【 仏教の教え!! 】Apex product

【お寺から日本を元気にしましょう!!】

今日も、地球上全ての、生命に合掌

 

お釈迦さまは、お生まれになって、すぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差し

「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたと言われております。

このお言葉に表されるように、「この世に生きるものには皆それぞれの価値があり、尊いものである」という意味を象徴するものです。「人は誰もが、かけがえのない命を生きている」感謝して生きましょう。

 

-  青空と向日葵の会 Apex product 社員一同 -

初春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は格別のお引き立てをいただき、ありがたく御礼申し上げます。 さて、このたび弊社は創立10周年を迎えるに至りました。 皆様方のご支援、ご厚情による賜物と深く感謝いたしております。
とうとう、10周年を迎えることができました。2013年の3月から数えて、10年が経ったわけです。どんなことでも、毎日10年やり続けられたら、一丁前になれるとある作家の方が言われていました。このことばを、一番信じていたのは、私達だったのかもしれません。大変なようで意外に短い期間のようでしたが、そして、とうとう待ち望んでいた10年に到達しました。これもひとえに皆様のおかげであると感謝をしております。の10年に向けて新しいスタートを切るにあたりどのようなことが必要になってきているかを日々考えてきました。私どもは伝えること、元気になること、頑張りたい人たちのきっかけとなり、力いっぱい背中を押す役割になることができますよう、幅広い視野を持ち常にチャレンジ精神を持って、皆様のご期待にお応えできるよう従業員一同最大限の努力をしてまいります。今後も格別のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2023年 3月吉日 Apex product 代表 柳伸雄

★ 般若心経 新訳


超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。

意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。

気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』

心配すんな。大丈夫だ。

【 般若心経 全文と訳 】

般若心経は古くから困ったとき日本人のお守りとして使われてきました。
あの耳なし芳一も亡霊に連れて行かれるところを、和尚さんが芳一の全身に
このお経を書いて守ってもらったのでした。(耳にだけ書くのを忘れてしまった)

ちびまる子も困ったとき般若心経を唱えていましたね。

般若心経 (三蔵法師玄奘訳)

かんじざいぼさつ
観自在菩薩             (観音菩薩が、)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時     (深遠な知恵を完成するための実践をされている時、)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空           (人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本
             質的なものではないと見極めて、)
どいっさいくやく
度一切苦厄             (すべての苦しみを取り除かれたのである。)
しゃりし
舎利子                 (そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子
             よ、)
しきふいくう
色不異空               (形あるものは実体がないことと同じことであり、)
くうふいしき
空不異色               (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在
             するものである。)
しきそくぜくう
色即是空               (したがって、形あるものはそのままで実体なきもの
             であり、)
くうそくぜしき
空即是色               (実体がないことがそのまま形あるものとなっている
             のだ。)
じゅそうぎょうしき
受想行識               (残りの、心の四つの働きの場合も、)
やくぶにょぜ
亦復如是               (まったく同じことなのである。)
しゃりし
舎利子                 (舎利子よ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想             (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、
             という性質があるから、)
ふしょうふめつ
不生不滅               (もともと、生じたということもなく、滅したという
             こともなく、)
ふくふじょう
不垢不浄               (よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、)
ふぞうふげん
不増不減               (増えることもなく、減ることもないのである。)
ぜこくうちゅうむしき
是故空中無色           (したがって、実体がないということの中には、形あ
             るものはなく、)
むじゅそうぎょうしき
無受想行識             (感覚も念想も意志も知識もないし、)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意         (眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もない
             し、)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法         (形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞ
             れの器官に対する対象もないし、)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界     (それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる
             分野もないのである。)
むむみょう
無無明                 (さらに、悟りに対する無知もないし、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽             (無知がなくなることもない、)
ないしむろうし
乃至無老死             (ということからはじまって、ついには老と死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽             (老と死がなくなることもないことになる。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道             (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そし
             てその方法もない。)
むちやくむとく
無知亦無得             (知ることもなければ、得ることもない。)
いむしょとくこ
以無所得故             (かくて、得ることもないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂               (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多         (知恵の完成に住する。)
こしんむけいげ
故心無圭礙             (かくて心には何のさまたげもなく、)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖       (さまたげがないから恐れがなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想       (あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、)
くきょうねはん
究境涅槃               (永遠にしずかな境地に安住しているのである。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏               (過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものた
            ち”は)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故       (知恵を完成することによっているので、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (この上なき悟りを得るのである。)
こち
故知                   (したがって次のように知るがよい。)
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多           (知恵の完成こそが)
ぜだいじんしゅ
是大神呪               (偉大な真言であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪               (悟りのための真言であり、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪               (この上なき真言であり、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪             (比較するものがない真言なのである。)
のうじょいっさいく
能除一切苦             (これこそが、あらゆる苦しみを除き、)
しんじつふこ
真実不虚               (真実そのものであって虚妄ではないのである、と。)
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪     (そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰               (すなわち次のような真言である。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝         (往き往きて、彼岸に往き、)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝             (完全に彼岸に到達した者こそ、)
ぼうじ
菩提                   (悟りそのものである。)
そわか
僧莎訶                 (めでたし。)
はんにゃしんぎょう
般若心経               (知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける
             経典。)

悪口。

悪口は他人を中傷しているのではなく、

自分自身の悪徳を口にしているだけである。

他人の悪口を言って得意そうになっているが、

本当は自分自身の不徳をさらけ出している。

徳ある人間は自分が目立つ為の言動や、

他人の悪口などはしないものである。

人間であるが故に、心の中で悪口を言いたくなる時もあるだろう。

その時に人間における徳の高さが分かる。

徳は我欲の防波堤。

高ければ高いほど、我欲は防げる。

我欲を持つのが人間、それを抑えるのも人間。

すべては自分自身の心から創られる。

悪口を言いたくなる時もあるだろうが、

自分自身を抑える徳を修めよう。

悪口を言った人間は自分が次の悪口として言われる。

 

「浄土」
浄土は仏教用語として扱われているが、
浄らかと清らかは同じ意味。
浄土は天地の天にある世界。
徳川家康も浄土の世界を目指していた。
心浄らか世界は争いのない世界、
争いは水で流せば「浄」になる。
いつの世も争いのない平和な世界、
誰しも望み、争いや憎しみのない世界、
戦争や平和は天から降って来るわけではない、
全て人間の心から生じる善悪。
仁に篤ければ善になり、
仁に欠ければ悪になる。
幼児青少年期の教育は壮年老年まで影響する。
心は戦争も起すし、戦争を廃することもできる。

 

【 日 蓮 】

【お経を読んで、なぜ成仏するのですか?】

仏教は今から約二千五百年前、インドでお釈迦さまが創始された宗教です。お釈迦さま(仏さま)が説かれた教え、これが「仏教」ということです。お釈迦さまは、教えを文字で書き残すことはしなかったと言われています。お釈迦さまがお亡くなりになってしばらくの間は、お弟子の方々が口伝えで教えをひろめていかれました。やがて教えがまとめられ、経典ができあがっていきます。この経典はインド、またはその周辺の言語によって記されました。経典は漢訳されて中国に伝えられ、やがて日本にも伝わることとなります。これがいわゆる「お経」です。お経には「般若経」、「阿弥陀経」、「大日経」等々さまざまな経典があり、古来より「八万四千の法門」と言われるほど、数多くの経典(お経)があります。
この数多くのお経の中で「妙法蓮華経(=法華経)」というお経こそが、お釈迦さまの真意を伝え、宇宙全体の真理(お釈迦さまの悟り)を明らかにした教えであると見出されたのが「日蓮聖人」です。日蓮聖人は「法華経」こそ仏教の正統の教えであると示されました。そしてその教えを信じてひろめることが、世界の幸福につながると標榜しているのが「日蓮宗」です。
日蓮宗の教えで「お経を読む」ということは、「法華経を読む」ということです。そしてこれ以外のお経を読んでも、「成仏」することはかなわないと教えます。
ところで「成仏」とは何でしょうか。簡単に言えば「成仏する=幸福になる」ということです。お釈迦さまは「人間には苦悩がある」と示されました。この苦悩をすべて解決することが幸福であり、「成仏」なのです。
それでは「法華経」を読むことによって、本当に苦悩が解決され、幸福(成仏)が得られるのでしょうか。
日蓮聖人は声に出してお経を読むということだけが「読む」ということではない、「法華経を信じて、行う」ということを含めたもの、それが「読む」ということだと示されました。これは「法華経」を鏡として世の中を見、そして考え、それに基づき行うということです。
ここで「法華経」というお経に、何が説かれているのか見ていきましょう。「法華経」の中でお釈迦さまは、「私(お釈迦さま)と、あなたは同じ存在である」と説かれました。仏であるお釈迦さまと、すべての人々が同じ存在になれることを明らかにしたのです。すべての苦悩を解決し、本当の幸福者となったお釈迦さまと同じく、私たちも仏となることができるということです。そして「法華経」の教えの肝要は「すべてを否定しない」ということです。日蓮聖人は「この世界で唯一の悪い行いは、法華経を否定すること」と示されています。それはすべてを否定しない教えを否定することは、すべてを否定してしまうことになるからです。すべてを受け入れ、認めることが本当の幸福なのです。これは自分の苦悩をも受け入れるということであり、苦悩こそが自分をより高い境地(仏)へと導くものだということでもあります。
お経を読むということのはじめであり、究極のものは「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。「南無」とは「信じて行う、修行する」ということ。「南無妙法蓮華経」と唱え、そして「法華経」の教えを他の人々にひろめることが「信じて行う」ということなのです。これはすべての人々がお釈迦さまと同じ存在であるということを受け入れるだけでなく、積極的にお釈迦さまと同じ存在となるようにはたらきかけなければならないということです。ここに仏教の厳しさがあります。
ここでもう一度、質問を振り返りましょう。「お経を読んで、なぜ成仏するのですか?」。この質問には、二通りの意味があると思います。自分がお経を読んで、自分自身が仏となれるのかということと、僧侶にお経を読んでもらって、亡くなった方が成仏できるのかということです。前者については、これまでのところでおおよそ説明させていただきました。後者はお経を読んだ本人以外に、その効果が及ぶのかどうかという大きな問題が関わってきます。結論から言えば、「仏教は自分以外の他者が、自分をどうにかしてくれるという教えではない」ということです。つまり亡くなった方が成仏するかどうかは、亡くなった方次第ということです。
こうなると法事を営み、僧侶にお経を読んでもらう必要はないということになってしまいます。ですがここで「法華経」の教えを思い出してください。「私(お釈迦さま)と、あなたは同じ存在である」。これは突き詰めていくと、「すべての人、そして存在はみな同じである」ということに他なりません。
お経を読むということが、「法華経」をひろめるということでもあるのですが、一般の信仰者(檀家)は専門的に、そして日常的に教えをひろめる行為をすることは難しいことです。そこで僧侶という仏教の専門家・専従者が教えをひろめる行為を、「布施」というかたちで支える修行を信仰者はするのです。布施という修行をすることは、教えをひろめることと同義の行為であり、布施を行った人の修行の効果が亡くなった人を含めた他者に及ぶのです。それは「すべての人、そして存在はみな同じである」からです。基本は「仏教は自分以外の他者が、自分をどうにかしてくれるという教えではない」のですが、「法華経」という仏教の最重要の教えだけがお経を読んだ本人以外に、その効果が及ぶことが保証されているのです。「法華経」以外のお経では、これは不可能です。となれば「法華経」以外での供養(葬儀・年回法要など)では、誰も成仏することはできないということになります。
ただしここで注意していただきたいのは、一般の信仰者は金銭的な布施をしているだけで良い、ということではなく、折にふれ少しでも仏教を自分以外の人に伝えていかなくてはならないということです。
ここまで見てきたように、お経を読んだからといって単純に成仏がかなうわけではありません。「法華経」を読む、つまり口に唱え、心で現実と教えを照らし合わせ、身体を用いて現実世界に教えをひろめるという行いをして、はじめて「成仏」に近づくことができるのです。そしてこれが「南無妙法蓮華経」と、身で、口で、心で唱えることだと、日蓮聖人は教えてくださっているのです。

カルト宗教勧誘
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お困りのことがあればこちらまで

日蓮宗宗務院総合相談所

03-3751-7181

受付時間: 平日 AM10:00~PM4:00

カルトの“宗教”の特徴

  • ①選民思想~自分たちを特別な存在だと信じる
  • ②終末思想~世界が滅びようとしているという
  • ③被害妄想~自分たちが悪の勢力からの攻撃を受けているとする
  • ④運命転換~自分の運命(病気・人間関係などの悩み)が変えられるという
  • ⑤疑似家族~孤独なあなたに仲間と居場所を提供しますという

カルトの“被害”

1995年、日本で起きたオウム真理教の事件により社会は大きく傷つきました。

現在はその事件を知らない人たちが増えてきていますが、このようなカルト教団は今でも存在します。

また、このような教団に入信する人はごく普通の若者であることがわかっております。
またいつしか、社会を脅かすかもしれません…。

  • ①組織の活動に長時間従事させられる結果、
    若い時の貴重な人生の時間が奪われる
  • ②入信をめぐって家族との関係が断絶する
  • ③多くの友人を失う
  • ④偏った価値観に支配され、人格が破壊される
  • ⑤高額な献金を要求され、経済的な被害を受ける
  • ⑥お子さんやお孫さんが入信した場合、
    先祖代々の家の信仰が断絶する

カルトはどのようにあなたに近づいて来るか

①ケータイやSNSで:君にとって大切な話をしたいのだけれど、近くのコーヒーショップまで来ないか?

注意

※インターネットを利用して
ボランティア団体等を装い
巧妙な勧誘を行う場合があります

②家庭へ訪問して:亡くなった○○さんのお仏壇にお参りさせて下さい…この△△新聞を一ヶ月間無料で差し上げます…また、次に参ります。
③駅頭や街頭で:ちょっとお時間いいですか?…あなたのお顔に良くない相が現れています。少し、そこでお話しませんか?

日本ではカルト活動がより活発化しています。
カルトの被害者の多くは若者であり、そして、その家族です。

このような被害者を一人でも減らすために、カルト問題について
より一層の関心を持って下さい。

いわゆる宗教ではありませんが、自己啓発セミナーやヨガ等の団体などの非宗教組織による勧誘と、被害相談も増えています。
これらの組織に対する注意が必要です。

社会には非常識な手段で入信や
入会を勧める教団があります。

もし、危険な教団の勧誘を受けたら、
とにかく断りましょう。
これらの教団に入信した結果は悲惨です。

※危険な宗教団体の中には、日蓮宗と紛らわしいものも数多くあります。

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カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由 単行本(ソフトカバー) – 2018/5/1たもさん  (著)

 

幼いころに母親がエホバの証人に入信。
4人姉弟の中で、「断れなさそう」という理由で一緒に集会に連れていかれることになったたもさん。
エホバの証人の活動を行うために、部活動をかわきりに、服装や恋愛、進学さえも自分の望み通りにはならない日々でしたが、いつか訪れるとされている楽園のために耐え忍んできました。
しかし、結婚してやっと生まれたひとり息子は、エホバの証人では禁止されている「輸血」を必要とする病だったのです…
目次
第1話 母が宗教にハマった日
第2話 母に騙されて
第3話 死んだらどうなるの?
第4話 宗教活動についやされた私の学生時代
第5話 父の反対
第6話 洗礼と13歳の私の罪
第7話 震災で抱いた疑問
第8話 父が懐柔された日
第9話 ムチと虐待の話
第10話 エホバ2世の夢は叶わない
第11話 奇妙な男女交際ルール
第12話 流産と距離感0の信者たちの話
第13話 私は子どもを叩きたくない
第14話 息子の病と輸血問題
第15話 「エホバのおかげ」…?
第16話 楽園なんてなかった
第17話 母との対決
第18話 もう戻らない
第19話 ただ、一生懸命生きていこう
おわりに

統一協会(家庭連合)信者の救出~マインドコントロールの実態と救出 単行本 – 2019/8/5全国原理運動被害者父母の会 (著)

本書は救出を願っている家族に何をどうしたら救出することができるのかを具体的に示しています。 第一章から順を追って読んでいかれると統一協会の本質、協会が信者に施しているマインドコントロールの手法がおわかりいただけます。 その結果、信者はどのような思考心理にさせられ、日々何を行なわされているかも分かります。 そして救出の取り組みに関する重要な点を示し、救出後のカウンセリングリハビリテーションについても述べています。 本書の表題である「統一協会(家庭連合)信者の救出」に関することが網羅されています。 本書は複数の執筆者による共著ですが、救出の核心点については25年の経験を持つカウンセラーが救出の現場から得た教訓と多くの脱会者の告白を基に述べています。マインドコントロールにより、真面目な青年を犯罪者に仕立てる統一協会、その教義の欺瞞、組織実態を、元信者の体験手記を交えて分かりやすく解説し、信者を救い出すための心構えと方法を具体事例を踏まえて説く。 ※本書は978-4-8462-0332-0「統一協会信者の救出」初版2007年10月を改題、修正の上増刷新版した商品です。

 

 

統一教会のなりたち

 統一教会の正式名称は、世界基督教統一神霊協会(The Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity)である。統一教会(略称)は、1954年に韓国で文鮮明により創設され、日本では1959年から伝道が開始された。日本では50年近い宣教の歴史があり、数万人の信者がいると推定される。

 教祖の文鮮明は1920年に現在の北朝鮮、平安北道定州郡に生まれ、16歳でイエスから啓示を受けたという。1941~43年、早稲田高等工学校に在籍し、卒業後鹿島組で働くが、終戦後、退職して韓国のイスラエル修道院で補助引導師になる。1946~50年、平壌で伝道活動を行うがスパイ容疑で逮捕され、興南監獄に収容される。国連軍の進撃で解放され九死に一生を得た後、今度は釜山で伝道を再開する。この時期、キリスト教は燎原の火のように韓国人の心をとらえ、どこを歩いても掘っ立て小屋の教会や牧師の熱烈な説教に出くわしたといわれている。統一教会はそのような新興教会の一つであった。

 文鮮明の教説を弟子の劉孝元が1957年にまとめたものが「原理解説」(「原理講論」の完成は1966年)と呼ばれる教典である。1955年、韓国の名門梨花女子大の教師5名と学生14名が入教を理由に退職・退学させられ、文鮮明は信者たちを教会に不法監禁したとして検挙された。教祖と信者の女性たちが「血分け」と呼ばれる性的秘儀を行ったというスキャンダルであったが、実態は語られていない。結局、無罪判決を得ている。

 その後、教勢は徐々に伸びたが、財団法人の認可を得たのは1963年であった。文鮮明は1965年に世界巡回路程に出発し、1971年以降はアメリカに居を構え、世界宣教を指揮することになる。

原理の勧誘に気を付けろ

 日本では1964年に久保木修己を初代会長にして宗教法人の認可を得る。同年、全国大学連合原理研究会が創立され、大学生・青年への伝道が活発化する。この団体は40年以上も日本の主要大学で活動を継続しているので、読者の中に私も誘われたという人がいるかもしれない。「原理の勧誘に気を付けろ」と大学の新聞会や寮の先輩から新入生へアドバイスがあったと思う。

 統一教会は、伝道のみならず、政治活動にも積極的に関わるようになる。1968年に国際勝共連合を設立し、反共政治活動を始める。これによって保守派の自民党大物政治家とも友好関係を築いた。

1974年には世界平和教授アカデミーを設立し、言論界に共鳴者を求める。大学人の中には統一教会の経費で国際会議等に出席した者も少なくなかった。こうした政治的対外活動には多額の経費がかかったし、韓国、アメリカでの宣教活動にも莫大な資金を必要とした。文鮮明の指示の下、日本の統一教会は資金調達を一手に引き受け、「資金作りをミッションとする信徒」を養成する教会となったのである。筆者としても日本の信徒が流した汗と涙に敬意を表し、この点を詳しく説明したい。

 創設期の信徒たちは廃品回収や花売りを細々とやっていたが、世界宣教の経済基盤を築くという目的で会社組織を作り、物販で財源の確保を目指すようになる。なかにはペンタブレット等のIT製品製造で成功したワコムのような企業も現れた。ただし同社は、その後社長が統一教会系グループと縁を切り、本業に専心している。事業が軌道に乗った例外的事例である。

霊感商法の誕生

 ビジネスの最終判断を文鮮明にあおぐ神頼みの商売には厳しいものがあった。そこで、むしろ宗教活動そのものを経済活動に転換できないかと知恵を絞って考案されたのが、姓名判断や家系図鑑定と絡めた商品の販売である。先祖の因縁や霊障を取り除く、あるいは開運のためといって、1980年代に韓国から朝鮮人参茶、高麗大理石壺等を輸入して販売した。このやり方が霊感商法として80年代後半から社会問題となった。

 1987年に全国霊感商法対策弁護士連絡会が結成され、これまで商品の返還交渉や損害賠償請求の提訴が行われてきた。同会の調査によれば、全国の消費者センターや弁護士会に寄せられた2007年までの累積被害総額は1024億4720万425円に達するという。このような宣教資金調達のやり方とそれに付随して広まった悪評により、統一教会は宣教方法すら変えざるを得なくなった。統一教会=霊感商法というイメージから、名前をそのまま出すと一般市民は警戒して話を聞いてくれなくなったのである。そのため、とりあえず、正体を隠して市民に近づき、印鑑や壺の販売方法で培った手相・姓名判断、家系図鑑定を入り口にして信者を勧誘する独特な布教方法を採用するに至った。

統一教会の教義は教典「原理講論」に加えて、教祖がこれまでの説教で語った膨大な「御言葉」、及び聖書の参照から構成される。創造原理、堕落論、復帰原理が柱となる。

 創造原理では宇宙の根本原理、神の創造目的が説かれ、堕落論では不幸の原因である原罪の真相が解き明かされる。創世記において、エバが善悪を知る木の実を蛇にそそのかされて食べ、その実をアダムにも食べさせると目が開き、二人は裸であることに気付いた。神は、取って食べるなという神の戒めを破ったので二人を楽園から追放したという、あの箇所である。文鮮明は、蛇とは後にサタンとなる堕天使にして元天使長のルシファー(統一教会ではルーシェルという)であり、人類始祖のエバがそそのかされて食べた禁断の果実とは、ルシファーとの禁断の愛であったと断じる。神様はアダムが一人でいては寂しかろうと、アダムのあばら骨からエバを作ってくれたのであるから、エバはアダムの伴侶である。しかるに、エバはルシファーと不倫をおかし、次いでアダムとも慌てて性関係を持つなど堕落した。そして、サタンからエバ、エバからアダム、人類の始祖から子孫たる全人類に神に背いた悪の血統が相続された。人間が罪を犯すのはサタンの血をひく末裔(まつえい)のゆえとされる。

 もちろん、このような堕落の真相やそれが原罪だといった説明は、聖書に全く書かれていない。

 では、何を根拠として? 実は文鮮明がイエスや神から直接聞き及んだ話だという。そう言われてしまうとわれわれとしても、ひとまずなるほどと聞いておくしかないではないか。

 神は人間を神の側に取り戻す計画を考えられたそうだ。救世主の派遣である。統一教会によれば、イエスは人間の娘を娶(めと)って善なる子孫を残す予定であったが、人間の不信により十字架で殺害された。そこで神は計画を変更せざるを得ず、イエスを天にあげられ、イエスの復活を信じるものたちに霊的救済のみを約束されたのだとする。しかし、神は人類の肉体も含めた完全な救済(復帰の摂理)をお考えになり、人類に再臨主を遣わした。その再臨主こそ何を隠そう、私であるというのが文鮮明の言である。これまた本人がそう言い、霊界も証すところだということなので了承しよう。しかし、彼の母がマリアのように彼を処女懐胎(無原罪の宿り)したという話はない。(略)

合同結婚式

 普通に人間として生まれた再臨主は、私たちをどのようにして救済してくれるのだろうか。いますこし、筆者の説明にお付き合い願いたい。

 ここで登場するのが有名な「合同結婚式」である。「祝福」とも呼ばれ、文鮮明が統一教会員同士をその場で指名して、あるいは写真を見てマッチングする。信徒はどんな相手であっても再臨主が選んでくれた最高の伴侶として結婚する。このような家庭から「無原罪の子」が生まれるとされる。文鮮明夫妻を真の親とする信者の家庭によって神の王国は建設され、地上天国が実現されるというのである。

 教団の公式発表では、1960年から今まで37回にわたり国際合同結婚式が挙行され、祝福にあずかったカップルは30億組を優に超えるとされる。誤植ではない。1998年6月13日、アメリカのマディソンスクエア・ガーデンで3億6千万組第1次世界祝福式が行われ、翌1997年2月7日、ソウルの蚕室オリンピック・メインスタジアムにおいて3億6千万組国際合同祝福式があった。なお、生きている人だけではなく、既に霊界に住んでいる人たちも先祖解怨という統一教会の儀式を通して救われ、祝福を受けているものもいるとのことだ。統一教会は、Blessingと書かれたコーヒー・フレッシュ状の入れ物に入った赤い液体を多くの人に配っており、もらっただけでも祝福にあずかったことになるという。このようにして何億組という数合わせをしているのだが、筆者もその液体を持っているので数えられた可能性がある。

 ***

 事件の容疑者によれば、母親が多額の献金をしたことによって、家庭は崩壊したという。上に書かれている1024億円あまりの「被害額」の一部ということになるのだろうか。

浅田真央さん 弥勒菩薩像と瓜二つ

弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかし(ゆ)いぞう) は、仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像である日本には大陸より6世紀から7世紀弥勒信仰の流入と共に伝えられ、飛鳥奈良時代の作品が多く残されている。

苦とは

四苦八苦。それは、自分の思い通りにならないということに尽きるのではないでしょうか生老病死。愛別離苦・・・いずれも、意に沿わぬことですが、自分の力ではどうすることもできません。努力でも心がけでも、資産や能力でもなんともしがたい出来事です。そんな出来事が主軸の世界に生きています。
お釈迦様が執着するなと教えるのは、...執着してもままならないからです。もともとがままならないことです。執着は、その苦を倍増させます。
そうとわかって苦しむのが人の心。優しい心、情け深さは尚のこと苦しみます。
「楽しく生きよう」は、知恵のカタチなのでしょう。楽しくあればいいというものではない・・・を承知しつつ、楽しく生き、和み、和ませる。人生は苦しいけれど、つまらなくはないこと。苦しみの中に咲かせる花があること。そんなことも四苦八苦から学びます。

 

『人の幸せを考える』

私は皮膚の難病に12年間悩まされていました。
身体は弱り、満足に歩けもせず、いつも家族に頼るばかりの日々で、人生には絶望していたと思います。
そんなとき、たまたま地元に住む仏教僧と会う機会があったのです。...
彼に自分の悲惨な状況を話した私は、同情のまなざしと思いやりの言葉を期待したのですが、僧侶は穏やかにこう言っただけでした。
「自分を憐れむのはおやめなさい。人の幸せを考えるようにするのです」
「無理です!こんな状態なのですよ。自分のことで精一杯です」
私は「彼は何もわかっていない!」と、がっかりしました。
こんなボロボロの身体で人の幸せを願うなんて無理だと思いましたが、なぜかその言葉が心に引っかかり、その日から少しずつ気をつけるようになりました。
まずは家族や友人たちの幸せと健康を、さらに知らない人たちのために、車の中から道行く人たちの幸せを、ついでに自分の嫌いな人たちのことも思いやってみました。
ある日、電動車椅子に乗ってスーパーのレジに並んでいると、明らかに虫の居所の悪そうな女性が私の後ろに並びました。
急いでいるらしく、いら立った目を周囲に向けています。
カートの中身はあふれんばかりで、少しでも早くレジを通り抜けたそうにしています。
いつもなら、イヤな思いをしないように、こういう人とはできるだけ関わらないようにしていましたし、実際真っ先に頭に浮かんだのは、「何て品のない人からしら。目を合わせないようにしよう」という考えでした。
しかし、そのとき例の僧の言葉…「人の幸せを考えるようにするのです」を思い出した私はこう思い直したのです。
「そう、きっとこの人は今日とてもイヤなことがあったのよ。
私だってそういう日もあるじゃない。
この人を幸せにしてあげるにはどうすればいい?」
私は振り向いて「お急ぎのようですね」と言いました。
女性は驚いたような顔で、ぶっきらぼうに「ええ急いでいるんです。遅れそうだから」と答えました。
「私の前へどうぞ」
女性は私のかごの中身が少ないのを見て、サッと首を振りました。
「いえ、大丈夫です」
「どうぞ遠慮なさらないで。私は急いでいませんから。さあ、どうぞ」
変化は劇的でした。
イライラをまき散らし、レジ係をどなりつけそうな勢いだったその女性は、人に親切にされ、気を遣われて、別人のようになったのです。
私の前へとカートを進めながら何度も「ありがとう」と言い、レジがすむと店員にも礼を言って、買った物を袋に詰め終わると、笑顔で店を出ていきました。
私はすがすがしい気持になりました。
周りを見ると、誰もが私に笑顔を向けて、言葉を交わし合っているのです…「素敵ね」「気持のいい場面だったわね」「今日もいい日になりそうね」。
それからはもっと人を幸せにしたくて、できることはないかと探すようになりました。
人のためになろうとすれば、機会はいたるところに転がっているものです。
身体を使い、心を使い、お金を使って、まだまだ私は人のために何かをしてあげられる、それはこの上もなくうれしいことでした。
自分のために「人が何をしてくれるか」ではなく、人の幸せのために「自分が何をしてあげられるか」を、いつも考えるようになりました。
うれしいことに、それから一年もしないうちに、皮膚の調子がよくなり、生きるパワーもみなぎってきました。
杖なしで歩けるようになり、ジムにも通い始めました。
医者は、病気がひとりで快方に向ったようだと言って、信じられないようです。
僧侶の教えのおかげで人生の坂を転がり落ちずにすんだ私は、愛情という永遠の力を手に入れることができました。

社会生活で

私たちは批難したくなるような人たちと

つきあっていかなければ、

ならないことが多くあります(✘﹏✘ა)

.
うまくやって行くために

自制もしなければならない。

その試練を通して、

自分の心が刺激されて、

私たちは心が成長するのです◍˘‿˘◍

.
悪意で人を批難してはいけません。

人を批難したいという強い衝動を

持つ者を信用してもいけません:;(∩´﹏`∩);:

.
なぜなら、

私たちにとって

もっとも人間として大切なのは、

誰かを攻撃したり、

恥ずかしめたり、

しないことです。

本当の幸福を満喫するには、

人を思いやり愛する時間を

大切にしなければなりません(❛ ◡ ❛)❤

.

「他人の過失を探し求め、

つねに怒りたける人は、

煩悩の汚れが増大する。

かれは煩悩の汚れの消滅から

遠く隔っている。」

-仏陀の言葉より-

寂聴さん「戦争近づいてる」 国会前で安保法案反対訴え

僧侶で作家の瀬戸内寂聴さんが2015年6月18日、東京・永田町の国会前であった安全保障関連法案に反対する集会に参加した。約2千人(主催者発表)の参加者を前に、「最近の状況は戦争にどんどん近づいている。本当に怖いことが起きているぞ、と申し上げたい」と語りかけ、廃案を訴えた。

寂聴さん一周忌 京都の寂庵を開門し、ファンらが参拝

作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなってから9日で1年がたった。寂聴さんが暮らした京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)では一周忌に合わせて開門し、寂聴さんと親交のあった人やファンが訪れた。

 この1年、京都・妙法院での本葬や東京でのお別れの会があったほか、全集(新潮社)をはじめ多くの本が出版され、ドキュメンタリー映画も公開、追悼展が開かれた。9月には、寂聴さんが住職を務めた天台寺(岩手県二戸市)に納骨され、墓には「愛した 書いた 祈った 寂聴」と刻まれた。11日から、井上荒野(あれの)さんの小説を原作に寂聴さんをモデルにした映画「あちらにいる鬼」も上映される。

 一周忌のこの日、午前10時から午後3時まで門が開けられ、寂聴さんが法話を行っていたお堂には遺影や花が飾られ、ファンらが手を合わせた。

<お知らせ>映画「瀬戸内寂聴」DVD発売

ドキュメンタリー映画瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」(中村裕監督、朝日新聞社など製作)のDVD=写真=が発売されました。寂聴さんが昨年11月に亡くなってから1年。金言の数々や秘蔵映像をご鑑賞下さい。

 作家であり、僧侶でもあった寂聴さんに17年にわたって密着した作品です。「恋愛」や「老い」について率直に語り、京都・寂庵(じゃくあん)での暮らしぶりもたっぷり撮影。「いかに生き、老いていけばいいのか」という問いへのヒントになるはずです。また、本編95分のほか、特典映像として、映画の完成披露イベントの様子や、映画にはない書斎での寂聴さんの姿などが盛り込まれています。

 ◇定価4180円。お求めはCD店、書店、家電量販店などDVD取扱店で

最期に大事なのは

三つのことです。

どれだけ

愛することができたか。

どれだけ

やさしく生きることができたか。

どれだけ

いさぎよく手放すことができたか。

In the end only three things matter:
How much you Loved,
How gently you lived,
and how gracefully you let go of the
things not meant for you.

Buddha
仏教の教え

愛することは学び。
執着を手放すことも学び。
毎日が学び。
ゆっくり丁寧に、
生きていけたらいいな。

學佛的人,佛教給我們,恒順眾生,隨喜功德,一切恒順大自然,不能違背自然的法則。人哪有沒有死的道理,災難來了,那正是我們往生時間到了。再大的災難掉在面前不驚不怖,沒有絲毫恐懼,念佛求生淨土,佛就來接引。真誠懇切到極處,我們起心動念佛全知道。《妄盡還源觀》上告訴我們三種周遍,第一個是資訊,周遍法界,念頭才動就周遍法界。第二...個出生無盡,這是感應。我們念頭立刻,有緣的眾生,有緣的佛菩薩,我們天天念阿彌陀佛,跟阿彌陀佛有緣,他就來接引。怕什麼?你們怕災難,我歡迎災難。你們說我說的不靈,那大概是我這些年祈禱有了效果,果然把災難化解了,把災難延遲了。好事情!

修行,用功在哪裡用?在六根、在六塵境界裡頭用功。淨宗同仁怎麼個修法?看到所有一切眾生都是阿彌陀佛,你不要認為這是好,那個是壞,錯了,平等;好人、壞人統統是阿彌陀佛,恭喜你,你成佛了,你是阿彌陀佛。佛眼看眾生都是佛,眾生看諸佛都是眾生,所以境界不是一定的,隨著你念頭變,你用什麼心,外面境界全變了。所以,災難不可怕,災難可以化解,我心裡頭一片全是阿彌陀佛,阿彌陀佛極樂世界沒聽說有災難。我是個真正修彌陀法門的人,我住在這個地方,這個地方就不會有災難。周邊地方有災難,這個地方不會有災難,為什麼?境隨心轉,就這麼個道理。哪個地方有真正修行人,這個地方就是福地,福人居福地,福地福人居。


仏教徒と私たちに仏教、恒徳恒俊自然に喜びをすべての衆生を避ける、自然の法則に反することはできません。男は死んでいなかった、真実、災害が来た行く時間であるが不足しています。大きい災害のない驚くべき、仏純粋な土地の生存を唱え、恐れることがなく、恐怖を導いた。心から心から、極端にいき、全体的なアイデアを暗唱します。裏切られたすべてのソースの表示は私達に告げる 3 つ以上すべて最初ダルマの王国、アイデアだけ万能法界を取り巻く情報。2 番目に生まれたが誘導されます。我々 はすぐに考え、衆生に対する親和性、仏や菩薩、アフィニティと毎日、念仏阿弥陀の運命、彼に達する。何を恐れてですか?あなたは私を歓迎台風災害を恐れては、災害です。あなたが言ったそれはおそらく私の祈りのこれらの年の間にあった災害、遅れの災害を十分に確認して、結果はその後、動作しないでしょう。よい事!

仕事の練習、どこですか?六、六つの王国のハード感覚します。NET の同僚を実践する方法ですか?すべての衆生は、仏、これはである悪い、悪い、良いと等しいかどうかはないと思う; 良い、悪い、すべては仏、お祝いの言葉、仏になるし、あなたは仏を参照してください。人間は、仏、すべての人間は、仏の衆生は不明と思ったので、外使用する見て状態が変更されます。したがって、災害はひどい災害の解決される、私の心は仏、阿弥陀の楽園聞いていない災害。MI Tuo メソッドは実在の人物を午前、この場所に住んで、この場所は災害ではないです。周辺のローカル災害この場所災害ではないが、なぜですか?国境までの無料送迎点に過ぎません。本物の開業医がこれは約束の地、f 生息地、祝福祝福祝福された生息地です。

看脚下 (きゃっかをみよ)
         
靴をそろえる、
そんなことが大事なこと。
一歩を踏み出すのは自分自身、
他の人のことを、気にしていては進めない。
自分の足でゆっくり歩き出せば良い。
靴を揃えるのは、次なる行動のためでもある。

心が荒れると

冷静さを失い

他人を、

非難したり、

中傷したり、

意見したり、

人と自分を比べて優越したり、

卑下したり

きつい言葉で

もしくはイヤミの隠った慇懃無礼な表現で

攻撃しがちなものです。

そのような言葉で

心に傷を受ける人が多くいます。

その多くが攻撃欲を満足させる我欲であり、

拳の変わりに言葉を使っている

暴力に過ぎないことが多いものです。

だから私たちは、

言葉に慎重でなければなりません。

心が荒れぬように瞑想で心を調え、

いつもやさしさと思いやりの

溢れた言葉でお話しましょう。

最上の善いことばを語れ。

自分を苦しめず、

また他人を害しないことばのみを語れ。

これこそ実に善く説かれた

ことばなのである。

【受け入れる心~感謝の心~】
 

お釈迦様は、

この世の苦しみ・悲しみの根元は、

「思いどおりにならないこと」

と悟りました。

自分の思いどおりに

ならないことに対して、

それに逆らって

なんとかしようとするからこそ、

人は悩み・苦しむのです。

人の苦しみや悲しみは、

外から与えられるもの

ではありません。

苦しい・悲しいと思う心、

つまり、人の内(心)から

苦しみや悲しみが

発生しているのです。

だから、お釈迦様は、

こうおっしゃっています。

「すべて、受け入れなさい」と。

それは、頑張る生き方ではなく、

楽に生きる生き方です。

人に頼って、

人に甘えて、

あるいは人に頼られて、

時には人から甘えられて。

自分の思いどおりに

世の中を変えようとしないで、

それを受け入れて、

こころを楽にして生きてゆくこと。

そして、その最高の形は、

 

「ありがとう」と

感謝することだったのです。

水を飲めることに 「ありがとう」

息ができることに 「ありがとう」

食事できることに 「ありがとう」

仕事があることに 「ありがとう」

家族がいることに 「ありがとう」

友達がいることに 「ありがとう」

話ができることに 「ありがとう」

歩けることに   「ありがとう」

病気でないことに 「ありがとう」

生きていることに 「ありがとう」

 4月8日はお釈迦さまのご生誕を祝う「仏生会(ぶっしょうえ)」の日です。他にも「降誕会(ごうたんえ)」、「灌仏会(かんぶつえ)」、「仏誕会(ぶったんえ)」などとも呼ばれますが、現在一般には「花まつり」の名で親しく呼ばれるようになっている春の行事です。
 お釈迦さまは、今から約2500年前の4月8日、インドの北方ルンビニでご生誕されました。故事によるとお釈迦さまご誕生の際、天から九頭龍(くずりゅう)が舞い降りてきて甘露(かんろ)を灌(そそ)いだといわれています。これにちなんで、日本ではお釈迦さまの誕生仏に香水を灌ぐ儀式が行われてきましたが、江戸時代からは香水に代わって甘茶(霊水である甘露になぞらえている)を灌ぐようになりました。また、近年ではお釈迦さまがルンビニの花園で誕生したというお話から、誕生仏を花御堂(はなみどう)に安置して祝うようになりました。
 この日は10世紀後半に成立した『三宝絵詞(さんぼうえことば)』によると、仏さまをはじめ万物が生まれる日と説かれており、稲の発芽を願う農民にとっては縁起も良く、種まきの時期としても伝承されてきました。また親孝行(ことに母親に感謝)をする日としても教えられてきたものです。
 右手で天を、左手で地を指すその誕生仏のお姿は「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」というお言葉に表されるように、「この世に生きるものには皆それぞれの価値があり、尊いものである」という意味を象徴するものです。
 毎年浅草寺では本堂に「仏誕図」を掛けての法要が行われ、本堂前の参道では浅草寺幼稚園園児らの行列が白象をひいて誕生仏に参拝を行っています。
 また、参道では他に参拝のご信徒に甘茶の無料接待などが行われ、賑やかにお釈迦さまの誕生を祝う一日となります。

釈尊降誕会(花まつり) 4月8日

4月8日は、お釈迦さまのお誕生をお祝いする「花まつり」の日です。

お釈迦さまは、今からおよそ2500年前、現在のインド国境に近いネパールの地、ルンビニーの花園でお生まれになりました。お釈迦さまの誕生日のお祝いを「花まつり」というのはこのためです。

シャカ族の王子としてお生まれになったお釈迦さまは、「ゴータマ・シッダールタ」と名づけられました。一般的に「お釈迦さま」や「釈尊」と呼ばれますが、これは「シャカ族の尊い方」という意味を表す尊称です。

伝説では、お生まれになってすぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれています。この言葉は「人は誰もが、かけがえのない命を生きている」という、仏教のもつ人間尊重の精神を端的にあらわしています。またこの時に、お釈迦さまの誕生を祝った竜王が甘露の雨を降らせたとも伝えられています。

「花まつり」は、曹洞宗寺院だけでなく、多くの仏教寺院や仏教系の幼稚園、学校などで、広く行われています。ルンビニー園の誕生の様子を表した「花御堂(はなみどう)」を飾り、その中央には天地を指差した誕生のお姿を安置し、甘露の雨を模した甘茶をかけ、華やかにお祝いされます。

「人は誰もが、かけがえのない命を生きている」

思いを巡らせれば、私達は皆、お釈迦さまと同じように、誰にもかわることの出来ない、かけがえのない「いのち」を生きている事に気づくことでしょう。人類が誕生して以来、数え切れないほどの人びとが生き、また現在、数十億の人びとが共に存在しているなかで、誰一人として「わたし」と同じように生き、悩み、考え、行動する人はいないのです。

4月8日は、お釈迦さまの誕生をお祝いすると同時に、それぞれの「かけがえのない命の尊さ」に眼を向け、正しく生きることをお誓いする日にしたいものです。

 

成道会(じょうどうえ) 12月8日

12月8日は、お釈迦さまがお悟りを開かれた事をお祝いする「成道会」の日です。

お釈迦さまはシャカ族の王子として生まれ育つ中で、何不自由のない恵まれた

生活を送っていました。しかしある時「人は生まれてきた以上、必ず年老いてゆくし、

また病気にもかかる。そして何より死というものは誰にでも必ず訪れる」という

自然の摂理に気づかれます。この逃れようのない苦の現実をいかに受け止め、

解決することが出来るのか。お釈迦さまはその答えを求めて29歳の時に、

王子の地位も、約束された将来も、恵まれた財産も、そして

家族すらもすてて出家の道へと

入られたのでした。その後2人の修行者のもとで禅定を学び、

また6年にもわたる苦行を

続けられるのですが、この生活ではどうしても、本当の意味でのこころの安らぎを

得ることが出来ませんでした。

お釈迦さまは心と体の関係を「琴」にたとえて考えました。

「琴の弦は、緩んでいては良い音色を奏でることは出来ない。これは欲望に自らを

まかせた生活である。ここに本当の安らぎはない。しかし、

弦は張り過ぎると切れてしまう。

それは自らの命を失うような苦行の生活だ。ここにも、本当の安らぎは存在しない。」

欲望に任せた自堕落な生活でも、命を失いかねない苦行でもない

「ちょうどいい張り具合」

にこそ、本当の安らぎがあるのだと感じたお釈迦さまは、苦行を離れ、身体を癒し、

菩提樹の木のもとで坐禅に入りました。そして一週間の後、

ついにお悟りを開かれたのでした。

曹洞宗ではこのお釈迦さまのお悟りを讃え、また実践するために、

12月1日から8日までの期間「摂心会」という集中的な坐禅修行が

各地の修行道場などで行われます。

【ハンスト】瀬戸内寂聴が、澤地久枝が、子どもたちを守るために命をかける~経産省前テント広場

90歳の瀬戸内寂聴さんが、81歳の澤地久枝さんが、雨の中、命を削って原発反対を訴えた。2日、経産省前のテント広場で展開されているハンガーストライキに2人が参加。未来の子どもたちを守ろうと声をあげた。普段、メディアに報道されることの少ないテント広場は、〝大物〟登場に報道陣でにぎわった。ともに、未来を担う子どもたちを守ろうと、主治医の反対を振り切って参加した。5日には、国内の原発がすべて、停止する。これを機に原発のない日本にしようと、二人の女性は静かに、しかし力強く訴えた。

 

【こんなに酷い日本を残しては死ねない】

霞ヶ関の一角。経産省前に設けられたテントに、作家・僧侶の瀬戸内寂聴さん(90)はいた。一昨年に足を圧迫骨折した影響で、車いすに座っていた。

朝から激しい雨になるとの予報だったが、午前10時を過ぎても雨粒は落ちて来ない。

「私もあきらめていました。だから、朝起きて『えいっ』と念じたんです。雨を止める力はあるんですよ」

主治医に話せば反対されるのは分かっているから、内緒で京都から駆け付けた。法話などのスケジュールはぎっしり。この日は唯一、予定が入っていなかった。そこまでしてハンストに加わったのには、自分が動くことによってメディアに取り上げられ、若者たちに脱原発の意識を高めてもらいたいという思いがある。

「90歳のばあさんがこうしてテントに座ったら、マスコミは放っておかないでしょ。すると若者が報道を見る。若い人たちに、もっと原発の恐ろしさを知って欲しいんです。子どもとか孫の世代のことを考えると、こんなに酷い日本を残しては死ねません。今ほど酷い日本は無いと思います」

5日には、国内の全ての原発が停止するが、一方で大飯原発(福井県)の再稼働も着々と進められている。

寂聴さんは「再稼働しないと本当に思っていますか?」と集まった報道陣に逆取材。「今の政府のやり方を見ていたら、再稼働するんじゃないですかね。もっと『嫌だ』と言っていかなきゃなりません」

震災後、飯舘村の人々と語らう機会があった。その時の村民の顔つきや目つきが、いまだに脳裏から離れないという。

「このおしゃべりの私ですら、声をかけることができなかった。あの目、顔は怖かった。あまりに不幸で…。それくらい、彼らは酷い目に遭わされているんですよ」

福島の子どもたちを思うと、勢い、話は大手メディアの報道姿勢にまで及んだ。

多国籍軍によるイラク進攻の際、実際に現地を訪れて報道との違いを自身の目で確認した経験から「今回の原発事故でも、報道はまず疑ってかかっています。マスメディアはどうして本当のことを報道できないのか。まさに大本営発表を垂れ流した戦時下と同じではないか」。命をかけて福島を報じなさい、とも語った。

「一日くらい断食しても私は死にません、大丈夫」と笑顔を見せた寂聴さん。

「日本人は我慢することを美徳だと思っているが、言いたいことをもっと言うべきです。闘わなければいけません。私は、余生を原発にかけています」

 

【解決策の無いことが起きてしまった】

ノンフィクション作家・澤地久枝さん(81)は、これまでも度々、テント広場を訪れている。ハンストは前日の1日夕方から参加した。

「デモだけではなく行動したかった」

5日の全停止を機に、原発から完全に抜け出すと約束してほしい─。満州から日本に引き揚げてきた経験のある澤地さんにとって、原発事故で飼える故郷を失った人々の気持ちは痛いほど良く分かる。

「私には帰る日本があったけれど、原発でやられた人々には帰る希望がない。〝難民〟の気持ちは良く分かります。こんなこと、日本の歴史始まって以来のことです」

福島だけではない。東京だって、決して汚染されていないわけではないというのが持論だ。

「東京もやられています。海も汚された。魚を食べられない日がやがて来る。解決策の無いことが起きてしまったんです。起きてはならないことが起きてしまったんです。福島の人々は耐えるだけでなく、怒りの気持ちを持つことも大切です」と訴えた。

「今日はNYにいてそちらに行かれませんが、気持ちは皆さんと一緒です」。澤地さんは終始、坂本龍一さんからのメッセージを手にハンストに臨んだ。

「原発再稼働なんてまずできないんじゃないですか。国際的な監視の中で強行すれば、日本はどん底の国になってしまいます。それでも強行するのなら、女も男も一緒になって『何て馬鹿な事をするんだ』と声をあげるべきです」

昨年、膝を骨折し、脳梗塞も患った。主治医には当然、参加を反対された。それでも参加せずにはいられなかった。まさに命をかけた闘いなのだ。

 

【続々と寄せられる〝健康被害〟】

「未来を孕む女たちのとつきとうかのテント村行動」の椎名千恵子さん(65)=福島市=は、断食を始めて二日目。「フラフラしている」と冗談交じりに話したが、「自分自身を命を意識する状況に追い込むことで、命を断つことで闘いたいんです」

瀬戸内さんら著名人が参加したことには「世間へのアピール度が全然違う。

ああいう方に来ていただくことで、世間に認知されます。私たちの励みにもなりますね」と喜んだ。

しかし一方で、無名の自分たちがいくら頑張ってもなかなか取材してもらえないジレンマもある。マイクを握ると福島の子どもたちへの思いが募り、涙が止まらなくなった。

「先日、商工会議所主催のキッズパレードがありました。沿道では2μSVも珍しくなく、高い場所では10μSVもあった。どうして、子どもたちを復興のシンボルとして駆り立てるのか。3.11を早く忘れさせたい人々が福島ではのさばっている。私たちは山下(俊一・福島県立医大副学長)に命を預けたつもりはありません」

医学的な立証は難しいが、椎名さんのもとには様々な〝健康被害〟の報告が届いている。鼻血、肩甲骨の痛み、目のくま…。

しかし、福島の医師の中には、甲状腺検査をあっさりと断る者もいるという。

「病院の診察室で放射能の話題を切り出したら、医師の背後で看護師が両手でバツを作るんです。先生が診てくれなくなる、と。これは本当の話です。これが福島の実情なんです。もっと記者の方々には肌で感じて欲しい。ジャーナリストの本分を全うして、福島を伝えて欲しい」

ジャーナリスト・鎌田慧さんをして「90歳のハンストは歴史的なこと」と言わしめたこの日のハンスト。その陰で、多くの無名な人々の闘いが続けられていることも、忘れてはいけない

【自由すぎる(笑)お寺に貼ってある名言張り紙が、良いこと言っている風だけど思わず色々突っ込みたくなる】

病気や死への恐れ、人間関係から起こる悩みなど、人の一生にはさまざまな苦しみがつきまとうものです。ときには、自分の思い通りにならないことに対して憤り、その苦しみに振り回されてしまうこともあるでしょう。でも、できることなら苦しみに振り回されず、安らかに生きたいものです。

お釈迦さまの教えには、「人々を苦しめている根本的な原因は何か」、「苦しみから解放されるにはどうすればよいのか」という一貫したテーマがあります。

全ての人が避けることのできない様々な悩みに対し、お釈迦さまは「生きることは苦に満ちている。それは、あらがいようのない真理である。だから、生きることが苦しいのは当たり前ともいえるのだ」と説かれています。これだけを聞くと、なんだか救いのない話のようですね。ですが、お釈迦さまが伝えたかったのはむしろ、その解決方法。苦しみから解放され、安らかに生きるための方法を、仏教の教えとして私たちに残してくださったのです。

仏教が目指す境地は「成仏」、つまり文字どおり〝仏に成る〟ことです。"仏"とは世の中の真理に目覚め(=さとり)心は何にも乱されず、その智慧を活かして人々の苦しみや悩みを解決しようとする人を指しています。仏教や成仏というと、お葬式や死後の世界などを連想される方もいるかと思います。しかし、お釈迦さまが繰り返し説いていた教えは、私たちがいのちを授かっているこの"現世"で、いかに悩みや苦しみから開放され、イキイキと生きるかということに尽きます。つまり、"今"をイキイキと生きるための智慧、それが仏教なのです。 

まず、前述のとおり仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。なぜ苦しみが生まれるのでしょうか。仏教ではこの原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理にあると考えます。これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる――。つまり、苦しみから解放される、とお釈迦さまは説かれています。これが、目指すべき「涅槃寂静(仏になるために仏教が目指す"さとり")」です。
少し難しく感じられるかもしれませんが、それぞれをご自身に当てはめて考えていくと、とても納得しやすいお話になるはずです。それでは、これらの4つの言葉についてご説明していきましょう。

一切皆苦―人生は思い通りにならない

まず、お釈迦さまは、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである、という真理を説いています。仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく、「思い通りにならない」という意味です。この「苦」には、「四苦八苦」と呼ばれる八つの苦しみが挙げられます。

いかがでしょう。誰もが実感することばかりではありませんか? これらの苦しみを理解するためには、お釈迦さまが掲げた3つの真理を知る必要があります。

諸行無常―すべてはうつり変わるもの

世の中のあらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けているという真理です。
世の中の物事は常に変化を繰り返し、同じ状態のものは何一つありません。それにも関らず、私たちはお金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至るまで、様々なことを「変わらない」と思い込み、このままであってほしいと願ったりもします。それが、「執着」へとつながるのです。このような苦しみにとらわれないためには、ものごとは必ず変化するのだということ、全てが無常の存在であることを理解することが大切です。

諸法無我―すべては繋がりの中で変化している

全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。こう考えると、自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係のなかで"生かされている"存在であると気がつきます。

涅槃寂静―仏になるために仏教が目指す"さとり"

これは、仏教の目指す苦のない"さとり"の境地を示しています。
仏教に限らず、あらゆる宗教は「どうしたらみんなが幸せになれるのか」を追求します。しかし、世の中は自分の思い通りにならないことばかり。そんなとき、人は自分以外のものに原因を求め、不満になり、怒りを抱くものです。仏教では、こうした怒りは全て、自分の心が生み出していると考えます。その原因となっているのが、疑い、誤ったものの見方、プライドや誇り、欲望などの「煩悩」。こうした煩悩を消し去り、安らかな心をもって生きることこそ「涅槃寂静」、つまり"さとり"の境地なのです。そこに到達するためには、先に挙げた"諸行無常""諸法無我"をきちんと理解することが大切です。あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になれば、結果として幸せに生きることができるのです。

では、思い通りにならない人生をイキイキと生きるためには、どうすればいいのでしょうか? その答えが、後述する「四諦八正道」という教えに示されています。これは、お釈迦さまが苦しみのメカニズムを説き明かし、煩悩をコントロールして生きる方法を具体的に示してくださったものです。

四聖諦という教えでは、「なぜ苦しみが生まれるのか」や、「どうすれば苦しみを消し去ることができるのか」が説明されています。

つまり、お釈迦さまは「生きるということは思い通りにならないものだから、執着を捨てなさい。執着を捨てれば涅槃に達することができるから、そのために修行をしなさい」と説かれているのです。

その修行として、「八正道」と呼ばれる8つの正しい道が挙げられています。

これらの8つの正しい行動を行うことが、苦しみから開放されるための修行なのです。
また、偏りがない正しさを「中道」といいます。仏教ではこの思想をとても大事にしており、一方に偏ってもう一方を疎かにすることなく、決して両極端のものに執着することなく、自分自身の安らかな心で迷いなく正しく生きることの大切さを伝えています。八正道は、苦しい修行でも楽な修行でもない、この「中道」の実践的な修行の道でもあるのです。

これまで繰り返し説明されているように、世の中のあらゆる出来事や物質は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にあります。ものごとには、必ずそれが起こった原因があります。原因に何かしらの関係が縁となって加わり、結果が生じ、報いがあるのです。一切の現象はこういった因縁の相互関係の上に成立しているので、絶対的なものや不変なものはあり得ません。このように、仏教の根本には、あらゆるものは関わり合って存在しているのだという、「縁起」という教えがあります。

もちろん自分自身も同じように「無我」であり「無常」です。そして、何一つ思い通りになるものはなく、望んだとしても完全に手に入れられるものなどありません。それにも関わらず、人間はありとあらゆるものごとへ不変を望み、そこへ執着してしまいます。

仏教では、このジレンマによって苦しみや悩みが生じると説いています。煩悩は因と縁があるから生まれるものであり、それらの原因を取り払えば、煩悩もなくなります。こう考えると、苦しみに満ちたこの世界は、全て人の心が生み出しているものといえますね。

安らかに生きるためにまず知るべきことは、「世の中には思い通りにならないことがたくさんある。自分にとって都合のいいことばかりは起こらない」という現実です。そこを出発点にして、自分や世の中を見つめて、苦しみや悩みを取り去る方法を探しましょう。

そこで大切なのは、ものごとにこだわらないこと、偏った見方をしないこと。さらに、この世の全てはお互いに関係しあい、つながっているのだということを理解すること。

世の中のあらゆるものが無常であると知っているから、一期一会の出会いを大切にし、自分をめぐる仕事や人間関係の一つひとつのことも丁寧に謙虚に愛情を込めて行うことができます。全てが縁起によって成り立つものだと知っているから、自分以外のものへ慈悲の心をもって接し、一瞬一瞬を尊く生きることができます。生かされている"いのち"で毎日を大切に生き、自分本位でなく周りへの思いやりを持って行動することは、苦しみの原因である執着をコントロールすることにもなります。

これが"今"をイキイキと生きるお釈迦さまの智慧です。お釈迦さまは、全ての人々を慈しみ、苦しみから逃れて幸せになれるようにと願い、このような教えを今に残されたのです。

「海外では殺されても文句が言えない」日本で宗教戦争が起きない理由とは?

海外では、宗教や宗派の違いによる戦争が現在も起きています。

しかし、日本では宗教で戦争が起きることはありません。その理由が日本人の寛容な心にあると説き、世界にそれを伝えたいと願っている人がいました。それは現役の僧侶、松山大耕さんです。そこで今回、彼がTED×Kyotoで行った日本の宗教観に関するスピーチを紹介したいと思います。

お寺に生まれキリスト教の学校へ通った少年時代

松山さんの実家は仏教のお寺です。お寺の子どもとして生まれましたが、通った中学・高校はカトリックの学校でした。お寺に生まれたのに、キリスト教の学校に通うということは確かに珍しいことでしたが、松山さんの親族や友人は理解してくれていたそうです。

しかし、松山さんが大学生の時に、海外との宗教観の違いを思い知らされる出来事がありました。

「アイルランドでは殺されても文句言えないわよ?」

大学生の時アイルランドへ行った松山さんは、田舎のB&Bを訪れました。女将さんに、自分の生い立ち(お寺に生まれたのに、キリスト教の学校へ通ったこと)を話すと、「なぜあなたの国では、そんなことが出来るの?アイルランドでそんなことをしたら、殺されても文句言えないわよ?」と言われたそうです。

アイルランドは、カトリックを熱心に信仰している人が多い国です。また、アイルランドに限らず海外から見ると、日本のようにクリスマスを祝い、除夜の鐘を撞き、初詣へ行くという複数の宗教を信仰する行動は、ありえないことなのです。

しかし、日本の特定の宗教のみを信仰しない、寛容な宗教観は食にも通じていると松山さんは仰っています。

「メイン」が存在しない和食

例えば伝統的な懐石料理を注文しますと、先付、椀物から最後のご飯に至るまで「メイン」という考え方はありません。私は、この食と同じように日本人の宗教観も、ある特定の宗教だけを特別視するのではなくて、全ての宗教に共通する倫理観もしくは哲学、こういったものを日本人は大事にしていると思います。

ですから、日本人の宗教観というのはBelieve in somethingではなくて、Respect for somethingもしくはRespect for others、こういうスタイルが日本人の宗教観です。

 

一つのものだけを信じるのではなく、異なる教えに対しても敬意を払い、尊重する。確かにそうかもしれません。また、松山さん自身は仏教の教えを説く僧侶ですが、神社の神様に対してお経を上げることもあると明かしており、反対にお寺の中に神社があるケースも紹介しています。

次に、日本とインドの仏教における違いについても言及していました。

日本とインドの仏教の違いはカレーに似ている

例外はありますけれども、日本のお坊さんは妻帯を許されていますし、修業中はお肉、お魚を謹んで精進料理をいただきますが、修業が終わってしまえば特別厳しい戒律はありません。

 

もしこの仏教発生の地であるインドの方が日本の仏教をご覧になったら、これは仏教じゃないんじゃないかとおっしゃるかもしれません。インド、東南アジアを中心として信仰されている上座部仏教では、戒律の順守、それから経典の学習、瞑想の修業。こういったことを目的とされています。

しかしここ日本の仏教は、先祖供養、普段の生活の中での礼節を敬う、こういったことを重視しています。

 

インドの仏教で重視していることと、日本の仏教で重視していることは確かに違います。しかし、根底にある教えや哲学は同じだと仰っています。

私は、日本とインドの仏教の違いというのは、実はカレーに似ているんじゃないかなと思ってます。

インドではこのように、非常にスパイシーで辛いカレーをみなさん召し上がります。カレーもインドが発祥の地なんですけども、インドの方が日本の私たちが食べ慣れている甘くてまろやかなカレー、好きな方たくさんいらっしゃると思いますが、あのカレーを召し上がったら、これはカレーじゃないじゃないかと、こうおっしゃるかもしれません。

確かにこの、調理法、具材は違うかもしれませんが、このルーにお肉やお魚、そして野菜を入れて煮込んでご飯もしくはパンと一緒にいただく。このスタイルはインドでも日本でも共通しています。

 

カレーも仏教と同じように、見た目や味付け、具は違えど食べる方法(根底)は同じだと仰っています。本質に目を向ければ違うと思っているものも、実は同じなのかもしれませんね。

しかし、根底は同じであっても宗教が違うという理由で、海外では戦争が起きているのも現実です。これについて、松山さんは次のように述べています。

教義よりも大切なのは互いを尊重し、仲良くすること

確かに全ての宗教において、その教義に忠実である、守ること、それは非常に大事なことです。しかし世の中にはもっと大切なことがあります。

それは信じる宗教が違っていても、お互いを尊重し、そして仲良くするということです。日本では色々な宗教を信じている人がいますが、宗教が違うからといって、争いやもめごとといったことはほとんど起こりません。

 

しかしテレビでニュースを見ますと、世界を見渡しますと、ひとつの宗教を信じるあまり他の宗教の方と争ったり罵り合ったり、そういう場面が放映されます。しかし私はそれは本末転倒だと思います。

宗教の本質は盲目的にひとつのものを信じることではありません。世界にはたくさんの人がいて、それぞれ皆さん感謝の気持ちを持って、安心感を得て、そして自分の人生を全うする。その助けを提供するのがこの宗教の役割です。

 

自分の考えと違う人を攻撃し続けていては、安心感のある楽しい生活は送れません。お互いを尊重するということは宗教だけではなく、人間関係にも通ずるものなのではないでしょうか。

違う宗教を尊重する日本の宗教観は、世界の宗教家にも支持されているそうです。スピーチの最後に、松山さんが語った言葉を見てみましょう。

日本の宗教観を世界へ伝えたい

私この2年ほどで、前のローマ法王にご招待いただいてバチカンに行ったり、この4月にはここ京都ではダライラマ猊下にご招待いただいてシンポジウムに参加させていただきましたが、世界の宗教家が実はこの日本の宗教観に非常に期待されています。

ですから私は世界でも冠たる宗教都市ここ京都から、日本人のもつ素晴らしい寛容性のある宗教観、これをぜひ世界に伝えたいと思います。そうすれば世界はもっと素晴らしくて素敵な場所になると私は強く信じております。

松山さんのスピーチはこちらから。

海外では、現在も宗教による争いが続いています。

「お互いを尊重する心」が教義を守ることよりも大切だ、と説いてくれた松山さんのスピーチは、とても感慨深いものではないでしょうか。

タイ仏教の寺院で火事 1人ケガ 八王子市

9日昼頃、東京・八王子市にあるタイ仏教の寺院で火事があった。

 東京消防庁などによると、9日午前11時45分頃、八王子市宮下町にあるタイ仏教のプッタランシー寺院で火が出ていると通報があった。消防車31台で消火にあたり、寺と近くの建物の計4棟、500平方メートルが焼けたが、午後1時15分頃、ほぼ消し止められた。この火事で50代の男性1人がケガをしたという。

最終更新:4月9日(木)13時49分

日テレNEWS24

【日本の宗教家一覧】

日本の宗教家一覧(にっぽんのしゅうきょうかいちらん)は、特に日本における新宗教(新興宗教)を中心に、著名な宗教家の一覧を作成する。

 

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や行

わ行

【日本の仏教】

概説

日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。

現在の日本の仏教の概略について解説すると、文化庁が編纂している「宗教年鑑」などの統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属している。浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。

 

系譜・宗派

日本各宗派の系統

日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在する。「十八宗」と呼ばれる三論宗法相宗華厳宗律宗倶舎宗成実宗天台宗真言宗融通念仏宗浄土宗臨済宗曹洞宗浄土真宗日蓮宗時宗普化宗黄檗宗修験宗の一八の宗派がある。1940年の宗教団体法公布以前にはいわゆる13宗56派が公認されていた。13宗とは華厳宗法相宗律宗真言宗天台宗日蓮宗浄土宗浄土真宗融通念仏宗時宗曹洞宗臨済宗黄檗宗である。同法公布後、これら13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多いが、伝統仏教の13宗の系譜はいずれも現代に引き継がれている。ここではいわゆる伝統仏教13宗の宗祖と本山を記載する。

13宗以外の宗、13宗もしくは他の宗から分離・独立した宗、56派もしくはそれ以外の派、比較的近年に成立した仏教系の新宗教もしくは新興宗教については、それぞれの項を参照。

歴史

飛鳥時代

日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代552年欽明天皇13年)に百済聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。

仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸をとして仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国四天王寺大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。

天武天皇大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。

奈良時代

中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。

こうした「南都六宗」と呼ばれた、三論宗成実宗法相宗倶舎宗律宗華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。

平安時代

その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山高野山を与えてを開かせ、密教を広めさせた。平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたる。正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。だが、平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこでこうした外部からの侵入者から防衛するために僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。

鎌倉時代

鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。これらの中には、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや(『善人→「自力作善」の者=阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んでさとりを開こうとする者』でさえ往生できるのだから、悪人→我々のような煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのはいうまでもないことだ)」という悪人正機の教えを説いた浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏時宗があった。このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。

鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。

更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。

南北朝・室町時代

1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また、尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。このような武家と仏教界の接近は貴族文化及び武士文化に影響を及ぼし、義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画書院造茶の湯生け花枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。また、寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や祠堂銭(供養料)などを元手に金融業に進出するところもあった。また、当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし、高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。

曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗蓮如日蓮宗日親などが有名である。

戦国時代

応仁の乱後になると、治安の悪化とともに宗教勢力も武力を強めた。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体による宗教戦争も起こった。中でも加賀国一揆等の一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約80年に渡って国を支配した(主に徴税権と裁判権)。石山本願寺などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。

しかし尾張の戦国大名・織田信長は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち長島一向一揆石山合戦などが有名である。また、信長は、日蓮宗の僧と浄土宗の僧との宗論を主催した(安土宗論)。結果、浄土宗が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。

安土桃山時代

信長が本能寺の変で死ぬと、彼の家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺高野山を屈服させた。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く江戸幕府でも大きな問題として引き継がれていく。

江戸時代

豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。さらに人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし(寺請制度)、布教活動を実質的に封じた。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗の本願寺に対しては、お家争いにつけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させることもした。

また、1665年に江戸幕府は寛文印知諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制を行い、幕府が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の不施不受派はキリスト教と同様に厳しい弾圧を受けた[3]

1654年に来日した明の隠元隆琦黄檗宗を布教している。

明治時代

江戸時代後半より本居宣長を祖とする国学の延長により明治維新が成し遂げられ、国学的な明治政権が旧長州藩出身者により形成された。そのため、大政奉還により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少した。1871年(明治4年)に明治政府太政官達を出し虚無僧が在籍する普化宗を廃止した。また、不受不施派キリスト教の布教が解禁された。各宗派は仏教の近代化を推し進め、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。

大正時代

昭和前期

近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては1939年(昭和14年)の宗教団体法が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、1899年(明治32年)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。1927年(昭和2年)、1929年(昭和4年)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。

昭和中後期

出典・脚注第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)12月28日に宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1951年に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長と時を同じくして、法華経系新宗教創価学会立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。80~90年代にかけては、原始仏教系新宗教のオウム真理教オウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こし、これをきっかけにして1995年(平成7年)には宗教法人法が一部改正された。

  1.  総務省 (2013). 第六十三回 日本統計年鑑 平成26年. 東京: 日本統計協会. http://www.stat.go.jp/data/nenkan/index2.htm. 
  2.  文化庁「宗教年鑑」
  3.  高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P394-397

外部リンク

Wikipediaより 転載

【蚊を殺してほっとしたらアウト…仏教の地獄行き条件が超シビアだった】

■死後の世界…冥土の旅の始まり

 

私たちは、一つの生を終え、また次の生を受けるまで冥土を旅します。この四十九日旅の間が現世(現有)と来世(来有)のはざまであることから、中陰(中有)と呼ばれている

 

死者はこの冥途の旅の間、きわめて微細な体をしており、そして香を食物としております。そこから「食香」と呼ばれ、死者の為に線香を絶やしてはならないと言われる根拠になっておるのです

死者ははじめ,真っ暗な道を八百里,六日間一人で歩きつづけます

 

800里=3141.84km。一日に450kmは歩かなければなりません

そして七日目、来世の行き先を裁く最初の裁判官・秦広王の法廷(第一法廷)に立たされることになる。以下、都合七日間ごとに七回の裁きうけるわけである

 

■そしてあの有名な三途の川へ

「三途の川」は死んだ人が必ず通らなければならない川として言われています

 

7日目に渡るとされています


三途の川には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡る

三途の川を渡ると鬼婆と鬼爺に服をはぎ取られ、服は衣領樹の枝に掛けられる。これにより生前の罪の重さをはかり、結果は後の裁判に使われる

 

 

・親より先に亡くなった子供は「賽の河原」へ

 

三途の川のほとりには賽の河原(さいのかわら)がありまして、川を渡れない死者がいます。幼くして亡くなり冥途にやってきた子供達です

賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまう

 

報われることのない努力を課せられる場所とされている

 

民間信仰による俗信ですが、苦行を続けていればやがて地蔵菩薩が現れて子供達を救うとされています

 

■計7回の裁判で輪廻先の世界が決定する

49日の間、7日ごとに計7回の裁判を受けます。この裁判によって次に行く世界が決定

 

5回目の裁判はあの有名なエンマ大王の裁判になります

最後の四十九日目、ここで遂に泰山王による最終決定が下される。まず、死者に六つの鳥居を指し示す。そのそれぞれの鳥居の先には、六つの世界か広がっている。六つの世界すなわち「六道輪廻」の世界である

 

どの鳥居に進むかを死者自身が 決めるのである。ただ、自分で選んだつもりでも前世の業により結果は決まっている。これも因果応報である

 

■輪廻する世界「六道」とは?

 

六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと

 

輪廻転生では、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の6つの世界をぐるぐると生まれ変わりながら生きていくとされています

 

この輪廻から解脱し、仏になることではじめて、極楽浄土へ行くことができます

■仏教における地獄行きの条件が厳しすぎる…

 

六道の最下層。閻魔の審判に基づいて様々な責め苦を受けるとされる世界

 

それは我々の生活するこの世界から、30万キロメートルも地下にあると言われている


地獄行きの条件は当時の倫理観や仏教の教えに沿っているため、現在の倫理観や社会風俗などに合わない

 

故に厳しい…

 

難易度は現代人にとってエクストリームモード

 

八階建の高層マンションになっていて、広さは、ワンフロアの1辺が、1万由旬・ゆじゅん・(10万キロ)の 立方体の面積がある

 

八大地獄は、層を降りるごとに苦しみは10倍、刑期は8倍になる

 

 

むやみに生き物の命を断つと落ちる地獄。動物を殺して食べるのもダメ

 

ケラ・アリ・蚊(カ)・蝱(アブ)の小虫を殺した者も、懺悔しなければ必ずこの地獄に堕ちると説かれている

 

この等活地獄の中の衆人は互いに害心を抱き、自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺しあう

 

涼しい風が吹いてくると、再び生き返って、前と同じように苦しみを受ける

 

 

ちなみに殺し合いに参加しなくても獄卒に襲われるという、バトルロワイヤル地獄なのだ

 

獄卒=地獄で死者を責めるという悪鬼


 

人間界の時間に換算すると1兆6653億1250万年にわたって苦しみを受けることになる

 

嘘だろ…

 

殺生のうえに偸盗(ちゅうとう)といって盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちると説かれている

 

この地獄の鬼たちは、罪人を捕まえて、焼けた鉄の地面に寝かせ、焼けた鉄の鞭で、体中を打つ。また、焼けた鉄の斧で、体中についた鞭のあとにそって切り刻む

 

 

もちろん例の風が吹いて何度でも生き返ります。刑期は13兆3225億年

 

この地獄には、前に述べた罪状のほかに邪淫(みだらな行い)をした人が入る。浮気をしたり人前でエッチなことばかり言っているドスケベは、この衆合地獄行きである

 

牛の頭や馬の頭を持った鬼どもが、手に責め道具をたくさんもって罪人を山の間に追い込む。すると両側から山がせまってきて罪人を押しつぶしてしまう。また、大きな鉄の山が空中より降ってきて、罪人を砂の塊のように打ち砕く

 

刑期は106兆5800億年

衆合地獄までの罪状に加えて、酒を飲んだり売したり、酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたり、などということも条件

 

熱湯の煮えたぎる大釜や,大火の燃え盛る鉄室で苦しめられ,あまりの苦しさに泣き叫ぶことから名づけられている

 

刑期は852兆6400億年

 

生き物を殺し、他人の者を盗み、よこしまなる性行為、酒を飲み、そして嘘をついた者がこの地獄へ堕ちます

 

叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、更に大きな苦を受け叫び喚(な)く

 

刑期は6821兆1200億年

 

上記の5つの罪に加え、「邪見」(釈迦の教えに背く、危険な思想)を持つ者

 

 

この地獄の鬼は、罪人を捕まえて熱い鉄のうえに寝かせ、上に向かせたり、舌に伏させたりして、頭の先から足の先まで、大きな熱鉄の棒で打ったり突いたりして肉団子のようにする。仮に、この地獄のほんのわずかの火を人間世界のもってくるとすると、一瞬にすべてを焼き尽くすほどである

 

この焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も雪のように冷たく感じられるほど。刑期は5京4568兆9600億年

 

ここまで来ると現世でも相当レベルの高いスーパー犯罪者しか入ることはなさそうなので、一般人はどんなに悪くてもきっとレベル6まででおさまるだろう

 

更なる極熱で焼かれて焦げる。その炎は最大で高さ500由旬、横幅200由旬あるという。罪人の苦しみの声は地獄から3000由旬離れた場所でも聞こえる

 

 

1由旬=約11.3kmから14.5km前後。刑期は43京6551兆6800億年。転生するには宇宙が誕生し消滅するまでの時間の半分がかかるという

 

地獄の中で、いちばん恐ろしい地獄が、八番目の「無間(むげん)地獄」です。お経の中で、「阿鼻(あび)地獄」と書かれています

閻魔大王に阿鼻地獄行きの判決をもらうと、鬼が阿鼻地獄への穴へ放り込む。地獄に堕ちるまでなんと2000年もかかる

 

剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間(寸分・刹那)なく受ける。これまでの7つの地獄でさえ、この無間地獄に比べれば夢のような幸福であるという

 

刑期は682京1120兆年。転生はほぼ不可能

 

罪状:殺生


罪状:殺生+盗み


罪状:殺生+盗み+邪淫


罪状:殺生+盗み+邪淫+飲酒


罪状:殺生+盗み+邪淫+飲酒+妄語(うそ


罪状:殺生+盗み+邪淫+飲酒+妄語(うそ)+邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説き、また実践する


罪状:殺生+盗み+邪淫+飲酒+妄語(うそ)+邪見+犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦


罪状:殺生+盗み+邪淫+飲酒+妄語(うそ)+邪見+犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)+父母・阿羅漢(聖者)殺害



【 法話 】
この法話は、中高生を子供に持つ親御さんから「自殺を事前に回避出来る、よい手段を何かお持ちですか、住職は」と度々問い合わせが。よってこの度、以前に投稿させて頂いた法話を今日、再度投稿を。
読者の女子高生が「3ヶ月程前、友人が自ら命を断ちました。その日(自殺日)の前日、みんなでカラオケに。あんなに楽しんでいたのに。葬式終了後の挨拶で、その友人(故人)のお母さんが『食事の用意が出来たので、娘の部屋へ呼びに。ドアをノックしたと同時に、ドン、という音が。マンションの自室から投身を。あの音は恐らく、一生耳から離れる事は。家族葬にせず、あなた達お友達を葬儀に招いたのは、あるお坊様(拙僧の事)の法話を読んだからです。その法話には、19歳で自殺された子供の親御さんに、ご住職(拙僧)が言われた言葉が書かれてありました。 ◦◦◦ 出来うるならば、最期がこうだったからといって、この子の生きた時間全てを、否定する様な送り方だけは、して下さいますな。この子もこの子なりに、19年間、懸命に生きて来られたんですから ◦◦◦ なる話が』と、住職の法話を紹介されておられました」と。
続けて、この女子高生が「住職、質問があるんですが、自殺は永久に地獄、って本当なんですか。私の周囲にはそんな事を言う人達が」と。対し、拙僧「江戸時代に近松門左衛門という人がいて『曽根崎心中』を発表。その読み物が、心中増加の原因となったかどうかは定かではないが、心中が多発を。阻止する為『自殺は、永久に地獄行き』と、当時のお坊様達が方便で。結果、自殺者が減少を。現在の風評は、その時の名残りかな。哀しく他界されて逝った人を、根拠なき憶測で、更に、死者を追い込む様な言葉を向けるは、あかんよな。人間の死は、病気も、事故も、災害死も、突然死も、勿論、自死も、拙僧は全て寿命と考えています。1000人近くの葬儀、それ以上の人の『生き死に』に立ち会ってきた結果『この世の役目が終わった人が、向こうの世界に逝くんだな』と、そう思える事例が多々あった。自死だけが『地獄堕ち』なんて、そりゃ、あまりにも可哀想過ぎるでしょ。が、本当に『全ての死は寿命』だとしても、自殺は、止められるもんなら、止めた方がいいよね」と。
更に拙僧、この女子高生に「ある檀家の爺様が拙僧に『時折、先に旅立った父や母、友人達、20代で他界した息子(交通事故)は、今頃何処で、何をしてるんだろうか、と思う事があるんだよな。住職よ、浄土は絶対にあるんだよな。向こうに逝ったら、また、みんなに会えるんだよな』と懇願する様に。対し、拙僧『死んだ事がないから、浄土があるかどうかは、はっきりとは言えんが。拙僧も、祖父母、父母には会いたいし、向こうでも家内と一緒に永久に暮らしていきたいから、そういう場所は必ずあるんだ、と信じたいよね』とその爺様に言ったんだよね」と、この女子高生に。「そうですよね。死んだら終わりは、あまりにも寂しい。その様な場所があると信じた方が、夢も希望もあって、いいですよね」と。
因みに、この様な自殺の話は、遺族の要望を受けて、投稿させてもらっています。遺族が投稿を要望される意図は「こんな悲しい思いをするは、私達だけで沢山。子供達のほんの僅かな異変をも、気付いてあげて下さい」と世間に、が、本意のようで。
わが寺にも、自殺をした若者が、何人かおります。その内、数人が19歳という年齢。この19歳という年齢での自殺は、世間的にも多いそうですね。つまり、就職であれ、進学であれ、社会に出て1年目というが、何か意味があるんでしょうね。わが寺に限っての事ですが、自殺の原因は、仕事関係、友人関係、いじめ、などではなく、大半が親子の不仲(家庭環境)にて。年間に何人かですが「死にたい」と、お寺へ相談にやって来る若者(檀家の子供以外にも、拙僧の法話を読んだ方も)がいます。が、相談にやって来る若者は、死なないかな。『生きたい』という気持ちが、どこかにあるから、お寺へ相談に。死ぬ事(自殺)を決定(決意)している人は、他人に邪魔をされたくないから、決行するその日まで、誰にも気付かれない様に行動を。
この様な話を投稿すると「自殺を防止するよい方法は、何かないのですか」という問い掛けがやってきます。なかなか難しい課題ですが、その質問者達に「子供は幼い頃から『これは何、あれは何』と疑問を、親にぶつけてきます。最初の頃は丁寧に答えてあげていた親も、それが長く(時の流れ)なってくると、面倒臭くなってきて、適当な対応をするように。子供の疑問、抱える問題は、年齢を重ねる内に、切実な問題に変わってきているのに、親は「そんな事、後でいいでしょ。今は、忙しいの」といい加減にあしらう様に。それが続くと、子供は親に頼る事をやめ、親に不信感を持つように。相談相手を失った子供は、解決されてない不安(問題)が次々と心に溜まり、最後は悲しい結末に。拙僧の経験(相談を受けた)では、このパターンが、最も多いような気がします。
お寺に縁(ゆかり)が深い子供達(幼い頃からお寺に慣れ親しんでいる)なら、家族、友人、先生の中に、話す相手がいなくても『お寺に行けば、話を聞いてくれる住職がいる』と足を運んできます。わが寺には、そんな子供達が何人もいます。お寺に限らず、話を聞いてくれる人、話が出来る場所、が周囲にいるか(あるか)、いないか(ないか)では、最悪の状況を回避するに、大きな違いが出てくるでしょうね。
因みに、新型コロナ感染拡大後の小中高生の自殺者が、2020年には、499人(小14人、中146人)。2021年には、473人(小11人、中148人)。2022年には、過去最高の514人(小17人、中143人)と。自分の事だけで精一杯だった(大人達、親達)ここ数年、子供達は周囲に自分の思いを話せる相手が、いなかったんですかね。人間関係が希薄になってきた昨今、これは大きな社会問題ですわな。
因みに、相談を受けてきた中で拙僧、1つ大変気になった事があります。親の勝手な思い込みで、子供のSOS を見逃している親が、何人もいたという事です。「私の子供はおとなしくて、反抗など全くしないんですよ。偉いでしょ」と自慢げに。それに対し、拙僧「いやいや、子供はわがままで、反抗するもの。成長段階では必ずあるものです。それをしないという事は、親に気を遣って生活をしていると何故、気付かないんですか。大変な事になる前に、考えましょうや」と。その言葉に対し親は『何の話』という表情で、ポカン、と。
「住職さん、ある日突然、妻がブチ切れて『別居する』と私に言い出して、訳を聞くと『自分で考えろ。自覚がないんか。何度も注意したぞ』と、更に、激怒を」と。「じゃ、ある日突然の話じゃなかったんだ。あなた、本当に身に覚えがないの」「いや、ないという訳では。私の潔癖のせいではないか、とは思うんですが」「結婚生活は何年ですか」「15年を超えました。私の潔癖症は、結婚前から妻は、知ってるはずなんですが。だから、何で今更、と」「なるほど。やっぱり、あなたは自覚がないんだね」と。
対し、この読者男性が「自覚がないって、どういう事ですか」と。「15年前の頃の潔癖症より、今現在のあなたの潔癖症の方が、間違いなくエスカレートしてると思いますよ。今、あなたが身に付いている潔癖は、今現在持っている知識からなる潔癖症でしょ。潔癖の情報が新しく入ってくる度に、どんどんエスカレートしていくばかりですよ。奥さんは恐らく、我慢が限度を越えたんだろうね」「どうしたら、いいですか」「これ以上、潔癖の知識を入れない事だね。例えば、ですが『ゴキブリは、洗わない手と不潔さは大差はない』と、その筋の専門家が言われておりました。そう考えたら、ゴキブリを過度に嫌う必要なんてないですよね。人間はゴキブリと同等の不潔な手と、四六時中一緒に過ごしてるんだから。生理的にあの様相が気持ち悪い、というは別にして。英国では、ゴキブリは『幸運の虫』という事で、引っ越しの時には、前の家から数匹連れて、新たな住まいに行くらしいですよ」「そうなんですか」「そりゃ、皆が皆、そうするとは思えませんが、英国人と結婚して25年間、ロンドンで住んでいる妻の妹が『英国人は日本人みたいには、過度にゴキブリを嫌ってないよ』と言ってますよね。潔癖症はどこかで、拘り過ぎを抑える必要がありますよね」と、この過度の潔癖症読者男性に。
続けて、この読者男性に「この話は余談ですが、江戸時代、臨済宗の良寛さんの庵に、旅人が一夜の宿を求めに来られたと。対し、良寛さんが『これで足を洗いなされ』と桶を。次の朝『これで顔を洗いなされ』と良寛さん、昨夜の足洗い桶を。『えっ』と旅人が躊躇すると『早く顔を洗ってくれんかい。その桶で米を洗わにゃならんでな』と。この話を檀家さんに話して聞かせると『そりゃ、あかんやろ、良寛さん。汚いがな』と。対し、拙僧『その桶が、何に使われていた桶かを知らなければ、平気で使う事が出来るでしょ。良寛さんもその桶で洗った米を食べる訳だから、綺麗に洗って使ってるでしょ』『なるほど、そういう事か。良寛さんは、拘るな、と言いたかったんだね、住職』と檀家さんが。一時期、食堂の厨房の料理人が、料理に自分の唾を吐き掛けて、お客さんに出していたという報道があったでしょ。そんな事をされていても、それを知らなかったら、お客さん達は『美味しい』と平気で食事をするでしょ。いちいち『そんな事をしてるんじゃないか』と憶測で疑っていたら、外食など一切出来ないですわな。この外食に限らず、人間って、知らないで済む事なら、知らないでいた方がいい、という事が少なからずありますよね」と。
因みに、昆虫学者の梅谷献二さんが「ゴキブリは世界に5千種、日本にいるは60種、屋内にいるは10種。3億年以上前に出現し、姿を変えずに現代まで。食器を舐める習性に由来して江戸時代には『御器噛り(ごきかぶり)』の名が。野口雨情の童謡『黄金虫(黄金虫は金持ちだ • • • 』の黄金虫は、ゴキブリの事と。沢山住み着くと裕福になるという伝説が。拙僧のお寺は山の上にあるので、ゴキブリやムカデは、なんぼでも家の中に。拙僧に見つかった時は、その子らはまだ、寿命が。が、拙僧の妻や、同居している妻の母親に見つかった時は、その子ら(ゴキブリ、ムカデ)は、それまでの寿命にて。
余談ですが、拙僧が高校生の頃、通学路の途中に、それは、それは、汚い店だが、美味しいちゃんぽん屋(現在は閉店)さんが。友人達と食べていた時、拙僧のちゃんぽんの中に小さなゴキブリが1匹、死体で。箸で摘んで捨てて、その箸を手拭きで拭いて食べようとすると「げぇ」と友人達が。対し、拙僧「何が、げぇ、や。出汁(スープ)は同じやで。お前らも既に、散々そのスープを飲んでるやんけ。今更遅いわ」と。店長の親父さんを見ると、我関せずの顔で、仕事を。この話を以前、法話で載せたら、皆さん、引かれたみたいで。
【追伸】
あるゴキブリの夫婦あり。主人が息を切らして逃げ帰って来て「あの人間め、生まれ変わったら今度は俺が、ゴキブリに転生したあいつを見つけ出して、踏み潰してやるわい」と。対し、奥様が「なれば、あんたはこの度、その仕返しをされただけじゃないの」と冷ややかに。人は、人にした分だけ、人からして返される。恩返しも、仇討ちも。

苦しきことよ・・まことにその通りですね 一切は苦なり

2023/10/01
お疲れ様です。10月に入りました。

先日ご案内した仏教カウンセラー2期生の
開講式も無事終わりました。

1期生修了生の方も身近なところで学びを活かされているそうです。

従業員の方に、一切皆苦(いっさいかいく)についてお話したら
そうですね、確かに人生って思い通りにならないですよね。
なんか気持ちがほっこりしましたと言われたそうです。

仏教の言葉とは
時に、思いがけなく深く相手に伝わることがありますね。
仏教カウンセリングとは仏様によるカウンセリングなのです。

仏教の説話にこんなお話があります。

ある新米坊主が、
托鉢に回っていました。

信心深い老夫婦に家に行くと
お釈迦様のお弟子であるということで
大変なおもてなしを受けたのですが
その老夫婦から

一度でいいからお経を説いて聞かせていただきたい

と頼まれたのです。

実はこの小坊主まだお経を習っていなく
人に説いて伝えることができません。

頭をかきながら

「うーん、苦しきことよ、苦しきことよ」

とつぶやきました。

すると、老夫婦は

「仰る通りですね。
人生とはまことに苦しいもの
思い通りにならないものでございますね。」

と涙を流して喜んだという話です。

苦とは、インドの言葉でドゥッガといい、
思い通りにならないという意味合いがあります。

一切皆苦、すべては皆、苦というと
とても悲観的に感じますが、
すべては思い通りにならないと読み替えると
ホントにその通りだなーと思いますね。

もし、このお話、ちょっとでもそうだなと思ったら
誰かにシェアしてみてください。

仏教の教えを解り易くかみ砕いて
周りの人に伝えることができる人を少しでも
増やしていきたいと思います。

【おかもん仏教セミナーのご案内です】

各地での講座のご縁です。

10月14日(土) 静岡 文明寺
静岡県裾野市深良2482  9時半~行事  
10時30分ごろ法話
参加費 お気持ち制 お弁当付き!

★曹洞宗のお寺 文明寺(もんみょうじ)
で法話をさせて頂きます!
一般の方もご参加できますので、
このメールに返信でかまいませんのでお問い合わせください。


11月2日(木)~11月4日(土)北海道
3日と4日は札幌でセミナーです。
2日は夜、お食事でもできたらと思っています。
詳細は遠慮なくお問い合わせください。   


12月8日(金)~10日(日)
九州福岡で講座です。
8日(金)の夕方につきます。
9日 博多でセミナー
10日 空いてます!
詳細は遠慮なくお問い合わせください。

それではみなさん今年もあと3カ月ですが
頑張りましょう!

命のメール 365日 24時間 受付致します。           Apex product 命を守り隊 !!

「死にたい」「消えたい」「生きることに疲れた」など、あなたのそんな気持ちを素直にメールして下さい。
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