Apex product 【 昭和の楽しい時代 54 】

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【NHK朝ドラ「ブギウギ」】
東京ブギの服部良一さん、この人です
https://yuru2club.com/wp/?p=58877
NHK朝ドラ「ブギウギ」見てますか?
わたしは、よく見てます。
主人公スズ子(趣里)との運命的出会いをした作曲家羽鳥さん(草彅剛)。
このふたりは、実在の歌手 笠置 シズ子と
実在の作曲家 服部良一がモデルですが、
その服部良一さんが「東京ブギウギ」で指揮棒を振る映像があります。
この動画は、服部さん生誕100年を記念した番組とのこと。
2007年の編集放送ですね。そして、番組の放送は1984年、もうおよそ40年前になります。
動画をどうぞ>>>https://yuru2club.com/wp/?p=58877
水の江瀧子さん
(1915年2月20日-2009年11月16日)
女優、映画プロデューサー、タレント。
身長身長5尺5寸(約166.7cm)。
1928年に
東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹少女歌劇団、松竹歌劇団)に第1期生として入団。
同期に小倉みね子ら。
日本の少女歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、
「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博しました。
また、宝塚少女歌劇より早い断髪の男役でした。
1942年の松竹退団後は
劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。
日本初の女性映画プロデューサーとなり、
石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、
中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、
『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えました。
また、
『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、
『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わりました。
50年以上に亘り芸能活動を続けましたが、
1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとして
マスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、
芸能界を引退。
その後は隠居の傍ら、
ジュエリー作家として活動したほか、
1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとりました。
(水の江瀧子)
昭和のテレビドラマ
ドラマとゆ~~か、お笑い番組。
お笑い三人組。
三遊亭小金馬
江戸屋猫八
一龍斎貞鳳
あまから横丁のドタバタ騒ぎ。
八ちゃん、おたまちゃ~~~ん!!!う~~~!!!
楠トシエとかも出てました。
私がもの心ついた頃、最初に知った番組かも。
仲谷昇さん
(1929年5月4日-2006年11月16日)
俳優。
東京府東京市芝区高輪(現:東京都港区)出身。
中央大学法学部中退。
私立麻布中学を経て1949年(昭和24年)に中央大学法学部に入学するも、
大学在学中に演劇活動にのめり込み大学を中退し、
1950年(昭和25年)に文学座附属演劇研究所に入り、
1951年(昭和26年)、座員に昇格。
1953年(昭和28年)、
『にごりえ』で映画に初出演し
中平康の監督映画『猟人日記』・『砂の上の植物群』では主演を務め以降、
舞台、映画、テレビで貴重な存在として活躍を果たします。
1963年、
劇団の体質への不満から芥川比呂志、神山繁、小池朝雄らと文学座を脱退し、
福田恆存を中心とした劇団雲の結成に参加。
1975年には芥川、神山、中村伸郎らと劇団雲から離れ、演劇集団 円を結成。
芥川亡き後、
1981年からは同劇団の代表および株式会社円の社長を務めました。
文学座以来行動を共にしていた女優の岸田今日子と1954年に結婚、
一女をもうけるも1978年に離婚。
1980年に再婚しましたが、
1997年に2度目の離婚。
その後、2002年に3度目の結婚。
テレビドラマでは、
教授役・首相役・組織の長などの地位の高い役を担当することが多数。
一方、
フジテレビの歴史バラエティー『カノッサの屈辱』では案内役「仲谷教授」でレギュラー出演。
また、
1990年代前半には日本テレビのクイズ番組「マジカル頭脳パワー!!」の番組初期に放送されていた
ミステリークイズ「マジカルミステリー劇場」のミニドラマで、
主人公の「中谷探偵」を演じました。
2006年11月16日7時22分、
慢性閉塞性肺疾患のため東京都港区の病院で死去。
77歳没。
(仲谷昇)
納谷悟朗さん
(1929年11月17日-2013年3月5日)
俳優、声優、ナレーター、舞台演出家。
テアトル・エコーに所属、取締役も務めていました。
弟は俳優・声優の納谷六朗、
妻は女優・声優の火野カチ子。
北海道函館市出身。
父は利き酒師で函館太洋倶楽部に所属。
4歳の頃に一家そろって東京府東京市杉並区永福町(現:東京都杉並区永福)へ移住。
中学校には進学せず小学校高等科の2年に進学。
戦時中は高等科の1年終了後、
陸軍技術研究所で傭いとして就職。
その後は周囲の勧めで
日本大学附属の工業高等学校機械科夜間部に通っていましたが、
東京都中央区月島の商業学校に転校。
15歳頃に特攻隊へ入隊。
終戦後は毎日新聞の運動部で子供さん(給仕)のアルバイトを経て、
知人の営む京都府のスポーツ屋に住み込みで働きながら旧制中学校へ通う生活を送りました。
立命館大学法学部に進学した際、
演劇部から共通語(東京弁)の方言指導を頼まれたことがきっかけで芝居の面白さを知り、
後に舞台演出や出演もするように。
1951年、
兄が勤めていた出版社から児童劇団東童の主宰者・宮津博の『東童名作劇選集』が出版されることになったのが縁となり、
同年12月に大学を中退し児童劇団東童に入団。
役者デビューは舞台『宝島』。
1952年、
23歳の時に、初めてNHKのラジオに出演。
その後は民放のラジオ局への出演回数は急激に増えはじめ、
宮津が開局したばかりの日本テレビの顧問に就任してからは、
他の東童のメンバーと共に劇団ぐるみで同局への出演がする機会が多くなりました。
この頃、
日本テレビで大道具係だった熊倉一雄と知り合い、
意気投合したことで交友関係が生まれました。
その後、
児童劇に限界を感じたことから1955年3月に東童を退団し、
同年4月に劇団「稲の会」設立に参画。
最初は小林多喜二原作の『蟹工船』などを上演し、
都内の労働組合員にチケットを大量に買ってもらったことで成功を収めるなどしましたが、
約2年後には経営に失敗し倒産したことで劇団は解散。
1957年12月に劇団現代劇場に所属。
1959年1月、
熊倉に誘われたことでテアトル・エコーに所属。
テアトル・エコー入団時、
テレビ放映の吹き替えで新劇俳優が起用されることが多く、
こうした中で「アテレコ」に多用され、
30歳少し前くらいに声優としての活動を開始。
最初のアテレコ作品は、
テレビ映画『地方検事』の鑑識官役。
テレビドラマにも出演しましたが、
拘束日数の長さを事務所が嫌がった結果、
自然と声の仕事が増えたといいます。
1985年3月、
胃潰瘍で入院し胃腸を半分切除する手術を行い、
後日、
容態が改善しなかったため全摘の手術を行い、
それ以降は体力の低下から声が出しにくくなり、
その後も胃癌などの手術を経験し、
体力的に無理のない範囲で仕事を続けていました。
2008年4月、
舞台公演中に視覚の違和感を覚え、
歩行など生活にも支障が出たため検査を受けた結果、脳梗塞が判明。
完治が困難との診断を機に、
舞台『ルームサービス』で俳優業を引退。
同時期に都内から千葉県千葉市に転居し、
以降は妻である火野の助力を得て声優業のみ継続。
2013年3月5日、
慢性呼吸不全のため千葉市内の自宅で死去。
83歳没。
(納谷悟朗)
昭和のテレビドラマ
泣いてたまるか……。
昭和41年から昭和43年にかけて……。
毎回主人公の立場が変り、監督も変る……。昭和ならではの豪華な企画。
わたしが小学校高学年から中学入った頃。
これ、好きでした~~~!!!
途中、渥美清の体調悪化でで青島幸男や中村嘉津雄が代役やったり。
山田洋次が監督やった回。タイトルは「男はつらい」。
山田洋次はこの作品気にいって、のちにテレビドラマ化。さらには映画化……。ご存知、「男はつらいよ」フーテンの寅次郎なり!!!
川口浩さん
(1936年8月22日-1987年11月17日)
俳優・司会者・探検家・タレント。
東京府生まれ。
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、
慶應義塾高等学校中退後、
俳優座演劇研究所に入学。
1956年(昭和31年)、
映画『裁かれる十代』でデビュー。
同年、初の主演作『処刑の部屋』で注目を集め、
以降、
大映現代劇の若手二枚目トップスターとして多くの映画に主演。
京マチ子・若尾文子・山本富士子・岸恵子らなどと共演し、
『巨人と玩具』、『妻は告白する』、『浮草』、『おとうと』など。
1960年(昭和35年)、野添ひとみと結婚。
1962年(昭和37年)に大映退社後は、
実業家への転身を図り、
不動産管理会社である株式会社川口エンタープライズを設立し
アメリカ西海岸などへ集合住宅の視察へ赴きました。
東京都文京区にある父・川口松太郎邸の広大な敷地を利用して、
総工費7億円を費やして1964年(昭和39年)10月1日に開業した
自宅兼デラックス賃貸および分譲マンションである川口アパートメントの運営を執り行いました。
入居者として
1960年代には栗原玲児・藤村有弘・水谷八重子・水谷良重親子、
1970年代に差し掛かる頃には加賀まりこ・安井かずみ、
1980年代には月丘千秋、
また1972年(昭和47年)より千葉真一・野際陽子夫妻が住んでいました。
なお野際は1994年に千葉と離婚後も引っ越すこと無く、
2017年に死去するまで生涯同アパートメントに住み続けました。
1967年(昭和42年)には芸能界に復帰し、
二足の草鞋を履きました。
同年、株式会社川口プロモーションを設立。
復帰後はテレビへと活躍の場を移し、
1969年(昭和44年)からは
テレビドラマ『キイハンター』にレギュラー出演。
フジテレビ競馬中継の司会・解説を務めるかたわら、
1970年(昭和45年)、
川口浩探検隊の前身の『ザ・ショック!!』(日本テレビ系)を企画・出演。
1977年(昭和52年)からは
『水曜スペシャル』(テレビ朝日系)で『川口浩探検隊』が放送開始、
シリーズ全43回に及ぶ人気を博しました。
1983年(昭和58年)6月に放送された
『恐怖!ブラジル魔境に人食いピラニア大軍団を追え!逆襲死闘』で、
ピラニアに指を噛まれて負傷。
後に出演したバラエティー番組ではこの時の傷跡を公開。
1985年(昭和60年)に胃癌と診断され、
手術後に闘病生活に入り一時は癌を克服。
1987年(昭和62年)、
自宅で食事が喉に痞え嘔吐したため病院で検査したところ食道癌と喉頭癌と診断され、
再手術を行うも食道癌を除去した際の副作用で
腎不全と肺炎を併発し同年11月17日に息を引き取りました。
51歳没。
 
(川口浩)
昭和30年代のいわゆる「族」
カミナリ族
マフラー改造したバイクで、カミナリのような爆音をたててぶっとばす連中。
暴走族と違うのは……、あくまで飛ばしやで、暴力沙汰を起こすようなことはなかったと思います。
太陽族
芥川賞を受賞した、石原慎太郎の小説「太陽の季節」。映画化され、その登場人物たちの生き様に憧れた若者達。ありきたりの常識を無視して、欲望の赴くままに行動する若者像。詳しく書きませんが、長門裕之演じる若者が障子を破るシーン……。
ただ、映画の主人公たちはオボッチャマ、オジョウチャマ。
慎太郎刈り、サングラス、アロハの太陽族は、なんとゆ~~か、どっちかとゆうと庶民ではないかと……。
みゆき族
銀座のみゆき通りによくたむろしてたんで、みゆき族。
基本、アイビーファッション……。で、ちょっと崩して不良っぽくするとか。夏はバミューダパンツです。
ちなみに、これらの「族」が世の中を騒がせていたころ、わたしは小学生。それでもその存在は知っていました。
後にタケノコ族やらローラー族やらも出てきましたね。
まあ、いつの時代にも無軌道な若者は存在するわけで……。
令和となった今は……?
昔にくらべると、今の若者はおとなしくなっているような……。
井川比佐志さん
(1936年11月17日-)
俳優、声優。
身長170cm。
満洲国奉天市(現・中国・瀋陽市)生まれ。
東京都出身。
父親は測量技師で、
戦後は日本測量専門学校(現在の国土建設学院)で測量士の育成にも尽力。
小学生の頃、旧満洲からの引き揚げを経験。
1955年、東京都立千歳丘高等学校を卒業。
高校卒業後に俳優座養成所に第7期生として入所。
のちに行動をともにする田中邦衛とは同期。
1958年、座員に昇格。
1962年、
安部公房原作・脚本、勅使河原宏の監督映画『おとし穴』に主演して注目を浴びました。
1973年に退座し、
田中らと「安部公房スタジオ」の旗揚げに参加。
現在はフリーランスで活動。
1968年にはテレビドラマ版『男はつらいよ』で諏訪博士役を演じ、
一躍知名度を上げました(映画版とは対照的な眼鏡にスーツ姿という風貌の町医者姿でした)。
映画版でも『男はつらいよ 望郷篇』に出演しており、
映画版の博を演じた前田吟に似た風貌のキャラクターを演じました。
演劇界の数少ない庶民派として作品を支えるバイプレイヤーであり、
黒澤明や山田洋次、小泉堯史作品の常連として重用。
また、
テレビドラマ・映画ではベテラン刑事役を多くこなしました。
リチャード・バートン、マーロン・ブランド等の吹き替えも担当(ピエール・ブーレーズも担当)。
(井川比佐志)
内田裕也さん
(1939年11月17日-2019年3月17日)
ミュージシャン、俳優。
身長174cm。
兵庫県西宮市に生まれ、
1959年に日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー。
以降、
内田裕也とザ・フラワーズのヴォーカリスト、
フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、
1970年代後半からは俳優としても活動し映画出演や映画監督なども手掛けました。
また、
映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当。
映画の代表作には他に
『水のないプール』『十階のモスキート』『魚からダイオキシン!!』など。
若松孝二監督の作品に出演。
口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。
妻は俳優の樹木希林。
娘は内田也哉子。
内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿。
(内田裕也)
江見俊太郎さん
(1923年9月16日-2003年11月17日)
俳優。
東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区中野)出身。
早稲田大学専門部政治経済科卒業。
妻は女優の松風はる美で、
1976年から共同で「劇団ノア」を運営。
学徒出陣により海軍航空隊少尉で神風特攻隊出身。
1945年復員後、
東宝に入社し『民衆の敵』でデビュー。
後に新東宝に移り、
主に準主役で、色悪を主とした悪役としても活躍。
また1947年に初舞台『出家とその弟子』で唯円役を演じるなど、
早くから演劇活動を行い、多くの名作舞台に出演。
1964年に上演された『龍馬翔く』には
後藤象二郎役で出演していましたが、
主演の南原宏治が公演中に負傷して降板を余儀なくされ、
二幕目からは急遽、
江見が南原の代役に立って務め上げました。
1960年の新東宝倒産後は、
テレビに進出し、時代劇に多く出演。
とりわけ『水戸黄門』では現代劇とは打って変わり、
声が上ずって甲高いしゃべり方をするなどのコミカルな悪代官役を演じていました(『水戸黄門外伝 かげろう忍法帖』を含むゲスト出演回数は同番組第9位の37回)。
同様のしゃべり方は、
『暴れん坊将軍』や『大岡越前』などにゲスト出演した際にも見られました。
また刑事ドラマや、特撮作品への出演も。
また
協同組合の日本俳優連合副理事長・芸団協常任理事・芸術文化振興連絡会議議長・東京芸能人国民健康保険組合理事長として
俳優の権利向上・生活向上のための諸活動にも取り組みました。
2003年11月17日23時22分、
肺がんのため東京都三鷹市の病院で死去。
80歳没。
(江見俊太郎)
山口崇さん
(1936年11月17日-)
俳優・テレビ司会者・長唄三味線奏者・民話研究家。
身長175cm。
兵庫県三原郡阿那賀村(のちに西淡町。現:南あわじ市)出身。
長男は長唄唄方の三代目杵屋巳三郎(山口太郎)。
長女は長唄三味線方の杵屋巳織(山口由紀)。
東京都立戸山高等学校卒業、
早稲田大学教育学部英文科中退。
学生時代、同学部学生自治会委員長。
NHK俳優養成所、劇団三十人会、劇団俳優小劇場(1960年 旗揚げメンバー、1971年閉館)ののち、
1974年に
小沢昭一、加藤武、山谷初男らと芸能座を結成(1980年解散)。
『天下御免』で主人公・平賀源内を演じ、
「平賀源内 = 山口」といえるほどの当たり役に。
1970年から30年近くにわたって『大岡越前』で徳川吉宗役を演じました。
1970年代前後には主役級の役をこなしました。
石立鉄男、左時枝、小山田宗徳らとゲバラ財団という演劇グループを組み、
毎週日曜日の夜に渋谷ジァン・ジァンで入場無料で公演を行っていました。
俳優業のかたわら、
1978年からは、
テレビ朝日系『クイズタイムショック』の2代目司会者となり、
明るく親しみやすい語り口・ユーモアも交えた名司会ぶりで人気を集め、
1986年3月27日放送の最終回まで務めました。
民話や邦楽に造詣が深く、
ドラマや舞台で三味線・琴・鼓などを披露。
近年は、
長年のライフワークであった民話研究家としての活動に比重をおいています。
また、
長唄では人間国宝七代目杵屋巳太郎に師事し、
本人も名取で長唄三味線方の杵屋巳楓として活動。
また、年に1回、
家族で演奏会を行ったり一門の演奏会に出演。
自身が主演した「天下御免」を録画した第1回と最終回のビデオをNHKに寄贈。
(山口崇)
🐕‍🦺シェーン•D•グランプリ🐕‍🦺
『少年ジェット』に出演してたジャーマン・シェパード犬の名前です。 名脇役でしたね😁
シェーンの子供を欲しがる人は多く、そのうちの一人、若尾文子さんが繁殖された仔犬は、縁あって、吉田茂氏に贈呈されたそうです。
後に、森繁久彌、笑福亭鶴瓶さんが吉田茂氏の生涯を題材としたドラマに出演した際、劇中に登場したシェパード犬はやっぱりシェーンの子孫だったそうです。皆んなとても頭が良くて、足が速かったんだとか、、、
名犬シェーンの血統は、今も何処かで脈々と受け継がれているのでしょうか・・・🤔
古賀政男さん
(1904年11月18日-1978年7月25日)
昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。
国民栄誉賞受賞者。
栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。
明治大学商学部(旧制)卒業。
少年時代に弦楽器に目覚め、
青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛しました。
その後は、
プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、
昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、
数多くの流行歌をヒットさせました。
生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、
「古賀メロディー」として親しまれています。
(古賀政男)
宮史郎さん
(1943年1月17日-2012年11月19日)
歌手、芸人。
ぴんからトリオのリードボーカルとして発表した「女のみち」が歴史的な大ヒットを記録。
その後、ソロ歌手に転向。
兵庫県加西市広原町生まれ。
姫路市のキャバレーで働きながら1959年、
自主制作で「男の花道」を発売。
1961年、拠点を大阪に移し、
当時流行していたボーイズ形態の音曲漫才スパローボーイズを結成。
1963年、
宮五郎(史郎の兄)・並木ひろしとともに音曲漫才ぴんからトリオを結成。
グループ名の由来は「ピンからトリを」。
1972年、
東宝芸能所有の大阪梅田の演芸場『トップホットシアター』に出演していた時期に
自主制作したレコード「女のみち」が、
有線放送と地道な営業から火が付き420万枚を売り上げ、
続いて発売された「女のねがい」が170万枚、
「女のゆめ」が80万枚と大ヒット。
また、
これ以後漫才から歌謡コーラスグループに移行。
殿さまキングスや平和勝次とダークホースなどの
ボーイズ+音曲漫才浪曲出身のグループ演歌が
昭和50年代前半までブームとなりました。
1973年にぴんからトリオから並木ひろしが脱退し、
グループ名をぴんから兄弟に改名。
同年、
第15回日本レコード大賞で日本コロムビア株式会社が大衆ヒット賞を受賞、
代表して「女のねがい」を披露。
第24回NHK紅白歌合戦にも出演して「女のみち」を披露。
1983年にぴんから兄弟は解散しソロ歌手として活動。
宮五郎は引退して史郎のマネージャーとなりましたが、
その後病気で倒れ、長年療養生活を送りました。
1984年『片恋酒』が大ヒットを記録。
以後も各種演歌、ナツメロ番組、地方回りと枚挙にいとまのない売れっ子ぶりで活躍。
2004年、
金鳥『虫よけグリーン』のコマーシャルで虫に扮して「虫ごころ」を歌い話題に。
2005年、
同じく金鳥の『おでかけカトリス』のコマーシャルで「おでかけ慕情」を歌いました。
2007年公開の映画「歌謡曲だよ、人生は」の第五話「女のみち」に自ら出演し、
劇中で「女のみち」を披露。
2012年11月19日、多臓器不全のため死去。
69歳没。
(宮史郎)
ミヤコ蝶々は上方芸能界を代表する芸人。
昭和23年、南都雄二との夫婦漫才が誕生すると大ブレイク、
一躍有名になった。その後コンビは南都雄二が亡くなる昭和48年まで続き、夫婦漫才の先駆けとなった。
相方がいなくなってもミヤコ蝶々のシャベクリは絶品。
ボケとツッコミを一人でこなし
「蝶々の辻説法」といわれるほど評判をとり、ひとり語りの話芸を確立した。
また大阪道頓堀の中座で、蝶々は自作自演の舞台を昭和51年からおよそ23年間続けた。
藤岡重慶さん
(1933年11月19日-1991年7月23日)
俳優、声優。
身長168cm。
兵庫県神戸市出身。
旧制姫路中学(現 兵庫県立姫路西高等学校)を経て、
父と同様弁護士を目指し、
早稲田大学法学部に進み、
在学中の1955年、
第七期生として、劇団俳優座の養成所に入所。
同期には田中邦衛、露口茂、山本學、井川比佐志ら。
1958年に劇団青年座に参加。
創作演劇の舞台に立ちながら、
同年NHKで、
放送をスタートした長寿ドラマ『事件記者』に遠藤刑事役で出演。
1962年には食うために日活と本数契約を結んで、
年12・13本コンスタントに映画にも出演。
敵役として石原裕次郎や渡哲也らと多く共演、
強面の悪役俳優として頭角を現しました。
66年からはフリーの立場で東映を中心に各社のスクリーンに登場。
千葉真一主演「やくざ刑事シリーズ」での上司役、
テレビドラマでもコンスタントに続け、
時代劇や刑事ドラマでヤクザの親分、悪徳警官、凄腕用心棒などさまざまな悪役を務めました。
レギュラーの悪役では
1973年より関西テレビで制作されたドラマ『どてらい男』における、
主演の西郷輝彦をいじめ抜く坂田軍曹役が知られます。
後年、同作品の舞台公演に藤岡が出演した際は、
悪役ながら拍手喝采が巻き起こったといいます。
西郷とはCM共演も。
その一方、
子供向けの特撮作品などでは本来の人柄を活かして頼もしい善人役を演じる機会も多数。
声優としての活躍も著名で、
アニメ『あしたのジョー』での丹下段平役は、
代表作として今なお挙げられます。
晩年はバラエティ番組にも出演。
「コワモテだけど実はいい人」という、
バラエティ的役柄以外にも丹下段平絡みで笑いを取り、
本人が自らコスプレをして丹下段平を演じたことも。
藤岡自身の積み上げてきたキャリアも余すところなく生かされ、
若年層にもその名が広まりました。
1991年5月の大阪・新歌舞伎座の「五木ひろし公演」出演中に
体調不良を訴え、
神奈川県相模原市の北里大学東病院に入院。
同年7月23日午前8時6分、脳内出血のため死去。
57歳没。
(藤岡重慶)
市川崑さん
(1915年11月20日-2008年2月13日)
映画監督。
娯楽映画からドキュメンタリー、
更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、
長期間映画制作に取り組みました。
主な監督映画に
『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、
『犬神家の一族』を始めとする金田一耕助シリーズなどがあり、
主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』。
(市川崑)
森進一さん
(1947年11月18日-)
歌手、作曲家、社会福祉活動家。
山梨県甲府市生まれ鹿児島県育ち。
身長167cm、体重49kg。
息子に
ONE OK ROCKのTakaとMY FIRST STORYのHiro。
朝鮮半島清津市生まれで引揚者の母・森内尚子と、
母の幼馴染の兄で元大日本帝国海軍軍人の父・白砂三郎の長男として生誕。
3人で静岡県沼津市へ移転後妹2人が生まれますが、
10歳の時に両親が離婚、
母と妹とともに母の幼馴染だった父の妹を頼り下関へ移転、
母子家庭となり、一寛も新聞配達で家計を支えました。
その後母の郷里・鹿児島に落ち着き、
鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住。
金の卵と呼ばれた若年労働者として、
最初は寿司店に勤めるも1か月で退職、
家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えました。
1965年(昭和40年)、
フジテレビ系の素人参加歌番組『リズム歌合戦』に出場して優勝。
チャーリー石黒にその才能を見出され、
渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属。
森が初めて演歌をリリースした楽曲は、
レコードデビューから後の3枚目のシングル「女の波止場」。
1966年(昭和41年)、
猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による「女のためいき」でデビュー。
「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューした青江三奈と共にため息路線として売り出されました。
美声歌手が主流だった当時の歌謡界において、
かすれ声で女心を歌う森のデビューは衝撃的であり、
世間からは「ゲテモノ」「一発屋」と酷評。
しかしその後も
「命かれても」「盛り場ブルース」と立て続けにヒットを重ね、
ついにはデビュー3年目の1968年、
ヒット曲「花と蝶」で『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしました。
1969年(昭和44年)には
全国の港町の情景を織り込んだ「港町ブルース」を発表。
22歳の若さで第11回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞、
さらに出場2回目にしてこの年の『第20回NHK紅白歌合戦』のトリを務めました。
1971年(昭和46年)には
「おふくろさん」(作詞・川内康範、作曲・猪俣公章)が発売され、
同曲で2度目の最優秀歌唱賞を受賞(第13回日本レコード大賞最優秀歌唱賞)。
また、
『第22回NHK紅白歌合戦』にも同曲で出場し、
3年連続でトリを務めました。
1974年(昭和49年)には
フォークソング全盛期の黄金コンビ、
岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の「襟裳岬」を発表。
同曲で
第16回日本レコード大賞、第5回日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、
『第25回NHK紅白歌合戦』で自身初の大トリを務めました。
1979年(昭和54年)2月に、
デビュー以来約14年間にわたり在籍したナベプロから独立し、
「森音楽事務所」を設立。
同年夏、
再起を賭けて発表した「新宿・みなと町」がヒット、
以降の活動に弾みをつける契機となりました。
このころ、
ナベプロ時代の同僚だった既婚者の大原麗子との関係が取り沙汰され、
1980年(昭和55年)に大原と結婚。
1982年(昭和57年)に
松本隆作詞、大瀧詠一作曲(両者とも元・はっぴいえんど)による「冬のリヴィエラ」を発表。
ポップス系のこの曲により、
従来とは異なる新たなファン層を開拓。
大原麗子とは、1984年(昭和59年)に離婚。
離婚後、
新しい挑戦として社会福祉活動「じゃがいもの会」を設立。
この活動は新しい出会いを作るきっかけともなり、
約1年半の交際を経て、
1986年(昭和61年)10月1日に森昌子と結婚。
昌子はこれを機に歌手を一旦引退。
3児を授かり非常に仲睦まじい夫妻の在り方は、
一般に理想的な家庭像・夫婦像のイメージとして広く認知されるように。
昌子との結婚式はテレビで生中継され、
視聴率45.3%を叩き出すなど、
日本中の注目を集めました。
1988年(昭和63年)の「京都去りがたし」で
シングルとしては2回目の作曲を手掛け、
はじめて作曲者「森進一」のクレジットでリリース。
2001年(平成13年)の『第52回NHK紅白歌合戦』で妻・昌子と共演。
翌2002年(平成14年)から
昌子とジョイント・コンサートを行うように。
しかし、夫婦仲が悪化、
昌子との意見の相違などがあり、
結婚19年目の2005年(平成17年)3月に別居。
その心労もあってか、
間も無くして長年の持病であったC型肝炎をこじらせて入院。
4月19日には所属事務所から2人の離婚が発表。
闘病中にはうつ病にかかりますが、
2006年(平成18年)3月に回復して退院。
2008年(平成20年)10月5日に、
台東区蔵前にあるビクターのショールームで
新曲「波止場」の発表を兼ねたファン限定のミニライブを開催、
そのステージ上で2年前にC型肝炎が完治したことを報告。
2009年(平成21年)11月25日には
尾崎豊の「I LOVE YOU」や石川さゆりの「天城越え」など、
演歌からJ-POPまで様々なジャンルの曲を集めたカバーアルバム『Love Music』をリリース。
『NHK紅白歌合戦』には
第19回(1968年)の初出場から連続出場を続け、
第64回(2013年)に北島三郎が勇退してからは最多出場に。
デビュー50周年となった2015年、
第66回に48回目の出場を果たしますが、
12月4日、
公式サイトで同回限りでの勇退を宣言。
同回の紅白では
トリ前で「おふくろさん」を披露、
半世紀にわたる紅白出場に終止符を打ちました。
連続出場48回は五木ひろしに抜かれるまで歴代最長でした。
2021年、旭日小綬章受章。
(森進一)
太宰久雄さん
(1923年12月26日-1998年11月20日)
俳優。
映画『男はつらいよ』シリーズのタコ社長(桂梅太郎)役で有名な俳優。
同映画において渥美清演じる車寅次郎との掛け合いは見所のひとつでした。
東京市浅草区千束町(現・東京都台東区浅草千束)出身。
浅草の海苔問屋、佐野屋の息子として生誕。
タコ社長役で見られた髪型は、
父・久吉をモデルにしたもの。
中学時代に軍事教練で、
機関銃を間近で撃たれた影響により耳が少々悪くなり、
それ以来声が他人より一オクターブ高くなってしまいました。
それがコンプレックスであったものの、後に俳優として活きることに。
元々俳優志望ではなく、
昭和第一商業学校(現在の昭和第一高等学校)を経て日本大学商学部を中退後、
実家の海苔問屋を手伝った時期もあり、
いずれは家業を継ぐつもりでしたが、
東京大空襲で店が全焼。
戦後間もない1946年に、
生活の道を求めてNHK東京放送劇団に2期生として入団。
独特の高い声を活かしてラジオの声優として活躍。
この頃に三崎千恵子など、
後の『男はつらいよ』シリーズで共演する人たちと知り合います。
役者としてステップアップするために、
1955年フリーに。
その後、黎明期であったテレビで活躍。
特徴的な声質から外国作品の吹き替えの仕事も多数。
1965年、
フランク・シナトラ監督・主演の日米合作映画『勇者のみ』での演技が高く評価され、
1966年には渥美清演じるドラマ『泣いてたまるか』に出演し、
掛け合いの面白さが注目されます。
後に、
渥美の代表作『男はつらいよ』シリーズで「とらや」(第40作以降は「くるまや」)の裏で印刷工場を営む、
気は短く一言多いがどこか憎めない『タコ社長』の役で48作に出演し、
渥美演じる寅次郎との掛け合いのシーンは、
映画館やお茶の間を爆笑の渦に巻き込みました。
また、
山田洋次作品常連として、『男はつらいよ』以外の数々の作品にも出演。
プライベートでは
1970年に前妻で女優の小野舜子を癌で亡くし、
三崎千恵子の紹介で知り合った雅子と1977年に再婚。
1987年頃からは仕事上のストレスによる飲み過ぎから糖尿病との闘病が続いたため、
『男はつらいよ』での出番が少なくなり、
メディアの露出も控え気味でした。
そのため、
死の三年前に出演した『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が最後の出演作品となりました。
1996年7月、
糖尿病による視力障害の検査で病院に訪れた際に癌が見つかり告知。
入院中だった同年8月、渥美清が逝去。
同年の8月13日に松竹大船撮影所で開かれた
「寅さんとのお別れの会」に出席した後は
見舞いも断っていたといいます。
1998年11月20日(金曜日)午後2時15分、
胃癌のため東京大学医学部附属病院分院で死去。
74歳没。
(太宰久雄)

子供の頃お祭りの定番といえば「型抜き」。一回も成功した事がありませんでした。特に団子WW

昭和の頃、ミスヌードコンテストというお色気なイベントがありました😅当時の11PMでも取り上げられましたね😅今の時代やったら即アウトなイベント😅昔はほんとにおおらかで寛容で良い時代でしたね😅それにしてもこの女性、大胆ですよね😅

萬屋錦之介さん
(1932年11月20日-1997年3月10日)
歌舞伎役者、時代劇・俳優。
身長162cm。
歌舞伎から映画界に転じ、
当時を代表するスターとなり、
その後はテレビや舞台でも活躍。
中村錦之助時代の屋号は播磨屋、
定紋は揚羽蝶で、
萬屋錦之介と改名してからの屋号は萬屋、定紋は桐蝶。
愛称は錦ちゃん。
中村プロダクション代表(1968年 - 1982年)。
東映俳優クラブ組合委員長(1965年の約3か月間)。
満4歳になる直前に、
歌舞伎の初舞台を踏み、
以降39歳まで中村錦之助を名乗り、
1971年10月に小川家一門が屋号を播磨屋から「萬屋」に代えた1年後の1972年11月、
40歳を迎えた時に芸名を萬屋錦之介に改めました。
父は三代目中村時蔵。
伯父に初代中村吉右衛門、叔父に十七代目中村勘三郎。
俳優の中村嘉葎雄は弟で、
五代目中村歌六、
三代目中村又五郎、
五代目中村時蔵、
二代目中村錦之助、
二代目中村獅童はそれぞれ甥。
母・ひなは、売れっ子だった赤坂芸者。
妻はいずれも女優の有馬稲子(初婚)、
淡路恵子(再婚)、
甲にしき(再々婚)。
長男で俳優の島英津夫と、
芸能人ではない次男は淡路の連れ子。
実子は淡路との間に三男の小川晃廣と四男の小川哲史。
(萬屋錦之介)
2023/11月19日
  三浦友和さん💖百恵さん
 
 43周年結婚記念日
    おめでとうございます🎉🎊🎉
浜美枝さん
(1943年11月20日-)
女優。
身長164cm。
東京都出身。
夫はプロデューサーの金子満。
中学卒業後、
東京急行電鉄(東急)自動車部(現在の東急バス)に入社し、
路線バスの車掌として勤務。
1959年、
東宝映画『侍とお姉ちゃん』のコンテストに応募したのがきっかけで東宝に入社。
1960年、
16歳の時に映画『若い素肌』で女優デビュー。
同年には同い年の星由里子、田村奈巳と共に
「東宝スリーペット」(命名者は夏木陽介)として大々的に売り出されます。
お嬢さんイメージの強い東宝女優の中では活発さが持ち味で、
団令子の後継者的なポジションに位置。
『クレージー映画』の常連マドンナとしても知られ、
主に植木等の相手役を務めました。
コケティッシュな日本人離れした役柄を得意とし、
女スパイや殺し屋なども(さらには国際謀略団の女帝まで)チャーミングに演じました。
フランス制作のオムニバス映画『世界詐欺物語』の「日本編」(監督:堀川弘通)に出演。
ウーゴ・グレゴレッティ、
クロード・シャブロル、
ロマン・ポランスキー、
ジャン=リュック・ゴダール、
堀川の5人の監督による『世界詐欺物語』は
1964年5月上旬にパリのプレミアショーで上映され、
浜はその挨拶のために渡仏。
日本編を見たゴダールは、
ロケハンのためヨーロッパに来ていた東宝の藤本真澄に対し、
浜を次回作に使いたいと申し出ました。
浜は藤本とともに同月のカンヌ国際映画祭に出席し、
カンヌでゴダールと会いました。
結局、浜の出演は実現せず、
同年6月から撮影が開始された『恋人のいる時間』の主役はマーシャ・メリルが演じました。
『世界詐欺物語』は日本では、
ゴダールの監督部分を除いて同年10月に公開(ゴダールの監督部分は『立派な詐欺師』の題名で短編映画として1966年に単独公開)。
1966年4月28日、ゴダールが初来日。
滞在期間中、浜はゴダールと2回会い、
5月6日は成城の自宅でパーティーを開きました。
1967年公開の、
007シリーズ『007は二度死ぬ』(共演:ショーン・コネリー、丹波哲郎)で、
ボンドガール役を演じ、国際的名声を得ました。
東宝が専属契約制を打ち切った1970年に退社。
以後はテレビでの女優業のかたわら、
『小川宏ショー』(フジテレビ)、
『八木治郎ショー・いい朝8時』(毎日放送)、
『日曜美術館』(NHK)などのテレビ番組の司会や、
『脱線問答』(NHK)にレギュラー出演するなどで活躍。
他にラジオ番組では
『浜美枝のいい人みつけた』(朝日放送、TBSラジオほか)、
『浜美枝のあなたに逢いたい』(文化放送)、
『ニューモラルツーユー今日もありがとう』(ニッポン放送)のパーソナリティを務めました。
ライオンの洗濯用洗剤「トップ」のイメージキャラクターを長年務めておなじみとなりました。
また、
1979年- 1982年に東京ガスのテレビCM・ポスター・カタログ・新聞広告にイメージキャラクターとして登場。
1990年代初頭に女優業は実質引退、
映像民俗学者の姫田忠義に師事し、
女優引退後は環境・農・食問題について研究するライフコーディネーターとしても活躍。
エッセイ集も数十冊出しています。
その後
ラジオ番組『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送)のパーソナリティを務めているほか、
国土庁・農林水産省食アメニティを考える会会長をはじめ、
農政ジャーナリストとして各種委員会のメンバーを務めています。
近畿大学が2010年に新設した「総合社会学部」の客員教授に就任。
(浜美枝)
平幹二朗さん
(1933年11月21日-2016年10月22日)
俳優・演出家。
身長180cm。
長男は俳優の平岳大。
主に舞台演劇役者の主演として活躍し、
国内外で高い評価を受けている日本を代表する名優の一人。
その他にも、
大河ドラマなどのテレビドラマや映画などでも活躍。
(平幹二朗)
1960年代スクールメイツ💕~
1980年代にかけて、
主に音楽番組でバックダンサーとして活躍していたスクールメイツ。
渡辺プロダクションが設立したメンバーによる  グループで、キャンディーズや布施明、森進一など、数多くのスターを輩出していました~
 華やかな昭和の時代~💕
古き良きコンテンツのひとつ❣️(*^^*)

❤あべ静江・さん❤デビュー当時~東海ラジオのDJ時代~高校生の時。

酒井和歌子さんです。

佐野周二さん
(1912年11月21日-1978年12月21日)
俳優。
身長175cm。
昭和初期から後期(1930年代後半〜1970年代)に活躍した二枚目スターの一人。
関口宏、佐野守の父で、関口知宏の祖父。
東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区神田東紺屋町)に鳶職の息子として生誕。
1933年に立教大学経済学部予科を卒業後、
1935年に義兄の経営する神戸の貿易商「アサヒ商会」に入社。
同年、松竹の俳優募集に応募し、
1000人の中から1人合格し1936年松竹に入社。
「大船撮影所1期生」として、
同年の佐々木康監督の『Zメン青春突撃隊』で俳優デビュー。
立教大学の先輩上原謙とともに、
幹部スター候補生として、主役格で使われ、
1937年には早くも準幹部に昇格し、
島津保次郎監督の『婚約三羽烏』で、
上原謙、佐分利信とともに「松竹三羽烏」として共演し、スターの地位を決定的に。
1938年には幹部に昇格し、
名実共に松竹を背負って立つ存在となりました。
その後、
人気絶頂だった1941年から、終戦まで3度召集。
その間も、
その間隙を縫うように、
野村浩将監督、李香蘭主演の『蘇州の夜』、
小津安二郎監督の『父ありき』などの作品に出演するなど、
人気を保ちましたが、
私的には妻と長女をなくし試練の時となりました。
戦後になっても二枚目スターとして活躍し、
重厚な演技を持ち味に
木下惠介監督の『お嬢さん乾杯!』、『カルメン故郷に帰る』、
吉村公三郎の『春雪』などに出演。
特に、
小津安二郎の『風の中の牝雞』では田中絹代と共演し、
子供の医療費のために一度だけ売春した妻への、
怒りに苦しむが愛情を取り戻していく帰還兵を演じ新境地を切り開きました。
猪俣勝人は『日本映画俳優全史』で、
戦後は戦前の甘さ爽やかさが失われたと評し従軍体験の翳を嘆いていますが、
むしろ少し粗野な味やユーモアを加えて幅を広げた演技は
『お嬢さん乾杯!』などで引き出されています。
1953年にはフリーとなり、
五所平之助の『大阪の宿』や成瀬巳喜男の『驟雨』などに出演し、
演技派俳優として確固たる地位を確立。
1954年には、
俳優の生活安定の目的を理由に「まどかグループ」を佐田啓二、桂木洋子、三井弘次らと設立し、
映画制作も手がけました。
1965年以降はテレビにも活躍の場を広げ、
主に温厚な父親役で親しまれました。
1978年12月21日、急性心不全のため66歳で死去。
(佐野周二)

昭和生まれのこの少年が、まさか陛下の前でピアノを弾く事になるとは…分かりますか X

谷幹一さん
(1932年11月21日-2007年6月25日)
俳優・コメディアン。
東京都出身。
「タニカン」の愛称で親しまれました。
1950年に都立農芸高校を中退後、
新宿のムーランルージュ新宿座に最後の研究生として入り、
ムーランルージュの解散後、
劇団東京喜劇での地方巡演の後、
浅草フランス座で渥美清、関敬六と出会い、
共に下積み時代を過ごします。
戦前の役者谷幹一に似ていると言われたことから
芸名を谷昌明から谷幹一。
1958年にテレビ映画『月光仮面』で
探偵助手の袋五郎八を演じて人気を博します。
翌年には渥美、関と3人でスリーポケッツを結成。
解散後は本格的に役者として活動するようになり、
TBS月曜夜8時の時代劇『ナショナル劇場』枠では常連で多く出演。
その他、
ひらけ!ポンキッキのお兄さん役も務めました。
2000年から日本喜劇人協会副会長として、
会長の大村崑を補佐しましたが、
晩年は病気がちで作品出演は多くなく、
2006年8月に亡くなった関敬六の後を追う様に、
2007年6月25日、脳出血のため東京都新宿区の病院で死去。
74歳没。
(谷幹一)
岡本富士太さん
(1946年11月21日-)
俳優。
身長174cm。
柔道三段。
神奈川県横浜市出身。
藤嶺学園藤沢高等学校卒業。
妻は元スクールメイツの鶴間エリ。
1966年、東京芸術座附属演劇研究所を卒業。
同期には、小野寺昭、小野川公三郎。
同年、劇団雲に入団。
1975年には、
演劇集団 円の会員に昇格し現在に至ります。
1974年のテレビドラマ『事件狩り』でのゲスト出演が好評で、
大映テレビのプロデューサー・野添和子から東映の近藤照男に紹介されて
『バーディー大作戦』の出演が決まります。
後番組の『Gメン'75』に続投し、
初代メンバーの1人である津坂真一刑事として
1975年5月24日から1977年5月14日まで2年間出演。
『Gメン』途中に他のドラマからも声が掛かるようになり、
刑事役以外に等身大の若者を演じてみたいという気持ちから、
第104話「77.5.14 津坂刑事殉職」を以って同番組を降板。
妻である鶴間エリとは
『Gメン75』の共演がきっかけで交際した後、1981年に結婚。
1989年には『中学生日記』に美術担当教師・南浩平で出演し、
1996年までレギュラーを務めました。
また同じく1989年には、
東映のスーパー戦隊シリーズ『高速戦隊ターボレンジャー』にレギュラー出演。
洋画吹き替えも複数担当し、
磯部勉、小川真司、菅生隆之、山寺宏一、井上和彦と並んで
ハリソン・フォードとメル・ギブソン両者の吹き替えを経験。
(岡本富士太)
今井正さん
(1912年1月8日-1991年11月22日)
映画監督。
戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠。
東京帝国大学中退後、
東宝の前身J.O.スタヂオに入り、
入社2年で監督に昇進。
戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけました。
『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、
『武士道残酷物語』で同映画祭グランプリを受賞、
キネマ旬報ベスト・テンでは5本の監督作がベスト・ワンに選出されるなど、
賞歴も多く作品の評価は高いです。
日本映画復興会議初代議長。
主な監督作に
『青い山脈』『また逢う日まで』『真昼の暗黒』『キクとイサム』など。
(今井正)
尾藤イサオさん
(1943年11月22日-)
俳優・歌手・ジャグラー・声優。
東京都、現在の台東区出身。
身長168cm、体重55kg。
父は百面相や形態模写を得意とした落語家で寄席芸人の3代目松柳亭鶴枝。
母も芸人。
長女は歌手の尾藤桃子。
1953年に、
曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗って、
幼少時代は太神楽の曲芸師として活躍。
小鉄と兄弟子・小次郎存命時には、
3人で共演することも。
高校時代はロカビリーなどの音楽に興味を持ちます。
1960年プロダクションの門をたたき、
バンド「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」をバックに練習に励みました。
1961年から翌1962年5月まで、
アメリカのハリウッドに渡り勉強。
帰国後の9月、
フランツ・フリーデルをリーダーとするバンド「ファイア・ボール」の一員になり、
東京都内のジャズ喫茶に出演するように。
当時のレパートリーは
「ジェニ・ジェニ」「ルシア」「火の玉ロック」「ハウンド・ドッグ」等のロックナンバー。
ジャズ喫茶での歌唱に目を留めたテレビのプロデューサーにより
「パント・ポップショー」(TBSテレビ)や「森永スパーク・ショー」(フジテレビ)にレギュラー出演。
1963年の「新春日劇ウエスタンカーニバル」初出演。
以降「日劇ウエスタンカーニバル」に連続出演。
2月、
銀座の音楽喫茶「ニュー美松」で開催された
プロ歌手、バンドのみによる「プロ・ロック・コンテスト」にて歌手部門で1位に。
1963年3月、
「ミュージック・ライフ・人気投票」(1962年の人気による投票)では36位に初登場。
5月開催の
「第20回記念日劇ウエスタンカーニバル」ではプレスリー賞を受賞。
1962年に「東芝レコード」に内定していたものの、
初めてのレコードが発売となったのは1964年2月でした。
この頃はブルー・コメッツの専属シンガーでしたが、
クルト・ヴァイル作曲『三文オペラ』の主題曲「マック・ザ・ナイフ」のカヴァー「匕首マッキー」でソロでデビューし、ヒット。
以降、
シングル盤は1967年までほとんどが、
ブルー・コメッツがバックを務め録音され発売。
1964年3月「ミュージック・ライフ・人気投票」では18位に。
7月、
アニマルズのカヴァー『悲しき願い』(原題 Don't Let Me Be Misunderstood)発売。
大ヒットとなり、彼の代表作となりました(1978年にセルフカヴァーし、再びヒットさせています)。
10月に
内田裕也との初のアルバム『ロック、サーフィン、ホッドロッド』発売。(尾藤のソロ4曲。デュエットが4曲。演奏:ブルージーンズ、ブルー・コメッツ)。
1965年12月、
内田裕也とのアルバム第2弾『レッツ・ゴー・モンキー』(演奏:ブルージーンズ、ブルー・コメッツ)を発売。
この2枚のアルバムはグループ・サウンズ発祥前の日本のロック。
この年3月の「ミュージック・ライフ・人気投票」では7位になり、初のベストテン入り。
1966年、
ビートルズ日本公演の前座として
内田裕也、ブルージーンズ、ブルー・コメッツ等と出演し、合同演奏を行いました。
12月初のソロアルバム「ワーク・ソング」発売。
1970年、
テレビアニメ『あしたのジョー』の主題歌を歌い、
これも彼の代表作に。
1970年代からは俳優としての活動が顕著となり、
二枚目半・三枚目・小悪党などを演じてきました。
市川崑監督の映画『股旅』で三人主役の一人、
テレビドラマ『幻のぶどう園』(NHK)で主演。
『特捜刑事マイアミ・バイス』(1984年 - 1989年)では、
リカルド・タブス役であるフィリップ・マイケル・トーマスの吹き替えをし、
市川作品では独自の斜に構えたユーモアを発揮。
最晩年に到って5本の映画に立て続けに招かれています。
2012年、たいとう観光大使 に就任。
近年は
「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演し、
全国各地を回っています。
(尾藤イサオ)
高円宮憲仁親王
(1954年12月29日-2002年11月21日)
皇族。
高円宮家初代当主。
身位は親王。
お印は柊。
勲等は大勲位。
学位は法学士(学習院大学)。
三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第3男子(3男2女のうち第5子)。
明仁(上皇)は従兄、
徳仁(第126代天皇)は従甥。
兄に寬仁親王、桂宮宜仁親王、
姉に近衞甯子(甯子内親王)、千容子(容子内親王)。
高円宮の宮号は昭和天皇から賜ったもの。
父宮の三笠宮の宮号の由来となった
奈良県奈良市の三笠山付近にある高円山から採られました。
松濤幼稚園、学習院初等科、学習院中等科を経て、
学習院高等科時代は写真部に所属し、
以来写真撮影を趣味の一つとしました。
1978年(昭和53年)学習院大学法学部卒業後、
同年から1981年(昭和56年)までの期間にカナダのクイーンズ大学に留学。
帰国後から国際交流基金で嘱託となり、
公務の傍ら一般職員同様に勤務。
1984年(昭和59年)4月23日、
カナダ大使館のレセプションパーティーにて
実業家の鳥取滋治郎の長女で通訳として活動していた鳥取久子と出会い、
その後皇室会議で承認され、
同年9月17日に納采の儀、
12月6日に結婚の儀を執り行いました。
婚儀と同日に、高円宮家が創設。
戦後初の(三笠宮の分家として)宮家の1つから分かれた宮家の創設でした。
なお、
妃久子の曾祖母と貞明皇后は従姉妹にあたり、
妃と高円宮は遠縁にあたります。
その後、
承子女王、典子女王、絢子女王の3女が誕生。
男子はいません。
生涯を通じて皇位継承順位が皇族の中で最下位であり、
また生家においても大正天皇の末子である、
つまり傍流にあたる崇仁親王の三男ということから
「皇室(オク)のスポークスマン」を自認していました(戦後では皇位継承順位が生涯を通じて皇族の中で最下位だった唯一の例)。
2001年(平成13年)7月、
社団法人日本水難救済会名誉総裁に就任。
スポーツ、特にサッカーの振興・発展に尽力し、
1987年(昭和62年)から日本サッカー協会の名誉総裁を務めました。
2002年(平成14年)には、
サッカー・ワールドカップ日韓大会の開催期間中である5月末に夫妻で大韓民国を公式訪問し、
開会式にも出席。
日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の大韓民国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初(※公式訪問ではありません)。
開催期間中19試合を観戦。
2002年(平成14年)11月21日、
カナダ大使館にてスカッシュの練習を行っていた最中に心室細動による心不全で倒れ、
直ちに慶應義塾大学病院に搬送されるも、
既に心肺停止の状態であり、
蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されるも、
夜半になって容態が悪化。
妃久子の同意を得て人工心肺装置を取り外したところ、
生命反応がなく、薨去が確認。
47歳没。
(高円宮憲仁親王)
♡昭和の漫才師
1956年エロガッパに大口女~京唄子・鳳啓助
 昭和31(1956)年頃に夫婦コンビ結成、
 離婚後もコンビで活躍しました。
「ボテチン」「え、鳳啓助でございます」などとぼけた味の啓助と、「大口女」
「エロガッパ」とやりあう二人が楽しい高座でした。
テレビ番組『おもろい夫婦』の司会者として人気を博しましたが、1994年に鳳啓助が亡くなり、「もう一切、漫才はやりません」と
 漫才からの引退を宣言。
テレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」
バラエティ番組などで、女優やゲストとして
 活動を続けていました。
漫画 ワンピースキャラクターと
似てる映画俳優
田中邦衛さん
(1932年11月23日-2021年3月24日)
俳優。
麗澤短期大学英語科卒。
俳優座養成所第7期
(同期には、
井川比佐志・露口茂・山本學・藤岡重慶・中町由子・水野久美ら)。
映画・「若大将シリーズ」で青大将、
テレビドラマ『北の国から』で黒板五郎を演じ、
国民的俳優となりました。
他にも
「網走番外地シリーズ」「仁義なき戦いシリーズ」『現代任侠史』『タスマニア物語』など
多数の映画やドラマに出演。
『学校』の演技で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、
『子連れ狼 その小さき手に』の演技でブルーリボン賞の助演男優賞受賞。
旭日小綬章受章。
(田中邦衛)
たこ八郎さん
(1940年11月23日-1985年7月24日)
元プロボクサー・コメディアン、俳優。
元日本フライ級王者。
俳優活動では太古八郎、多胡八郎、多古八郎、タコ八郎などの名義も用いました。
座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。
・プロボクシング戦績
総試合数:43
勝ち:34
KO勝ち:11
敗け:8
引き分け:1
(たこ八郎)
小林桂樹さん
(1923年11月23日-2010年9月16日)
俳優。
サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍し、
その生涯において253本の映画に出演。
『裸の大将』の山下清の演技で
1958年第13回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。
『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の石野貞一郎の演技では
1960年の第15回毎日映画コンクール主演男優賞およびキネマ旬報男優賞およびブルーリボン大衆賞(つまり3つの賞)を受賞。
『白と黒』の落合克巳(東京地検捜査検事)の演技および『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満の演技により
1963年第18回毎日映画コンクール主演男優賞を、
『われ一粒の麦なれど』の坂田昌義(農政省官吏)の演技で
1964年第15回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。
(小林桂樹)
綿引勝彦さん
(1945年11月23日-2020年12月30日)
俳優。
身長173cm。
東京都武蔵野市出身。
日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業、日本大学藝術学部中退。
劇団民藝を経て、劇団「綿帽子」主宰。
少年時代から将来の夢はプロ野球選手でしたが、
進学した日本大学鶴ヶ丘高等学校の野球部にはゴロゴロ凄い選手がいて、
プロ野球の夢は一気に砕け散り、
将来の夢が全くなくなったとき、
女友達に、
仲代達矢・栗原小巻主演の俳優座の舞台『令嬢ジュリー』に誘われ、
「新劇って凄い」と感激、
演劇の世界に目覚め、
進路を役者に定め、
高校卒業後日本大学藝術学部に入学。
1965年に中退。
劇団民藝へ入団するも、
名優目白押しの民藝ではいい役は付かず、
地方公演で先乗りして、大道具の準備が主な仕事でした。
ある日、
日生劇場での『アンネの日記』の公演で、
アンネの部屋係に就いていたとき、
下元勉が倒れ、その代役に抜擢。
主役のアンネ役の樫山文枝から「いい声してるわね」などと褒められました。
後に、樫山と結婚。
1982年には
役者を始める切っ掛けになった仲代達矢と『鬼龍院花子の生涯』で共演。
1985年に7年間に及ぶ全国縦断の地方公演「宇野重吉一座」の計画が持ち上がり、
当時40歳になっていた綿引は参加を断念、
同年民藝を退団。
フリーになって強面を活かし、
東映のヤクザ映画などに多数出演し、
ジワジワ売れました。
悪役・敵役以外では、
『鬼平犯科帳』での密偵・大滝の五郎蔵役や
『天までとどけ』シリーズでの良き父親役が当たり役となって以降、善人役もこなしていました。
1990年代後半、
『ピカチュウげんきでちゅう』のCMで
コミカルな味を出して新境地を開きました(『ポケットモンスター』のCMに立て続けに出演し、「ポケモンおじさん」とあだ名されました)。
『WXIII 機動警察パトレイバー』には
主人公・久住武史役で声の出演を果しました。
2005年、胸部動脈瘤を患い、
出演予定だった舞台を降板。
一時生死の間を彷徨う試練を経て回復。
2011年から放送開始された、
ブルース・ウィリス出演のダイハツ工業「ミライース」CMシリーズにおける
宣伝部長役で注目を集めています。
2012年には
同シリーズでウィリスの吹き替えに挑戦するCMが制作され、
さらにウィリス出演の映画『セットアップ』・『エクスペンダブルズ2』では吹き替えを担当。
2018年8月、
膵臓内の嚢胞を取り除く手術を行った際に進行性のがん細胞が発見され、
翌2019年12月には肺へがんが転移。
2020年2月から本格的な化学療法がスタートし、
厳しい副作用に耐えてきましたが、
同年11月には積極的な治療は打ち切られ、
その後は自宅で療養していましたが、
同年12月25日未明に容態が急変して入院し、
12月30日12時54分、膵臓がんのため、死去。
75歳没。
(綿引勝彦)
11月24日は、「私らが悪いので、社員は悪くありません!一人でも多くの社員が再就職できるように、この場を借りて、お願いします!」
山一証券、自主廃業を決定
【1997 (平成9)年】
バブル崩壊後の不況に加えて会社は総会屋への不当な便宜や、約束した利回りが達成できず損失補填、そして粉飾決算などを繰り返し、3兆5000億円という多額の負債を抱えて破綻。戦後最大の倒産といわれた。当時の社長であった野澤正平氏は、廃業のわずか3カ月前に就任したばかり。しかも経営状況のことを知らされておらず。
三宅義信さん
(1939年11月24日-)
宮城県柴田郡村田町出身のオリンピックにも出場した元重量挙げ選手、元陸上自衛官。
身長158cm。
現在は東京都在住。
弟に三宅義行、姪に三宅宏実。
九人兄弟の6番目(弟・三宅義行は7番目)。
学校へ行くには自分で学費を稼ぐしかなく、
アルバイトなどをしていた関係で部活動とは無縁で、
時折柔道や野球を楽しむ程度で過ごします。
大河原商業高二年時に行われた
1956年メルボルンオリンピックを見て初めてオリンピックと重量挙げという競技を知り、
柔道で不利な小柄な身体を強化するため重量挙げで鍛えることを思いつき、
同町内にある柴田農林高で練習を積む傍ら、
自宅でトロッコの車軸をバーベル代わりにするなどの猛練習の結果、
経験半年で高校選手権で入賞するなど頭角を現します。
1962年に法政大学卒業後、陸上自衛隊に入隊。
その後、
重量挙げ選手として数々の国際大会で優勝し、
多くの世界記録を保持。
オリンピックには法政大学在学中であった
1960年ローマオリンピックから4大会連続で代表となり、
ローマでは銀メダル、
1964年東京オリンピック、
1968年メキシコシティーオリンピックでは連覇を達成。
五輪三連覇並びに4大会連続のメダルを狙った
1972年ミュンヘンオリンピックは4位に終わりました。
現役引退後も幹部自衛官として勤務する傍ら多くの選手を育成し、日本重量挙げ界に貢献。
1997年に自衛隊体育学校長(在任期間中、甥の敏博も所属)を最後に退官(最終階級は陸将補)。
退官後は小松製作所顧問を務める傍ら、
日本トライアスロン連合副会長、
日本オリンピアンズ協会常務理事、
東京都ウエイトリフティング協会副会長、
東京国際大学特命客員教授、
東京国際大学ウエートリフティング部監督などを務めました。
東京・メキシコのオリンピック連覇の功績によって
1968年に内閣総理大臣顕彰を賜り、
1989年には故郷である宮城県柴田郡村田町の名誉町民に推挙。
その後、紫綬褒章を受章し、
2011年には瑞宝小綬章を受章。
また、
顕著な功績のあった自衛官として現役自衛官時代に
第1級賞詞(第2号防衛記念章)を2度受賞(第1級賞詞を2度受賞した自衛官は、三宅と小原日登美の2名のみ)。
2020年夏季オリンピック招致決定後の2014年5月に突如として現役復帰。
復帰後はマスターズ大会を中心に出場。
(三宅義信)
2023/11月24日は、ロックバンド「クイーン」のボーカリストとして有名であったフレディーマーキュリー氏の命日
【1991(平成2)年】
HIV感染による合併症の肺炎で45歳で亡くなった。エイズ検査を受けたことが広まり、1987年ごろからその容体について憶測が飛び交ったが、本人は亡くなる前日まで、感染を公表しなかった。クイーン結成の70年代から、「ボヘミアンラプソディー」「キラークイーン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」「バイシクルレース」などなど数々の大ヒット曲を生み出した。
Oh, I was not made for heaven.No, I don't want to go to heaven. Hell is much better. Think of all the interesting people you’re going to meet down there.
「私には天国は不似合いだ。天国に行くつもりはない。地獄の方がいい。想像してみなさい。あそこでどんなに面白い人達にあえるか」
丘灯至夫さん
(1917年2月8日-2009年11月24日)
作詞家。
好々爺として知られ、
その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多数。
代表作は
『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』など。
アニメの主題歌なども手がけており、
『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などが知られています。
ペンネームの由来は、
新聞記者としての経験から「押しと顔」を逆から読んだものといわれています。
新聞記者は押しが強くて面の皮が厚い、と言われることから。
息子は救心製薬社員の丘きんじ。
(丘灯至夫)

おっぱいコンテスト、たった1回で打ちきり😩こういうことになぜうるさい人間がいるのか😩お色気は全部ダメ😩世知辛い世の中になりましたわ😩

四代目澤村國太郎さん
(1905年6月1日-1974年11月26日)
歌舞伎役者から映画俳優に転身した戦前の大スター。
歌舞伎作者の竹芝傳蔵の子として
東京市浅草区浅草猿若町(現在の東京都台東区浅草六丁目)に生誕。
姉に福祉運動家の矢島せい子、
妹に女優の沢村貞子、
弟に俳優の加東大介。
妻は女優のマキノ智子で、
子は長門裕之(南田洋子の夫)・津川雅彦(朝丘雪路の夫)兄弟の他2女。
七代目澤村宗十郎の門下で
1926(大正15年)に四代目澤村國太郎を襲名、
以後若女形で舞台をつとめます。
以後、
戦前はマキノ・プロダクションのスターとして戦後も日活を中心に活躍。
1960年(昭和35年)に脳卒中で倒れた後は
半身不随の身になり、病気療養に専念。
津川雅彦長女誘拐事件から3か月後の
1974年(昭和49年)11月26日、死去。
69歳没。
(四代目澤村國太郎)
鈴木則文さん
(1933年11月26日-2014年5月15日)
映画監督・脚本家。
静岡県浜松市出身。
愛称はコーブン、コーブンさん。
1956年に立命館大学中退後、 
東映京都撮影所に助監督として入社。
1959年、
助監督として加藤泰、内田吐夢両監督に1964年まで師事。
1963年に
内出好吉監督『続・てなもんや三度笠』にて
脚本家デビュー(沢田隆治との合作)。
1965年、
 『大阪ど根性物語 どえらい奴』(主演:藤田まこと)にて
監督デビュー。
1968年、
藤純子主演のシリーズ第1作『緋牡丹博徒』で脚本を執筆。
1971年、
池玲子主演『温泉みみず芸者』を監督、脚本(掛札昌裕との合作)。
東映ポルノ路線の一翼を担っていきます。
1974年、
多岐川裕美主演の東映ポルノの傑作『聖獣学園』監督、脚本(掛札昌裕との合作)。
以後は東映東京撮影所に移り、
志穂美悦子主演の『女必殺拳シリーズ』を企画・脚本を担当。
1975年、
千葉真一主演の『少林寺拳法』を皮切りに格闘・アクション映画の演出も行っていき、
同年より菅原文太主演で監督シリーズ作品『トラック野郎』を開始。
1977年、漫画原作『ドカベン』を監督。
1980年、
真田広之主演の『忍者武芸帖 百地三太夫』を監督。
1984年、
黒崎輝主演の漫画原作『コータローまかりとおる!』の監督、脚本(志村正浩との合作)を最後に東映を離れ、フリー。
1984年、
『パンツの穴』(映画化第1弾)監督。
菊池桃子のデビュー作に。
1987年、
安部譲二原作『塀の中のプレイ・ボール』で監督、脚本(掛札昌裕との合作)。
1989年、
筒井康隆原作『文学賞殺人事件 大いなる助走』で
監督、脚本(志村正浩、掛札昌裕との合作脚本)。
1990年、
若松孝二プロデュースの『びんばりハイスクール』で監督を務め、
これが最後の映画監督作品となりました。
2014年5月15日午後2時17分、
脳室内出血のため東京都武蔵野市の病院で死去。
満80歳没。
(鈴木則文)
苅谷俊介さん
(1946年11月26日-)
俳優・アマチュア考古学者。
身長178cm。
日本考古学協会会員。
大分県日出町出身。
大分県立大分工業高等学校卒業。
高校卒業後、
家庭の事情で大学進学を諦めて上京して就職。
働きながら俳優になろうと東宝芸能学校演技科に入学して、
1968年3月に卒業。
1970年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督を経て、
1971年に渡哲也主演の松竹映画『さらば掟』で映画俳優デビュー。
東宝や東映の千葉真一主演映画で脇役として出演した後、
1974年に石原プロモーションに入社。
その後はテレビドラマ『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズなどにレギュラー出演。
趣味の考古学研究との両立のため、
1982年に石原プロを退社。
俳優業の傍ら考古学の研究を続け、
1985年1月には個人事務所の株式会社土舞台を設立。
1991年頃よりは約100人の考古学愛好家を集めて勉強会「考古見聞会」を主宰し、
2000年4月には日本考古学協会会員に。
2009年に故郷の日出町から「ふるさと親善大使」を委嘱。
隣接する別府市からは「ONSENツーリズム別府特別観光大使」に委嘱。
(苅谷俊介)
島田正吾さん
(1905年12月13日-2004年11月26日)
新国劇の俳優。
横浜市生まれ。
父の仕事の都合で関西に移り、
幼少期に母をなくし、
いわゆるグレていましたが、芝居好きでした。
1923年(大正12年)に明星商業学校を中退後、
澤田正二郎が率いる新国劇に入団。
正二郎の急死後、
辰巳柳太郎とともに主役級に抜擢され、
1987年(昭和62年)に
新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演をうけて
劇団を解散するまで新国劇の大黒柱として活躍。
辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と
好対照のライバルとして知られました。
新国劇時代には
『関の弥太っぺ』『瞼の母』『一本刀土俵入』などの長谷川伸の股旅物をはじめ、
『霧の音』『ビルマの竪琴』など現代劇の話題作も演じました。
そのほかの代表作としては、 
戦国時代の武士・山本勘助を演じた主演作『風林火山』が知られ、
1958年(昭和33年)から10年以上にわたり公演を続けました。
1951年(昭和26年)、
山田五十鈴を相手役に『夏祭三度笠』で映画に初出演。
以後、舞台でのヒット作を映画化。
1955年(昭和30年)の主演作『風雲三条河原』では幕末の志士・岡田以蔵役を演じ、
また低い声と渋みをいかし、
軍司令官や裏社会の実力者の役で存在感を発揮。
連続テレビ小説『ひらり』など、テレビドラマにも出演。
1991年(平成3年)から2002年(平成14年)までは
新橋演舞場で年1回『白野弁十郎』や『王将』といった新国劇の代表作を一人芝居にして上演。
この一人芝居は自他ともに認めるライフワークとなり、
多数のメディアでも取り上げられ「100歳まで続ける」と公言。
1994年(平成7年)には『十時半睡事件帖』で主演。
前年に出演した連続テレビ小説『ひらり』と同スタッフで制作され、
放送当時88歳9か月という日本のテレビドラマ主演俳優の最高齢記録が話題に(現在も記録は破られていません)。
平成以降、
現役最高齢俳優となっても意欲的に活動していましたが
2002年(平成14年)8月15日に脳梗塞で倒れた後はリハビリに励んでいました。
2004年(平成16年)11月26日午前4時45分に、
脳梗塞のため死去。
98歳没。
(島田正吾)
岡田彰布さん
(1957年11月25日-)
大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)、プロ野球監督。
身長175cm・体重77kg。
阪神タイガース第30代及び第35代監督、
オリックス・バファローズ第25代監督。
大阪市中央区玉造で「大阪紙工所」という町工場を経営していた父親は阪神の有力後援者で、
村山実・藤本勝巳らと親交があったことから幼少時よりタイガースと縁深く育ちました。
大阪市立愛日小学校5年生で
南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」に入団、
本格的に野球を始めました。
1972年、
明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。
1973年3月、
村山実の引退試合が行われ、
最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボールの相手を試合前に務め、
同年4月、北陽高等学校に進学。
岡田はプロ入りせずに早稲田大学野球部のセレクションを受験、
15打数14安打14本塁打という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たしました。
東京六大学野球リーグでは1976年秋季リーグから
「7番打者・左翼手」としてレギュラーを獲得、
江川卓(法政大学)から3安打を放って注目を集めました。
岡田のリーグ通算成績は
88試合で309打数117安打、20本塁打、81打点・打率.379で、
打点と打率はリーグ記録として現在も破られていません。
東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したために
プロ野球各球団の岡田獲得競争は一気に過熱、
ドラフト会議の目玉となり、
ドラフトでは
当時史上最多となる6球団(西武・ヤクルト・南海・阪神・阪急・近鉄)が岡田を1位指名、
抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、
岡田の阪神入団が決まりました。
契約金6,000万円、年俸480万円。
オープン戦で本塁打を2本放つ活躍。
この年、
オールスターゲームの第1戦において22歳7か月で代打本塁打を放ちました。
1981年には初めて全130試合に出場し、
20本塁打を記録。
1982年は打率.300(リーグ9位)を記録。
1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、
本塁打王争いにも加わっていましたが、
7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、
残りのシーズンを棒に振り、
以後、脚部の負傷に悩まされることに。
1984年には、
打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、
故障明けとしては悪くない成績を残しています。
1985年、吉田義男監督が就任し、
真弓明信と入れ替わり、再び二塁手に戻りました。
4月17日、
甲子園での対巨人戦で、
バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打ちました。
8月は
打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。
更に9月には、2試合連続サヨナラ打を記録。
最終的に選手会長兼5番打者として、
バースに次ぐリーグ2位の打率.342、
リーグ4位の35本塁打、
リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、
真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献。
1986年は
掛布雅之が再離脱を繰り返したため
8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めました。
9月3日に父を亡くし、
翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打を放ちました。
前年よりは数字を落としましたが、
打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残しました。
1987年は
打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるも、
その後は3年連続20本塁打を記録。
1988年は
打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調。
1989年、
同じく9本塁打のチームメイトのセシル・フィルダーを抑えて、
プロ入り2度目の月間MVPを受賞。
1991年は規定打席到達では
自己ワーストの打率、安打、打点に終わりました。
1992年、
日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力。
1993年、
「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約に。
1994年のキャンプイン直前に
仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。
1995年、
出場機会も減り、
10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に、現役引退。
1996年3月26日、
古巣・阪神とのオープン戦が引退試合となり、
岡田は試合終了後に
阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去りました。
1996年、
オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。
1998年、
二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。
またこの頃、自動車運転免許を取得。
1999年には二軍監督兼打撃コーチ。
2000年から2002年までは二軍監督(専任)。
2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。
三塁ベースコーチを担当。
2003年オフ、
星野仙一が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。
球団史上初の大阪府出身の監督に。
2005年、
亡き父の誕生日に当たる9月29日、
甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成。
しかし、
日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負け。
11月19日、
甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、
白組のプレイングマネージャーとして出場。
試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、
サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに。
2008年、
チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していましたが、
打撃陣の不振や故障者の続出などで、
一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃しました。
この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表。
クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮に。
試合終了後、
選手会長の赤星憲広の発案により、
選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げ。
11月、
デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。
2009年10月13日、
翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表。
2010年3月31日、
対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、
T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。
阪神監督時代から通算400勝目を達成。
2011年は、
8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成。
2012年、
ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表。
2013年からは、
デイリースポーツの野球評論家に復帰。
同紙では1月から、コラム「岡田辞典」の連載を開始。
2022年10月15日に阪神監督への就任が正式に発表。
2023年9月14日、
自身4度目、
阪神タイガースとしては18年ぶり6度目となるリーグ優勝を達成。
かつて選手や監督として在籍した古巣・オリックスとの日本シリーズは
第7戦までもつれ込み、
4勝3敗の結果でオリックスを破り、
阪神タイガースとして1985年以来となる38年ぶり2度目の日本一を達成。
1985年には選手として、
2023年には監督として、
阪神タイガースにおける2度の日本一を経験。
(岡田彰布)
♫ママ~レンジ、ママレンジ~、エプロン付けてクッキング~・・・♫
懐かしの、アサヒ玩具のCM 。

キャラクターふりかけ

11月25日は故·三島由紀夫さんの命日です。
1925年〜1970年。
享年45。

マグマのちびっ子 ガムガム♪♪

舘ひろし・さん、CAROLの親衛隊だったバイク集団のリーダー,COOLSとして✨🎵紫のハイウェイ🎵✨でデビュー岩城滉一さんは脱退,作詞・舘ひろし、作曲・五大洋光〔実は矢沢永吉〕、医学部の受験に受かり、父親の後を継いで、開業医〔名古屋市〕に成っていたら、今の舘さんは、居なかった。

渡辺篤史さん
(1947年11月28日-)
俳優、タレント、ナレーター。
身長170cm。
日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業、
日本大学文理学部国文学科中退。
茨城県下妻市生まれ。
幼少時代に両親が離婚、母方に引き取られて育ち、
小学3年のときに上京、
5年のとき茨城なまりを矯正するため、
劇団若草に入団。
1960年、
フジテレビのドラマ『にあんちゃん』でデビュー。
翌1961年、
同じくフジテレビ『三太物語』に主演、
子役として人気を獲得。
以降、
多数のテレビドラマ、映画に出演、
個性的な脇役として多彩なジャンルの作品で活躍。
既婚、二女あり。
近年は
テレビの情報番組、旅番組、ドキュメンタリー番組、テレビCMのナレーター、リポーターとしての活躍が多く、
1989年にテレビ朝日系列でスタートした『渡辺篤史の建もの探訪』は、
毎週ユニークな一戸建てを紹介する住宅情報番組で、
2019年3月には30周年を迎えて長寿番組となり、
渡辺自身はこの番組で出会ったユニークな家を参考に自宅を建てています。
2010年4月から2014年3月まで、
神戸芸術工科大学の環境・建築デザイン学科の客員教授を務めました。
趣味はオーディオ、陶芸、建築。
得意なスポーツは、ボクシング、テニス。
特にテニスの腕前はプロ級といわれるほど。
小説家の長塚節は親戚。
(渡辺篤史)
ザ・ハンダース✨('75年-'80年)
イマイチ跳ねないグループでしたが…ドタバタした芸風が大好きでした。
あご勇さん、鈴木末吉さん、小林まさひろさん、桜金造さん、清水アキラさん、アパッチけんさんによる6名編成の頃です。
メンバーのロケ不参加が原因で、リーダー格の小林さんが引責辞任なり、5人に…「半ダース」なのに5人になり残念でした。
渡辺徹さん
(1961年5月12日-2022年11月28日) 
俳優、歌手、タレント、司会者。
劇団文学座所属。
身長180cm。
栃木県小山市で出生。
生後3か月で、茨城県古河市に引っ越し。
父親の職業は“流し”で、
様々な盛り場を流して歩いてお金をもらう職業のため定住をせず。
母親は茨城の古河の食堂の看板娘。
幼稚園の年長の時に同じ古河市内の松原町から小砂町へ引っ越し。
子供の頃はケンカばかりの毎日。
当時の古河市はサッカーが盛んで、
渡辺も小学3年生からサッカーを始め、
茨城県古河市立古河第一中学校卒業。
茨城県立古河第三高等学校卒業。
高校在学中は生徒会長を務めました。
1980年、文学座附属演劇研究所本科に入所、
翌年、
同研究所本科を卒業して文学座研修科の研究生。
1981年、
人気テレビドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)の通称名・ラガー(竹本淳二)刑事役でデビュー(1985年まで出演)。
1982年、
EPICソニーから『彼〈ライバル〉』で歌手デビュー。
同年発売のセカンドシングル『約束』は、
グリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングとなり大ヒット。
また、彼の代表曲のひとつ。
1983年、『夜明けのランナー』(東宝) で映画デビュー。
1984年、
キリン生AのCMでジャッキー・チェンと共演し、武道館のイベントに出席。
1985年、文学座座員。
1987年10月14日、
日本テレビ系『風の中のあいつ』『気になるあいつ』で共演した榊󠄀原郁恵と結婚。
披露宴の模様は同局系列で生中継。
2014年4月より淑徳大学人文学部表現学科客員教授を務め、
2019年より城西国際大学メディア学部特任教授を務めました。
2019年に茨城県で開催された
第74回国民体育大会(いきいき茨城ゆめ国体)では
総合開閉会式の総合司会を務めました。
2022年11月28日 21時01分、敗血症のため死去。
61歳没。
(渡辺徹)
YKKアワー キックボクシング中継
石川アナと寺内大吉の解説が懐かしい、
大興奮の30分番組でした。
松下幸之助さん
(1894年11月27日-1989年4月27日)
実業家、発明家、著述家。
身長167cm。
位階は正三位。
パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者。
異名は「経営の神様」。
その他、
PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出し、
さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、
政治家の育成にも意を注ぎました。
(松下幸之助)
昭和の『嫁入りトラック』は、
紅白幕を掲げていたり、
リボンでラッピングしたり、とにかく見た目がド派手! フロント部分に水引の飾りが付けられていたり、
その存在感は走っているだけで注目の的でした。
婚礼家具を購入した家具店で手配される嫁入りトラック。
荷物は、部屋へ運び込む前、
嫁ぎ先の縁側に並べます。これが新郎家族や
 親戚、ご近所さんに嫁入り道具を披露する、通称「衣裳見せ」。
婚礼家具、電化製品や食器、布団、座布団などをずらりと並べ、桐タンス全ての引き出しには黒の留袖、訪問着、喪服などの着物一式を入れていたそうです。
「こういった風習は見栄っ張りと称されることもありますが、
それよりも婚礼家具を揃えるのは娘の親の役目であり、
愛情の証でもありました。
嫁ぎ先に向けて“こんなに大事に育てた娘だから”というアピールの意味も込められていたはずです」(*^^*)💕
二代目中村吉右衛門さん
(1944年5月22日-2021年11月28日)
歌舞伎役者。
屋号は播磨屋、定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。
日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。
位階は正四位。
旭日重光章受章(没後追贈)。
公称身長178 → 176cm。
俳名:秀山。
ペンネーム:松貫四。
(二代目中村吉右衛門)
里見浩太朗さん
(1936年11月28日-)
俳優・歌手。
身長173cm。
東京市渋谷区道玄坂出身、静岡県富士宮市育ち。
父・亀一は19歳で志願して近衛兵となり、
帝国陸軍の麹町憲兵隊に転属したのち、
秋葉原のパン屋で働いていた静岡県松野村出身の木伏エツと結婚。
里見が生後8か月のときに、
盧溝橋事件により支那駐屯憲兵隊に臨時増加配属を命じられ、
その年の9月に中国大陸山西省の小塞村(平型関の入り口)にて平型関の戦いで戦没しており、
静岡県富士宮市にある母・エツの実家を頼った母子家庭で兄・要とともに育ちました。
戦後、
恩給が打ち切られてからは彼の母は古着の行商などで2人の息子を養っていました。
なお、父方の佐野家は山梨県南部町井出にあり、
初代の佐野光次は戦国時代に武田信虎に仕えた武将。
代々武田家の家臣として仕え、
祖父・勝三郎の代には農業・林業のほかに塩の販売なども手掛け、
村で一二を争う財産家でした。
中学時代はテニス部所属、
高校時代は音楽部に所属。
高校卒業間近に『NHKのど自慢』に出場する機会があり、
伊藤久男の代表曲「山のけむり」を熱唱し予選に合格。
静岡県立富士宮北高等学校卒業後上京。
築地の魚市場で仲卸を営んでいた叔父の会社に就職し、
働きながら歌手を目指し、
レコードデビューが内定していましたが、
仲買卸業の娘が悪戯で里見を東映ニューフェイスに応募。
1956年、第3期東映ニューフェイスに合格し、
何事も経験が必要だと云われ東映へ入社。
同期には大川恵子・桜町弘子・大村文武ら。
自ら希望して東映京都撮影所(以下、東映京都)専属に。
翌1957年、『上方演芸 底抜け捕物帖』『誉れの陣太鼓』がステップになり、
3本目の大友柳太朗主演『天狗街道』で本格デビュー。
同作品のプロデューサー・神戸由美から、
大当たりした東映の映画『里見八犬伝』が縁起がいいと「里見」を、
「富士山の悠々たる姿を見て浩然の気を養う」という意味から「浩」、
時代劇らしく「太郎」と合わせ、
里見浩太郎(1970年に現名に改名)という芸名をつけてもらい、
1958年、
4本目の『金獅子紋ゆくところ』初主演。
その主題歌『金獅子紋道中唄』で歌手デビュー。
映画では時代劇を中心に出演し、
主演は子供向け作品が多数。
初期は
美空ひばりや中村錦之助主演映画での助演や
『十三人の刺客』では片岡千恵蔵を補佐する役を演じました。
時代劇以外では高倉健主演の任侠映画『侠客列伝』(1968年)、
千葉真一主演のオールスターキャスト作品『日本暗殺秘録』(1969年)や、
村田英雄・北島三郎ら主演の歌謡映画などにも出演。
1967年の東映・関西テレビ製作の『仮面の忍者 赤影』を始め、
数々のテレビ時代劇に出演するように。
時代劇のみならず、
刑事ドラマやアクションドラマにも出演。
1971年5月にナショナル劇場『水戸黄門第3部』(TBS / C.A.L)(放送は同年11月29日)で
杉良太郎に代わり、2代目佐々木助三郎に就任。
1982年7月8日の東野英治郎の降板を受け自身も降板を考えたが逸見稔の強い希望で残留。
1987年11月26日の第17部収録終了(最終話は1988年2月22日に放送)をもって降板。
足かけ16年半、457回にわたる活躍でした。
1974年、
『大江戸捜査網』にて久々に主演を務め、
以降
『長七郎天下ご免!』、『長七郎江戸日記』、『松平右近事件帳』など幾多のテレビ時代劇作品で主演を務め、
時代劇俳優の地位を不動のものに。
主演作品では主題歌も数多く担当している。
1985年から93年にかけて、
年末に放送されていた日本テレビ系列の『年末時代劇スペシャル』では、
最多の6度主演。
2002年10月14日より放送開始したナショナル劇場『水戸黄門第31部』に、
病気降板した石坂浩二に代わる5代目水戸光圀役として14年ぶりに復帰。
また、ゲスト出演での共演を含め、
シリーズ歴代の佐々木助三郎・渥美格之進役全員との共演を果たしています。
2011年12月19日の『最終回スペシャル』をもって
42年にわたるシリーズの一時終了。
『大江戸捜査網』以降テレビ時代劇では、
長年にわたり勧善懲悪作品の主演を専らとしてきましたが、
1993年の『炎立つ』への出演を皮切りにNHK大河ドラマにも出演するように。
舞台活動では 
1977年8月から名古屋御園座で座長公演を始め、
主に東京では明治座、大阪では梅田コマ劇場などで年に1回から3回行っています。
主演が多くなった1980年代以降は、
「主婦のアイドル」として、
歌手でもコンサート・ディナーショーを積極的に行っています。
現代劇でも新しい役柄に扮し、
23年ぶりに映画出演した初の松竹作品『およう』(2002年)では洋画家藤島武二を演じました。
なおテレビドラマでは、
刑事部長・警察署長(テレビ東京系『信濃のコロンボ』シリーズ他)などの役柄が多く、
京都で一日署長を務めたことも。
主演シリーズの終了後から、
俳優としてのスタンスも徐々に「存在感のある脇役」へとシフトし、 
2012年のドラマ「リーガル・ハイ」の服部役では、
当時の小学生世代にまで知名度を広げました。
2013年2月17日に放送された
スペシャルドラマ『必殺仕事人2013』では
芸歴55年余にして初めて敵役を演じました。
(里見浩太朗)
三船史郎さん
(1950年11月27日-)
俳優・映画プロデューサー。
東京都・世田谷区出身。
父は三船敏郎。母は吉峰幸子。
長男は俳優の三船力也。
成城大学経済学部在学中に『そのひとは女教師』(出目昌伸監督)に出演、
その後も数本の映画に出演。 
成城大学卒業後、
父である三船敏郎がミュンヘン(当時の西ドイツ)にて開店した
『ジャパン・レストラン三船』の支配人を務めていたことも。
1981年に三船敏郎が社長を務めていた三船プロダクションに入社し、
三船敏郎が俳優育成を掲げて創設した三船芸術学院の開校に携わるなどし、
現在は三船プロダクション代表取締役社長を務める傍ら、
俳優としての活動も再開し、現在に至ります。
(三船史郎)
菅原文太さん
(1933年8月16日-2014年11月28日)
俳優・声優・ラジオパーソナリティ・農業従事者。
身長178cm。
キャリアを始めた時は、
ファッションモデルとして活躍。
その後の俳優としての出演作品は非常に多く、
映画のシリーズものとしては具体的には
「現代やくざシリーズ」、
『関東テキヤ一家』シリーズ、
『まむしの兄弟』シリーズ、
『仁義なき戦い』シリーズ、
『トラック野郎』シリーズなど。
俳優としていわゆる「下積み」の時代が長かったですが、
39歳の時に公開された映画『仁義なき戦い』の大ヒットで有名になり、
俳優としての地位を確立。
特に
『仁義なき戦い』シリーズと『トラック野郎』シリーズは
大人気シリーズとなり一世を風靡。
『太陽を盗んだ男』の演技により、
1980年、
第3回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。
テレビドラマでも活躍し、
NHKの大河ドラマにも複数出演、
『獅子の時代』では主人公の平沼銑次を演じました。
劇場版アニメ『千と千尋の神隠し』や『ゲド戦記』にも声で出演。
60代に入ると田舎暮らしや農業へと関心が向かい、
1998年には
岐阜県大野郡清見村(現・高山市)に移住、
2009年から山梨県へ移り農業生産法人「竜土自然農園おひさまの里」を設立し、
農産物の生産に従事。
有機農業に取り組み、
食の安全や命の大切さを人々に訴えました。
(菅原文太)
愛称は文ちゃん・文太兄い。
松平健さん
(1953年11月28日-)
俳優、歌手、タレント、司会者、YouTuber。
身長177cm。
愛知県豊橋市出身。
豊橋市立旭小学校、豊橋市立青陵中学校卒業。
愛知県立豊橋工業高等学校(現・愛知県立豊橋工科高等学校)を中退後、
寿司職人に。
その後、石原裕次郎に憧れて俳優を志し、
1970年(昭和45年)に上京。
石原プロモーションに入社を直訴するもかなわず、
宝映テレビプロダクションに入団。
同僚に稲川淳二。
デビューは1972年(昭和47年)のテレビドラマ『マドモアゼル通り』で、
この時期に松平健に改名。
芸名を名付けたのはこのマドモアゼル通りの監督をしていた浅野正雄で、
当時1972年のミュンヘンオリンピックのバレーボール日本代表監督としてチームを金メダルに導いた松平康隆と、
高倉健に由来。
この当時『ウルトラマンタロウ』のオーディションを受けるも、
最終選考で落選。
1974年(昭和49年)に勝新太郎が主宰する勝プロダクションに入り、
勝の付き人を経験する傍ら、
1975年(昭和50年)に勝主演の『座頭市物語』に出演。
1976年(昭和51年)に昼ドラマ『人間の條件』(フジテレビ系)において、
初の主人公・梶役を演じました。
1978年(昭和53年)に『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)の主役徳川吉宗に抜擢され、
同作は2008年(平成20年)まで放送回数832回を数える長寿番組となり、
時代劇スターとして認知され、
彼の代表作となりました。
前後して出演した大河ドラマの『草燃える』では北条義時、
『峠の群像』では石野七郎次、
『元禄繚乱』では色部又四郎、
『利家とまつ』では柴田勝家、
『義経』では武蔵坊弁慶、
『おんな城主直虎』では武田信玄、
『鎌倉殿の13人』では平清盛を演じており、
同ドラマの常連俳優のひとり。
徳川吉宗や上記以外にも
高杉晋作・斎藤道三・大友宗麟・大石内蔵助・遠山景元・徳川家康など
歴史上の人物をドラマ化したもので出演。
1980年(昭和55年)には、
自身初となる刑事ドラマ『走れ!熱血刑事』(テレビ朝日系)にて主演。
2004年(平成16年)6月には『新説!歴史将軍』(フジテレビ系)にて、
バラエティ番組の初司会を務めました。
同年夏、 
舞台公演の終わりに華美な衣装で熱唱する「マツケンサンバ」のパフォーマンスが、
芸能マスコミから注目を浴び、
「マツケンサンバII」が7月7日に全国発売され、
松平の愛称として『マツケン』という呼称が浸透するように。
「マツケンサンバII」はオリコンシングル部門で初登場17位を記録(最高位は3位)。
8月の『神宮外苑花火大会』では歌と踊りを披露し、
秋には宝塚歌劇団の運動会の入場行進でも踊られました。
12月31日の『第55回NHK紅白歌合戦』及び『第46回日本レコード大賞』に「マツケンサンバII」では、
両者ともに出場したすべての男性歌手で最も高い視聴率を記録。
以後、
2006年まで「マツケンサンバ」がブームとなり、
2004 - 2005年にTBS系列で放送されたドラマ『3年B組金八先生(第7シリーズ)』の劇中においても、
生徒役の俳優が着ぐるみを着て「マツケンサンバII」を流して踊りながら商店街を駆け抜けるシーンが採用されたほど、
当時の小中学生にも広く浸透し、大ブレイク。
2005年(平成17年)2月19日、
ニューヨーク・タイムズ紙に日本での「マツケンサンバII」ブームに関する記事が、
松平のコメントつきで掲載。
3月8日には
東京ドームでマツケンサンバのコンサートも行い、
南原清隆や香取慎吾(“カツケン”名義)と共演。
4月から『バニラ気分!』内で『マツケン・今ちゃん・オセロのGO!GO!サタ』で、
バラエティ番組にも本格的に進出。
8月、
地元・豊橋市の「豊橋ふるさと大使」に就任。
9月14日には「マツケンサンバII」の続編に当たる「マツケンサンバIII」が発売され、
初登場オリコンシングル部門17位を記録。
17日には
愛・地球博(愛知万博)の長久手会場内(愛・地球広場)で、「マツケンサンバIII」を披露、
10,000人の観客は総立ち。
12月31日には『年忘れにっぽんの歌』に出演し、
20分間にわたって『マツケンサンバI・II・III』をメドレーで熱唱。
2006年(平成18年)に『マツケンのAWA踊り』を発売。
振付はパパイヤ鈴木が担当。
豊橋まつりで豊橋発祥のええじゃないかをテーマにした「マツケンのええじゃないか」を豊橋球場で披露、
約1万人を集めました。
2007年(平成19年)5月18日、
ナゴヤドームの中日ドラゴンズ - 読売ジャイアンツ戦で始球式を務めました。
7月に秋元康とのコラボレーションによるシングル「マツケン・パラパラ」を“KEN MATSUDAIRA”名義で発売。
2008年(平成20年)4月に、
地元中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ! 2008」を熱唱。
カップリング曲として新曲「マツケン燃えドラ盆おどり」も収録。
4月12日付のオリコンデイリーランクで10位。
同年、
自らがプロデュースしている美人美脚ユニット「Luxis」をデビューさせ、
プロデューサーとしても活動。
2012年(平成24年)10月より、
政府広報が展開する、
悪質商法などの「高齢者の消費者トラブル」防止に関する啓発をするイメージキャラクター未然奉行に就任。
11月、
自らプロデュースするカレー「マツケンカレー」を発売。
2015年(平成27年)より
愛知県が展開している観光PRキャンペーン「モノスゴ愛知でマツケン」のキャンペーンキャラクターを務めています。
2020年(令和2年)12月19日、
新型コロナウイルスへの感染を公表。
29日、療養期間を終え、通常生活に戻りました。
2021年(令和3年)11月19日、
第72回NHK紅白歌合戦に”カラフル”特別企画で出場することが発表(2004年以来17年ぶり2回目の出場)。
私生活では三度の婚姻歴があり、
演劇『風と共に去りぬ』の縁で1990年(平成2年)に大地真央と結婚しましたが、
2003年(平成15年)に離婚。
その後、
2005年(平成17年)10月12日に14歳年下の元タレント・女優の松本友里と再婚。
2006年(平成18年)10月31日に長男が誕生。
しかし2010年(平成22年)11月15日、
松本が自宅で自殺。
2015年7月、40歳代の一般人女性と再々婚。
(松平健)
昭和の露店
わたしは昭和30年生まれですが、子供時代には生きものを売る露店がよく出ていました。
お祭りとかだけじゃなく、駅前みたいな場所でも普通に売っていましたね。
多いのはひよこ売り。
あるときから、色で染められたカラーひよこなんてゆうのも……。
あと、オカヤドカリ、アカテガニ、ゼニガメ、ハツカネズミ……。
沖縄産の島鳥なんてゆうのも。鶉のひよこなんですけどね。
雑種の子犬売ってるのも見たことあります。
ちなみに私自身は、ひよこ、オカヤドカリ、アカテガニ、ゼニガメ、ハツカネズミは買ったことあります。
ひよこはなんか、すぐ死んじゃうんですよね……。
昨日まで暖かくってピヨピヨいってたのに……。
子供時代のちょっと悲しい思い出です。
ちなみにググって探したこの写真は、昭和31年に撮影されたものとゆうことです。
田中絹代さん
(1909年11月29日-1977年3月21日)
女優、映画監督。
身長152cm。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、
日本映画史を代表する大女優の一人。
14歳で松竹に入社し、
清純派スターとして人気を得て、
松竹の看板女優に。
戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し、
脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、
晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技で
ベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞。
主な作品に
『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。
また、
映画監督としても6本の作品を残しています。
(田中絹代)
勝新太郎さん
(1931年11月29日-1997年6月21日)
俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。
身長170cm。
市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。
その後は「勝プロダクション」を設立し、
劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わりました。
勝新と愛称で呼ばれ、
豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、
数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛されました。
2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、
好きな日本映画男優の第4位に選ばれています。
(勝新太郎)
井上真樹夫さん
(1938年11月30日-2019年11月29日)
俳優、声優、作詞家。
身長165cm。
山梨県甲府市出身。
山梨県甲府盆地の南端の田園地帯で生まれ育ち、
小学2年生の時には兄に手を引かれ、
田んぼの向こうの工場で行われた村芝居を見ていたといいます。
その後、一家とともに東京に移住、
中学生の時、
移動劇団の『チルチルミチル』を観劇したことがきっかけで芝居の道を志します。
東京都立文京高等学校に進学後、
在校中に東京アナウンス・アカデミーへ入学。
16歳頃にはテレビドラマに出演を開始し、
演劇部の活動にも熱中。
高校3年生の時には教師に「芝居はほどほどにして受験勉強を」と説教されるも、
これに猛反発し「だったら意地でも芝居やってやる」と決意。
卒業間近で、東京都立北園高等学校夜間部に転校。
1960年頃には寺山修司にインスパイアされ、
寺山と対面したのち、
友人と共にアングラ劇団(劇団表現座)を設立。
旗揚げ公演の『アダージョ』では主演を務め、
設立直後には寺山から天井桟敷の設立に誘われたことがあったといいます。
しばらくして、
舞台の成立が困難になったり生活が苦しくなったりしたため
「お金を稼がなきゃ」と思っていたところ、
知り合いのマネージャーに誘われ『ドビーの青春』の吹き替えオーディションに参加、
主役に抜擢され出演したことがきっかけとなり、
声優業を行うように。
アニメにも多数出演するようになり、
第1次声優ブームが起きると
富山敬、神谷明と共に「声優御三家」の一人に。
2017年10月から自身のTwitterアカウントを開設、
80歳を超えた後も「キングダム ハーツ シリーズ」でマスター・エラクゥス役として出演していた他、
講演会・読み聞かせの開催、
「伊能 絵」名義での作詩活動や小説の執筆など晩年も精力的に活動を行っていました。
死去の4ヶ月前には「生涯現役プロジェクト」を掲げ、
10月からYouTubeチャンネルを開設し、
スタッフとのウェブラジオ配信も開始。
自身の誕生日の前日である2019年11月29日、
持病の狭心症が悪化し急性心臓死を発症したため、
千葉県内の自宅で死去。
80歳没。
(井上真樹夫)
下元勉さん
(1917年10月2日-2000年11月29日)
俳優。
高知県出身。
元妻は山田五十鈴。
1936年、新協劇団研究所へ入所。
1938年に応召され、
復員後の1950年、劇団民藝の創立に参加。
『アンネの日記』(フランク役)など、
多くの舞台に立ち、1972年、劇団を退団。
映画では『真空地帯』や『武器なき斗い』、
テレビドラマでは『北の家族』ではヒロインの父親役での演技で知られます。
1985年からはロベール・トマ原作の舞台『罠』の地方公演を行いました。
2000年11月29日、
肺炎のため東京都渋谷区の病院で死去。
83歳没。
(下元勉)
滝田裕介さん
(1930年11月29日-2015年5月3日)
俳優、声優。
身長170cm。
東京府荏原郡世田ヶ谷町北沢(現・東京都世田谷区北沢)出身。
東京都立戸山高等学校卒業。
早稲田大学の演劇科を中退後、
1953年に劇団俳優座の養成所2期生となりデビュー。
同期には
小林昭二、佐竹明夫、武内亨、土屋嘉男、横森久など。
1956年から1964年にかけて出演したテレビドラマ『事件記者』で人気を博した。
『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』などの時代劇では悪役を演じることが多く、
のちに善人役を演じる機会が増加。
また、声優としても活躍しており、
海外ドラマ『ベン・ケーシー』で主人公の神経外科医ベン・ケーシーの声や、
映画「スター・ウォーズ・シリーズ」『ホーンテッドマンション』『ジョーズ』とヒット作で主役及び重要なキャラクターの声を当てることが多数。
2014年夏に尿管がんを患い、手術を行うも、
2015年4月に転移が判明。
同年5月3日午前11時34分、
がんのため横浜市中区の病院で死去。
満84歳没。
(滝田裕介)
赤木春恵さん
(1924年3月14日-2018年11月29日)
女優。
身長152cm。
日本喜劇人協会相談役。
満州長春県(現・中華人民共和国吉林省長春市)出身。
父は南満州鉄道の産婦人科医でしたが、
赤木が3歳の時に死去。
1933年に帰国して京都に住み、
女学校卒業後の1940年に松竹にニューフェイスとして入社し、
同年に映画『二本松少年隊』でデビュー。
1943年、大映へ移籍、
1945年、
松竹で助監督をしていた兄が設立した慰問劇団に参加するため大映を退社し、
満州各地を巡業。
途中で兄が現地召集されたため、
劇団の座長となり満州全土を慰問で巡りました。
終戦時にはハルビン市にて、
アパートのような所で仲間数人と暮らしながら、
街路で長襦袢など身の回りの物を売って食い繋ぎました。
満州ではソ連兵による日本人女性に対する性暴行事件が激発していて、
ソ連軍撤退後に中国共産党の八路軍が入って来たため入れられた現地の収容所では、
藤山寛美らと泉鏡花の『婦系図』を演じました。
ダンスホールで働いた事や、
発疹チフスに感染し生死の境を彷徨った事もありました。
1946年10月、
葫芦島からの日本人送還船で博多港に帰国。
その後、大映へ復帰した際、
片岡千恵蔵から
「春生では男か女か分からないから、春恵にしたらどうか」と勧められ、
芸名を改めます。
1947年、
東映のプロデューサーであった栄井賢と結婚し、
一女を儲け、
1948年、
東映に移籍(これ以降、大作や小品の別なく年相応の脇役を長く務めました)。
1959年、
森繁久彌主催の森繁劇団に参加するためにフリー。
1973年に公開された「海軍横須賀刑務所」では
勝新太郎の母親役を演じました。
1974年の『四季の家』初出演以降、
橋田壽賀子や石井ふく子プロデュース作品への出演が増加。
1979年からは『3年B組金八先生』にて
当時としては珍しかった女性校長の君塚美弥子役でレギュラー出演し、
当たり役を得ます(レギュラー降板後もゲスト出演しており、教育関係者から講演も頼まれたほど)。
1983年、
著書『おばあちゃんの家事秘伝』がベストセラー。
1991年、夫・栄井が肺がんで他界。
1990年からは『渡る世間は鬼ばかり』がスタートし、
角野卓造演じる勇の母親であるキミ役で出演し、
嫁をイビり、
何かに付けて文句を言ったり難癖を付ける憎まれ役が評判を呼び、
再び当たり役に。
2005年に
「舞台の仕事に専念したい」との本人の意向で、
一時的に降板となるが、途中で復帰しており、
ほぼすべてのシリーズに出演。
2007年(平成19年)秋に乳がんが見つかり、
同所属事務所所属で公私共に仲が良かった後輩で友達でもある大空眞弓に相談して病院を紹介してもらい、
年末に左乳房を全摘出して完治後に再び渡鬼最終シリーズ最終回で復帰し、
2013年SP(ドラマ遺作)まで出演を続けました。
2011年(平成23年)6月13日には、
コロッケの東京・明治座7・8月舞台公演の製作発表会に
座長のコロッケと共に出席して会見を開き、
親交の深いコロッケの舞台を最後に
「これで私の卒業公演にしたい」と舞台からの引退を宣言。
2012年11月10日、親友の森光子が死去。
2013年には『ペコロスの母に会いに行く』に主演し、
88歳にして映画初主演。
これは2008年に82歳で
映画初主演を果たした菅井きんの記録を大幅に更新するもので、
“世界最高齢での映画初主演女優”として、
ギネス世界記録に認定。
また、
映画への出演も1980年の『二百三高地』以来33年ぶり。
同作品では第68回毎日映画コンクール女優主演賞を受賞し、
孫の野杁俊希に車椅子を押されて授賞式に出席。
2015年9月、
東京都内の自宅で転倒し左足大腿部を骨折、
ただちに入院し、
翌10月よりリハビリに専念。
12月には一時帰宅できるまでに回復。
夫との死別後は娘一家と同居。
2018年11月29日午前5時7分に心不全のため、
東京都府中市内の病院で死去。
94歳没。
(赤木春恵)

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亀石征一郎さん
(1938年11月30日-2021年7月11日)
俳優・作詞家・脚本家・作家。
身長173cm。
東京都港区出身。
芝高等学校卒業。
高校時代は空手道やボクシングに励み、
空手道は弐段。
劇団文化座を経て、
1959年に東映ニューフェイスの第6期に合格。
同期には千葉真一・太地喜和子ら。
東映入社後、
1960年に『おれたちの真昼』でデビュー。
1962年に東映の専属を離れ、一時期は松竹芸能に所属。
1968年より大映の作品に出演。
テレビドラマでも1960年代から70年代にかけて主演や準主演をこなしましたが、
1970年代以降は徐々に悪役中心へと移行、
必殺シリーズ、影の軍団シリーズなど多くの時代劇に出演。
千葉真一とは親友で、
千葉が主宰するジャパンアクションクラブ (JAC) の重役を務め、
千葉が主演の時代劇『影の軍団IV』、『影の軍団 幕末編』では
敵役・楯岡道雪に扮して主題歌「曠野」の作詞も担い、
JACミュージカル『酔いどれ公爵』の原作を手掛けました。
2005年には『フライング・タワー』で作家デビュー。
過去には十二社で「侍」という居酒屋を営んでいました。
2021年5月12日に脳梗塞で倒れ、
以降リハビリを続けていましたが、
同年7月11日5時25分、多発性脳梗塞のため、
静岡県内の病院で死去。
82歳没。
(亀石征一郎)
水木しげるさん
(1922年3月8日-2015年11月30日)
漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。
ペンネームは、
紙芝居作家時代に
兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から。
大阪で生まれ、鳥取県境港市で育ちます。
幼少時、
神仏に仕える拝み屋の妻でまかない婦として
家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が
語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受けました。
高等小学校卒業後、
画家を目指して大阪で働きながら学び、
やがて徴兵年齢に達し1943年に召集され、
大日本帝国陸軍軍人として
第二次世界大戦下のニューギニア戦線・ラバウル(第8方面軍、司令官:今村均陸軍大将)に出征。
過酷な戦争体験を重ね、
アメリカ軍やオーストラリア軍の攻撃で左腕を失い、
一方で現地民のトライ族と親しくなり、
ニューブリテン島に残ることも希望しましたが、
周囲の説得で日本へ復員(最終階級は、陸軍二等兵)。
復員後は貧窮により画家の修行を諦め、
生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。
1958年、
貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。
1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始めます。
1961年、飯塚布枝と見合い結婚。
1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。
1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。
1965年に『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞し、
貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が
『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、
妖怪を扱った作品により人気作家となり、
1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。
最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は
1968年より6度テレビアニメ化。
1993年、
幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、
2003年には水木しげる記念館が開館。
長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、
1991年に紫綬褒章、
2003年に旭日小綬章を受章。
2007年、
『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。
また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』が
アングレーム国際漫画祭遺産賞、
米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞。
妖怪研究家として、
世界妖怪協会会長、
日本民俗学会会員、
民族芸術学会評議委員などを歴任。
調布市名誉市民、
東京都名誉都民、
鳥取県名誉県民。
2010年に文化功労者にも選ばれ、
2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。
2015年11月30日、多臓器不全により死去。
93歳没。
(水木しげる)

ロングセラー

#フィンガー5 の魅力のひとつだった、晃さんのハイトーンボイス。晃さんが変声期を迎えたため、玉元兄妹の甥にあたる具志堅 実さんが加入し、それを補った。
押し出される形でマネージャーに転身した長男 一夫さん。彼のファンであったオイラは、次第にフィンガー5を聴かなくなってしまった(涙)。