Apex product 【懐かしい昭和の時代⑳】

【連絡先】

メモ: * は入力必須項目です

昭和時代【何もなかったが、とっても楽しかったあの頃!!】

「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」
「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」は、1967年の東宝映画。監督は、福田純、特技監督に有川貞昌。併映には、舟木一夫主演の「君に幸福を センチメンタル・ボーイ」(ヒロインは内藤洋子)。
気温冷却化計画を進めるゾルゲル島の研究チーム。しかし、今一歩のところで、妨害電波が流れ、逆に、急激な温暖化と、それに伴う昆虫の巨大化をもたらしてしまう。
巨大化したカマキリの化け物、カマキラスは、なにかを掘り出そうとしていたが、それは、なんと、ゴジラの卵。間もなくかえったゴジラの赤ん坊をカマキラスがいたぶる。すると、そこに、ゴジラが現れて・・・・。
キャストは・・・
高島忠夫、久保明、佐原健二、平田昭彦、前田美波里、土屋 嘉男、黒部進、西條康彦ほか。
東宝特撮映画でお馴染みの面々から、ウルトラQの一平役の西條、ウルトラマンのハヤタ隊員役の黒部進など、盛りだくさんの特撮ファンなら、喜びのキャスティング。
他方、ゴジラの設定は、ますますお子ちゃま仕様に傾倒。「ゴジラ対ガイガン」にいたっては、漫画のような吹き抜けまで登場して、怪獣映画も、いくところまでいったか!と天を仰いだ。これを境に、怪獣冬の時代が到来。特撮映画は、長き眠りにはいってしまう。ああ🤣🤣
この映画での注目は、なんといっても、ミニラだが、「怪獣総進撃」「オール怪獣総進撃」以降出番がなく、「ゴジラ FINAL WARS」に突如再登場したのは、謎でありましたよ。
#怪獣島の決戦ゴジラの息子

♥️💃2023/ 5/20 アグネス・ラム(67歳) 𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

「快獣ブースカ」
モノクロテレビの時にしか観たこと無いので、
カラーだと、初めて解りました。😁😆(笑)

♥️💃2023/ 5/23 仁支川峰子(65歳) 𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

仁支川峰子(1958年5月23日-)
演歌歌手、女優。
5月23日は、この人のお誕生日です。
福岡県田川郡赤村出身。
都立代々木高校中退。
歌唱力に秀で、
1973年に『第3回全日本歌謡コンテスト』で優勝したのをきっかけに芸能界入り。
翌1974年7月25日、
"やまびこ演歌”のキャッチフレーズでビクターから『あなたにあげる』で歌手デビュー。
同デビュー曲はチャート1位になるなど、
いきなり大ヒットとなり、一躍人気歌手に。
同曲で
第2回FNS歌謡祭最優秀新人賞(1974年下期)、
第5回日本歌謡大賞放送音楽新人賞、第16回日本レコード大賞新人賞など多数受賞。
その後もコンスタントにヒット曲を放ちます。
年末恒例のNHK紅白歌合戦には、
初出場の1975年(第26回)から1978年(第29回)まで、4年連続で4回出場。
その後声が思うように出なくなったこともあり、
演歌歌手から女優に転向し、
特に『吉原炎上』での最後の場面では視聴者に強いインパクトを与え、
自身の代表作と言われるほどに。
その後、タレントとしても活躍し、歌手活動も再開。
1982年10月6日から1983年3月30日まで
『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)の水曜レギュラーでした。
1993年には、ヘアヌード写真集「PRIVATE」を発表。
1997年に発売した写真集「PrivateII」は5万部を超える売り上げ。
1998年には、
那須高原の新築1ヶ月の別荘が台風4号に伴う豪雨で流され話題に(その後、同じ場所に家を建て直したが後に売りに出しました)。
2001年7月、
後鳥羽上皇の墓守りである隠岐島在住の町議会議員の男性と結婚しましたが、
2008年3月には離婚調停が開始、
2009年4月正式な離婚が発表。
2009年12月24日放送のフジテレビ
『くちこみっ!大捜索2!!本当に凄い(秘)占い師テレビ解禁スペシャル!!』番組内において、
「西川」峰子から「仁支川」峰子に改名。
2010年4月、
大学病院での精密検査で甲状腺の乳頭癌と診断され、
劇団・若獅子公演が終了後の5月14日に入院。
5月17日に2度に渡る摘出手術を受け、5月24日に退院。
2021年1月5日、
32年続けた個人事務所ミネファンタジーから移籍。
(仁支川峰子)

昭和のあの頃…億万長者が羨ましかった👀〰️💕

♥️💃2023/. 5/23 高橋名人(64歳) 𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

忘れもしないこのCM
今の君はピカピカに光っている
サトウハチローさん。
(1903年5月23日-1973年11月13日、70歳没)
詩人、童謡作詞家、作家。 
5月23日は、この人のお誕生日です。
多くの別名を用いており、
陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、
清水操六、清水士郎、清水洋一郎、並木せんざ、
江川真夫、熱田房夫、倉仲佳人、倉仲房雄、など。
旧制早稲田中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)中退。
作家の佐藤愛子は異母妹。
父は、作家の佐藤紅緑。
母・佐藤はるは、
現在の宮城県仙台市出身で、河北新報社の創業者(社主)の一力健治郎の義妹(一力の妻の妹)。
この両親の長男として、
東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町(現在の東京都新宿区市谷薬王寺町)に生誕。
中学に入学後、
紅緑が舞台女優の三笠万里子と同棲するようになり離婚、
父親への反発から中学を落第、退校、勘当、留置場入りを重ねます。
感化院のあった小笠原諸島の父島で
父の弟子であった詩人の福士幸次郎と生活を共にし、影響を受けます。
1919年(大正8年)福士の紹介により
西條八十に弟子入りして童謡を作り始め、
数々の雑誌や読売新聞などに掲載されます。
その一方で
今東光などが参加した同人誌『文党』や、
草野心平や宮沢賢治などが参加した同人誌『銅鑼』に参加。
1926年(大正15年)には処女詩集『爪色の雨』を出版。
1930年代からは童謡や詩だけにとどまらず、
小説や映画の主題歌なども盛んに執筆。
1938年(昭和13年)には
日本コロムビアと専属契約を交わし、
第二次世界大戦が激しくなる中でも妻子を千葉県に疎開させ、
自身は東京に残って仕事を続けたした。
『勝利の日まで』など、戦時歌の作詞も手掛けました。
1945年(昭和20年)8月6日、
広島市への原子爆弾投下によって弟の節を失いました。
節は広島中央放送局へ転勤する親友を見送りましたが別れがたく、
そのまま大阪駅から転勤先の広島までついて行き、被爆死。
ハチローは節を捜しに行き、宿屋跡も見つけましたが、
遺骨・遺品は一切見つからず。
同年8月15日に終戦となり、
戦後初めてとなる映画『そよかぜ』の主題歌・挿入歌である「リンゴの唄」を作詞。
並木路子の歌により大流行し、
連合国軍占領下の日本を象徴する歌となりました。
1946年(昭和21年)から
「東京タイムズ」でエッセイ「見たり聞いたりためしたり」の連載を始め、
およそ10年の間、毎日連載されました。
また、
同年の12月からNHKのラジオ番組『話の泉』のレギュラーとなり、
1964年(昭和39年)まで出演。
1951年(昭和26年)から1年間は、
NHKのラジオドラマ『ジロリンタン物語』の原作を執筆。
1953年(昭和28年)童謡集『叱られ坊主』を出版し、
翌年これにより第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
以後は童謡の詩作に専念し、
1955年(昭和30年)「ちいさい秋みつけた」を作詞、
1962年(昭和37年)レコード大賞童謡賞を受賞。
1963年(昭和38年)NHK放送文化賞受賞。
1966年(昭和41年)紫綬褒章受章。
勲三等瑞宝章を受章した1973年(昭和48年)に、
心臓発作により聖路加国際病院で死去。
享年70。
(サトウハチロー)
相澤秀禎さん。
(1930年1月20日-2013年5月23日、83歳没)
実業家、芸能プロモーター。
5月23日は、この人の命日です。
サンミュージックプロダクションの創業者で初代社長。
神奈川県横須賀市出身。
実家は金物商。
中学生の時、先の大戦が敗戦を迎えます。
横須賀に進駐軍が駐留するとカントリー・ミュージックに触れるようになり、
姉にせびってギターを買ってもらいました。
米兵とも親しくなり、
フリゲート艦のエンジン洗浄のアルバイトもし、
三浦学苑高等学校卒業。
法政大学在学中にバンド
「相澤芳郎とウエスタンキャラバン」を結成。
スティール・ギター奏者兼マネジメントを担当して、
米軍基地を演奏して回り、銀座のジャズ喫茶にも進出しましたが、
ヴォーカルの山下敬二郎が移籍してしまい、
バンド活動は行き詰まります。
そこで、
1959年(昭和34年)にプレイヤーを引退して、
銀座ACBのオーナーや堀威夫らが設立した東洋企画にスタッフとして加わり、
守屋浩のマネージャーとなり、ささきいさお、佐川満男を発掘。
1961年(昭和36年)9月、
「龍美プロ」を立ち上げて、ウエスタンキャラバン、松島アキラ、渡辺順子(黛ジュン)を手掛けたほか、
64年には西郷輝彦とめぐり会い、御三家ブームを作るも、西郷は独立。
その後、
経営に苦しみ龍美プロを倒産させ、
第一プロ・岸部清社長、太平洋テレビ・清水昭社長の
プロダクションなどに身を寄せて生き抜きました。
1968年(昭和43年)11月27日、
資本金百万円で「サンミュージック」を設立、
タレント第1号は森田健作。
ほかに水前寺清子の個人マネージャーもつとめていました。
70年代に
渡辺プロダクションが年功序列の月給制、
吉本興業等が完全歩合制(仕事がなければ収入もない)を敷く中、
「最低保証プラス歩合制」を導入し、
新人タレントでも売れればすぐに待遇を良くしました。
さらに、
若いタレントを組織の力でしばらずに、
自由な発想、自由な日常生活ができるようにもっていきました。
これによって、
森田を手始めに、野村将希・桜田淳子・太川陽介・松田聖子・香坂みゆき・早見優・岡田有希子・酒井法子・安達祐実といったタレントを
スカウト・育成し、デビューさせ、
桜田・松田・早見・岡田・酒井の存在で“女性アイドルと言えばサンミュージック”という評価を確立。
1980年代半ばには有力プロダクションとして名を馳せました。
アイドルの有望株には、
自宅2階に住まわせて寝食を共にして親代わりとなり、
暖かく家族的な事務所経営を行っていましたが、
86年に岡田が自殺(動機は未だ不明)、
89年に松田が独立、
92年に桜田が世界基督教統一神霊協会(統一教会)の合同結婚式に参加して芸能活動を休止、
09年には酒井が覚醒剤取締法違反(所持)で起訴されるなど苦労も絶えず。
2004年(平成16年)12月、
創業以来36年間務めてきた社長の座を長男の相澤正久に譲り、
自らは会長に退きました。
だが、
自身のブログでは生涯マネージャーを標榜し、
全国の事務所オーディションに自ら足を運んで
有望な若者を発掘することに意欲を燃やし続けました。
晩年は脾臓と肝臓に腫瘍が見つかり、
入院と通院で治療を受けていましたが、
2013年5月23日22時27分、
膵臓癌のため入院先の東京都内の病院で死去。
83歳没。
謹んで、相澤秀禎社長のご冥福をお祈り致します。
(相澤秀禎)

私が高校の生徒の頃遊んだパチンコ台、玉一発が入ると15個出るオール15で、景品に変えた記憶はない。戦前にも1個入ると2個出るという台で遊んだ記憶があるが、写真が見つからない。車や真ん中の飾りはなかったと記憶している。

◆〈偽傷痍軍人〉昭和40年代
◆東京・豊島区 旧国鉄「池袋西口」東武百貨店前
「行き交う通行人」の「優しさを逆手」に
「どうか御恩を」と・・・・・と言うが
実は「この人」夕方暗くなると
「何故か袖から手が出て、ズボンの裾から足が出る」
そして「開きを畳み込み」
「鞄  💼 」に「一色」を詰め入れ
「普通の歩行」で「日大病院〈板橋区〉行き」の
国際興業バス🚌に乗り、帰って行く
◆⭕「袖から手が出て」「裾から足が出る」姿を
見ちゃった「小学生の自分」は
「あのおじさん偽者だよ」と言ってしまった、
すると「帰宅途中のサラリーマンの人たち」から
「坊や、そうゆう事言っちゃダメ」と注意された
◆然し「子供の目は正直」嘘は言って無かった😁
馬がしゃべる、そ~んな馬鹿な🎵
「ミスターエド」

実写版鉄腕アトム

加藤武さん
(1929年5月24日-2015年7月31日、86歳没)
男性俳優、声優。
5月24日は、この人のお誕生日です。
文学座前代表。
東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。
身長166cm。
早稲田大学英文科卒業。
俳号は「阿吽」。
築地で仲卸業を営む家に生誕。
祖母は十五代目市村羽左衛門の贔屓、
両親共に清元節を嗜み、姉は舞踊をやっていました。
中央区立泰明小学校、麻布中学校、早稲田大学高等学院卒業。
小沢昭一・フランキー堺・仲谷昇・大西信行・なだいなだ・内藤法美は麻布中学校の同級生。
幼少期より歌舞伎を愛好し、
学校を早退してまで歌舞伎座に通っており俳優に憧れていました。
早稲田大学では演劇研究会に入り、
ここで映画監督の今村昌平・俳優の北村和夫らと知り合います。
小沢、大西らと学生劇場に参加。
やがて今村昌平から脱退を進められ、
小沢、大西、北村和夫、岩村久雄、沼田幸二らとオスカーというグループを結成。
卒業後、
一時地方公務員の公立高校教員として新宿区立大久保中学校教諭に就く(英語を教える)も
俳優への道を諦めきれず、
1952年、
辞職して先に北村が入団していた文学座研究所に入り、
早大の同級・北村和夫とともに文学座の看板女優・杉村春子に芸をたたき込まれました。
この頃に
演芸評論家・作家である正岡容に出会い、
小沢や落語家・桂米朝、作家・都筑道夫らと共に歌舞伎と芸のいろはを学びます。
同年の『狐憑』が初舞台。
1959年に正式に座員となり、
『美しきものの伝説』『富島松五郎伝』などの舞台に出演。
1974年に
盟友の小沢昭一や山口崇、永六輔らと芸能座を結成。
しかし、1980年に解散し、文学座に戻りました。
1985年には吉永仁郎原作の『芝居 月もおぼろに』を演出。
映画には
1953年の今井正監督『にごりえ』に端役で出演したことから始まり、
翌年の黒澤明監督『七人の侍』では町を歩く侍役でノンクレジット出演。
1957年の『蜘蛛巣城』における都築警護の武士役や
『隠し砦の三悪人』の冒頭部分で壮絶な死にざまを見せた落武者、
『悪い奴ほどよく眠る』の主人公の相棒・板倉役など計8作の黒澤作品に出演。
ほか『仁義なき戦い』シリーズの優柔不断な親分・打本昇役でも知られます。
『犬神家の一族 (1976年の映画)』『悪魔の手毬唄』をはじめとする金田一耕助シリーズでは役名が毎回異なるものの、
粉薬が手放せず、イチイチ大仰な身振りで「よしっ! 分かった!」と手をポンと叩きながら早合点を繰りかえす警察幹部を好演し、
野村證券のCMでも使用されました。
市川崑や黒澤、浦山桐郎、今村昌平らから重用されました。
14本に出演した市川作品では、
別に駆け出し時代の1954年に『女性に関する十二章』でナレーターを務めています(ノンクレジット)。
テレビドラマでは
1970年代にNHKで放映された『警部マクロード』の上司役でのアテレコ、
時代劇では『真田太平記』の本多忠勝、
『風林火山』の諸角虎定など、歴史上の人物を演じています。
1976年10月から1977年3月まで、
TBSラジオのナイターオフ番組『山田二郎ワイドで勝負!90分』の番組内にて
『加藤武のラジオ国語辞典』と題する
ラジオ番組のディスクジョッキーを担当していたことも。
映画『釣りバカ日誌』では主人公・浜崎伝助の務める鈴木建設の秋山鉄蔵専務役、
リメイク版『日本沈没』では地球物理学学者に扮したほか、
2006年に映画『犬神家の一族』が30年ぶりにリメイクされた際には、
オリジナル版と同じ役で再登場。
バラエティ番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)の1コーナー「クイズよしっ分かった!」のモデルとなり、
レギュラー出演もしていました。
晩年も文学座の俳優として舞台で活動するほか、
海外ドラマやアニメへの声優としての出演作も多数あり、
また徳川夢声以来となる吉川英治の『宮本武蔵』の朗読にも取組んでいました。
2010年に戌井市郎が死去した後に文学座代表代行に就任、
2015年5月に正式に文学座代表に就任していましたが、
同年7月31日、
スポーツジムのサウナで、心疾患の発作を引き起こした後倒れ、
搬送先の東京都内の病院にて死亡が確認されました。
86歳没。
(加藤武)
田村亮さん。
(1946年5月24日-)
俳優。
5月24日は、この人のお誕生日です。
京都府京都市右京区太秦出身。
身長177cm。
阪東妻三郎の四男。
男4兄弟の末っ子で、唯一の戦後生まれ。
成城学園中学校~成城学園高等学校、成城大学経済学部卒業。
兄弟には
俳優の田村高廣(長男)、
俳優・田村正和(三男)がおり、
田村三兄弟それぞれで息長く活躍。
異母弟に俳優の水上保広。
ひとり息子は俳優の田村幸士。
1953年、
京都市立嵯峨小学校1年生7歳のとき父を亡くし、
一家は京都を引き払い、東京世田谷へ移住。
世田谷区立明正小学校に転校。
成城学園高校時代にはバスケットボール部に所属し、インターハイにも出場。
英語が好きで貿易関係に仕事に就いて、
世界各国を回りたい等の夢があり、
役者になりたくはなかったそうです。
1965年、成城学園高等学校3年生の時に、
阪妻13回忌企画『破れ太鼓』につきあいのつもりで出演するも、
これを映画関係者が見逃す筈もなく、
映画会社の獲得合戦が激しくなりました。
稲垣浩監督から
「101本記念の映画を撮るので出演しないか」と声をかけられ、
断れる相手ではなく「やらせてもらいます」と返事をせざるを得ず、
稲垣監督の映画『暴れ豪右衛門』にて映画デビュー。
ただ、最初は大学卒業後はサラリーマンとして就職役者になることになかなか踏ん切りがつかず、
大学卒業後の1969年に俳優小劇場養成所へ入所。
一年通って踏ん切りがつき、養成所卒業と同時に、
東宝と専属契約。
1970年に主演作品『無常』が
スイスのロカルノ国際映画祭でグランプリ(ゴールデンジャガー賞)を受賞するなど日の目を見、
1974年に前年の作品『狼無頼控』で京都市民映画祭テレビ部門男優賞、
1978年舞台、『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』では
父妻三郎の代表作である『雄呂血』(正和とダブル主演)と
『無法松の一生』(高廣主演)にそれぞれ出演。
1980年には日本民間放送連盟賞 優秀賞大賞を受賞。
1984年、
田村3兄弟が共演して話題となった『乾いて候』では大岡忠相を演じ、
その後『暴れん坊将軍』でも2代目・大岡忠相を演じました。
兄らとは異なり、
いわゆる「2時間ドラマ」に多くキャスティングされており、
1986年頃からは山村美紗原作番組にほぼ毎年出演している他、
年に数度の舞台にも出演。
(田村亮)
横溝正史さん
(1902年5月24日-1981年12月28日、79歳没)
推理小説家。
5月24日は、この人のお誕生日です。
戦前には
ロマン的な『鬼火』、
名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、
戦後には
名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著しました。
兵庫県神戸市東川崎出身。
兵庫県神戸市東川崎(現・中央区東川崎町)に
父・宜一郎、母・波摩の次男として生まれました(三男とする説も)。
父親は岡山県浅口郡船穂町(現・倉敷市)柳井原出身。
翌日の旧暦5月25日が
楠木正成の命日にあたることから、「まさし」まで取って命名されました。
5歳の時に母を亡くし、
まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎えます。
1920年(大正9年)3月、
神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業、第一銀行神戸支店に勤務。
1921年、
大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身校)入学後、
雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』が一等を獲得し、
賞金10円を得ました。
これが処女作とみなされています。
1924年、専門学校卒業後、
一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していましたが、
1926年に江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社。
1927年に『新青年』の編集長に就任、
その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら
創作や翻訳活動を継続しましたが、
1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家に。
1934年(昭和9年)7月、
肺結核の悪化により長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ、
執筆もままならない状態が続きます。
1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられます。
また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、
捕物帳シリーズ等の時代小説執筆に重点を移さざるを得ないなど、不遇な時代が続きました。
1939年に東京に戻り、
太平洋戦争の開戦前後である1941年6月から12月の時期には、
横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載。
推理作家としての活動が制限されたため経済的にも困窮し、
一時は横溝本人も死を覚悟するほど病状が悪化しましたが、
終戦後、
治療薬ストレプトマイシンの急激な値崩れにより必要量の入手がかなうこととなり、快方に向かいます。
1945年(昭和20年)4月より3年間、
岡山県吉備郡岡田村(のち大備村、真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開。
第二次世界大戦終戦前から、
「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、
「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」。
そして、終戦後、
推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、
本格派推理小説を続々と発表。
1948年、
金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』により第1回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。
やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在に。
人気が高まる中、骨太な本格派探偵小説以外にも、やや通俗性の強い長編も多く執筆。
4誌同時連載を抱えるほどの売れっぷりだったが、1960年代に入り松本清張などによる社会派ミステリーが台頭すると執筆量は急速に減っていきます。
1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、
影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まります。
同時に、
江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、
横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行されました。
1974年、角川文庫版の著作が、300万部突破。
1975年、角川文庫の横溝作品が500万部突破。
1976年、角川文庫の横溝作品が1,000万部を突破。
1979年、角川文庫横溝作品4,000万部突破。
その後横溝が亡くなる1981年までの間に計5,500万冊を売り上げました。
1975年にATGが映画化した『本陣殺人事件』がヒット。
翌年の『犬神家の一族』を皮切りとした石坂浩二主演による映画化(「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」参照)、
古谷一行主演による毎日放送でのテレビドラマ化(「古谷一行の金田一耕助シリーズ」参照)により、
推理小説ファン以外にも広く知られるようになります。
1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章受章。
1981年(昭和56年)12月28日、結腸ガンのため国立病院医療センターで死去。
(横溝正史)
七人の金さんが
日本征服を企む、謎の組織に
敢然と挑む、痛快時代劇(笑)😂‼️
懐かしき 昭和の
《美人女優 列伝》
*日本映画の黎明期,サイレント(無声映画)時代から平成/令和時代までの銀幕のスター美人女優を列記!
*独断と偏見で特に記憶に残る美人女優トップスリー!
〔1〕李香蘭(山口淑子)
李香蘭の人気が最高潮に達したのは昭和16年2月11日。
日劇に出演する初日に押し寄せた観客は日劇を7回り半も取り囲む10万人の大群衆で伝説として語り継がれてます。
歌手としても「夜来香/蘇州夜曲」も大ヒット!
終戦後、中国の軍事裁判で銃殺刑の判決になる寸前に幼なじみのロシア人の女性に日本人と証明されて無罪となる。
ハリウッド映画にも進出、後年は参議院に!
事実は小説より奇なり…波瀾万丈の数奇な人生!全盛期は神々しい美人女優でした!
〔2〕八千草薫
若い頃は絶世の美女と謳われ清楚で可憐な娘役から良き妻、良き母、上品な老婦人まで様々な日本女性を演じ続けて「永遠のマドンナ」と呼ばれ愛された大女優でした。最も好きな女優!
〔3〕山本富士子
最も古い歴史を持つミスコン
「ミス日本」の初代グランプリを満場一致で受賞する。
映画会社の激しい争奪戦の末に大映が獲得して入社する
大映の看板女優として活躍した
*番外編…岡田嘉子
日本映画の黎明期,サイレント映画時代の美人大女優!人気絶頂期に恋人(杉本)と愛の逃避行でソ連へ密航!恋人は銃殺刑に!
数十年の時を経て帰国「寅さん・映画」にも出演する。
現生では考えられない波瀾万丈/破天荒な人生です!

前川清と藤圭子 離婚会見

藤間紫さん
(1923年5月24日-2009年3月27日、85歳没)
東京都文京区根津出身の日本舞踊家、女優。
5月24日は、この人のお誕生日です。
日本医科大学元学長で理事長、日本私立大学協会会長も務めた
河野勝斎の長女(9人兄弟のうち、4人が芸能、2人が医師)。
12歳の時、六世藤間勘十郎に入門し、天才少女と言われました。
もともとは弁護士を志していたそうです。
夫は
三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁、二代目藤間紫)。
三世藤間勘祖(藤間高子)と俳優藤間文彦は、
前夫六代目藤間勘十郎(二世藤間勘祖)との子。
二代目中村藤太郎(前夫の養子となり3代目藤間大助を襲名後、六代目中村歌右衛門の芸養子になり中村藤太郎を襲名)、
六代目中村東蔵は弟。
宗家藤間流家元の八世藤間勘十郎(高子と梅若六郎 (56世)との婚外子)、
元ジャニーズJr.で紫派藤間流の舞踊家・初代藤間翔(藤間貴彦、文彦の子)と
紫派藤間流の家元で女優の藤間爽子(三代目藤間紫、文彦の子)は孫。
1944年、21歳の時、
勘十郎から「紫」の名を貰い若くして名取となり、24歳年上の藤間勘十郎と結婚。
一男一女を儲けましたが、
1960年代から16歳年下の市川猿之助と生活を共にするようになり、1985年に勘十郎と離婚。
2000年に猿之助と正式に結婚。
1948年の『淀君』をはじめとして、
昭和30年代に帝国劇場での『椎葉の里』、
明治座での『青銅のキリスト』等を発表、
舞踊劇の創作に注力。
舞踊家としても藤紫会公演を大劇場にて行ないます。
1985年の勘十郎との離婚訴訟をきっかけに、
宗家藤間流のお家騒動が起こり、
1987年に宗家藤間流を離れて紫派藤間流を創流。
毎年東京と大阪にて舞踊会を開催。
1993年10月、
国立大劇場にて自身のリサイタル「藤間紫の会」を開催。
女優として映画や舞台、テレビドラマにも数多く出演。
女優初出演は1949年、
舞台が新国劇『野口英世』、
映画が新東宝作品『グッドバイ』。
1995年には猿之助演出の舞台『西太后』に主演し、圧倒的な存在感を見せつけました。
2009年3月27日、肝不全のため死去。
享年87(満85歳)。
(藤間紫)

矢追純一さん🤩 日本テレビのディレクター時代には、UFO、UMA、超能力などの番組を担当され 正に、日本のオカルトブームの先駆者でしたね😅

『七色仮面』は、日本のテレビドラマ。変身ヒーローを題材とした特撮作品で、1959年6月3日から1960年6月30日までNET系で放映された。1960年1月7日の第5部から主演が波島進から千葉真一へ交代、タイトルも『新 七色仮面』(しんなないろかめん)と改められた。制作は東映テレビ・プロダクション、スポンサーはカバヤ食品の一社提供。映画や漫画化もされている。『月光仮面』の川内康範が、七つの顔を持つ男・多羅尾伴内をモチーフにして作り上げた。東映初の仮面ヒーローものであり、『月光仮面』と並び黎明期のテレビ番組を代表するヒーローである。映画『月光仮面』を製作した東映が新たな連続テレビ映画の企画を川内に依頼し、自社制作のテレビドラマを再編集映画として公開する『東映特別娯楽版』の一本として、本作は製作された[3]。劇場公開を前提として35mmフィルムで撮影されており、撮影費用は一本500万円という当時のテレビ番組としては破格の金額で製作された。
https://youtu.be/8tF70oBe18A
近衛十四郎さん
(1914年4月10日-1977年5月24日、63歳没)
戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。
5月24日は、この人の命日です。
数多くの時代劇ファンを魅了する殺陣は
「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と評されます。
新潟県長岡市出身。
新潟県長岡市西新町で、
父・目黒多七、母・ミカの長男として誕生
(姉と妹に挟まれた長男ですが、
実の長男は早世しており正確には次男)。
13歳で父を亡くし、その後は母によって育てられます。
長岡工業学校卒業後、
映画俳優を目指し、
1932年市川右太衛門プロダクションに研究生として入団。
最初の芸名は長岡秀樹。
東亜キネマを経て、
役者の腕ではなく野球の巧さ(ショートの守備は映画界でも白眉だったという)を買われて
日活に引き抜かれ、
『血煙り荒神山』でデビュー。
しかしもっぱら
「鉄棒組(大勢で「御用!御用!」と連呼する「捕り手」集団の一人)」に甘んじていました。
1934年、長岡が20歳のとき、
右太衛門プロから独立し枚方市に映画製作会社「亜細亜映画」を設立したばかりだった映画監督白井戦太郎に見出され、
白井の勧めで近衛十四郎と改名。
4月には亜細亜映画第1回作品『叫ぶ荒神山』に主演。
吉良の仁吉役でデビューを飾り、
続けて翌月には『曲斬り街道旅』でも主演を務めます。
その後、
亜細亜映画は第一映画社と改称、さらに近衛の主演作を1本撮るも興業的に不振に終わり、
9月に発生した室戸台風で撮影所が倒壊、
資金難から再建不能に陥り、結局、この年限りで倒産。
1935年、
21歳で白井戦太郞とともに大都映画社に移って主演。
剣戟の看板スターとしての名声を獲得。
1936年、
兵役法の命により、新潟の新発田歩兵第16連隊に入隊。
1939年、映画界復帰。
1941年、第二次世界大戦が勃発、
この年に女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚。
1942年、28歳。
戦時映画社統合によって大都映画社は
日活、新興キネマとともに合併され大日本映画製作株式会社(大映)に。
大映は既に
剣戟四大スター(阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門)を抱えており、
近衛の出番はなく、
これに加え、フィルム統制により製作本数が激減したことにより
多くの俳優が仕事を失うという状況下、
近衛は妻・やゑ(女優・水川八重子)と大都映画の退職金2人分を投じ、
一座を結成して国内各地を実演興行して回りました。
座員は大都映画から引き連れた俳優に浅草の軽演劇から名うての役者を数名引き抜き、
多い時には総勢50名近い大所帯でした。
7月23日、長男・浩樹(こうじゅ。のちの松方弘樹)誕生。
そのさ中に再び召集を受け出兵。
第19師団を有した朝鮮は羅南で終戦を迎えました。
その後は中国・延吉に送られ、
1年9か月の間、捕虜生活を送りました。
劣悪な環境で栄養失調になり発疹チフスや壊血病に苦しんだといいます。
その後シベリアへ連行される予定でしたが、
食事を摂らず痛がる演技をするなどして、連行を逃れています。
1946年、赤羽で復員から除隊。
1947年8月15日、次男・祐樹が誕生。
その後は実演を再開。
多くの映画俳優が映画界に復帰する中、
近衛は1952年まで10年間にわたり、実演興行に拘り続けました。
しかし、1940年代末期、
GHQによるさまざまな規制が緩和され、
実演興業でも浅草を中心にストリップが息を吹き返すと、
客足は女剣劇に流れ、剣戟芝居の人気は衰退の一途を辿っていきました。
戦後は新東宝からカムバック。
『江戸群盗伝』『修羅桜』などに主演。
時代劇のチーフ監督、大曾根辰夫は近衛を気に入り、スカウト。
1954年には正式に松竹に移籍、
時代劇で悪役筆頭や主役と同等の立ち役を務め、
阪妻亡き後の松竹時代劇の屋台骨を高田浩吉と支えることに。
1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』で本格的に主演を務め、
近衛を主演スターとして売り出そうとなった矢先の
1959年、松竹は時代劇映画制作からの撤退を発表。
同じころ、
邦画会社で観客動員No.1となっていた東映は、
社長の大川博が「日本映画の収入の半分は東映がいただく」と豪語。
その一方でテレビの普及で動員数は減少傾向を見せ始めます。
1959年、
1社による「2系統2本立て配給」を目指し、
前年に社内で発足していた「東映テレビ映画」が「第二東映」と改称され発足。
役者不足を補うため、
近衛は同じ松竹の高田浩吉や東宝の鶴田浩二らと共に東映に引き抜かれ、
1960年、東映に移籍。
同時期に移籍した品川隆二、黒川弥太郎とともに第二東映の看板スターとして活躍。
その後、
その主演作は白黒作品ばかりではありましたが、
ヒーロー然としないニヒルな浪人役など阪東妻三郎的ともいえる役柄を得意とし、
人気俳優となっていきます。
同年、長男の弘樹も東映で主演デビュー。
『柳生武芸帳』シリーズ(1961年 - 1963年)で主役の柳生十兵衛を演じます。
剣戟スターとしては器用ではないが異様な迫力が人気を呼びました。
また速い剣捌きで迫力ある殺陣を魅せるため、
通常より柄(つか)の長い刀を使用したのも
近衛の発案によるものでした。
長いブランクからの映画界復帰、移籍だったため、
既に確固としたスターシステムを確立していた東映では、"よそもん"、"外様"扱いされ、
二線級スターに扱われました(大作映画では準主役や敵役筆頭などの扱いで、主演がほとんどない)。
1964年に東映京都撮影所所長に復帰した岡田茂が、
映画での時代劇製作の打ち切りを宣言して、
時代劇を徐々にテレビに移しつつ、
任侠路線への転換を推進。
時代劇に関わる
片岡千恵蔵や市川右太衛門、月形龍之介ら大物スターや、
内田吐夢、伊藤大輔、田坂具隆、比佐芳武らが専属契約を解除され、
松田定次や河野寿一、佐々木康らはテレビに移されました。
近衛自身は1965年、49歳でテレビに進出。
既に全盛期は過ぎていましたが、
NETテレビ(現・テレビ朝日)で放送されたテレビ時代劇『素浪人 月影兵庫』に主演。
近衛の鬼気迫る立ち回りに加えて
品川隆二演ずる焼津の半次とのコミカルな掛け合いが人気となり、
ようやく茶の間でも人気を得ました。
素浪人シリーズは高視聴率のとれる人気番組として
以降1969年『素浪人 花山大吉』と続きましたが
持病の糖尿病、高血圧が悪化、
1970年末、ドクターストップがかかり一旦終了を余儀なくされます。
息子の松方弘樹が岡田茂の個人預かりだったこともあり、
1971年、『日本やくざ伝 総長への道』と『暴力団再武装』の二本のヤクザ映画に出演した後、
東映を退社し、フリーに。
1973年4月に『素浪人 天下太平』で素浪人シリーズを再開、
同年10月には次男・祐樹と共演した『いただき勘兵衛 旅を行く』と継続しましたが、
2年3ヶ月のブランクで既に最盛期の人気を取り戻すには至らず、
近衛自身も「愛着はあるが、進歩が無い」と、
自らこうしたコミカルな路線からの卒業を申し出て
この作品を最後にシリーズは終了。
テレビ出演の傍ら、
映画やテレビ時代劇のゲスト、舞台への出演も精力的にこなしています。
特に映画では
1967年12月公開の大映作品『座頭市 血煙り街道』(監督:三隅研次)に
主演の勝新太郎に請われて出演。勝演じる市と雪の降る中で繰り広げた迫真の殺陣シーンが評判に。
テレビのレギュラーシリーズ終了後は単発でのゲスト出演などをこなしますが、
体力の低下が著しく、
1976年には事実上引退状態となり、
晩年は各種の会社経営者として余生を送りました。
トルコ風呂(ソープランド)やモーテル経営者でもあり、
趣味の釣りを活かして釣り堀の経営も行いました。
釣りに関してはロケには必ず釣り竿を持参するほどの愛好家で、
日本各地で釣りを楽しみました。
また、息子二人同様、酒豪で鳴らしました。
引退状態となった理由としては健康状態に加え、
この年の7月25日に
心の支えであった妻のやゑが胃がんのため死去したことが大きく影響。
近衛は妻が亡くなる前に1度倒れています。
糖尿に加え肝硬変や高血圧を抱えており、
この時医師から
「あなたの心臓は100までも生きられる心臓やけど、今度倒れたら生命に関わる」と宣告され、
飲酒を厳しく戒められていました。
しかし生きる張り合いを失ったことで、
この直後から、それまで節制していた酒を浴びるように飲むようになり、
釣り三昧の毎日となりました。
釣りの最中も傍らには酒瓶が転がっていたといいます。
京都府亀岡市の5千平方メートルの山林に、
長男・松方と2000万円を共同出資し釣堀「天国」を作りました。
1977年5月20日、
その釣堀「天国」で松方とヘラブナ釣りを楽しんでいた最中に脳内出血で倒れ、
近所の南丹病院に搬送されました。
一時意識を取り戻すも
左半身が麻痺、収縮期血圧は260を示します。
脆くなった血管は次々と切れていく状態で近衛の病状は悪化の一途を辿り、
22日夜からは昏睡状態となりました。
1977年5月24日午前1時55分、
意識が戻らないまま近衛は息を引き取りました。
63歳没。
(著名な家族)
松方弘樹(長男)
目黒祐樹(次男)
目黒大樹(孫)
仁科克基(孫)
仁科仁美(孫)
十枝真沙史(孫)
近衛はな(孫)
(近衛十四郎)
「ガメラ 大怪獣空中決戦」
「ガメラ 大怪獣空中決戦」は、1995年の日本映画。監督は金子修介、特撮には、のち本編監督にも進出することになる樋口真嗣。
昭和ガメラは、その風貌からいっても、ハードな怪獣世界の住人なのが自然ではないか、と思っていたのだが、ほとんどのシリーズ中、ガメラは子供の味方というしがらみにとらわれて、なかなかハードな方向に行くことができなかった。唯一、大人の鑑賞に堪えられる内容で、かつ子供が絡まない作品は、「ガメラ対バルゴン」だけだったが、内容に比して、皮肉なことに、ガメラの登場シーンが少なかった。
内容、満足感も加味して、ようやくガメラは、子供の味方というしがらみから解放され、ハードな怪獣世界に活路を見出したのが、この平成ガメラ三部作ではないかと。
そして、そのハードな怪獣世界の敵対怪獣として、平成ガメラ第一作において、再生したのが、人喰いというおぞましさを持つ、昭和ガメラの大戦怪獣にあって、ひときわ強烈な印象を与えたギャオスだったのも、偶然ではない気がする。
かくして、平成ガメラは、幻の大陸アトランティスの超古代文明が生んだ超生物で、のち、神話的世界の神獣としてのテーストも付け加わることになる存在として、甦った。このテーストは、怪獣とは、本来怖い、恐ろしいもの・・・という原則にそった再構築だったので、小生は、抵抗なくワクワクする気持ちで鑑賞した。
ガメラが本来内包するハードな部分を理解せずに、新作「小さき勇者」を作ってしまったことは、本来あるべきガメラ映画の流れに逆行、昭和ガメラに先祖返りさせてしまったことに失敗があったと。また、その造形も、子供におもねる「あざとさ」があったことにも、抵抗があったと昭和・平成ガメラシリーズのほとんどを見た小生は思ったのでしたよ。
また、この作品でヒロインの一人を演じた中山忍さんは、やはり、忘れられない存在。ガメラといえば、彼女を思い出すけれど・・・ここでの活躍をみたら、一遍にファンになってしまったことはいうまでもない。「ガメラ3」での再登場は、感涙ものだったのだが、これは余談になりそうなので、触れるのはこの辺までということで・・・・。
#平成ガメラ第一作
#大怪獣空中決戦
風よー光よーたー!
忍法獅子変化ー!
ライオン丸見参!!🦁✨
フジテレビ系
ピー・プロダクション制作特撮ヒーロー番組
怪傑ライオン丸🦁✨
放映期間
1972.4.1~1973.4.7
毎週土曜日19:00~19:30
(全54回)
🔵昭和のジェットコースター
🟢後楽園ゆうえんち/1960
🟣赤木圭一郎と笹森礼子のコンビ
🔷当時人気の赤木圭一郎は撮影所内でゴーカートに乗りアクセルとブレーキを間違え鉄扉に激突し21歳の若さで亡くなりました。衝撃的な事故でした。
黛ジュンさん。
(1948年5月26日-)
歌手、女優。
5月26日は、この人のお誕生日です。
東京都調布市出身。
身長160cm。
1960年代後半を中心に、
独特のパンチの効いた魅力的な歌声でヒットを飛ばしました。
実兄は作曲家の三木たかし。
世間が認識しているよりも活動開始は古く、
1956年、8歳から歌手活動を始めています。
品川区立冨士見台中学校卒業後、
本名で各地の米軍キャンプをジャズ歌手として巡りました。
1964年に「渡辺順子」の名でデビューするもヒットせず、
1967年に石原プロモーションへ移籍。
作曲家の黛敏郎のファンだったことと、
パンチのある歌唱力から「黛ジュン」と改名し、
東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)から「恋のハレルヤ」で再デビュー。
ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で一気に注目を集めます。
グループサウンズのブームと同時代に活躍したこととサウンドから、
中村晃子らとともに一人GSとも呼ばれました。
「土曜の夜何かが起きる」ほかの曲は、一人GSの有名曲。
鈴木邦彦が、作曲を担当することが多数。
兄の三木たかしが作曲したヒット曲も。
1968年にリリースされた「天使の誘惑」は更なる大ヒットとなり、
その年の第10回日本レコード大賞に輝きました。
1967年から1968年の2年間でレコード売上が500万枚を記録。
自身のヒット曲が主題歌となった映画にも出演。
「天使の誘惑」「夕月」では主演に抜擢、売れっ子女優にもなりました。
また年末恒例のNHK紅白歌合戦では、
1967年の第18回から1970年の第21回まで、
4年連続で通算4回の出場を果たしています。
1970年2月1日を以って、
橋幸夫が所属するワールド・プロへ移籍。
同年にスタジオミュージシャンの江藤勲と婚約、結婚し一旦引退。
しかし、江藤の家庭内暴力などが原因で、1973年に離婚。
その後本格的に芸能界へ復帰。
しかし以前のような人気は得られず低迷したため、
1980年にはレコード会社をCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)へ移籍、
「風の大地の子守唄」などを発表。
さらに、
1983年には日活ロマンポルノ「女帝」にも出演。
1993年には久々の新曲「すべてがさよならになる」を発売。
2005年には、
1970年に東京サンケイホールで行われた『リサイタル'70』などがCD化。
またドラマーの石田秀雄と2回目の結婚となるも、1994年に再び離婚。
2001年、
作詞家の里村龍一と婚約を発表し話題を集めましたが、
里村がその後知り合いのイタコに相談したところ、
「二人の相性が最悪。5年後には歌を辞めるように」と告げられたことがきっかけで、
里村から別れを切り出され、
わずか2か月で婚約破棄される羽目に。
2009年5月11日、兄の三木たかしが64歳で死去。
同年1月13日、
『NHK歌謡コンサート』で30年ぶりの兄妹共演を果たしてから、わずか4か月後の悲報でした。
実兄の最期を看取ることは出来ず、
「兄のギターで歌っていた幼い日々や、
初めて兄の作品を吹き込みした時のことが、
次々と甦ってきて今は言葉にできません。
申し訳ありません」とFAXでコメント。
その後、5月19日の通夜の席では
「今年3月初めに余命の告知を受け覚悟はしていましたが、
あまりにも突然でまだ受け止めることが出来ません」
「私は兄に褒められたくて一生懸命歌ってきた。
兄には『私はこれからどうしたらよいのか教えてちょうだい』と言いたい」と
終始大粒の涙を流しながら、悲痛な表情を浮かべていました。
それから1か月後の同年6月16日、
『NHK歌謡コンサート -特集・三木たかしの世界-』が生放映。
黛は亡き実兄との想い出話を語った後、
三木の作曲で大ヒットとなった「夕月」を、哀しみを抑えて歌唱。
その後も、
舞台やディナーショーを中心に歌手として活躍していましたが、
2011年1月、
約5年前に発症した原因不明の喉の病気で歌声が思うように出せなくなり、
歌手活動休止を示唆するコメントを表明。
同年2月には黛自らが作曲した「博多山笠女節」を長山洋子に提供し作曲家としてデビュー。
しかしその後、
喉アレルギーの原因が判明し治療を続けた結果、
2012年に入ってからはほぼ完治。
また自身が作曲した新曲も発売するなど、
活動を本格的に再開。
(黛ジュン)
左卜全さん。
(1894年2月20日-1971年5月26日、77歳没)
俳優、オペラ歌手。
5月26日は、この人の命日です。
異母姉は三ヶ島葭子。
埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生誕。
三ヶ島家は代々、
埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官でしたが、
祖父が分家して一家をなしました。
1901年(明治34年)に北野小学校に入学。
1902年(明治35年)、
父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。
まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移りました。
1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。
京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るも
1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入。
1909年(明治42年)、高等科を卒業後、
牛乳配達や新聞配達、土工など様々な仕事に就き、
この間、
苦学して立教中学校(現・立教池袋中学校)に短期間通いましたが中退。
1914年(大正3年)、
「帝劇歌劇部」に第3期生として入り、
オペラ歌手として歌唱法やダンスを学びました。
当時は舞踏家を目指していましたが、
帝劇洋劇部が解散したことにより断念。
小さな劇団を転々としました。
1920年(大正9年)、関西に移り「新声劇」に入ります。
1926年(大正15年)、「松旭斎天華一座」に入り、
三ヶ島天晴の芸名で活躍。
満州、中国まで巡業に出ました。
1935年(昭和10年)、東京へ戻り、
経営者の佐々木千里に誘われて新宿の「ムーランルージュ新宿座」に入り、
以来、
左卜全の芸名で老け役の喜劇俳優として活躍しているところを
松竹に引き抜かれて「移動演劇隊」に入りました。
しかし、
この頃から左脚に激痛を伴う突発性脱疽を発症してしまい、
医者からは脚の切断を勧められましたが、
俳優以外に天職が無いと考えていた卜全は
あえて激痛を伴う脱疽と共に生きる決意をし、
以後は生涯にわたり撮影時以外は移動に松葉杖を使うようになっていきました。
1945年(昭和20年)、
敗戦後に水の江滝子の「劇団たんぽぽ」に加わりました。
1946年(昭和21年)、
52歳にして当時37歳だった遠い親戚の女性(小暮糸)と結婚。
同じ頃、
小崎政房を座長とする「劇団空気座」の結成にも参加。
1949年(昭和24年)、
「空気座」が解散すると卜全は小崎の紹介で「太泉映画大泉スタジオ」(のちに合併して東映)に入りました。
同年、
今井正監督の『女の顔』にて55歳で銀幕デビュー。
山本嘉次郎監督の『脱獄』での飄々とした演技が目に留まり、
黒澤明監督の『醜聞』にワンシーンながら出演し、存在を印象づけました。
以後、
フリーとなってからはとぼけた老人役で手腕を発揮し、
笠智衆と並ぶ老け役の名手として活躍。
黒澤に重用され、『生きる』『七人の侍』など、計7本に出演。
自他共に認めていた代表作は『どん底』でのお遍路役。
1970年(昭和45年)、
日本グラモフォン(現・ユニバーサルミュージック)より『老人と子供のポルカ』で歌手デビュー。
1971年(昭和46年)、
癌のため5月26日に77歳で没。
死の床の際、
最期を看取った妻の糸が「一郎さん」と呼びかけたのに
「は〜い」と小さな声で応えたのが卜全の最後の言葉でした。 
(左卜全)
モンキー・パンチさん
(1937年5月26日-2019年4月11日、81歳没)
漫画家。
5月26日は、この人のお誕生日です。
東京工科大学大学院修士課程修了。
有限会社エム・ピー・スタジオ代表(初代)、
デジタルマンガ協会会長(初代)、
大手前大学人文科学部教授、
大手前大学メディア・芸術学部教授、
社団法人日本漫画家協会理事、
専門学校札幌マンガ・アニメ学院顧問などを歴任。
北海道厚岸郡浜中村(現・浜中町)出身。
実家は漁師。
学生時代は地元唯一の医師である道下俊一の元でレントゲンの助手などを行っており、
漫画で患者を和ませていました。
北海道霧多布高等学校を経て、東海大学専門学校電気科中退。
手塚治虫の漫画の影響を受けて、漫画を描き始め、
高校卒業後の1957年に上京、
1959年から「加東一彦」のペンネームで貸本専門の出版社で執筆をしながら、
弟の加藤輝彦と、もう一人の友人と同人活動を行っていました。
上京後、
アメリカのパロディ雑誌『MAD』の影響を受け、
アメコミ風に作風が変化。
それが『漫画ストーリー』(双葉社)の清水文人編集長の目に留まり、
1966年に、
「ムタ永二」のペンネームにて『プレイボーイ入門』(『漫画ストーリー』)で本格的なデビュー。
「マニア・ぐるうぷ」名義で、
「摩周仙二」「霧多永二」などが参加しているようにみせていましたが、
実際はすべて加藤一人で手がけました。
1966年、
清水編集長の命令でペンネームを「モンキー・パンチ」に改名。
清水が新人に適当に付けた名前なので本人は気に入っておらず、
1年ほどで変えるつもりでしたが、
この名義で翌年に発表した作品が大ヒットしてしまったので変えられなくなりました。
なお、
清水がこの時期に新人に適当に付けた外国人風の名前には
バロン吉元やケン月影など。
1967年5月、
バロン吉元やケン月影など『漫画ストーリー』の新人漫画家を中心として刊行された
『増刊漫画ストーリー アクション特集号』の表紙絵に抜擢され、
8月に清水を編集長として新たに創刊された青年向け週刊漫画雑誌
『週刊漫画アクション』の表紙絵も引き続いて担当。
また、
『漫画アクション』8月10日創刊号より
「ルブラン原作」表記で『ルパン三世』の連載を開始。
これが現在も継続してアニメ化されるほどの大ヒットとなり、
出世作にして代表作となりました。
1980年代以降、
サンディエゴ・コミックコンベンションにてインクポット賞、
ローマ・コミックフェスティバルROMICS金賞、
AMD Award功労賞を受賞し、国内外から注目されています。
2003年4月、66歳にして、
「きちんとした勉強をしないと、これ以上先に進めない」と考え、
東京工科大学大学院メディア学研究科メディア学専攻(現・バイオ・情報メディア研究科メディアサイエンス専攻)修士課程(現・博士前期課程)に入学し、
2005年3月に修了。
2005年4月より、
大手前大学人文科学部メディア・芸術学科マンガ・アニメーションコース教授(2007年4月より、メディア・芸術学部マンガ・アニメーション系)。
2010年5月より、東京工科大学メディア学部客員教授に就任。
2015年、東京アニメアワード2015・アニメ功労賞を受賞。
2016年、北海道新聞文化賞を受賞。
2017年、専門学校札幌マンガ・アニメ学院顧問に就任。
2019年4月11日、誤嚥性肺炎のため死去。
81歳没。
(モンキー・パンチ)
昭和32年頃の東京・有楽町のそごう百貨店大食堂のウェートレスさん
こんな可愛い制服でした。
フランク永井の「有楽町で逢いましょう♪」の歌が流行っていた時代でした。
テーマ曲がなぜか、今も浮かぶ😃💡
ソラン、、知らん?

イルカ姉さん。子供の頃に初めて聞いた彼女の曲、「サラダの国から来た娘」🎶がめっちゃ気に入ってファンになりました。御年72歳ということですが、まだ20代だった頃と区別がつかないくらい(もはやアニメのキャラクターレベル😱❓)経年劣化が見られませんね。まさに奇跡の70代‼️ひときわキュート、美人、という顔立ちではありませんが、かなり年上の方で恐縮ですが可愛らしくて私は好みのタイプ。ずっと彼女にしたいNo1でした💕

お正月の懐かしい風景🌟羽根つき🌟の羽根にソックリなツクバネ木の種と,実際に羽根の黒い玉に使われてついるムクジロの種。

2023/ 5月27日は漫画家 #長谷川町子 先生のご命日。「天才少女漫画家」の冠で15歳でデビューを果たし、戦後すぐに「#サザエさん」執筆を開始。「#ワカメちゃん」など、磯野家家族単体のスピンオフ的な作品も。テレビアニメは1969年にスタート、今年放送54年目を迎えます。合掌。

子供の頃食堂車に乗るのが夢でした

懐かしき 昭和の
女優,タバコ・ポスター
1950~60年代の花形スター女優は
動くアクセサリー
《タバコ・ポスター》
に競って出演してました。
私もハタチ(昭和35年,20歳)になって当時、有馬稲子の美しいポスターに魅入られて「スリーエー」から喫煙するようになりました!…回想録…
広末涼子💃♥️
稲森いずみ💃♥️
反町隆史🕺🖤
武之内🕺🖤
ドラマ「ビーチ・ボーイズ」より
今井雅之さん
(1961年4月21日-2015年5月28日、54歳没)
元自衛隊員(最終階級:陸士長)、
俳優・演出家・脚本家・タレント・エッセイスト。
5月28日は、この人の命日です。
身長178cm。
空手道弐段、柔道初段、銃剣道初段。
兵庫県豊岡市出身。
代表作は自身が「自分の魂」と形容している
神風特別攻撃隊が主題の演劇・映画『THE WINDS OF GOD』や、
自身の出身地で撮影した初監督映画作品『SUPPINぶるうす ザ・ムービー』など。
幼い頃から映画(特に洋画)やテレビドラマが好きで、
特に千葉真一の熱狂的なファンで、
テレビドラマ『キイハンター』に影響され、
友達と『キイハンター』ごっこで遊ぶ時には千葉に扮していました。
兵庫県立豊岡高等学校卒業後、
俳優になろうと志しますが、
俳優になりたいのであれば自活するよう自衛官の父に言われ、
1980年4月陸上自衛隊に一般曹候補学生で入隊。
同年12月滋賀県今津町の第3師団第3戦車大隊(今津駐屯地)に配属。
上官に俳優になりたいため辞めたい旨を告げ、
「自衛隊は俳優養成所ではないぞ」と叱られ、
1981年9月、陸士長で自己都合退官。  
1986年3月法政大学卒業。
1986年奈良橋陽子演出『MONKEY』にて演劇デビュー。 
1988年に特別攻撃隊が主題の演劇「リーインカーネーション」の初演、
これは後に今井のライフワークともいえる『THE WINDS OF GOD』に発展。
映画『静かな生活』のストーカー役で1996年日本アカデミー賞優秀助演男優賞受賞。
当初奈良橋の主宰するアップスアカデミーに所属していましたが、
『THE WINDS OF GOD』のニューヨークオフ・ブロードウェイ公演が
頓挫したことに端を発する事務所とのトラブルから独立。
1997年、エル・カンパニーを立ち上げ。
1998年幾多のトラブルに見舞われながらも、
オフ・オフ・ブロードウェイで公演、成功を収めます。
2008年2月1日、エグゼに移籍。
エル・カンパニーは今井の著作権管理会社として存続。
2009年10月1日、オスカープロモーションに移籍。
2014年末に腸閉塞のために体調を崩し
医師から「余命3日」を宣告され緊急手術を行い、
術後には回復した事をブログで報告。
2015年4月21日、ブログにて、
大腸癌のため、主演舞台『THE WINDS OF GOD』を降板することを発表。
同年4月30日には記者会見を開き、
3月から入院中で、抗がん剤治療をしており、
「ステージ4」の末期ガンであることを明かしました。
長らく健康診断を受けていなかったこともあり、
発見時には既に手の施しようのないほど病状が悪化。
舞台そのものは降板したものの、
新国立劇場公演千秋楽の5月5日にはステージに登壇し、
舞台挨拶を行い復帰への思いを語りました。
しかし、
その顔立ちや体からして明らかに痩せこけており、別人のような姿になっていました。
その挨拶から23日後の5月28日午前3時5分、
入院先の病院で家族に看取られながら死去。
54歳没。
謹んで、今井雅之さんのご冥福をお祈り致します。
(今井雅之)
岡田眞澄さん。
(1935年9月22日-2006年5月29日、70歳没)
フランス生まれの日本の俳優・タレント。
5月29日は、この人の命日です。
身長184cm。
愛称は「ファンファン」。
日本人画家岡田穀(1888年生)と
デンマーク女性インゲボルグ・シーヴァルセン(仕立て職人の娘、人魚姫の像の体のモデル・エリーネ・エリクセンの妹)を両親に持ち、
フランス・ニースで生誕。
2人兄弟の次男。
兄はタレントのE・H・エリック。
父親はパリで暮らしたあと、
画家仲間のシャイム・スーティンを追って南仏カーニュ=シュル=メールに移り、
1928年にインゲボルグと結婚後、
ニース近くのラ・ゴードに転居し、
水彩画と交換に村民から施しを得るような貧しい生活を送りました。
絵の具屋の店主の按摩をして絵具代を稼ぐような窮乏生活の中、
創作活動を続け、1936年には岸田国士宛に絵を送って銀座の日動画廊で個展を開催。
第二次世界大戦が始まった1939年に戦火を避けて
一家で日本統治下の台湾に移住し台北で国民学校に通いましたが、
日本帰国後、父親は特高警察に執拗に追われ、
母親は耐えきれず日本を去りました。
戦後は
日本・東京都赤坂の引揚者住宅に落ち着き、
オットー・セバルセン(Otto Sevaldsen)の名で
横浜のインターナショナルスクール、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに学びます。
戦後まもなく、
兄がトニー谷のスカウトで芸能界に入り、
日劇ミュージックホールの舞台に立つようになったこともあって、
岡田も谷の勧めでバレエのレッスンを受けたことが。
また、
兄とともにミュージックホールの座長格だった泉和助に師事して修行。
その後、
赤坂へ日活ニューフェイスの試験を受けに行った際に宝田明と知り合います。
同じく第6期東宝ニューフェイスに合格。
東宝演劇研究所に入ります。
藤木悠・宝田明・佐原健二などと同期でしたが、
映画製作を再開した日活を選び、
1955年公開の『初恋カナリア娘』でデビュー。
1957年(昭和32年)に
日本初の男性専門(後に女性も所属)のモデル・クラブである
SOSモデルエージェンシーを菅原文太ら総勢8名で結成。
日活退社後に渡欧した際ルキノ・ヴィスコンティ監督に『山猫』への出演を迫られるも断り、
結果アラン・ドロンに配役が決まります(TV番組での本人談)。
1961年には幼少期に暮らしたラ・ゴードとニースを訪問し、
ニース市長ジャン・メドサンより市民章を受賞。
日活退社後はにんじんくらぶ・劇団欅を経て、
以後、
数々のミュージカルの舞台作品やテレビやショーといったバラエティ番組の司会者などで活躍し、
幅広く芸能活動を行います。
特に、
『とんねるずのみなさんのおかげです』の一コーナー「仮面ノリダー」では、
敵役「ファンファン大佐」を演じたことで、
幅広い年齢層から人気を得ました。
出演が決まった際には、
1980年代にCMに出演した縁で靴のマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、
愛用したという逸話があります。
萩本欽一とは古くから親交があり、
大映ドラマ『シークレット部隊』の第一回放送では
萩本と悪役でゲスト共演を果たし、
後に始まった『欽ちゃんの仮装大賞』でも
長年に渡りレギュラー審査員を務めました。
歌手としても、
1980年、松任谷由実のアルバム『SURF&SNOW』収録曲「恋人と来ないで」に
ゲストボーカルとして参加、
松任谷とのデュエットを披露。
中年以降は口髭を蓄えてヨシフ・スターリンに酷似した容貌となり、
実際に演劇でスターリンを演じたことが(『夢、クレムリンであなたと』・1991年初演)。
英語のみならずフランス語も堪能なため、
ミス・インターナショナルでのホスト役を長らく務めました。
司会業でもフェミニストぶりが様になるダンディーさが好評でした。
1978年、
第1回日本アカデミー賞の総合司会の大役を務めたり、
変わった所では1994年12月10日にパシフィコ横浜で開かれた
新進党の結党大会の司会を務めたことも。
「ファンファン」という愛称は、
当時の人気俳優、ジェラール・フィリップの当たり役および愛称にあやかって名づけられたもの。
『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系列)の
「仮面ノリダー」のコーナーで「ファンファン大佐」というキャラクターに扮したことから、
世間一般にも広まりました。
2005年7月23日、食道癌が見つかり入院。
レギュラー出演していた中京テレビ(日本テレビ)のクイズ番組『サルヂエ』(「サルさん」として藤井隆と共に司会を担当)は、
2005年7月11日放送分で降板。
一時期快方に向かい芸能活動を再開、
レギュラーだった同局系の『午後は○○おもいッきりテレビ』にも徐々に出演するように。
しかし同年秋にリンパ節へのがんの転移が判明し、再び入院。
2006年5月29日午前4時5分、食道癌のため東京都内の病院で死去。
70歳没。
謹んで、岡田真澄さんのご冥福をお祈り致します。
(岡田真澄)

松田優作・さん1984年頃のCM🌟『焼酎貴族TRIANGLE.by.Kikkoman‼️』🌟キッコウマンが販売したのは1984年~2006年迄,以降サッポロビールから販売。 — 場所: 山梨県 甲府市

昭和時代の運動会の障害物競走と言えば、パン食い競走でした。

東京オリンピック(1964年)女子体操で、「五輪の名花」と評されたチャスラフスカさん。 大人の色香を感じさせてくれました💛

【横山やすし・西川きよし】
横山やすし・西川きよしは、横山やすしと西川きよしによる、かつて吉本興業に所属し活動していた漫才コンビ。司会者としても活動していた。コンビ解消を繰り返していたやすしが中山礼子・八多恵太の勧めで吉本新喜劇の役者だったきよしを誘い、1966年5月21日にコンビ結成。コンビとしての初舞台は同年6月1日の京都花月[1]。1960年代の演芸ブームで世に出て人気者となる。その後1980年代に至るまでテレビ番組の司会などで活躍。1980年代初頭の漫才ブームでは東西のリーダー格として頂点に達した。1986年、きよしが国会議員(参議院)に当選して以降は活動休止状態となった。コンビとしての最後のテレビ出演は、『MAGMA30』での「二府四県対抗なんでもコンテスト」の司会だった。一方、やすしは度重なる不祥事で活動機会が激減し、やがて吉本興業の専属契約を解除。これによってコンビは事実上の解散状態となった。再結成のないままやすしは1996年1月21日死去。きよしは2004年に参議院議員が任期満了となった後も、レギュラー番組を持つなど、第一線で活躍している。
きよしはやすし死去後、吉本興業の後輩で、漫才師の大平サブロー(元太平サブロー・シロー)扮する「やすし」とのコンビで「やすし・きよし」をエキシビジョン復活させた。このコンビはその後も、演芸関連の特別番組などで、不定期に活動をしている。他にきよしは「あの世から帰ってきた」という設定でCGによって再現されたやすし(声はサブロー)と漫才をしたこともある。
🎙🎙🎙👉👉 https://youtu.be/JtC6RU0bin8?list=PLHSixGtyc2qF6V0K4NUu2mnB7uYWPfzkA

ケンとメリーの愛のスカイライン。

1ドルは360円だとずっと信じていた。

おはようこどもショーの愛川欽也さん(ロバクン)

小池アナの名調子「10問正解して、

夢のハワイへ行きましょう!」

こまわり (演 三ツ矢雄二さん)
八丈島のキョン! 【 千葉県の害獣 】
小学生の頃、少年チャンピオンがバカに面白い頃があって、
「がきデカ」が大人気でした。
お隣の勝浦市に当時「行川アイランド」というのがあり、仮面ライダーやV3、レインボーマン、ウルトラマン80、ジャスピオンのロケ地として大人気のアミューズメントパークでした。
昭和50年前半に「キョン」を飼育していた行川アイランド。がきデカで有名なキョンかと人気でしたが、閉園し、行川アイランドはなくなったにも関わらず、山づたいに脱走したキョンは、自然繁殖を始めます。
鹿のような愛くるしい顔。
しかしながら、その食欲は意地汚く枝豆の新芽はかじりつくされ、ほうれん草も新芽のうちにかじります。
茄子もひとかじり、とうもろこしも体当たりして木を倒し、食べては次に、食べてはひとかじり。
夜、近所から聞こえる地獄からの叫びのような声、それがキョンの声。
房総半島は低山の丘陵が続き、各地で野菜を育てている為、徐々に生息範囲は広がり、成田や北総にまで生息範囲は広がりました。
ストロボの付いた、点灯式の装置を仕掛ければ怖いらしく今のところ寄り付きませんが、我が物顔で傍若無人なキョン。
こまわりに「死刑!」とやって貰いたいものです。
(がきデカ)

昭和時代.八千草薫さんヤマハ宣伝ポスター🥰🐼❤️

最近古くなりすぎたせいかこの手の喜劇テレビ放映しなくなって寂しい限りです。

1970年に、少年サンデーで、こんな漫画の連載が始まり、テレビアニメにもなった。

草地や公園に必ずあった土管。

高度成長期の産物だったのか…