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♥️💃羽生結弦さん、ご結婚おめでとう🕺🖤
フィギュアスケート男子で2014年ソチ、18年平昌五輪を連覇し、昨年7月にプロ転向した羽生結弦さんが4日、自身の公式SNSで結婚を発表。以下、報告全文。
「応援してくださっている皆さま
 いつも応援してくださり、ありがとうございます。この度、私、羽生結弦は入籍する運びとなりました。
 これまでの24年間、スケートと共に生きてきました。特に、この数年間は、コロナや自然災害、世界情勢等によって、不安定で目まぐるしく変化する世界の中で、多くのことを感じながら、スケートと向き合い、自分自身や世界について、さまざまなことを考え続けてきました。
 プロに転向した今も、競技者としての過去も、人間として未熟な私ですが、皆様からのたくさんの応援や期待、そして視線から計り知れないほど大きな力をいただいてきました。
 本当にありがとうございます。
 今日も、人生をかけて『羽生結弦』のスケートを深め、一生懸命に努力を続け、進化していきます。
 これからも、最高のスケートができるよう、一つ一つ、一瞬一瞬を積み重ね続けます。
 今後の人生も、応援してくださっている皆様と、スケートと共に、全力で、前へと、生きていきます。
 そして、支えてくださいました方々や、これからも支えてくださる方々への感謝の気持ちと共に、皆様の全てを、最高の形にできるように、滑り続けます。これからも、どうかよろしくお願い致します。
                            2023年8月4日 羽生結弦」
 ◆羽生 結弦(はにゅう・ゆづる)1994年12月7日、仙台市生まれ。28歳。東北高出。2014年ソチ五輪で日本男子初のフィギュア金メダル。18年平昌五輪で男子66年ぶりの連覇を達成。世界選手権は14、17年に優勝。13~16年にGPファイナル4連覇。2月の四大陸選手権で、シニアとジュニアの全主要国際大会を制するスーパースラムを男子で初めて成し遂げた。22年北京五輪では、クワッドアクセル(4回転半ジャンプ)に挑んだ。22年7月にプロ転向。
『野菊の墓』
 
 1981年度作品。カラー、ヴィスタ・サイズ、主演、松田聖子、桑原正、共演、加藤治子、村井國夫、赤座美代子、丹波哲郎、島田正吾他、原作、伊藤左千夫、脚本、宮内婦貴子、撮影、森田富士夫、音楽、菊池俊輔、監督、澤井信一郎、上映時間91分。
 松田聖子第1回主演作品。そして澤井信一郎第1回監督作品である。原作は有名な青春恋愛小説の古典、そして映画としても木下恵介が『野菊のごとき君なりき』(55)というタイトルで過去シーンを楕円形の画角で実験的に映像化した名作がある作品を伝説の助監督であった澤井信一郎が極めてオーソドックスな手法で演出して思わぬ感動をもたらす秀作として仕上げてみせた。
 公開当時蓮實重彦が「映画的美しさを触知するにはただそれが映画だと呟くだけで充分である」とアジ文を書きそれが角川映画『Wの悲劇』(84)の監督起用につながった。
 主題歌に乗って松田聖子がかけてくるタイトル・バックはプロモーション・ビデオみたいでこりゃあかんかと思わせたが本編が始まってからはきっちりと本格的な映画になっている事に感心させられた。
 今でこそ自立した女として同性の圧倒的な支持を得ている松田聖子だがこの当時は「ぶりっこ」として同性からは嫌われキャラであった。
 その彼女に年上の姉さんキャラ、しかも「聖子カット」と言われた前髪でおでこを隠したヘアスタイルを封印というよりおでこを露出させるスタイルで演じさせるというのは実はかなりの冒険であったのだ。
 おでこのエロティシズムというと大袈裟かも知れないが実は女のおでこには女の魅力を際立たせる力があるというのは映画的な真実なのである。より男に対して開かれたというか挑発的な効果をもたらすのである。例えばファースト・キスはまずおでこからというのが定番ではないかと言えばわかっていただけるであろうか。
 むろん本作は古風な悲恋ものだからキスひとつしないのだが、それ故にむき出しのおでこで待ち望みながらも周囲の思惑と無理解で引き裂かれてしまった悲しみがつのるのである。
 2人の距離が近づいた時に松田聖子のうなじや耳元や口元を横からアップで捉えるカッティングなども絶妙であった。
 ともかくやはり澤井信一郎の正統派の演出のうまさを堪能させられる映画である。野菊とりんどうという2つの花の扱い方や墓の回りに野菊を散りばめた構図や黄昏の夕焼けや撮影が素晴らしい。夕焼けに向かって2人が手を合わせてお辞儀するショットなどその後を暗示しているようで悲しく美しい。
 松田聖子はやはり歌手だけあって声は良いし台詞回しも意外にしっかりしている。これ1本で消えてしまった相手役もそのたどたどしい不器用な感じが「純粋真っ直ぐ君」に相応しく本作に関する限り適任であったと思えた。
 それやこれやでやはり木下恵介版と甲乙付けがたく好きな古風で美しい映画であったと思えた。ちょっと恥ずかしい思いもあるので★マイナス。レンタルDVDにて初公開時以来の再見。
 「キネマ旬報」誌1981年度ベスト15位。
花紀京さん
(1937年1月2日-2015年8月5日)
お笑いタレント、喜劇俳優。
身長166cm。
生前は
よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属し、
盟友の岡八朗と共に吉本新喜劇の二大巨星と呼ばれ、
新喜劇の黄金時代を築き長きに渡って君臨。
大阪府大阪市天王寺区出身、阿倍野区育ち。
父は漫才師の横山エンタツで、
次男でありながら少年時代は笑芸に興味がなく、
中学時代まで父親が喜劇人エンタツであることを認識していませんでした。
また、父子は一度も共演していません。
また兄は関西テレビの元プロデューサーで、
吉本新喜劇の中山美保は義姉(兄嫁)。
大阪市立墨江小学校、大阪市立阪南中学校、大阪府立阿倍野高等学校を経て
関西大学入学後の1958年、
麻雀仲間だった花登筺に弟子入りし、
内海重典、大村準一らの指導を受け、
OSミュージックホールにおける寸劇でデビュー。
1959年には芦屋雁之助らとともに劇団・笑いの王国の旗揚げに参加。
同劇団解散後、1962年に吉本興業入り。
師匠・花登の「花」と
自身の本名「京三」にちなみ、
「ききょうの花」をひっくり返した「花紀京」の芸名を名乗ります。
京三は新喜劇の役名としてしばしば使われています。
商店主、町工場主、建設作業員、工員、駐在といった庶民的な役を中心に、
怪しげな正体不明人物(最終的には間抜けな犯罪者だったり逆に刑事だったりする)
も得意としました。
1963年には早くも吉本新喜劇の座長に抜擢され、
岡八郎、原哲男、桑原和男らとの独特のボケ・ツッコミをくりひろげるコンビ芸で活躍。
同時に
『てなもんや三度笠』などのテレビ番組にも出演。
岡とはのちに、
漫才ブームの時期にテレビ番組でコンビを組んで漫才をしたことも。
1989年、
「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」を開始した吉本新喜劇を退団。
その後は多数の映画やテレビドラマに出演し、新境地を開拓。
2001年、
ダウンタウン、東野幸治、ココリコ、ロンドンブーツ1号2号、山田花子、藤井隆、間寛平と
期間限定ユニット「Re:Japan」を結成し、
第52回NHK紅白歌合戦に出場。
2002年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、
療養中だった2003年5月に自宅で入浴中、
低酸素脳症を発症して、事実上の活動休止状態に。
2015年8月5日午後7時半すぎ、
肺炎により入院先の大阪市内の病院で死去。
78歳没。
(花紀京)
⭐️カッパ黄桜🍶⭐️
子供の頃…ちょっとドキドキしました…🥰
仮面ライダーマッハが藤田ニコルさんと結婚‼️✨💐
わりと長く交際しての結婚のようで、末長き御幸せを祈ります。
おめでとうございます😄✨💐
御木本伸介さん
(1931年5月22日-2002年8月5日)
石川県金沢市出身の俳優。
身長173cm。
一男一女の長男で、日舞藤間流名取の姉がいます。
父方の鈴木家は、
代々加賀前田家の御殿医を務めた家柄。
父の武も医師でしたが、
太平洋戦争末期には、
海軍に徴用されていた日本郵船所有の貨客船筥崎丸に機関士として乗船。
1945年3月19日、
筥崎丸はアメリカ海軍の潜水艦による雷撃を受けて沈没し、父は戦死。
長唄の師匠だった母・喜美の稽古料が遺された家族の生活の支えとなるも、
1950年には母も病死し、祖母と姉との生活に。
松ヶ枝国民学校初等科卒業後、
旧制金沢第二中学校から学制改革の為、
新制石川県立金沢第一高等学校を経て石川県立金沢二水高等学校を卒業。
医学部志望でしたが経済的理由で断念し、
1950年に立教大学経済学部に進学。
大学に進む頃には、
父がいてくれればと何度も思いましたが、
それと同時に、
自分の力で生きていくのだという思いを強くしたといいます。
大学在学中の1953年、
アルバイト中に知遇を得た映画監督阿部豊の誘いで、
阿部が監督を務める『戦艦大和』に本名で端役で出演。
複数いるエキストラの青年士官の一人ですが、
一言だけ台詞があり、
同じ役柄で同じシーンに出演していた丹波哲郎よりも頻繁に画面に収まっています。
この経験をきっかけに演劇に興味を持ち、
1954年に文学座附属演劇研究所に入所。
鈴木紳也の名前で、
阿部豊の監督作『叛乱』、『日本敗れず』、『花真珠』、
松林宗恵監督・須崎勝弥脚本の『人間魚雷回天』に出演。
1955年、
大学卒業と同時に文学座研究所を退所し、
阿部豊の助言で新東宝と契約。
阿部の命名で芸名を御木本伸介と改め、
松林宗恵初の喜劇作品となる『風流交番日記』の新人巡査役で本格的にデビュー。
現代劇と時代劇の双方に出演し、
主に助演者として、善人から悪人、狂人まで幅広い役柄を演じました。
阿部豊や松林宗恵が新東宝を離れた後は、
供給過剰の製作体制の中で作品に恵まれたとは言い難いですが、
主演男優的ポジションを務めた小林悟監督のオールロケ作品『三人の女強盗』では、
平凡な日常生活が一気に暗転して追い込まれていく不運なタクシー運転手を演じ、
「御木本伸介の素ぼくな熱演を注目してやりたい」
と深沢哲也から好意的批評を受けました。
新東宝以外の映画作品では、
1962年公開の大蔵映画2本に端役で出演。
また、東映の任侠映画にも多く出演、
新興ヤクザの横暴に苦しめられる善良な老舗の若旦那や、
袖の下の通用しない堅物の軍人や役人といった真面目な役柄が殆ど。
若山富三郎主演の『極悪坊主 人斬り数え唄』には、
柔術家の弟子という役柄で出演。
『人間魚雷回天』の須崎勝弥が脚本を担当した『あゝ予科練』では、
普通学の国語担当の教官役で、
死地へと赴く生徒達への精一杯の思い遣りと、
送り出す者の苦しさを表して印象を残しました。
日活三人娘の一人、
松原智恵子主演の『涙でいいの』では、
松原演じるヒロインに想いを寄せられる写真家を演じています。
特撮作品に
『スーパー・ジャイアンツ』二作品と
『まぼろし探偵 恐怖の宇宙人』、『ゴジラ(1984版)』。
新東宝解散後にはフリーとなり、
テレビドラマを中心に活動。
1961年に出演した『新選組始末記』での伊東甲子太郎役がドラマ製作者に好評で、
講道館柔道の創始者嘉納治五郎とその高弟達を描いた
『柔道一代』の主人公・真野修五郎役に選ばれました。
当初は全26話、半年間の放送予定でしたが、
村田英雄の歌う主題歌とともに人気になり、
延長が重ねられて2年間続きました。
御木本自身の柔道経験は、
旧制中学時代の正課で習ったのみでしたが、
番組開始後に講道館から初段を授与。
『柔道一代』終了後には、
大島渚が手掛けた唯一の連続テレビドラマ『アジアの曙』に主演。
中国大陸で革命に身を投じる主人公の中山峯太郎を演じました。
『柔道一代』の成功を受けて日本電波映画が制作した柔道もののうち、
『柔一筋』と『柔道水滸伝』にも出演。
1967年には明治100年を記念したNHK大河ドラマ『三姉妹』に桂小五郎役で出演。
ほかのレギュラー出演作に、
松村達雄と沢村貞子演じる老夫婦の磊落な次男を明朗に演じた松山善三原作のホームドラマ『ひげとたんぽぽ』、
坂口良子主演の『幸福ゆき』のヒロインの父親役など。
2時間サスペンスにも出演し、
中でも1986年制作の『夜に頬よせ 過去を抱いた女』は、
撮影から2年近くを経て深夜に放送されたことに加え、
池田敏春監督・石井隆脚本の作品であり、
役柄的にもやや異色。
テレビ時代劇では家老や陰謀の黒幕といった悪役で度々出演しています。
『水戸黄門』では善人役がほとんどでした。
『必殺シリーズ』では闇の元締役だった一回を除き、全て仕置きされています。
『鬼平犯科帳』には、
萬屋錦之介版と中村吉右衛門版の両方に与力・天野甚造役でレギュラー出演。
他のレギュラー出演に、
中野誠也主演の『次郎長三国志』(大政)、
『長崎犯科帳』(与力・三島与五郎)、
『お耳役秘帳』(同心・志波京之介)、
『暁に斬る!』(夢助)など。
1960年代後半から商業演劇の舞台にも立ち、
長台詞の上手さと、
短い出番でも強い印象を残せる演技力で、
立役から悪役、喜劇もこなし、
渋さと重厚さを備えた押し出しの良い助演者として
江見俊太郎、遠藤太津朗らと並ぶ名脇役に。
特に萬屋錦之介公演では
要となる脇役として錦之介を支えました。
1996年末に心筋梗塞で倒れましたが、療養後に復帰。
1998年には、
翌年放送のNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で小野寺十内役にキャスティングされ、
第三次出演者発表(1998年4月27日)にも出席していましたが降板。
その後は、
それ以前と比べて出演作が大幅に減り、
主に鈴木伸太郎プロデューサーの現代劇に出演しましたが、
2002年の「太陽と雪のかけら」へのゲストが最後の出演に。
2002年8月5日、肺癌のため都内の病院で死去。
71歳没。
(御木本伸介)

亀掬い。これは、今は廃止になったそうです。

8月5日は女優 #マリリンモンロー さんのご命日。
「週刊現代」1962年8月26日号より「マリリンモンローの死 ハリウッドの華やかな悲劇」。多くの謎を遺したまま、突如36歳の生涯を終えたマリリン。死の直前に綴った手記の一節「私には本当の幸せはなかった。あったのは名声だけ」が哀しい。

♥️2023💃8/6 奥菜恵(44歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/6 ミシェール・ヨー(61歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

鍛冶昇『二人の銀座』(1967)
前回アップした『爽春』で、木川の家族がブルコメの『ブルー・シャトウ』を歌う場面があるのですが、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが出演した作品として思い出したのが、標記でした。
公衆電話ボックスで会話に夢中になっていた瀬川マコ(和泉雅子)は、イライラしながら順番待ちをしている大学生・木村健一(山内賢)に顔をそむけて表へ出ると、ボックスに楽譜を落としたまま行ってしまいます。
楽譜を見つけた健一は、友人三人と結成したバンドの“東南大学 ヤング・アンド・フレッシュ”で拾った楽譜の「二人の銀座」を演奏しますが、意外にも客に受けてしまいます。
一方楽譜が健一の手元にあることを知ったマコは、姉・玲子が大切にしている楽譜を落としたことに気づき、曲は姉である玲子(小林哲子)の姿を消した昔の恋人・戸田周一(新田昌玄)が作ったものである事から、楽譜を返してくれるようにと言います。しかし健一の情熱に負けたマコは、戸田が戻ったら返すという条件で曲を貸すことにし、戸田を探し始めます・・・・・。
ザ・ベンチャーズが火付け役になり、当時はエレキブームが到来しましたが、彼ら作曲して発売したシングルを、後に和泉雅子さんと山内賢氏の2人がデュエット曲としてカバーし、シングルとして発売し映画化されたのが標記作品です。
モノクロで映し出されたオープニングで、エレキバンドを従えた2人の歌が流れるクレジットはスタイリッシュで、同年公開の『東京ナイト』でも同じスタイルを採っています。
題名の通り、この作品は舞台となる当時の都市の風景や風俗を映し出している点に大きな魅力があり、冒頭の公衆電話ボックス・シーンの日比谷公園を皮切りに、銀座の街並みや当時の「ジャズ喫茶」(今でいうライヴハウス)や大学のダンスパーティーで演奏するバンドのメンバーは、山内氏のリード・ギターに和田浩二氏のドラムも様になっています。
ランチ・コートやダッフル・コートに身を包んだ彼らのファッションも、モノクロなので色合いがわかりませんが、みゆき族の名残りを観るようです。
この作品は、歌謡映画と言っても良いように、和泉雅子さんのソロのみならず、尾藤イサオ氏やブルー・コメッツ、ヴレッジ・シンガースの歌が聴けるのも魅力ですが、特にブルコメは『ブルー・シャトウ』と共に歌った『甘いお話』はお気に入りの1曲です。
そうした音楽をキーにしたプロットに、楽譜の作曲家である戸田周一を2人が探していくというミステリー要素も加味され、探し当てた戸田は「過去のある男」として、日活プログラム・ピクチャーの定型的なキャラとして登場します。
また、落語ファンとしては、金原亭馬之助師匠や月の家円鏡師匠の出演も嬉しいところですが、この作品の特徴を映画評論家の川本三郎氏が次のように述べていたのが印象的でした。
「いがみあっていた山内賢と和泉雅子が結ばれることは言うまでもないが、消えた作曲家の新田昌玄と、その恋人、小林哲子が長い空白のあとに結ばれるのが泣かせる。
若い二人が夜の銀座を明るく前を向いて歩いてゆくのに対し、大人の二人とはいえば、去り行く男の背中を女がひっそりと追う。絶妙な対比になっている。」
(『銀幕の銀座 なつかしの風景とスターたち』)
🔴昭和のNHK朝ドラ『おしん』1983🌸🌸🌸
😊小林綾子❤️💚💙
🟠世界的ヒットになりましたね‼️

さすがに!これは観てないのですが?…戦時中の国策映画🎥……小さい頃(昭和30年代)NHKのクイズ番組(多分?私の秘密)の回答者であった(山本嘉次郎)監督…大河内傳次郎…藤田進…原節子…等出演/…それでこの🎥映画で特殊撮影担当の(圓谷英二氏)の本名は(円谷英一)だと…最近知りました!…円谷氏の故郷…福島県須賀川市ホテルウィングのロビーには円谷氏、ゴジラ、ウルトラマンの等身大(?)オブジェがあるです!…そして須賀川アリーナ(体育館)には(円谷幸吉さん)の記念碑があったと思うです!…元巨人(中畑氏)の故郷でもあるです!…美しい町であるです!…本編と関連が少なくてスイマセン!

昭和42年頃東京・新宿に、毎日どこからともなく現れ、シンナーを吸いながら一日中通行人を眺めたり、逆に感情のおもむくまま踊り狂ったりしていた若者たちを”フーテン族”といった。

アメリカ合衆国の
ハードロック・バンド。
アメリカンハードロック草創期から
活動する、同東海岸を代表する
世界的グループとして知られる。
KISS(キッス)だ!!
     
ハードロックやヘヴィメタルの世界に
入るキッカケなった方も多いと思います。
   
   
1枚目写真左から
     
ピーター・クリス
生誕 1945年12月20日
年齢 77歳
身長 175cm
出身 アメリカ・ニューヨーク州
     
ポールスタンレィ
生誕 1952年1月20日
年齢 71歳
身長 180 cm
出身 アメリカ・ニューヨーク州
       
エース・フレーリー
生誕 1951年4月27日
年齢 72歳
身長 185 cm
出身 アメリカ・ニューヨーク州
       
ジーン・シモンズ
生誕 1949年8月25日
年齢 73歳
身長 185 cm
出身 アメリカ・ニューヨーク州
覚えていますか🤔
今もあるんですかね〜
ぎょう虫検査、自分でやっていましたか?
白黒テレビ時代のアニメ作品は、カラーテレビの時代になると、カラーにリメイクされていった。
ハリスの旋風(かぜ)も、スポンサーだったカネボウハリスガムが、カラー版のスポンサーにならなかったので、タイトル名が使えず『国松さまのお通りだい』と言うテーマ曲の歌詞がタイトルになった。
内容はほぼ同じ。制作がビープロから虫プロに変わっただけだった。

麻丘めぐみさん 昭和30年10月大分県生まれ大阪育ち 愛称 カコちゃん、3歳から子役・CMモデルとして活躍し雑誌「女学生の友」や「セブンティーン」にも専属モデルとして登場していた。 歌手だった姉の現場でスカウトされ、昭和47年17歳「芽ばえ」でレコードデビュー。 同年レコード大賞最優秀新人賞受賞。その後「悲しみよこんにちは」「女の子なんだもん」「森を駈ける恋人たち」など次々とヒットをとばし48年に発売した「わたしの彼は左きき」が大ヒット。左ききブームが起こる。 その年、日本レコード大賞大衆賞、歌謡大賞放送音楽賞を初めとする数々の賞を受賞しNHK紅白歌合戦初出場を果たし70年代を代表するトップアイドルとなる。当時僕も左ききになりたかった一人です。

一龍斎貞水(いちりゅうさいていすい)さん(1939〜2020) 講談師初の人間国宝✨  昔はこの季節になるとよく📺お見かけしましたが、今の時代こういう怪談話をする芸人さんてあまり見かけなくなったのがちょっと残念に思いますね~。

辰巳琢郎さん
(1958年8月6日-)
俳優、タレント。
タクスオフィス所属および代表取締役社長。
身長181cm、体重73kg。
母方の実家の石川県小松市の病院で生まれ、
大阪府大阪市住之江区(旧住吉区)育ち。
結婚後に枚方市に約10年間在住、
現在は東京都在住。
大阪市立敷津浦小学校、
大阪教育大学附属天王寺中学校、
大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎、
京都大学文学部卒業。
1男1女あり(長男は一般人で医師、長女は辰巳真理恵)。
義父は枚方市民病院元名誉院長で外科医だった森田邦夫。
父親は大島渚と京都大学で同窓。
つかこうへい事務所初の大阪公演『ストリッパー物語』を観て感化され、
高校時代に友人の堤啓介(後にNHKに入局)と演劇愛好会劇団軟派船を結成。
大学在学中には
卒塔婆小町(劇団そとばこまち)を主宰、
初代座長を務める(当時の芸名は「つみつくろう」)。
劇団員には川下大洋や生瀬勝久ら。
大学卒業と同時に
『ロマンス』にてヒロインの相手役に抜擢されて以降、
知的で端正な二枚目ぶりで個性を発揮。
近畿大学文芸学部客員教授、国連WFP協会顧問、京都市観光大使なども務めています。
日本棋院評議員として囲碁の東京オリンピック正式種目化を目指しています。
2008年、小笠原諸島返還40周年大使に任命。
賞歴には法務大臣感謝状など。
(辰巳琢郎)
The Miracle Workerー奇跡の人
1962年のヘレンケラーを描いた映画
パティ デューク
アン バンクロフト
み...み...み..ず.....の有名なシーン
三遊亭好楽さん
(1946年8月6日-)
落語家。
東京都豊島区出身。
前名は林家九蔵。
出囃子は『ずぼらん』、
あるいは五代目三遊亭圓楽、および六代目円楽と同じ『元禄花見踊』。
2020年より、五代目圓楽一門会顧問。
演芸番組『笑点』(日本テレビ)の『大喜利』メンバー。
豊島区東池袋で、8人兄弟の6番目として誕生。
6歳の時に警察官であった父親が40代で急死したのちは母親の手で育てられます。
幼少時代は、
いわゆる「面倒見のいいガキ大将」。
日頃は厳しいものの、
家事一切を済ませ子供を寝かしつけた後、
ラジオで落語を聴いて楽しんでいる母親の姿を見て、
落語に興味を持つように。
京華商業高等学校時代は、
小遣いなどをやりくりして池袋演芸場に日参。
高校卒業後の1966年4月、
19歳の時に八代目林家正蔵(のち彦六)に弟子入りを志願するも、
その時は「私は来月70歳になるから」と弟子入りを断られます。
しかし、4回目の願い出でようやく
「死んだ息子と同じ名前だから」と入門を許可され、
「林家のぶお」名義で前座、
1年後に「九蔵」の名をもらいます。
1971年11月に
三遊亭歌司、金原亭駒三郎、橘家竹蔵、柳家さん八、三遊亭歌橘、三遊亭楽松、三遊亭朝治と共に
二つ目に昇進。
1979年より、
日本テレビ系列の『笑点』の大喜利メンバーに加入。
1981年9月に
柳家さん八、柳家小袁治、十代目土橋亭里う馬と共に
林家九蔵で真打に昇進。
それから間もない1982年1月29日に師匠・彦六が死去。
それから約1年後の1983年4月、
五代目三遊亭圓楽門下に移籍して「三遊亭好楽」に改名。
同時に落語協会から大日本落語すみれ会(→五代目円楽一門会)へ移籍。
移籍後、
「古典落語をしっかり修業」すべく、
『笑点』を1983年10月9日放送分を最後に一時降板。
それから約4年半後の1988年4月3日放送分から、
降板した七代目桂才賀に代わって『笑点』に復帰。
2010年、
初の落語集CD『三遊亭好楽 落語集 好日楽語』をリリース。
2012年、
自身の半生を振り返る「好楽日和。」を晶文社から上梓。
2013年には自らの高座や若手(主に好楽の弟子)の育成を目的に、
自宅を新築して寄席「池之端しのぶ亭」をオープン。
2015年から2020年まで円楽一門会の会長。
2016年から2017年にかけては、
自身の芸歴50周年を祝う
「好楽ちゃん祭り ~芸歴50周年&古希記念落語会~」
を、王楽のプロデュースで開催。
2022年、文化庁長官表彰。
落語協会から移籍して以降は、
寄席での定席興行には弟弟子にあたる6代目円楽が客員として
所属していた落語芸術協会の興行などにゲストとして出演したことはありましたが、
2023年2月の落語協会・浅草演芸ホール中席昼の部(主任:六代目春風亭柳朝)の
出演者に顔付けされました。
落語協会定席興行への出演は圓楽一門会への移籍以来40年ぶり。
この興行は好楽のかつての兄弟子(彦六門下)に当たる
五代目春風亭柳朝の三十三回忌追善興行と銘打たれており、
柳朝の弟子である春風亭小朝が好楽の出演を提案、
他流所属であるが特例として
落語協会の承認を得ての出演となりました。
(三遊亭好楽)
谷村昌彦さん
(1927年2月25日-2000年8月6日)
俳優。
身長170cm。
山形県山形市出身。
1941年に上京。文化座に入団。
浅草公園六区の舞台で役者としての活動を始め、
同時に高輪工業学校(現・高輪中学校・高等学校)に通いましたが、
最終的には中退。
1944年に森川信一座へ入団。
その後は空気座に所属し、
1954年に金星プロに所属。
田舎訛りのキャラクターがウケ、刑事ドラマや時代劇のレギュラーとして活躍。
日本喜劇人協会の理事も務めていました。
『Gメン'75』には多くゲスト出演があり、
晩年に古田刑事としてレギュラーに迎えられます。
2000年8月6日、膵臓がんのため73歳で死去。
(谷村昌彦)
坂井義則さん
(1945年8月6日-2014年9月10日)
元陸上競技選手。
元フジテレビ社員。
1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナーを務めました。
広島市に原子爆弾が投下された1時間半後に、
現在の広島県三次市(当時は双三郡三次町)にて出生。
自身は被爆者ではありませんが、
電力会社に勤務していた父は被爆者健康手帳の保有者。
広島県立三次高等学校在学中の1963年(昭和38年)、
第19回国民体育大会400mで優勝、
東京オリンピックへの出場を目指し、
1964年(昭和39年)早稲田大学に入学。
大学では競走部に所属、
監督の中村清の指導を受けました。
東京オリンピックの400mと1600mリレーで強化選手に指名されましたが代表選考会で敗退、
失意の底にあった矢先、
組織委員会は聖火最終ランナーの地位を
「広島への原爆投下の日」という象徴的な日に生まれた坂井に託しました。
開会式当日、
国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で
前の区間を走った鈴木久美江(当時中学3年生)から聖火を受け取り、
トラックを半周したあと聖火台までの階段を昇りました。
10万713人目のランナーでした。
この聖火リレーでトラックを走る坂井の姿が
アメリカ最大のスポーツ雑誌スポーツ・イラストレイテッド誌の
1964年10月19日号の表紙に使用。
これにより坂井は初めて同誌の表紙を飾った日本人となりました。
坂井はその後、
400mと1600mリレーで活躍し、
1966年(昭和41年)のバンコクアジア大会では1600mリレーで優勝、
400mでも銀メダルを獲得。
オリンピックへの出場歴はなし。
1968年(昭和43年)に
フジテレビに入社し(アナウンサーで入社した逸見政孝や山川建夫、松倉悦郎は同期。
特に逸見・松倉とは早稲田大学の同期でもありました。)、
主にスポーツと報道分野を担当。
1972年ミュンヘンオリンピックと
1996年アトランタオリンピックでオリンピック報道を手がけました。
ミュンヘン大会ではパレスチナのゲリラによる選手村襲撃事件が起こり、
坂井は日本選手団のユニホームを借りて選手村に潜入し、
現地から電話で事件を報告。
アトランタ大会でも爆弾テロ事件がありました。
東京国際マラソンの実施なども手がけ、
海外有力選手の代理人と出場の交渉も担当。
2005年(平成17年)にフジテレビを定年退職。
以後は
フジテレビの関連番組制作会社に再就職してエグゼクティブプロデューサーとして活動。
子息の厚弘はTBSで勤務、
2007年世界陸上選手権では国際映像のチーフディレクターを担当。
2020年東京オリンピック開催地決定を見届け、2014年9月10日午前3時1分、
脳内出血により東京都文京区の病院で死去。
69歳没。
(坂井義則)

令和5年8月6日 夏の甲子園大会⚾️が開幕!高校野球と云えば、野球漫画のバイブル「ドカベン」「大甲子園」この時期が来ると、大会の熱戦と合わせて読みたくなる漫画です!昨年、天国に行かれた水島新司先生も球場のどこかで球児の活躍を見守っておられる事でしょう。🏟️

中村登『智恵子抄』(1967)
明治44年、高村光太郎(丹波哲郎)はパンの会に属し、奔放な生活を送っていましたが、彼の身を案じる友人の椿夫妻(岡田英次、南田洋子)の紹介で、画学生長沼智恵子(岩下志麻)と見合いします。
1年を経た2人の仲は急速に深待って結婚し、光太郎は詩作に専念。智恵子は油絵に没頭します。しかし、大正4年に智恵子は絵を文展に出品しましたが、結果は落選となり傷心の智恵子は光太郎と共に故郷二本松を訪れます。
智恵子の父宗吉(加藤嘉)と母やす(室生あやこ)は2人を心から歓待しますが、二本松から帰った智恵子は絵筆を捨て、かわりに機織をはじめます。そんな頃、二本松に大火があり、父宗吉は焼死してしまいます。
昭和6年、智恵子の姪ふみ子(島かおり)が看護婦試験に合格し、智恵子と光太郎のアトリエに寄宿していた頃、智恵子の実家が倒産したという知らせが届きますが、智恵子は夫光太郎に事実を話さずに1人苦しみ、光太郎の留守をねらって服毒自殺を図ります。そんな智恵子は病院に入れられ一命を取りとめましたが、精神に異常をきたしていたのでした・・・。
標記は、高村光太郎氏の詩集『智恵子抄』と佐藤春夫氏の『小説智恵子抄』を原作とした第40回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品です。
中村監督作品での岩下志麻さんの起用では、その美しさにおいては『古都』がベストワンだとは思いますが、単に狂気に陥っていくのみならず、正常と狂気を往還し、自身が狂気に陥っていくことを自覚していくという辛さを踏まえた、後半における智恵子の生き様は、志麻さんの美しさの裏にある迫真の演技に頼る展開であり、その意味では、数多くのヒロインを演じた志摩さんの作品の中でも見落とせない1本かもしれません。
その点、登場人物も少なく2人の生活を丹念に描いた演出ですが、いくつかの場面で挿入される詩集『智恵子抄』からの詩の引用は、朗読の芥川比呂志氏の端正な語り口から文学的世界をとてもうまく描き出しています。しかし、見所はその具体的な詩作そのものの世界を映像化していることでしょう。『智恵子抄』の中から、その代表作である『樹下の二人』、『あどけない話』、『風にのる智恵子』、『レモン哀歌』、」『荒涼たる帰宅』などを描いているのには目を見張ります。
更なるハイライト・シーンは、病院を見舞った光太郎が、智恵子の切抜き絵をみて驚く場面でしょう。そのすばらしい造型とすぐれた色彩感覚は、狂気の人がつくったものとは思われず、中村監督は、その作品自体も上手い演出で描き出していました。

♥️2023💃8/8 白石美帆(45歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

篠田正浩『化石の森』(1973)
大学病院の実習医である治夫(萩原健一)が母親である多津子(杉村春子)に抱く嫌悪感や、移り気な恋心が描かれ、若さゆえの複雑で繊細な心情がとらえられてプロットは展開します。
高校で同級だった井沢英子(二宮さよ子)と再会して深い中になった治夫は、英子の愛人でもある高級理髪店のマスター(田中明夫)の殺害という完全犯罪を2人は成し遂げます。その陶酔から英子は治夫の女房気取りで振舞い始めますが、それを煩わしく思う治夫は、子供の治療をきっかけとして塩見菊枝(八木昌子)と深い仲になり、その関係に嫉妬する英子の行く末が、母親の前景化により物語の行方を大きく左右していきます・・・。
現代社会の大都会を「化石の森」と解釈し、そうした乾ききった世界の中で蠢く人間模様を描き出した石原慎太郎氏の長編小説を原作とした標記は、1970年代初頭という“政治の季節”が終焉した時代に彷徨する若者の心情を上手く捉えた作品で、そのテーマは、原作を踏襲し「他者に対する“嫌悪”という情念はついに自己を救済できるだろうか」という点にあります。
そこには母親と息子の確執、愛人殺しの他に、医学の限界や医学界の閉鎖性も描いた社会性を受けとることができますが、それは治夫の倫理観が人一倍強く、それは観念として顛倒したことにより殺人を教唆するという考えに至ったと受け取れるでしょう。
治夫は英子に「憎い奴は殺すまで憎め」と言い放ちますが、そこにはそれまでの政治に向かっていた‘60年代的ラディカリズムが終焉した当時の時代状況を背景に、その塞がれた信条の発露を、強い倫理性を糧に表象させた存在論的な光を当てたと言えるでしょう。
同年では、市川崑監督作品『股旅』で、無軌道な青年役を演じた萩原健一氏ですが、ここでの演技は、その後の神代辰巳監督作品『青春の蹉跌』での主人公のキャラなどにも踏襲されているようです。
また、子供の障碍に悩み菊江は信仰宗教にすがるようになりますが、治夫とこの教団の神父である辻(岸田森)とでは、医学と宗教に関わる問答が繰り広げられます。『傷天』でも萩原氏と共演したここでの岸田森氏の存在感はさすがですが、このキャラは後のオウム真理教の林郁夫を彷彿とし、当時の“政治の季節”が終焉した後に台頭してきたニューエイジ・ムーヴメントの隆盛などを背景とすると、当時の時代の空気はここでも上手く描かれているようです。
また、もう1つのテーマとは、原作では光が当たらなかった多津子と治夫との共犯関係を媒介とした「家族の回復」の物語であると言えるでしょう。
不倫の負い目から自分の息子に敬語を使っていた多津子が、わが子の為になら人殺しも辞さないという偏愛を背景に、最後に母親として息子を束縛するラストシーンは象徴的であり、むしろ、この作品はバイプレイヤーとしての杉村さんを主役と言っても過言ではない存在感を示しています。
また、萩原健一氏主演作の劇伴音楽は、井上堯之氏が担当することが多いのですが、ここでは武満徹氏のサウンドが、程よい緊張感を醸し出して絶妙な効果を生んでいます。治夫が自室でかけるレコードは、武満氏のペンによるモダン・ジャズですが、このサウンドが特に印象的です。
桑名 正博さん
1953年8月7日生まれ。
生誕70年。
2012年10月26日没、享年59。
大阪府 大阪市出身
ミュージシャン、俳優、実業家。 
舞台『ロックミュージカル ウェッド』
1987年公演 サンシャイン劇場
キャスト
桑名正博
夏木マリ
ピーター

♥️2023💃8/8 ダスティン・ホフマン(86歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃8/7 桑名正博(59歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

増岡弘さん
(1936年8月7日-2020年3月21日)
声優、俳優、ナレーター。
埼玉県出身。
最終所属は東京俳優生活協同組合。
埼玉県南埼玉郡(現在のさいたま市岩槻区)出身。
埼玉県立大宮工業高等学校卒業。
当初は絵描きを志しており東京芸術大学美術学部に入るも、
「自由な絵を描きたい」という理由から2年で中退。
その後文化学院文化芸術科卒業。
東郷青児に世話になるなどしましたが、
新しいことがやりたくなり、
東京でサンドイッチマンの仕事を始めます。
そのときの知人の誘いで舞台美術の仕事(舞台装置の制作)にかかわり演劇の世界に入るも、
しだいに「食べていけない」と思うように。
あるとき、とある公演の舞台美術を担当した際、
出演する人物が資金を持ち逃亡したため、
急遽その人物の代役を担当。
台詞を忘れるなど恥ずかしく悔しい思いをし、
「もう一度やり直したい」と希望したことがきっかけで役者に転向。
友人を頼って名古屋に移った後、
放送局の劇団員オーディションに応募し合格。
中部日本放送の東京支社に出入りしていた際に
その近隣にあった喫茶店のマスターに
東京俳優生活協同組合のマネージャーを紹介してもらい、
1961年(昭和36年)から同事務所に所属。
テレビ草創期から活躍しており、
アニメ『狼少年ケン』の大熊役以降は声優としての活動が大きいです。
1978年(昭和53年)6月11日放送分からは
近石真介に代わって『サザエさん』のフグ田マスオ役を、
1988年(昭和63年)からは
『それいけ!アンパンマン』のジャムおじさん役を長年演じていました(『サザエさん』のフグ田マスオ役は41年、
『それいけ!アンパンマン』のジャムおじさん役は31年)。
声優業以外にも、
劇団「東京ルネッサンス」を主宰して、
舞台活動も行っていました。
また、
野沢雅子、肝付兼太、白石冬美と共に東京アニメーター学院で声優科の講師も務めていた他、
自然団法人「みそひともんちゃく」の代表でもありました。
2018年(平成30年)、
第12回声優アワードにて功労賞を受賞。
2019年(令和元年)8月、
高齢に伴い、自ら申し出て、
長年演じた『サザエさん』のフグ田マスオ役と
『それいけ!アンパンマン』のジャムおじさん役をそれぞれ卒業。
上記の卒業発表の前後約1か月には
『有吉くんの正直さんぽ』のナレーションを体調不良のため、
一時降板していましたが、9月から復帰。
これについては復帰後、
体調を見ながら収録をしていくという形になり、
生前最後の収録となった2020年1月25日放送分まで続けていたました。
2020年(令和2年)3月21日午前2時53分、
直腸がんのため死去。
83歳没。
(増岡弘)
中島春雄さん
(1929年1月1日-2017年8月7日)
俳優、スーツアクター、スタントマン。
身長168cm。
愛称は春ちゃん。
山形県酒田市出身。
趣味・特技は
水泳、潜水、スキューバ・ダイビング、柔道。
実家は肉屋で、5人兄弟の三男。
水泳・素潜りが得意で、
のちのゴジラ役では大いにこれが役立ちました。
三男坊で家業は継げず、
小学校卒業後に横須賀へ移住。
1943年(昭和18年)、
14歳で横須賀の海軍航空技術廠の養成所に入り、
養成員(予科錬)となり、
発着機部(カタパルト担当)配属。
円谷英二や有川貞昌と同じく、飛行機乗り志望。
1945年(昭和20年)、16歳。
終戦となり、実家へ戻ります。
家業を継いだ兄がまだ復員しておらず、
肉屋を1年間手伝います。
1946年(昭和21年)、17歳。
兄が復員したため、
予科錬の同僚の紹介で三沢飛行場にて進駐軍の物資輸送トラックの運転手となりますが、
スピード違反を犯して解雇。
1947年(昭和22年)、18歳。
新聞広告を見て俳優養成所「映画俳優学校」に応募して入校し、
東宝や新東宝などの映画撮影所に出入りするように。
同期生には
広瀬正一、丹波哲郎、高倉みゆきら。
1949年(昭和24年)、20歳。
黒澤明監督作品『野良犬』で映画に初出演するも、
編集で出演シーンを全カットされてしまったため、
幻のデビュー作に。
1950年(昭和25年)、21歳。
俳優学校の講師を務めていた坂内永三郎からの誘いで、
東宝に入社。
役のつかない、いわゆる「大部屋俳優」に。
当時の東宝は賃金不払いが常態化しており、
運転手時代の貯金を切り崩しながらの不安定な立場だったといいます。
こうした状況から組合に加入し、
映画界の労働争議にも加わっています。
1953年(昭和28年)、24歳。
『太平洋の鷲』での攻撃機航空兵役で、
日本で初めて身体に火をつけてのファイヤースタントを演じました。
当時、日本にはスタントマンという職業はまだなく、
「吹き替え」と呼ばれていました。
この時期、数々の吹き替えをこなします。
1954年(昭和29年)、25歳。
日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』で、
主役の怪獣ゴジラのスーツアクターを務めました。
当時、「スーツアクター」という呼称はまだなく、
中島は「ぬいぐるみ役者」を自称。
以後、18年間にわたり、
ゴジラシリーズでゴジラを演じたゴジラ俳優として有名に。
また、ゴジラ以外の怪獣映画でも、
主役の怪獣役を演じました。
1956年(昭和31年)、27歳。
『空の大怪獣 ラドン』でラドン役を演じ、
日本初の本格的なワイヤーアクションを演じます。
1965年(昭和40年)、36歳。
『三大怪獣 地球最大の決戦』公開後、
松屋デパートを皮切りに、
撮影用の「本物」のゴジラを着てのキャンペーン巡業が始まり、
大阪や名古屋など各都市でゴジラの実演を行います。
同年、監督の円谷英二から直接、
「春坊、テレビ番組をやるからちょっと助けてくれ」と声をかけられ、
円谷プロダクション初のテレビ特撮作品『ウルトラQ』で怪獣「ゴメス」役を演じます。
以後、
『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』にも怪獣役などで出演したほか、
怪獣ショーの立ち回り指導も行なっていました。
1971年(昭和46年)、42歳。
東宝から専属契約解除を言い渡された後、
東宝撮影所脇の東宝経営のボウリング場に勤務。
1972年(昭和47年)、43歳。
特撮スタッフからたっての願いを受けて
『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラを演じます。
この作品を最後に、
ゴジラのぬいぐるみ役者を引退。
ボウリング場の閉鎖後には、
東宝経営の麻雀店の店長を務めました。
麻雀店のほか、
東宝共栄企業や東宝日曜大工センターで勤務していた時期も。
2011年(平成23年)、
アメリカ合衆国ロサンゼルス市より市民栄誉賞を受賞。
2012年(平成24年)11月、
出身地である酒田市より「第1回酒田ふるさと栄誉賞」を受賞。
2015年(平成27年)急病のため、
救急車で搬送されて緊急入院。
2016年(平成28年)肺がんを手術し、療養。
2017年(平成29年)8月7日午後3時6分、
肺炎のため、東京都内の病院で死去。
88歳没。
(中島春雄)
中島貞夫さん
(1934年8月8日-2023年6月11日)
映画監督・演出家・脚本家・作詞家。
・1934年(昭和9年) - 千葉県東金市にて出生。
・1944年(昭和19年) - 10歳の時に父親が戦死。
・1954年(昭和29年) - 東京都立日比谷高等学校卒業。
・1959年(昭和34年) - 東京大学文学部卒業。
在学中は倉本聰・村木良彦らとギリシア悲劇研究会を設立し、
日比谷野外音楽堂で公演を開き、大成功を収めました。
大学卒業後、東映に入社。
「お前、ギリ研か。ギリシア悲劇は時代劇や。ほな、京都行け。」と会社に言われ、
東映京都撮影所配属が決定。
助監督時代は
マキノ雅弘・沢島忠・田坂具隆・今井正らに師事。
マキノ雅弘門下の先輩、脚本家笠原和夫・監督深作欣二は親友で、
後に数多くの作品で、コラボレート。
・1964年(昭和39年) - 『くノ一忍法』で監督デビュー。
・1966年(昭和41年) - 挫折しながらも
「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」と
粘り強く生きるチンピラ達の逞しい青春群像を描いた『893愚連隊』で注目されます。
・1967年(昭和42年) - 『あゝ同期の桜』撮影後、
東映を退社しフリーとなり、東映を拠点に映画製作を続けました。
・1969年(昭和44年) - 桜田門外の変から二・二六事件までの九つの暗殺事件を描いて、
日本近代史を問うた大作『日本暗殺秘録』を演出。
・1972年(昭和47年) - 孤独に生きる渡世人の姿を描いた『木枯し紋次郎』『木枯し紋次郎 関わりござんせん』を監督。
・1973年(昭和48年) - 当時としては異例の海外ロケと5か月間を費やして制作した
『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』を発表。
本作の劇伴で流されている千葉真一の楽曲「流れ唄」の作詞も書いています。
ATGで『鉄砲玉の美学』を監督。
この頃から深作欣二と共に、
様式的な従来の任侠物に代わる「実録ヤクザ映画路線」を邁進。
『安藤組外伝 人斬り舎弟』(1974年)、
『脱獄広島殺人囚』(1974年)、
『沖縄やくざ戦争』(1976年)、
『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976年)などを監督。
1980年代には
女性画家・上村松園の生涯をモデルとした『序の舞』(1984年)を演出。
・1987年(昭和62年) - 大阪芸術大学にて教授に就任。
1997年(平成9年)から同大学院教授。
・1994年(平成6年) - 京都市文化・芸術振興計画委員会委員。
・1999年(平成11年)5月5日 - KBS京都にて『中島貞夫の邦画指定席』放送。
毎週水曜日20時に主として1950年代から70年代の
東映や大映などの時代劇を幅広いジャンルに渡って放映した当該番組でナビゲーターを務め、
通常の作品解説だけでなく作品に関する逸話や裏話などを幅広く語りました。
番組は2014年3月26日、終了。
・2004年(平成16年) - 京都映画祭総合プロデューサー。
・2006年(平成18年) - 第五回京都映画祭において、牧野省三賞を受賞。
・2008年(平成20年)7月 - KBS京都『中島貞夫とめぐる京都シネマ紀行』のナビゲーター担当。
・2014年(平成26年)7月公開(京阪神は6月)の『太秦ライムライト』に、
東映京都撮影所で時代劇を撮影する映画監督役として出演。
・2019年(平成31年) - 『多十郎殉愛記』で長編劇映画の監督を20年ぶりに務めました。
・2020年(令和2年)10月 - YouTubeチャンネル『Sadao Nakajima』を開設し、
特定のテーマ(役者)を軸に今だから話せる当時の裏話や思いを語った動画を複数投稿。
・2023年(令和5年)6月11日 - 肺炎のため、京都市内の病院で死去。
88歳没。
(中島貞夫)

新春スター隠し芸大会1964年から少なくても2010年までの正月番組と言えばこれ☝ 最後の方は内容も面白くなくなったけど。