Apex product 【 昭和の楽しい時代㉗ 】

【連絡先】

メモ: * は入力必須項目です

♥️2023💃6/30 マイク・タイソン(57歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

映画「同棲時代 今日子と次郎」(1973)は、出演もしている大信田礼子の主題歌が大ヒットしたことでも有名だが、由美かおるがキュートで、大胆なヌードを見せている。
映画は、セリフや感情(思っていること)が、突然画面にあらわれたりするなどやや漫画チックなところもあった。
当時の時代背景では、厭世主義や、あきらめ、生きる意味を見失った若者の無気力などが主人公に反映していたようだ。
「同棲」という言葉は、今では手垢がついた言葉だが、当時としては新鮮で、どことなくジメジメした印象があり、反面、その響きには妄想を起こさせるものがあり、「自分には無縁だがいいな」というなにかあこがれのような響きがあったことも事実(笑)。
この映画の関連記事によると、今でこそ、独身男女が一緒に暮らすのはよくあることだが、1970年代は「結婚前の男女が一緒に暮らすなんて、ふしだらだ」という人が多数派。同棲というと「婚前交渉」が前提になり、当時は「もってのほか」が多かった。
NHKが1973年から実施している「日本人の意識」調査によると、同棲がブームになった1973年に「結婚式がすむまでは性的まじわりをすべきでない」と考える人が58.2%と圧倒的だった。
ところが、2013年には「愛し合っているならよい」が46.2%で最多と逆転。40年前に青春を送った若者にとって、同棲は許されない、がちょっと憧れるライフスタイルだったという記事で結んでいる。
当時は100万枚を超えるセールスを記録した「神田川」が流行った時代。
大学生と、印刷工場で働く少女の恋愛物語(映画「神田川」1974年)。4畳半で暮らして、銭湯に二人でかけて、外で待ち合わせて・・・という世界。その頃、1972~73年、双葉社「漫画アクション」では、上村一夫の「同棲時代」(双葉社)が大ヒットした。
売れないイラストレーター、次郎(23)と、小さな広告会社に勤める今日子(21)。
ともに地方から上京してきた2人が恋に落ち、ひとつ屋根の下で暮らし始めるというストーリー。映画化、ドラマ化され「同棲ブーム」を巻き起こしたのだった。
・・・
「同棲時代」の舞台は、古い木造アパート。狭い部屋に、ちゃぶ台と布団と机、タンスが共存。ふすまには穴が開いている。売れないイラストレーターと、しがないOLの2人暮らしは、どことなく湿っぽい。
のんきな次郎とは対照的に、今日子は不安を抱えている。仕事や結婚、セックスなど、全てを曖昧にしていられる同棲生活。「結婚」となると互いに責任も生まれるが、2人の同棲は、単に様々な決断を先送りにしているだけ、とも取れる。
今日子は、のほほんと生きていくのがいい、と自分に言い聞かせているよう。そのうち今日子が妊娠すると、次郎はうろたえ、今日子は堕胎を選ぶ。
だんだんと精神を病んでいく今日子。電車が走ってくる踏切で、一瞬、飛び込もうかという衝動にも駆られる。1970年代の同棲は「自由恋愛」の開放的なイメージとは裏腹に、女性の茫漠とした不安、堕胎という悲しい結末がつきまとっていたようだ。
当時の20代は、今の団塊世代や、やや少し下の世代に当たる。ジーンズやミニスカートなどの流行モノに身を包み、モラトリアムを謳歌していた若者たち。今日子の真っ赤な衣装とミニスカートが印象的だ。
同棲生活は、いつか終りを迎える。今は楽しいが、いつまでもこうしてはいられない。甘い夢ばかり見ているわけにはいかない。必ず不幸な結末を迎える「同棲物語」は、当時の若者の気分と相まって広く受け入れられた。
四谷、新宿、銀座の風景など1970年代の風景も懐かしい。映画は記録としても時代背景や風俗を写す資料としても価値があると言えそうだ。
「同棲時代」の山根成之監督は、本作がデビュー2作目だが、このあと「愛と誠」「さらば夏の光よ」「パーマネント・ブルー 真夏の恋」「おとうと」など青春映画の佳作を残した。なかでも「さらば夏の光よ」での秋吉久美子と郷ひろみのフレッシュコンビは鮮烈な印象を残した。
1966年7月1日
ビートルズ日本公演、昼の部を観る内田裕也さんと尾藤イサオさん。
「エリック・クラプトン アクロス24ナイツ」2023年イギリス映画。
 今なお現役で活動するロックギターの神様、エリック・クラプトンが、1990年から1991年にかけてロンドンで開催したコンサートの中から厳選された17曲の演奏シーンのみを収録した、映画というかロックドキュメンタリーで、デビュー60周年!(わたしの年齢と一緒😅)を記念して製作されたものです👍
 そのコンサート形式は、シンプルにバンド形式で行ったものや、オーケストラを従え壮大かつ豪華に行ったもの、そして敬愛するブルースの大御所、バディ・ガイやアルバート・コリンズをゲストに迎えたブルース・セッションなど多岐にわたっています。
 アップリンク京都で上映されたこの作品、日曜日の昼間、ちょっと申し訳ないですが「ほろ酔い気分😆」で観て参りました。
 いやいや、良かったです。クラプトン好きの皆さんにはこの一言で全てがわかってもらえると思うんですが、「クラプトンて誰?」という方も多々いらっしゃると思うんで、今回はシンプルに「わたしが思うここに収録された各曲の見どころ聴きどころ」をかいつまんで紹介させていただきたいと思います。ということで、わたしにとっては「楽なレビュー」です(^^)
 その1 このころクラプトンは40代半ばの円熟期、当時も今もロックミュージシャンの皆さんはこれくらいの歳になると「オーケストラとの共演」がやりたくなるようで、この作品にも数曲収録されています。「ホリー・マザー」「ワンダフル・トゥナイト」などのバラードにはとてもマッチしていたんですが、「クロスロード」「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」などのゴリゴリの曲にはちょぃと???な感じを受けました。まあこれは好みの問題なんでなんともですが🤔
 その2 1986年に発表された「ティアリング・アス・アパート」も収録され、ノリノリの演奏が聴けます。ただ、オリジナルで共演し、先ごろ逝去されたロックンロールの女王「ティナ・ターナー」の姿が見えなかったことが残念でした😞
 その3 クライマックスを飾るのは、誰でも一度は耳にしたことがある不朽の名曲「レイラ」ここで彼はお決まりのパフォーマンス、どんなのかというと火のついたタバコをギターのヘッドにさしてソロを弾きまくるというものを見せてくれますがこれが「かっこいい!」昔のバンドやっていたころこれにあこがれて真似したことあるんですが、わたしベースだったものでうまくさせなかったという苦い記憶が蘇りました🤣
 その4 わたしが思う一番の見どころは「ブルース・セッション」です。ここでのクラプトンはあこがれの大先輩を前にとても嬉しそうな顔でアドリブソロを弾きまくっています。音と音の隙間を楽しむブルースの醍醐味、そして機械やAIには出せないと思う人間臭いその音、クラプトンだけでなく参加者全員とても楽しそうな様子が印象的でした。
 クラプトンはこの後、全曲ブルースのカバーのみで占めたアルバムを発表したりコンサートも行ったりしました。彼にとってのこの後の90年代はまさに「ブルース・ナイト」でしたね。あー。いいなー。ブルースセッションしたい‼️
 こんなところです。読み返すとやはり「かなりマニアック」でしたね😅
ということでクラプトンをよく知らない方にはなかなか敷居の高い映画ですが、少しでも知っておられる方いらっしゃったら、是非映画館まで足をお運びください。
 最後に思い出話をひとつ、彼は60年というキャリアのうち何回も日本公演を行ってますが、わたしが唯一体験したのはちょうどこのころ、1990年12月の大阪公演でした。この作品と同様、ロングヘアーにひげ面というまるで「伝道師」のようないでたちとスタイリッシュなスーツ姿、そして放たれるカッコイイギターの音色よく覚えています。わたしはそれまでクラプトンを「ギタリスト」としてはあまり意識してなく、
同時代のギタリストといえばジェフ・ベックやジミー・ペイジのほうが好みだったんですが、このコンサートを観て印象が変わりましたし、30年余り経過した今、この作品を観て改めてその思いを強くしました。

♥️2023💃7/1 ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)(36歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

山本圭さん
(1940年7月1日-2022年3月31日)
俳優、声優。
身長167cm。
趣味は渓流釣り。
妻は囲碁棋士の小川誠子。
長女有り。
父は山本勝巳、父方の叔父は山本薩夫。
兄は山本學、弟は山本亘。
大阪府大阪市生まれ。
成蹊大学政治経済学部を中退。
大学中退後、
1960年に俳優座養成所第12期生となり、
1963年に正式に入団(1980年に退団)。
1962年、
叔父・薩夫監督の『乳房を抱く娘たち』でスクリーンデビュー。
1966年、
テレビドラマ『若者たち』で三男・佐藤三郎役を演じて人気を獲得(1968年からの映画化三部作にも同役で出演)。
世間に名を広めるとともに、
毎日映画コンクール助演男優賞を受賞。
内面に強さを秘めた人物像を演じています。
舞台俳優としてもシェイクスピア作品に多く出演。
かつて富次郎役で出演した映画『いのちぼうにふろう』の
舞台公演『いのちぼうにふろう物語』には、
名も無い男役で出演。
テレビドラマでは主役級の脇役として活躍し、
兄弟一家の後見人を演じた『ひとつ屋根の下』、
ヒロインの父親を演じた『白線流し』などに出演。
2022年3月31日午前9時20分、
肺炎のため、埼玉県の病院で死去。
81歳没。
(山本圭)
五代高之さん
(1956年7月1日-)
俳優、声優。
身長180cm。
東京都世田谷区出身。
相模工業大学附属高等学校(現・湘南工科大学附属高等学校)卒業。
学生時代に、
日本テレビで放送されていた『金曜10時!うわさのチャンネル!!』『テレビ三面記事 ウィークエンダー』などで
大道具のアルバイトを経験。
そのときの先輩からの紹介で、
滝恵一出演の養毛剤のCMに出演したことがきっかけとなり、
俳優を志すこととなりました。
滝が主宰する俳優養成所「タキ塾」を経て、
時代劇を学びたいと思い大川橋蔵の付き人に。
1979年、
『西部警察』のオーディションに合格し、
石原プロモーションに所属。
大門軍団の最若手の兼子刑事役で本格デビュー。
芸名の「五代高之」の名付け親は石原裕次郎であり、
1969年に石原プロで制作された映画『栄光への5000キロ』で、
石原裕次郎が演じた主演の「五代高行」の「行」を「之」に変えた上で与えられています。
1981年、
川崎龍介に代わって演じた『太陽戦隊サンバルカン』でのバルイーグル / 飛羽高之役で初主演。
同年『月光仮面 THE MOON MASK RIDER』で映画デビューし、
『仕掛人梅安』に浪人・小杉役で助演。
以後、
映画、テレビドラマ、舞台のほか、
NHK-FMのラジオドラマ『プラチナプラチナ』に主演するなど活躍。
『教師びんびん物語』では、
主演の田原俊彦と紺野美沙子ふんするヒロインを巡って恋のさやあてを展開する実業家役で出演。
『暴れん坊将軍』シリーズでは
パート3からパート5まで5年間に亘って御庭番・才三役を演じました。
また、
俳優養成所「五代塾」の塾長も務めています。
特技は、剣道(三段)、合気道、乗馬。
スキュ-バダイビングライセンス、小型船舶2級資格を所持。
(五代高之)

♥️2023💃7/2 浅丘ルリ子(83歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

志穂美悦子さん
強いけどかわいい女の子に憧れ!😅
ネガには昭和50年11月30日と書いてあります。
京都太秦映画村で撮りました。
陸軍中野学校
現在は中野警察病院になっています
🎤🍂アミダばばあの唄🍂☆🎤☆
👿アミダばばあ&タケちゃんマン👿🎤
https://youtu.be/OImGNRHhKNc
アミダばばあの唄は桑田佳祐が作詞作曲を担当。アミダばばあは、フジテレビ系バラエティ番組「オレたちひょうきん族」のタケちゃんマンのコーナーで明石家さんまが演じた敵キャラクター。史上唯一、タケちゃんマンに勝利した怪人である。タケちゃんマンと三番目に戦った怪人。明石家さんまがキャラクターを考案した。老人のキャラクターであったため「年寄りをいじめるのはまずいんじゃないか」と採用が躊躇われたが、「スマートにやれば大丈夫だろう」という結論に達し採用された。ブラックデビルの死後、息子ブラックデビルJr.がタケちゃんマンと対決していたが、第72話で登場したアミダばばあがホタテマンとともに人気を獲得し、第78話からタケちゃんマンと対決するレギュラー怪人となる。本名:網田久慈(あみだのおくじ)。年齢80歳。出身地は不明。若い頃はいじめられていた。身分違いの恋愛・それに伴う失恋の経験があり、老年の現在に至るまで処女である。怪人化した理由は不明。
🎤👿🍂👿🎤👉 https://youtu.be/FhzPqyVqpAE
一斗桝(いっとます)
昔、米の供出が俵だったころこの桝で十回入れると一俵でした.
https://youtu.be/N6Cp5xflmuk
https://youtu.be/l8mVvGowflI
2023/7月2日は❬南沙織❭さんと
❬小柳ルミ子❭さんの誕生日です!
おめでとうございます🎊🎉
二人とも‘71年デビューで「17才」と「私の城下町」は大ヒットしました,偶然にも同じ誕生日なんですね,
お二人ともその年のレコード大賞新人賞に輝き揃って紅白歌合戦にも初出場しました( * ॑꒳ ॑*) 。oO💞
西成区のドヤ街
大通り沿いは小ぎれいなホテル街ですが
路地に入ると、あいかわらず昭和です
桂歌丸さん
(1936年8月14日-2018年7月2日)
落語家。
位階は従五位。
勲等は旭日小綬章。
出囃子は『大漁節』。
神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。
神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。
定紋は『丸に横木瓜』。
横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。
五代目古今亭今輔の門下となり、
古今亭今児を名乗ります。
のちに四代目桂米丸の門下に移り、桂米坊を名乗りました。
当初は新作落語中心でしたが、
晩年は、
廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動。
出囃子は『大漁節』。
社団法人である落語芸術協会に所属し、理事や副会長を歴任。
2004年に5代目会長に就任し、
公益社団法人への移行後も引き続き会長を務めました。
また、
地元・横浜においては横浜にぎわい座の2代目館長や、 
横浜橋通商店街の名誉顧問を務めていました。
演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして出演し、
2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで
同番組の5代目司会者を務め、
同日付で終身名誉司会者に就任。
没後は永世名誉司会に名称が変更。
(略歴)
・1951年(昭和26年)11月
5代目古今亭今輔に入門。
兄弟子・4代目桂米丸の前名・古今亭今児を名乗ります。
・1954年(昭和29年)11月
春風亭橋之助、桂木多蔵とともに二つ目昇進。
・1961年(昭和36年) 
兄弟子・米丸門下に移籍。桂米坊に改名。
・1964年(昭和39年)1月 
桂歌丸に改名。
・1965年(昭和40年)3月 
日本テレビ『金曜夜席』の大喜利メンバーとして出演(1966年4月まで)。
・1966年(昭和41年)5月 
日本テレビ『笑点』の大喜利メンバーとして出演(1969年4月から11月までを除く)。
・1968年(昭和43年)3月 
真打昇進。
・1974年(昭和49年)1月 
横浜・三吉演芸場での独演会を開始。
この頃から演目を古典落語にシフト。
・1979年(昭和54年)8月 
4代目三遊亭小圓遊と共に社団法人落語芸術協会理事就任。
・1989年(平成元年) 
横浜市政100周年にて市民功労賞、同年文化庁芸術祭賞受賞。
・1991年(平成3年) 
横浜文化賞受賞。
・1996年(平成8年) 
神奈川文化賞受賞。
・1999年(平成11年)9月 
5代目春風亭柳昇の後任で落語芸術協会副会長就任。
・2004年(平成16年)2月 
10代目桂文治の後任で落語芸術協会5代目会長就任。
・2005年(平成17年) 
芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
・2006年(平成18年)5月 
5代目三遊亭圓楽の降板に伴い、『笑点』の5代目司会者就任。
また、初の自伝『極上歌丸ばなし』を出版。
・2007年(平成19年)4月 
旭日小綬章受章。
・2010年(平成22年)7月1日 
玉置宏の死去に伴い空席となっていた横浜にぎわい座の第2代館長に就任。 
・2011年(平成23年) 
噺家生活60周年を迎える。
・2016年(平成28年)4月30日 
「体力の限界」を理由に笑点の司会を引退することを発表。
同年5月22日放送の「笑点 歌丸ラスト大喜利スペシャル」を最後に勇退。
同年5月25日には文化庁より文部科学大臣表彰されることを発表。
・2018年(平成30年)7月2日 11時43分、
慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で死去。
(桂歌丸)
桑田二郎さん
(1935年4月17日-2020年7月2日)
漫画家。
大阪府吹田市出身、茨城県鉾田市在住。 
旧ペンネームは桑田次郎。
絵のシャープな美しさで知られます。
代表作は『まぼろし探偵』『月光仮面』『8マン』など。
子供の頃は
『のらくろ』(田河水泡)や『タンクタンクロー』(阪本牙城)、『長靴の三銃士』(井元水明)等、
「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」の漫画を愛読。
1948年、
13歳の時に『奇怪星團』(青雅社)で貸本漫画デビュー(最年少記録)。
病気で職を失った父の代わりに家計を助けるも
苦しい生活状況で高校進学がかなわず、
中学3年生で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるように。
1957年に『まぼろし探偵』(「少年画報」連載)、
1958年、『月光仮面』(「少年倶楽部」連載)がヒット、売れっ子漫画家に。
1963年より
「週刊少年マガジン」(講談社)で平井和正原作の『8マン』の連載が開始され、
テレビアニメ化もされるなど大きくヒット。
しかし1965年に自殺用に所持していた拳銃による
銃刀法違反で逮捕されたため連載は打ち切り。
1年後には
川内康範原作の『黄色い手袋X』(「月刊ぼくら」講談社)のコミカライズで復帰、
その後も『ウルトラセブン』(「少年マガジン」)や『豹マン』のコミカライズ、
平井和正原作の『デスハンター』などの作品を発表。
1977年、
42歳の厄年を境に少年漫画界から身を引き、
精神世界の漫画化を始めました。
般若心経に興味を持っていたことを知った
出版コンサルタントのアドバイスで、
これをテーマにした本を出したところ、ヒット。
この際にペンネームを次郎から二郎に改めました。
2020年7月2日、老衰のため死去。
85歳でした。
(桑田二郎)
西川きよしさん
(1946年7月2日-)
漫才師、お笑いタレント、司会者、政治家。
元参議院議員(3期)、文化功労者。
身長166cm。
高知県高知市朝倉生まれ、大阪市港区・住吉区育ち。
吉本興業所属。5人姉弟の次男(姉3人、兄1人)。
妻はタレントの西川ヘレン。
子供に
俳優の西川忠志(長男)、元俳優の西川弘志(次男)、タレントの西川かの子(長女)。
高知市立朝倉小学校から大阪市立市岡小学校を経て
大阪市立三稜中学校卒業(14期生)。
姉は六代桂文枝と同級生。
きよしと同じく高知県で生まれ、
大阪府で育った横山やすしと漫才コンビを結成し、国民的人気を博しました。
漫才コンビ「やすしきよし」(略称・やすきよ)は漫才ブームの火付け役になり、
日本武道館での公演も果たし吉本興業の躍進に貢献、
2020年に漫才分野として初の文化功労者に選ばれました。
平成以降
三代目笑福亭仁鶴、六代桂文枝(旧名:桂三枝)と共に
所属筆頭格の芸人とされています。
また座右の銘であり、
漫才における決め台詞「小さなことからコツコツと」をスローガンとして政界にも進出し、
芸人としての活動を並行して行いながら
参議院議員を3期18年務めました。
弟子に漫才師の西川のりお等がおり、
弟子には芸名に「西川」の屋号(苗字)を与えています。
フジテレビ「ザ・ベストハウス123」の番組にて
シーランド公国のロードの称号を得ました。
大阪市内に、
吉本とは別に個人事務所「オフィス西川」を設けています。
2022年10月、
日本経済新聞朝刊に「私の履歴書」を連載。
(西川きよし)

「紅三四郎」は、1969年(昭和44)4月から同年9月まで、フジテレビ系列にて放映された、竜の子プロ製作のアニメ作品。原作は、故・吉田竜夫(同プロ創立者)、九里一平両氏による同名コミックで、後期OP主題歌を歌った堀江美都子は、アニソン歌手としてはこれがデビュー作だそうです。

成瀬巳喜男さん
(1905年8月20日-1969年7月2日)
映画監督。
東京府(現東京都)四谷出身。
東京都四谷区に縫箔職人の父・利三と母・きなの間に二男一女の次男として誕生。
生まれたのが巳年、巳の月、巳の日だったので「巳喜男」と名付けられました。
もともと家が貧しかったため、
早く腕に職をつけようと工手学校(現工学院大学)に入るも、
父が亡くなって家計が逼迫したことで中退。
1920年、
知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社。
1922年頃から池田義信の助監督につきます。
しかし、なかなか監督には昇進出来ず、
後から入社した小津安二郎や清水宏らが入社して
3・4年で監督に昇進する中、
成瀬もまだ五所平之助の下で指示を受けており、
都合10年もの下積み時代を過ごしました。
1930年、
成瀬は城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた
短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。
最初は短篇のドタバタ喜劇を手がけていましたが、
1931年の『腰弁頑張れ』で認められ、
その後長篇作品も手がけていき、
1932年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、
期待の若手監督として注目されました。
翌1933年には
『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、
両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得ました。
しかし監督に昇格しても個室も与えられず、
他の助監督たちとの大部屋暮らしが続きました。
そこへ成瀬は東宝の前身であるPCLから引き抜きの話が入り、移籍を決心。
また成瀬はこの時期、
後の東宝で成瀬の映画を多数製作することになる藤本真澄とも知りあうことに。
1934年、
成瀬は助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍して、
初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)を監督。
次いで監督を手掛けた、
中野実の戯曲『女優と詩人』では無残な失敗を喫したとの評価を受けも、
3作目の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では
批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれました。
この作品は“Kimiko”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、
アメリカで興行上映された初の日本映画となりました。
のちに
『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』の
主演女優の千葉早智子と1937年に結婚して長男の隆司が生まれるも、
3年後の1940年に離婚。
一人息子の隆司は千葉が引き取って育てました。
大佛次郎原作の『雪崩』(1937年)では黒澤明が助監督を務めました。
黒澤の自伝には、
「成瀬さんにしても、物足りない仕事だったと思うが、それでも、私には得る所が多かった。」の記載があります。
戦時下では
『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』など「芸道もの」というジャンルで冴えを見せます。
戦争直後は
民主主義路線映画『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春の目ざめ』
といった映画の監督を余儀なくされました。
同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、
成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、
映画芸術協会を設立、
フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することに。
1951年、
林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受けました。
東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は
一般に成瀬の最高傑作とされていませ。
成瀬は、
林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして
川端康成原作の『舞姫』『山の音』、
室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、
石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで
幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、
人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききりました。
成瀬の遺作は
1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』。
1969年、成瀬は直腸癌のため63歳で没しました。
(成瀬巳喜男)
お洒落に目覚め 先輩たちに憧れた17歳
「メンズクラブが街で撮影」と聞きコテコテににして街をウロウロしました
その後、サーファーとなり「ファインが街で撮影」と聞き彼女とコテコテで出動
一番人気はやはりサンダーバード
2号だろうか?コンテナに積んだ
ジェットモグラも人気だった。

♥️2023💃7/3 トム・クルーズ(61歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

おかしな夫婦でした。

しみじみ、路地裏。 — 場所: 横浜駅きた西口 狸小路

眞野あずささん
(1957年7月4日-)
女優。
身長165cm。
東京都生まれ。
姉は女優の真野響子、俳優の柴俊夫は義兄、女優の柴本幸は姪。
父親は日本航空勤務のサラリーマン。
神奈川県立光陵高等学校、聖心女子大学文学部英文学科卒業。
大学4年在学中、
週刊朝日の表紙を飾ったのがきっかけで芸能界入り。
日本テレビ制作の番組『SHARPワールドドキュメント・世界のこれがNo'1』の司会としての出演を経て、
「風の鳴る国境」で女優デビュー。
卒業後の1980年、
晴海の国際見本市で行われたビジネスショーでアルバイトをしていた時に出会った、
当時コンピューター会社の担当者であった男性と約10年交際の上、1989年12月25日に結婚。
「父親と同じサラリーマンと結婚できて嬉しい」と東京プリンスホテルで当時会見を行いましたが、
2005年12月に離婚。
2015年に姉の響子と『婦人公論』の対談記事に
掲載されたのを最後に芸能活動を休止。
なお、
芸能活動を休止しているのはパニック障害で
仕事が出来なくなったことによる病気療養のためとのこと。
(眞野あずさ)
つのだじろうさん
(1936年7月3日-)
漫画家・心霊研究家。
東京府東京市下谷区豊住町(現:東京都台東区下谷1丁目)出身。
八人兄弟の次男であり、
四弟のつのだたかしはリュート奏者、
末弟のつのだ☆ひろはミュージシャン。
漫画原作者・ゲームクリエイターのビトウゴウは息子。
当時の下谷区豊住町で床屋を営む家に生まれ育ちます。
小学2年生のころ空襲を避けるため一家で福島県に疎開、
戦争が終わった中学2年生の時に東京に戻ります。
新宿区立淀橋中学校(現:新宿区立西新宿中学校)、東京都立青山高等学校卒業。
高校在学中に
自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、
一方のチームの監督が漫画家の島田啓三であることに気づきます。
つのだはベンチに押しかけ自作の漫画原稿を島田に見せて無理やり論評を聞き、
これをきっかけに師事することに。
1955年(昭和30年)、
『漫画少年』に「新・桃太郎」が掲載され漫画家デビュー。
この作品はわずか3ページほどの短編ですが、
師である島田から何度も書き直しを命じられ、
苦心の末投稿を許されて掲載されたものだといいます。
同じく『漫画少年』に投稿していた若い漫画家達と知り合い、
そのツテで新漫画党に入党。
豊島区のトキワ荘に通う事に。
1958年、
『りぼん』連載の『ルミちゃん教室』がヒットし
しばらくは少女漫画を主に描いていました。
1961年、
『なかよし』に連載した『ばら色の海』で、
第2回講談社児童まんが賞を受賞。
その後は
少年漫画誌に移りギャグ漫画を描くようになり、
『ブラック団』『忍者あわて丸』などで人気を博します。
1971年から梶原一騎原作で描いた
空手バイオレンス漫画『空手バカ一代』が大ヒット、
以降は劇画調の作品を描くように。
デビュー間もない頃、
東京・両国橋でオレンジ色のUFOを目撃したことをきっかけに
オカルトを研究していたつのだはその知識を生かし、
1973年に『うしろの百太郎』『恐怖新聞』といった怪奇漫画を立て続けに連載、
大ブームを巻き起こしオカルト漫画の第一人者となりました。
その他の代表作として、
本格派将棋漫画である『5五の龍』、
様々な女性達の運命をリアルに描いた『女たちの詩』シリーズなど、
TVドラマ化された作品が多数。
ギャグからシリアスなもの、
少年・少女向けから大人向けまでとオールラウンドなジャンルで活躍。
(つのだじろう)
深作欣二さん
(1930年7月3日-2003年1月12日)
映画監督・脚本家。
愛称はサクさん。
茨城県緑岡村出身。
6人兄弟姉妹の次男(第5子)として誕生。
茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部卒業。
1953年(昭和28年)に東映へ入社。
1961年(昭和36年)、
千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。
千葉とはこののち17作品でコンビを組み、ヒットを連発。
千葉を主演に据え置き演出した映画
『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、
1966年(昭和41年)の映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、
テレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、
『キイハンター』の企画にも関わり、
第1,2,157,158,178話を演出。
日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、
後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていましたが、
当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、
東映に籍を置きながら
にんじんプロダクションの國光影業の共作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督。
1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残るヒットを記録。
映画
『柳生一族の陰謀』『復活の日』『魔界転生』『蒲田行進曲』『里見八犬伝』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』『バトル・ロワイアル』など、
発表した一部の映画がヒット・話題作に。
テレビドラマでは前述の『キイハンター』のほか、
『傷だらけの天使』、『必殺シリーズ』、『影の軍団II』などを演出。
92年には、
ハリウッド映画並みのアクション映画『いつかギラギラする日』を監督しましたが、
大量の車、火薬、銃弾を消費したため、
当初予算の3億円が11億円にまで膨張。
1997年(平成9年)、紫綬褒章受章。
2002年(平成14年)には
カプコンのプレイステーション2用ゲームソフト
『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め、
これが撮影終了まで関わった最後の作品に。
2002年9月25日、
前立腺ガンの脊椎転移を公表し、
『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表。
12月16日からクランクインするも、
21日にがんの骨転移の痛みから、
放射線治療のため予定より2日早く入院。
23日に定期の放射線治療、
29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、
31日に自力呼吸が困難になり、 
人工呼吸器を装着し、一時危篤状態に。
2003年1月初頭、小康状態に回復。
5日に同作のプロデューサーで長男・深作健太が監督を代行。
7日、
配給を担っている東映が会見を開き、健太と岡田茂が出席。
「翌月早々に復帰させたい」と岡田は説明していましたが、
4日後の11日夕方には容態が悪化。
妻・中原早苗と健太、菅原文太、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦や藤原竜也が、臨終に立ち会いました。
12日の午前1時、死去。 
72歳没。
(深作欣二)

元女子悪役レスラーのブル中野さん

♥️2023💃7/4 あびる優(37歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/5 山田優(39歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

1957年着工,🗼東京タワー🗼昭和の橋梁鳶職は凄い,命綱や安全帯の装備は無し,尊敬します。

昭和45年/1970年(夏)の東映まんが祭り…での『タイガーマスク』劇場版はアニメ第25話あたりの(覆面ワールドリーグ戦)の再編集版…名作です!当初、宿敵(虎の穴)の刺客と思われていた…謎の覆面レスラー(グレート・ゼブラ)が敵か?味方か?…果たしてその正体や?いかに???…で!この🎵メインテーマ~悲しい🎵エンドテーマを歌っていた(新田洋)は後年(敏いとう&ハッピー&ブルー)のVO(森本英世さん)なんですね!コレホント!…

2023/7/5 は、水原弘さん(1935年11月1日~1978年7月5日)の命日です。『黒い花びら』『君こそわが命』『へんな女』など、抜群の歌唱力でヒット曲の実績もありますが、破天荒で無頼漢を気取った豪放磊落な生き方が周囲の誤解を招いた面は否めませんでした。(画像はレコードジャケットより)
もしかしたら、若い人にはわからない名前でしょうが、顔はご存知かもしれません。何しろ、いまだに40年以上前のアース製薬のホーロー看板は、地方に残っていますね。
東京都立赤坂高等学校2年の時に、文化放送主催の『素人ジャズ喉自慢』に優勝。
その後活動していたジャズ喫茶で渡邊美佐にスカウトされ、芸能界入り。
渡邊美佐さんというのは、坂本九やジェリー藤尾が所属したマナセプロの社長夫妻の長女であり、渡辺プロダクションの副社長であることは有名ですね。ちなみに、現マナセプロダクション社長・曲直瀬道枝さんは実妹です。
水原弘はマナセプロに所属。低迷していた時期は渡辺プロに所属したこともあったようです。水原弘は、ジャズ喫茶から、独特の風貌・歌唱力によって『黒い花びら』で衝撃的な登場。
その後は「スター気質」が抜けず、その豪遊のツケで体を壊し、さらに借金返済のための激務。
いったんは『君こそわが命』でカムバックしたものの、結局早逝した、といわれています。
享年44歳ですから、さすがに若すぎますね。
⭕️昭和の演芸バラエティ番組【笑点】1966〜
🔷三笑亭夢之助、三遊亭楽太郎、桂歌丸、林家木久蔵、林家こん平、三遊亭小円遊、司会三波伸介、座布団運び松崎真
🟢座布団運び、毒蝮三太夫
🔴歌丸と富士子夫人
🟣当時、ヒットドラマ『氷点』をもじって命名されましたね。
幸せそうな親子^_^
松田聖子さんと神田正輝さん
沙也加ちゃん
1986年生まれの沙也加ちゃん
生まれた時 病院前には3000人が
いたらしい(・∀・)

ブランデーグラスと昔の名前とくちなしの花

当時は、都心にある高級中華料理店とは知らずに、~リンリンランラン留園🎶🎵~を、真似していた私です···😅
~恋のインディアン人形~も印象的でした···🤗
なぎら健壱も出演していた🤣
嗚呼 花の応援団
2023/7月4日は、歌手の美空ひばりに
国民栄誉賞が贈られた日
【1989(平成元)年】リビンマガジン参照
美空ひばりは、「歌謡界の女王」とも呼ばれた昭和のスーパースター。病苦を乗り越えて東京ドームで伝説の「不死鳥コンサート」が行われ見事復活を果たしたものの、同年6月24日に帰らぬ人となった。美空ひばりの死去は人々に大きなショックを与えた。その10日後、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」を目的とした国民栄誉賞が贈られた。歌手として女性として初めての受賞だった。公私ともども大変なことが続いたが前を向き立派に闘いぬいてきた、その誉れなのだと思う。

♥️2023💃7/6 シルヴェスター・スタローン(77歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

その筋では有名な『中岡俊哉』さんの
心霊写真集😱
これも学生の頃によく拝見しましたよ😅
なかなか見応えありました‼️

7月5日は歌手 故 #藤圭子 さんのご生誕日です。ご存命なら今年72歳でした。赤貧の中「ギターの流し」で鍛えた歌唱力は、哀しみを湛えた、心に染み入る非凡なるものでした。漫画『#さすらいの太陽』(すずき真弓 画)は、主人公・峰のぞみのモデルを藤圭子さんとしました。合掌。

2023/7月5日は俳優・歌手・コメディアン 故 #仲本工事 さんのご生誕日です。1966(昭和41)年のザ・ビートルズ日本公演では、前座で #ザドリフターズ の一員としてご出演、リードボーカルを務めました。合掌

♪ナショナ~ル、ナショナ~ル、ナショナ~ル・・・♪
懐かしの松下電器のCM。

子供の頃夏になると近所の小さな映画館では怪談大会があり怖いながらも見に行ったものです

ナショナル クイントリックス 坊屋三郎

ビール🍺の美味しい季節になったけど…
このCMの劇場版が、優れた反戦アニメとして製作されてたコト知ってる人は、少ないだろな?😅‼️

元女子プロレスラーの北斗晶さん

♥️2023💃7/7 堤真一(59歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

🌟田村正和・さん🌟の眠狂四郎、

円月殺法。

喋り方までまねをしたトッポ.ジージョです🥰🐼❤️

ドラマ『#赤い迷路』。出演は宇津井健、山口百恵、小山明子、長山藍子、松田優作 ほか。精神科医 結城正人(宇津井)は妻を殺害した犯人を突き止めるが…。百恵さんは当時CBSソニー所属だったため、ポリドールの本盤ジャケットには掲載されなかったと推察。