Apex product 【 昭和の楽しい時代㉖ 】

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『兵隊ヤクザ』1965年大映
昭和18年、ソ連国境に近い関東軍兵舎に、元ヤクザの用心棒をしていた大宮喜三郎が入隊してくる。
正義漢だが喧嘩っぱやい大宮は、早々に風呂場で大立ち回りをやらかし、十数人の砲兵隊員らをブチのめしてしまう。インテリ上等兵・有田(田村高廣)は頭を抱えるが、大宮の破天荒で規則に縛られない奔放さに惹かれて擁護する。大宮もまた有田に恩を感じ慕ってゆくーこうして上下関係でありながら2人の間に奇妙な友情が芽生え、非人道的な軍隊の中で人間らしい行き方を貫こうとする。
起床ラッパは女郎家で聞いて、二日酔いは喧嘩で治す?上官がなんだ!軍規がなんだ!とばかりに、腕っぷしの強い大宮と頭脳明晰の有田との最強コンビが暴れまくる、豪快にして痛快な戦争活劇
『サザンオールスターズ』
1978年6月25日デビュー……当時は『ザ・ベストテン』でジュリーやキャンディーズや百恵さんと順番を競ったり、大学祭でLIVEをやったり、クルマでカセットテープを聴いたり……そして明日は45回目のデビュー記念日……今夜2023/6/24㈯のFM番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で45周年情報⇒サザン再始動が大発表されるようです……
茅ケ崎小学校に来てます♬
これから人文字イベントです📷
サザン45周年おめでとう㊗🎊
まずは茅ケ崎から盛り上がって来ます🥰
45年前の本日1978年(昭和53年)6月24日、「スターウォーズ」(後に「EP4/新たなる希望」に)日本先行ロードショー(一般公開は翌週7月1日)。
41年9作に及ぶシリーズの第一作。
ルークとレイアが双子の兄妹、そして父親がダース・ベイダーだとは、この時まだ誰も知らない、製作側の人を除いて。
西田健さん
(1945年6月24日-)
俳優、声優。
身長174cm。
日本統治時代の朝鮮の江原道元山明治町で、
「元山毎日新聞社」の社主をはじめ
養蚕業、石炭販売、保険代理店などを幅広く経営する家に誕生。
祖父、父共に早稲田大学卒の実業家でした。
健の誕生から間もなく、
敗戦によって一家は家財総てを失い、
祖国日本の岡山県に引き揚げ。
小学校から高校(都立雪谷高校)を卒業し、
映画脚本家を目指し早稲田大学文学部演劇専修科に入学。
しかし当時の大学は授業料値上げ闘争に始まった学園紛争に明け暮れており、
ほとんどがロックアウト状態で授業は満足に受講できる状態ではありませんでした。
大学時代の同級には逸見政孝や長塚京三。
そこで西田は日本テレビのプロデューサー井原高忠の個人秘書という形で働くことに。
1年半の日本テレビ生活を終えいったん大学に戻リマ氏たが、
井原の知友であった文芸プロダクションにんじんくらぶ(当時は解散)を主宰していた
若槻繁の紹介状を持って、
最初は演出志望で劇団雲の門をたたきました。
正式に研究生として入団し、俳優の道を歩みます。
劇団研究生の同期には田中眞紀子。
1970年に劇団雲の団員に昇格、
1975年からは劇団雲の分裂に伴って、
岸田今日子や仲谷昇らと行動と共にして演劇集団 円に所属。
橋爪功らとともに名優であり名演出家でもあった
芥川比呂志に演技指導を受け薫陶を受けた最後の世代。
1971年、
『帰ってきたウルトラマン』で、MATの岸田文夫隊員役を演じます。
主役の郷秀樹を演じた団時朗に匹敵する多くのファンレターが西田の事務所に届き、
それは数こそ変化しましたが現在に至るまで続いています。
1973年には、
小川真由美主演の『アイフル大作戦』に
探偵学校の生徒・丘大介役で丹波哲郎などの先輩俳優とレギュラー出演し、
しゃれたアクションコメディで軽妙な演技を披露。
20代から30代にかけては、
『特捜最前線』や『Gメン'75』などで演じた個性的な犯人役に代表されるように、
悪役を演じることが多くなりました。
とりわけ『特捜最前線』では
原子爆弾を製造する思想犯に始まり、
ストーカーや潔癖症のマザコン男など、
さまざまな役柄を演じました。
近年DVD発売に際して行われた人気エピソードのアンケート結果でも、
西田がゲスト出演した回は軒並み、上位にランクイン。
『Gメン'75』の1か月のヨーロッパ・ロケを終えて帰国した西田は、
時代劇を多く自分の仕事の範疇に入れることを決意。
東京制作では萬屋錦之介主宰の中村プロで、
錦之助に悪役、癖のある二枚目として重用され常連出演者になり、
杉良太郎主演作、
国際放映で撮影された古谷一行、加山雄三らの東宝時代劇、
天知茂主演作、
そして、三船プロ で撮影された時代劇を渡り歩きました。
この頃から、東映京都撮影所からも声がかかるようになり、
京都での仕事が急激に増加。
旧知の深作欣二監督から呼ばれた『柳生一族の陰謀』テレビ版に始まり、
大川橋蔵に可愛がられ橋蔵直々のキャスティングで
数々の『時代劇スペシャル』に出演。
その後は、
北大路欣也、松方弘樹、松平健らのさまざまなシリーズにゲスト出演し、
所作や時代劇の技を磨いていきました。
敬愛していた工藤栄一監督に要請された
『必殺仕事人V・旋風編』・『風雲竜虎編』における
中村主水の上司、与力の鬼塚(ファンの間では鬼塚様)として知られています。
引き続いて、同じく工藤の監修による、
山﨑努版『雲霧仁左衛門』での筆頭与力・山田藤兵衛は
本人が「一番気に入っている」と知人の編集者に言いきっています。
視聴者の要望に応えるかたちで発売された
DVD-BOXのリーフレットの中で映画ライター金澤誠によって、
「剃刀のような山田を演じた西田はクールな演技が光り、
現代の警察機構にも似た雰囲気を醸し出している」
と絶賛されました。
40代以降は、
2時間サスペンスドラマや長時間時代劇へも活動の場を広げ、
犯人をはじめとしたさまざまな役柄を演じて今日に至っています。
特に、
日本テレビで放送された『火曜サスペンス劇場』での西田の活躍はめざましく、
数回行われた番組パーティでは、
最多出演賞の栄誉に輝いています。
中でも、
いかりや長介とコンビで十年以上に渡って撮影された
「取調室」シリーズへの愛着を、
全作品を監督した鷹森立一監督へのリスペクトを込めて周囲に語っています。
映画の出演作も数多いですが、
中でもベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した熊井啓監督の『海と毒薬』では、
米兵の生体解剖に関わる浅井助手役で、
人間の心の闇に潜む、弱さ、卑怯さ不純さ、悪意への傾きを演じ、
原作者の遠藤周作や映画評論家の淀川長治から高い評価を受けました。
淀川は
「…なにげないアメリカ兵と日本人医師{西田健}の会話から、
だまし討ちのごとく生体実験にもっていく恐怖、
このスリル、このショック、
この恐怖にはこれまでのいかなるショック映画もこのシーンの足元にも及ぶまい」と記述。
2015年12月人気番組『相棒』に、
業界では異例ともいえる3度目のゲスト出演を果たし、
高視聴率を獲得。
(西田健)
名古屋章さん
(1930年12月8日-2003年6月24日)
俳優、声優、ナレーター。
東京府東京市麹町区(現、東京都千代田区)九段出身。
身長170cm、体重78kg。
旧制九段中学校卒業。
NHK東京放送劇団、文学座、劇団雲を経て、1975年以降はフリー。
1950年代から半世紀にわたり、
数多くの舞台、映画、ドラマ、ラジオに出演、ナレーターとしても活躍。
幼少期、
姓の「名古屋」が珍しいものであったことや、
父の氏名が(名古屋)愉快のため級友からからかわれていました。
1949年(昭和24年)に旧制中学を卒業すると、
東京放送劇団(NHK)養成所に3期生として入所。
同期には後に声優として活躍する勝田久、高橋和枝ら。
1952年(昭和27年)には
ラジオドラマ『ぼたもち』に主演し、同年の芸術祭賞を獲得。
このほか、ラジオドラマには『一丁目一番地』などに出演。
1959年(昭和34年)に文学座へ入団。
1963年(昭和38年)に劇団雲の創立に参加、
1975年(昭和50年)の劇団雲の解散以後はフリーで活動し、
地人会、こまつ座などの舞台にも出演した演劇人でもありました。
1971年(昭和46年)には『釘』で第6回紀伊国屋演劇賞個人賞を、
1983年(昭和58年)に『雨』で芸術祭演劇部門大賞を受賞。
ラジオドラマ時代は美声を生かして二枚目を担当し、
数多の女性ファンを獲得。
映画ではクセのある敵役や悪役を演じ、
テレビドラマでは刑事役や大映テレビ制作の作品に常連出演するなど、
名脇役ぶりで親しまれました。
特撮では『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』のナレーターや、
『ウルトラマンタロウ』の朝日奈勇太郎隊長役が代表作。
1991年(平成3年)から2003年(平成15年)まで、
藤村有弘(1982年死去)から引継ぐ形で『ひょっこりひょうたん島』の2代目ドン・ガバチョ役を務めました。
2003年(平成15年)6月24日午前8時35分、
肺炎のため死去。
72歳没。
(名古屋章)
川合伸旺さん
(1932年4月18日-2006年6月24日)
俳優、声優。
愛知県豊橋市出身。
身長165cm。
悪役俳優として知られ、特に時代劇での悪代官役で著名。
1945年、豊橋市立八町小学校卒業。
同年に豊橋空襲で自宅を失います。
終戦後、通学する豊橋中学校が新学制度により、
愛知県立時習館高等学校に。
在学中は美術部に在籍しており、
演劇部のため書き割りを描いてた際に
「役者が足りないからちょっとやってみて」と言われたことがきっかけで俳優を目指します。
1949年の高校卒業後は上京し、
1951年、舞台芸術学院本科卒業。
卒業後は劇団青俳へ入所。
『反応工程』『モンセラ』などの舞台に立つ傍らで、
1956年公開の映画『道』に「河井信旺」名義で映画初出演。
1959年、
映画『女子大学生 私は勝負する』に現名義で初出演。
同年には、
海外ドラマ『コルト45』の吹き替えで声優としてもデビュー。
1962年、
テレビドラマ『献身』でヒロイン(小畠絹子)をいじめる青年実業家の役を演じ、
以降は様々な作品で悪役を演じ、
悪役俳優としての地位を確立。
1965年、劇団NLTに移籍、
同劇団分裂後は三島由紀夫が主催していた浪曼劇場に所属。
1971年からフリーランスとなり、
その後は
プロモーション・プラスワンからエ・ネストを経て、
再びフリーで活動。
2003年末、
腹部大動脈瘤の手術中に脳梗塞を発症。
以降は出演予定だった舞台などを降板し、
闘病のため芸能活動を休止。
2006年6月24日19時56分、
脳梗塞のため東京都中央区の病院で死去。
74歳没。
(川合伸旺)

♥️2023💃6/21 笛木優子(44歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

丹阿弥谷津子さん
(1924年6月25日-)
女優。
東京市本所区両国(現・東京都墨田区両国)出身。
身長157cm。
父は日本画家の丹阿弥岩吉(1901年-1992年)、
妹はメゾチント作家の丹阿弥丹波子(1927年-)、
夫は金子信雄(1995年、死別)。
1937年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
東京府立第十高等女学校卒業。
1942年、文化学院文学部卒業。
1942年文学座研究生。
同年「富島松五郎伝」で初舞台。
1945年新劇合同公演「桜の園」のアーニャ役で注目され、
以後「シラノ」のロクサーヌ、
「マリウス」のファニーなど美貌と演技をかね備えた女優としての地位を確立。
1954年3月24日、
カンヌ国際映画祭出席のためフランスへ出発。
1964年、
喜びの琴事件により文学座を脱退した三島由紀夫らと「劇団NLT」を結成、
翌年、
『サド侯爵夫人』で主人公を演じました。
1966年に退団、
金子と新たに「新演劇人クラブ・マールイ」を結成。
1967年、
「女優の愛と死」で芸術祭賞奨励賞を受賞。
2000年、第10回日本映画批評家大賞功労賞。
テレビドラマでは連続テレビ小説に主人公の祖母役で多く出演。
CMではパラマウントベッドや沢井製薬等に出演。
(丹阿弥谷津子)
沢田研二さん
(1948年6月25日-)
歌手、俳優、作詞家、作曲家。
ザ・タイガース及び、PYGのボーカル。
身長171cm。
両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)生まれで京都府京都市育ち。
ニックネームは『ジュリー』。
妻は女優の田中裕子。義弟は俳優の田中隆三。
前妻は歌手の伊藤エミ。
1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期から最前線で活躍し、
ソロとしてのシングル総売上は1,241万枚を記録。
ザ・タイガース、PYG時代も含めたシングルの総売上は1,668万枚。
(沢田研二)
頭師孝雄さん
(1946年6月25日-2005年4月1日)
俳優。
大阪府大阪市西成区出身。
明星高校卒業。
俳優の頭師佳孝は実弟。
5人兄弟の三男として誕生。
長男を除いた4人が子役となりましたが、
次男の正明と四男の満はそれぞれ高校、中学で俳優業を辞め、
最終的に俳優を続けたのは孝雄と末弟の佳孝の2人。
1956年(昭和31年)、
小学校4年の時に宝塚映画『鞍馬天狗・御用盗異変』でデビュー。
1958年(昭和33年)の映画『暖簾』の演技で森繁久彌に認められます。
1965年(昭和40年)に高校を卒業。
1958年(昭和33年)より宝塚映画専属でしたが、
1967年(昭和42年)にフリー。
以後、名脇役として多数のドラマ、映画に出演。
2005年(平成17年)4月1日、
膵臓癌のため都内の病院で死去。
58歳没。
特技は乗馬、剣道。
(頭師孝雄)
誠直也さん
(1948年6月25日-)
俳優。
身長173cm。
妻は女優の早川絵美。
佐賀県佐賀市出身。
法政大学文学部哲学科卒業。
学生時代はラグビーに熱中し、
福岡電波高等学校在学中の1967年には
主将・CTBとして全国高校ラグビーに出場し、初優勝。
しかし、
決勝戦中盤で膝と半月板を損傷してしまい、
試合中にメンバーチェンジが出来ずに強行出場したために無理がたたり、
ラグビー選手への道を断念。
大学を卒業後、
不動産会社に就職が決まったものの入社せず、
知人の勧めで俳優の道へ進みます。
1971年、
映画『現代やくざ 血桜三兄弟』(東映)で役者デビュー。
『不良番長』シリーズなどを経て、
1973年には
円谷プロ制作の特撮テレビドラマ『ファイヤーマン』(日本テレビ)のオーディションに合格し
主人公・岬大介役で初主演。
その後は
『仁義なき戦い』シリーズや『少林寺拳法』など、東映の劇場映画を中心に活動。
1975年『秘密戦隊ゴレンジャー』(NET)の主演に抜擢され、
再びヒーロー役を務めました。
1977年より放映開始した『特捜最前線』(テレビ朝日)の吉野刑事役に選ばれ、
1985年まで8年半レギュラー出演。
第68話「誘拐・東京〜函館縦断捜査!」では
走行するトラックの運転席から飛び降りて、
並行して走る貨物列車の無蓋車に飛び乗るスタントを
吹き替えせずに自ら演じています。
2003年には
『実録ヒットマン 北海の虎・望郷』にて長編映画では初の主演を務め、
さらに
『爆竜戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーはキンキン中!』への出演で
約27年ぶりに特撮への復帰を果たしました。
また2011年には
『ゴレンジャー』のアカレンジャー/海城剛役として
スーパー戦隊シリーズ35作記念作品となる『海賊戦隊ゴーカイジャー』に客演。
テレビの時代劇、大河ドラマにも頻繁に出演しているほか、
多数のオリジナルビデオ作品でも活躍。
(誠直也)
谷幹一さん
(1932年11月21日-2007年6月25日)
俳優・コメディアン。
東京都出身。
「タニカン」の愛称で親しまれました。
1950年に都立農芸高校を中退後、
新宿のムーランルージュ新宿座に最後の研究生として入ります。
ムーランルージュの解散後、
劇団東京喜劇での地方巡演の後、
浅草フランス座で渥美清、関敬六と出会い、
共に下積み時代を過ごします。
葛飾区青戸の自宅には渥美や関が頻繁に訪問し、
谷の義母が振る舞うカレーライスを好んで食べていました。
戦前の役者谷幹一に似ていると言われたことから芸名を谷幹一に改めます。
1958年にテレビ映画『月光仮面』で探偵助手の袋五郎八を演じて人気を博しました。
翌年には渥美、関と3人でスリーポケッツを結成。
解散後は本格的に役者として活動するようになり、
TBS月曜夜8時の時代劇『ナショナル劇場』枠では常連で多く出演。
その他、ひらけ!ポンキッキのお兄さん役も務めました。
2000年から日本喜劇人協会副会長として、
会長の大村崑を補佐しましたが、
晩年は病気がちで作品出演は多くなく、
2006年8月に亡くなった関敬六の後を追う様に、
2007年6月25日、
脳出血のため東京都新宿区の病院で死去。
74歳没。
(谷幹一)
ジェリー藤尾さん
(1940年6月26日-2021年8月14日)
歌手、俳優、タレント。
代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。
専修大学附属京王高等学校(現・専修大学附属高等学校)中退。
娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。
元妻は歌手、タレントの渡辺友子。
身長172cm。
高知県出身で松竹で俳優になったのちに
日本放送協会国際部勤務で英語アナウンサーをしていた父・藤尾薫宏と
イギリス国籍の母・オリビア・ヒース・ゴンザレスのもと、
当時の中華民国上海の日本租界で生誕。
当地で第二次世界大戦の終戦を迎え1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、
上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、
帰国後の藤尾と母は言葉の壁や外見から差別を受けました。
特に母の心労は深刻で、
知り合いのいない地での孤独を紛らわすためアルコール依存症に陥り、
藤尾が中学1年生の時に、
台所で吐血しウィスキー瓶を握り締めたまま28歳で死去。
息絶えた母を発見したのは、
学校から帰宅した藤尾でした。
その後、
家庭を顧みる余裕をなくした父によって生活は崩壊。
深く傷つき、
新宿など夜の繁華街で荒んだ生活を送り、
愚連隊「三声会」の用心棒を務めるまでになっていました。
ヤクザすら道を譲るほど喧嘩に明け暮れていましたが、
次第に音楽への道を志すようになり
1957年にバンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶で
エルヴィス・プレスリーの『ハウンド・ドッグ』を飛び入りで歌ったところ、
これが所以でマナセプロダクションからスカウトされ、芸能界入り。
芸名はアメリカの喜劇俳優、ジェリー・ルイスにあやかる形で名づけました。
1958年、
高校留年が決定したのを機に中退し本格的に芸能生活を開始。
「水原弘とブルーソックス」のシンガーとして
日劇ウエスタンカーニバルで初舞台。
特にリトル・リチャードのナンバーを得意としました。
俳優としては
1959年の『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広、東宝)、
歌手としては1961年に『悲しきインディアン』でレコードデビュー。
翌1962年5月に
NHKの人気番組『夢であいましょう』へ出演すると共に、
同番組の「今月のうた」に採用された『遠くへ行きたい』が大ヒットして一躍人気者となり、
「ダニー・ボーイ」、「土佐の一本釣り」、「指笛の丘」などのヒット曲を持ちます。
その後は
黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、
映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍。
1964年に
歌手・タレントの渡辺トモコ(現・渡辺友子)と結婚し、
二児をもうけました(後に長女・美紀は『極道ステーキ』、次女・亜紀は『セーラー服反逆同盟』などへ出演し、一時女優として活動)。
家族で『オールスター家族対抗歌合戦』などバラエティ番組へ出演、
1974年からはトヨタ・カローラのCMへ出演して
「円満な芸能人一家」として広く認知されました。
しかし、
1985年に入り夫婦の不仲が報じられ始め、
同年末に渡辺が家を出るかたちで別居。
1986年7月12日、正式に離婚。
その際、
渡辺が女性週刊誌上で
「酒浸りの生活でDVに及ぶ」、「妻の両親との不仲」、「経済的に困窮し、妻と収入が逆転した」など一方的にスキャンダルを吹聴し、
ワイドショーがそれに同調して藤尾へのバッシングを始めたのを期にテレビへの露出が減り、
表舞台から姿を消す事に。
離婚の際、
2人の娘が父である藤尾の側に付いたことや、
長女が母親の乱れた素行や男性関係を暴露、
「あの人はクズ」と発言し、
物議を醸したことで一方的なバッシング報道は収束。
その後は
リサイタルやディナーショー、懐メロ・オールディーズコンサート等を中心とした芸能活動や、
慰問などの福祉活動、
自らの差別体験などを通した人権に関する講演などを行っていました。
娘2人が嫁いだのを機に
「面倒を見てもらうつもりはない」との意思から
千葉市内の有料老人ホームに生活拠点を移していましたが、
晩年は、
神奈川県横浜市内の次女・亜紀夫妻の自宅で暮らしていました。
2021年8月14日4時52分、
慢性閉塞性肺疾患起因による急性肺炎のため死去。
81歳没。
(ジェリー藤尾)
愛川欽也さん
(1934年6月25日-2015年4月15日)
男性俳優・声優・タレント・司会者・ラジオパーソナリティ・エッセイスト。
愛称はキンキン。
東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)出身。
身長168cm、体重72.5kg。
妻はタレントのうつみ宮土理。
「おまっとさんでした」の名ゼリフで著名。
巣鴨で生まれ育った後、
中学時代に埼玉県大宮市(現:さいたま市)へ転居。
埼玉県立浦和高等学校に入学。
高校在学中に演劇にのめり込み、俳優を志すように。
浦和高校を中退後、
1954年俳優座養成所(3期生)に入所。
1956年、
俳優座卒業と同時にホームドラマでドラマ初出演。
この時の役が、
最後には更生して真面目に生きていく不良少年の役で、
その役名が「愛川欽也」。
最初の結婚で、
1958年に長男(俳優の井川晃一)、
1960年に長女(佳村萠)をもうけています。
1962年より、
アメリカのテレビドラマ『ルート66』で
主役のマーティン・ミルナーの吹き替えを行い、
同ドラマは人気番組に。
役柄の設定から、
当時の業界では「班長」というあだ名をつけられ、
声優業にも意欲的に活動し、
ジャック・レモンの吹き替えや
『いなかっぺ大将』でのニャンコ先生役などは広く知られています。
1996年、
宮内幸平の後任として映画『ドラゴンボール 最強への道』の亀仙人役を演じ、
声優として17年ぶりの復帰に。
1971年より深夜番組『パックインミュージック』でパーソナリティとなり、
若者を中心に人気を得ます。
このときより、「キンキン」の愛称が一般に定着。
深夜番組『11PM』の司会を大橋巨泉とともに
1974年から1986年3月まで長年にわたり務め、
司会者としての人気を確固たるものに。
1972年、
松下電器産業(現:パナソニック)のラジカセ「MAC」のCMにDJ役で出演、
彼が発した「あんた、松下さん?」のフレーズは流行語に。
1975年、
満艦飾の長距離トラック運転手を主人公とした映画を企画し持ち込み、
これが東映のドル箱シリーズとなった『トラック野郎』(監督:鈴木則文)。
菅原文太と共演し、
相棒・やもめのジョナサンこと松下金造役を演じ、
空前の大ヒットとなり、
1979年までに全10作が製作・公開されました。
1976年、
自らの企画でホームレスの男を演じた
東映の喜劇映画『キンキンのルンペン大将』(監督:石井輝男)で
映画単独初主演。
1976年、
同じ昭和9年(1934年)生まれの
長門裕之、坂上二郎、藤村俊二らと共に芸能人の親睦団体『昭和九年会』を結成。
愛川は長門とともにその発起人に。
1978年には、前妻と離婚し、
その翌日に
1972年10月から1974年6月までコンビDJをした『きんきんケロンパ歌謡曲』にて出会い、
1975年に放送開始し、
愛川の司会者としてのレギュラーの一つだった昼の
バラエティ番組『シャボン玉こんにちは』でも共演し
親交を深めたうつみ宮土理と再婚。
うつみとは生涯長くコンビを組みましたが、
二人の間に実の子供はもうけられず。
1981年に開始した『なるほど!ザ・ワールド』に司会に抜擢され、
ここで愛川はまたも大ブレイク。
その後
1995年に『出没!アド街ック天国』が開始され、初代司会者に。
以来不定期に放送される『土曜ワイド劇場 西村京太郎トラベルミステリー』と同じ時間に見られるように(2012年1月放送の第57作まで)。
土曜ワイドでは『横溝正史の吸血蛾』(1977年)にて名探偵金田一耕助を演じますが、
愛川金田一はこの1作のみ。
2000年10月、
愛川の下に集まった後輩の俳優たちと共に「劇団キンキン塾」を結成。
2001年11月に旗揚げ公演を行い、
以降年1回のペースで本公演を上演。
以降、
劇団をベースに舞台公演・自主映画製作を行い、
プロデュース・脚本・演出・音楽を全て自ら手がけます。
2009年6月、
私財を投じて建設した小劇場「キンケロ・シアター」を東京都目黒区青葉台にオープン。
劇団キンキン塾の活動拠点となる他、
自主製作の映画なども上映。
2009年12月1日、
全日本空輸がかつての塗装デザインであるモヒカン塗装を
1機に復刻させて運航を開始した際に
羽田空港での出発式にうつみと共に招かれました。
2012年3月6日、
3月で放送終了する『パックインジャーナル』の
後継番組を放送するために、
愛川企画室の製作・管理によるウェブ放送局「kinkin.tv(キンキン・ドット・ティーヴィー)」
を開局することを発表。
2014年、
『出没!アド街ック天国』での司会が
「世界最高齢の情報番組司会者」としてギネス世界記録に認定。
2015年3月に入り、
長年出演してきた『出没!アド街ック天国』の司会を、
放送1000回目となる2015年3月7日放送分(2月4日に収録)を以て急遽降板。
2015年4月15日午前5時11分、
肺がんのため東京都内の自宅で死去。
満80歳没(享年82)。
(愛川欽也)
高島忠夫さん
(1930年7月27日-2019年6月26日)
俳優・タレント・司会者。
身長181cm。
4人姉妹弟の長男(姉1人、妹1人、弟1人=高嶋弘之)。
兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区御影町)で、
姉妹弟のいる4人姉弟の長男として出生。
祖父は大地主で不動産収入があり、
そのため父は琵琶師匠を自称していましたが弟子もおらず、
生涯定職につくことのない有閑階級の家庭でした。
成績は優秀で神戸一中に進学。
水泳部に所属。
同じクラスに作家の小松左京と國弘正雄。
小松とは、
一緒にバンドを組んでいたこともある仲。
学制改革により六・三・三制となり、
神戸一中5年から新制神戸高校3年へと進学するもジャズに没頭し、退学。
翌年に関西学院高等部へ今で言う「水泳推薦」で編入学。
高校では団鬼六がボーカルだった軽音楽クラブに所属。
1951年に
映画会社新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界入り。
スターレット同期生は
天知茂、久保菜穂子、小笠原弘、松本朝夫ら18人。
映画界入りしたことで関西学院大学は2年で中退。
芸名を高島忠夫として、21歳で上京し、
東京暮らしを始めます。
俳優座で俳優の勉強とボイストレーニングをして、
このときに歌の才能が認められ、
本格的に歌の練習をやるよう勧められます。
1952年の映画『恋の応援団長』でデビュー。
同年に『チョイト姐さん思い出柳』で初主演し、
以後新東宝で主演級の歌うスターとして活躍。
高島の映画出演は1950年代から1960年代が中心で
100本以上の出演作の大半がこの時期のもの。
特に『坊ちゃんシリーズ』の主役は当たり役となりました。
作曲もこなし、
1958年には「東京ダーク・ムーン」をフランク永井に提供。
その後、
「君はミュージカルスターになれる」との菊田一夫の誘いで東宝に移籍。
東宝ミュージカルのほか、
コミカルな演技が印象的な『キングコング対ゴジラ』や
「日本製の本格的ミュージカル映画」として後年評価された
『君も出世ができる』などの東宝映画や、
東宝系列の宝塚映画に出演するように。
共演の多い藤木悠とは、極楽コンビと称されました。
1963年には
日本初のブロードウェイミュージカルとして上演された
『マイ・フェア・レディ』に出演して評判に。
女優の寿美花代とは、
1961年に寿美が司会のテレビ番組『季節のミュージカル』にゲスト出演したことから知り合い、
2年間の交際を経て、1963年に結婚。
『ごちそうさま』で長く夫婦で共演。
結婚後、長男・道夫をもうけますが、
1964年に
生後5か月で当時17歳の家政婦によって殺害されるという事件に見舞われます(高島忠夫長男殺害事件)。
事件後、二男の政宏と三男の政伸をもうけています。
1968年、
東映動画の『アンデルセン物語』では声優をこなし、
ミュージカル仕込みの明朗なテノールの歌声を披露。
東宝移籍後は
壮年にさしかかるとバイプレーヤーとして脇に回り、
『土曜ショー』の司会者をしたことをきっかけにテレビの仕事が増え始め、
1970年代からは本格的にテレビに進出して司会業を行います。
料理番組『ごちそうさま』や
クイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』などの司会業の他、
『ゴールデン洋画劇場』では映画解説をつとめ、
いずれも長期に渡る人気番組のホスト役として活躍。
1970年代半ばには暴飲暴食により、糖尿病を発病。
一時は体重が120kg近くになりましたが、
和食中心の食事にして3年後に体重を70kg台に落としました。
1980年代後半に
次男の政宏、三男の政伸がともに俳優としてデビュー。
以降は芸能一家の代表格として親しまれます。
1993年からは家族4人共演でファミリーコンサートを定期開催。
1995年に実家が阪神・淡路大震災で被災して全壊。
糖尿病を発症して以後、
一時禁酒しましたがダイエットに成功した頃より飲酒を再開。
不眠症で酒と睡眠薬に頼り、眠る日々で、
アルコール依存症になっていました。
1971年から1996年までの25年間続けて
愛着のあった仕事である『ごちそうさま』の司会交代や
母親が入院(2000年死去)したことなどがきっかけで、
1998年に重度のうつ病を発症し、
レギュラー番組の
『ゴールデン洋画劇場』『暴れん坊将軍』など4本降板し、治療にあたります。
翌年に症状が改善したことから仕事復帰し、
復帰初仕事のトーク番組『徹子の部屋』の出演の際にうつ病だったことを告白。
しかし無理がたたって再発し、
再び療養していましたが、
2004年ごろから徐々に芸能活動を再開、
2007年春から完全復帰。
以降は家族とともにうつ病への理解を深める活動を行っていました。
高島の闘病生活は
2007年6月にドラマ化(ドキュメンタリー・ドラマ『うつへの復讐 〜絶望からの復活〜』、日本テレビ、6月26日放送)。
さらにパーキンソン病を発症し、
2010年には不整脈のため心臓にペースメーカーを取り付ける手術を行いました。
2013年6月18日には
「カスペ!」(フジテレビ)で『独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」〜寿美花代・献身愛で闘う夫の病〜』と題し、
5年ぶりにテレビ出演を果たしました。
2017年8月に初孫が誕生。
2019年6月26日13時1分、
老衰のため、都内の自宅にて死去。
88歳没。
(高島忠夫)
ハーレーダビッドソン創始者直系の孫で、デザイナーとしてさまざまな名車を生み出してきたウィリー・G・ダビッドソンが90歳の誕生日を迎えた。
公式では年齢や誕生日は非公表だが、世界中のSNSで祝福するメッセージが溢れた。
山形勲さん
(1915年7月25日-1996年6月28日)
俳優。
軽業師の父親の巡業先であったイギリス・ロンドンで生まれ、
東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で育ちます。
1935年に日本俳優学校を卒業。
兵役を経て1936年に東宝劇団に入団。
1942年、
佐佐木隆、鈴木光枝、山村聡らと劇団文化座を結成。
同座には1953年まで在籍。
1949年、『斬られの仙太』で映画に初出演。
1953年、
大映初の総天然色イーストマンカラー映画で
第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した映画『地獄門』(衣笠貞之助監督)に
京マチ子の夫役で準主演し、注目されました。
のちに定着する悪役のイメージとは全く異なる善人を演じています(主演の長谷川一夫が悪役を演じています)。
しだいに悪役として注目され、
その後は東映時代劇に多く出演、
主に悪役として活躍するかたわら、
テレビ時代劇では、
『剣客商売』の秋山小兵衛役で主演。
また、
『水戸黄門』では第1部から第18部まで柳沢吉保を演じ、はまり役と言われました。
現代劇では、
映画『不毛地帯』(山本薩夫監督、1976年)で主人公を招き入れる商事会社社長役など、
大学教授・会社重役・高級官僚などの役を演じることが多数。
1988年に勲四等瑞宝章を受章。
1995年のNHKドラマ『されどわが愛』のロケ参加後に入院、
1996年6月28日午前6時15分に若いころから患っている肺結核のため、
東京都府中市の東京都立府中病院で死去。
80歳没。
(山形勲)
斎藤晴彦さん
(1940年7月30日-2014年6月27日)
俳優。
東京都文京区(旧東京府東京市本郷区)湯島天神下出身。
早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。
大学卒業後、
小劇団「劇団青俳」「発見の会」の団員を経て、
1969年に「演劇センター68/69」(後の「黒テント」)に定着。
活動の中心は小劇場などでの舞台公演でしたが、
1986年にKDD(現・KDDI)のCM内でクラシックの
『カルメン』の替え歌を披露したことで注目を集めました(これは『クインテット』〈NHK〉にも生かされています)。
後に『女は軽麺』と新たな作詞を自ら行って正式に歌手デビュー。
これがきっかけとなり、
タモリの『今夜は最高』にゲスト出演。
替え歌オペラのコントで和田アキ子らと共演し、
一連のクラシック音楽の替え歌を行いました。
1980年代には東映制作の特撮ドラマに多数出演。
1986年からは『11PM』のメイン司会を2年にわたって務めました。
死去した小鹿番の後任で
『放浪記』での菊田一夫役などを演じていました。
2014年6月27日、
自宅がある吉祥寺の路上で倒れ、搬送先の東京・三鷹の病院で心不全のため、死去。
73歳没。
生涯、独身でした。
 
(斎藤晴彦)
中江真司さん
(1935年4月20日-2007年6月28日)
男性俳優、声優、ナレーター。
東京都出身。
鎌倉学園中学校・高等学校卒業。
友人の影響もあって芝居の道を目指すことになり、
1958年5月、
中部日本放送劇団(劇団CBC)に4期生として入団(8月に団員契約)、
生放送時代のテレビ・ラジオドラマの仕事を開始。
1963年、上京して劇団現代劇場に入団。
1967年、テアトル・エコーへ移籍。
舞台、テレビを中心に活躍。
1988年、青二プロダクション所属。
昼ドラマ『ライオン奥様劇場』をはじめとして、
特撮『仮面ライダー』やドラマ『特捜最前線』などの
オープニングナレーション、時代劇などは「ドラマの中江」と言われるほど有名であり、
以降も、
『仮面ライダー』から『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』までの『仮面ライダーシリーズ』や、
同作のパロディである『仮面ノリダー』や
藤岡弘が演じたCMシリーズ『せがた三四郎』などのナレーションを多く務めていました。
アクションものはテアトル・エコーへの移籍以降増えていったといいます。
オペラ歌手以上の声帯を持った美声でやや高声、
喋り方も早かったですが、
以後は低声での淡々とした語り口を特徴としました。
先妻は声優の平井道子でしたが1984年に死別し、
友人の納谷六朗からの紹介で1988年に再婚。
2002年以降、
フジテレビ『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』のナレーションを機に新境地を拓き、
この路線で数多くのCMに起用されるように。
2006年頃からは
任天堂のゲーム機及び関連ソフトのCMを担当することが多くなりました。
2004年肝臓癌を公表、2007年に体調を崩して静養。
ナレーションの一部は窪田等や大友龍三郎が代役を務めました。
2007年6月28日午後0時30分、
肝細胞癌のため東京都小金井市の聖ヨハネホスピスにて、
72歳で死去。
(中江真司)
五代目古今亭志ん生さん
(1890年6月28日-1973年9月21日)
明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。
生前は落語協会所属。
出囃子は「一丁入り」。
戦後を代表する落語家の一人と称されます。
(経歴)
・1890年6月28日-神田区神田亀住町に出生。
浅草区永住町127(現在の台東区元浅草2丁目)に転居。
浅草区北稲荷町51(現在の台東区東上野5丁目)に転居。
・1904年-北稲荷町から浅草区浅草新畑町4(現在の台東区浅草1丁目)に転居。
・1905年頃-博打や酒などの素行不良が重なり家出。
・1907年-芸事好きが嵩じて落語のセミプロに。
この頃、三遊亭圓盛の下で「盛朝」。
・1910年-二代目三遊亭小圓朝に入門、「朝太」の芸名でプロの落語家に。
・1916年-二ツ目昇進、「三遊亭圓菊」に改名。以降、目まぐるしく改名を繰り返します。
・1918年-四代目古今亭志ん生門下に移籍し、「金原亭馬太郎」に改名。
・1920年-谷中清水町(現在の台東区池之端4丁目)に転居して下宿生活を送ります。
・1921年9月-真打昇進、「金原亭馬きん」に改名。
・1922年11月-清水りんと結婚。
・1923年-北豊島郡滝野川町大字田端185(現在の北区田端1丁目)に転居。
・1924年1月12日-長女・美津子誕生。
・1925年
4月-三代目小金井芦州門下へ移籍。
講釈師になり「小金井芦風」を名乗ります。
9月-師匠の三代目小金井芦州逝去により落語家に戻ります。
10月7日-次女・喜美子誕生。
・1926年-豊多摩郡代々幡町大字笹塚(現在の渋谷区笹塚)に転居。
・1927年
初代柳家三語楼門下に移籍して「柳家東三楼」と改名。
代々幡町大字幡ヶ谷(現在の渋谷区幡ヶ谷)に転居するも、すぐに元の笹塚の家に戻ります。
・1928年
1月5日-長男・清誕生。
4月-本所区業平橋1丁目12(現在の墨田区業平1丁目)のいわゆる「ナメクジ長屋」に転居。
・1934年9月-「七代目金原亭馬生」を襲名。
・1936年2月26日-浅草区浅草永住町(現在の台東区元浅草)に転居。
・1937年8月-本郷区駒込神明町338(現在の文京区本駒込)に転居。
・1938年3月10日-次男・強次誕生(戸籍上は3月11日)。
・1939年3月-「五代目古今亭志ん生」を襲名。
・1943年8月-長男・清が入門。
・1945年
4月13日-空襲で罹災。本郷区駒込動坂町327(現在の文京区千駄木)に転居。
5月6日-満洲に慰問に出るもそのまま終戦を迎えて帰国できず、およそ1年8か月を現地で過ごします。
・1947年1月27日-満洲から帰宅。
・1951年11月-日暮里町9丁目1114(現在の荒川区西日暮里3丁目)に転居。
・1953年7月1日-ラジオ東京と放送専属契約を結びます。
・1954年7月1日-ラジオ東京と放送専属契約を解除し、ニッポン放送と放送専属契約を結びます。
・1956年
6月-『なめくじ艦隊』発行。
12月-文部大臣賞(現芸術祭賞)受賞。演目は郭噺の「お直し」。
・1957年
2月-落語協会の会長に就任。戦後4人目の会長。
4月-次男・強次が入門。
1961年12月15日 - 脳出血で倒れて入院する。
・1962年
3月1日-退院。以降、自宅で療養。
11月11日-新宿末廣亭で高座復帰。
・1963年7月-落語協会会長を辞任。
・1964年
4月-『びんぼう自慢』発行。
11月-紫綬褒章を受章。
・1967年
妻・りんが脳出血で倒れます。
勲四等瑞宝章受章。
・1968年10月9日-精選落語会に出演。これが最後の高座に。
・1971年12月9日-妻・りんが逝去。
・1973年9月21日-逝去。
(家族) 
・長女-美濃部美津子
・次女-美濃部喜美子
・長男-十代目金原亭馬生
・男児-十代目馬生と三代目志ん朝の間に男児がいましたが、生後まもなく夭折。
十代目馬生の墓所を移設する際に馬生と志ん朝の遺骨の間に小さな骨壷が発見され、発覚。
・次男-三代目古今亭志ん朝
・孫-池波志乃(十代目馬生の娘)
[五代目古今亭志ん生]
霧島昇さん
(1914年6月27日-1984年4月24日)
戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。
福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。 1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。
福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生誕。
小学校を卒業後上京し、
中学に通いながらボクサーを目指すも断念、
テノールの藤原義江のレコードを聴き、
日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、
苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。
浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら
吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』が
コロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、
1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。
同社の看板スターであった松平晃を目標として歌唱技術を磨き、
松平にはないテノールの甘い声質と邦楽的技巧表現を生かしました。
翌1937年(昭和12年)に『赤城しぐれ』でデビュー。
1938年(昭和13年)に
松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を
当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名)と共に吹き込み大ヒット。
発売1年間で120万枚を超え日本のレコード史上初めてのミリオンセラーとなりました。
1939年(昭和14年)にミス・コロムビアと結婚。
前年に吹き込んだ『旅の夜風』が縁結びとなりました。
その後も
『一杯のコーヒーから』『愛染夜曲』『愛染草紙』『純情二重奏』『誰か故郷を想わざる』『新妻鏡』『目ン無い千鳥』『蘇州夜曲』『相呼ぶ唄』『そうだその意気』『若鷲の唄』『勝利の日まで』
などのヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれました。
特に誰か故郷を想わざるは初めは全くヒットしなかったですが
売れないレコードを恤兵慰問品として慰問袋に詰め中国大陸の兵隊に送ったところ、
望郷の念に晒された兵士の間で良く歌われ、
日本の内地へ逆輸入される形になり国内でも爆発的なヒットとなりました。
半年で70万枚を超えるビッグヒットとなり、
戦後もNHKののど自慢などで良く歌われ大変息の長い傑作となりました。
作詞の西条八十、作曲の古賀政男、歌った霧島昇の代表作に。
1943年(昭和18年)、召集令状を受け、
大日本帝国海軍横須賀海兵団に入隊。
すでに極度の近眼のため徴兵検査で不合格となっていましたが、
霧島のファンである海兵団の伊藤竹夫大佐が
軍医長に命じ、身体検査をパスさせました。
海軍では、
情報蒐集及び宣伝を主任務とした副長付班に所属。
戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに
『麗人の唄』『三百六十五夜』『旅役者の唄』『胸の振子』『旅の舞姫』『夢去りぬ』『赤い椿の港町』『ギター月夜』『白虎隊』『石狩エレジー』
などのヒットを放ちました。
生涯に吹き込んだ数は3千曲超え。
NHK紅白歌合戦にも5回出場しましたが、
霧島は無口で真面目な人柄で、極度のあがり症だったといいます。
おしどり夫婦として知られ、
松原との間に4人の子供をもうけました。
息子の坂本紀男は東京音楽大学主任教授で、
『思い出のメロディー』(NHK総合)に出演し、
父の代表曲を歌ったことがあります。
紀男の他に娘が3人おり、
三女の大滝てる子は母の芸名を継ぎ
「二代目松原操」として両親の楽曲を歌い継いでいます。
霧島は1984年(昭和59年)4月24日、
腎不全のため69歳で死去し、
東京都港区の長谷寺に葬られました。
妻の松原も霧島の死から2か月後の同年6月19日に73歳で死去。
(霧島昇)
小野ヤスシさん
(1940年2月11日-2012年6月28日)
タレント、コメディアン、俳優、司会者、ミュージシャン。
鳥取県境港市出身。 
自称「鳥取が生んだ天才“スーパースター”」。
父親の仕事の関係で日本統治下の朝鮮元山市に生まれ、
幼少の頃に日本に引き揚げてきました。
鳥取県立境高等学校卒業、成城大学文芸学部中退。
「ザ・ドリフターズ」の初期のメンバーで、
1960年「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」とグループ名を変更後、正式に参加り
1964年に、
桜井輝夫の脱退後にリーダーの座を譲られた碇矢長一のワンマン体制に不満を持ち対立。
その小野に同調したドリフのメンバーだった
ジャイアント吉田・飯塚文雄・猪熊虎五郎と共に4人で脱退。
これに祝勝を加え、
コミックバンドである『ドンキーカルテット』を結成し、
演芸ブームの追い風の中、人気を獲得。
1970年、
ブームの方も下火となり6年間活動を続けて来たドンキーカルテットは解散。
以降はタレントへ転身し、単独で活動。
バラエティ番組では
司会やリポーター・ゲスト等に出演し、
映画やテレビドラマではコミカルなバイプレーヤーとして活躍。
フジテレビ系列「スターどっきり(秘)報告」ではレポーターを務め、
さらに司会を10年以上の長きに渡り担当。
同番組では『キャップ』と呼ばれ親しまれていました。
1995年7月、
第17回参院選に自由民主党推薦の無所属で
鳥取県選挙区から立候補しましたが落選。
自身を「鳥取県が生んだ自称スーパースター」と名乗っていた様に
鳥取県への郷里愛は強く、
1996年から毎年11月に出身地の境港市に著名落語家や芸能人を招いて
『境みなと寄席』を開催し、自らも司会を務めるなどしていました。
2000年代以降は
アサヒ緑健提供の青汁PRの為のトーク番組の司会や、
旧知の仲で大親友の加藤茶・仲本工事と3人で結成したコミックバンド『加トちゃんバンド』での公演活動、
PS2ソフト『ヘビーメタルサンダー』において「小野ヤスシ似」というキャラの声を担当し、
ゲーム内の番組『重金属アワー』にて司会を行いました。
2010年1月に腎盂腫瘍で右腎臓を全摘出。
2010年3月に開いた自らの芸能生活50周年記念パーティーの席上で、
これががんによる手術であることを公表。
それ以降は治療に専念しつつ、
体調を見ながら芸能活動を継続していましたが、
2012年6月28日、腎盂がんのため都内の病院で死去。
72歳没。
(小野ヤスシ)
2023/6/26 今日はジェリー藤尾さん(1940年6月26日~)の生まれた日です。歌手としては『遠くへ行きたい』をヒットさせ、俳優としても『どですかでん』など個性的な役を演じています。晩年は『やすらぎの刻~道』に久々に出演して話題になりました。
愚連隊に入りやさぐれてた青年時代、ジャズ喫茶で歌っていたところをマナセプロからスカウトされて芸能界入りしました。やさぐれていた過去から、芸能界一喧嘩が強い男として知られ、実際に武勇伝もいろいろあったようです。たとえば、目尻には傷がありますが、その勲章とも言われています。
俳優としては、世界のクロサワの映画『どですかでん』や、岡本喜八監督のヒット作『独立愚連隊』などに出演しています。
『どですかでん』では、くまん蜂の吉という、誰彼となく喧嘩をふっかける役でした。デフォルメしたアクションで啖呵を切るのですが、スラムの住人には誰一人手をかけることはしません。ガチで喧嘩したらこんなもんじゃにないだろうにと思いますが、喧嘩慣れしている人でないとできない役かもしれません
ジェリー藤尾は、同じ時期に歌っていた渡辺トモコ(渡辺友子)と結婚。幸せファミリーとして、番組の司会やCMなどに出演していました。ところが、突然、渡辺友子が家を飛び出して別居⇒離婚。
渡辺友子が、ジェリー藤尾の浮気やDVが原因であると述べ、それに対してジェリー藤尾は反論など同じ土俵には立たなかったので、芸能マスコミはジェリー藤尾をいっせいに叩きました。
ところが、離婚の際、2人の娘は父である藤尾の側に付き、長女は「あの人は人間のクズ」と、渡辺友子の乱れた素行や男性関係を暴露しました。
そのスキャンダルの余波でジェリー藤尾は仕事が減り、田園調布の豪邸を売却。それでも、「(嫁いだ)娘の世話になる気はさらさらない」として、再婚もせず、有料老人ホームで暮らしながら、『やすらぎの刻~道』の撮影に参加しました。
子供の頃は差別され、離婚時は誤解され、家も失うなど辛いことも多々あった人生ですが、そうした陰翳に富む生き様は、古くからジェリー藤尾さんを知るファンにとっては、畏敬の存在にすらなっているようです。

♥️2023💃6/27 優香(43歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

佐野浅夫さん
(1925年8月13日-2022年6月28日)
俳優・声優、童話作家、実業家。
身長168cm。
神奈川県横浜市(現在の区分では保土ケ谷区)出身。
実家は相模鉄道天王町駅近くの青果商。
神奈川県立横浜第三中学校卒業。
中学校の同期生には松山善三。
太平洋戦争下の1943年(昭和18年)、
日本大学芸術学部在学中、
同窓の高山象三に誘われて
劇団「苦楽座」に入団したことで俳優人生を歩み出します。
18歳で入団した苦楽座では最年少で皆に可愛がられました。
1945年、
苦楽座は中国地方を慰問する移動演劇「櫻隊」に改称。
同年3月、
佐野は本土決戦に備える特攻隊に応召し、劇団を離れました。
丸山定夫、園井恵子、仲みどりら劇団員9人は
8月6日の広島市への原子爆弾投下により後に全員が死亡し、
櫻隊はこれにより壊滅。
佐野は軍隊を抜け出して、
日本の敗戦後の8月20日頃、
東京大学医学部附属病院に仲を見舞いました。
仲間の消息を訊こうとしましたが、
仲はベッドに寝たきりで何も訊けず、
病室を後にしました。
「これまでは自分だけが生き残ったことが後ろめたかった。
しかし、仲間を知る人がいなくなった今こそ」と
62年間の沈黙を破り、
2007年8月6日(月曜日)に東京都目黒区の五百羅漢寺で
仲間への思いを初めて語り追悼。
戦後、劇団民藝の結成に参加。
1971年の内部での対立により、
下條正巳、鈴木瑞穂、佐々木すみ江らと共に退団。
TBSテレビ系列のホームドラマや時代劇に多数出演。
1993年から2000年まで『水戸黄門』で
3代目水戸光圀役を演じたことで特に知られます。
初代東野英治郎・2代目西村晃とは一味違い、
庶民的で優しく慈悲深い「泣き虫黄門様」として親しまれました。
光圀役に決まった時、東野英治郎に挨拶し、
初代を長く演じて分身みたいなもので、
他人が演じるのは嫌だと感じているだろうと思っていたら
「よかった」と喜んでもらえて、本当に嬉しかったと回想。
光圀役としての出演回数は246回、
太秦にある東映京都撮影所では自転車を乗り回していたといいます。
NHKラジオ第2放送の『お話でてこい』では、
童話の朗読役として4000回を超える放送をこなしました。
創作童話の執筆にも取り組み、
『せん爺さんの太鼓』などの著書があります。
これらの功績を讃え、
2001年に広島大学からペスタロッチー教育賞を授与されています。
1996年、勲四等瑞宝章を受章。
1998年に先妻・英子夫人に先立たれ、
芸能活動を休止しましたが、
2000年2月に21歳年下の育子夫人と再婚。
育子夫人と前夫(川村姓)との間の長男は大学教員、次男は競輪選手の川村晃司。
2代目助さん及び5代目光圀役の里見浩太朗は従甥で、
浩太朗の長男の佐野圭亮は族子。
2006年5月2日(火曜日)放送の
『名奉行! 大岡越前』第2シリーズ第三話 「仇を追って40年…男と女、愛と憎しみのお白州!」にゲスト出演、
これが事実上の最後のドラマ出演となりました。
さらに2008年に脳梗塞を発症し、
その影響で視力が悪くなったために活動を控えるように。
2009年11月10日に亡くなった森繁久彌の葬儀には参列したほか、
2013年時点では『水戸黄門』ドラマ当時の衣装を着て
高齢者施設を訪問するボランティア活動を行っていました(89歳当時の2014年12月10日に撮影された写真も残されています)。
また里見浩太朗によれば
2019年にNHKで放送された『スローな武士にしてくれ』の撮影時、
京都撮影所に撮影見学に来ていたといいます。
2022年5月12日に肺炎を起こし、約3週間入院。
2022年6月28日(火曜日)午後9時59分、
老衰のため京都市内の自宅で死去。
96歳没。
(佐野浅夫)
三波伸介さん
(1930年6月28日-1982年12月8日)
コメディアン・俳優・司会者・タレント。
昭和期を代表するテレビスターのひとり。
東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。
長男は喜劇役者の二代目三波伸介。
当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。
本郷区根津にて5人兄弟の三男として誕生。
実家家業は
銀座木挽町でテイラー(オーダーメイド紳士服)店舗を構え仕立工場を持つ比較的裕福な家庭環境に育ちます。
杉並第一国民学校(現・杉並区立杉並第一小学校)に入学。
国民学校4年生時であった1940年、
児童劇団「東童」に加入し芸能活動を開始。
戦後、
日本大学第二高等学校卒業後に進学した日本大学芸術学部映画学科は中退。
後に浅香光代一座に参加。
ここの座員には戸塚睦夫や客演などで玉川良一が出入り。
その後東洋興業系劇場に入り、
ここの座員で石井均と追って加入した戸塚が
夜間行っていたキャバレー回りの余興営業を石井の都合から代わって引き継ぎました。
「三波・戸塚コンビ」で
夜はキャバレーステージ、昼間は劇場座付で舞台と
活動をしていましたが突然出奔し中座、
大阪へ単身で乗り込み1年余、
玉川良一、東けんじらとコント「おとぼけガイズ」を結成し
おもに大阪劇場に出演していた時期も。
「おとぼけガイズ」を解消後は
1961年東京の舞台に復帰し三波は個人として太田プロダクションに所属する一方、
キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった伊東四朗が
「三波・戸塚コンビ」として継続。
「(ニセ)三波伸介」として馴染み人気になっていた伊東を外す訳にはいかず.
あらためて
「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫。」と
キャバレーの司会者に自己紹介し
「三波戸塚伊東トリオ」の3人で営業活動を再開し、
あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名。
「裕次郎はタフガイ、小林旭はマイトガイ、三波伸介はモンダイガイ(問題外)」と
笑いを取って名を売り、
三波のもう一方の顔である「ぐうたらトリオ」を制作担当達に紹介し熱心に売り込み、
結果トリオのテレビ出演に成功。
これに注目した日劇から出演依頼が舞い込んできました。
出演に際してグループ名の「ぐうたらトリオ」には品位が無いと
一方的に「てんぷくトリオ」へ改名させられましたが、
これ以降
三波伸介、戸塚睦夫と伊東四朗の三人組は
舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博します。
流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれました。
1970年12月20日に日本テレビ『笑点』の3代目司会者に就任。
そのきっかけは、
同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、
飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。
当時はまだ司会経験が浅かったものの、
元々落語に造詣が深かったこともあり、
並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切り、
この時の司会が好評で、
三代目司会者にすんなり収まりました。
豪快な外見とは裏腹に繊細で研究熱心、
台本を読み込み流れをシミュレーションして収録に臨んでいました。
大喜利では、
立川談志(初代司会者)時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから、
落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような分かり易いドタバタ路線に変更。
家族で楽しめる笑いにこだわり、
番組自体の人気を上げたことはもちろん、
自身がピン芸人としてブレイクするきっかけとなりました。
1973年5月12日、
三波が笑点の収録へ行った矢先に戸塚が肝硬変のため、42歳で死去。
三波は戸塚の死去を知り、深い悲しみに陥ります。
その後、
戸塚の遺志のために残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けました。
その後「てんぷく」の活動を抑え、
個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。
NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、
毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、
自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称しました。
また、
フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会を
1974年4月から1976年3月まで務めた他、
同局『スターどっきり(秘)報告』や
毎日放送・TBS『伸介のグリコがっちりショッピング』、
東京12チャンネル→テレビ東京『三波伸介の凸凹大学校』などの司会を務めました。
『三波伸介の凸凹大学校』収録翌日の
1982年12月8日15時過ぎ、
明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを、
外出から戻って来た妻の和子と付き人の波連太郎が発見、
救急車で病院へ運ばれましたが
既に呼吸・心停止の意識不明状態で、
解離性大動脈瘤破裂により、意識は戻らないまま急逝。
52歳没。
(三波伸介)
山下清展に行きました。
大正11年生まれの画伯は49歳の時脳溢血で逝去。
最期の言葉は次、どこの花火を見に行こうか。だったとか。
長岡の花火は代表作ですけど、この魚も気に入りました。
ザ・スリー・ディグリーズのメンバーだった、Fayette Pinkney(フェイエット・ピンクニー、1948年1月10日~2009年6月27日)さんが亡くなった日です。ザ・スリー・ディグリーズがもっとも注目されたときのメンバーで、脱退後はソロ活動とともにカウンセラーやボーカルコーチとして働いていました。
結成は1963年で、初期のメンバーはフェイエット・ピンクニー、シャーリー・ポーター、リンダ・ターナーです。グループ名は、小悪魔的なイメージを表現しています。フィリー・ソウル版のスプリームス的な存在といわれました。
メンバーの入れ替えが2度あり、When Will I See You Again(天使のささやき)が、1974年東京音楽祭世界大会で金賞を受賞し、日本語版もリリース。そのときのメンバーが、シーラ・ファーガソン、ヴァレリー・ホリデー、そしてフェイエット・ピンクニーです。
1976年にグループを脱退していますが、英語版のWikiによると、「管理者リチャード・バレットにより解任される」と記載されています。日本ではこういう場合、“卒業”と称するのですが、日本はあいまいな表現が好きですね。
その後はソロ・アルバムも発表しましたが、80年代以降は大学に入り心理学と社会福祉を学び、テンプル大学で修士を取得してカウンセラーとしても活躍していたようです。
そして、1994年には46歳で娘を出産。しかし、突然の幼児死症候群のために2日後に亡くなりました。
さらに2009年6月27日には、フェイエット・ピンクニー自身が急性呼吸不全で亡くなりました。

♥️2023💃6/28 藤原紀香(52歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/28 水野美紀(49歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/27 本田翼(31歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/28 中村あゆみ(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/29 倍賞千恵子(82歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃6/29 野村克也(84歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

伊東絹子さん
(1932年6月29日-2023年2月14日)
ファッションモデル・女優。
身長164cm。
1953年(昭和28年)のミス・ユニバース・ジャパンで、
同年アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで開催された第2回世界大会(ミス・ユニバース1953)では第3位入賞。
東京府東京市芝区(現・東京都港区芝)に生誕。
東京都立鷺宮高等学校卒業。
高校卒業後、自動車会社の事務員として働き、
1951年(昭和26年)、 
『英文毎日』(毎日新聞社)が開催したファッションコンテストに応募。
東京から20名、大阪から15名の合格者のひとりに。
「毎日ファッション・ガール」の第一期生。
和江商事(のちのワコール)の下着ショーに出たことも。
1953年(昭和28年)5月31日、
ミス・ユニバースの地方予選「ミス東京」に
伊東は「木村ヨウ子」という変名で応募。
伊東が優勝して全国大会に駒を進めます。
同年、
帝国劇場(東京都千代田区丸の内)で開かれた全国大会で児島明子らを抑えて
第2代目のミス・ユニバース・ジャパンに選ばれました。
同年7月17日(現地時間による。日本時間では18日)に
ロングビーチで行われた第2回ミス・ユニバース世界大会に、日本代表として出場。
当時21歳になったばかりだった伊東は、ここで3位に入賞。
伊東はいわゆる「八頭身」がもてはやされ、
敗戦から8年にして日本女性の体形が国際水準に近づいた、と話題に。
同年、
毎日ファッションガールの岩間敬子、香山佳子らとともに、
相島政子を代表とする団体『エフ・エム・ジー』を結成。 
また、
女優として1954年(昭和29年)から1956年にかけて映画・テレビドラマに出演。
1956年(昭和31年)4月4日、
全国装粧品業者大会のファッションショーに出演。
その後はデザイナーを志し、
1957年(昭和32年)にフランスに渡って修業し、
1958年(昭和33年)9月、
銀座みゆき通りに洋装店「伊東絹子の店」を開きました。
1964年8月、シドニーを訪れ日本のシルク製品を着てアピール。
また、
シドニー・オペラハウスで戸倉緑子とともに蝶々夫人の一節を披露。
1968年(昭和43年)には
在フランス日本国大使館員と結婚。
結婚後には一男をもうけ、
芸能活動は行わずに外交官夫人(専業主婦)として過ごしました。
1974年(昭和49年)時点では家族三人でスイスのジュネーヴに居住。
1997年(平成9年)には65歳で京都に居住。
2023年(令和5年)2月14日、
心不全のため東京都内の病院で死去。
90歳没。
(伊東絹子)
小田切みきさん
(1930年6月29日-2006年11月28日)
女優。チャコちゃんこと四方晴美の母としても知られます。
東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現在の東京都渋谷区千駄ヶ谷)生まれ。
幼時より日本舞踊の英才教育を受け、新協劇団で子役として活躍。
1935年、『夜明け前』で初舞台。
1938年、
山本薩夫監督の『田園交響楽』で映画に初出演。
1948年、跡見高等女学校卒業、
1954年、俳優座養成所を第3期生として卒業。
俳優座研究生時代、
1952年に黒澤明『生きる』の志村喬の部下役として抜擢され、
役名の"小田切とよ"から苗字を取って小田切みきを名乗ります。
最終選考の段階では、
とよ役には小田切と左幸子が残っていましたが、
黒澤は自然で少しも飾らない小田切の方を選びました。
後に俳優の安井昌二と結婚、四方姓に。
1970年代半ばは渋谷で小料理屋を営み、
毎日朝4時に起きて魚河岸に仕入れに出かけました。
娘が二人おり、
長女の四方正美、次女の四方晴美ともに子役として人気がありました。
日本舞踊尾上流の名取としては尾上菊生の名前を持ちます。
その他の映画出演作に
『十代の性典』(1953年、島耕二)、『ひめゆりの塔』(1953年、今井正)、『雁』(1953年、豊田四郎)、『太陽のない街』(1954年、山本薩夫)、『警察日記』(1955年、久松静児)、『潮騒』(1971年、森谷司郎)、『親鸞 白い道』(1987年、三国連太郎)など。
テレビドラマ出演作に
『パパの育児手帳』(1962年)、『東京警備指令 ザ・ガードマン』(1965年)、『チャコちゃん』(1966年)など。
永らく芸能活動から遠ざかっていましたが、
2003年、舞台作品『シベリア超特急4』に友情出演。
2006年11月28日午前5時、
心臓疾患のため神奈川県鎌倉市の自宅で死去。
享年76。
(小田切みき)
野村昭子さん
(1927年1月2日-2022年6月29日)
女優。
身長157cm。
夫は、演出家の増見利清(2001年死去)。
特技は、常磐津。
薬剤師免許所持者。
東京市神田区(現:東京都千代田区)生まれ。
「昭子」の名は神田明神に付けてもらったといいます。
実家は医療器具の卸業を営み、裕福な家庭でした。
桜蔭高等女学校(現:桜蔭中学校・高等学校)、
1946年に東京薬学専門学校(現:東京薬科大学)卒業。
薬剤師として東京大学医学部附属病院に勤務していましたが、演劇に魅せられます。
父からは反対する意味で
「鏡に自分の顔を10分間映すように」と言われるも、
10分間眺めたのちに「女優になります」と答え、
1949年に劇団俳優座養成所の第1期生(同期は岩崎加根子)。
1952年に養成所を卒業し、
そのまま劇団俳優座に入団。
千田是也らに鍛えられ、
「完璧に台本を覚えること」「NGを出さないこと」を信条としていました。
代表作の1つである
『家政婦は見た!』で共演していた市原悦子は劇団時代の後輩であり、
自宅も近かったことからプライベートでも親交が深かったといいます。
ほか、
後輩の樹木希林、親子役でドラマ共演した山田邦子なども親交が深かったそうです。
石井ふく子からの信頼も厚かったといい、
『渡る世間は鬼ばかり』では、山岡久乃の後任ポジションを務め、
晩年の代表作となっていました
(なお、野村は山岡とは『夕陽カ丘三号館』、『心』最終話などで共演しており、
山岡の通夜・葬儀にも参列)。
泉ピン子とは40年来の交流があり、
「野村ママ」と呼ばれて慕われていました。
2011年5月10日、橋田賞特別賞を受賞。
愛犬家であり、
自身が演じていた役柄(青山タキ)と同じ名前の
「タッキー」というビション・フリーゼを飼っていましたが、2018年に死亡。
夫との間に子どもはおらず、
2001年の死別後から晩年まで東京都内で独居生活を送っていました。
2022年6月下旬までは
自宅付近で元気な姿を目撃されていましたが、
近隣住民から「野村さんの姿を見ていない」と警察に通報があったため、
7月1日に親族と警察が自宅を訪問したところ、
寝室で倒れていたところを発見され、
死亡が確認されました。
95歳没。
(野村昭子)
地井武男さん
(1942年5月5日-2012年6月29日)
俳優。
千葉県八日市場市(現:匝瑳市)出身。
身長175cm。体重63kg。
千葉県匝瑳郡八日市場町(現:匝瑳市)に8人兄弟の末っ子として誕生。
なお、兄弟は長兄以外は全員女性。
千葉県立匝瑳高等学校卒業後、
石原裕次郎や赤木圭一郎に憧れ、
1963年に俳優座養成所へ第15期生として入所。
同期には
原田芳雄、林隆三、太地喜和子、赤座美代子、
前田吟、夏八木勲、高橋長英、竜崎勝、秋野太作、
栗原小巻、小野武彦、村井国夫、三田和代など
そうそうたるメンバーがいます。
1966年に養成所を卒業。
その後は
串田和美、吉田日出子らと創立メンバーとしてオンシアター自由劇場でも活躍。
その後は主にテレビ・映画で活躍。
岡本喜八監督『斬る』で映画デビューし、
1970年には武田敦監督『沖縄』で映画初主演。
以降、
主演から脇役、悪役からマイホームパパまで、
幅広い役柄を演じ演技派の総合俳優として活躍。
特に活動歴の前半には
岡本喜八、山本薩夫、今井正らの巨匠による社会派・戦争大作と、
日活ニューアクション系の流れを汲む不良性感度の高い作品群が並行しており、
その役柄の幅広さを反映。
この二つの源流は、
良心のかけらもない狂暴冷血な悪役、
誠実そのものの善人役という両極端へと別れていったあと、
1981年『月光仮面 THE MOON MASK RIDER』の
新興宗教系テロリスト幹部だが良心を捨てきれず
粛正される役どころで一種の合一を果たしました。
1982年から、
人気ドラマ『太陽にほえろ!』に、
降板する竜雷太の後任として出演、
1986年の番組終了まで出演。
以後は自然体な中年男性の役が多くなっていきます。
やがてテレビにも進出しタレントとしても活躍、
バラエティ番組やCMにも出演するようになり、
広い世代から認知されていきました。
真木沙織(本名:地井佐和子)と1974年に結婚、
1女をもうけました。
真木は2001年6月に乳癌で他界。
3年後の2004年2月に真木との面識のあった元モデルの女性と再婚。
1995年末には狭心症を患い、
市立札幌病院に1か月ほど入院。
それ以来、
後述する闘病生活まで大病はなかったですが、
これがきっかけとなり、
健康に気を遣うようになり、
また再婚を機にタバコもやめました。
日本の四季、自然、植物を愛することでも知られました。
それを象徴するかのように、
2006年4月3日より、自身のライフワークともいうべき番組となった『ちい散歩』が放送開始。
2012年に自身が病に倒れて終了するまで、
放送1518回、訪問地833か所、総歩数3,227,000歩、総距離数2581.6kmを記録し
約6年続く人気番組となりました。
同番組は昨今の散歩ブームの火付け役となり、
本人も「散歩の達人」として知られるように。
2012年1月30日、
視野が狭くなったため緊急入院し、
精密検査を受けました。
その後、
目の具合はよくなったものの、検査で心臓疾患が判明し、
医師から「無理をすれば心不全を引き起こす可能性がある」と診断されました。
大事を取って芸能活動を休止、治療・療養に専念し、
体調を見て復帰時期を決めると発表。
療養に専念するため
『ちい散歩』のほか『地井武男の音楽旅行』『和風総本家』といった各レギュラー番組を降板。
うち『ちい散歩』は同年2月29日放送分以降、
これまでの放送分から厳選・再編集した名場面集を中心に放送しましたが、
療養長期化のため70歳の誕生日の前日である5月4日を最後に放送終了、
最終回では本人直筆によるお礼のメッセージが読み上げられました。
また『音楽旅行』では3月以降、
布施博ら役者仲間や共演者らが月替わりでパーソナリティを務める形で継続していましたが、
結局9月30日をもって番組終了。
2012年6月29日午前7時5分、
東京都港区の病院にて心不全のため逝去。
70歳没。
(地井武男)
ブルース・リーの影響を受けすぎた男。
ジョン・サクソン(1936-2020)。
皆さんご存知の「燃えよドラゴン」のローパーを演じた役者。
この人の役者人生、自身の出演作品で最も多くの人に観られたであろう「燃えよドラゴン」(1973年)。リーと共演し、撮影が終了後、数ヶ月後にリーは早逝したが、その後ジョンサクソン自身が亡くなるまでの48年間、ブルース・リー回顧イベントや映画の再リリースの宣伝、同じく共演したジム•ケリーやボロ・ヤンらとリーが不在であっても数々のイベントに彼は出ていた。後年、彼は燃えよドラゴンの撮影時の事を「12weeks in Hong Kong」と言う写真誌として出版もしている。又リーとの写真をペンダント化しノベルティとして売った。
彼のWikipediaを読んで欲しいが、そこには如何にリーの死後に影響を受けたが書かれている。恐らく彼はブルース・リーの死後も残影と一緒だったのだろう。
彼の墓石は本人の意向もあったのだろうか?ブルース・リーと同じワシントン州のシアトルに近い レイクビューセメタリーに埋葬され、位置的にもリーの墓石のそばらしい。
彼の出演作(抜粋) 
イタリアでもロケされたオットー・プレミンジャー監督のハリウッド大作の宗教映画『枢機卿』(1963年)。
エンツォ・G・カステッラーリ監督の喜劇風味のマカロニ・ウエスタン『西部の三悪党』(1968年)
クリント・イーストウッドの「シノーラ」(1972年)。
や『エルム街の悪夢』(1984年)
後述のイタリア映画『ビッグ・マグナム77』(1976年)、『地獄の謝肉祭』(1980年)、『片腕サイボーグ』(1985年)
等々多数ある中より一部抜粋しました。リーの原案のTVシリーズの「燃えよカンフー」の1エピソードにも出ている。
ハリウッドでは、トップスターでなくてもTV番組も多く出て、それなりの認知はあった役者だが、やはりこの人の代名詞は、ローパーだと思うのですよ。
左幸子さん
(1930年6月29日-2001年11月7日)
女優。
富山県下新川郡朝日町出身。
妹は同じく女優左時枝。
元夫は映画監督の羽仁進(1959年結婚、1977年離婚)。
娘はエッセイストの羽仁未央。
骨董店を営む両親の三男五女の長女として誕生。
母は華道の指導者でもあったといいます。
東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業後、
都立第五商業高校ならびに國學院大學久我山中学校の体育・音楽教師をしながら
俳優座の委託生となり演技を学びます。
1951年に『家庭よみうり』のカバーガールを務めたことから
新東宝の野村浩将の目にとまり、
1952年に野村の勧めで『若き日のあやまち』に主演。
1957年の『幕末太陽傳』では
遊郭の人気女郎おそめを演じ、
おそめと人気を争う女郎こはるを演じた南田洋子と好演。
そして、1963年、
『にっぽん昆虫記』で貧しい農村で職業を転々としながら売春組織の元締になっていく女性を演じ、
『彼女と彼』と合わせて日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得。
1965年、
『飢餓海峡』では純朴な娼妓・杉戸八重を演じて
毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。
一方、1977年には『遠い一本の道』監督・主演。
当時の国鉄労働組合が1億円の資金を提供し、
田中絹代に次ぐ女優監督となりました。
テレビドラマでは
『北の家族』(1973年)『赤い絆』(1977年~1978年)『大市民』『野のきよら山のきよらに光さす』などに出演。
1965年1月4日から1965年5月31日まで
音楽番組『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会も担当。
1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演しましたが、
新東宝、日活、大映に短期間所属したことはあるものの、
五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。
私生活では、
1959年に映画監督の羽仁進と結婚。
1964年に長女・未央を出産。
しかし、
1973年に羽仁が未央を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、
これに未央とともに同行した左の実妹(四女)で
当時羽仁のマネージャーを務めていた額村喜美子と不倫関係にあったことを人づてに知り、
ショックを受け自殺を図るも事なきを得ました。このこともあり1977年、
離婚し未央は父側に付き、
羽仁はその4ヶ月後の11月8日、喜美子と再婚。
1987年、胃癌のため胃の摘出手術を受けました。
1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしましたが、
その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心に。
晩年は『快傑熟女!心配ご無用』(TBS)のレギュラーパネリストとして出演。
2001年に入ってからせき込むようになり検査を受けた結果肺がんが見つかり、
9月下旬に国立がんセンターに入院するも、
10月下旬に容体が急変し危篤に陥りました。
2001年11月7日(水曜日)午後8時40分、
国立がんセンターで親族に囲まれ、息を引き取りました。
71歳没。
(左幸子)

フィフティーズファッション、グッズのクリームソーダの財布と、キーフォルダーです‼️

~電線音頭~
当時楽しませてもらってましたが、元は桂三枝(現桂文枝)さんだった事は知らなかった私です😅
小松政夫さん演じる「政太郎」と「しらけ鳥」
名コンビだったなぁ~と思います···😅
お疲れさまです🙇
現在も人気のハイチュウ
こちらは1983年の広告だそうです
男の子はわかりませんが
女の子は武田久美子さんですよ😊
キャッチコピーもいいですね✨✨

♥️2023💃7/1 明石家さんま(68歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

★サミー・デイビスjr. ★ サントリーウイスキー🥃 TV CM。インパクトあったなぁ〜。リズミカルなハミング、指輪でガラスボトルを打ち鳴らし、最後に一言決めゼリフ「ん〜サントリー❗️」😋