1万8000人以上が死亡・行方不明となった東日本大震災からちょうど5年が経った11日、日本各地で追悼行事が行われている。
地震が起きた午後2時46分には、全国で1分間の黙祷が捧げられた。東京では、天皇、皇后両陛下、安倍晋三首相などが出席して政府主催の追悼式が営まれた。
東京でも追悼の鐘が鳴らされ、地下鉄も一時停止。国内各地で大勢の人が目を閉じ、頭を下げて黙祷した。
10日に記者会見した安倍晋三首相は、「被災したお一人お一人にとって、この5年間はつらく、苦しい日々であったことでしょう」と語り、「今後5年間を『復興・創生期間』と位置づけ、十分な財源を確保し、被災地の自立につながる支援を行っていく」と表明した。
さらに、「資源に乏しい我が国が、経済性、そしてまた気候変動の問題に配慮しつつ、エネルギー供給の安定性を確保するためには、原子力は欠かすことはできません」と述べた。
5年前のこの日、マグニチュード9.0の地震によって発生した巨大津波が東北地方の太平洋沿岸を襲い、壊滅的な被害をもたらした。
津波はさらに、1986年のチェルノブイリ以来最悪の原子発電所事故を引き起こした。福島第1原発は津波によって冷却装置の電源を失い、相次いで原子炉のメルトダウン(炉心融解)が起きた。
原発事故によって放射線物質が広範囲に拡散。16万人以上が避難を余儀なくされた。大規模な除染が続くものの、大多数の避難民はいまだに自宅に戻ることができていない。
事故を受けて、国内の全ての原子炉が運転を停止。以来、再稼働した原子炉はわずかだ。多くの日本国民が原子力発電に強い不信感を抱くようになり、原発への反対運動が続いている。
日本政府は被災地の復興に巨額の予算を投入しているが、復興はいまだ道半ばだ。
高木毅復興相は、復興が「ハード面」では一定の成果挙げているものの、「ソフト面」で十分でないと指摘した上で、5年以内に完全復興を目指すと述べている。
震災当時、被災地からの避難者は47万人に上った。移住先で生活基盤を築いた人も多い。しかし、多くは精神的な打撃が最も大きな懸念だと語る。
岩手県陸前高田市の消防団では51人の犠牲者が出た。団員のひとり、熊谷栄規さんはロイター通信の取材に対し、「インフラは回復しつつあるが、心の方はまだ。時間が解決してくれると思った」と語った。「今でも死んだ人たちの顔が浮かんでくる。悔しさは、表現できない」。
(英語記事: Japan tsunami: Country marks fifth anniversary)
(c) BBC News
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井澤だよ。 (金曜日, 18 3月 2016 21:33)
こんばんわ。
酒井商店の運転手です。
あの翌日、俺達は被災地に向かった。
燃料を満タンにし、荷台にはドラム缶2本分の燃料を積み、荷主の指定の荷物と共に、余震の絶えない中走った。
心の中は不安だった。明日も見えない気がした。
帰ってこれないかも・・・・・
どうなるかもわからなかった。
でも、運転手の使命だと思って、走った。
現地では想像を超えるものだった・・・・・
ここはどこなのか?何なのか?わからず、指定の場所に荷物を下ろし、ピストン輸送が始まった。
流された車や家、家財道具・・・・・
泥まみれの道路・・・・・
横たわった車・・・・・
行く手を阻む車をワイヤーで引っ張ると、息を引き取ってしまった親子の仏様を見た。
周りの人たちは・・・・・
またか・・・・・
と言う感じになっていた。
来る日も来る日も走った。
関東、東北の往復・・・・・
家や会社を通り過ごして、とにかく走った。
大切な家族を失い、路頭に迷い、泥まみれになり、冷たくなった仏様が体育館に並べられていた。
罪のない人が番号で呼ばれていた。
火葬が間に合わずに仮埋葬地と呼ばれる所に、重機で穴を掘り埋められていた。
立ち尽くす人、必死に片付けをする人、体育館で泣き叫ぶ人、海を見て座り込む人、そういう人を横目に泥棒をする人、ボランティアの人々、荷物を下ろす俺たちにボロボロの服装でカップラーメンにお湯を入れて、持って来てくれた人。色々な人がいた。
少しずつ片付け始めた町の中にこんな光景を見た。
流されて基礎しか残っていない場所に、小学生1年生位の男の子と4歳位の女の子が小さな手で色々と拾っては運んでいた。
最初、コップと湯のみが置いてあった・・・・・
ペコちゃんのコップとぷーさんのケーキ皿が置いてあり、何日が毎に色々と増えて行った。
壊れたテーブル、目覚まし時計、テレビのリモコン・・・・・
基礎のいたる所に置いてあった。
その二人は毎日買い物かごをずって歩きまわっていた。
ドロドロになり、拾って来ては開けて並べて行く・・・・・
いつも2人だった。
5月の連休までそんな感じだった。
それから俺は他へ回されたから会う機会はなくなってしまった。
気になり、1年前にその場所へ行ってみた。
子供たちが集めたものは風化してボロボロになっていた。
花瓶は花が添えられていた。
周りはまだまだ更地だった。
福島は放射能で震災当時のままだ。
片付けも何もかも進んでいない。
復興のひとかけらもない。
自衛隊も警察も消防も誰もいない。
住民がスコップで少しずつ、時間制限のある中で片づけをしている。
その中に何も罪のない人たちが眠っている。
5年たった今も見つけてもらえず、家族のもとに帰れない人がいる。
そんな中でのうのうと電気を使う人がいる。
俺達もそうだ。
誰かの犠牲の上で誰かが潤っている。
今の日本の現実だ。
誰かがこういう。
「危険な思いして走っているんだからさぞ儲かるだろ。」
「保証金たっぷりもらったかい」
と言うやつもいる。
な訳ねーだろ。
金じゃねぇ。
だてやすいきょうで生きてるんじゃねぇと言いたい。
ふざけるな。何も知らねえでと思う。
まだ5年、もう5年。
俺達はあの日のまま5年だ。
変わっていないから、まだまだ5年だ。
言わねえとわかんねえみたいだから、ここで今日言う。
うちのおやじの名刺にはこう書いてある。
「未来の子供達のために今できる事、しなくてはいけないこと」
その名刺をみたある人がこう言った。
「何をしてるんですか?」
バカ野郎、調べてから物叩け。
うちの親父は震災の年の夏に初めて買ったSK120のユンボと4トンのアームロールを売った。
その金でその年の年末、4トン1台分のこたつ、飲料水、おかし、コメ、子供用の長靴のお菓子をかって、とある人に運んでもらう様に頼んだ。
それから定期的にトイレットペーパーや飲料水を提供している。
親父はこういう。
「俺達は住む場所も会社も機材も仕事もある。」
「多少難があってもリベンジできる。」
「今、同じ日本には出来ない人もいる。その人に少しでも出来ればいいじゃないかと。」
その時、廃業して苦しかったはずの鳶松建設の親父もでっかいストーブを2台提供してくれた。
この時、すげえ人だと俺は思った。
何年も続いている。
最近はうちらも苦しく回数は減った。
届けてくれる会長も「無理のないところで」うちの親父に言う。
でも親父は無理しなきゃ出来ねと言う。
自分で初めて買ったユンボを手放し、バイヤーの回送車に乗せる時、うちの親父は泣いていた。
マジで泣いていた。初めて見る光景だった。
何度もユンボを見ては回り、撫でていた。
うちの親父はみんなが元に戻る日まで、と言う。
道先は長い。
俺らがくたばるかも知れないと言う。
その日まで俺達は微力ながらも続ける。
文句があるなら、そういう人間になってから言ってくれ。
俺達は自分達だけが裕福な生活をしている訳ではない。
世の為、人の為、日本の為に微力ながらやってる。
くその役に立たないとしても続ける。
けして営利だけではない。