別れの時は不意に訪れた。...
昨年1月15日、朝9時半頃、
かねてより病気療養中だった息子・健介のいる2階の部屋から妻の
かねてより病気療養中だった息子・健介のいる2階の部屋から妻の
呼び声が響いた。すぐに他の子どもたちと駆けつける
と、ベッドで仰向けになった健介の口の両脇から茶色の液が溢れ、
すでに呼吸もできない状態になっていた。
救急車が来るまで「健介! 健介!」と皆で呼びかけ懸命に体を
さすったが、健介はそのまま帰らぬ人となった。37歳。
短くはあったが、不自由な体で人の何倍も密度の濃い人生を
生き抜いたと思う。健介が生まれたのは1970年。
アマゾンへの夢を抱き、ブラジルの日系企業で働き始めて3年
たった時だった。生後3ヶ月たっても光を追わず、眼科医の診療を受けたところ、網膜の焦点を結ぶ部分が剥離しているため、左眼はまったく見えず、右目がわずかに見えるだけであることが判明。あらゆる治療を試みたが、願いも虚しく治療には至らなかった。いま思えば、すぐにでも会社を飛び出してアマゾンへ行こうとしていた私を、まだ時期尚早と健介が体を張って止めてくれた
のではないかという気がする。その後も健介の存在が、暴走しがち
な私に、大事な局面で自制を促してくれた。健介は、弱視というハンディを
抱えつつも、元気に育ち、柔道、卓球、サッカーとどんなスポーツも
見事にこなした。学校の勉強も、目が不自由なため、教科書を読むのに時間はかかったが一度読めば覚えてしまい、難関の大学にも見事パスした。
ところが16歳の頃額にできた瘤(こぶ)が徐々に大きくなり、
医者の判断で神経腫瘍、レックリングハウゼン病であることが判明した。
神経の周りにできる腫瘍によって、神経自体が圧迫され機能しなくなる
奇病で、まだ治療法も確立していないという。
腫瘍はその後脳内にも及び、19歳、26歳、30歳と、3度にわたる脳内の腫瘍摘出手術で一命は取り留めたものの、その後遺症でまず聴力が失われ、
歩行も困難になっていった。手術のたびに後遺症が残り、また神経腫瘍が他の神経にも及ぶことで、人間としての体の機能が徐々に奪われていく恐怖は
どれほどのものであったろう。しかし健介はすべてを受け入れ、
苦悩や不平不満を漏らして周りを心配させることは一切なかった。
逆にいつも相手を気遣い、ありがとう」の感謝の言葉をくり返していた。
一昨年、次の大手術に備えて栄養補給の管を胃に通す手術を受けたが、逆に体は骨と皮ばかりにやせ衰えた。痰(たん)が絡んで呼吸が難しくなり、声も出せなくなって家族との意思疎通すらままならなくなった。
もうこれ以上彼を苦しませないで……。
私たちは祈るほか術もなかった。いま振り返ると健介は、
なるべく家族を悲しませない時期を選んで逝ったようにも思える。
息絶えたのは、甥に当たる妹の息子が可愛い盛りになり、一家の
中心になる頃だった。別れの時から1年半が過ぎたいまも
妻と私は、朝起きると一番に健介の遺影に「おはよう」と声をかける。
家族を囲まれ、声をかけられながら逝った健介は幸せだった。
肉体的な苦痛から解放され、天国でイキイキと好きなことを
しているに違いない。これでよかったんだ。
夫婦の会話はいつもそこに行き着く。健介が短い生涯で私たちに与えてくれたものの大きさを、いまさらながらに実感している。
過酷な運命をすべて受け入れ、感謝を忘れず、
人に愛を与え続けた彼の姿に、私たちは人間としての在り方を
教えられた。健介が最初の手術のために訪れた日本で綴った文章がある。
「…人間は、しあわせになりたくてお金をもうけようとしているように
思うけど、だれかをぎせいにしてまでお金をもうけても幸せに
なれないと思います。人間は考えることができる動物なのだから、人間として考えて、こころをゆたかにしていけるように生きていければいいと思います」70歳の足音が近づいてきた
いまの私のテーマは、いかに人生を締め括るかである。
自分の周囲に少しでもよきことをもたらし、
「パパ、いい人生を送っているね」と、健介から褒められるような
生き方を全うできれば何よりである。
……………………………………………
「息子・健介が教えてくれたこと」
徳力啓三(とくりき けいぞう)ラ・カンターレ代表)
『致知』2009年8月号特集「感奮興起」より
と、ベッドで仰向けになった健介の口の両脇から茶色の液が溢れ、
すでに呼吸もできない状態になっていた。
救急車が来るまで「健介! 健介!」と皆で呼びかけ懸命に体を
さすったが、健介はそのまま帰らぬ人となった。37歳。
短くはあったが、不自由な体で人の何倍も密度の濃い人生を
生き抜いたと思う。健介が生まれたのは1970年。
アマゾンへの夢を抱き、ブラジルの日系企業で働き始めて3年
たった時だった。生後3ヶ月たっても光を追わず、眼科医の診療を受けたところ、網膜の焦点を結ぶ部分が剥離しているため、左眼はまったく見えず、右目がわずかに見えるだけであることが判明。あらゆる治療を試みたが、願いも虚しく治療には至らなかった。いま思えば、すぐにでも会社を飛び出してアマゾンへ行こうとしていた私を、まだ時期尚早と健介が体を張って止めてくれた
のではないかという気がする。その後も健介の存在が、暴走しがち
な私に、大事な局面で自制を促してくれた。健介は、弱視というハンディを
抱えつつも、元気に育ち、柔道、卓球、サッカーとどんなスポーツも
見事にこなした。学校の勉強も、目が不自由なため、教科書を読むのに時間はかかったが一度読めば覚えてしまい、難関の大学にも見事パスした。
ところが16歳の頃額にできた瘤(こぶ)が徐々に大きくなり、
医者の判断で神経腫瘍、レックリングハウゼン病であることが判明した。
神経の周りにできる腫瘍によって、神経自体が圧迫され機能しなくなる
奇病で、まだ治療法も確立していないという。
腫瘍はその後脳内にも及び、19歳、26歳、30歳と、3度にわたる脳内の腫瘍摘出手術で一命は取り留めたものの、その後遺症でまず聴力が失われ、
歩行も困難になっていった。手術のたびに後遺症が残り、また神経腫瘍が他の神経にも及ぶことで、人間としての体の機能が徐々に奪われていく恐怖は
どれほどのものであったろう。しかし健介はすべてを受け入れ、
苦悩や不平不満を漏らして周りを心配させることは一切なかった。
逆にいつも相手を気遣い、ありがとう」の感謝の言葉をくり返していた。
一昨年、次の大手術に備えて栄養補給の管を胃に通す手術を受けたが、逆に体は骨と皮ばかりにやせ衰えた。痰(たん)が絡んで呼吸が難しくなり、声も出せなくなって家族との意思疎通すらままならなくなった。
もうこれ以上彼を苦しませないで……。
私たちは祈るほか術もなかった。いま振り返ると健介は、
なるべく家族を悲しませない時期を選んで逝ったようにも思える。
息絶えたのは、甥に当たる妹の息子が可愛い盛りになり、一家の
中心になる頃だった。別れの時から1年半が過ぎたいまも
妻と私は、朝起きると一番に健介の遺影に「おはよう」と声をかける。
家族を囲まれ、声をかけられながら逝った健介は幸せだった。
肉体的な苦痛から解放され、天国でイキイキと好きなことを
しているに違いない。これでよかったんだ。
夫婦の会話はいつもそこに行き着く。健介が短い生涯で私たちに与えてくれたものの大きさを、いまさらながらに実感している。
過酷な運命をすべて受け入れ、感謝を忘れず、
人に愛を与え続けた彼の姿に、私たちは人間としての在り方を
教えられた。健介が最初の手術のために訪れた日本で綴った文章がある。
「…人間は、しあわせになりたくてお金をもうけようとしているように
思うけど、だれかをぎせいにしてまでお金をもうけても幸せに
なれないと思います。人間は考えることができる動物なのだから、人間として考えて、こころをゆたかにしていけるように生きていければいいと思います」70歳の足音が近づいてきた
いまの私のテーマは、いかに人生を締め括るかである。
自分の周囲に少しでもよきことをもたらし、
「パパ、いい人生を送っているね」と、健介から褒められるような
生き方を全うできれば何よりである。
……………………………………………
「息子・健介が教えてくれたこと」
徳力啓三(とくりき けいぞう)ラ・カンターレ代表)
『致知』2009年8月号特集「感奮興起」より
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ガキ大将バンド (土曜日, 20 9月 2014 21:00)
泣けたよ。そうなんだよ。子供に教わる事が、案外多いんだよ。鏡だな。