Apex product 【 昭和の楽しい時代㉚ 】

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「教祖誕生」1993年日本🇯🇵映画 
天間敏宏監督
予告編
https://youtu.be/Fbfcgemp06E
 原作は1990年のビートたけしによる同名小説。新興宗教団体への痛烈な皮肉が込められたコメディであり、教団内の凶暴性も描いてます。
 小川知子が「幸福の科学」の広告塔となったのが91年、桜田淳子の統一教会合同結婚式参加が92年、そしてオウム真理教によるサリン事件が94〜95年と続く新興宗教団体の行く末を先取りしたかのような、ビートたけしに感銘を受けました。
 ただしこれはコメディ映画として笑っていられますが、現実は更に激烈な訳でそこに落ち込まないための啓蒙映画として観ることも可能です。
 出演陣ではビートたけしは勿論、岸部一徳、玉置浩二が抜群の存在感を出していました。
大橋巨泉さん
(1934年3月22日-2016年7月12日)
テレビタレント、放送作家、元参議院議員。 
身長178cm。
テレビ司会者のほか、
競馬評論家、ジャズ評論家、時事評論家としての活動も行い、
馬主でもあるなど、日本のマルチタレントの先駆けとなりました。
実業家・芸能プロモーターとしてオーケープロダクション(旧・大橋巨泉事務所)を創業し、
取締役会長を務めたほか、
海外でお土産物屋「オーケーギフトショップ」を経営する
オーケーギフトショップグループの取締役社長を務めました。
芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号。
なお、
多くの芸能人や関係者・視聴者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、
「大橋(さん)」と呼ばれることは皆無に近かったそうです。
(大橋巨泉)
中村玉緒さん
(1939年7月12日-)
女優・タレント。
愛称は「玉緒さん」「お母さん」。
京都市立立誠小学校、京都女子高等学校出身。
京都府京都市左京区出身。
父は大映映画の貴重な脇役でもあった歌舞伎俳優二代目中村鴈治郎。
夫は俳優の勝新太郎、
長男は俳優の鴈龍(奥村雄大)、
長女は奥村真粧美。
また、
兄は歌舞伎役者の四代目坂田藤十郎、
その子供に四代目中村鴈治郎・三代目中村扇雀兄弟。
1953年、
本名で松竹作品『景子と雪江』にて映画初出演を果たすものの、
その後お呼びはかからず。
どうしても女優になりたかったため、
親戚で大映の重役も兼ねていた長谷川一夫に頼み込んで1954年に大映へ入社。
初年度の給料2万円は当時としては破格で、
ハイヤーで撮影所通いという優遇ぶりでしたが、
主役は回ってこなかったそうです。
1960年代半ばまで、
幼馴染の市川雷蔵や山本富士子、若尾文子らスターを支える脇役として活躍。
当時の玉緒は甲高く可愛らしい声をしており、
純情な娘役を多く演じました。
1970年代には、テレビドラマの脇役として活躍。
痛々しく健気な母親役を得意とし、評価を得ます。
1994年、
明石家さんま司会のバラエティ番組『明石家多国籍軍』などにおいて、
強烈な天然ボケキャラクターで人気を得ます。
以降、
さんまが司会を務める番組の常連出演者となりました。
この頃より長者番付に名を連ね、
主演ドラマや主演舞台もこなすように。
2011年、京都名誉観光大使に就任。
2020年11月、個人事務所代表取締役に就任。
(中村玉緒)
高倉健さんと愛車ポルシェ911✨
高倉健さんはカーマニアで有名でしたね
いつも自宅ガレージに数台車が置いてあり好きなコーヒーを飲みながらその日に乗る車を選び決まって三菱のギャランに乗っていた見たいですね。理由はCMに出演していたから?健さんやはり律儀な人だなぁ
もうすぐ夏休み
昭和50年代前半の小学生は夏休み前にラジオ体操のカードを配られました。
当時は、TBS は朝6時からウルトラシリーズを再放送。タロウ、レオ、走れK100とか挟んで、タロウ、レオ。
セブンや新マンが見たいのに。
するとなんと夏休みに新マンを放送。雨ふれ、雨ふれ、と願ったものです。
行けば行ったで楽しいんですけどね。
(ラジオ体操)
お疲れさまです✨
太陽神戸銀行の貯金箱です😊

小沢昭一さん!!語り口が好きでしたね…

♥️2023💃7/13 中森明菜(58歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

懐かしい 昭和の
《プロレス》
*1950~70年代のプロレスは「日本人VS悪役ヒール外人レスラー」の対戦形式が定まってました!…数多くの悪役ヒールレスラーが来日してTV観戦が楽しみでした!
*悪役ヒールレスラーは、それぞれに個性があり存在感がありました👊
浦山桐郎『キューポラのある街』(1962)
舞台は1960年代。鋳物の町として有名な埼玉県川口市にはキューポラという煙突が立ち並んでいます。しかし、高度経済成長期に入り、この昔気質の職人の町にも時代の波が押し寄せてきます。
ヒロインである石黒ジュン(吉永小百合)の父で旧来型の鋳物職人である辰五郎(東野英治郎)は、仕事中の大怪我の後遺症で満足に働けなくなると同時に、工場が大工場に買収されたことから解雇されてしまいます。
ジュンは、突然の父の失職により楽しみにしていた修学旅行を諦め、高校進学の費用も自力で貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めます。そんな中、担任教師(加藤武)の助力もあって修学旅行にも行けるようになり、やがて父・辰五郎も再就職を果たし全てが良い方向へと向かうように思われたのですが・・・・・・
早船ちよさんの小説を原作とした標記は、吉永小百合さん主演作として筆頭に挙げられる名作ですが、サユリストの多い私の上の世代のファンの中でも、その後の吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線とは異なり、その社会的なテーマが深刻な為、あまり話題にされずにいた作品であることも事実でしょう。
その点、中心的なテーマは価値の変換が迫られる時代的な背景から、世代間格差を描いているのですが、そこには二極を対比させて新しい価値(戦後民主主義)のみを称賛している訳ではないという印象を持っています。
貧困という家庭生活が続く中でも、辰五郎は家父長的な態度で一貫している訳ではないのですが、古典落語に出て来るような職人気質の為、法に疎く労働者としての権利を主張することを無粋と思っているキャラとして造形されています。
その点、中学生であるジュンの自由主義的な生活信条は随分大人びており、当時でも先進的なキャラとして登場しているように受け取れ、仲の良い家族の間においても微妙な確執が重なるシーンを上手く捉えています。
子供たちがそんな父親に対し「自己中心主義」と吐き捨てるのは、当時の時代を良く現しているワードですが、特にジュンの力になる塚本克巳(浜田光夫)は戦後民主主義の体現者としてキャラ造形されており、ともするとそれは合理的な上昇志向として「通俗道徳」に隣接する危険性を孕んでいます。
その点、それに近いジュンの生活信条は、そうした理念先行で生きている克巳を横に、参加できることになった修学旅行を断念し、ラストにおいても就職する社会の中で自らの生きる価値を試し、高校進学を定時制に選択するメンタリティとして描いているように思います。
また、そうした市井の家族の日常を丹念に描きながら、川口の街の風景をとても上手く捉えているのもこの作品の魅力です。
たとえば、朝鮮人の学友である金山サンキチ(森坂秀樹)との別れのシーンでの国鉄の描写や、ジュンの弟であるタカユキ(市川好郎)と牛乳配達の少年(手塚央)との諍いの場面となる芝川での描写など、風景が単なる背景のみに収まらず、プロットに独特の意味を持たせる舞台設定となっている点に大きな特徴があると思います。
また、「川口オート」などの当時の風俗も描かれている点は、ドキュメンタリー的なテイストも感じられ、自然な形でプロットが進行している特徴を観ることが出来るでしょう。
そこに描かれている社会的なテーマは、民族差別を中心に日常生活から見え隠れする格差社会の現実ですし、時代に乗り切れない人間の悲哀が映し出されています。
また、ここで描かれた在日朝鮮人の帰還のシーンに対し、この作品の賛否の中には「在日朝鮮人の帰還事業を肯定的に描いた」という事後的な底の浅い批判も見受けられるようですが、当時の北朝鮮は在日朝鮮人の人たちに向けて、自国を「地上の楽園」として大々的に宣伝していました。
これを鵜吞みにした当時のマスコミや進歩的文化人、政治家たちも左右両派の区分なく、北朝鮮の宣伝に加担するような形で在日朝鮮人の人たちに積極的に帰国を促していました。その点、当時は日本人も含めて9万人もの人たちが海を渡ったという、目の前に繰り広げられた事実に即しているだけのプロットと受け取れると思います。
しかし、それは批判ではなく、その描かれた未来が哀しい結果として受け取らざるを得ない現実を前にしているからこそ、その事が逆説的にこの作品を深いものにしているアイロニーとなっているようです。
また余談ですが、私の世代にとっての吉永小百合さんは、物心ついた頃に観たロードショー作品が‘70年代以降になったことから『戦争と人間』が初見だったのですが、それ以前の『愛と死の記録』『あゝひめゆりの塔』、また、それ以降も『皇帝のいない八月』『動乱』『母べえ』『母と暮せば』等の戦時やその影響を背景とした作品への出演や、ご自身も反戦・反核運動をライフワークとして活動されていることも含め、私にとってはリベラルな女優のイメージがありますが、既にこの主演作でその片鱗を伺えることが出来るようです。
7月13日は中森明菜さんのお誕生日🎂
なので、又観たいドラマ『素顔のままで』
アップしてみました🙋
※大雨被害に遭遇された方々に
お見舞い申し上げます🙇
スバルアルシオーネ4WD VRターボ(1985(昭和60)年5月30日、3速AT/231万5000円 5速MT/225万円)
最高出力:135馬力/5600r/min 最高速度:185km/h
最大トルク:20.0kg−m/2800r/min Cd値0.29
*Cd値とは空力抵抗係数で数値が小さいほど秀逸

子供の頃イタズラをすると父親が灸を据えると良く言いました🥰🐼❤️

丹波義隆さん
(1955年7月13日-)
俳優。
身長173cm。
東京都杉並区出身。
東京都立杉並高等学校卒業、成城大学文芸学部中退。
俳優・丹波哲郎の長男。
異母弟は森正樹。
曽祖父は丹波敬三。
先祖は丹波康頼(丹波氏)。
父・哲郎が「義隆」を音読みにして「ギリュウ」と度々呼んでいたことから、
これから転じた「ギル」というあだ名がありました(千葉真一にもそう呼ばれていました)。
高校在学中の1973年、
"製作費節約のため”という理由で出演を請われ、
のちの丹波企画のプロデューサーが製作した
大森健次郎監督第1回作品『二十歳の原点』(東京映画)に
角ゆり子扮するヒロイン・高野悦子の弟役で映画デビュー。
そのまま俳優を続けるつもりはありませんでしたが、
ついで岡本喜八監督の東宝映画『青葉繁れる』のオーディションに、
父の職場を覗く程度の気持ちで受けたところ合格。
名門高校の劣等生役で主演しユニークな個性を発揮。
1977年、『アラスカ物語』(映画)で、丹波哲郎と父子共演。
1975年、
NHK連続テレビ小説『水色の時』でテレビドラマ初出演。
以降、
『Gメン'75』『見まわせば二人』などのテレビドラマに多数出演。
1977年に『ジャッカー電撃隊』で
主役の桜井五郎(スペードエース)役を演じました。
1989年、
父・哲郎が製作した『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』で主演し、
続編の『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』でも
哲郎演じる主人公の若返った姿に扮し後半の主役を務めました。
1981年より、俳優養成所「丹波道場」の責任者に。
(丹波義隆)

7月13日は「#オカルト記念日」です。1974年の大ヒット映画「#エクソシスト」主演 #リンダブレア さん来日記事。映画「愛と誠」主演女優 早乙女愛さんと銀座で買物をしたとの由。郷ひろみさん、山口百恵さん、林寛子さんなどの「エクソシスト」鑑賞の感想も。

神田隆さん
(1918年4月14日-1986年7月13日)
俳優・声優。
東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。
東京帝国大学文学部仏文科を卒業。
1942年に日本出版文化協会に入りましたが、
映画評論家の内田岐三雄に豪快なマスクと雄弁を注目されて、
1943年、松竹大船撮影所に入社。
映画『暖き風』でデビューし、
戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得ました。
新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』などで主要な役を演じるも、
代表作には恵まれず。
1950年に松竹を退社。
その後は独立プロの映画に出演し、
1951年、キヌタプロの創立に参加。
その後は独立プロの映画に出演し、
東京俳優協会を経て、1955年に東映へ移籍。
『警視庁物語』シリーズをはじめ、
多くの作品で渋みのあるベテラン刑事や会社の部長などを演じました。
1970年代に入ると
テレビドラマの時代劇や刑事ドラマで悪役や黒幕・犯人役の仕事が増え、
次第にそのイメージが定着。
一方で、
『マイティジャック』『ミラーマン』『仮面ライダーシリーズ』『ロボット8ちゃん』などの特撮にもゲストや準レギュラーとして出演。
『ウルトラマンレオ』では3回のみの登場ではありますが、
誠実で見識も高い、
防衛隊MACの最高責任者の高倉司令官を演じています。
政治家の佐藤栄作に顔立ちがよく似ていることから、
映画『金環蝕』、『不毛地帯』では、
佐藤がモデルとなっている政府高官を演じています。
1985年ごろから狭心症を患い
その影響でエスカレーターで発作を起こすように。
そして1986年7月13日午前7時5分、
『必殺仕事人V・激闘編』最終回の撮影後、
東京へ帰宅途中に京都駅のエスカレーターから転倒し、
京都市内の病院に搬送されましたが、
そのまま帰らぬ人に。
68歳没。
(神田隆)

♥️2023💃7/14 斉藤慶子(62歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/14 水谷豊(72歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

7月14日は水谷豊さん(1952年7月14日~)の誕生日です。おめでとうございます。現在では『相棒』シリーズの杉下右京としておなじみです。子役劇団時代の1968年、『バンパイヤ』の主役に抜擢されるところから芸能生活が始まります。青春学園ドラマ『炎の青春』で秀才生徒役、『飛び出せ!青春』ではエリート一家で期待されすぎカンニングに走る生徒役、『顔で笑って』では若い外科医、『天下のおやじ』では主人公の次男などを演じてきました。
次に注目を集めるのが、『傷だらけの天使』の乾亨(いぬいあきら)役でした。いつも萩原健一を「兄貴~」と慕い、「高山波太郎」の表札を「やま……たろう」と読んでしまう無学な青年でした。『傷だらけの天使』で名前が売れると、ドラマの仕事が立て続けに入ってきましたが、アキラに近いセンシティブなキャラクターだったのが、『夜明けの刑事』の山本宏刑事です。私は、夕焼けをバックに、鈴木刑事(坂上二郎)と2人で走っている水谷豊編のオープニングシーンが好きでした。
『赤い激流』は『赤いシリーズ』といわれた人気ドラマシリーズの第5弾です。水谷豊はピアニストの役ですが、「35万円でピアノを購入し、全くの素人だったが猛練習の末、4日目にはエリーゼのためにを全曲弾けるようになりピアノの先生に驚かれた事を自慢としている」(Wikiより)とあるように、『ラ・カンパネラ』を代役なしで弾いているシーンがあります。このことに限らず、水谷豊は役作りに対して妥協がありません。
『熱中時代』は、北海道出身の小学校の先生役でした。いささかデフォルメされた方言を隠さない素朴なキャラクターが受けて、視聴率40%のおばけ番組になりました。熱中時代は、その後も続編や刑事編などが制作されました。
『刑事貴族2』では、毎回、独特の軽い口癖を発します。「あ~あ、お恥ずかしったらありゃしない」「あ♪ラッキー♪ラッキー♪ラッキー♪」「本城、了解~!」ドラマも軽快でコミカルな面もあり、捜査のために多彩な変装も行っていました。
そして、その集大成ともいえるのが、『相棒』シリーズかもしれません。
それまでの水谷豊は、センシティブであったり、多少暴走もする行動派であったりと、庶民的な特徴がありましたが、『相棒』では優秀なキャリアで、超人的な推理力・洞察力を駆使して活躍しています。
ただ、私個人は、『刑事貴族2』や『夜明けの刑事』の水谷豊の方が感情移入できるような気もします。

♥️2023💃7/14 椎名桔平(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

巨人・大鵬・卵焼き 昭和36年の流行語 当時経産省の官僚 堺屋太一が発した。

初代~現在迄の黄門様役の俳優さん
黄門様は東野英二郎さんの
イメージが強いですね。
ジャイアントロボ(1967-1968)
悪の組織BF団と世界的な防衛組織ユニコーンの戦いを通し、BF団の操る怪獣及びロボット対ユニコーンの一員となった少年・草間大作の命令のみで動く巨大ロボット・ジャイアントロボ(GR1)の戦いを描く。

『ウェスト・サイド物語』を思わせる非常階段が印象的だった海岸通り 横浜郵船ビルと神奈川県警本部の間にあった その名もザ・横浜的な「横濱ビル」。先の大戦で壊滅した横浜の復興のシンボルとして昭和25年施工。昨年解体。。

♥️2023💃7/13 石川秀美(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

夏休みに放送していました。日本のアニメには無い独特の映像が新鮮でした

’70年代のボウリングブーム

昭和42年 国産最高峰の車クラウンです。

敵に渡すな♬〜
大事なゼンマイ♪〜(笑)😂‼️
https://youtu.be/hX_rs1GSupY
皆さんこんばんは
今夜は❬黛ジュン❭さんで
‘天使の誘惑💘,です。
今日も気温がグングン上がり
ついに真夏日と成りました,
そこで夏に聴きたくなる曲をアップします!皆さんご存知のナンバーですよネ昭和43年にレコード
大賞を受賞した曲です(˶′◡′˶)👌
🎤👶グッド・ナイト・ベイビー👶☆🎤☆🔱ザ・キングトーンズ🔱🎤
🎶🎤👶🎤🎶👉 https://youtu.be/0zHehjrYXLI
日本人のR&Bシンガーというと、その元祖として名前が登ってくるのは和田アキ子、柳ジョージ、上田正樹、シャネルズ (ラッツ&スター) などというミュージシャンかもしれない。しかし、自分の知る限り、その元祖はザ・キングトーンズである。年をとった人なら分かるだろうが、彼らが1968年に放った 「グッド・ナイト・ベイビー」 こそ、おそらくラジオ・テレビなどの公共の電波を通じて、日本人がいちばん早くキャッチした和製R&Bではなかったろうか。ザ・キングトーンズのグッド・ナイト・ベイビー。今までに耳にしたことがない曲調とリズム。でもパンチの効いた歌声大好きだった。今思えば、日本人にR&Bの良さをねじ込んだ、素晴らしい名曲。これ、今、がんがん流したら、洋楽に慣れた今の日本人の感覚にはぴったりかもね!
🎶🎤👶🎤🎶👉 https://youtu.be/W2Yeiyaipz4
🧴🧴🧴🧴【オロナミンCドリンク】🧴🧴🧴🧴
🧴🧴🧴🧴➡ https://youtu.be/UmGHGzx9nvs
オロナミンCドリンクは、大塚製薬が販売しているビタミンCをはじめとする各種ビタミンが入った炭酸栄養ドリンクです。製造は大塚化学で、実際の製品は大塚食品の大塚食品徳島工場・大塚食品釧路工場、大塚製薬鳴門工場で製造されています。単にオロナミンC、オロナミン、省略してオロシーとも呼ばれる。商品名は、大塚製薬の皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」とビタミンCの「ミンC」を合わせたものです。1965年2月に販売が開始された。ガラス製の瓶入りで当時は王冠型のキャップが使用され、内容量は120ミリリットルで基準価格は120円であった。イソロイシンなどの必須アミノ酸、ビタミンB2。ビタミンB6、およびビタミンCを含む。ビタミンB2が含まれていることから紫外線を吸収し、可視光線としてはき出すためブラックライトに当てると光る。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの店頭、および大塚製薬の自動販売機で販売されている。日本での累計販売本数は1985年に100億本、1995年に200億本、2011年5月に300億本となっています。
昭和時代の夏は縁側で皆んなでスイカを食べました🥰🐼❤️
お菓子のカールですが、関東では売られて無いようですね🥰🐼❤️カレー味が大好き❤
子供の頃はマクワウリを食べました🥰🐼❤️
親にメロン🍈と言われてました。