Apex product 【 昭和の楽しい時代 66 】

「ハイスクール・ララバイ」
           イモ欽トリオ
https://youtu.be/NiqGDDG4wxY?si=c1Ai4FZONxTJgMrD
1981年   フジテレビ系バラエティ番組
「欽ドン!良い子悪い子普通の子」から誕生
したユニットのデビューシングルでした♬
テクノポップとエアー楽器、コントを合わせたエンタメ曲でしたね🎸🎹
今の時代に聴いても新鮮で楽しいです♬💕

自分が…子供の頃は、どっちがどっち!だか 

分かりませんでした😅🤣

楢山節考
この地域、当時は70歳になると!
重厚な映画ですね!

水木英二〔出門ヒデ〕、日活ニューフェイス第6期生、ソロ歌手~デュエット歌手に、初代⭐ユキ〔佐藤由紀〕とヒデ⭐二代目✨ユキ〔矢野育子〕とヒデ✨、68年✴ヒデとロザンナ✴を結成。

放浪の画家 山下清
(1 )昭和30年11月大阪・住吉大社にて 
(2)〜(7)山下清氏の作品
昭和29年(1954年)1 月10日の報道記事
3年前(昭和26年)千葉県市川市の八幡学園を出て行方がわからなかった天才画家山下清氏(31 )は、鹿児島駅前のバス停留所に寝泊まりしているところを見つかった。
当時の山下氏の話
「ボクは暖かくなると飛び出すクセがあり、絵をかく生活と人から物をもらって暮らすルンペンとどちらがよいか考えルンペンの方が気楽と思って3年前の5月3日に学園を飛び出し、常磐線沿いに仙台まで歩いた。
1日3〜4里歩いては、駅の待合室やお宮、お寺で寝ることにしている。
食物のほかに金をもらったら汽車賃に貯めて決してムダ使いしない主義だ。
仙台から山形〜郡山〜新潟を経て高崎から横浜に出た。東京にはあきており、横浜から岐阜まで歩いた。
岐阜から汽車で門司に着き昭和27年の正月は、鹿児島で迎えた。鹿児島は暑くなるので4月に鹿児島をきり上げ新潟に行った。
そしてまた寒くなると鹿児島に来るわけで今度で3度目。母も年寄りだし、かわいそうだが弟や妹がいるからそう心配はない。
いい景色をみると絵をかきたいと思うこともあったが、ゴッホもルソーも、そんな人は全然知らない。ルンペンで一生終わるかもしれない」
山下清画伯の描いた、色彩鮮やかな作品が大好きです。
昭和44年 東京の大雪
皆さま気をつけて下さいね
ベルトクイズQ&Q
平日放送だったので、観られるのは学校が休みの時でした。
山田五十鈴さん
(1917年2月5日-2012年7月9日)
女優。
愛称は「ベルさん」。
位階は従三位。
戦前から戦後にかけて活躍した、
昭和期を代表する映画女優の1人。
時代劇映画の娘役を経て、
溝口健二監督の『祇園の姉妹』で地位を確立。
以来、優れた演技力で数多くの名作に出演。
1960年代以降は舞台女優として活動し、
水谷八重子、杉村春子とともに「三大女優」と呼ばれました。
また、
テレビドラマ『必殺シリーズ』では女仕事人役を演じて人気を獲得。
2000年(平成12年)に女優として初めての文化勲章を受章(ただし、受章辞退者を含めれば杉村が初)。
生前に
月田一郎、滝村和男、加藤嘉、下元勉との結婚歴があり、
女優の嵯峨三智子は月田との間に生まれた娘。
キャシー中島さん
(Kathy Nakajima、1952年2月6日 -)
タレント。
日本におけるハワイアンキルトの第一人者。
ハワイ・マウイ島出身で、神奈川県横浜市育ち。
父はアイルランド系アメリカ人の軍属で、
母は日本人。
勝野七奈美(モデル・歌手)、
勝野雅奈恵(女優)、
勝野洋輔(俳優・手芸家)の母。
寿美花代さん
(1932年2月6日-)
女優、タレント。
宝塚歌劇団の元星組男役トップスター。
宝塚歌劇団時代の愛称はマッちゃん。
兵庫県西宮市出身。
久松松平氏の流れをくむ名家に出生。
戦時中は岐阜県下呂市の親族の元に縁故疎開。
芦屋高等女学校(現:芦屋学園中学校・高等学校)を経て、
1948年、宝塚歌劇団に入団。
宝塚歌劇団35期生。
宝塚時代の配属組は月、星、声楽専科の順。
『春のをどり』で初舞台。
宝塚入団時の成績は46人中35位。
1951年、『蜜蜂の冒険』の代役で主役ペーアを演じ、
1952年、『猿飛佐助』で初主演し、
その人気はブロマイドの売り上げ1位になるほど。
1953年には
『アンニー・ローリー』で宝塚新人演技賞を受賞。
1958年、
『三つのワルツ』で
淀かおる、大路三千緒とともに芸術祭奨励賞(大衆芸能の部)を受賞。
1960年の『華麗なる千拍子』では
芸術祭賞、テアトロン賞を受賞。
翌1961年にも上演され出演。
それまでの男役とは違い、
パイナップルの女王役で網タイツの脚線美を披露した場面が話題をさらいました。
同1961年12月31日、
第12回NHK紅白歌合戦に初出場。
在団中は男役で活躍する一方で、映画に外部出演。
1963年、高島忠夫との結婚のため、
花・星組合同公演『タカラジェンヌに栄光あれ』を最後に退団。
高島との結婚後は、
『ごちそうさま』に夫婦で長年出演するなど、
主にテレビ番組で活躍を続けました。
平成以降、
『平成教育委員会』や『ちちんぷいぷい』などの
バラエティ番組にも単独で出演。
2014年、
古巣・宝塚歌劇団100周年記念で創設された
『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入り。
津嘉山正種さん
(1944年2月6日-)
俳優、声優。
妻はオペラ歌手の成田絵智子。
身長176 cm、体重77 kg。
沖縄県那覇市出身。
幼少時、
沖縄戦でアメリカ軍が上陸後に設置した収容所に入れられた経験を持ちます。
沖縄県立那覇商業高等学校卒業。
琉球放送に勤務する傍ら、
地元の劇団創造で活動し、上司の薦めで上京。
1964年に劇団青年座に入団。
もともとは舞台の大道具などを作成する裏方志望でしたが、
劇団員募集の際に裏方を募集していなかったため、
俳優として入団。
青年座に所属していた演出家が、
偶々洋画のアテレコの演出もするようになり、
「やってみるか」と声が掛かったのがきっかけで、
1970年頃からは、
洋画や外国テレビドラマの吹替え・アニメーションなどの声優としても活動を開始。
1980年に
蜷川幸雄演出、平幹二朗主演の『NINAGAWA マクベス』に出演。
1985年の再演では準主役格のバンクォーをつとめました。
1987年同作のロンドン公演では、
休演の平に代わりマクベス役に選ばれて成功を収め、
日本での凱旋公演でも再び主演を務めました。
1982年4月から、
横内正の後任としてNHK-FMの深夜番組『クロスオーバーイレブン』でナレーターを担当。
2001年3月の番組終了まで、番組最長の19年間担当。
1988年4月、
趣味である麻雀の最中にクモ膜下出血で倒れ、
長期の療養とリハビリを余儀なくされましたが、
同年の舞台『テンペスト』で復帰。
以後も青年座の中心俳優の一人として、
舞台、映像で活躍。
2005年7月1日に体調不良により、
出演予定だった青年座の公演『夢・桃中軒牛右衛門の』の桃中軒牛右衛門役を降板、
軽度の脳梗塞と判明。
2005年8月15日から8月19日までNHK-FMでオンエアされた特別番組『よみがえる伝説〜クロスオーバーイレブン2005』で復帰。
舞台への復帰は
井上ひさし作の原爆告発劇『父と暮せば』。
朗読劇を全国で続け、
通常の舞台も2006年5月の『殺陣師段平』から復帰。
2006年1月1日に劇団青年座演技部から座友に移籍。
2009年3月23日には3度目の脳卒中発作を起こしたため、
出演予定の舞台を降板。
しかし、同年中にテレビドラマにて復帰。
小国英雄さん
(1904年7月9日-1996年2月5日)
脚本家、映画監督。
青森県八戸市出身。
旧制八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)時代に
同郷の友、松下正寿の兄・正臣の影響で武者小路実篤の作品に傾倒し、
小説を実篤に送るなど文学に目覚めました。
実篤の勧めで日本バプテスト神学校(現・関東学院大学)に進学し卒業。
白樺派の影響を受け、実篤主宰の新しき村に参加。
関東大震災に遭遇し帰郷するも、
「大震災救援」のための演劇活動に精力を注ぎました。
1929年(昭和4年)に
実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。
その後、脚本部に転属。
主に阿部豊のもとで脚本を書き、
1933年(昭和8年)に『モダンマダム行状記録』でデビュー。
この後、日活多摩川撮影所を経て、東宝へ入社。
それ以後は注文が多く入るようになり、
特に喜劇のシナリオを多く書きました。 
この頃の代表作に
『エノケンの法界坊』、『エノケンの頑張り戦術』など。
1939年(昭和14年)、
音楽映画『ロッパ歌の都へ行く』、『金語楼の親爺三重奏』の二作品で監督。
以後は娯楽作品の脚本に専念、
ドル箱脚本家として活躍。
戦中にはマキノ正博監督の映画脚本を担当したほか、
戦後は黒澤明の脚本チームのまとめ役になるなど
脚本界でも重要な位置を占め、
のちフリーランス。
1952年(昭和27年)、
黒澤明から新作『生きる』の脚本の依頼を受けます。
この作品は、
死期迫るガン患者を深い人間愛で見つめた傑作として評価され、
その年の映画賞をすべて独占するとともに、
脚本家・小国の名を有名に。
『生きる』をきっかけとし、
それ以後、
黒澤映画の全盛期に次々と制作された傑作のほとんど全てに脚本家として参加し、
日本映画史に燦然と輝く作品を支えました。
1966年(昭和41年)、
TV番組制作会社C.A.Lの役員に就任。
主な作品に
『あなたと呼べば』、『支那の夜』、『次郎長三国志』、『七人の侍』、『銭形平次捕物控』、『四谷怪談』、『赤穂浪士』、『赤ひげ』、『トラ・トラ・トラ!』、『乱』
などがあり、
生涯手掛けた映画は300本を数えます。
京都で小国シナリオ塾を開いて、
後進のシナリオライター育成にも努めました。
大河内傳次郎さん
(1898年2月5日(戸籍上は3月5日)-1962年7月18日)
映画俳優。
身長160cm。
福岡県築上郡岩屋村(現・豊前市)出身。
戦前を代表する時代劇スターの一人であり、
阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに
「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
サイレント期は、
伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生み、
悲愴感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、
従来の時代劇スターの定型を破り、
人気を不動のものとしました。
当たり役は丹下左膳で、
トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで
「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」
と言う決めゼリフで人気を獲得。
戦後は大物の助演者として活躍。
京都に大河内山荘を造営したことでも知られます。
[主な作品]
『忠次旅日記』、『新版大岡政談』、
『丹下左膳』シリーズ、『姿三四郎』、『虎の尾を踏む男たち』
西郷輝彦さん
(1947年2月5日-2022年2月20日)
シンガーソングライター、俳優、タレント。
身長176cm。
鹿児島県鹿児島郡谷山町(現:鹿児島市)出身。
歌手としては、
橋幸夫・舟木一夫と共に昭和歌謡の「御三家」の1人として人気を博しました。
芸名は維新の三傑の一人西郷隆盛にちなみます。
内田良平さん
(1924年2月5日-1984年6月15日)
俳優、詩人。
千葉県銚子市出身。
法政大学予科在学中、
戦況が悪化すると
「いずれ自分も特攻隊員に採られて死ぬのだから、学校に居ても仕方が無い」と思い、
帰郷後にブラブラしていると家のすぐ近くにある銚子市立飯沼小学校から
「教師が不足しているのでどうだ?」と声が掛かり、
1945年夏から1946年の夏までの1年間代用教員を務めたました。
法政大学経済学部在学中の1951年、
新協劇団に入って演劇を始め、
1951年に杉浦直樹・小松方正らと劇団「新演劇研究所」を結成して活動するも、
ほどなく解散。
東映での映画出演を経て1953年に友人から小林正樹を紹介され、
その伝手で松竹映画にも出演。
日活の『機動捜査班』シリーズに出演した後、
1963年に東映の『ギャング同盟』で初主演。
1965年、
愛人に「へそ下」を切られるスキャンダルが発生。
彫りの深い日本人離れした精悍なマスクから、
ギャング役などの悪役を中心に様々な映画・テレビドラマで助演を果し、
映画『やくざ刑事シリーズ』『青春の殺人者』『ザ・スパイダースのバリ島珍道中』などの話題作で
コミカルものからアクション・世相実録ものでシニカルな作品まで幅広い演技で出演。
1963年の映画『十三人の刺客』で、
思慮遠望巡らす鬼頭半兵衛役は当たり役の一つとされます。
詩人としても知られており、
動物や昆虫をテーマにした詩を多く作っています。
その中でも
詩集『おれは石川五右衛門が好きなんだ』の「ハチのミヤモトムサシは死んだんだ」に、
むろふしチコが補作詞した楽曲「ハチのムサシは死んだのさ」は、
1972年に平田隆夫とセルスターズの歌唱で大ヒット。
1984年6月15日、
演劇の巡業先で心筋梗塞のため急死。
60歳没。
好きなTVドラマ。
[親子ゲーム]。
長渕剛、志穂美悦子、柴田一幸、矢崎滋、早崎文司、三遊亭遊三、植木等、村田雄浩、南果歩、石倉三郎、等出演。
1986年6月の21:00からTBSで全11話で放送されたホームドラマ。
以前投稿した[家族ゲーム]でドラマ初主演した長渕剛が主演したホームドラマ。
この番組で共演した志穂美悦子と後に再び共演した[男はつらいよ   幸せの青い鳥]が縁で結婚した記念の作品ですね。
元暴走族の青年とその恋人が営むラーメン屋を舞台に父親に捨てられた子供を引き取り家族になろうとするホームドラマです。
長渕剛と志穂美悦子が若くコメディタッチな物語が面白かったです。
まだ明るい長渕剛が見れましたね。
やなせたかしさん
(1919年2月6日-2013年10月13日)
漫画家・絵本作家・詩人。
最終階級は陸軍軍曹(主に暗号の作成・解読を担当)。
有限会社やなせスタジオ社長。
東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)生まれ、高知県育ち。
作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」。
『アンパンマン』の生みの親として知られ、
社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、
社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月-2013年10月)を歴任。
絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは
頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、
編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど
様々な活動を行っていました。
中学に入学した時、このドラマを観て柔道部に入りました。
「地獄車」を習得しようと期待に溢れて練習に勤しむ覚悟でしたが当時、身体が小さかった私は有段者の先輩方にオモチャの様に投げ飛ばされて怪我して辞めてしまいました。😅
津嘉山正種さん
(1944年2月6日-)
俳優、声優。
妻はオペラ歌手の成田絵智子。
身長176 cm、体重77 kg。
沖縄県那覇市出身。
幼少時、
沖縄戦でアメリカ軍が上陸後に設置した収容所に入れられた経験を持ちます。
沖縄県立那覇商業高等学校卒業。
琉球放送に勤務する傍ら、
地元の劇団創造で活動し、上司の薦めで上京。
1964年に劇団青年座に入団。
もともとは舞台の大道具などを作成する裏方志望でしたが、
劇団員募集の際に裏方を募集していなかったため、
俳優として入団。
青年座に所属していた演出家が、
偶々洋画のアテレコの演出もするようになり、
「やってみるか」と声が掛かったのがきっかけで、
1970年頃からは、
洋画や外国テレビドラマの吹替え・アニメーションなどの声優としても活動を開始。
1980年に
蜷川幸雄演出、平幹二朗主演の『NINAGAWA マクベス』に出演。
1985年の再演では準主役格のバンクォーをつとめました。
1987年同作のロンドン公演では、
休演の平に代わりマクベス役に選ばれて成功を収め、
日本での凱旋公演でも再び主演を務めました。
1982年4月から、
横内正の後任としてNHK-FMの深夜番組『クロスオーバーイレブン』でナレーターを担当。
2001年3月の番組終了まで、番組最長の19年間担当。
1988年4月、
趣味である麻雀の最中にクモ膜下出血で倒れ、
長期の療養とリハビリを余儀なくされましたが、
同年の舞台『テンペスト』で復帰。
以後も青年座の中心俳優の一人として、
舞台、映像で活躍。
2005年7月1日に体調不良により、
出演予定だった青年座の公演『夢・桃中軒牛右衛門の』の桃中軒牛右衛門役を降板、
軽度の脳梗塞と判明。
2005年8月15日から8月19日までNHK-FMでオンエアされた特別番組『よみがえる伝説〜クロスオーバーイレブン2005』で復帰。
舞台への復帰は
井上ひさし作の原爆告発劇『父と暮せば』。
朗読劇を全国で続け、
通常の舞台も2006年5月の『殺陣師段平』から復帰。
2006年1月1日に劇団青年座演技部から座友に移籍。
2009年3月23日には3度目の脳卒中発作を起こしたため、
出演予定の舞台を降板。
しかし、同年中にテレビドラマにて復帰。
一発屋をご紹介します!
完全にシャレのつもりで作った曲「完全無欠のロックンローラー」がなんと「世界歌謡祭」でグランプリ!
でも今は誰も〝知らんぷり〟
現在は地元富山で賑やかにやってる様だ。
因みに私と同級生で、中学の頃から目立ちたがり屋でした。😅
テレビ朝日の深夜番組「トゥナイト」の司会を担当されていた、作家の利根川裕さんがお亡くなりになられたことは残念に思います。
世代的に「トゥナイト」は後期の頃から観た位で、石川次郎さんが司会を担当された「トゥナイト2」の方が馴染みありましたけど、利根川さんの落ち着いた司会ぶりと物腰の柔らかい語り口はとても印象に残ります。
ご冥福をお祈りします。
合掌
【雑居時代】
怒った大原麗子が可愛かった。ほとんど中毒状態でした。

46歳という若さで他界された村下孝蔵さん。初恋、踊り子、春雨など大好きな歌でした。歌声にいまも涙が出ます。ギターが素晴らしかったですね。今日又聴いてました。🥲

🎤☀真赤な太陽☀★🎤★✝美空ひばり✝🎤
『真赤な太陽』は、1967年(昭和42年)5月25日に発売された、美空ひばりとジャッキー吉川とブルー・コメッツの楽曲。グループ・サウンズ全盛期であったこの頃、美空ひばりが「ブルー・シャトウ」の大ヒットを飛ばしたジャッキー吉川とブルー・コメッツの5人を従えて歌った楽曲。元は美空ひばり芸能生活20周年記念アルバム『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』に収録する為に制作された曲で、シングル盤を発売する際にひばりのスタッフの中で評判が高く、ひばりの母・加藤喜美枝もシングル化を推したことから、アルバムからのシングル・カットとして発売されることになったという話が残る。本楽曲はグループ・サウンズの雰囲気を強調しており、歌番組などでは当時30歳だったひばりが初めてミニスカートを着用し、ゴーゴーダンスを踊りながら歌うなど、それまでのひばりのイメージとは大きく異なる楽曲であり、ひばりの新境地が垣間見えた楽曲であった。結果的に、ブルー・シャトウの150万枚には及ばなかったものの、140万枚を売り上げるミリオンセラーとなり、記録的な売り上げを残した。これは美空ひばり自身の歴代シングル売り上げ枚数では第4位に相当する。後に多数のシンガー、ミュージシャンにカバーされた曲でもある。作曲を手がけた原信夫は本楽曲が完成した際、ひばりと江利チエミのどちらに歌わせるか迷った末にひばりの楽曲にした。本楽曲がヒットした後にチエミは「あれは本当は私の曲よ」と嫉妬したという。カップリング曲の『やさしい愛の歌』は、やはり『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』収録曲で、「真赤な太陽」の作曲を手がけた原信夫が自身のビッグバンドと共に演奏に加わっている。
🎤💑愛人💑★🎤★✝テレサ・テン✝🎤
「愛人」は、1985年2月21日にリリースされたテレサ・テンの15枚目のシングル。発売元はトーラスレコード(のちに解散。現在はユニバーサルミュージックから発売)。「愛人」は前作「つぐない」・次作「時の流れに身をまかせ」などと並んで、「アジアの歌姫」テレサ・テンの代表曲の一つである。有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録しており、また、全日本有線放送大賞と日本有線大賞では1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』で2連覇を達成。1985年の『第36回NHK紅白歌合戦』に唐代の楊貴妃をイメージしたデザインの衣装で初出場を果たしている。
🎤🌈🎵虹色の湖🎵🌈☆🎤☆💟中村晃子💟
「虹色の湖」は、1967年10月10日に発売された中村晃子の7枚目のシングルです。1967年当時音楽界を席巻していた “一人GS” 風の編曲・演奏である。1965年のレコード・デビュー以来の中村晃子初のヒット曲(売上は当時の累計で80万枚)で、中村は1968年の『第19回NHK紅白歌合戦』への出場を果たした。ロ短調である。オリジナル7インチシングル盤には2種類、ジャケットが存在する。一つは赤色の背景に中村の右側の横顔を撮影したもの、もう一つは黒色の背景に足を組んだ中村の全身が撮影されたものである。
🎤🛥矢切の渡し🛥☆🎤☆👔細川たかし👔
「矢切の渡し」は、石本美由起の作詞、船村徹の作曲による演歌。1976年にちあきなおみのシングル「酒場川」のB面曲として発表され、1982年にはちあきなおみのA面シングルとして発売された。翌1983年に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしのシングルが最高のセールスとなった。オリコンの週間ヒットチャートでは3週にわたって第1位を獲得、1983年のオリコン年間ヒットチャートにおいては第2位にランクインされる大ヒットとなった。細川は本作で同年に『第25回日本レコード大賞』を受賞した。同年には『第34回NHK紅白歌合戦』でも大トリで披露している。前年には「北酒場」(1982年3月21日[10])で第24回日本レコード大賞を受賞していたため、レコ大史上初の2年連続受賞歌手となった。後に他のミュージシャンも連続受賞を果たしているが、「発売したシングル盤が2作連続して日本レコード大賞を受賞」というのは現在においても細川のみである。当時の人気番組であったTBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』では3月31日放送分で初登場し、連続13週ランクインした。前年に続き、2年連続で年間ランキング1位を獲得した。また、当時は賞レース番組であったフジテレビ系『FNS歌謡祭』の第12回放送でグランプリを受賞した(前年の第11回放送では、「北酒場」で最優秀視聴者賞を受賞している)。
<金嬉老事件>
ライフルとダイナマイトで武装し、日本人18人を人質として立てこもり、祖国(韓国)に帰り英雄扱いされましたねぇ。

懐かしき昭和の青春、この時代は良かった。

幼き頃、従兄の本棚から引っ張り出し、こっそり観たグラビア誌。2月6日 お誕生日のミミ(#ミミ萩原)さんの水着姿に、幼いなりに心拍数が著しくアップした記憶。
あれから半世紀近く経ち、いつの間にか 当時のモデルさん達の年齢の娘をもつ オトンになりました。(;゚д゚)
咲ぁきほぉこる花はぁ~
       散るからこそに美しい~🎵
俳優の小林稔侍さん💨⤴️
キャプテンウルトラに出演されたのをかすかに覚えています。
そのごは数多くの映画やドラマに出演されています☺️
1941年2月7日生まれ👍
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
女優の川上麻衣子さん💨⤴️
スウェーデンで生まれました。
ドラマ、絆でデビューされました😃
そのごは3年B組金八先生第2シリーズや映画、うれしはずかし物語などに出演されています☺️
1966年2月5日生まれ😋
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
津島恵子さん
(1926年2月7日-2012年8月1日)
女優。  
身長161cm。
長崎県下県郡厳原町(現:対馬市)出身。
東洋音楽学校(現:東京音楽大学)中退。
1947年、松竹作品『安城家の舞踏会』でデビュー。
以降、松竹専属となり、
鶴田浩二とのコンビで人気を獲得。
1953年、
今井正監督の『ひめゆりの塔』にて初めて他社(東映)の映画に出演し、代表作に。
1954年、松竹を退社してフリーとなり、
黒澤明監督の『七人の侍』などで好演。
1957年、
当時の東宝副社長・森岩雄の子息(森伊千雄)と結婚したのを機に
一時的に映画界からは遠ざかるも、
1970年代にテレビドラマへカムバック。
2002年のNHK連続テレビ小説『さくら』を最後に女優業を休止。
2007年頃から認知症の症状が出ていたとされ、
2012年8月1日午前10時20分、
胃がんのため東京都内の病院で死去。
86歳没。
浜村純さん
(1906年2月7日-1995年6月21日)
俳優。
福岡県糟屋郡宇美町馬場出身。
福岡市立商業学校卒業。
戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。
戦後は映画俳優として、
数多くの話題作や名作に出演。
総出演本数は約300本に上ります。
個性的で幅の広い演技に定評があり、
日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍。
伊志井寛さん
(1901年2月7日-1972年4月29日)
俳優。
東京府東京市牛込区神楽坂(現在の東京都新宿区)に、
落語家4代目三升亭小勝と
竹本清之助(本名は富沢つね)の子として生誕。
1906年(明治39年)、5歳で父と死別。
17歳まで銀座の商家に奉公に出ていましたが身に合わず、
1919年(大正8年)に文楽座の竹本津太夫の門に入り、
竹本津駒太夫名義で初舞台。
満20歳の徴兵検査を機に文楽界を退き、
1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所に入社。
旧劇活動写真の写実化に成功したといわれている1923年(大正12年)公開の野村芳亭監督映画『女と海賊』等に脇役として出演。
1924年(大正13年)、
帝国キネマが松本英一監督映画『籠の鳥』の大ヒットで利益を上げ、
その資金で各社の名俳優・監督を引き抜かれ、
伊志井も五月信子、正邦宏らと共に引き抜かれて小阪撮影所に入社。
ここでも多数の作品に出演、
1925年(大正14年)4月、
首脳部の内紛に端を発した会社出直しに伴う同撮影所閉鎖で伊志井を含む従業員400人以上が解雇。
その後、
同撮影所長であった立石駒吉が跡地に設立した東邦映画製作所に入社するも、
わずか数ヶ月で給料不払いとなり、解散。
1927年(昭和2年)、
作家菊池寛に招かれて新劇協会に加入。
『三月三十二日』『クノック』等に初めて主演を務め、「新劇の星」ともいわれて注目されます。
1928年(昭和3年)、
久保田万太郎の勧めで新派劇に加入し、
喜多村緑郎の門下。
新派劇の花形として人気を集め、
花柳章太郎と並ぶ若手スターといわれ、
1938年(昭和13年)、
花柳章太郎、大矢市次郎、柳永二郎、川口松太郎らと新生新派を結成し、
川口松太郎、泉鏡花の作品を中心に上演し、
人気を博します。
同劇団は戦後の1949年(昭和24年)に解散するも、
同年に劇団新派を結成し、
大幹部として屋台骨を支えます。
特に『婦系図』の主税などを当たり役とし、
その一方で映画、
テレビドラマにも意欲的に出演しており、
1959年(昭和34年)8月23日から1972年(昭和47年)2月6日まで放映された
TBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』(全33作)では、
同じく劇団新派に所属していた京塚昌子と共演し、
その好々爺ぶりはお茶の間に親しまれました。
1967年(昭和42年)、紫綬褒章を受章。
1972年(昭和47年)4月、
明治座の舞台に出演中に倒れ、
同月29日、肝臓癌のため死去。
71歳没。
時任 三郎さん
(俳優、歌手)
1958年2月4日生まれ、66歳。
東京都 世田谷区出身
大阪府松原市育ち。
1983年にテレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』で注目を集め、以降多くのテレビドラマや映画に出演する。1984年と1987年には日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞した。
1988年に三共が発売した栄養ドリンク「リゲイン」のCMにて、「24時間タタカエマスカ」というキャッチコピーと共に、初代CMキャラクターに起用される。最初のCMではそれほど注目されなかったものの、1989年に入り「牛若丸三郎太」というキャラクターに扮したことから人気が出始め、後にシングル化としてリリースされた『勇気のしるし』をCMで歌い、大ヒット曲となった。
https://youtu.be/q38OVMemxFM?si=ObEvcaEPlKoLft0I

このプレイコミックという男性向けの雑誌は1968年に創刊され、月に2回の刊行だった様ですが、2010年~2014年には月刊誌となり廃刊になった様です。写真の表紙は創刊して間もない頃のものでしょうか。なかなか攻めた感じの漫画雑誌という感じがしますね😁😂

ダイヤモンドをつん裂いてぇ~🎵

やくざ坊主(1968)
監督:安田公義
出演:勝新太郎、小川真由美、成田三樹夫、久保菜穂子、小松方正、渡辺文雄、多々良純ほか
背中にスミは入れてるし、やくざ紛いの坊主の活躍を描いている。
当然このやくざ坊主を勝新が演じてる。
剣豪の成田三樹夫との対決が見どころなんだけど、このやくざ坊主、女を寺に連れ込みテゴメにするなど、かなり非道に描かれており、誰が善で誰が本当の悪なのか判断がつきづらい。
といっても主人公の勝新以外はやはり映画内では悪なんだけどね。
で、このやくざ坊主は武器は使わずに素手で殺すんだけど、これは「必殺シリーズ」の念仏の鉄の元ネタなんじゃなかろうか?とぼくが中坊の頃にクラスメイトで「必殺」マニアの岡田君から教わった映画なのでした。
うん、たしかに素手で殺すけど、やはり念仏の鉄の殺す際にレントゲンで見せる!っていう手法は独自で斬新なのでありました。
しかしこの映画は出来としてはイマイチだと思います。
でも勝新が「般若心経」を唱えてるシーンは案外貴重なのかもw

当時、日本人の寿命はこんなに短かったんでしょうか?(昭和24年)。

NHK「ジェスチャー」

1954年~1965年 クイズ番組の草分け。

格好良い お姉さんですね?😲
カミナリ おてんば娘!😂
家の お袋世代ですかね?
私?カミナリ族って見た事が有りません。😂
私世代はヤマハの通称ミニトレなんです。😂
 
自転車を漕がなくても遠くに連れて行ってくれましたね。🤔
安いし そこそこ速い。
昔、バイク屋さんから貰いまくったヤマハのミニトレ系とホンダのモンキー系
くれたんですから!😲
夢の様な時代だと思います。😂
あやとり♬
男の子もやってました😅
昭和の頃は色々な会社のガソリンスタンドがありましたよね。
今は合併などで数社になってしまいました。

2月7日は『#太陽戦隊サンバルカン』放送開始43周年。屈指の人気を誇る同作。空・海・陸での戦闘に特化した3人のヒーローと、それを助ける嵐山父娘のチームワークが、機械帝国ブラックマグマを殲滅する!

底ぬけ脱線ゲーム
1963年から1973年まで、10年間放送された日本テレビの人気番組。
その後、番組変更などで93年まで続きました。
菅原文太さん
私は勝手に東洋のロバートデニーロだと思ってます
仁義なき戦い、まむしの兄弟、ダイナマイトどんどん、太陽を盗んだ男などジブイ役やコミカルな役、とても好きな俳優です
その中でも大好きな『トラック野郎』
全10作公開されましたが一番好きな作品は5作目の『度胸一番星』です
いつもフラレ役ですが唯一星桃次郎が結婚する直前まで進展する物語り
6作目の『男一匹桃次郎』の夏目雅子も良かったけどね
確か『熱風5000キロ』はジャッキーチェンの『酔拳』と2本てで上映してました
ただ残念なのは当時出演してた方が殆ど亡くなった事です😢

昭和の元気なネ~ちゃんは、こんな乗り方の方いましたね。

#ビューティペア 結成から3年後の1979年2月「敗者は引退」という厳格ルール下、王者 ジャッキー佐藤さんにマキ上田さんが挑戦。WWWA世界シングル王座戦はジャッキーさん勝利。その後マキさんは『バトルフィーバーJ』サロメ役に。

小学校の頃、五十音の書いた紙と10円玉で、こっくりさんをやりました。

昭和の女性タレント。少女隊🤗

80年代前半、地方都市に急速に波及した

ノーパン喫茶。発祥地は福岡とも京都とも言われたが定かではない。

何が博打うちなら❗️
村岡が持ってるホテルは何を売っちょるの、淫売じゃないの❓
言うたらアレら、オ◯コの汁でメシ食うとるんど。
あんたらもんの風下にたってよ、セン◯リかいて仁義で首くくっとれい言うんか❗️
仁義なき戦い:広島死闘編/1973(昭和48)年
 昭和25年、広島の二大勢力、博徒・村岡組とテキ屋・大友連合会。その抗争の火種の中で村岡組の子分になった山中正治(北大路欣也)。だがふとした事で組長・村岡常夫(名和宏)の姪で未亡人の靖子(梶芽衣子)と男と女の関係になってしまう。
 一方、かつては友好関係にあった村岡組と大友組だったが、村岡組の競輪場の警備に不満を持つ大友勝利(千葉真一)は、父親・大友長次 (加藤嘉)と袂を分かち村岡組長の命を狙うが……
 
 シリーズの中でもどちらか言うと番外的なスピンオフ、文太の兄貴は脇役な『広島死闘編』
 ファンの皆様なら既に知っちょる事と思いますが、もともとは千葉ちゃんと欣ちゃんのキャスティングは逆だったらしいんじゃが色々あって、山中が欣ちゃん・大友が千葉ちゃんに。まぁこれは東映の御大・市川右太衛門の御曹司、映画界のサラブレッド北大路欣也のお願いですけぇ、会社としても聞かん訳にはいかんじゃろぅって……いやいやしかし、何が幸いするか分からんのぉ。そのおかげでヤクザ映画史上最強で最狂のキャラクター、サイコーの台詞の誕生っちゅう訳ですわ👍👍👍
 特攻隊、生残り、死に場所を求める男と愛を貫く一途な女……いやこん時の梶芽衣子さん、エッライ綺麗なんですわ。儚げな瞳に浮かぶ情念の眼差し……あれは何があっても山中を待ち続ける言う覚悟の現れじゃろうね❗️
 親に見放された狂犬と、組織に翻弄された鉄砲玉の哀しき宿命……そして抗争で命を落とすのは、いつも若い命である。
ワシを生かしとったら、オドレら後で一匹ずつブチ殺してくれちゃるんど❗️

ローラーゲームの東京ボンバーズ

【渥美清の泣いてたまるか】 1966年~
子供の頃だったので記憶が薄いのですが、渥美清が主題歌を歌うドラマが流行りました。「泣いてたまるか」
そらが泣いたら  雨になる
山が泣くときゃ  水が出る
俺が泣いても  なんにも出ない
意地が涙を
泣いて  泣いてたまるかヨ
通せんぼ
葛西紀明さん
レジェンド‼️
銀 1994 リレハンメル ラージヒル団体
銀 2014 ソチ ラージヒル個人
銅 2014 ソチ ラージヒル団体
1992年アルベールビルオリンピックに19歳で初出場以来、リレハンメル、長野、ソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバー、ソチ、平昌と史上最多計8回の冬季オリンピックに出場。
51歳でもまだまだ現役。
唯一持ってないのが金メダル。
2026年ミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックで是非頑張ってほしい。
昭和最後年の前年昭和62年(1987)年
マイケル・ジャクソン横濱公演
昭和20年代の 大阪下町は こんな 長屋バカリ
でしたねえ〜〜〜
丘灯至夫さん
(1917年2月8日-2009年11月24日)
作詞家。
好々爺として知られ、
その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多数。
代表作は
『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』など。
アニメの主題歌なども手がけており、
『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』
などが知られています。
息子は救心製薬社員の丘きんじ。
久米明さん
(1924年2月8日-2020年4月23日)
俳優、声優、ナレーター。
身長170cm。
日本大学芸術学部教授。
2019年時点で、
現役で活動していた世界最高齢の声優。
東京府(現:東京都)出身。
旧制麻布中学校、東京商科大学(現:一橋大学)卒業。
学徒兵として敗戦を迎え、
大学に復学後、
俳優座によるゴーゴリ『検察官』に感銘を受け演劇研究会を立ち上げ。
1947年、
木下順二、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成。
以降も中心俳優として活躍するも、
1964年、
同劇団の分裂・解散によりフリーとなり、
その後、
1966年に現代演劇協会内の劇団欅に入団、
1976年には劇団昴の結成に参加し、
2007年まで所属する間に数多くの舞台に立ちました。
1972年から日本大学藝術学部講師、
1975年から同教授に就任。
1992年に紫綬褒章、
1997年に勲四等旭日小綬章を受章。
2020年4月23日未明、
心不全のため東京都内の病院で逝去。
満96歳没。

明治のビン入り乳飲料です。昭和の時代、銭湯に通っていたので、時々父親に買ってもらって、風呂上りに飲んだ記憶があります。でもこんなに種類があったとは知りませんでした😂

伊福部昭さん
(1914年5月31日-2006年2月8日)
作曲家。 
ほぼ独学で作曲家となり、
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、
『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、
音楽教育者としても知られます。
位階は従四位。
北海道出身。
札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)、
北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科学校(森林科学科)卒業。