Apex product 【 昭和の楽しい時代 67 】

 

 

【フライングボディアタック】

昭和46年、私が11才の頃、
【俺は男だ】その通り!
ほんとに爽やかな青春ドラマがありました😊
剣道部に入る人も多くなり、
森田健作はカッコ良かった👍
.

「オヤジ涅槃で待つ」

ロバート・ミッチャムさん
高倉健さん
こんにちは〜ギャグメッセンジャーズです。
私がギャグです。
私がメッセンジャーです。
おい、すると俺はズか?
そう、あんたはカタカナのズ
スに点々で すってんてん!

勝新太郎さん。若い!

45年前の本日1979年(昭和54年)2月9日、テレビ朝日系列にて「花の子ルンルン」放映開始。「魔法使いサリー」に始まる東映魔女っ子シリーズの一つとされる。
前番組の「キャンディ・キャンディ」同様外国が舞台となる。きちんとロケハンをしたか忠実にヨーロッパの街並みが描かれており、画のクオリティは登場人物を含め相当高い。
南フランスに住む、花の精の末裔の少女ルンルンが12歳の誕生日に「七色の花探し」に選ばれる。フラーワーヌ星から来た喋る犬ヌーボーと猫のキャトーと共に七色の花探しの旅へ。
ヨーロッパの様々な国や街を巡る旅をする3人(?)。ほとんどが実在の国・街でリアルに描かれる。訪れた街の人とふれあい、ルンルンのおせっかいな程の面倒見の良さで問題を解決し、そして街を去っていくのが毎回のストーリー。正に「ええ話や」と。
影に日向にルンルン一行を支えるイケメンカメラマンのセルジュが、毎回最後にルンルンと触れあった人々に「思い出にこの花を育ててください」と花の種を渡す。そこでナレーションの白石冬美(本作ではキャトーも)がその花の「花言葉」を紹介。実は私このアニメで初めて「花言葉」なるもの知りました(^^;
「ドラえもん」の後の時間でただ何となくテレビつけっぱなしにして見てただけのアニメでしたが、見てる内にルンルンの可憐さ、ストーリー、画のクオリティーの高さにはまり毎週欠かさず見るように。
一応魔女っ子アイテムとしてドレスアップできる「花の鍵」はあるのだがそれまでのシリーズのような必殺アイテムではなかったかと。
主題歌の作曲に小林亜星が。エンディングは自ら唄う。
数年後に流行語となる「ルンルン気分」の語源になったも言われる(諸説あり)。
堀江美都子の唄うOP。いい歌です。
https://youtu.be/AfnJMBLAupc?si=SxiKmMlwO4mrRmHM
土屋嘉男さん
(1927年5月18日-2017年2月8日) 
俳優。
身長173cm。
山梨県出身。
旧制山梨県立医学専門学校卒業。
山梨県甲府盆地の北東で、
大菩薩峠の登山口の七里村出身。
戦国時代、
甲斐・武田家に仕えた譜代家老・土屋昌続(昌次)の子孫といわれます。
父親の土屋操は郷土史家で、
坪内逍遥の教え子であったため、
毎晩シェイクスピアの作品を聞き育ちました。
上野にあった音楽学校のバイオリン科を志望していましたが、
1945年当時、
学校は生徒を募集しなかったため断念。
親が希望した医学校に進学。
医学生時代に、
半田市の中島飛行機工場で昭和東南海地震に被災。
1950年、俳優座養成所に2期生として入り、
1952年の『殺人容疑者』で映画デビュー。
翌年、
初舞台となった『しいたけと雄弁』で伊藤定助賞を受賞。
その後、
映画『七人の侍』で利吉役に起用。
1953年には俳優座の劇団員に昇格するものの、
この『七人の侍』が契機となって1954年に退座し、
東宝と専属契約を結んで映画界に転身。
それ以降も黒澤と公私共に交流を深め、
『赤ひげ』までの黒澤作品のほとんどに出演。
しかし、
黒澤が土屋に映画『乱』の出演オファーを出した際には、
舞台の仕事を優先して断りました。
東宝特撮映画にも欠かせない存在で、
東宝の俳優陣では唯一、
黒澤組と本多組(円谷組)を多く行き来していた俳優。
初めての特撮への出演は1954年の『透明人間』で、
ゴジラシリーズは1955年の『ゴジラの逆襲』。
一癖も二癖もある人物を演じるのが好みで、
東宝時代はスマートな役柄が来ると会社に直訴して断っていたほど。
1957年の『地球防衛軍』では、
日本人俳優として初めて宇宙人を演じました。
他に特撮作品では
『怪獣大戦争』のX星人統制官、
『ガス人間第一号』のガス人間・水野役で知られます。
『ゴジラvsキングギドラ』では、
シリーズ初のゴジラと心を通わせる役を演じています。
東宝退社後は主にテレビドラマで活躍。
また、
かつては黒柳徹子のトーク番組『徹子の部屋』の常連ゲストでもありました。
上岡龍太郎とも親交が深く、
彼がよく珍エピソードを紹介していました。
2017年2月8日に肺癌で死去。
森山周一郎さん
(1934年7月26日-2021年2月8日)
俳優、声優、ナレーター。
身長173cm。
愛知県出身。
愛知県立犬山高等学校卒業、
日本大学藝術学部映画学科中退。
俳優として舞台やテレビドラマなどに出演する一方、
渋みのある低い声質から声優としても活躍。

昭和30年ころ小学校騎馬戦、砂ぼこりの中、怪我もせず、騎馬戦で戦いました。今では、危険ということで、騎馬戦種目は、なくなりましたが、小学校の高学年なると運動会の種目では、運動会を盛り上げる人気の種目で、白組、紅組で戦いました。懐かしく思います。

伊福部昭さん
(1914年5月31日-2006年2月8日)
作曲家。 
ほぼ独学で作曲家となり、
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、
『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、
音楽教育者としても知られます。
位階は従四位。
北海道出身。
札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)、
北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科学校(森林科学科)卒業。
昭和42年頃の東京・上野広小路付近
都電であふれていました。

昭和30年代、松山市の道後動物園にはお猿さんが運転する機関車がありました。

「やすきよ」(昭和58年頃、大阪・うめだ花月)
この二人の漫才はテンポがあってとても面白かった。
1970年代の珠算教室(東京都荒川区町屋)
私が小学生の頃(昭和30年代)はまだ学習塾が余りなかった時代、珠算か書道を習っている同級生が多かった。
その時代の親は、子供の学力を上げることよりも「手に技術をつける」というのが教育方針でした。
懐かしのTVドラマ
宇宙家族ロビンソン
【大久保 清事件】
昭和46年(1971年)の3月から5月までの2か月足らずの間、自家用車から声をかけて誘った女性8人を相次いで殺害、昭和48年(1973年)に死刑判決、昭和51年(1976)に死刑執行。

昭和30年ころの電話交換機です。この当時は、交換機は郵便局に設置されていて、郵便局の管轄範囲の電話交換は、手動の機械でかかってきた電話を回線につないで相手側につなげるとゆうことをしてました。電話機は黒電話で料金も高かったです。ですから家庭に電話を入れている家は、少なかったです。ですから電話をしたい時は電話を借りてかけていたものです。かかってきた電話は、呼び出してもらい電話をしていたことを思い出します。

1964年4月。東京大学の工学部応用物理学科を卒業した野口悠紀雄は大蔵省(現財務省)に入省した。この年、一緒に入省したのは全部で20人。同期には野田毅(元自治相)、田波耕治(元大蔵次官)、秋山昌広(元防衛次官)、涌井洋治(元大蔵省主計局長)などがいた。20人が大臣室で一列に並ばされ10分ほどたった頃、勢いよくドアをあけ入ってきたのが角栄だった。
角栄は当時45歳。政治家の頂点を目指し、全力で階段を駆け上がっていく、まるでエネルギーの塊のようで、熱に満ち満ちていた。初対面の風圧は凄まじかった。しかし本当に「度肝を抜かれた」のはその後だった・・
「やあ、秋山くん、ようこそ大蔵省へ。頑張ってくれたまえ」。角栄は入省してきた20人の名前を端から一人ずつ口にしながら順番に握手をし始めたのだった。
「秋山くん」ってなんだ? なんで僕らの名前を知っているんだろう? ありえない・・。全員が角栄とは今日、初めて会った。こちらは角栄を知っているが、ついこの間まで学生だった人間の名前を角栄が知っているはずはない。
おかしい・・。あっけにとられている野口を尻目に角栄はどんどん名前を呼んでいく。しかも間違えることなく正確に。そしてとうとう最後まで一人残らず20人全員の名前を角栄はそらんじてみせたのだった。
「あいうえお」順に並んでいるのはあらかじめ分かってはいただろう。それでもメモも見ず秘書官が後ろで耳打ちすることもなく一人ずつ名前を言い終えたのだ。少々のことでは動じない野口もこれにはさすがに驚いた。
「諸君の上司にはバカがいるかもしれない。もしバカがいたら、バカなんだから諸君のアイデアを理解できないだろう」。そして、こう続けた。「そんな時は迷わなくていい。遠慮なく大臣室に駆け込んでこい」
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。できることはやる。できないことはやらない。しかし、全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上」
※ 添付は笑顔だが交渉は凄まじい怒鳴りあいだったという。その交渉で、あの不倒翁「周恩来」が首を縦に振ったのだった。
1972年2月2日、
この日、
グアム島に隠れ続けていた元日本兵・横井庄一旧陸軍軍曹が帰国。
軍事教育を受け育った横井は、
「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあり、
このため帰国の際、
羽田空港で空港に出迎えに来た斎藤邦吉厚生大臣に、
「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰って参りました」、
「グアム島敗戦の状況をつぶさにみなさんに知ってもらいたくて恥ずかしいけれども帰って参りました」と伝えました。
またその後の記者会見では
「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と発言。
これらの言葉をとらえて
「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語に。
また、当時、
高度経済成長や東京オリンピック、大阪万博に沸いていた日本国民は、
横井の帰国によって
「まだ戦争は終わっていなかった」
という現実を突きつけられました。
昭和44年頃の年末のデパートの1日の売上げ計算風景(東京都内)
一万円の札束の山。
イザナギ景気で当時として史上最高のボーナスが出たそうです。
現金払いが主流だった時代、もうこんな時代は来ないでしょう。
懐かしのテレビ放送✨
NHKブーフーウー❤️

ららぽーと豊洲が完成する、数十年も前の画像です。今は、素晴らしい街並みに変貌を遂げました。

NHK人形劇 新八犬伝
人形作家の辻村寿三郎さんはこの作品で300体もの人形を制作、一躍人気作家になりました。
東北のハワイ
昭和40年常磐ハワイアンセンターが開業。
日本に居てハワイが楽しめるとして人気がでた。
豚の丸焼きなども有ったがグロテスク故に不評をかいほどなくして中止。
平成2年スパリゾートハワイアンズに名称変更。
荒木しげるさん
(1949年2月9日-2012年4月14日)
俳優、ドラマー。
身長174cm。
フォークグループ「フォー・セインツ」のメンバー。
鹿児島県出水市出身。
日本学園高等学校、玉川大学卒業。
妻は元女優の樋口のり子、
前妻との間の娘は女優の三枝りな。
高校時代に渋谷でスカウトされ、
男性ファッション誌などでモデルを務め、
玉川大学在学中の1968年に
カレッジフォークグループフォー・セインツのドラムスとしてデビュー。
「小さな日記」「希望」「冬物語」などのヒット曲を生み出します。
1973年の解散後は、CMモデルを経て俳優に転向。1975年、
『仮面ライダーストロンガー』に「城茂」役で主演。
その後、
1976年の『超神ビビューン』でふたたびヒーロー役を演じ、
『特捜最前線』『暴れん坊将軍』では長期にわたってレギュラーで活躍。
2000年にはシングル「失恋日記 / 雨情話」をリリースし、音楽活動を再開。
2008年にはフォー・セインツの再結成に参加。
新曲「この街で」をリリースし、各地でライブを開催。
2012年4月2日、
娘の大学の入学式当日に東京都内の病院に入院。
その12日後の2012年4月14日
アスペルギルス症併発の肺炎のため、東京都内の病院で死去。
同17、18日に目黒区内にて葬儀が行われました。
63歳没。

サザンがUFOのCMやってたの覚えてなかったわ😅

昭和の運動会のお昼はかんぴょう稲荷と桜おぼろの入った海苔巻でした。

カルセール真紀さんの若い頃

円谷一さん
(1931年4月23日-1973年2月9日)
演出家、プロデューサー。
円谷プロダクションの2代目社長。
作詞家として、東京一の名義が。
父は初代社長で特技監督の円谷英二。
学習院大学卒。
19歳の時にキリスト教の洗礼を受けました(洗礼名パウロ)。
KRT入社前年に、
父・英二が特撮を手掛けた映画『ゴジラ』に参加。
1955年に
ラジオ東京→KRT(テレビ事業は現在のTBSテレビ)に入社。
演出部にてディレクターとしてテレビドラマを制作。
『おトラさん』や「純愛シリーズ」といった作品にも演出として携わっていました。
中でも、
1962年に「東芝日曜劇場」で放送された『煙の王様』(脚本:生田直親)は、
芸術祭文部大臣賞を受賞するなど高い評価を得、
特に子供の描写が得意とされました。
1963年、
TBSがテレビ映画の自社製作を行なうために映画部門を新設すると、
飯島敏宏、中川晴之助らとともに映画部門に移籍。
翌1964年には
円谷プロダクション取締役に就任。
同年、
TBS初の特撮テレビ映画『ウルトラQ』の制作にあたり、
『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といった特撮番組の監督を務め、
奇抜な演出方法が周囲に理解されず
TBSで干されていた実相寺昭雄を拾うなど、
シリーズの隆盛に力を尽くしました。
1969年、父・英二の体調悪化によりTBSを退社し(最終肩書はテレビ本部編成局映画部副部長兼プロデューサー・副参事)、
円谷プロダクションに入社。
1970年、
英二の病死により円谷プロダクションの2代目社長に就任。
財政難から、
危機的な経営状況にあった同社の経営建て直しに奔走。
社長と監督は兼任できないと宣言して、
以降はプロデューサーとして作品に携わるように。
同年低予算で、『ウルトラファイト』の制作を開始。
この番組の人気により、
本格的な特撮番組を求める声が高まると、
1971年に『帰ってきたウルトラマン』と『ミラーマン』(フジテレビ)をプロデューサーとして制作し、
第二次怪獣ブームの火付け役に。
以降、
『ウルトラマンA』などの番組の制作にも携わるも、
社長就任以降、
営業や接待に奔走した結果、
持病だった糖尿病、および高血圧が悪化。
妻と離婚し、
赤坂のクラブのママと再婚するなど、生活も乱れました。
1973年2月9日、
起床直後に脳溢血を発症して突然倒れ、
病院に搬送されましたが間もなく死去。
享年41。
あの頃キ~ミは~若かった~♪
て、まだ最近でしょ?一部を除いては😅
2月9日は『#トイレット博士』作者 #とりいかずよし 先生のご命日です。ご存命なら今年78歳。
連載当初登場の馴染みにくい不浄キャラ話から、スナミ先生をリーダーとする「メタクソ団」ストーリーにシフトして大ヒットしました。合掌。

昭和28年のキャバレー、(チークダンスです。)この中に俺のオヤジ居るかも(笑)

2月9日は元 #ザドリフターズ #荒井注 さんのご命日です。ご存命なら今年96歳でした。
ぶっきらぼうな表情で放つ「なんだバカヤロー!」「ディス・イズ・ア・ペン!」のギャグが忘れられません♪
指揮者の小澤征爾さん死去、享年88歳 
戦後日本のクラシック界を牽引
2024/2/9 
世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引した指揮者の小澤征爾 氏が6日に、心不全で死去。享年88歳。
葬儀は近親者で営んだ。
後日、「お別れの会」を検討している。
1970年3月16日に開幕した日本万国博覧会(通称:大阪万博)。183日間の期間中最大の珍事件は「目玉男」による「アイジャック」。
 4月26日夕方、「赤軍」と書いた赤ヘルをかぶった若い男が太陽の塔に登り、「万博を潰せ!」などとアジ演説を始めた。
手塚治虫さん
(1928年11月3日-1989年2月9日)
漫画家、アニメ監督、医師。
身長170cm。
勲等は勲三等。
学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、
漫画表現の開拓者的存在として活躍。
兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。
出生は大阪府豊能郡豊中町。
大阪帝国大学附属医学専門部卒業。
大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に
4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。
1947年、
酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、
大阪に赤本ブームを引き起こします。
1950年より漫画雑誌に登場、
『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』
といったヒット作を次々と手がけました。
1963年、
自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、
現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしました。
1970年代には
『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。
また晩年にも
『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など
青年漫画においても傑作を生み出します。
デビューから1989年(平成元年2月)に死去するまで第一線で作品を発表し続け、
存命中から「マンガの神様」と評されました。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都
などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、
接触し漫画家を志しました。

1981年4月~1982年3月までTBS系で放送された2年B組・仙八先生のワンシーンです。主演のさとう宗幸さん、マドンナ先生?の宮崎美子さんが写っています😘このドラマは3年B組金八先生の姉妹ドラマとされてますが、放映は1年間でした。続編を期待された方もいたのではないでしょうかね😂

明け放した空へぇ~🎵

昭和29年(1954年)
時の話題 ようこそ御両人
2/1は昭和29年に「マリリン・モンロー夫妻が初来日した日」。映像は当時の様子。宿舎にまで信じられない数の人々が詰めかけ、ホテル前はちょっとしたライブ会場のようになっちゃってます。
女優マリリン・モンローとアメリカ大リーグ野球の元大スター選手ジョー・ディマジオは昭和29年(1954年)1月14日に結婚。翌2月1日に新婚旅行で初来日した。滞在期間中は2人を一目見ようと行く先々に多くの人々が集まり、宿舎にまで1000人以上が詰めかけた。しかし2人はこの旅のわずか8か月後に離婚した。

目方でドンとかも人気があった。

1980年代に
我が家にホームビデオを購入!
当時二十代
兄とふたりで月賦払いで
勇気を縛り、当時20万超える
ベータ版ビデオデッキを大晦日
をゲット!
録画用ビデオ📼又ソフトビデオを
含め、めちゃくちゃ高かったでした。
昭和残侠伝 人斬り唐獅子(1969)
監督:山下耕作
出演:高倉健、池部良、小山明子、長谷川明男、砂塚秀夫、内田朝雄、沼田曜一、須賀不二男、小林稔侍、大木実、葉山良二、片岡千恵蔵ほか
年と共に好みが変わってきます。
致し方のない事なのでしょうか?
ぼくが幼稚園の頃から見てる「昭和残侠伝」。
なにも分からない頃から「唐獅子牡丹」聴いて育ってまいりました。
少しは分かるようになった10代から20代、30代までは「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」だったり「昭和残侠伝 死んで貰います」あたりが好きでした。
ところがぼく自身が枯れてきた現在、好きなのはこの映画です。
山下耕作が唯一手がけた「昭和残侠伝」です。
この監督さんは登場人物一人一人手抜かりなくかなり深く描いています。
なので見終わった後の感動も深い!
それに今作の成功は小山明子を起用したところ。
藤純子にはない「人妻」感が匂うほどに感じられます。
健さんと池部良の「兄弟」の絆の深さも
「生まれてきた時は別でも、死ぬときは一緒だ」
なんて、言いたいし言われてみたい名セリフです!
やっぱり名画には名セリフですね!
そして良い音楽。
全てが揃ってます。
健さんの映画の中でも最も好きな映画です(また変わるかもW)。
みなさんにおススメでございやすm(__)m

1980年代の早い時期だと思いますが、週刊明星があったんですね!それもアイドル雑誌と言うより、普通の週刊誌っぽい感じですね😂

水平線の彼方には  あぁぁ~
          虹の橋があるのだろぉ~🎵

我らのHEROは宇宙でも軽装❤️🌈

けんさん。

1860年、江戸期の日本の遊女、彼女は着物を着て、花を持って、髪を巻いて、とても清純な顔をして、十代の姿だった! 遊女はつまり青楼遊女ですが、高級遊女で、ほとんどが琴棋書画に精通しています! 😄😍😄

— ハッピー。

既出かもしれませんが
同伴喫茶❗️
もっと暗かった記憶が有ります。
荒井注さん
(1928年7月30日-2000年2月9日)
コメディアン、俳優。
身長158cm。
ザ・ドリフターズ元メンバー。
東京都出身。
旧制日本学園中学校を経て、
立教大学文学部宗教学科を中退後、
二松學舍大学文学部国文学科卒業。
代表的なギャグは、
「何だバカヤロウ!」「文句あるか!」、「何見てんだよ!」

2月9日は「#漫画の日」です♪ (⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)

この新人賞の集合写真、70年代後半頃だと思いますが、前の3人は分かったのですが、後ろの二人はなかなか分からなかったです。それにしても年齢が若いのもあるでしょうが、アグネス・チャンさん、桜田淳子さんは、まだあどけない感じですね😁

しば漬け食べたい🍚

ハナ肇さん
(1930年2月9日-1993年9月10日)
ドラマー、コメディアン、俳優。
コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーであり、
同バンドのドラマー。
東京府北豊島郡(現在の東京都豊島区)長崎町生まれ。
工学院土木科(後の工学院大学専門学校)を中退。
1990年10月13日、
特選校友として学長より証書を授与され卒業を認められました。
妻は、
結婚当時日活のスター女優だった島村葉子。
かつて阪神タイガース、埼玉西武ライオンズに在籍した元プロ野球選手の桟原将司は又甥。

お年玉も100円札でしたね

田河水泡さん
(1899年2月10日-1989年12月12日)
漫画家、落語作家。
昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、
代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、
戦後もさまざまなキャラクターグッズが作られるなど、
社会現象となるほどの人気を獲得。

クセ強店舗

仙台市に1976年3月末に引っ越し、4月1日から廃止に成り、乗り損ねました、現在は🚇地下鉄🚇南北線・東西線に成っています。

今日は、きのうの4日立春のあとは、本日5日、2/5 で、日付の語呂合わせで笑顔の日ゆぅことで、ロンパールームやニコちゃんグッズをいくつか😁

昭和のアイドルは健康的

鬼瓦ごんぞう。アルプス工業。

姿三四郎は昭和映画の定番ヒーロー
中央上 初代三四郎の藤田進
中央下 加山雄三
左上から 
波島進 波島進 和崎俊也
右上から 
菅原謙二 本郷功次郎 竹脇無我

カッコイイな〜 憧れました

おっパイン娘
現代ならコンプライアンス違反かな😆
黒澤明監督が亡くなった時は一面トップだった。
黒澤監督の偉業が解ります。
小澤征爾でも一面左側なのだ。

20240210,懐かしいドラマシリーズ、ありがとう、1970年4月~10月放送、水前寺清子、石坂浩二、山岡文乃等出演、昭和のホームドラマの決定版

東京銀座を闊歩する
戦前のモダンガール
ゴーゴー喫茶で
『Go!Go!!』

昔はみんなで遊びました(昭和33年、34年ごろ)。

子供の頃は、道路でよく遊びました。
ろう石で絵を描いたり、ビー玉やメンコなど。

駄菓子屋でよく買った思い出・・・

タコ社長。昭和にはこういう職人からたたき上げの社長さんというのがよくいました。自分の技術には誠実だけれど、資金繰りとか経理とかはからっきし苦手で、よく会社をつぶしてましたね。

【昭和のウクレレ漫談】
あ〜ぁ〜やんなっちゃった🎶
あ〜ぁあぁあぁ驚いた。🎵
今でも元気で
 いて欲しかったです。
アイちゃんが行く!
とても好きでした。。