、自ら歌唱することもありました。
2015年4月27日には
栃木県日光市今市にある「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」に併設して、
「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」がオープン。
また、同館のオープニングセレモニーには
親交の深かった北島三郎や鳥羽一郎、舟木一夫、由紀さおり、
大月みやこ、瀬川瑛子など多くの著名人が参加。
2017年2月16日の午前11時頃に
神奈川県藤沢市の自邸の寝室で倒れているところを
長男の蔦将包の夫人が発見し、
藤沢市内の病院へ救急搬送されましたが
午後0時35分に心不全のため死去。
84歳没。
同年3月17日、
日本国政府は2月16日付で従三位に叙することを閣議で決定。
同年10月1日、藤沢市名誉市民顕彰式が行われました。
(船村徹)
石田信之さん
(1950年8月30日-2019年6月13日、68歳没)
俳優。
6月13日は、この人の命日です。
出生地は東京都。
秋田県北秋田郡森吉町(現・北秋田市)出身。
身長172cm、体重61kg。
既婚で、一男一女あり。
特技は柔道(二段)。
父親は警察官で、
父親の仕事の関係で秋田県に転居し、高校時代まで過ごします。
1968年、
演劇の勉強をすべく東宝芸能学校に入り、
その後東宝演劇部に所属。
1969年、『上意討ち』(明治座)で初舞台。
1970年、
TBS系の人気番組『柔道一直線』(TBS)の
新レギュラーオーディションに合格しデビュー。
翌年(1971年)には
『ミラーマン』(フジテレビ)の主演・鏡京太郎役に抜擢され、一躍人気者に。
以後、テレビ・映画を中心に出演作多数。
2007年10月、
初の著書である自伝『さよならミラーマン』を出版。
2005年に足を骨折し入院、
退院しても仕事ができない期間が8ヶ月続きました。
この時間を利用して自伝を執筆。
2006年公開の映画『ミラーマンREFLEX』(バップ)には、
主人公の兄・影山恭太郎役で出演。
2007年に
東京MXテレビでミラーマンの再放送が行われ、
人気が再燃、関連イベントなどに出演。
同年8月には三軒茶屋で経営していた
小劇場「シアター・スパーク1」を閉じました。
2014年3月13日、大腸がんが発覚。
肝臓などに転移する進行がんであり、
さらに原発性の胃がんも同時に発症して治療中であることを明らかに。
2015年7月22日、
尿管や腹膜などにがんが再発し、医師に余命20か月 - 30か月と宣告されたことを公表。
その後も治療を繰り返しながらも仕事を続けていました。
2019年6月13日15時47分、
大腸がんからの多臓器転移のため、
神奈川県川崎市の病院で死去。
68歳没。
謹んで、石田信之さんのご冥福をお祈り致します。
(石田信之)
宮脇健さん
(1961年6月13日-)
俳優。
6月13日は、この人のお誕生日です。
子役時代は劇団日本児童に所属し、
「ケンちゃん」としてお茶の間の人気者でした。
身長161cm。
東京都出身。
堀越高等学校卒業。
1964年、
山田洋次監督の映画『運がよけりゃ』で芸能界デビュー。
1966年、
テレビドラマ『チャコねえちゃん』(四方晴美主演)に出演。
以後1976年の『フルーツケンちゃん』までケンちゃんシリーズに出演。
しかし、
テレビでの活躍とは裏腹に家庭の崩壊、兄の自殺未遂、
そして保証人になったことによる多額の借金と苦難に満ちた人生を送ることに。
1977年頃、
ジャニーズ事務所の合宿所にも出入り。
1980年、
テレビドラマで共演した三原順子(現三原じゅん子)との交際が芸能誌に報じられます。
しかし、その後は芸能界から干される状態に。
1982年、
子役からの脱却を目的ににっかつロマンポルノ『(本)噂のストリッパー』に出演。
雑誌では、「犯し屋ケンちゃん」と揶揄されることに。
1984年、
マハラジャで黒服をやりながら
結城哲也(現・ゆうき哲也)に弟子入り(その際、吉本新喜劇にも出演)。
1986年頃、
マハラジャを退職し、東京でさまざまな職を転々(墓地関係の営業など)。
1989年、
沖縄で地上げ屋に従事する傍ら、ローカルタレントとして活動。
1993年頃、
東京で再びさまざまな職を転々。
1996年に結婚。
1997年、
子役時代の家庭崩壊などの内情を綴った
『名子役の虚構 ケンちゃんの真実』を出版し話題に。
この頃はガス検針の仕事を。
1990年代末頃から2000年代初頭、
「あの人は今!?」といった企画の常連となり、
芸能界復帰への意欲を語り、
『ケンちゃんシリーズ』をリアルタイムで知らない世代からも知名度を得る事に。
2000年、
占い番組において占い師から名前を
「宮脇健」に変えた方がいいとアドバイスされて
芸名を「宮脇健」に変更。
2004年1月、
自叙伝『ケンちゃんの101回信じてよかった』(講談社)を発表。
現在は2001年から始めた還元水生成器ビジネスで成功を収め、
その後はバッテリーのリサイクル事業も行ないながら講演活動で全国をまわる傍ら、
芸能活動と並行して活躍。
(宮脇健)
「せーの、HOWマッチ!!」
’83年4月スタート『世界まるごとHOWマッチ』♪世界の名品、珍品をVTRで紹介して値段を当てる視聴率30%を超える超人気クイズ番組でした。チャックウィルソンやケントギルバートなど外国人タレントブームのきっかけにもなりましたけど、私的にはOPの巨泉のくだらないアメリカンジョークとたけしとのやり取りが楽しみでしたね~💕

元祖ジャニーズと言えば『あおい輝彦』さん……そしてジャニーズ事務所の創設期を支えた『フォーリーブス』……このアルバムのタイトルは『少年たち』……当時もいろいろ話はありましたが、今になってこのジャケットをみると……きっと『ニッチもサッチもどうにもブルドッグ』??だったのかもしれません……ところでブルドッグって誰のこと?!

内海賢二さん
(1937年8月26日-2013年6月13日、75歳没)
声優、俳優、ナレーター。
6月13日は、この人の命日です。
賢プロダクション会長。
代表作には、
『北斗の拳』のラオウや
『魔法使いサリー』のサリーのパパ、
『Dr.スランプ アラレちゃん』の則巻千兵衛など。
福岡県北九州市出身。
5人兄弟の末っ子として生まれますが、
幼い頃に両親を亡くし兄弟とは別れて育ちます。
中学・高校には仕出し弁当店で住み込みで働き、
夜間で通った高校では演劇部に所属。
兄がNHK小倉放送局でラジオドラマのミキサーをしており、
高校時代に何回か見学に行っていました。
高校3年生時の1955年、
役者になろうという気は毛頭なかったですが、
それが縁で兄が勧めてもらったNHK小倉放送局の専属劇団に応募して合格。
ラジオドラマや朗読の仕事を始めるように。
やがて、
福岡県に開局したばかりの九州朝日放送に移籍しKBCラジオの専属声優に。
だが、地方での仕事に限界を感じたことから、
広告代理店の電通でテレビ映画制作の仕事をしていた友人を頼り1958年に上京。
その友人の紹介で、
子供向けドラマ『熱血カクタス』(柴田秀勝主演)にて端役をもらい、
続けて『海賊バイキング』ではナレーターを担当。
中央でのデビューを果たしました。
当初は新宿ゴールデン街でアルバイトをしながら
舞台俳優として里吉しげみ主宰の劇団未来劇場の公演などに出演していましたが、
飲みに来た演出家にスカウトされ吹替に参加、
自然と声優業が増えたといいます。
アニメデビュー作は、
1963年に放送された『狼少年ケン』での片目のジャック役。
東映動画初のテレビアニメであり、
以降はアニメ声優でも草分け的存在に。
また、
本人曰く「マルチな役者」を目指していたことで、
吹き替え出演やナレーターとしても活動し、
以前からの舞台俳優としての活動のほか、
1960年代から1970年代にかけては多くのテレビドラマにも顔出し出演。
1973年、
『宇宙エース』や『マッハGoGoGo』での共演をきっかけに知り合った声優の野村道子と結婚。
1984年には賢プロダクションを設立。
自身のマネージメントとともに、
野村の協力も得て後進の育成にもあたるように。
これらの幅広い活動から、
1980年代には長者番付に名を連ねたことも。
その後も第一線で活動。
長年に渡り多くのジャンルで貢献したことから、
2009年に第三回声優アワード功労賞を受賞。
同年放送のアニメ『けんぷファー』と連動した
ラジオ番組『ラジオ けんぷファー 賢二と愛のわくわく臓物ランド』では
初のアニラジレギュラーパーソナリティを務め、
共に担当する中島愛との年齢差も含め話題に。
晩年は、
50歳半ばに患った膀胱がんが再発したため闘病しながら活動を継続。
2013年6月13日午後3時1分、
がん性腹膜炎のため東京都新宿区の病院で死去。
75歳没。
謹んで、内海賢二さんのご冥福をお祈り致します。
(内海賢二)
岡田英次さん
(1920年6月13日-1995年9月14日、75歳没) 俳優。
6月13日は、この人のお誕生日です。
千葉県銚子市生まれ。
身長166cm。
慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。
1946年、村山知義の第2次新協劇団に入団。
1949年に『花の素顔』で映画デビュー。
1950年、
今井正監督の『また逢う日まで』で
久我美子の相手役を演じたことで一躍注目を浴びます。
「新協劇団」分裂後の1954年、
劇団青俳を木村功らと設立。
後に現代人劇場を経てフリーに。
『真空地帯』『ここに泉あり』などの話題作に次々と出演したほか、
1959年にはアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』に出演。
世界的にも知られることに。
主演した『砂の女』(1964年)は
海外の映画祭やアカデミー賞で高評価されました。
テレビドラマでは
『樅ノ木は残った』『俺たちの旅』『チロルの挽歌』などに出演。
その日本人離れした彫りの深い整った風貌から
「和製ジャン・マレー」と云われ、親しまれました。
1995年9月14日、心不全のため死去。75歳没。
従妹は遠藤周作と結婚。
息子は翻訳家岡田壯平。
(岡田英次)
木暮実千代さん
(1918年1月31日-1990年6月13日、72歳没)
女優。
6月13日は、この人の命日です。
身長159cm。
父が税関で山口県下関市彦島福浦町で誕生。
英文学者・随筆家の黒川鍾信は甥。
梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。
日本大学芸術学部在学中に田中絹代に見出されて、1938年に松竹に入社。
松竹入社当時は
高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部でありましたが
1年余りで準幹部から幹部に昇進。
日本人離れしたルックスとスタイルに加え、
悩殺的でコケティッシュな色気もあり、
純情可憐型が主流の松竹では恋敵役が多かったです。
1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚。
マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満洲に渡りました。
終戦にあたって厳しい道中を乗り越えて帰国し、
翌年の1947年松竹に復帰して女優業を再開。
妖艶な悪女役が多かったですが、
終戦後の開放された世相の中では精彩を放つ存在となり、
特に1949年の『青い山脈』での芸者役で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。
妖艶な「ヴァンプ女優」として名を馳せました。
生涯にわたって350本以上の映画に出演。
CM出演した女優第一号でもあり、
ジュジュ化粧品では「マダム・ジュジュ」、
三洋電機では「サンヨー夫人」として長年親しまれました。
ボランティア活動にも熱心で、
1957年に群馬県にある「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長に就任。
1960年から銀座で社交的に必要な文化的教養、
マナー、美容など全般を教えるフィニッシングスクールを開講。
1967年からミス日本コンテスト事務局理事に就任。
1973年からは法務大臣認定の保護司に。
1990年6月13日、心不全のため死去。
享年73(72歳没)。
没年月日を以て没後追贈の形で勲四等瑞宝章を授与されました。
(木暮実千代)
🟪     足立区・東島根町〈梅島〉
 🟪嘗ての目黒エンペラー「ホテルニュー足立」
〈現在はホテルTaboo〉
🟪  TV📺「東京12チャンネル」深夜のCM
で御馴染み
村田英雄さん
(公称1929年1月17日-2002年6月13日、73歳没)
演歌歌手、俳優。
6月13日は、この人の命日です。
佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)出身。
出生は福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)。
本名愛称は、ムッチー。 
浪曲で鍛え上げた歌声と男らしい風貌、世界観を持ち味に、
戦後歌謡界の黄金期をリードした演歌界を代表する歌手の一人。
(村田英雄)
野際陽子さん
(1936年1月24日-2017年6月13日、81歳没)
女優・元アナウンサー・司会者・歌手・ナレーター・声優。
6月13日は、この人の命日です。
身長163cm。
特技は英語・フランス語。
石川県河北郡津幡町で生まれ、
富山県富山市で育ち、3歳から東京都杉並区天沼で育ちました。
杉並区立杉並第五小学校、
立教女学院中学校・高等学校、
立教大学文学部英米文学科卒業。
大学時代は初代ミス立教に選ばれ、
ESSの英語劇セクションと劇団テアトルジュンヌに所属し、
四大学英語劇大会など数々の作品に出演。
大学時代の同期には
元プロ野球選手の長嶋茂雄、俳優の高橋悦史。
大学卒業後、
1958年にNHKにアナウンサーとして入局。
3か月の研修後に名古屋放送局に赴任。
天気・婦人番組を担当。
翌年の伊勢湾台風の災害報道にも関わっています。
1960年にNHK東京放送局(現:NHK放送センター)に赴任。
テレビ『おはようみなさん』の司会を週1回担当。
以降の2年間は週3本のレギュラー番組を担当。
1962年3月にNHK退職後、
企画を説明する係として広告代理店へ転職。
しかし出番が来ないまま3か月が経ち、
給料だけもらうのは忍びないと気兼ねしていると、
15分の生放送番組である『女性専科』(TBS)の司会者を担うことに。
『3時にあいましょう』(TBS)では、
船越英二と司会を務め、二人のコミカルな掛け合いが人気を博しました。
一部媒体では、
「女性フリーアナウンサーの先駆者」と評されることも。
以降は女優活動が中心に。
1966年2月にかねてから念願であったパリへ留学。
ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受けながら、
アリアンスフランセーズにも通い、1年を過ごしました。
翌年帰国後『女性専科』に復帰し、
パリで培ったファッションセンスを活かしました。
1967年3月、パリからの帰国時に、
まだ日本では珍しかったフランス製のミニスカートを着用してタラップを下りてきました。
野際は「日本におけるミニスカート第一号」。
1968年にテレビドラマ『キイハンター』がスタートし、
5年間放送され、視聴率30%以上を記録し一世を風靡。
ディレクターにどうしても歌わせて欲しいと直談判して、
主題歌の「非情のライセンス」も歌いました。
1972年には共演の千葉真一と婚約、翌年結婚。
1975年に真瀬樹里を出産。
38歳11か月での初産は当時の芸能人の高齢出産最高齢記録。
以降、
娘の授業参観や学校の運動会などに積極的に参加。
1992年、
テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で
マザコンでオタクの冬彦役を演じた佐野史郎と、
彼を溺愛するしたたかな母親役の野際の怪演が話題となり、大ヒット。
以後、
着物姿の姑役(主に息子に甘く嫁に厳しい姑)が定着し、『ダブル・キッチン』、『誰にも言えない』、『スウィート・ホーム』、『長男の嫁』など
TBSドラマの常連に。
1994年、日本に居たかった野際は、
アメリカに拠点を移したかった千葉真一と離婚。
1996年10月5日、
『オールスター感謝祭'96超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』では
60歳255日での最年長優勝を果たしました。
その記録は23年たった現在も破られていません。
2016年11月23日、
石川県河北郡津幡町の広報特使を委嘱されました。
2014年(平成26年)に初期の肺腺癌と診断され手術しましたが、
2015年(平成27年)に再発したため再手術で腫瘍摘出手術を行っていました。
2016年(平成28年)秋からは
ドラマ『やすらぎの郷』の撮影に参加していましたが、癌が再発。
体調が日に日に悪化する中、
野際はそれを周囲に隠しながら2017年(平成29年)5月7日まで撮影を続行し、
代役の効かない重要なシーンをすべて撮り終えていました。
しかし翌5月8日、肺炎を併発して入院。
以降容態は回復することなく、
1か月後の6月13日午前8時5分、
娘・真瀬らと事務所スタッフに看取られ、
肺腺癌のために東京都内の病院にて、81歳で死去。
謹んで、野際陽子さんのご冥福をお祈り致します。
(野際陽子)

【変態仮面】1992~1993年まで週刊少年ジャンプで連載されました🤣🤣 後に2013年に実写映画化されました😂🤪

♥️2023💃6/13 本田圭佑(37歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

ドラゴン怒りの鉄拳 (原題:精武門)
英語タイトル:Fist of Fury 
香港公開1971年、日本公開1974年。
ブルース・リーの映画は、特に男性は何度も繰り返し観ているはず。私も何度も観ていながら、先ほどもBSで観てしまった。
この映画、中国人への差別的表現の「東亜病夫」や「犬と中国人は入るべからず」等々、感情的に主人公の陳真への思い入れが加担する。私が日本人で日本人が仇の物語であっても彼のパフォーマンスに魅入ってしまい、民族間の本題等、初見時も今も何も気にしない。
毛沢東の逸話で面白い話が有る。文化大革命は1976年に彼の死後に腹心の江青・張春橋・姚文元・王洪文らの4人組が逮捕投獄され、文化大革命は事実上終結するが、生前に毛沢東は側近から香港の李小龍と言う役者の反日映画としてこの映画を紹介された。彼は観るなり非常に気に入り、一気にその時3回見直したと言うが、日本との過去の歴史的背景を痛感し彼の共感のツボを刺激したのだろうと、なんとなく気持ちが理解出来る。
さて当のブルース・リー自身は生前のインタビューでも語っているが、人種差別は当然大嫌い。彼はカンフーを中国人以外門外不出を無視し、黒人白人誰であろうを問わず平等に教え、人種を超えて自分たちはhuman beingで有り、人種の区分に意味は無いものとして人を大切にした。
「グリース」
(原題:Grease)は、同名ミュージカルの1978年映画化。監督は、ランダル・クレイザー。
主演のふたりは、ジョン・トラボルタ、オリビア・ニュートン・ジョン。トラボルタは、乗りに乗っていた時期かなぁ、と。
映画は・・
アメリカ映画のラブコメの伝統をしっかり受け継いだ感がある展開。いわゆるボーイ・ミーツ・ガールが骨子で、おぼれかけた女の子を助けたことがきっかけで恋に落ち、夏の思い出ととともにさよならと思ったら・・・とうの女の子が同じハイスクールに転校してきて・・・。まんざらでもない二人だったが、ささいな行き違いやら、誤解があって、おかしなことになるけれど最後は、すべて氷塊して目出度し目出度し。
オールディズ的な音楽に彩られて、青春ミュージカルコメディの王道をいく映画でありました。
西遊記に出演しとった
せんだみつおさんと、和田アキ子さんと、
研ナオコさん~(笑)
σ(o・ω・o)
白川由美さん
(1936年10月21日-2016年6月14日、79歳没)
女優。
6月14日は、この人の命日です。
東京都品川区出身。
頌栄女子学院中学校・高等学校卒業。
夫は俳優の二谷英明、
長女は元女優でトライグループ代表取締役社長の二谷友里恵。
頌栄女子学院高等学校の卒業間際に
森永製菓のキャンペーンガール「森永スイート・ガール」に応募して採用。
1956年、スカウトにより東宝に入社。
清楚で整った顔立ちから
「日本のグレース・ケリー」のキャッチフレーズで、
同年の三船敏郎主演の映画『ならず者』で映画デビュー。
『サザエさん』シリーズ、『サラリーマン出世太閤記』シリーズや特撮ものなど
幅広い作品に出演。
家庭的な女性役がハマり役となりました。
また、都会的な令嬢役も得意としました。
清楚さ・知的な美貌を生かした役柄を多く演じ、 人気を博します。
1961年には
小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも出演。
1956年『空の大怪獣 ラドン』のヒロインをはじめとして特撮映画にも多数出演。
一方で、1957年には『大番』で初舞台。
1964年、
ラジオのディスクジョッキーを務めた際に日活のスターだった二谷英明と意気投合し、結婚。
映画会社の垣根を越えての結婚は話題を呼びました。
同年に長女・友里恵を出産。
家庭を持ったのを機に活動の場をテレビドラマへ移行し、
1965年の日本テレビ系『奥様はトップレディ』でテレビドラマ初出演。
1980年代前半から『家族ゲーム』を筆頭に母親役を演じ、
若年層からも広く支持されて「母親にしたい女性タレント」の上位ランクインの常連に。
プライベート面や撮影所での様子に関しては、
特に母親役を演じる機会が増えた1980年代以降、
テレビ・雑誌で本人の口から語られることはほとんどなく
ベールに包まれている部分も多いですが、
出演したドラマの関係者からはよく「アドリブが多い」と言われます。
2004年、
就寝中にベッドから転倒して軽傷を負った際には、
高齢であったこともあり関係者から復帰が危惧されましたが、
短期間で無事に復帰。
夫の二谷とは仲むつまじい夫婦生活から「おしどり夫婦」として知られ、
1988年から1993年にかけてJR「フルムーン夫婦グリーンパス」のCMに2人で出演。
2012年に夫・英明が死去した後は仕事量を徐々に抑えて、
主だった作品では2014年のフジテレビ系『ブラック・プレジデント』が最後の出演に。
東京都目黒区の自宅から東京都港区の友里恵宅に転居し生活していましたが、
2016年6月14日に浴室内で倒れて心肺停止の状態で病院に搬送され、
心不全のため急逝。
79歳没。
謹んで、白川由美さんのご冥福をお祈り致します。
(白川由美)
三田明さん
(1947年6月14日-)
歌手、俳優。
6月14日は、この人のお誕生日です。
東京都出身。
身長167cm。
清純な風貌と美声で1960年代を中心にヒットを飛ばしました。
また、『長七郎江戸日記』など時代劇を中心に俳優としても活動。
1962年、
日本テレビ系のオーディション番組『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』で
作曲家・吉田正に認められ、芸能界入り。
翌1963年に『美しい十代』で日本ビクターから歌手デビューするとともに、
さらに翌1964年には同名の映画で映画初主演。
同曲は、
往時を知る多くの者達に歌い継がれている青春歌謡であり、代表曲。
御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)に比べると
後発のイメージがありますが、御三家に劣らず大健闘。
また当時、この3人に彼を加えて「(昭和アイドル)四天王」とも呼ばれました。
全国歌謡ベストテンでは判明しているだけで、
15曲以上が1位を獲得。
「美しい十代」「若い港」「若い二人の心斎橋」「明日は咲こう花咲こう」「泣かせてごめんネ」「アイビー東京」「恋人ジュリー」「恋人の泉」「夕子の涙」「数寄屋橋ブルース」「薔薇の涙」「タートル・ルックのいかす奴」「惜別のワルツ」「太陽のカーニバル」「サロマ湖の空」「あなたの涙」。
1964年から1969年まで6年連続で紅白歌合戦に出場。
1971年に所属事務所である東洋企画が倒産、
マネージャーが勝手に三田名義で多額の借金を作り失踪、
その返済の為に日本全国への巡業を余儀なくされます。
1972年11月に発生した
日本航空351便ハイジャック事件に乗客として、
江利チエミらと共に遭遇。
事件発生中に三田は熟睡中で、
事件のことを語れず、
マスコミから「スチュワーデスと付き合いたい」と、
事実無根のことを書かれました。
1970年代、
三田を支えていたものとして、バラエティ番組での活躍が挙げられます。
もともと「ものまね上手」で知られた三田は自身のショーにも
「ものまねコーナー」を作っていたほどだったので、
NETテレビの『象印スターものまね大合戦』など、
当時全盛の「スターが他のスターの物真似をする番組」では、
五木ひろし、森昌子らとともに大賞の常連でした。
1979年12月、自宅火災で顔面に大火傷を負います。
再起後はテレビの時代劇の出演が増えていきますが、
その中には
往年のファンにとって観るのも忍びないような純粋な悪党の斬られ役も幾つかありました。
1985年、結婚。
2001年、
萬成プライムキャピタル証券(現・ばんせい証券)のCMに平安貴族のスタイルで出演。
2004年、第46回日本レコード大賞功労賞を受賞。
2012年10月10日にデビュー50周年を迎えました。
妹の夫は元プロ野球選手で、
現:福岡ソフトバンクホークス二軍バッテリーコーチの森浩之。
(三田明)

♥️2023💃6/14 大塚寧々(55歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/14 永井美奈子(58歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

昭和時代(1960~70年代)には
《クイズ番組》が
数多くありました。
*ロート.アップダウンクイズ
 1963年~
*タイム・ショック
 1969年~
*パネルクイズ,アタック25
 1975年~
*クイズダービー
 1976年~
*アメリカ横断ウルトラクイズ
 1977年~
いずれも視聴者参加型のクイズ番組で毎回楽しみにしてました
(今、現在のような芸人ばかりがはしゃいで映像ばかりのクイズ番組は面白くもない⤵️)

♥️2023💃6/14 中島史恵(55歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

石津謙介さん。1960年代日本に登場したアイビールックの生みの親で、メンズファッションの神様と呼ばれた。1954年には有限会社ヴァンジャケットを設立してVANをブランドネームにし、東京・銀座のみゆき通りにアイビールックで現れる若者で埋め尽くす「みゆき族」まで登場した。若い時にVANロゴの服を1回でも着たことある方も多いのでは?

♥️2023💃6/14 杉原輝男(74歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

1972年(昭和47年)から始まったドラマのワイルド7の原作は
元々少年キングに連載されてた望月三起也先生の作品だ。
ワイルド7はバイクと銃を使った派手なアクションが見所だが
バイクはスズキ、モデルガンはMGCがスポンサー協力してる。
ドラマ ワイルド7は原作漫画とは異なる部分も多い。
メンバー構成やメンバーの経歴もそうだがメンバーが乗る
バイクもそうで、漫画ではワイルド7のリーダー飛葉大陸は
ホンダCB750FOURに乘ってるしメンバーもハーレーやノートン、
BMW、GT380等に乗っている。
ワイルド7は人気作品故に1994年にはアニメのオリジナル
ビデオOVA版、2002年にはテレビアニメ、2011年には
実写映画化されている。
ポール!ありがとうございます。うるうる。
ポール・マッカートニー、ビートルズ「最後のレコード」を年内にリリースすると発表。AIを使い、過去のデモ音源からジョン・レノンの声を抽出、曲を完成。
曲名は、たぶん「Now and then」 ジョンが生前に作曲、録音しようとしたが中止なった経緯がある。ジョンは亡くなる直前に「ポールへ」とのラベルを貼ったカセットテープを残しており、その中の1曲。レノンの妻オノ・ヨーコがポールに渡していた。
「ジョンの声とピアノの音があったんだけど、AIでそれを分離。『これは声、これはギターの音。ギターの音はなくしてくれ』ってね。おかげでジョンの声を取り出し、純粋なものにすることができたんだ」
伊東四朗さん
(1937年6月15日-)
コメディアン、俳優、タレント、司会者。
6月15日は、この人のお誕生日です。
身長166cm。
日本喜劇人協会相談役。
現在の東京都台東区台東出身。
5人きょうだい(兄2人、姉1人、妹1人)の三男。
東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生誕。
父親は静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)、
母親は同県掛川市の出身。
男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東。
戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開。
疎開中には、
工場跡地のトロッコで遊んでいたところ、
トロッコが暴走して転倒し車輪の一部が伊東の左頬を貫通したことがあるといいます。
東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は
就職を希望し数多くの面接を受けるも、
目付きが悪い、人相が悪いことを理由に不採用が続き、
伝手を頼って紹介された製薬会社も入社試験を受けるも採用には至らず。
1958年に伊東は早稲田大学生協職員に採用され、
時間が出来ると観劇に様々な場所へ赴きました。
その中で新宿フランス座の座付き俳優だった石井均は
同じくこの年に劇団「笑う仲間」を旗揚げ、
この舞台を見に足繁く通っていたため一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていました。
それらの経緯もあり、
石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。
「笑う仲間」はもう一人の共同主宰者と石井の仲違いから数か月で瓦解。
「石井均一座」として再出発し新たに財津一郎(当時は財津肇メ)らが加わりました。
石井一座は、
浅草の松竹演芸場や新宿の新宿松竹文化演芸場を拠点に人気に。
石井に追随した戸塚睦夫も新宿フランス座々付で
その剣劇や軽演劇仲間であった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていました(三波戸塚コンビ)。
やがて石井一座は1961年に解散し、
伊東と戸塚はこちらを主点に置くようになり
(途中「三波戸塚伊東トリオ」から「ぐうたらトリオ」に改名)、
三波はこの夜の仕事とは別に個人単独の仕事を求め活動しテレビ出演の機会を掴み、
その繋がりからトリオも1962年、
正式にてんぷくトリオ(当初の「ぐうたらトリオ」から改名)として
テレビや一般の舞台へと進出。
伊東の映画デビュー作は、
ニュー東映東京『カメラ・トップ屋 お嬢さんが狙ってる/お色気無手勝流』(1961年、小石栄一監督)。
トリオブームの中堅として素地の軽演劇経験を生かし、
コントなどで舞台やテレビで徐々に人気となり、
三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、
茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立。
てんぷくトリオが世に出るきっかけの基は三波個人(ソロ)活動にあり、
1970年頃、
『笑点』の札幌での収録において演芸にゲスト出演した際に、
当時の司会者の前田武彦が荒天のため収録場所に到着できず、
急遽三波が司会を代理担当したことがありました(三波は後に正式な司会に抜擢)。
その際、
座布団運びを特別に伊東が務めたことに起因して、
伊東が正式な座布団運びに起用される可能性もあったというエピソードがあります。
1972年から毎週日曜日に、
三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』の1コーナー「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的。
1973年に戸塚睦夫が42歳で死去し、
てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、
三波と二人で「てんぷく集団」として活動し、
引き続き“てんぷく”の名を名乗りましたが、
次第にそれぞれの個人活動へシフト。
1982年12月8日、三波が52歳で急死。
訃報を聞いた際、
伊東は三波が安置されている病院に向かい、
報道陣の問いかけに「(三波の遺体を触った際に)まだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて…」と語り、
葬儀で号泣。
1977年、
TBSドラマ『ムー』で渡辺美佐子の夫役を演じて人気を博します。
1983年、『おしん』では父親役に抜擢され、
ドラマの大ヒットとともに俳優としての認知度も高まり、活躍の場を広げました。
1992年から2015年までは
『十津川警部シリーズ』で亀井定雄役を一貫して演じ、
十津川省三役の渡瀬恒彦との名コンビで人気を博し、
その他2時間ドラマでの主演も多いです。
『おしん』以降、
コメディアンと並行してシリアスな俳優としての存在感も高めた伊東でしたが、
自らを「喜劇役者」と位置づけており、
「いつまでもそうあり続けたい」と語っています。
「三波も戸塚も死んだが、てんぷくトリオは解散したものではない、解散を口にしたことはない」とも述べ、
コメディへのこだわりも見せます。
1997年、三宅裕司、小倉久寛らと共に
オムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』を上演(2002年・2010年にも上演)。
この他にも舞台公演は精力的に行っています。
角野卓造、松金よね子、佐藤B作・あめくみちこらとともに
「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、
実際に西荻窪エリアで酒を飲みながら語らっていましたが、
ある時会の外から「このメンバーで芝居を」との提案を受けたことから、
2011年に本多劇場にて西荻の会による
介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を上演。
テレビ草創期から活動しているタレントの一人としても知られます。
バラエティ番組の司会も数多く担当し、
『伊東家の食卓』には「お父さん」役で約10年出演。
CMでは
『白子のり』のイメージキャラクターを長年務めていることで有名。
(伊東四朗)
「キックボクシング」富山勝治さん
「強かったよね〜」
伊藤エミさん
(1941年4月1日-2012年6月15日、71歳没)
歌手で、ザ・ピーナッツのメンバー。
6月15日は、この人の命日です。
双子の妹に同じくザ・ピーナッツの伊藤ユミ。
愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)で三女として誕生。
直ぐに名古屋市へ転居。
10歳の頃、
NHK名古屋放送局の唱歌隊に妹の伊藤ユミと一緒に所属。
その後、
名古屋市のレストランで伊藤シスターズとして歌っていた所を
渡辺プロダクションの社長、渡邊晋にスカウトされ、
1959年2月11日、ザ・ピーナッツとしてデビュー。
歌はハーモニーで歌っていました(妹のユミはメロディー)。
1975年4月に芸能界を引退。
引退後、
同年6月4日に同じ渡辺プロダクション所属の歌手である沢田研二と結婚。
7月20日には比叡山延暦寺で式を挙げました。
直後の沢田の「比叡山フリーコンサート」に夫婦揃ってステージに上がり、
結婚報告を行いました。
尚、エミがステージに上がり、
一般観衆の前に姿を見せたのはこれが最後。
婚姻で、
本籍は沢田の実家のある京都府となりましたが(居住は東京都のまま)、
1979年3月に一男を授かった後、
1987年1月に離婚。
本籍も戻しました。
この時の慰謝料は当時の芸能人カップル最高額の18億1,800万円でした。
離婚後も沢田の本名の姓を通していました。
以降実妹・ユミ共々ほとんど公式の場に姿を現すことはありませんでした。
渡辺プロの後輩でもある中尾ミエとは引退後も亡くなるまで交流があったといいます。
2005年12月から2006年1月及び2007年8月に
渡辺プロダクション主催の記念イベントにて
最後のライブ(さよなら公演)で使用したマイクが展示されていました(伊藤日出代のネームプレート入り)。
2012年6月15日、がんのため死去。
死去の事実は同月27日に明らかになりました。
71歳没。
謹んで、伊藤エミさんのご冥福をお祈り致します。
(伊藤エミ)
『円谷特撮映画に出演して…』水野久美
佐原健二さんとの対談インタビューで『水野久美』さんは、語ります。
『私は、特撮映画に出演して本当によかったと思います。
だって、今もビデオで若い人たちに楽しんでもらえるじゃないですか。
若い時は「なんで怪獣映画の依頼ばかりなの?」なんて思った事もあったけど、歳をとるにつれて、ああ、やっていてよかったなぁと実感しています。私にとっては、勲章です。
でも私の息子は、東宝映画のビデオを見せてもX星人や「マタンゴ」の妖婦が私だって信じてくれないのよ!自分の親がああいうキャラクターを演じてるというのが信じがたいみたいなの。
ビデオを見せても「ふ~ん」っていう反応で、困っちゃうわ!』😀
旺文社【円谷英二特撮世界】より。
内田良平さん
(1924年2月5日-1984年6月15日、60歳没)
俳優、詩人。
6月15日は、この人の命日です。
千葉県銚子市出身。
法政大学予科在学中の内田は戦況が悪化すると
「いずれ自分も特攻隊員に採られて死ぬのだから学校に居ても仕方が無い」と思い
帰郷しブラブラしていると
家のすぐ前にある銚子市立飯沼小学校から教師が足りないと声が掛かり
1945年夏から1946年夏まで代用教員に。
法政大学経済学部在学中の
1951年に新協劇団に入り、演劇を始めます。
1951年に
杉浦直樹・小松方正らと劇団「新演劇研究所」を結成して活動するも、ほどなく解散。
東映での映画出演を経て、
1953年に友人から小林正樹を紹介され、
その伝手で松竹映画にも出演。
日活の『機動捜査班』シリーズに出演した後、
1963年に東映の『ギャング同盟』で初主演。
彫りの深い日本人離れしたマスクからギャング役などの悪役を中心に
数多く映画とテレビドラマで助演を果し、
映画『やくざ刑事シリーズ』、『青春の殺人者』、『ザ・スパイダースのバリ島珍道中』等の話題作で
コミカルなものからアクション、
世相実録ものでシニカルなものまで幅広い演技で出演。
1963年の映画『十三人の刺客』で思慮遠望巡らす鬼頭半兵衛役は当たり役の一つとされます。
詩人としても知られ、
動物や昆虫をテーマにした詩を数多く作りました。
なかでも詩集『おれは石川五右衛門が好きなんだ』の
「ハチのミヤモトムサシは死んだんだ」に
むろふしチコが補作詞した楽曲「ハチのムサシは死んだのさ」は、
1972年に平田隆夫とセルスターズによって大ヒット。
1984年6月15日、
演劇の巡業先で心筋梗塞のため急死。
60歳没。
(内田良平)
室田日出男さん
(1937年10月7日-2002年6月15日、64歳没) 
俳優。
6月15日は、この人の命日です。
北海道小樽市奥沢町出身。
小樽市立潮見台中学校~北海道札幌東高等学校卒業。
息子は俳優の室田晃。
代表作は
映画『男はつらいよ 噂の寅次郎』や
テレビドラマ『ふぞろいの林檎たちII』など。
身長180cm。
父親は石川県能登の庄屋の息子で、
日露戦争をきっかけに、小樽に移住。
母親は小樽生まれ。
父親は「馬追」「馬力屋」と言われる、
馬車や馬そりを使った今で言う運送業をしていました。
子供の頃の室田は、
近くの川(勝納川)や山、そして朝里などの海岸に、
仲間とよく出かけるなど、自然に親しむ毎日を送り、
三日でも四日でも海のそばにいて帰宅しなかったこともあったといいます。
小学校3年のとき父が、
中学2年のとき母を相次いで失い、
札幌市で年の離れた姉夫婦に育てられます。
終戦直後はどこでもどぶろくを密造しており、
室田は小学生のときから隠れてどぶろくを飲んでいました。
中2ですすきので童貞を捨て、
札幌東高校時代にはすでに「酒と喧嘩と女の日々」だったといいます。
北海道大学を受験するも失敗し、
予備校に通うため、
東京でタクシー会社を経営していた義兄を頼り上京。
姉に勧められ1957年、
東映ニューフェイス第4期で入社。
同期には
佐久間良子、花園ひろみ、山口洋子、山城新伍など。
ニューフェイスは幹部候補生で、
当時の東映はひっきりなしに映画を撮っていた頃だったから、
本来は次々に映画に出演してスターダムにのし上がってもおかしくなかったですが、
ウイスキーをボトルでラッパ飲みする酒豪で、
酒ぐせが悪く、最初は演技もヘタで、喧嘩もしょっちゅう。
飲み屋で喧嘩する、飲み過ぎて撮影に遅刻する、
持ち前の正義感から俳優組合の旗を振るで、"干されの室田"の異名をとり、
仕事にありつけず。
たまに貰った仕事で東映新記録といわれたNG34回を出しました。
この映画の助監督を務めたのが深作欣二と山口和彦で、
同じ冷飯組だった深作は同病憐れむ仲で、
陰に陽に室田を引き立て、
その後も自身の作品で室田をよく起用。
下積みは20年近くに及びました。
1961年の
千葉真一・深作欣二が初主演・監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』では、
クランクインの前夜に酔って暴れ、ホテルのガラスを叩き割りました。
深作から降板させられ3年間出入り禁止を通告されます。
室田は組合運動を熱心にやるため、
東映から嫌われ、
1965年10月公開の『昭和残侠伝』(佐伯清監督)出演後、半年干されました。
東映ニューフェイスでは珍しく東映を契約解除され、
フリーとなり、
東映の社員でなくなったため当然組合運動は出来ず、
ハジキ出され疎外されました。
再契約を頼み続けましたが東映に断固拒否され続けました。
新宿でヤクザ20人に囲まれたが、
度胸のよさを見込まれヤクザにスカウトされたことも。
東映から再契約の打診があったのは1975年9月。
「三角マークにゃ恩義はないが、古巣、東映を誇りに思うしプライドも持っている」と
再契約に応じます。
1975年には
岩尾正隆・川谷拓三・志賀勝らと共にピラニア軍団を結成し、
室田はリーダー的存在でした。
同年のテレビドラマ『前略おふくろ様』では半田妻吉(半妻)を演じます。
1979年、
謹慎後の復帰作となった日活制作の『人妻集団暴行致死事件』では高い評価を受け、
1980年の映画『影武者』、『野獣死すべし』などにも出演。
1981年の映画『魔界転生』では宝蔵院胤瞬に抜擢され、
1992年の第35回ブルーリボン賞では『死んでもいい』、
『修羅の伝説』で助演男優賞を受賞。
2002年6月15日午後10時5分、肺癌のため逝去。
64歳没。
(室田日出男)
細川たかしさん。
(1950年6月15日-)
歌手。
6月15日は、この人のお誕生日です。
身長173cm。
北海道虻田郡真狩村出身。
歌手を志したきっかけとなったのは、
井沢八郎のヒット曲『北海の満月』を聴いてからでした。
中学校の卒業アルバムに
『北海の心 満月の姿』と書いたほど少年時代の細川はこの曲が大好きでした。
後に『北海の満月』の作詞&作曲コンビで『満天の舟歌』を歌っています。
札幌・すすきののクラブを中心に歌手活動を行っていました。
雰囲気が森進一に似ていたことから“札幌の森進一”と呼ばれていました。
その活動に東京の芸能プロダクションが着目し、メジャーデビューを勧めます。
この下積み時代にのちに妻となる2歳上の女性と知り合い、
上京した1974年当時は妻子がいましたが、
妻に背中を押され「1年で売れなかったら戻る」と約束し、単身上京(妻は2018年11月に逝去)。
1975年4月1日『心のこり』(作詞:なかにし礼、作曲:中村泰士)で歌手デビュー。
伸びやかな高音と民謡で鍛えられた肺活量で迫力を持った歌声は評価され、
第6回日本歌謡大賞で放送音楽新人賞、
第17回日本レコード大賞最優秀新人賞など、
同年の音楽新人賞を多数受賞。
1位〜10位のすべてにランクされるという記録を樹立し、80万枚を売り上げ大ヒット。
また同1975年の音楽新人賞争いは、
岩崎宏美の『ロマンス』と激しい一騎討ちとなり、当時話題ともなりました。
自身初出場を果たした同年末の『第26回NHK紅白歌合戦』では、
白組のトップバッターを務めました。
『心のこり』以降は長い間大きなヒットが出ず。
また、この頃に三橋美智也と出会い民謡も極め、
三橋流「三橋美智貴」の名も貰いました。
『津軽山唄』に至っては、
60歳を超えた現在でも、未だ変わらぬ凄まじい高音でのパフォーマンスを披露。
テレビ朝日の『欽ちゃんのどこまでやるの!』でレギュラーとなり、
欽ちゃんファミリーの一員として人気を博しました。
出演のきっかけは、かつて度々ゲスト出演していた
TBSの『8時だョ!全員集合』内であった
坂道の上にある一軒家に駆け上がるコントの際に、
細川が誤って転んだためにアキレス腱を切断、
長期入院を余儀なくされたことでした。
復帰後の仕事量が激減した細川は、
ある日にゲスト出演した際、
萩本欽一に「仕事ないの?じゃあ毎回来る?」といわれ、
同番組にレギュラー出演することに。
また日本テレビの『カックラキン大放送!!』に出演するときは、
何故か自転車に乗ったお巡りさんの役ばかり。
1982年(昭和57年)3月1日、
『北酒場』(作詞:なかにし礼、作曲:中村泰士)を発表。
デビュー曲『心のこり』以来7年ぶりの大ヒットとなり、
オリコンでは1982年度年間5位に入り、
第24回日本レコード大賞を初受賞。
1983年(昭和58年)2月21日、
ちあきなおみが1976年に発表した『矢切の渡し』(作詞:石本美由起、作曲:船村徹)のカバーを発表。
オリコン1983年度年間2位のヒットとなり、
第25回日本レコード大賞を受賞。
大賞受賞年の翌年は売れないというジンクスを打ち破り、史上初の2連覇を果たしました。
1984年(昭和59年)8月21日、
『浪花節だよ人生は』(作詞:藤田まさと、作曲:四方章人)を発表。
第26回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。
3冠達成となりました。
なお日本歌謡大賞では、大賞を一度も獲得できず。
細川が日本レコード大賞を連覇した1982年は
岩崎宏美『聖母たちのララバイ』、
1983年は田原俊彦『さらば‥夏』と、
規定によりレコ大にエントリーできない楽曲が歌謡大賞を受賞。
1985年には真狩村に「細川たかしを讃える碑」、
1994年には「細川たかし記念像」(別名「歌う銅像」)が建てられました。
『紅白歌合戦』(NHK)にはデビュー1年目の1975年(第26回)に初出場して以来、
2006年(第57回)まで32回連続して出場。
2007年(第58回)の出演を辞退したことで連続出場はストップしましたが、
五木ひろし(1971年〜2020年限りで紅白勇退)、
森進一(1968年〜2015年限りで紅白勇退)、
石川さゆり(1984年〜2020年継続中)、
小林幸子(1979年〜2011年)に次いで、
歴代5位の紅白連続出場記録を持ちます。
2009年の第60回に3年ぶりに返り咲いて通算33回目の出場を果たし、
2015年(第65回)まで7年連続出場。
通算39回の出場でした。
2016年の第67回に出場すれば40回出場の節目になるはずでしたが、
それを前に細川は11月21日に
「(紅白も)世代交代が必要」として後身に道を譲るべく同年の第67回の出場を辞退し、
2015年限りで紅白歌合戦から卒業(勇退)する意向を表明。
2021年の第72回では特別枠で6年ぶりに紅白に出場し、
通算40回出場に。
紅白のどちらの枠でもなく特別枠での出場。
北海道出身ということもあり、
少年時代からスキーを得意にしていて
全日本スキー連盟(SAJ)公認スキーバッジテストで一級を取得。
またSAJ教育本部アドバイザーも務めています。
2010年には
スキーのジュニア選手育成とスポーツ振興を柱としたNPO法人『特定非営利活動法人細川たかしとワールドスキージュニア』を設立。
2011年から
細川自らの名を冠したジュニアスキー大会『細川たかし ワールドスキージュニア大会』を創設、
現在では35歳以上のスキーヤーを対象にした
『細川たかし マスターズ・テクニカルカップ』も創設して
二つの冠大会を毎年開催するなどスキー振興にも力を入れています。
(細川たかし)

♥️2023💃6/15 上田桃子(37歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/15 オリバー・カーン(54歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/15 大林素子(56歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

内藤武敏さん
(1926年6月16日-2012年8月21日、86歳没)
俳優、ナレーター。 
6月16日は、この人のお誕生日です。
福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。
旧制常磐中学校(現・常磐高等学校)、日本大学予科卒業。
身長165cm、体重60kg。
映画制作を志し、俳優養成所へ入所。
当初は演出家希望でしたが、
指導者の勧めで演劇コースへ進みます。
1950年、
宇野重吉・加藤嘉・北林谷栄・鈴木瑞穂らと共に劇団民藝の創立に参画するも、
1970年に退団。
1952年に公開された吉村公三郎監督の『暴力』でスクリーンデビュー。
大河ドラマへ多数出演したほか、
山口百恵主演の赤いシリーズでは3作品でナレーションを担当。
1992年、
『ひかりごけ』(原作は武田泰淳)の原作を読んだ内藤が映画化を切望し、
長年の友人である三國連太郎が主演を快諾し、
親交の深い熊井啓が監督して公開を実現。
同作品はベルリン国際映画祭に正式出品されるなど、高い評価を受けました。
ロバートの馬場裕之は縁戚。
2012年8月21日午前10時10分、
悪性リンパ腫により神奈川県横浜市の病院で死去。
86歳没。
(内藤武敏)

♥️2023💃6/16 武論尊(76歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

✨女子プロレスラーのレジー・ベネットさん✨1991年ピップ.エレキバンのCM『ダッダーン.ボヨヨン.ボヨヨン‼️』世間の話題に。

小林旭「高原児」
ージャパニーズ・ウェスタン全開なりー
「高原児」(こうげんじ)は、1961年の日活アクション映画。
監督は「ギターを持った渡り鳥」などアキラの映画で知られた斉藤武市。
キャストは・・・
小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠の弟でもある郷 鍈治、二本柳 寛、金子信雄、白木マリ、高橋英樹(かなり若い)。
映画は・・・・
「渡り鳥」テーストというか、ジャパニーズ・ウェスタンからの「シェーン」の別パターン的展開というべきか。悪党と殺し屋が揃って顔を合せる酒場のシーンは、もろウェスタン風味で、おもわずニヤリだったのでしたよ。
経営危機に陥った牧場を助けるために、故郷に戻った恋人(浅丘ルリ子)。利権目当てに牧場乗っ取りをたくらむ暴力団、牧場経営者を敵とつけ狙う殺し屋を相手にまわし、アキラが大活躍。
昔、まだ幼い頃、ロンパールームを観ていた記憶があります。
みどり先生が懐かしい
1971年に放送された
森田健作出演の『俺は男だ!』の中に吉川操の姉役で出演していた秋山ゆりさんに
当時小学校の6年だった私は彼女に一目惚れ😁
俺は男だを観る度に秋山ゆりさんが出てくると
目が釘付けに為ったものです
ませたガキだったんでしょうか?
この秋山ゆりさんは女優に為る前は日航のキャビンアテンダントをしていたといいますから😙

夏目雅子さん、昭和32年神奈川県横浜市中区出身、東京女学館中学校・高等学校卒業。東京女学館短期大学中退。昭和和52年カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり「クッキーフェイス」のCMで注目を集める(その当時駅に貼られたポスターがよく盗まれたとの事)、昭和60年長い闘病生活を送りながらも順調に回復、退院間近の報道もありましたが突然逝去、27歳の若さだった。まさに「美人薄命」そのものの生涯でした。今でも残像がよみがえる数少ない印象に残る女優の一人です。

紳竜が主演の映画で、1981年製作の作品ですが、1967年の大阪が舞台で、監督は井筒和幸さんです

不良番長シリーズ
梅宮辰夫 菅原文太 大信田礼子

下川辰平さんです。

昭和の文化遺産。大人のテーマパーク。
その昔日本全国の温泉街や観光地に存在した「秘宝館」。唯一現存するといわれるのがこの熱海秘宝館。
原節子さん
(1920年6月17日-2015年9月5日)
女優。
身長165cm。
戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、
「永遠の処女」と呼ばれました。
『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督の出演で知られ、
ほか『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)などに出演。
1963年に女優業を引退し、
2015年に死去するまで隠遁生活を送りました。
神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で
父・藤之助、母・ナミの間に末っ子として誕生。
兄弟は男2人、女5人でした。
三番目の姉の子が映画監督の木下亮で。
保土ヶ谷尋常高等小学校(現:横浜市立峯小学校)から
私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)に進むも、
家庭が経済的に困窮していたこともあり、
次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、
女学校を二年で中退。
一年の時には、
後に小説家となる中島敦から直接の授業を受けています。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、
同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。
1936年、
第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきた
ドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、
初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢されます。
1937年3月12日、
原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かいました。
そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。
先に帰国していたファンクが一行を出迎え、
アドルフ・ヒトラーはじめ、
ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、
皆から高評価を受けたと伝えました。
宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎されました。
この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国。
11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍。
『新しき土』への出演によって一躍、
銀幕のスターダムに駆け上がった原でしたが、
太平洋戦争中は、
1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演。
終戦後の一時期は、
『ハワイ・マレー沖海戦』などの特撮を手掛けた円谷英二の自宅に下宿。
1946年9月、
終戦の翌年に原は資生堂のイメージガールに起用され、
戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせました。
さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢されます。
当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、
そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移ります。
1947年6月、フリーの女優として独立。
フリー第1作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)。
同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立。
1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、
服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒット。
初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。
1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことに。
原は一般的に小津作品での印象が強いですが、
出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、
以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続きます。
小津監督は
女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けました。
1949年(昭和24年)、
『晩春』『青い山脈』『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、
毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞。
1952年の『東京の恋人』以降、
しばらく出演作が途絶えたことでマスコミから
「伝説の存在」と表現されるように(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品)。
原が現場に復帰した1953年、
『白魚』の御殿場駅での撮影中に原の眼前で、
東宝のカメラマンであった実兄会田吉男が
助手の伊藤哲夫と共に列車に撥ねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭いました。
小津監督と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクイン。
1954年、
原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、
引退をささやかれるように。
体調が回復した1955年公開された
『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じました。
1956年、
『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品となりました。
1962年、
稲垣浩監督による東宝創立30周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、
原は大石内蔵助の妻りくを演じました。
これが原にとって最後の出演作品に。
1963年12月12日、
小津監督が還暦の誕生日に東京医科歯科大学附属病院で没し、
その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、
以降表舞台には一切姿を見せなくなりました。
1964年、
東京都狛江市の実家から神奈川県鎌倉市の義兄・熊谷久虎宅の敷地内へ引っ越し。
1968年9月、
小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、公の場から姿を消しました。
1969年、
映画監督の成瀬巳喜男が亡くなったとき「会田昌江」名義で供花を送ります。
1973年、
小津の没後10年を記念して信州蓼科に
小津と野田の有縁地碑を建てるとき「会田昌江」名義で寄付。
1993年、
笠智衆の通夜前に極秘に訪れ、
一部の関係者に気付かれたのが最後の目撃でした。
1994年、
東京都内のかつての自宅の土地を売却し、
約12億円の所得を得たことで、
この年の高額納税者番付で全国の75位で登場し、話題に。
2015年9月5日、
肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じました。
(原節子)

♥️2023💃6/16 波瑠(32歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

たのきん全力投球
内容はさっぱり覚えていませんが、いとこのねぇちゃんがたのきんファンで、なんとなく観ていた記憶は残ってます
たのきん自体が懐かしい
『学校給食の始まり』
『学校給食』の始まりは、1889年に山形県の私立忠愛小学校が出した給食が最初でした。画像上段。
・メニュー《おにぎり、塩鮭、菜の漬物》
戦争で1943年頃から一時中断しましたが、戦後にアメリカから脱脂粉乳や小麦粉が救援物資として送られてきたことをきっかけに1945年に再開されました。
下段の画像は私が、小学1年生の1964年の給食です。
・メニュー《あげパン、ミルク( 脱脂粉乳 )、おでん》
通常は、コッペパン。あげパンは月に一度?のお楽しみでした。あげパンは、今でも大人気です。😀
横山光輝さん
(1934年6月18日-2004年4月15日)
漫画家。
兵庫県神戸市須磨区出身。
代表作に
『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者 赤影』『魔法使いサリー』『コメットさん』『バビル2世』『三国志』等々多数。
長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、
手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人。
神戸市須磨区に生誕。
戦時中は鳥取県に疎開。
1946年(昭和21年)、
神戸市立太田中学校に入学、この頃から漫画を描き始めます。
1949年(昭和24年)、神戸市立須磨高等学校に入学。
手塚治虫の『メトロポリス』に感銘を受け本格的に漫画を志し、
『漫画少年』『探検王』などの雑誌に作品を投稿するように。
1951年(昭和26年)には
横山みつてるの筆名で10数本の作品が商業誌に掲載されます。
1953年(昭和28年)、
高校を卒業し神戸銀行(現:三井住友銀行)に入社するも4か月で退社、
その後、
友達の大阪府堺市の自転車工場で働きますが数か月で辞め、
1955年(昭和30年)には神戸に戻り、
映画会社の宣伝部員として勤務しながら漫画の投稿を続けます。
1954年(昭和29年)、
貸本漫画会社、大阪東光堂の注文で貸本漫画を描いていた横山は、
出版社の社長に連れられ手塚の下に赴き、
横山が描いた時代物『魔剣烈剣』に目を通した手塚は「売れる漫画家」と判断。
1955年(昭和30年)、
貸し本向け単行本『音無しの剣』で漫画家デビュー。
2作目の『白百合物語』が認められ、
光文社の『少女』で初の雑誌連載『白ゆり行進曲』が開始。
この頃に原作手塚治虫、作画横山光輝で
『黄金都市』、『ターザンの洞窟』、『海流発電』、『仮面の冒険児』で4作発表。
横山はトキワ荘の住人ではありませんでしたが、
手塚の「鉄腕アトム」のアシスタントとして活動したこともありました。
1956年(昭和31年)、映画会社を退職した後、
光文社『少年』に発表した『鉄人28号』が人気を博し作家的地位を確立。
『鉄人28号』は『少年』誌上で手塚の『鉄腕アトム』と人気を二分するヒット作に。
この年より上京し、
以降映画会社勤務時に多くの映画を見た経験を生かして、名作を次々と生み出しました。
1964年(昭和39年)には、
神田三崎町に株式会社光プロダクションを設立。
アニメ化された作品も多く、
『鉄人28号』で巨大ロボットアニメ、
『魔法使いサリー』で魔法少女アニメの歴史が始まったと言われ、
分野の先駆け的存在となりました。
1991年(平成3年)、
『三国志』により第20回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。
受賞作『三国志』は、
1971年(昭和46年)から1986年(昭和61年)までの15年の時間を要し、
全60巻(文庫版は全30巻)というスケールで
劉備登場から蜀漢の滅亡までが描かれた大作。
『水滸伝』『三国志』以降、
横山は日本や中国の歴史漫画中心に力を注ぐことに。
1999年(平成11年)には大病を患い療養。
2004年(平成16年)に
日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。
同年4月7日『鉄人28号』(第4作)が放送開始。
それから間もない同年4月15日朝方、
東京都豊島区千早の自宅で火事に見舞われ、
全身火傷を負って意識不明の重体となり、
同日22時に日本大学医学部附属板橋病院にて死去。
69歳。
(横山光輝)
加藤剛さん
(1938年2月4日-2018年6月18日)
俳優。
身長173cm・体重70kg。
俳優座所属。
2001年、紫綬褒章受章。
2008年、旭日小綬章受章。
静岡県榛原郡白羽村(御前崎市)出身。
父鉉一郎は小学校の校長。
姉四人と兄、弟がいます。
俳優のうえだ峻とは叔父・甥の間柄で、
うえだの母は自身の姉にあたります。
加藤家は古くからの地主で、
農地改革で大半を失ったとはいえ自宅の敷地は八百坪近く、
敷地に続くすぐ裏に持ち山があり、
庭にはたくさん木がありました。
いわゆる腕白少年ではなく、
よく母の台所仕事を手伝い、畑仕事もしました。
自作するだけの畑はあったため、サツマイモや麦を交代で作っていました。
剛は御前崎の遠州灘に続く茶畑のある風景の中で育ち、中学三年の時に地元を離れました。
戦争未亡人となり美容室を開いていた文京区の長姉宅に寄宿。
小石川高校の時、柔道部に入っていましたが
先輩が演劇もやっており「お前も手伝え」と
命じられ舞台に立ったのがきっかけとなりました。
東京都立小石川高等学校を経て、
早稲田大学第二文学部演劇科で学び、
学内の劇団、自由舞台で活躍。
大学4年の時、
20倍の難関を突破して俳優座養成所に入ります。
途中テレビドラマ『人間の條件』(TBS)出演のため1年「休学」。
「人間の条件」では
「ぼくという裸身の素材にこの男(主人公の梶)の一生を忠実に刻み込んでゆくこと」で演じきり、
原作者より「テレビ映画の優れた主演者」と評されました。
後、13期生として修了。
修了時の同級生には
石立鉄男・佐藤友美・細川俊之・横内正ら。
27歳で正月公演で安部公房作『お前にも罪がある』で「男」を演じ、
演出上傾いた舞台装置「男の部屋」上で2時間の連続演技を行う主役に抜擢。
同期の横内正は、
養成所で加藤と初めて会った際、
その美男子ぶりに驚いたといい
「欠点のない男。こんな二枚目がいるんじゃ、かなわないと思った」と振り返り、
「(俳優座の先輩の)平幹二朗さんは、
仲代達矢がいる限り劇団で上にいけない、と思ったように、
僕も加藤剛がいる限り上にはあがれないだろう」と、
横内が後に俳優座を退団する決意をするほど存在が大きかったです。
また、不思議な縁ですが、
加藤は「大岡越前」(TBS)を主演、
横内は「暴れん坊将軍」(テレビ朝日)で同じ大岡役をレギュラー出演、
「同じ役で“競演”しているつもりで演じていましたよ」と回想。
熊井啓監督の映画主演でも有名。
忍ぶ川(三浦哲郎原作)栗原小巻 の恋人役と、
北の岬(辻邦生原作)クロード・ジャド の恋人役でした。
『大岡越前』は長年に渡る当たり役で、
TBSテレビ月曜8時の看板番組として、
1970年(昭和45年)3月16日(月曜日)から、
『水戸黄門』『江戸を斬る』等とローテーションを組みながら、足掛け約30年間、
2006年3月20日放送の最終回スペシャル版を含めれば
36年間にも及ぶ長きに渡り主演し通しました)。
『大岡越前最終回スペシャル版』では
実子である夏原諒、頼三四郎(現:加藤頼)との共演を果たしました。
『大岡越前』で親友役を演じた竹脇無我とは私生活でも40年間以上親友関係にあり、
2011年(平成23年)8月21日(日曜日)午後2時5分に竹脇が急死した際は、
手書きの追悼文を寄せました。
その間大河ドラマ『風と雲と虹と』、『獅子の時代』も主演。
『大岡越前』の終了後は、
『命のビザ』や『そして戦争が終わった』、『坂の上の雲』など近現代史ドラマにも出演。
2018年6月18日(月曜日)午前10時11分、
胆嚢がんのため東京都内で死去。
80歳没。
(加藤剛)

♥️2023💃6/18 藤真利子(68歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤