Apex product 【懐かしい昭和の時代 ㉓ 】

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昭和時代【何もなかったが、今思い出すと、とっても楽しかった あの頃!!】

『安田南』 1943 11/14生まれ
JAZZシンガー 「アングラの女王」 親交であった
瀬戸内寂聴さんは、エッセイストとしての才能も高く評価していたようですが😘 ジヤズのスタンダードを日本語で初めて歌いこなした歌手とも言われましたねえ~「鬼警部アイアンサイド」の主題歌(クインシー・ジョーンズ)といえば「聴いたことがある」という人も多いのでは🤔   映画「赤い鳥逃げた!」の主題歌も良かったですね~😘
俳優座養成所16期 同期には「古谷一行」「太地喜和子」西岡恭蔵の名作『プカプカ』のモデルとも言われ
『プカプカ』は多くのアーティスト達がカバーしています。福山雅治、桑田佳祐、原田芳雄、桃井かおり
etc
アルバム「Some Feeling」は70年代日本の女性ヴォーカル史上ベスト4と評されています。あとの3つは
矢野顕子「JAPANESE GIRL」吉田美奈子「FLAPPER」荒井由実「MISSLIM」
心に突き刺さる声ってよく聞くけど、彼女の場合は
〈心の中を突き抜けていく様な歌声〉ですね~🤩
「外れるのはカズ、三浦カズ」
25年前の本日1998年(平成10年)6月2日、スイス・ニヨンで日本代表岡田監督から衝撃の発表が。
「ドーハの悲劇」に続き、またしてもカズは目の前でW杯の道が絶たれた。そして北澤も。
その後日本代表はW杯の常連になったが、未だにヴェルディからは一人も出場なし。オリジナル10では唯一…。
代表メンバーを選ぶのは監督の権限であるし、当時のカズは長年の「勤続疲労」で充分なパフォーマンスを見せていなかったのも事実だし、「功労者だから呼ぶべき」とも思わないし、古河出身の岡田監督、およびその上の古河閥の協会幹部の読売のカズに対する嫌がらせ、なんて言うつもりも毛頭ない。
だがカズファン、ヴェルディサポのバイアス抜きにしてもこのメンバー選考は未だに間違っていると確信している。事実日本代表は3連敗で敗退。もちろん当時の日本が決勝トーナメントに進む力があったとは思わないが。
当時の日本のサッカー界において「海外」を知る人などごく一部。ヒデもペルージャに移籍する前。その中で唯一ブラジルでプレイをしイタリアでプレイしたカズ。そのカズの代わりを城に求めても無理があるし、実際城は壊れた。あまりに存在の大きかった「カズ」の存在を岡田監督は軽んじていたとしか思えない。
だからこそ2002年トルシエはゴンを呼んだのだろうし。
チームのムードがしぼみ、浮足立った感の日本代表はいいところ無く3連敗。小野伸二は間違いなくその後の日本代表を背負う逸材だったが、数分間の「記念出場」のためにわざわざメンバーに残す意味が本当にあったのだろうか?
北澤を外した理由に「4バックはやらないからポジションがない」と言っておきながら、本番では突如4バックにすることも。岡田監督自体がパニクって一貫性が無かったとしか。
更に許せないのがこの「人事」を協会もしくは岡田監督が一部メディアにリークしていたこと。前日に既に毎日新聞でカズと北澤の落選情報が。
ワールドカップのカズは見られなかったが、「還暦で現役のカズ」は現実味を帯びてきた。私としては是非見たい。
そしてヴェルディも「オリジナル10からワールドカップゼロ」の称号を一刻も早く返上てもらいたい。
ちなみに今日は「本能寺の変」の日でもあります。

思いつくままに「JUN」を集めてみました。……といっても、数が多すぎてキリがなくなるので、カタカナ表記の「ジュン」にこだわってみました。皆さんが思い浮かべたのはどんな「ジュン」でしょうか?

『サインはV』ドラマ版のジュン・サンダース。黒人とのハーフという設定で、顔にドーランを塗って演じていました。なお、ドラマでは骨肉腫で命を落としますが、演じた范文雀さんも悪性リンパ腫のため、2002年に54歳の若さで亡くなられました

『科学忍者隊ガッチャマン』の紅一点、白鳥のジュン(G-3号)。演じたのは杉山佳寿子さん。彼女も日米ハーフで、16歳でスナックのチーママをしているという闇深い設定でした。

『グレートマジンガー』の炎ジュン。デビュー間もない中谷ゆみさんが演じたメインヒロイン。ちなみに、ここまでの3人はすべてハーフ設定でした。

『がきデカ』のジュンちゃんこと木の内ジュン。モモちゃんの双子の妹で、モデルは風吹ジュンさん。未見ですが、1989年にTVアニメ化された時には鳥飼真己子さんという方が声を演じたそうです。

何故か黒一点となった『魔境伝説アクロバンチ』の蘭堂ジュン(演:中原茂さん)。特徴的ないのまたむつみさんのキャラデザイン。本編ではあまり活躍しない末っ子ですが、EDの歌詞では主人公扱い(?)されていました。

芦屋雁之助【裸の大将放浪記】再放送スタート
BS12・6月2日・夜8時
美川陽一郎さん
(1918年3月2日-1976年6月2日、58歳没)
俳優。
6月2日は、この人の命日です。
東京市生まれ。
世田谷中学(私立)を卒業後、
義母との折り合いが悪く家出、
17歳の時に榎本健一の付き人となったのが芸能界入りのきっかけ。
1937年、19歳の時に新国劇に入団、
当初から老け役を得意とし、『白野弁十郎』、『大菩薩峠』などに出演。
終戦後の1952年、
映画『次郎長三国志』(東宝、マキノ雅弘監督)の次郎長役に抜擢され、
新国劇を退団するも、
東宝の創業者・小林一三の意向で、
次郎長役は小堀明男に決定したため、
美川は端役に回されました。
失意の時期を経て日活に移籍、
芸名も「美川洋一郎」から「美川陽一郎」に改め、
老け役で数々の作品に助演。
1963年、
TBSの刑事ドラマ『七人の刑事』のレギュラー、
ベテランの小西刑事役に抜擢され、注目を浴びました。
以降、
多くのテレビドラマに脇役で出演していましたが、
1976年6月2日に肺炎で急死。
58歳没。
当時レギュラー出演していた
『必殺仕業人』(16話まで出演)と『遠山の金さん』(40話まで出演)の2作品が遺作となりました。
(美川陽一郎)
渡辺岳夫さん
(1933年4月16日-1989年6月2日、56歳没)
作曲家・音楽家・詩人。
6月2日は、この人の命日です。
東京都出身。
愛称は「ナベタケ」。
アニメ・テレビドラマ・時代劇映画などの主題歌や劇伴を数多く手がけました。
作曲家である渡辺浦人の長男として生まれ、
武蔵高等学校、武蔵大学経済学部を卒業。
23歳の時にフランス・パリへ留学してクラシックを学び、
スコラ・カントルム音楽院卒業。
その後ラジオ東京(現在のTBSホールディングス)へ入社し、
演出部でテレビドラマの制作をするうちに
音楽に対する想いが強くなり、
同社を退社して音楽家に転身。
様々なジャンルの作曲を手がけており、
特に時代劇やアニメーション作品で印象に残る曲を残しています。
時代劇や現代劇においては、
それまで使われる事のなかったチェンバロなどの楽器を多用し、
クラシック音楽をベースとした独特なメロディラインで構成された曲を数多く作曲。
またアニメ作品の主題歌・BGMの分野では、
『巨人の星』、『アタックNo.1』、『天才バカボン』、『キューティーハニー』、『アルプスの少女ハイジ』、『魔女っ子メグちゃん』、『フランダースの犬』、『キャンディ・キャンディ』、『あらいぐまラスカル』、『機動戦士ガンダム』等の
日本アニメ史上に残るヒット作品の音楽を手掛け、楽曲もヒット。
『魔女っ子メグちゃん』、『あばれはっちゃく』にはタンゴが使われています。
一方で、
『サラブレッド・マーチ』のような、
元々は会議用に依頼され作曲したものや、
舞台作品のBGMも数多く作曲したほか、
自ら舞台の演出も行うなど、
晩年まで精力的な創作活動を行っていました。
『新選組血風録』や『巨人の星』 の臨場感のある曲や、
『白い巨塔(1978年フジテレビ版)』と『機動戦士ガンダム』『非情のライセンス』『無敵超人ザンボット3』の哀愁を帯びたBGMなどを作曲。
作曲する際には、
必ず作品の脚本を読み、作品のイメージを把握した上で作曲を開始し、
録音の際に歌手や演奏者への助言を与えました。
またED曲は哀愁を帯びた曲が多く、
「永遠にアムロ」「元祖天才バカボンの春」「夜霧のハニー」「宇宙の星よ永遠に」など。
時代劇では、
『新選組血風録』や『燃えよ剣』『俺は用心棒』シリーズ、
『大奥』(1968年)から始まる3部作や
『眠狂四郎』に、『子連れ狼』などの作品を担当。
その一方で
作詞も数多く手がけ映画主題歌『緋牡丹博徒』(1968年)は
主演の藤純子人気も相まって大ヒット。
1989年(平成元年)6月2日、腎不全により死去。56歳没。
没後、
1998年度のJASRAC賞では『アタックNo.1BGM』で国際賞を受賞。
(渡辺岳夫)
渡辺邦男さん
(1899年6月3日-1981年11月5日、82歳没)
大正・昭和期の俳優、映画監督。
6月3日は、この人のお誕生日です。
静岡県田方郡三島町(現・三島市)出身。
六男七女の8番目で三男。
長兄の友雄は三島市長を務め、
姉の百合は河井道の門下生でコロンビア大学を卒業し恵泉女学園の理事を務めていますが、
PWCのボナー・フェラーズとともに
極東国際軍事裁判(東京裁判)の天皇訴追回避に尽力した
「一色ゆり(一色乕児と結婚)」の名で知られます。
旧制静岡県立沼津中学(現静岡県立沼津東高等学校)卒業後、
早稲田大学商学部に入学し、
卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るも、
部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。
劇団に加わり地方巡業に出るも、解散の憂き目を見ます。
仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、
面接で監督志望を伝えますが
「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われます。
1924年(大正13年)、
『青春の歌』(村田実監督)で、運動会の応援団の旗手役で映画デビュー。
大部屋女優と結婚するも、
スタアの児島三郎と駆け落ちされるなど苦い下積み生活を送り、
尾上松之助の吹き替えまでさせられます。
その後、
巨匠監督・池田富保の助監督になり、早撮りのテクニックをマスター。
1928年(昭和3年)、
日活京都は太秦撮影所に移り、
池田が長谷部義臣のペンネームで脚本を書いた『剣乱の森』で監督デビュー。
1929年(昭和4年)5月、姉の世話で結婚。
ヤス夫人との間に一男三女があり、息子・渡辺邦彦は東宝で監督に。
1934年(昭和9年)、
各社競作になった『さくら音頭』で5日間徹夜し、
9日間で撮りあげ、他社を出し抜いて公開し大成功。
"早撮り監督”として認められます。
日中戦争が激化すると戦地へ赴任。
1935年(昭和10年)、『召集令』という国策映画を撮り、
同年ミュージカル調映画『うら街の交響楽』(1935年)が
東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクールで1等入選。
1936年(昭和11年)、
二・二六事件で高橋是清が暗殺されると、
岡譲二を高橋役に据え、大作『高橋是清伝 前・後篇』を監督。
評判に。
1937年(昭和12年)、東宝に移籍。
林長二郎(長谷川一夫)の松竹から東宝への移籍第一作『源九郎義経』を監督するも、
林が松竹系の会社の雇ったヤクザに顔を斬られるテロ事件が起こり撮影中止。
1939年(昭和14年)、
満州ロケを敢行し、復帰した長谷川と李香蘭を主演としたロマンスもの『白蘭の歌』が大ヒット。
日本が太平洋戦争に敗北すると、
戦意高揚映画に関わった製作者たちがGHQからの厳しい追及と尋問を受けました。
ほとんどの監督が軍部に脅されて仕方なく撮ったなどの姑息な言い訳に終始する中、
渡辺だけは
「国を護るために撮った。
自分なりのやり方で戦ったまでだ」などと主張、
尋問に当たっていた米軍将校はすっくと立ち上がると渡辺に両手を差し出し
「この国に来て初めてサムライに会った」と
言いながら握手を求めたといいます。
1946年(昭和21年)、『緑の故郷』、『麗人』の2本を原節子主演で一気に撮りあげます。
この年、東宝撮影所内では東宝争議が起こり、
渡辺は「菊旗同志会」という反共右派グループを主宰し、
反組合のリーダー格となりました。
東宝社長・渡辺銕蔵からの命令を受けて、
愚連隊の首領・万年東一に、日比谷の映画館のスト破りを依頼。
1947年(昭和22年)、
反組合の東宝脱退組で作られた新東宝に移り、同社第1作『今日は踊って』を監督。
同年の富田常雄原作『誰か夢なき』は
大学出のラグビー選手を巡る三人の女性のすれ違いメロドラマで、
主題歌とともに新東宝最初のヒット作に。
以後、
早撮りでプログラム・ピクチャーを量産しヒットを重ねます。
1952年(昭和27年)、
「早撮りの巨匠」として超高給で東映に移籍し、ヒット作を連発。
1953年には片岡千恵蔵主演の『大菩薩峠』三部作を10日で撮ったといいます。
1955年(昭和30年)、
新東宝の新社長・大蔵貢に制作本部長格で招かれ、新東宝に復帰。
神業的な中抜き撮影で、わずか1週間で撮り終わった作品もありました(通常の作品は30日から45日程度)。
1956年(昭和31年)、年間12本を撮影。
経営危機に陥っていた新東宝は、
「早く安く」をモットーとする大蔵社長の新方針の下、
他の監督も渡辺に倣わせるほどでした。
1957年(昭和32年)、
『明治天皇と日露大戦争』が封切りで8億円の配収をあげる史上空前の大ヒット。
経営に苦しむ新東宝の負債を一気に返済させて救世主となり、
「"渡辺天皇”」の異名をとります。
続いて『ひばり三役 競艶雪之丞変化』も大ヒット。
1958年(昭和33年)、新東宝を退社。
同年、
大映オールスター映画『忠臣蔵』を大ヒットさせた後、
美空ひばりとコンビで東映の『べらんめえ芸者』シリーズなど、
東映、大映、松竹などでフリーで活躍。
しかし、
その後は映画を撮る機会になかなか恵まれず、
テレビに移るなど冷遇されました(この時、中村吉右衛門主演の『右門捕物帖』(1969年、NTV系)の監修・初期回監督を手掛けています)。
1970年(昭和45年)、
久々に撮った竹脇無我主演の『姿三四郎』(松竹)が最後の映画監督作品に。
1975年(昭和50年)、勲三等瑞宝章を受章。
1976年(昭和51年)、健康を害し引退。
1981年(昭和56年)11月5日、肺炎のため死去。享年82。
本人の計算では作品数225本。
テレビで前述の『右門捕物帖』を始め、
『姿三四郎』(1963~1964年、1970年)、
『柔』(1964~1965年)、『明治天皇』(1966年)、『旗本退屈男』(1973~74年)など209本を監督。
(渡辺邦男)
宮内幸平さん
(1929年8月4日-1995年6月2日、65歳没)
俳優、声優、ナレーター。
6月2日は、この人の命日です。
鹿児島県出身。
劇団芸協、青二プロダクションに所属。
芝居が好きだったことから役者を志します。
舞台芸術学院本科三期、八田元夫演出研究所、劇団新劇場、劇団現代を経て、
劇団芸協の創立メンバーの一人であり、所属俳優としても活躍。
アレクサンドル・オストロフスキー原作の『雷雨』のカヴァーノフ役で初舞台。
その後、生活のため声優としての活動を始めます。
1995年6月2日午後11時14分、
腹部静脈瘤破裂のため東京都板橋区の日大板橋病院で死去。
満65歳没(享年67)。
『それいけ!アンパンマン』のふろしきおじさん役が最後の出演作となりました。
(宮内幸平)
羽田健太郎 さん
(1949年1月12日-2007年6月2日、58歳没) 
作曲家、編曲家、ピアニスト。
6月2日は、この人の命日です。
東京音楽大学客員教授。
桐朋女子高等学校音楽科(共学)から桐朋学園大学音楽学部ピアノ学科卒業。
有賀和子、井口基成など、
業界では特にスパルタで知られる高名な教育者たちに師事。
長女は
宝塚歌劇団出身の声楽家でショップチャンネルのキャストも務めた羽田紋子(現在、有限会社羽田音楽事務所代表取締役)、
孫はサクソフォン奏者の羽田ありあ。
その活動分野は
クラシック、ポップス、フュージョンなど多岐にわたり、
劇伴音楽の作曲においても
『西部警察 PART-II』や『渡る世間は鬼ばかり』のテーマ曲などが広く知られます。
2001年4月から2007年5月にかけては
テレビ朝日系列の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めるなど、
タレント、司会者としても活動し、ハネケンの愛称で親しまれました。
(羽田健太郎)

♥️💃2023/6/3 長澤まさみ(36歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

「赤い鳥逃げた?」
「われに撃つ用意あり」
桃井さん好きなんです(笑)
ドラマですが、ショーケンとの「前略、おふくろ様」の男に優し過ぎて、すぐ身を捧げちゃうホヤーっとしてる海ちゃんはまだアクがなくて可愛い(笑)。
それから年齢いって、斜めから物言う、煮ても焼いても喰えない桃井さんもいい。
人間臭い桃井さんには、一番誰が合うんだろう?
つかこうへいさんは、ドロドロで酷かった。
桃井さんを理解する人はなかなかいない。
兄貴と慕う人間臭い原田さんかなーなんて思いました(笑)
西岡さんの名曲、いろんな人がカバーしてるけど、
原田さんも「プカプカ」唄ってるし。
桃井さんは、それ歌いながら、そのアンサーソング「たばこ止めないの」まで唄ってる、
原田さんは身体のためにタバコ減らして欲しかったけど。
桃井さんがタバコ止めたら、桃井じゃなくなる(笑)
二人とも、唄い方がブルースのようなジャズぽいような、癖あるけど、一回聞くと癖になる(笑)🎵
二人の唄みたいだ。
バイオレンス系は見ないのですが、喰えない二人見てみたくなりました。
本当に渋みと気だるい艶のある、男と女❤️
メンズビギ
70年ビギを立ち上げた菊池武夫が75年につくったファッションブランド。
菊池は80年代にビギを離れタケオキクチを設立する。
傷だらけの天使の衣装担当してショーケンの着こなしに参ったね。
燃えよドラゴンのリーの渋い3Pスーツもそうです。
モダンブリティッシュなコンセプト。
トレンチが欲しかった。

♥️💃2023/ 6/3 三浦翔平(35歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/ 6/4 アンジェリーナ・ジョリー

(48歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

沢本忠雄さん
(1935年7月2日-2022年6月5日、86歳没)
俳優。
6月5日は、この人の命日です。
三重県松阪市出身。
白木万理は元妻。
1958年、
日本大学芸術学部(映画科・演出/シナリオ)卒業。
日活に入社。
公式のデビュー作は
南田洋子主演で、
南田の弟役を演じた『雌花』(1957年、阿部豊監督作品)ですが、
その前に同じ南田主演の『素足の娘』でエキストラ出演。
そのエキストラ出演で阿部に認められて『雌花』に起用されたといいます。
1958年に『十代の恋よさようなら』(小林桂三郎監督作品)にて初主演。
以後は
『嵐を呼ぶ友情』、『群衆の中の太陽』、『青春蛮歌』、『祈るひと』等、
数々の作品に出演し、日活映画の顔に。
当初は小林旭、川地民夫ら「三悪トリオ」として売り出されましたが、
沢本は小林らと違ってアクションは不得手であり、
その点で苦労はあったといいます。
1963年、日活を退社してフリー。
『さよならはダンスの後で』(松竹)など映画主演38本、準主演25本。
計63本に出演。
日活退社後は『あかんたれ』や『どてらい男』など
花登筺作品の常連俳優などとしても活躍。
2001年12月に
リゾートトラストの会員制リゾートホテル「エクシブ鳥羽&アネックス」に
企画プロデューサーとして就任し、
CS(顧客満足)執行委員長を務めました。
2022年6月5日、肺炎のため死去。86歳没。
(沢本忠雄)
ガッツ石松さん
(1949年6月5日-)
男性俳優、タレント、政治活動家。
6月5日は、この人のお誕生日です。
身長172cm。
広島国際学院大学現代社会学部客員教授。
元プロボクサー。
元WBC世界ライト級王者。
栃木県上都賀郡清洲村→粟野町(現在の鹿沼市)出身。
株式会社 ガッツ・エンタープライズ代表取締役社長であり、ガッツ・エンタープライズ所属。
タレントの鈴木佑季は長女。
ヨネクラボクシングジム所属で、
アジア人で初のWBC世界ライト級チャンピオン。
当時はWBCとWBAの2団体しかない時代で、
ライト級は非常に層が厚い階級でしたが、
世界の強豪を抑えてタイトルを5度防衛。
ボクサーとしての生涯戦績は、
51戦31勝(17KO)14敗6分。
ボクシング引退後はタレント、俳優として長く活動。
粟野町役場庁舎内(現在、鹿沼市役所粟野支所庁舎)に、
「粟野町出身の名誉人」として、額入りの顔写真を掲げられています。
(ガッツ石松)
大犮柳太朗さん
(1912年6月5日-1985年9月27日、73歳没)
山口県出身の俳優。
6月5日は、この人のお誕生日です。
新国劇出身。
戦後の東映時代劇映画で数多く主演を務めた剣豪スター。
晩年はテレビの現代劇でも活躍。
柔道参段・居合道四段。
父親は山口県柱島(現岩国市)出身、
母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、
大犮は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、
父親は出生届を柱島で出しました。
生後間もなく柱島で育ち、
小学校3年から5年までは山口県屋代島(周防大島)(現同県大島郡)で育ちました。
1935年(昭和10年)、
松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、
大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。
同じ松山中学出身の映画監督伊藤大輔から「大輔」の名を譲り受け、
中富大輔の芸名で初舞台。
1936年(昭和11年)、
新興キネマ京都撮影所に招かれ、
山本周五郎原作の『青空浪士』の主演で華々しく映画界にデビュー。
このとき、
師の辰巳柳太郎から「柳太郎」の名を譲り受け芸名を「大犮柳太郎」に。
1937年(昭和12年)、『佐賀怪猫伝』に主演、
映画は大ヒットとなり、一躍スター俳優の仲間入り。
1942年(昭和17年)、
各社合併で大映京都撮影所所属となり、
大映創立第1回オールスター超大作『維新の曲』に
坂本龍馬の暗殺者である佐々木只三郎役で出演。
1943年(昭和18年)、
太平洋戦争に伴い召集を受け、満州方面を転戦。
1946年(昭和21年)、
敗戦に伴い復員するも、GHQが発布した「剣戟映画禁止令」により、
活躍の場を奪われ、すぐには時代劇映画スターに返り咲くことができず。
この時期、嵐寛寿郎や片岡千恵蔵ら大御所も、
同様に時代劇での仕事の場を奪われ、
現代劇に活路を求める状況でした。
1947年(昭和22年)、
チャンバラ場面のない『天下の御意見番を意見する男』の主演で戦後映画界に復帰するも、
同年と翌年を含めた出演作は年4本に留まり、
合間を地方巡業での芝居小屋出演などで生計を立てる不遇な時期が続きました。
1950年(昭和25年)、
GHQの禁止令解除に伴い、剣戟映画の世界へ戻り、
同時に大犮柳太郎の「郎」を「朗」に変え “大犮柳太朗” に改名。
その背景として、戦後なかなか主役の座に返り咲けず低迷し、
同年、
片岡千恵蔵主演作の『にっぽんGメン』や『いれずみ判官』に出演。
この時期からしばらくのあいだ東横映画での助演を多くこなしました。
1953年(昭和28年)、
東映京都撮影所製作、山田五十鈴共演の『加賀騒動』(佐伯清監督)は、
当時新聞連載の人気小説を原作としたこともあり、
その重厚な作風とも相まって大犮の演技にも注目が集まりました。
同年、
主演した『快傑黒頭巾』が大ヒット。
黒頭巾役者として子供たちの人気の的となり
1954年(昭和29年)からの『新諸国物語 笛吹童子』シリーズでは
霧の小次郎役でさらに人気を博しました。
以後もヒット作に恵まれ、
戦後の時代劇映画観客動員でトップを走る「東映時代劇スター」の一角を担うまでに。
剣戟俳優として最も重要な「殺陣」の鮮やかさは誰もが認めるところで、
また乗馬技術があり、
当時、
「片岡千恵蔵・市川右太衛門の両御大、中村錦之助・東千代之介・大川橋蔵の三羽烏よりも稼ぎ頭だ」と
囁かれたほどの人気ぶりでした。
1957年(昭和32年)、
4月に日本で初となる「シネマスコープ作品」として公開された『鳳城の花嫁』(松田定次監督)に主演。
ユーモラスな演技で大成功を収めるなど、
柔軟な役どころで、戦前の新興キネマ・大映映画時代の自身を凌ぐスターの地位を獲得。
戦前からのスター俳優の多くが、
戦後は脇にまわるケースが多い中で、特筆に値すると評されます。
6月に『仇討崇禅寺馬場』(マキノ雅弘監督)公開。
同作は翌年京都市民賞でトップとなり、大犮は男優賞を受賞。
1958年(昭和33年)、
『仇討崇禅寺馬場』(1957年・マキノ雅弘監督)での演技により京都映画祭主演男優賞を受賞。
同年、
シネマスコープ(東映スコープ)公開一周年記念として製作された
『丹下左膳』シリーズでの丹下左膳役、
翌1959年(昭和34年)、
推理物の時代劇『右門捕物帖』シリーズ第1作『片目の狼』でのむっつり右門役を演じ、
当たり役とし、
快傑黒頭巾役と合わせて三つのヒットシリーズを持つ時代劇の大スターとして活躍。
しかし、
1960年代半ばに東映が時代劇映画の制作を休止したため、
主にテレビ時代劇に活動の場を移します。
主演作に
『さむらい飛脚』(1971年)、
レギュラー出演作に赤穂浪士奥田孫太夫を演じた『編笠十兵衛』(1974年)、
水戸家家老山野辺兵庫を演じた『水戸黄門』などありますが、
既に老齢に達しており、
ゲスト出演が主となっていきました。
新国劇などの舞台にも復帰しましたが、やはりゲスト助演が主でした。
テレビでは時代劇と並行して現代劇にも僅かに出演していましたが、
1979年(昭和54年)、
NHKの文化庁芸術祭優秀賞受賞作品『親切』への出演を境として、
現代劇での老人役が増加。
1980年の『なっちゃんの写真館』にはヒロインの祖父役で出演。
1981年、
『北の国から』では富良野に生きる老人役を演じました。
続いて小津安二郎の映画『東京物語』のドラマ版リメイクである
『新・東京物語』(1982年)にも出演、
以降多くの現代劇において老人役として人気俳優に。
加えて、
撮影現場での生真面目故のユニークなエピソードが
タモリやビートたけしらによってテレビやラジオで紹介され、
自身もバラエティ番組に進出するなど、タレント業もこなしました。
1980年代前半にはテレビドラマを主軸とし、
老齢ながらも売れっ子といえる活躍をしましたが、
台詞覚えに苦労するようになり
「老人性痴呆症にかかった」と悲観しはじめ、
不眠症にも悩まされるように。
1985年(昭和60年)9月27日、
東京都港区の自宅マンション屋上から飛び降り自殺。
73歳没。
(大犮柳太朗)
🟪 足立区・西新井
嗚呼〜〜懐かしの「🌊東京マリン」

愛と誠

大滝秀治さん
(1925年6月6日-2012年10月2日、87歳没)
俳優、ナレーター、実業家。
6月6日は、この人のお誕生日です。
位階は正四位。
勲等は旭日重光章。
文化功労者。
身長167cm、体重63kg。
株式会社劇団民藝代表取締役などを歴任。
4人兄弟の末っ子として誕生。
1943年(昭和18年)に
旧制私立駒込中学校(駒込高等学校)を卒業して、三田の電話局に勤務。
1945年(昭和20年)に通信兵として召集。
戦後は大手町の電話局で、進駐軍を担当。
帝国劇場で研究生募集のチラシを見たのがきっかけとなり、
1948年(昭和23年)に
東京民衆芸術劇場附属俳優養成所に1期生で入所後、
1949年(昭和24年)に『風の吹く一幕』で初舞台。
しかし同劇団の創設者である宇野重吉から、
大滝の甲高く、かすれた独特の声を指して
「おまえの声は壊れたハーモニカのようだから、演劇には向かないと思う」と評され、
演出部へ移りました。
1950年(昭和25年)の民藝創設に参加し、
旗揚げ公演のチェーホフの『かもめ』に出演。
1952年(昭和27年)には
『冒した者』の代役に起用されたことがきっかけで俳優に転じ、
正式に劇団員となったが長年裏方ばかりの不遇時代が続きます。
1970年(昭和45年)の舞台『審判』で初主演に抜擢され、
作品のテーマである東京裁判に関する文献を買い込み必死に勉強。
この演技で第5回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
時に45歳での受賞でした。
これが転機となり、
以来民藝の看板俳優のひとりとして数多くの舞台に出演。
『巨匠』『浅草物語』『らくだ』などが舞台の代表作であり、演劇賞も多く受賞。
2011年(平成23年)には
多年に亘る演劇活動に対する功績を評価され、
文化功労者に推挙されました。
映画では
1952年(昭和27年)に公開した新藤兼人監督の『原爆の子』など
民藝がユニット出演した作品などに端役で出演していましたが、
1955年(昭和30年)の『ここに泉あり』でまともな役を演じました。
当時、
民藝が日活と提携契約していた関係で
1960年代は日活のアクション映画などに、主に悪役で出演。
1970年代以降も巨悪や黒幕役を数多く演じ、
山本薩夫監督の社会派映画『華麗なる一族』『金環蝕』『不毛地帯』で大物政治家を演じる一方、
今井正監督の『あにいもうと』では、
主人公の父親役で
ブルーリボン賞の助演男優賞(『不毛地帯』の演技と共に受賞)、キネマ旬報賞の助演男優賞、第1回報知映画賞の助演男優賞を受賞。
映画では
市川崑や伊丹十三、篠田正浩作品に常連として出演。
特に市川作品では「金田一耕助シリーズ」全5作に皆勤出演(2006年のリメイク版『犬神家の一族』にも出演)、
伊丹作品ではコミカルな役に起用されていました。
1970年代半ばの大作ブームでは引っ張りだことなり、
1977年から1979年の3年間で全国公開された大作の8割近くに出演。
テレビドラマでは、悪役を経て、
1970年のドラマ「わが青春のとき」(日本テレビ)で倉本聰作品に初出演。
以降、
1975年から1981年にかけて地方の巡査を演じた
『うちのホンカン』での主演(第1作は第23回日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞した)を筆頭に、
倉本作品にも多く起用されました。
1977年からの8年間にわたっては
『特捜最前線』でたたき上げの刑事・船村一平役でレギュラー出演し、
認知度が上がり人気を博しました。
その後は、
徹底した役柄の人物造形に年齢による渋みが加わりました。
「飄々(ひょうひょう)としつつも時には激昂する」という独特の芸風が人気を集め、
関根勤のモノマネレパートリーの1人としても知られるように。
モノマネは大滝公認であり、
1999年には「真似(まね)して真似され二人旅」で
関根との共演を果たしています。
2002年(平成14年)から
俳優の岸部一徳と共演している大日本除虫菊(金鳥)のCMでは、
迫真かつユーモラスな演技を見せ、
このCMは2004年(平成16年)に東京コピーライターズクラブ賞のグランプリを受賞。
先述のモノマネも、
このCMのセリフが使用されることが多数。
やずやのCMの中では
宇野に自らの声を「壊れたハーモニカ」と評された先述のエピソードを吐露。
これは暗に舞台演出家への転向を促されたものであした。
大滝自身も自分は声も顔も悪く、
若い頃より老け役を演じることが多かったと振り返っており、
様々な老人役を演じました。
2011年(平成23年)暮れから体調不良になり、
その後病院の診断を受けて2012年(平成24年)2月27日に右肺にがんが見つかり、
同年6月の舞台『うしろ姿のしぐれてゆくか』への出演を取りやめたため、
2011年6月から7月にかけて行われた舞台『帰還』が、最後の舞台出演に。
2012年6月末に間質性肺炎を併発しましたが、
病状が安定した9月7日に退院し、自宅療養に。
入院中にドラマ出演の依頼があり、
その後の生活では
「12月と来年1月にはロケだから体力をつけないと」と言って
カツ丼やステーキを食べるなど自分を奮い立たせていました。
しかし10月2日に容態が急変し、
同日午後3時17分、
肺扁平上皮がんのため、東京都内の自宅で死去。
87歳没。
(大滝秀治)
堺正章さん(1946年6月6日-)
タレント、歌手、俳優、司会者、ラジオパーソナリティー。
6月6日は、この人のお誕生日です。
愛称は
「マチャアキ」「堺先生(しゃかい しぇんしぇい)」「巨匠」「Mr.かくし芸」。
エンターテイナー、タレント、歌手など様々な肩書きを持ちますが、
1990年代以降はテレビ番組の司会を中心に活動。
身長166cm(1972年3月)。
堺駿二の次男として東京都世田谷区で生誕。
父の駿二による出生届の提出が2か月遅れ、
戸籍上は8月6日生まれ。
5歳の時、
父に連れられて撮影所に行ったことをきっかけに
子役として映画に出演し、芸能界デビュー。
幼少期を鎌倉市の大豪邸でも過ごしていました。
神奈川県鎌倉市にある鎌倉学園在学中で16歳だった1962年、
田辺昭知率いる音楽バンド「ザ・スパイダース」に加入し、
その後加入した井上順とともにボーカルを担当。
「夕陽が泣いている」などがヒット。
1970年のスパイダース解散後は、
ソロで歌手活動を展開したほか、
俳優、司会、コメディアンと多方面で活動。
1970年にスタートした『時間ですよ』に第3シリーズの1973年まで出演し、
番組人気と相まって、
悠木千帆らとともに俳優としての出世作に。
1978年から1980年にかけて
『西遊記』、『西遊記II』で主役の孫悟空を務め、
子どもを中心に大きな人気を集めました。
1976年から『新春かくし芸大会』に出演し、
毎年玄人はだしの個人芸を習得・披露してエンターテイナーぶりを発揮。
1981年から1986年までは
歌番組「ザ・トップテン」の司会も務めました。
1999年には、
かまやつひろし、井上堯之とユニット「ソン・フィルトル」を一時結成し、CDをリリース。
ライブ活動を皮切りに、
12月31日にオリジナル曲「Yei Yei」を引っ提げて
『第50回NHK紅白歌合戦』に出場。
2006年の『西遊記』最終回に
釈迦役でゲスト出演し、如意棒を手に往年の演武を披露。
2008年、『無理な恋愛』で、
民放の連続ドラマとしては日曜劇場『パパ・サヴァイバル』以来13年ぶりに主演し、
主題歌「忘れもの」を歌って
1993年発表の「CATCH ME」以来15年ぶりとなるシングルをリリース。
2013年には、
第6回したまちコメディ映画祭in台東でコメディ栄誉賞を受賞。
2015年には、
浅草公会堂正面の「スターの広場」に手形が設置されました。
(堺正章)
建物がそのままの状態で残っている
軍艦島!凄いです。
 
中尾ミエ さん(1946年6月6日-)
女性歌手、女優。
6月6日は、この人のお誕生日です。
福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。
身長156cm。
6人兄弟。実家は書店を経営。
父親が事業に失敗し、1958年に一家で上京、
以降は千葉県市川市で育ちました。
福岡学芸大学附属小倉小学校を経て、市川市立真間小学校に転校。
精華学園中学校時代に東宝の募集に行きますが、
背が小さいからダメと渡辺プロダクションを紹介されます。
しかし、
すぐには契約してもらえず毎日通って粘り、
平岡精二のバンドに預けられ、
代々木のキャンプなどで歌いました。
当時はスタンダード・ナンバーを歌っていました。
1961年に渡辺プロと契約。
園まり・伊東ゆかりらとスパーク3人娘を結成。
ザ・ピーナッツの後継として期待され、
クレージーキャッツ主演の『シャボン玉ホリデー』などに出演し一時代を築きます。
確かな歌唱力で人気を博し、
アメリカンポップス系を得意としますを
16歳にしてリリースしたデビュー曲『可愛いベイビー』が大ヒットし一躍スターの座に。
20歳の若さで都内に一軒家を購入し両親へプレゼント。
その後、
25歳になると両親の家の隣へ中尾の自宅を建て、
2023年現在もその家をリフォームしながら生活しています。
60歳からは自宅の隣に自己所有のアパートを建てて経営する大家でもあります。
デビュー当時から気の強さと歯に衣着せぬ物言いが好評で、
本業以外にも『ミエと良子のおしゃべり泥棒』などのトーク番組の司会を数多く務めています。
70代の現在も女優として映画やドラマに多数出演している一方で、
各種トーク番組へのゲスト出演も多く、
歌番組・バラエティ・トーク・ドラマと幅広く活躍。
また、園や伊東とスパーク3人娘を再結成し、
全国コンサートやディナーショー、チャリティー活動などを行っていますが、
一個人としても地域と絡んだ社会活動に参画。
深夜番組の大ファン。
2019年9月18日に、
28年ぶりに古巣の後身事務所ワタナベエンターテインメントに復帰。
同月には『週刊現代』の企画で73歳にして
「最初で最後」としてグラビア姿を公開。
(中尾ミエ)
岸部四郎さん
(1949年6月7日-2020年8月28日、71歳没)
タレント、俳優、司会者、実業家。
6月7日は、この人のお誕生日です。
元ザ・タイガースのメンバー。
身長187cm。
京都府京都市出身。
父は元憲兵。
兄は同じくザ・タイガースのメンバーであった岸部一徳。
甥に一徳の長男である岸部大輔。
京都市立近衛中学校卒業。
中学卒業後に印刷会社へ就職。
後に退職しバンドボーイに。
タイガースのデビュー後にしばらく音楽面でのアドバイザーを務めた後、
メンバーと渡辺プロダクションの援助で
1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、
留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。
1969年(昭和44年)3月、
タイガースから加橋かつみが脱退したため、
兄・一徳からの電話によって呼び戻され、
新メンバーに。
加橋の後釜としてギターを担当するも、
加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていました。
また、タンバリンを演奏したり、加橋のヴォーカルパートを引き継ぎます。
岸部の加入により、
タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、
ステージのレパートリーでは
フォークソングやハードロックを取り入れるなど積極的にイメージチェンジを図り、
それまでの「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。
敢えて積極的に近畿方言を話し、
また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを着用、
そして司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで次第に好評を得た岸部は、
その気さくなキャラクター性が受け入れられ単独でのTV出演をも果たします。
ステージでは主に
『花の首飾り』『ホリデイ』などそれまで加橋がソロを担当していた曲に加え、
ドノヴァンなどのフォークソングも得意としました。
また1970年(昭和45年)には
岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。
この頃には、
ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっていました。
タイガースが解散して間もない頃に
アメリカ合衆国で知り合い交際を続けていた
1歳年上のアメリカ人との混血女性と結婚。
前妻と間に一男一女。
その後も人気は衰えず、
1971年(昭和46年)、ブレッド&バターに合流した後、
当時所属していた渡辺プロ(現:ワタナベエンターテインメント)の
ザ・ピーナッツ、天地真理などのステージで司会や、
当時ブームとなった青春ドラマ等の俳優として活動。
1978年(昭和53年)、
テレビドラマ『西遊記』(日本テレビ系列)に沙悟浄役で出演。
1984年(昭和59年)10月から、
沢田亜矢子の後任として『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系列)の司会を務めます、ら
その後、
自己破産により降板する1998年4月まで13年半に渡って担当。
1994年(平成6年)渡辺プロダクションから独立と再婚を機に本名の「四郎」に改名。
生来貯金が苦手なうえに、
人の好さが過ぎ連帯保証人を次々に引き受けた事、
自身も浪費癖があった事、
事業欲から無謀な挑戦(ヘリコプターのヘリコミューター、アメリカのディスコ買収等)を繰り返した事、などで多額の負債を抱えました。
自己破産以降、その自虐的な出来事を売り物にして、
バラエティ番組に出演することが多くなります(ただしレギュラー番組を持つには至らず)。
「オレを誰や思てんねん! 元・金持ちやぞっ!!」など、
自虐的な台詞もいといませんでした。
『めちゃ2イケてるッ!』ではそれが顕著で、
沙悟浄役であったことをネタにきゅうりで釣られたりしています。
2003年(平成15年)に脳内出血で倒れ、緊急入院。
生死の境をさ迷うも一命を取り留め、その後退院。
この後遺症で視野狭窄を患い、
右目の視野が3分の1しかないことを自身のブログで告白。
2005年(平成17年)、
ドラマ『電車男』に主役の伊藤淳史の父親役で出演した頃から、
旧芸名「岸部シロー」も使うように。
彼が詐欺師役で出演したドラマ『クロサギ』の最終話では、
かつての自己破産経験を思わせる台詞を発しています。
2007年(平成19年)4月6日、14歳下の再婚の妻が心臓発作により急死。
43歳没。
同年9月11日発売の週刊女性のインタビューに応じて胸中を語りました。
2008年(平成20年)、
12012のシングル「MERRY GO WORLD」のPVに出演。
2009年(平成21年)、
身体の身動きが取れなくなり、救急車を呼んで入院。
この頃から体調が悪化し、メディアへの露出が困難に。
2011年(平成23年)4月16日、
フジテレビONEで『岸部のロック』という、
自らのロック体験を語る番組に出演。
2012年(平成24年)1月24日、
沢田研二ライブツアー最終日の日本武道館公演に車椅子姿で登場、
第2期ザ・タイガースメンバーが見守る中で『若葉のころ』を歌唱。
2012年(平成24年)12月、『情報ライブ ミヤネ屋』に出演。
同年2月に骨折で入院し、
手術を受けて以降老人ホームで暮らす様子が映されます。
芸能活動からは事実上引退に。
2013年(平成25年)12月27日、
ザ・タイガースライブツアー最終日の東京ドーム公演に再び車椅子姿で登場、
他のタイガースメンバーが見守る中で『イエスタデイ』を歌唱し、
これによって、
結成以来初めてタイガースの全てのメンバーが揃うことに。
2014年(平成26年)11月21日、
新橋ヤクルトホールで行われた「森本太郎とスーパースター再結成15周年コンサート」に、
兄の一徳、甥の大輔と共にゲスト出演。
これが公の場で見せた最後の姿となりました。
2020年(令和2年)8月28日、
拡張型心筋症による急性心不全のため千葉県内の病院で死去。
71歳没。
(岸部四郎)
コロムビア・トップさん
(1922年5月6日 - 2004年6月7日、82歳没)
漫才師、漫談家、声優、政治家。参議院議員。 
6月7日は、この人の命日です。
勲等は勲二等。
東京市浅草区(現:東京都台東区浅草)出身。
三男は俳優の下村彰宏。
孫にダンス作家の下村唯。
1940年(昭和15年) 
北辰電機・青年学校卒業。
1942年(昭和17年) 
陸軍へ入隊し、加藤隼戦闘隊に配属。
ビルマのラングーンに駐屯。
1946年(昭和21年) 
抑留先のナコーンナーヨックの収容所で
演芸会の即席漫才をやった池田喜作と
復員後に漫才コンビを組み、青空トップ・ライトとしてデビュー。
1950年(昭和25年) 
池田の死去に伴い、鳥屋二郎とコンビを組み直し、
芸名は変らず青空トップ・ライト。
1952年(昭和27年) 
コロムビア芸能と契約し、コロムビア・トップ・ライトに改名。
時事、風刺漫才で活躍。
1971年(昭和46年)
9月 谷岡ヤスジ原作の劇場アニメ『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』に社長役として出演。
1974年(昭和49年)
7月 第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、参議院議員に初当選(その後、3期17年6か月務める。第二院クラブに所属)。
これに伴いコンビ解消。
1980年(昭和55年)
6月 第12回参議院議員通常選挙に立候補するも落選。
9月 テレビアニメ『おじゃまんが山田くん』スタート。
主人公、山田よしお役を2年間にわたって演じました。 
悪党狩り第13話(1981年1月)出演。
1982年(昭和57年)
コンビ復活。
1983年(昭和58年)
6月 第13回参議院議員通常選挙に立候補するも次点で落選。
12月に野坂昭如が第37回衆議院議員総選挙立候補に伴う退職により繰り上げ当選。
1989年(平成元年)
7月 第15回参議院議員通常選挙に立候補し、3期目当選。
1995年(平成7年) 
東京都知事となった青島幸男の後を引き継ぎ、
第二院クラブ代表になるも、7月の第17回参議院議員通常選挙では落選。
同年、勲二等旭日重光章を受章。
1998年(平成10年)
7月 第18回参議院議員通常選挙に立候補するも再び落選。
これを期に政界から引退。
2004年(平成16年)3
月、親交の深い島倉千代子の歌手生活50周年記念パーティーに出席し、
自身の強い希望で乾杯の音頭を取り、
これが生前、公の場に出た最期となりました。
生前最後のテレビ出演は同年3月放送の、
レギュラー出演していた「昭和歌謡大全集」(テレビ東京)。
2004年(平成16年)
6月7日20時31分、呼吸不全で死去。
82歳没。 
(コロムビア・トップ)

♥️💃2023/6/8 森尾由美(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

柴又に行ってきました。帝釈天お参り前に高木屋の団子を頂き、帝釈天にお参り後、寅さん記念館に行ってきました。

〜 速報 〜
2023/6/13(火)BS6ch  PM9:00〜10:54  “ 沢田研二  華麗なる世界  永久保存必至  "  があります📺   
昭和時代を生きた皆さんに是非見てもらいたいです🎸🕺
金メダルへのターンの考察
少女フレンドに連載されていたマンガを梅田智子さん主演で70年フジ系ドラマで放送
すごいですねー。ターンして水流に渦を起こして他の選手のターンに影響あたえたり。しかしこれトップでないとあまり意味ないね、ビリでターンして渦起こしても誰も影響しない。
梅田さんのトビウオターンはすごい!空中に飛び出して10から15メートルほど飛んで先の選手追い越しちゃうんだもの。これって水泳なのかなあ。これするんだったらスタートからエイって飛んでもいけるんじゃないの?
これだけの脚力あれば走り幅跳びや高飛びもいけそうな気もします。^_^
いつものようにそれを言っちゃあおしまいよ。

#浅草国際劇場 屋上で練習に励む #松竹歌劇団 団員たち。後方には かつて浅草六区に存在した12階のレジャーセンター「#浅草新世界」(新世界ビル 1959~72年。現在の浅草JRA辺り)が確認できる(画像1~2)。歌劇団には #倍賞美津子(画像4中央)も在籍。

【連続企画】天地真理特集✨
 
1970年代を代表する永遠の国民的アイドル天地真理を大特集✨
秘蔵映像たっぷりのファン必見スペシャル番組も独占放送🎞
 
<天地真理特集>
毎週(土)夜6:30~他
 
■おすすめ作品👇
『【オリジナル特番】ついに会える!永遠の国民的アイドル天地真理』独占放送
6/17(土)夜8:30~他
 
■その他6月放送作品
『真理ちゃんとデイト』
『となりの真理ちゃん』
『とび出せ!真理ちゃん』
『映画「虹をわたって」』
『映画「愛ってなんだろ」』
 
【放送ch】ホームドラマチャンネル
(スカパー!:CS294 / プレミアム:Ch.661)
https://x.gd/DhQMr
 
■ご不明点はLINEで質問♪
視聴方法や関連番組など、スカパー!LINEアカウントでの質問がお手軽で便利!
まずは友達申請を→https://x.gd/xwvV9
 
■掲載画像 : 
『【オリジナル特番】ついに会える!永遠の国民的アイドル天地真理』
©天地真理ファンクラブ事務局
撮影:松田民也  ヘアメイク:岡本佳織
 
『となりの真理ちゃん<ゲスト:沢田研二>(1973年4月12日放送)』
©渡辺プロダクション
 
『とび出せ!真理ちゃん<ゲスト:布施明/桂木美加>(1973年10月25日放送)』
©渡辺プロダクション
 
『真理ちゃんとデイト<ゲスト:井上順/谷啓>(1973年3月29日放送 最終回)』
©渡辺プロダクション
 
『映画「虹をわたって」』
©1972松竹株式会社
 
『映画「愛ってなんだろ」』
©1973松竹株式会社

ドラゴン危機一発ラストシーン撮影風景。

【松田優作 最後の1年】NHKが放送する
「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」
シリーズの1作品として、2022年11月に放送。好評を得た
「松田優作“ブラック・レイン”に刻んだ命」の再放送が決定!
強烈な個性と狂気の演技で知られる伝説の俳優・松田優作が、
末期がんを押して出演した遺作として知られている。
当時の松田優作の生き様を、共演者であるアンディ・ガルシアや
國村隼、さらに妻・美由紀が明かしているほか、
当時の貴重なオーディション映像も公開。
それは映画『ブラック・レイン』と向き合った1年。
末期のがんが発覚。病を隠し、命を削って
その姿をフィルムに焼き付けた日々。
俳優仲間と家族の証言で綴る。
アナザーストーリーズ【松田優作 最後の1年】2022年11月放送
NHK総合6月9日午後10:00~、6月13日午後11:50~

♥️💃2023/6/9 薬師丸ひろ子(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/6/9 ナタリー・ポートマン(42歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/6/9 国仲涼子(44歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/6/9 内田恭子(47歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/6/9 マイケル・J・フォックス(62歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️💃2023/6/9 水谷隼(34歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

港区芝浦に有った✨ジュリアナ東京✨1991年~94年,お立ち台・ジュリ扇・荒木師匠が印象的でした。

『スージー・クアトロ』 スージーQ
女性ベーシストってちょっと珍しい。
ハスキーボイスで歌う「キヤン*ザ*キヤン」は
日本でも大ヒット❗
日本酒「大関」のコマーシャルもやってましたね~
ロックなんて聞かない❗っていう人も、このCMは
覚えてるかも❓

✨🎼レーナウン.レナウン娘はワンサカ・・・・🎵✨シルビー.バルタンや多数の歌手が唄っていますね。

🐴【ララミー牧場】🐴
『ララミー牧場』(LARAMIE)は、1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたテレビ映画の西部劇。60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組であった。主演はジョン・スミス とロバート・フラー。一話完結方式で全124話、第1第2シーズンは白黒番組であったが第3シーズンよりカラー番組となった。日本では、1960年6月30日から1963年7月18日まで、毎週木曜日夜8時からNETテレビ(現テレビ朝日)系で放送された。米国で南北戦争が終焉を迎えた1860年代後半、ワイオミング州ララミー市の郊外にあるシャーマン牧場は、父親をならず者に殺されたスリム・シャーマン(ジョン・スミス)とアンディ・シャーマン(ロバート・クロフォード・Jr)の兄弟が経営して、牧場を残すための資金稼ぎに、駅馬車中継所を営みながら暮らしていた。そこへある日、ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)と名乗る一匹狼のガンマンが流れ着き、牧場を襲ったギャングを見事なガンさばきで倒したことから、牧場の一員として受け入れられることになる。彼もまた、自分の父を殺され放浪の旅に出た孤独な男であった。そしてこの3人と父親と親しかったウイリー(ホーギー・カーマイケル)の4人が、牧場を守りながら大陸横断郵便の要である駅馬車中継所を柱に、雄大な西部を背景として、そこで起こる様々な事件や出来事に立ち向かっていく物語である。

名作ボクシング漫画「#リングにかけろ」を久しぶりに読んでみました。第10巻「恐怖の日米決戦!の巻」では、まさしくシビアな生命のやりとり。破天荒な野球漫画「アストロ球団」の色濃い影響を感じます。不思議と連載当時の気持ちに戻れるものですね♪

【スティーブ・マックイーン】
※キング・オブ・クール(The King of cool)と呼ばれ、本格的アクション俳優として1960年代から1970年代にかけて1時代を築き世界中の映画ファンを熱狂させてトップ俳優としての地位を確立した。
映画史上で永遠に最も記憶に残る好きな不世出のレジェンド俳優だった!!
※TV西部劇・拳銃無宿(1958年)を始めて観た時から好きになった。その後
荒野の七人/大脱走/シンシナティキッド/砲艦サンパブロ/華麗なる賭け/ブリット/栄光のル・マン/ゲッタウェイ/パピヨン/…タワーリング・インフェルノ大ヒット等に出演した!
10代~20代の青春時代に憧れた「カッコいい…No1の映画スター」であった!
現在まで「スティーブ・マックイーン」を超える俳優は皆無!
惜しむらくは50歳の若さで死亡
17歳の映画デビュー作~好きだったフランスの女優~
「ブリジット・バルドー」②~4選~
In映画「ビキニの裸女」~1952年 フランス ~
17歳の彼女~すでにナイスボディーです。
これから世界のBBに駆け上がるのでした~~。
ジェームス三木さん
(1934年6月10日-)
脚本家、作家、演出家、元歌手。  
6月10日は、この人のお誕生日です。
身長170cm。
満州国奉天省奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)から小学生の時に大阪府茨木市に引き揚げ。
中学2年の時、父が心臓病で急死。
父の死後、
医師である叔父の勧めで医学部を受験する予定でしたが、
大阪府立市岡高校に入学後は演劇や恋愛に熱中。
高校2年の時、
演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。
これを期に俳優志望となり、
俳優座養成所の入所試験を受けたところ、
12倍の競争率を突破して合格。
1953年、3年生の5月に高校を中退して上京し、
第5期生として俳優座養成所に入所。
しかし学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに追われ、
大阪弁が抜けなかったことによるコンプレックスも災いし第6期に落ち、
市原悦子らと同期に。
さらに仲代達矢の後塵を拝していたこともあって養成所を2年で中退。
その後テイチクレコードの新人歌手コンクールに応募したところ、
200倍の競争率を突破して合格。
月給6,800円でテイチクの専属歌手となり、
ディック・ミネや三波春夫の前座を務め、
また石原裕次郎『錆びたナイフ』のテスト録音を行っています。
テイチクからは
フランク永井(ビクター)の対抗馬として売り出すために、
ジェームス三木と名乗りましたが人気が出ず、
地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送ります。
その間、大学入学資格検定に合格。
1960年3月1日、山下典子と結婚。
生活のため横浜のナイトクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手に。
30歳を過ぎて人気が落ち始めた頃、
新聞広告を見て文芸同人誌に小説『装飾音符』を発表。
この作品が『新潮』に転載(ジャック天野名義)。
これを機に文芸志望へ転じ、
シナリオ作家協会主催のシナリオ研究所(現在のシナリオ・センター)に研究生として入所。
半年後の1968年、
処女作『アダムの星』で第18回新人映画シナリオコンクールに準入選。
この作品が映画監督・野村芳太郎の目にとまり、
ナイトクラブ歌手と二足の草鞋を履きながら野村に師事。
1969年、
34歳のときに映画『夕月』で脚本家としてデビュー。
1983年には脳腫瘍で入院したが生還し、仕事復帰。
1985年、
連続テレビ小説『澪つくし』が視聴率55%を記録し、純愛ブームが巻き起こります。
1986年、本作で日本文芸大賞脚本賞受賞。
1987年、
大河ドラマ『独眼竜政宗』を大ヒットさせ、大河史上1位の視聴率を獲得。
執筆前に大量の史料を読み込んだといいます。
1989年、『善人の条件』で映画監督に初挑戦。
1997年、『存在の深き眠り』『憲法はまだか』で放送文化基金賞脚本賞受賞。
1997年、山下直子と再婚。
1999年、第50回NHK放送文化賞受賞。
舞台演出、小説、随筆なども手がけています。
(ジェームス三木)
ひし美ゆり子さん
(1947年6月10日-)
女優。
6月10日は、この人のお誕生日です。
身長158cm。
東京都中野区鷺宮1丁目(現・若宮1丁目)生まれ。
父は北海道出身で戦時中は技術者として兵器の会社に勤務していたほか、
後の千葉工業大学で教えていたことも。
父方の祖父は江戸出身で、
彰義隊の残党として北海道に移り住み、
ミス北海道の女性と結婚。
父は戦後、
手動式拡大コピー機の会社「スミラ工藝社」を興して成功しましたが、
やがて事業に失敗し、
負債処理のために中野の家を引き払い、
1954年8月、三鷹市牟礼(現・井の頭4丁目)に転居。
1963年、
中野区立北中野中学校から藤村女子高等学校に入学。
高校2年の終りの頃、
東宝主催「ミス東京セニョリータ」の準ミスに選ばれ、
ステレオセットや電気ミシンなどの賞品を獲得。
これがきっかけで東宝のカメラテストに呼ばれ、
東宝ニューフェイスの後身の第6期オール東宝ニュータレントに選ばれ東宝に入社。
東宝俳優養成所を経て1966年に『パンチ野郎』でデビュー。
同期には牧れい、小林夕岐子、若原啓子など。
デビュー当初は本名で活動し、1967年から菱見百合子に改名。
『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員役で知られます。
1972年、
東宝との専属契約が切れ、女優は辞めるつもりでいましたが、
個人的な記念のつもりで撮ったヌードが「週刊プレイボーイ」に流出し、
これを切っ掛けに東映の『不良番長』に出演し女優を続けます。
以降、
フリーとなって気分一心で現在の名前に改名。
『ポルノ時代劇 忘八武士道』『好色元禄㊙物語』など東映の成人映画にも出演。
『新仁義なき戦い 組長の首』でも見事な肢体を披露し、
主人公たちを翻弄する魔性の女を演じました。
その後も数多くのテレビドラマ・時代劇など各種作品に出演。
私生活では、1979年11月、
8歳年下の中華料理店経営の一般男性と結婚し、
4人の子供をもうけました。
自伝『セブンセブンセブン わたしの恋人ウルトラセブン』などの著作があります。
近年は
トークショー「ゆり子の友達の和!」やオンライントークショーを企画したり、
円谷プロ関連のイベントに参加するなど、
積極的にファンとの交流活動を続けています。
現在、女優業を休業。
(ひし美ゆり子)
ディック・ミネさん
(1908年10月5日-1991年6月10日、82歳没)
徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。
6月10日は、この人の命日です。
訳詞家・編曲家としては本名のを名乗り、
第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一と名乗りました。
創成期のテイチクレコードの立役者で、
日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、
日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばしました。
また、
トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、
その後純然たる俳優としても活躍。
結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
(ディック・ミネ、右の人)
吉田正さん
(1921年1月20日-1998年6月10日、77歳没)
茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家。
6月10日は、この人の命日です。
死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞。
位階は従四位。
生涯作曲数は2400曲を超えます。
都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、
ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けました。
吉田が描いた曲風は吉田メロディー(吉メロ)と称されます。
また、
鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど
多くの歌手を育て上げた、
第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人。
1921年(大正10年)
1月20日、茨城県多賀郡高鈴村(現在の日立市)に生誕。
1939年(昭和14年)
3月、日立工業専修学校卒業。
1939年(昭和14年)
4月、増成動力工業株式会社に入社。
1942年(昭和17年)
1月、満州国黒河省漱江に展開していた陸軍水戸歩兵第二連隊に入隊。
1944年(昭和19年)
急性盲腸炎のためペリリューの戦いに参戦せず満州に残留。
1945年(昭和20年)
10月、敗戦と同時に、ソビエト連邦シベリア地区に抑留される(シベリア抑留)。
従軍中に作曲した『大興安嶺突破演習の歌』に、
抑留兵の一人が『昨日も今日も』という詩を付け、
よみ人しらずで抑留地に広まり歌われる様に(後の『異国の丘』)。
1948年(昭和23年)
8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、
よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌い話題に。
1948年(昭和23年)
8月、ラジオ放送直後、舞鶴港に復員。
半月の静養の後、話題も知らず入隊前の会社に復帰。
1948年(昭和23年)
9月、佐伯孝夫が補作詞し、『異国の丘』としてビクターレコードより発売。
1949年(昭和24年)
4月、日本ビクターに専属作曲家として入社。
1960年(昭和35年)
12月、『誰よりも君を愛す』で第2回日本レコード大賞を受賞。
1962年(昭和37年)
12月、『いつでも夢を』で第4回日本レコード大賞を受賞。
同賞では後にその功績をたたえ『吉田正賞』を制定。
1968年(昭和43年)
12月、第10回日本レコード大賞特別賞受賞。
1969年(昭和44年)
4月、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章を受章。
1989年(平成元年)
日本音楽著作権協会会長に就任。
1990年(平成2年)
12月、第32回日本レコード大賞功労賞受賞。
1992年(平成4年)
4月、勲三等旭日中綬章を受章。
1993年(平成5年)
3月、日本放送協会放送文化賞受賞。
日本作曲家協会会長に就任。
1997年(平成9年)
日本作曲家協会名誉会長に就任。
1998年(平成10年)
6月10日、肺炎のため死去。77歳没。
同日付で従四位叙位。
作曲家としては
古賀政男(1978年)、服部良一(1993年)に次いで史上3人目となる国民栄誉賞を受賞。
日立市名誉市民として顕彰。
(吉田正)