Apex product 【 昭和の楽しい時代 59 】

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田中浩さん
(1934年1月1日-1993年1月2日)
俳優。
京都府出身。
京都商業高等学校卒業。
父は昭和初期から中期にかけて活躍した俳優・寺島貢わ
母は昭和初期の女優・対馬ルイ子。
東宝を経て三船プロダクションに入社し、
殺陣師・久世竜に師事。
当時は同社製作の映画・テレビのほぼすべてに脇役で出演しており、
斬られ役などとして重用。
退社後は各社のテレビドラマ・映画に出演、
アクション作品でのやくざ役、
時代劇での悪代官役など悪役が多く、
1979年の『戦国自衛隊』では武田信玄を演じました。
一方、
「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」の
キャッチコピーで知られる丸大食品のCMに長らく出演していたことから、
その知名度は高かったです。
1993年、
誕生日の翌日の1月2日に新橋演舞場で行われた
五木ひろしの新春特別公演・初日の最中に倒れ心筋梗塞のため、
搬送先の駿河台日本大学病院で急死。
59歳没。
死去の前に撮影されたTBSテレビの正月大型時代劇『天下を獲った男 豊臣秀吉』に
丹羽長秀役で出演しており、それが最後のテレビドラマ出演。
特技は殺陣、乗馬。
(田中浩)
長門勇さん
(1932年1月1日-2013年6月4日)
俳優、声優。
身長167cm。
岡山県倉敷市出身。
岡山県立倉敷商業高等学校中退後、
自動車修理工場などを転々としましたが
芝居をやりたくて終戦から間もない1948年に
旅回り一座の高尾光子劇団に入団。
翌年に上京し、
浅草の浅草小劇場(浅草ショー劇場、後の浅草美人座)を振り出しに
ロック座やフランス座などでコメディアンとして活動し、黎明期のテレビ界に進出。
浅草フランス座3代目座長。
1958年にフランス座を退座。
妻は元舞台女優の麻耶あけみ。
俳優の須藤健は妻の伯父。
のほほんとした親しみやすいキャラクターが印象的で、
軽演劇の舞台で腕を磨いた器用さで時代劇から現代劇までカバー(特に「ひょうきんで人懐こい、うだつの上がらない人物を装い、いざという時に凄腕を発揮する」といった役どころを得意としていました)。
『スチャラカ社員』では、
流行語にもなった「おえりゃあせんのう」などの
岡山弁のフレーズを用いたキャラクターで人気を得ました。
『三匹の侍』での桜京十郎役が当たって以降、
時代劇では槍の使い手を数多く演じました。
『横溝正史シリーズ』では
古谷一行演じる金田一耕助とコンビを組む日和警部役でコメディーリリーフぶりを発揮。
2013年6月4日、老衰のため死去。
81歳没。
(長門勇)
衣笠貞之助さん
(1896年1月1日-1982年2月26日)
俳優、映画監督、脚本家。
新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、
牧野省三の下で映画監督へ転身。
新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、
松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作。
江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者でした。
1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、
第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。
上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。
妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。
(衣笠貞之助)
中島春雄さん
(1929年1月1日-2017年8月7日)
俳優、スーツアクター、スタントマン。
身長168cm。
愛称は春ちゃん。
山形県酒田市出身。
趣味・特技は
水泳、潜水、スキューバ・ダイビング、柔道。
実家は肉屋で、5人兄弟の三男。
三男坊で家業は継げず、小学校卒業後に横須賀へ移ります。
1943年(昭和18年)、
14歳で横須賀の海軍航空技術廠の養成所に入り、
養成員(予科錬)となり、
発着機部(カタパルト担当)配属。
円谷英二や有川貞昌と同じく、飛行機乗り志望でした。
1945年(昭和20年)、16歳。
終戦となり、実家へ戻り、
家業を継いだ兄がまだ復員しておらず、
肉屋を1年間手伝います。
1946年(昭和21年)、17歳。
兄が復員したため、
予科錬の同僚の紹介で三沢飛行場にて進駐軍の物資輸送トラックの運転手となるも、
スピード違反を犯して解雇。
1947年(昭和22年)、18歳。
新聞広告を見て俳優養成所「映画俳優学校」に応募して入校、
東宝や新東宝などの映画撮影所に出入りするように。
同期生には広瀬正一、丹波哲郎、高倉みゆきら。
1949年(昭和24年)、20歳。
黒澤明監督作品『野良犬』で映画に初出演するも、
編集で出演シーンを全カットされてしまったため、
幻のデビュー作に。
1950年(昭和25年)、21歳。
俳優学校の講師を務めていた坂内永三郎からの誘いで、東宝に入社。
役のつかない、いわゆる「大部屋俳優」に。
1953年(昭和28年)、24歳。
『太平洋の鷲』での攻撃機航空兵役で、
日本で初めて身体に火をつけてのファイヤースタントを演じます。
当時、
日本にはスタントマンという職業はまだなく、「吹き替え」と呼ばれていました。
この時期、数々の吹き替えをこなしました。
1954年(昭和29年)、25歳。
日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』で、主役の怪獣ゴジラのスーツアクターを務めます。
以後、18年間にわたり、
ゴジラシリーズでゴジラを演じたゴジラ俳優として有名に。
また、ゴジラ以外の怪獣映画でも、
主役の怪獣役を演じました。
1956年(昭和31年)、27歳。
『空の大怪獣 ラドン』でラドン役を演じ、
日本初の本格的なワイヤーアクションを演じました。
1965年(昭和40年)、36歳。
『三大怪獣 地球最大の決戦』公開後、
松屋デパートを皮切りに、
撮影用の「本物」のゴジラを着てのキャンペーン巡業が始まり、
大阪や名古屋など各都市でゴジラの実演を行い、
同年、
監督の円谷英二から直接、
「春坊、テレビ番組をやるからちょっと助けてくれ」と声をかけられ、
円谷プロダクション初のテレビ特撮作品『ウルトラQ』で怪獣「ゴメス」役を演じ、
以後、
『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』にも怪獣役などで出演したほか、
怪獣ショーの立ち回り指導も行なっていました。
1971年(昭和46年)、42歳。
東宝から専属契約解除を言い渡された後、
東宝撮影所脇の東宝経営のボウリング場に勤務。
1972年(昭和47年)、43歳。
特撮スタッフからたっての願いを受けて『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラを演じます。
この作品を最後に、
ゴジラのぬいぐるみ役者を引退。
ボウリング場の閉鎖後には、
東宝経営の麻雀店の店長を務め、
麻雀店のほか、
東宝共栄企業や東宝日曜大工センターで勤務していた時期も。
2011年(平成23年)、
アメリカ合衆国ロサンゼルス市より市民栄誉賞を受賞。
2012年(平成24年)11月、
出身地である酒田市より「第1回酒田ふるさと栄誉賞」を受賞。
2015年(平成27年)急病のため、
救急車で搬送されて緊急入院。
2016年(平成28年)肺がんを手術し、療養。
2017年(平成29年)8月7日午後3時6分、
肺炎のため、東京都内の病院で死去。
88歳没。
(中島春雄)
玉川伊佐男さん
(1922年1月11日-2004年1月1日)
元俳優。 
身長164cm。
東京府東京市四谷区新宿(現・東京都新宿区四谷)出身。
1942年、松竹楽劇座入座。
1944年、渡満劇団新女苑入座。
1948年、松竹劇団新風俗文芸部入座。
1952年7月、劇団泉座に入団。
後に同劇団の代表に。
プレーヤーズセンターに所属していた時期も。
1966年から2004年に亡くなるまで石原プロモーションに所属。
(玉川伊佐男)
福本清三さん
(1943年2月3日-2021年1月1日)
俳優。
身長172cm。
兵庫県城崎郡香住町(現・美方郡香美町)出身。
50年以上にわたり、
時代劇・現代劇を問わず「日本一の斬られ役・殺され役」を演じてきたことから、
「5万回斬られた男」の異名を持ちます。
愛称は基本的に「福ちゃん」「先生」。
(福本清三)
天本英世さん
(1926年1月2日-2003年3月23日)
俳優。福岡県若松市(現:北九州市[2][1]若松区)出身。
本籍は佐賀県鳥栖市。
身長180cm、体重65kg。
福岡県若松市で住友石炭鉱業で働く父を持ち、
裕福な家庭に生まれました。
1943年(昭和18年)に旧制若松中学校(現・福岡県立若松高等学校)を卒業し、
翌1944年に旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学。
1945年に19歳で学徒出陣で兵役に召集され、
5月に久留米の野砲隊(大砲係)に入隊、
その後通信兵として宮崎県に送られますが、
営内では上官に対抗し、
その度に鉄拳制裁を受けました。
この経験が自身の反骨志向を育む事に。
1948年に東京大学法学部政治学科に入学。
大学では国際政治学を専攻し、
当初は外交官を目指していましたが、
その後、中退して劇団俳優座に所属。
その後は
俳優座スタジオ劇団同人会、劇団四季などに所属。
1954年に28歳でオペラ『オテロ』において初舞台。
同年に松竹と契約し、『女の園』と『二十四の瞳』 で映画に初出演。
1958年に東宝と専属契約を結び、
以後、
アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役として活躍し、
また人間離れした悪役や殺し屋などを数多く演じました。
特に岡本喜八が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し、
中でも
1967年の映画『殺人狂時代』の精神科医・溝呂木博士役が好評を得ました。
私生活では
20代からファルーカ(スペイン音楽の一種)とフラメンコを端緒としてスペイン語を独学で身につけ、
スペインに深く傾倒。
1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、
主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍。
1972年に毎日放送『仮面ライダー』で死神博士を演じ、
悪役ながら人気を博しました。
1991年(平成3年)から
フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』に
「東大出身」の解答者としてレギュラー出演し、
一般的な知名度を一気に高めました。
2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳。
(天本英世)
2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳。
伊丹万作さん
(1900年1月2日-1946年9月21日)
映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。
「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、
挿絵画家として活躍後、
同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、
片岡千恵蔵プロダクションへ入社。
作風は風刺と諧謔、人間味に富み、
これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇で稲垣浩とともに新生面を開きます。
その後は闘病生活を余儀なくされますが、
シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心。
主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、
シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
長男は映画監督・俳優の伊丹十三、
長女は大江健三郎夫人の大江ゆかり、
孫は作曲家の大江光、俳優の池内万作、池内万平。
(伊丹万作)
古谷一行さん
(1944年1月2日-2022年8月23日)
俳優。
身長170cm。
1970年代から2000年代にかけての数多くのサスペンスドラマで主演を務め、
人気を博しました。
東京都出身。
大塚の写真館の長男。
東京都立板橋高等学校を経て、弁護士を目指して、
中央大学法学部卒業。
大学在学中、
俳優座養成所第16期を経て俳優生活を開始。
1977年からの『横溝正史シリーズ・名探偵金田一耕助シリーズ』などでの主人公・金田一耕助役を一貫して演じ、
当たり役に(2019年12月21日には、NEWSの加藤シゲアキが金田一耕助を演じる『悪魔の手毬唄〜金田一耕助、ふたたび〜』に磯川常次郎警部役で出演し、加藤と古谷の新旧金田一役俳優の共演が実現)。
1982年から2007年までの25年間、
『土曜ワイド劇場』では「混浴露天風呂連続殺人」シリーズの主役・左近太郎役を演じて再び当たり役に。
ゲスト出演した浅井理恵からは不倫を暴露されるも、迅速に謝罪会見し話題に。
長男はDragon Ashのボーカルを務める降谷建志。
Dragon Ashのアルバム『Viva La Revolution』(1999年)のTVCFに父の古谷が出演したり、
古谷が主演・プロデュースを務めた映画『手紙』(2003年作品)では父子共演。
建志の元妻はタレントで女優のMEGUMI。
建志とMEGUMIの長男(古谷の孫)の降谷凪も俳優としてデビュー。
2011年に肺がんであることを公表し、
切除手術を受け、翌年復帰したものの、
脳への転移が判明して放射線治療を受けるなど闘病を続けていました。
さらに胃がんにより胃を全摘。
亡くなる2年前からは体調不良を理由に公の場に姿を見せていませんでしたが、
本人は復帰に向けてトレーニングを続けていたといいます。
2022年8月23日、東京都内の病院で死去。
78歳。
(古谷一行)
1964年山田洋次脚本・監督ハナ肇主演の馬鹿三部作のニ作目「いいかげん馬鹿」
笑いあり涙ありの私の好きな映画です。

黒澤明監督の「用心棒」この作品の中で、三船敏郎を殴ったりする巨体の方、凄いですね。元力士、元プロレスラーの方だそうですね

野村昭子さん
(1927年1月2日-2022年6月29日)
女優。
身長157cm、体重64kg。
夫は、演出家の増見利清(2001年死去)。
特技は、常磐津。
薬剤師免許所持者。
東京市神田区(現:東京都千代田区)生まれ。
実家は医療器具の卸業を営み、裕福な家庭でした。
桜蔭高等女学校(現:桜蔭中学校・高等学校)、
1946年に東京薬学専門学校(現:東京薬科大学)卒業。
薬剤師として東京大学医学部附属病院に勤務していましたが、
演劇に魅せられます。
1949年に劇団俳優座養成所の第1期生に(同期は岩崎加根子)。
1952年に養成所を卒業し、
そのまま劇団俳優座に入団。
代表作の1つである『家政婦は見た!』で共演していた市原悦子は劇団時代の後輩であり、
自宅も近かったことからプライベートでも親交が深く、
ほか、
後輩の樹木希林、親子役でドラマ共演した山田邦子なども親交が深かったそうです。
石井ふく子からの信頼も厚く、
『渡る世間は鬼ばかり』では、
山岡久乃の後任ポジションを務め、
晩年の代表作に(なお、野村は山岡とは『夕陽カ丘三号館』、『心』最終話などで共演しており、山岡の通夜・葬儀にも参列)。
泉ピン子とは40年来の交流があり、
「野村ママ」と呼ばれて慕われていました。
2011年5月10日、橋田賞特別賞を受賞。
夫との間に子どもはおらず、
2001年の死別後は東京都内で独居生活を送っていました。
2022年6月下旬までは自宅付近で元気な姿を目撃されていましたが、
近隣住民から「野村さんの姿を見ていない」と警察に通報があったため、
7月1日に親族と警察が自宅を訪問したところ、
寝室で倒れていたところを発見され、死亡が確認。
95歳没。
(野村昭子)
津川雅彦さん
(1940年1月2日-2018年8月4日)
俳優・映画監督・芸能プロモーター・時事評論家。
身長171cm。
芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、
同社の代表取締役を務めました。
位階は従五位。
俳優としては
1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、
1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、
1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演。
80年代以降は
『マルサの女』(主役の板倉亮子(宮本信子)の上司役)
『スーパーの女』(スーパー「正直屋」の専務役)など
伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示しました。
1999年には
『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
2000年には
NHK大河ドラマ『葵 徳川三代』で主役の徳川家康を演じ、
映画監督としてはマキノ雅彦を名乗り、
3本の作品を監督。
俳優業のかたわら、
おもちゃの「グランパパ」の経営を行ったり、
スコットランドの古城「ロックハート城」を解体し
日本へ移築することを試みるなど、
経営者や事業家としての一面もありました。
[著名な家族]
真由子(娘)
澤村国太郎(父)
マキノ智子(母)
長門裕之(兄)
牧野省三(祖父)
(津川雅彦)
山崎豊子さん
(1924年1月2日-2013年9月29日)
小説家。
大阪府大阪市南区(現:中央区)船場出身。
実家は老舗昆布屋の小倉屋山本。
1936年(昭和11年)、
旧制大阪市芦池尋常小学校(現:大阪市立南小学校)卒業。
1941年(昭和16年)、
旧制相愛高等女学校(現:相愛中学校・高等学校)卒業。
1944年(昭和19年)、
旧制京都女子専門学校(現:京都女子大学)国文学科卒業。
毎日新聞社に入社。
毎日新聞大阪本社調査部を経て1945年(昭和20年)学芸部に勤務、
当時学芸副部長だった作家井上靖のもとで記者としての訓練を受け?
勤務のかたわら小説を書きはじめ、
1957年(昭和32年)に生家の昆布屋をモデルに、
親子二代の船場商人を主人公とした『暖簾』を刊行して作家デビュー。
出版後すぐに映画・ドラマ化され、人気を博します。
翌年吉本興業を創業した吉本せいをモデルに大阪人の知恵と才覚を描いた『花のれん』を上梓。
同作により第39回直木賞受賞。
新聞社を退職して作家生活に入りました。
初期は船場など大阪の風俗に密着した小説作品が多数。
その頂点が
足袋問屋の息子の放蕩・成長を通して商魂たくましく生き抜く大阪商人の典型を描いた『ぼんち』であり、
市川雷蔵主演により映画化。
1961年(昭和36年)『女の勲章』取材中に元同僚と結婚。
1963年(昭和38年)より連載を始めた『白い巨塔』は
大学病院の現実を描いた鋭い社会性で話題を呼び、
田宮二郎主演で映画化されたほか、
数回に亘りテレビドラマ化。
これも大阪大学医学部がモデルとなっており、
大阪の風俗が作品への味付けとなっています。
神戸銀行(現:三井住友銀行)をモデルとした経済小説、『華麗なる一族』も
佐分利信の主演で映画化され、
さらに3度に亘りテレビドラマ化。
中年期以降は、テーマ設定を大阪から離れ、
戦争の非人間性など社会問題一般に広げていきました。
『不毛地帯』、『二つの祖国』、『大地の子』の戦争3部作の後、
日本航空社内の腐敗や日本航空123便墜落事故を扱った、『沈まぬ太陽』を発表。
1991年(平成3年)、菊池寛賞受賞。
1993年(平成5年)大地の子などの印税を基に「山崎豊子文化財団」を設立し、
日本に帰国した中国残留孤児の子供の学資を援助。
21世紀に入ってからは、
『文藝春秋』2005年(平成17年)1月号から2009年(平成21年)2月号まで
西山事件をモデルとした『運命の人』を連載。
また2005年秋に『山崎豊子全集』(新潮社 全23巻)刊行が完結。
2009年(平成21年)『運命の人』で毎日出版文化賞特別賞受賞。
2013年8月より週刊新潮にて新作「約束の海」の連載を開始。
第1部(20話)を書き上げた後に体調不良となり堺市内の病院に緊急入院。
2013年9月29日に呼吸不全のため死去。
89歳没。
[代表作]
『花のれん』(1958年)
『白い巨塔』(1965年-1969年)
『華麗なる一族』(1973年)
『二つの祖国』(1983年)
『大地の子』(1991年)
『沈まぬ太陽』(1999年)
(山崎豊子)
やしきたかじんさん
(1949年10月5日-2014年1月3日)
シンガーソングライター、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。
主に関西ローカルや大阪の放送局製作番組に出演。
愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など。
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)代表取締役、
大阪を盛り上げるために創設された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテンおよび理事長などを歴任。
(やしきたかじん)
悲報!
【能登半島地震】
永井豪記念館、全焼!
朝市通り火災で
2024/01/02  北國新聞
輪島市河井町の朝市通り一帯で起きた大規模
火災で「永井豪記念館」が全焼したことが
分かった。同館は2009年、輪島市が
市出身の漫画家永井豪さんを紹介するため
整備した観光スポット。
代表作「マジンガーZ」の大型フィギュア
などが展示されていた。
朝市通りでは、NHK朝の連続テレビ小説「まれ」のロケセットなどを展示していた「輪島ドラマ記念館」も全焼した。
岩下志麻さん
(1941年1月3日-)
女優。
身長165cm。
東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)銀座生まれ。
俳優・野々村潔と元新劇女優・山岸美代子の長女として生誕。
4代目河原崎長十郎は義理の伯父。
夫は映画監督の篠田正浩。
松竹の看板女優の一人として活躍。
(岩下志麻)
年始にあたり換算表を新しくしました。
これを壁にはっておかないと訳わからなくなる今日此頃。でも昭和は遠くなりましたねえ。
「ウタマロ石鹸」ご存知ですか?
確か¥150位だった様な…
昔からあるこの石鹸、凄く汚れが落ちます!
私ははワイシャツの襟アカを落とすのに使ってます。ゴシゴシ石鹸で擦るとあっという間に白くなる!
コスパ最高です😁!
山本學さん
(1937年1月3日-)
俳優。
身長167cm。
大阪府茨木市生まれ、東京育ち。
成蹊中学校・高等学校卒業、成蹊大学中退、
俳優座養成所第7期生。
建築家の山本勝巳の長男。
俳優の山本圭、山本亘は弟。
元妻に水野久美。
1953年に起こった日章丸事件で、
舞台となった出光興産所有のタンカー・日章丸の船長であった新田辰男は伯父。
(山本學)
2006年  (アメリカ)
      ミュージカル/ロマンス
   【ドリームガールズ♪】
夢はあきらめなければ必ず叶う。
そのような事を教えてくれる映画。
数々のドレスも必見ですがビヨンセの歌は最高ですね。
なかでも主題歌の「dreamgirls」は耳に残るキャッチー音楽が楽しく、自然と体が踊り出す曲です。
又ジェニファー・ハドソンの歌声は圧巻の迫力で凄かったですね。
解説
トニー賞6部門に輝いた名作ブロードウェイミュージカルを映画「美女と野獣」又「シカゴ」の脚本家ビル・コンドルが監督・脚本を手がけ映画化。
1960年~70年代に活躍した伝説のR
&Bグループ「ザ・スプリームス」をモデルに、女性3人組ボーカルグループの栄光と挫折を描く。
1962年、デトロイトのエフィ、ローレル、ディーナの3人は、ボーカルグループ「ドリーメッツ」を結成する。
音楽業界での成功を目指す野心家
カーティスにスカウトされた彼女たちは、地元の人気歌手ジミー・アーリーのバックコーラスに抜てきされ
注目を集めるようになるが……。
人気歌手ビヨンセがディーナ、ジェイミー・フォックスがカーティスを
演じたほか、本作が映画デビューのジェニファー・ハドソンが圧倒的な歌唱力でエフィを熱演し、2007年・第79回アカデミー賞で助演女優賞を
受賞した。
監督:ビル・コンドン
制作:ローレンス・マーク
キャスト:ジェイミー・フオックス
    ビヨンセ・ノウルズ
    エディ・マーフィ
    ジェニファー・ハドソン他
ダニエルビダル
フランス領モロッコ生まれ
日本びいきで何回も来日。日本人アイドルと結婚。現在40歳になる子供がいる。
日本語盤も出すが、日本だけのヒット。
星野仙一さん
(1947年1月22日-2018年1月4日)
プロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、コメンテーター。
身長180cm・体重80kg。
岡山県児島郡福田町(1953年、倉敷市と合併)出身。
現役選手時代のポジションは投手で、
1969年から1982年にかけて中日ドラゴンズで主戦格投手として活躍し、
1974年・1982年には中日のセ・リーグ優勝に貢献。
また、
1974年には沢村賞に加えてリーグ初となる最多セーブ投手のタイトルを獲得。
現役引退後は
中日・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団で監督を務め、
1988年・1999年には中日を、
2003年には阪神をそれぞれセ・リーグ優勝させ、
2013年には楽天を球団創設後初となるパ・リーグ優勝と日本一に導きました。
また、
2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務め、4位まで導きました。
2014年限りで楽天監督を退任し、
2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めました。
愛称は「燃える男」「闘将」「仙(さん・ちゃん)」等。
(星野仙一)
子門真人さん
(1944年1月4日-)
元歌手・元音楽プロデューサー。
東京都目黒区出身。
玉川大学文学部英米文学科卒業。
代表曲に
「およげ!たいやきくん」「レッツゴー!! ライダーキック」など
子供番組・アニメ番組で多くのヒット曲を持つことから、
水木一郎やささきいさおと並んでアニメソング御三家と称されました。
(子門真人)
■今日は何の日?
1月3日
■1956年のこの日、アメリカの俳優メル・ギブソン生まれる。
「マッド・マックス」シリーズや「リーサル・ウェポン」シリーズでアクション・スターの座をつかむ。
監督業にも乗り出し、監督・主演作「ブレイブハート」(95)はアカデミー作品賞・監督賞等を受賞。
一方、キリストの処刑までの12時間を描いた「パッション」(04)は、あまりものリアルな残酷描写が物議を醸す。
その後の監督作「アポカリプト」(06)、「ハクソー・リッジ」(16)でも、監督作ではなぜかリアル残酷描写にこだわる傾向あり。
【十日市(会津若松市)】
会津若松市の十日市をご紹介します。
十日市は毎年1月10日に、会津若松市中心部の神明(しんめい)通り商店街と大町通り周辺で行われます。
始まりは、室町時代に会津領主・葦名直盛(あしな なおもり)が1月10日に市祭を開いたという説や、安土桃山時代の会津領主・蒲生氏郷(がもう うじさと)が始めたという説があります。
当日は、縁起物や会津漆器などが出店で販売され、多くの人が買い求めてにぎわいます。
特に会津三縁起が有名で、「起き上がり小法師」、「初音(はつね)」、「風車」の3つがあります。
起き上がり小法師は、何度転んでも起き上がることから健康や粘り強さを象徴しています。
初音は、小さな笛で、小鳥の鳴き声に似た音が出ることから、幸福を呼ぶとされています。
風車は、勢いよく回るものが好まれ、くるくると回って働けるようにと願いが込められています。
新春は会津を訪れ、十日市で「福」を求めてみてはいかがでしょうか?
※写真は過去に撮影したものです。
玉置宏さん
(1934年1月5日-2010年2月11日)
フリーアナウンサー、司会者。
日本司会芸能協会名誉会長、横浜にぎわい座初代館長。
神奈川県川崎市出身。
生家の家業は米屋。
神奈川県立川崎高等学校、明治大学商学部卒業。
大学卒業後、
1956年文化放送にアナウンサーとして入社。
1958年三橋美智也の勧めで退社しフリーに転身。
以後、
司会を中心にテレビ・ラジオ・舞台などで活動。
同年から1977年までTBS『ロッテ歌のアルバム』を19年・1,000回、
1967年からNET『象印スターものまね大合戦』を10年務めます。
冒頭の挨拶
「一週間のご無沙汰でした。玉置宏でございます。お口の恋人、ロッテ提供、『ロッテ歌のアルバム』…」は当時流行語に。
『玉置宏の笑顔でこんにちは!』(ニッポン放送)や
『にっぽんの歌』『昭和歌謡大全集』(テレビ東京)、
『ラジオ名人寄席』(NHKラジオ第1)など多くの長寿番組の司会を手掛けました。
このほかコロムビアレコードの専属司会者に。
この際に漫才師のコロムビア・トップ・ライトの青空一門の客分に。
1979年には、
東映映画のシリーズである「トラック野郎シリーズ」の最終作『トラック野郎・故郷特急便』に
大阪梅田コマのコンサート司会者役で出演。
1981年には
真咲よう子とのデュエット曲『東京ラスト・ナイト』で歌手活動を開始し、
同曲は10万枚を販売。
1985年には
テレビせとうち開局記念歌謡番組の司会を務めました。
1989年からは
当時親交のあった森数人(琴古流尺八師範)や北島三郎等の薦めで
日本音楽作家協会が主催する日本縦断イベント(交通遺児チャリティコンサート)の司会・進行役を2期務め
3期目からは、
作詞・作曲・編曲家の冬樹かずみと歌手の村上幸子が、
健康上の理由から勇退した玉置の代わりを務めました。
2002年4月、
新たに開場した横浜にぎわい座の初代館長に就任。
2007年5月12日の「第12回林家彦六賞」で
「寄席関係に貢献、話芸の発展に尽力した」との事で
「彦六特別賞」受賞。
2008年3月、
玉置が持ち込み『ラジオ名人寄席』内で使用した落語の音源に
「TBSが収録したものがあり、同局から使用許諾を得ていない」と川戸貞吉と草柳俊一が申し入れ、
玉置は同番組を降板、打ち切りに。
TBS以外にも許諾を得ずに番組で使用した音源は、
調査の結果12年間にほか7社から91演目、
再放送も含めて計205件。
使用料合計の約1300万円は、
番組を制作したNHKエンタープライズがNHKとの番組委託契約に従い全額支払いましたが、
玉置自ら申し出て改めて同エンタープライズへ全額支払いました。
番組がNHKサービスセンターで販売した落語CD、カセット商品3演目分も、
市販のレコードなどを無許可で使用して商品化しており廃盤に。
『ラジオ名人寄席』での音源不正使用事件の個人的責任を取り、
日本芸能実演家団体協議会理事の辞任と自身の司会番組『昭和歌謡大全集』を降板。
横浜にぎわい座館長も辞意を表しましたが、
慰留されて留まります。
以後、
舞台のほかはスカパーの時代劇専門チャンネルで放送の『中継・横浜にぎわい座 名作傑作落語選』に出演する程度で、
事件の責任を取り表舞台から退きました。
2010年2月11日午前10時33分、
脳幹出血のため神奈川県内の病院で死去した。
76歳没。
(玉置宏)
宮崎駿さん
(1941年1月5日-)
アニメーション監督、アニメーター、脚本家、漫画家。
身長164cm。
株式会社スタジオジブリ取締役、
公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、
三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)名誉館主(初代館主)。
東京府東京市出身。
学習院大学政経学部卒業。
1963年に東映動画にアニメーターとして入社。
その後いくつかの会社を経てフリーとなり、
その間に
テレビアニメ『未来少年コナン』、
初の劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』で頭角を現します。
1984年に個人事務所の二馬力を設立し、
翌年に高畑勲らとアニメーション制作会社スタジオジブリの設立に参加(2005年に同社取締役に就任)。
以後
『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』などの劇場用アニメーションを監督し、
『千と千尋の神隠し』でベルリン国際映画祭金熊賞とアカデミー長編アニメ映画賞を受賞。
2014年には日本人で2人目のアカデミー名誉賞を受賞。
(宮崎駿)
文野朋子さん
(1923年1月5日-1987年7月19日)
女優。
東京市浅草区(現・東京都台東区)出身。
都島高等実践女学校卒業。
演劇集団 円に所属。
夫は俳優の神山繁で、おしどり夫婦として知られました。
第9回芸術祭賞奨励賞受賞。
戦前、
大映に入社して映画女優として活躍した後、
1946年に劇団文学座に入座。
文学座の看板女優・杉村春子に目をかけられ、
後継者として期待されましたが、
1963年に夫の神山らと共に文学座を脱退し、
劇団雲の結成に参加。
雲の中心メンバーとして活躍。
1956年に神山繁と結婚。
その後、
福田恆存と芥川比呂志が対立し劇団内で分裂騒動が起こると、
芥川、神山らと共に雲を離脱し、演劇集団 円を結成。
円では、
岸田今日子、南美江と共に中心女優として活躍しましたが、
1987年7月6日、
舞台の公演中に脳内出血のためステージ上で倒れ、
13日後の19日に急死。
64歳没。
(文野朋子)

冬の華。あの倉本聰が現代のヤクザの世界を倉本の世界で描く。全てネタバレで投稿するのでご容赦を。この映画を見終わった後、ヤクザの組の幹部加納秀次、高倉健の生きざま、ヤクザの義理とはいえ秀次の人生は何だったんだろうと、むなしくも哀しくさせる映画である。冒頭、秀次は、組を裏切った池部良と海辺で話し込む。池部良、秀さん、見逃しちゃくれねえか、ガキがいるんだ。おめえとは長い付き合いじゃねえか。このセリフを映画の最後にもう一度聞くことになる。よろよろと立ち去る池部を有無を言わせず秀次は刺し殺す。その場を立ち去るとき、ふと振り返ると何も分からない池部の幼い娘が、無邪気に死んだ父親に戯れている。その様に衝撃を受けた秀次は、その娘洋子に刑務所から、ブラジルにいるおじさんと言って金を送り続け、洋子の成長だけを楽しみに生きる。長い刑期を終えた秀次に部下が会いますか、セッチングしましょうかと聞くが、親を殺した俺が会えるわけないだろうと断り、下校途中の洋子を車の中からそっと見守ったりする。そして晴れてあえるように足を洗う決心をし、刑務所時代の教官に就職の手紙まで書くが、親分から組を持つ気はないか聞かれ、じつは足を洗うつもりですと答える。親分は、もし自分に万一のことがあったら、堅気の息子のことだけは頼むと言われる。そして、対するヤクザに親分は殺される。息子は仇を討つつもりで秀次に協力を頼むが、若、お止めなさいと断る。しかしその時秀次はある決心をしている。そして洋子に、また遠くに行くことになった、今度帰ったら会いましょうと永遠の別れの電話をする。そして、息子に相手の組から招待状が届く。息子はそれを受け、その場で殺るつもりである。秀次は組の者に息子にドスを突き付けても行かせないようにし、自ら出かける。裏切り者小池朝雄。秀さんじゃねえか、見逃しちゃくれねえか、ガキがいるんだ。有無を言わせず秀次は刺し殺す。義理とはいえ、息子を庇い親分との義理を果たした秀次。再びムショ暮らしが待っているのに秀次、高倉健のあまりにも辛い生きざま。クロードチアリのギターが胸をかきむしるように流れる。

昭和の漫画
昭和30年代推奨とはちょっとはずれますが……。
ただ、いかにも昭和でしょ~~!!!
嗚呼!!花の応援団。
昭和50年から、双葉社の「漫画アクション」で掲載。
南河内大学の応援団が舞台のなんでもありの漫画なり!!!
主人公は青田赤道。
わたしは大好きで、タブン全巻読んでると思います。
かつてあった下北沢のジャズ喫茶、「マサコ」で。
ま~~、とにかく出てくるキャラがね。
みすずとか…。
たま~~に人情モノがはさまれたり……。
読んでましたよね~~~???でもない?

🎍謹んで新年のご挨拶を申し上げます!…思い起こさば…1976年(昭和51年)…石巻岡田劇場で観た正月映画🎥東映『トラック野郎・天下御免』…面白かったなぁ!かっこよかったなぁ!文太さん!…併映は拓ボン主演 🎥『河内のオッサンの唄 よう来たのワレ』…挿入歌🎵ミス花子…理屈抜きで面白かった!…あの時代はもう?帰って来ないだろなぁ!…!

うらみ念法「物理攻撃」
藤子不二雄(後のA)先生の『魔太郎がくる‼』では当初、報復の手段として「物理攻撃」がかなりの部分を占めています。そのため、近年の刊行本では(特に1~2巻収録の中からは)削除されたり、改変されたりしているエピソードも多く、当時の形のままでは読めないものがいくつもあります。
我が家には現在、2巻と5巻のみ現存しています。5巻の頃にはおおむね落ち着いてきていますが、2巻のほうは現在では読めないオチの話も多く、なかなか希少価値があります。特に、ここに挙げた3編は、「やろうと思えば誰にでも可能な、物理的報復手段」という意味で、今や「封印作品」とも言えるでしょう。
昭和47年頃の日産 フェアレディ240Z-G
カッコイイですね😊👍
昔の前の見えないロングノーズは気を付けないと鼻先をコツンと当てちゃうんですよね😅
八千草薫さん
(1931年1月6日-2019年10月24日)
女優。
大阪府大阪市出身。
宝塚音楽学校卒業。
愛称は「ヒトミ(ちゃん)」。
公称身長154cm。
幼少時に父を亡くし、母子家庭で育ちました。
思春期がちょうど戦時中であり、
自宅も空襲で焼け、
「色のある」「夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれます。
聖泉高等女学校(現:プール学院中学校・高等学校)在学中に宝塚音楽学校に合格し、
1947年に宝塚歌劇団入団。
宝塚入団時の成績は50人中19位。
入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としましたが、
1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫(紫の上の少女時代)を内・外面とも見事に表現し、
人気を博しました。
以降は
美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡、
同年から劇団内に新設された映画専科に所属。
1951年の『虞美人』、
1952年の『ジャワの踊り子』にも出演。
宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなしており、
当時の「お嫁さんにしたい有名人」の統計で、
たびたび首位に輝きました。
1957年5月31日付で歌劇団を退団。
最終出演公演の演目は花組公演『みにくい家鴨の子/王春讃歌』。 
退団後は東宝と専属契約を結んだ後、フリー。
テレビドラマでのおっとりとした良妻賢母役が好評を得ます。
1964年、
長門裕之・南田洋子とともに人間プロダクションの設立に参加。
一方、
『岸辺のアルバム』での家族に隠れて不倫する主婦役で従来のイメージを覆し、
テレビドラマ史に残る名作と評されました。
私生活では
1957年に映画監督の谷口千吉と結婚。
人気・好感度絶頂の八千草と、
親子ほどの年の差があり、
しかも3度目の結婚となった谷口の組み合わせは当時、
多方面で話題・波紋を呼びました。
夫婦に子はありませんでしたが、
おしどり夫婦として知られ、
結婚50年目となった2007年に死別するまで連れ添いました。
2010年3月中旬にドラマの撮影中に転倒し、
右膝蓋骨を負傷。
当初は全治3週間と診断されていたが症状が悪化し、
5月開催の第19回日本映画批評家大賞授賞式を欠席。
2014年、
古巣・宝塚歌劇団創立100周年を記念して設立された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人の一人として殿堂入り。
2017年の末に膵臓にがんが見つかり、
2018年1月に手術を受け、
予後は良好でドラマ収録や舞台『黄昏』の主演もこなしましたが、
2019年に入って肝臓にがんが見つかったため、
2019年4月放送開始予定のドラマ『やすらぎの刻〜道』の主演を降板し、
休業して治療に専念。
同年2月9日に発表。
5月26日、
理事を務める日本生態系協会のイベントに出席、
がんを発表後初めて公の場に登場。
2019年10月24日午前7時45分、
膵臓がんのため東京都内の病院にて死去。
88歳。
(八千草薫)
松原智恵子さん
(1945年1月6日-)
女優、タレント。
岐阜県生まれ、愛知県名古屋市育ち。
名古屋市立桜台高等学校から芸能活動が可能な菊華高等学校(現杉並学院高等学校)に転校し卒業。
明治大学二文英米文学科出身。
身長157cm。
特技は日本舞踊、乗馬。
実家は名古屋市南区で銭湯を経営(現存)。
戦時中、名古屋大空襲を避けるため、
母親が疎開していた岐阜県で生まれ、
戦後に実家のある名古屋に戻りました。
4人兄姉の末っ子で三女。
1960年、
高校生の時に日活が行った「ミス16歳コンテスト」に入賞し、
副賞としての撮影所見学がきっかけで「夜の挑戦者」で端役デビュー。
日活時代はアクション映画や青春映画のヒロイン役を多く演じ、
1969年『恋のつむじ風』で初の単独主演。
1971年に日活の一般映画制作中断により日活を離れ、テレビドラマに主軸を移して活動。
吉永小百合・和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれて人気を獲得(1967年のブロマイド売り上げでは、吉永、藤純子(現・富司純子)、和泉、酒井和歌子、内藤洋子らを抑えて女優部門のトップになったほどの人気ぶりでした)。
都会的で可憐な清純派スターとして、
日活全盛期を代表する女優とされていました。
16歳で軽自動車、
18歳になると普通自動車免許を取得。
27歳で「女性自身」などに執筆するジャーナリストの黒木純一郎と結婚。
新婚旅行ではアフリカ大陸に長期滞在。
38歳で妊娠、39歳で長男を出産。
2016年12月、
第1回ソチ国際映画祭で『ゆずの葉ゆれて』の演技が認められ、主演女優賞を受賞。
(松原智恵子)
昭和45年  1970年
1月1日のテレビ番組
今では当たり前ですが(^^)
カラーって書いてありますね。
まだ、白黒放送もあった時代ですね~
懐かしい昭和のヤングオート🎵
ハイソ系アダルトヤンキー仕様が流行った昭和60年代😆🎵
チンチラ、シャンデリア、シャコタン、renoma(笑)
現在、還暦
高校生の時に握手会に行きました!
友達が彼女と同じ中学校で同じクラスでした。当時はスマホなんて無かったので、これはカメラで撮りました。写真屋さんへ現像してもらいに行って(出来上がりは翌日) 若い人には分からないでしょうね! 原悦子のサイン会にも行ってた。学生服のまま 今じゃあかんやろうね
プロゴルファー祈子。
大映テレビ制作のドラマ。
化粧が濃かった。
岡本太郎さん
(1911年2月26日-1996年1月7日)
芸術家。
父は漫画家の岡本一平、
母は歌人で小説家・岡本かの子。
1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごしました。
神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生誕。
1917年(大正6年) 、
東京・青山の青南小学校に入学。
1918年(大正7年) 、
2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
1929年(昭和4年)、
慶應義塾普通部を卒業、
東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)洋画科入学、半年後中退。
父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧。
その後、
パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学びます。
1936年(昭和11年) 、油彩『傷ましき腕』を制作。
1940年(昭和15年) 、パリ陥落の直前に帰国。
1942年(昭和17年) 、
海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。
召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送ります。
1945年(昭和20年)5月、
東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、
岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
1946年(昭和21年) 復員、
東京都世田谷区上野毛にアトリエを構えました。
1947年(昭和22年) 、
後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会います。
1948年(昭和23年) 、
花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。
1949年(昭和24年)、
翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、
読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、
戦災で焼失した油彩画『傷ましき腕』『露天』を再制作。
1950年(昭和25年) 、
読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
1951年(昭和26年) 、
東京国立博物館で縄文土器を見ます(11月7日)。
1952年(昭和27年) 、
「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表。
11月に渡欧。
翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開催。
1954年(昭和29年) 、
アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。
『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
1955年(昭和30年) 、
ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描きます。
1956年(昭和31年) 、
旧東京都庁舎(丹下健三設計)に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。
1957年(昭和32年) 、
46歳にしてスキーを始めました。
1959年(昭和34年) 、
初めて沖縄に旅行。
またこの年から彫刻を開始。
1961年(昭和36年) 、
草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院)。
療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。
『忘れられた日本――沖縄文化論』が毎日出版文化賞受賞。
1964年(昭和39年) 、
東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
1965年(昭和40年) 、
名古屋・久国寺の梵鐘『歓喜』制作。
1967年(昭和42年) 、
大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
1968年(昭和43年) 、
初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
1969年(昭和44年) 、
1968年から制作が開始されていた『明日の神話』完成。
1970年(昭和45年) 、
大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館『太陽の塔』完成。
1973年(昭和48年) 、
岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛びました。
スポンサーは積水ハウス。
1974年(昭和49年) 、
NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。
1976年(昭和51年) 、
キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語に。
1977年(昭和52年) 、
スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵。
1978年(昭和53年) 、
毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、
ショパンが使用したピアノを弾きました。
1979年(昭和54年) 、
慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。
はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行。
1981年(昭和56年) 、
初めてコンピューターで絵を描き、
日立マクセルのCMに出演。
ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が
同年の流行語大賞の語録賞を受けました。
1982年(昭和57年) 、
慶和幼稚園(名古屋市港区)の新園舎の竣工にあたり、遊戯室にモザイク壁画『あそび』を制作。
1984年(昭和59年) 、
フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章。
1985年(昭和60年) 、
つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。
あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザイン。
こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
1986年(昭和61年) 、
福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぎました。
1988年(昭和63年) 、
ダスキンのCMに出演。
翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
1989年(平成元年) 、
フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。
1991年(平成3年) 、
東京都庁舎移転のため、
旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊されます。
1992年(平成4年) 、油彩『疾走する眼』制作。
1994年(平成6年) 、
三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。
1996年(平成8年)、
1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院で、死去(満84歳没)。
(岡本太郎)

能登が舞台のドラマでした、1日でも早い復興と、改めてこのドラマを見てみたくなりました✨😢🙏 

水木一郎さん
(1948年1月7日-2022年12月6日)
歌手、作詞家、作曲家、声優、タレント、ナレーター。
身長170センチメートル。
アニメソング界の帝王と呼ばれるほか、
アニキ(ANIKI)の愛称でも親しまれていましたが、
これはNHKの『おかあさんといっしょ』において、
2代目うたのおにいさんを務めたことに由来。
自分の持ち歌を「ANIKING」ヴァージョンとして再録音。
東京都世田谷区出身。
世田谷区立梅丘中学校、世田谷高等学校卒業。
デビュー時のキャッチフレーズは歌謡界のプリンス。
(水木一郎)
榎本健一さん
(1904年10月11日-1970年1月7日)
俳優、歌手、コメディアン。
当初は浅草を拠点としていましたが、
エノケンの愛称で広く全国に知られていきました。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、
第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍。
(榎本健一)
柳生博さん
(1937年1月7日-2022年4月16日)
俳優、司会者、タレント、声優、団体役員。
身長175cm。
茨城県稲敷郡舟島村(現在の阿見町)出身。
茨城県立土浦第一高等学校卒業。
東京商船大学(現在の東京海洋大学)中退。
作庭家(庭師)としても活動し、
第5代日本野鳥の会会長・名誉会長を務め、
コウノトリファンクラブ会長も務めました。
柳生新陰流で知られる柳生宗厳(柳生氏)の末裔にあたる家系に誕生。
船員を目指し大学に入学しましたが、
視力が悪く断念。
その後体調を崩し中退。
その後、役者を志し、劇団俳優座の養成所へ入所。
穂積隆信と学園ドラマでの腰巾着コンビで人気を獲得。
『いちばん星』で野口雨情を演じたことで全国的に知られます。
1981年9月28日から1993年10月1日までの12年間、
『100万円クイズハンター』での司会を務め、
「ハンターチャンス」の決め台詞でも有名に。
『平成教育委員会』には解答者として出演し、
『生きもの地球紀行』ではナレーションを長年担当。
洋画吹き替えではジェームズ・スチュアートなどを担当。
1976年より山梨県北巨摩郡大泉村(現在の北杜市大泉町)に居を構え、
以後ここを生活拠点に。
作庭活動は山梨への転居とともに始めましたが、
雑木林を中心とした作庭で、
庭・家・林・駐車スペースなどのあり方に独自の視点を持っています。
著書の中で囲炉裏を据えたり、
枕木などを活用するなどの作庭技術を紹介。
1997年、
島根県立三瓶自然館(島根県大田市三瓶町多根。愛称:サヒメル)名誉館長に就任。
2004年4月17日、
「日本野鳥の会」の第5代会長に就任し、
2019年6月19日まで務め、
同日より名誉会長に就任。
また2004年12月12日に発足した「コウノトリファンクラブ」の初代会長も務めました。
2000年頃を境に拘束時間の長い俳優活動を減らし、
全国各地での講演会やバラエティー番組等へのピンポイント出演が中心でしたが、
2019年に『やすらぎの刻〜道』で20年ぶりに連続ドラマへ出演。
山梨で余生を過ごしました。
2022年4月16日(土曜日)午前9時40分、
老衰のため、山梨県北杜市の自宅で死去。
満85歳没。
(柳生博)
二谷英明さん
(1930年1月28日-2012年1月7日)
俳優。
身長173cm。
京都府舞鶴市出身。
京都府立東舞鶴高等学校卒業、同志社大学文学部英文学科中退。
妻は女優の白川由美。
長女はトライグループ社長で元女優の二谷友里恵。
大学中退後、
アルバイト生活を経て1954年ラジオ佐世保(のちにラジオ長崎と合併し長崎放送と社名変更)に開局と同時に入社。
3年間、司会や英語放送のアナウンサーを務めました。
佐世保時代に前妻と結婚するも、後に離婚。
1956年、
小林旭らと第3期ニューフェイスとして日活に入社し、
同年『沖縄の民』で夜襲の少尉役としてデビュー。
1957年、主演デビュー。
1961年、
日活スター映画のローテーションであるダイヤモンドライン入り。
「ダンプガイ」の愛称で、
石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎などとともに日活アクション路線の全盛期を築き、
次第にヒーローのライバルや相棒、あるいは上司役といった、
貫禄ある準主演者としての出演が多くなり、
あらゆるジャンルの日活映画に欠かせない存在として高く評価。
1968年には、
旧西ドイツの連続テレビドラマ『パトロール隊出動』(邦題。原題は「Polizeifunk ruft」)の中の2話分に出演。
1971年に日活を退社。
1977年から『特捜最前線』で主演・神代警視正(課長)役として出演したことでも知られます。
1979年に放送された北海道ロケ中にスキーで転倒して首を骨折する重傷を負いましたが、
4か月の治療後に復帰。
1987年3月の終了まで全509回を数える人気番組に。
その一方で、
主演していた『特捜最前線』の提供スポンサーであった、
日産自動車の高級車のセドリックの専属CMキャラクターを、
1972年から1987年までの15年間の長きにわたり務めており、
二谷が専属CMキャラクターを務めたセドリックが
『特捜最前線』の劇用車(特命車)としても活躍していたことで、
「テレビ朝日=『特捜最前線』=二谷英明=セドリック=日産自動車」のイメージで一般大衆にも広く知られるようになり、
Wタイアップ効果は絶大でした。
1990年代からは積極的にボランティア活動に参加、
1993年には脚本家の小山内美江子らと
教育を受けられない国々の子供たちのために学校建設活動を行う特定非営利活動法人「JHP・学校をつくる会」を設立。
自ら何度もカンボジアに赴いて学校建設に尽力するなど、
「JHP・学校をつくる会」の副会長理事として活躍。
2003年10月に脳梗塞で倒れ、
高級老人ホームで療養し、芸能活動は休止状態に。
JHP・学校をつくる会の副会長理事職に長らく就き、
その他、
日本映画俳優協会の理事長、日本俳優連合の専務理事を務めました。
2012年1月7日午後4時58分、
肺炎のため、慶應義塾大学病院にて死去。
81歳没。
(二谷英明)
1969年毎週土曜日の夜、新宿駅西口"地下広場"は異様な熱気に包まれていた。「ベトナムに平和を! 市民連合」のフォーク集会だった。
そして、学生運動の過激化で新宿駅"西口広場"は、"西口通路"と改名され道交法適用でフォーク集会は禁止に😂
昭和の残像 伊東ピンク座
団体宴会客で賑わった昭和の頃
多くの団体客で賑わいました。
現在は廃墟になり、数年前に80歳のストリッパーがいたと聞いたことがあります。
踊り子募集、年齢問わずという張り紙がありましたが、
見つからなかったのかな
伊豆の踊子。
昭和30年(1955年)頃の大阪・通天閣建設予定地(新世界)の様子。
通天閣は、8月に着工〜翌年の昭和31年10月に再建。

金子信雄の楽しい夕食。塩少々。

駄菓子屋さんですね

中村メイコさん
50歳以下の人たちは殆どご存じないのではないかな?私は「宇宙人ピピ」の声優役と「グーチョキパー」と言うドラマ?に出演されていた微かな記憶があります。ご冥福をお祈りいたします
藤田進さん
(1912年1月8日-1990年3月23日)
俳優。
福岡県久留米市出身。
昭和期において、
黒澤明監督作品の主演を多数務めるなど、
日本映画界の大スターの一人でした。
戦時中は戦意高揚映画に、
戦後も戦争映画に多く出演。
(藤田進)
三橋美智也さん
(1930年11月10日-1996年1月8日)
北海道上磯郡上磯町峩朗(現在の北斗市)生まれ、函館市育ちの流行歌手。
愛称は「みっちゃん」「ミッチー」。
民謡で鍛えた伸びやかな高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、
昭和30年代の日本の歌謡界黄金期をリードし、
数多くのミリオンセラーを連発。
販売枚数は歌謡界史上最多の1億6千枚といわれている、
昭和歌謡界を代表する男性歌手の一人。
特に全盛期の昭和30年代前半は
「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇りました。
(三橋美智也)
小山内美江子さん
(1930年1月8日-)
脚本家。
代表作には、
TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』シリーズ、
NHKの朝の連続テレビ小説『マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』や
大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』など。
長男は俳優の利重剛。
(小山内美江子)
寺田千代乃さん
(1947年1月8日-)
実業家。
神戸市出身。
アート引越センターの創業者であり、
創業当初から社長を務め、
現在は名誉会長。
「引越サービス業」の生みの親あるいは育ての親と呼ばれることも。
社長として顧客負担の軽減をビジネスにつなげるアイディアで、
引越業界にさまざまなサービスを導入。
その例に、
荷造り・荷解きの代行、手続きをまとめて行える「ワンストップサービス」、
企業向け転勤支援システム「ARTist2」など。
電話番号をおぼえやすい「0123」にする、
PRキャラクターに「ドラえもん」を採用するなどにより認知を広げてきました。
また女性経済人として、
2002年 - 2004年は関西経済同友会代表幹事を務め、
2005年5月には、関西経済連合会副会長に就任。
平城遷都1300年記念事業協会顧問。
(寺田千代乃)
牟田悌三さん
(1928年10月3日-2009年1月8日)
俳優、社会福祉活動家。
世田谷ボランテイア協会理事長。
グループ・てえぶら代表取締役、
朝日スタジオ取締役。
劇団テアトル・エコーの創設メンバー。
東京都出身。
麻布高校、北海道大学農学部畜産学科卒業。
長男はフジテレビプロデューサーの牟田夏彦。
テレビ放送の黎明期から、主にホームドラマで活躍。
北海道大学農学部在学中にNHK札幌放送劇団に入団。
同期には
高垣葵・石山透(共々のちに脚本家)・声優の若山弦蔵。
恵迪寮OB。
大学卒業後は東京に戻り、
テアトル・エコーに参加。
1970年代の「ケンちゃんシリーズ」での父親役が当たり役となり、
温厚な人柄が全国の視聴者の人気を集めました。
一方、『俺はご先祖さま』の草壁周助役を演じ、話題に。
70年代から80年代にかけての刑事ドラマでは
鬼気迫る犯人役を演じることも少なくなかったです。
以降は
TBSラジオの番組『牟田悌三・あなたのための税金相談』のパーソナリティを務めたり
世田谷区のボランティア協会で活動を行い、
子ども向け電話相談のチャイルドラインの普及に尽力。
2000年度の吉川英治文化賞受賞。
プライベートでも子だくさんのよき父親として知られ、家族でテレビに出演したことも。
2009年1月8日、
世田谷区深沢の自邸で入浴中に倒れて病院に緊急搬送され応急措置がとられましたが
午後11時33分、虚血性心不全で死去。
80歳没。
(牟田悌三)
宇野重吉さん
(1914年9月27日-1988年1月9日)
俳優、演出家、映画監督。
宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、
滝沢修らと劇団民藝を創設。
飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、
『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。
演出家としても多くの作品を残しており、
リアリズムを基調とした近代的な芸を追求。
映画・テレビでも活躍し、
主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。
映画監督として4本の作品も発表。
芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来。
長男は俳優・ミュージシャンの寺尾聰。
(宇野重吉)
芦田伸介さん
(1917年3月14日-1999年1月9日)
俳優。
満洲で演劇活動に加わり、
敗戦の引き揚げ後に劇団民藝に入団。
1950年代からは日活のアクション映画に常連出演し、
舞台を中心に映画・テレビドラマと幅広く活躍。
渋い演技に定評があり、
ドラマ『七人の刑事』『氷点』の演技で人気を獲得。
著書に自伝『ほろにがき日々』など。
妻は元タカラジェンヌの香久美ひかる。
娘婿は俳優の松山英太郎、
孫は女優の由夏と俳優の芦田昌太郎。
(芦田伸介)

岩城滉一さんと言ったら暴走族映画を思い浮かべる人も多いかもしれません。

龍虎勢朋さん
(1941年1月9日-2014年8月29日)
元大相撲力士、引退後はタレント・コメンテーター・俳優。
身長186cm。
東京都大田区出身。
東京都立大森高等学校中退。
花籠部屋所属。
最高位は東小結。
現役時代は身長186cm、体重132kg。
妻は鈴木貴子(観世流太鼓十六世宗家・観世元信の長女)。
1992年4月結婚。
1992年11月長女、1994年8月、長男誕生。
(龍虎勢朋)
昭和40年代の東京・国鉄上野駅地下食堂街
いつもじめじめし、独特の匂いが漂っていました。
金閣寺炎上
昭和25年7月2日午前3時
犯人は21歳の修行僧
映画化もされたんではなかったかな。三島由紀夫氏の小説、金閣寺は有名。
円谷幸吉さん
(1940年5月13日-1968年1月9日)
身長163cm。
陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官。
福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。
中央大学経済学部卒業。
自衛隊体育学校所属。
最終階級は2等陸尉。
第一級防衛功労章、勲六等瑞宝章受章。
5000m・10000m・20000mで日本記録を樹立し、
1964年東京オリンピックのマラソンで3位入賞、
10000m走で6位入賞を果たしました。
しかし、
オリンピックから約3年後の1968年1月に自殺を遂げ、
当時の日本の社会に大きな影響を与えました。
(円谷幸吉)

東洋の魔女

水島新司さん
(1939年4月10日-2022年1月10日)
漫画家。
野球漫画の第一人者。
代表作に『野球狂の詩』『ドカベン』『あぶさん』など。
新潟県新潟市出身。
趣味は野球、将棋。
元タレント・俳優の水島新太郎は長男。
(水島新司)
田口計さん
(1933年1月10日-) 
俳優、声優。
身長165cm。
長野県出身。
東京大学卒業。
次男は俳優の岩田和樹、甥は作家の吉岡忍。
高校生時に替え玉試験で停学となった際、
ラジオで文学座の田村秋子による「姫岩」の舞台中継を聞いたことで、
役者の仕事に興味を持ちます。
長野県野沢北高等学校を卒業後、
東京大学文学部英文学科を卒業。
大学在学中の1955年、
山本薩夫監督の映画『愛すればこそ』で銀幕デビューし、
以後も多数の映画に出演。
1958年頃からはテレビ関係の仕事も増え、
多くのドラマに出演。
その一方、
TBSの須子というプロデューサーに「口説かれた」ことを機に、
吹き替えで声優としても活動するように。
1962年に劇団新劇場を立ち上げ、
その後は役者としての他に演出や翻訳、舞台でも活動。
(田口計)
淡路恵子さん
(1933年7月17日-2014年1月11日)
女優。
東京・品川に生誕。
父は大日本帝国海軍の軍人でしたが、
胸を患って海軍省を辞め自宅療養。
母は助産婦。
集団疎開先の富山県から一時荏原に戻った時、
激しい空襲に遭い、
そのため茨城県の母の親戚の所へ疎開。
府立第八高等女学校(現・東京都立八潮高等学校)を受験、合格。
13歳の時、終戦の翌夏父親が他界。
SKD(松竹歌劇団)に合格、
卒業まであと数か月でしたが第八高女を退学。 
1948年に松竹歌劇団の養成学校である松竹音楽舞踊学校に4期生として入学。
1949年(昭和24年)、
入団前の学校生時に黒澤明監督より抜擢され、
『野良犬』で舞台より早くスクリーンデビュー。
1950年(昭和25年)、松竹歌劇団に入団。
草笛光子、深草笙子と組んで「スリーパールズ」と呼ばれ、歌に踊りに大活躍。
1952年(昭和27年)、準幹部に昇進。
1953年(昭和28年)からは多くの松竹映画に出演。
主演したメロドラマ『この世の花』は
続編、続々編と大ヒットしたため完結編まで全10部作に。
1954年(昭和29年)にはマーク・ロブソン監督に見出され、
パラマウント映画『トコリの橋』でミッキー・ルーニーと共演。
1957年(昭和32年)に出演した
『太夫さんより・女体は哀しく』と『下町』の演技でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞。
1960年代(昭和35年)には『駅前シリーズ』や『社長シリーズ』にレギュラー出演。
テレビドラマでは、
1961年(昭和36年)に『若い季節』に女社長役で主演。
1963年(昭和38年)には
越路吹雪、岸田今日子、横山道代との四姉妹役で出演した『男嫌い』が数々の流行語を生み出す話題作に。
1987年(昭和62年)『男はつらいよ 知床慕情』で結婚引退後から20年ぶりに女優復帰。
2011年(平成23年)7月に、
波瀾万丈の芸能人生60年を振り返った『凛として、ひとり〜弱かった自分が強くなれた瞬間』(実業之日本社)を出版。
2014年(平成26年)1月11日17時24分、
食道がんのため東京都港区の病院で死去。
80歳没。
(淡路恵子)
岡田茉莉子さん
(1933年1月11日-)
女優・映画プロデューサー。
父は戦前の無声映画で活躍した二枚目俳優・岡田時彦。
母は宝塚歌劇団卒業生で男役を務めた田鶴園子。
夫は映画監督の吉田喜重。
東京市渋谷区代々木に生まれ。
生後間もなく京都に移住。
翌1934年、父が結核で死去し、
以後母は女手一つで育てられることに。
1940年に大阪市宗右衛門町の母の実家(藍問屋であった)に転居。
1942年、祖父が死去し、母のいる上海へ。
1944年、
単身帰国して品川区旗の台の御幸の嫁ぎ先に身を寄せ、旗台小学校に通い、
小学校6年生の時に静岡市に集団疎開。
1945年、
香蘭高等女学校に入学(受験のため叔母宅に戻った3月10日夜に東京大空襲に遭遇)。
叔父の新潟転勤に従い、新潟市西堀前に転居。
新潟市立高等女学校(学制改革後は新潟市立沼垂高等学校。現在の新潟市立万代高等学校)に転校。
新潟市も空襲にさらされ、
命令に従い近所の人々と近郊の赤塚村に疎開。
移転の2日後、8月15日の玉音放送を聞きました。
高校時代には演劇部に参加。
高校卒業後、上京して叔母夫婦宅に同居。
1951年、
叔父のすすめもあり、
東宝ニューフェイスの第3期として、
小泉博らと共に東宝演技研究所に入所。
入所して20日後、
成瀬巳喜男の監督映画『舞姫』の準主役に抜擢されて銀幕デビュー。
父親譲りのコケティッシュな美貌と艶のある演技力で瞬く間に頭角を現し、
東宝映画の主演スターに。
1957年3月にフリーとなり、
同年9月に松竹と専属契約。
女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し、
先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板として大活躍。
1960年には父の盟友であった小津安二郎の監督映画『秋日和』に出演。
以降1960年代は、
小津や木下恵介など当時の日本を代表する名監督たちの作品に複数出演。
1962年、
「岡田茉莉子・映画出演100本記念作品」として
自らプロデュースした主演映画『秋津温泉』がヒットし、多くの映画賞も獲得。
1963年11月6日、吉田喜重との婚約を発表。
1964年(昭和39年)6月21日、
旧西ドイツのバイエルン州で吉田喜重と海外挙式。
仲人役は映画監督の木下惠介と女優の田中絹代。
1965年、
松竹とは2本の本数契約とし、事実上のフリーに。
1966年、
吉田と独立プロ「現代映画社」を創立し、
映画『女のみづうみ』を発表。
同年10月、
東宝演芸部と年間4本の専属契約を結んで以後は、商業演劇を中心に活躍。
また、
吉田監督作品では、
『秋津温泉』などを含めた11作品でヒロインを務めました。
映画が斜陽になった1970年代以降も映画出演を続け、
また1973年の映画『戒厳令』では
女優としてではなくプロデューサーとして、吉田作品を支えています。
40代に入ってからも
『人間の証明』(1977年)、
『制覇』(1982年)、
『序の舞』(1984年)、
『マルサの女』(1987年)、
『鏡の女たち』(2003年)などで主演や重要な役どころを演じました。
テレビでは、
2時間ドラマ『温泉若おかみの殺人推理』シリーズ(土曜ワイド劇場・テレビ朝日系列)に1996年から2019年までの23年間に渡り、
大女将役を演じました。
2009年、自伝『女優 岡田茉莉子』を上梓。
(岡田茉莉子)
松山英太郎さん
(1942年7月9日-1991年1月11日)
俳優。
東京都武蔵野市吉祥寺出身。
1947年、5歳で前進座の『弁天小僧』で初舞台。
中学校を卒業するまでに『ひろしま』など数本の映画に出演。
1960年、大成高等学校を中退し、
俳優座養成所に12期生で(同期には中村敦夫、成田三樹夫、樫山文枝など)入所。
1963年に卒業。
1964年、『七人の孫』に出演して一躍人気者に。
『時間ですよ』『肝っ玉かあさん』など、
ホームドラマには欠かせぬ顔として大活躍。
ひょうひょうとした外見ながらも下品さやくどさがなく、
上品ささえ感じられた役作り(時代劇・現代劇共通で)ができる俳優でした。
また、
1960年代後半の若者向け朝のテレビ番組『ヤング720』(TBS)では初代司会者として、
由美かおると組み、2年間担当したことが。
1977年にプロデューサーに転身を図るも、
翌年に俳優に復帰。
TBSの月曜20時からの時代劇枠『ナショナル劇場』では
『大岡越前』第2部で初出演して以来、
生前最後の放送となった1990年放送の同第11部まで、
『水戸黄門』以外のすべての作品にレギュラー出演。
この中には『江戸を斬る』の第7部まで、
および『翔んでる!平賀源内』も含まれます。
唯一出演がなかったのは『大岡越前』第5部。
なかでも、
『大岡越前』の猿の三次、
『江戸を斬る』(西郷輝彦主演の第2~6部)の鼠小僧・次郎吉、
第1部の『梓右近隠密帖』の葵小僧など、
主人公をサポートする密偵役には定評があり、
はまり役でした。
『江戸を斬る』第7部でのみ、
密偵役は鮎川いずみに譲り、同心役を演じていました。
『水戸黄門』にもたびたびゲスト出演しており、
同第18部では『大岡越前』で組んでいた森マリアとともに忍び役で出演。
森繁久彌主演の『おやじのヒゲ』シリーズにも出演しており、
森繁とは息の合ったところをみせました。
私生活では芦田伸介の一人娘・亜子との結婚・離婚を経験。
芸能関係者を中心に浮名が絶えなかったが、
死去するまで独身。
1990年9月の東京宝塚劇場の公演中に体調不良を訴え、
杏林大学医学部付属病院に入院し、
食道がんと診断され闘病生活を送ります。
入院中の10月に父・河原崎國太郎が亡くなり葬儀には列席できず、
入院闘病の告知と欠席のお詫びを伝える録音テープが葬儀場で公開。
翌1991年1月11日16時40分、死去。
48歳没。
(松山英太郎)
山岡荘八さん
(1907年1月11日-1978年9月30日)
小説家、作家。
歴史小説を中心に活躍。
従四位勲二等瑞宝章叙勲。
新潟県北魚沼郡小出町(現:魚沼市)の山内家に生誕。
1918年、
川で泳いでいて前額部を強打、
瀕死の重傷を負い後々までこぶとして残ります。
1920年、
高等小学校を中退して上京、
博文館印刷所で文選工として働きつつ逓信省の研究所に学び、
1924年より印刷・製本業を始め、
1932年、
萬里閣に入社し、雑誌『ギャング』を編集、『変態銀座デカメロン』を連載。
1933年、
後妻として迎えた妻の実家である加賀安宅(現、石川県小松市)の藤野家に入り、
以後、藤野姓を名乗ります。
妻は筆名山岡道枝。
長谷川伸に入門、山岡荘八の筆名を用いました。
1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。
長谷川伸の新鷹会に入会。
1939年初の著書『からゆき軍歌』を上梓。
1942年より従軍作家として各戦線で活動。
『海底戦記』その他で野間文芸奨励賞受賞。
戦後、公職追放、
1950年10月13日に解除。
同年より「北海道新聞」に『徳川家康』を連載、
のち「中部日本新聞」「神戸新聞」などに拡大。
1953年より単行本の刊行が始まり、ベストセラーに。
1958年中日文化賞。
1963年新鷹会理事。
1966年文壇長者番付一位。
1967年『徳川家康』が完結し、
長谷川伸賞受賞、昌平黌短期大学名誉学長。
1968年『徳川家康』により、
第2回吉川英治文学賞を受賞。
1973年紫綬褒章受章。
1978年9月30日、
ホジキンリンパ腫に急性肺炎を併発し、
東京都豊島区上池袋の癌研究会総合病院で死去。
71歳没。
(山岡荘八)
小林清志さん
(1933年1月11日-2022年7月30日)
声優、俳優、ナレーター。
身長168cm。
東京俳優生活協同組合の創立メンバーの一人であり、同組合に所属。
独特の渋い声を生かして、声優界の創生期から活躍。
アニメでの主な出演作は
『ルパン三世』シリーズの次元大介や『妖怪人間ベム』(1968年)のベムなど。
また、
CMやテレビ番組などのナレーションも多く担当し、
洋画ではジェームズ・コバーン、リー・マーヴィンらの吹き替えを務めていました。
(小林清志)
ちばてつやさん
(1939年1月11日-)
漫画家。
代表作に
『あしたのジョー』(原作:高森朝雄)、
『ハリスの旋風』、
『あした天気になあれ』、
『のたり松太郎』、
『みそっかす』など。
東京府(東京都の前身)出身。
現在は練馬区在住。
日本大学第一高等学校卒業。
2005年からは文星芸術大学教授を務め、
2019年4月1日より2022年3月31日まで文星芸術大学学長。
2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、
2018年6月から同協会会長。
『キャプテン』『プレイボール』などが代表作の漫画家ちばあきお、
ちばプロダクション社長千葉研作は実弟。
(ちばてつや)
河原崎長一郎さん
(1939年1月11日-2003年9月19日)
俳優。
特技は日本舞踊、乗馬。
東京府武蔵野町(現在の東京都武蔵野市)出身。
東京都立武蔵高等学校卒業、早稲田大学第一文学部中退。
四代目河原崎長十郎の長男。
妻は伊藤榮子。
弟は河原崎次郎、河原崎建三。
岩下志麻はいとこ(母親が姉妹関係)。
親族や友人、仕事仲間たちからは
「長さん」と呼ばれ親しまれていました。
幼少の頃より舞台に立ちますが、
反抗期だった高校時代に子役を務めた前進座の舞台が嫌になり、
早稲田大学に進学。
画家になるなどと言い始めたため、
厳しい長十郎も考えあぐね、
親友・内田吐夢と薄田研二が長一郎の身柄を預かる形で、
早稲田大学在学中の1961年に東映に籍を置くことになり東映と契約。
東映で5年間準主役を続け、
東映作品30数本に出演。
1963年の『五番町夕霧楼』で佐久間良子演じる主人公と心を通わせる若い僧役などが高評価を受けました。
1965年、
古巣の前進座に帰参し、研究生からスタート。
40代頃からは
「日本の良き優しい父親像」を多く演じ、ホームドラマに欠かせない存在に。
糖尿病の持病があり、
一時病状が小康を得た頃に『花の咲く家』にて昼ドラとしては例外的に主役を務めました(第3部)。
1990年代後半からは脳血管障害(脳梗塞)も患い、療養生活を送ることに。
2003年9月19日、急性心不全のため64歳で死去。
(河原崎長一郎)
「人生はすりこぎなんだよ」
1973年 左とん平
「とん平のヘイ・ユウ・ブルース」
曲自体は中学の頃から知っていた。
私が子供の頃、左とん平といえばドラマ「寺内貫太郎一家」「西遊記」「非情のライセンス」等でコメディリリーフぶりを発揮していた。(特に「寺内貫太郎一家」の最終回でスッポンポンになるシーンは最高 必見)
その後、様々なジャンルの音楽を聴き、それなりに耳が肥えてた高校時代、ブラックミュージック好きの友人が勧めてきた時、「ハイハイ、左とん平だからどうせコミックソングなんでしょ」とタカをくくっていた。正直舐めていた。
ところがいざ聴いてみたら「こ、これは...!」圧倒的なグルーヴ感と演奏力の高さに度肝を抜かれた。
「和製アイザック・ヘイズ」左とん平 「魂の叫び」を聴いてほしい。
https://youtu.be/j82FIWCKCf8?si=5pH_BkvTHeFFWnKF
岡晴夫さん
(1916年1月12日-1970年5月19日)
戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。
愛称は「オカッパル」「オカッパレ」。
千葉県木更津市に生誕。
幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられます。
16歳の時に上京し、
万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通い、
その一年後には上野松坂屋に勤務。
1934年(昭和9年)に、
上原げんととのちに妻となる奥田清子と出会い、
浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をします。
1938年(昭和13年)に
キングレコードのオーディションを受け、専属に。
翌1939年(昭和14年)2月には、
「国境の春」でデビュー。
すぐに「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし、一躍スターに。
1940年(昭和15年)には市川市に居を構え、
奥田清子と結婚。
3人の子供にも恵まれます。
太平洋戦争末期には、
軍属としてアンボン島(現・インドネシア領)に配属、
現地の風土病にかかり帰国を余儀なくされました。
太平洋戦争終結後、
彼のリーゼントスタイルの髪型と独特の明るいビブラートのかかった歌声は、
平和の到来や開放感に充ちた時代とマッチし、
「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」など相次いで大ヒット。
昭和20年代を代表するスター歌手として、
近江俊郎・田端義夫とともに「戦後三羽烏」と呼ばれました。
また、
ポマードの販売を行うなど副業でも話題を集めました。
しかし、
人気に伴う多忙さから体調を崩しがちになり、
当時芸能界で蔓延していたヒロポンにも手を出すようになり、人気に陰りがみえ始めます。
1954年(昭和29年)には、
デビュー以来専属だったキングレコードを辞めて
フリー宣言(日本マーキュリーと本数契約を結んでいる)するもヒット曲にめぐまれず、人気は低迷。
それでも妻や旧友・上原げんとの支えを受けて、
1955年(昭和30年)にはコロムビアの専属となり、
上原の作曲による「逢いたかったぜ」で再出発。
間もなく過労のため再び病床に伏し、
糖尿病から白内障を併発。
1962年(昭和37年)に再度キングレコードの専属となるも、
1965年(昭和40年)には上原げんとの急逝という不幸に見舞われます。
それでも舞台に立ちたい執念で、
1968年(昭和43年)に放送を開始した歌番組『なつかしの歌声』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))へ頻繁に出演し、
往年のヒット曲を披露。
長年の闘病生活で、
身体は痩せ往時の美声も失われるなど悲壮な姿でしたが、
ファンの声援を受け、
彼もそれを支えに最晩年まで歌い続けました。
最後のステージは文京公会堂で収録され、
昭和45年3月30日に放送。
そのステージでは上海の花売娘を歌いました。
1970年(昭和45年)4月、
大阪府守口市での『帰ってきた歌謡曲』(読売テレビ)公開収録へ出演する直前に腹痛を訴え、
急遽飛行機で東京に帰りました。
空港には救急車が手配され、
その後、飯田橋の警察病院に入院。
同年5月19日に
肝臓がんのため東京都千代田区の病院で死去。
満54歳没。
(岡晴夫)