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『手紙』(2006年)
何度か見てきた作品ですが、久しぶりに見てまた号泣してしまいました😭
犯罪者や犯罪者の家族に対する差別を扱った作品は山ほどあると思うのですが、その中でもこの映画は特別だなあと思いました。
おそらく故杉浦直樹演じる(遺作映画)、会社会長の台詞、その会長を動かした沢尻エリカ演じる主人公の恋人の手紙(この手紙は映画では読まれていない)による感動からなんだと思います。
沢尻エリカのキラキラした美しさを見るだけでも価値があると思います。惜しい才能だとつくづく😢山田孝之もこの頃から素晴らしい。相方演じた尾上寛之、被害者遺族の吹越満、兄の玉山鉄二、キャスティングもベスト。

東野圭吾【手紙】(文春文庫)強盗殺人の罪で服役中の兄、剛志。弟・直貴のもとには、獄中から月に一度、手紙が届く...。しかし 、進学 、恋愛 、就職と、直貴が幸せを掴もうとするたびに、「強盗殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる。人の絆とは何か、いつか 罪は償えるだろうか 、犯罪 加害者の家族を正面から描き感動を呼んだ不朽の名作。解説・井上夢人。ミステリーではないのですが、犯罪加害者の視点から見た作品で、僕は何回見ても感動する。東野圭吾の中で一番好きな作品です。

竹脇無我さん
(1944年2月17日-2011年8月21日)
俳優。
身長173cm。
千葉県我孫子市出身。
アナウンサー・ニュース映画解説者をしていた竹脇昌作の三男として誕生。
最初は「宇宙」という名前を父からつけられる予定でしたが、
母の反対で「無我」という名前に。
青山学院中等部・青山学院高等部卒業、青山学院大学法学部卒業。
父・昌作の自殺、
元ラジオ関東アナウンサーの長兄・竹脇義果の半失明状態、
さらには次兄・竹脇真理が脳腫瘍のため18歳で早逝するなどしたために
苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すべく、
16歳で映画界入り。
1960年に
松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優としてデビュー。
1965年、『アンコ椿は恋の花』で初主演。
テレビドラマ『姿三四郎(1970年)』、
映画『人生劇場(1972年)』で一躍スターとなり、
クールな二枚目のイメージを確立。
特に『人生劇場』では
高橋英樹、田宮二郎、渡哲也を抑えて主演を務めています。
石原プロモーションに在籍していたことがありましたが、
1971年に退社。
1966年10月から1971年4月までTBS系で放送された、
若者向け情報番組『ヤング720』では司会を担当(1966年11月から1967年9月)。
この当時に知己を得た関口宏、松山英太郎、西郷輝彦とは晩年まで親交がありました。
テレビドラマでは
森繁久彌や加藤剛との共演が多く、親交が深かったです。
時代劇やホームドラマなどで幅広く活躍。
美声であったことから女性ファンが非常に多く、
知的で優しいイメージが定着して「理想の夫ナンバーワン」と呼ばれました。
一方で、
外面と内面とのギャップに悩まされ、
気の休まらない日々が続いたといいます。
役者として円熟味が増してきた矢先、
友人の松山が食道癌で1991年に死去したショックと、
二枚目を演じるストレスなどにより、
48歳ごろから自殺の衝動を酒で抑え始め、
心療内科での診察を受けてうつ病と診断。
抗うつ剤と眠剤でうつ度が軽くなり、
自身も周囲も病状をやや甘く見ていたため、
半年の入院後に復帰することをマネージャーと病院に伝えて1度は退院したものの、
再び落ち込みが激しくなり、
また自殺の衝動を酒で抑える事態に。
糖尿病と高血圧症も併発し、再度入院。
その入院が元となり、
娘からのサポートや森繁・加藤からの手紙が心の励みとなり、
うつ病の治療に専念。
8年間の闘病生活の末に復帰。
食生活も改善して闘病体験を語れるまでになりましたが、
2009年に父と慕っていた森繁が亡くなったことによる精神的ショックで、
以後再び落ち込みが激しくなり、
食生活の改善を続ける一方で、
一度は止めた飲酒と喫煙を再び続けるようになり、
うつ病と糖尿病時に併発していた高血圧症の症状が再度現れました。
2011年8月21日、
同日未明に自宅内で意識不明の状態で発見され、
東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院に搬送、
集中治療室で入院中と報道。
脳幹出血の症状があり、
治療が続けられていましたが、
同日14時5分、小脳出血により死去。
67歳没。
(竹脇無我)
二瓶正也さん
(1940年12月4日-2021年8月21日)
俳優。
身長176cm。
東京府東京市麹町区永田町出身。
永田町小学校(廃校)、麹町中学校、専修大学附属高等学校卒業。
実父はドイツ人。
映画が好きであったことから、
高校3年生時に俳優を志し東宝芸能学校の夜間部に入ります。
1960年に東宝第15期生ニューフェース(同期に、古谷敏等)となり、
しばらくは大部屋生活が続きます。
1961年、
岡本喜八監督作『暗黒街の弾痕』の「殺し屋B」でデビュー。
コミカルな役柄を得意とし、
東宝の専属俳優として活躍。
特に岡本喜八作品の常連に。
1962年に『妖星ゴラス』で特撮作品に初出演。
宇宙パイロット役を演じますが、
本格的な東宝特撮映画出演はこの1本に留まりました。
1963年には若大将シリーズ『ハワイの若大将』で
運動部のマネージャー江口役に抜擢。
この役はシリーズを通して江原達怡が演じていましたが、
泳げないため海に落ちるシーンを嫌って降板。
そのため、この作品のみ二瓶が演じました。
1966年、
『ウルトラマン』(TBSテレビ/円谷プロダクション)で
科学特捜隊のイデ隊員役に起用。
コミカルで人間味豊かなキャラクターは高い人気を得て二瓶自身の代表作となりました。
その後も
『マイティジャック』(1968年)、
アニメ『ザ☆ウルトラマン』(1979年)では前述のイデ隊員を意識したトベ隊員の声を担当するなど、
円谷プロダクション作品に出演することに。
テレビドラマと並行して、
引き続きクレージー映画等に出演していましたが、
1969年に東宝を退社。
フリーとなり、
大きな身体とにぎやかな声を活かして
『ぎんざナイトナイト』などのテレビ番組の司会やCMなどで幅広く活躍。
1980年代後半に鎌倉市に引っ越し、
1990年代には不動産業等の実業家としての活動が中心となり、
芸能活動は控えるように。
しかし、
1990年代半ばにはウルトラシリーズブームの再燃もあり、
再び円谷プロダクション作品に顔を出すように。
1997年に
『総理と呼ばないで』(フジテレビ)で久々のドラマレギュラー出演を果たしました。
2005年には
『ウルトラマンマックス』にダテ博士役でセミレギュラー出演。
近年はビルオーナーをしており、
芸能関連の仕事はウルトラマン関係のイベントが多数。
2021年8月21日、誤嚥性肺炎のため死去。
80歳没。
 
(二瓶正也)
山田隆夫さん
(高座名:鈴々舎鈴丸、1956年8月23日-)
タレント、シンガーソングライター、落語家、俳優。
身長155cm。
5代目鈴々舎馬風門下。
東京都江東区深川出身。
親類は、山田純大、杉良太郎。
幼少期、材木問屋の実家が詐欺に遭い全財産を失いました。
それにより両親がいつも暗い顔をしていたので、
山田は落語で両親を心から笑わせたいと思うようになり、
これが落語に興味を持つきっかけに。
渋谷区猿楽小学校時代には学芸会で演目に参加して人気があり、
10歳の時、
フジテレビの『ちびっこのどじまん』でデビュー。
番組の審査員に声をかけられ、
NHKの歌番組に出演。
さらに、
その様子を目にした脚本家に見初められ『劇団ひまわり』に所属。
その後複数の番組に出演し、
1970年からは日本テレビの『笑点』の「ちびっ子大喜利」にレギュラー出演。
「ちびっ子大喜利」の座布団10枚獲得記念賞品がレコードデビューだったことから、
1973年にずうとるびを結成し、歌手デビュー。
ずうとるび在籍時代には歌手として、
第26回NHK紅白歌合戦に出場。
その後(1975年3月)日本大学豊山高等学校を卒業。
1977年、結婚を機にずうとるびを脱退。
ずうとるび脱退以降は俳優に主軸を置いた活動となりますが、
脱退と同時にずうとるびとして出演していた番組を軒並み降板することに。
そのため仕事の数が急激に減り、
当時すでに所有していたマンションが主な収入源となる時期がありました。
このときの出演番組のひとつにNHKの子供向け番組『おかあさんといっしょ』があり、
毎週土曜日に放送されていたコーナー『どんどんどん』のお兄さんを1980年度の1年間務めました。
この間、
17歳でプロボクサーのライセンス(プロボクシングC級ライセンス)を取得。
俳優としても活動しており、
多数のテレビドラマや映画に出演。
1987年にアメリカ映画『太陽の帝国』(スティーヴン・スピルバーグ監督)に出演、
オーディションにより決定したがその際には
「キリストのお墓が日本のお寺にあるって聞いて、
実際にそのお寺に行ってお坊さんに『本当にお墓はあるの?』って聞いたら、
お坊さんが言ったんです。『イエス、イエス』」
というギャグを披露し合格。
また、
これに伴い山田は役作りのために坊主頭になっています。
その時期、
警察署の一日署長を務めたことがあります。
この演技が認められ、
『ミスター・ベースボール』に通訳の役で出演が内定。
山田自身も出演を公表していたものの、
後に出演が取りやめに。
(山田隆夫)

「近代映画」1974年12月号 #浅田美代子 さん特集。里中満智子先生の漫画が原作の映画「あした輝く」撮影の頃。(*´∀`*)ノ

♥️2023💃8/25 エルヴィス・コステロ(69歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/25 岡田武史(67歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

『突然ガバチョ❗』        略称「突ガバ!」
 1982年〜1985年     公開バラエティー番組
「テレビにらめっこ」「つるべタクシー」
笑福亭鶴瓶さん、関東進出のキッカケとなった
番組でしたね〜😁
『テレビにらめっこ❗』って鶴瓶さんが言うと
もう笑ってはいけません🤐
視聴者からのギャグ葉書を、鶴瓶さんが読み上げます! 笑うと退場マン(ムキムキのボディビルダー)が現れて連れ去られてしまいます😅
スタジオのお客様だけでなく、ゲストも、スタッフもお構いなし! 時には司会の鶴瓶さん自ら
笑ってしまい“ガバチョ”と抱えられて退場😂
面白い番組でしたね〜😁
藤子F不二雄が得意なのは、どこか別の世界からやってきた主人公が、二階の子ども部屋に住みつき、いろんな出来事が起る設定(ドラえもん・オバケのQ太郎など)
しかし、この『パーマン』は、子どもが、ある日突然凄い能力を身につけるというもの。
自分としては、パーマン1号が憧れる、少女スターの星野スミレ(実はパーマン3号だが知らない)とのラブロマンスの行方が気になる〜。
昭和の定番、大磯ロングビーチでのオールスター水泳大会。。
なぜダンプ松本が?と思うのだが彼女の出場する騎馬戦には必ずダンプに水着を剥がされるポロリタレント要員が存在していた🤣
奥様18歳に続く.なんたって18歳❗
茶目っ気たっぷりのバスガイドさん❗
岡崎友紀さん❗1971年昭和46年
❤️歌手と女優🤩
小学校時代見ていたピンポンパン
お兄さん、お姉さんスタジオで会いたかったな

70年代、ホンダのミニバイクが揃い踏み~

♥️2023💃8/25 ショーン・コネリー(90歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

溝口健二さん
(1898年5月16日-1956年8月24日)
映画監督。
日本映画を代表する監督のひとりで、
1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、
『祇園の姉妹』(1936年)、
『残菊物語』(1939年)、
『西鶴一代女』(1952年)、
『雨月物語』(1953年)、
『山椒大夫』(1954年)など約90本の作品を監督。
ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、
社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られています。
小津安二郎や黒澤明とともに国際的にも高い評価を受けており、
1950年代にはヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞し、
フランスのヌーヴェルヴァーグの監督などにも影響を与えました。
[ヴェネツィア国際映画祭における受賞]
・銀獅子賞
1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』
・国際賞
1952年『西鶴一代女』
(溝口健二)

「小学四年生」別冊付録「#いなかっぺ大将」(川崎のぼる先生)。美少年だった大ちゃんが、いつの間にか笑いを誘う屈指の名キャラクターに。語尾の「~だす」がホノボノしていて良いです♪ テレビアニメは大人気を博しました。

清らかな味

『光線銃 SP』1970 任天堂
1970年に発売された光線銃シリーズ、光線銃SPは、光を用いた射撃玩具で標的に、銃口から発する光をあてて撃つというおもちゃでした。ハイテクなイメージと、バネ仕掛けで吹き飛ぶビール瓶や、鳴き声を挙げるライオンの壁掛け、そしてガンマンなどの面白い標的が人気を集めその年の玩具の売り上げトップを記録するほどの大ヒット商品となりました。でも、売価は9.800円ととってもお高かかったです。😀
笠置シヅ子さん
(1914年8月25日-1985年3月30日)
歌手、女優。
戦前から戦後にかけて活躍し、
特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡。
特に、
躍動感に乏しい楽曲と直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、
躍動感のあるリズムの楽曲と派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在となりました。
シヅ子の歌は今日に至るまでたびたびカヴァーされ、
日本のポップスに多大な影響を与え続けています。
東京ブギウギが特に有名。
香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)黒羽で誕生。
生後間もなく父親が亡くなり、
母親は静子を連れて実家に戻りましたが母乳の出が悪かったために、
偶然近所へ出産の為に帰省していた大阪市福島区の米屋の妻だった女性に貰い乳をしていました。
結局、
その女性が自分の実子と共に静子を大阪へ連れて帰って養女となりましたが、
シヅ子が自身の出生について気付くのは後年になってから。
1927年(昭和2年)に小学校を卒業後、
宝塚音楽歌劇学校を受験。
歌唱力と踊りは申し分無かったですが、
上背が小さいことと極度の痩せ型だったために
過酷な宝塚生活に耐えられないのでは無いかとの学校側の判断により不合格に。
しかし同年、
「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校である日本歌劇学校の前身)を受験・合格し、
娘役・三笠静子の芸名で「日本八景踊り」で初舞台。
その後、
1933年(昭和8年)に「秋のおどり・女鳴神」に出演すると、
翌年には日本コロムビアから「恋のステップ」(作詞:高橋掬太郎、作編曲:服部ヘンリー)でレコードデビュー。
なお、
1935年(昭和10年)に昭和天皇の末弟である澄宮崇仁親王が
「三笠宮家」を創立したのを機に、
三笠姓を避諱して「笠置シズ子」へ改名。
1938年(昭和13年)に帝国劇場で旗揚げした「松竹楽劇団」(SGD)に参加し、
服部良一と出会います。
シズ子はのちに服部とのコンビでジャズ歌手として売り出しますが、
当時の日本は前年に勃発した日中戦争以降戦時色が濃くなっていき、
「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代で
3cmもある長い付け睫毛に派手な化粧と身振りのシズ子は警察から睨まれるようになり、
1939年(昭和14年)には劇場への出演を禁じられます。
松竹楽劇団は1941年(昭和16年)に解散し、
その後は「笠置シズ子とその楽団」を結成して各地で慰問活動を行い、
その一方で「弥次喜多大陸道中」で映画への初主演を果たし、
坊屋三郎、益田喜頓らと共演する姿を見た服部によってコロムビア専属として迎えられ、
「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされますが、
激しく踊り歌うシズ子のステージが当局の目に留まり、
マイク周辺の三尺(約90cm)前後の範囲内で歌うことを強要されるなど辛酸をなめました。
所属した劇団が僅か3年で解散となり、
第二次世界大戦によって戦時色が濃くなる一方の日本において、
シズ子のみならず歌手は活躍の場が限られていき、
シズ子は「笠置シズ子とその楽団」を率いて巡業や慰問に活躍。
戦後にヒットした「アイレ可愛や」は、
テーマを南方にしたことで難を逃れたステージ用に作られた楽曲で、
シズ子は兵隊や軍需工場の慰問において好んで歌っていました。
シズ子は1945年(昭和20年)11月に再開場した日本劇場の最初のショーから出演し、
1947年(昭和22年)の「踊る漫画祭り・浦島再び龍宮へ行く」で歌った、
服部作曲の「東京ブギウギ」が大ヒット。
服部はシズ子の歌曲の大半を手掛けており、
これ以降は
「大阪ブギウギ」「買物ブギ」など一連の「ブギもの」をヒットさせ、
「ブギの女王」と呼ばれました。
その後、
美空ひばりが登場するまでスーパースターとして芸能界に君臨し、
ひばりはシズ子の物真似から有名になったほどでありますが、
シズ子のマネージャーを務めていた男がシズ子より先にひばりをハワイで公演させたことで、
真似されているシズ子本人が
「美空ひばりの持ち歌を歌っている人」(=シズ子が本家であるところ、ひばりが本家)と現地で誤解を招いてしまい、
これ以降はひばりにブギを歌わせなかったというエピソードがあります。
またシズ子は、
東海林太郎・淡谷のり子といった歌そのものを重視する従来の歌手と異なり、
派手なアクションと大阪仕込みのサービス精神にあふれており、
当時としてはかなり斬新なスタイルでした。
「ヘイヘイブギ」ではシズ子が「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると
観客が「ヘーイ・ヘイ」と唱和し、
文字通り観客と出演者が「一体」となるパフォーマンスを繰り広げ、
「ホームラン・ブギ」では
高下駄を履いた応援団長の扮装で登場すると勢い余って観客席へ転落したり、
「買物ブギ」では熱演のあまり履いていた下駄が真っ二つに割れてしまう程でした。
藤村富美男(大阪タイガース)が
シズ子のステージにヒントを得て派手なプレーを心がけるようになったのは有名(『日本プロ野球歌謡史』彩流社・刊/菊池清麿・著)。
1948年(昭和23年)に公開された
黒澤明の映画「醉いどれ天使」ではキャバレーの歌手を演じ、
ワンシーンのみの登場ですが非常に強い印象を残しました。
また、
シズ子がその時に歌った劇中歌「ジャングル・ブギー」は黒澤が作詞。
そして1949年(昭和24年)には
高峰秀子との共演で、シズ子の代表作となった「銀座カンカン娘」に主演。
私生活では、
幼少より病弱でシズ子より9歳年下の吉本穎右(吉本興業の創業者・吉本せいの子)と知り合って
交際に発展、妊娠に至るも、
穎右を吉本の後継者にさせることを熱望していたせいはシズ子を気に入らず、
断固として穎右との結婚を認めませんでした。
さらに穎右は1947年(昭和22年)5月に23歳の若さで急逝。
なお、
シズ子は穎右の死から僅か数日後に女児(一般人)を出産し、
命名は穎右に由来しているといいます。
シズ子は妊娠中に、
舞台「ジャズ・カルメン」への出演を最後に引退を考えたものの、
服部や榎本健一ら周囲の励ましもあって現役続行を決意し、
乳飲み子を抱えて舞台を務める姿は、
当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれた生活のために止むを得ず売春する女性らに深い共感を与え、
シズ子の後援会は大半がこうした女性によって固められていました。
ブギが下火となった1957年(昭和32年)頃、
シズ子は歌手廃業を宣言。
理由は
「観客を満足させる歌声、踊りが披露できなくなったから」「一人娘の育児を優先」と言われていましたが、
これについて後年に出演したテレビの対談番組で語ったところによれば
「廃業の理由は『太りかけたから』」だったと告白。
つまり、
昔と同じように動けていれば太る筈が無い、
太ってきたのは動けていないからだということでした。
それに関連して、
「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自ら汚す必要は無い」とも語っています。
その後、
シズ子は「笠置シヅ子」と改名して女優活動に専念。
「笠置シヅ子」として再スタートを切るにあたり、
女優活動への専念については各テレビ局や映画会社、興行会社を自ら訪れて
「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。
これまでの「スター・笠置シヅ子」のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、
どうぞ、ギャラを下げて下さい」
と出演料ランクの降格を申し出ています。
シヅ子はその後、
得意の大阪弁を活かした軽妙な演技で多くの作品に出演したほか、
1967年(昭和42年)からはTBSテレビの人気番組「家族そろって歌合戦」の審査員、
1971年(昭和46年)からは、
カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれました。
1980年代に入ると体調を崩すことが増え、
1985年(昭和60年)3月30日に卵巣癌のため東京都杉並区の立正佼成会佼成病院で死去。
70歳没。  
(笠置シヅ子)

『探偵物語』松田優作さんと三人の美女

田宮二郎さん
(1935年8月25日-1978年12月28日)
俳優・司会者。
身長180cm。
1960年代から1970年代にかけて俳優として活躍、
代表作は
映画『悪名』シリーズ、映画『白い巨塔』、
テレビドラマ『高原へいらっしゃい』など。
ほかに
クイズ番組『クイズタイムショック』の司会としても長らく親しまれました(1969年1月9日 - 1978年9月28日)。
大阪府大阪市北区出身。
生後4日で住友財閥の大番頭だった父を失い、
戦後まもなく母とも死別。
そのため幼少から高校時代にかけては京都市にて親族に育てられました。
京都府立鴨沂高等学校を経て学習院大学政経学部経済学科卒業。
学生時代は、シェイクスピア劇研究会に所属し、
外交官志望でした。
しかし大学在学中の1955年(昭和30年)、
スポーツニッポン社主催の「ミスター・ニッポンコンテスト」で優勝したことがきっかけで、
大映演技研究所10期生として入社。
同期には叶順子・市田ひろみ。
1956年(昭和31年)、
「ミスタースマートコンテスト」で空手を披露し優勝、
ファッション雑誌『男子専科』の専属モデルに応募し合格、
以後数年間は俳優業を兼ね活動。
1957年(昭和32年)に本名でデビュー。
1959年(昭和34年)、
大映社長の永田雅一がオーナーを兼務する
毎日大映オリオンズの強打者・田宮謙次郎にあやかりたいという永田の意思に強制される形で
「田宮二郎」と改名。
長らく端役が多かったですが、
1961年(昭和36年)に吉村公三郎の監督映画『女の勲章』(山崎豊子原作)の演技で注目を集め、
これが俳優人生の最初の転機に。
同年秋に
勝新太郎と共演した田中徳三の監督映画『悪名』(今東光原作)にて
勝の相棒「モートルの貞」役に抜擢され、
人気スターの仲間入りを果たしました。
「モートルの貞」は続編映画『続悪名』(田中徳三監督)で絶命しますが、
その後シリーズ化が決定、
田宮は3作目から貞とそっくりな弟「清次」を演じ「勝-田宮」コンビが復活、
長きにわたる人気シリーズとなりました。
またこれらの演技が評価され、
1961年(昭和36年)のエランドール新人賞を獲得。
端整なルックスと、
身長180cmでスリムでありながら筋肉質だったため女性ファンが夢中に。
甘い二枚目役から冷酷なエリート、
ユーモラスな拳銃使い、
ヤクザ、欲望のためなら手段を選ばない悪役までもこなす演技力から
犬シリーズ、黒シリーズなどにも主演、
大映の看板俳優として活躍。
また若尾文子の相手役として名画を多く残しました。
1965年(昭和40年)に
『黒の爆走』『黒の超特急』などで共演した藤由紀子と結婚。
1966年(昭和41年)、
山本薩夫の監督映画『白い巨塔』(山崎豊子原作)で財前五郎役を演じたことで、
その名声は決定的なものになり、
「昭和のクールガイ」と呼ばれました。
1968年(昭和43年)、
今井正の監督映画『不信のとき』(有吉佐和子原作)の宣伝ポスター(原案)において、
主役(130シーン中94シーンに出演)の田宮の名が4番手扱いになっていました。
その序列は、
若尾文子(大映の看板女優)がアタマ、
2番目が加賀まりこ(松竹専属の女優、田宮より年下でありキャリアも後輩)、
トメ(最後)が岡田茉莉子(東宝や松竹で活躍後、当時は独立系の映画を中心に出演)で、
田宮はトメ前となっていました。
いくつもの主演シリーズを持っていた田宮は
誰が見ても大映現代劇のトップ男優であり、
彼にとってこの序列は譲れない大問題でした。
田宮は撮影所長に抗議しましたが、
「この作品は女性映画として売りたいからこうなった。
私の首にかけてもこの序列を変えることはない」と断られ、
その場で副社長の永田秀雅(永田雅一の息子)に電話。
すると
「役者ごときが注文をつけることではない」と叱責され
再び却下されたことからフィクサーとさえ言われる永田雅一に対抗するためか、
永田雅一と直談判。
すると
「主役のお前がアタマに書かれるのが当たり前や」となりました。
しかし
「をかけてもと撮影所長に言われたのだから、
俳優の私が辞める(か所長が辞める)しかない」
と田宮が言うに及び、
雅一は
「おい、思い上がるのもいい加減にしろ。
お前は横綱・大関クラスの役者だと思っているんだろうが、
まだ三役クラスの役者だ。
人事に口を出すな」と憤慨。
結果的に刷り直したポスターの序列は希望通り田宮がトップとなりましたが、
雅一は契約を残したまま、田宮を解雇。
これにより、
ただでさえスター不足で経営難の大映はますます屋台骨が傾くことに。
さらに五社協定を持ち出し、
他社の映画にもテレビドラマにも田宮を使わないように通達。
このため田宮は大きな転換期を迎えることとなり、
一部マスメディアではこの大映解雇が
「田宮の人生の歯車が狂い始めたきっかけ」とも言われています。
映画界から完全に干されてしまった田宮は、
家族を養うために舞台俳優・司会者・歌手として活動し、
片やナイトクラブ、キャバレー回りなどの地方巡業もしていました。
1969年(昭和44年)1月9日からは、
NET系列で放送が始まったクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会を務め、
映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、
加えて軽快で巧みな話術と的確な番組進行が視聴者の好感を呼びました。
また同年、
東京12チャンネルの音楽番組『田宮二郎ショー』の司会も務めました。
映画俳優としての仕事ができず、
このようなテレビの仕事をすることは、
この時代の映画人にとって不本意とされていました。
一方、
当時のテレビの家庭普及率はすでにほぼ100%に近く、
カラーテレビの普及も進んでいた頃で、
他の映画俳優たちのテレビ出演も珍しくなく、
田宮の司会姿は視聴者たちの記憶に長く残ることとなり、
結果として田宮の名声を保つことにつながりました。
1969年(昭和44年)6月で大映と契約満了。
東映プロデューサーの俊藤浩滋から誘われ、
千葉真一主演映画『日本暗殺秘録』に藤井斉役で出演し、
映画界へカムバックを果たしました。
苦境を乗り越えたことで自信を付けた田宮は、
永田雅一に啖呵を切るまでになっていました。
そこで、1971年(昭和46年)に
妻を社長に据え立ち上げた自身の個人プロダクション「田宮企画」で
『3000キロの罠』を製作・主演をしましたが、
ヒット作とはならず。
一方の大映は1971年(昭和46年)に倒産。
それをきっかけに
すでに斜陽であった日本映画の観客動員数はさらに大きく落ち込み、
今に続くテレビ時代に。
1972年(昭和47年)にはTBS系ドラマ『知らない同志』でテレビドラマへ本格進出。
その後も
『白い影』『白い滑走路』などの白いシリーズや、
山田太一脚本『高原へいらっしゃい』などの話題のドラマに主演して、
立て続けにヒットを飛ばし、
ドラマ界でも花形スターの座を獲得。
その頃になると、自身を
「実業家としても成功したい。
日本のハワード・ヒューズになる」
と公言しはじめ、ビジネスに強い興味を持ち、
政財界とも接触を持つようになって、
ゴルフ場やマンションの経営を行いましたが失敗。
1977年(昭和52年)には
日英合作映画『イエロー・ドッグ』(松竹)の製作・主演も行いましたが不入りに終わり、
多額の借金を抱えてしまいます。
大映時代の過労で結核を再発させてしまい、
ペニシリン注射を打ちながら撮影を続けたこともあった田宮でしだが、
大映退社後は更に休む間がなくなっていたために次第に精神を病み、
同年3月には精神科医の斎藤茂太から躁鬱病と診断されました。
しかし、田宮自身は病気を認めようとせず、
治療薬の服用も拒否したため夫人は飲んでもらおうと必死になったといいます。
また、
付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、
ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れることを嫌がるなど、
頭髪についても悩んでいたといいます。
田宮夫人が田宮の精神状態を気遣い、
一旦ドラマを休ませようとしていた折、
1977年(昭和52年)冬にTBSから
田宮のキャスティング権を得たフジテレビから企画を求められます。
田宮は、
原作の途中までしか映画化されていなかった小説『白い巨塔』のドラマ化を強く希望。
映画『白い巨塔』で主演として財前五郎を演じて以来、
田宮は常に高みを目指す財前の姿に自分を重ね、
自身の本名と同じ「ごろう」であったこともあり、
財前五郎を演じるのは自分しかいない、
原作のラスト・財前の死までを演じ切りたいと思い続けていました。
かつて映画化の際には原作の財前の年齢設定よりずっと若かった田宮も、
この時にはほぼ同じ年齢であり、機も熟していました。
田宮は原作者・山崎豊子に直談判し、
快諾を得て1977年(昭和52年)11月にはドラマ化が決定。
1977年(昭和52年)12月に入ると、
躁状態に入った田宮は入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、
いかがわしいビジネスに熱中し始めます。
また、
同時期に事務所として南麻布のマンション4部屋を購入し、
その代金2億円超を借金で賄おうとしていました。
田宮の事業熱が収まらないまま、
ドラマ『白い巨塔』は1978年(昭和53年)3月26日に撮影開始。
ロケーション現場の病院を自ら手配するなど、
高いテンションで撮影に臨み、
6月3日放映の初回は視聴率18.6%と好調にスタート。
一方で私生活は荒れ、
執拗な債権取立ての中で、
妻に不動産などの書類の引渡しを求めて激しく言い争うようになっていました。
ドラマ撮影現場でも次第に彼の不遜な態度に対して不安が広がり、
スタッフがその火消しに躍起になったといいます。
さらには
「ウラン(一説には石油だとも言われている)の採掘権を取得した」
と主張して突如トンガへと1週間出かけ、
あわや撮影中止になりかけることも。
また、
撮影開始の辺りから田宮企画に会社ゴロから頻繁に金品要求があり、
「金を払わないと山本陽子との不倫関係をマスコミに漏らす」「新ドラマの宣伝をしてやる」といった内容の電話がかかるようになり、
6月には
田宮から相談を受けていた警視庁が捜査に乗り出す展開にまで発展(捜査の結果、立件には至らず)。
第18話まで撮影したところで撮影は1カ月の休暇に入り、
田宮は7月29日にロンドンへ旅行に出発。
戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国しましたが、
その時に田宮は鬱状態に入っていました。
9月17日から後半の収録が始まりましたが、
テンションが高かった旅行前とは一転して、
田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていました。
妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、
共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。
財前五郎の死のシーンに際して、
田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、
財前の遺書も自らが書き、
それを台本に加えさせました。
さらに、
全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役を
スタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗りました。
ドラマ撮影の間、
9年に渡って司会を務めてきた『クイズタイムショック』を1978年(昭和53年)9月28日放送分をもって降板。
病状が改善されないこともあり、
自ら申し出たもので、司会者は山口崇へ引き継がれました。
『白い巨塔』撮影終了後の田宮はすっかり虚脱状態になり、
「財前五郎の後に、どんな役を演じたらいいかわからない」
とプロデューサーの小林俊一に漏らすようになっていました。
しかし、収録終了後、
田宮は夫人と温泉に行くなど回復しつつあるように見えました。
また、
自殺3日前の12月25日には同ドラマの仕事仲間(田宮と花森ケイ子を演じた太地喜和子、プロデューサーの小林俊一)と3人で食事をしており、
自殺の兆候など全く見られなかったといいます。
ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年(昭和53年)12月28日の午前中、
南青山のマンションに住む田宮夫人から連絡を受けた田宮の付き人は、
体調を崩した田宮夫人の母親を病院に連れて行き、
その後港区元麻布の田宮邸に戻ってから、
そのことを田宮に報告。
生前の田宮の最期の言葉は、
昼近くに付き人が聞いた「お腹が空いた」と言う言葉でした。
付き人は田宮のために赤坂の洋食店で弁当を買って帰りました。
そして1階のキッチンでお茶を入れ、
弁当と梅干しを載せたお盆を持って2階に上がり、
寝室の前で声を掛けたが応答がなく、
しばらくしてドアを開けると田宮はベッドの上に仰向けで横たわり、
米国パックマイヤー社製の上下2連式クレー射撃用散弾銃で自殺を遂げていました。
43歳。
(田宮二郎)

♥️2023💃8/25 マコーレー・カルキン(43歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

45年前の1978年(昭和53年)8月26日、日本テレビ系列にて「24時間テレビ 愛は地球を救う」放映開始。「テレソン」と呼ばれる長時間特別編成のチャリティー番組。チャリティーパーソナリティーを萩本欽一が努める。
当初は日本テレビ放送網開局25周年の単年企画であったが、エンディング会場で萩本と日本テレビ社長小林與三次の掛け合いで翌年以降の継続を宣言、本年で第46回となる長寿番組に。
当時から芸能人の「偽善」でしかない、過剰な演出は「感動ポルノ」との批判もあった。しかし何もしないよりははるかに有意義なことであったと思うが。ハンデを持った人々の苦労、飢餓や貧困に苦しむ国、そのことをこの番組で知った人は多かったはずである。かく言う私も。それだけでも大きな意味があったと言えまいか?
よく言われる「タレントはギャランティは貰うな」。しかしギャラを払うから大物タレントが出演し、そこから視聴者の注目が集まりより多くの寄付金も集まるわけで。
萩本欽一は高額ギャラを全額寄付。本人はこの話が広まると自分が「いい人」にされてしまい競馬にも行けなくなったと嘆いていたが😃※今週の週刊文春にて。
中学2年生の時にリリースされた『かぐや姫』の解散ベストアルバム〈かぐや姫フォーエバー〉
ちょうどギターにハマりはじめた頃だった。
兄貴からもらったクラシックギターにフォークの弦を張ってジャカジャカやってた。
本当に擦り切れるほど聴いたな〜
個人的には『あの人の手紙』が好きです。

♥️2023💃8/26 内海賢二(75歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

8月25日は 1970年代スーパーアイドル #ピンクレディー さんのデビュー47周年記念日でした。
あの頃 テレビや雑誌でお二人の姿を見かけない日はありませんでした。当時のチビっ子達は今でも振付を覚えていらっしゃる方が結構多いと思います♪ (⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)
雍仁親王妃勢津子さん
(1909年9月9日-1995年8月25日)
皇族。
秩父宮雍仁親王の妃。
旧名は松平節子。
身位は親王妃。
お印は菊。
旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。
母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。
父の任地イギリスのロンドンで誕生。
生後数か月で帰国し、
その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごします。 
1925年(大正14年)に渡米し、
米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。
いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、
外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったといいます。
女子学習院初等科3年の時、
伯爵・樺山愛輔の次女・正子と同級生となり、
以後2人は生涯の友となりました。 
正子によれば、
節子は物事に寛容で、勉学に励む人であったといういます。
両家は仲が良く、
愛輔はのちに貞明皇后の内意を受けて、
雍仁親王と節子の婚姻を取り持ちました。
皇太子妃である良子女王の結婚では、
宮中某重大事件や、
良子女王の実家である久邇宮家との確執もあったことから、
第二皇子である雍仁親王の結婚にあたっては、
貞明皇后が妃選びに熱心でした。
特に、
節子が出産可能な健康な女性であったことから、
貞明皇后の期待は高かったそうです。
1928年(昭和3年)1月18日、
天皇より勅許がおり9月28日、
昭和天皇の次弟・秩父宮雍仁親王との婚儀が行われました。
当時の皇室典範では、
皇族の妃は皇族もしくは華族である必要がありましたが、
節子の父・恆雄の身分は平民でした。
父の族籍のままでは皇族へ嫁ぐことができなかったため、
一旦叔父・松平保男(子爵、海軍少将)の養女となり、
華族としての身分を得てから婚儀に臨みました。
「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる勢津子妃の皇室への入輿は、
旧会津藩の士族の復権に繋がり、
当然会津人の感激は並ならぬものであったといいます。
大正天皇の4皇子(昭和天皇・雍仁親王・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王)のうち、
三笠宮妃百合子を除く3親王妃(香淳皇后・勢津子・高松宮妃喜久子)は、
いずれも大物佐幕派(久邇宮朝彦親王・松平容保・徳川慶喜)の孫であり、
本人たちもそれを笑い話にしていたと言われます。
成婚に際し、
雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字を避け(避諱)、
皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、
同音異字の勢津子に改めました。
同年10月17日、神嘗祭に出席し、
勢津子にとって初めての宮中祭祀に。
夫妻はその日のうちに、東京を発ち、
伊勢神宮や伏見桃山陵に拝礼。
11月10日には京都御所で昭和天皇の即位礼が行われ、これにも参列。
勢津子妃が雍仁親王と結婚した1928年(昭和3年)時点では、
昭和天皇と香淳皇后には二人の皇女がいるのみで、
まだ皇子は無かったため、
雍仁親王は皇位継承順位第1位でした。
また、
宮中では女官制度廃止や子女を手元で養育する天皇・皇后への反発も少なからずありました。
秩父宮・同妃の結婚翌日、皇太后(貞明皇后)は
勢津子妃に和服を着てたびたび参内するよう、
声をかけました。
第三皇女の孝宮和子内親王の誕生に先立つ1929年(昭和4年)9月14日、
皇太后は皇后に安産祈願の贈り物として鯛を贈りました。
その2週間後、
秩父宮・同妃の結婚一周年の祝いに、
雍仁親王のお印(若松)に因んだ「松」の下で、
松平家ゆかりの鶴ヶ城(会津若松城)に因んだ「鶴」が遊ぶ姿を、
皇太后自身が育てた蚕から作った真綿で象って贈っているます。
さらに皇太后は二首の和歌を詠み、
それはどちらも秩父宮・同妃が子に恵まれることに期待を寄せる内容でした。
また、当時、
雍仁親王は「スポーツの宮様」として人気が高く、
天皇・皇后に男子が産まれないこともあって、
一時は雍仁親王を後継者に推す動きもありました。
最終的に天皇・皇后の第五子として
1933年(昭和8年)に継宮明仁親王が誕生したことで、
後継者問題は解決。
1937年(昭和12年)、
天皇の名代として雍仁親王がイギリスのジョージ6世国王の戴冠式に出席するため、
英国をはじめ訪欧に同行。
1939年(昭和14年)に香淳皇后の令旨により、
勢津子妃を総裁とする結核予防会が設立。
しかし皮肉にも翌年、雍仁親王が結核を発病。
総裁就任にあたり結核について学び、
雍仁親王の様子が結核の初期症状に似ていることに気づくも、
医師の診断でもなかなか断定は出来ず、
発見が遅れました。
翌1941年(昭和16年)より雍仁親王の療養のため御殿場で生活を送り、
ここで終戦を迎えました。
夫・雍仁親王の代わりに公務を務めたり、看病をするも、
雍仁親王が1953年(昭和28年)1月4日に肺結核により50歳で薨去。
残された勢津子は、
結核予防会総裁を長年にわたり務め、
1957年(昭和32年)には秩父宮記念診療所を開設。
その後も一人で宮家を守り続けるも、
1995年(平成7年)8月25日に85歳で薨去。
豊島岡墓地の雍仁親王と同じ墓所に葬られました。
秩父宮は勢津子の薨去により絶家となりました。
(雍仁親王妃勢津子)
下絛正巳さん
(1915年8月26日-2004年7月25日)
俳優。
釜山生まれ。
両親は長崎県壱岐の出身。
釜山第一商業学校卒業。
20歳まで釜山で育ち映画監督を志し上京。
1936年、
村山知義らの新協劇団に入団し、『天祐丸』で初舞台。
戦後、第2次新協劇団の創建に参加。
1951年、劇団民藝に入団。
多くの舞台に出演するも、
1971年に内部での対立が起こり、
佐野浅夫、鈴木瑞穂、佐々木すみ江らと退団してフリーに。
映画・テレビドラマにも進出し、
中でも『男はつらいよ』シリーズでの
3代目・おいちゃん(車竜造)役は広く知られています。
なお、
初代・二代目と比較するとシリアス寄りのキャラクターへとなりましたが、
これまでの森川信や松村達雄のおいちゃん役では表現しきれなかった、
「普段は寅次郎に厳しく接し、親代わりとして真剣に心配している」
という芝居の良さが寅さんファンの語り草の1つとなっています。
一方で、初期の、
おいちゃん自身も結構なダメ男であるという設定は後退。
松竹映画を支える名脇役の1人として活躍したのち、
晩年は北野武監督作品にも迎えられました。
2004年7月25日午後3時55分、
膵臓がんで都内の自宅で死去。
88歳没。
1999年10月放送のテレビドラマ『旅立つ人と』(脚本・山田太一)が遺作。
妻は元女優の田上嘉子、長男は俳優の下條アトム。
(下絛正巳)
米倉斉加年さん
(1934年7月10日-2014年8月26日)
俳優・演出家・絵本作家・絵師。
福岡県福岡市(現在の同市中央区)出身。
福岡市立警固中学校、福岡県立福岡中央高等学校卒業。
高校ではバスケットボール部で主将を務めました。
西南学院大学文学部英文科在学中に演劇に目覚め、中退。
1957年に劇団民藝水品演劇研究所に3期生として入り、
1959年には研究所同期の岡村春彦や常田富士男らとともに、
劇団民藝に決別宣言をし、
劇団青年芸術劇場(現・シアター青芸)を旗揚げ。
宇野重吉のアドバイスにより、
1964年(1965年とも)に劇団民藝に復帰(かつて所属した水品演劇研究所は水品春樹が劇団内に立ち上げた育成機関であり、劇団史としてはこのときに入団扱いとなっています)、
2000年に退団するまで演出家としても活動。
2007年には劇団海流座を立ち上げ、代表を務めました。
繊細な奇人芸術家・善良だが内気なインテリといった役柄を得意としており、
特にNHKへの出演は多く、
大河ドラマではたびたび大役を演じました。
『風と雲と虹と』での国司でありながら将門の乱をたきつける皇族・興世王役での怪演をはじめ、
『花神』での桂小五郎役は、
本来二枚目人気スターの当たり役なだけに(しかもこのドラマでは準主役的ポジション)、
民放や現在のNHKでは考えられない起用でしたが、
高い知性やリーダーシップと神経質さを併せ持つ桂像を構築して見せた点など、
同シリーズでの功績は大きいです。
1972年の『明智探偵事務所』では
準レギュラー・「博多訛りの」怪人二十面相役を務めました。
善人としての持ち味は山田洋次がよく活かし、
『男はつらいよ』シリーズには2度、
恋敵役で登板したほか、
冒頭夢場面の端役と葛飾の巡査役を兼ねるような形で軽い顔出しを重ねました(実質、準レギュラー)。
山田監督の愛弟子・高橋正圀脚本のテレビドラマ『僕の姉さん』でも
倍賞千恵子の夫となる美術教師として準主演(こちらも善良なインテリキャラクターでした)。
他に『沖田総司』の近藤勇役、
『動乱』の高倉健、吉永小百合に次ぐ三番手ポジションである憲兵役などが
映画での大役。
第1回、第23回[8]紀伊国屋演劇賞(1966年、1986年)、
第11回「新劇」演技賞受賞。
役者のほかに絵本作家、絵師としての活動も行っており、
ボローニャ国際児童図書展にて、
1976年の『魔法おしえます』と1977年の『多毛留』で、
2年連続グラフィック大賞を受賞したほど(『魔法おしえます』は子供の部、『多毛留』は青少年の部での受賞。大賞を2年連続で受賞したのは史上初)。
角川文庫の夢野久作作品など、
表紙やイラストも多く手掛けています。
本文・挿絵とも米倉による著書『おとなになれなかった弟たちに…』は、
1987年以来、中学1年生の国語教科書(光村図書)に採用されています。
2014年8月26日、
知り合いの結婚式に出席するため滞在していた福岡市のホテルで倒れ、
同日21時33分、
搬送先の同市内の病院で腹部大動脈瘤破裂のため死去。
80歳没。
(米倉斉加年)

1960年代だろうか?懐かしいオーシャンウイスキー50円

藤竜也さん
(1941年8月27日-)
俳優。
身長173cm。
愛称は「ツモちゃん」。
妻は芦川いづみ。
北京生まれ、神奈川県横浜市育ち。
横浜市立戸部小学校、関東学院中学校・高等学校卒業、日本大学芸術学部演劇学科中退。
父は北京滞在中に現地召集を受け戦死。
母、弟と三人で福井県敦賀市に引き揚げ。
父の実家を頼り、
神奈川県横浜市に行くも一家は離散し、
竜也は逗子市の孤児院に入れられましたが3日で脱走。
小学校時代は葉山町などで過ごし、
大学在学中に銀座の日劇前でデートの待ち合わせ中にスカウトされて、日活に入社。
1962年に『望郷の海』でスクリーンデビュー。
ニューフェイスとしてのデビューだったものの、
当初はエキストラに近い役もありました。
当時、
斬新な演出で人気監督となっていた鈴木清順のもとを訪ね、
出演をアピールするも、返ってきたのは
「君には和田浩治のような育ちの良さも何もない」
というきついダメ出しだったといいます。
1966年、38作目の出演作となった、
渡哲也主演の『嵐を呼ぶ男』でようやく存在を示します。
更に1967年の『紅の流れ星』以降、
日活がニューアクション路線へシフトすると、
1969年の『野獣を消せ』、『広域暴力 流血の縄張』でも強烈なインパクトを残し、
『野良猫ロックシリーズ』など長谷部安春監督作品や澤田幸弘監督作品などで
準主役を務めるようになりました。
また、
1968年には日活首脳陣の反対を押し切る形で芦川いづみと結婚。
1971年、
旧日活体制最後の一般映画『不良少女 魔子』に出演後、
日活を離れ、一時、東映に籍を置くものの、
作品には恵まれず。
そんな中、
1973年になってテレビドラマ『時間ですよ』で演じた謎の男・風間役で静かにブレーク。
さらに1974年、
日活時代から単独主演の作品映画は無かったですが、
歌手デビューを果たした「花一輪/夢は夜ひらく」をモチーフに製作された、
『任侠花一輪』でようやく初主演。
作詞は『時間ですよ』で藤を起用したプロデューサーの久世光彦(小谷夏名義)。
久世はその後も
『悪魔のようなあいつ』(1975年)や
『ミセスとぼくとセニョールと!』(1980年)などでも藤を起用するなど、
藤がお茶の間的人気を獲得するのに貢献。
1976年、大島渚監督の『愛のコリーダ』に出演。
劇中で松田英子と中島葵との本番を演じ大きな話題に。
また同作品で第1回報知映画賞主演男優賞を受賞。
しかし、この作品の影響からか、
翌年は俳優の仕事から遠ざかり、音楽活動に専念。
作詞も手掛けた「ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース」がロングセラーに。
1978年、
加山雄三らと共演したテレビドラマ『大追跡』で復帰。
以降は
『プロハンター』『特命刑事ザ・コップ』『ベイシティ刑事』などのアクションや、
現代劇を中心にテレビドラマ・映画で活躍。
1980年代にはタバコのCMに出演するなど、
ダンディーな中年俳優として人気を獲得し、
3冊の写真集が発売されました。
2000年代は
黒沢清監督の『アカルイミライ』を始め若手監督の作品にも意欲的に出演。
2004年『村の写真集』(三原光尋監督)で
第8回上海国際映画祭最優秀男優賞を受賞。
古希を迎えた2010年代も第一線での活躍が続き、
2015年にはNHKのドラマ『かぶき者 慶次』で主演。
また2015年には北野武監督の映画『龍三と七人の子分たち』でも主演。
この演技で第25回東京スポーツ映画大賞の主演男優賞を受賞。
2021年、
NHKの朝ドラ『おかえりモネ』に出演、
この作品での演技が注目され、賞賛されました。
80歳を過ぎても主演映画が続いており、
2023年公開の映画『それいけ!ゲートボールさくら組』『高野豆腐店の春』
にそれぞれ主演。
(藤竜也)
昭和56年頃に初めてアパートを借りて独り暮らしを始めた時に
買った思い出の鳩時計
小さな折り畳み式のテーブルしかない殺風景の部屋に
この鳩時計が元気よく時を刻んでました。
小林昭二さん
(1930年-1996年8月27日)
俳優、声優。
東京府豊多摩郡出身。
身長は164センチメートル、体重は58キログラム。
日本大学芸術学部映画学科中退。
劇団俳優座養成所の第2期生で、
同期には小沢昭一や土屋嘉男。
1952年に新東宝の映画『殺人容疑者』で銀幕デビュー。
1953年4月に劇団仲間に入団し、同年6月に退団。
1954年10月から1956年11月までは新協劇団に所属。
1957年3月から1959年8月までは再び劇団仲間に所属。
1960年4月から1962年2月までは劇団新人会に所属。
1962年3月から俳優小劇場に所属。
その後は舞プロモーションに所属。
舞台を中心に各社の映画に出演する一方、
円谷プロダクションや東映製作の特撮テレビ作品で活躍。
『ウルトラマン』のムラマツキャップ(隊長)役や
『仮面ライダー』の立花藤兵衛役などが広く知られます。
また、
『ゴジラシリーズ』や『ガメラ2 レギオン襲来』など、
日本の代表的な特撮シリーズに多く出演。
時代劇や現代劇で数々の作品に出演しており、
悲運な小市民から重厚な黒幕、
さらには狂気を感じさせる極悪大盗賊など、
善役から悪役まで幅広い役柄を演じ、
いぶし銀の存在感を見せました。
コメディ演技も得意としていました。
市川崑監督からの信任も厚く、
金田一耕助シリーズには全作出演。
地味な役ばかりですが、
最終作『病院坂の首縊りの家』では『無法松の一生』を想起させる渋い見せ場が用意され、
貢献に報いられました。
また、ジョン・ウェインの声の吹き替えや時代劇作品のナレーターなど、
声優としての実績も多数。
1996年8月27日に肺癌のため、
昭和大学附属藤が丘病院で死去。
65歳没。
(小林昭二)

女王様キャラの…にしおかすみこさん🥰 実は…結構可愛くて、美人なんですね😍🥰✌

新春スターかくし芸大会の東軍の演目ターミネーター2でターミネーター役の加藤茶。

松山善三さん
(1925年4月3日-2016年8月27日)
映画監督、脚本家。
神戸に生まれ、横浜で育ちます。
1944年、
横浜第三中学校(現・神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)卒業後、
岩手医学専門学校(現・岩手医科大学)薬学部に入学するも、1946年中退。
雑誌社でアルバイトをしているときに、
斎藤良輔門下の脚本家と知り合い、映画に興味を持ちます。
1948年、
助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社。
中村登、吉村公三郎につくかたわら、
同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、
同人雑誌にシナリオを発表。
それが、木下惠介に認められ、
1950年の『婚約指輪』で木下監督につき、
次の『カルメン故郷に帰る』からは、
シナリオの口述筆記に携わりました。
この「木下学校」の兄弟子に小林正樹や川頭義郎。
あらかじめ作った構成にこだわらない木下流の書き方をここで会得することに。
1954年、
川口松太郎の原作を映画化した『荒城の月』で脚本家デビュー。
その前年に書いたオリジナルシナリオ『美わしき歳月』も
1955年に小林正樹監督で映画化。
この作品以来、
一貫して叙情性豊かなヒューマニズムが持ち味に。
同年、女優の高峰秀子と結婚。
以後、
成瀬巳喜男監督の『娘・妻・母』、
川島雄三監督の『接吻泥棒』、
渋谷実監督の『好人好日』、
小林正樹監督の『あなた買います』
など多数の脚本を手がけました。
1961年、
若くして結婚した聴覚障害者の夫婦の第二次世界大戦末期から戦後にかけての生活を描いた
『名もなく貧しく美しく』で監督デビュー。
この作品は、
毎日映画コンクールとブルーリボン賞の脚本賞を受賞。
その後も、
『ふたりのイーダ』、『典子は、今』などの話題作を監督する傍ら、
『人間の條件』『人間の証明』、『恍惚の人』、『親分はイエス様』のような大作、
話題作の脚本もこなし続けていました。
『人間の証明』の脚本は、
プロアマ問わずとの条件で実施された公募に応じたもので、
ベテランの身でありながら一般公募にあえて応募する気骨を見せました。
応募者の名を伏せて
角川春樹プロデューサー、佐藤純彌監督らによる選考会は
『キネマ旬報』707号(1977年5月1日刊行)誌上で公開されましたが、
すべての応募作品が酷評される惨憺たるものであり、
「いちばん修正しやすい」との消極的理由で入選作を決定。
しかし、ふたを開けてみれば、
誰にとっても大先輩である松山の脚本だったという気まずい結果となりました。
なお、
最終選考に残った4点はすべてプロの脚本家か映画プロデューサーの応募作品でした。
1987年に紫綬褒章、
1995年に勲四等旭日小綬章を受章。
近年は、
『虹の橋』、『新しい風 若き日の依田勉三』(原作、脚本のみ)など、
歴史上の人物に題材をとった骨太な作品を手がけていました。
このほか、美空ひばりの歌唱により知られる、
広島市への原子爆弾投下を題材とした『一本の鉛筆』の作詞を行っています。
2016年8月27日午後8時41分、
老衰のため、東京都内の自宅で死去。
91歳没。
(松山善三、妻・高峰秀子と)
1960年の百貨店屋上、百貨店の店員さんは
モダンガールと呼ばれ、女性の憧れの職業でもありました。また、容姿端麗なモダンガールさんは、催し物などの時には
モデルさんの様に、顧客さまをお呼びして
水着を着用して、お客様に最先端の流行りの
水着を披露したりと屋上や、フロアー等で
ファッションショー等の催しをされました~❣️
今から50年前の、東京銀座の歩行者天国👼(笑)
昼まっから、道路に寝っ転がって良い時代だわ❣️
プレイガールとプレイガールQ
夜の深夜番組❗
キャストの方で気になる方が多い❗
子供向け番組の出身女優さんが多数出演❗
ひし美ゆり子さん。片山由美子さん。
應蘭芳さん。八代万智子さん。范文雀さん。
黒沢のり子さん。桜井浩子さん他多数
ウルトラセブン=アンヌ→ひし美
ジャイアントロボ→片山
マグマ大使のモルとマモルの母→應、八代
サインV,アテーションプリーズ→范
アテーションプリーズ→黒沢
ウルトラQ,ウルトラマン→桜井
龍虎勢朋さん
(1941年1月9日-2014年8月29日)
元大相撲力士、
引退後はタレント・コメンテーター・俳優。
東京都大田区出身。
東京都立大森高等学校中退。
花籠部屋所属。
最高位は東小結。
現役時代は身長186cm、体重132kg。
妻は鈴木貴子(観世流太鼓十六世宗家・観世元信の長女)。
1992年4月結婚。
1992年11月長女、1994年8月、長男誕生。
幼少期から背が高く、
両親は大相撲力士にしようと考えていました。
1957年1月場所、花籠部屋から初土俵。
稽古するとすぐ倒れるため、
口の悪い兄弟子から「電柱」と揶揄されました。
同年11月場所まで鈴木山の四股名で土俵生活を送り、
翌1958年1月から1959年9月まで花武蔵の四股名で土俵に上がりました。
1959年11月からは若神山を名乗るも、
幕下中位から下位で停滞していたことに痺れを切らして
1964年11月場所から花武蔵に戻します。
1966年5月場所前には師匠の花籠から勧められて龍虎と改名し、
以来引退までこの四股名で通しました(1969年3月までは下の名前が昇でした)。
若乃花には新弟子の頃からかわいがられ、
二子山(若乃花)独立の際について行くことを志望しながら
師匠の花籠が移籍を認めた力士に含まれていなかったために
移籍は認められず残留することに。
1967年3月場所新十両。
1968年3月場所新入幕。
初土俵より11年かけての幕内昇進は当時の最も遅い記録。
なお、
同期の中で幕内に昇進したのは当初最下層の力士とされていた自身と北の富士の2人だけで。
新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。
1969年5月場所(前頭2枚目)で大鵬から初金星を挙げ、
この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得。
翌7月場所も東前頭筆頭で8勝7敗の成績を挙げました(この間、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍しい記録をつくっています)が
新三役に昇進できず、
翌9月場所同位置で3勝12敗と大敗、
その後はほぼ安定した成績を挙げ幕内上位を保持。
ようやく1970年3月場所新三役(小結)。
美男力士として人気を博しました。
突っ張りを交えた気風のよい相撲振りは大鵬からも
「ボロカスに言うところなんてないよ。
いい突っ張り持っているものなあ。
ときどき叩いているのを見るけど、
あれも出足があっての叩きだからいいんじゃないかな」
と褒められたことが。
1970年9月場所、
前頭11枚目で自己最高の13勝2敗を挙げました。
しかし、翌1971年11月場所6日目、
前頭7枚目義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して途中休場、
その後1972年1月場所から3場所連続全休で幕下まで落ちました。
この時の龍虎の負傷を受け、
日本相撲協会は1972年1月場所より公傷制度を導入することになりましたが(2003年11月場所限りで廃止)、
龍虎自身には制度が適用されなかったため、
世間の同情を集めました。
しかし、本人の不屈の闘志と努力が実を結び、
幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、
十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)と実績を重ね、
1973年7月場所に再入幕。
その後も1974年9月場所で新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得。
激しい突っ張り合いから始まり、
最後は突き落としで破った一番でした。
1975年1月場所で小結となり三役にカムバック(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。
ところが、
1975年5月場所初日の前頭4枚目旭國戦で、
今度は右アキレス腱を切断(復帰後2度目のアキレス腱断裂、計3度のアキレス腱断裂)して、
その場所限りで現役引退。
引退後は年寄16代放駒を襲名するも1977年に廃業し、タレントに転向。
放駒親方時代の1976年から映画やドラマに出演していた龍虎は、
相撲協会退職後、
四股名の龍虎をそのまま芸名とし、本格的に芸能界に進出。
テレビ、時代劇などで活躍。
また、
『料理天国』(TBS系列)の名物試食人として活躍。
「おいしいですね」の一言はそのまま龍虎のキャッチフレーズに。
以降、
舞台(北島三郎公演)などを中心に俳優として活躍。
また、
大相撲のご意見番としてテレビ朝日のワイドショーを中心に出演。
1990年頃クモ膜下出血で倒れ、2008年に再発。
2014年8月29日、
家族とお礼参りで事任八幡宮を訪れた際、
本宮への階段を上っている最中に循環器疾患で倒れ、
娘と息子が救命措置を施したものの、
搬送先の静岡県掛川市の病院で死去。
73歳没。
(龍虎勢朋)
八代目市川雷蔵さん
(1931年8月29日-1969年7月17日)
歌舞伎役者および日本の俳優。
身長は170センチメートル。
生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、
15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台。
1951年(昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。
1954年(昭和29年)に映画俳優に転身。
1959年(昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、
キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。
1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍。
ファンから「雷さま」と親しまれました。
1968年(昭和43年)6月に直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるも肝臓に転移、
翌年7月17日に死去。
(八代目市川雷蔵)
滝口順平さん
(1931年4月17日-2011年8月29日)
声優、俳優。
千葉県船橋市出身。
中学生の頃にラジオドラマが好きだったこと、
親戚に浪曲師の春日井梅鴬がいたことから、
将来は芝居か浪曲のどちらかをやりたいと考えていました。
千葉県立市川工業高等学校機械科卒業後は地元の工場に就職していましたが、
高校時代に放送部でしていた朗読をひっさげて
1949年に『のど自慢素人演芸会』(現:『NHKのど自慢』)に出場して合格。
その後、
小山源喜が主宰していたキリン座に入団して声優を修業。
「これからの時代は放送業界だろう」と決断をしていたところ
戦後に発足したラジオ東京(現在、法人としてはTBSホールディングス、放送局としてはTBSラジオ・TBSテレビ)放送劇団(第1期)の募集で
3千人くらいの応募総数の中から選ばれて合格し、
芸能界入り。
当時はトップの成績であり、
男性では20歳の滝口が最年少だったといいます。
1957年に退団後、
衣笠プロ、グループりんどう、東京俳優生活協同組合、東京アクタープロを経て、
フリー。
80歳近くになっても、
アニメではリメイク版『ヤッターマン』(読売テレビ)や『それいけ!アンパンマン』(日本テレビ)などに出演し、
『堂本剛の正直しんどい』(テレビ朝日)の企画「芸能人しんどい指令」や、
『スキバラ・雨上がり決死隊の決死隊 トッターマンDS』(テレビ東京)などで、
ドクロベエ風の声でのバラエティ系番組のナレーターも多く務めました。
2011年8月29日午前7時33分、
胃癌のため、入院先の病院で死去。
80歳没。
(滝口順平)

カルーセル麻紀さん  芸能界入りされたときは随分ご苦労されたと思います 今では性同一性障害は理解されていますが…

八奈見乗児さん
(1931年8月30日-2021年12月3日)
声優、俳優、ナレーター。
中華民国満洲生まれ、福岡県飯塚市、福岡市育ち。
既婚。
満州・撫順で生まれ、13歳の頃福岡県に引き上げ。
父の故郷の福岡県飯塚市で暮らし、
福岡県立嘉穂中学校(現:福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校)に中学2年の時に編入。
その後、一家は福岡県福岡市に移住し、
中学校転校後、
小さい頃から運動、野球が好きで野球部に所属。
福岡県立修猷館高等学校卒業後、
野球が取り持つ縁で、
日本通運飯塚支店に入社してノンプロ野球の選手として野球をしていました。
将来への不安を感じてジャーナリストになることを決めて入社1年で上京。
明治大学を受験して合格して進学しましたが、
寂寥感に捉われ、
電車の窓から見ていた音楽舞踊学校の看板に心を奪われ、
訪ねて入学し、歌、踊りの稽古をしていました。
しかし両親達に知らされて叱責されたうえ、
連れ戻されてしまいます。
その後、
声優を目指して九州RKB毎日放送劇団に所属。
九州時代の後輩に内海賢二。
しかし「東京でなければ芝居はできない」と思い東京都へ移住。
その後、
エイトプロダクション、俳協を経て青二プロダクションに所属。
2001年からは
『中居正広の金曜日のスマたちへ』のナレーションを務めます。
2003年には声優歴40年を迎えました。
2005年には
愛・地球博のマスコットキャラクター「モリゾー」の声を担当。
2007年11月からキッズステーションで放映された
『エレキング the Animation』では
主人公のおいさん役を務めました。
2009年3月20日、
赤塚不二夫、藤子不二雄Aらとともに東京アニメアワード第5回功労賞を受賞。
2015年9月25日、療養のため、休業を発表。
休業以降も『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』に関しては
飯島愛に関するVTRで例外的にナレーションを継続。
2021年5月7日放送の同番組で青二プロダクション所属の声優が特集された際、
出演は無かったものの、
顔写真のパネルがスタジオに設置されると共に
「金スマナレーター 今回は欠席」とのテロップが表示されました。
2021年12月3日22時59分、死去。
90歳没。
(八奈見乗児)
野川由美子さん
(1944年8月30日-)
女優。
京都府京都市出身。
京都府立朱雀高等学校卒業。
夫は演出家の逢坂勉(本名・山像信夫)、
山像かおりは義娘。
身長160cm、体重52kg。
高校在学中、
ミス着物コンクールの準ミスに選ばれたのがきっかけで芸能界入り。
1963年、『孤独の賭け』でデビューし、
演じた役柄が好評を博しますを
1964年、『肉体の門』で映画に進出。
1971年、
山像との結婚後は、関西に活動の重点を移しました。
(野川由美子)