Apex product 【 昭和の楽しい時代㉛ 】

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「キネマの天地」(1986)は松竹大船撮影所50周年記念作品。監督は山田洋次。渥美清、倍賞千恵子など「男はつらいよ」の山田組の俳優がこぞって出演。
松竹映画の象徴である「蒲田行進曲」(1982、つかこうへい原作・脚本)が東映出身の深作欣二監督だったことから、野村芳太郎プロデューサーが無念に思い、松竹内部の人間で「過去の松竹映画撮影所」を映画化したいという思いから制作された。
全編に流れる軽快なリズムの”蒲田行進曲”が耳に残る。映画ファンにはたまらない映画撮影の舞台裏が描かれる。
松竹が撮影所を大船に移転する直前の1934年頃の松竹蒲田撮影所が舞台。
城戸四郎所長以下、若き日の斎藤寅次郎、島津保次郎、小津安二郎、清水宏ら気鋭の監督たちが腕を競い、田中絹代がスターへの階段を上りかけた黄金期。
この時代の映画人たちをモデルにして書かれた脚本には井上ひさし、山田太一も参加。また浅草の映画館の売り子からスター女優になる主役の「田中小春」役を藤谷美和子が降板したため、役モデルと同様に新人の有森也実が抜擢された。
映画が「活動写真」と言われていた時代で「映画」というかわりに何度も「写真」という言葉が聞かれる。まさにモーション・ピクチャー。映画館は「小屋」。
映画撮影の舞台裏を見るようで面白い。「笑点」座布団運びの山田隆夫が照明担当で出演しているほか、二十歳前後の出川哲朗、エドはるみも出演。
浅草の帝国館で売り子をしている田中小春(有森也実)は、旅回りの役者だった父・喜八(渥美清)と二人で長屋で暮らしていた。ある日、松竹の小倉監督(すまけい)の目にとまり、蒲田撮影所を訪れたところ、いきなり端役に駆り出された。
しかし、その演技がうまくいかず落胆して父の下へ帰る。そんな小春を助監督の島田(中井貴一)が迎えに来たことから、気を取り直して撮影所に就職することになり、大部屋女優として出発する。
その一方、小春は、熱心に映画を語る島田に徐々に惹かれていく。翌年、小春は大作「浮草」の主役に抜擢される。壁にぶつかり帰ってきた小春に喜八は一座の看板女優だった母との恋愛話を語って励ます。そのことがきっかけで撮影は成功し、映画は完成する。
一方、喜八は、隣に住むゆき(倍賞千恵子)・その息子・満男(吉岡秀隆)とともに帝国館に「浮草」を観に行き、娘の姿をスクリーンで見ながら静かに息を引き取る。
島田と小倉監督は、「蒲田まつり」で蒲田行進曲を歌う小春を見ながら喜八の訃報を受け、小倉は、「娘の晴れ姿を見ながら死んだか、旅役者のおとっつぁんは」とつぶやく。
当時大女優と言われた岡田嘉子をモデルにした川島澄江(松坂慶子)が新作「浮雲」の撮影中に、”恋の逃避行”で姿を消したため、新人の田中小春(モデルは田中絹代、有森也実)に役が回ってくるのだが、何度もNG。旅芸人の父のアドバイスで、挑戦して、監督が「テスト」と声をかけるが実はカメラを回していて、演技も最高だった…というエピソードはぐっと迫るものがある。
音楽喫茶のようなところで、木の実ナナがドイツ語で「会議は踊る」を歌うシーンは、思わず身を乗り出した。
警察から追われている男・小田切(平田満)は、なにかにつけ「ダンケ」(ありがとう)を連発。小田切が身を寄せた後輩で助監督の島田(中井貴一)の家に「マルクス」の本があったが、警察が「マルクスなんか読んでやがる」といった本は、実は映画俳優の「マルクス兄弟」に関するものだった。「マルクスと一緒に写っているこの女は?」「女房だろう」といった具合(共演女優だが)。
7月14日は脚本家 #伊上勝 先生のご生誕日です。ご存命なら今年92歳でした。合掌。
(隠密剣士、悪魔くん、仮面の忍者赤影、ジャイアントロボ、帰ってきたウルトラマン、ガッツジュン、仮面ライダー、仮面ライダーV3、人造人間キカイダー、超人バロム・1、スーパーロボットレッドバロン、イナズマン、闘えドラゴン、仮面ライダーX、忍者キャプター、5年3組魔法組、ほか多数)
長谷川哲夫さん
(1938年7月15日-2023年1月1日)
俳優。
富山県下新川郡出身。
身長175cm、体重67kg。
趣味はゴルフ。
俳優座養成所の第10期生
(同期は西沢利明、砂塚秀夫、中野誠也、和田周、谷育子)。
1962年にテレビドラマデビュー。
『水戸黄門』で徳川綱吉を18年間演じ(歴代の綱吉役では最長)、
34回ゲスト出演したほか、
各時代劇作品にも将軍役としてセミレギュラー出演。
『3年B組金八先生』には和田政伸校長(のちに教育長)役でレギュラー出演。
妻は伊藤弘子、娘は上原真美。
妻方を通じて
千田是也、ジェリー伊藤、中川安奈らと縁戚関係。
2023年1月1日、
内臓疾患のため東京都内の自宅で死去。
84歳没。
(長谷川哲夫)
『リボンの騎士』
何度も再放送で視てましたが、主題歌と副主題歌が今でもお気に入りです🎵
稲葉義男さん
(1920年7月15日-1998年4月20日)
俳優。
千葉県成田市宗吾出身。
日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒業。
劇団俳優座に所属。
芸術小劇場在籍中に応召。
1950年俳優座に入り、
「三文オペラ』『桜の園』などの舞台に立ちました。
映画では『七人の侍』で副将格として勘兵衛を補佐する五郎兵衛役を演じた他、
多くの作品に出演し名脇役として活躍。
また、
『ダイヤル110番』や『ザ・ガードマン』での刑事役や警備員役などテレビドラマにも多く出演。
時代劇では善人役での出演が多いですが、悪役として出演することも。
1998年4月20日、
心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。
77歳没。
(稲葉義男、中央の人物)

7月14日は女児向け着せ替え人形「#リカちゃん」発売56周年です♪

♥️2023💃7/15 瀬古利彦(67歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/15 さゆり(かつみ・さゆり 54歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

昭和30年代は落下傘のようなスカート流行したらしい。お洒落ですね。

⭕️昭和の兄弟写真🌸🌸🌸
🟣北野大、北野武❤️💚💜

7月15日は「週刊少年チャンピオン」創刊54周年です。おめでとうございます♪ (*´∀`*)ノ

♥️2023💃7/15 永瀬正敏(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

TBSで70年代に放送していた大映ドラマ
事件狩り。石立鉄男さんが弁護士役。

♥️2023💃7/15 ミル・マスカラス(81歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

『燃えろアタック』1979  荒木由美子
1979年より放送された荒木 由美子さん主演ドラマ『燃えろアタック』が大人気。
原作 : 石ノ森章太郎。東映 : 制作のバレーボール スポ根ドラマ。全71話。
チームメイトの一人に『三原順子』 (現 : じゅん子) さんがいました。写真⇒と、下段右が順子さん。出演時、驚きの14歳。
でも、歌手デビューや『3年B組金八先生』出演のため、第34話で降板しました。
のちに中国で『燃えろアタック』が『排球女将』(バレーボール女子キャプテンという意味)というドラマ名で放送され、主演の荒木由美子さんは放映当時、同世代の中国の視聴者の中で絶大な人気で、視聴率80%以上を記録する大ヒットとなりました。😀

ジャングル黒ベえすきでしたね

かげろうお銀
入浴のフィギュアもありました。
古川登志夫さん
(1946年7月16日-)
声優、俳優、ナレーター。
元大阪芸術大学短期大学部教授。
青二プロダクション所属。
妻は同じく声優の柿沼紫乃。
栃木県栃木市(旧下都賀郡大平町)出身。
農家の10男5女の15人兄弟の末っ子として誕生。
長兄の善一郎は
太平洋戦争時に重巡洋艦鳥海の機関砲手を務めていましたが、
艦が爆撃を受けてフィリピン海で没し、
古川が生まれる前に22歳で戦死。
古川が生まれた時、
両親が「この子は善一郎の生まれ変わりだ」と言っていたといいます。
古川が芸能界を目指すことになったきっかけを作ってくれたのも、
兄の忠治で、
「何かひょうきんでおもしろいからそういうことをやらせよう」と
東京から児童劇団のパンフレットを送ってきました。
そのパンフレットに掲載されていた子役が、
当時普及し始めたばかりのテレビでよく観ていた
『月光仮面』の出演者が多数掲載されていたため興味を持ち、
中学1年生の頃、
12歳で劇団日本児童に入団することに。
当初は栃木から東京へ通っていたが大変だったので、
一年ほど経って親元を離れ東京の兄の元で暮らすように。
父の「田舎で銀行員になれ」という猛反対を押し切って、
俳優への道を踏み出します。
東京都立第四商業高等学校に進学後は演劇部に所属しており、
演劇部の先輩に富田耕生、関根信昭。
ある日、
先輩に連れられて劇団手織座公演のマクシム・ゴーリキー作『どん底』の公演で初めて新劇を観て
「よし、俺はなんとかしても役者になるぞ……」と演劇を志します。
大学は、
演劇が学べる学科をということで日本大学芸術学部演劇学科に進学。
在学中は、
新劇史は秋庭太郎の授業を選考し、殺陣同志会に在籍。
大学中退後に舞台俳優になろうと劇団「櫂(KAI)」に参加。
その劇団の座長をやっていた中田浩二に誘われ、
中田が出演していた海外ドラマを収録したスタジオを見学した際に
ディレクターやオーディションを紹介されました。
大学には3年半在籍しましたが大学紛争(日大闘争)が激化、
卒業制作の芝居を作りに登校したところ
バリケードで入り口が封鎖され大学構内に入ることができず、
そのままフェードアウト。
現代制作舎というプロダクションにも所属中の1975年前後には、
『新宿警察』など実写のテレビドラマに出演。
当時の本業では食べていけず、
アルバイトも掛け持ち。
声優として最初に出会った作品は
25歳の時の東北新社提供の『FBIアメリカ連邦警察』、
初レギュラーを『大草原の小さな家』と回想。
大学中退後は洋画のアテレコをしていましたが、
1974年にアニメ『ゼロテスター』の隊員役で声をあてています。
古川自身はアニメ声優としてのデビューを
1976年の『マグネロボ ガ・キーン』の北条猛役だと考えていました。
30歳の時にのちの青二プロダクションの社長を経て、現・相談役の古市利雄に
「新作のアニメを作るんだけれど、
声優のオーディションを受けてみないか」と
声をかけてきて、
それまで、兵士Aなどの端役を演じたことがありましたが、
絶対に無理だろうと受けたオーディションで主役に抜擢され、
以降アニメの仕事が一気に増えました。
そのため、
劇団の稽古に立てず舞台にも出られないため、
永井一郎に誘われて、青二プロに移籍。
声優として、
二枚目から三枚目まで、幅広い役をこなします。
声優業以外にも、
1980年には
「テーマ主義に立脚したオリジナル作品の上演」を標榜して劇団青杜を創立し、
代表として多くの公演で作・演出を担当。
2003年に解散後も劇作活動を続けています。
1978年に古谷徹ら声優仲間とともに
バンド「スラップスティック」を結成(古川はギター担当)し、
数々の歌番組で歌を披露し、1986年まで活動。
もともとは二枚目役を演じていましたが、
『うる星やつら』の諸星あたるで初の三枚目を担当。
以降、二枚目半・三枚目が増加。
現在まで
2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された
『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で
第9位に選ばれました。
2019年4月より、
青二プロダクション附属俳優養成所・青二塾東京校の塾長に就任。
(古川登志夫)
アパッチ野球軍
初回放送からセクハラシーン満載で衝撃を受けた少年時代でした😅
トニー谷さん
(1917年10月14日-1987年7月16日)
東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)銀座出身の
司会者、舞台芸人(ヴォードヴィリアン)。
リズムに乗りそろばんを楽器のようにかき鳴らす珍芸が売りで、
妙な英単語を混ぜたしゃべりは
「トニングリッシュ」(またはトニーグリッシュ)と称されました。
短めのオールバックにコールマン髭、吊りあがったフォックスめがねがトレードマーク。
家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っています。
東京市京橋区(現:東京都中央区)銀座に生まれ、
日本橋区小伝馬町(現:中央区日本橋小伝馬町)に育ちました。
実の母は長唄の師匠。
しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出ました。
戸籍上の父は電気器具商。
愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだといいます。
子供のころは下町で有名なそろばん塾「大堀塾」でそろばんを学んでいました。
小学校時代から成績優秀で、
地元の名門である東京府立第三中学校に入学。
英語と図画が得意だったものの、
学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、
神田の電機学校に通わされました。
1934年に実母が病死、
ついに実の父母ともに失いました。
戸籍上の父は再婚、
父と継母にとってトニーは他人であり、
トニーへの虐待がますます深刻になりました。
そのため、家を出て自立。
1935年、日本橋小舟町の薬屋に就職。
1938年、召集令状が来て近衛歩兵第1連隊に入隊。
1940年に除隊して第一ホテル東京に就職。
ホテルの開業記念日には率先して演芸会の進行役を務め、
時には自ら出演して人気者に。
1942年に最初の妻と結婚しましたが、
1か月後に再度出征。
その妻は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明に。
終戦まで一兵卒として南京や上海を転戦したと伝えられていますが、
現地で除隊して上海やシンガポール、マニラ、香港でバンドマンやナイトクラブの経営者をしていたという言い伝えもあり、
この時期の行動は詳らかにされていません。
軍隊での階級は陸軍伍長だったと伝えられます。
捕虜収容所生活を経て1945年12月に復員。
1946年11月、
事務員としてアーニー・パイル劇場に就職。
主に大道具の仕事をこなし、
やがて伊藤道郎の元で演出助手として『ミカド』の上演にかかわります。
2年後、
日本に進駐軍のアメリカ赤十字クラブが開設され、
ここに引き抜かれて進駐軍相手の慰問芸能団編成の斡旋に関わり、
有名芸能人とのコネをつくりました。
1948年3月、
赤十字クラブで知り合った女性と再婚。
しかし勤務をさぼって内職の司会業に精を出している最中、
スポットライトの過熱による失火事件が起き、
その責任を問われて赤十字クラブを解雇。
同年6月、東宝渉外部に転職し、
日劇ダンシングチームなど出演者の起用を行っていました。
「トニー」という名はこの時外人出演者によってつけられたあだ名(姓を略。タニー→トニー)。
トニーは芸人になったとき、以上の過去をすべて封印。
有名人になった後、
少年時代の遊び友達から「正ちゃん!」と呼びかけられても「人違いでしょう」と平然と答えました。
軍隊時代の戦友から訪問を受けても門前払いを食わせて「いまに覚えてやがれ!」と怒鳴られました。
継父と二人の妹から自宅に訪問を受けても、
「かねて申し上げてある通り『過去のどなた』ともお付き合いはしておりません。
たとえ近しい方とも。
私が有名にならねば訪ねてもこないのに。
重ねて申しあげます。
一切お付き合いしません。
楽屋への訪問、知り合いといいふらす件、全部お断りします。
私の一家、一身上のことは、自分でやりますから」
と拒絶。
1949年、
日米野球のため米プロ野球サンフランシスコ・シールズ軍が来日。
芝のスポーツセンターにおける歓迎会の司会は
スケジュールの都合で、トニーが司会の代役を務め、
電撃的な芸人デビューを果たしました。
以後、
「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」「ネチョリンコンでハベレケレ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」「バッカじゃなかろか」など
独特の喋りで爆発的な人気を博します
(なお「ざんす」調の始まりは、
トニーが兵庫県宝塚市にある新藝座に出演したとき、
毎日宝塚会館へダンスに通って、
そこで知り合った兵庫県芦屋市の有閑マダムとの会話からヒントを得たといいます)。
影響は凄まじく、
日常会話で、
都合の悪いことを「家庭の事情」だと誤魔化すことは古くから多々ありましたが、
トニーがこれを流行語にしたせいで、
うかつに「家庭の事情」と持ち出せなくなった、
と言われたほど。
世間がジャズブームの波にのると、
ジャズコンサートの司会者として引っぱりだこになり、
芸能界の寵児と呼ばれました。
1951年には
「帝劇ミュージカルズ」第1回公演『モルガンお雪』で
榎本健一・古川ロッパや宝塚歌劇団在団中の越路吹雪と共演。
東宝に芸人として専属となり、
舞台は日劇ミュージックホール(初出演は1952年9月26日)、
映画は東宝映画・宝塚映画中心に出演。
三木のり平、森繁久彌、柳家金語楼らと共演が多数。
出演映画は1953年には20本に上り、
総数で100本を超えます。
当時のトニー谷は「アプレ(アプレゲール)芸人」
として森繁久彌と並び称される存在でした。
トニー谷によって発掘された芸能人に
E・H・エリック、岡田眞澄兄弟がいます。
1955年7月15日、トニー谷長男誘拐事件が発生。
人気絶頂期にあった芸人の子息が営利目的で誘拐されたとして
大々的にマスコミで報道され、世間は大騒ぎに。
犯人は7月21日に逮捕され、長男は無事救出されましたが、
犯人は犯行の動機で「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」
と語りました。
被害者であったにもかかわらず、
マスメディアによって出自・前歴など秘密にしていた部分の多くを徹底して暴かれ、
この事件を境に人気は急に凋落。
その頃、
ラジオ・映画中心の時代からテレビの時代への過渡期でもあったため、
仕事は激減し東宝との専属契約も打ち切られました。
1955年より1960年代前半まで人気が低迷。
その後、
新日本放送のラジオ番組だった『ニッケ アベック歌合戦』を、
1962年によみうりテレビがテレビ化して日本テレビ系全国ネットで放映開始。
この番組により、第一線へのカムバックを果たしました。
出場者がリズムに乗って舞台に出て、
司会のトニーが
「♪あなたのお名前なんてえの」と出場者に聞き、
出場者はリズムに乗って答える、というのを定番としていました。
トニーはそろばんでなく、
拍子木を両手に持ってリズムを刻んでいました。
また、1968年には
藤田まこと主演の時代劇コメディ『てなもんや三度笠』(朝日放送)に出演。
山本リンダ扮する見世物師の娘・成田屋おこまの商売敵にあたる興行師「四ツ目屋東十郎」を演じました。
第301話「長島の難船」では、
トニー自ら発掘したE・H・エリック(アメリカの興行師、ウィリアム・クラウン(WC)役)と共演。
その後、ハワイで休養した後、
1971年10月7日からよみうりテレビ製作の日本テレビ系で『トニーの外人歌合戦』で
司会を始めたものの視聴率が伸びず、
わずか3か月で降板。
この後5年間をハワイで過ごしました。
帰国後、再び東京に居を構えました。
1977年、
日劇ミュージックホールで舞台に復帰、
さらにはNHKの『お笑いオンステージ』(「てんぷく笑劇場」コーナー)に出演。
その後も舞台を中心にテレビにも出演するという形での活動を続けました。
1981年2月15日、
ホームグラウンドだった日劇が閉館。
「サヨナラ公演」に出演し、
最後の幕が下りるとき、舞台の床にキスをしました。
1987年7月16日午前0時14分、
都内の病院にて肝臓癌のため死去。
享年69。
(トニー谷)
市丸・江戸小歌市丸さん
(1906年7月16日-1997年2月17日)
昭和期の芸者歌手。
江戸小歌中村派17世家元。
長野県松本市生まれ。
16歳のとき、
松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)に。
客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、
単身19歳で上京。
大正15年(1926年)6月18日、
浅草の一松家から芸者お披露目し、
清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねました。
浅草四人組(児雀、久松、大黒、市丸)の一人として名を馳せ、
その天賦の美貌と美声を買われて忽ち人気芸者となり、
最盛期には一晩に10数件のお座敷を掛け持ちすることも。
のち、分一松家の分看板を得て独立。
日本橋葭町の芸者、二三吉(後の藤本二三吉)の吹き込んだ『浪花小唄』、
『祇園小唄』のヒットを受け、
レコード各社は新たな芸者歌手の発掘に躍起となり、
美声の評判の高かった市丸にも白羽の矢が立ち、
スカウトが殺到。
結局、ビクターが市丸を口説き落とし、
昭和6年(1931年)『花嫁東京』で歌手としてデビュー。
同年、
静岡鉄道のコマーシャルソングとして作られ、
既に新民謡として知られていた『ちゃっきり節』を
市丸の歌で発売すると全国的な大ヒットとなり、
レコード歌手としての順調なスタートを切りました。
翌年の昭和7年(1932年)にも、
片岡千恵蔵が主演した映画『旅は青空』の主題歌『青空恋し』を歌い、ヒット。
昭和8年(1933年)1月、
同じビクターの小唄勝太郎が『島の娘』『東京音頭』で国民的な人気歌手となると、
流行歌の世界に鶯歌手ブームが起こり、
コロムビアからは赤坂小梅、豆千代、
ポリドールからは新橋喜代三、浅草〆香、
ニットーからは美ち奴、日本橋きみ栄ら、
続々と芸者出身のレコード歌手がデビュー。
市丸は、こうした後輩に遅れを取らじと、
同郷の中山晋平が新民謡として作曲した『天龍下れば』をなんとしてもヒットさせたいと、
放送やステージでは必ず『天龍下れば』を歌い、
執念ともいえる大ヒットに結びつけ、
ビクターの看板歌手としての地位を確立。
市丸の人気はレコード・放送にとどまらず、
写真誌や広告、美人画のモデルにも起用され、
広くその人気を知られることとなり、
歌手業に専念するため芸者を廃業し(昭和10年12月31日)、
柳橋に自宅を建てて浅草を離れました。
昭和10年(1935年)前後、
人気を二分した勝太郎とは、
作詞家の長田幹彦に「情の勝太郎と智の市丸」と言わしめ、
マスコミは「市勝時代」と呼ぶも、
そのライバル意識はお互いに相当なもので、
市丸がメインの特集には「市勝時代」、
勝太郎がメインの記事には「勝市時代」と書く配慮を見せるほどでした。
着物や出演料などあらゆるところで勝太郎と張り合い、
当時のビクターの社員を相当悩ませたといいます。
『濡れつばめ』『峠三里』『千鳥格子』『流線ぶし』
といったヒットを飛ばす一方で、
トーキーの登場によって、映画界からも声がかかり、
昭和9年(1934年)PCL映画『百万人の合唱』『さくら音頭』、
昭和11年(1936年)JO映画『小唄礫』、
昭和18年(1943年)東宝映画『伊那の勘太郎』などに特別出演。
日中戦争が勃発すると、
慰問団の一行として中国大陸にも赴き、
前線の兵士を喜ばせました。
戦後、
アメリカ文化の流入で日本調の歌手の活躍の場が失われてくると、
市丸は、
当時ビクターとも契約をしていた服部良一に「ブギウギを歌わせて欲しい」と作曲を依頼。
昭和24年(1949年)、
服部の手による『三味線ブギウギ』が発売されると、
この曲のために名古屋西川流二世西川鯉三郎に振付を依頼、
その手踊りを交えてステージで歌い、
再度人気歌手としての脚光を浴びることに。
昭和25年(1950年)には、
古賀政男、二葉あき子、霧島昇らと渡米し、
ハワイをはじめとして、アメリカ各地で公演。
在米邦人を中心に、市丸の人気は絶大なものがありました。
その後も、
『雪のブルース』『春は銀座の柳から』『三味線ワルツ』
といった流行歌のヒットも続いています。
昭和30年代に入ると
市丸は放送開始間もない民放のテレビ・ラジオにも積極的に出演し、
主に小唄や清元といった伝統的な邦楽の分野を現代風にアレンジして取り上げ、
小唄ブームを起こすことに。
昭和35年(1960年)、
歌舞伎の中村勘三郎 (17代目)に許され江戸小歌中村派を復興し、
17世家元を襲名、『江戸小歌市丸』を名乗ります。
小唄、端唄、長唄、清元、宮薗節から、
俗曲、民謡、歌謡曲と市丸のレパートリーは実に幅広く、
邦楽番組には欠かせない存在となっていきました。
昭和44年(1969年)文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
歌手としての後輩の面倒見もよく、
榎本美佐江、神楽坂浮子、神楽坂とき子といった後進の指導にもあたりました。
その精進ぶりが認められ、
昭和47年(1972年)紫綬褒章を受章。
また長年市丸の相三味線を務めた静子は実妹。
昭和40年代の懐メロブームにおいても
欠かせない存在として、往年のヒット曲を披露。
テレビのカラー放送が始まってからは、
テレビ映像に映える衣装の色・柄などを徹底的に研究しテレビ局の技術部をも唸らせました。
この頃には赤坂小梅の取り成しにより、
ライバルの勝太郎とも完全に和解。
先に叙勲された勝太郎の記念パーティーにも駆けつけ、
「勝っちゃんがいなかったら、私はこんなに頑張れなかった」と賛辞を述べ、
東京12チャンネルの番組では、
勝太郎と並んで『東京音頭』『瑞穂踊り』『さくら音頭』などを一緒に歌っています。
また勝太郎の病床にも見舞いに訪れ「あんたがいないと張り合いが無い」と励ましました。
昭和55年(1980年)、
第22回日本レコード大賞特別賞を受賞。
昭和56年(1981年)、勲四等宝冠章を受章。
その後も
『銀の雨』『昭和さのさ節』などの新曲を発表し、
ひたむきに芸の道を歩み続け、
平成8年(1996年)10月、
卒寿の記念と、
弟子である中村市之輔の江戸小歌中村派18代家元襲名を兼ねて、
弟子たちと開いたパーティーに出演し、
弟子らと共に「春吉野」を披露したのが公の場に出た最後に。
その年の暮れに体調を崩し、
翌平成9年(1997年)2月17日、呼吸不全で死去。 90歳没。
(市丸)
淡路恵子さん
(1933年7月17日-2014年1月11日) 
女優。
東京・品川に生誕。
家は二階建ての借家。
父は大日本帝国海軍の軍人でしたが、
胸を患って海軍省を辞め自宅療養。
母は助産婦。
集団疎開先の富山県から一時荏原に戻った時、
激しい空襲に遭いました。
そのため茨城県の母の親戚の所へ疎開に行き、
田舎暮らしを体験。
府立第八高等女学校(現・東京都立八潮高等学校)を受験、合格。
13歳の時、終戦の翌夏父親が他界。
「女医にしたい」という母の願いをよそに、
淡路はSKD(松竹歌劇団)に合格、
卒業まであと数か月で第八高女を退学。
1948年に松竹歌劇団の養成学校である松竹音楽舞踊学校に4期生として入学。
1949年(昭和24年)、
入団前の学校生時に黒澤明監督より抜擢され、
『野良犬』で舞台より早くスクリーンデビュー。
1950年(昭和25年)、松竹歌劇団に入団。
草笛光子、深草笙子と組んで「スリーパールズ」と呼ばれ、
歌に踊りに大活躍。
1952年(昭和27年)、準幹部に昇進。
1953年(昭和28年)からは多くの松竹映画に出演。
主演したメロドラマ『この世の花』は
続編、続々編と大ヒットしたため完結編まで全10部作となりました。
1954年(昭和29年)にはマーク・ロブソン監督に見出され、
パラマウント映画『トコリの橋』でミッキー・ルーニーと共演。
1957年(昭和32年)に出演した
『太夫さんより・女体は哀しく』と『下町』の演技で
ブルーリボン賞の助演女優賞を受賞。
1960年代(昭和35年)には
『駅前シリーズ』や『社長シリーズ』にレギュラー出演。
テレビドラマでは、 
1961年(昭和36年)に『若い季節』に女社長役で主演。
1963年(昭和38年)には
越路吹雪、岸田今日子、横山道代との四姉妹役で出演した『男嫌い』が
数々の流行語を生み出す話題作に。
1987年(昭和62年)『男はつらいよ 知床慕情』で
結婚引退後から20年ぶりに女優復帰して、
マスコミからの復帰インタビューにも撮影所で
喫煙しながら応じていました。
2011年(平成23年)7月に、
波瀾万丈の芸能人生60年を振り返った
『凛として、ひとり〜弱かった自分が強くなれた瞬間』(実業之日本社)を出版。
2014年(平成26年)1月11日17時24分、
食道がんのため東京都港区の病院で死去。
80歳没。
(淡路恵子)
丹波哲郎さん
(1922年7月17日-2006年9月24日)
俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。
東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。
身長175cm。 
剣道六段・空手6段。
俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優。
テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わりました。 
丹波プロダクション・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけており、
宮内洋は丹波の一番弟子。
心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、
『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなりました。
大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)にて丹波家の三男として生誕。
祖父は東京帝国大学名誉教授の丹波敬三、
父はその二男で、
東北薬専卒の陸軍薬務官で日本画家の丹波緑川(次郎)、
親戚には従弟で音楽学者の丹波明、
元大審院院長の林頼三郎ら。
哲郎の生家は祖父の別邸を父が譲り受けた屋敷。
家柄は系図を遡ると、
天平の昔から伝わる薬師の名家で、
医学書『医心方』を著した丹波康頼にたどり着きます。
成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、
仙台の二高を二度受験するも不合格。
親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学。
在学中に第1回学徒出陣し佐倉の東部64部隊(近衛歩兵第5連隊)に入隊、
しかし態度が大きいという理由で普通の3倍程の体罰を受けることもありました。
立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治(旧陸軍少尉)。
航空隊に在籍していたために特攻隊員になる可能性もありましたが、
それにはなることなく終戦を立川で迎え(最終階級は陸軍軍曹)、
戦後の1945年大学に復学し、
学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていましたが、
実際には本人曰く英語は半分程度しか理解できず、
トイレに逃げ込み、
仕事の終わる時間を待っていたといいます。
またダグラス・マッカーサーには二度程度エレベーターの中で遭遇したと語っています。
1948年に大学を卒業。
卒業後は団体(公社)職員となるも俳優を志し、
1950年創芸小劇場を主宰後劇団文化座に加入後、
1951年春勧誘されていた新東宝に入社。
芸名はこの新東宝時代に名付けられました。
丹波の態度が大きいことが問題とされ、
1年以上役が付かないでいましたが、
1952年に電通傘下DFプロダクション制作新東宝配給の
セミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビュー。
もともとこの役は当時文化座に在籍していた
山形勲にオファーがあったものでしだが、
山形が骨折しており応じられないことを丹波が代わりに伝えに行ったところ、
プロデューサーから「お前が良い。お前に決めた」と言われ決まったものでした。
陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍し、
1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに
金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況でしたが
1959年、
丹波の新東宝の作品のレベルが落ちているとの発言が記事となった、
新東宝社長・大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいましたが、
丹波は所信を曲げず、
映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社、
フリーランスとなり、
フジテレビのディレクターだった五社英雄に見いだされるとコンビを組み、
1960年に放送されたテレビドラマ『トップ屋』、
1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演。
五社とは盟友となり、
1969年の映画『御用金』にも出演。
映画『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、
1963年のテレビ時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし。
荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、
時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、幅広く出演。
早くから海外の映画作品にも出演しており、
1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋』、
イギリス映画の『第七の暁』(1964年)、
そして世界的なヒット作『007は二度死ぬ』(1967年)で国際的に認知され海外においても活躍。
1968年から1973年まで放映されていたテレビドラマ『キイハンター』では黒木鉄也で主演。
黒木のイメージは
『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させています。
最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、
当初1年の予定が5年に延ばされました。
『キイハンター』終了後も、
丹波は同時間帯で
テレビドラマ『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、
TBS系土曜21:00の顔となりました。
前後して1973年には映画『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。
1974年には映画『砂の器』の今西刑事役では、
人情味のある重厚な演技が高く評価されました。
1978年、
原田雄一との連名で映画『砂の小舟』を製作(日本公開は1980年)
カンヌ国際映画祭にも出品。
1980年の『二百三高地』で
第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞。
生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し、
300万人以上の動員を得ます。
1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、
映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼びました。
「霊界はすばらしいところ」と発言。
2000年、
『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、
大河ドラマ『利家とまつ』(2002年)、
『義経』(2005年)などで、
渋みある演技をみせていました。
2005年2月から約2か月間、
インフルエンザと虫垂炎のために入院し、
それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていました。
2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、
肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。
84歳没。
(丹波哲郎)

山口組三代目組長だった田岡組長の葬儀の生花に並ぶ芸能人たちの名前…芸能界はヤクザとズブズブだった…

昭和時代 
国鉄の駅のホームに洗面所があったのを
知っている方いらっしゃいますか?

カルピスと東京オリンピック

黒柳徹子さん、若いころの画像です。素敵ですね。

石原裕次郎さん
(1934年12月28日-1987年7月17日)
俳優、歌手。
身長178cm。
兄は、
芥川賞を受賞した小説家で政治家の石原慎太郎。
石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。
ヨットマンとしても活動。
昭和を代表する俳優・タレントとされています。
2000年に発表された『キネマ旬報』の
「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、
同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位。
2014年に発表された『キネマ旬報』の
『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優の14位。
父石原潔(身長175cm、山下汽船社員、愛媛県出身)、
母光子(広島県宮島の出身)のもと、
兵庫県神戸市須磨区で誕生。
北海道小樽市および神奈川県逗子市で育ちました。
小樽のマリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、
小樽の稲穂国民学校時代に、
競泳や(天狗山 で)スキーに親しみ、
逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中し、
五輪出場を目指していたこともありましたが、
高校2年生の時にケガをして、その夢を諦めます。
慶應義塾高等学校の受験に失敗し、
慶應義塾農業高等学校に進学するも、
1951年に慶應義塾高校に編入学。
卒業後は
慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するも、
正に『太陽の季節』そのものという様な放蕩生活に明け暮れていました。
大学在学中から俳優を目指し、
東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格。
1956年に、
慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の時に、
映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、
同映画作品の端役で映画デビュー。
日活入社前には兄慎太郎が強く推薦したことにより
大映映画の『処刑の部屋』に主演し、
大映入りする可能性がありましたが、
慎太郎が断りを入れ、日活と契約。
1956年、『太陽の季節』に続いて製作された、
同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では主演、
この時歌手デビュー。
同年、
芦川いづみと共演した『乳母車』での好演で評価を高め、
製作者協会新人賞を受賞を与えられましたが、
この年で大学を中退。
1957年、
映画『俺は待ってるぜ』、『嵐を呼ぶ男』など軒並みヒットし、
この頃人気は絶頂を迎えました。
またブルーリボン賞新人賞受賞も受賞。
1960年1月、
交際が噂されていた北原三枝とアメリカ婚前旅行、
4月には婚約を発表、結婚後も人気を維持し、
『あじさいの歌』、『闘牛に賭ける男』など出演作の興業成績が好調。
1962年頃には
渡り鳥シリーズの大ヒットで小林旭人気の高まりとともに、
これまでと異なる作品に出演するように。
1963年に石原プロモーションを設立。
第1回石原プロ製作映画に市川崑監督を迎え、
『太平洋ひとりぼっち』を製作し、
この作品での芸術祭賞を授与。
1968年、
三船敏郎と共に製作した映画『黒部の太陽』は大ヒット。
以降
『栄光への5000キロ』『富士山頂』『ある兵士の賭け』など
大金を費やした骨太の映画作品をいくつも世に送り出しましたが、
映画界斜陽の時代で興業成績が悪く、
事務所の経営が悪化。
1971年には結核を患い療養することに。
1972年、
旧知の舛田利雄の勧めや、
東宝と日本テレビの粘り強い交渉の末、
事務所の経済的事情もあり、
13話だけでという約束でテレビドラマ『太陽にほえろ!』への出演を開始。
予定の通り13話で降板するという石原を夫人や竜雷太らが説得し、
出演を継続することとなり、
日活黄金期の石原を知らない若い世代にも
番組においての名称であるボスとして認識されるなど、
人気を獲得、
番組は1986年まで続き、高い視聴率を記録。
1973年石原プロ製作の映画『反逆の報酬』に主演、
その後『凍河』に友情出演、
また『わが青春のアルカディア』では声の出演をしましたが、
この作品が最後の主演にして最後の本格的な映画出演に。
1976年からは『大都会シリーズ』、
1979年からは『西部警察シリーズ』などの
企画・助演など多面的に活躍。
1977年に発売された『ブランデーグラス』は発売時にはほとんど売れなかったですが、
数年後に『西部警察 PARTI』の第48話
「別離のブランデーグラス」の中で裕次郎が歌うと、
売り上げが伸び始め、152万枚を売り上げるヒット曲に。
1986年、
病気療養のため渡哲也に代役を任せ『太陽にほえろ!』を一度降板、
同番組の最終回718話で復帰、
ワンカット7分間のアドリブで命の大切さを語る圧巻の演技を見せましたが、
これが俳優としての最後の演技に、
そして渡哲也との最後の共演に。
1978年、舌下潰瘍のため入院、手術。
その後、
悪性腫瘍(舌癌)との診断を受けましたが、
本人には告知されず(1983年再発)。
1979年には舌下白板症と診断され、
術後部に潰瘍が出来たため再手術。
1981年4月、
『西部警察』のロケ撮影中に背中と胸に激痛が走り、
慶應義塾大学病院に緊急入院。
当初椎間板ヘルニアが疑われましたが、
その後、解離性大動脈瘤と診断され大手術を決行。
生還率3%と言われましたが、
奇跡的な回復を遂げ無事退院。
退院後も首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴に。
1984年、肝臓癌が発覚。
前の定期健診で肝細胞癌と診断されるも、
裕次郎本人には最期までガン告知をされず。
1986年5月、
高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。
血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断され、
7月の退院後はハワイで静養。
1987年4月20日、
体調不良を受けてハワイから急遽帰国し、
慶應義塾大学病院へ検査入院。
5月2日に一旦退院したものの、
3日後に再入院し容態が悪化。
幻覚症状(肝性脳症)を発します。
その後も意識不明の状態が続き、
7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止。
酸素吸入により一度は心拍が再開するも、
16時26分再度心停止し死去。
52歳没(享年53)。
(石原裕次郎)
八代目市川雷蔵さん
(1931年8月29日-1969年7月17日)
歌舞伎役者および日本の俳優。
身長は170センチメートル。
生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、
15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台。
1951年(昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。
1954年(昭和29年)に映画俳優に転身。
1959年(昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、
キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。
1960年代には勝新太郎とともに
大映の二枚看板(カツライス)として活躍。
ファンから「雷(らい)さま」と親しまれました。
1968年(昭和43年)6月に直腸癌を患っていることがわかり、
手術を受けるも肝臓に転移、翌年7月17日に死去。
(八代目市川雷蔵)
白洲次郎さん!!
時の総理大臣吉田茂と共に戦後復興を支えました。また、マッカーサーにも意見が言える存在でしたね…

安藤昇さん!!戦後渋谷にあった安藤組の組長インテリヤクザの走りでした…その後組は解散東映に入り俳優として活躍しました…

日テレで放送していたドラマ泣かせるあいつ。

二枚目俳優でした。
だいこんの花では森繁さんと本当の親子みたいに見えましたね。
竹脇無我さんです。
秋葉原で見つけたポール☺️
今食べても飽きない味‼️
かれこれ50年以上お世話になりました😊

2023/07/17  今日は、“海の日”だそうですが、新しくできた祝日は何をすれば良いのか?分からない。例えば墓参りするとか、子供の成長を祝うとか、年寄りを敬うとか、分からないので取りあえず“海”なら海水浴だろうと考えて、昭和30年頃の海水浴の写真を探しました。水着や用具は古めかしいものの、海辺でやることは余り変わりがないように思います。

今日ゲーセンに行って、珍しいものをGETしました! 私が中学生の時に流行った記憶があります。今の時代は健康保険証もあるんですねw

🟣マッハ文朱🌸🌸🌸
🔷1972、スター誕生で山口百恵に負ける
🔷1974、女子プロレスラー
🔷1976、女優、トラック野郎・天下御免
この時期、子供の頃に
テレビで見た怪談は怖かったですね😱
三大怪談と称される…
「四谷怪談」「番町皿屋敷」「牡丹燈籠」、夜中にトイレに行けませんでした。

若死した宍戸錠の弟、郷鍈二とちあきなおみのツーショット。

田の中勇さん
(1932年7月19日-2010年1月13日)
男性声優、俳優。
東京都台東区出身。
三男坊として誕生。
劇団こだま座、劇団化粧座、劇団東芸、
テアトル・エコー、土の会、東京アクターズプロを経て、
青二プロダクションに所属。
慶應義塾高等学校時代の同級生に日下武史、小林亜星がおり、
コーラス部で一緒に歌っていたといいます。
同高校を出てすぐの1951年、
特に役者になろうと思ったわけではなかったですが、
暇でしかたがなかったので劇団などを受けたものの落とされ、
新聞広告に出ていた国際総合芸術研究所のラジオ科に通いはじめます。
そこの面子で劇団を結成し、
宮澤賢治の『カイロ団長』を初めとして公演を行うも、
マネージャーに金を持ち逃げされ、
劇団員のつてで劇団東芸に入ることに。
研究生仲間に富田耕生。
東芸入団後、ラジオの仕事をして、
ラジオドラマに出演。
東芸には二年ほど所属しましたが、
そのなかの七、八人が徒党を組んで造反し、
テアトル・エコーに移籍したのに付いていきます。
1955年頃、桜井センリに習っていた事があり、
桑原たけしと一緒に習っていました。
もう1人が生徒として通っており、
桜井が「4人でジャズコーラスをやろうよ」と提案し、
レッスンもそこそしてコーラスグループを始めて
NHKのオーディションにも受かったといいます。
桜井がハナ肇とクレージーキャッツに加入後3人では仕方ないため、
もう1人、女性を加入してしばらく活動。
テアトル・エコー在団中の頃に、TBS劇団の試験に合格し、
講習を受けていた時期がありましたが、
結局、入団しなかったといいます。
25、26歳で声優としての活動を始めます。
アテレコでのデビューは『ライフルマン』。
2010年1月13日、
心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で亡くなっているのを家族によって発見されました。
満77歳没。
生涯独身。
(田の中勇)
水野晴郎さん
(1931年7月19日-2008年6月10日)
映画評論家、映画監督、タレント。
倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。
映画監督としてはMIKE MIZNOの名義を使用。
山下奉文陸軍大将への尊敬の念と、
自ら製作・監督し山下を演じた『シベリア超特急』シリーズへの愛着から、
戸籍上の本名を山下奉文と一文字違いの山下奉大に改名。
日本アカデミー賞の発案者。
番組の中で水野が発する
「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」(他に「面白いもんですね~」や「素晴らしいもんですね~」「楽しいもんですね〜」も)
というセリフは瞬く間に定着し、
お茶の間の人気を集めることに。
本人によれば、
『水曜ロードショー』で1974年4月3日に放送した
『シェーン』の解説で使ったのが最初で、
番組の最後に時間が余った際「もう一言付け加えて」と担当者から言われ、
とっさに出た言葉がこれだったといいます。
(水野晴郎)

レッドスネイク.カモン良くTVで観ました🥰🐼❤️