Apex product 【昭和の楽しい時代②】

昭和の懐かしい画像 TVがお茶の間の主役だったね

初春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は格別のお引き立てをいただき、ありがたく御礼申し上げます。 さて、このたび弊社は創立10周年を迎えるに至りました。 皆様方のご支援、ご厚情による賜物と深く感謝いたしております。
とうとう、10周年を迎えることができました。2013年の3月から数えて、10年が経ったわけです。どんなことでも、毎日10年やり続けられたら、一丁前になれるとある作家の方が言われていました。このことばを、一番信じていたのは、私達だったのかもしれません。大変なようで意外に短い期間のようでしたが、そして、とうとう待ち望んでいた10年に到達しました。これもひとえに皆様のおかげであると感謝をしております。の10年に向けて新しいスタートを切るにあたりどのようなことが必要になってきているかを日々考えてきました。私どもは伝えること、元気になること、頑張りたい人たちのきっかけとなり、力いっぱい背中を押す役割になることができますよう、幅広い視野を持ち常にチャレンジ精神を持って、皆様のご期待にお応えできるよう従業員一同最大限の努力をしてまいります。今後も格別のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2023年 3月吉日 Apex product 代表 柳伸雄

昭和時代【何もなかったが、とても幸せだった!!】

【菅原文太さん死去 81歳、肝がん】

映画「トラック野郎」「仁義なき戦い」シリーズなどに出演した元俳優の菅原文太さんが28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため死去していたことが1日、分かった。30日に福岡・太宰府天満宮で家族葬が行われた。

81歳だった。宮城県仙台市出身。菅原さんはファッションモデルを経て、58年に映画俳優として本格デビュー。渋い語り口と温かみある演技で愛され、任きょう映画などでいぶし銀の存在感を発揮した。12年11月に俳優業引退を宣言。山梨県で農業を営んでいた。

 菅原さんは高校まで仙台で過ごし、上京。早大を中退した後は、180センチの長身を生かしてファッションモデルをしていた。58年に新東宝にスカウトされて映画俳優としてデビューした。吉田輝雄、高宮敬二、寺島達夫ら二枚目俳優たちと「ハンサムタワーズ」と呼ばれ、親しまれた。

 広島を舞台に暴力団同士の抗争を描いた「仁義なき戦い」(73年)では、義理固い若い衆を演じた。さらに、75年に公開された「トラック野郎・御意見無用」では、愛川欽也(80)演じるヤモメのジョナサンと人情味あふれるやりとりが人気に。立て続けに大ヒットした2つのシリーズが、菅原さんを国民的な人気俳優に押し上げた。

 プライベートでは、1男2女に恵まれた。俳優デビューした長男加織(かおる)さんとは、92年にビデオシネマ「ビッグ・ボス」で初共演した。加織さん主演の映像作品「デコトラ外伝 男人生夢一路」をプロデュースしたが、01年10月に加織さんを踏切事故で亡くした。その後は「表に出たくない」と、公の場に姿を現すことを嫌うようになった。07年にはぼうこうがんを患うなど、体調を崩していた。12年11月には俳優引退を宣言した。

健さん、文太さん 任侠映画2巨頭 別々の道を歩んでともに逝く

高倉健さん(83歳)に続いて、菅原文太さん(81歳)の死去。昭和の任侠映画の“ヒーロー”が、まるで連れ立つように逝った。ふたりは東映「山口組三代目」などで共演したが、以後は全く別々な道を歩んだ。

そろって1960年代に東映で任侠映画に出演するようになり、70年代に入ると高倉さんが「網走番外地シリーズ」で、菅原さんが「仁義なき戦いシリーズ」でと “ピカレスク・ヒーロー”として一大ブームを巻き起こした。数年にわたって、そのブームは続いた。

 そして任侠映画ブームが去った後は、それぞれ違う路線を進む。高倉さんが硬派のヒューマニスティックなキャラクターを形成して「幸福の黄色いハンカチ」「あなたへ」などの路線に行ったのに対して、菅原さんは「トラック野郎シリーズ」などコミカル路線へと進んだ。

 だが、奇しくも、高倉さんの代表作の一つとなった77年の映画「幸福の黄色いハンカチ」のテレビドラマ版(TBS・1982年)では、菅原さんが主役を務めている。

 高倉さんが晩年はテレビCMなどを断ったのに対して、菅原さんははるな愛らと共演するコミカルなCMに最近まで出演していた。

 菅原さんは、2013年公開予定の山田洋次監督の映画「東京家族」主演を辞退していた。理由は2011年、クランクイン直前に震災が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で苦しい生活の続く人々が多いのに映画に出ている場合ではないと、俳優引退も示唆していた。高倉さんが俳優業に没入するのに対しても、菅原さんは農業にも取り組み、社会的発言もあえてしていた。2007年頃から膀胱癌などを患い、入退院を繰り返していたもようだ。

 高倉さんが病を隠して秘めやかに逝った。そしてまた菅原さんもひそかに別れを告げた。昭和の硬骨漢が一度に逝去して、寂しさをぬぐえない人たちが多いに違いない。

【日本の国民俳優の高倉健さんが死去】

 昭和34年、ゲスト出演した東映での共演が縁で高倉健と結婚するが、義姉(異父姉)による横領事件などがあって、同46年にチエミ側から離婚を申し入れる。姉は実印を悪用し、貯金を横領するだけでなく、高利の金融にまで手を出した。不遇な自分と「大スターである妹」との格差に一方的に嫉妬した犯行で、実刑判決を受けた。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家を取り戻した。

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 義姉のいわれなき悪意は、高倉、チエミの仲まで裂いた。高倉、チエミのそれぞれに誹謗中傷を吹き込み、離婚への足がかりをつくったのだ。昭和57年(1982年)2月13日、自宅マンションの部屋でうつぶせの状態で倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に心停止の状態だった。死因は、胃から戻した食物が喉に詰まっての窒息。享年45。風邪で体調が悪かったところに、暖房をつけたまま市販薬を飲み寝込んだのが原因、とも言われる。この日は北海道でのステージの予定があった。あまりに突然の死を前に、美空ひばり、雪村いづみ、清川虹子や中村メイコらも動揺が大きく号泣。

 デビュー直前の母の死、2人の兄の死、甥の事故死、流産、そして離婚と家庭運に恵まれなかった部分も多く、昭和45年には自宅全焼、同47年にはハイジャック事件にも遭遇。43年にはポリープによる声帯手術、と栄光の陰になぜか「不幸」がつきまとう生涯であり、親友である美空ひばりと相通じるものがある。

 ○ 復縁を望んだ江利チエミの後悔

 昭和34年、東映の若手2枚目・高倉健と結婚。夫を「ダーリン」と呼ぶ仲の良さだったが自宅が火事で全焼したのをきっかけに不運が重なり、あげくに夫の浮気を邪推して離婚する。11年の蜜月だった。やがて誤解がとけ、チエミは詫びを入れて復縁を望んだが、高倉は静かにこれを拒否する。

 後日、彼女は親友のひばりに、涙をこぼしながらこう語った。
「覆水、盆に返らず、という昔の言葉は本当なのね。あんないい人を疑った私はバカだった。大バカだった」、そう言って酒をあおったそうだ。

 昭和49年のヒット曲「酒場にて」の中に、こんな歌詞がある。
♪好きでお酒を飲んじゃいないわ、家に一人帰る時がこわい私よ‥ 
チエミの孤独死に、切ないくらいにかさなる歌詞に思える。

 当時の彼女が、ふと洩らしたひと言。
「人生の底を見ちゃった気がするのよ」。

 チエミ亡きあと、高倉健は命日の献花を絶やしたことがない。

 印象に残る言葉が、多々ある。例えば昨秋、文化勲章を受章した際、親授式の後でこう話した。「日本人に生まれて、本当によかったと、きょう思いました」

 さらにこうも話している。「今後も、この国に生まれてよかったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」

 その機会が失われたことを、心から惜しむ。

 数々の任侠(にんきょう)映画に主演してスターとしての地位を築いた。東映から独立後は、一貫して寡黙で不器用に、試練に耐える日本の男の美質を演じ続けた。多くは再会や再生の物語であり、そこでは愛情や友情、祖国愛が描かれた。

 20代からの盟友という、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんは「ファンの多くは映画の中の高倉さんを見て、日本人の男としてのあるべき姿を学んだのではないでしょうか」と述べた。

 網走、八甲田山、南極など、厳寒の雪中で独り立つシーンが、誰よりも似合う俳優だった。スクリーンの外でも、孤高の印象が強い人だった。

 半面、沢木耕太郎氏のインタビューには、ハワイが好きで、その理由を「人が温かいですね」と答えている(「貧乏だけど贅沢(ぜいたく)」文芸春秋社)。

 自身にもある、あり余る温かさが、多くの映画人や俳優仲間に愛された理由でもあるのだろう。中国でもハリウッドでも尊敬される人だった。

 訃報に触れて、各界の人々が自分だけの逸話を涙とともに、大事そうに披露した。そのほとんどが、高倉さんの気遣い、気配りについての話だった。

 妻に先立たれた刑務官を演じて遺作となった「あなたへ」のロケ地で刑務所を訪問した。受刑者を前に「一日も早く、あなたにとって大切な人のところへ帰ってあげてください」と語りかけて言葉に詰まるシーンが、追悼番組で何度も流れた。情の人でもあった。

 彼のようになりたいと、映画をみた人に思わせる俳優だった。「日本人に生まれて本当によかった」と、そう思える日本人でありたい。またそう思わせてくれる日本であり続けてほしい。

映画『鉄道員(ぽっぽや)』で韓国でも良く知られた日本の国民俳優高倉健さんが亡くなった。83歳。

朝日新聞は18日、高倉健さんが悪性リンパ種のため東京都内の病院で10日に死去していたことを報じた。

高倉健さんは韓国でも公開された1999年作『鉄道員』で意志の強い鉄道員役を演じ、穏やかな感動を与えてくれた。この映画で1999年モントリオール世界映画祭で主演男優賞を受賞した。寡黙で一本気な男性像を主に演じ、「日本の男」として通っている。

日本政府から昨年文化勲章を受章した高倉健さんは、最後の作品となった2012年「あなたへ」を含む205本の映画に出演した。

所属事務所の高倉プロモーションが報道各社にあてて、高倉さんが亡くなったことを伝える次のようなFAXを送信した。

映画俳優 高倉健は、次回作準備中、体調不良により入院、治療を続けておりましたが、容態急変にて11月10日午前3:49 都内の病院にて旅立ちました。
生ききった安らかな笑顔でございました。

病名 悪性リンパ腫


「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」


83歳の命を全う致しました。

治療に携わってくださいました病院スタッフの皆様から温かい涙とともにお見送りをいただき、故人の遺志に従い、すでに近親者にて密葬を執り行いました。

これまで、お励ましいただきました皆様、心より深く感謝申し上げます。有難うございました。

今は、お一人おひとりの心の中に宿る故人の笑顔に、静かに祈りを捧げて戴けますことを願っております。

ここに書かれた「往く道は・・・」という言葉が「健さんらしい」「かっこいい」とネットなどで話題になっている。 

【あなたに褒められたくて】集英社文庫

 お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を描れて返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』のタ張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、30数年駆け続けてこれました。別れって哀しいですね。
 いつも-どんな別れでも-
 あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。
       『あなたに褒められたくて』 高倉健 集英社

ひとつお話をご紹介いたしましょう。「お心入れ」という話題。主にお茶の世界で、お客様へのおもてなしについての言葉だそうですが、迎える方もさりげなく、もてなされた側も気付いていても言葉には出さず、心でそっと受けとめる。引用します。

お心入れって、いい言葉ですよね。

お心入れがないんですよね、このごろ・・・端的に、どこどこの何でございますって、ちょっと高級といわれる料亭行くと、
「ええ、これは琵琶湖のシジミでございます」って。
「聞いてねえよ」って言いたいときがありますね。
どこどこの和牛でございますとか、これは何とかのヒレでございますとかって、みんな説明しちゃうんですものね・・・。

この自分が今、売る商品に関しての・・・それはある意味では自信なんでしょうけど、僕はだからお心入れっていうのは、お互いにわかっているって、何も言わないで出すんだけれども、これだけはあなたのために自分は選んできたんだって言いたいけれども言わない。で、出されたほうは、これだけ気をつかっていただいて出してもらった、みんなわかってる・・・それはもうある意味では、文化だっていう気がするんですよね。

今は何でもデータを全部書いてしまうでしょう、カタログだって。だから、やれトルクがどうのって、全部出してしまうでしょ。出してないのはロールスロイスくらいですかね。あれ出さないですよね。だから、あそこになんか日本人に近い何かがあるのかなあと思ったり・・・ともかくどこも出しますよね。

僕、出さないものがあってもいいんじゃないかなあって思うんですよね。
本当にそういう時代が来てるんじゃないですかね・・・ぐるぐる回っているんでしょうけどね。

うーん、今の日本人にはもうわかんない感覚ですよねこれ。もちろんわたくしもですが。かといって欧米のようにはっきりモノが言いまくれるかというと全然そうじゃない。かなり中途半端な民族になってしまっている、そんな気がします。
このお話は最後、こんなふうに締められています。

要するに思いが入っていないのに思いが入っているようにうるから具合が悪いので、本当に思いが入ってるのに、入ってない素振りするところが格好いいのかもわかんないですね。

そう、先に書いた健さん伝説の根本がここにありますね。
ものすごいお心入れをしているのに、みんなが気付いたときにはもうそこにいなかったりする。
それは、お金の使い方であったり、時間の使い方であったりするわけですが、どこまでも心を配るその姿勢に、まわりのみんなはポーッとなっちゃうそうなんですね。それでもう心のベクトルは健さんに真っ直ぐですよ。

<高倉健さんの言葉>


去年の桜を、私は重く沈んだ気持ちで見つめていました。

3月11日。あの日、いつもの理髪店を出た私は、次の約束の場所へ向けて車を走らせていました。白金台に差しかかった時です。ガクンと大きな衝撃を感じた私は「パンクか?」と思い、車を止めました。
しかしそれは、戦後の日本が蓄積してきた経済や社会のシステムがパンクした瞬間でした。

おびただしい数の尊い命が失われ、ささやかな夢や希望が砕かれ、政府や大企業への信頼が失墜してゆく惨状を目の当たりにする中で、私の胸によみがえったのは、遠い少年時代につぶやいた言葉でした。

 「日本が戦争に負けたらしいばい」

■震災と終戦

 1945年8月15日。疎開先の福岡県遠賀郡香月(当時)で学徒動員に駆り出されていた私は中学2年生。水泳用の黒いフンドシ一丁で、近くの寺の池で泳いでいた時のことです。天皇陛下のお言葉があるらしいと聞き、仲間たちと急いで駆けつけた寺の本堂では、雑音混じりのラジオが鳴っていました。それを囲むように座り込んだ大人たちの中には、泣いている人もいました。

 「えー? 日本が降参したとな? 負けたんか、日本が…」

 それまで信じていたものが足元から崩れ、暗闇に突き落とされたような想い。終戦の時に似た絶望と寂寥が、私の胸をおおっていたのです。

 2010年の秋にオファーを受けた「あなたへ」の出演。すでに具体的な動きが、始まっていました。しかし、俳優に何ができるというのだろう?

 自分の中に生まれた問いかけが、暗雲のように体中に広がっていきました。

■絶対に負けない

 そんな弱りかけた気持ちに、ビシッとムチを入れてくれたものがあります。それは、雑誌に掲載されていた一枚の写真
http://pds.exblog.jp/pds/1/201203/…/14/e0171614_11565213.jpg
でした。イタリアにお住まいの作家の塩野七生さんが、現地の週刊誌に載っていたと紹介している写真でした。

気仙沼の被災地のがれきの中を歩く少年は、避難所で支給されたものでしょうか?

 袖丈の余るジャンパーにピンク色の長靴をはいています。両手には一本ずつ、焼酎の大型プラスチックボトルを握っています。彼は、給水所で水をもらった帰りなのです。その水を待っているのは幼い妹でしょうか?

 年老いた祖父母なのでしょうか?

 私の目をくぎ付けにしたのは、うつむき加減の少年のキリリと結ばれた口元でした。左足を一歩踏み出した少年は、全身で私に訴えかけてきます。

 「負けない。絶対に負けない…」

 私は、その少年の写真をB5版のサイズにしてもらいました。映画の台本の大きさです。「あなたへ」の台本の裏表紙にその写真を貼りつけた時、胸の奥からほとばしった熱情。クランクインは、数日後に迫っていました。

■やはり不器用だから…

 「不器用ですから」というのは、昔のコマーシャル用のせりふです。自分が不器用なつもりはないのですが、何か事を成し遂げようと決めたとき、人智を超えた畏敬のものに頼りたくなるのは、やはり不器用だからでしょうか?

日本の映画史上類を見ない過酷な撮影といわれた1977年の「八甲田山」では、3年間冬山に通いましたが、最初のロケは25日間でした。

 冬山に慣れているという現地の人が8人加わってくれましたが、彼らはたった一週間で、橋本忍プロデューサーに辞退を申し入れたといいます。それくらい危険を伴う無鉄砲な撮影だったのでしょう。この映画に入った年の初詣で、私はそれまで一日80本も吸っていたタバコをきっぱりとやめました。

それくらい自信がなかったのでしょう。自分が途中で「やめさせてください」と言い出すんじゃないかという不安を断ち切るため、私は嗜好の楽しみと引き換えに何かの力を求めたのだと思います。

 1983年の「南極物語」のときは、コーヒーを断ちました。

 この作品の前作「海峡」は、青函トンネルにかけた男たちの物語で、身も凍る寒いロケが続きました。次の作品は、もっと寒い極地での撮影だと聞いて、冗談じゃないと断ったのですが、縁あった女性の死へのやり切れない想いが、日本を離れ極寒の地へと向かわせたのでしょうか、ふと気づけば私は、何も見えないブリザードの中に立っていました。好きなコーヒーをやめたご褒美は、命の危険と隣り合わせの限界の地から生還できたという余りあるものでした。

 自分には、芸がないのだと思います。

 もっとうまい映画との関わり方や演じ方もあるのでしょう。そうした俳優になれない私には、勢いで一年に15本も撮った東映の任侠映画時代は別として、己の魂を揺さぶり、叱咤(しった)し勇気づけてくれるものが必要だったのです。

 芸がないことを、恥とは思っていません。むしろ、芸がないところで飯を食ってきたことは、自分自身のひそかな矜持(きょうじ)になっています。

 今回も、この写真の少年のおかげで「あなたへ」の75日間、総移動距離9050キロを走り続けることができました。

 坊や、ありがとう!

日本経済新聞

スカパー!(skyperfectv)

学園ドラマの金字塔『3年B組金八先生』。第1シリーズを放送!

みなさん、こんにちは。放送営業部の濱嶋です。武田鉄矢さんの熱演で知られる学園ドラマ『3年B組金八先生』の第1シリーズを放送します! この10月でドラマの初放送から35年が経ちますが、その素晴らしさが色あせることはありません。

第1シリーズの生徒役を演じたのは杉田かおるさん、田原俊彦さん、近藤真彦さんなど、豪華な顔ぶれが勢ぞろい! 「人という字は、互いに支えあって人になる」 「人と人の間で生きているから、人間と言う」などの名言も盛りだくさんの学園ドラマをお楽しみください。

■ 『3年B組金八先生 (第1シリーズ)』
10/1(水) 前8:00~ 
CS297 TBSチャンネル2 名作ドラマ・スポーツ・アニメ
Ch.617 TBSチャンネル2 名作ドラマ・スポーツ・アニメ

私の子供時代は西部劇ブームだった。ララミー牧場、名犬リンティンティン、拳銃無宿、数え上げると切りがない。とりわけライフルマンに心奪われ、大人になったら絶対ウィンチェスターライフルを買うんだと決めた。大人になりMGCの木スト付のウィンチェスターM73を買った。もちろんライフルマン仕様。回転したくて、ランダルカスタムのループレバーに交換。ウキウキワクワクでライフルを回転、レバーが折れた。
10年待った夢が崩れた。結局無敵の男にはなれなかった。

このレスラーを覚えていますか?
1961年のワールドリーグ戦にグレート東郷が大男の首に鎖をかけ、乗り込んできた。その大男は神宮外苑で大型バス三台を引っ張り動かしたことで、全国的なブームを巻き起こし、マンネリ化した力道山プロレスのカンフル剤となった。所詮、彼は力自慢のカーニバルレスラーだった。自分の力で各会場が満員になっているとリーグ参加の他のレスラーに自慢した。レスリングの実力で勝負するという自負のあるカール・クラウザー(カール・ゴッチ)やミスターX(ビル・ミラー)は報復を考えていた。クラウザーはリーグ戦で当たった時に三分でボコボコにし、控室に戻った後、今度はミスターXにボコボコにされ、彼は途中帰国した。昭和のプロレスの風景だ。

皆さま、永らくおま たせ致しました。

ズンズンズンズンズンズンズンズン小松の親分さん

どーして、どーしてなのおせーて
ながーい目でみてください
どーかひとつ

ニンダスハッカッカ、ヒジリキホッキョッキョ、ガーッチャマンに負けるな負けるなガッチャマン、ワ

ふぞろいの林檎たち‥

中井貴一変わらんな‥^ ^


やっぱり、一番星号は良いな〜⁉^^;


昭和45年日本公開 映画『イージー・ライダー』

ちなみに、ピーター・フォンダが乗っていたハーレー「キャプテン・アメリカ」が135万ドル(約1億4500万円)で落札されたそうです。

【一六銀行】
学生時代、大変お世話になりました…^^;あの頃は、まだサラ金なども大して無く、庶民の味方は、質屋さんでしたね。今は、知りませんが当時は、明らかにお金に、ならないものでも、信用貸しと言って、貸してくれたり人情溢れる質屋さんが、多かった気がします…m(_ _)m

ゲバゲバ ピ〜 あんたかて アホやろ うちかてアホや ほな さいなら!

あっと、おどろくためごろぉ~かぁ!! なぬ

傷だらけの天使で修が住んでたビルです。屋上のペントハウスに憧れたものです‼現在は取り壊されてしまってます。

シューマイ弁当 崎陽軒
駅弁は、色々ありますが迷ったら必ずこれを買います。

(  ̄▽ ̄)~♪ おらは死んじまっただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ おらは死んじまっただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ おらは死んじまっただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ 天国に行っただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ 長い階段を~...
(  ̄▽ ̄)~♪ 雲の階段を~
(  ̄▽ ̄)~♪ おらは登っただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ ふらふらと~
(  ̄▽ ̄)~♪ おらはよたよたと~
(  ̄▽ ̄)~♪ 登り続けただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ やっと天国の門についただ~
(  ̄▽ ̄)~♪ 天国よいとこ 一度はおいで
(  ̄▽ ̄)~♪ 酒は美味いし ネエちゃんはキレイだ
(  ̄▽ ̄)~♪ ワーワーワッワー

「帰って来たヨッパライ」です。
(* ̄m ̄)b

画像はネットより

牛乳瓶の蓋
当時は、蓋を集めるのが流行りましたよね〜

今は、紙パックが中心で蓋其の物が無くなりました。

♪~おれのあん娘はタバコが好きで いつもプカプカプカ 体に悪いからやめなって言っても いつもプカプカプカ…… 遠い空から降ってくるって言う「幸せ」ってやつがあたいにわかるまで あたいタバコやめないわプカプカプカプカプカ…………♪~

『プカプカ』 作詞作曲•歌 西岡恭蔵

歌詞とメロディーがチョット奇妙…...でも忘れられない昭和の匂いがプンプンする大好きな🎵で〜す。

これまで数人の 個性的なシンガーソングライターがカヴァーして歌い継がれています〜

子供の頃は、ドリフみて、変な女の人、、、という認識しかありませんでしたが、ようやく、妖艶さがわかりました!30年かかりました

うるせー!クソ親父!!
なんだと!もいっかい言ってみやがれ!!

ドッカーン!!!!

あたふた、あたふた( ゚д゚)

ジュリー♡(^o^)

さるとびエッちゃん・・・・エッちゃん役の声優さんは現ワカメちゃんの野村道子さん、愛犬役は元波平さんの永井一郎さんでした

( ^o^)〜♪ 無理すんな
( ^o^)〜♪ 無理すんな
( ^o^)〜♪ 呼ばれたら ハイ お返事
( ^o^)〜♪ 無理すんな
( ^o^)〜♪ 無理すんな...
( ^o^)〜♪ 僕は賢い良い子です
( ^o^)〜♪ ケンカはしません
( ^o^)〜♪ 意地悪もしません
( ^o^)〜♪ みんなと仲良く 進んでします
( ^o^)〜♪ なんちゃって なんちゃって
( ^o^)〜♪ その気も無いのに 無理すんな
( ^o^)〜♪ あばれはっちゃく 鼻づまり
おいらは 花の落ちこぼれ

【面白看板!!】

【ツッパリの学生カバン】
中学生のとき、こんな薄くペシャンコにしたカバンが流行った。

カバンの内側の金具を外して、風呂場でお湯につけて革をやっこくしてから陰干し。
ペシャンコにして糸でカバンの横と底を縫う。そのあと、重石をつけてつぶす⇨よく、こんな作業したと思う(^_^;

...

私はカバンの取っては変えなかったが…ツッパった奴は画像のように赤テープ(ケンカ買いますという意味らしい)や黄色いテープ(逃げますという意味らしい)にしていた(^o^;

コンドーさん自販機、町内にあったので若い頃には大変お世話になりましたw
今では見かけなくなりましたね。

昭和時代、全国に居たギター流し今は観ない🥰🐼❤️

中村八大さん
(1931年1月20日-1992年6月10日、61歳没)
作曲家、ジャズピアニスト。
6月10日は、この人の命日です。
『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、
1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲。
兄の中村二大(1921 - 生死不明)はクラリネット奏者。
妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。
(中村八大)
高橋幸治さん
(1935年6月10日-)
俳優。
6月10日は、この人のお誕生日です。
新潟県十日町市出身。
新潟県立十日町高等学校、東洋大学経済学部卒業。
大学在学中に宮口精二の運転手となり、
1959年、研究生として文学座に入りました。
1963年の『日本の孤島』で初舞台。
同年、
新藤兼人脚本・監督の『母 (1963年の映画)』でデビュー。
1965年、
NHK大河『太閤記』の織田信長役に抜擢され、
一躍人気を獲得。
同年、
映画『アンデスの花嫁』南米ロケから帰国後、
過労のために入院したことを告知するのが遅れ、
出演予定だった舞台公演に穴を空けたとして文学座を除籍。
しかし、人気は衰えず、
1966年の『おはなはん』には主人公の夫・速水謙太郎中尉役で出演。
1973年、
萬屋錦之介主演の『子連れ狼』では初代・柳生烈堂を演じました。
1974年の『丹下左膳』で主演。
1981年の『関ヶ原』では大谷刑部を演じました。
時代劇の大作・話題作に多く出演。
舞台でも『風とともに去りぬ』の初代レット・バトラー役に始まり、
多くの作品に出演していましたが、
1990年代以降は出演数も減り、
2001年以降、半ば引退状態に。
その後も公の場に現れることはほぼなく、
岐阜県土岐市の広報『広報とき』2005年5月1日号(NO1357)掲載の
「特別インタビュー」が最後の姿になっています(当時69歳)。
(高橋幸治)
昭和43年頃、東京の国鉄上野駅に入線するSL
昔は東京都内で迫力あるSLが見れました。

マッチ  明菜ちゃんの金屏風事件  明菜ちゃんが可哀想でした

円谷皐さん
(1935年5月10日-1995年6月11日、60歳没)
円谷プロダクション第3代社長で第2代会長、演出家、プロデューサー、歌手、作詞家。
6月11日は、この人の命日です。
円谷英二の次男として誕生。
円谷一(演出家・円谷プロダクション第2代社長)は兄、
円谷粲(円谷映像社長)は弟、
円谷一夫(円谷プロダクション第4代社長・同社第3代会長)は息子。
玉川学園卒。
同社で特撮スタッフとして長年活躍した高野宏一とは小学校で同級生。
脚本家の金城哲夫はこの玉川学園の後輩。
1954年(昭和29年)、成城大学文芸学部入学。
大学では演劇に熱中。
石井伊吉(現毒蝮三太夫)は劇団仲間でした。
卒業後、フジテレビに入社。
「映画部」に配属され、
ディレクター、プロデューサーとして活躍。
海外ドラマの声の吹き替えのプロデュースなども担当したといいます。
1962年(昭和37年)、
フジテレビは東宝との専属契約の切れた円谷英二を担って、
父・英二のテレビ界進出の説得に当たるも不調に終わります。
1963年(昭和38年)、4月12日、
父・英二を代表取締役とする『株式会社円谷特技プロダクション』が、
東宝の出資とフジテレビの後押しで発足。
「監査役」として登記に名を連ねます。
この年、
フジテレビ映画部部長の西村五州の後押しで、
SF特撮テレビ番組「WOO」を企画。
円谷特技プロ内で星新一らSF作家を招いた企画会議を進め、
金城哲夫らによって脚本も制作されますが、
フジテレビ側の事情でこの企画は頓挫。
この企画のために、
円谷英二が発注した光学合成機オプチカル・プリンターは、
TBSが引受先となり『ウルトラQ』の制作に生かされます。
1965年(昭和40年)、
アニメ番組『W3』のプロデューサーを担当。
1966年(昭和41年)、
この年初頭に『W3』の裏番組として、
『円谷特技プロダクション』製作の『ウルトラQ』がTBSで放映開始。
前年から皐が製作を務めていたこの『W3』の視聴率が一気に一桁台に低下。
アニメ番組『ロボタン』のプロデューサーを担当。
1968年(昭和43年)、
父英二の健康悪化を知り、フジテレビを退社。
円谷特技プロの経営と営業を担当し、
資金繰りのため『円谷エンタープライズ』を設立。
12月6日、
東宝の増資を受けて一息ついたことで
『円谷特技プロダクション』を『円谷プロダクション』と社名変更し専務に就任。
1971年(昭和46年)、
再燃しつつあった「怪獣ブーム」を前に、社内に「営業部」を設立。
各種商品化権の管理業務を本格化させ、
ブーム最盛期には、
再び前回ブームと同様に莫大なマーチャンダイジング収入を同社にもたらし、
累積債務を一掃するまでとなったため、
以降もキャラクター商品による版権収入路線を目指します。
1973年(昭和48年)、
円谷プロ社長であった兄・一の急逝を受け、社長就任。
『ウルトラマンタロウ』の企画・製作を受け継ぎ、
「第二次怪獣ブーム」の後半期を支えます。
1974年(昭和49年)、
『ウルトラマンレオ』をプロデュースしますが、
第一次オイルショックに伴う第二次怪獣ブームの終焉で再び危機を迎えたため、
様々な模索を測り、新分野への進出を図りました。
一つ目に東南アジアへの市場開拓に取り組み、
タイのチャイヨー・プロダクションと提携して
『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』や『ジャンボーグA&ジャイアント』などの合作映画を実現させますが、
資金面では貢献しなかった上、
この時期にチャイヨー社と皐の交わした(と、チャイヨーが主張)契約内容を巡っては、
『ウルトラマン訴訟』問題として長年の禍根を残すことに。
二つ目にアニメブームに乗じてシリーズ初のアニメ作品『ザ☆ウルトラマン』1979年(昭和54年)を製作。
実写版への声も高まったため、
1980年(昭和55年)、
実写版の『ウルトラマン80』を製作し、
番組終了までの間、円谷プロに黒字をもたらしました。
三つ目に『土曜ワイド劇場』での怪奇ドラマ制作などを行ったものの、
契約社員のプロデューサーによる企画だったため、
プロデューサーの引き抜きや独立などの結果、
次第にドラマの仕事も少なくなってしまいます。
1984年、
テレビからの流用シーンを多用した準新作映画『ウルトラマン物語』を製作。
1980年代後期、
「父も兄も天才型の演出家。
同じ土俵では2人を追い抜けない。
そこでウルトラマンを世界的なものにすることを私の夢にしたのです」と語り、
積極的な海外進出を試みました。
この意図に基づき、
大出費をしてアニメ映画『ウルトラマンUSA』(1988年)を制作するも振るわず。
1990年(平成2年)、
海外での撮影製作企画としてオーストラリアと提携した『ウルトラマンG』を製作、
日豪両国で一定の成功を収めます。
1993年(平成5年)、
アメリカと提携した『ウルトラマンパワード』を製作しましたがアメリカでは奮わず。
1990年代以降、ディズニーランドを手本として、
『ウルトラマンキッズ』など、
ウルトラシリーズのキャラクターを使ったキャラクターグッズの展開を積極的に行い、
キャラクターショップを全国に展開、
ビジネスマンとしての手腕を発揮。
また、
タレントとして自ら同社のテレビコマーシャルにも出演したり、歌手としても活躍。
また、
2017年現在も続いている「ウルトラマンフェスティバル」を企画し、定期公演を行いました。
1995年(平成7年)、6月11日、
胃癌により死去(60歳没)。
(円谷皐)
昭和38年12月、力道山が亡くなった!
あんなに強い人が・・・
小学校1年生でしたが、はっきり覚えています。とてもショックでした。
寅さん
向かって右は吉永小百合さんだと思われます

三船敏郎さんご家族

1980年昭和55年モスクワオリンピックボイコット

幼少期の弁当の友
  桜田麩(でんぶ)
 妙にやたらと敷き詰められていた
   記憶があります🤔

喫茶店のテーブルの上に。

夏になると昔はタライで水💦遊びをしました🥰🐼❤️

子供の頃はこんな感じでお菓子を買いました🥰🐼❤️

昭和の会社のお昼休みと言えば、バレーボール😁

1965年12月19日
東宝映画最強の二本立てが公開される。
「怪獣大戦争」、「エレキの若大将」。

35年前の本日1988年(昭和63年)6月14日、死球による負傷で登録抹消されたクロマティーに代わり登録された呂明賜、即先発。初打席初ホームランの衝撃のデビュー。

日曜日の朝10時は、ラブアタックでした。
プロポーズ大作戦の、フィーリングカップル5vs5のコーナーと並んで、この頃は大学生が出場したり、一般公開番組が多かったです。

これ、子供の頃に飼っていた、可愛いペット❝モーラーちゃん❞です🎶手の平にのせると、まるで生きているかのようににょろにょろくねくねと動きます😃そのモフモフにょろにょろ感が好きでずーっと一緒に遊んでいました💕人懐こくてとてもいい子でしたね~😍

【 会長、どうぞ❗️ 】
『 この、しぶとさ が 会社を 繁栄させるのですかね~』( 樹木希林さん )
会長さんの CM 出演で 売上が 三倍?になったとか 逸話が残されております。
やはり、企業は、トップが一番働かないといけませんね。
会長さん、スゲー‼️
『まぼろし探偵』は、1957年に『少年画報』に連載された桑田次郎(桑田二郎)原作の漫画作品、およびそれを元としたラジオドラマ、特撮テレビ番組、映画作品のタイトル。当初『少年探偵王』のタイトルで連載された[1]。赤い帽子、黒マスク(目の周りを覆うのみ)、黄色いマフラーをトレードマークとする少年探偵が主人公。事件が起きるとさっそうとオートバイに乗って現れる。その正体は誰も知らないが、日の丸新聞の少年新聞記者[注 1]である富士進。父親は警視庁警部であり、事件に関する情報は自然と耳に入ってくる。いざという時はまぼろし探偵に姿を変え、悪漢相手に二丁拳銃で立ち向かい、難事件を解決していく。1959年からラジオとテレビでドラマ化され、3本の映画が製作されている。ドラマや映画で主題歌が歌われ、少年ヒーローを想像して子どもたちの間でまぼろし探偵ごっこが流行った。https://youtu.be/1-VgNKdQrm4
一週間のご無沙汰で
御座います。
ロッテ歌のアルバムです
玉置浩で御座います🎶
🍡“男性が選ぶ! 昭和のマドンナ女優 人気ランキング トップ10”(ランキング社)の、何と6人が寅さんの元カノでした💕。
👑第1位 吉永 小百合さん (1,485票 )
   第3位 大原 麗子さん (289票 )
   第4位 松坂 慶子 さん (205票 ) 
   第6位 八千草 薫 さん (171票 )
   第7位 風吹 ジュン さん (166票 )
   第9位 浅丘  ルリ子 さん (120票 )
さて、寅さんフアン♥の場合は、如何でしょう😂😍💁‍♂️。
昭和44年7月28日、日本人が初めて目撃した、あからさまなホームタウンディシジョン。ジョニー・ファメション対ファイティング原田のWBC世界ファザー級タイトルマッチ。
王者ジョニー・ファメションの地元シドニーに乗り込んだ、挑戦者の原田選手は2ラウンド、11ラウンドそして14ラウンドと3回もダウンを奪い、チャンピオンベルト獲得は間違いないと誰もが確信しました。しかし、結果は引き分けで王座防衛。これには、多くの日本人はそうであったように、中学1年生だった私も「何だ、インチキじゃないか!」と腹が立ちました。
地元ファンでさえもブーイングの嵐だったそうですが、当の原田選手は判定に不服を申し立てることも無く、ファメション選手と潔く健闘を称え合いました。それを見た観客(ほぼ全員が地元オーストラリア人)から惜しみないスタンディング・オベーションが贈られたそうです。
なお、翌45年1月6日、今度は東京で行われた再戦ではファイティング原田はファメション選手から14回にノックアウトを喫し、負けてしまい、この試合を最後に引退しました。
<蛇足です>
ジョニー・ファメション選手は昨年(令和4年)8月、残念ながら77歳で亡くなりました。でも、ファイティング原田選手は80歳の今もご健在です。長生きでは原田さんが文句なしの勝ち!ですね。

以前はゴミ収集はこうしてやってましたね🥰🐼❤️

昭和時代国鉄駅の近くにあった日本通運です、この車は懐かしいですね🥰🐼❤️

林田バスと桜島
 この写真は、鹿児島市吉野町において、桜島を背景に林田バスを写したものです。
 
 鹿児島県の私鉄バスは北薩地方が南国交通、霧島地方が林田バス、大隅地方が三州自動車、南薩地方が南薩鉄道と棲みわけていた。その後、昭和39年に三州と南鉄が合併して鹿児島交通となる。
 竜ヶ水付近から桜島を背景に写した一枚。
         (昭和30年代の写真提供)
 ~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、鹿児島市の昭和)

小松の親分さんが懐かしい

プレイガール

昭和ではプールに入る前にシャワーを浴びる前に白い薬のような所で10数えてそれでシャワーを浴びてから体操してからプールに入ってましたね🤔🤔🤔それでプールから上がった後には目を洗ってましたね🥰🥰

映画『ブラック・レイン』撮影直前に末期ガンが発覚、残る生命をフィルムに刻みつけ亡くなった #松田優作 さん。1970年代テレビ作品で共演された俳優諸氏から想い出を訊くと、熱さと内省のお人柄が垣間見えました。合掌。
★『NHK  人×物×録』松田優作さん
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250582_00000

子供の頃デパートの最上階には食堂があって、家では食べれないお子様ランチやプリンアラモード、クリームソーダに胸が高鳴りました、活気あふれる店内は沢山の人で賑わっていて、今思うとささやかだけど贅沢で幸せな時間でした。

昔はこのタイプ結構いたのですが今は残念ながら殆ど見ることありません。
漫才に音楽や浪曲はつきものだと思っていたのですが。

「MEN'S CLUB  アイビーファッション特集号」(1975年5月発行)に #勝野洋 さんのお姿を発見。俳優デビュー前の大学時代はモデルのバイトをしていらしたとか。同号モデルの中では唯一の短髪。同時期撮影の『太陽にほえろ!』テキサス刑事の爽やかさは、勝野さんご自身の素の部分とお見受けしました。

お疲れさまです✨
世代的にはリアルタイムで見れてません
いいですね~😊テレビで、野球拳かよ。
ホントに良い時代だったんでしょうね~✨
下の写真、かぶりつき席にチビッ子が😆
「北の国から」
’81年10月~連続ドラマ開始。
これほど泣かせるドラマは無かった。
皆さんはどんな思い出がありますか?
私は令子(いしだあゆみ)と五郎(田中邦衛)が
なぜ結婚したのかが未だに解らない。
ドラマでも元夫婦とは思えず、なんか他人なんだよなぁ。
五郎と共に令子の浮気現場を見てしまった蛍は
母を許せなく、ずっと尾を引いてしまいます。