Apex product 【 昭和の楽しい時代 75 】

カラオケ大会。
若山富三郎
菅原文太
菅井きんさん
(1926年2月28日-2018年8月10日)
女優。
身長155cm。
特技は三味線。
東京府東京市牛込区早稲田町出身。
頌栄高等女学校卒業。
1943年から第二次世界大戦終戦直後迄に、
男性職員出征のため、文部省総務課・東京帝国大学学生課で事務職員として勤めていました。
しかし、演劇への情熱が捨てられず、
1947年に東京芸術劇場に入所するも解散。
劇団俳優座に入団して舞台に。
新劇時代に映画女優としてスカウトされ、
1951年に『風にそよぐ葦』でデビュー。
1954年、『ゴジラ』に代議士の役で、
1955年の『愛のお荷物』(日活)にも
殆ど同じ格好をした野党の議員役で登場。
1973年、『必殺仕置人』の主要人物・中村主水を「婿殿!」といびる姑・中村せん役で出演。
その後も必殺シリーズ(主水シリーズ)に必ず登場し、
シリーズを語る上で欠かせない存在となり、
この役によって現在の地位を築きます(曰く「初めての苗字がある役でした」)。が、
この役があまりに有名になり、
「せん役のイメージのせいで、
娘の縁談に支障が出る」と降板を願い出たことも(無事に娘が結婚したため、降板願いは撤回)。
同年、『太陽にほえろ!』には
松田優作演じる柴田純(ジーパン)刑事の母・柴田タキ役で出演。
夫を亡くして女手一つで息子を育て上げ、
息子も大の母親思いという理想的な親子を演じきりました(松田は最終的に殉職という形にて1年で番組を卒業するものの、菅井は、その後も同役でゲスト出演)。
藤商店のCMにも起用。
1980年代からは
バラエティー、ワイドショーにも出演。
『タモリのボキャブラ天国』では、
当時高齢だったにもかかわらずスカイダイビングを経験。
『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』等のコント番組にもレギュラー出演。
1994年、『家なき子』での「鬼婆演技」で話題に。
夫は映画『砂の器』『八甲田山』などに携わった
劇団俳優座出身の映画プロデューサーの佐藤正之で、
一女を儲けました。
佐藤が亡くなった1996年以降は娘夫婦と一緒に暮らし、
2014年の時点では曽孫も。
80代に入ってからも女優業を精力的にこなし、
2008年に製作された映画『ぼくのおばあちゃん』では82歳にして映画初主演を果たし、
世界最高齢映画主演女優としてギネスに申請し認定。
2009年には
資生堂のCM「ウーノ フォグバー」でエリザベス女王に扮装して若手俳優と共演。
しかし2010年に
NHK大河ドラマ『龍馬伝』及び映画『瞬 またたき』に出演したのを最後に、
女優として事実上引退。 
2018年8月10日午後2時頃、
心不全の為、東京都内の自宅で死去。
92歳没。
地方銀行が初任給引き上げ 「メガバンク並み」1割超
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB273EB0X20C24A2000000/?n_cid=DSPRM1489
全地銀の半数超にあたる55行が2024年度以降に初任給を上げます。京都銀行や福岡銀行などはメガバンクと同等の26万円に。人材確保へ争奪戦が激しくなっています。
女優・歌手の中山美穂さん😁⤴️
愛称はミポリンです。
毎度おさわがせしますで女優デビューされました。
そのごは夏・体験物語、ビーバップ・ハイスクールなどに出演されています😃
また歌手としてもCでデビューされました🎵
1970年3月1日生まれ😋
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
コメディアン・ミュージシャンの加藤茶さん👀⤴️
ザ・ドリフターズのメンバーとして映画やテレビに多数出演されています😃
加トちゃんぺやちょっとだけよなどのギャグが印象に残っています☺️
1943年3月1日生まれ👀
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
原田 芳雄さん
(俳優、歌手)
1940年2月29日生まれ。
2011年7月19日没、享年71
東京都出身
紫綬褒章はじめ、俳優として各種表彰受賞。
息子はギタリスト・原田喧太。娘は女優・原田麻由。孫は女優の御子柴彩里。 
原田の仕種や台詞廻しに影響を受けた俳優も多く、松田優作は一時期その一挙手一投足を研究し、模倣したとも言われる。
スリ
2000年公開
原田芳雄が都会の片隅で生きるスリを、圧倒的な存在感で演じる人間ドラマ。世代の異なる2組の男女の関係を軸に、孤独を抱えて生きる人々の感情をリアルにすくい取っていく。
監督:黒木和雄
キャスト
原田芳雄
風吹ジュン
真野きりな
柏原収史
川島郭志
石橋蓮司
平田満
香川照之
岸本裕二
hal
真理明美
北見マキ
すまけい
伊佐山ひろ子
原田芳雄さん
(1940年2月29日※公称-2011年7月19日)
俳優、歌手。
身長175cm。
東京府東京市下谷区金杉二丁目(現:東京都台東区下谷三丁目)生まれ。
紫綬褒章はじめ、俳優として各種表彰受賞。
息子はギタリスト・原田喧太。
娘は女優・原田麻由。
孫は女優の御子柴彩里、原田琥之佑。
本所工業高校を経て
1962年に俳優座養成所に14期生として入団。
ただし養成所の授業料を払えなくなって1年留年した為、
15期生として卒業(後年「花の15期生」と呼ばれました。
同期に、
夏八木勲、栗原小巻、竜崎勝、前田吟、林隆三、
地井武男、高橋長英、秋野太作、浜畑賢吉、
赤座美代子、太地喜和子、小野武彦、村井国夫、
柴田侊彦、溝口舜亮等)。
劇団俳優座準座員を経て座員に。
1967年に『天下の青年』(フジテレビ)でデビューし、
翌1968年には『復讐の歌が聞える』で映画デビュー。
デビュー当時こそ純朴な青年風なキャラクターでしたが、
その後浅黒いワイルドなアウトロー風キャラへと大々的なイメージチェンジを図り、
その風貌を印象づけていきました。
1971年、
俳優座の体質を批判して市原悦子、菅貫太郎、中村敦夫らとともに退座。
テレビドラマ『冬物語』で脳腫瘍に冒されたテストドライバーを演じて人気を博し、
女性視聴者から助命嘆願が殺到。
1974年には映画『竜馬暗殺』で主役の竜馬を演じ、
ワイルドで大胆不敵な演技により「竜馬役の新境地を開いた」と評されました。
その後も圧倒的な存在感と的確な演技力を武器に、
日本を代表する映画監督はもとより若手の監督からも絶大な信頼を受け、
生涯で100本を超える映画に出演。
彼の仕種や台詞廻しに影響を受けた俳優も多く、
松田優作は一時期その一挙手一投足を研究し、
模倣したとも言われます。
その一方で年齢とともに演技力は円熟味を増し、
宮沢りえとダブル主演した『父と暮せば』の演技をめぐっては「動的な笠智衆」(的田也寸志)とも評されました。
キャリアと共に数多くの映画賞を受賞する一方、
2003年には、功績が讃えられ紫綬褒章を受章。
他にも独特の渋い声を生かして映画などのナレーションを担当したり、
ミュージシャン・ブルース歌手としても数多くの作品を発表し、
精力的にライブ活動を行うなどの活躍をみせました。
又『タモリ倶楽部』等のバラエティ番組にも出演。
2008年10月に急に胃の調子が悪くなり、
翌11月に診察を受けて早期の大腸癌が発見され入院、
がんの摘出手術を受けて1か月間静養ののち同年末から仕事に復帰し、
その後は抗がん剤治療を受けながら俳優活動を続けましたが、
がんが発見された時点で既に末期の状態にあり、
余命宣告がなされていました。
2011年7月19日午前9時35分、
腸閉塞と肺炎の併発の為東京都内の病院で死去。
71歳没。

ウーマンリブ

南田洋子さん
(1933年3月1日-2009年10月21日)
女優。
東京市芝区(現:東京都港区)三田出身。
文化学院文学科卒業。
身長155cm。
夫は長門裕之。
義弟に津川雅彦、
義妹に朝丘雪路、
夫の姪に真由子、
甥に北田陽一郎、
従兄弟の娘に山田よう子。
東京市芝区三田に米穀商の娘として誕生。
母親は日本舞踊の師匠。
終戦後、茨城県土浦市に移り、
1949年(昭和24年)、
茨城県土浦第一高等女学校(現:つくば国際大学高等学校)を卒業後、
16歳で単身上京、(1952年(昭和27年)文化学院卒業)。
水谷八重子に弟子入り。
1951年(昭和26年)大映5期ニューフェイスとして入社。
同期に若尾文子。
翌1952年(昭和27年)の『美女と盗賊』で映画デビュー。
1953年、
若尾文子と共演した『十代の性典』が大ヒット。
好評によってシリーズ化され、「性典スター」と呼ばれました。
1955年、大映から日活に移籍。
日活の常務の進言により、
芥川賞を受賞した話題作『太陽の季節』が映画化されて長門裕之とともに主演し、こちらも大ヒット。
名実ともに日活の看板スターとなった。
1957年の『幕末太陽傳』では左幸子と共演して話題に。
1961年、長門と結婚。
1963年(昭和38年)、『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。
同年、『おかしな奴』でホワイト・ブロンズ賞女優賞受賞。
1964年(昭和39年)、
長門とともに「人間プロダクション」を設立。
太田博之、島かおり等を育てると同時にドラマ制作にも乗り出し、
この時期よりテレビドラマへの出演も多くなり、
NHKの『紀ノ川』(1965年)で「日本放送作家協会女性演技賞」を受賞。
1970年、
NHK連続テレビ小説「虹」でヒロインを務めました。
又、
女優としての活動以外にも長門と2人で『ミュージックフェア』の司会を
1965年(昭和40年)から約16年間、
京都放送の交通遺児募金キャンペーン『かたつむり大作戦』のメインパーソナリティーを20年以上、それぞれ担当。
1978年(昭和53年)10月から1979年(昭和54年)9月までの約1年間、
病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで
『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者としても出演。
その他、
多くのバラエティ番組やCM、ドラマ等へ出演しており、
おしどり夫婦のイメージのもとに最晩年迄多彩に活動。
1998年(平成10年)には、
舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し評判に。
2004年(平成16年)頃から認知症の症状が表れ始め、
ドラマや映画の台詞が覚えられなくなる程悪化。2006年(平成18年)に芸能活動をひっそりと引退。
専門医によりアルツハイマー病との診断が下され、
2008年(平成20年)、
長門が『徹子の部屋』へゲスト出演した際に、
夫婦共々深い親交がある黒柳徹子へ南田が認知症で要介護状態であること打ち明け、
南田の病状を初めて公表。
同年には『報道発 ドキュメンタリ宣言』の第1回放送(2008年11月3日)で
長門との闘病の模様が放送され、
高視聴率を記録する等、大きな反響を呼びました。
2009年(平成21年)4月1日、
意識混濁状態となり救急車で都内の病院に緊急入院(同月18日に退院)。
翌5月には長門著『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)が出版され、
同年10月9日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で長門夫妻を取り上げた際には、
取材VTRの中で、
車椅子姿の南田が顔なじみのスタッフにねぎらいの言葉を掛ける一幕も。
その取材映像が生涯最後の公の映像に。
2009年(平成21年)10月17日に自宅で倒れ、
クモ膜下出血との診断を受けて病院に再入院。
危篤状況が続いていましたが、意識が戻らず、
同10月21日に
東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。
76歳没。
有島一郎さん
(1916年3月1日-1987年7月20日)
俳優。
愛知県名古屋市出身。
旧制名古屋中学校卒業。
有島一郎一座に始まり、
小夜福子一座、劇団たんぽぽ、劇団空気座、松竹大船、東宝芸能を経て、
最後はフリー。
俳優・歌手のRomi(成田路実)は孫。
鉄工所経営者の長男として生誕。
日置尋常小学校を経て名古屋中学に入学。
その頃から芝居好きで、
学生時代は学芸会の花形でしたが、
両親が相次いで亡くなる不幸に見舞われ、
自活を迫られます。
1933年、
俳優を目指して当時の人気スターだった田村邦男に弟子入り。
十代で軽演劇の世界へと飛び込み、
1936年に上京。
新宿のムーラン・ルージュに入り、
次第に頭角を現します。
1940年にまさ子夫人と入籍。
有島一郎一座を結成するも長続きせず、
小夜福子一座、
水の江滝子率いる劇団たんぽぽと渡り歩く内に
終戦を迎えました。
終戦直後に堺駿二と劇団空気座を旗揚げするも、
すぐに脱退。
結局は、
三木トリロー・グループの池袋公演に出演した事がきっかけとなり、
NHKラジオの『日曜娯楽版』に出演して全国的に有名に。
1947年、『若き日の血は燃えて』で映画デビュー。
1955年から東宝と専属契約を結び、
森繁久彌や三木のり平らと並ぶ喜劇役者としての地位を確立。
1961年から始まった加山雄三主演の『若大将シリーズ』で
加山の父親役としておばあちゃん (飯田蝶子) には敵わない役を好演。
テレビドラマでは『ありちゃんのおかっぱ侍』で主役。
舞台では菊田一夫率いる「東宝ミュージカルズ」で三木と共に中心的役割を果たします。
山田洋次監督の『なつかしい風来坊』辺りより、
ペーソス漂う演技で新境地を開拓。
1966年、
『暖春』での演技でアジア映画祭最優秀助演男優賞を受賞。
1972年、専属契約を解除。
フリーになり、
テレビドラマでのレギュラー(『飛び出せ!青春』での杉田良策校長役、『暴れん坊将軍』での加納五郎左衛門役等)で当たり役を得ました。
1987年6月1日頃から体調を崩し、
松平健主演の明治座舞台を降板し日比谷病院に入院するも、
7月20日午後1時10分に心不全の為死去(享年71歳)。
かまやつ ひろし / ムッシュかまやつ
(1939年1月12日-2017年3月1日)
ミュージシャン、俳優。
身長170cm。
通称「ムッシュ」。
「ザ・スパイダース」の元メンバー。
1989年以降は、
ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」が正式な活動名。
東京府(現・東京都)出身。
父はジャズシンガーのティーブ・釜萢。
長男のTAROかまやつことかまやつ太郎はアーティスト。
ジャズシンガーの浅田陽子は母方の叔母、
ジャズ・トランペッターの森山久は義理の叔父(浅田の夫)。
フォーク歌手の森山良子は従妹、
元・歌手の森山奈歩は従姪、
シンガーソングライターの森山直太朗は従甥。
①おいしい給食 Season1(2019年10月から放送/全10話)
②劇場版 おいしい給食 Final Battle(2020年公開)
③ おいしい給食 Season2(2021年10月から放送/全10話)
④ 劇場版 おいしい給食 卒業(2022年公開)
給食にまつわる学園コメディ。
①1984年夏。母が作る料理が不味いため給食を楽しみに学校に通う「給食絶対主義者」の中学1年の担任教師・甘利田幸男(市原隼人)と給食を愛する故に給食の献立を工夫して食す「給食マニア」の男子生徒・神野ゴウの給食にまつわる静かなる戦い。
②給食マニアの男子生徒・神野が「給食改革」の公約を掲げ生徒会長に立候補する。ところが教育委員会から給食の廃止の決定が告げられる。給食絶対主義の教師・甘利田が教育委員会の職員に反発したため転任させられる事に。
③1986年夏。赴任先の中学校に来てから2年経った給食絶対主義の教師・甘利田の前に無類の給食マニアの男子生徒・神野が転校生として現れた。給食をめぐる戦いが再び始まる。そんな中、教育委員会の職員から教師の給食は廃止にすると告げられる。
④給食センターの保護者向け試食会に紛れ込んだ教師・甘利田は今後、給食はヘルシー志向になる事を知り愕然とする。更に新しく届いた献立表で来月から白米が麦に変わると知った給食マニアの生徒・神野も給食センターに駆け込み2人の熱い給食愛が止まらない。
やばぁ〜面白ぉ〜い。
なんて真っ直ぐで清らかな給食愛。
市原隼人史上最高のはまり役?
#おいしい給食
峰竜太さん
(1952年3月1日-)
俳優、タレント。
身長173cm。
長野県観光大使。
長野県下伊那郡下條村出身。
男4兄弟の末っ子。
実家は酒店を経営。
2月29日生まれですが、
4年に1度しか「誕生日」が来ないのはかわいそうと
両親が1日ずらした日付で出生届を提出した為、
戸籍上は「3月1日生まれ」となっています。
長野県阿南高等学校卒業後、モデル事務所に所属。
『おはよう!こどもショー』の「お兄さん」として出演。
1973年に劇団青年座に入団。
共演した縁で海老名美どりと1975年に結婚。
1976年から石原プロモーションに所属し、
石原プロが制作する『大都会』『西部警察』などのテレビドラマに出演。
活動当初は二枚目路線でしたが、
『西部警察』で伊達メガネをかけて演じたひょうきん者の刑事・平尾一兵役で
お茶の間に顔と名前が浸透したことも手伝い、
石原プロ関連のイベントや特別番組の際には盛り上げ役として活躍。
その明るいキャラクターからバラエティ番組に活動の場が広がり、
石原プロ所属俳優では異色のソフト路線タレント、司会者として、
多くの番組で重宝される存在に。
バブル崩壊後は制作活動の規模縮小により、
看板俳優だった舘ひろしや神田正輝らを抑え、
石原プロの稼ぎ頭となっていました。
2000年、
24年に渡って所属した石原プロから独立し、
実家のスーパーマーケットの名前にちなんだ「オフィスさかや」を設立。
仕事が少なかった若手時代、
海老名家の計らいで石原プロに所属し、
『大都会』や『西部警察』に出演できた経緯がありましたが、
その後はバラエティに進出し、
往年の勢いが衰えた石原プロの屋台骨を支えた時期もあり、
十分恩返しができたと判断し独立に踏み切り、
独立以後も数々の司会業をこなし、
日本テレビ系『ザ!情報ツウ』では平日の「朝の顔」として定着。
2001年元旦には中国・北京のインファンエン体育センターから衛星完全実況生中継で放送した『Domino2001 〜ギネスに挑戦!〜』でプレゼンターを担当。
当時のドミノ倒し世界記録の目撃者となりました。
月曜日から金曜日迄は『ザ!情報ツウ』(2006年3月31日終了)、
土曜日は『ドラゴンズHOTスタジオ』『スーパーサタデー』、日曜日は『アッコにおまかせ!』と、
全曜日に生放送のレギュラーを持っていた時期が。
2023年3月、
生まれ故郷である長野県で紺綬褒章を受賞。
解けない謎をさらりと解いてぇ🎵
#懐特
#懐玩
#懐漫

懐かしのルーシーショー。

宇宙家族ロビンソン(昭和40~43年)TBS放送
ジョン・ウィリアムス-父
モーリー・  〃  -母 
ジュディ・ペニー・ウィルの姉弟、
ウエスト少佐、そしてドクタースミス!
ロボットのフライデーが宇宙船ジュピター2号で移住先の惑星への軌道を外れて宇宙をさ迷うストーリーでした。
ウイリアムス夫妻は夫婦愛に溢れていて家族愛も素晴らしかったと思います😊
向田邦子『だいこんの花』
「人知れず忘れられた茎に咲き
人知れずこぼれ散り
細かな白いだいこんの花」
『だいこんの花』は、1970年から1977年まで5部がテレビ・シリーズとして放映されたホームドラマで、オープニングは、上記の森繁久彌氏のペンによる詩を竹脇無我氏が朗読しながら、冨田勲氏のテーマ曲をタイトルバックに始まります。
標記は、その第4部に当たる1974年9月から1975年の3月の間に放映された30回分の脚本です。
ドラマでは、巡洋艦「日高」の元艦長の永山忠臣役である森繁久彌氏や、その次男である誠役の竹脇無我氏などの主役は、シリーズを通して変わらないのですが、この第4部でも脇役を含めたその設定に変化があります。特にここでの誠は恋人である風見比呂子(松本留美)と婚約寸前で破局なり、新たにバー「かもめ」のホステスである倉橋まり子(いしだあゆみ)が誠の前に登場します。
今から思えば、その表現においてPC的には問題になりそうな場面もありますが、それをも含めて「昭和」を象徴するようなプロットが展開します。
明治世代の頑固親父と、忠臣と戦後世代の現代っ子である誠との親子の様々なすれ違いを軸に、今では失われつつある家族の姿を描いた心温まる作品です。
ドラマとしては第1部と第2部(『新だいこんの花』)はDVD化されているのに対し、この第4部は未だDVDされずにあるのですが、標記が脚本であることから、その役をこなしたアクターのキャラを思い浮かべて読んでいくことに価値があるように思います。
女優の吉沢京子さん😁⤴️
燃えろ!太陽で映画デビューされました✨
そのご、柔道一直線や父ちゃんのポーが聞こえるなどに出演されています😃
1954年3月2日生まれ😋
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉

この漫画を読んでた人は昭和20年の後半生まれです🥰🐼🩷

駄菓子屋で買って、よーく
飛ばしてたなあ。
子供の頃に読んでいた漫画
冒険王です🥰🐼🩷

赤影 好きでした

岡田茂さん
(1924年3月2日-2011年5月9日)
映画プロデューサー。
身長180cm以上、柔道四段。
広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身。
東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て
2006年7月から再び東映名誉会長。
又、2008年4月より東京急行電鉄取締役。
東映"中興の祖"で、
松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは
「日本映画界のドン」であり、
戦後日本の娯楽産業を創った人物の一人。
広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身。
長男は、映画プロデューサーで東映社長・会長の岡田裕介。
長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子。
声優・ナレーターの政宗一成は従甥。
島津貴子さん
(1939年3月2日-)
元皇族。
島津久永の妻。
勲等は勲一等。
皇籍離脱前の身位は内親王で、
皇室典範における敬称は殿下。
旧名は、貴子内親王、
諱は貴子、御称号は清宮、
お印は橘。
昭和天皇と香淳皇后の第5皇女子(第7子、末子)。
第126代天皇・徳仁(今上天皇)と秋篠宮文仁親王の叔母。
第125代天皇・明仁(上皇)と常陸宮正仁親王の妹。
学習院大学文学部イギリス文学科在学中の 
1960年(昭和35年)3月10日、
日本輸出入銀行員であった島津久永と結婚し皇籍を離脱。
美川陽一郎さん
(1918年3月2日-1976年6月2日)
俳優。
東京市生まれ。
世田谷中学(私立)を卒業後、
義母との折り合いが悪く家出、
17歳の時に榎本健一の付き人となったのが芸能界入りのきっかけ。
1937年、19歳の時に新国劇に入団、
当初から老け役を得意とし、
『白野弁十郎』、『大菩薩峠』等に出演。
終戦後の1952年、
映画『次郎長三国志』(東宝、マキノ雅弘監督)の次郎長役に抜擢され、
新国劇を退団するも、
東宝の創業者・小林一三の意向で、
次郎長役は小堀明男に決定したため、
端役に回されました。
失意の時期を経て日活に移籍、
老け役で数々の作品に助演。
1963年、
TBSの刑事ドラマ『七人の刑事』のレギュラー、ベテランの小西刑事役に抜擢され、注目を浴びました。
以降、
多くのテレビドラマに脇役で出演していましたが、
1976年6月2日に肺炎で急死。
58歳没。
島崎 和歌子さん
1973年3月2日生まれ、51歳。
高知県南国市出身。
歌手、タレント、女優、司会者。
1987年夏、「ロッテ CMアイドルはキミだ!」に応募。中山美穂の50/50を歌い、グランプリは相川恵里に奪われたものの準優勝、芸能事務所にスカウトされる。
CM 
四国銀行(1990年 - )
デビュー当時から広告キャラクターを務めている。1990年代には、CMソングも歌っていた。
https://youtu.be/owi5oyokiEY
藤木悠さん
(1931年3月2日-2005年12月19日)
俳優。
東京府荏原郡荏原町出身の大阪府大阪市西成区育ち。
身長180cm。
趣味・特技はフェンシング。
大阪府立鳳高等学校、同志社大学文学部卒業。
大学在学中の1951年、
全日本フェンシング選手権大会男子エペ個人優勝。
1953年、
東宝ニューフェイス第6期に合格。
同期に岡田眞澄・宝田明・佐原健二・河内桃子ら。
翌年の映画『魔子恐るべし』でデビュー。
二枚目半の役柄を得意とし、
『イカサマ紳士録』(1956年)の競馬予想屋役で注目され、
「サラリーマンシリーズ」(1961年)で人気となり、
共演した高島忠夫とは親友でした。
他には
『隠し砦の三悪人』(1958年)、
『小早川家の秋』(1961年)や
『キングコング対ゴジラ』(1962年)、
テレビドラマ『青春とはなんだ』に出演し、
1974年にフリー。
以後はテレビドラマを中心に活躍。
TBSドラマ『アイフル大作戦』では
主人公役の小川真由美に振り回される刑事をコミカルに、
『バーディー大作戦』と『Gメン'75』では叩き上げのベテラン刑事を演じました。
千葉真一主演の時代劇『柳生あばれ旅』(1980年)では
相棒役の桜木健一と毎話絶妙な掛け合いを演じ、
1980年代にフジテレビの『火曜ワイドスペシャル』で放送された『タケちゃんの思わず笑ってしまいました』では、
刑事ドラマをパロディにした「太陽に叫べ!」でニンニク刑事役を演じました。
仕事が好調だったこともあって毎日暴飲暴食と痛飲を繰り返し
「オレは不死身悠だ!」等と自分の名を洒落て豪語。
しかしそれが仇となり、後に糖尿病を発症。
末梢神経障害で足の指先を少しではあるが切除することに。
以後は妻の協力もあって健康に気を付けており、
自らの体験談から糖尿病に対する警告を促していました。
2005年12月19日午後7時55分、
肺血栓塞栓症による多臓器不全により、
74歳で死去。

昭和20年代 作家の永井荷風さん。戦後しばらく経ってもなかなか安堵できない日々が続くが、写真は浅草ロック座でストリップ嬢との写真、皆さん笑顔いいですね。(カラー化しました。)

西村京太郎さん
(1930年9月6日-2022年3月3日)
推理小説家。
人気シリーズである十津川警部シリーズや、
トラベルミステリーで知られます。
東京府荏原郡荏原町(現東京都品川区)生まれ。
国民学校卒業後、
東京府立電気工業学校(東京都立鮫洲工業高等学校の前身)に進むも中退し、
東京陸軍幼年学校に挑戦。
100倍の競争率を突破して入学するも、
在学中の15歳で終戦を迎えた為、
工業学校へ復学し、卒業後、
臨時人事委員会(後の人事院)に就職。
11年勤務後に退職し、
トラック運転手、保険外交員、私立探偵、警備員等を経て作家生活に入ります。
初期は社会派推理小説を書いていました。
直にスパイ小説、クローズド・サークル、パロディ小説、時代小説等多彩な作品群を発表。
中でも海難事故もの(本人が海が好きだった為。又、十津川警部は大学ヨット部出身という設定。)、
誘拐もの(あらゆる犯罪の中で最も知能を要するので推理小説にふさわしいと考えた為)が多数。
日本中にトラベルミステリーというジャンルを示すきっかけとなったヒット作『寝台特急殺人事件』から
全面的にトラベルミステリーに移行。
本人が考えた、鉄道等を使ったトリックやアリバイ工作は、
そのリアリティが功を奏し根強い人気が。
シリーズキャラクターである十津川警部や左文字進等を生み出し、
その作品の多くがテレビドラマ化。
年6度の取材旅行で12社分の小説を書くという執筆スタイルを続け、
オリジナル著作は649冊。
本人によれば最高年収は7億円。
その後も新刊の刊行は続いており、
累計発行部数は2億部を超えます。
2022年3月3日午後、
肝臓がんの為神奈川県の病院で死去。
91歳没。
安井昌二さん
(1928年8月16日-2014年3月3日)
俳優。
東京府出身。
日本大学法文学部中退。
長谷川一夫主宰の劇団・新演伎座、俳優座養成所(3期)を経て、
活動再開まもない日活映画の専属俳優となり『月は上りぬ』(1955年、田中絹代監督)で映画デビュー。
これを機に芸名役名へと改名。
1956年に市川崑監督の映画『ビルマの竪琴』の主役・水島上等兵を演じた事で一躍人気を獲得。
1960年代以降はテレビや舞台へと活動拠点を移し、
妻・小田切みきと二人の娘四方正美、四方晴美と夫婦親子役で出演した『パパの育児手帳』『チャコちゃん』などでお茶の間においても人気者に。
1963年に初代水谷八重子の相手役として新派公演へ招かれたのを機に度々客演し、
1968年に正式に新派へ入団。
初代八重子亡き後は、
二代目水谷八重子、波乃久里子、菅原謙二と共に「新派四本柱」として劇団を担い、
舞台を中心に活動を続けていました。
2014年3月3日午前9時、
急性心不全の為千葉県の自宅で死去。
85歳没。
広川太一郎さん
(1939年2月15日-2008年3月3日)
俳優、声優、司会者、ラジオDJ。
身長174cm。
東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)出身。
中野区立第九中学校(現:中野区立中野中学校)、
東京都立文京高等学校卒業、
日本大学芸術学部演劇学科卒業。
事務所に所属せず、生涯フリーランスで活動。
個人事務所を経営。
妻は元女優の加茂良子。
実妹は元声優兼歌手の広川あけみ。
作曲家の藤森崇多は甥。
コメディ作品等における言葉遊びを駆使したアドリブや独特な口調は
「広川節」等と呼ばれ親しまれました。
【安す〜い!でおなじみの人】
名前:保科 有里(ほしな ゆり)
本名:嶋 一美(しま かずみ)
生年月日:1961年11月24日(62歳)
出身地:石川県金沢市
身長:163cm
独身!
保科有里は、夢グループに所属する歌手です。
作曲家・三木たかしに師事し、1993年にソニーレコードよりシングル「神無月に抱かれて」で歌手デビューしました。
2008年にリリースした「さくらの花よ泣きなさい」で第一回作曲家協会音楽祭奨励賞を受賞し、2017年にはデビュー25周年を記念してベストアルバムをリリース。
歌謡曲からジャズまで幅広いジャンルの音楽を歌い、音楽活動で活躍しているのはもちろん、現在はCMやラジオにも出演し、夢グループ所属歌手として「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」にも出演するなど、精力的に活動を行なっています。
女優の浅野温子さん😋
エデンの海で映画デビューされました✨
スローなブギにしてくれや汚れた英雄などにも出演されました。
ドラマではあぶない刑事やパパはニュースキャスター、抱きしめたいなどに出演されています😃
1961年3月4日生まれ😄
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
歌手・タレントの山本リンダさん😄
こまっちゃうナやどうにもとまらない、狙い打ちなどのヒット曲をリリースされています🎵
また仮面ライダーにも出演されました。
1951年3月4日生まれ😁
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
天知茂さん
(1931年3月4日-1985年7月27日)
俳優・歌手。
芸名はファンである中日ドラゴンズの天知俊一監督と杉下茂投手が由来。
愛知県名古屋市出身。
東邦商業学校卒業。
旗本・水野十郎左衛門の子孫で、家は旧尾張藩士。
高校卒業後、1949年に松竹へ。
大部屋俳優以下の仕出し扱いで、
2年間、通行人などをこなしましたが解雇。
1951年、
第一期新東宝スターレットに選ばれ入社。
同期には
左幸子、久保菜穂子、高島忠夫、三原葉子、松本朝夫、小笠原弘ら。
同期の新人が次々と主演に抜擢される中、
ここでも殆ど仕出し扱いで、
最初の2年間は給料わずか5千円、
兄からの仕送りがなければ暮らせませんでした。
仕出しやちょい役が続きましたが、
1954年、
蟻プロ制作の低予算映画『恐怖のカービン銃』で初主演。
その後も脇役ばかりでしたが、
大蔵貢が社長に就任すると、
経費削減の為、
給料の高いスター級の俳優とは契約を打ち切り、
脇役俳優に役が回ってきました。
1957年(昭和32年)、『暁の非常線』で2度目の主演。
悪役俳優として注目されるようになり、
1959年、
映画『東海道四谷怪談』で監督の中川信夫より民谷伊右衛門役に抜擢され、
迫真の演技力により注目されます。
以後、
1961年迄多くの主演作が作られるように。
労働組合委員長として新東宝倒産まで在籍。
1961年、大映と本数契約。
時代劇を中心に準主演級で1971年の大映倒産迄活躍。
『座頭市物語』の平手造酒役での個性的な演技で頭角をあらわし、
田宮二郎主演の犬シリーズではコミカルなショボクレ刑事役をこなしました。
伊藤大輔脚本・三隅研次監督・伊福部昭音楽の『眠狂四郎無頼剣』(シリーズ第8作)では、
狂四郎の敵役として対等の存在感を見せました。
1964年以降は兄貴分の鶴田浩二のいる東映の任侠映画でも準主演級で活躍。
次第に役域を広げる機会に恵まれ、
1968年には三島由紀夫の依頼により、
美輪明宏主演舞台『黒蜥蜴』(原作は江戸川乱歩、脚色は三島)で明智小五郎役を演じ、
これが当たり役に。
1966年に「A&Aプロダクション」を設立し独立(後にアマチプロゼに改称)。
ニヒルな渋さを漂わせた個性派俳優としてハードボイルドの代表的スターの一人となり、
かつてとは逆に、
刑事など社会正義派的な役どころがはまり役となっていき、
テレビ朝日系で放送された『非情のライセンス』や、
土曜ワイド劇場で連続放映された『江戸川乱歩の美女シリーズ』は人気のシリーズに。
又、『非情のライセンス』では主題歌「昭和ブルース」をヒット。
テレビ時代劇においても、
主演及び主要脇役として活躍。
『雲霧仁左衛門』『無宿侍』『江戸の牙』『闇を斬れ』『地獄の左門十手無頼帖』等連続ドラマやシリーズ物の主演多数、
TBS系高視聴率番組『大岡越前』では与力・神山左門役で存在感を示しました。
俳優以外の活動としてアマチフィルムを設立。
自らも宇寿木純というペンネームでメガホンをとり、
中川信夫の監督映画『怪異談 生きてゐる小平次』では題字を手掛けました。
明智シリーズも25作目を数え、
時代劇やコメディドラマでも味を見せ、
新たな映画製作の企画を進めていた矢先の1985年7月27日(土曜日)、
クモ膜下出血により
渋谷区の日本赤十字社医療センターにて死去。
満54歳没。

ちり紙交換車 【お疲れ様です。毎度お馴染みのちり紙交換でございます。御不要になった新聞…】

柳沢慎吾さん
(1962年3月6日-)
タレント、俳優。
身長165cm。
神奈川県小田原市出身。
地元の小田原市立/白鴎中学校卒業を経て、
私立/立花学園松田高等学校卒業。
中学時代、バレーボール部に所属。
高校時代(1978年)、
『ぎんざNOW!』の「素人コメディアン道場」で
第20代チャンピオンとなり、芸能界デビュー。
翌年(1979年)、
『3年B組金八先生』のヤンキー生徒役として、
テレビドラマデビュー。
『ふぞろいの林檎たち』『翔んだカップル』等で、
俳優としての地位を確立。
その後は俳優として活動する傍ら、
バラエティ番組では「うるさい」「落ち着きのない」キャラクターを披露し、
特に1989年にとんねるずの特番『仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきますスペシャル』で放送された「芸能人ねるとんコーナー(ねるとんね紅鮭団)」において、
「ごめんなさい」を受けた際(過去同番組で2戦2敗・相手は内海和子、吉田美江)に言い放った
「あばよ!」の決めゼリフが大ブレイク。
26歳(1986年)で、エランドール賞新人賞受賞。
32歳(1992年)で当時美容師の一般人女性と結婚。
持ちネタは、
自分が体験したり見た事柄を、
一人で身振り手振りと声色、
時には自分の所持品やその場に見える物を巧みに利用し(それらを鳴らし効果音としながら)再現するコントのような独り芝居を行います。
中でも十八番の『警察24時』や甲子園ネタや山城新伍、石立鉄男などの物真似も。
又、
水を飲もうと口に近づけたコップを歯にぶつけたり、
リップクリームを唇だけでなく眉毛に塗ったりするなどの「小ネタ」も。
2010年05月01日(48歳)、
出身地である小田原市の初代「小田原ふるさと大使」に任命。
悲報!
ドラゴンボールやDr.スランプなど大ヒット漫画
で知られる漫画家の鳥山明さんが亡くなった。
68歳だった。
所属事務所によると鳥山さんは3月1日、
急逝硬膜下血腫により亡くなったということだ。
鳥山さんは1955年生まれ。週刊少年ジャンプで
Dr.スランプやドラゴンボールを連載。
ドラゴンボールの単行本は様々な言語に翻訳され
世界中で大ヒットし、累計発行部数は2億部を
超えている。アニメや映画、ゲームなど多方面に
展開し、多くのファンを楽しませてきた。
また大ヒットゲーム、ドラゴンクエストシリーズ
のキャラクターデザインでも知られる。
●鳥山さんの所属事務所のコメントは以下の通り。
突然のご報告になりますが、漫画家・鳥山明は
2024年3月1日、急逝硬膜下血腫により
永眠しました。
熱心に取り掛かっていた仕事もたくさんあり、
まだまだ成し遂げたいこともあったはずで、
残念でなりません。
ただ、故人は漫画家としていくつもの作品を
世に残して参りました。
多くの世界中の方々に支持していただき、
45年以上にわたる捜索活動を
続けることができました。
これからも鳥山明唯一無二の作品世界が、
末長く皆様に愛され続けることを切に願います。
生前のご厚誼に深く感謝し、
ここに謹んでお知らせいたします。
なお、葬儀は近親者のみで執り行いました。
静謐を望む本人の意向により、ご弔問、ご香典、
ご供物、ご献花その他はご辞退申し上げます。
家族への取材等につきましてもお控えいただけ
ますよう、ここにお願い申し上げます。
今後のお別れの会等については未定ですので、
決まり次第お知らせいたします。
何卒ご理解を賜りますよう
よろしくお願いいたします。
2024年3月8日株式会社バード・スタジオ
株式会社カプセルコーポレーション・トーキョー
水木しげるさん
(1922年3月8日-2015年11月30日)
漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。
大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。
ペンネームは、
紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から。
幼少時、
神仏に仕える拝み屋の妻でまかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が
語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受けます。
高等小学校卒業後、
画家を目指して大阪で働きながら学び、
やがて徴兵年齢に達し1943年に召集され、
大日本帝国陸軍軍人として第二次世界大戦下のニューギニア戦線・ラバウル(司令官:今村均陸軍大将)に出征。
過酷な戦争体験を重ね、
アメリカ軍やオーストラリア軍の攻撃で左腕を失います。
一方で現地民のトライ族と親しくなり、
ニューブリテン島に残ることも希望しましたが、
周囲の説得で日本へ復員。
復員後は貧窮により画家の修行を諦め、
生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。
1958年、
貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。
1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始め、
1961年、飯塚布枝と見合い結婚。
1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。
1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。
1965年に『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞し、
貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、
妖怪を扱った作品により人気作家に。
1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。
最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化。
1993年、
幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、
2003年には水木しげる記念館が開館。
長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、
1991年に紫綬褒章、
2003年に旭日小綬章を受章。
2007年、
『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。
又、
1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞。
妖怪研究家として、
世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員等を歴任。
調布市名誉市民、東京都名誉都民、鳥取県名誉県民。
2010年に文化功労者にも選ばれました。
2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。
2015年11月30日、多臓器不全により死去。
93歳没。
河内桃子さん
(1932年3月7日-1998年11月5日)
女優。
身長170cm。
東京市下谷区谷中出身。
日本女子大学附属高等学校卒業。
昭和20年代にデビューした女優としては久我美子と並ぶ名家出身。
祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏、
父は正敏の次男で画家であった大河内信敬。
夫は今治松平家末裔でテレビプロデューサーの久松定隆。
高校卒業後、OLをしていましたが、
1953年に東宝ニューフェイスの6期生として東宝に入社。
同期には宝田明、佐原健二、藤木悠、岡田眞澄。
入社した年の『女心はひと筋に』で映画初出演。
1954年の出演5作目『ゴジラ』ではヒロイン・山根恵美子役に抜擢。
その後も青春映画を中心に、
数多くの映画に出演し、
1957年には年間で10作を数えました。
演技を勉強し直すため、
1958年に東宝を退社し、
俳優座養成所に8期生として入所。
同期には
山﨑努、水野久美、嵐圭史、山本耕一、小笠原良知、松本典子。
翌年、俳優座へ正式に入団。
その後は活動の軸足を舞台やテレビドラマへと移します。
TBSテレビのホームドラマで活躍し、
石井ふく子と橋田壽賀子の作品には常連出演。
特に晩年の代表作である『渡る世間は鬼ばかり』では
高橋文子(中田喜子)の義母・高橋年子役を演じ、
連続ドラマのレギュラー出演作としての最後の出演となった第3シリーズでは、
アルツハイマー病に蝕まれていく苦しい役柄が反響を呼びました。
1995年には、
平成ゴジラシリーズ最終作の映画『ゴジラvsデストロイア』で
41年ぶりに山根恵美子役を演じました。
『土曜ワイド劇場』等の2時間単発ドラマにも出演。
1997年7月21日に放送されたTBS放送の月曜ドラマスペシャル『演歌・唱太郎の人情事件日誌3・伊香保殺人事件』がテレビドラマの最後の出演。
最後の出演映画はその2日前の7月19日に公開された『良寛』。
同年の冬、
俳優座の舞台『ゆの暖簾』の東北地方を中心にした巡業中に体調不良を訴え、
年が明けた1998年1月に大腸がんと診断。
前年12月15日に山形県鶴岡市で出演した舞台が最後の仕事。
1998年11月5日の9時45分、
大腸がんの為、
入院先の東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センター病院で死去。
66歳没。
上條恒彦さん
(1940年3月7日-)
歌手、俳優、声優。
長野県東筑摩郡朝日村出身。
身長176cm。
朝日中学校(現・松本市山形村朝日村中学校組合立鉢盛中学校)を経て
長野県松本県ヶ丘高等学校を卒業後、
1958年4月に上京。
大森の雑貨品問屋の住み込み店員を手始めに、
新聞配達、サンドイッチマン、うたごえ喫茶の歌手等約15種類の職業を経験。
1964年3月、
初めて労音で勤務し、
後に歌手としてデビューするきっかけに。
1968年に結婚。
その後長男の恒(俳優)、次男をもうけました。
1979年頃離婚。
1983年、
付き人であった女優で16歳年下の女性と再婚、
4人の男児をもうけました。
末子・駿は俳優。
1970年1月10日より放送が始まった
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の準レギュラー出演者となり、
レギュラー出演者のグループであるヤング101のお兄さん格の扱いを受けました。
1971年、
グループ「六文銭」と共演した『出発の歌』で、
三重県合歓の郷で開催された「ポピュラーソング・フェステバル'71」のグランプリを受賞。
次いで11月、
第2回世界歌謡祭でグランプリ・歌唱賞を受賞。
翌1972年には、
第23回NHK紅白歌合戦に初出場。
又、
フジテレビ系列の時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌『だれかが風の中で』を歌い、ヒット。
9月には「日本歌謡祭」で『橋』が入賞。
1973年2月には、
沖縄海洋博の歌『珊瑚礁に何を見た』を制作。
同年、
『さよならの世界』で第4回世界歌謡祭の歌唱グランプリを受賞。
俳優としても活動し、
『3年B組金八先生』の社会教師・服部肇役で有名。
丸大食品のウインナー、フランクフルト商品のCMソングを1980年代に担当。
1985年には
鳥取県で開催された「わかとり国体」では、
大会テーマ曲の『スピリッツ』を秋季大会開会式で歌いました。
現在は、
長野県諏訪郡富士見町、八ヶ岳山麓に居住。
高木ブーさん
(1933年3月8日-)
コメディアン、ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)。
身長160cm。
ザ・ドリフターズのメンバー。
芸名の由来となったのは若い頃からの肥満体型。
東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)に生誕。
第二次世界大戦末期の1945年に戦災で焼け出され、
12歳の時に母方の郷里を頼って千葉県東葛飾郡柏町篠籠田(現:千葉県柏市明原2丁目)に一家で移り住み育ちました。
3人の兄と2人の姉を持つ6人兄弟姉妹の末っ子。
音楽に興味を持ったのは小学生の頃。
その後柏駅から常磐線と都電を乗り継ぎ都内の中学高校大学へ通い、
京北中学校3年の頃に、
ウクレレと出会いそれ以来夢中に。
中央大学経済学部卒業。
大学卒業後は、プロのミュージシャンに。
自身がバンドのリーダーを務める「高木智之とハロナ・セレナーダス」「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」、
「ニュー・フレッシュメン」時代を経て
ジェリー藤尾から声がかかり、
「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」のバンドマンとして日本の芸能界での活動を開始。
1960年代前半にエレキブームが到来したことで新バンド「ロジェ滋野とシャドーズ」を結成。
「パップ・コーンズ」時代に仲本工事と出会い次の「シャドーズ」でも行動を共にし、
2人はザ・ドリフターズに加入する事に。
横浜のジャズ喫茶「ピーナッツ」での演奏中に、
前ドリフリーダーでバンドオーナーだった桜井輝夫と、
ドリフの新リーダーであるいかりや長介にスカウトされ、
1964年9月16日(水曜日)、
ピアニストの欠員補充としてドリフに参加。
1984年9月14日、
『8時だョ!全員集合』のリハーサル中に
両足のアキレス腱を断裂し、
約4ヵ月の間活動を離脱。
1985年9月28日に『全員集合』が終了し、
その後はドリフとしての活動と並行して、
単独での活動も開始。
フジテレビ『ドリフ大爆笑』の「長介・工事・ブー おなじみ雷様」コントがシリーズ化され、
「雷様」が当たり役に。
以後、
雷様の扮装(角付き・緑のアフロヘアーのかつらに緑色の全身タイツと虎柄ショートパンツ)がトレードマークに。
1999年4月から6月に放送されたNHK教育テレビ『趣味悠々 高木ブーの今すぐ始めるウクレレ』に講師として出演。
2003年、
70歳を記念して自伝『第5の男~どこにでもいる僕~』(朝日新聞社)を出版。
2023年、
90歳の誕生日を迎えた記念に
2冊目の自伝『アロハ90歳の僕 ゆっくり、のんびり生きましょう』(小学館)を出版。
中田博久さん
(1943年3月9日-)
俳優。
身長176cm。
特技は柔道、殺陣、乗馬、ゴルフ、料理。
東京都出身。
日本大学藝術学部卒業。
東映出身。
父親は戦前中の二枚目俳優で戦後は映画製作会社の社長・中田弘二。
妻は女優の新井茂子。
甥は映画監督の中田圭。
柴田亜美は父の兄の孫
日本大学第二高等学校在学中の1960年、
父がかつて所属していた日活のニューフェースとして映画『南海の狼火』でデビュー。
その後、日本大学藝術学部に進学し、
卒業後の1965年に東映で再デビュー。
『昭和残侠伝』シリーズ等で重要な役柄を演じる一方、
特撮作品では主役級で活躍。
『名探偵明智小五郎シリーズ 怪人四十面相』では明智小五郎役を演じました。
1967年には『ウルトラマン』の後番組である『キャプテンウルトラ』に主演。
宇宙を舞台に怪獣や侵略者と戦う素顔の等身大ヒーローを演じました。
1970年代以降、
アクの強い悪役を演じる機会が増加。
『仮面ライダーアマゾン』(ゼロ大帝)や『超電子バイオマン』(メイスン)等に出演。
21世紀に入ってからは、
2時間ドラマに顔を出す他、
河崎実監督の作品には常連として出演。

ピンクレディー【ミー】さん🥰1958年3月9日生まれ🥰 自分は・・・ミーちゃん派でした😍😅

1981年(昭和56年)頃のオールナイトニッポンのパーソナリティです。
深夜ラジオ好きでした。
扇千景さん
(1933年5月10日-2023年3月9日)
女優、タカラジェンヌ(娘役・41期生)、政治家。
兵庫県神戸市出身。
参議院議長(第26代)、
国土交通大臣(初代・第2代)、
運輸大臣(第78代)、
北海道開発庁長官(第72代)、
建設大臣(第69代)、
国土庁長官(第36代)、
科学技術政務次官(鈴木善幸改造内閣)、
参議院文教委員長、
参議院議員(5期)、
保守党党首(初代)、
新進党参議院議員会長(第3代)、
靖国神社崇敬奉賛会会長(第3代)等を歴任。
位階は従二位、
称号は旭日大綬章、桐花大綬章(女性初)、
大韓民国修交勲章光化章、台湾一等景星勲章、
フランス共和国ボージョレーワイン委員会・フランス食品振興会認定コンパニヨン・デュ・ボージョレー騎士。
夫である四代目坂田藤十郎との間に、
歌舞伎役者の長男・四代目中村鴈治郎、
次男・三代目中村扇雀。
義妹は女優の中村玉緒。
今日2024/03/10
渥美清さんのお誕生日…。
ギネス世界記録の認定となる『男はつらいよシリーズ他』名作を有難うございました。
萬屋錦之介さん
(1932年11月20日-1997年3月10日)
歌舞伎役者、日本の時代劇・俳優。
前名は中村錦之助。
歌舞伎界から映画界に転じ、
当時を代表するスターとなり、
その後はテレビや舞台でも活躍。
身長162cm。
中村錦之助時代の屋号は播磨屋、
定紋は揚羽蝶で、
萬屋錦之介と改名してからの屋号は萬屋、
定紋は桐蝶。
愛称は錦ちゃん。
中村プロダクション代表(1968年 - 1982年)。
東映俳優クラブ組合委員長(1965年の約3か月間)。
満4歳になる直前に、
歌舞伎の初舞台を踏み、
以降39歳迄中村錦之助を名乗り、
1971年10月に小川家一門が屋号を播磨屋から「萬屋」に代えた1年後の1972年11月、
40歳を迎えた時に芸名を萬屋錦之介に改めました。
父は三代目中村時蔵。
伯父に初代中村吉右衛門、
叔父に十七代目中村勘三郎。
俳優の中村嘉葎雄は弟で、
五代目中村歌六、三代目中村又五郎、五代目中村時蔵、二代目中村錦之助、二代目中村獅童はそれぞれ甥。
母・ひなは、売れっ子だった赤坂芸者。
妻はいずれも女優の有馬稲子(初婚)、
淡路恵子(再婚)、
甲にしき(再々婚)。
長男で俳優の島英津夫と、
芸能人ではない次男は淡路の連れ子。
実子は淡路との間に三男の小川晃廣と四男の小川哲史。
渡辺哲さん
(1950年3月11日-)
俳優、声優。
身長181cm。
特技は英会話と乗馬。
柔道2段。
愛知県常滑市出身。
愛知県立半田高等学校卒業、
東京工業大学工学部化学工学科中退。
大学在学中は柔道部に所属。
同じ下宿にいた舞台芸術学院の学生に誘われて
シェイクスピア劇の劇団に参加、
1975年に劇団シェイクスピア・シアターを旗揚げ。
メンバーには佐野史郎や田代隆秀(現劇団四季)。
当初は制作志望でしたが
主宰者に俳優としても参加するように言われ、
同年から始まった全38作品の連続公演中37作品に参加。
裏方として経理を担当していて抜けるに抜けられない状態だったという事もありましたが、
1985年、黒澤明監督の『乱』で映画デビュー。
俳優として生きていくことを決意しましたが、
それだけでは食べていけず、アルバイトと掛け持ち。
1991年、
オーディションでたまたま合格したオーストラリアの映画『アンボンで何が裁かれたか』への出演がきっかけで
ドラマや映画の出演が次々と決まり、
40歳でアルバイトを辞め、俳優に専念。
強面で剛健な顔立ちをしており、
90年代にはVシネマにヤクザ役や殺し屋の役で多く出演。
その後も叩き上げの刑事役や頑固オヤジ役などが十八番に。
一方、
コメディ、お笑い、ラブストーリー等のテレビドラマにも多く出演しており、
スタジオジブリの劇場用映画への声優としての出演、バラエティ番組への出演も。
伊藤雄之助さん
(1919年8月3日-1980年3月11日)
俳優。
兄は二代目澤村宗之助、
弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、
妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。
子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。
付き人に大地康雄。
東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で
帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生誕。
1924年4月、
満4歳8カ月で“澤村雄之助”の芸名を名乗り、
父の舞台である四谷の大国座で初舞台。
初舞台の6日目に父が舞台で急逝する等、
苦労の多い幼年期を過ごしました。
教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎に入れられましたが、
慶應義塾普通部1年の夏に母が3万円程の借金を遺して病死したため学業中断を余儀なくされ、
「澤村兄弟プロダクション」を組織して芸能活動を再開。
1934年、
東京宝塚劇場開場と同時に公募された専属俳優に兄弟とともに応募、
「東宝専属男女優」第1号の1人に。
1940年に陸軍に応召、
1943年に一等兵で除隊されるまでに中国大陸で兵役に就きました。
その後は第2次東宝劇団に参加、
小夜福子組の移動演劇隊に加わって山形県を巡業中に終戦を迎え、
1946年に演劇隊を解散し、
東京に戻り八田元夫の演劇研究所に入ってからは、
スタニスラフスキー・システムによる演技を学びました。
映画は1932年に『少年諸君』で映画デビュー。
本格的な映画出演は戦後からで、
義兄である佐伯清の薦めで1946年に東宝撮影所へ入社。
特に1949年に公開された『野良犬』(監督・黒澤明)では、
端役でありながら印象的な演技を見せました。
その後東宝争議が始まった為に東宝を退社し、
新東宝、綜芸プロなどに所属。
この時期は市川崑作品の常連で、
主演をつとめた社会風刺喜劇『プーサン』(1953年)は、
監督ともども出世作に。
1954年よりフリー。
早い段階でフリーとなった為、
テレビドラマにも1950年代から多くの作品へ積極的に出演。
代表作に『巨人と玩具』『侍』『しとやかな獣』等。
特徴のある顔とアクの強い演技で多数の映画で名脇役として活躍、
『椿三十郎』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示しました。
一方で『気違い部落』『ああ爆弾』等では主演として鮮烈な印象を残しました。
1969年6月、
歌舞伎座の舞台に出演中に脳溢血で倒れ、
半身不随となるも懸命なリハビリの結果、
翌1970年には『橋のない川 第二部』(監督・今井正)にて俳優活動を再開。
晩年も『太陽を盗んだ男』では
日本兵の軍装で皇居に突撃しようとするバスジャック犯役で怪演を見せる等、
多数の映画・ドラマ等に出演。
1980年3月5日、
療養で伊東市の温泉へ行くも、
翌3月6日になって容態が悪化、
そのまま伊東市内の病院に入院。
3月11日に心臓発作で死去。
60歳没。
歌手の松田聖子さん😁
裸足の季節で歌手デビューされました✨
そのごは、青い珊瑚礁などの数多くのヒット曲をリリースされています🎵
ぶりっこや聖子ちゃんカットなども有名となりました。
1962年3月10日生まれ👍
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
女優の吉永小百合さん😁
ラジオドラマ、赤胴鈴之助でデビューされました✨
日活三人娘と呼ばれ、数多くの映画やドラマに出演されています。
1945年3月13日生まれ😋
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
懐かしき 昭和の
セーラー服が
良く似合った女優!
*桂木洋子…中学生の頃に初めて観た時、こんなに可愛い~お姉さんがいたら、、と憧れました!
*若尾文子…大女優もデビュー時は女学生.役をやってました
*佐久間良子…同い年でクラスメートのような親近感を覚えてました
*吉永小百合…女子高生.役は定番でした。
皆さん、それぞれにセーラー服が似合ってました!
森次晃嗣さん
(1943年3月15日-)
俳優。
身長176cm。
北海道滝川市出身。
滝川商業高等学校(現・北海道滝川西高等学校)卒業。
滝川市の土木建設業のまとめ役で元滝川町議会議員の父の次男として誕生。
1961年、高校卒業後に上京。
様々なアルバイトやモデル活動をしながら俳優を目指し、
1965年のテレビドラマ『青春をぶっつけろ』でデビュー。
1967年には、
円谷プロ制作『ウルトラセブン』の主役オーディションに50名の中から選ばれ、
モロボシ・ダン役を演じて年少ファンの人気を獲得。
その後、
現代劇から時代劇迄、テレビ作品、映画などに幅広く出演。
1969年、松竹と専属契約を結び、
井上梅次監督の『夕陽の恋人』で本格的に映画デビュー。
1972年にフリーとなり、
増村保造監督『音楽』(ATG)に助演。
1976年には、
日活労働組合が制作した岡本孝二監督『新・どぶ川学級』に、
貧しい子どもたちに無償で勉強を教える先生役で主演。
テレビドラマでは、
1971年にボウリングブームのさなかで制作された『美しきチャレンジャー』において、
新藤恵美が演じた主人公のコーチ役で出演。
この作品をきっかけにボウリングの腕が上達し、
『スター対抗ボウリング大会』で最優秀個人賞を獲得。
1974年には円谷プロからの出演依頼を受け、
『ウルトラマンレオ』で再びダン役でレギュラー出演。
1981年、
大川橋蔵主演の長寿ドラマ『銭形平次』では、
平次の上司である同心・矢吹圭一郎役を演じ、
2年間レギュラー出演。
その他、NHK大河ドラマにも、
『天と地と』(1969年)の北条氏政役、
『太平記』(1991年)の細川顕氏等複数の作品に出演。
2004年には、
東映の平成仮面ライダーシリーズ『仮面ライダー剣』で悪役・天王路博史役で出演。
俳優業の傍ら、
1987年から神奈川県藤沢市鵠沼海岸でカフェレストラン「JOLI CHAPEAU」を経営しており、
在店時には自らシェフとしてハヤシライスを調理。
1997年9月、
神奈川県に個人事務所「森次晃嗣事務所」を設立、
タレント業と並行してウルトラ関連グッズの製造販売やイベントの開催運営なども手掛けています。
円谷プロとの業務提携により、
ヒーローショー、アトラクションやウルトラ関連イベントの開催運営事業に参入。
2002年4月、
業務拡大に伴いイベント事業部を独立。