Apex product 【 昭和の楽しい時代 70 】

昭和のかっこいいツッパリ

銭湯での入れ墨♬
昔は銭湯に行くと必ずいらっしゃいましたヤクザの意味も分からず怖さも感じず寧ろ綺麗だなぁ…てずっと思ってました(拾い画像です 銭湯ではないかもしれません
S38生まれなので、小学校入学はS45年!
初めての給食はパンが多く出てました。
なかでも忘れられないのは
この『マーガリン』です!冬場は固い固い!
パンが破れてました  (^-^)

懐かしいエレベーターガール

昭和37年ころの竹馬遊び。このころは、路地に入ると竹馬を自作して遊んでいる風景が見られました。近くに、竹を育ててる家があると、竹をくださいと言って、分けてもらい自作の竹馬を作って遊びました。チョット怖いおじさんがいる家には、竹をくださいと声をかけられず、友達に頼んだりして、怖いおじさんから竹をもらったことを覚えてます。竹馬は、できるだけ足をのせる位置が上のほうがよく、友達が作った竹馬より高いものを作ったりしました。友達同士で、竹馬にのって速さを争ったりして遊んだ記憶があります。結構、高いとこから見る景色もよかったです。

『こまどり姉妹』
双子デュオ歌手。
(メンバー)
・並木栄子(1938年2月16日 - 、双子の姉)
・並木葉子(1938年2月16日 - 、双子の妹)
北海道厚岸郡厚岸町で炭鉱労働者をしている父親の一卵性双生児として生誕。
家族は、その後樺太へ渡り、
第二次世界大戦の敗戦まで樺太で育ちました。
第二次世界大戦後は、
極貧生活の中、
帯広市や釧路市の炭坑町を転々とし、
銭函でついに家賃が払えなくなり夜逃げ。
大楽毛に移り住み、
ここで姉妹は日銭を稼ぐために門付を始めました。
1951年(昭和26年)上京。
東京都山谷の木賃宿に住み、
父親に連れられ、三味線を片手に台東区浅草の飲食街を流すように。
その頃スカウトを受け、
1959年(昭和34年)、コロムビアに入社し「浅草姉妹」でデビュー。
「浅草姉妹」は本来村田英雄のために書いた曲で、
歌詞の主人公を男性から女性に変更した上で姉妹のデビュー曲に。
まもなく新たな芸名を一般公募、
2人の意思で「こまどり姉妹」という名が選ばれました。
愛称は「演歌版ザ・ピーナッツ」。
1960年(昭和35年)には、
ザ・ピーナッツが「こまどりジョッキー」という番組の構成、出演を行っています。
全国的な人気を得て、
1961年(昭和36年)、NHK紅白歌合戦に初出場。
ザ・ピーナッツに次いで紅白史上2組目の兄弟・姉妹での出場に。
紅白歌合戦にはこの年から7年連続で出場。
人気絶頂の1966年(昭和41年)5月8日、
鳥取県倉吉市で公演中に突然、
18歳の男が舞台に駆け上り、葉子を刃物で刺しました。
葉子は腹部を刺され重傷を負いましたが一命を取り止め、
しばらくして舞台に復帰。
その後の父母の死、葉子のガン、葉子の大怪我、栄子の交通事故、ブレーンの脱税問題などの不幸が続き、
大きな借金を抱えたまま1973年(昭和48年)に一時芸能界から離れました。
その後1976年(昭和51年)に「思い出のメロディー」へ出演、
時折懐メロ番組出演するなど徐々に活動を再開させ、
1984年(昭和59年)、久々の新曲「浪花節だよ人生は」で再スタートを切りました。
2008年(平成20年)には第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。
2009年(平成21年)には片岡英子監督によるドキュメンタリー映画『こまどり姉妹がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開。
2013年(平成25年)12月31日、
「第46回年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)に出演。
2014年(平成26年)3月19日にはデビュー55周年を記念し、
デビュー10周年時のアルバム『こまどり物語』を復刻、
同時に18年ぶりの新曲『こまどりのラーメン渡り鳥』をリリース。
2015年(平成27年)7月17日の「爆報! THE フライデー」(TBSテレビ)では
齢80を越えた初代コロムビア・ローズと鎌倉で葉山牛を堪能している模様が放送され、
その後も現役の歌手として芸能活動を続けており、
2019年(令和元年)にはデビュー60周年を迎えました。
三ばか大将
覚えていますか?
面白かった!
ラリー、モー、カーリー。
1981年2月15日、
この日、日本劇場が閉館。
日劇ダンシングチーム (NDT) が解散。
『日劇ダンシングチーム』
1936年1月13日に日本劇場でデビューした日本の舞踊集団。
略称「NDT」。
1977年4月24日に定期公演を終了、
1981年2月15日、日本劇場の閉館とともに解散。
黒澤明監督『隠し砦の三悪人』、
本多猪四郎監督『モスラ』などの東宝映画や
ホームグラウンドである日劇で開催された日劇ウエスタンカーニバルにも出演。
1981年2月15日、「日本劇場 さよなら公演サヨナラ日劇フェスティバル」の最終日出演をもって、
日劇ダンシングチームが解散。

昔の記録動画では、農村に肥料として撒いていた、し尿が役目を終えて大型船で海に小型船で川にバキュームカーで山の中に排出していたことがあったようです。

1976(昭和51)年に公開された #秋吉久美子 さん主演映画「#あにいもうと」。原典は1934年に発表された室生犀星の小説。猛暑日、住み込み工場勤務の赤座もんが久しぶりに帰宅。もんは妊娠したことを家族に告げるが、父と兄から激しく罵られ…。

#呑んべ横丁。#葛飾区立石  京成線立石駅北口近くにあった #昭和レトロ な風情の飲み屋街。
昭和時代にタイムスリップしたかのような錯覚に囚われる場所だったが、駅前再開発のため、近年 姿を消してしまった。

#坂口良子 さんのご逝去から早11年。『#新サインはV』の明朗な主人公はもとより、『俺たちの勲章』や映画「犬神家の一族」などで演じた、蔭ながら主人公を支える 健気な女性役が白眉の女優さんでした。ご存命なら今年69歳でした。合掌。

トミーとマツ

「600万ドルの男」と「バイオニック・ジェミー」
どっちが好きですか?
地球の人口について
真面目な話
1987(昭和62)年7月11日、世界の人口が50億人の大台を突破しました。
 その後も「人口爆発」と表現されるほど、世界人口増加の勢いは衰えていません。
国連の世界人口予測によると、2017年の76億人から、2050年に98億人へ急増。
人類誕生から1987年まで数千年かけて増えた50億人と同規模の人口が、次の63年間で増える計算になります。
国連の「World Population Prospects 2022(世界人口推計2022年版)」によると
2022年11月15日に世界人口は80億人を突破しました。
2023年7月時点の推計では80億4500万人に達しています。
国連は、2030年には約85億人、50年には約97億人、2100年には約109億人にまで増えると予測しています。
地球の適正人口は約50億人とも推定されています。

しーらけ鳥飛ーんでゆく南の空へ、惨め、惨め。

ルーシーショー
覚えていますか?
私は少し、明るい感じでした!
早野凡平さん
黒い帽子をホンジャマーホンジャマーと言いながら変形してかぶっていた。レパートリーは牧師、ナポレオン、スチュワーデス、カウボーイ、ローマ法王、鞍馬天狗などがあり、かけ声のホンジャマーからお笑いコンビのホンジャマカが生まれています。

1960年代のアイビールック。🌸1950年代に、アメリカで生まれたファッションスタイルを、日本で独自の文化として、流行したそうです。😘🌸

どっちが「祐子」で、どっちが「弥生」か区別がつきません❗️😣
10歳から民謡を習い、一卵性双生児の姉・弥生と妹・祐子とのコンビで、1981年3月に行われた「NHKのど自慢」グランドチャンピオン大会でグランドチャンピオンとなる。😲
お子様ランチの発祥は、三越日本橋本店
 デパートに大食堂が初めて日本にできたのは、1904(明治37)年の三越からとされています。しかし前年に白木屋(現在・コレド日本橋)も食堂を始めていますが、これは子ども遊戯室での出店に近いものだったらしいとのことです。
お子様ランチは1930(昭和5)年に三越日本橋本店の大食堂に子どもが好きなメニューをひとつの皿に盛り合わせた「御子様洋食」が最初です。1枚目画像、もちろん旗も立っていました。これは現在でも新館5階の大食堂「ランドマーク」で「お子様ランチ」として提供されています。

昭和27年、食事するパチンコ屋の裏側で働く女性達。

チンチン電車は青春の思い出。
1960年代、都電は全盛時代を迎え、早稲田には茅場町から大手町や飯田橋などを経由してくる第15系統と、旧王電路線である第32系統、さらには厩橋から上野広小路、本郷三丁目などを経由してくる第39系統とが乗り入れた。
Waseda Weekly 1284号『学生街・都電のある風景』から記事と写真引用
エマ・ワトソン(Emma Watson)
1990年4月15日 おひつじ座 午年
出身地 フランス
プロフィール フランス・パリ生まれ。幼少期にイギリスに移住し、6歳の頃より女優を夢見て歌や演技、ダンスの勉強を始める。
2001年、映画『ハリー・ポッターと賢者の石』のハーマイオニー役をオーディションで勝ち取りデビュー。ハリー・ポッターシリーズ全7作に出演している。ハリー・ポッターシリーズ終了後は、テレビ映画『バレエ・シューズ』や、アニメ映画『ねずみの騎士デスペローの物語』で声優を務めるなど数々の作品で活躍している。女優業以外では、国連組織・UNウィメンの親善大使を務め、女性の権利についての活動を行なっている。
代表作品
映画『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)
映画『ノア 約束の舟』(2014)
映画『ザ・サークル』(2017)
映画『美女と野獣』(2017)
竹脇無我さん
(1944年2月17日-2011年8月21日)
俳優。
身長173cm。
千葉県我孫子市出身。
アナウンサー・ニュース映画解説者をしていた竹脇昌作の三男として生誕。
青山学院中等部・青山学院高等部卒業、青山学院大学法学部卒業。
父・昌作の自殺、
元ラジオ関東アナウンサーの長兄・竹脇義果の半失明状態、
さらには次兄・竹脇真理が脳腫瘍のため18歳で早逝するなどしたために
苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すべく、
16歳で映画界入り。
1960年に松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優としてデビュー。
1965年、『アンコ椿は恋の花』で初主演。
テレビドラマ『姿三四郎』(1970年)、
映画『人生劇場』(1972年)で一躍スターとなり、
クールな二枚目のイメージを確立。
特に『人生劇場』では
高橋英樹、田宮二郎、渡哲也を抑えて主演を務めています。
石原プロモーションに在籍していたことがあり、
1971年に退社。
1966年10月から1971年4月までTBS系で放送された、
若者向け情報番組『ヤング720』では司会を担当(1966年11月から1967年9月)。
この当時に知己を得た関口宏、松山英太郎、西郷輝彦とは晩年まで親交がありました。
テレビドラマでは森繁久彌や加藤剛との共演が多く、親交が深かったそうです。
時代劇やホームドラマなどで幅広く活躍。
美声であったことから女性ファンが非常に多く、
知的で優しいイメージが定着して「理想の夫ナンバーワン」と呼ばれました。
一方で、外面と内面とのギャップに悩まされ、
気の休まらない日々が続いたといいます。
役者として円熟味が増してきた矢先、
友人の松山が食道癌で1991年に死去したショックと、
二枚目を演じるストレスなどにより、
48歳ごろから自殺の衝動を酒で抑え始め、
心療内科での診察を受けてうつ病と診断。
抗うつ剤と眠剤でうつ度が軽くなり、
自身も周囲も病状をやや甘く見ていたため、
半年の入院後に復帰することをマネージャーと病院に伝えて1度は退院したものの、
再び落ち込みが激しくなり、
また自殺の衝動を酒で抑える事態となりました。
糖尿病と高血圧症も併発し、再度入院。
その入院が元となり、
娘からのサポートや森繁・加藤からの手紙が心の励みとなり、うつ病の治療に専念。
8年間の闘病生活の末に復帰。
食生活も改善して闘病体験を語れるまでになりましたが、
2009年に父と慕っていた森繁が亡くなったことによる精神的ショックで、
以後再び落ち込みが激しくなり、
食生活の改善を続ける一方で、
一度は止めた飲酒と喫煙を再び続けるようになり、
うつ病と糖尿病時に併発していた高血圧症の症状が再度現れました。
2011年8月21日、
同日未明に自宅内で意識不明の状態で発見され、
東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院に搬送、
同日14時5分、小脳出血により死去。
67歳没。
佐々木すみ江さん
(1928年6月22日-2019年2月17日)
女優、声優。
身長160cm。
東京府出身(出生地は台北市)。
東京府立第五高等女学校、
日本女子大学家政学科卒業。
劇団民藝(当初は東京民衆芸術劇場)養成所1期生(同期は大滝秀治・奈良岡朋子)。
大学卒業後の1951年、
劇団民藝の結成に参加。
『その妹』で初舞台を踏んで以降、
多くの作品に出演。
同年、
ジャーナリストで産経新聞編集局長、
筑波大学名誉教授を務めた青木彰と結婚。
1971年に内部で起きた対立により、
下條正巳や鈴木瑞穂、佐野浅夫らと共に劇団を退団。
『想い出づくり。』を筆頭に、
確かな演技力で母親役や姑役で各作品に出演。
2008年に出演した『篤姫』での主人公・天璋院の養育係である菊本役が好評を博し、
「女の道は一本道でございます」というセリフでも話題に。
2019年2月17日午前中に自宅で倒れ、
東京都内の病院に緊急搬送されたものの
同日12時59分、肺炎のため死去。
90歳没。
菅田俊さん
(1955年2月17日-)
俳優。
身長187cm。
山梨県富士吉田市出身(出生は山形県)。
山梨県立吉田高等学校、東京経済大学卒業。
高校時代はサッカーに熱中する一方で、
高倉健の映画に心酔。
大学時代は、
コロナ2000GTで土曜夜に走り屋として過ごしました。
大学卒業後は不動産会社に就職し、
ゴルフ場で働く会社員になるも、
勝新太郎や菅原文太に憧れ、
高校時代より師事していた詩人の竹内てるよの口添えで
東映プロデューサーの俊藤浩滋を紹介してもらい、
東映へ出入りするように。
当初は
『電子戦隊デンジマン』『特捜最前線』などのテレビドラマに端役として出演。
やがて、菅原の付き人となり、
菅原文太の「菅」、鶴田浩二の「田」、俊藤浩滋の「俊」を貰い、芸名を「菅田俊」に。
3年目に撮影現場で高倉健に呼ばれて
「付き人は一生付き人のままだぞ」と言われ、
「菅原のオヤジとケンカして」破門に(その後、破門は解かれ、菅原が山梨県で農業を始めると菅田も手伝いに行きました)。
1980年から
放映の『仮面ライダースーパー1』のスーパー1 / 沖一也役のオーディションでは最終選考まで残っていたことが縁で、
1982年に村雨良 / 仮面ライダーZX役に抜擢され、
児童誌のグラビアとイベントショーの展開に参加することに。
児童誌での展開が終了した後の1984年正月、
テレビ特番として映像化された『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』で、
テレビドラマとしては初の主役。
その後、
飲み屋で松田優作らが語っていたアクターズ・スタジオを見るために渡米し、
帰国後は東映を離れて27歳で唐十郎率いる劇団・状況劇場に入団し、活動の中心を舞台に移します。
1987年、
長谷部安春監督の映画『あぶない刑事』において屈強な傭兵・豹藤幸次郎役で出演し、
この悪役を好演したことで以後、
テレビや映画では主に悪役を演じるように。
先輩の片桐竜次の誘いで1989年には東映Vシネマに出演するようになり、
以後40本以上に出演。
1992年には『事件屋稼業』で映画初主演。
この間、
テレビドラマでは、
『追いかけたいの!』『愛してるよ!先生』『鞍馬天狗』『ニュースなあいつ』『家なき子2』
などにレギュラー出演。
1993年、
東映のメタルヒーローシリーズ『特捜ロボ ジャンパーソン』に
敵役であるビルゴルディこと帯刀龍三郎役で準レギュラー出演。
2001年に役者仲間らを集めて「劇団東京倶楽部」を結成、
年1回の舞台を行っていたす。
2003年、
ハリウッド映画『キル・ビル Vol.1』『ラスト サムライ』に出演し、
以後海外作品での活躍の場が増加。
コワモテのヤクザや刑事からコミカルな役柄まで幅広くこなせる個性派俳優として活躍。
長年、脇役を中心に演じてきましたが、
2009年には
『ポチの告白』『TOCHKA』の2本の主演映画が公開。
特技は、殺陣、サッカー。
岡本喜八さん
(1924年2月17日-2005年2月19日)
映画監督。
鳥取県米子市四日市町出身。
1941年、
米子商蚕学校(現・米子南高校)卒業後、上京。
1943年に明治大学専門部商科卒業後、
東宝に入社し助監督に。
しかし、
1944年に太平洋戦争の戦局の悪化に伴い召集され、
1945年1月に松戸の陸軍工兵学校に入隊。
愛知県豊橋市にあった第一陸軍予備士官学校で終戦を迎えました。
復員後に東宝へ復帰し、
マキノ雅弘や谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事して修行を積み、
1957年に東宝が、
映画の素人である石原慎太郎に、
自作『若い獣』を監督させると発表したことに助監督たちが反発。
シナリオ選考で一人監督に昇進させることが決まり、
岡本が『独立愚連隊』『ああ爆弾』のシナリオで認められて昇進。
1958年、『結婚のすべて』で初メガホン。
岡本のオリジナルシナリオによる、
日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた5作目『独立愚連隊』(1959年)で、
一躍若手監督の有望格として注目を浴び、
以降、
『独立愚連隊西へ』(1960年)、
『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、
『ああ爆弾』(1964年)、
『侍』(1965年)、
『日本のいちばん長い日』(1967年)、
『肉弾』(1968年)などの作品を監督。
東宝退社後の1970年代後半には、
『姿三四郎』(1977年)では時代との感覚のズレを感じさせましたが
『ダイナマイトどんどん』(1978年)は人気作に。
80年代以後は作品に恵まれませんでしたが、
『ジャズ大名』(1986年)などを監督。
『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)は、
持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品となり、
日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞。
1989年に紫綬褒章を受章。
1995年、
『EAST MEETS WEST』で初のアメリカロケ中に
言語障害を起こし、硬膜下血腫と診断。
その後も軽い脳梗塞などを起こし、
言語が不明瞭でした。
『助太刀屋助六』(2002年)では主演の真田広之が伝令など補佐役を務めたり舞台挨拶などでも傍につき、
会場の反応などを伝えていました。
2005年2月19日、
食道がんのため神奈川県川崎市多摩区の自宅で死去。
81歳没。
2月17日は「#ガチャの日」。
「ペニイ」さんという会社が59年前のこの日に創立、国内カプセル玩具販売の基礎を構築、子どもさん達に元気を与えてくださいました♪
https://twitter.com/GachaOnoo/status/1758605324087705757?t=mLWJIIHw1EDK5qcZIt1YrA&s=19
昭和のスナック カラオケ🎤
こんにちは😊
毎日お疲れ様です
今日は 天使の囁き記念日です
昭和の時代 流しの歌唄いからカラオケへと徐々に進歩を…🎙️🤗🎤
スナックでも古きウイスキーと8トラ〜レーザーディスクへと😃
藤田まことさん
(1933年4月13日-2010年2月17日)
俳優、歌手、コメディアン。 
東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。
京都市立堀川高等学校中退。
身長173cm。
父は俳優の藤間林太郎。
次女は『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現:EMIKO)。
孫(長女・敬子の娘)は歌手の花リーナ。
大正三美人の一人林きむ子は父の異父姉で伯母。
曾我廼家喜劇の女形だった曾我廼家弁天は父の異父兄で伯父。
いとこに、
兵庫県副知事から姫路市長に転じた戸谷松司。
2002年に紫綬褒章を受章。

俺たちゃ裸がユニホームぅ~🎵

戦ぁいのぉ~広場にぃ~🎵

加東大介さん
(1911年2月18日-1975年7月31日)
俳優。
東京市浅草区(現:東京都台東区)生まれ。
身長160cm。
東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒。
歌舞伎役者を経て映画デビュー。
代表作は、
『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。
父親は宮戸座の座付き作者で演出助手であった竹芝傳蔵、
兄は四代目沢村国太郎、
姉には福祉運動家の矢島せい子と沢村貞子。
甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。
息子・加藤晴之は、
黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるも離婚。
「自分のこどもはみな役者にする」という父親の意向で、
兄とともに歌舞伎の世界に入りました。
東京府立第七中学校を卒業後、
1929年に二世市川左団次に入門、
1933年に前進座に入り、市川莚司を名乗り、
まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、
山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍。
同年には
大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、
その後は山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、
中堅俳優の一人として広く知られるように。
兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていましたが、
1943年に陸軍衛生伍長(後に、軍曹)として応召。
ニューギニア戦線で、
兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、
長谷川伸の戯曲『関の弥太っぺ』などを演じます。
舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、
小説『南の島に雪が降る』に結実。
1946年に復員するも、
直後に戦地でかかった悪性マラリアが再発し、
一時は危険な状態が続き、
回復してからは再び役者として活動するも、
左傾した前進座に嫌気が差して退団、
兄の国太郎、姉の貞子とともに神技座を結成するも、
運営が上手く続かず映画入りを決意。
1948年からは大映京都と専属契約し、
同年の東横映画『五人の目撃者』では作品が現代劇であったことから、
歌舞伎役者くさい莚司という芸名から加東大介に改名。
1950年に黒澤明監督の『羅生門』に出演したのち、
1951年秋にフリーとなり東宝に移籍。
以降、
『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)をはじめ、
黒澤作品に常連として出演。
1952年に
黒澤脚本の『決闘鍵屋の辻』、
成瀬巳喜男監督の『おかあさん』での明朗できびきびとした演技が批評家から絶賛され、
1952年度の毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の男優助演賞を受賞、
1955年には今井正監督の『ここに泉あり』、
内田吐夢監督の『血槍富士』で2度目のブルーリボン助演賞を受賞。
持ち前の明るさや誠実さで多くの監督から可愛がられ、
黒澤や成瀬の他にも小津安二郎などの作品にも常連俳優として出演し、
この時期は監督運にも恵まれます。
また1956年に
東宝がダイヤモンド・シリーズと銘打った文芸映画『鬼火』で主演したことがきっかけで、
監督の千葉泰樹に獅子文六の連載小説『大番』の主人公・株屋のギューちゃん役に抜擢され、
ユーモラスでエネルギッシュな男を演じ、
映画は大ヒット。
大番シリーズは4本も作られ、
ギューちゃんのあだ名はそのまま加東自身の代名詞となるまでに。
また森繁久彌、小林桂樹と共演した『社長シリーズ』でも軽妙な重役を演じるなど、
日本映画にかかせない名脇役として人気を博しました。
1956年頃『週刊朝日』の「夢声対談・問答有用」でニューギニアでの戦争体験を語ったところ、
徳川夢声から是非執筆するよう強く勧められ、
また小島正雄からも勧められて執筆を行い、
『文藝春秋』1961年3月号にて
「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」として発表。
これにより第20回文藝春秋読者賞を受賞、
のちにベストセラー小説に。
1961年4月この内容が小野田勇の脚色によって
『南の島に雪が降る』の題でNHKでドラマ化され、
後東宝で映画化され加東自身が主演して大いに話題に。
1971年には28年ぶりに前進座の舞台にも立ち、
1972年、大河ドラマ『新・平家物語』で北条時政を演じました。
1975年2月に結腸癌で入院、
本人は癌であることは知らず、
病院からレギュラー出演であるドラマの収録現場に通い続けましたが、
入院してから5ヵ月後の7月31日に64歳で死去。
越路吹雪さん
(1924年2月18日-1980年11月7日)
シャンソン歌手、舞台女優。
元宝塚歌劇団の主演男役。
愛称は「コーちゃん」「コッシー」。
宝塚歌劇団男役スターとして戦中から戦後にかけて活躍。
東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区麹町)出身。
長野県飯山高等女学校(後の長野県飯山南高等学校・現:長野県飯山高等学校)を中退、
宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)に入学。
宝塚歌劇団27期生。
同期生に
月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒ら。
四代目中村梅之助さん
(1930年2月18日-2016年1月18日)
東京生まれの俳優・歌舞伎役者。
屋号は成駒屋。
定紋は左巻三藤巴、替紋は裏梅。
妻の光子は山崎景則の孫。
身長169cm。
劇団前進座代表。
同座を創設した三代目中村翫右衛門は父、
母は落語家の二代目談洲楼燕枝の娘。
かつて同座の俳優だった二代目中村梅雀は長男。
『真田太平記』では家康を梅之助、
秀忠を梅雀と役の上でも親子役を演じ話題に。
時代劇俳優としても広く活躍、
『遠山の金さん捕物帳』、『伝七捕物帳』、大河ドラマ『花神』等の主演作品が。
戦前から子役として舞台だけでなく映画にも出演。
旧制松本市立中学校(現・長野県松本美須々ヶ丘高等学校)中退。
20代の頃、結核を患います。
2016年1月18日午前7時25分、
肺炎のため死去。
85歳没。
中村敦夫さん
(1940年2月18日-)
俳優、作家、脚本家、ニュースキャスター、政治家。
日本ペンクラブ環境委員長。
身長179cm。
東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区)千早出身。
平市立第一小学校(現:いわき市立平第一小学校)を経て、
平市立第一中学校(現:いわき市立平第一中学校)を卒業後、
福島県立磐城高等学校に進み、
その後東京都立新宿高等学校へ転校。
東京外国語大学インドネシア語学科中退。
俳優座養成所を経て新劇の劇団俳優座に、
いわゆる「花の12期」で入りました。
勲等は旭日中綬章。
参議院議員(1期)、
さきがけ代表、
みどりの会議代表、
同志社大学大学院総合政策科学研究科で講師など歴任。
「アニキ!13回目の懲役は一緒やな!」
「キョーライ!今度は長いで!」
12回目の懲役を終え、久しぶりに娑婆に戻って来たゴロ政こと政太郎。弟分の不死身の勝こと勝次と神戸新開地で対立するヤクザ組織を相手に一歩も引かぬ大暴れをする。
1971年 「懲役太郎 まむしの兄弟」 
菅原文太と川地民夫の名コンビによる「まむしの兄弟」シリーズの記念すべき第1作目である。
勝が言うところの「今流行りの最新のモード」である黒のダボシャツ、赤い鼻緒の黒下駄姿で決めた二人は四分六の兄弟分であり、共に戦災孤児である。二人は記憶の片隅にある「お母やん」を胸に秘め、特に孤児には無償の余計なお世話を焼く。デカとヤクザ組織(金バッジ)に対しては執拗な反骨精神をもち、劇中、孤児を施設に入所することを勧める婦警に対して「施設も少年院もサツも、人間のクズを作るところや。こんな奴らにエサもろうたらあかん」と怒りの感情を露わにし、勝が婦警を犯そうとすると「やめや勝、婦警なんかとヤッたらポ◯チンのケガレじゃ」と素晴らしすぎる言葉で諌める。
ヤクザ組織の縄張りの賭場で金もないのに博打をしては、半殺しの目に合う。その度に「カツー!ガソリンや!」と浴びるように酒を飲んでは、リベンジマッチとばかりにヤクザ組織の車に釘で傷をつけたり、ヤクザ組織が経営するクラブに糞尿をぶちまけたり、と子どものような嫌がらせをする。
 
シリーズを通して常に安藤昇のような「漢の中の漢」が登場し、二人は一方的にライバル心を燃やす。そのライバルが不慮の死を遂げると「キョーライ、こんな死に方もあったんやな...」「アニキ、ワシラも死のう」と一方的に感動し、一方的に仇討ちを決意する。
勝がハーモニカで満州小唄を吹く。「キョーライ、その歌は何や」「何や知らん、子供の頃に聴いた曲や。この歌を聴いてると女の顔が浮かぶんや。もしかしたらお母やんかも知れん」
トラックで組事務所に突っ込み、片っ端から拳銃を撃ちまくり、ダイナマイトを放り込む。拳銃の弾が切れ、ダイナマイトが無くなると「おどれ!」と上半身裸になり、土砂降りの雨の中、泥だらけになりながらドスを振り回し、次々と手下を切り刻む。実は背中のマムシの入れ墨はスジ彫りで、色は雨で流される。
結局、死に華を咲かせず、惨めに生還してしまう。
このようなパターンで合計9作品が作られる。笑いに涙にアクションに娯楽作品の真髄を極めた人気は現在も根強い。映画「ブルース・ブラザース」の冒頭が「まむしの兄弟」に酷似しているので、パクリではないかと我らボンクラ映画ファンの間では噂されるが、天下のジョン・ランディスがこんなボンクラ映画を観るわけがないだろう。
刑務所を出たり入ったりのまむしの兄弟が、ゆすり・たかり・スケこましと暴れまくる第1弾!「懲役太郎 まむしの兄弟」
70年代の東映三角マークが好きな人、必見!
忍者漫画流行りましたが白土先生が頭一つ抜けていたと思います。
思想性がありましたから。
『がめつい奴』
 ☆☆
 1960年度作品。カラー、シネマスコープ・サイズ、出演、三益愛子、高島忠夫、草笛光子、団令子、中山千夏、森雅之、森繁久弥、原知佐子、安西郷子他、原作、菊田一夫、脚本、笠原良三、撮影、完倉泰一、音楽、古関裕而、監督、千葉泰樹、上映時間107分。
 大阪の貧民窟で展開する題名通り「がめつい奴」らが織り成す強烈な人間喜劇である。菊田一夫のヒット舞台劇の映画化、オリジナルの舞台はロングランとなりその記録は劇団四季の「キャッツ」まで抜かれなかったそうだ。
 いわば最底辺の汚れた人達の欲望に塗れた群像劇だが、それを当時の東宝映画のオールスター・キャストで映像化、形容矛盾だが貧しい世界を豪華なセットを組んで造型しているので、物語の不快感も中和され、エンタテインメントとして楽しめる仕上がりとなっている。監督、千葉泰樹は近年再評価されているようだが監督作品を鑑賞してのは本作が初めてであった。
 三益愛子の老けメイクの因業婆ぶりや、こんな汚い役は唯一であろうと思われる森雅之や、天才子役と言われていた頃の中山千夏や、わざとらしい東京弁を使う森繁久弥など、ともかく役者達の見事な演技だけでもそこそこは楽しめた。
 ただしやはりあまり後味の良い作品とは思えないので舞台がロングラン・ヒットというあたりはいささか腑に落ちないとも思った。
 「蔵出し名画座」録画ブルーレイにて鑑賞。
昭和30年代の魚屋さん。
お頭付き。国産。冷凍品は無し。
頼めば鱗取り、はらわた取り、三枚おろしなど、やってくれました。
丸ごと新聞紙と経木に包んでくれました。
大好きで、夢中で観てたな〜
この頃の優作さんが、1番かっこいい😎
おニャン子クラブ1st写真集『おニャン子ごっこ』1986年(昭和61年)
『夕やけニャンニャン』の放送開始は1985年4月からでしたが、新潟で観れるようになったのは半年後の10月からでした😢
隣の長野では4月から観れていたようなので悔しい思いでした😭

パンツの中はぁ~年中無休ぅ~🎵

がぁ~んばぁ~ればぁ~愛っ🎵

土曜日の夜は、楽しみだったなあ。

スーパー3は諜報部員!ラリホーラリホーラリルレロ!
マンガキッドボックスで見たような…半世紀ちょい前です。
根津甚八さんが大好きです
亡くなられてますけど素敵な俳優さんでした
鈴木清順さん
(1923年5月24日-2017年2月13日)
映画監督・俳優。
弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二。
東京府東京市日本橋区(現:東京都中央区日本橋)出身。
東京府立第三商業学校卒業後、
旧制弘前高等学校(現弘前大学)出身。
1943年(昭和18年)学徒出陣で応召。
陸軍二等兵として入隊。
フィリピン、台湾を転戦し、
陸軍少尉で終戦を迎えました。
1946年(昭和21年)復員して弘前高校に復学し、
1948年(昭和23年)に卒業後、
松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験を受け、
合格。
1954年(昭和29年)日活に移籍してからは、
日活の専属監督として名を馳せ、
小林旭、高橋英樹、宍戸錠らを主演に迎えました。
『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高く、
『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』、『夢二』の三部作では幽遠な映像美を見せました。
その独特の映像表現は「清順美学」と呼ばれ、
晩年メガホンを取った『ピストルオペラ』『オペレッタ狸御殿』でのアバンギャルドな作風は、
世界中の監督達に強い影響を与えています。
佐々木すみ江さん
(1928年6月22日-2019年2月17日)
女優、声優。
身長160cm。
東京府出身(出生地は台北市)。
東京府立第五高等女学校、
日本女子大学家政学科卒業。
劇団民藝(当初は東京民衆芸術劇場)養成所1期生(同期は大滝秀治・奈良岡朋子)。
大学卒業後の1951年、
劇団民藝の結成に参加。
『その妹』で初舞台を踏んで以降、
多くの作品に出演。
同年、
ジャーナリストで産経新聞編集局長、
筑波大学名誉教授を務めた青木彰と結婚。
1971年に内部で起きた対立により、
下條正巳や鈴木瑞穂、佐野浅夫らと共に劇団を退団。
『想い出づくり。』を筆頭に、
確かな演技力で母親役や姑役で各作品に出演。
2008年に出演した『篤姫』での主人公・天璋院の養育係である菊本役が好評を博し、
「女の道は一本道でございます」というセリフでも話題に。
2019年2月17日午前中に自宅で倒れ、
東京都内の病院に緊急搬送されたものの
同日12時59分、肺炎のため死去。
90歳没。
2月19日は #藤岡弘、さんのお誕生日です。おめでとうございます!
今日まで連綿と続く『#仮面ライダー』シリーズの存在は、藤岡さんらキャスト諸氏、スタッフ諸氏の想像を絶するご苦労があってこそ。感謝しかありません。ますますのご活躍をお祈りいたします♪
ノンフィクションライター葛城明彦さんの書いた本によれば漫画あしたのジョーの登場人物にはモデルがいるようです。ジョーや力石に関しては有名なので割愛します。
マンモス西(西寛一)は、西一夫という実在の
プロボクサーで1967年8月3日岩手県体育館で荻原繁の持つ日本Jウエルター級タイトルに挑戦。10回逆転KO負けその後は眼疾で引退。最高位は日本Jウエルター級1位、終身戦績は24戦17勝(1KO)5敗2分。所属ジムには連載前にちば・梶原氏も訪れており、西も直接取材を受けているそう。
ヤクザの用心棒として登場するゴロマキ権藤は、プロボクサー権藤正雄とみられおり、東洋ミドル級チャンピオンとなっている。終身戦績は61戦41勝(23KO)18敗1分1EXH。現役当時からたびたび刑事事件を起こして暴力団の用心棒を務めていたとも噂され、1966年にはJBCから非行行為を重ねたことを理由に除名処分を受けている。
ジョーのライバルのひとり東洋チャンピオンの金竜飛は、孤児院上がりで日本でも活躍したJライト級強豪の徐強一(韓国)だそうです。
1963年、1年間モノクロアニメ
で放送された作品
エイトマン
当時のソノシートレコード、
絵本です。
エイトマンといえば丸美屋ふりかけ
のおまけシールでしたね〜
主題歌も好きでした。
のらくろ 田河水泡
昭和と言えば外せないない漫画。
私はアニメの「のらくろ」しか知りませんが、戦前からの連載。戦中は漫画なんて、不謹慎とされ連載中止。田河水泡さんは長谷川町子さん、手塚治虫さんに影響を与えました。マー姉ちゃんに出でました。田河水疱さん役は愛川欽也さんでした。