Apex product 【 昭和の楽しい時代 56 】

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平田昭彦さん
(1927年12月16日-1984年7月25日)
俳優。
身長173cm。
主に東宝映画、テレビドラマで活躍。
特撮分野の名優としても知られます。
夫人は女優の久我美子。
実兄に映画監督の小野田嘉幹、
義姉(嘉幹の妻)に女優の三ツ矢歌子、
実妹に女優の音羽美子。
(平田昭彦)

ピンボール、カーレース、昭和時代はよく見かけました。懐かしいです。

夏目雅子さん
(1957年12月17日-1985年9月11日)
女優。
身長164cm。
神奈川県横浜市中区出身。
夫は作家の伊集院静。
弟にプロゴルファーの小達敏昭。
東京都渋谷区宮代町の日本赤十字社中央病院にて、
六本木2丁目の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生誕。
父は東京オリンピックのための道路拡張後に店をビルにし、貸しビル業などで成功。
その後は高輪、横浜市山手のモービル石油日本支社長宅などに転居し。
小学3年のとき、
テレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志しましたが、
子役願望は母親に猛反対されかなわず、
17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を見て衝撃を受け、
ソフィア・ローレンに憧れ本格的に女優を目指すように。
東京女学館小学校、東京女学館中学校・高等学校を卒業。
学生時代のあだ名は「ダテピン」。
1976年、
東京女学館短期大学に進学し、フランス語を専攻。
入学直後に父の友人の伝手で、
タオルメーカーの内野のコマーシャルに出演。
学校が芸能活動に厳しく、短大は中退することに。
同年、
日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか…』のオーディションで、
486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名名義で女優デビュー。
1977年から8年間、山口銀行の広告として起用。
同年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、
「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、
芸名を夏目雅子へと改名。
「夏目」の芸名は、
クッキーフェイスのCMが夏をイメージするものだったことから。
また、
ティナ・チャールズが歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーし、
CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりシングルレコードをリリースし、
歌手としてデビュー。
このときのCMディレクターが、
後の夫となる伊集院静。
TBSの『すぐやる一家青春記』で連続ドラマに出演したほか、
映画『トラック野郎・男一匹桃次郎』のマドンナ・小早川雅子役に抜擢され、映画に初出演。
1978年、『西遊記』(全27話)において、
旅の一行のまとめ役である「三蔵法師」役を演じ、
同作品は大きな人気を獲得。
本来は「男性」である三蔵法師でしたが、
女性の夏目が演じることで、
高貴で中性的な三蔵法師像を演出。
同作は社会的な大ヒット作となり、
翌年の1979年には続編の『西遊記II』(全26話)も放送され、
夏目の知名度を大きくアップさせました。
同じく1978年には、
毎日放送の横溝正史シリーズ『悪魔の手毬唄』で準主役。
ドラマが好評で夏目の人気が高まり、
バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていましたが、
「本格的に女優を目指したい」と本人が直訴して、 移籍。
以降は女優業が中心に。
1979年、
父がスキルス性胃癌に倒れ、摘出手術を受けました。
父は翌年に47歳で死去。
1980年、
ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演。
同年、プロデューサーの久世光彦に推され、
ドラマ『虹子の冒険』(テレビ朝日系列)のヒロインに抜擢。
これが初主演作品となりました。
ついで、
NHKの演出家だった和田勉によって『ザ・商社』(全4話)のヒロインとして抜擢。
このドラマはNHKの制作ですが、
上半身裸のヌードシーンがありました。
これらのドラマで女優としての評価を高め、
「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功。
さらにこの年は映画『二百三高地』に出演。
1981年、バセドウ病の手術を行いました。
1982年、
『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語に。
ブルーリボン賞を受賞、
授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチ。
1984年、作家の伊集院静と結婚。
結婚後は神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。
媒酌は行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻で、
結婚式もこの寿司店で、内輪だけで行われました。
舞台『愚かな女』(1985年2月3日 - 2月24日、PARCO西武劇場)のヒロイン役に抜擢され、
福田陽一郎の演出の下、
稽古に積極的に取り組みました。
この頃より10円玉大の口内炎ができたり、
激しい頭痛が起きたりするなど身体に異変が現れ始め、
共演の宝田明や付き人の銭神信子らに体調不良を訴えつつも、
公にしないまま舞台の開幕を迎えました。
公演日程を折り返した2月14日にはついに体調不良を隠せなくなり、
公演続行を望む夏目を福田と共演の西岡徳馬が説得し、
翌2月15日に慶應義塾大学病院へ入院。
入院後の検査の結果、
急性骨髄性白血病と診断されましたが、
夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、
本当の病名を伏せていました。
夏目の入院とともに夫の伊集院は、
仕事を中断し、
亡くなるまで母親らとともに看病にあたりました。
『愚かな女』は福田の意向で代役は立てられず、
千秋楽まで10日ほど残したところで公演が打ち切られました。
約7ヶ月にわたる闘病生活を送りながら順調に回復し、
退院間近とされる報道がされていましたが、
8月下旬から抗がん剤の副作用が原因とみられる肺炎を併発。
高熱が続き、9月8日に熱が一時的に引き、
この時に夏目本人は退院できるのではないかというほど回復傾向になったと思われましたが、
翌9日から再び高熱を発し、
9月11日午前10時16分に死去。
27歳没。
(夏目雅子)
竜崎勝さん
(1940年3月25日-1984年12月18日)
俳優・グルメレポーター。
身長177cm。
長男は元俳優の高島郷、
長女はフリーアナウンサーの高島彩、
婿はフォークデュオのゆずの北川悠仁。
東京都世田谷区出身。
出生地は高知県高知市で、法政大学経済学部卒業。
法政大学4年在学中、
日活ニューフェイス(第5期)に合格。
第5期の同期に高橋英樹や中尾彬。
その後、
劇団俳優座付属養成所を経て文学座の研究生に。
俳優座養成所には1963年に第15期生として入所しており、
同期は
夏八木勲、栗原小巻、原田芳雄、前田吟、林隆三、
地井武男、高橋長英、秋野太作、浜畑賢吉、赤座美代子、
太地喜和子、小野武彦、村井国夫、柴田侊彦、溝口舜亮らがおり、
後に「花の15期生」と呼ばれました。
文学座では劇団員になれぬまま退団。
本名でテレビドラマ『顎十郎捕物帳』(TBS)で
主演の若林豪演じる顎十郎と競い合う同心・藤波友衛役でレギュラー出演後、
1969年『絢爛たる復讐』(NET)の主役に抜擢、
竜崎勝に改名。
改名後は『飢える魂』(1972年・CX)などの昼ドラや、
『赤い靴』(1972年・TBS)などのテレビドラマで活躍。
1970年代後半に胃潰瘍を発症し、
一時は回復するも1984年11月になり体調不良を訴えるようになり、
通院しながらレギュラー出演していたテレビドラマ『転校少女Y』の撮影に参加。
その後容体が急変、
1984年12月18日午前1時に国立東京第二病院(現・国立病院機構東京医療センター)で肝硬変のため死去。
44歳没。
(竜崎勝)
松村達雄さん
(1914年12月18日-2005年6月18日)
俳優。
大学時代はラグビー選手として活躍し、
劇団を結成して舞台で活動するも、
劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演。
しやがれた声の独得な台詞まわしと、
芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で
個性的なバイプレイヤーとして活躍し、
崩れたインテリ役に定評がありました。
映画『男はつらいよ』シリーズで
2代目おいちゃん役を演じたことでも知られます。
(松村達雄)
リカちゃんに生き別れ(?)のお姉さんがいたなんて知りませんでした。
なんと!ママが飛行機の中で見つけたらしいです。耳の下のホクロで娘だとわかった!?
どんな経緯があって離れ離れになったのでしょう。
大前均さん
(1935年12月19日-2011年3月1日)
元俳優。
身長190cm、体重115kg。
柔道五段。
岐阜県出身。
明治大学商学部卒業。
東映映画『若き日の次郎長 東海の顔役』でデビュー。
特撮・時代劇・アクション映画・ヤクザ映画・刑事ドラマとジャンルを問わず、幅広く活躍。
デビュー当初は髪を伸ばしていましたが、
剃ったことにより、
海坊主のような風貌とプロレスラー並の巨体を活かした、
用心棒やボディーガードなどパワーファイター系の悪役を演じる機会が増え、
千葉真一主演の格闘映画にも複数出演。
また、
日本未公開のマカロニウエスタンや香港映画などにもゲスト出演。
その一方で、
映画『戦国自衛隊』での懐刀としての重臣、
『武士道ブレード』で柔和な笑顔を見せる人の良い力士、
テレビドラマ『人造人間キカイダー』での冴えない刑事をコミカルに、
『探偵物語』第20話では善人ですがアル中の悲運なボクシング・トレーナーなどで
幅広い演技を披露。
大林宣彦監督作品の常連でもあり、
『ふたり』のトラックの運転手役や
『あした』の船長役など、
ダンディな声質を生かして薄幸な善人やロマンチストを演じました。
特撮作品で演じたキャラクターでは、
『電子戦隊デンジマン』の悪役・バンリキ魔王、
素顔での出演ではなかったですが
『猿の軍団』における猿世界の実力者・ビップ大臣などが知られます。
やくざ絡みの恐喝事件に巻き込まれ、
まったく無関係でしたが、
芸能界から引退同然に遠ざかりました。
2011年3月1日、死去。
75歳没。
(大前均)
藤木悠さん
(1931年3月2日-2005年12月19日)
俳優。
東京府荏原郡荏原町出身の大阪府大阪市西成区育ち。
身長180センチメートル。
趣味・特技はフェンシング。
大阪府立鳳高等学校、同志社大学文学部卒業。
大学在学中の1951年、
全日本フェンシング選手権大会男子エペ個人優勝。
後に映画『リオの若大将』では出演すると共に
フェンシングシーンの監修もおこないました。
1953年、東宝ニューフェイス第6期に合格。
同期に
岡田眞澄・宝田明・佐原健二・河内桃子ら。
翌年の映画『魔子恐るべし』でデビュー。
二枚目半の役柄を得意としました。
『イカサマ紳士録』(1956年)の競馬予想屋役で注目され、
「サラリーマンシリーズ」(1961年)で人気となり、
共演した高島忠夫とは親友でした。
ほかには
『隠し砦の三悪人』(1958年)、
『小早川家の秋』(1961年)や
『キングコング対ゴジラ』(1962年)、
テレビドラマ『青春とはなんだ』に出演し、
1974年にフリー。
以後はテレビドラマを中心に活躍。
TBSドラマ『アイフル大作戦』では主人公役の小川真由美に振り回される刑事をコミカルに、
『バーディー大作戦』と『Gメン'75』では叩き上げのベテラン刑事を演じました。
千葉真一主演の時代劇『柳生あばれ旅』(1980年)では
相棒役の桜木健一と毎話絶妙な掛け合いを演じ、
1980年代にフジテレビの『火曜ワイドスペシャル』で放送された
『タケちゃんの思わず笑ってしまいました』では、
刑事ドラマをパロディにした「太陽に叫べ!」でニンニク刑事役を演じました。
仕事が好調だったこともあって毎日暴飲暴食と痛飲を繰り返し
「オレは不死身悠だ!」などと自分の名を洒落て豪語。
しかしそれが仇となり、のちに糖尿病を発症。
末梢神経障害で足の指先を少しですが切除することに。
以後は妻の協力もあって健康に気を付けており、
自らの体験談から糖尿病に対する警告を促していました。
2005年12月19日午後7時55分、
肺血栓塞栓症による多臓器不全により、
74歳で死去。
(藤木悠)
石橋雅史さん
(1933年1月4日-2018年12月19日)
俳優、空手家。
身長177cm。
段位は剛柔流九段・極真カラテ七段。
台湾花蓮港庁花蓮港街で生まれ、福岡県柳川市へ転居。
福岡県立伝習館高等学校、日本大学藝術学部演劇学科卒業。
父は職業軍人で、弟が二人。
終戦で福岡県柳川市へ引き揚げ、
高校卒業まで過ごします。
1956年、
大学卒業と同時に文化座演劇研究所、
文学座付属演劇研究所に入り俳優の道を進み、
やがて文化座の劇団員となるも、
八百屋の小僧、パチンコ屋の店員、荷かつぎ人夫、学生時代から修行をしている空手では
大山道場と草創期の極真会館で師範代をして生活費を稼ぎ、
演劇『その人を知らず』(1957年)、『炎の人』(1958年)などの舞台に立ち、
1964年の劇団文化座退団以降はテレビドラマや映画で活動するように。
1970年に『野獣都市』(東宝)で映画初出演以降は映像の仕事がメインとなるも、
1973年の千葉真一主演の映画『ボディーガード牙 必殺三角飛び』に出演し、
千葉と戦う敵を演じたことが転機に。
翌年の映画『激突! 殺人拳』では千葉真一の推薦により敵役に抜擢され、
同作では主演の千葉や監督である小沢茂弘の要望で格闘シーンに全て立ち会うなど、
映画スタッフとしても貢献。
これ以降、
修行していた空手道の腕前を見込まれて、
1970年代は東映の格闘映画やアクションドラマでも活躍。
千葉が創設したジャパンアクションクラブで空手の指導も。
悪代官、悪徳商人、ヤクザ・盗賊・破戒僧などを始めとした時代劇の名悪役としても有名で、
TBSドラマ『水戸黄門』ではゲスト出演者第4位の46回出演。
特撮スーパー戦隊シリーズには
『ジャッカー電撃隊』の鉄の爪(アイアンクロー)以降、
『バトルフィーバーJ』、
『科学戦隊ダイナマン』、
『高速戦隊ターボレンジャー』(以上、悪役(幹部、首領等)レギュラー)、
『鳥人戦隊ジェットマン』、
『電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー』と6度に渡り出演。
1978年、
萩本欽一司会の歌合戦番組『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ)に出演した際の人柄が萩本に評価され、
1979年、
萩本主演のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(テレビ朝日)に
萩本が住む住宅の隣人役でレギュラー出演。
1963年に結婚し、一男あり。
2018年12月19日、心不全のため死去。
85歳没。
(石橋雅史)
南原宏治さん
(1927年6月7日-2001年12月20日)
俳優。
身長178cm。
神奈川県横浜市出身。
元妻は宝塚歌劇団出身で女優の上月左知子、
長女は元宝塚歌劇団月組男役の嘉月絵理、
長男は俳優の南原健朗、
次男は元俳優の山口正朗。
父親が刑務所長だったことから横浜刑務所の官舎で生まれ、
東京府八王子市などで育った後学徒動員で中国に渡り、天津で終戦を迎えました。
戦後は東京農業教育専門学校を経て東京大学農学部中退。
1951年に
スポーツニッポン新聞社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で
準ミスターニッポンに選出されたのをきっかけに、
第6期ニューフェイスとして大映入り。
大映では『雨月物語』始め数本の作品に端役で出演したのみに留まり、
本格的なデビューは東映移籍後の1954年、
東映ニューフェイスの1期生としてで、
同期には中原ひとみ、山本麟一、高田敏江ら。
同年より主演作含めほとんどの作品にメインの役どころで出演。
1957年に独立映画の『異母兄弟』に出演したことが原因で、
五社協定に触れ東映を離れ、
松竹と本数契約を結ぶとともに有馬稲子の推薦で文芸プロダクションにんじんくらぶに所属。
1960年、芸名を南原宏治に改め、
1965年のにんじんくらぶ解散後は、
現代演劇協会附属劇団欅に参加するも、
1973年には現代演劇協会のマネージメント体制の弱さを理由に離脱しフリーに。
フリー以降も各社の映画やテレビドラマにて、
主に個性的な悪役として活躍。
政界のフィクサーや暴力団の大ボスなど重厚な巨悪を演じる一方、
映画『修羅雪姫 怨み恋歌』における聾唖の殺し屋「蜍」、
テレビ時代劇『風』の怪剣士「野ざらし主膳」など、
常軌を逸した狂気的な敵役としても数多く出演。
アクの強い特異な個性で強烈な存在感を見せました。
1979年には劇団「天地劇」を創設。
長谷川伸全戯曲公演を目標に『沓掛時次郎』、『瞼の母』、
かつて自身が商業演劇で主役を演じた『嵐が丘』、『霧の中』などの舞台を手掛け、
後進の育成・指導にも尽力。
2001年12月20日、
東京都調布市の病院にて心不全のため死去。
74歳没。
(南原宏治)

昭和のスター達のブロマイド。皆さん若いです。


要は靴下

昭和のテレビ回顧録❗
①番組中、途中.中断❗
ちぇ、また中断かよ。せっかくいいとこだったのに、、、、(ボヤキ)
しばらく、そのまま、お待ち下さい❗
黒澤久雄さん
(1945年12月20日-)
タレント、俳優、歌手、映画プロデューサー、実業家、黒澤プロダクション・黒澤フィルムスタジオ代表取締役社長。
身長175cm。
黒澤明文化振興財団理事長。
デザインエクスチェンジ社外取締役。
成城大学中退。
父親は「世界のクロサワ」こと映画監督の黒澤明、
母親は元映画女優の矢口陽子、
妹は映画衣装デザイナーの黒澤和子。
成城大学在学中の1966年に
フォークバンドブロード・サイド・フォーを結成。
『若者たち』が大ヒットしましたが、
黒澤の留学によりバンドは解散、
その後、
DJやタレントとして活動する他、
映画プロデューサーとして『乱』以降、
父の作品にかかわっています。
1979年より
テレビ番組『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日系)にレギュラー出演、
テレビ番組『クイズダービー』ではゲスト解答者として度々出演し、
24連勝という記録を残し、
ゲスト解答者の中では圧倒的に勝率1位。
正答率は9割1分8厘(平均7勝1敗〜8勝0敗ペース)。
1980年にタレントの林寛子と結婚、
1男2女を儲けましたが、
2003年6月24日に離婚。
長女は元女優の黒澤優、次女は歌手の黒澤萌。
優の夫は歌手の松岡充(SOPHIA)。
2004年にはゲームソフト制作会社コーエーと黒澤プロダクションの共同事業として、
黒澤明の遺稿を元にした金髪碧眼の侍が主人公となる映画『鬼』(仮題)の制作を発表。
黒澤久雄が監督で2006年に公開予定とされていましたが、実際には完成していません。
この映画とのメディアミックス作品として同時発表されたゲームソフトは
コーエー(後のコーエーテクモゲームス)単独事業として『仁王』と名を変え
幾度かの中断・作り直しを経て開発が継続し、2017年に発売。
2007年現在では
黒澤プロダクション代表取締役社長、黒澤明文化振興財団理事長を務め、
黒澤明の作品の著作権管理や文化事業などを行うほか、
実業家としては東京都内を中心に飲食店経営などを行っています。
またタレントとして藤村俊二が代表を務めるオフィスオヒョイ(2011年解散)に所属。
2007年4月21日、
黒澤プロダクションに勤める秘書と再婚。
(黒澤久雄)
伊丹十三さん
(1933年5月15日-1997年12月20日)
映画監督、俳優、エッセイスト、雑誌編集長、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。
身長180cm。
料理通としても知られました。
大ヒット映画作品を連発した映画監督。
監督デビューは51歳と遅咲きでしたが、
それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、
その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーに。
1984年の監督デビュー作である『お葬式』から
いきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴び、
その後、
『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、
いずれも大ヒットを記録。
しかも一般観客からも映画評論家からも、
ともに高く評価されていたことは特筆に値します。
俳優としての出演も数十作品に及び、
1983年(昭和58年)公開の『家族ゲーム』『細雪』の演技でキネマ旬報助演男優賞を受賞。
エッセイストとしての代表作には『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『小説より奇なり』など。
CM出演も多数。
妻の宮本信子は、
伊丹の監督デビュー後は伊丹作品の多数で主演女優として作品のヒットに貢献し、
それ以前から家庭でも多面的にその成功に貢献しつづけていました。
二人の間の長男の池内万作も俳優。
愛媛県松山市に伊丹十三記念館が開設され、
多方面にわたる才能を持ち容易に語ることはできない伊丹の足跡が紹介されています。
また伊丹を記念してその名を冠した「伊丹十三賞」がさまざまな表現者たちに贈られています。
(伊丹十三)

昭和30~40年代にお祭りなどで丘ヤドカリを売っていたのを思い出しました。

佐藤慶さん
(1928年12月21日-2010年5月2日)
俳優、ナレーター。
福島県会津若松市生まれ。
佐藤家は先祖代々会津藩士で、
戊辰戦争に敗れて以降は漆器材料の卸商を営んでいました。
また、
2.26事件に参加し刑死した渋川善助の妻絹子は叔母。
福島県立会津工業学校(現在の福島県立会津工業高等学校)染織科卒業後、
会津若松市役所戸籍係に勤務するかたわら、
地元で結成した新劇愛好会で演劇に打ち込んでいましたが、
会の発表会の日に無断欠勤をして役所を免職されたという「根っからの新劇人」。
その後1951年に上京し、
俳優の小沢栄太郎の芝居を見て、
「ふてぶてしいまでに人間の暗い面を表現している」と憧れました。
1952年(昭和27年)に
小沢が所属する俳優座養成所に第4期生として入団。
同期には
宇津井健・佐藤允・仲代達矢・中谷一郎ら。
1955年以降、
大島渚監督の一連の作品(1960年の「青春残酷物語」のヤクザ役、1966年の「白昼の通り魔」の強姦殺人犯役など)をはじめ、
存在感ある悪役として本領を発揮(中でも自身の無機質な風貌を生かした、屈折した性格の悪役を得意としていました)。
また、1960年代後半頃は、
「個性的なアクの強さがファンを惹きつけている」と評されました。
1965年の『鬼婆』でパナマ国際映画祭主演男優賞、
1971年の『儀式』でキネマ旬報主演男優賞を受賞。
テレビドラマでは1967年の『白い巨塔』で、
前年に公開された同名映画で田宮二郎が演じた野心的な雰囲気とは違った、
暗くねじれた個性を前面に出した財前五郎役を演じて代表作のひとつとなりました。
1980年には紀伊國屋演劇賞を受賞。
低く泰然とした声でのナレーションに人気があり、
1970年代から1980年代にかけて
日本テレビで放送された科学ドキュメンタリー『知られざる世界』のナレーターを担当。
4時間半にわたる長尺のドキュメンタリーを劇場公開して話題になった
映画『東京裁判』でも単独でナレーターをつとめています。
1981年には
『白日夢』で武智鉄二監督の演出のもと愛染恭子と本番行為を行い、一躍話題に。
1980年代から1990年代中盤頃にかけては
「卒業」などテレビドラマを中心に主人公の厳格な父親役を数多く演じ、
その重厚な演技が人気を博しました。
2000年以降も体調をみながら仕事を続け、
2004年に衛星劇場より配給製作された
短編オムニバスホラー映画『日常恐怖劇場・オモヒノタマ〜念珠 七ノ珠 ECHOES』では
主演級の老人役も演じきりました。
体調面も含め、
80歳を超えてからは仕事を控えるように。
2010年5月2日午後4時19分、
肺炎のため都内の病院で死去。
81歳没。
(佐藤慶)
藤原釜足さん
(1905年1月15日-1985年12月21日)
俳優。
身長156cm。
実生活に根ざした芸風で知られた、
黒澤明作品常連の名脇役。
女優の沢村貞子は元妻。
東京市深川区(現東京都江東区)に生誕。
家業の印刷屋不振のため、
10歳で麹町の菓子屋に奉公に出ます。
四ツ谷第三小学校夜間部卒業。
薬剤師を目指していた時期もありますが、
浅草オペラ全盛時代とあってオペラ俳優に憧れ、
滝野川俳優養成所に入り、
卒業後、
浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。
コーラスボーイとして舞台に立つかたわら、
小柄で押し出しもきかぬことを自覚し、
楽器を扱える役者を目指そうと東洋音楽学校に通い、ヴァイオリンを習います。
関東大震災等でオペラが衰退する中、
川崎の映画館に楽士として入り、
結婚し1男をもうけますが、妻を病で失いました。
その後旧知の榎本健一に誘われ、
カジノ・フォーリーに参加。
その後、プペ・ダンサントに参加。
サトウ・ハチローよりアドバイスを受けて、
藤原釜足と改名。
エノケン脱退後には主役級として活躍するも、1933年退座。
映画俳優へ道を進みます。
初の映画出演はP.C.L.の第1回作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』。
P.C.L.時代は主に三枚目を演じることが多数。
1936年、沢村貞子と結婚するも10年後に離婚。
P.C.L.が1938年の合併で東宝となった後も、
準専属から戦後に専属俳優となり、
約50年間に渡って東宝映画で活躍。
第二次世界大戦中、
皇室の忠臣たる藤原鎌足をもじった芸名は不敬とされ、一時改名を余儀なくされました。
戦後は黒澤明作品の常連俳優の一人として活躍、
『生きる』の市民係長役、
『七人の侍』の百姓役など計12本の黒澤作品に出演し、個性的な役を演じました。
黒澤の『隠し砦の三悪人』で千秋実と演じた農民のコンビは、
ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に登場するC-3POとR2-D2のモデルに。
また、
戦前から『旅役者』などの成瀬巳喜男作品にも計17本出演。
そのほか『サザエさん』シリーズの磯野波平役、
薬師丸ひろ子との共演が話題を呼んだ『セーラー服と機関銃』など、
数多くの作品に出演。
1981年、勲四等瑞宝章。
1985年12月21日、老衰で死去。
80歳没。
(藤原釜足)
松本清張さん
(1909年12月21日-1992年8月4日)
小説家。
旧陸軍衛生上等兵。
1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。
以降しばらく、
歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆。
1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。
これらの作品がベストセラーになり
松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こします。
以後、
『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、
第二次世界大戦後の日本を代表する作家に。
その他、
『かげろう絵図』などの時代小説を手がけ、
『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、
『火の路』などの小説作品に結実。
緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評され、
また、
『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、
近現代史に取り組んだ諸作品を著し、
森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、
広い領域にまたがる創作活動を続けました。
(松本清張)
1978年6月撮影。
ヴァン・ヘイレン初来日の時に大泉の東映撮影所にて。
菅原文太の横で一番星号に興奮した様子のエディ・ヴァン・ヘイレン。

全く…別ジャンルのスーパースター二人✌😅 2006年に対談されました😁

 イチロー&永ちゃん✌

吉永小百合さんは、22歳の時に免許を取得されたそうですが、フェアレディを運転するお姿が何とも素敵です❣️ 一緒に写っている、トヨタクラウン(2代目), フォード・タウナス(これは当時のご本人の愛車?), いすゞベレット, 日野コンテッサ... 時代を感じますね。ご本人は、7年ほど前に免許を自主返納されたそうですが、私的にはお気に入りのTV番組「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!」に是非出演頂きたいゲストの1人です😊

子供ながら見ていてかわいそうでした!
それでも、おやじがお土産にケーキ買うのに小銭を握りしめていたシーンが思い出されます。
村上弘明さん
(1956年12月22日-)
俳優・タレント。
身長185cm。
柔道弐段。
岩手県陸前高田市広田町出身。
宮城県気仙沼高等学校卒業、法政大学法学部政治学科中退。
父親は自転車店と三陸海岸でのワカメ養殖業を兼営しており、
家業を手伝い、
進学校・気仙沼高校に越境入学して卒業。
医学部を目指して浪人中、
映画館に入り浸って3浪した末に
「東京の大学に行って教職課程を履修し故郷に帰って教師になる」
と両親に言って法政大学法学部に進学。
映画好きの友人が無断で応募した映画『もう頬づえはつかない』のオーディションを受けて
主役にキャスティングされそうでされなかったことを切っ掛けに芸能事務所に籍を置きます。
事務所の意向を受け不本意ながら
1979年『仮面ライダー (スカイライダー)』主演オーディションに応募し、
3,786人の候補者から選出され主人公・筑波洋役でデビュー。
役者をしていることを両親に黙っていましたが、
『仮面ライダー』の放送が始まると露見したため了承されて大学を中退。
1980年には、
劇場版『仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王』にも主演。
現代劇を中心に活動していましたが、
1985年の必殺スペシャル第5弾『必殺仕事人意外伝 主水、第七騎兵隊と闘う 大利根ウエスタン月夜』以降、
必殺シリーズの花屋(後に鍛冶屋)の政役で出演し、時代劇にも活動の場を広げました。
同年、
NHK大河ドラマ『春の波涛』を皮切りに、
1988年には『武田信玄』で農民から一城主になる武将高坂昌信、
1993年の『炎立つ 第二部』では藤原清衡を主演するなど、
その後も数作品に出演。
1987年、
映画『極道の妻たちII』での演技が評価され、
日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。
1989年の鴻上尚史監督のコメディ『ジュリエット・ゲーム』では、
国生さゆり演ずるヒロインに一目ぼれし追いかけまわす小学校教師役で主演を務めました。
1991年には、
アメリカ映画『アイアン・メイズ/ピッツバーグの幻想』に出演し、
国際的な活動も開始。
1992年、
藤沢周平の小説『用心棒日月抄』を原作とした
金曜時代劇『腕におぼえあり』に主演してシリーズ化。
2005年には近衛十四郎と千葉真一に次ぐ三代目の柳生十兵衛役として、
金曜時代劇『柳生十兵衛七番勝負』に主演し、
大層好評だったことから第3シーズンまで制作・放映。
このほかにはテレビ朝日の『八丁堀の七人』『銭形平次』などに主演。
2009年6月、
妻・田島都がモデル時代に在籍していた縁もありオスカープロモーションへ移籍。
2011年、東日本大震災では、
岩手県陸前高田市にある実家が被災。
外出中だった両親は辛うじて九死に一生を得ましたが、
母方の叔父夫婦と従兄弟1人が死亡。
実家の建物も半壊し、建て替えを余儀なくされます。
地元放送局からの依頼でラジオ生放送で被災者を励ましたり、
知人から集めた物資をワゴン車に詰め込んで避難所を訪れたりしました。
2012年5月、
NHK東日本大震災復興応援ソング「花は咲く」にボーカルとして参加。
IBC岩手放送が毎年12月に開催する
IBCラジオ・チャリティー・ミュージックソンにも度々ゲスト出演。
2014年より「いわて☆はまらいん大使」を、
2016年より「みなと気仙沼大使」を務めています。
2018年2月に
病院での検査で初期の大腸がんが見つかり、
手術を受けていたことを2019年1月に所属事務所が公表。
(村上弘明)
川谷拓三さん
(1941年7月21日-1995年12月22日)
俳優。
身長160cm。
愛称は拓ボン。
大部屋俳優から上り詰め、
昭和を中心に活躍した名優の一人。
仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、
仁科熊彦は岳父、岡島艶子は義母。
大叔父(実母の叔父)に伊沢一郎。
(川谷拓三)
ザ・スリー・ディグリーズ
63年結成 アメリカのソウルグループ
74年の東京音楽祭世界大会に来日、金賞受賞し披露した「天使のささやき」にこんな綺麗な歌があるのかと当時高一だった僕には衝撃でした。
メンバーはいろいろ変わったようですが
ファイエット・ピンクニー
シーラ・ファーガソン
バレリー・ホリデイのトリオが最高でした。

トラック野郎第3弾❗望郷一番星★DVD買って観ました🤩ジョナサンとフェリーで北海道に向かう桃次郎は船上で出会った亜希子に一目惚れ。釧路につくと地元の男都揉めトラックレースで勝負することになる。そしてそんな中、亜希子と再会。旅はさまざまな波乱に揺られていく。

🎄🎅🎁✨⛄クリスマス用の昭和のディスコのレコードです。1コマ目は「クリスマス・ディスコ・ヒット決定盤(1987年)」はテイチクから昭和62年11月発売、2コマ目は「CANADIAN CHRISTMAS (クリスマス・ディスコ・フィーバー/モントリオール・サウンド)(1977)」は日本フォノグラムから昭和53年12月に発売されましたが、ともににクリスマスにチキンやステーキを頬張りながらシャンパンやワインを片手にドンチャン騒ぎするには適しています。よいクリスマスをお過ごし下さい❤️

宇宙刑事ギャバンのミミー役だった

❤叶和貴子・さん❤

平田昭彦さん
(1927年12月16日-1984年7月25日)
俳優。
身長173cm。
主に東宝映画、テレビドラマで活躍。
特撮分野の名優としても知られます。
夫人は女優の久我美子。
実兄に映画監督の小野田嘉幹、
義姉(嘉幹の妻)に女優の三ツ矢歌子、
実妹に女優の音羽美子。
(平田昭彦)
夜鳴きラーメン
昔はドンブリ持って買いに行きましたが
いまは使い捨ての容器があるんですね
明日はChristmas Eve

Christmas Eveというと、山下達郎の「クリスマスイブ」
今年は昭和58年(1983年)12月14日に発売されてから、40周年。
12月13日には、40周年anniversaryの12 inchシングルが発売されました。

昭和・平成・令和と愛されてる曲。
あの頃のクリスマス🎄🎂

こういう広告を見ると無性に懐かしくなります。僕の子供時代、主流はデコレーション バターケーキでしたが、リッチ バージョンとしてアイスクリーム ケーキもありました😄

モールのサンタや、お菓子のブーツも懐かしいですね😌🎶

ケーキ食べながら、テレビのクリスマス特番見るのが何とも言えず好きでした🍀そういえば昔は、なぜか「X’mas」と書くことが多かった気がします(笑)
村上冬樹さん
(1911年12月23日-2007年4月5日)
俳優。
山口県徳山市出身。

旧制福岡高等学校を経て、
東京帝国大学経済学部卒業。
大学卒業後、
新築地劇団の研究生から俳優活動を始め、
兵役の後、
1950年に東宝と契約し、映画を中心に活躍。
東宝の特撮映画などでは、
知的な風貌から学者役を数多く演じました。

1968年、
三島由紀夫、中村伸郎らと劇団「浪曼劇場」を結成。
同年の三島戯曲の舞台『わが友ヒットラー』では、ヒットラー役を演じました。
同劇団解散後も、
演劇分野に携わり、後進の育成・指導などを行いました。

映画、テレビドラマの脇役としても長年活躍しましたが、
2007年4月5日、
胃癌のため東京都目黒区内の病院で死去。
95歳没。

(村上冬樹)
昭和の福引きにニワトリ
締めて食べるんでしょうか
このレコードは当時、中3だと思いますが学校帰りのレコード店で見た時はドキッとしました。リンダロイドの「涙の高校生」、ドン・コスタのプロデューとアレンジでのガールポップ、特別に気に入っていたわけではないのですが元気で溌溂として歌っているのはいいね。
Linda Lloyd - heartache high school U S A
https://www.youtube.com/watch?v=ogX853niJGU