【世界平和】人類はみんな家族!!Apex prod13ct ⑬

【連絡先】

メモ: * は入力必須項目です

特攻教官はなぜ妻子と自決したのか 遺書に見た終戦3日後の悲劇

准尉は、軍人らしからぬ人でした。

理想の上司、誠実な夫。

しかし、今から78年前の8月18日、終戦3日後のこと。

妻と生後間もないわが子とともに、命を絶ちました。

「我れにその力すでになし」

遺書には、悲劇の理由が記されていました。

(長野局記者 長山尚史)

ある一家の死

山の斜面を少し登ったところに、その名前は刻まれていました。

遊佐卯之助 准尉(ゆさ・うのすけ)」

かつて、ここ長野県上田市にあった陸軍の飛行学校で教官を務めていました。

遊佐卯之助 准尉

終戦から3日後の1945年8月18日。

遊佐准尉(30)は8歳年下の妻の秀子さん(22)と、生後27日の久子ちゃんとともに、みずから命を絶ちました。

その11年後、地元・上田市の住民たちは、一家のエピソードを知り、私財を投じてまで慰霊碑を立てました。

“理想の上司” 遊佐准尉は殴らない

遊佐准尉はいったいどんな人物だったのでしょうか。

その人柄を語ってくれる人がいました。

准尉のおいにあたる森田敏彦さん(65)。今も亡くなった3人の供養を続けています。

森田さんによると、遊佐准尉は当時の軍人らしからぬ態度だったといいます。

おいの森田敏彦さん
「陸軍は厳しかったが、当時教え子の間では『遊佐准尉は殴らない』と有名だったそうです。しかも、殴らないからといって、教え子の腕が悪くなるわけではない。Aくんにあった教え方、Bくんにあった教え方をしていた。今の時代なら、理想の会社の上司だったと思います」

死の真相を探る人物

8月上旬、森田さんを訪ねたとき、私(記者)は村山隆さん(76)と一緒でした。

村山さんは、准尉のいた上田市の在住。

仲間とともに、准尉の死の真相を探っていました。

遊佐准尉を調べている村山隆さん
「身近なところでこんな事件が起きたなんて、とてもひと事とは思えない。ただ、地域社会の中ではこの事件はまったく伝わっておらず、自分自身が勉強して広めていかないといけないと思ったのです」

多くの関係者から話を聞いたり、資料を集めたり。

地元で起きたという以外に、村山さんには、事件を調べる理由がありました。

戦時中、上田市には陸軍の飛行場があり、パイロットを養成する「熊谷陸軍飛行学校上田教育隊」が置かれていました。

上田飛行場

遊佐准尉は昭和15年に教育隊に赴任し、少年飛行兵の指導にあたっていました。

教育隊では戦局の悪化に伴って特攻隊の訓練も行われるようになり、遊佐准尉も携わりました。上田市によると、教育隊で学んだ10人余りが特攻隊員として戦地へ飛び立ったとされます。

実は村山さんの父親は、整備担当としてこの飛行場に勤務していました。そのときに、遊佐准尉とも親交があり、村山さんは縁を感じていたのです。

約束と愛

これまでに、遊佐准尉の教え子たちの証言なども調べてきた村山さん。

遊佐准尉が命を絶った背景が、少しずつ見えてきたといいます。

村山さん
「教え子たちの証言で、遊佐准尉は指導の中で『君たちの命がなくなるときは自分の命もない』と語っていたそうです。特攻隊の指導でも『自分もあとで必ず逝く、君たちだけを死なすことはしない』と話していました。結果的に生き残ったが、教え子たちとの約束に殉じたのではないでしょうか」

けれど、優しく誠実であった夫がなぜ、妻と幼子と死をともにしたのか。

村山さんは、准尉の妻・秀子さんをよく知る人物を訪ねました。

秀子さんの実の妹、野村信子さん(93)です。

信子さんは、姉一家の悲報に接した時のことを、涙ながらに振り返りました。

野村信子さん
「70何年もたっているが、いつ思い出しても悲しい。当時はどうしていいかわからず、悲しくて学校をずっと休んでしまった。命日には必ず仏壇にお線香をあげてお祈りをしています」

村山さんはこの日、秀子さんが両親にあてて書いた遺書を持ってきました。調査の過程で見つかり、預かったものでした。

当時15歳だった信子さんは読んだことがありませんでした。

秀子さんが両親にあてた遺書

「本当に泣ききれないくやしさ

 お互いに覚悟していながら

 こんな事になりました

 戦わずして死す身の悲しき

 卯之助と共に久子と共に参ります」

実は遊佐准尉は、みずからも特攻隊員として戦地に赴くことを志願していました。

しかし、認められなかったといいます。

自分だけ生き延びてしまい悩み苦しむ夫・卯之助。

戦わずして死す身の悲しき卯之助と共に

その様子を見るに忍びなかった妻の姿が浮かび上がります。

遊佐准尉の妻・秀子さん

遺書を読んだ信子さんは、姉にまつわる1つのエピソードを明かしつつ、一家でともに命を絶った理由を次のように推測しました。

秀子さんの妹・信子さん
「遊佐准尉と結婚するときに父が姉に短刀を持たせてあげた。姉の死後、父は『それが悪かったかな』と言っていた。ふだん姉はおとなしいが、いざとなり覚悟を決めたのではないか。それとともに、姉はやっぱり本当に卯之助さんのことが好きだったんじゃないか。だからこそ一緒に逝くことを選択したのでは」

「我れにその力すでになし」

3人が命を絶った現場には、遊佐准尉の手帳が落ちていました。

そこには、上司にあてた遺書が走り書きされていました。

遊佐准尉の手帳

「決して血迷ったのでもなければ

 のぼせたのでもありません

 皇統三千年の歴史を失ひて
 
 なんの生き永らへん

 今後の建設ちょう大なる事業はあれ共

 我れにその力すでになし

従来の価値観が崩れ去り、焼け野原を見た遊佐准尉。

戦争で力尽きてしまい、戦後の新たな生活を思い描くことができなかったのではないか。

村山さんはそう考えています。

村山さん
「生き残ったのであれば、その次の時代に努力して貢献し、新しい時代をつくったらいいじゃないかと頭の中では思った。ところが遺書を見ると『我れにその力すでになし』、エネルギーがないと書いてある。生身の人間だから、すぐ切り替えて『さあ民主日本だ』とはならなかったんだと思います。遊佐准尉は誠実であるがゆえに、こんなことになってしまった」

戦後日本の姿を見ることなく、命を絶った一家の悲劇。

村山さんは、今後も調べ伝えていかなければならないと感じています。

村山さん
「戦争がもたらしたこの悲劇を忘れてはならない。これは検証して伝え、この事件が持つ本当の意味を一人一人考え、新しい平和な社会をつくりあげるような努力をしていかないといけないと思っている」

悲劇を後世に

8月18日、村山さんたちは慰霊碑の前にいました。

3人の命日である毎年8月18日に、この場所で「慰霊の集い」を開いていますが、年々、当時を知る人が少なくなってきました。

ことしは新たに遊佐一家の「慰霊の会」を立ち上げました。若い世代にも事実を伝えていきたいという思いからでした。

この日の集いには、遺族や地域住民など、50人ほどが集まってくれました。

中には、近所に住む女の子も来ていて、こんな言葉を口にしました。

中学生1年生の女の子
「自分より小さい子が亡くなったと考えると、いま生きていられるのは幸せだと思います」

誠実さゆえに苦悩した特攻教官と、そんな夫を愛した妻。

一家の死は“生き延びてしまった”がゆえの結末と言えるかもしれません。

本来は祝福されるべき「生」がまるで「罪」のように感じられてしまう悲劇。

それを招いた戦争の残酷さを、私たちは決して忘れてはならないと感じました。

思い出せなかった約束 悔やみ続けた78年

“すぐにあの約束を思い出せていれば、母にもう一度会えたかもしれない”

戦後になっても、父や兄には言い出せませんでした。

なぜ、あんなに大切なことを思い出せなかったのだろう。

悔やんでも悔やみきれず、被爆の記憶とともに長年胸の奥にしまってきました。

今話さなければと、危機感を覚えたのは10年余り前のこと。

次の世代に同じ思いをさせまいと、94歳の女性は語りはじめました。
(広島放送局 記者 牧裕美子)

最後の別れ

「母の心尽くしのお弁当を持って家を出たあの日の朝が、最後の別れになるとは、思いもしませんでした」

去年の広島原爆の日、平和宣言の冒頭で読み上げられた被爆体験記の一節です。
上田桂子さん
この体験記を書いたのは、94歳の上田桂子さん。

16歳の時に、爆心地から約1.5キロの場所で被爆しました。

上田さんは、現在の広島市中区で母の時子さんと2人で暮らしていました。

4人家族でしたが父と兄は県外に出ていて、美容室を営む母が家計を支えていました。
左から兄・父・上田さん・母
上田さんは広島市中心部にある広島女学院に通っていましたが、当時は勤労奉仕として毎日のように軍服や軍靴を製造していた陸軍被服支廠などで作業にあたり、ほとんど授業はなかったといいます。
8月6日の朝。

母は少ない配給から2人の1週間分の肉を炊いて、とっておきの弁当を作ってくれていました。

いつものように母と朝食をとったあと、弁当を持って迎えに来た友人とともに家を出ました。

家の前の路地に出る前に、ふと振り返って、軒先を掃除していた母に声をかけました。

「お母さん行ってくるね」

母は、ずっと見送ってくれました。

それが、母の姿を見た最後になるとは、このときは思いもしませんでした。

1945年 8月6日 午前8時15分

この日の勤労奉仕先の会社は、自宅から約3.5キロのところにある東洋工業、現在のマツダでした。

ここで銃の製造などを担っていたのです。

東洋工業に向かうため、友人とともに広島駅まで歩いていたときのことでした。
上田桂子さん
「目の前がね、ピカーって光ったんですよ。その光いうたらね。何とも言えん光がパーっと光ってね、ドーンていうたらね、後ろからドォーンと押されたような気がしてね、真っ暗になった」
気が付くと、上田さんは建物の下敷きになっていました。

なんとか抜け出し、無事だった友人とともに必死で奉仕先の東洋工業を目指しました。

母のことが頭をよぎりましたが、子どもでも厳しく指導されていた戦時中の空気の中で、引き返すことは考えられませんでした。

火の海になった広島

線路沿いに進んでやっとのことで東洋工業に到着すると、今度は担任の先生から「広島は大変なことになっているから、帰りなさい」と言われました。

そのことばに従い、他の生徒たちと一緒に戻ろうとしたときには、広島はすでに火の海になっていました。
猛烈な熱さでとても広島市中心部に入ることはできません。

やむなく引き返して、母を案じながら東洋工業の寮で一晩過ごしました。
上田桂子さん
「もう広島に帰るどころじゃない。広島は東洋工業から見ても大煙が出て、すぐそこで焼けよるんですよ。晩になって、お母さんがこしらえてくれた弁当をいただきましたね」
翌朝、まだ火の手が収まらない中心部ではなく、現在の広島市郊外にあった祖母などの親戚が住む疎開先を目指しました。

自分より先に、母が元気でたどりついていますように。

ひたすらに歩きながら、母の無事を祈りました。

一日がかりで到着して、上田さんは真っ先に母が居ないか確認しましたが、母の姿はありません。

不安で胸が押しつぶされそうでした。

地獄の中、母を探して

原爆投下から2日たって、母を探しに中心部へ入りました。

そこで改めて見た広島は、まさに地獄絵図でした。
立ったまま黒焦げになった牛車を引く男性の死体。

川に浮かぶ膨れた死体。

水を求めて貯水槽に倒れ込んだ死体。

連日、その中を母を探して歩きました。

ひどい臭いもしたはずなのに、不思議なことに覚えていません。

凄惨(せいさん)な状況に居続けるうち、どこか頭がおかしくなってしまったようでした。

そのときはただ、母をあてもなく探すばかりでした。

思い出せなかった約束

母を見つけられないまま、1週間ほどたった頃のこと。

疎開先に母の美容室の客の知り合いがやってきて、「東練兵場の近くに時子さんがいたので迎えに行ってあげてほしい」と伝言がありました。

そのとき、桂子さんはあることを思い出しました。

“いざというときには饒津神社で会おう”

原爆投下の前から、母と交わしていた約束があったのです。

東練兵場は、約束していた饒津神社の近くにありました。
上田桂子さん
「頭の中で思い出せなかったと言うてええかね。はぁ、まあこんな大事なことを忘れとったってね。母が何べんも言いよったのに、なんで思い出せなかったのか」
母がいたという東練兵場に急いで向かうと、避難した人の名簿に『伊勢村時子』と母の名前が記されていました。
被爆後の東練兵場
ここに母がいると、喜んだのもつかの間。

横たわっている一人一人顔を確認しても、母は見つかりません。

その脇では、亡くなったそばから遺体が次から次へと焼かれていきました。

その炎を見ながら上田さんは、ここで母も焼かれたに違いないと思ったといいます。
上田桂子さん
「もういっとき早う行けばよかった、会えたんじゃないかと思うて、本当に悔やみましたね」

上田さんの母 伊勢村時子さん
その後、広島に戻ってきた父や兄とともに母を探しましたが、しばらくして遺体もないまま母の葬式をあげました。

“すぐにあの約束を思い出せていれば、母にもう一度会えたかもしれない”

戦後になっても、父や兄には言い出せませんでした。

なぜ、あんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろう。

時子さんの行方は、今も分からないままです。
上田桂子さん
「私の頭が混乱して、思い出せなかったのがとにかくわびる思いで生きてきました。そのことを考えたらね、もう涙が出ます。すぐにでもあの世に行って母に謝りたい気持ちがあります」
原爆投下から78年。

上田さんはずっと悔やみ続けています。

戦後も続く被爆の影響

原爆で相次いで広島の親戚を亡くした上田さんは戦後、父方の親戚を頼って県東部の神石高原町に移り住みました。
しかし、戦争から戻ってきた親族と結婚してからも、被爆の影響はつきまとったといいます。
上田桂子さん
「甲状腺も患いましたからね。胃がんも切っとるしね。いろいろな病気してね。原爆受けとったしね、体がちゃんと整ってなかったんだろうと思いますよ」
結婚してはじめの5年間は流産を繰り返しましたが、4人の子どもに恵まれました。

広島の中心部で都会暮らしだった上田さんにとって、神石高原町での暮らしは農作業など慣れないことばかりでしたが、懸命に取り組みながら暮らしてきました。
上田さんと子どもたち
それでも母のことを思うたび、気分が落ち込み、眠れない日もありました。

被爆者に対する周囲の目も気になり、子どもたちにさえ、自身の経験は話す気になれませんでした。

戦争は、怖い

転機が訪れたのは、10年余り前のこと。

町役場に講演を頼まれたことがきっかけでした。
地元の小学校で証言活動をする上田さん
被爆体験を語れる人々が減っていく中で、「つらいことも苦しいこともすべて、自分たちが包み隠さず言うしかない」。

そう思うようになりました。

それ以来、地元の小学校などで証言活動を続けてきました。
上田桂子さん
「今はもうウクライナの戦争でもあるでしょ。私ら体験者が言わにゃ、いま言わにゃ、もう絶えてしまうんじゃなと思うてね。私ら戦争前のことも知っとりますよね。戦争って怖いですよ。戦争中って怖いんですよ。二度とこういうことがあってはならないからね」
2時間近くに及ぶ取材も終わりにさしかかり、上田さんに若者たちに伝えたいメッセージを書いてもらった時のことでした。

上田さんがインタビュー中で最も語気を強めて訴えたのは、平和は皆で維持していくものだということでした。
『二度と戦争のない時代を作ってほしい 平和に感謝して生きる心を養う』
上田桂子さん
「当たり前のように感じてらっしゃる方ね、すごく多いと思うんですよ。平和の時代に生きてらっしゃる方ばっかりですからね。でも、平和ってね、本当にありがたいものだと思いますよ。世界中がみんな平和で、平和に感謝することが一番大切じゃないかと思います」

私たちこそが平和を維持していく“当事者”

最初にあいさつしたとき、笑顔のすてきな上田さんから受けた印象は「品の良い優しそうな方」でした。

しかし、話を伺う中で、被爆体験を語ることばに籠もった力には、圧倒される勢いがありました。

戦争のない日本しか経験せず、空気のように平和をおう歌しながら、それを維持する努力については知らないふりをしていないか。

私もまさに平和を維持していく当事者なのだと、上田さんの気迫に突きつけられたように感じました。

どのようにその責任を果たしていくのか、これからも考えながら取材していきたいと思います。
広島放送局 記者
牧裕美子
2019年入局
福山支局で県東部の被爆者を取材 

95歳の被爆者 いま、語ると決めた

意識が戻ると、体は崩れた建物の下。
さっきまで、すぐ隣でおしゃべりしていた親友の声は聞こえません。
「生きなきゃいけない。死んじゃいけない」
がれきの隙間からかすかに差し込む光に向かって、もがきました。

つらい記憶に「蓋」をして生きた戦後。
ところが、テレビで見るウクライナの様子は、あの日、広島で見た光景と重なります。
95歳になった女性は、語り始めました。

(広島放送局 記者 石川拳太朗)

慰霊碑に刻まれた親友の名

ことし8月。
広島市の病院のそばに建てられた、ある慰霊碑の前に1人の女性の姿がありました。
鈴木郁江さん(95)。
娘と共に神奈川県の自宅から電車や新幹線を乗り継ぎ、4時間余りかけて訪れました。
鈴木郁江さん
はじめて見る十字架の形をした慰霊碑。
そこには、親友の名前が刻まれていました。
鈴木さんの娘
「お母さん、東さんの名前があった」
鈴木郁江さん
「そうそう、これ。東シズヱ。ああ、つらい。当時のことをぱっと思い出す。体が埋まって、どんなにもがいたかわからない。私もここで焼け死んでいたかもしれない」

77年前 広島で

77年前のあの日、8月6日。鈴木さんはこの場所にいました。

当時は18歳の看護学生。
看護学生時代の鈴木さん
戦争で人手が足りなくなると、病院では学生までもが医療の現場にかり出されました。

鈴木さんもこの場所、いまの広島赤十字・原爆病院で看護にあたる日々を送っていました。

隣町が空襲を受けたときには、すぐに駆けつけ救護活動。
並べられた遺体を見て、そのときはじめて戦争の恐ろしさを実感しました。

鈴木さんがいた広島市は当時、それまでほとんど空襲を受けたことがなかったからです。

日本が戦争に負けるなんて、考えたこともありませんでした。

死の光

1945年8月6日。
いつものように朝食を済ませ、宿舎にいました。

同じ部屋には、同じ看護学生の大の親友、東シズヱさん。
鈴木郁江さん(左)と東シズヱさん(右)
疎開で広島に来ていた東さんとはよく一緒に外出し、東さんとそのお父さんと、食事をしたこともありました。

午前8時15分。

すぐ隣の東さんと、いつものようにたあいもないおしゃべりをしていたときでした。
鈴木郁江さん
「ピカッしかわかりませんでした。マグネシウムを炊いたような光。爆音のほうは意識がもうなくって」

“人間の世界じゃない”

どのくらいの時間が経ったかはわかりません。
意識を取り戻すと、体は崩れた建物のがれきの下。

いったいなにが起きたのか。
さっきまで横にいた東さんは無事なのか。

自分が置かれている状況はまったく理解できず、とにかくがむしゃらにもがきました。
すると、がれきの隙間から一筋の光が見えました。

生きたい。生きなきゃいけない。ここで死んじゃいけないー。

その光に向かって、がれきをかきわけ必死に進み、命からがら、なんとかはい出ることができました。

しかし、目に飛び込んできたのは、見たことがない、まるで地獄のような光景でした。
鈴木郁江さん
「爆風でやられてぼろぼろに焼けてしまった着物を着た人が来るんですよ。それがばたばた倒れていって。水をくれー、水をくれーっていうあの声が頭から離れないんです。あっちでもこっちでも死体が山積み。これは人間の世界じゃない」
けがの痛みをこらえながら、夜まで東さんを探しましたが見つからず、その後、亡くなっていたと知らされました。

すぐ隣にいた東さんは亡くなり、自分は生き残った。

何が起きたのかもわからなかったあの日。

東さんを含め看護学生22人がこの場所で亡くなりました。

蓋をした記憶 長い年月を経て

戦後は、家族や仕事の都合で広島を離れました。
被爆後は体が衰弱し、目指していた看護師の道も断念しました。

そして、いつしかあの日の記憶には蓋をしていました。

思い出すのもつらいあの悲惨な光景。

多くの人の死を目の当たりにしながら、無力だった自分に自責の念を抱いてきました。

家族にも、自分から体験を話すことは長年ありませんでした。
ビデオで話す鈴木さん
しかし、3年前に転機がおとずれます。

神奈川県の自宅の近くに住む小学校の教員から、被爆の体験を聞かせてほしいと依頼を受けたのです。

すでに92歳になっていた鈴木さん。

丁寧な質問に対し、つたなくも、ぽつりぽつりと話をしてみました。

その証言は、ビデオに収められました。
後日、鈴木さんのもとに、その映像を見た小学生からたくさんの感想文が届きました。
児童からのメッセージ
「戦争はとても恐ろしいものなんだと改めて感じました」

「こわい思いをされたのがわかります」

「私たちが次の世代にも伝えていきたい」
子どもたちの文章には、感想だけでなく、鈴木さんに共感しようとする気持ちや、自分も伝えていくという意志を示す言葉もありました。

鈴木さんは少しずつ、あの日のことを伝えたいと思うようになっていきました。
鈴木郁江さん
「子どもたちの言葉には本当に感動したんです。私も、日頃、心に思っていることがあったんでしょうね。多くの同級生を亡くし、自分は100歳近くまで生きて、不思議だなと思ってきましたが、考える時間が持てるようになりました。1度話し始めるともっと聞いてもらいたいなと思ってね。今頃になってすごくそういう意識が心に残るようになりました。いま、自分が生きていることの意味が少し見えてきたのかもしれない」

ウクライナ情勢 重なる広島で見た光景

そうした中、ロシア軍がウクライナに侵攻を開始。

がれきだらけとなった街、放置されたままの遺体。

テレビに映し出される現地の様子は、あの日、広島で見た光景と重なって見えました。

何より、核兵器の使用をちらつかせるプーチン大統領の発言に、鈴木さんは“被爆者”として危機感を強く持ちました。
鈴木郁江さん
「核廃絶は絶対にやらなければ、あんなものを持っていたら、また戦争になるという不安に襲われます。若い方もよく認識したうえで、戦争の怖さを分かってほしい」

“もう立ち止まっていてはいけない”

77年前のあの悲劇を、二度と繰り返してはならない。

被爆者として、もう立ち止まっていてはいけない。

鈴木さんは、近所の子どもたちを自宅に招いて、自らの被爆体験を直接伝える活動を始めました。
女子中学生
「テレビでウクライナの戦争のニュースを見て、日本も昔はこうだったのかなと思いました」
鈴木郁江さん
「私は日本でやっているんじゃないかと錯覚を起こすほどでした。あれから77年もたって、まだこんなことをやっている。犠牲者がいっぱい出て、当時の日本を思い出します」
そして、鈴木さんは力を込めて伝えました。
鈴木郁江さん
「とにかく平和じゃないとだめ。日本だけじゃだめなの。戦争はあっちゃならないと、若い方にも特に意識してもらいたいです。それが私たちの平和につながるんですから。原爆、核兵器だけじゃなくて戦争のこわさも私たちの時代はよく知っていますからどんどん伝えて、どんどん広めていって。私も、足を引きずりながらでも、まだ闘っていこうと思っています」

取材後記

ことしで95歳になった鈴木さん。
話の途中で少し休んだり、話し終わると疲れた表情をしたりすることもありました。
それでも、身振り手振り懸命に話をする姿からは「体力の許すかぎり伝えないといけない」という強い決意を感じました。

戦争のない世の中になってほしい。
核兵器がなくなってほしい。

そう願い、声を上げ続けてきた被爆者たちから直接話を聞ける機会はますます少なくなっています。
長年閉ざしていた悲惨な記憶と向き合い、次の世代のためにも伝える決心をした鈴木さんの言葉を、私自身が受け止め、伝えていかなければいけないと感じました。
広島放送局記者
石川拳太朗
2018年入局
さまざまな角度から戦争や被爆者の取材を担当

日米の軍艦 “最後の生存者” 海を越えて届けられた2人の手紙

かつて太平洋戦争を敵として戦った2人。

1人は旧日本海軍の潜水艦の元乗組員。

そして、もう1人はその潜水艦に沈められたアメリカの軍艦の元乗組員です。

戦後、長い月日が流れ、今や2隻の船の生存者はそれぞれ1人だけとなりました。

いくつかの偶然が重なり2人は手紙を交換するようになります。

78年の月日を経て、海を越えて届けられた手紙には、どのような思いがつづられていたのでしょうか。
(松山放送局 記者 木村京)

78年前、船は沈んだ

アメリカ中西部のインディアナポリス市で開かれた追悼の集会です。

追悼の集会に集まった「インディアナポリス」の元乗組員の遺族や関係者
7月30日。

集まったのは78年前のこの日、フィリピン沖に沈んだ「インディアナポリス」の元乗組員の遺族や関係者。

およそ900人の犠牲者に祈りがささげられました。
上:インディアナポリス 下:伊58
アメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」。

当時、後に広島に投下された原子爆弾の部品を太平洋のテニアン島に運び終え、フィリピンのレイテ島に向かっていました。

極秘任務のため単独で航行していたところ魚雷攻撃を受けたのです。

攻撃したのは旧日本海軍の大型潜水艦「伊58」。

太平洋戦争末期、人間魚雷・回天を載せ特攻作戦に参加したことでも知られています。

「伊58」“最後の生存者”

愛媛県松前町に住む「伊58」の元乗組員、清積勲四郎さん(95)です。

10人きょうだいの6番目として育ちました。

軍国少年だったと言います。
清積勲四郎さん
清積勲四郎さん
「当時アメリカは日本を苦しめる悪い国だと学校でも教え込まれて信じていましたね。10人きょうだいだったから家庭のことも考えて、学校を出たら軍隊へ入るかよそへ働きに出るかだった」

海軍の学校の卒業写真
尋常小学校を卒業後、陸軍を経て海軍に入隊した清積さん。

船員としての技能を学ぶ海軍の学校で優秀な成績を修め、終戦の年に「伊58」の乗組員に抜てきされました。

清積さんは当時のことをこう振り返ります。
清積勲四郎さん
「学校にいたときに母から『兄が乗った船がグアム島の近くでアメリカの潜水艦に沈められて亡くなった』と連絡がありました。先生には『お兄さんの敵をとるために、潜水艦に乗って頑張りなさい』と言われました。敵の船を1隻でも2隻でも沈めるぞという気持ちでした」
当時16歳。「伊58」の100人近くいた乗組員のうち最年少だったと言います。

艦内では食事の支度などの任務を担当。

人間魚雷の「回天」が出撃したあとには、用意する食事が1人分少なくなったことを今でも覚えている清積さん。

何とも言えない気持ちになったものの、死と隣り合わせだった当時、それ以上の感情はなかったと話します。

そうした中迎えた運命の夜。

「伊58」はフィリピン沖の海上で「インディアナポリス」の艦影を確認。
発射した魚雷は命中し、船はごう音とともに炎を上げて、7月30日の深夜、海に消えていきました。

1200人近くの乗組員の大半が犠牲となりました。
戦後、清積さんは愛媛に帰り民間企業で定年まで働きました。

この夜のことも含めて、これまで戦争について家族に話すことはほとんどなかったと言います。

当時は年若く命じられるがまま任務に当たっていた清積さん。

戦後、報道などを通じて自分が戦った戦争の実態を知るようになるにつれ、むなしさを感じるようになりました。

ともに「伊58」に乗った戦友たちはすでに亡くなり、今では「最後の生存者」とみられています。

もう1人の“最後の生存者”

ことし6月、清積さんの元を1人の女性が訪ねてきました。

アメリカの大学教員、ハリス田川泉さんです。

大学があるインディアナ州のインディアナポリス市は町名が軍艦の名前に使われた縁から乗組員の遺族などの集まりも開かれています。
左:ハリス田川泉さん
田川さんは偶然目にした新聞記事で清積さんのことを知りました。

記事は愛媛県今治市の図書館で開かれた「伊58」や「インディアナポリス」について紹介する展示会を取り上げたものでした。

「インディアナポリス」の家族会とも交流がある田川さんは、彼らからのメッセージを託され来日することになりました。

この日、図書館で初めて対面した2人。

清積さんは手紙を受け取ると、しばらくじっと見つめていました。

そして田川さんが添えた日本語訳をゆっくり読み上げました。
ハロルド・ブレイさんからの手紙
親愛なる清積さんへ

私の名前はハロルド・ブレイ。

USSインディアナポリス最後の生存者です。

あなたは潜水艦伊58の最後の生存者であると聞いています。

私はあなたに友情の手を差し伸べ、あなたやあなたの同胞に恨みはないと伝えたいのです。

私たちはともに国のために戦いました。

そして戦争が終わった今は癒しの時です。

戦争に勝者はいません。

船員、家族、友人など双方が多くを失うのです。
(中略)
よりよい、より安全な世界を築くために共に努力していきましょう。

真心を込めてハロルド・J・ブレイ
写真のハロルドさんと握手する清積さん
清積勲四郎さん
「ありがとうございます、ブレイさん。私もあなたに恨みはありません。お互い殺し合う戦争は決して許されないことだし、平和のために努力することが大切だと私と同じように思ってくれていてそれがいちばんうれしい」
ハロルド・ブレイさん
手紙を書いたハロルド・ブレイさん(96)です。

沈む船から救出され、一命をとりとめました。

清積さんと同じく「インディアナポリス」の「最後の生存者」です。

かつては敵として、国のために命をかけて戦った2人。

78年の年月を経て、思いが通じ合った瞬間でした。

その様子を見届けた田川さんも平和への思いを新たにしていました。
ハリス田川泉さん
「大事なミッションだったので手紙を気持ちよく受け取っていただいて、私は肩の荷がおりてほっとしています。私たちが歴史を学び、伝えていくことで、平和な世界を作っていきたいです」
田川さんが届けた手紙は合わせて5通。

ハロルドさん以外にも戦死した元乗組員の家族が書いたものもあります。

そのうちの1通をご紹介します。
親愛なる清積勲四郎様

本日はお手紙を差し上げることができ、大変光栄に存じます。

私の祖父は、1945年7月30日の運命の夜に亡くなりました。

私を含めて私たち家族は、あなたやあなたの仲間の乗組員に対して恨みの気持ちを持っておりません。

第二次世界大戦は戦ったすべての人にとって困難な時代でしたが今は許しと平和を求める時です。

私の祖父も同じように感じていることでしょう。

私はあなたの心も平和であるよう祈っています。

敬意を込めて
ドーン・オト・ボルヘッファー セオドア・G・オットの孫娘

78年たって伝える思い

この数日後、清積さんはハロルドさんたちに返事を書きました。
返事を書く清積さん
一文字一文字、自分の思いを丁寧に書きつづった清積さん。

平和な世界で手紙のやりとりができることに感謝の気持ちを口にしていました。
親愛なるハロルド・ブレイ様 (※一部抜粋)

戦争は不幸な出来事ではありましたが、今日こうしてお互い幸せに平和に暮らし、友として語り合える日を迎えたことに感動を覚えます。

今は亡き戦友たちの霊にあなたの心を届けたいと思います。

ありがとうございました。

清積勲四郎

海を越えて届けられた手紙

清積さんの手紙は田川さんがアメリカに持ち帰り、追悼の集会で読み上げられました。

ハロルドさんは高齢のため出席はかないませんでしたが、返事が届いたことをとても喜び、「こうして2人がつながれたことはすばらしいことだ」と話していたということです。
追悼集会で読み上げられた清積さんの手紙
集会には元乗組員の家族も多く出席しました。

そのうちのひとり、マイケル・ウィリアム・エモリーさんです。

犠牲となった元乗組員のおいに当たります。

清積さんがマイケルさんに向けて書いた手紙も読み上げられました。
マイケル・ウィリアム・エモリーさん
貴方の様な若い方が平和を願いながら遠い異国に住む一老人に心をかけて下さる事に感謝しております。
(中略)
貴方様も元気で幸せに平和な世界を築く日々を目ざして生きていかれる様祈っております。
マイケル・ウィリアム・エモリーさん
「きょうは78年前に沈んだインディアナポリスの乗組員たちに敬意をもって追悼するために集まりました。そんな日に『伊58』の最後の生存者の清積さんからの手紙が届き、私たちにとって歴史的な一日となりました。2隻の船の乗組員たちのことを決して忘れません。私たちの物語はまだ始まったばかりです」
出席者から現地の映像を提供してもらい、私は集会の様子や出席者の反応を清積さんに伝えました。

清積さんは無事に手紙がアメリカに届いて「大仕事を終えた気分で、ホッとしました」と安心した様子でした。
清積勲四郎さん
「自分の気持ちがアメリカの人たちにも伝わってうれしいです。手紙のやりとりができる平和な時代で本当にありがたいなと思います。悲しみを生む戦争は二度と起こってほしくない」

“美談で終わらせてはいけない”生存者どうしの交流

取材を通じて、ハロルドさんの写真を優しい目で見つめる一方で「戦争は絶対にしてはいけない」と繰り返し話す清積さんの意志の強いまなざしが印象的でした。

記憶をたどりながら真剣に話してくださる姿に、改めて壮絶な時代を生き抜いた強さと優しさを見た気がします。

78年の時を経て始まった最後の生存者どうしの交流ですが、これを決して美談で終わらせてはいけません。
戦争がなければ憎み合うこともなかった2人。

今回、奇跡的な偶然が重なって、海を越え心の交流が実現しましたが、ここにたどりつくまでの人々の悲しみや苦しみ、そして失われた多くの尊い命にも目を向け、戦争の愚かさを改めて胸に刻みたいと感じた取材でした。

当時のことを知る人が年々少なくなる中、私たちは戦争体験者から直接話を聞ける最後の世代かもしれません。

これからも記者として、体験者の話に耳を傾け、記録し伝え残すことを続けていきます。
松山放送局 記者
木村 京
2020年入局
2022年夏から今治支局
今回、初めて戦争取材を経験

92歳になった今 伝えたいこと


20万人を超える人たちが亡くなった沖縄戦。
鉄血勤皇隊の元少年兵だった男性は日本が勝つことを信じて疑わず、戦場に身を投じました。

「自分は本当にだまされてないか。もっと本質を見極める必要があった」

多くの仲間を亡くし、みずからも銃撃を受けて大けがを負った男性はあれから77年がたち、今の思いを語り始めました。

(沖縄放送局記者 安座間マナ)

鉄血勤皇隊に動員されて

元少年兵の濱崎清昌さん
「腹の中に破片が2つ入っているよ。何十年もケロイドが残っていた」

沖縄本島中部・北谷町に暮らす濱崎清昌さん(92)。
右の脇腹には沖縄戦で受けた銃弾の破片が今も残ったままです。
太平洋戦争中の昭和19年4月。
14歳だった濱崎さんは教員を夢見て那覇市内の師範学校に入学しました。

ところが戦況の悪化に伴い、夏休みが終わるとほぼ授業はなくなり、ごう掘りや飛行場の整備など戦争の準備に駆り出されるようになりました。

昭和20年3月26日。アメリカ軍は沖縄本島の西およそ40キロにある慶良間諸島に上陸を開始します。
5日後の31日。濱崎さんは当時の学生たちで構成された「鉄血勤皇隊」と呼ばれる部隊に動員され、旧日本軍を指揮した第32軍司令部の管理下に置かれることになりました。

その日、校長先生から「日本国民として、天皇の赤子として、天皇のために忠義を尽くそう」と呼びかけられたといいます。
濱崎清昌さん
「将来は国のために命をささげようと考える軍国少年だった。天皇の赤子として教え込まれてるから、それに対する違和感というのは全然なかったんだよな。日本国民という誇りを持って、日本は戦争しても強いもんだと、世界一強い軍隊を持っていると、そういうふうなものしか頭になかった」
しかし、濱崎さんはその後、圧倒的な戦力の差があることを思い知ることになります。

地上戦 住民が巻き込まれる

沖縄での地上戦の様子
4月1日。アメリカ軍は沖縄本島中部に上陸し、本格的な地上戦が始まりました。
「野戦築城隊」に配属された濱崎さん。

首里城の地下に造られた「第32軍司令部壕」の入り口付近にあった大きな岩陰で寝泊まりしながら、ごうを堀ったりアメリカ軍の攻撃で壊された橋を修繕したりする作業にあたったといいます。

作業はアメリカ軍の攻撃の合間に行い、直してもまた壊される“いたちごっこ”が続き、体力的にも精神的にも追い詰められていきました。
濱崎清昌さん
「これは危険極まりないですよ。朝から晩まで飛行機はずっと空襲するわ、海の方から艦砲射撃を落としてくるわ。アメリカが戦争に使える物資はどれだけあったかというのを思い知らされたんだけどね」
司令部壕の内部
アメリカ軍の激しい攻撃にさらされる中、少年兵たちは司令部壕内にたびたび招かれ、将校から「日本が勝っている」という話を聞かされていたといいます。濱崎さんはそのことばを信じ切っていました。
濱崎清昌さん
「4月29日の天長節になったら、連合艦隊が沖縄に逆上陸してきてアメリカ軍を挟み撃ちにして、倒してやるというふうな話しぶりをしておったよ。拍手喝采『そうだそうだ』とみんなで笑っていた」
しかし、連合艦隊が来ることはありませんでした。

そしてアメリカ軍が司令部のある首里の包囲を進めていた5月22日、司令官・牛島満中将は重大な命令を下します。

本土決戦までの時間を稼ぐため持久戦を展開しようと、多くの住民が避難していた沖縄本島南部への司令部の撤退を決めたのです。

この決定により、多くの住民が戦闘に巻き込まれることになりました。

南部への撤退 極限状態に

濱崎さんも仲間たちとともに司令部が移された本島南端の糸満市摩文仁に向かいましたが、たどりついたその場所で、死と隣り合わせの極限状態に追い込まれていきます。
その日、濱崎さんたちが身を隠していた「壕」の外にいた上級生や同級生がアメリカ軍の攻撃の犠牲になりました。

「ドドーンという音がして、外におった人はもう3名か4名ぐらい亡くなっている」

6月19日。突然、濱崎さんたち「鉄血勤皇隊」に対し解散命令が言い渡されます。
4日後の23日は摩文仁の洞窟で牛島中将が自決し、旧日本軍による組織的な戦闘が終わったとされている日ですが、そのことを知らず、仲間とともに逃げ続けていました。

さらに3日たった26日の夜、濱崎さんは上級生と同級生の3人で、草むらの中をほふく前進し、本島南部から北部に逃げる機会をうかがっていました。

「やられた」、上級生が叫んだ瞬間でした。

濱崎さんたちに向けて、機関銃が撃たれ、手榴弾が投げ込まれました。
上級生がその場に倒れた様子が記憶に残っています。
そして、濱崎さんの体にも強い痛みが走りました。
「鉄の棒か何かで頭や体を殴られたような感じで、僕もばったり倒れたわけさ。雨あられみたいに血が流れて、頭がやられているわけよ。足は足で動けない。弾が耳の近くをピュシュってする時に目が覚めるけど、だんだん意識がもうろうとしてくるわけ」
意識が薄れつつある中、一緒にいた同級生のことが心配になり、何度も名前を呼びましたが返事はありませんでした。

2人がその後どうなったのか、今もわかっていません。

捕虜か死か 少年兵の決断

近くの穴に転がってそのまま意識を失ったという濱崎さん。

翌日あまりの暑さで目が覚めると、傷口にウジがわいていました。
濱崎清昌さん
「夜が明けて目が覚めて、もう銀バエがね、本当に体いっぱい銀バエがブンブンブンブンしてるわけさ。足の方向を見たらそこに銀バエのウジムシがね、ぐんぐんとわいているのよ。今まで自分たちは軍国少年として教育させられてきて、育てられてきて…。戦争に行ったら、あの敵の捕虜になんかなってはいけない。捕虜になったらすぐ殺される」
「アメリカ軍の捕虜になったら殺されるか、一生奴隷にされるかどちらかだ」と教え込まれてきた濱崎さん。

「捕虜になるか、ここで死ぬか」1日中考えた末、これから先の未来がどうなっていくのか見届けたいと、捕虜になることを決心しアメリカ兵に捕らえられました。

濱崎さんをはじめ「鉄血勤皇隊(通信隊含む)」に動員された学生は少なくとも1676人にのぼり、半数以上の868人が命を落としました。沖縄戦では3か月にわたる地上戦の末、20万人を超える人たちが亡くなりました。司令部を南部に移したことで膨れ上がった県民の犠牲者は半数を超える12万人以上にのぼります。

物事の本質を見極めること

沖縄戦から77年がたち濱崎さんは足腰が弱まり、自宅で過ごす時間が多くなりました。

メディアを通じて伝えられるロシアによるウクライナ侵攻の様子をみずからの戦争体験と重ね合わせ、平和への思いを改めて強くしているといいます。
濱崎清昌さん
「殺し合いね、同じ人間が殺し合いをしてあんな格好で殺されていく。ロシアとウクライナの争いがあるけど、本当に人間が人間にやることかなと思うくらいだよね。戦争になると人間じゃなくなるよね」
そしてふだんより強い調子でこう語りました。
「昔は統一してこれはだめ、はい右向け右、左向け左で上の言うことしかやらなかった。自分の国の政治家やそういう人たちが何を言ってるか。自分は本当にだまされてないか。本当に自分の国のために、この人は政治をやっているか。そういうものもよく見る必要があるんじゃないか。ただうのみにするんじゃなくて」
軍国少年だった過去を振り返り発せられた濱崎さんの物事の本質を見極めるということばは、私(記者)の心に重く響きました。

“司令部壕” 公開に向けて

沖縄では濱崎さんのような戦争体験者から直接話を聞くことが難しくなっています。県内のシンクタンクの調査によると、戦前や戦時中に生まれた世代が総人口に占める割合は、1割を下回っているとみられています。
司令部壕 保存公開の県の検討会
こうした中、県民の間で記憶を継承するための重要な戦争遺跡として第32軍司令部壕を活用していこうと、保存・公開に向けた機運が高まっています。県も今年度、関連予算として5000万円を計上し、司令部壕の一部について令和7年度中の公開を目指す考えを明らかにしました。

沖縄の歴史や文化を象徴する首里城と、その地下に掘られ住民の犠牲を増大させる南部撤退が決定された場となった司令部壕。
公開が実現すれば、沖縄の正と負の遺産を同時に見つめ、戦争や平和についてより深く考えることができる場所になります。

「司令部壕は沖縄戦で何があったのか、それを証明する重要な場所だ」という濱崎さん。もう一度、その地に足を運んでみたいと話しています。

体調がすぐれない中、濱崎さんが今回私に話をしてくれたのは、これからも語り継いでいってほしいという強い思いからだったと感じています。その思いを胸に刻み、体験者のことばを一つ一つ記録していきたいと改めて思いました。
沖縄放送局記者
安座間マナ
(沖縄県浦添市出身)
2019年入局 沖縄戦と基地問題を中心に取材を続ける。

ロシア語でも訴える「はだしのゲン」 今こそ耳を傾けてほしい

広島で被爆した少年がたくましく生き抜く姿を描いた漫画「はだしのゲン」。

これまでに世界の24の言語に翻訳され、ゲンは、愚かな戦争と核兵器をなくすために世界を闊歩している。

はじめて全巻が翻訳されたのは、実は「ロシア語版」だった。

ロシアがウクライナに侵攻し、核戦力もちらつかせる中、ロシア語への翻訳を手がけた女性は、いま改めて、世界中の人に、ゲンのことばに耳を傾けてほしいと話す。

(広島放送局 記者 石川拳太朗)

父、姉、弟、妹を亡くし、描いた「はだしのゲン」

6歳のとき、広島に投下された原爆によって被爆した漫画家、中沢啓治さん。

父、姉、弟、そして8月6日当日に生まれた妹を亡くした自身の体験をもとに描いた作品が「はだしのゲン」だ。

原爆のことを世界の人に知ってもらいたい

ロシア語版の翻訳者 浅妻南海江さん
金沢市の浅妻南海江さん(80)は、学生のころから学んでいたロシア語を生かし、1994年から7年かけて「はだしのゲン」全10巻をロシア語に翻訳した。

きっかけは、原爆についての朗読劇を訳す作業に携わったことだった。
ロシア語版の翻訳者 浅妻南海江さん
「一緒に翻訳にあたっていたロシアの人から、原爆は実際どんなふうに落ちてきたんだろうと言われた。原爆に関するデータや記録はあるし、ヒロシマ・ナガサキはカタカナで書かれるほどよく知られていることだと思うんですけど、案外その実態というのは知られてないなと」
海外の人にも原爆のことを知ってもらいたい。

そのために、「はだしのゲン」を読んでもらうのが一番だと思ったという。

作者の中沢さんに手紙を書くと快諾の返事がもらえた。

ロシア語版が完成 ウクライナやロシアから感想届く

地域に住むロシアからの留学生たちと一緒に翻訳作業に取り組み、完成した漫画を海外の学校や図書館などへ寄贈する活動も行ってきた。

すると、海外の読者からも感想文が届いた。
ウクライナからの感想
「いま私たちがしなければならないことは、この悲劇の記憶を世代から世代に伝えていくことです。絵にショックを受け、本を読みながら泣いてしまいます。心の中に深い傷跡が残り、記憶の中に深く刻まれます。しかしこれによって人々の心に戦争への嫌悪の念を育てることができます」
核大国であるロシアの人たちも、この漫画を通して、核兵器による被害を自分事として受け止めているようだった。
ロシアからの感想
「主人公たちの苦しみを絵で感じながら読んだ。この本に描かれている出来事は距離的にも時間的にもそれほど遠いようには見えませんでした」

ロシアからの感想
「広島と長崎に投下された原子爆弾の恐ろしさがより理解できるようになりました。ゲンと彼の家族に代表される一般市民が最も被害を受けました。悲劇から何年もたったが、この作品は当時の恐怖を新たな世代に伝えている」
ロシア語版の「はだしのゲン」
自分が翻訳した漫画を通して、海外の人たちが原爆による悲劇を知り、同じことを二度と繰り返してはいけないと感じてもらえた。

浅妻さんは、寄せられた感想文を読み返しながら、平和の種まきをしていることを実感していた。

平和の種まきをしても… そのロシアが軍事侵攻

しかし、浅妻さんが翻訳をし、作品を広めようとしていた国、ロシアは去年2月、ウクライナへ軍事侵攻を始めた。

浅妻さんは複雑な思いを抱いている。
浅妻南海江さん
「自分が勉強してきたロシア語という言葉で、平和を伝えることができてすごくうれしかったのに、いまは戦争を起こす言葉に使われてしまったなと本当に落胆した。草の根運動でゲンを広めていっても、国際政治の前ではなんと無力なんだろうと感じた」

漫画で戦った中沢さん

「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんは1961年、漫画家になることを夢見て上京した。東京に住んでからは、被爆者に対して差別や偏見を持つ人たちからの冷たい視線がいやになり、原爆のことは二度と話さないと決心していた。

その中沢さんが、戦争や平和をテーマに数々の作品を残すことになったきっかけは、被爆後の生活を支えてくれた母、キミヨさんの死だった。

中沢さんはかつて、NHKのインタビューでこのように語っていた。
中沢啓治さん(2005年1月放送)
中沢啓治さん(2005年放送)
「葬儀のあとお袋を火葬にしたときに骨がないんです。驚いたね。いくらかきまわしてもこんな小さな骨しかないんです。こんなばかなことがあるかと。お袋の骨がないというのはどういうことだと、ものすごいショックを受けてね。原爆の放射能が骨の髄までとっていきやがったと。こりゃあもう許せんぞと、初めてそこで原爆をテーマにしようと思った」
妻のミサヨさんによると、葬儀のあと、広島から東京に帰る列車の中で、中沢さんはひと言も話さずじっと考え込んでいたという。
火葬したあとの母の遺骨はもろく、頭蓋骨すら残らなかったことに強いショックを受けた中沢さんは、原爆と真正面から向き合うことを決意した。

2012年12月に亡くなるまで生涯にわたって戦争や原爆を題材とした数々の作品を残した。

“草の根で翻訳広がる” 国境を越えたメッセージ

中沢さんの覚悟、戦争への怒り、平和への願いが詰まったこの漫画を読んでもらいたいと、浅妻さんはロシア語版を完成させた。
すると、ほかの言語にも翻訳したいという問い合わせが数多く寄せられた。
浅妻さんは、ロシア語版のために苦労して独自に制作したセリフ部分が空白のデータを提供するなど活動を後押しした。
浅妻南海江さん
「私が広げたというよりも、草の根で翻訳が広がっていったんです。この本の持つ意味をみなさんわかっていらっしゃるから、訳したいと強く思われるんだと思います」
浅妻さんと中沢さん
「はだしのゲン」が次々と外国語に翻訳され、世界に広がって行くことを、中沢さんはとても喜んでいたという。
浅妻南海江さん
「新しい翻訳が出るたびに、中沢さんは本を机に並べてニコニコ喜んでいたというお話を聞いています。本当に世界に広がっていくということを実感され喜んでいただきました」
浅妻さんは、仲間とともに「はだしのゲン」を広げるためのNPO法人を立ち上げた。

その初めての総会に合わせ、中沢さんから手紙が届いた。

亡くなる20日ほど前、病床から妻の代筆で送られてきたものだった。
中沢さんからの手紙
中沢さんからの手紙
「ゲンがはだしで世界を闊歩しています。ゲンは何百何千、地球上をはだしでかけめぐり愚かな戦争と核兵器をなくすためにガンバル決心でございます。皆さんゲンに力を貸してやって下さい。ゲンはたくましく生きぬいていくでしょう。お互いに力を合わせて頑張りましょう」

色あせないゲンの言葉 今こそ世界の多くの人に

連載が始まってことしで50年となる「はだしのゲン」。
これまでに24の言語に翻訳され、国境を越えて戦争や核兵器がどんなことをもたらすのかを伝え続けてきた。

しかし、中沢さんの願いはかなうことなく、いまも戦争や核兵器はなくなっていない。

浅妻さんは、いまも色あせないゲンの力強い言葉、そこに込められた中沢さんの思いを、今こそ多くの人に知ってほしいと話す。
ロシア語版の翻訳者 浅妻南海江さん
「戦争への流れができてしまったら止めることはできないからこそ、戦争になりそうな芽を摘むということが非常に大事だと思う。まずは、思うこと、知ること、感じること。そして行動することですね。平和のために行動できる人間がたくさん集まれば何か変えることができるのかなと思う。ゲンを広げて平和のことを考える人たちが多くなってくれればいいなと思いますし、ゲンがそのために働いてくれることを願っています」
広島放送局 記者
石川拳太朗
2018年入局
戦争や被爆者の取材を担当
核兵器禁止条約の締約国会議では開催地ウィーンで取材

父は本当は特攻隊員だったのか?


始まりは父親の遺品から見つかったマフラーだった。

そこに書かれていたのは特攻隊の文字と父親の名前。

生前「戦争には行っていない」と語りみずからの体験をひた隠しにしていた父親。
本当は特攻隊員だったのか。

その足跡をたどった息子がたどりついたのは、想像もしなかった父親の姿だった。

(国際放送局World News部 上野大和)

「振武隊特別攻撃隊 天翔隊」の文字が…

大阪市に住む建築士の山本一清さん(74)は、父親琢郎さんから戦争の話は一切聞いたことがなかったという。

定年まで当時の営林署に勤めた琢郎さん。
生真面目で、自分にも子どもにも厳しく、食事時には必ず「いただきます」と言うようにしつけられた。
山本一清さん
そんな父親は18年前に死去。

遺品を整理する中で見つけたマフラーに記されていたのは「振武隊特別攻撃隊 天翔隊」という文字と父親の名前だった。

山本一清さん
「マフラーを見たときの最初の印象は『へえ~』というものでしたね。60歳近くになってから車の免許を取ったくらいですから、飛行機の操縦ができるなんてことは全く想像がつかなかったですね」

父の経歴には空白の2年間

さらに名古屋市に住む妹が、父親の経歴が記された書類を保管していたことがわかった。
初めて目にする父親の経歴。

そこには年代ごとの勤務先や住所、給料の額まで細かく記されていた。
父の経歴が書かれた書類
しかし、戦時中の部分は
「昭和18年10月1日 仙台陸軍飛行学校二入隊」と
「昭和20年8月18日 召集解除ヲ命ゼラル」というわずか2行だけ。

21歳から23歳の間の空白の2年間に何があったのか?
なぜ父親は戦争について語ろうとしなかったのか?

折しも新型コロナの感染が広がっていた去年、自宅にこもり自由になる時間がふんだんにあった山本さん。父親の足跡をたどることにした。

短期間の訓練で特攻隊員に

まず、山本さんは父親や部隊の名前を手がかりにインターネットで調べた。

検索結果から父親が所属していた「振武隊」の部隊編成をまとめたホームページを発見。

そこには琢郎さんが旧陸軍の戦闘機の操縦士を短期間で育成する特別操縦見習士官として訓練を受け、その後、特攻隊に組み込まれたことが記されていた。
サイトの運営者に問い合わせると、特別操縦見習士官=特操出身の隊員たちが寄稿する会報などの存在も判明。

取り寄せると、父親が訓練のために栃木県や長野県、それに青森県など全国10か所を転々としたことや、訓練中に事故に遭い一命をとりとめたことも明らかになった。
山本一清さん
「わずか半年ぐらいで飛行機に乗れるようになって、1年足らずで実戦に向けられるということなので、よほど過酷な訓練だったのかなというのは想像がついた。無理やり自分を殺して、みんなと一緒に死にに行くんだという訓練を繰り返していたんじゃないかな」

父は”遺書”を残していた

さらに調査を進めると、佐賀県吉野ヶ里町の「西往寺」という寺で父親が終戦間際まで過ごしていたことが分かった。

山本さんは早速、寺を訪ねた。
西往寺
寺によると、戦時中、ここは出撃する直前の特攻隊員たちの宿舎となっていて、53人の若者が戦地へ向かったという。

父親もここでおよそひと月を過ごし、近くにあった旧陸軍の「目達原飛行場」で訓練を受けていた。

驚くべきことに父親の遺書ともいえるものも残されていた。
父が書いた言葉
そこに記されていたのは「後に続くを信ず」という言葉。

そして「国の為散れと示せし神鷲の御跡慕いて我も行くなり」という短歌だった。
父の短歌
先に出撃した仲間たちを思い、自分もその後に続いていくという覚悟がつづられていた。
山本一清さん
「後に続く人間がいなかったら、自分のやっていることが正しいのだろうかと思いますよね。みんな続いていくから、自分もやれるんだという部分もあるのかなと思いますね。だから、こういう言葉を自分自身の心のよりどころにしていたのかもしれません」

少女に贈った父の自画像

この寺で、山本さんは父親の意外な一面も知ることになった。
当時14歳の少女に贈った絵やはがきが残されていたのだ。
父が贈った自画像とはがき
父の書いたはがき
「一日楽しく遊んで、兵隊さんはとても嬉しかったです。浜には子供たちが遊んでおり、波が岩に押し寄せる景色が目に浮かんで参ります。この次に行ったらまた遊びましょう」
持ち主は、伊藤玲子さん(92)
8年前、寺に寄贈していた。

昭和20年、家族で山形県の旅館に疎開していた時に琢郎さんと出会ったという。
伊藤さんは特攻隊員の生きた証を残したいと、自画像を描いてほしいとせがんだという。
伊藤玲子さん
伊藤玲子さん
「すてきな方で、親切で優しくて、面倒見がよかった。少女ながらに、こんないい青年が命を捨てちゃうのはもったいないと思いましたが、戦争中にそんなことを言ったら怒られちゃいますから、心の中でお祈りしました。どうぞ無事で、お帰りになりますようにと」
父の写真
2人のやり取りから見えてきたのは、厳格だった父親とは異なる、やさしい、普通の青年の姿だった。
父親が特攻隊員だったと知ったときに感じた『別世界の人間』という感覚は無くなっていた。

父は死に場所を求めていた

父親は戦後、知り合いを頼って移り住んだ長野県で山本さんの母親の洋子さんと出会って結婚。
ことし4月に亡くなった母親は戦中、戦後を振り返り400ページを超える手記を残していた。
父と母の結婚式
父親の足跡を調べる中、山本さんは、改めて母親の手記を読み進めたところ、戦後の父親の状況を記したページを見つけた。
「九州の基地で飛行訓練中に部下が墜落して亡くなった。翌日がくしくも敗戦宣言だったという。部下の死を目にして無念と責任感が錯綜し基地の周りの山野に死に場所を求めたという」
山本一清さん
生き残ったこと自体が命を失った仲間たちを、そしてあの頃の自分を否定することになるとして、口を閉ざしたのかもしれない。山本さんはそう推測している。

そして、父親が様々な葛藤の中「生き残る」ことを決意したからこそ命がつながり、自分や子ども、孫も存在しているのだと平和のありがたさを感じているという
父の写真
山本一清さん
「特攻隊の生き残りの方が自決したという話は聞いたことがあったので、よく踏みとどまって生き残ってくれたなと。多くの犠牲を払う戦争が二度と起こらないように、一人一人が考えられるようになれればと思います」
空白の2年を埋める旅を終えた山本さん。
様々な偶然がつながり父親の姿がおぼろげながら見えてきたと感じている。

山本さんは調べたことを本にまとめ、父親が語らなかった戦争を伝えていこうと決意している。
World News部
上野大和

2012年入局。
長野、大阪、埼玉で事件取材を担当。2022年からWorld News部。日本やアジアのニュースを英語で発信している。 

天皇陛下は、体をクルリと向けて遺族の言葉に耳を澄ませた 戦争を知らない皇室の「祈り」の今後

天皇陛下は、体をクルリと向けて遺族の言葉に耳を澄ませた 戦争を知らない皇室の「祈り」の今後© AERA dot. 提供

 終戦から78年となった8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が、東京都の日本武道館で開かれた。天皇陛下の「おことば」は、社会の情勢の変化を反映させつつ、これまでと変わらぬ平和への祈りと不戦の誓いが込められた。しかし、天皇陛下や皇后雅子さまもふくめ、皇室でも戦争を体験していない世代が増えている。上皇ご夫妻が始めた「慰霊の旅」、そして皇室の「祈り」の今後は――。

*   *   *

 天皇陛下の「おことば」では、2020年からあったコロナ禍に触れた表現がなくなり、「将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていく」と、「平和」と「幸せ」という言葉の順番が入れ替わった。昨年の「おことば」では、「人々の幸せと平和を希求し続けていく」という文章だった。

「『平和』の言葉を前に持ってきた。こまかな変化ですが、天皇陛下からのメッセージでは」

 そう話すのは、象徴天皇制を研究する名古屋大の河西秀哉准教授だ。ロシアによるウクライナ侵攻など、世界情勢が落ち着いていない状況を指しているのだろうと分析する。

  

 式典における天皇と皇后の滞在時間は、30分程度と長くはない。「おことば」も毎年ほぼ同じだが、社会情勢などを鑑みて、表現にわずかな変化が出る。

 全国戦没者追悼式は政府が主催し、戦後7年の1952年に初めて、昭和天皇と香淳皇后を迎えて新宿御苑で開かれた。このときの昭和天皇による「おことば」は、戦争でもたらされた苦しみや悲しみの渦中に人々がまだいることが伝わるものだった。

  

「今次の相つぐ戦乱のため、戦陣に死し、職域に殉じ、また非命にたおれたものは、挙げて数うべくもない。衷心その人々を悼み、その遺族を想うて、常に憂心やくが如きものがある。本日この式に臨み、これを思い彼を想うて、哀傷の念新たなるを覚え、ここに厚く追悼の意を表する」

  

 59年に2回目、63年の3回目以降、定期的に開催される国の行事となった。

 1980年、天皇の「おことば」に変化が起きた。さまざまな式典などで述べられる天皇の「おことば」のうち、全国戦没者追悼式だけが唯一「である」調のままだったが、「です」「ます」調に変わったのだ。

「威圧的だ」という声の一方で「威厳がある」との意見もあり、宮内庁としても議論の末の決断だった。

 そして平成へと移った89年の式典でも、「おことば」に変化が起きた。

 昭和天皇が「終戦以来すでに41年、この間、国民の努力により国運の進展……」としていた表現が、「終戦以来すでに44年、国民のたゆみない努力によって築きあげられた今日の平和と繁栄」と改められた。また、昭和天皇が「今もなお、胸がいたみます」としていた表現が、人々に寄り添う「深い悲しみを新たにいたします」という言葉になった。

天皇陛下は、体をクルリと向けて遺族の言葉に耳を澄ませた 戦争を知らない皇室の「祈り」の今後© AERA dot. 提供

■「サイパンならばどうか」と上皇さま

 小さく見えた変化は、上皇さまの強い決意の表れであり、戦争の犠牲者のために祈り、平和を希求する「慰霊の旅」を実現させる布石だった。

 戦後50年にあたる95年、上皇ご夫妻の「慰霊の旅」が始まった。

 おふたりは、長崎、広島、沖縄、東京大空襲の慰霊施設を訪問。さらに上皇さまは、激戦地のマーシャル諸島やミクロネシア連邦、パラオへの訪問を希望していると、当時の渡辺允侍従長へ伝えた。

 交通手段や宿泊施設の問題から断念することになったが、それでも「慰霊の旅」への思いは強かった。

「では、サイパンならばどうか」

 戦後60年の節目である2005年にサイパン、さらに10年を経て15年のパラオ訪問へとつながった。
天皇陛下は、体をクルリと向けて遺族の言葉に耳を澄ませた 戦争を知らない皇室の「祈り」の今後© AERA dot. 提供

 太平洋戦争では1944年7月にサイパン、8月にグアムの守備隊が玉砕すると、米軍の攻撃目標はパラオ本島から南へ40キロに位置するペリリュー島へ。日米両軍の戦死者は1万2千人以上に及んだという。

 ペリリュー島を訪れた上皇ご夫妻は、戦没者の碑に日本から持ってきた菊の花を捧げた。そして、海に浮かぶもう一つの激戦地、アンガウル島のほうへ歩を進めた。

「あそこね」

 上皇さまが美智子さまに声をかける。静かに顔を見合わせ、島へ一礼した。

 このときの情景を、上皇さまは和歌に詠んでいる。

  

《戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ》


天皇陛下は、体をクルリと向けて遺族の言葉に耳を澄ませた 戦争を知らない皇室の「祈り」の今後© AERA dot. 提供

 翌2016年の「慰霊の旅」は、フィリピンへ。フィリピン側の死者は110万人以上、日本側は50万人以上にのぼり、いまだ帰らぬ遺骨は30万人以上に及ぶ。

 皇室医務主管を務めた故・金沢一郎氏は、かつて筆者にこう語った。

「昭和の惨劇で、命を落とした人々への鎮魂は、両陛下にとって生涯を通じた仕事なのでしょう」

  

■佳子さまが引き継いだ「祈り」

 19年に令和の天皇陛下へと代替わりが行われた。皇室も高齢化が進み、式典で祈りを捧げる役目は、戦争を体験していない世代に引き継がれた。

天皇陛下は、体をクルリと向けて遺族の言葉に耳を澄ませた 戦争を知らない皇室の「祈り」の今後© AERA dot. 提供

 先の大戦中に戦地で亡くなった身元不明の戦没者らを慰霊する千鳥ケ淵戦没者墓苑での秋季慰霊祭や拝礼式などは秋篠宮ご夫妻が引き継ぎ、今年は初めて次女・佳子さまが5月の拝礼式へ参列した。

 出席した遺族からは、佳子さまが「祈り」を引き継ぐことに「嬉しい」といった感想が漏れた。一方で献花もなく、黙礼をして10分ほどで退場する流れに、さみしさを感じた遺族もいた。

 そして8月15日の「終戦の日」の全国戦没者追悼式に出席した天皇陛下と皇后雅子さまも、戦争の実体験がない世代だ。

 式典で、父親がソロモン諸島で戦死した尾辻秀久参議院議長は「参議院議長として、遺族の一人として、ここに立たせていただく」と前置きして、

「私たちは焼け野原の中、おなかを空かせて大きくなりました。一度でいいからおなかいっぱいご飯を食べたいと思っていました」

「私たちは、生きるか死ぬかという中を肩を寄せ合って生き抜いて参りました」

 そう、自身の体験を交えながら追悼の辞を読み上げた。

 中国で父親が戦死した遺族代表の横田輝雄さんは、ロシアによるウクライナ侵攻に触れ、こう訴えた。

「現地の惨状を目の当たりにするにつけ、かつての戦争を思い出さずにはいられません」

 遺族たちが標柱の前に立つたびに、天皇陛下はクルリと体を向けて、追悼の辞に耳を傾けた。雅子さまも標柱と遺族らを見つめていた。この日、愛子さまも御所で黙とうを捧げていた。

  

■「慰霊の旅」は終わっていない

 2年後には、戦後80年の節目を迎える。戦争の悲惨さを知る世代が表舞台から去り、次世代への歴史の継承は大きな課題となっている。

 先の河西准教授は、皇室の「慰霊の旅」はまだ終わっていない、と話す。

「戦争を肌で知らない皇室の方々が、慰霊に向き合うのは難しいことです。戦争の犠牲者の魂と平和の希求のために祈りを捧げるとき、それが『儀式をなぞる作業になっていないだろうか』『内実を伴うものになっているだろうか』と、常に自問をする覚悟が必要だと思います。

 戦争を知らない天皇、そして皇后、皇族方が慰霊を行う意味とは何か。それは、皇室自身、そして私たちが考えなければならない課題ではないでしょうか」

(AERA dot.編集部・永井貴子)