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#安西マリア さん。1973(昭和48)年、エミー・ジャクソンさんのカバー『涙の太陽』でデビュー。同曲は売上50万枚以上のヒット。亡くなられて9年、今もお元気なら真夏の太陽のようなアツいステージを見せてくださったことでしょう。合掌。
★安西マリア オフィシャルサイト https://web.archive.org/web/20140226080442/http://supercools.fc2web.com/anzai/anzai.html
草薙幸二郎さん
(1929年9月19日-2007年11月11日)
俳優。
東京市北豊島郡王子町(現・東京都北区)出身。
日本大学文学部哲学科中退。
劇団民藝を経て、アクターズカンパニーに所属。
長男の草薙仁は俳優で、
長女の草薙かおりも元女優。
劇団民藝在籍中の1953年に映画『夜明け前』でデビュー。
1956年には今井正監督の『真昼の暗黒』で主役に抜擢され、
第1回製作者協会の新人賞を受賞して注目されます。
その後は日活映画を中心に活動。
アクション系作品では凄腕の刺客や謎の中国人などを演じました。
映画産業の斜陽化後はテレビドラマにも活躍の場を拡大。
時代劇から現代劇まで、
主にインテリ系の悪役をさまざまな作品で演じてきましたが、
晩年では悪役以外の老け役にも演技の幅を広げていました。
2007年11月11日、
間質性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。
78歳没。
(草薙幸二郎)

ジャネット・リン♪

志穂美悦子さんといえば、キカイダー01に登場してくる、ビジンダーマリです。
まさか後に、長渕剛さんの奥さんになるとは。ちなみにキカイダー01はレンタルで拝見しました。
2023/9/20 五十嵐淳子😎🖤
71歳Happy birthday🎂🥂🎁🎉🎊💐👏♥️
♥️💃2023/9/20 鈴木砂羽😎🖤
51歳Happy birthday🎂🥂🎁🎉🎊💐👏♥️
藤木孝さん
(1940年3月5日-2020年9月20日)
俳優、歌手。
身長173cm。
静岡県富士宮市出身。
玉川学園中等部卒業。
東宝芸能学校卒業後の1959年、
歌手として渡辺プロダクションと契約し、
テイチクレコードからデビュー。
歌唱力とダンスの才を活かし、
1960年代前半にヒット曲を連発して
「ツイスト男」の異名で当時のツイスト・ブームを牽引。
1962年、人気絶頂の中で歌手引退を表明し、
渡辺晋の反対を押し切って退社。
同年、
文芸プロダクションにんじんくらぶに入り、
俳優へと転身。
演技を基礎から学ぶために文学座の研究生を経て、1966年に劇団欅の結成に参加。
1976年からは
劇団雲と劇団欅の統合により誕生した劇団昴に所属し、2006年に退団。
歌手としての実績を買われてミュージカルの舞台に立つ一方、
特異な存在感で悪役や怪優としての評価も高く、
1986年には第12回菊田一夫演劇賞、
2003年には第38回紀伊國屋演劇賞個人賞を、
2005年には第45回ACC CMフェスティバル演技賞を受賞。
2020年9月20日未明、
東京都中野区の一軒家を改造したアパート2Fで亡くなっているのを発見されました。
80歳没。
(藤木孝)
根上淳さん
(1923年9月20日-2005年10月24日)
俳優。
身長171cm。
1950年代より大映で菅原謙次と人気を二分し、
活躍した二枚目スター。
後年は活動の場をテレビ中心に移し、
渋い脇役として存在感を示しました。
東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)出身。
父方の祖父はオーストリアの音楽家ルドルフ・ディトリッヒ、日本名=日土理非)、
祖母は森菊。
父はヴァイオリニストの森乙。
甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕。
杉並商業学校を経て1941年に法政大学経済学部に進み、
1943年、学徒出陣で東部六二部隊に入隊。
甲種幹部候補生に志願し、
厳しい訓練を受けて特別操縦見習士官として飛行訓練に入ります。
しかし、この頃から胸を悪くし、
入院中に終戦を迎えるました。
戦友のほとんどが特攻隊ですでに戦死。
戦後は、
群馬県太田市に疎開していた家族のもとに戻り、
復学した法政大学に太田から4、5時間かけて通いました。
卒業後は、進駐軍の通訳として働くも、
黒人兵とケンカして1年で退職。
米の配給票が必要で、
それを入手するには東京で就職するしかなく、
「つなぎ」の仕事として東宝第2期ニューフェイスに応募するも、
試験の時間に間に合わず断念。
続いて1947年に大映演技研究所の3期生募集に応募、見事合格。
しかし、本来は俳優志望ではなかったため、
その頃はあとで別の職を探すつもりだったといいます。
しばらく仕出しが続くも、
1949年『母三人』(中代富士男監督)で本格デビュー。
1950年の『二十歳前後』で主役を演じてから、
役に恵まれるようになり、
特に1951年の『牝犬』(木村恵吾監督)のバンドマン役で注目され、
根上の出世作に。
その後は大映の若手スターとして活躍。
1956年6月23日には渡米して
MGM映画『八月十五夜の茶屋』にも出演。
帰国時の模様は
同年の大映オールスター映画『スタジオは大騒ぎ』の中でも紹介されています。
1967年に大映を退社、
その頃には映画出演作品は100本を越えていました。
以降は活躍の場をテレビドラマに移し、
NET『白い巨塔』(里見脩二役)や、
降板した塚本信夫の後任としてTBS『帰ってきたウルトラマン』(伊吹竜隊長役)に出演するなど、
存在感のあるバイプレーヤーとして多くの作品に出演。
1964年、
長門裕之・南田洋子とともに人間プロダクションの設立に参加。
1965年、
根上の大ファンであった歌手のペギー葉山と結婚し
1968年には長男が誕生、
結婚後も夫婦で本を出版し、
書道の展覧会に二人で出展するなど芸能界一のおしどり夫婦として知られていました。
また根上が『帰ってきたウルトラマン』、
妻のペギーが『ウルトラマンタロウ』(ウルトラの母役)と
夫婦それぞれウルトラシリーズの作品に出演。
時代劇作品などでは悪役も演じていますが、
戦争映画への出演、特に軍人役は拒否し続けました。
1996年には戦争で生き残った大学の同級生と
法政大学多摩キャンパスに平和記念碑を建立。
1998年8月、
糖尿病の合併症による脳梗塞で倒れたため
芸能活動を休止し自宅で療養していましたが、
2005年10月24日午後3時54分に死去。
82歳没。
(根上淳)
村井國夫さん
(1944年9月20日-)
俳優、声優。
中国・天津市生まれ、佐賀県佐賀市出身。
劇団俳優座養成所第15期生。
身長176cm。
妻は女優の音無美紀子。
父の仕事の関係で第二次世界大戦中に
中国・天津市に生誕。
終戦後、母に背負われて日本に引き揚げ、
母の実家がある佐賀県で5人兄弟の末っ子として甘やかされて育ちます。
佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)卒業。
高校では引っ込み思案を案じた女剣劇好きの母の勧めで演劇部に入部して、
本格的に役者を目指していた演劇部の1年先輩・辻萬長のもとで演劇の基礎を学び、
初舞台の評判がよく褒められたことで芝居漬けの生活を送って、
高校卒業後には劇団俳優座養成所に入所した辻を追って上京。
1963年に
劇団俳優座養成所に第15期生として入所、
同期生には
地井武男、夏八木勲、前田吟、林隆三、小野武彦、竜崎勝、原田芳雄、高橋長英、栗原小巻、太地喜和子などがおり、
後に「花の15期生」と称されました。
劇作家の田中千禾夫や演出家の栗山昌良らのもとで学び、
1966年に卒業。
劇団俳優座養成所の卒業後の1966年に東映の映画に出演し、
俳優としてデビュー。
東映から専属契約の話もあったものの
「映画より芝居」との思いから本数契約として、
串田和美ら劇団俳優座養成所卒業生と
1966年夏に劇団「自由劇場」の旗揚げに参加。
「劇団は食えない」として4年ほどで辞めた後、
元気があったテレビに活躍の場を求めて、
1970年代から1980年代にかけてはテレビドラマや時代劇に出演し悪役として活躍。
テレビの仕事に単調さを感じ始めた頃、
養成所同期の高橋長英と太地喜和子の舞台『藪原検校』を見て
「俺はテレビでいったい何をやっているんだ」と衝撃を受け、
五月舎制作、木村光一演出の舞台作品へ出演するように。
1989年には
歌のレッスンとオーディションを経て
ジョン・ケアード演出のミュージカル『レ・ミゼラブル』に
ジャベール警部役で出演しバリトンの美声を響かせ、
以降2001年まで13年にわたって800回以上出演。
『蜘蛛女のキス』ではゲイの囚人役を演じて
1992年の第47回文化庁芸術祭賞を受賞。
TBSテレビの『浅見光彦シリーズ』では、
浅見光彦の兄で警察庁の刑事局長・陽一郎役を第1作目から担当。
2009年の第28作・『高千穂伝説殺人事件』で同役を降板。
光彦役が4代目の平岡祐太になった『新・浅見光彦シリーズ』の
第1作『漂泊の楽人 越後〜沼津・哀しき殺人者』では、
物語の重要人物にして、
一連の事件の犯人である矢野隆一郎役で出演。
2019年12月8日、
軽度の心筋梗塞のため主演を務める劇団桟敷童子の公演『獣唄』を降板することを発表。
2020年1月16日から上演の『黄昏』も降板。
声優としての実績も豊富で、
特にハリソン・フォードの吹き替え声優として知られています。
(村井國夫)

『怪奇大作戦』より更にオドロオドロしくて、怖すぎて今だに全編見られない、1973年フジテレビ放映の『恐怖劇場アンバランス』

松田優作さん
(1949年9月21日-1989年11月6日) 
山口県下関市出身の俳優、歌手。
身長183cm。
山口県下関市今浦町で、
日本人の父と当時、
質屋を営む韓国人(在日1世)の母との間に非嫡出子として誕生。
父親は長崎出身の保護司で当時39歳、
郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性でした。
父親は優作が生まれてすぐに死去。
2人の異父兄がおり、異母兄弟もおり、
兄弟仲は良かったですが、
次第に自身の出生の秘密に気付き始め、
それが原因で孤独を感じるように。
1957年下関市立神田小学校へ入学。
1963年下関市立文洋中学校へ入学。
1966年山口県立下関第一高等学校(現・山口県立下関中等教育学校)へ入学。
1967年11月、
「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、
不本意ながら山口県立下関第一高等学校を2年で中退し、
叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米。
カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学。
しかしながら、
叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、
1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退し帰国。
シーサイド大学の体育館で観たニューヨークのアングラ劇団「ラ・ママ」を観て、
こんな世界があるのかと感銘を受け、
芝居をやりたいと思い立ち帰国、
長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、
私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。
1970年に関東学院大学文学部に入学。
1971年3月、
劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。
同年5月、
金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。
ここで最初の妻美智子と知り合います。
1972年4月、
文学座付属演技研究所十二期生となり、
文学座同期には
阿川泰子、高橋洋子、山西道広、
1期後輩に
中村雅俊、1期先輩に桃井かおり。
役者に専念するために、6月には大学に退学届を出しました。
この頃、
『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたといいます。
また、
1969年(昭和44年)頃の無名時代に
新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、
客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合い交友を結んでいます。
村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が
新人俳優を探していることを聞き、
「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦。
岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、
芝居に対する体当たりの真剣さと、
強引とも思える度胸の良さに驚き、
テストでチョイ役に出演させると、
迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれ、
これがきっかけで、
1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』に
ジーパン刑事としてレギュラー出演、
その活躍・殉職シーンが話題に。
また、
志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演。
1974年には
黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、
主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。
松田優作は原田芳雄に心酔し、
後に原田の隣の家に引っ越し。
続いて74年11月公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で
映画初主演。
1976年1月31日、
前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、
19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、
全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕され、
このため、
毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、
1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛。
同年2月5日、
東京地方検察庁は傷害容疑で松田を起訴、
同年3月10日、
東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受けました。
1976年、
東映『暴力教室』 (岡本明久監督)により映画復帰。
同作品では安西マリアらと共演。
また、
同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、
臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、
時代劇初主演。
同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。
1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。
1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。
この映画の前には、
ハワイへ飛び、射撃場で実弾射撃演習をおこないました。
同年、
澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。
また、
映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。
同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。
この頃多くのアクション映画に主演していますが、
ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、
劇団の旗揚げも行います。
1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、
撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、
奥歯を4本抜き、
さらに山籠もりまでしたといいます。
1981年、黒澤満を信頼し、
熊谷美由紀と一緒に東映系のセントラル・アーツに移籍。
この後、
アクション映画からしばらく距離を置き、
演技派俳優への道を模索。
また、70年代後半には、
サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、
好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、
映画業界でよく知られていました。
この時期には音楽活動にも熱中し、
ドラマ「探偵物語」では自身の出演場面を減らした回も。
1981年、
泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、
松田優作の楽曲が織り込まれ、
かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。
それまでのイメージとは異なる役柄を演じました。
また『新・事件 ドクターストップ』以降、
『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』と
NHKドラマへの出演が続いきました。
1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、
作品の方向性に関して意見が食い違ったため、
監督の小池要之助が降板。
松田自らがメガホンを取ることとなり、
これが初監督作品に。
やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品。
1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、
国民的女優吉永小百合と共に主役。
この撮影をしている頃から、
松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたといいます。
その後、
遺作ともなったアメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、
念願のハリウッドデビューを飾ります。
同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知りますが、
延命治療を拒み、撮影に挑みました。
なお、病気の事実を知る者は、
撮影関係者では安岡力也のみであり、
周囲にも堅く口止めがされていました。
1989年8月頃から腰が痛いと言い始め、
10月6日、
第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に
「どうしても挨拶したい」と出席するも、
舞台挨拶を断り帰宅。
これが公に見せた最後の姿でした。
翌10月7日、
東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)に入院。
1989年11月6日午後6時45分、
入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去。
40歳没。
(松田優作)
山本嘉次郎さん
(1902年3月15日-1974年9月21日)
映画監督、俳優、脚本家、随筆家。
東京市銀座采女町で誕生。
父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人。
慶應義塾大学理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、
1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。
慶應義塾大学を中退して映画界入り。
しかし、このことが原因で親から勘当され、
その手切金で1922年「無名映画協会」を設立、自ら出演。
その後、
日活に入社して助監督を務めるかたわら脚本も書き、
田坂具隆監督の『春と娘』(1932年、初のアフレコによる全発声映画として有名)の脚本などをてがけました。
関東大震災後には関西で結成された「早川プロダクション」で
『熱火の十字球』(1924年)を監督。
これが監督デビュー作。
1934年、P.C.L.に移籍し、
エノケン映画を数多く監督。
中でも
『エノケンのどんぐり頓兵衛』(1936年)
『エノケンのちゃっきり金太』(1937年)は、
エノケンの持ち味の音楽ギャグを生かした、
数あるエノケン映画の中でも屈指の傑作と言われています。
1938年、高峰秀子主演で『綴方教室』を監督、
1941年には黒澤明を助監督に『馬』を制作。
この2作品は
従来扱われていなかった世界を扱った佳作として高い評価を受けました。
第二次世界大戦中の1942年、
円谷英二が特技監督を務めた『ハワイ・マレー沖海戦』を東宝映画で制作。
この映画は海軍省の至上命令で制作されましたが、
航空母艦(日本)の資料提供を一切受けられず。
このため米国の航空母艦資料(写真等)を基に甲板セットを組んだところ、
海軍同席の完成試写で宮家の激怒(米国空母と類似している為)を買い、
あわや封切り差し止めとなりかけました。
1944年には
陸軍省後援の『加藤隼戦闘隊』を東宝で制作・公開。
藤田進を主演(加藤建夫戦隊長役)に、
特技監督は前作と同じく円谷英二を迎えました。
一式戦闘機「隼」をはじめとする実物機や陸軍落下傘部隊を多数動員するなど
陸軍全面協力のもと撮影が行われ、
本作は同年の興行収入のトップを記録。
フィリピンのマニラへ「三人のマリア」という映画を撮影に赴き、
そのまま戦火に巻き込まれて帰れなくなります。
フィリピンの捕虜を収容した一般キャンプへ。
キャンプでは慰問演劇団の大顧問に。
キャンプの演劇団は大盛況。
戦後、
東宝争議により東宝を離れるも、1951年に復帰。
同年に
高千穂ひづるのデビュー作『ホープさん』、
翌々年1953年には、
東宝で初のカラー映画『花の中の娘たち』を作り、
健在をアピール。
1955年女優・松山 恵子(柴田きく代)と結婚。
長男・山本一雅(柴田一雅)が誕生するも2年後に離婚。
晩年は、監督作品には恵まれなかったですが、
脚本を多数執筆。
「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけました。
また、
1960年代には東宝の俳優養成所の所長を務め後進の指導にあたりました。
時には自ら指導を行なう真摯な態度は研修生たちに慕われ、
尊敬の念をもって「ヤマカジ先生」と呼ばれまし
た。
1974年、動脈硬化のため死去。
(山本嘉次郎)
🎶ホネホネロック〜とパタパタママ〜
懐かしいですね。
ショムニ好きなドラマでした❤
初代のメンバーが個人的に好きです💫
ライバルの秘書課の
戸田菜穂さんが演じた
杉田美園もよかった♬😆
江角マキコ、宝生舞、戸田恵子、高橋由美子、
京野ことみ、櫻井順子、森本レオ、戸田菜穂、
沢村一樹他
#ショムニ
#懐かしいドラマ
🔷「ショムニ」は、1998年からフジテレビ系で
放送されたテレビドラマシリーズ。
原作は安田弘之作の同名コミック
『ショムニ』。
小袋のインスタントココアの中にシールが入っていて彼方此方に貼ってました、ココアは粉のまま口に放り込んでココア(チョコ?)化してました😅
シールはこの頃からポピュラーになった様な気がします、父が偶に買ってきてくれた鉄腕アトムの漫画の帯もシールになってました。
石田太郎さん
(1944年3月16日-2013年9月21日)
男性俳優、声優、僧侶。
京都府京都市出身。
上智大学外国語学部イスパニア語学科中退。
身長181cm、体重84kg。
浄土真宗本願寺派の僧侶でもあり、
石川県金沢市乗敬寺の住職も務めました。
父は俳優の石田茂樹。
妻は女優の立花房子。
劇団雲、劇団昴所属時代から舞台だけではなく
テレビドラマ・映画出演もこなしていました。
『新刑事コロンボ』など、
洋画吹き替えを中心に声優としても活躍。
アニメでは悪役・権力者役が多数。
初代コロンボの声優を務めた小池朝雄は劇団の先輩に当たり、
『スーパーマンII 冒険篇』のテレビ放送版でも、
前作で小池が演じていたレックス・ルーサー(ジーン・ハックマン)を引き継ぎました。
生前から宴会の余興等でよく小池のものまねを披露し、
業界では有名でした。
ハックマンをはじめ、
ジャック・ニコルソン、アンソニー・ホプキンス、
ジョン・グッドマン、ブライアン・デネヒーを多く担当(中でも『羊たちの沈黙』から始まる「レクターシリーズ」では
ホプキンス演じるハンニバル・レクターをシリーズ全作品で担当し、
同時にシリーズ全ての吹き替えに関わった唯一の役者)。
上記のようなシリアスな役柄を多く演じていますが、
『くまのプーさん』のイーヨーのようなおっとりした役柄、
『リトル・マーメイド』の続編で担当したトリトン王のような厳格さと温和さを併せ持つ役柄も演じ、
『コマンドー』(テレビ朝日版)や
『48時間』(日本テレビ旧版)、
『ハドソン・ホーク』(日本テレビ版)などでは
コミカルな演技も披露。
NHK大河ドラマの常連であり、
1984年に『山河燃ゆ』、
1985年に『春の波涛』、
1986年に『いのち』、
1987年に『独眼竜政宗』と4年連続出演(しかも『いのち』が現代劇だったために時代劇ファンのために放送された同年の『武蔵坊弁慶』にも出演)
など生涯の中で実に15作の大河に出演。
1989年の『春日局』と
2000年の『葵 徳川三代』では、
同じ大久保忠隣役を演ずるという常連俳優ならではの経験も。
『芋たこなんきん』では、
石田のために原作にない住職役が作られました。
2008年に発売された『ディシディア ファイナルファンタジー』では
『ファイナルファンタジーV』の悪役エクスデスの声優として起用。
特技は京都弁、柔道。
2013年9月21日午後1時頃、
フジテレビ系で放送された連続ドラマ『独身貴族』第1話の収録において、
神奈川県相模原市緑区の城山スタジオにて水着姿でプールに入っての撮影後、
石田は突然に意識を失って倒れました。
病院に搬送されましたが、3時間半後に死亡が確認。
(石田太郎)

♥️2023💃9/22 鈴木雅之(67歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

 
正義超人に属する超人たち
   
正義超人
9/95人です。
   
    
ウォーズマン
    
    
プロフィール
    
・シングルマッチ勝率
0.556 (全9試合 5勝3敗  1引分け0無効試合)
・タッグマッチ勝率
0.000 (全1試合 0勝1敗  0引分け0無効試合)
旧ソ連で、ロビンマスクが見い出したロボ超人。必殺技はパロスペシャル。ラーメンマンを廃人寸前にまで追い込んだこともある。 第21回超人オリンピック決勝戦で、キン肉マンに敗れてからは正義超人の一員として活躍。
       
       
ジャンル:残虐超人 / 正義超人
出身:ロシア
超人強度:100万パワー
必殺技:パロ・スペシャル、ベア・クロー、
               エンパイヤー・エルボースタンプ(ウォーズ・ピストンエルボー)、
                つむじ風蹴り
身長/体重:210cm/150kg

♥️2023💃9/22 緒方直人(56歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

NHK 時代の野際陽子さん···
美しいです✨✨✨

♥️2023💃9/22 ボブ・サップ(49歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

1972年に母国 香港で歌手として活躍していた #リンリンランラン さん(向かって左が姉 リンリン Letilia Barber、向かって右が妹 ランラン Katharine Barber)。1974年『スター誕生!』アシスタントを務め、デビュー曲「#恋のインディアン人形」はヒット。その後1976年までにシングル7枚、アルバム3枚を発売。現在は米国在住との由。

♥️2023💃9/22 石井竜也(64歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃9/22 北島康介(41歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/9/23 鈴木杏樹😎🖤
54歳Happy birthday🎂🥂🎁🎉🎊💐👏♥️

♥️2023💃9/23 稲葉浩志(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/9/23 叶美香😎🖤
56歳Happy birthday🎂🥂🎁🎉🎊💐👏♥️
岡田眞澄さん
(1935年9月22日-2006年5月29日)
フランス生まれの日本の俳優・タレント。
身長184cm。
愛称は「ファンファン」。
日本人画家岡田穀(1888年生)と
デンマーク女性インゲボルグ・シーヴァルセン(仕立て職人の娘、人魚姫の像の体のモデル・エリーネ・エリクセンの妹)を両親に持ち、
フランス・ニースで誕生。
2人兄弟の次男。
兄はタレントのE・H・エリック。
父親はパリで暮らしたあと、
画家仲間のシャイム・スーティンを追って南仏カーニュ=シュル=メールに移り、
1928年にインゲボルグと結婚後、
ニース近くのラ・ゴードに転居し、
水彩画と交換に村民から施しを得るような貧しい生活を送りました。
絵の具屋の店主の按摩をして絵具代を稼ぐような窮乏生活の中、
創作活動を続け、
1936年には岸田国士宛に絵を送って銀座の日動画廊で個展を開催。
第二次世界大戦が始まった1939年に戦火を避けて
一家で日本統治下の台湾に移住し台北で国民学校に通いましたが、
日本帰国後、
父親は特高警察に執拗に追われ、
母親は耐えきれず日本を去りました。
戦後は
日本・東京都赤坂の引揚者住宅に落ち着き、
オットー・セバルセン(Otto Sevaldsen)の名で
横浜のインターナショナルスクール、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに学びます。
戦後まもなく、
兄がトニー谷のスカウトで芸能界に入り、
日劇ミュージックホールの舞台に立つようになったこともあって、
岡田も谷の勧めでバレエのレッスンを受けたことがあります。
また、
兄とともにミュージックホールの座長格だった泉和助に師事して修行。
その後、
赤坂へ日活ニューフェイスの試験を受けに行った際に宝田明と知り合い、
同じく第6期東宝ニューフェイスに合格。
東宝演劇研究所に入り、
藤木悠・宝田明・佐原健二などと同期でしたが、
映画製作を再開した日活を選びます。
1955年公開の『初恋カナリア娘』でデビュー。
日本人離れした風貌から、外国人の役も多く演じました。
1957年(昭和32年)に
日本初の男性専門(後に女性も所属)のモデル・クラブである
SOSモデルエージェンシーを菅原文太ら総勢8名で結成。
日活退社後に渡欧した際
ルキノ・ヴィスコンティ監督に『山猫』への出演を迫られるも断り、
結果アラン・ドロンに配役が決まりました。
1961年には幼少期に暮らしたラ・ゴードとニースを訪問し、
ニース市長ジャン・メドサンより市民章を受賞。
日活退社後はにんじんくらぶ・劇団欅を経て、
以後、
数々のミュージカルの舞台作品やテレビやショーといったバラエティ番組の司会者などで活躍し、
幅広く芸能活動を行います。
特に、
『とんねるずのみなさんのおかげです』の一コーナー「仮面ノリダー」では、
敵役「ファンファン大佐」を演じたことで、
幅広い年齢層から人気を得ました。
出演が決まった際には、
1980年代にCMに出演した縁で靴のマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、
愛用したという逸話があります。
萩本欽一とは古くから親交があり、
大映ドラマ『シークレット部隊』の第一回放送では
萩本と悪役でゲスト共演を果たし、
後に始まった『欽ちゃんの仮装大賞』でも
長年に渡りレギュラー審査員を務めました。
歌手としても、
1980年、
松任谷由実のアルバム『SURF&SNOW』収録曲「恋人と来ないで」に
ゲストボーカルとして参加、
松任谷とのデュエットを披露。
中年以降は口髭を蓄えてヨシフ・スターリンに酷似した容貌となり、
実際に演劇でスターリンを演じたことがあります(『夢、クレムリンであなたと』・1991年初演)。
英語のみならずフランス語も堪能なため、
ミス・インターナショナルでのホスト役を長らく務めました。
司会業でもフェミニストぶりが様になるダンディーさが好評でした。
1978年、
第1回日本アカデミー賞の総合司会の大役を務めたり、
変わった所では1994年12月10日にパシフィコ横浜で開かれた新進党の結党大会の司会を務めたことも。
「ファンファン」という愛称は、
当時の人気俳優、ジェラール・フィリップの当たり役および愛称にあやかって名づけられたもの。
『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系列)の「仮面ノリダー」のコーナーで
「ファンファン大佐」というキャラクターに扮したことから、世間一般にも広まりました。
2005年7月23日、食道癌が見つかり入院。
レギュラー出演していた中京テレビ(日本テレビ)のクイズ番組『サルヂエ』(「サルさん」として藤井隆と共に司会を担当)は、
2005年7月11日放送分で降板。
一時期快方に向かい芸能活動を再開、
レギュラーだった同局系の『午後は○○おもいッきりテレビ』にも徐々に出演するように。
しかし同年秋にリンパ節へのがんの転移が判明し、再び入院。
2006年5月29日午前4時5分、
食道癌のため東京都内の病院で死去。
70歳没。
(岡田眞澄)
志垣太郎さん
(1951年9月22日-2022年3月5日)
俳優、声優、タレント、司会者、デザイナー。
東京都大田区山王出身。
日本大学藝術学部卒。
身長:170cm、体重:59kg。
妻は元女優の白坂紀子。
長男は元俳優、元タレントの匠。
大川橋蔵に憧れ、
幼少時から将来は役者になることを志します。
中学高校時代は剣道部に所属。
初段を獲得し、東京大会で優勝するほどの腕前。
大森三中卒業後、15歳で劇団こまどりに所属。
玉川学園高等部在学中の1969年に芸術座の舞台『巨人の星』で主役デビュー。
当時は本名で出演していたものの、
翌1970年に出演したNHKのドラマ『男は度胸』で「志垣太郎」の芸名に改名。
1971年に
日本テレビ『おれは男だ!』で主役である森田健作のライバル役を演じたことから
一気に若い女性からの注目を浴び、
その凛々しくも甘い顔立ちから一躍アイドル的人気を誇りました。
『あゝ声なき友』出演の際に役作りで坊主頭にしたため、
直後に撮影されたグリコアーモンドチョコレートのCMはカツラを着用して出演。
『あかんたれ』で
それまでのアイドル俳優路線から演技派として認められ、
広く知られる存在となり、
数多くのテレビドラマ、映画にも出演。
1979年から1980年にかけて放送された
テレビアニメ『ベルサイユのばら』では、
メインキャラクターの一人である
アンドレ・グランディエ役を務めました。
妻の白坂紀子とは『水戸黄門 第13部』で共演し、
志垣が一目惚れしたことがきっかけで結ばれました。
夫人の出産前後には、
当時の男性としては極めて異例の育休をとりました。
役者としてキャリアを積んだ後、
バラエティ番組にも進出。
『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「デビル志垣」シリーズを皮切りに
多くのバラエティに出演し、
日本テレビ『踊る!さんま御殿!!』の常連ゲストとして、
黒沢年雄・中尾彬らとともに出演。
良く通る大きな声と血管を浮き出して笑うのをイジられるのがお約束で、
スペシャル時には妻の白坂と一緒に出演するのが恒例でした。
黛ジュン、hyde(L'Arc~en~Ciel)とは
遠縁の親戚関係。
柴俊夫、松崎しげる、西田敏行、田中健とは20代の頃からの親友。
通称・五人会として知られ、
家族ぐるみで親交がありました。
ウイスキーをストレートでグイグイいく酒豪でも知られ、
当時(1970年代)の芸能界酒豪番付では東小結。
1日にウイスキーやジンのボトルを3本空け、
煙草は1日4箱のヘビースモーカーでしたが、
結婚を機に生活を改善。
酒は嗜む程度に留め、50歳を機に禁煙。
2000年から20年以上に渡り石丸製麺のイメージキャラクターを務めていました。
自身も大のうどん好きで、
多忙だった19歳の頃に朝食のうどんを風呂場に持ち込んで浴槽に浸かりながら食べた際、
朝日を浴びて輝くうどんを見て感動。
以来、3日に1回は「風呂うどん」をする習慣があったといいます。
晩年は俳優業・バラエティに加え、
複数のビジネス誌で様々なジャンルの経営者と対談する企画や、
着物デザイナー、ジュエリーデザイナーとして
自主ブランド「shigaki-ism」をプロデュースするなど
多才な活躍を見せました。
2022年3月5日、遠征先の佐賀県において、
急な体調不良による心不全で死去。
70歳没。
(志垣太郎)
佐分利信さん
(1909年2月12日-1982年9月22日)
俳優、映画監督。
身長177cm。
渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、
愛称は「サブリどん」。
日活を経て松竹に入社し、
上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、
戦前松竹の看板スターとして活躍。
戦後は監督業にも進出し、
『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表。
1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、
晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せました。
主な作品に
『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。
女優の黒木しのぶは妻、
俳優の石崎二郎は長男、
ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫。
(佐分利信)

2023/09/23. ヨドバシAkiba店に敏さん降臨中!

小野進也さん
(1948年9月23日-)
俳優。
東京都出身。
身長175cm。
立教大学経済学部中退。
1965年、
文学座付属演劇研究所第5期生として芸能界入り。
1966年、
テレビドラマ『青春とはなんだ』(NTV)でデビュー。
『ガッツジュン』(TBS)や『コートにかける青春』(CX)のレギュラーを経て、
1972年より放送された『ワイルド7』(NTV)の主人公・飛葉大陸役に抜擢され、
バイクスタントにも果敢に挑み注目されます。
撮影中に足の指を3本切り落とす事故にも遭いましたが
「主役がケガで降板しては…」と、
麻酔を射ちながら収録に臨んだという逸話の持ち主。
刑事ドラマや時代劇などでアウトロー的な役柄を多く演じ、
NHK連続テレビ小説『わたしは海』では
ヒロインの幼なじみ役を演じました。
特技はボクシング。
高校時代は歴史に興味があり、
考古学の教師を目指していました。
(小野進也)
工藤栄一さん
(1929年7月17日-2000年9月23日)
映画監督。
北海道苫小牧市出身。
沼ノ端の商家に生まれ、8人兄弟の長男。
弟には
ニッセイバックステージ賞を受賞した舞台大道具背景制作者の工藤和夫、
フィールドホッケーメキシコシティ五輪日本代表の工藤明朗、
家業を継ぎ苫小牧で画家としても活動する工藤裕司。
北海道庁立苫小牧中学校から慶應義塾大学予科を経て1952年、同大学法学部を卒業。
同年4月、東映に入社。
最初は本社の企画部を経て、
1954年、京都撮影所に転属、同撮影所製作部助監督に。
1959年9月、『富嶽秘帖』で監督に昇進。
以後、
時代劇黄金時代の東映で、
数多くのチャンバラ活劇を手がけました。
1960年代中期、
チャンバラもののブームが過ぎた後は、
集団抗争時代劇を手掛け、
『十三人の刺客』(1963年)、『大殺陣』(1964年)を生み出します。
特に『十三人の刺客』では、
第11回京都市民映画祭で監督賞を受賞。
1960年代後半から東映の新たな主流路線となった任侠ものでも、
『日本暗黒史・血の抗争』(1967年)、
『日本暗黒史・情無用』(1968年)のやくざ映画を手がけました。
この時期と前後して、
1970年代には舞台をテレビ映画に移します(おりしも60年代からの邦画の斜陽化で、多くの監督がテレビ映画に進出していました)。
特に朝日放送(ABCテレビ)制作の人気時代劇「必殺」シリーズでは、
2作目の『必殺仕置人』から演出に参加。
一時期を除き、60本以上を演出。
劇場映画『必殺! III 裏か表か』でもメガホンを取り、
また日本テレビ系の伝説的ドラマ『傷だらけの天使』でも最多の6本を手掛けました。
1980年代から再び映画に復帰、
『その後の仁義なき戦い』(1979年)、
『影の軍団 服部半蔵』(1980年)、
『ヨコハマBJブルース』(1981年)、
『野獣刑事(デカ)』(1982年)、
『リング・リング・リング/涙のチャンピオンベルト』(1993年)などを監督。
2000年9月23日、脳幹出血のため死去。
71歳没。
(工藤栄一)

愚かな教師達の自己顕示欲と利己主義で、どれだけの生徒が怪我をしたコトか…😡‼️

藤子・F・不二雄さん
(1933年12月1日-1996年9月23日)
漫画家。
独立を発表した1987年までは
安孫子素雄(独立後は藤子不二雄Ⓐ)とともに藤子不二雄として活動。
代表作は
『オバケのQ太郎』(合作)、
『ドラえもん』、『パーマン』(旧作は合作)、
『キテレツ大百科』、
『SF短編』シリーズ。
富山県高岡市定塚町出身。
富山県立高岡工芸高等学校電気科卒。 
数多くの作品を発表。
児童漫画の新時代を築き、第一人者に。
大人しくて真面目で体も弱かった幼少期は、
小学校で壮絶ないじめに遭い、
番長格の少年から似顔絵を評価されるまで抜け出せなかったといいます。
その頃に抱いた気持ちが漫画作品にも反映されているといいます。
また、
阪東妻三郎などの似顔絵もこの頃描いていました。
1944年(昭和19年)に安孫子素雄と出会い、
1951年(昭和26年)、
安孫子とともに『毎日小学生新聞』に投稿した「天使の玉ちゃん」が採用され、
17歳にして漫画家デビュー。
高校卒業後、製菓会社に就職するも、数日で退社。
自宅で依頼原稿と投稿原稿の執筆に専念し(夜や休日は新聞社で働いていた安孫子と共に執筆)、
年内に雑誌デビュー。
翌1953年には初の単行本を出版し、
雑誌の読切で初めて「藤子不二雄」のペンネームを使用。
渋る安孫子を無理やり誘って1954年に2人で上京し、
プロ漫画家として本格的に活動を開始。
2人は博学博識で、
そこから生まれるユニークかつユーモア溢れるアイデアは数えきれず、
低年齢の子供向け作品を中心として、
『オバケのQ太郎』(合作)、
『パーマン』(旧作は合作)、
『ドラえもん』などの国民的な大ヒット作をいくつも生み出しました。
1987年(昭和62年)末に独立を発表し、
1988年にペンネームを藤子不二雄Ⓕに変更。
1989年からは藤子・F・不二雄に改名し、
「大長編ドラえもん」を中心に執筆活動を続けました。
(藤子・F・不二雄)
『マギーミネンコ』(マーガレット•ミネンコ)
意外なことに、生まれは東京😘
「金曜10時!うわさのチャンネル!!」でも大活躍でしたね〜😀
歌手としては「涙の河」名曲です❗
余談ですが 息子さんは
ユーチューバーとしても有名な「クリス岡野」
さん🤔 (私は全然知らんのですが😅)
ほぼ同い年のミネンコさん
お元気でしょうか?
有川貞昌さん
(1925年6月17日-2005年9月22日)
撮影技師、特撮監督。
日本映画撮影監督協会会員。
東京府出身。
日本大学工学部卒。
1943年(昭和18年)、
日比谷の映画館で東宝映画『南海の花束』(1942年、阿部豊監督)を観て、
四発飛行艇「川西大艇」に魅せられ、
愛媛県の逓信省愛媛航空機乗員養成所へ入所。
飛行機パイロットの訓練を受けました。
1944年(昭和19年)、
台湾南部の航空隊に配属され、
雷撃機搭乗隊員として、対潜哨戒作戦に従事。
この航空隊での映画会で、
『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を鑑賞し、出来栄えの素晴らしさに感動。
1945年(昭和20年)、内地で敗戦を迎えました。
同年8月、
東宝で女優を務めていたいとこを介して東宝に入社。
技術部音響技術課(録音課)に配属。
1948年(昭和23年)、
前々年からの東宝争議で、
東宝撮影所は映画製作が止まってしまい、
学生野球の経験があることから、
有川は若い女優らと地方へ野球の試合に向かわされ、
缶詰会社の社員と試合をして、
もらって帰った缶詰を組合に供出するというような日々を送りした。
撮影所が政治闘争の場となり、
映画製作どころか組合の言いなりのような状態に
「思想的に同調できなかった」という有川は、
同年6月に東宝撮影所を退社。
この前に、戦時中に観て感激した、
『雷撃隊出動』を撮影した円谷英二を訪ねたところ、
飛行機の話題で意気投合。
誘われて円谷が自宅敷地に設置した円谷特殊技術研究所の撮影助手に。
最初の仕事は映画ではなく、
円谷が発明し販売していたオートスナップの改修。
1950年(昭和25年)、
東宝に復帰し、正式に専属契約を結びます。
この年、
GHQによる公職追放でフリーランスの身となっていた円谷が、
東宝撮影所内に円谷特殊技術研究所を設置。
有川は研究所員として加わり、
合成撮影などを請け負い、「東宝マーク」の作成も行います。
1953年(昭和28年)、
円谷が嘱託として東宝に復帰。
これに伴い、
同じく撮影技師の富岡素敬、真野田陽一と共に東宝のカメラマンに。
同年、
『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)で特撮パートのカメラマンを務めました。
1954年(昭和29年)、
怪獣映画『ゴジラ』で特撮班のカメラマンを務め、
以後、
数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけ、
昭和期における特殊撮影技術を代表する一人に。
円谷の下では、
引き(ロング画面)のカメラマンを担当。
また、
円谷の代理で本多猪四郎との連絡役も務めました。
1957年(昭和32年)、
『地球防衛軍』(本多猪四郎監督)のタイトルロールで、
初めて「撮影」としてクレジット記名。
1960年(昭和35年)、
『電送人間』(福田純監督)より撮影技師に。
1962年(昭和37年)、
『紅の空』(谷口千吉監督)で
特技監督の円谷を補佐し、特技演出を務めました。
1963年(昭和38年)、
円谷英二が株式会社円谷特技プロダクションを創設。
円谷に請われ、
同社とフジテレビとの番組企画『WoO』に企画参画。
1965年(昭和40年)、
円谷特技プロダクション製作のテレビ映画『ウルトラQ』の
「五郎とゴロー」「1/8計画」で特技監督デビュー。
以後、円谷特技プロのテレビ作品で腕を振るいました。
1966年(昭和41年)、
『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(福田純監督)では、
円谷に代わって実質的に特撮演出のほとんどを務めます。
1967年(昭和42年)、
『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(福田純監督)で、
正式に東宝の2代目特技監督の役職を得ます。
1968年(昭和43年)、
円谷特技プロダクションが「円谷プロダクション」と社名変更。
登記上の取締役に就任(名義のみ)。
1969年(昭和44年)、
円谷とともに大阪万博の『三菱未来館』の「サークロマ立体映像」を制作。
1970年(昭和45年)、師匠の円谷英二が死去。
「サークロマ立体映像」の仕上げを行い、
円谷の死去直後にクランクインした『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(本多猪四郎監督)で
特技監督を担当、これが東宝での最後の特撮劇場作品に。
1971年(昭和46年)、
東宝特技課の解散に伴い、東宝を退社。
この年、東宝の系列会社である国際放映に移籍。
1972年(昭和47年)、
東宝に請われてテレビドラマ『愛の戦士レインボーマン』(NET)の特撮を担当。
1977年(昭和52年)、
元東宝の造形スタッフの村瀬継蔵に招かれ、
香港のショウ・ブラザーズ製作の『北京原人の逆襲』(ホー・メン・ファ監督)で
特技監督を務めます。
1979年(昭和54年)、
『西遊記II』(日本テレビ)で、プロデューサーを務めます。
晩年は映像関係の専門学校の講師として、
特撮技術の指導に当たりました。
2005年(平成17年)9月22日、肺癌のため死去。
80歳没。
(有川貞昌)
昭和のトリオ
てんぷくトリオ・漫画トリオ・トリオ.ザ,スカイライン・トリオザパンチ・ナンセンストリオ・チャンバラトリオ・レッツゴー三匹・横山ホットブラザーズ。
1952年、仲代達矢さん
俳優座演劇研究所付属俳優養成所に4期生として入所。千田是也に師事し、シェイクスピア劇から日本の怪談ものまで多数の舞台に出演。映画界では、 小林正樹監督に見いだされ、
「人間の條件」6部作(59~61)や
「切腹」(62)などで主演を務め、黒澤明監督の「影武者」(80)、「乱」(85)にも主演。成瀬巳喜男、岡本喜八、市川崑、五社英雄など日本を代表する監督の作品に多数出演し、日本映画界に欠かせない存在となる。75年に私塾「無名塾」を設立し、後進の俳優育成にも注力している。NHK大河ドラマ「新・平家物語」(72)や、「大地の子」(95)ほか多くのTVドラマにも出演した。
芸術選奨文部大臣賞など数々の演劇賞を受賞。92年、仏シュバリエ芸術勲章、96年に紫綬褒章、03年に勲四等旭日小綬章、15年に文化勲章を受章した。
★さて一服😃🚬って写真👀📷️✨
タバコ加えてるなんて?現在では珍しいですね💝
原水爆のせいで生まれたゴジラ
唯一の被爆国である日本を襲う
後々、徐々に日本の守り神のような存在と変わっていったのだが.......😃💕🎶🙏
おそらく、最初は原水爆に対する抗議
即ち合衆国への抗議の為に作られた映画だったのだろう😢💕🎶🙏

朝の連続ドラマ澪つくしで主演されていた沢口靖子さん(さんまさんも出てました)舞台は、銚子。

大平透さん
(1929年9月24日-2016年4月12日)
声優、俳優、アナウンサー。
身長180cm・体重80kg。
大平プロダクション代表。
日本俳優連合副理事長。
最後は81プロデュースに所属。
東京府荏原郡蒲田町(後の東京市蒲田区、現・東京都大田区)出身。
日本国有鉄道を務めていた父が、
タイヤ修理工場、雑貨商を営むことなった関係から生後8か月でインドネシアに移住し、
5歳まで姉と共にジャワ島のバンドンで過ごしました。
帰国後は蒲田区で過ごしましたが、
住んでいた家屋が防火帯工事に伴う立ち退き対象にされたため、
これを契機に疎開を兼ねて父親の故郷である観音寺市に移住。
小学校卒業する頃は
父のような技術者になりたいと考えて、
工業高校への進学を希望していましたが、
周囲の勧めもあり、
東京府立第二十二中學校(後の東京都立城南高等学校、現:東京都立六本木高等学校)に進学。
終戦直後の中学4年生の時に
東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)洋画科を受験するも落ち、
終戦後は東京に一家で戻り、同高校を経て、
露天商、闇屋の手先のようなバイトをしながら、
明治大学政治経済学部に進学。
明治大学硬式野球部で活躍するも、
肺結核に罹患したため、3年間休学を余儀なくされます。
病も癒えて復学しようと考えていたところ、
キリスト教の教会を八王子市のほうに建てて、
牧師を自費で雇って教会を守ってきたというような
熱心なクリスチャンであった父の勧めで受けたオーディションに合格したことで、
1952年に
「ルーテル・アワー(日本ルーテル・アワー)」専属アナウンサーでデビュー。
大学は夜学に転籍して、
仕事と並行しながら1954年に卒業。
その後、フリーアナウンサーを経て、
ニッポン放送開局と同時にフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターとして、
週2本のドキュメンタリーを制作。
1955年、
ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)開局と同時にTBS劇団へ入団、
フライシャー・スタジオ制作短編アニメシリーズ『スーパーマン』を再編集した『まんが・スーパーマン』で
日本のテレビ史上初の日本語吹き替えを行い、
翌年には実写版テレビシリーズ『スーパーマン』で
主演のジョージ・リーヴスの吹き替えを担当。
好評を博すも、
リーヴスがスーパーマン以降のキャリアが伸び悩み自殺に至った事から、
自身もスーパーマンでキャリアを終わらせたくないと考え、
1960年に小林清志に引き継がせて降板。
1958年、TBS劇団解散に伴いフリーとなり、
1963年に大平プロダクションを設立。
1982年からは大平透声優ゼミナールを開校し、
後進の指導にあたっていました。
この間には、
『スーパーマン』等のシリアス路線から
『恐妻天国』のフレッド・フリントストーン役や
『ハクション大魔王』のハクション大魔王役などの主役に抜擢され、
コメディ路線の新境地を開拓。
1989年には
『笑ゥせぇるすまん』の主役・喪黒福造役や
ディズニーキャラクターのピート役に抜擢され演じており、
最晩年に病気療養で降板するまで専属で担当。
2000年8月26日、妻と死別。
2005年頃には体力の衰えを感じ引退を考えるも、
仕事をしていたスタッフの後押しを受けて
病気療養するまで現役で活動し続けました。
2007年3月3日、
第1回声優アワード功労賞を受賞。
2013年には、
第7回声優アワードで森功至、小原乃梨子、岡本茉利と共に
「シナジー賞(タツノコプロ50周年)」を受賞。
3月23日、24日に開催された「東京国際アニメフェア2013」では第9回功労賞を受賞。
2014年11月1日付けで81プロデュースに所属。
2015年頃から体調を崩しがちになり、
同年12月からは病院でリハビリに入ったため、
持ち役には代役が立てられました。
同年12月14日、ディズニー主催の謝恩会に出席。
これが公の前に現した最後の姿となりました。
2016年4月12日、肺炎で死去。
86歳没。
(大平透)
「ボルサリーノ」1970年フランス=イタリア合作
アラン・ドロンと、ジャン・ポール・ベルモンドの共演で話題になった映画ですね。もっとハードボイルドかと思ってたのは続編みたいですね。
NHKBSで録画して視聴しました。
山内賢さん
(1943年12月9日-2011年9月24日)
俳優・歌手・司会者。
東京都出身。
北区立滝野川第四小学校、北区立新町中学校(現・田端中学校)卒業。
玉川学園では、浜田光夫と同級生。
俳優の久保明は実兄。
身長170cm。
1955年『姿なき目撃者』で「久保賢」の芸名で子役として、デビュー。
その後、東宝作品に出演。
1962年4月1日、日活と契約し芸名を「山内賢」に改名。
多くの日活映画に出演。
第一作目は『雲に向かって起つ』(石原裕次郎主演)。
1960年代にブームとなる日活純愛・青春路線を支え、
和泉雅子との共演作が多く、
なかでも鈴木清順が監督した『悪太郎』『悪太郎伝 悪い星の下でも』は、代表作。
また、舟木一夫とも多く共演。
歌唱及びギターを得意としており、
1962年には日活の俳優仲間であった
和田浩治、杉山俊夫、杉山元、木下雅弘とともにヤング・アンド・フレッシュというバンドを結成し、
レコードをリリース、
また彼らをフィーチャーした映画も数本製作。
1966年には
和泉雅子とのデュエット曲『二人の銀座』、『東京ナイト』が大ヒットし、
同名の映画も製作。
日本映画の衰退とともに活動をテレビに移し
歌手そしてドラマや司会などで活躍。
1979年から6年にわたり放送された『あばれはっちゃくシリーズ』の先生役や
1983年、1997年、1998年放送のNHK『趣味講座』(釣り、登山)などで人気を博します。
2003年夏、
右肺にガンが見つかり除去手術を行いました。
その後も食道・左肺と転移が発見され計4度の手術を行いました。
2007年11月17日、
新宿の京王プラザホテルで開催された日活出身の俳優にて、構成する「俳優倶楽部」と
スタッフ等で構成する「旧友会」の合同パーティーに、
渡哲也・浅丘ルリ子・宍戸錠・芦川いづみ・松原智恵子・川地民夫・沢本忠雄・鈴木清順・井上梅次・齋藤武市・舛田利雄らとともに出席。
2008年9月、
和泉雅子との約40年ぶりデュエット新曲『おとなの銀座』を発売。
また『二人の銀座』を含む往年のヒット作品を新たに録音したアルバムも発売。
2009年2月、
テレビ番組の企画で『あばれはっちゃくシリーズ』の共演者、
吉田友紀(初代あばれはっちゃく)、
栗又厚(二代目あばれはっちゃく)、
早瀬優香子(初代ヒロイン)らと約30年ぶりに再会。
2011年9月24日午前4時53分、
肺炎のため東京都新宿区の病院で死去。
67歳没。
(山内賢)
さいとう・たかをさん
(1936年11月3日-2021年9月24日)
漫画家。
和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身。
東京都中野区、岩手県花巻市在住。
貸本漫画時代に劇画の分野を確立した人物の一人であり、
一般漫画の世界に転向後も『ゴルゴ13』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、
劇画界の代表的人物。
また「さいとう・プロダクション」を設立し、
各スタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立。
1936年(昭和11年)、
5人兄弟の末子として和歌山市に生まれるも、
生後まもなく転居し、のちに大阪府堺市に移住。
父親はさいとうが幼い時に家を出たため、
母親が理髪店を営みながら女手一つで子供5人を育てました。
小さい頃は図画工作(美術)科目とケンカが得意の、
いわゆる不良少年であり、
将来の夢はボクサーか画家になることでした。
中学時代には府の絵画展で金賞を獲得。
1950年に堺市立福泉中学校を卒業し、
実家の理髪店で働き始めます。
当時は漫画に興味がなく将来の夢は挿絵画家でしたが、
挿絵業界は今後狭まっていく、
あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感から、
当時はまっていた映画や進駐軍が持ち込んだ
「10セント・コミックス」に影響を受け、
ストーリー漫画を志します。
同時期に手塚治虫(同じ誕生日でもある)の『新寶島』を見て衝撃を受け、
「紙で映画が作れる!」と興奮。
当時のさいとうは手塚の影響を受け、
柔らかなタッチの絵を描いていました。
1952年には家業である理髪店を姉と継ぐも、
1955年に仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『空気男爵』を、
大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込みます。
等倍の紙に漫画を描いたため、
社長の山田秀三にダメ出しされるも、
一年かけて書き直し、デビューが決定。
それ以降、
日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表。
1956年には漫画に専念するために家業の理髪店を辞め、
母親は激怒して漫画を親の仇であるかのごとく嫌うようになりました。
同年には、
辰巳ヨシヒロや松本正彦らと同じアパートで共同生活を送りながら漫画を描き始めました。
1958年(昭和33年)先輩漫画家の久呂田まさみに連れられて上京、
東京都国分寺市のアパートに居を構え、
1959年、
国分寺に居住していた日の丸文庫系劇画家の
さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、松本正彦ら8人で
劇画制作集団「劇画工房」が結成されます。
人気劇画家の制作集団とあって貸本出版社からの執筆依頼が殺到して
多数の貸本劇画短編集を出版するも、
組織論や仕事配分、ギャラの分配などで揉め、
翌年1960年春に劇画工房は短期で分裂。
「劇画工房」の分裂後、
佐藤まさあきや川崎のぼる、南波健二、ありかわ栄一ら、ガンアクション系の劇画家5人で
新・劇画工房の設立を計画するも、頓挫。
その計画を元に1960年(昭和35年)、
東京都国分寺市に自らの漫画制作会社「さいとう・プロダクション」を設立。
さいとうの組織論に共鳴していた石川フミヤスらがスタッフに加わり、
さいとうの兄の斉藤發司がマネージャーを務めることに。
以後、多数の貸本劇画を出版。
中でも『台風五郎』はシリーズ化され人気を博しました。
1962年(昭和37年)、
貸本劇画家有志と「劇画集団」を設立。
メンバーは
さいとう・たかを、横山まさみち、永島慎二、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、旭丘光志、都島京弥、いばら美喜、山田節子、武本サブロー、影丸譲也、他。
もっとも、
この団体は漫画制作を目的とした新・旧劇画工房とは違い
劇画家の親睦のための団体であり、
一般読者会員にも会報などを発行。
貸本業界が傾き始めた1963年、
ボーイズライフ連載の『007』のコミカライズを機に一般漫画誌に本格進出。
1967年には時代劇アクション劇画『無用ノ介』(『週刊少年マガジン』)を連載。
劇画路線の『マガジン』を代表するヒット作に。
その後、
1968年(昭和43年)10月より連載開始の『ゴルゴ13』(『ビッグコミック』)は、
さいとうにとっての代表作であり、
日本の「劇画」の代名詞に。
『ゴルゴ13』は現在も連載中の長寿漫画であり、
1976年(昭和51年)1月に1975年度小学館漫画賞の青年一般部門、
2005年(平成17年)1月に2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞し、
2021年(令和3年)7月には
「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定。
21世紀に入ると
『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の3作の長期連載を軸に
活動、大ベテランとなっても月産150ページ以上の旺盛な執筆活動を展開。
しかし、
2008年に武本サブロー、
2014年に石川フミヤスと、
長年にわたって仕事を支えてきたチーフアシスタントが相次いで死去したこともあって、
さいとうの作業量が増加。
そのため2015年2月、
体力的な負担を理由に『仕掛人・藤枝梅安』の休載を決定。
残り2作品の連載執筆に専念しつつ(これらもページ数を削減)、
『梅安』再開も模索したが、
結局体力の限界を理由に2016年3月『梅安』連載終了を告知。
そうした状況でしたが、
最晩年の2021年7月から『ビッグコミック増刊号』(元は『ビッグコミック』本誌と並行して『ゴルゴ13』を連載していましたが、上述の事情で新作を休止)にて、
『ゴルゴ13』のスピンオフ作品である『銃器職人・デイブ』の連載を開始。
2021年9月24日、膵臓がんのため死去。
84歳没。
(さいとう・たかを)
佐分利信さん
(1909年2月12日-1982年9月22日)
俳優、映画監督。
身長177cm。
渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、
愛称は「サブリどん」。
日活を経て松竹に入社し、
上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、
戦前松竹の看板スターとして活躍。
戦後は監督業にも進出し、
『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表。
1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、
晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せました。
主な作品に
『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。
女優の黒木しのぶは妻、
俳優の石崎二郎は長男、
ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫。
(佐分利信)
川島なお美さん
(1960年11月10日-2015年9月24日)
女優、タレント、歌手。
二人姉妹の長女。
身長158cm、B82cm、W58cm、H84cm(1982年6月)。
愛知県守山市(現・名古屋市守山区)出身。
最終所属は太田プロダクション。
夫はパティシエの鎧塚俊彦。
父親は名古屋高等裁判所事務局長。
名古屋市立大森中学校~愛知県立中村高等学校~青山学院大学文学部第二英米文学科卒業。
高校在学中、スクールメイツに所属し、
歌とダンスを学び、
その後平尾昌晃の音楽教室に通いました。
1979年、大学入学と同時に上京し、
『シャンペンNo.5』で歌手デビュー。
笑福亭鶴光のオールナイトニッポンでアシスタントを務めました。
文化放送が『セイ!ヤング』の後番組として、
1981年10月からスタートさせた
『ミスDJリクエストパレード』の火曜日担当パーソナリティに抜擢され、
深夜の顔に。
当時は大学在学中であり、
女子大生DJと呼ばれ、
女子大生ブームの中心的存在に。
学生時代は剣道部に所属し有段者(初段)。
1982年、
中京テレビ制作『お笑いマンガ道場』の三代目女性レギュラーとなり、
プロ顔負けの画力と、芸人顔負けのネタの巧みさを披露し、
同世代以外からの知名度と人気を獲得。
1989年秋に番組卒業が決まり、
同年8月8日、
9月から明治座で『水戸黄門』の舞台公演でのフィルム撮影のため現場に向かう途中で、
ロケバスが崖から転落する事故に遭いました。
第七頸椎を骨折する大怪我を負ったが顔は無傷だったことをすぐに確認。
この影響からそのまま復帰することはなく降板。
女子大生タレントのイメージがいつまでも抜けず、
出演番組は限られるなど不遇な時代が続きましたが、
1993年、
30代にしてヘアヌード写真集『WOMAN』を発表し、
55万部の大ヒット。
これをきっかけに妖艶な女優へとイメージチェンジ。
判事だった父の立場を考慮し、
父が退官するのを待って発行。
1997年、
『失楽園(TVドラマ版)』に主演し話題に。
『おしゃれカンケイ』にゲスト出演した際、
通常スタジオの観客は番組スポンサーである資生堂の方針で女性と決められているも、
川島が出演する回に限り、観客は男性限定に。
2013年8月に健康診断で腫瘍が見つかり、
即手術を勧められるも拒否。
代替策としての抗がん剤治療も拒否。
腫瘍は肝内胆管癌であることが判明。
翌年1月末に手術を受けました。
全て腹腔鏡下で行われた手術は12時間にも及んだといいます。
2014年7月に再発が判明、
夫に対しては余命1年未満の宣告がなされました。
川島は余命を知らされない状態で抗がん剤治療拒否を決断。
以降も代替医療に励みながら芸能活動を続けました。
2015年9月17日、
出演中のミュージカル『パルレ〜洗濯〜』を、
体調不良を理由に途中降板。
9月20日、
11月から12月に出演が予定されていたミュージカル
『クリスマス・キャロル』についても降板が決定。
2015年9月23日には
自宅療養中であることが公表され、
同年11月5日開催予定のソロライブでの復帰を目指していました。
しかし翌24日19時55分、胆管癌のため永眠。
54歳没。
(川島なお美)
丹波哲郎さん
(1922年7月17日-2006年9月24日)
俳優・声優・芸能プロモーター・心霊研究家。
身長175cm。
東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。
俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優。
テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わりました。 
丹波プロダクション・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけており、
宮内洋は丹波の一番弟子。
心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーに。
大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)にて丹波家の三男として生誕。
祖父は東京帝国大学名誉教授の丹波敬三、
父はその二男で、
東北薬専卒の陸軍薬務官で日本画家の丹波緑川(次郎)、
親戚には従弟で音楽学者の丹波明、
元大審院院長の林頼三郎ら。
哲郎の生家は祖父の別邸を父が譲り受けた屋敷。
家柄は系図を遡ると、
天平の昔から伝わる薬師の名家で、
医学書『医心方』を著した丹波康頼にたどり着きます。
成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、
仙台の二高を二度受験するも不合格。
親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学。
在学中に第1回学徒出陣し佐倉の東部64部隊(近衛歩兵第5連隊)に入隊、
しかし態度が大きいという理由で普通の3倍程の体罰を受けることもありました。
立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治旧陸軍少尉。
航空隊に在籍していたために特攻隊員になる可能性もありましたが、
それにはなることなく終戦を立川で迎え(最終階級は陸軍軍曹)、
戦後の1945年大学に復学し、
学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていました。
またダグラス・マッカーサーには二度程度エレベーターの中で遭遇したそうです。
1948年に大学を卒業。
卒業後は団体(公社)職員となるも俳優を志し、
1950年創芸小劇場を主宰後劇団文化座に加入後、
1951年春勧誘されていた新東宝に入社。
1952年に
電通傘下DFプロダクション制作新東宝配給のセミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビュー。
 
陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍、
1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに
金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況でしたが
1959年、
丹波の新東宝の作品のレベルが落ちているとの発言が記事となり、
新東宝社長・大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいましたが、
丹波は所信を曲げず、
映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社、
フリーランスとなり、
フジテレビのディレクターだった五社英雄に見いだされるとコンビを組み、
1960年に放送されたテレビドラマ『トップ屋』、
1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演。
五社とは盟友となり、
1969年の映画『御用金』にも出演。
映画『豚と軍艦』(1961年)、
『丹下左膳』(1963年)、
『暗殺』(1964年)、
1963年のテレビ時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし、
荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、
時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、
幅広く出演。
早くから海外の映画作品にも出演しており、
1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋』、
イギリス映画の『第七の暁』(1964年)、
そして世界的なヒット作『007は二度死ぬ』(1967年)で
国際的に認知され海外においても活躍。
1968年から1973年まで放映されていたテレビドラマ『キイハンター』では
黒木鉄也で主演。
黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、
タイガー田中の人物像も反映させています。
最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、
当初1年の予定が5年に延ばされました。
『キイハンター』終了後も、
丹波は同時間帯で
テレビドラマ『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、
TBS系土曜21:00の顔に。
前後して
1973年には映画『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。
1974年には映画『砂の器』の今西刑事役では、
人情味のある重厚な演技が高く評価されました。
1978年、
原田雄一との連名で映画『砂の小舟』を製作(日本公開は1980年)、
カンヌ国際映画祭にも出品。
1980年の『二百三高地』で
第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞。
生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し、
300万人以上の動員を得ます。
1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、
映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼びます。
「霊界はすばらしいところ」と発言。
2000年、
『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、
大河ドラマ『利家とまつ』(2002年)、
『義経』(2005年)などで、
渋みある演技をみせていました。
2005年2月から約2か月間、
インフルエンザと虫垂炎のために入院し、
それが原因でひどく痩せ、健康が懸念され、
2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、
肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。
84歳没。
(丹波哲郎)

キャツ❤アイ🥰・・・ほとんど、アニメを実写化するとコケますが😅 1988年日本TVドラマ【ミー、早見優、立花理佐】1997年映画【稲森いずみ、内田有紀、藤原紀香】 このメンバーは、中々良かったです😍✌

ボタンを押すと開いたり飛び出したりする筆箱ですけどテレビで昭和の末期頃にやってた言ってたんですが
いがいとお金持ちの家の子とかしか持ってなかった様な気がする。
吉田拓郎さん! モテるんだからしょうがない😅
【3度目の正直】ですか?
古い奴だとお思いでしょうが『結婚』は一生添い遂げるものだと思うのですが🤔 古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます😅モテナイ君の“小さなつぶやき”でした😂
🟣石原家の嫁、作家の妻、政治家夫人、そして4人の男の子のお母さん🌸🌸🌸
🔴石原典子さん💜❤️💛
🟢たいへんな立場だったでしょうね⁉️
富山敬さん
(1938年10月31日-1995年9月25日)
声優、俳優、歌手。
満洲国奉天省鞍山出身。
弟が2人いましたが、
それぞれ事故、栄養失調で亡くしたといいます。
終戦に伴い宮崎県へ引揚後、
本籍地の東京都世田谷区で育ちました。
正則高等学校在学時、演劇部に所属し熱中。
より高みを目指したことで、
高校2年だった1955年に東宝児童劇団に飛び込み、
水沢草田夫作『金の鶯』の海賊クロ次役で初舞台。
約3年間の活動を経て、
児童劇に限界を感じ退団した後は、
日本大学芸術学部演劇科へ進学。
その後
「学校の勉強と実際に芝居することは違う」と感じたため、
劇団葦の研修生となったことを機に大学は2年で中退。
だが、
劇団葦は入団から約2年後に解散となったため、
しばらくは他の劇団の入団試験を受けながら、
それまで以上に日銭が得られる仕事(バーテンダー、キャバレーのボーイに呼び込み、サンドイッチマンなど)を
何でも行う生活を送りました。
声優の初仕事は、
1957年に放送された東北放送のラジオドラマ『源九郎物語』の竹丸役。
1965年、
東京都新宿区四谷の喫茶店でウェイターをしていましたが、
店に入った劇団葦時代の先輩であった千葉順二の誘いで河の会へ所属。
当時の河の会が吹き替え出演などマスコミ関係の仕事が主体だったことで、
富山も声優業を本格的に始めることに。
所属後しばらくは端役を多くこなし、
ひと月に30本出演したことも。
同年には『鉄人28号』にて、
毎回役の違う脇役ではあるがセミレギュラーを獲得。
1968年、
オーディションで『佐武と市捕物控』の主人公・佐武の声に抜擢され初主演。
以降は
1969年に『タイガーマスク』で主人公・伊達直人を、
『男一匹ガキ大将』の戸川万吉を演じるなどアニメーションでの主演が増え、
富山自身の人気も高くなります。
1974年、
『宇宙戦艦ヤマト』にて主人公の古代進を演じました。
同作のヒットも伴い、
富山は多数の人気声優ランキングで上位を飾るなど人気を不動のものに。
1976年、青二プロダクションへ移籍。
1979年、
富田耕生らと青二プロダクションを退所し、
ぷろだくしょんバオバブを立ち上げ。
同時期には2枚のアルバムをリリースし、
1980年にはバオバブ所属声優で結成した劇団がらくた工房(現:劇団すごろく)にて
約10年ぶりに舞台活動も再開。
1980年代に入っても多くの作品に出演。
『ゲゲゲの鬼太郎(第3作)』のねずみ男役や
『それいけ!アンパンマン』のSLマンなど、
主演だけでなくさまざまな脇役を担当。
1990年代には『ちびまる子ちゃん』で、
主人公のまる子の祖父・さくら友蔵の声を担当したほか、
SFアニメ『銀河英雄伝説』シリーズで
主人公のひとりであるヤン・ウェンリーを長期にわたり担当し、
結果的に富山の晩年を代表するキャラクターに。
1995年8月18日、
『ちびまる子ちゃん 第2期』第37話「呪いの貸本」の巻(1995年9月17日放送)の収録後に
「目の調子が悪い」と訴え、
同年8月21日に突然倒れ、
東京都新宿区の東京医科大学病院に入院。
検査の結果、末期の膵臓癌と診断。
仕事を優先する姿勢と人気声優としての多忙が災いして癌の発見が遅れてしまい、
診断時点で既に手遅れの状態だったといいます。
同年9月25日午前9時7分に死去。
56歳没。
(富山敬)

なぜか思い出させられる看板です🤔見なくなりましたね

小林昭二さん
(1930年-1996年8月27日)
俳優、声優。
東京府豊多摩郡出身。
身長は164センチメートル、体重は58キログラム。
日本大学芸術学部映画学科中退。
劇団俳優座養成所の第2期生で、
同期には小沢昭一や土屋嘉男。
1952年に新東宝の映画『殺人容疑者』で銀幕デビュー。
1953年4月に劇団仲間に入団し、同年6月に退団。
1954年10月から1956年11月までは新協劇団に所属。
1957年3月から1959年8月までは再び劇団仲間に所属。
1960年4月から1962年2月までは劇団新人会に所属。
1962年3月から俳優小劇場に所属。
その後は舞プロモーションに所属。
舞台を中心に各社の映画に出演する一方、
円谷プロダクションや東映製作の特撮テレビ作品で活躍。
『ウルトラマン』のムラマツキャップ(隊長)役や
『仮面ライダー』の立花藤兵衛役などが広く知られます。
また、
『ゴジラシリーズ』や『ガメラ2 レギオン襲来』など、
日本の代表的な特撮シリーズに多く出演。
時代劇や現代劇で数々の作品に出演しており、
悲運な小市民から重厚な黒幕、
さらには狂気を感じさせる極悪大盗賊など、
善役から悪役まで幅広い役柄を演じ、
いぶし銀の存在感を見せました。
コメディ演技も得意としていました。
市川崑監督からの信任も厚く、
金田一耕助シリーズには全作出演。
地味な役ばかりですが、
最終作『病院坂の首縊りの家』では『無法松の一生』を想起させる渋い見せ場が用意され、
貢献に報いられました。
また、ジョン・ウェインの声の吹き替えや時代劇作品のナレーターなど、
声優としての実績も多数。
1996年8月27日に肺癌のため、
昭和大学附属藤が丘病院で死去。
65歳没。
(小林昭二)

「別れても好きな人」棚橋静雄さん死去、85歳…「ロス・インディオス」ボーカル

 歌手の棚橋静雄(たなはし・しずお)さんが19日、多臓器不全で死去した。85歳だった。告別式は近親者で済ませた。

 東京都出身。1962年に結成したムード歌謡グループ「ロス・インディオス」でボーカル、リーダーを務めた。「コモエスタ赤坂」「知りすぎたのね」などで知られ、79年にロス・インディオス&シルヴィアとして出した「別れても好きな人」が大ヒット。2022年、結成60周年コンサートを機に引退していた。

昭和60年ごろの新宿東南口広場です。
昭和3年に建てられた昭和天皇の即位記念碑石があり、再開発が出来ずに終戦後の闇市の露店や屋台の名残りがいまだにありました。
池内淳子さん
(1933年11月4日-2010年9月26日)
女優。
東京市本所区東両国(現:東京都墨田区両国)の塩物問屋の長女として誕生。
幼稚園はトモエ学園に通園。
1952年(昭和27年)、十文字高等学校卒業後、
日本橋三越への入社試験に受かるも親の反対に遭います。
しかし祖父の許しを得て無事に入社、
配属された呉服売り場に後の女優・前田通子もおり、
そこで2人の美貌が評判に。
1年余り勤めたのちに退社し、
花嫁修業のため和裁と料理の学校(日本女子割烹専修学校(現:池袋調理師専門学校))へ通いました。
1954年(昭和29年)、
週刊芸能誌『サンケイグラフ』の第2回「カバーガール」に応募。
同年9月10日に新東宝本社で開かれた選考委員会で1位に輝きました。
『サンケイグラフ』は新東宝撮影所へ池内を推薦。
関係者の目にも留まり、同社へ入社。
偶然にも前田と再会。
1955年(昭和30年)、『皇太子の花嫁』で映画デビュー。
続く清水宏監督の『次郎物語』で姉役を演じ注目されます。
以来池部良、宇津井健の相手役として多くの作品に出演。
1956年(昭和31年)、『新妻鏡』で初主演。
久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びます。
その間、俳優の柳沢真一と結婚。
1957年(昭和32年)、映画界を引退、翌年に離婚。
1960年(昭和35年)、『花嫁吸血魔』(並木鏡太郎監督)で映画界復帰。
映画出演と平行して
TVドラマ『今日を生きる』、『日日の背信』(丹羽文雄原作、共演:原保美)などに主演(後者は昼ドラマにもかかわらず驚異的な高視聴率を記録、人気女優として名を轟かせます)。
1961年(昭和36年)8月末日、
新東宝は負債総額7億8千万円(当時)を抱えて倒産。
東京映画へ移籍。
『社長シリーズ』、『駅前』シリーズ、『花影』、『けものみち』などに出演。
1962年(昭和37年)、
「よろめきドラマ」(現在の不倫ドラマ)には欠かせない存在として人気を集め、
「日本放送作家協会女性演技者賞」を受賞。
お嫁さんにしたい女優でも上位にランクインし、
人気・演技力ともテレビ女優ナンバー1の地位を確立。
中でも『女と味噌汁』シリーズは毎回高視聴率を誇り、代表作に。
1966年(昭和41年)3月、
「第8回マルデルプラタ映画祭」出席のため、
南米アルゼンチンを訪問。
1974年(昭和49年)、
日本テレビとテレビドラマ出演のための専属契約を結びます(特例条件としてTBS『東芝日曜劇場』と映画の出演は可)。
この契約は1980年(昭和55年)まで続きました。
2002年(平成14年)、紫綬褒章を受章。
2007年(平成19年)4月、
舞台『三婆(さんばば)』の地方公演中に胸の違和感を訴えて検査入院した処、
間質性肺炎、胸水貯留、肺腫瘍の診断が下され、
約3か月の安静加療が必要となりました。
そのため、
同年5月25日から予定されていた『怪談牡丹燈籠』の全国公演の降板を発表(代役は水谷八重子)。
同年6月に一旦退院、
8月中旬からは民放の単発ドラマで仕事復帰。
2008年(平成20年)4月、
春の叙勲での旭日小綬章授与が日本政府より伝達。
2009年11月、
天皇陛下御在位二十年記念式典に出席。
同式典において、
上皇明仁と上皇后美智子が関心を持つ分野の代表者の一人として、池内が紹介。
2010年(平成22年)5月16日まで、
名古屋の中日劇場で舞台『三婆』に出演していましたが、
その後再入院。
約4ヶ月後の同年9月26日午後4時21分、
肺腺癌のため東京都内の病院で死去。
76歳没。
(池内淳子)
父が吸っていたハイライトには色んな広告がついてる時があったのを覚えている。
父の代わりにタバコを買いに行くとお駄賃を貰えたから喜んで走って行きました。

中国なんかに輸出しないで、日本で消費しましょう🐚

(元)千葉真一道場
千葉さんの立ち上げたJAC(ジャパンアクションクラブ)の拠点道場の一つだったそうです。
入口右側に小さな看板があるのがお分かり頂けるでしょうか?
京都嵯峨清龍、愛宕山山麓にあります。
愛宕神社に登る参道とは反対方向の清龍川沿いに所在するため、その存在を殆どしられて知られておらず、現在は廃墟の様になってしまってます。
時の流れのせいもあるのでしょうが少し寂しいですね…。
スーパースリーを知っていますか?
🎵スーパースリーは諜報部員〜
 世界の果てまで、エンヤコラドッコイシヨ(笑)